雑誌『MONOCLE』で紹介された巣鴨の小さな店
豊島区のホームページに「おばあちゃんの原宿」と紹介されている巣鴨。区が公認するほどお年寄りに人気のこの町に、外国人旅行者がわざわざ訪ねてくる小さなお店がある。
訪問者の国籍は多様だ。イギリス、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、カナダ、メキシコ、ドバイ、ロシア、タイ‥‥。
そのうちのほとんどの人に共通しているのは、世界80カ国超で発売されているイギリスの情報誌『モノクル(MONOCLE)』が2015年に発売した東京のガイドブックを手にしていること。ガイドブックの1ページを割いて巣鴨の小さなお店が掲載されていて、外国人旅行者はその情報を頼りにやってくる。
ページの冒頭にはこう書かれている。「日本全国の人が、ウォーキングブーツを求めてゴローにくる」
1973年創業の「ゴロー」。登山家やハイカーの間では名を知られた、日本で唯一の登山靴、ウォーキングシューズのオーダーメイドメイカーだ。注文してから靴ができるまで2か月待ちにもかかわらず、今や世界中から靴を求める人がやってくる「ゴロー」の二代目が、この道65年の靴職人、森本勇夫さん。
名だたる人たちが、森本さんがつくった靴を履いてきた。
日本を代表する登山家、冒険家で国民栄誉賞を受賞している植村直己さん、2013年に80歳で3度目のエベレスト登頂を果たし、世界最高齢登頂記録を持つプロスキーヤー、冒険家の三浦雄一郎さん、オートバイによる史上初の北極点・南極点到達、エベレスト登攀(6,005m)などの世界記録を持つ冒険家、風間深志さん。南極観測隊や多数の登山家たちの靴も手掛けている。
極地に挑む人たちはみな命懸けで、装備に妥協はない。言い換えれば、ゴローの靴は命を預けるに足る信頼を得ているのだ。
10歳から修行
「私は不器用なんだけどね」と苦笑する森本さんの腕は、父、森本五郎さんに鍛え上げられた。
「生まれは牛込(新宿区)で、20歳まで過ごしました。親父も靴の職人でね。婦人靴、紳士靴、スポーツで使う靴となんでも作っていたんだけど、小学4年生頃から学校が終わると毎日仕事を手伝わされてたな。遊びに行くこともできなくて、ほんと嫌々でしたよ」
昔ながらの職人気質、武骨で厳しい父親に靴底をボンドで貼る、木やすりで靴底を削るという靴づくりの基礎から叩き込まれた。
父親は親方から仕事を受けて一足ごとの工賃をもらうという仕事をしていたから、完成した靴を浅草にいる親方のもとに届けるのも森本少年の役目だった。小学4年生にして浅草までの定期を持ち、ひとりで都電を乗り継いで何度も浅草と牛込を往復した。
中学に入ってからも、遊ぶ暇なく見習いが続いた。変化といえば、親方が変わって靴の届け先が四谷になり、自転車で通うようになったことと、弟も仕事を手伝うようになったこと、そして腕が上がってきたこと。父親は手縫いの靴を作っていたから、森本少年も靴用の太い針と糸で毎日、毎日、靴を縫った。
家の仕事があるからという理由で、渋々、夜間の高校に進学。昼間に集中して仕事をすることでメキメキと実力をつけ、あっという間に「半人前以上になった」そうで、靴の仕事に専念しようと1学期で中退した。
登山靴店「ゴロー」オープン
それから時が経ち、森本さんが23歳の頃には親方から仕事をもらうのではなく、森本家が作った靴を店に直接卸すようになっていた。
1960年代から70年代にかけて登山とスキーがブームになったこともあり、徐々に登山靴とスキーシューズの割合が増えていった。一家そろって腕の良い職人だったから、卸先は地方にも広がり20店舗ほどになった。
ところがそれから1、2年もするとスキーシューズが一気にプラスチック製に入れ替わり、さっぱり売れなくなる。森本さんが「靴屋、辞めようか」と振り返るほどの危機を救ったのは、登山靴だった。
「それまではあまり営業みたいなことはしてなかったんだけど、東京都内で登山靴を扱っているいろんな店をまわったんですね。そうしたら、面白いように注文が取れたの。うちの靴は値段も安かったんだろうね。それは今も変わらないけど(笑)」
登山ブームの追い風もあり、森本家がつくる登山靴はよく売れた。そうして1973年、父親の名前を冠したオーダーメイドの登山靴店「ゴロー」をオープンする。フィット感をなによりも大事にして、お客さんが納得するまで調整することを売りにした。
森本さんがちょうど30歳の時で、その頃は父、弟、2人の職人の5人で働いていたから、森本家にとっては一国一城の主になったようなものだった。
植村直己さんとの出会い
本格的に山を登る「山屋」の世界は狭い。腕利きの職人が手縫いで作るゴローの登山靴の評判は瞬く間に広がり、著名な登山家からも依頼が入るようになった。
そのうちのひとりが、植村直己さん。植村さんも所属していた明治大学の山岳部OBの間で「ゴローはいい靴を作っている」と評判になり、数人分まとめて靴の製作の依頼が入った。そのなかに植村さんもいたそうだ。
1970年に世界初の五大陸最高峰登頂者となった植村さんは、1978年、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断に成功するなど世界的な冒険家として名を轟かせていた。
依頼があったのはちょうどその時期で、1981年の初頭、植村さんが日本隊の隊長として臨むエベレストの厳冬期登頂に向けて靴を作ることになった。
「植村さんは、あんまり細かいこと気にしない人でね。お任せしますよ、なんて言うんです。でも、肝心なことだけはちゃんと伝えてくる。裏を毛皮にしてくれ、とか、緩めにつくってくれ、とか。そういうところはやっぱり自分のノウハウを持ってる人だなと」
死と隣り合わせの極地に向かう人たちから選ばれる。それは、森本さんにとって大きなやりがいであると同時に、失敗の許されないチャレンジでもあった。もし足に合わず登山、下山に支障をきたせば最悪の場合、死につながるからだ。森本さんは登山家、探検家の命を懸けた挑戦を支えるために、靴づくりに心血を注いだ。
植村隊長率いる日本隊は、隊員の事故死や悪天候によって登頂を断念することになったのだが、こういったトラブルを耳にした森本さんの心境を想像すると、その緊張感は並大抵のものではなかっただろう。
厳冬期エベレストの挑戦から3年後、植村さんはマッキンリー冬期単独登頂を果たした後に行方不明になった。そのことを尋ねると、森本さんはそれまでの笑顔を消して、悔しさと悲しさと諦めが入り混じったような複雑な表情を浮かべた。
「遭難はニュースで聞いて、びっくりしたね。その時はうちの靴じゃない靴を履いていたんですよ。そっちの靴はうちのより軽いからね。軽い靴のほうが良かったんだろうね。だけど遭難しちゃったんだよね。もったいないね、もったいない話ですよ」
極地に挑む靴づくり
余談だが、1981年のエベレストではにわかには信じられないようなことが起きていた。植村隊がエベレストのベースキャンプで使用していた無線を、どういうわけか遠く離れた南極観測隊が傍受。
たまたま植村隊がゴローの登山靴の話をしていたのを南極観測隊員が耳にしたらしく、しばらく後に南極観測隊を派遣している国立極地研究所からゴローに隊員の靴のオーダーが入ったのだ。
「そんなことあるのかと思ったけど、自分は確かにそう聞いたんだ。すごいですよね」
エベレストも南極も、当然ながら森本さんは足を踏み入れたことがないし、似たような環境に身を置いたこともない。どうやって想像もつかない環境下でも圧倒的にフィットする靴を作ってきたのだろうか?
「とにかく足に合わせるために、履く人の意見を聞いて作る。ただそれだけでしたね。科学的な実験なんて一切やらなかった。というよりできないから、いつもぶっつけ本番ですよ。それで、山や南極から戻ってきたら、こういう方が良かったよとか言われて、そのノウハウをどんどんためていきました」
「風間(深志)さんがバイクで北極に行く時は寒いだろうからって羊の毛皮を何枚も使って作ったら、暖か過ぎちゃったみたいでね。その次にオートバイで南極に行ったんだけど、もっと涼しく作ってくれって言われましたよ(笑)」
愛される理由
森本さんにとって、登山家や冒険家と話をしながら靴を作るのは刺激的な時間で、どんどんアイデアが湧いてきた。1983年には、日本で初めて防水透湿性素材のゴアテックスで登山靴を作っている。その数年後には、同じく日本で初めてクライミング用のラバーソールも完成させた。
「私は日本初、世界初が大好きだからね、いろんな靴を作りましたよ。新しいアイデアが浮かぶと、寝ないで靴を作っていましたからね。それが楽しいから夢中になっちゃって、知らない間に夜が明ける」
寝食を忘れて靴作りに没頭してきた森本さんは、その技術力を一般の登山愛好家からのオーダーにも存分に活かした。
しかも、誰であろうと足にフィットするまで根気強く調整してくれるから、山での履き心地の良さは言うまでもない。広告などしなくても、ゴローの靴を求める人は後を絶たなかった。
店を出してから45年。その間に父親からゴローを受け継いだ森本さんも、現在75歳。今なお店頭に立ち、訪ねてくる人たちの足型をとり、靴の好みや悩みを聞き、フィッティングをしている。
靴を作る工房は別の場所にあり、靴を作って50年のベテランから30代の若者まで7人の職人が働く。森本さんは弟子たちにその技術を伝えながら、自らも手を動かす。
森本さんはプロからアマチュアまで山に登る人たち、ハイキングを楽しむ人たちが「あったらいいなあ」と思う靴、「安心して履ける靴」をつくってきた。ゴローにはその魂が今もしっかりと息づいている。それが国境を越えて支持される理由だろう。
ゴローへの手紙
ゴローがいかに特別な存在か、それは、ゴロー宛に届くお客さんからの手紙や葉書からもわかる。森本さんが見せてくれた葉書には、こう書かれていた。
「過日は私の35年間愛用しましたゴロー製チロリアンシューズを見事に補修して下さって、心より感謝し、御礼申し上げます! 入手し、手にとってみますと、愛着がますます深まり、自宅の調度品としてかざり、さすっては眺めてくらしております。ありがとうございました。」
35年という年月に驚くが、靴を購入した店に感謝の葉書を送ったり、履き古した靴を調度品として飾ったことがあるだろうか? 店内にはほかにもお客さんからの手紙、葉書が貼られている。
取材中、たまたま来店した白髪の年配の方は、20年以上前にゴローで購入した登山靴を3度目の修理に出していて、それを受け取りに来たところだった。
森本さんが「もうダメになりそうなところは手で縫っておいたからね」と言うと、靴を受け取りながら、ニコニコと思い入れを語ってくれた。
「もうね、なかなかほかの靴は履けないですよ。死ぬ前に靴がだめになるか、俺が先にダメになるかの勝負だね(笑)」
一度購入したら、その後の人生をともに歩む靴。それがゴローなのだろう。
<取材協力>
ゴロー
東京都文京区本駒込6丁目4-2
03-3945-0855
文・写真:川内イオ
※こちらは、2018年10月26日の記事を再編集して公開しました。