「魔鏡」をローマ法王に献上した、京都の鏡師

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は日本で唯一「魔鏡」を手づくりできるという、京都の鏡師のお話をお届けします。

「魔鏡」の作り方を今に伝える、山本合金製作所

2017年の冬、江戸時代のキリシタン弾圧を題材にした遠藤周作の小説『沈黙』を題材にした映画『沈黙サイレンス』が公開された。

京都の下京区に工房を構え、伊勢神宮、伏見稲荷など全国の神社や寺に納める青銅の鏡「和鏡」を製作する山本合金製作所の五代目鏡師、山本晃久さんに「映画、観ましたか?」と尋ねると、はい、と頷いた。

「やっぱり、観に行かなきゃと思って」

山本合金製作所 五代目鏡師 山本晃久さん
山本合金製作所 五代目鏡師 山本晃久さん

隠れキリシタンが使っていた「魔鏡」とは

江戸末期の1866年に創業された山本合金製作所は、和鏡のほかに「魔鏡」も製作していることで知られる。山本さんによると、いま日本で魔鏡を手づくりできる技術を持っているのは山本合金製作所だけだ。

「魔鏡」とはなにか?辞書を引くと「鏡面を見ると普通の鏡と変わりないが、太陽光線の反射光を当てて投影すると、裏側に鋳造されている経文や仏像などが写し出されるもの」(大辞林 第三版より抜粋)とある。

魔鏡は中国で紀元前1世紀ごろから作られており、3世紀ごろ、中国から邪馬台国の卑弥呼に与えられたとされる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう/さんかくぶちしんじゅうきょう)」も魔鏡現象を起こすことがわかっている。

鏡に光を当てる
鏡に光を当てる
反射した光を投影すると鏡の裏面の文様が浮かび上がる
反射した光を投影すると鏡の裏面の文様が浮かび上がる

この技術が日本にいつ、どう伝わり、広まったのかは謎に包まれているそうだが、江戸時代、忽然とその姿を現す。江戸幕府の禁教令下で、隠れキリシタンが魔鏡を使用していたのだ。

鏡の裏面にキリストが描かれ、表面に光を当てると反射光でキリストが投影される魔鏡を使って、人目を忍んで祈りをささげていたのだろう。魔鏡の所有者は、裏面のキリストが見えないように、差しさわりのない柄のフタをかぶせていたそうだ。

山本さんは、無形文化財にも指定された三代目の祖父、山本眞治さん(屋号:凰龍)や自身が手掛けた魔鏡が置かれている工房のガラスケースを見ながら、こう語った。

「映画に魔鏡は出てきませんが、映画を観ていて、その頃、どういう思いで魔鏡を作っていたのかを考えました。誰かに見られたらまずいという危険な状況のわけですよね。きっと、自分の技術を求める人がいるなら、その思いに応えて拠り所になるものを作ろうというのが当時の職人だったんじゃないかな。もちろん稼ぐ、生活していくというのは重要ですけど、僕も職人としていかに自分の技術で社会と関わるか、必要とされるかというのが大切だと思っています」

時給に惹かれてアルバイト

1975年、京都に生まれた山本さんは、子どもの頃、親がどんな仕事をしているのかほとんど知らなかった。高校生のとき、進路を考えるようになってはじめて親の職業を意識したと聞いて驚いた。

「工房とは別の場所に家があったので、そんなに現場を見ることがなかったんですよね。その頃は仕事が忙しかったから父親の帰りも遅かったし、そもそも家で仕事の話をしないので。跡継ぎの話をされたこともありません」

京都下京区にある山本合金製作所の工房
京都下京区にある山本合金製作所の工房

進学した大学は文学部で、日々を楽しむことに真剣な、どこにでもいる若者だった。山本さんは飲食店の厨房でアルバイトをしていたが、ある日、四代目の父親から魅力的なオファーを受けた。「いま働いてるとこより50円多くだしたるから、うちこいよ」。しかも、時間に余裕があるときにくればいいという。

時給が50円高く、勤務時間も自由となれば、かなりの好条件。山本さんは午後、京都市南区にある工場に顔を出し、夜は飲食店で働くようになった。山本合金製作所では、鏡のほかに仏具金物も生産している。最初の仕事は、職人さんに手順を教えてもらいながら、小さな仏具金物の鋳型を作ることだった。

高校時代まで全く興味のなかった親の仕事だが、いざ始めてみると熱中した。

「職人って、ルーティンワークじゃないですか。僕、同じ作業を繰り返しながら、自分で考えたり工夫したりして、精度が上がったり、スピードが速くなることに喜びを感じるんですよね。逆に、少しでも雑にやると、それも顕著にわかるし、自分がすべてコントロールできるわけじゃなくて、努力したからってすべてが報われる訳じゃないというスリルもある。それが面白かった」

工房の様子
工房の様子

父は言った。「それでええんちゃう?」

「うちの仕事の基礎の基礎」という鋳型作りにやりがいを感じた山本氏は、飲食店でのアルバイトと掛け持ちを続けた。そうして1年、2年と経ち、就職活動の時期になるとほかの学生と同じように企業説明会に足を運ぶようになったが、間もなく気づいた。

「自分がやりたいと思う仕事がない」

しばらく思い悩んだ末に出した結論は、「せっかく家の仕事が面白いと思うんだから、家の仕事をやろうかな」だった。アルバイトとして楽しめるということと、生業にするのは別の話だ。五代目として、跡を継ぐという覚悟も必要になる。なにが山本さんの背中を押したのか?

「3年もアルバイトをしていると、最初のころより明らかに仕事が減ってるなってわかるんですよ。でも僕は、食べられるぐらいの稼ぎがあればいいやと思っていたし、世の中に絶対安泰の仕事なんてありませんよね。ここで働きたいと思える企業がないなら、自分が唯一面白いと思える仕事をやりたかった」

山本さんの作業場。非常にコンパクト
山本さんの作業場。非常にコンパクト

腹をくくり、両親に「卒業してもここで仕事を続けたい」と伝えると、もともと飄々としている父、四代目の富士夫さんは「それやったら、それでええんちゃう?」とあっさり受け入れてくれたという。

大学卒業後、フルタイムの職人になった山本さんは、アルバイト時代と同じく、工場で仏具金物の鋳型を作っていた。そうして6年が経ったころ、祖父から「そろそろ鏡の仕事を教えたいからこっちきてくれ」と言われて、下京区の工房に通い始めた。

数か月間、毎日「炭研ぎ」

和鏡がどう作られるのか、知っている人は少ないだろう。その手順を解説する。

・鋳造/砂を固めた「型」に「ヘラ」という道具を使って模様を入れる。山本さんの工房には、初代から受け継がれてきた先端の形が違うヘラが200本ある。

直径20センチの鏡で、すべての模様を完成させるまでに2、3ヵ月かかる。その後、型を焼く。これが鋳型になる。工場の炉で合金を溶かし、鋳型に流し込む。30分ほどで固まった合金を取り出す。

ヘラで文様を入れた状態
ヘラで文様を入れた状態
初代の頃から増え続け、200本以上あるヘラ
初代の頃から増え続け、200本以上あるヘラ

・削り/合金の表面をやすりで削る。やすりで削った後に線が残るので、カンナに似た「セン」という道具でさらに削る。「セン」は3種類あり、カーブの強いものからフラットに近いものの順に使用する。

焼きあがった状態の合金。まだ鏡にみえない
焼きあがった状態の合金。まだ鏡にみえない
3種類の「せん」で削っている様子
3種類の「せん」で削っている様子

・研ぎ/ムラを消すために、砥石で研ぐ。その後、最後の仕上げとして、朴炭(ほうずみ)と駿河炭(するがずみ)を使ってさらに研ぐ。これを「炭研ぎ」という。ていねいに炭研ぎすることによって滑らかできめ細かい鏡面になる。

指導役の祖父から最初に任されたのが、最終段階の「炭研ぎ」だった。ほかの作業は一切なく、毎日、毎日、1日中、ひたすら鏡面を炭で研ぎ続けた。ルーティンワークを苦にしない山本さんも、「さすがに面白くないな」と感じていたそうだ。しかしいま思えば、この単純作業はテストだったのでは、と振り返る。

「なんでこれをやらされているのかがよくわからなくて、ほかのことももっと教えてほしいと思っていました。でも祖父はきっと、この単純作業をいかに丁寧に、気持ちを込めてするかを見ていたんじゃないかと思うんです。仕上げの仕事を中途半端にしかできないようなら、他の作業を教えても中途半端になるだろうと。祖父の最低限の基準をクリアしないと、次に進めなかったんだと思います」

最初の頃、もういいかな、と思って祖父に見せにいくと、「ここがあかんよ」と指摘されて研ぎ直す、ということを繰り返した。しかし数カ月が経ち、最初のチェックで合格点をもらえるようになると、ようやく「そろそろ次の仕事教えよか」と言ってもらえた。その頃には、1日半かかっていた炭研ぎが、半日で終わるようになっていた。

この後、祖父の教えを受けながら、削り、鋳造という順番で仕事を学んでいった。

手仕事を続ける意味

職人というと昔気質で武骨で怖そうなイメージがあるが、祖父、眞治さんは「ただただやさしかった」という。

「いつも、こうこうこうやから、こうやんねんで、とていねいに説明してくれました。まずは祖父の作業をひたすら見て、それから少しずつ手伝わせてもらえるようになります。祖父はそれを横で見ているという感じで、すべての工程を教えてくれました」

各工程を習得するのに10年、一人前になるには30年と言われている世界で、無形文化財の眞治さんの仕事には目を見張るものがあったという。わかりやすいのは、鏡1枚の仕事に対する作業量。

通常、製作の過程で何らかの想定外が起こる可能性を考えて、同じものを必ず複数枚作るそうだ。山本さんが独り立ちしたころは1枚の注文が入ると6枚から10枚作り、そのなかで最もできがいいものを納めていたというが、なんと眞治さんが作るのは2枚。基本的には失敗しないという前提で、どちらも最高のクオリティになるというという確信がなければ、できないことだ。

無形文化財にも指定された祖父の作品
無形文化財にも指定された祖父の作品

実は、一時期途絶えていた魔鏡の技術を復活させたのも眞治さんだった。

「ほんまかどうかわからないですけど、魔鏡のトリックを悪用している人がいて、その現場をみた二代目が、こういう風に使われるんやったらもうつくらないと、製造をやめてしまったらしいんです。その技術は祖父にも伝えられていなかったので、祖父はひとりで試行錯誤しながら魔鏡を復活させたんです」

魔鏡を作るのは、和鏡よりも時間と技術が求められる。

魔鏡現象は、鏡面を極限まで薄く削り上げ、表面に裏面の文様の凹凸を浮かび上がらせることで発現する。和鏡の場合、削りの作業は半日で終わるが、魔鏡は1ヵ月かかる。その薄さはミリ単位で、少しでも削りすぎると割れてしまうため、経験と手先の感覚のみを頼りに慎重に進めていく。

やすりで削っている様子
やすりで削っている様子

はたから見れば気が遠くなるような作業が必要な魔鏡を、なぜわざわざ復活させたのか。それは眞治さんにしかわからないことだが、眞治さんの技術と哲学を受け継いだ山本さんの言葉から、それはうかがえる。

「(第二次世界大戦の)敗戦後、国から神社にお金がまわらなくなって、祖父の時代に鏡の仕事がゼロになったことがあるんです。そのときに祖父は、鏡の技術を維持するために、おなじ鋳造の仕事である仏具の製造も始めました。手仕事の技術って、一度その仕事をやめてしまうと失われちゃんですよね」

「いまでも、うちには全国の神社から先代が何十年も前に納めた鏡をきれいにしてほしいという修復の依頼がくるんです。そういう仕事は、やっぱり機械では難しい。僕らが常に手仕事でやっているからこそ、シビアな状況の鏡と対峙して、それをきれいにして納めることができる。常に技術を守り、保つということが、いまも手仕事を続けている意味かな」

いつか再び魔鏡が脚光を浴びる日

1866年から続く家業を継ぐ五代目として、同時に現代を生きる職人として、山本さんはいつも、「『いま』とどうかかわっていくか」を考え続けてきた。修復の仕事にしても、ビジネスとして割り切ってしまえば、新しく買い替えませんか? というセールストークになる。しかしそれは、これまで大切にお祀りしてきた鏡を残したい、きれいにして使い続けたいという人たちの期待に応えることになるだろうか?

機械化できる作業もあるかもしれない。しかし、そうすることで失われる技術がある。そして、その技術を必要としている人たちは、いまも確かに存在している。山本さんは「技術を保護してもらうのではなく、必要とされることによってその技術が残っていくのが理想」と語る。その理想を実現するためにはどうすればいいか。商売や効率では片づけられない想いがあり、ときには葛藤もしてきたのだろう。だから、山本さんは映画『沈黙サイレンス』を観て、当時の魔鏡職人に思いをはせたのではないか。

山本さんは毎日この工房で鏡を作っている
山本さんは毎日この工房で鏡を作っている

1866 年に神鏡を作り始めた初代の山本石松さん。その技術をもとに魔鏡を作った二代目の真一さんは、悪用に気づいて製造を打ち切った。三代目の眞治さんはそれを復活させて、1990年に「隠れキリシタン魔鏡」をローマ法王に献上。2014年に安倍首相がローマ法王に献上した「隠れキリシタン魔鏡」は、四代目の富士夫さんと五代目の山本さんの合作である。

2017年2月、長崎県と熊本県が世界文化遺産への登録を目指して「長崎の天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」推薦書をユネスコに提出した。これが認められたら、再び山本合金製作所の魔鏡にも光が当てられるだろう。その反射光に浮かび上がるキリスト像は、151年にわたる山本家の手仕事の結晶だ。

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文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年3月29日の記事を再編集して公開しました

「ゴロー」の登山靴に世界中から注文が集まる理由。オーダーメイドで仕立てる靴職人の手仕事

雑誌『MONOCLE』で紹介された巣鴨の小さな店

豊島区のホームページに「おばあちゃんの原宿」と紹介されている巣鴨。区が公認するほどお年寄りに人気のこの町に、外国人旅行者がわざわざ訪ねてくる小さなお店がある。

訪問者の国籍は多様だ。イギリス、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、カナダ、メキシコ、ドバイ、ロシア、タイ‥‥。

そのうちのほとんどの人に共通しているのは、世界80カ国超で発売されているイギリスの情報誌『モノクル(MONOCLE)』が2015年に発売した東京のガイドブックを手にしていること。ガイドブックの1ページを割いて巣鴨の小さなお店が掲載されていて、外国人旅行者はその情報を頼りにやってくる。

ゴローを紹介している『モノクル』の誌面
ゴローを紹介している『モノクル』の誌面

ページの冒頭にはこう書かれている。「日本全国の人が、ウォーキングブーツを求めてゴローにくる」

1973年創業の「ゴロー」。登山家やハイカーの間では名を知られた、日本で唯一の登山靴、ウォーキングシューズのオーダーメイドメイカーだ。注文してから靴ができるまで2か月待ちにもかかわらず、今や世界中から靴を求める人がやってくる「ゴロー」の二代目が、この道65年の靴職人、森本勇夫さん。

登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん
登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん

名だたる人たちが、森本さんがつくった靴を履いてきた。

日本を代表する登山家、冒険家で国民栄誉賞を受賞している植村直己さん、2013年に80歳で3度目のエベレスト登頂を果たし、世界最高齢登頂記録を持つプロスキーヤー、冒険家の三浦雄一郎さん、オートバイによる史上初の北極点・南極点到達、エベレスト登攀(6,005m)などの世界記録を持つ冒険家、風間深志さん。南極観測隊や多数の登山家たちの靴も手掛けている。

極地に挑む人たちはみな命懸けで、装備に妥協はない。言い換えれば、ゴローの靴は命を預けるに足る信頼を得ているのだ。

登山靴ゴロー

10歳から修行

「私は不器用なんだけどね」と苦笑する森本さんの腕は、父、森本五郎さんに鍛え上げられた。

「生まれは牛込(新宿区)で、20歳まで過ごしました。親父も靴の職人でね。婦人靴、紳士靴、スポーツで使う靴となんでも作っていたんだけど、小学4年生頃から学校が終わると毎日仕事を手伝わされてたな。遊びに行くこともできなくて、ほんと嫌々でしたよ」

昔ながらの職人気質、武骨で厳しい父親に靴底をボンドで貼る、木やすりで靴底を削るという靴づくりの基礎から叩き込まれた。

父親は親方から仕事を受けて一足ごとの工賃をもらうという仕事をしていたから、完成した靴を浅草にいる親方のもとに届けるのも森本少年の役目だった。小学4年生にして浅草までの定期を持ち、ひとりで都電を乗り継いで何度も浅草と牛込を往復した。

中学に入ってからも、遊ぶ暇なく見習いが続いた。変化といえば、親方が変わって靴の届け先が四谷になり、自転車で通うようになったことと、弟も仕事を手伝うようになったこと、そして腕が上がってきたこと。父親は手縫いの靴を作っていたから、森本少年も靴用の太い針と糸で毎日、毎日、靴を縫った。

父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術
父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術

家の仕事があるからという理由で、渋々、夜間の高校に進学。昼間に集中して仕事をすることでメキメキと実力をつけ、あっという間に「半人前以上になった」そうで、靴の仕事に専念しようと1学期で中退した。

登山靴店「ゴロー」オープン

それから時が経ち、森本さんが23歳の頃には親方から仕事をもらうのではなく、森本家が作った靴を店に直接卸すようになっていた。

1960年代から70年代にかけて登山とスキーがブームになったこともあり、徐々に登山靴とスキーシューズの割合が増えていった。一家そろって腕の良い職人だったから、卸先は地方にも広がり20店舗ほどになった。

ところがそれから1、2年もするとスキーシューズが一気にプラスチック製に入れ替わり、さっぱり売れなくなる。森本さんが「靴屋、辞めようか」と振り返るほどの危機を救ったのは、登山靴だった。

「それまではあまり営業みたいなことはしてなかったんだけど、東京都内で登山靴を扱っているいろんな店をまわったんですね。そうしたら、面白いように注文が取れたの。うちの靴は値段も安かったんだろうね。それは今も変わらないけど(笑)」

登山ブームの追い風もあり、森本家がつくる登山靴はよく売れた。そうして1973年、父親の名前を冠したオーダーメイドの登山靴店「ゴロー」をオープンする。フィット感をなによりも大事にして、お客さんが納得するまで調整することを売りにした。

森本さんがちょうど30歳の時で、その頃は父、弟、2人の職人の5人で働いていたから、森本家にとっては一国一城の主になったようなものだった。

45年前から変わらぬ店の様子
45年前から変わらぬ店の様子

植村直己さんとの出会い

本格的に山を登る「山屋」の世界は狭い。腕利きの職人が手縫いで作るゴローの登山靴の評判は瞬く間に広がり、著名な登山家からも依頼が入るようになった。

そのうちのひとりが、植村直己さん。植村さんも所属していた明治大学の山岳部OBの間で「ゴローはいい靴を作っている」と評判になり、数人分まとめて靴の製作の依頼が入った。そのなかに植村さんもいたそうだ。

持ち込まれた登山靴を修繕している様子
持ち込まれた登山靴を修繕している様子

1970年に世界初の五大陸最高峰登頂者となった植村さんは、1978年、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断に成功するなど世界的な冒険家として名を轟かせていた。

依頼があったのはちょうどその時期で、1981年の初頭、植村さんが日本隊の隊長として臨むエベレストの厳冬期登頂に向けて靴を作ることになった。

「植村さんは、あんまり細かいこと気にしない人でね。お任せしますよ、なんて言うんです。でも、肝心なことだけはちゃんと伝えてくる。裏を毛皮にしてくれ、とか、緩めにつくってくれ、とか。そういうところはやっぱり自分のノウハウを持ってる人だなと」

死と隣り合わせの極地に向かう人たちから選ばれる。それは、森本さんにとって大きなやりがいであると同時に、失敗の許されないチャレンジでもあった。もし足に合わず登山、下山に支障をきたせば最悪の場合、死につながるからだ。森本さんは登山家、探検家の命を懸けた挑戦を支えるために、靴づくりに心血を注いだ。

ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー
ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー

植村隊長率いる日本隊は、隊員の事故死や悪天候によって登頂を断念することになったのだが、こういったトラブルを耳にした森本さんの心境を想像すると、その緊張感は並大抵のものではなかっただろう。

厳冬期エベレストの挑戦から3年後、植村さんはマッキンリー冬期単独登頂を果たした後に行方不明になった。そのことを尋ねると、森本さんはそれまでの笑顔を消して、悔しさと悲しさと諦めが入り混じったような複雑な表情を浮かべた。

「遭難はニュースで聞いて、びっくりしたね。その時はうちの靴じゃない靴を履いていたんですよ。そっちの靴はうちのより軽いからね。軽い靴のほうが良かったんだろうね。だけど遭難しちゃったんだよね。もったいないね、もったいない話ですよ」

極地に挑む靴づくり

余談だが、1981年のエベレストではにわかには信じられないようなことが起きていた。植村隊がエベレストのベースキャンプで使用していた無線を、どういうわけか遠く離れた南極観測隊が傍受。

たまたま植村隊がゴローの登山靴の話をしていたのを南極観測隊員が耳にしたらしく、しばらく後に南極観測隊を派遣している国立極地研究所からゴローに隊員の靴のオーダーが入ったのだ。

「そんなことあるのかと思ったけど、自分は確かにそう聞いたんだ。すごいですよね」

エベレストも南極も、当然ながら森本さんは足を踏み入れたことがないし、似たような環境に身を置いたこともない。どうやって想像もつかない環境下でも圧倒的にフィットする靴を作ってきたのだろうか?

「とにかく足に合わせるために、履く人の意見を聞いて作る。ただそれだけでしたね。科学的な実験なんて一切やらなかった。というよりできないから、いつもぶっつけ本番ですよ。それで、山や南極から戻ってきたら、こういう方が良かったよとか言われて、そのノウハウをどんどんためていきました」

「風間(深志)さんがバイクで北極に行く時は寒いだろうからって羊の毛皮を何枚も使って作ったら、暖か過ぎちゃったみたいでね。その次にオートバイで南極に行ったんだけど、もっと涼しく作ってくれって言われましたよ(笑)」

靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている
靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている

愛される理由

森本さんにとって、登山家や冒険家と話をしながら靴を作るのは刺激的な時間で、どんどんアイデアが湧いてきた。1983年には、日本で初めて防水透湿性素材のゴアテックスで登山靴を作っている。その数年後には、同じく日本で初めてクライミング用のラバーソールも完成させた。

「私は日本初、世界初が大好きだからね、いろんな靴を作りましたよ。新しいアイデアが浮かぶと、寝ないで靴を作っていましたからね。それが楽しいから夢中になっちゃって、知らない間に夜が明ける」

寝食を忘れて靴作りに没頭してきた森本さんは、その技術力を一般の登山愛好家からのオーダーにも存分に活かした。

しかも、誰であろうと足にフィットするまで根気強く調整してくれるから、山での履き心地の良さは言うまでもない。広告などしなくても、ゴローの靴を求める人は後を絶たなかった。

店を出してから45年。その間に父親からゴローを受け継いだ森本さんも、現在75歳。今なお店頭に立ち、訪ねてくる人たちの足型をとり、靴の好みや悩みを聞き、フィッティングをしている。

靴を作る工房は別の場所にあり、靴を作って50年のベテランから30代の若者まで7人の職人が働く。森本さんは弟子たちにその技術を伝えながら、自らも手を動かす。

森本さんはプロからアマチュアまで山に登る人たち、ハイキングを楽しむ人たちが「あったらいいなあ」と思う靴、「安心して履ける靴」をつくってきた。ゴローにはその魂が今もしっかりと息づいている。それが国境を越えて支持される理由だろう。

ゴローへの手紙

ゴローがいかに特別な存在か、それは、ゴロー宛に届くお客さんからの手紙や葉書からもわかる。森本さんが見せてくれた葉書には、こう書かれていた。

「過日は私の35年間愛用しましたゴロー製チロリアンシューズを見事に補修して下さって、心より感謝し、御礼申し上げます! 入手し、手にとってみますと、愛着がますます深まり、自宅の調度品としてかざり、さすっては眺めてくらしております。ありがとうございました。」

35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書
35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書(許可を得て掲載)

35年という年月に驚くが、靴を購入した店に感謝の葉書を送ったり、履き古した靴を調度品として飾ったことがあるだろうか? 店内にはほかにもお客さんからの手紙、葉書が貼られている。

海外の山に挑んだユーザーからの葉書も
海外の山に挑んだユーザーからの葉書も

取材中、たまたま来店した白髪の年配の方は、20年以上前にゴローで購入した登山靴を3度目の修理に出していて、それを受け取りに来たところだった。

森本さんが「もうダメになりそうなところは手で縫っておいたからね」と言うと、靴を受け取りながら、ニコニコと思い入れを語ってくれた。

「もうね、なかなかほかの靴は履けないですよ。死ぬ前に靴がだめになるか、俺が先にダメになるかの勝負だね(笑)」

一度購入したら、その後の人生をともに歩む靴。それがゴローなのだろう。

ゴロー

<取材協力>
ゴロー
東京都文京区本駒込6丁目4-2
03-3945-0855

文・写真:川内イオ

※こちらは、2018年10月26日の記事を再編集して公開しました。

宮本卯之助商店を訪ねて。浅草の老舗が昔ながらの手法で太鼓を作る理由

今日は浅草の老舗の太鼓づくりについてお届けします。

「お祭り」や「盆踊り」で欠かせない楽器といえば、太鼓。賑やかなお祭りの雰囲気のなかで響く「ドンドンドン! ド、ドン、ドンッ!」という太鼓の音を思い浮かべるだけで、胸が弾む人という人も多いだろう。

ところで、日本全国のお祭りや盆踊りを盛り上げている太鼓はどんな想いで、どう作られているのだろうか。

文久元年(1861年)の創業時から現在に至るまで神輿、太鼓など祭礼具や雅楽器の製造・販売を手掛けている浅草の老舗、宮本卯之助商店を訪ねて職人さんに話を聞いた。

浅草の言問橋近くにある宮本卯之助商店の本社兼工場
浅草の言問橋近くにある宮本卯之助商店の本社兼工場

太鼓づくりは木の見極めから始まる

同店では、1本の木をくり抜いて作られる長胴太鼓(ながどうだいこ)、部材を組みあわえて使う桶締太鼓(おけじめだいこ)など幅広い種類の太鼓を作っている。

長胴太鼓は一般的な和太鼓で、桶締太鼓は長胴太鼓に比べ軽く、紐の締め具合で音が調節できる
長胴太鼓は一般的な和太鼓で、桶締太鼓は長胴太鼓に比べ軽く、紐の締め具合で音が調節できる

今回、話を伺ったのは、山下圭一さん。現在の肩書は「神輿部長」だが、同社では、ひとりの職人が複数の仕事をこなせるように数年間で職場をローテーションするそうで、山下さんもかれこれ25年間、太鼓の製作に携わってきた熟練の職人だ。

山下さんの話を聞いて驚いたのは、太鼓づくりは木を選ぶところから始まるということ。木の見極めが、太鼓の質にもつながっている。

「この間も、新潟まで丸太を選びに行きましたよ。木はまず、切られた時期が重要でね。日本の場合、12月の終わりから2月の半ばまでの、木が休んでいるときに切られたものを使います。

春先以降の水を吸い上げ始めた時期に切った木で太鼓を作ろうとすると、たくさん水を含んでいるので割れちゃうんですよ。だから木を見極めなきゃいけない」

父親の代から職人として宮本卯之助商店で働く山下圭一さん
父親の代から職人として宮本卯之助商店で働く山下圭一さん

打面が2メートルを超える太鼓も

職人の厳しい目で選別された原木は、「荒胴」(あらどう)という太鼓の原型の形に整形された後、3年から5年、倉庫で寝かせて自然乾燥させる。

そして注文が入ると、ストックのなかから太鼓の用途や打面のサイズに合ったものを選ぶ。

例えば、取材時に製作していた1尺8寸(約54.5センチ)の長胴太鼓には樹齢150年から200年のケヤキが使われていた。ケヤキは丈夫で木目も美しく太鼓には最適だという。

山下さんはこれまでに、長胴太鼓は打面が5尺(約151.5センチ)、桶締太鼓は打面が7尺(約212センチ)の太鼓を作ったことがあるそうだ。

面が1尺8寸(約54.5センチ)の長胴太鼓。長胴太鼓を作るときには、木を無駄にしないためにくり抜いた内部の木からさらに小さな太鼓を作る
面が1尺8寸(約54.5センチ)の長胴太鼓。長胴太鼓を作るときには、木を無駄にしないためにくり抜いた内部の木からさらに小さな太鼓を作る

 

50種類以上のカンナで削り上げる

注文に合わせた木材を選んだら、いよいよ太鼓の製作に取り掛かる。荒胴型の木材は、職人の手によって太鼓に生まれ変わる。

「いまは、(サンド)ペーパーで仕上げるところが多いのですが、うちはカンナを使います。木材は年輪の部分が一番柔らかいのですが、ペーパーで仕上げるとそこがどうしても沈んでしまう。

木目もささくれ立ってしまうから、そこから水を吸って耐久性が落ちるんです。カンナは刃物だから平らになるので、木目が寝ます。それが大切なんですよ」

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指先だけでミリ単位の微妙な調節をしながらも、カンナはシュッ、シュッとリズミカルに動き続ける
指先だけでミリ単位の微妙な調節をしながらも、カンナはシュッ、シュッとリズミカルに動き続ける

山下さんに許可を得て、カンナをかけたところを触らせてもらったら、ツルツル。太鼓の曲面に沿ってカンナを操り、ここまで滑らかに仕上げるのはまさに職人技だ。

「木には必ず目があります。木目に沿って削らないと表面がけば立つので、木目がどっちを向いているのかを見て削ります。

木がまっすぐならカンナをまっすぐ引けばいいけど、太鼓は婉曲しているので自分の手の感覚で調整するしかない。だから、ほかの人のカンナは使えません。

まったくの素人から始めたとしたら、5年やってもうまくできないでしょうね。おれはこれだけで18年やりました」

新人の頃は2つ、3つのカンナを使って小さい太鼓を削り、研鑽を積む。そうして少しずつ、大きな太鼓を手掛けるようになる。

太鼓の大きさやオーダーによって使うカンナが違うため、ベテランの山下さんは、ひとりで50以上のカンナを使い分けるそうだ。

経験を積むごとに、カンナの数が増えていく
経験を積むごとに、カンナの数が増えていく

太鼓の内側に記される名前の意味

削りの作業が終わると、木が水を吸い上げるための小さな穴(導管)を埋める目的で、「砥の粉(とのこ)」で木地(きじ)をコーティングする。これを「目止め」という。さらに4、5回和ニスを塗って乾燥を防ぐ。

太鼓の皮にも、同じように気を配る。太鼓の皮は白いイメージがあるが、宮本卯之助商店の太鼓の革は茶色い。その理由を「太鼓が好きで転職した」という広報の郡山さんが教えてくれた。

「牛の皮を使っていますが、毛を抜くときに薬品に漬け込むのではなく、昔ながらの糠を使った天然加工をしています。そのために適度な油分が皮に残り、豊かな響きがします」

太鼓の革が茶色いのも昔ながらの製法の証
太鼓の革が茶色いのも昔ながらの製法の証

木を選び、数年乾燥させて、カンナで削る。昔ながらの天然加工を施した牛皮を張る。こうした伝統的な手法で手間暇をかけて作るのは、単なるこだわりではない。繊細な気遣いによって、太鼓の音が深まり、寿命が延びるのだ。

「使用状況によっても変わりますが、木の樹齢と同じだけ楽器としても使用できると言われています」と語る山下さんからは、職人としてのプライドをひしひしと感じた。

創業156年の宮本卯之助商店に修理などで持ち込まれる太鼓には、100年以上前に同店で作られたものもある。かつては太鼓が出来上がると、太鼓に名前を記した焼きごてを押していたそうだ。

かつて完成した太鼓に押していた焼きごて
かつて完成した太鼓に押していた焼きごて

いまは胴の内側に製作者の名前を記しているが、どちらにしてもいつ誰が作ったものかわかる。だから、山下さんをはじめ職人さんはみな、「何百年後の人が見ても笑われないような太鼓を作ろう」という想いで仕事をしている。

宮本卯之助商店が本店を構える浅草で行われる、三社祭。日本でも屈指の盛大なお祭りの本社神輿をはじめ、多くのお神輿、そして太鼓も宮本卯之助商店の職人さんが手掛けたものだ。お祭りの日は、職人さんたちにとっても晴れ舞台。

祭りを楽しむ人たちと同じように、自分たちが精魂込めて作った太鼓の音に胸を躍らせている。

 

<取材協力>
宮本卯之助商店

東京都台東区浅草6-1-15
03-3873-4155

文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年5月17日の記事を再編集して公開しました。浅草伝統の三社祭は今秋に延期へ。町の元気の源であるお祭りが開催できるよう、新型コロナウィルスの終息を願います。

絶妙な切れ味で数ヶ月待ちの「房州鋸」。ただ一人の職人が支えた復活の軌跡

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は日本で唯一の存在であり、さらに注文が引きも切らない房州鋸 (ぼうしゅうのこ) 職人のお話をお届けします。

奥深き、鋸の世界を知る

鋸 (のこぎり) 。この言葉から思い浮かぶのは、大工さんが大きな鋸を前後に素早く動かして、丸太をギコギコと切っている姿だった。しかし、今や日本で唯一となった房州鋸職人、粕谷雄治 (かすや・ゆうじ) さんの仕事ぶりを聞いて僕の安易なイメージは覆された。

粕谷さんが作る房州鋸は安いものでも1万円を超えるが、日本全国からオーダーメイドの注文が届く。

顧客の職業は多彩で大工はもちろん、華道家、庭師、能面師、仏師、人形職人、ふすま職人、桶職人、団扇職人と枚挙にいとまがない。鋸を必要とするニッチな需要を一通り押さえているといっても過言ではないだろう。

もちろん、皆が同じ鋸を使うわけではなく、粕谷さんは依頼に応じてさまざまな形の鋸を作っている。手のひらに乗るような軽くて小さな鋸から、丸太を切るのに使う刃渡りだけで40センチを超えるものまで、その種類は優に30を超えるという。

仏像用のノコギリ。木材を繊維の方向に沿って切断する「縦引き用」(下)と、繊維に対して直角に切断する「横引き用」(上)

「こういうものが欲しいという要望を聞いていたら、どんどん種類が増えていった」という粕谷さんの鋸を求める人は後を絶たず、たとえば今、注文しても数カ月待ちの状態だ。

それにしても、である。粕谷さんは、なぜ、どうやって、多様なニーズに応える技術力を身に着けることができたのか。そこには一般的な鋸とは異なる房州鋸の歴史が関係していた。

和船の建造に使われた鋸

房州鋸の歴史が始まるのは、今から450年以上前。上総の国 (今の千葉県の一部) を治めた里見家の鍛冶が、貿易などで使う和船 (日本固有の木造船) を作るための「船鋸 (ふなのこ) 」として生み出した。

和船の建造には、ケヤキや樫など堅くて丈夫な木材を用いる。切れ味と耐久性が求められた「船鋸」の素材には、日本刀とほぼ同じ鋼が用いられた。

里見家発祥の船鋸は独自の発展を遂げ、刃の反り具合や鋸目 (歯の部分) の立て方など一般的な船鋸とは形状も違うものになった。

徳川家康が全国を平定して戦がなくなると貿易が活発になり、江戸時代には和船の数が増えた。同時に、上総の里見家の鍛冶が作る船鋸の需要も増し、次第に今の千葉県南部の「安房 (あわ) =房州 (ぼうしゅう) 」の沿岸部にまで製造の技術が伝わった。

安房鴨川の海岸

刃渡りが45センチから60センチ弱と大きく、薄くしなやかで切れ味抜群、丈夫で長持ちする里見家の船鋸は思わぬことにも使われた。

江戸時代、財物が収められていた土蔵に侵入して盗み出す「土蔵破り」の犯人が捕まった時、里見家発祥の船鋸を使って土蔵の閂 (かんぬき) の鉄棒を切り落としていたことがわかったのである。

そこで幕府が一時期製造を禁止し、むしろこの船鋸は「閂の鉄棒すら切れる鋸」として名を馳せたのだった。

才能に溢れた初代

時計の針を少し進めよう。
1900年代の初頭、粕谷さんの祖父、雄吉さんが子どもの頃にはまだまだ和船の製造が盛んで、雄吉さんが生まれ育った千葉の安房鴨川にも船鋸製造の工房がいくつもあった。

雄吉さんは15歳で弟子入りし、やがて独立。「中屋雄造正直 (なかやゆうぞうまさなお) 」という屋号を掲げた。雄吉さんは、鋸職人としての才能に恵まれていた。

1942年に開催された日本鋸品質審査展覧會で、全国1位の栄誉に輝いているのだ。雄吉さんの孫で「中屋雄造正直」三代目の粕谷さんは「この賞でうちの鋸が有名になったんだよね」と振り返る。

日本鋸品質審査展覧會の賞状

里見家発祥の船鋸に改良を加え、「房州船鋸」と名付けたのは、雄吉さんだった。第二次世界大戦中も、腕利きの雄吉さんのもとには注文が殺到した。

日本は鉄が不足していたから、木造漁船をベースにした軍用の船を建造していた。そのために質の良い船鋸が必要だったのだ。さらに日本軍の戦線が拡大すると船大工も海外の各地に拠点を構えるようになり、大量の船鋸を輸出したそうだ。

「うちの鋸は、息は切れないけど木は切れると言ってね (笑) 。とにかく評判が良かったから、海外に行った大工のなかにはうちの鋸を持って行って使っている人も多かった。その大工がまた海外から注文したりして、韓国、台湾、中国、南洋諸島あたり、日本軍が侵攻したほとんどのところから注文が来たと聞いたよ」

戦後も漁船として使う木造船の需要は衰えず、「中屋雄造正直」は大盛況。1951年に生まれた粕谷さんが子どもの頃には、雄吉さん、粕谷さんの父で二代目の實さんのほかに3人の職人がフル稼働して、1ヵ月に100本を超える鋸を作っていたという。ちなみに、二代目の實さんも雄吉さんの才能を受け継ぎ、1995年の日本伝統的工芸品展で日本商工会議所会頭賞を受賞している。

工房に飾られている木造船の模型

10年かかる技術を2年で習得

粕谷さんが物心ついた時には家の前の工房に出入りしていて、中学生になると小遣いをもらって簡単な手伝いをするようになった。遊び盛りの高校時代は「手伝いがイヤで逃げ回っていた」そうだが、いずれ長男の自分が家業を継ぐということに疑問はなかった。

「昔の人間っていうのはさ、長男が家業を継がないといけないというのが常識だったから、そういうもんだとしか思ってなかった」

高校を卒業すると、粕谷さんは「中屋雄造正直」の三代目として鋸の一大生産地だった長岡市脇野町の工房に修行に出た。その工房では船鋸よりかなり薄い大工用の鋸を作っていて、実家よりも機械化が進んでいるなど勝手が違う部分もあったが、この時、粕谷さんは自分のポテンシャルに気づいた。

「実家で祖父や父の仕事を見ていたから、ひと通りの作業を憶えてたんだ。だから、親方に鋸の刃先を固くするための『焼入れ』という作業をやってみろと言われると、どれぐらい熱すればいいのか鋼の色でそのタイミングがわかった。3、4ヵ月経ったら、80%ぐらいのことができるようになりましたね。『門前の小僧習わぬ経を読む』みたいなもんです」

その年のお盆に帰省した粕谷さんの様子を見て、驚いたのは祖父と父だった。自ら「手伝おうか」と申し出て、慣れた様子で多くの仕事をこなしていたからだ。

「薄くてペラペラの大工用の鋸に比べると房州鋸は分厚くて大きい分、作りやすく感じました。だから、手伝ってみたらだいたいの仕事がそれなりにできたんですよ」

独特の形状をした房州鋸。上の鋸は完成品で、下の鋸はまだ未完成

当時も「中屋雄造正直」は大忙しで、仕事の一部を周囲の同業者に外注するほどだったから、雄吉さんと實さんにとって粕谷さんの急成長は嬉しい誤算だったに違いない。5年ぐらいは修行してこいと送り出したはずなのに、「そんなに仕事できるなら、もう帰ってこい」と言ったそうだ。しかし、粕谷さんは戻りたくなかった。

「新潟は日曜日が休日だったけど、実家はとにかく仕事が忙しすぎて、盆と正月以外に休みがないんだよ。正直、新潟にいたほうが良いと思ったよね (笑) 」

結局、数カ月で新潟の工房を辞めるわけにもいかず、粕谷さんは2年間、現地で修業を積んで1971年、20歳の時に実家に戻った。鋸職人としてひとり立ちするには10年かかると言われるそうだが、粕谷さんはわずか2年で必要な技術を身に着けていた。粕谷さんも雄吉さん、實さんの優秀な職人としての血をしっかりと受け継いでいたのだ。

三代で千葉県知事指定伝統的工芸品に認定されている

効率よりも質を追求

当時は高度成長期で、住宅建設ブーム。木造家屋の建築にも房州鋸が使用されるようになって、祖父、父、粕谷さんに3人の職人を加えた工房は目が回るような忙しさだった。

しかし、目先の効率化には手を出さなかった。房州鋸の製造は手作業の工程が多く、それだけに時間を要する。当時、ダイヤモンドを使った砥石が登場したため、やすりがけの作業を短縮しようと導入を検討したが、使ってみると微妙な違和感があった。

「ダイヤモンド砥石で鋸を擦ると目が細かすぎて、鋸が滑っちゃうんです。それに比べてやすりはザラザラしているから、木に対する鋸の食いつきがよくなる。実際に鋸を引いてみると全然違うんだよね。だから、ダイヤモンド砥石は粗仕上げの時だけ使うことにして、本仕上げは全て手作業でやすりがけです」

効率よりも質を優先する判断は、ほかにもあった。例えば、鋸の形にした鋼を薄くするために平面研磨する過程は、ほとんどの工房で機械化されている。機械化すれば、オペレーターひとりいればできる作業だ。しかし、粕谷家は「せん」という昔ながらの道具で一枚、一枚、鋸を削る作業を頑なに守った。

「平面研磨の機械は砥石を使って円を描くように研ぐので、目には見えないレベルだけど刃の表面がわずかに波打つんです。それで鋸を引いた時に引っ掛かりができる。でも、せんは手前から奥に押すように研いでいくので、刃の表面がまっすぐになる。だから、鋸を引いた時の滑りがまるで違うんですよ」

ダイヤモンド砥石を使うと滑りすぎる。砥石で研ぐと引っかかりすぎる。やすりだとほどよく食いつき、せんだとほどよく滑る。この微妙かつ繊細な違いへのこだわりが、絶妙な切れ味と使い心地を実現していた。

一本、一本、鋸の歯の部分を叩いて平らにする「刃ならし」の作業。こういった気の遠くなるような手作業の工程が20以上もある

なくなった需要

変化の波は立て続けに訪れた。

各国の岸から200海里 (およそ370キロ) の中に、外国の船は勝手に入って漁をしてはいけないという「200海里漁業水域」が国際ルールとして定められ、日本で適用されたのが1977年。これによって日本の遠洋漁業は大きな打撃を受けた。

さらに、繊維強化プラスチックという新しい素材でできた船が登場し、木造船を造る人も乗る人もいなくなってしまったのだ。後を追うように、マイホームも柱や梁を用いる在来工法からツーバイフォー住宅やプレハブ住宅に変わり、高価な鋸を必要としなくなった。

長らく粕谷家の仕事を支えていた船と家の工法が抜本的に変化したことで、最盛期には月に100本を優に超えていた注文が、80年代に入ると20本程度にまで落ち込んだ。房州船鋸は行き場を失ってしまったのだ。

これでまず、粕谷家の外注先となっていた近隣の鋸屋が次々と廃業した。粕谷家で働いていた職人も、別の仕事を探さざるをえなかった。休みなくがむしゃらに働いて、気づけば40歳を超えていた三代目は、途方に暮れた。

「それまでの蓄えがあるから食べていけないわけじゃなかったし、この仕事しかやってこなかったから、やめるという発想はなかった。でもその時はとにかく仕事がなかったから、ブラブラしていましたね」

大繁盛していた過去は「今となってはまるきり嘘みたい」

かつての賑わいが嘘のようにひっそりとした工房で、粕谷さんは考えた。これからどうしよう‥‥。

転機をもたらしたのは、自ら踏み出した一歩だった。仕事を始めた時からずっと、ひっきりなしに届く注文に追われていたが、その時代は終わった。このままではじり貧だ。注文が来ないなら取りに行くしかない。

窮地を救った新たな出会い

その頃ちょうど、名のあるデパートで伝統工芸品に焦点を当てた催しが開かれるようになっていた。ある程度の実績を持つ職人しか出展することができない催しで、粕谷家はその一員として名を連ねることができた。

修理も受け付けると掲げて出展してみると、想像以上に鋸に関心を示す人たちがいた。しかも、それまでなんのつながりもなかったジャンルの人たちが多かった。この出会いが、窮地を脱するきっかけとなった。

たとえば、ある華道の講師は工作に使うような鋸を持ってきて、修理してほしいと依頼してきた。そこで粕谷さんは、その鋸ではうまく枝を切ることができないでしょうと説明し、「ちょうどいい鋸を作ってあげますよ」と生木がきれいに切れる花木用の鋸を考案した。するとそれが華道の講師の間で評判となり、次々と依頼が舞い込んだ。

ある時には、雅楽で使う篠笛の製作用の鋸が欲しいと相談を受けた。粕谷さんは「雅楽だったら漆を塗ったところから切るんじゃないか」と予想し、そのために目が細かい鋸を作って納品したところ、「すごく良いからまた作って欲しい」と依頼を受けた。

弟子を抱える職業の人たちは、縦と横に強いつながりがある。デパートに出展するようになってから、粕谷さんが作る痒い所に手が届くような鋸の噂を聞き付けた各界の人がこぞって注文をしてくるようになった。

そのタイミングで、粕谷さんは房州船鋸という名を「房州鋸」に変えた。粕谷さんが作る鋸はもはや、船用ではなかったからだ。間もなく、粕谷さんがブラブラする時間はなくなった。

木目込み人形の製作に使う鋸の設計図と実際の鋸

「もし使えなかったら返してくれればいい」

粕谷さんはお客さんから「こういうものを、こういう風に切りたい」という依頼を受けると、あとはほとんど相談せず、頭のなかでイメージを膨らませて鋸を作る。

どれもかつて船大工が使っていた大きな房州鋸とは似ても似つかないような形や大きさになったが、長年培ってきた、よく切れて長持ちする精巧な鋸を作る昔ながらの技術がベースになっていると振り返る。

「すべては応用ですよ。船鋸といってもいくつか種類があって、たとえば局面を切り出すための廻し引き鋸の技術は能面用の鋸に使えました。房州鋸を小さくしたり、薄くすることで、いろいろな鋸を作ることができる」

それにしても、篠笛や能面などほとんど知識がないようなものに使う鋸を作るのは、誰にでもできることではないだろう。思わず、「才能ですかね?」と尋ねると、粕谷さんは苦笑しながら首を横に振った。

「難しい注文がくると大変だなと思うけど、ちょっとやってみようかっていう気持ちにはなるよね。今なんて、一寸 (約3センチ) の間に30本の目 (歯) を入れたりするけど、そうやって細かい作業をコツコツやるのは好きだったかもしれない。才能っていうより、この仕事が自分に合ってたのかもね」

確かに、粕谷さんにとって鋸職人は天職だったのかもしれない。粕谷さんは、どんな顧客に対しても、「もし使えなかったら返してくれればいい」と伝えて納品している。しかし、これまで鋸が送り返されてきたことはない。ただの一度も。

<取材協力>
中屋雄造商店
千葉県鴨川市東江見2-2
0470-96-0349

文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年11月11日の記事を再編集して公開しました。

波佐見焼 マルヒロの2代目 馬場匡平さんに聞く、初任給5万円からの10年

「これヤバか! どがんやって生活すると!?」

2008年6月、長崎県波佐見町で馬場匡平さんは言葉を失っていた。波佐見町は日本屈指の焼き物の産地で、馬場さんの実家はマルヒロという「産地問屋」を経営していた。

産地問屋は大量生産を可能にするために分業制が発達した波佐見町ならではの仕事で、外部からの注文をまとめ、職人に発注し、完成品を受け取って配送などを手配する。

マルヒロ現社長の父親から「戻ってきてほしい」と言われて帰郷したはいいが、馬場さんは給料を見て慌てた。その額、5万円。24歳の青年にとって死活問題だった。

波佐見焼の産地、波佐見町の風景
波佐見町の風景

マルヒロ倒産の危機

長崎県波佐見町で作られる「波佐見焼」は、今では広くその名を知られているが、実は2000年頃までは無名の存在だった。

波佐見町は、もともと隣町の佐賀県有田町で作られる「有田焼」の下請けとして大量生産の技術を磨き、成長してきた。人口約1万5000人の小さな町ながら、バブル期の1991年には産地生産額が175億円に達している。

しかし2000年頃、生産地表記の厳密化の波を受けて「波佐見焼」と名乗り始めると、売り上げが激減。2011年には産地生産額が41億円にまで落ちたというから、その勢いは凄まじい。

波佐見焼マルヒロの直営店
何かしらの理由で焼かれなかった生地

1957年創業のマルヒロも多分に漏れず、2000年以降、厳しい経営を強いられていた。父親に呼び戻された馬場さんの給料が5万円というのが、その苦境を物語る。

当時、馬場さんの両親と本人を含めた社員6人に対して会社の粗利は500万円ほどしかなく、率直に言えば倒産の危機に瀕していたのだ。

そこで、社長と馬場さんは中川政七商店のコンサルタントを受けることを決意。そこから新ブランドの立ち上げが始まった。

「中川さんから持ってきて下さいと言われたのが決算書3期分で、マルヒロ史上ワースト3なんですよ。それで父ちゃんは、これは受けてもらえんばいと言っていたんですが、受けてもらえることになって。

僕らも初めてコンサルを頼むので、両親と、お金をたくさんかけるのは難しいけど、人の力でできること、必要な投資は頑張ろうと決めました。

最初に中川さんに言われたのは新ブランドを作ろうということで、そのプロジェクトを父ちゃんから丸投げされました(笑)」

起死回生の大ヒット

もともと焼き物に興味もなく、なんとなく仕事をしていた馬場さんにとってプレッシャーのかかるプロジェクトだったが、試行錯誤の末に生み出したのが、「HASAMI」。

2010年、最初にリリースした「60年代のアメリカのレストランで使われていた大衆食器」をテーマにしたカラフルでポップ、機能的で丈夫なマグカップはセレクトショップなどに5万点を出荷する起死回生のヒットとなった。

波佐見焼マルヒロのブランド「HASAMI」
マルヒロの窮地を救ったマグカップ

「出して半年くらいは結構大人しかったですよ。でも、展示会に出展したのがきっかけで、雑誌にも掲載されるようになって。

そうしたら、12月に吉田カバンさんからOEMの話がきたんですけど、それが2万個。6人で箱詰め、検品まじマジヤバか!って(笑)。それが世に出てから、いろいろなアパレルメーカーから問い合わせがくるようになって、ショップでも売れ始めたんですよ」

波佐見焼マルヒロのブランド「HASAMI」のseason2
波佐見焼マルヒロのブランド「HASAMI」のseason3
マルヒロの器はポップ&カジュアル

実は、「HASAMI」のマグカップは、作り始めた当初、周囲の評判は良くなかった。展示会で「こがん派手な色のお皿でご飯食べる気しませんわ」と酷評されたこともある。

それでも自分の感性を信じてヒットさせた馬場さんは「それまでの3年間、いつ潰れてもおかしくなかった状況だったとですよ。マグカップが売れなったら、もう潰れとったですよ」としみじみと振り返る。

社長も、会社を救ってくれた息子に感謝したのだろう。2011年、馬場さんの給料は7万円になった。

新ブランド誕生

「HASAMI」のマグカップは、さまざまな出会いをもたらした。そのうちのひとつが、世界的なアメリカのフォントデザイン会社「ハウスインダストリーズ」。マグカップにプリントをしたいとマルヒロに連絡してきたのが縁となって、マルヒロの新しいブランド「ものはら」が生まれた。

波佐見焼マルヒロのブランド「ものはら」
「ものはら」の器

「アメリカからアンディさん、ステフさん、ヤヨイさんの3人が波佐見町まで来てくれて。いろいろと話をしているうちに、やっぱりゼロから作る方が面白いという話になって、じゃあ、作りましょうと。

その時に、波佐見町の歴史的な背景をちゃんと汲み取って、それを説明できるブランドを作りたいと思ったので、『ものはら』と名付けました」

ものはらとは、波佐見町の登り窯のそばにある失敗作を捨てる場所のこと。そこには出来損ないの陶磁器が積み重なり、地層のようになっている。

その地層を波佐見町の歴史と捉えてのネーミングだった。この時は、お皿急須、ボウルなども作り、ハウスインダストリーズのアートディレクター、アンディ・クルーズがデザインした「m」をあしらった。

デザイン業界では有名な「ハウスインダストリーズ」とコラボレーションしたことによって、「ものはら」も話題を呼んだ。マグカップに続いて雑誌掲載などが相次ぎ、マルヒロの知名度は着実に高まった。

すると、これまで取引のなかったさまざまなジャンルの企業やメーカーからも声がかかるようになり、売り上げも伸びていった。

給料が7倍に

こうして少しずつ経営が安定してきた2015年、建築家の関祐介氏に依頼してショップをリニューアル。「写真ば撮れるような店にしよう」というコンセプトでデザインされたショップは、さまざまな理由で使われず、窯元の倉庫に眠っていた2万5000点の器やマグの生地が積み上げられて床材になっている。

波佐見焼マルヒロの直営店
波佐見焼マルヒロの直営店
マルヒロのショップ

さらに、馬場さんの18の時からの友人から「売らせてよ」と連絡がきたのがきっかけで、福岡県の糸島に姉妹店・ヘイアンドホー(HEY&Ho.)もオープンしている。

この時期、馬場さんの給料は35万に増えていた。波佐見町に戻ってから7倍というすごい伸び率だ。

馬場さんは、自分の感性に従ってユニークな商品も作り続けてきた。それがきっかけとなり、新たな販路の開拓にもつながっている。

マルヒロ

「それほど大きな売り上げにつながるわけじゃないんですけど、スケボーブランドとか、アメカジブランドとか、またちょっと違うような感じのアパレル系が興味を持ってくれて。『坩堝』というスケボーブランドとコラボしてキセルを出したら、それを知った別のブランドの人から連絡があったり」

マルヒロの新戦略

こうして幅広い分野でマルヒロのブランドが知られていくなかで、昨年から馬場さんは新しい取り組みを始めている。

合同展示会への出展をやめて、昨年9月に原宿、11月に京都のギャラリーでマルヒロ単独のポップアップストア&エキシビションを開催したのだ。

さまざまなアーティストや職人とコラボレーションした新作やアート作品の展示、ワークショップを展開して一大イベントとなった。これは、馬場さんの危機感の表れでもある。

「これまで右肩上がりで増えてきた波佐見町の出荷量が頭打ちになってきてるんですよ。産地工芸ブームの熱が若干冷めてきよるんと思います。だからこそ、これからはもっと毛色を明確にして、もっと発信せんばねって」

波佐見焼のブランドマルヒロ
京都で発表した、福井県の伝統工芸「越前漆器」、アーティストでプロスケーターの「マークゴンザレス」とコラボした重箱
波佐見焼のブランドマルヒロ
さまざまな柄があるそばちょこのシリーズ〈蕎麦猪口大事典〉

「今から僕らがしようとしよるのは、できるだけ下の世代に早めに焼き物に触れてもらって、焼き物=マルヒロと植え付けること。

今年の5月5日は、オイルワークスという九州のアーティストのライブ会場で、3歳の子どもからひとりでできるような簡単なワークショップをやるんですよ」

若者たちにマルヒロの名を知ってもらい、親近感を持ってもらうために、馬場さんがもうひとつ計画していることがある。それは、波佐見町に公園を作ること。

「波佐見町には子どもたちがのびのび遊べるような公園がないんですよ。だから今、1000坪の土地を買って、公園を作ろうとしています。そうしたら、若い子たちも面白い会社だから1回行ってみようかと思うかもしれない。

2022年には新幹線も通るし、隣町の嬉野には旅館があるし、ハウステンボスも旅行者増えとるけん、近場には色々コンテンツがあるとです。そこで波佐見町でもその公園が受け入れ先になればと思って」

2008年のマルヒロは、会社の粗利がわずか500万で、社員は6人だった。

それから10年が経ち、売上は3億円。社員は今年の7月、20人になる。馬場さんの給料は今や、最初の5万円から10倍を超えた。

波佐見焼のブランドマルヒロ
最近、力を入れている転写シール貼り放題のワークショップで作られた器

そして今年8月、馬場さんは社長に就任する。焼き物の作り方をまるで知らず、イチから学んだ男は今、新しい戦略を掲げ、全国を飛び回る。

マルヒロの成長物語は、馬場さんの成長物語でもあった。全国各地のアーティスト、クリエイターとつながる馬場さんが作る1000坪の公園はきっと、波佐見町の新しいランドマークになるだろう。


マルヒロ

公式HP:https://www.hasamiyaki.jp
佐賀県西松浦郡有田町戸矢乙775-7
0955-42-2777


文 : 川内イオ
写真 : mitsugu uehara

*こちらは、2018年3月21日の記事を再編集して公開しました。

ケルビムのフレームビルダーが抱く野望。「自転車の歴史を変える」挑戦

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は自転車の世界的なフレームビルダーのある挑戦についてお届けします。

ある日の午後、神宮前を歩いていたら独特のフォルムの自転車が目に入って、思わず立ち止まった。滑らかな弧を描くフレームがハンドルから後輪へ流れ、そのフレームの上にサドル (座る場所) がちょこんと収まっている。自転車の素人の僕にはまるで乗り心地を想像できないけれど、ショーウインドー越しに見ているだけで未来を感じさせる、ワクワクしてくるようなデザインだった。

レトロ感と未来感が同居する不思議なフォルムの自転車 (写真提供/CHERUBIM)

「Humming Bird」と名付けられたこのユニークな自転車のブランドは、その名を「CHERUBIM(以下ケルビム)」という。1965年、日本の自転車フレームビルダーのパイオニアとして知られる今野仁さんが創業。世田谷区にアトリエを構え、競技用フレームの制作を始めたのがその成り立ちだ。1968年のメキシコ五輪の際には、日本代表選手に競技用自転車を提供し、日本新記録と6位入賞という快挙を陰で支えた。

町田の本店に展示されている1968年のメキシコ五輪モデル

そして現在、父からケルビムを受け継いでいるのが、2代目の今野真一さん。神宮前にあるケルビムのショップで僕が見惚れた「Humming Bird」を生み出した男である。今野さんは、生涯獲得賞金が27億円を超え、「走るレジェンド」と呼ばれる神山雄一郎選手など多数の現役競輪選手たちのフレームを製作していることでも知られる。競輪選手の自転車は、1ミリ単位での調整が求められる精密マシンだ。

類まれな独創性と圧倒的な技術力を兼ね備える今野さんの原点を知りたくて、東京・町田にある本店を訪ねた。

工場が遊び場だった子ども時代

今野さんが生まれたのは、メキシコ五輪から4年後の1972年。「見渡せば自転車ばかり」という家で「工場 (こうば) が遊び場だった」。物心ついたときには、自分で自分の自転車をカスタマイズするようになっていた。

「雑誌もいっぱいあったから、参考にしながらタイヤを変えたり、チェーンを変えたり。性能がいい、悪いはわかんないから、小学生ながらにもブランド志向で、当時、かっこいいと思っていたイタリアのパーツとかシマノのパーツを工場でかき集めていましたね。誰かに教えてもらってというよりは、自分でやってみて、わかんないことは聞きにいって」

真剣に取り組む、というよりは、毎日の生活の延長線上で自転車について学んでいった今野さん。中高時代は若者らしくバイク、サーフィン、音楽などほかの遊びに夢中になりながらも、自転車に乗り続けていた。高校卒業後は「自転車の設計にも役立つかな」とパソコンのプログラミング関係の専門学校に進学。卒業後、20歳の頃には実家のアトリエで働き始めた。

「子どもの頃から、ずっと、いずれはこの仕事を継ぐんだろうなと思っていましたから。そのとき、親父とふたりの職人さんで仕事をしていたんだけど、職人さんのひとりが辞めるというタイミングも重なって」

ショップと工房を備える町田本店
工房では今野さんから自転車づくりを学ぼうと大勢の若者が働いている

自転車の販売に注力するも‥‥

自転車のフレームビルダーの仕事は、多岐にわたる。設計に始まり、旋盤などを使った機械加工、溶接、仕上げまで自転車にまつわるすべての作業をひとりでできるようになって一人前だ。
当時、自転車の素材として安価で軽量なカーボンやアルミのフレームが主流となり、炭素鋼 (鉄) にクロムとモリブデンを加えた合金「クロモリ」を使うケルビムのオーダーメイドの自転車フレームをつくる事業は下火になっていた。メーカーの下請け仕事もあったが、生産の拠点が中国や台湾に移っていく時期で、売り上げは下降線をたどっていた。

経営者の父・仁さんにとっては苦しい時期だっただろうが、工房のスケジュールにも余裕があるなかで、今野さんは先輩の職人さんからじっくり技術を学ぶことができたと振り返る。すべての工程の技術を一通り身に着けるまでに、だいたい5年間。その間に、ケルビムの方向性も徐々に変わっていった。それは、「パーツを組んだりばらしたりするのが得意だった」という今野さんの存在が影響している。

「父親はフレーム作ってそれを売るという対プロの仕事がメインでした。要するに、自分で組み付けできる人にしか売らなった。でも、僕が入社してからは完成車の状態で渡せるようになったので、一般のユーザーにも売れるようになったんです。それで、一般の方への販売にも力を入れていこうって」

「クロモリ」のフレームに磨きをかける今野さん

今野さんが30歳になる頃には先輩職人も工房を離れ、ケルビムは今野さんが組んだ低価格帯の自転車や、初心者向けの自転車、輸入自転車を仕入れて店頭で売る、プロスポーツショップに舵を切っていた。この決断によって一般ユーザーのお客さんが増えて経営は持ち直したが、今野さんは次第に、「何か違う」と思うようになっていった。

「全部がイヤになって」一大決心

量販店ではない小規模のショップでブランドものの自転車を売るというビジネスには、ノルマなどさまざまな制約があった。他のショップとの値引き合戦や価格勝負も性に合わなかった。なによりもストレスだったのは、10万円で自転車を仕入れても、新しいモデルが出ると「型落ち」扱いになり、仕入れ値より低い価格で売らざるを得なかったということ。自分で自転車を作ってきた今野さんにとって、自動的に短期間で価値が落ちる自転車を売ることは「寂しかった」という。

この時期、今野さんは父・仁さんと頻繁に衝突していたそうだが、それは恐らく、ショップ事業に対する不満や「このままでいいのか」という不安、疑問が互いの胸中に渦巻いていたからではないだろうか。そのうち、「全部がイヤ」になってしまった今野さんは、腹をくくった。

「僕がずっとやりたかったのは、ケルビムで最高のフレームを作ること。車だったら、多分、フェラーリに乗っている人って車を持っている人の1%にも満たないでしょう。でも、1%でもいいから、そこをターゲットにやっていきたいという思いがありましたし、作ることに関して妥協したくなかった。だから、ショップじゃなくて、自分のブランドだけでやってこうと決めたんです」

「ひとりでフレームと向き合う仕事が好き」と語る今野さん

この決意は、低迷期を乗り越えて築き上げたショップ事業の縮小につながる。さらにいえば、軽量で安価な自転車の量販化と海外生産が進むなかで、高度な溶接技術を要し、重くて高価な「クロモリ」を使った自転車が売れなくなり、職人もどんどん引退しているという状況で、今野さんいわく「時代に逆行しているのは確かだった」。それを父・仁さんがどう感じたのかいまとなってはわからないが、ふたりの言い争いはさらに激化し、険悪な雰囲気が立ち込めていたという。

転機をもたらした奥さんの一言

それも、ケルビムブランドの一新を目指す今野さんを押しとどめる理由にはならなかった。今野さんが素材や塗装などにこだわり抜いて組んだフレームが売れ始めたのだ。

「だんだん、僕のフレームを欲しいというお客さんが増えていったんです。いま思えば僕がやっていることを面白がってくれていたんだと思うけど、そのときは『お客さんもわかってくれるんだ』って前向きに勘違いしてたから (笑) 、手応えを感じましたね」

父・仁さんとの冷戦状態は続いていたが、そんなことはお構いなしに、今野さんは「会社の人は誰も手伝ってくれないから」とひとりで展示会への出展を始めた。すると、日本を代表するハンドメイドビルダーが集う「ハンドメイドバイシクル展」などでも高い評価を得るようになり、ますます自信を深めていった。

独自のセンスを持つフレームビルダーとして頭角を現すようになった今野さんに大きな転機をもたらしたのは、奥さんの一言だった。2006年頃から毎年、今野さんのもとに英語で手紙が届くようになっていた。今野さんはそれが招待状らしきものとはわかっていたものの、「面倒だなー、うさんくさいなー」と思って無視していた。

ちょうど同じ頃、日本の自転車愛好家の間ではアメリカで開催される世界最大の自転車の祭典、北米ハンドメイドバイクショー「NAHBS」の話題が出るようになっていた。あれ、と思って手紙を確認すると、その招待状は「NAHBS」からのものだった。そのとき、今野さんは「まずは、見に行ってみるか」と思ったそうだが、その話を奥さんにすると、奥さんはこう言った。

「見にいくなら、出したほうがいいんじゃない?」

確かに!とひざを打った今野さんは、アメリカに向かう直前の2週間で繊細な曲線を持つ細身のシルバーフレームの自転車を作りあげ、「PISTA」と名付けて出品した。2009年、37歳のときのことである。

わずか2週間で作りあげた「PISTA」。シンプルな美しさを放つ (写真提供/CHERUBIM)

「NAHBS」から拡がった可能性

インディアナポリスで開催された「NAHBS」の会場についてみると、出展している日本人は自分ひとりしかいなかった。右も左もわからず不安もあったが、それよりも会場の雰囲気に胸が躍った。来場者の多くが自分で自転車を作っていたり、作ろうとしている人たちで、ビルダー向けの講座が開催されていたり、道具も販売されていて熱気に満ちていた。

「PISTA」に興味を示す人も多く、マニアックな質問を次々と投げかけられた。「これはすごい!」とテンションが上がった今野さんも、面白い自転車を見つけるとビルダーに話しかけて情報交換をしたり、気になる部品を購入した。3日間の会期をすっかり満喫した今野さんだが、最終日にさらなるサプライズが待ち受けていた。

「NAHBS」ではグランプリにあたる「The Best of Show」などさまざまな賞が参加ビルダーたちに授与されるのだが、今野さんの「PISTA」が「Best Track Frame」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠に輝いたのだ。初出品での2冠によって、今野さんは気鋭のフレームビルダーとして国内外で注目を集めるようになった。その追い風に乗って、今野さんの活躍のフィールドは広がった。

2012年には、イギリスに拠点を置く世界的デザイン集団「TOMATO」を主宰するSimon Taylorとのコラボレーションから生まれた自転車「Humming Bird」が、NAHBSでグランプリ「The Best of Show」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠を獲得。

グランプリを獲得した「Humming Bird」 (写真提供/CHERUBIM)

昨年は、イタリアの老舗チューブ (鋼管) メーカー「コロンバス」によって5大陸を代表するビルダーのひとりに選ばれ、今野さんが同社のチューブで作ったフレームがミラノで開催された国際美術博覧会「トリエンナーレ・デル・デザイン」に展示された。

「トリエンナーレ・デル・デザイン」に展示されたフレーム (写真提供/CHERUBIM)

「和」の感性を磨くために

NAHBSではこれまでに計7回受賞し、いまや海外での売り上げが3~4割に及ぶ。子どもの頃、工場で遊びながら自分の自転車をカスタマイズしていた少年は、世界にその名を知られるビルダーになった。だが、探求心は尽きることを知らない。

「海外に行くと、僕のフレームはすごく日本的だと言われるんです。『和』の要素はまったく意識していなかったんですけどね。日本に戻ってから何が日本的なのかと探るようになって、僕の自転車の特徴であるゆるやかな曲線やシンプルなブランドマークの張り方が、禅とかミニマリズムに通じる欧米のビルダーにはない感覚だと気付いたんです。僕はデザインの勉強なんてしたこともないから、これはきっと日本人が昔ながら持っているDNAなんでしょう。だから、もっと『和』の感性を磨きたくなって、いまはお茶を習っているんですよ (笑) 」

ケルビムのブランドマーク

世界広しと言えども、茶道を学ぶフレームビルダーはほかにいないだろう。まだ、奥深き茶道の世界の一端に触れたに過ぎないが、それでも新たな気づきがあったという。

「茶道って決まりごとが多すぎるんですけど (笑) 、それをマスターしてからの自由があるらしいんですよ。型があるからこそ、そのなかで際立つ自由を楽しむ文化がある。それを知って、僕は修行時代に父親から型を習ってたんだなって思ったんです。

修業時代は、お客さんがオーダーしてきた歴史あるフレームをひたすら作っていました。自転車って200年以上前からある道具だから、デザインや部品全てに意味と理由があるんです。そのフレームを作りながら、なんでこうなってるんだろう、ここの処理はどうなってるんだろうってひたすら考えながらやっていた。自転車の型にどっぷり浸かった時期があるから、いま自由に作るなかで個性を出せるのだと思います」

祖母が授けた天使の羽

今野さんのいう茶道の教えとは「守破離」だろう。型を守って習得し、修行を積むなかでより自分に合った道を求めて師匠の型を破ることで、もとの型から離れて自在になるという。確かにこれまでの歩みに重なるものであり、今野さんのこれからにも通じていく。

稀代のフレームビルダーが抱く野望。それは「いまある自転車の型を超えること」。その挑戦の軌跡が、「NAHBS」での数々の栄誉につながっている。もちろん、今野さんは自転車の歴史に名を刻むような斬新なアイデアがそうそう浮かんでくるとは思っていない。しかし、考え続けなくては、何も生まれない。

「これをやってみたいとか、ああしたいとうのはエンドレス。それでいつか『型』を超えたいし、型の素晴らしさもさらに理解したい。そこがやっぱり面白いから」

取材を終えてから、ふと今野さんから聞いた「ケルビム」という社名の由来が頭に浮かんだ。「CHERUBIM」という綴りはヘブライ語で、聖書に出てくる天使の名前。仁さんが兄弟と一緒に起業する際に、もともとクリスチャンだった今野さんの祖母が命名したという。

ブランドマークにも天使が描かれている

帰り道、ケルビムがどんな天使か気になって検索すると、「その中には4つの生き物の姿があった。 (中略) 生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた」という記述を見つけた。

「天使に乗るってどうなの、と言われることもあるんですけどね (笑) 」と今野さんは苦笑していたが、僕は、あ、と思った。今野さんのおばあさんはきっと、「車輪でどの方向にも速やかに移動することができた」という天使の羽を息子たちに授けたのだ。その羽を受け継ぐ今野さんなら、自転車の歴史という揺るぎない壁を越えられるのかもしれない。

<取材協力>
CHERUBIM ケルビム 今野製作所
町田本店:東京都町田市根岸 2-33-14
042-791-3477

文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年8月15日の記事を再編集して公開しました。