香りには気分を変えたり、記憶を呼び覚ます作用があるといわれます。
日本で身近な香りと言えば「線香」。江戸時代から庶民にも広まり愛されてきました。
香りにも様々な種類があり、仏前に供えるだけでなく、暮らしの中で気分転換やもてなしに取り入れる人も増えています。室内でゆったり過ごす時間に良さそうですね。
「線香の香りは3段階で楽しむんです」
そんなことを知ったのは、淡路島でのこと。
実は淡路島は、線香の生産シェアが全国1位。香司 (こうし) という香りのマイスターが日本で唯一存在する、いわば「香りの島」なのです。
線香メーカーが集まり、人口の4分の1が線香づくりにかかわるという淡路市の江井地区を歩くと、海風に乗って町じゅうにいい香りが漂います。
線香づくりの現場を淡路島に訪ねて、線香の使い方、楽しみ方を教わりました。
日本書紀にも登場する淡路島と香りの物語
淡路島西海岸のドライブコース、淡路サンセットラインを走ると、かわいらしい「枯木神社」があります。
「香木伝来伝承地」として、人の体の大きさほどある枯木をご神体に祀っているそう。実は香り文化と淡路島とのなれそめは、なんと『日本書紀』まで遡ります。そこには、こんなエピソードが。
「推古天皇3年(西暦595年)の夏4月、ひと囲いほどの香木(沈香)が淡路島に漂着した。島民は沈香を知らず、薪と共に竈(かまど)で焼いた。するとその煙は遠くまで類い希なる良い薫りを漂わせた。そこで、これは不思議だと思い朝廷に献上した」
出典:梅薫堂ホームページ
沈香 (じんこう) とは、現在の線香にも好んで使われる香木です。淡路島に流れついたその香木を燃やしたところ、あまりにもよい香りを放つので天皇に献上したとのこと。香りについての記述としては、日本で最も古いのだそうです。
プロに聞く、線香の楽しみ方
淡路サンセットラインを南に進んで、線香メーカーが集まる江井地区に到着。いよいよ線香づくりの本場にやってきました。
「香りを3段階で楽しめるのは、日本の線香ならではです」と教えてくれたのは、慶賀堂の宮脇繁昭さん。淡路島に14人いる香司のひとりで、兵庫県線香協同組合の理事長も務められています。
「香りの文化も国や地域によって様々です。インドでは香木そのものを焚きますし、日本の線香も元々は中国から伝わってきたものですが、練った材料すべてをスティック状にして少しずつ燃やすのは、日本独自のスタイルです。
日本では、家のなかにいわばお寺のミニチュアとして仏壇をしつらえ、線香をたむけて手を合わせます。この独特の様式には、かすかな煙で長く一定の香りを保てる線香がぴったりだったのです」
そんな線香の香りづくりには、「3段階」を意識しながらの試行錯誤が欠かせないそうです。
「まずは火をつける前に。点火してからは、たちのぼる香りを。そして火が消えたあとの残り香です」
今度線香を使う時は、この3段階を意識してみると一層香りを味わえそうです。
なぜ淡路島は線香づくりのトップ産地になったのか?ヒントはものづくりの現場に
「仏さまを祀る文化には、花、灯りとともに香りが欠かせません。香りによって、気を捧げるのです」と語るのは、いまも手作業での線香づくりを続ける梅薫堂 (ばいくんどう) の吉井康人さん。
手づくりの線香は手間暇がかかるぶん、その肌に機械では表現できないあじわいが生まれます。それが先祖に捧げる気持ちに響くと、手づくりに値打ちを感じるユーザーも少なくありません。
手づくり工房の見学希望者も多く、外国人からの申し込みもよくあるそう。ものづくりの様子を間近で見せていただきました。
線香は、香司のつくるレシピを元に製造されます。まずはレシピどおりに材料を配合した練り玉をつくります。
練り玉づくりに使われる「土練器 (どれんき)」は、淡路島の特産である瓦づくりに使われる器具を応用したもの。職人が手触りを確認しながら水などの配合を調整します。
線香の成形に使われているのは、昔ながらの「押し出し器」です。
なかには、この「すがね」がセットされています。この細い穴を通って線香の細さになっていくわけです。
「押し出し器」から出てくる線香は、まるで麺のよう。
まだやわらかい線香を、職人が慣れた手つきで切っていきます。竹製のヘラ、モミ製の乾燥板など、伝統的な木製道具が使われています。
1本1本を、丁寧に揃えます。
淡路島ならではの気候が活かされているのが「乾燥」の工程。
乾燥が不十分だと曲がったりカビがはえたりすることから、現代では機械乾燥も採り入れられていますが、手づくりでは「べかこ」と呼ばれる格子窓を工房の一面にずらりとしつらえ、自然の風で乾かします。
窓は全て、西向き。淡路島独特の西から吹く風を乾燥に活かすのです。
淡路島で線香づくりが始まったのは明治維新前夜の江戸後期。海運業で栄えたこの地の新しい産業として取り入れた線香づくりに、この西から吹く風はぴったりでした。
乾燥に向いた土地柄ゆえに高い品質の線香づくりを維持できたことが、淡路島を一大産地に押し上げたといわれています。
素材とブレンドの組み合わせで、バリエーションは無限に
線香に使われる素材はさまざま。たとえ同じ香木でも産地などによって香りは千差万別です。
さらにブレンドの仕方や製造プロセスを変えることで、無限のバリエーションが生まれます。中には、花粉症に効くというユニークな線香もあるそうです。
香りのマイスターが考える「いい線香」とは
仏前に供える役割だった線香は、いまではお香との境界が薄れ、好みで香りを選び、仏壇でもリビングでも楽しむ時代になってきています。
「バスルームの灯りを消し、キャンドルとお香をつけてバスタイムを楽しむ女性もおられますし、京都に行った際、お手洗いで奥ゆかしい香りに気づいてふと見ると匂い袋がかけてあったこともありました」と宮脇さん。
掛け香 (匂い袋) をスーツに忍ばせて商談に出向き、香りに気づいた方との会話が弾む体験をしているビジネスマンも。宮脇さん自身、出張で出かける際などには自ら考案した香りを自分のために持ち歩くのだそうです。
「好きな香りは心地よく、気持ちをやわらげます。その人にとって心落ち着く香りを放つのが、いい線香ではないでしょうか」
『線香に火をつけて手を合わせるのは、忘れることのできない人と、心の扉をあけてお話をするひととき。静寂に気づいたり、大切な何かを感じ取ったりできるんですよ』
これは線香を通じて親交の深いお寺の方から、宮脇さんが言われた言葉だそうです。線香づくりを続けるなかで、常に胸に刻んでいると言います。
灰になるまでのわずかな時間、人の心を落ち着かせ、時に追憶にいざなう線香の香り。
それを司る宮脇さんら「香司」の仕事とは、一体どんなものでしょうか?それは後編でご紹介しましょう。
※後編はこちら:“いい香り”をつくるプロ集団。淡路島にだけ存在する「香司」の仕事とは
<掲載商品>
夏の線香 (中川政七商店)
<取材協力>
兵庫県線香協同組合
http://awaji-kohshi.com/top.php
文:久保田説子
写真:兵庫県線香協同組合、山下桂子
*こちらは、2019年6月13日の記事を再編集して公開しました