「飛騨高山を1泊2日で」編集部おすすめコース。朝市や郷土料理、版画文化など「古きよき日本」がここに

緑豊かな山々に囲まれ、独自の産業や歴史、文化を育んでいった飛騨高山。

定番の朝市から豊富な郷土料理、飛騨高山ならではのお土産やカフェまで、編集部がおすすめする1泊2日のプランをご紹介します!


今回はこんなプランを考えてみました

1日目:合言葉は「ゆっくり、じっくり」。郷土料理と歴史的建造物を堪能

・京や:多彩な飛騨高山の郷土料理に舌鼓

・日下部民藝館:江戸の風情を残す町家で「民藝」と出会う

2日目:早起きは三文の徳。飛騨高山の町を歩いて知る

・飛騨高山の朝市:飛騨弁に心和む「市民の台所」

・高山陣屋:日本で唯一現存する江戸幕府の陣屋

・高山中華そば 豆天狗本店:二代目が受け継ぐ昔ながらの味

・真工藝:飛騨の版画文化を土台にしたものづくりに触れる

・飛騨版画喫茶ばれん:飛騨に根付く版画文化に触れられる喫茶店

では、早速行ってみましょう!


1日目:合言葉は「ゆっくり、じっくり」。郷土料理と歴史的建造物を堪能

1泊2日の飛騨高山旅は、飛騨高山の玄関口であるJR高山駅からスタートです。高山駅までは東京からも大阪からも電車で3~4時間ほど。

城下町として発展した飛騨高山は、高山駅を拠点に歩いてめぐれる見どころがいっぱいあります。ゆっくり歩いてまわることで、古い町並みや豊かな自然をじっくりと堪能できますよ。

【昼】多彩な飛騨高山の郷土料理に舌鼓
京や

まずはお昼の腹ごしらえからということで、高山駅から歩いて15分の「京や」へ。古民家を改築した店内では、飛騨高山の多彩な郷土料理が味わえます。

飛騨高山の郷土料理といえば、飛騨牛や朴葉味噌でしょうか。そうした定番もおさえつつ、ぜひ食べてもらいたいのが珍しい郷土料理の数々。

漬物を玉子でとじた「漬物ステーキ」や、間引いた芋を皮ごと甘辛く炊いた「ころいも」、霜が降りてからでないと採れない飛騨ネギを使った「ネギ焼き」など、飛騨高山ならではの味を楽しむのも旅の醍醐味の一つです。

どれも酒の肴にもぴったりなので、夜に訪ねて地酒をお供に晩酌、なんていうのも乙ですね。

お店自慢の、A5ランクの飛騨牛を網焼きで。飛騨牛は「溶けるような口当たりもありつつ、しっかりと肉らしい食べ応えがあることが良さ」だそうです
お店自慢の、A5ランクの飛騨牛を網焼きで。飛騨牛は「溶けるような口当たりもありつつ、しっかりと肉らしい食べ応えがあることが良さ」だそうです
 冷めないうちに食べてね、の言葉通り出来立てを急いでほおばると、アツアツの卵とじの中にシャキシャキとした白菜の歯ごたえ。あっさりしているので、濃いめの朴葉味噌と好相性です
冷めないうちに食べてね、の言葉通り出来立てを急いでほおばると、アツアツの卵とじの中にシャキシャキとした白菜の歯ごたえ。あっさりしているので、濃いめの朴葉味噌と好相性です

ほどよくおなかがいっぱいになったところで、まち歩きに出発しましょう!

京やの情報はこちら
>>>>>関連記事 :「産地で晩酌 飛騨牛に朴葉味噌、だけじゃない。飛騨高山『郷土料理 京や』で味わう冬」

【午後】江戸の風情を残す町家で「民藝」と出会う
日下部民藝館

日下部民藝館

飛騨高山の古い町並みの中でも、一、二を争う立派な建物が日下部民藝館。

江戸時代に御用商人として栄えた日下部家の邸宅の一部を改装し、江戸時代後期~明治の生活用具や日本各地の工芸品を展示しています。

飛騨の名工、川尻治助 (かわじり・じすけ) によって建てられた建物は、国の重要文化財にも指定されていて見ごたえたっぷり。同じく国指定重要文化財で、お隣にある吉島家住宅とあわせて訪れてみては?

日下部民藝館
囲炉裏を中心に配した一家団欒の間

日下部民藝館の情報はこちら

【夕方】早めに宿にチェックイン

明日は飛騨高山の朝市からスタートする予定。早起きに備えて、早めにチェックインしちゃいましょう。温泉宿も多いので、ゆっくりと温泉につかって旅の疲れを癒すのもいいですね。


2日目:早起きは三文の徳。飛騨高山の町を歩いて知る

【朝】飛騨弁に心和む「市民の台所」
飛騨高山の朝市

早起きをして、日本三大朝市の一つである飛騨高山の朝市へ。

朝市の歴史は古く、1820 (文政3) 年ごろ高山別院を中心に開かれた桑市がはじまりとされています。

明治半ばごろから野菜や花などが売られるようになり、朝市は市民の台所として地域に根付いたのだそう。

現在は2カ所で毎日開催されているというので、気合いを入れて朝市をはしごしちゃいましょう!

まずは、宮川に架かる鍛冶橋下付近に立つ「宮川朝市」へ。

飛騨高山の朝市
宮川沿いにテントが立ち並ぶ「宮川朝市」

多い日には30軒以上の白いテントが川沿いに連なり、地元産の野菜や果物をはじめ、季節の花々、手づくりの民芸品などバラエティ豊かな品々が並びます。

飛騨高山の朝市
太くて立派な飛騨ねぎやカラフルな飾りとうもろこし
飛騨高山の朝市
手づくりのさるぼぼは、一つひとつ微妙に表情が違うのが魅力

宮川朝市をひと通りチェックしたら、古い町並みを抜けて「陣屋前朝市」に向かいましょう。

飛騨高山の朝市
高山陣屋前の広場に立つ「陣屋前朝市」

会場となる高山陣屋前広場は歩いて10分ほど。こちらは飛騨高山産の旬の農産物が中心です。

作り手による直売だからこそ、美味しい食べ方や調理方法も教えてもらえます。

こうしたお店の人との触れ合いも朝市の楽しみの一つ。ちょっとした会話が旅の思い出を鮮やかにしてくれるはずです。

飛騨高山の朝市
蜜がたっぷり入ったりんご「ふじ」
飛騨高山の朝市
りんご柄の久留米絣がかわいい、ひぐち果樹園のおばあちゃん

飛騨高山の朝市 宮川朝市の情報はこちら
飛騨高山の朝市 陣屋前朝市の情報はこちら
>>>>>関連記事 :「早起きしてはしごしたい、日本三大朝市・飛騨高山の朝市 産地の朝市 宮川朝市と陣屋前朝市」

【午前】日本で唯一現存する江戸幕府の陣屋
高山陣屋

陣屋前朝市に来たら、高山陣屋に立ち寄るのをお忘れなく。

高山陣屋の門。一歩足を踏み入れると違う時代の空気が流れる

元禄5年(1692年)、飛騨が「幕府直轄領」に指定されると、高山城主金森氏が所有していた下屋敷に幕府の役所が置かれました。

この役所は陣屋と呼ばれ、幕末には同様の役所が全国に60ヵ所以上あったそうですが、当時の主要な建物が今も残っているのは全国で唯一、高山陣屋のみ。

建物の内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州、米藏、庭などが昔の姿のまま残されており、江戸時代の陣屋の様子を垣間見ることができます。

御役所。ここで役人が仕事をしていた

高山陣屋の情報はこちら

【昼】二代目が受け継ぐ昔ながらの味
高山中華そば 豆天狗本店

朝早くから動いたから、いつもより少し早めのお昼ごはんとしましょう。
高山陣屋からほど近い、高山ラーメンの人気店「高山中華そば 豆天狗」の本店へ。

見た目はシンプルながら、先代から続く秘伝のスープ、自家製麺、地元飛騨高山のネギ、国産豚のチャーシューなど、こだわりの食材をぜいたくに使った中華そばをいただきます。

あっさりとしているのにコクがあるスープ、ツルツル&モチモチの自家製麺で、さらさらっと食べられるので、あっという間に1杯をペロリ。

午後に向けて、エネルギーチャージ完了です!

2006年に、当時高山では珍しかったつけ麺も始めた。自家製極太麺と濃厚魚介醤油スープが人気

高山中華そば 豆天狗本店の情報はこちら

【午後】飛騨の版画文化を土台にしたものづくりに触れる
真工藝

真工藝 木版手染めぬいぐるみ

飛騨高山の旅もそろそろ終盤。思い出となるお土産探しに出かけましょう。

昔から木材の産地として知られる飛騨高山では、木版画がさかん。

木版画を基調にした工芸品を製作する「真工藝 (しんこうげい) 」には、飛騨高山の祭りや日々の暮らしを版画にした版画皿、版画技術を応用した木版手染ぬいぐるみなど、お土産にもぴったりな雑貨がたくさんあります。

干支シリーズや飛騨高山の豊かな自然が感じられる山鳥や川魚など、種類豊富な木版手染ぬいぐるみたち。その可愛さに、思わずお財布の紐もゆるんでいきます。

色味や風合いが少しずつ違うのは手づくりだからこそです。お気に入りを見つけたら、これも一期一会。色んな種類をそろえて、季節や気分に合わせて飾るのも素敵です。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
独自技術の木版手染によるぬいぐるみ。左は福を招くという「陣屋福猫」、右は初代干支シリーズの戌を復刻した「ごめんね犬」(いずれも1,004円)
真工藝の木版手染ぬいぐるみ
親子ペアでそろえられる干支シリーズ

真工藝の情報はこちら
>>>>>関連記事 :「飛騨高山の版画文化が生んだ、真工藝の木版手染ぬいぐるみ」

【午後】飛騨に根付く版画文化に触れられる喫茶店
飛騨版画喫茶ばれん

版画喫茶ばれん

お土産も無事にゲットしたところで、ひと休みを。
古い町並みの一つ、三町伝統的建造物群保存地区の目抜き通りにある「飛騨版画喫茶ばれん」をめざします。

その店名が示すとおり、ここも飛騨の版画文化が身近に感じられる場所。店内の壁に展示されている地元作家の版画作品を眺めながら、のんびりとした時間が過ごせます。

飛騨版画喫茶ばれん
2階から吹き抜けを見下ろした光景。力強い大型版画は地元の中学生たちによる卒業制作

夕方の帰りの電車まではあと数時間。おすすめの「楪子 (ちゃつ) 甘味」をほお張りながら、今回の旅をゆっくり振り返ってみてはどうでしょう。

飛騨版画喫茶ばれん「楪子甘味」
緑茶がついた楪子甘味セット (900円) 。コーヒーセットは1100円

飛騨版画喫茶ばれんの情報はこちら
>>>>>関連記事 :「飛騨高山の純喫茶『飛騨版画喫茶ばれん』 春慶塗の器で味わう一口サイズの贅沢」


飛騨高山をめぐる1泊2日の旅、お楽しみいただけたでしょうか?

ゆく先々で外国人観光客の姿も多く見られた飛騨高山。私たち日本人が気づいていない、日本の魅力がそこにあることを物語っているようです。百聞は一見に如かず。ぜひ飛騨高山に足を運んで、自分の目で確かめてみてください。

さんち 飛騨高山ページはこちら

撮影:岩本恵美、尾島可奈子、川内イオ
画像提供:高山市

「飛騨の匠」の技術で木の新しい可能性を引き出す、飛騨産業の家具づくり

こんにちは。ライターの石原藍です。

豊富な森林に囲まれた山の国、飛騨。
ここでは約1300年前から「飛騨の匠」と呼ばれる木工技術を持つ名工たちが、造都や寺院建設に貢献してきました。奈良の平城京や薬師寺、東大寺、世界遺産の唐招提寺など、名だたる建築物も彼らが手がけたと言われています。

時代を超え、その伝統技術を受け継いだ家具をつくっているのが、飛騨産業株式会社です。今回は創業からの歴史とともに、進化し続ける独自の技術や流行に左右されず愛され続けているデザインについて紐解いていきます。

その座り心地に多くの著名人も魅了された飛騨産業の家具

幅広い世代から愛され、憧れの家具メーカーとしても人気の高い飛騨産業の家具。数々のシリーズでグッドデザイン賞やロングライフデザイン賞を受賞するなど、高いデザイン性も人気の理由の一つです。

飛騨産業の家具といえば?と聞かれて「穂高」と答える方は、なかなかの家具通かもしれません。1969年に発売された「穂高」シリーズは、日本人の体型や暮らしに寄り添った家具として、リビングチェアだけでも60万脚を販売するほど爆発的な人気となりました。

ロングセラーとなった「穂高」シリーズ

かつての『暮しの手帖』編集長・花森安治が紙面で称賛したことでその品質の高さはさらに広まり、飛騨産業の家具は皇室御用達に。2016年の伊勢志摩サミットでは各国の首脳が使う円卓や椅子にも採用されるなど、名実ともに日本を代表する家具メーカーとして圧倒的な存在感を確立しています。

皇室に納入された家具。木は宮崎県高千穂のクリの木、座面は絹を使った京都の西陣織、塗装は国産の漆を施すなど日本の技術がつまっている

用と美を兼ね備えた「曲木」の技術

飛騨産業の家具の大きな特徴は「曲木」という技術。木材を高熱の蒸気で蒸して曲げ、独特の形状を生み出すことが可能です。

これまで木でしなやかな曲線を表現するには、大きな木材から削り出すか、部材同士を切ってつなぎ合わせるしか方法はありませんでした。しかし、それでは強度の高さは望めません。木を曲げることで丈夫で無駄がなくなり、さらに高いデザイン性も実現したのです。

曲げることで切削屑も出ず環境にやさしい

硬くて割れやすいといわれているナラの木であっても、46mmほどの厚さまでなら曲げてしまうそう。曲木を取り入れたメーカーは数多くあれど、これほどの技術は世界でも飛騨産業だけだと言われています。

木は生き物。当然折れたり割れたりすることもあるが、飛騨産業の曲木の技術では9割以上の歩留まり率を誇る

曲木を伝えた二人の旅人

では、なぜ飛騨の職人たちは曲木の技術に出会ったのでしょうか?その話は18世紀後半から19世紀前半の産業革命時代にさかのぼります。

ある時、西洋に伝わる曲木技術を学んだという二人の旅人が大坂から飛騨地方にやってきます。彼らが持つ曲木の技術に心を動かされた飛騨の若者たちは、「自分たちの『飛騨の匠』の技術が活かせるのではないか」と西洋家具メーカーの創業を決意。

これまで下駄の歯や木炭などにしか使われていなかった飛騨の豊富なブナの木を活用したいという想いもあったことから、1920年(大正9年)、現在の飛騨産業の前身である中央木工株式会社を設立します。

椅子を見たことがなかった職人たち

しかし、その頃の日本は畳の文化。ちゃぶ台や囲炉裏で生活していた職人たちは、椅子というものを見たことも使ったこともありませんでした。

「誰もつくったことがない、つまり先駆者がいないなかで職人たちが頼りにしたのは木に対する長年の経験と知識だけでした。曲木の技術は教えてもらったけど、その技術を生かして椅子にするにはかなりの試行錯誤があったと思います」
と語るのは営業企画室の森野敦(もりの あつし)さん。

「飛騨の職人たちは今でいうベンチャー気質があったのでしょうね」と、森野さん

しかも当時はまだ鉄道も通っていない時代。できあがった椅子が傷つかないよう塗装の方法もかなり苦労したそうです。2年の歳月を費やし完成したのは、飛騨の伝統技術である「春慶塗」が施された椅子。藁で包み荷馬車に乗せ、各地に出荷されました。

機械までもつくってしまう飛騨の技術

その後、飛騨産業はしばらくの間、世界で初めて曲木の椅子をつくったと言われるドイツ人・ミヒャエル・トーネット氏のスタイルを模倣した家具をつくり続けます。

やがてオリジナルの家具も手がけるようになりますが、その頃たまたま来日していたアメリカの家具バイヤーが飛騨産業の技術の高さに目をつけ、大量の椅子を受注することに。飛騨産業がこれまでつくったことのない形状のものでしたが、職人たちは、家具はもちろん、なんと家具をつくるための新しいろくろの機械まで開発してしまいます。

創業初期のカタログ(写真提供:飛騨産業)
家具の形状によってつかう道具や機械は異なる

実はこの時に開発した機械の一部は、スポーツメーカーの「ミズノ」のバット工場に送られ、今でもあのイチロー選手のバットを削っているそうです。「飛騨の匠」の技術は何でもつくりだしてしまうんですね。

家具にいちはやくデザインを取り入れる

1960年代には総生産の9割近くを海外に輸出していた飛騨産業は、オイルショックを機に国内販売へシフト。さらに当時の国内家具メーカーのなかでも他社に先駆けてデザインの分野に力を入れていきました。

1957年に創設されたグッドデザイン賞では飛騨産業の歴代の家具が受賞。国内外の有名デザイナーが手がけたデザインを飛騨産業がかたちにしたシリーズも次々と誕生し、国内外からの注目が高まっていきます。

イタリアのデザイン界の巨匠、エンツォ・マーリがデザインした「HIDA」シリーズ
トラフ設計事務所による「cobrina」シリーズ
松村勝男が手がけた「松村チェア」

傷がついてもずっと使い続けたい

飛騨産業の驚くべき点は、“10年”にわたり家具の品質を保証するというもの。この保証期間の長さも、丈夫で壊れにくいという品質の高さの表れなのかもしれません。

2代、3代にわたって大事につかうユーザーも多く、飛騨産業本社にある修理工房には全国各地から毎日多くの家具が届きます。

木のあたたかみが感じられる修理工房

なかには「傷はそのままにしておいてほしい」「子供が貼ったシールを剥がさず直してほしい」といった注文もあるそう。さまざまな要望にこたえながら完全なかたちに修理するには、相当な技術が必要です。

品質保証期間の10年が過ぎたあとも修理は有償で受付けている

現在、飛騨産業に200人ほどいる職人の中で、国が定める技能士資格を持っているのは累計192名。まさに職人一人ひとりの技術が飛騨産業の品質を支えているのです。

社内には技能検定有資格者がずらりと張り出されている
飛騨産業が運営する「職人学舎」では未来の飛騨の匠を育成

木の可能性を見つめ続ける

一方で、職人の技術に甘んじることなく会社としても常に新しい取り組みを進めています。

例えば、今まで使われなかった木の“ふし(節)”をデザインに取り込んだ「森のことば」シリーズは、本来であれば捨てられていた木の新しい価値を見出し、これまでの家具の常識を崩す画期的な商品として大きな話題となりました。

木の“ふし”がいい味を出している「森のことば」シリーズ

また、やわらかいため家具には不向きとされていたスギを使ったシリーズも次々に発表。独自の方法でスギを圧縮し、家具に耐えうる強度を実現しました。

日本の森林の大半を占めているスギが普及することで、手つかずとなっている森に手が入り、林業の活性化につながることが期待されています。

スギの圧縮材を使った「KISARAGI」シリーズは2014年グッドデザイン金賞を受賞

いつの時代も「木」と向き合い、脈々と受け継がれた技術を掛け合わせることで業界にイノベーションを起こしている飛騨産業。3年後に創業100年を控える現在も挑戦を続ける姿勢は変わることなく、常に日本の家具の未来を見据えています。

<取材協力>
飛騨産業株式会社
岐阜県高山市漆垣内町3180
0577-32-1001

文:石原藍
写真:今井駿介

工芸と迎える新年、迎春を彩るお正月の3つの食卓道具

こんにちは。さんち編集部です。

今年も師走になりました。大人になると、1年経つのがあっという間です。ここ数年はいつも「もう今年も残り1ヶ月かぁ」と12月を迎えている気がします。

お雑煮とお年玉を楽しみにしていた子どもの頃とは違い、大人の年末年始は大忙し。年賀状を書き、1年間お世話になった家や会社を掃除して、年末のご挨拶。台所ではせっせとおせちを作り、年越し蕎麦の準備を始めます。

ああ忙しい忙しいと言いながらもワクワクしてしまう、より良い年を迎えるための、年末年始の家しごと。1年を振り返り、これからを考えるこの時節に、日本の暮らしの工芸品を取り入れてみたいと思います。

本日は日本のお正月に欠かせない食卓道具をご紹介します。

1. 飛騨春慶塗 (ひだしゅんけいぬり) の重箱

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お正月の食卓といえばおせち。元は節会や節句に作られる料理を指しましたが、節日のうち最も重要なのがお正月であったことから、めでたいことを重ねるという願いを込めて縁起をかつぎ、現在のように重箱に詰めたお正月料理をおせちと呼ぶようになりました。

このようにおせちと重箱は切っても切り離せない関係。でも、もともとハレの日の料理を入れるための重箱は華やかな絵付けが施されているものが多く、年に1度の出番になりがちです。そこで、華やかなおめでた感を持ちながらも普段使いもしやすい重箱を探しました。

約400年の歴史を持つ岐阜県飛騨高山の飛騨春慶は伝統的工芸品に指定され、能代春慶 (秋田県能代市) 、粟野春慶 (茨城県東茨城郡城里町) と並ぶ「日本三大春慶塗」のひとつとして知られています。

着色してできた木地の上に「春慶漆」と呼ばれる透明度の高い “透漆”(すきうるし)を塗り上げる手法を使い、表面の漆を通して繊細な木目の美しさをそのまま活かす仕上げが特徴です。

光沢があり、木目が見えるので無地でも華やかに
光沢があり、木目が見えるので無地でも華やかに

漆を塗っては磨き、磨いては塗りと繰り返すことで漆が染み込み、器が硬く丈夫になった飛騨春慶は、使い込むほどにしっとりとした光沢のある琥珀色へと育っていくそう。生きもののようなお重です。

2. 山中塗の一閑張日月椀 (いっかんばりじつげつわん)

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みなさんは憧れのうつわはありますか?私はこの「日月椀」が憧れのうつわのひとつです。その名の通り、金銀の箔で太陽と月を表現した大胆な柄が印象的な名品です。

芸術家の北大路魯山人 (きたおおじろさんじん) と、加賀・山中塗の名塗師である2代目辻石齋 (つじせきさい) が共作した、最も有名なお椀のひとつ。

魯山人は美食家としても知られ、漫画「美味しんぼ」の登場人物「海原雄山」のモデルとして親しんでいる方も多いのではないでしょうか。「器は料理の着物」という言葉を残した魯山人のうつわは、料理があってこそ活きるという価値観のもと作られていたと言われています。

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和紙を漆で張り塗り上げる一閑張りで仕上げたこの一閑張日月椀。現在でも2代目辻石斎のもとで完成された当時とまったく同じ形状、製造工程で当代辻石斎氏によって作られています。

口へのあたりも薄く繊細で、本物の丁寧な手仕事に見とれずにはいられませんでした。年に1度のハレの日、いつかこのお椀でお雑煮でもいただいてみたいものです。

白檀塗菖蒲絵日月椀も美しい
白檀塗菖蒲絵日月椀も美しい

3. 京金網のセラミック付焼き網

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おせちと並んで日本のお正月で忘れてはいけないのがお雑煮。ぷくっとふくらんだお餅とめいめいの地域のレシピで作られる熱々のお雑煮は、子どもからご年配の方まで愛される日本のお正月の味です。

ところで、そのお餅、みなさんはどう焼いていますか?フライパン?オーブントースター?北国ではストーブの上でしょうか?

近頃では電子レンジで手軽につきたてのようなお餅を調理する方法もあるようですが、やっぱりこんがりとした焼き目がお餅の醍醐味、ということでお餅をおいしく焼ける焼き網をご紹介します。

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起源が平安時代にまでさかのぼると言われている京都の伝統工芸、京金網。豆腐料理が盛んな京都の地で、料理に華を添える美しい金網の調理道具を作り続けてきました。

この焼き網も、京に伝わる伝統技法を使ってひとつひとつ手仕事で作られています。セラミックの遠赤外線効果で、お餅だけでなくパンや野菜を焼いても絶品だとか。

小さいサイズは食パン1枚にぴったりのサイズ
小さいサイズは食パン1枚にぴったりのサイズ

掃除道具からスタートした工芸と迎える新年、次回は2018年1月3日のお正月飾りへと続きます。お楽しみに。


飛騨春慶塗の重箱 (飛騨春慶製造直売 有限会社戸沢漆器)

山中塗の一閑張日月椀 (北大路魯山人漆器の萬有庵)

京金網のセラミック付焼き網 (金網つじ)

文・写真:さんち編集部


この記事は2016年12月12日公開の記事を、再編集して掲載しました。

里山から始まる堆肥革命~“飛騨高山のフンコロガシ”の挑戦~

いま、一部の農家でとんでもなく大きな注目を集めている「堆肥(たいひ)」がある。堆肥とは家畜の排泄物にオガコ、わら、籾殻などを混ぜて、発酵させて作る肥料を指す。排泄物という言葉を見て、ん?と眉をひそめる方もいるかもしれないが、できることならもう少し読み進めてほしい。

まだ日本でもごく一部にしか知られていないこの堆肥は、もしかすると農業に革命をもたらすかもしれないのだ。それは、あなたの口に入る野菜を変えることを意味するし、一般の人も購入できるものだから、家庭菜園で革命の一端を担うこともできる。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
話題の堆肥「みな土」を使った農地で収穫されたみずみずしい野菜

病虫害から野菜を守る堆肥

長年の試行錯誤の末に革新的な堆肥を生み出したのは、飛騨高山の藤原孝史さんだ。藤原さんの堆肥を使った飛騨高山の農家からは、こんな電話がよくかかってくるという。

「藤原さん! 藤原さんの堆肥を置いたところだけダニにやられません!」(ほうれん草農家)

「藤原さん! 夏場にほかのみんなはダニに負けたんですけど、藤原さんが言った通りにしたらうちはぜんぜんやられなかった」(イチゴ農家)

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
自分の仕事を「フンコロガシ」と表す藤原さん。

どちらの農家も有機栽培をしていて、いつも病虫害に悩まされていた。この病虫害を防ぐために農薬がある。農家は農薬を使うか、病虫害に怯えながら有機栽培や無農薬栽培にこだわるのか、選択を迫られているのだ。そこで救世主のごとく現れたのが、藤原さんが作った堆肥「Revive soil」だ。堆肥とは肥料であり、土を豊かにするものである。なぜ、ダニの被害を減らすことができるのか?

「有用菌の密度の高い堆肥のベースがあると、益虫となるダニなど土壌生物が繁殖するんですよ。その益虫が、害虫となるダニを食べてくれるんです。だから、うちの堆肥を撒くと目に見えるほど大きなダニが歩いていますけど、それは益虫なんです」

ここで、あれ? と思った方は、多少なりとも農業に通じた方だろう。堆肥によって土壌生物が繁殖し、農作物の栽培に適した豊かな土になるという話は、藤原さんの「Revive soil」に限らず、当たり前の話だ。ダニを防ぐほどの効果を持つ堆肥は珍しいかもしれないが、それが果たして「革新的」なのか?と疑問を持つ方もいるだろう。

そうではない。革新性のカギを握るのは、藤原さんが最近、口にするようになった「社会的農業」という言葉だ。藤原さんの堆肥は、農業だけでなく、堆肥のもとになる畜産業も変えるポテンシャルを持つのである。

野菜農家から牛飼いに転身

1956年、田んぼと畑が広がる高山市の丹生川町で生まれた藤原さん。父は林業に就いていたが、夫婦で農業も手掛けていた。中学2年生のある日、唐突に、藤原さんの脳裏に鮮明なイメージが浮かんだ。それは、自然のなかで伸び伸びと飼育されている家畜がいて、そこから出る堆肥を使って農作物を作るという循環型農場だった。

「本当に、ひとつの絵として総合農場のイメージが降りてきた。僕が目指すものは、それからずーっと変わってないんですよ」

時は経ち、大人になった藤原さんは野菜を作る農家になっていた。ブロッコリーやグリーンピース、赤カブやとうもろこしなど色々な野菜を育てていたが、27歳の時、やむを得ない理由で肉牛を育てる牛飼いに転身。右も左もわからぬ状態で、牛と向き合う日々が続いた。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
高山市の丹生川町にある藤原さんの会社「SPIRIT」のオフィス

独学で有用菌の培養を開始

そして2001年、「牛飼いの仕事もひと段落したな」と判断した藤原さんは、堆肥の研究を事業として本格化することになった。

「僕の頭のなかにはずっと『総合農場』のことがあったので、実は1989年ぐらいからうちの牛のフンを使って堆肥の研究をしていました。その時に、まずはフンの悪臭をどうにかしたいと思って、独学で土壌学や微生物について勉強して、微生物の応用を始めたんです。自分で土着菌を採って培養して、乳酸菌を中心とした有用菌を入れた飼料をホルスタインに食べさせていました。それがだんだん良い結果が出るようになったので、特許も取りました。それで、委託生産に移したタイミングでもっと良い堆肥を作ろうと」

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
藤原さんが作る堆肥は柔らかい土のようにしか見えない。

藤原さんは知人の酪農家と相談し、牛に有用菌を入れた飼料を食べさせ、そこで出たフンを藤原さんが回収して堆肥にするという事業を始めた。瞬く間にその堆肥の評判が広がり、宣伝もしていないのに完売するようになった。フンの匂いや処理は酪農家の課題でもあるので、全国の酪農家から依頼を受けてコンサルティングをするようにもなった。

するとある時、乳酸菌を製造販売する会社から連絡があった。藤原さんは「循環のシステムが日本に定着すればいい」という思いで知り合いの酪農家を紹介したところ、その飼料は爆発的に売れるようになった。ところが、次第に品質が低下するようになったため、藤原さんは自ら別の乳酸菌を探し求めた。

牛の腸内フローラを整える乳酸菌

そうして出会ったのが「NS乳酸菌」だ。乳酸菌についての説明は割愛するが、これが藤原さんも想像しなかったような効果を生んだ。

「フンの悪臭が全くなくなったんです。悪臭の原因は微生物が分解できないぐらいの栄養素で、乳酸菌とか微生物の機能性が低いと分解しきれない。これまでは多少なりともフンの匂いがしていたのですが、いまはそれがまったくなくなりました。それだけじゃありません。牛の乳量が増えて、乳質も良くなったんです。さらに、搾乳作業中についた粘膜の傷に有害菌が入って乳房炎になると、抗生剤を打ってそのミルクを廃棄するという悪循環になるんですけど、乳房炎の発生率が激減しました」

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
手で触れてもまったく嫌な臭いがしない

乳房炎が減り、乳量が増え、乳質が良くなるということは、端的にいえばその牛の免疫力が高まり、健康になっているということだ。いま、人間の健康管理に腸内フローラが注目されているが、NS乳酸菌は乳牛の腸内フローラを整えるのに合っていたのだろう。そして、フンのなかに含まれるNS乳酸菌を微生物や土壌生物が食べると、それらもまた見違えるように活性化する。そうして、病虫害を防ぐ堆肥ができたのだ。藤原さんはこの仕組みを鶏や豚にも応用できないかと考え、同じようにNS乳酸菌を使った飼料を食べさせたところ、どちらのフンも牛と同様の効果が得られたという。

目指すのは「社会的農業」

取材当日、実際にまだ湯気が出るほど発酵している状態の堆肥を見学させてもらったが、鼻先につくほど顔を近づけても全く悪臭はしなかった。むしろ、豊かな土だけが持つどこか懐かしいような香りがした。鶏糞と牛糞を混ぜた堆肥は牛糞だけの堆肥とはまた違う匂いで、出汁や味噌、醤油のような香しさがあった。それを藤原さんに伝えると「アミノ酸が豊富だからだと思います」と微笑んだ。

誰でもこの堆肥を使えるように「みな土」と名付けて販売を始めた藤原さんは、「みな土」のみを使う無農薬、無化学肥料、不耕起の農園「みな土農園」を開園。40種~50種類ほどの健野菜やハーブを作っている。さらに、これからもともと牛舎として使っていた土地で鶏や豚の飼育を始めようとしている。また、堆肥作りに欠かせないオガコも地元で調達しようと、間伐材を使った割り箸作りの研究を始めた。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
無農薬、無化学肥料、不耕起のみな土農園

牛や鶏、豚が健康になり、そのフンと地元の木材から出るおがくずを使った堆肥が土地を強く、豊かにする。自然豊かなその里山には栄養たっぷりで美味しい野菜がなり、人間も動物もそれを食べて、また健康になる。その景色を想像すると、中学二年生の時に思い描いた「総合農場」そのままなのだという。そのあり方を表す言葉が「社会的農業」だ。

「30年もこんなことをずーっとやってるもんですから、最近、絞り出るようにしてこの言葉が出てきたんですよ。自然と社会が調和して、人も家畜も健康になる。これが社会的農業だと思っています」

取材の最後に、藤原さんが嬉しそうに顔をほころばせながら「まだ公表できないんですけどね」と、ある研究結果を教えてくれた。広く名を知られた某大学で、藤原さんの堆肥から驚くべき腐植酸が発見されたと連絡があったそうだ。その内容についてここでは書けないが、それが明らかにされたときには日本、いや世界の研究者が飛騨高山に殺到するだろう。

<取材協力>
株式会社スピリット
岐阜県高山市丹生川町大萱1150番地1

文・写真:川内イオ

三十の手習い「茶道編」2017総集編

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。

そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。

第一弾は茶道編。月に1度の茶道教室の様子を連載して、1年が経ちました。

毎月、気合いを込めて着物で参加しています
毎月、気合いを込めて着物で参加しています

「お茶を点てるだけではなく、来た人が自分が大切にされていると感じること。例えば茶碗一つを大切に扱うことで、それを使う人を大事にすることになります」

そんなお話から始まったお稽古には、一般的なお茶の作法を習う以上の、日常から実践できる様々な学びが広がっていました。

今回は1年間の総集編。茶道の「さ」の字もわからなかった私が、少しずつお茶の世界に親しんでいった12ヶ月の学びを、毎月の記事から振り返ってご紹介したいと思います。

「手に入れた知識、教養こそ財産です。これは他人が絶対に奪うことのできないものです」

(茶道編一、練習でなく、稽古です。 より)

「普通」でないお稽古

2016年10月某日。

お稽古は、お茶の世界で「名残の月」と言われる10月の東京・神楽坂で始まりました。

「このお稽古は、私にとっても実験的なアプローチです。

普通お茶のお稽古といえば、帛紗 (ふくさ) さばきから習います。ですが、今の我々には体の中に昔の道具とかその成り立ちへの思いがありません。

そこで、皆さんと新たに始めたこのお稽古では、お茶をすることの価値、世界観を先に共有した上で、具体的な姿に落とし込んでいくようにしてみようと考えました」

そう語られたのは木村宗慎 (きむら・そうしん) 先生。

木村宗慎先生

先生は裏千家の芳心会を主宰される傍ら、茶の湯を中心とした本の執筆、雑誌・テレビへの出演、新たな茶室の監修など、世界を舞台に幅広く活躍されています。

月に1度のお稽古は確かに、「普通」ではありませんでした。

知るよろこび

「五感をもって感じられること、その場で起きることのすべてに意味がある、というのがお茶です」

第1回目のお稽古で先生がはじめに語られたのがこの言葉。

毎月しつらえの変わるお茶室内には、お茶会の主人である先生からの、季節をからめたさまざまなメッセージが伏せられています。

茶人の正月と言われる11月には、この時期だけのお菓子「吹寄せ」を、農具に見立てた器に入れて
茶人の正月と言われる11月には、この時期だけのお菓子「吹寄せ」を、農具に見立てた器に入れて
華やかな11月のひと月前、名残の月と呼ばれる10月には、もの侘びた雰囲気の金継ぎされた器を
華やかな11月のひと月前、名残の月と呼ばれる10月には、もの侘びた雰囲気の金継ぎされた器を
1月はおめでたい伊勢海老のお茶碗で
1月はおめでたい伊勢海老のお茶碗で
2月には、旧暦で1年の節目である節分の夜にかつて用いられていたという「香枕」が飾られていました
2月には、旧暦で1年の節目である節分の夜にかつて用いられていたという「香枕」が飾られていました
4月の床の間には、お能の演目「熊野(ゆや)」の中の、京都・八坂神社へお花見へ向かうシーンを描いた掛け軸が
4月の床の間には、お能の演目「熊野(ゆや)」の中の、京都・八坂神社へお花見へ向かうシーンを描いた掛け軸が
その傍らには、八坂神社伝来の笛や、能の謡本、能装束の端切が飾られています
その傍らには、八坂神社伝来の笛や、能の謡本、能装束の端切が飾られています
7月の床の間は、余白を滝に見立てた掛け軸の低いところに、釣り舟という名の花入れが
7月の床の間は、余白を滝に見立てた掛け軸の低いところに、釣り舟という名の花入れが
花自体にもたっぷり露が打ってあります
花自体にもたっぷり露が打ってあります
8月の菓子鉢は涼しげな江戸切子の器。江戸時代に作られたものだそうです
8月の菓子鉢は涼しげな江戸切子の器。江戸時代に作られたものだそうです
氷水でお茶を点てる「冷水点て」の一式
氷水でお茶を点てる「冷水点て」の一式
9月のお点前に使われていた水指 (みずさし) は、井戸に釣り下げる釣瓶の形。「秋の日は釣瓶落し」にかけています
9月のお点前に使われていた水指 (みずさし) は、井戸に釣り下げる釣瓶の形。「秋の日は釣瓶落し」にかけています
本物の釣瓶のように、水指しの取っ手に茶巾を通して運んでいる様子
本物の釣瓶のように、水指しの取っ手に茶巾を通して運んでいる様子
再び巡ってきた10月のお稽古では、松花堂の雁宿起こしに秋を感じます
再び巡ってきた10月のお稽古では、松花堂の雁宿起こしに秋を感じます

「本来、茶会では冗長なおしゃべりは禁物。静かに粛々と時が動いていくのが望ましい。では、何が亭主の気持ちを語るかというと、そこに用意された道具が語る。その場に選ばれた理由、組み合わせ方が、何よりのコミュニケーションツールなのです」

(茶道編六、無言の道具が語ること より)

触れる楽しさ、こわさ

道具がコミュニケーションツール。その意味は、道具に込められた意味を読み解くだけに留まりません。実際に自分がどう扱うか、を問われます。

「茶の湯はものを扱う文化なんです。それもていねいに大事に、熱心に扱う。それは当たり前のことなのかもしれません。往々にして道具ひとつの方が人間より長生きなのですから」

(茶道編五、体の中にあるもの より)

お稽古では「人間より長生き」の道具を実際に拝見し、手に取ってみる機会にも恵まれました。

江戸時代、松江藩の名君として知られる松平不昧公 (ふまいこう) ゆかりの秋の棗。貝殻細工を切って花をあしらい、全体に金銀を塗ってあります
江戸時代、松江藩の名君として知られる松平不昧公 (ふまいこう) ゆかりの秋の棗。貝殻細工を切って花をあしらい、全体に金銀を塗ってあります
瀬戸焼の茶入が入った仕覆(しふく。袋のこと)。「辛うじて姿をとどめているだけのボロボロの状態です。それでもこの袋を捨てたりはしない。小さな茶入が、長い時間どれほど大切にされてきたかを物語る、モノ言わぬ証人です」
瀬戸焼の茶入が入った仕覆(しふく。袋のこと)。「辛うじて姿をとどめているだけのボロボロの状態です。それでもこの袋を捨てたりはしない。小さな茶入が、長い時間どれほど大切にされてきたかを物語る、モノ言わぬ証人です」
日本から注文して、朝鮮の窯で焼かせたという御本 (ごほん) 茶碗。なかでもこちらは徳川家光の命で小堀遠州が考案したもの
日本から注文して、朝鮮の窯で焼かせたという御本 (ごほん) 茶碗。なかでもこちらは徳川家光の命で小堀遠州が考案したもの

「自ずから大切にしてやりたいなと思う雰囲気をたたえているでしょう。

茶道具の世界では昔からいい道具を褒める時『手の切れそうな』という褒め方をするんです。あだや疎かに扱うと手が切れてしまいそうなぐらい出来のいい、繊細なものがこれほど長い時間残されているというのが、こわいと思うこと。

ものを敬うということは、いい意味での畏れがないとダメなんです」

そんな先生の考えから、本当に「真剣」を手に取った回もありました。

刀
刀を手に持ったところ

「柄杓は『刀を持つように』構えなさい、と言っても、みんな全くそのように持ちません。

『そうか、この人たちは人生の中で刀を持った記憶がないから、刀を持つようにと言われても意味がわからないんだ』と、はと気がついて。それで本物の刀を手に取らせるしかないと思ったわけです」

「真剣を手にして、名物茶入にふれて、もろもろになった仕覆1枚を扱う。そうすれば自然と身近のあるものを扱うときの所作も、変わってくるはずです」

(茶道編三、真剣って何ですか? よリ)

真剣を手に持った時のずしりとした重みや、息をするのも忘れるような緊張感は、今でもありありと思い出すことができます。

お点前に込める想い

道具の中に潜む「刀」の存在を身に染み込ませながら、回が進むごとに少しずつ、帛紗、茶筅、茶巾などお点前に使う道具のこと、その扱いの心得を学んでいきました。

「道具を大切に扱うことが、ひとつ一つの所作をていねいに行うことが、それを手にとってお茶を飲む人を大事にするということにつながるからです」

(茶道編五、体の中にあるもの より)

帛紗 (茶道編七、帛紗が正方形でない理由 より)

「お茶席でお点前をする、その最も重要な意味は、人の見ている前でものを清めるということにあります。

この器が清まりますように、その器を使う相手も私も美しく保たれますようにという願いが、例えば帛紗の寸法にも込められています」

棗や茶杓を清める帛紗は、たださばき方を習うのではなく、正方形でないその形の理由まで教わりました
棗や茶杓を清める帛紗は、たださばき方を習うのではなく、正方形でないその形の理由まで教わりました

茶筅 (茶道編九、夏は涼しく より)

本来お茶会では1回使い切りの、いわば消耗品である茶筅。それでも流派やお茶人さんの考えによってこれだけの種類があります
本来お茶会では1回使い切りの、いわば消耗品である茶筅。それでも流派やお茶人さんの考えによってこれだけの種類があります

「決して遊びでこれだけの種類があるわけではないのです。たった一度きりの消耗品に、これだけの情熱を傾け、入念な美しさを求めることに、茶の湯のひとつの本質があります」

茶巾 (茶道編十一、なにはなくとも、茶巾 より)

ずらりと並んだ茶巾。違いがわかりますか?
ずらりと並んだ茶巾。違いがわかりますか?
中でもこれは、生地の端を斜めにかがらずに一箇所ずつ縦にかがってある、もっとも古風で正式な茶巾
中でもこれは、生地の端を斜めにかがらずに一箇所ずつ縦にかがってある、もっとも古風で正式な茶巾

「なぜわざわざ手のかかったものを求めるのか。昔ながらの作り方が最高だ、と言いたいのではないのですよ。

人の手で真剣に入念に調えられた茶巾を使って、これをつくった人自身の想いまで受け取って茶碗を拭くことで、ものが清まるのだということです。

茶巾は単に茶碗を拭う道具ではなく、ものを清める道具なのです」

手に沿わせて、茶巾だけが別に動いているように、と扱いのお手本を示す先生
手に沿わせて、茶巾だけが別に動いているように、と扱いのお手本を示す先生

「どんな名品のお茶道具を集めたお茶会をしていても、ピンとしたいい茶巾と、真新しい削りのきれいな茶杓、美しい作りの確かな茶筅が置いていなければ、格好悪いものです」

(茶道編九、夏は涼しく より)

気がある人になる

「大それたことではなくて、日常我々がやっていることも同じです。お茶だけの話ではありません。贈りものをする、それを受け取ったときにちゃんとお礼を言う、大事に使う。同じことです」

学ぶべきは、お茶道具の扱いに留まりません。お辞儀の仕方ひとつ、お箸の扱いひとつ、体で覚えていきました。

お辞儀にも3つの型がある、と教わりました
お辞儀にも3つの型がある、と教わりました
「お箸の持ち方一つでも、ひと手間の贅沢をすることです。左手を器に添えながら、右手でお箸を上から持つ。今度は左手で下から受けるように持ちながら…」 (茶道編二、いい加減が良い加減 より)
「お箸の持ち方一つでも、ひと手間の贅沢をすることです。左手を器に添えながら、右手でお箸を上から持つ。今度は左手で下から受けるように持ちながら…」 (茶道編二、いい加減が良い加減 より)

稽古中に繰り返し先生が語られたのが、「気がある」という言葉でした。

「世の中で一番大事なのは、気があることです。

気を持って『こういうものをわかるようになりたいな』と自分の方から間合いを縮めようとさえ思えば、あっという間に縮まります。

練習とは言わないということも大事なところです。練習でなく、稽古です。

稽古の稽という字は、考えるとか、思い致すという意味です。つまり、古を考えて今を照らすということ。

人間のやることに大差はないのだ、だから、かつての人々のやってきた事に思いを致し、今の我々がやっていこうとしていることを照らす、ということです。

ですから、練習という言葉よりも稽古という言葉の方が私は好きです」

先生が最初の回で語られたこの言葉が、毎月お稽古のはじまりに思い返す心構え。

稽古はこれからも、続きます。


文:尾島可奈子
写真:井上麻那巳、庄司賢吾、山口綾子
衣装・着付け協力:大塚呉服店

第4回 金沢「中島めんや」のもちつき兎を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載4回目は卯年にちなんで「金沢のもちつき兎」を求め、石川県にある中島めんやを訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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薬局の前のサトちゃん

さよなら東京。これから新幹線に乗って金沢へ行くのだ。

建物

金沢でまず驚いたのは、伝統的な家の屋根瓦に黒く光沢があることだ。

中島めんや外観

兎の郷土玩具をつくる職人、中島さんのお店に到着。全体的に黒くて、見過ごしてしまいそうだ。

縁起のいいお面

入り口。すでに歓迎されているようだ。

おかめのお面

店に入ると、壁に掛かった、大きな膨らんだ顔に気を取られた。表面のあちこちが剥がれている。とても古いものにちがいない。店主の中島さんから先祖がつくった張り子面だと聞いた。

実のところ、中島さんが主に制作しているのは、木の型を使った張り子に絵を描いたお面や人形なのだ。

これが一例。中島さんの娘さんがアシスタントとなって描いたもの。おそらく彼女があとを継ぐのだろう。

店内に飾られた兜

兎に会いに来たのに、どこにいるのだろう?大きな兜の絵に隠れているのかな?

想像していたよりもずっと小さく、とても可愛い。餅をついている。月面のクレーターは、日本人にとっては餅つき兎、西洋人には女性の顔に見える。このグローバリゼーションの時代、どちらかに統一したほうがいいだろう!

中島さんは、主に冬にこの玩具をつくるそうだ。冬は張り子が乾きにくいからだ。柔らかく削りやすい桐を材料としている。桐はこの地方によく植えられていたという。この木材について、もっと知りたくなった。

兎の玩具を見学し終わった後、桐をつかって制作している、岩本清商店の工場を訪ねた。

ものすごく衝撃的で、感動した。目の前でベルトが動き、全ての機械が稼働している。過去の時代の名残が、いまも活動し続けている。

この素晴らしいスペクタクルを前に、言葉はでない。ただ眺めて撮影するだけだ。

楽しかった2か所の見学を終え、次の取材場所に向かうことにする。

──

文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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加賀百万石の城下町、金沢へ

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、金沢で木製カラクリ玩具が誕生した理由と、作り手の「中島めんや」を訪ねて教えてもらったもちつき兎の製造背景や由来などを解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

江戸時代から北陸の文化都市として知られる石川県。それゆえに優れた工芸品が多く、郷土玩具も町のアイコンとして大事にされています。それらは、政治・文化の中心地であった城下町金沢に集中しています。

代表的なのは何といっても、さんちで以前に紹介した加賀八幡起上りでしょう。元々は八幡様の祭神である応神天皇の御幼体を赤い綿布で包んだ形を作ったのが始まりとされ、七転び八起きの縁起ものとして金沢の人たちに愛されてきました。その他にも、加賀獅子頭、お面、張子、もちつき兎や米食いねずみのからくり人形などがあります。

昔は何人かの作り手がいましたが、現在は一軒の工房が製造・販売しているのみです。それが、今回訪れる「中島めんや」です。

きっかけは村芝居の「お面」づくり

中島めんやの創業は文久3年 (1862年) の江戸末期。初代の中島清助氏が村芝居のお面や小道具をつくっていたことから、「めんや」という屋号で商売を始めたそうです。お面だけでなく玩具や人形も作っていました。

現在の「中島めんや」の店構え
店内に飾られた創業当時に製作されたお面

そして、現在の尾張町に移ってきたのが明治初期、四代目の頃。上質の二俣和紙を手に入れるため、当時の中心街に。ほかの職人とともに近代的加賀人形の基礎を築いたといわれます。

今回お話を伺ったのは、七代目の中島祥博さん。

中島めんや7代目中島祥博社長

現在は人形や郷土玩具の製作を、中島さんと娘さん、そして専属の職人の自宅や工房でされているそう。

「最盛期だった30年前の生産規模と比べると、今は10分の1程度。そんな中でも、昔ながらの技法を生かして手作りにこだわり、若い人達にも喜んでもらえる商品作りにも取り組むようにしています」

地場産業×海外文化で生まれた木製カラクリ玩具

金沢でカラクリ玩具が作られるようになったのは、加賀藩主が十三代前田斉泰になった天保元年 (1830年) 頃。当時、海外から日本に入って流行したカラクリ人形の影響を受け、藩内に仕える足軽などの下級武士が内職として木製玩具をつくり始めました。

その時に誕生したのが、もちつき兎や米食いねずみなどの木製カラクリ玩具。他の地域にも木製玩具はありますが、材料に桐を使うところに金沢特有の理由があったようです。

金沢は元々桐製品の産地であり、家具や火鉢、花活けなどが作られていました。木製玩具に利用されたのはおそらく、その余材だったと考えられます。現在でも材料には桐材が使われているそうです。

職人が桐のお椀を削る作業中でした

当時、戦国時代が終わり人々が生活を楽しんでいたとはいえ、長引く経済不況の最中でした。木製玩具の細工からは、貧しくも生活に楽しみを見出そうとする足軽職人の創意、工夫が感じられます。

久保市さん (久保市乙剣宮 くぼいちおとつるぎぐう) の境内で、おばあさんが売っていたという記録もあり、金沢ではお宮さんの祭りやお正月の縁起物として、売られていたそうです。からくりを楽しむ子どもたちの遊び心や好奇心を満たしてくれたことでしょう。

もちつき兎のつくり方

今回の目的はうさぎということで、もちつき兎の作り方を中島さんに教えて頂きました。

まず、材料となる木材 (ほとんどが桐、耳は竹) を適当な大きさに切り出し、ノミ・キリなどで細かく削って各パーツの形をつくります。腰巻きの布も適当な大きさに切り揃えます。そして、胴体・耳を水性絵の具で着色。最後に、接着剤ですべてのパーツを接合し、操り紐を通して完成です。

ノミで桐を削ってパーツをつくる
着色されて接合する準備が整ったパーツたち
タコ糸をひいて正しく動作することを確認したら完成

内職をベースとしているため、前回のずぼんぼと同じくシンプルな作りになっています。

「身近な材料と道具しか使っていないから、やり方を教えれば誰でもつくれる。ただし、カラクリがきちんと動作するように調整するのがポイント」と中島さんが話すもちつき兎は、赤い腰布をまとったうさぎが両手に持った杵で餅をつくカラクリが特徴。

木の台には臼があり、土台の下の糸をひくと、兎が杵を振り上げ、離すと振り下ろす。ただそれだけの仕掛けなのですが、その動きがなんとも滑稽で憎めない。トリコロールの色合いや、完成度のゆるさも、いい塩梅。昔の写真を見ると、顔が平たく削られていた時代もあったようです。

うさぎの腰巻きはカラクリを隠す機能も果たしているように思われますが、ワイズベッカーさんは「腰巻きがない方がカラクリのメカニズムが見えるし、全部木でできていることになる。より本質的になるのでは」と独自の見解をお持ちで、腰巻きのないうさぎとしばし見比べ合い。

もちつき兎の腰巻き有り (左)と腰巻きなし (右)

どうですか?腰巻きを外しても意外と違和感なく、素朴さやカラクリ人形らしさが増した気がしませんか。

ワイズベッカーさんと交わす議論には、こういった気づきや示唆が節々にありましたので、時折ご紹介していきますね。

おとぎの世界へと誘い込まれるおもちゃ

もちつき兎は、前回のずぼんぼと同じく遊びに主眼が置かれたカラクリ玩具です。そのため、縁起の由来は薄いと考えられますが、うさぎの餅つきといえばお月見。古来より、日本において満月は幸運の象徴であり、円満な人間関係を表すともいわれます。

これは想像ですが、もちつき兎の見た目の素朴さ、その動きの巧妙さ、面白さは、手に取る子どもたちをおとぎの世界に誘い入れて、ロマンチックな想像とともに楽しませてくれていたのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第4回は石川・金沢のもちつき兎の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第5回「岡山・竹細工の龍」に続く。

<取材協力>
中島めんや本店
石川県金沢市尾張町2-3-12
営業時間 9:00~18:00 (火曜定休)
電話 076-232-1818

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」1月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。