【わたしの好きなもの】TO&FRO PACKABLE TOTE BAG

見た目以上に丈夫!軽くてかさばらないエコトートバッグ

おむつやおしりふきシート、赤ちゃん用の服の洗剤などなど・・・子どもの生活必需品の買い物は欠かせないもの。

今はできるだけ子どもを外に連れ出すのを控えているため、お家で妻に子どもの面倒を見てもらっている間に僕が近所のドラッグストアへ車で買い物に行っています。

その買い物へ行く前に、妻愛用のエコバッグ「TO&FRO PACKABLE TOTE BAG」を借りるのですが、これがとても軽くて丈夫でなかなか優秀!




最初に借りたときは、こんなぺらぺらな生地で本当に大丈夫?と疑ってしまったのですが、使ってみてすぐに疑ってごめんねとバッグに謝りました(笑)
5kgの荷物を入れても耐えうる丈夫さで、2Lほどの大きさのペットボトルもすっぽりと余裕で入ります。
ついでに飲み物や除菌シートなど思い付きでいろいろ買っても問題なくバッグに収まりました!



折り畳むとズボンのポケットに入っちゃうくらいのサイズになるのもうれしいポイント。
ハンカチと並べてみましたが、その大きさがわかるかと思います。このサイズならメインのバッグの内ポケットや、車のダッシュボードはもちろんいろんなところに常備しておくことが可能です。



丈夫で薄い生地だからこそ、コンパクトに収まってくれるんですね。
エコバッグってものによっては、折り目でちゃんと折らないとうまく畳めないものもありますが、このバッグはきっちり畳まなくても、それなりに本体の内ポケットに押し込んだらちゃんと収まってくれます。
ちょっと雑な使い方に見えますが、買い物から帰った後、子どものことが気になる親にとっては、ささっとバッグを片付けられるのはうれしいものです。

それにカラーバリエーションも豊富!妻と色違いのものを買って、自分の車に常備しておくのもいいかなぁと思っています。
たまにバッグを借りることを忘れて買い物に行ってしまうことがあるので・・・(笑)

買い物する人をうれしい気持ちにしてくれて、家族みんなの暮らしを支えてくれる。とっても頼もしいエコバッグです。

ちなみにこちらは通常サイズ。少し小さめのSサイズもおすすめです。


編集担当 森田

【わたしの好きなもの】真鍮の靴べら

父にほめられた靴べら


新卒で入社してから早4年。入社前から今も変わらず一番好きな商品が「真鍮の靴べら」です。

採用試験で「好きな商品はありますか?」と聞かれた時も、迷わずこれを答えました。

学生時代、あこがれのブランドの革靴を購入した時、「せっかく大好きなこの靴を履くなら、 一緒に使う靴べらも素敵なものがいいな」と探してたどり着いたのがこの商品。



私がはじめて買った中川政七商店の商品でもあります。

まず気に入ったのは真鍮のたたずまい。
さりげないけど存在感があって、インテリアとしてもばっちり。普段は「真鍮のマグネットフック」を使って玄関ドアにつるしています。

置いておく時も場所を取らず、使うときには十分な長さと大きさ。サイズ感もいいのです。

革靴も真鍮も、経年変化が楽しめる素材。 真鍮は使うごとにアンティークのような色合いに変化していき、どんどん愛着が増していきます。

革靴は長い付き合いですっかり足になじみ、どの靴よりも歩きやすくなりました。
旅行の時でも相棒として履いていて、もちろん靴べらも一緒に持っていきます。 袋付きなのでかさばりません。



あまりにも気に入っているので、贈り物としてもよく選びます。

学生時代の後輩が仕事で成果を上げた時にお祝いとして贈ったところ、「いい靴べらが欲しかったけど、 自分ではなかなか買わないものだから嬉しい!」と喜ばれました。



以前、私の一人暮らしの家に遊びに来た父が「いいものをつかっているね」と褒めてくれたので、 今年は父の日のプレゼントとして贈ろうと思っています。

1日のはじまりに「今日もよろしく」と靴を履き、終わりには「今日もありがとう」と靴を脱ぐ。お気に入りの道具を使うと、背すじがしゃんと伸びるような気持ちになります。
そんな毎日の動作をいとおしく神聖な儀式にしてくれるこの靴べらは、すっかりわたしのお守りです。

エスパル仙台店 白石

郡上おどりに魅せられた職人がつくる、徹夜で踊るための「下駄」

郡上おどりのために生まれた「踊り下駄」

夜の街に揺れる提灯の光と浴衣の影、 手拍子、そして下駄の音‥‥

岐阜県郡上(ぐじょう)市で行われる「郡上おどり」は、日本三大盆踊りの一つ。毎年25万人以上の来場者数を誇る一大夏祭りだ。(2020年は残念ながら中止が決定している)

400年以上にわたる歴史を持つ郡上おどり
400年以上にわたる歴史を持つ郡上おどり

その魅力の一つにもなっているのが、「踊り下駄」。
名前のとおり、「踊るため」に作られた下駄で、ひと晩じゅう踊っても耐えうる強さに加えて、蹴り鳴らされるときの音が他の下駄とひと味ちがう。

踊りに合わせて“カランッ!コロンッ!”と蹴り鳴らされるかん高い下駄の音色が祭りの高揚感をより一層高めてくれるのだ。

その強さと音の違いは、どうやってできるのだろう。郡上おどりの会場内に工房を構える、作り手さんを訪ねた。

全部で10種類ある踊りの中でも、特に「春駒」は下駄を打ち鳴らす動作が多い曲目だ。

踊り下駄の専門店・「郡上木履」

2016年にオープンした、踊り下駄の専門店・「郡上木履(ぐじょうもくり)」。

踊り下駄の専門店・「郡上木履(ぐじょうもくり)」
店は郡上八幡の街中に。徹夜おどりの日は、店の前も踊りの会場になる

職人の諸橋有斗(もろはし ゆうと)さんは郡上おどりに魅了され、若くして下駄職人になった。

郡上木履の諸橋有斗さん
郡上木履の諸橋有斗さん

「愛知県出身で、郡上おどりにはいちファンとして訪れていました。地元の人だけでなく、どんな人でも気軽に踊りに参加し、一緒になって楽しめるのが郡上おどりの魅力です」

店内に並ぶ色とりどりの鼻緒

店内には色とりどりの鼻緒(はなお)が並べられ、まるで雑貨店のよう。シンプルなものから色とりどりの柄まで100種類以上そろう中から、好きなものをセレクトするスタイル。

鼻緒と下駄のサイズを選んだら、その場で仕立ててもらえるのが嬉しい。

カラフルな鼻緒の下駄
カラフルな品々に思わず目を奪われる
ポップなデザインの下駄
浴衣はもちろん、洋服でも合わせやすいポップなデザインが特徴
下駄の試着風景
下駄のサイズは試着して確認。「かかとが少し出るくらいが踊りやすいサイズです」とのこと

踊りやすさと耐久性を追求した独自の製法

踊り下駄と通常の下駄との違いは、下駄の台から地面にかけて“歯”と呼ばれる部分の高さにある。

郡上踊りでは、下駄を豪快に蹴り鳴らすようにして踊る。そのため歯の部分を高くしておかないと、どんどん削れていってしまうのだ。

郡上木履では、すべての下駄の高さを5センチに設定。さらに、歯の部分をあとから接着するのではなく、台とともに1枚のブロック板から削り出す製法をとっている。

製造工程の簡略図。歯と台の部分が一体になっていることで、歯が折れてしまうのを防ぐ
製造工程の簡略図。歯と台の部分が一体になっていることで、歯が折れてしまうのを防ぐ

「手間も材料費もかかってしまいますが、こうすることで耐久性が生まれます。何度も履物屋に足を運んだり踊り好きの人々に話を聞いたりするうちに、音色の美しさだけでなく、耐久性も重要だと実感してこの製法にたどり着きました」

諸橋有斗さんが下駄を製作する風景

こだわりは素材にも。木材は寒い地域で時間をかけて育った地元のヒノキを使用。丈夫で強いだけでなく、密度が濃い分重さがある。その重みによって、蹴った時の音がより美しくなるのだ。

製材所から仕入れた2、3メートルのブロック板
製材所から仕入れた2、3メートルのブロック板を、1足の長さにカット
下駄の製作風景
片足ずつに切り、歯の部分を削り出す
下駄の製作風景
最後にのみで細かな調整を加える

1足ずつ手で加工していくため、一度にたくさんは作れない。1日作業しても、できあがるのは20足ほどだ。

「1足1足、木目の美しさを確認しながらつくっていきます。見た目はもちろんのこと、木の節があると欠けやすくなってしまうんです」

特にヒノキは節が多く、扱いが難しい。それでも、ヒノキを使い続ける姿勢に、職人のこだわりと郡上踊りへの愛を感じる。

下駄の製作風景

踊り下駄を通して街を元気に

諸橋さんが下駄づくりをはじめたのは、地元への想いからだ。

「郡上おどりに参加するうちに、踊り下駄は地元でつくられていないということを知りました。山々に囲まれ、木材に恵まれた土地なのにもったいない、と。

ならば自分で、地元の素材や工芸を取り入れた下駄のブランドを立ち上げたいと思いました」

そのため、郡上木履の下駄には地元の伝統工芸である「シルクスクリーン印刷」や、「郡上本染め」が使われている。

店内に並ぶ色とりどりの鼻緒

郡上の良さを全面的に活かして製品をつくることによって、下駄を通して街の魅力を発信しているのだ。

オープン3年目だが若い人を中心に郡上木履の下駄が浸透し、今では1シーズンに約3000足が売れるほどの人気に。

「郡上おどりの31夜のうち、半分以上に参加するぐらい踊り好きの人を“踊り助平(おどりすけべえ)”っていうんです。

中には連日踊り倒し、歯の部分がほとんど削れてなくなってしまう人も。1シーズンで履きつぶすほど愛用してもらえるのは、職人冥利につきますね」

踊りに参加する時だけでなく、ファッションとしても楽しみたくなるカラフルな踊り下駄。郡上を訪れた際には、ぜひ店に立ち寄ってみたい。

<取材協力>
郡上木履
http://gujomokuri.com

文:関谷知加
写真:ふるさとあやの

*こちらは、2019年6月26日の記事を再編集して公開しました

「ゴロー」の登山靴に世界中から注文が集まる理由。オーダーメイドで仕立てる靴職人の手仕事

雑誌『MONOCLE』で紹介された巣鴨の小さな店

豊島区のホームページに「おばあちゃんの原宿」と紹介されている巣鴨。区が公認するほどお年寄りに人気のこの町に、外国人旅行者がわざわざ訪ねてくる小さなお店がある。

訪問者の国籍は多様だ。イギリス、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、カナダ、メキシコ、ドバイ、ロシア、タイ‥‥。

そのうちのほとんどの人に共通しているのは、世界80カ国超で発売されているイギリスの情報誌『モノクル(MONOCLE)』が2015年に発売した東京のガイドブックを手にしていること。ガイドブックの1ページを割いて巣鴨の小さなお店が掲載されていて、外国人旅行者はその情報を頼りにやってくる。

ゴローを紹介している『モノクル』の誌面
ゴローを紹介している『モノクル』の誌面

ページの冒頭にはこう書かれている。「日本全国の人が、ウォーキングブーツを求めてゴローにくる」

1973年創業の「ゴロー」。登山家やハイカーの間では名を知られた、日本で唯一の登山靴、ウォーキングシューズのオーダーメイドメイカーだ。注文してから靴ができるまで2か月待ちにもかかわらず、今や世界中から靴を求める人がやってくる「ゴロー」の二代目が、この道65年の靴職人、森本勇夫さん。

登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん
登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん

名だたる人たちが、森本さんがつくった靴を履いてきた。

日本を代表する登山家、冒険家で国民栄誉賞を受賞している植村直己さん、2013年に80歳で3度目のエベレスト登頂を果たし、世界最高齢登頂記録を持つプロスキーヤー、冒険家の三浦雄一郎さん、オートバイによる史上初の北極点・南極点到達、エベレスト登攀(6,005m)などの世界記録を持つ冒険家、風間深志さん。南極観測隊や多数の登山家たちの靴も手掛けている。

極地に挑む人たちはみな命懸けで、装備に妥協はない。言い換えれば、ゴローの靴は命を預けるに足る信頼を得ているのだ。

登山靴ゴロー

10歳から修行

「私は不器用なんだけどね」と苦笑する森本さんの腕は、父、森本五郎さんに鍛え上げられた。

「生まれは牛込(新宿区)で、20歳まで過ごしました。親父も靴の職人でね。婦人靴、紳士靴、スポーツで使う靴となんでも作っていたんだけど、小学4年生頃から学校が終わると毎日仕事を手伝わされてたな。遊びに行くこともできなくて、ほんと嫌々でしたよ」

昔ながらの職人気質、武骨で厳しい父親に靴底をボンドで貼る、木やすりで靴底を削るという靴づくりの基礎から叩き込まれた。

父親は親方から仕事を受けて一足ごとの工賃をもらうという仕事をしていたから、完成した靴を浅草にいる親方のもとに届けるのも森本少年の役目だった。小学4年生にして浅草までの定期を持ち、ひとりで都電を乗り継いで何度も浅草と牛込を往復した。

中学に入ってからも、遊ぶ暇なく見習いが続いた。変化といえば、親方が変わって靴の届け先が四谷になり、自転車で通うようになったことと、弟も仕事を手伝うようになったこと、そして腕が上がってきたこと。父親は手縫いの靴を作っていたから、森本少年も靴用の太い針と糸で毎日、毎日、靴を縫った。

父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術
父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術

家の仕事があるからという理由で、渋々、夜間の高校に進学。昼間に集中して仕事をすることでメキメキと実力をつけ、あっという間に「半人前以上になった」そうで、靴の仕事に専念しようと1学期で中退した。

登山靴店「ゴロー」オープン

それから時が経ち、森本さんが23歳の頃には親方から仕事をもらうのではなく、森本家が作った靴を店に直接卸すようになっていた。

1960年代から70年代にかけて登山とスキーがブームになったこともあり、徐々に登山靴とスキーシューズの割合が増えていった。一家そろって腕の良い職人だったから、卸先は地方にも広がり20店舗ほどになった。

ところがそれから1、2年もするとスキーシューズが一気にプラスチック製に入れ替わり、さっぱり売れなくなる。森本さんが「靴屋、辞めようか」と振り返るほどの危機を救ったのは、登山靴だった。

「それまではあまり営業みたいなことはしてなかったんだけど、東京都内で登山靴を扱っているいろんな店をまわったんですね。そうしたら、面白いように注文が取れたの。うちの靴は値段も安かったんだろうね。それは今も変わらないけど(笑)」

登山ブームの追い風もあり、森本家がつくる登山靴はよく売れた。そうして1973年、父親の名前を冠したオーダーメイドの登山靴店「ゴロー」をオープンする。フィット感をなによりも大事にして、お客さんが納得するまで調整することを売りにした。

森本さんがちょうど30歳の時で、その頃は父、弟、2人の職人の5人で働いていたから、森本家にとっては一国一城の主になったようなものだった。

45年前から変わらぬ店の様子
45年前から変わらぬ店の様子

植村直己さんとの出会い

本格的に山を登る「山屋」の世界は狭い。腕利きの職人が手縫いで作るゴローの登山靴の評判は瞬く間に広がり、著名な登山家からも依頼が入るようになった。

そのうちのひとりが、植村直己さん。植村さんも所属していた明治大学の山岳部OBの間で「ゴローはいい靴を作っている」と評判になり、数人分まとめて靴の製作の依頼が入った。そのなかに植村さんもいたそうだ。

持ち込まれた登山靴を修繕している様子
持ち込まれた登山靴を修繕している様子

1970年に世界初の五大陸最高峰登頂者となった植村さんは、1978年、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断に成功するなど世界的な冒険家として名を轟かせていた。

依頼があったのはちょうどその時期で、1981年の初頭、植村さんが日本隊の隊長として臨むエベレストの厳冬期登頂に向けて靴を作ることになった。

「植村さんは、あんまり細かいこと気にしない人でね。お任せしますよ、なんて言うんです。でも、肝心なことだけはちゃんと伝えてくる。裏を毛皮にしてくれ、とか、緩めにつくってくれ、とか。そういうところはやっぱり自分のノウハウを持ってる人だなと」

死と隣り合わせの極地に向かう人たちから選ばれる。それは、森本さんにとって大きなやりがいであると同時に、失敗の許されないチャレンジでもあった。もし足に合わず登山、下山に支障をきたせば最悪の場合、死につながるからだ。森本さんは登山家、探検家の命を懸けた挑戦を支えるために、靴づくりに心血を注いだ。

ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー
ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー

植村隊長率いる日本隊は、隊員の事故死や悪天候によって登頂を断念することになったのだが、こういったトラブルを耳にした森本さんの心境を想像すると、その緊張感は並大抵のものではなかっただろう。

厳冬期エベレストの挑戦から3年後、植村さんはマッキンリー冬期単独登頂を果たした後に行方不明になった。そのことを尋ねると、森本さんはそれまでの笑顔を消して、悔しさと悲しさと諦めが入り混じったような複雑な表情を浮かべた。

「遭難はニュースで聞いて、びっくりしたね。その時はうちの靴じゃない靴を履いていたんですよ。そっちの靴はうちのより軽いからね。軽い靴のほうが良かったんだろうね。だけど遭難しちゃったんだよね。もったいないね、もったいない話ですよ」

極地に挑む靴づくり

余談だが、1981年のエベレストではにわかには信じられないようなことが起きていた。植村隊がエベレストのベースキャンプで使用していた無線を、どういうわけか遠く離れた南極観測隊が傍受。

たまたま植村隊がゴローの登山靴の話をしていたのを南極観測隊員が耳にしたらしく、しばらく後に南極観測隊を派遣している国立極地研究所からゴローに隊員の靴のオーダーが入ったのだ。

「そんなことあるのかと思ったけど、自分は確かにそう聞いたんだ。すごいですよね」

エベレストも南極も、当然ながら森本さんは足を踏み入れたことがないし、似たような環境に身を置いたこともない。どうやって想像もつかない環境下でも圧倒的にフィットする靴を作ってきたのだろうか?

「とにかく足に合わせるために、履く人の意見を聞いて作る。ただそれだけでしたね。科学的な実験なんて一切やらなかった。というよりできないから、いつもぶっつけ本番ですよ。それで、山や南極から戻ってきたら、こういう方が良かったよとか言われて、そのノウハウをどんどんためていきました」

「風間(深志)さんがバイクで北極に行く時は寒いだろうからって羊の毛皮を何枚も使って作ったら、暖か過ぎちゃったみたいでね。その次にオートバイで南極に行ったんだけど、もっと涼しく作ってくれって言われましたよ(笑)」

靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている
靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている

愛される理由

森本さんにとって、登山家や冒険家と話をしながら靴を作るのは刺激的な時間で、どんどんアイデアが湧いてきた。1983年には、日本で初めて防水透湿性素材のゴアテックスで登山靴を作っている。その数年後には、同じく日本で初めてクライミング用のラバーソールも完成させた。

「私は日本初、世界初が大好きだからね、いろんな靴を作りましたよ。新しいアイデアが浮かぶと、寝ないで靴を作っていましたからね。それが楽しいから夢中になっちゃって、知らない間に夜が明ける」

寝食を忘れて靴作りに没頭してきた森本さんは、その技術力を一般の登山愛好家からのオーダーにも存分に活かした。

しかも、誰であろうと足にフィットするまで根気強く調整してくれるから、山での履き心地の良さは言うまでもない。広告などしなくても、ゴローの靴を求める人は後を絶たなかった。

店を出してから45年。その間に父親からゴローを受け継いだ森本さんも、現在75歳。今なお店頭に立ち、訪ねてくる人たちの足型をとり、靴の好みや悩みを聞き、フィッティングをしている。

靴を作る工房は別の場所にあり、靴を作って50年のベテランから30代の若者まで7人の職人が働く。森本さんは弟子たちにその技術を伝えながら、自らも手を動かす。

森本さんはプロからアマチュアまで山に登る人たち、ハイキングを楽しむ人たちが「あったらいいなあ」と思う靴、「安心して履ける靴」をつくってきた。ゴローにはその魂が今もしっかりと息づいている。それが国境を越えて支持される理由だろう。

ゴローへの手紙

ゴローがいかに特別な存在か、それは、ゴロー宛に届くお客さんからの手紙や葉書からもわかる。森本さんが見せてくれた葉書には、こう書かれていた。

「過日は私の35年間愛用しましたゴロー製チロリアンシューズを見事に補修して下さって、心より感謝し、御礼申し上げます! 入手し、手にとってみますと、愛着がますます深まり、自宅の調度品としてかざり、さすっては眺めてくらしております。ありがとうございました。」

35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書
35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書(許可を得て掲載)

35年という年月に驚くが、靴を購入した店に感謝の葉書を送ったり、履き古した靴を調度品として飾ったことがあるだろうか? 店内にはほかにもお客さんからの手紙、葉書が貼られている。

海外の山に挑んだユーザーからの葉書も
海外の山に挑んだユーザーからの葉書も

取材中、たまたま来店した白髪の年配の方は、20年以上前にゴローで購入した登山靴を3度目の修理に出していて、それを受け取りに来たところだった。

森本さんが「もうダメになりそうなところは手で縫っておいたからね」と言うと、靴を受け取りながら、ニコニコと思い入れを語ってくれた。

「もうね、なかなかほかの靴は履けないですよ。死ぬ前に靴がだめになるか、俺が先にダメになるかの勝負だね(笑)」

一度購入したら、その後の人生をともに歩む靴。それがゴローなのだろう。

ゴロー

<取材協力>
ゴロー
東京都文京区本駒込6丁目4-2
03-3945-0855

文・写真:川内イオ

※こちらは、2018年10月26日の記事を再編集して公開しました。

仏像修復のプロ集団、京都・美術院が考える「良い修理」とは

例えば京都の三十三間堂の千手観音像や、奈良の東大寺南大門に立つ金剛力士像。

数百年前の名作を今、私たちが目にできるのは、ある「仕事」のおかげです。

文化財修理。

個人の仏師さんや工房が修理を担うケースもありますが、中でも国宝指定の仏像の修理を日本で唯一許されているのが「公益財団法人 美術院」。

美術院

明治31年、文明開化に沸く国内で、日本美術の復興を指導した岡倉天心がその母体を作りました。

現在は京都、奈良の国立博物館内と京都市内に修理所を構え、総勢40名の技術者が所属。修理の対象は仏像をはじめ能面や絵馬、石灯籠まで幅広く、年間50〜60の案件を受け持ちます。

驚くべきはその作業に費やす時間。

一度の依頼でまとめて数件を頼まれることも多く、1年から数年をかけて修理を行うのが通常。中でも昨年修理を終えた三十三間堂は、千体に及ぶお像の作業を終えるまで、実に45年の歳月を費やしました。

普段は閉ざされている修復の様子を今回は特別に、見せていただけることに。京都市内にある修理所を訪ねました。

京都、文化財修理の現場へ

白い作務衣をきて、相談し合う女性二人。

美術院

美術院の技師、高田さんと浜田さんです。

今まさに修理中のお像について、高田さんに浜田さんが指示を仰いでいます。

美術院

「仙寿院宮 (せんじゅいんのみや) さまという、江戸時代の尼僧の方の坐像を修理しています」

こちらが仙寿院宮坐像
こちらが仙寿院宮坐像

所蔵は、金閣寺、銀閣寺とともに臨済宗大本山相国寺の山外塔頭 (さんがいたっちゅう。本山の敷地外にある子院) を成す眞如寺 (しんにょじ) 。京都市にあり、五山十刹のうち十刹のひとつに数えられた古刹です。

その仏殿にはお寺にゆかりのある4名の尼僧像があり、2014年から順に修理がスタートしました。

仙寿院宮坐像はその最後の1体。来年3月の完成を目指しているといいます。(※修復は2019年4月に完了しています)

「これまでやってきた中でも、尼門跡のお像を4体も続けて修理することは初めての経験でした。不思議なご縁で、修理も女性二人でさせてもらっています」

尼僧像が複数まとまってひとつのお寺にあるのは、全国的にも珍しいことなのだそうです。

なぜ修理が必要になるのか?

「現地確認に伺った際は、どのお像も表層の剥落が目立っていました。今残っている当初の彩色をこれ以上失わないよう修理し、剥落してしまったところを補彩 (ほさい) するのが、今回の主な修理です」

像は木彫りの上に、膠 (にかわ) で溶いた顔料で彩色されています。この膠が年とともに劣化し、木自体も痩せていくことで、彩色した層が剥がれ落ちたり、ひび割れてしまうのです。

手前の写真は修理前の様子。剥がれ落ちた表面の彩色片が、膝の部分に見受けられる
手前の写真は修理前の様子。剥がれ落ちた表面の彩色片が、膝の部分に見受けられる
手前の写真では表面のひび割れや彩色の剥落が確認できる
手前の写真では表面のひび割れや彩色の剥落が確認できる
すでに修理を終えた尼僧像の中には、このように一度解体してから修理を進めたものも
すでに修理を終えた尼僧像の中には、このように一度解体してから修理を進めたものも

「だいたい膠はもって100年。彩色の層などを見ると、このお像も17世紀に作られてから100年サイクルで修理がされてきたようです」

つまり、おそらくは今回が4回目となる、21世紀の修理。

技師は自ら現場に赴き、こうした像の状態を確認します。修理所までの運搬も、基本は自分たちでするそうです。

作られた当初の姿を見つけ出す

修理を始めてわかったのは、前回の修理とお像が作られた当時の肌色の差。

修理前の仙寿院宮像の頭部
修理前の仙寿院宮像の頭部

「前回の修理は江戸〜明治の頃にされたようなのですが、肌は真白く塗られていました。ですがその下から、より実際の肌色に近い色層が出てきたのです」

美術院が修理の上で重んじているのは「作られた当初の姿を大切にすること」。

この仙寿院宮像の場合は、江戸期に施された色層を除去して、元々の肌色に近い色を作るところから修復が始まりました。

「この色づくりが大変で。多くの時間を使います」

今回は、衣部分の下に隠れて色が後世に上塗りされていなかった、首まわりの色だけが頼り。

えりあわせの部分に、元々の色彩が残されていました。ここに近づけるため、白い板の上で色を試作していきます
えりあわせの部分に、元々の色彩が残されていました。ここに近づけるため、白い板の上で色を試作していきます

ちょうど肌色を作っていた作業台には、緑や青の顔料も並んでいました。理由を浜田さんが説明してくれます。

美術院、作業台の顔料

その工程、まるでお化粧のよう

「こうして自分の手を見てみても、血管の上は緑や青っぽい色に見えたりします」

美術院

「なので彩色をするときも、少し青系の色を混ぜたりするんです」

修理所の壁にずらりと並んだ顔料
修理所の壁にずらりと並んだ顔料
こうしてできた色で、肌の部分をムラなく塗り進めていく
こうしてできた色で、肌の部分をムラなく塗り進めていく

このお像に限らず、肌色を作るときには通常5種類以上の色を使うそうですが、今回はさらにひと工夫を加えたそうです。

「通常は継ぎ足しながら使う顔料も、今回は女性らしい肌色を作るということで、くすみが出ないように全て新しいものをおろしました」

こうして肌色が整えられた仙寿院宮像。ふっくらと柔らかな印象
こうして肌色が整えられた仙寿院宮像。ふっくらと柔らかな印象

それってまるで‥‥

「お化粧みたいですよね」

すでに修理が済んでいる3体は、高田さん、浜田さんの手によって無事に「お色直し」が済み、修理前とはまるで別人のような姿に生まれ変わっています。

先に修理が完了したお像のひとつ。見違えるほど表情は生き生きと、衣は色鮮やかに
先に修理が完了したお像のひとつ。見違えるほど表情は生き生きと、衣は色鮮やかに

「後世の彩色で埋まってしまっている彫刻の線などもあったのですが、例えばシワの一本一本、彫刻に沿って再現すると、より表情が豊かになっていきます。

だんだんお顔が生き生きとされてくるのを見ると、やはり嬉しいですね。眉や唇も、どうしたら女性らしく、元のお姿に近づくか考えながら彩色しています」

先の3体の修理を思い返す高田さんの表情は、とても楽しそうです。

お像に命を吹き込むように

顔の彩色は、お像に命を吹き込む大切な作業。

当初の姿に近づけるために、伝来の肖像画なども参考にします。表情を決める顔のパーツはいきなり描かずにまず和紙を貼り、その上から色や形を試すそうです。

生前の肖像画がこちら。眉や目元、口元をこれらの資料をもとに仕上げていく
生前の肖像画がこちら。眉や目元、口元をこれらの資料をもとに仕上げていく
美術院

「こうして絵を見ると、衣も実際に着ておられたものを再現しているのだとわかります」

衣の部分のクローズアップ
衣の部分のクローズアップ
実際の坐像の様子。肖像画と同じ金色の模様がわずかに見てとれる
実際の坐像の様子。肖像画と同じ金色の模様がわずかに見てとれる

肖像画は、衣部分の修復にも重要な資料です。表層が剥落して模様が欠けてしまっている部分は、こうした資料や周辺の図柄を根拠にして補うそう。とてもクリエィティブです!

背中の欠けた模様を、周辺の図案も参考に、映し紙などを駆使しながら補っていく
背中の欠けた模様を、周辺の図案も参考に、映し紙などを駆使しながら補っていく
色味もこうして再現
色味もこうして再現
残された手がかりをもとに、完成した時の姿を想像しながら彩色していくそう
残された手がかりをもとに、完成した時の姿を想像しながら彩色していくそう

「お像の様子を見ていると、彩色もお顔の表現も、生前のお人柄まで映しだそうという思いで施してあったんだろうなと想像できるんですね。

例えばこちらの方は、亡くなった翌年にお像が作られたことがわかっています」

美術院で修復された真如寺の尼門跡坐像

「きっと面影がすごく残っている状態で彫刻をしたのではないかなと。でなければここまで写実的には彫れないんじゃないかと思うんです。

そういう思いで作られた当初のお姿に戻っていただくのが、いい修理ではないかなと思っています」

美術院の目指す修理とは

高田さんの目指す「いい修理」は、修理の見学後に美術院所長の陰山さんに伺ったお話とも、符合していました。

所長の陰山さん。昨年まで現場で技師を務めていらっしゃいました
所長の陰山さん。昨年まで現場で技師を務めていらっしゃいました

「作られた当初の姿を大切にして、文化財を守り伝えることが我々の仕事です。

そのためには『ものに学んでいく』ということが、一番大切なところだと思います。

上から覆い隠すのではなく、そのものの一番いいところを引き出す。

そのために修理は手作業で行なうことを重んじています。

作った当時の作者と同じ苦労をしてみることで、得られる気づきがあるからです」

例えば今日修理していたお像には、金泥 (きんでい。金粉を膠で溶いたもの) が何層にも焼き付けられていたそう。高田さんは「きっと衣の金の刺繍の立体感を表しているのだと思う」と語り、同じように修復を施します
例えば今日修理していたお像には、金泥 (きんでい。金粉を膠で溶いたもの) が何層にも焼き付けられていたそう。高田さんは「きっと衣の金の刺繍の立体感を表しているのだと思う」と語り、同じように修復を施します

「体や道具の動きをなぞって感じ取った作者の意気込みや思いを、修復する手先の一つ一つにのせていけば、それがきっと後世にも伝わる。それが、いい修理なのではないかと思います」

美術院

「だからこの仕事をする人には、そのものの本来のいいところを見ようとする『目』が大事なんです」

実は技師の高田さんも浜田さんも、ご実家などにゆかりのある仏像がこの場所で修理される様子を見学したのをきっかけに、この仕事を志したと言います。

二人の心に深く残った当時の技師の方はきっと、今のお二人のように静かにひたむきに、数百年以上前の作者と向き合っていたのだろうと思います。

「修理は、ここではなくお寺に戻られたときがやっと完成ですね。

あるべき場所に、あるべき姿でお戻しできると、お像がどこかホッとされたようなお顔に見えるんです。その瞬間が一番安心しますね」

最後にそう語った高田さん。

現在の眞如寺には、仙寿院宮坐像に先駆けて高田さん、浜田さんが修理を手がけた坐像が3体、静かに並んでいます。

ご住職のご厚意で、その修理後のお像の様子を実際に見せていただけることに。

次回は、修理の依頼主である眞如寺を訪ねて、お像の由緒や修復プロジェクトの背景に迫ります。

※後編の記事はこちら:「まるで生きているよう。100年ぶりに蘇った「ある女性たち」を訪ねて、秋の京都へ」

<取材協力> *掲載順
公益財団法人 美術院
http://www.bijyutsuin.or.jp/

眞如寺
京都市北区等持院北町61
https://shinnyo-ji.com

*こちらは、2018年10月22日の記事を再編集して公開しました

【わたしの好きなもの】化粧ポーチ

新しい生活に、マスクポーチ


このご時世、毎日マスクの生活が続きます。

そもそも花粉症なので春先はマスクが欠かせない私ですが、ここまで日常的にマスクをつけるようになると、 その扱いにも気を使いますよね。

ティッシュケースやポケットに突っ込んだりしてくちゃくちゃのマスクを持ち歩きたくないし、
暑くなってくると替えのマスクも用意しておきたい。

そんな思いから、普段の化粧ポーチにプラスしてお気に入りの"マスクポーチ”があれば気分もあがるのでは?と、 ちょうど良いポーチを探していました。
そうしたら、以前からの定番商品の中にピッタリのものを見つけました!



その名も「化粧ポーチ」なのですが、化粧品の汚れが取れやすいようにと内側がビニールコーティングされているのです。清潔を保ちたいマスクを入れるのに、ちょうどいい!少し気になるときは、除菌シートで拭いてから使っています。



仕切りがあるので、除菌シートやマスクスプレーを一緒に入れても、マスクと絡み合わないんですよね。



お気に入りの布マスクに使い捨てマスクも入れておいて、「マスクを忘れた!」という人に「これどうぞ。」とスマートに出すと、喜ばれると共にポーチも褒められたり。



思いがけず訪れたマスク生活。自分らしいお気に入りがあるだけで、この新しい生活もプラスな気持ちで過ごせています。

編集担当 宮浦

【お客様より嬉しいお声をいただきました】

「わたしの好きなもの」を読んで、店舗で手に取りました。
外食するときに外したマスクの収納に困っていましたが、このポーチにきちんと収まります。
中も綿にビニールコーティングしてあるので、拭いて清潔に保てます。
非常につかえます!!