よかとこ薩摩の1泊2日旅

こんにちは。さんち編集部です。

1月の「さんち〜工芸と探訪〜」は薩摩特集。あちこちへお邪魔しながら、たくさんの魅力を発見できました。

桜島に見守られ、温暖な気候と風土がもたらす恵みで栄えた薩摩。重要な歴史文化を構築した産地でもあります。西郷隆盛や大久保利通といった県を代表する偉人たちが生まれた場所であり、今年は明治維新150周年!NHK大河ドラマ「西郷どん」もスタートし、注目の産地です。

それでは、編集部がおすすめする1泊2日のプランをご紹介します!


今回はこんなプランを考えてみました

1日目:

・椅子好きにはたまらない。鹿児島空港搭乗口のイームズ シェルチェア
・島津家の歴史や近代日本産業の息吹が感じられる名勝地 仙巌園・尚古集成館
・100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ
・フェリーに乗ったら必ず食べたい!県民が愛するやぶ金のうどん
・たった一人の女性作家が復活させた、幻の薩摩ボタン

2日目:

・異国情緒あふれる絶景の産業遺構。山川製塩工場跡
・雄大な自然と一つになれる、天然の砂むし場。山川砂むし温泉 砂湯里 (さゆり)
・庭を知ると旅が10倍楽しくなる。知覧武家屋敷庭園
・仏壇屋が挑む現代のインテリア。川辺手練団

このようなラインナップでお届けします。それでは、早速行ってみましょう!


1日目:

1泊2日の薩摩旅は、歩き方記事では初の空港!鹿児島空港からスタート。

【朝】椅子好きにはたまらない。イームズ シェルチェア
鹿児島空港

鹿児島空港のイームズチェア

鹿児島空港の搭乗口にズラリと並んだイームズのシェルチェア。日本のものづくり‥‥からは外れてしまいますが、ぜひ人に話したくなるとっておきのスポットとしてご紹介させてください。

鹿児島空港のイームズチェア
思わず足を止めてしまう美しさです
イームズチェアの足元
椅子の足元にはハーマンミラー社のロゴが

スタート地点が見どころとは、このあとの名所にも期待が高まります!

【午前】島津家の歴史や近代日本産業の息吹が感じられる名勝地
仙巌園・尚古集成館

名勝 仙厳園
反射炉跡が敷地内にある旧島津家の別邸、名勝 仙巌園

鹿児島が誇る名勝地、仙巌園へは鹿児島空港からリムジンバスで1時間、車で40分ほど。鹿児島湾を池に見立てた、スケールの大きな大名庭園です。風光明媚な名勝地としてだけでなく、歴史遺産としての価値もかなりのもの。

幕末から近代にかけては、島津家28代斉彬によって富国強兵と殖産興業が推し進められ、園内やその周辺には「集成館事業」とよばれる製鉄やガラス、陶器のほか、造船や大砲などの工場が集まったそうです。

仙巌園
重厚感漂う立派な正門
仙巌園
門の内側を見上げれば、島津家の家紋「丸に十の字」
仙巌園
南国の植物が薩摩らしさを添え、いわゆる日本庭園とはちょっと違った趣に

薩摩の雄大な景色と、近代日本の胎動を同時に感じられる場所です。

仙巌園・尚古集成館の情報はこちら

【午前】100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ
島津興業 薩摩ガラス工芸

かつては「幻」と呼ばれていた鹿児島を代表する工芸品、薩摩切子。江戸時代末期に、薩摩藩主である島津家の肝いりで技巧が極められ、薩摩藩を代表する美術工芸品となりましたが、明治以降、幕末の動乱の中で徐々に衰退。

しかしそれから約120年後の1985年、斉彬のゆかりの地である磯 (いそ) を中心に復刻運動が起こり、薩摩切子は鹿児島の誇る新たな工芸品として息を吹き返すこととなるのです。

薩摩切り子を近くで見ると、ぼかしがあるのがよくわかります

多くのガラスの専門家が知恵を出し合い、少しずつかつての鮮やかさと輝きを取り戻した薩摩切子。その製造の様子を見学できる場所が、仙巌園から徒歩3分の薩摩ガラス工芸です。

島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
工房のすぐ目の前には仙巌園、尚古集成館の敷地が広がります
工房のすぐ目の前には仙巌園、尚古集成館の敷地が広がります
浮かび上がるような柔らかなぼかしの表現が美しいです

工房ではこんな細やかな表現が生まれる様子を、誰でも予約なしで見学することができます。器の原型を作る成形から、カット、磨きまで全工程が揃ったガラス工房は全国でも非常に珍しいそうですよ。

今では30名近い職人さんが働いています
2017年にリニューアルオープンされた工房。明るい雰囲気です
併設したショップではお土産を買うこともできます

>>>>>>>関連記事 :「100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ」
「幕末の『下町ロケット』 幻と呼ばれた薩摩切子が、100年後の鹿児島で蘇るまで」

薩摩ガラス工芸の情報はこちら

【昼】フェリーに乗ったら必ず食べたい!県民が愛するうどん
やぶ金

次の目的地へ向かうには、こちらでは不可欠な交通手段であるフェリーに乗ります。お昼はどこでいただこうかなと思っていたら、なんと、桜島フェリーの船内にうどん屋さんがあるそうですよ。約15分の船旅で食べきれるようにちょうどいいサイズ。注文してからも、あっという間にできあがります。地元の名産、さつま揚げも乗せられています。

さつま揚げうどん 510円
味わい深いメニュー表

そろそろフェリーが到着しますよ。午後の見どころに向かいましょう。

【午後】たった一人の女性作家が復活させた、幻の薩摩ボタン
絵付舎・薩摩志史

薩摩ボタン室田志保

直径わずか0.8cm〜5cmほどの小さなキャンバスに、微細に描かれた文様。

これは「薩摩ボタン」といい、鹿児島の伝統工芸品「白薩摩」に薩摩焼の技法を駆使して絵付けをしたもの。江戸時代末期、ジャポニズム文化の一つとして欧米の人々を魅了しましたが、その後、繊細な技法のため作り手が途絶え、幻のボタンともいわれてきました。

そんな薩摩ボタンを現代に蘇らせたのが、日本で唯一の薩摩ボタン作家、室田志保さんです。

薩摩ボタン作家・室田志保さん
お話がとても楽しい室田さん
薩摩ボタン室田志保の作品
「パリ万博150周年記念古薩摩写 花に文鳥の絵」パリ万博の頃のものと思われるデザインの古薩摩写し
薩摩ボタン室田志保の作品
「女王蜂金冠紋」「近衛兵蜂銀冠紋」「働き蜂」

こちらの薩摩ボタンはなんとオーダーメイドが可能だそうです!お伺いする際は、事前にお問い合わせください。

>>>>>>>関連記事 :「「幻の薩摩ボタン」を現代に復活させた、たった一人の女性作家を訪ねて」

【夕方】指宿エリアの宿にチェックイン

明日は薩摩ならではのダイナミックな見どころからスタートする予定です。指宿温泉で、旅の疲れを癒しましょう。


2日目:

【朝】異国情緒あふれる絶景の産業遺構
山川製塩工場跡

山川製塩工場跡

指宿市のJR山川駅から車で15分ほど行くと、壁のようにそり立つ山や南国らしい植物に囲まれた土地から、いくつもの湯けむりが立ち上がる不思議な光景と出会う。まるで日本ではないようです。

山川製塩工場跡
思わず「ここはどこ?」と自問したくなる不思議な光景

湯けむりの正体は伏目温泉の湯気。塩工場では、この温泉熱を利用して、1943 (昭和18) 年ごろから約20年間、製塩事業を行ってきました。かつて温泉熱を利用した製塩事業は全国各地で行われていたものの、最後まで稼働していたのは指宿なんだそう。

山川製塩工場跡
雄大な自然と産業遺産のコントラストに圧倒される

そんな時代の移り変わりを感じさせる産業遺構が、この山川製塩工場跡です。

山川製塩工場跡
時の流れを感じさせる経年変化がかっこいい

山川製塩工場跡の情報はこちら

【午前】雄大な自然と一つになれる、天然の砂むし場 山川砂むし温泉 砂湯里 (さゆり)

山川砂むし温泉 砂湯里

山川製塩工場跡から歩いて3分ほど。鹿児島に来たら必ず体験しておきたい、砂むし温泉です!

伏目温泉の地熱を利用した砂むし場。目の前に広がる海と周辺の南国情緒たっぷりの木々が、どこか異国を感じさせます。

山川砂むし温泉 砂湯里
砂かけのプロ「砂かけさん」に砂をかけてもらえば準備完了!
山川砂むし温泉 砂湯里
目の前は海!何も遮るものがなく開放的

じわりと吹き出す汗で身体の毒素は抜け、心地よい波音が心をほぐしてくれる。心身ともにデトックスできる場所です。湯上がりに小腹が空いたら、温泉熱で蒸した温泉卵やふかし芋がおすすめ。

徒歩圏内には絶景をのぞめる日帰り温泉地「たまて箱温泉」やレストラン「地熱の里」も。こちらでお昼をいただきましょう。せっかくのデトックスあとなので、食べ過ぎにはご注意を‥‥!

山川砂むし温泉 砂湯里の情報はこちら

【午後】庭を知ると旅が10倍楽しくなる。
知覧武家屋敷庭園

指宿から車で1時間ほど、次に訪れたのは知覧武家屋敷庭園。7つの庭園からなる国指定の名勝です。

知覧武家屋敷庭園

庭園がある南九州市知覧町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、「薩摩の小京都」とも呼ばれている地域。そこには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景色が広がります。

知覧武家屋敷庭園
西郷恵一郎庭園には、「鶴亀の庭」の別名も。鶴と亀が同居する、おめでたい庭です
知覧武家屋敷庭園
この細長い水鉢は、刀や槍についた血を洗うためのものなんだとか。さすが武家屋敷です
知覧武家屋敷庭園
男女で玄関がわかれるのも武家屋敷らしい。左が男玄関、右が女玄関

時代を動かした薩摩藩士たちの勇ましさを随所に感じる一方で、庭園を見渡すと趣を感じずにはいられません。江戸時代に造られた立派な庭と町並みが、当時の姿を残したまま見られるのはとても珍しいこと。知覧の庭も町並みも、行政ではなく、住民の皆さんが管理されているそうです。入園料は、7つの庭園だけではなく、周辺の家々の手入れにも使っているので風情ある町並みに保たれているとか。

江戸時代の面影が残る知覧の町。ぜひその町並みを歩いて、江戸を生きた薩摩藩士の暮らしを肌で感じてみてはいかがでしょうか。

>>>>>>>関連記事 :「庭を知ると旅が10倍楽しくなる。「知覧武家屋敷庭園」の巡り方」

薩摩の旅もそろそろ終盤です。土地の広さゆえに移動が多い産地ではありますが、道中の景色も見ごたえ十分です。

鹿児島の風物詩、桜島の噴火の様子
鹿児島の風物詩、桜島の噴火の様子

【午後】仏壇屋が挑む現代のインテリア
川辺手練団

旅の締めくくりは鹿児島の伝統的工芸品「川辺 (かわなべ) 仏壇」の歴史や技術を伝える川辺仏壇工芸会館へ。川辺町は古くから信仰心の篤い地域で、平安時代末期ごろから仏壇がつくられるようになったといいます。

川辺仏壇工芸会館

一見、洗練された大人たちが集うバーを思わせる空間ですが、仏壇屋さんのショールームなんです。

素敵なデザインのアイテムが並びますが、中にはこういった仏壇のパーツに用いられる技術でつくられたものもあります。

川辺手練団ランプシェード製作工程
川辺仏壇の蝶番
これが仏壇のどの部分になるか、わかりますか?

あらゆるものづくりの技術が集結する川辺町の仏壇づくりですが、ライフスタイルの変化で仏壇離れが進み、仏壇産業そのものが縮小傾向にある中、このままではこれらの技術が途絶えてしまうかもしれない。危機感を抱いた川辺仏壇協同組合のメンバーがそうした現状を打破すべく、2016年夏に始動したのがこちらのインテリア製品を手がける「川辺手練団」。

仏壇づくりの技術を活かしながらも、仏壇という枠から飛び出して新たな商品をつくっていこうという取り組みです。職人の高齢化問題や価格、販路などの課題はありつつも、今後も新商品を出していくとのこと。この2月には、パリで開催される鹿児島県の展示会に川辺手練団として出展する予定です。

>>>>>>>関連記事 :「仏壇屋が挑む現代のインテリア。「川辺手練団」、始動。」

時間に余裕があれば、こんなお土産もいかがでしょうか。

鹿児島の郷土玩具オッのコンボ

丸みのあるシルエットに、穏やかな笑みを浮かべた表情。見ているだけで、思わずこちらも笑顔になってしまう、「オッのコンボ」という名前の郷土玩具です。

このユニークな名前は、鹿児島の言葉で「起き上がり小法師」という意味。その発祥は定かではないものの、少なくとも島津藩の藩政時代には鹿児島地方の家々にあったといいます。

>>>>>>>関連記事 :「台所の守り神、鹿児島の「オッのコンボ」」


こちらも、必ず買って帰りたいですね。

勘場蒲鉾店の薩摩揚げ

鹿児島県いちき串木野市にある勘場蒲鉾店の「つけあげ」です。

鹿児島県の郷土料理のひとつで特産品でもある薩摩揚。地元では「つけあげ」とよばれていますが、薩摩藩時代、中国や琉球文化との交流から、魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた「チキアギ」が食べられるようになり、それがなまって「つけあげ」になったとも言われています。県内でも、いちき串木野市は、古くから水産練り製品加工業(さつまあげ・かまぼこ)が盛んで「さつまあげ発祥の地」とも言われています。

勘場蒲鉾店の情報はこちら

薩摩をめぐる1泊2日の旅、お楽しみいただけたでしょうか?

船に揺られて砂に埋まって。南国らしい楽しみもありながら、華やかな薩摩切子や薩摩ボタンの奥には幕末のエネルギーを感じます。

維新150年の今年、ぜひカラフルな薩摩の魅力を訪ねてみてはいかがでしょうか。

さんち 薩摩ページはこちら

撮影:菅井俊之、尾島可奈子
画像提供:薩摩ガラス工芸、絵付舎・薩摩史志

岡山「津山民芸社」の竹細工の龍を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載5回目は辰年にちなんで「竹細工の龍」を求め、岡山県津山市にある津山民芸社を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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オレンジの電車の前の工事職員の後ろ姿

岡山駅から津山駅に向かう列車はきれいな色だ。これから竹細工の職人に出会う私たちを連れて行ってくれる。

津山民藝社の看板

目的地に到着。工房前の植物は豊かで、愛情をこめて世話されているようだ。あたたかい歓迎を予想させてくれる。

津山民藝社の白石さん

そして期待は裏切られなかった。白石さんは、陽気でにこやかだ。頭にベレー帽をのせ、私たちを中に招いてくれる。日本の「ジュゼッペじいさん」に出会ったのだ。

ぶら下がった麦藁帽子

不思議な事に、店の奥に入ったとたん、自分の家にいるような気分になった。この場所に棲む、つつましい様々なオブジェに囲まれて、白石さんのセンシビリティを共有できたような気持ちがする。麦わら帽子が3つ、埃だらけになって、家具の上にのせてある。

サルノコシカケ

伝統的な藤細工に混じって、見事なサルノコシカケがあった。

竹製のハチドリ

竹の繊細なハチドリが、軸の上にこっそり乗せてある。

様々な道具が並ぶ

工房に向かう。これはまさに「ジュゼッペ」のアトリエだ!玩具だけでなく、機械や道具も全てが手づくりなのだ。
すばらしい創意工夫で、まさにミュージアムピースだ。

道具箱

竹の材料を入れておく箱まで手づくりだ。おそらく白石さんは、美しさを優先させているに違いない。というのも、家具が痛まないように、ブロックを置いて床との直接の接触を避けているからだ。

工房の風景

特別につくられた、この竹を切るためのノコギリベンチも同様だ。壁に掛かっているザルも、偶然ではないはずだ!

竹の水分を出させるかまど

中庭には、細工される前に竹の水分を出させるかまどがある。

壁に掛けられた時計

あっという間に16時40分だ!14時に訪れたのに、このアリババの洞窟で時間を忘れてしまった。しかもここに来た目的のものをまだ見ていなかった。小さなドラゴンだ。

机の上の様々な道具

店の奥の部屋に戻った。そこで白石さんは、仕上げの組み合わせをしてくれる。

仕上げを行われている龍の郷土玩具

ああ!やっとドラゴンに会えた。待った甲斐があった!最後に少しレタッチして、仕上がりだ。

龍の郷土玩具

なんと誇らしげで美しいのだろう!上にまたがったら、怖いものなしだ!

作りかけの郷土玩具と道具

しかし、私たちの天才工作者の制作は、これだけではない。

郷土玩具の虎

トラもつくる。

郷土玩具の餅付きうさぎ

かわいいウサギも。

作州牛

しかし、何よりも、ここの名を知らしめた、有名な作州牛だ。

竹林

私たちのジュゼッペじいさんは、近所の竹林に車で連れて行ってくれた。彼の竹細工の源だ。訪問は終わりに近づき、この素晴らしい出会いの後の別れは感動的だった。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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竹細工と農耕牛の産地で、郷土玩具をつくる

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、津山市で竹細工が誕生して全国に知られるようになった理由や、津山民芸社を訪ねて教えてもらった竹細工の製造工程、郷土玩具の由来などをご紹介します。

その昔、「美作の国」や「作州」と呼ばれていた岡山県北部。中心に位置するのが、中国山地沿いの山間の城下町、津山市です。

津山では大正末期に、地場産業として竹細工が推奨され、昭和初期にかけて、大分とともに2大産地といわれました。
大分の竹細工は、竹を割ったものを編んでつくるものが多かったのに対し、津山では機械を使って玩具などが盛んに作られたそう。

当時、竹細工は生糸に続いて二番目の出荷を占める津山の主要産業で、市内には36軒もの工房があり、終戦まで生産量は全国トップクラスを誇っていました。地場産の竹を使用していて、素材をまるごと活かしているのが特徴です。

また、美作地方は江戸時代から農耕牛の飼育が盛んでもある土地。一宮の中山神社近くでは明治時代まで牛市が開かれ、役牛の産地として各地に広くその名を知られていました。

こうした背景をもとに、昭和32年から竹細工の「作州牛」を製作しているのが今回訪れた津山民芸社。市内で竹細工を作り続けるのは今や、同社の白石靖さんただ一人となったそうです。

城下町の北側、かつての武家屋敷通りの一角にある津山民芸社

戦後生まれの牛が、津山を代表する郷土玩具に

筑前琵琶を弾く琵琶師であった父・安太郎さんが、津山に移り住んで竹細工を始めたのが昭和2年。

「父は竹に魅了され、釘から水筒までとにかく竹製品で代用を考えていました。また、アイデアマンでもあり、次々に事業を立上げていましたが、そっちは失敗ばかりでした」と苦笑しながら話す白石さん。

発想の豊かさと手先の器用さは父親譲りだったようで、白石さんが17歳の時に2年間修行に出た後、親子で観光土産の開発に取り組み、作州牛を考案。翌年の昭和33年に津山民芸社を設立しました。

白石靖さんと娘の七重さん

作州牛は、昭和天皇が岡山国体のお土産に購入されたことや、昭和60年に戦後生まれの郷土玩具としては初めて年賀切手に採用されたことで、広く知られるようになり、今では津山の代表的な郷土玩具に。

昭和60年の年賀切手

店舗を訪ねると、奥が工房になっていて、作州牛を始め十二支の竹細工の製作風景が見られます。

店頭に並ぶ竹細工は竹の素材や形をそのまま活かし、一つ一つに微妙な違いが。十二支の玩具には、その干支にまつわる津山地方の言い伝えが栞として添えられているのも嬉しいです。

ピーク時の約40年前は、従業員50人の工場で、年間約2万個を生産するような大きな規模でしたが、時代とともに縮小し、現在は年間約1200個を白石さんお一人でつくられるそうです。今のところ、弟子や跡継ぎはいないとのこと。

往時の津山民芸社での製作風景

手作りの道具で竹の魅力を引き出す

木製玩具にはこけしに代表される挽物、そして箱物、板物、木彫りなどがありますが、竹製はごくわずか。

今回のお目当ては、30年前、白石さんの娘さんの干支が一回りした時に考案した玩具だったため、記憶によく残っているという「竹の龍」。その作り方を見せていただきました。

まずは材料となる竹の「伐採」。近隣に豊富にある竹林で許可をもらって自ら取りにいきます。

工房から車で5分ほど行ったところにある竹林

次に「油抜き」。

青竹から余分な水分や油分を除去する作業で、材料を作り上げるための大切な工程。
熱湯に竹を入れて煮込み、油分を取ります。

工房の裏手で油抜きや染色をするための釜

油抜きを終えたら「裁断」です。

種々の刃物を使って、必要な大きさに竹材を裁断します。裁断した部材は「ガラン」に入れて、角を滑らかに。

裁断の道具
竹の断面を滑らかにするため、「ガラン」に入れて回す
モーターとベルトで動く木製のガランも全て手作り

最後に「彩色」して、「組み立て」をして完成です。

絵の具で彩色
丁寧に組み立てる

伐採、油抜き、裁断、彩色、組み立て、すべての工程を今は白石さんがひとりで手がけます。白石さんの創作は玩具にとどまらず、ほとんどの道具も使い勝手の良いように自分で手作り。自然の竹をまるごと活かし、道具に至るまで手作りでつくるため、ひとつひとつ形や表情も違います。

「無になって、つくることに集中する。無心に切って、描く。そうすることでクオリティ高く仕上げています」

何度つくっても、竹細工に対する白石さんの信念は変わらないようです。

「竹の龍」は、名画のワンシーンから生まれた?

龍に少年が跨っている「竹の龍」の姿、何かに似ていると思いませんでしたか?

「ネバーエンディングストーリーに着想を得て考案した」という白石さん。そう言われると、主人公がファルコンにのっているあのシーンに見えてくる気が‥‥。

添えられている栞には、

『龍は鯉が中国の揚子江を遡り、天から落下している滝を登りきって龍と化したと言われている。その龍は日本に来て水を司る神と崇められた。

龍神を祭る山の一つに作州地方最高峰の那岐山がある。この山は今でも毎年この地方特有の広戸風をまきおこしている。

「昔、昔、この山に三穂太郎という大男が住んでおったそうな。この大男、那岐山から京都まで三歩であるいたそうな。この大男の担いだ畚(もっこ/縄を網状にしたものの四隅に綱をつけ、土・石などを入れて運ぶもの)からこぼれ落ちた土が鏡野町の男山、女山に成り汗の雫が作州一の大池と言われる誕生寺池になったそうな‥‥」この三穂太郎は子供の頃から龍にまたがり、天空を飛び回って遊んでいたと言われている。この様子を竹細工にした。』とあります。

ファンタジーな着想の奥には、古くから津山地方に伝わる郷土民話のエピソードを、心に残るイメージで後世に伝えようとする白石さんの信念がうかがえるような気がします。

そしてそれは、白石さんのつくる道具、玩具、栞、すべての創作に共通する郷土愛なのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第5回は岡山・竹細工の龍の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第6回「栃木・きびがら細工のへび」に続く。

<取材協力>
津山民芸社
岡山県津山市田町23
営業時間 9:00~18:00(不定休)
電話 0868-22-4691

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」2月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

高山のさんまちに行ったら撮りたい、歴史の色気ただよう格子からの眺め

みごとなほど、気品と古格がある。

司馬遼太郎は『街道をゆく』で、飛騨高山をそう称しました。高山駅からすぐの「さんまち通り」には、心惹かれる酒蔵、飲食店、ギャラリーなどがたくさん。江戸後期から明治時代に建てられた古い町家が、趣のある風景を作っています。

木彫りの猫に招かれて
飛騨の香りが漂います
酒造の杉玉もちらほらと

すっと一直線に連なる町家の整然とした美しさ。高山では隣家と軒の高さを揃えることが、江戸時代からある暗黙の決まりで、町家の連なりを「町並み」と呼んでいたそうです。

冬になれば、建物の黒さに映える雪の白さも目に留まります。その景観は、重要伝統建造物群保存地区に指定され守られており、高山はミシュランが発行する旅行ガイドでも三つ星を獲得しました。

町家の特徴といえば、第一にあげられるのが格子です。さんまちでもたくさんの種類が見受けられ、格子から眺める景色にはどこか落ち着いた印象を感じます。

高山ならではの伝統技術とされるのが「千鳥格子」。格子のます目を作る一本の角材に、複数の溝を均一にほり、パズルのように組み合わせて作るそうです。

千鳥格子が名を挙げたのは奈良時代。平城京の造営時に、木材が有名な飛騨地域が派遣した職人の腕が抜きんでており、彼らが「飛騨の匠」称賛されたことによるのだとか。匠の秘法が、さんまち通りの趣きを一層引き立てているようです。

伝統の息吹感じる格子を通して、古い町並みを見てみると、ひと味違うさんまちを楽しめます。そこで今回は、外観からではなく、あえて「内側」から格子のフィルターで、さんまちに溢れる気品と古格を切り取ってみました。

喫茶去「かつて」

喫茶去「かつて」は一面が格子戸
格子戸ごしのさんまち通り
すだれが光と影を演出してくれています
人力車が見えたら、絶好のシャッターチャンスです
2階は座敷。ゆっくりくつろいで、格子から町行く人を観察など

料亭「洲さき」

料亭「洲さき」は伝統的な数寄屋造りで、作家の司馬遼太郎も訪れた場所
格子と庭が調和しています
待合室から廊下を挟んで木々が。細かな格子がきれいです
玄関の格子の間に雪が降っていました

旅館かみなか

「旅館かみなか」国の有形文化財に指定されている老舗旅館。部屋の入口も格子戸造り
お部屋の窓際の椅子に座って、本を片手に町の風景を眺めながらうとうとするのも贅沢

 

町全体に古い町並みを残す高山は、路地を入ってみても、中心地を少し離れてみても、その雰囲気はどこまでも続くかのようです。
「飛騨へは、ゆるゆるとゆくことにする。」と始まる司馬遼太郎の旅のように、のんびりとした気分を味わえる高山の町並み。伝統息づく町で、格子から匠の技に思いを馳せる、粋な旅はいかがでしょう。

 

撮影協力

喫茶去かつて

喫茶去かつて
住所:岐阜県高山市上三之町92
営業:10:00-17:00 水曜日定休

 

洲さきの外観

料亭洲さき
住所:岐阜県高山市神明町4丁目14番地
電話:0577-32-0023
営業:(昼)11:30~14:00 (夜)17:00~(最終入店は19:00まで)

 

旅館かみなか

旅館かみなか
住所:岐阜県高山市花岡町1-5
電話:0577-32-0451

 

文 : 田中佑実
写真 : 今井駿介

庭を知ると旅が10倍楽しくなる。「知覧武家屋敷庭園」の巡り方

日本各地にある庭園や名勝は、定番の観光スポット。でも、旅先で何となく訪ねて帰ってしまっていませんか?

一見すると見逃してしまいがちですが、実は庭にはその時代を生きた人々の足跡が残されています。当時の文化や歴史、人々の生活に思いを馳せることができる場所なんです。

知れば知るほどに面白い、産地の庭を訪ねる「さんちの庭」。

今回は、NHK大河ドラマ「西郷どん」でも注目が集まる鹿児島の庭園を紹介します。

江戸時代の武家屋敷にタイムスリップ

訪れたのは知覧武家屋敷庭園。7つの庭園からなる国指定の名勝です。

庭園がある南九州市知覧町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、「薩摩の小京都」とも呼ばれている地域。そこには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景色が広がります。

知覧武家屋敷庭園
電柱が全くない、開けた町並み

今回、案内くださったのは、庭園を管理されている知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合代表の森重忠 (もり しげただ) さん。

森さんに武家屋敷庭園ができた経緯についてたずねると、「江戸時代、薩摩藩は領地を113に区分けをして、102の城をつくる『外城 (とじょう) 制度』の下に統治されていたの。その城の麓に武家集落を作り、半農半士という形で武士を散らばせていた。知覧もその一つ。そうやって半官半民のようにしていたのは、一揆を起こしにくくするという理由もあったんじゃないかと思うよ」と教えてくれました。

一つの城に収まりきらないほど多くの武士たちが薩摩各地に散らばり、いざ戦というときに本城である鶴丸城に集結する。

森さんによれば、武士の数は薩摩が日本一だったんじゃないかとのこと。

一国一城が当たり前の時代に、こうした統治制度を活用していたとは、さすが武士の国、薩摩です。

武家屋敷ならではの見どころがいっぱい

最初に案内いただいたのは1741年に造られた森重堅庭園。他の6つの庭は枯山水なのに対し、こちらの庭園は水が引かれた池泉式の庭園になっています。この庭園が最も山に近く、水が引きやすかったためだそう。

奇岩や怪石でできた岩山は、近くの連山に見立てているのだとか。そうやって見ていると、そのスケールの大きさに驚かされます。

知覧武家屋敷庭園

これは、まだまだほんの序の口。知覧武家屋敷庭園ならではの見どころは、まだまだたくさんあります。

森さんと一緒に風情ある町並みを歩きながら、その見どころを巡っていきましょう。

体は位を表す!? 門と石垣が表すもの

さっそく「この門見てみて」と森さんが指さしたのが、こちら。

知覧武家屋敷庭園
ん?なんの変哲もない門のようですが‥。

「門に肩があるでしょ。肩があるのが本家門」と森さん。

知覧武家屋敷庭園
この部分が門の「肩」。左右にあります
知覧武家屋敷庭園
こちらは分家門。肩のない、シンプルなつくりです

「石垣でも位を分けている。丸い玉石と四角い石があるでしょ」

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園

四角い切り石の方が丸石の石垣よりも格式が高い家なんだそう。門と石垣の組み合わせで位がわかったといいます。

道にも武家集落らしい工夫が

散策を続けていると、「この道を見てみて。掘ってあるんですよ。なぜ掘ってあると思う?」と森さん。

知覧武家屋敷庭園
たしかに、道の部分は屋敷よりも一段低くなっています

これは、排水のためだそう。道を低く掘ることで、屋敷に溜まった水が道に流れていくようになっています。何とも理にかなったつくりです。

三叉路に差し掛かると、石垣の合間に巨大な石を発見。「石敢当 (せっかんとう) 」というようですが、これはいったい‥?

知覧武家屋敷庭園

すると、森さんが答えを教えてくれました。「これは魔除け。悪魔や災いは来るなよって、三叉路の突き当りに置いてある。悪霊とかはまっすぐにしか行けなくて曲がれないものらしい」

石敢当は中国発祥の信仰で、江戸時代に琉球を経由して薩摩に伝わってきたものだそう。知覧にはこうした石敢当が十数個あります。

さらにてくてく歩いているうちに気がついたのが、まっすぐでない道が多いこと。

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園

これは、万が一敵が攻め込んできた場合、敵の勢いを削ぐためなんだとか。まっすぐにしか飛ばない弓矢も角の向こうまでは届きません。武士ならではの発想です。

門をくぐった先にも垣間見える武士の魂

庭園の外から楽しめる見どころを巡ったら、いよいよ内側へ。

門をくぐったところに立ちはだかる石垣は、「屏風岩 (ひんぷん) 」と呼ばれる琉球由来のもの。

知覧武家屋敷庭園
入口から守りが堅いのは武家屋敷ならでは!?

「これは屋敷の中に弓矢を射ることができないようにするため。それと、敵が屋敷に一斉に押し寄せても分散されるでしょう」と森さん。

さらに、生垣にも武士の屋敷らしい痕跡がありました。イヌマキという針葉樹でできた生垣は、風通しがいいだけでなく、防御力もあるというのです。

知覧武家屋敷庭園
「外からは中の様子が見えないでしょう」と説明してくれる森さん
知覧武家屋敷庭園
ところが、内側からは森さんの赤いジャンパーがうっすら見えます。しかも、この生垣はやわらかくてよじ登ることができないそう

入口から振り返ると、門の脇には小屋があります。

知覧武家屋敷庭園

これはなんと、かつてのトイレなんだとか。

知覧武家屋敷庭園
トイレだった証拠に、すぐそばに手水鉢がありました

「入口近くにトイレがあったのは、はじめて訪問したお客さんでも気兼ねなく使えるためと、外を通る人の気配や声をキャッチできるため。情報収集の場所でもあったわけです。

それと、『薩摩武士たる者、常に先陣に立て』こんな言葉もあります。門を出るときに用を足しておけば、他の者より先へ先へ行ける。理にかなっているでしょう」

続いて、屋敷を見ていきましょう。屋根にご注目を。

知覧の屋敷は「知覧二ツ家」という独特のもので、居住用の「オモテ」と台所のある「ナカエ」の2棟の建物を合体させた形になっています。2つの屋根の間に小棟 (こむね) を置いてつないでいるのが特徴です。

知覧武家屋敷庭園
森さんによれば「屋根に瓦がついていたら武家、瓦がなかったら農家」とのこと
知覧武家屋敷庭園
中には少しスッと反った形をした唐風の屋根も
知覧武家屋敷庭園
男女で玄関がわかれるのも武家屋敷らしい。左が男玄関、右が女玄関

武士らしさの中に垣間見える風流

武家屋敷らしさという点では、この平山亮一庭園は見逃せません。

住まいの外側に縁側がある「ぬれ縁」。雨戸の戸袋がどこにあるか、わかりますか?

知覧武家屋敷庭園

実は戸袋はないんです。その代わり、この角の部分でクルッと雨戸を方向転換できるようになっています。その名も「雨戸返し」。

知覧武家屋敷庭園

「これは死角をなくすため。戸袋があると、曲者が隠れる場所をつくってしまうでしょう」と森さん。見通しをよくするために戸袋をなくしてしまうという、斬新なアイデアです。

さらに、角部分にある棒は取り外し可能。男性が留守にしている日中、家を守る女性が不審者を撃退するための武器として使われたといいます。

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園
この細長い水鉢は、刀や槍についた血を洗うためのものなんだとか。さすが武家屋敷です

時代を動かした薩摩藩士たちの勇ましさを随所に感じる一方で、庭園を見渡すと趣を感じずにはいられません。

知覧武家屋敷庭園
庭に点々と並ぶ石は、いったい何でしょう?

実は、これらの石は盆栽を置くためのもの。盆栽の位置を日々変えることで、和歌を詠む題材を変えて楽しんでいたのだそう。何とも風流な遊びです。

さらに、こちらの庭は後ろに見える山々を借景としているといいます。

知覧武家屋敷庭園
普通に見るとイマイチよくわかりませんが、少しかがんでみると‥
知覧武家屋敷庭園
左奥の生垣の2つのコブが背後の山の稜線と重なり、連山のように見えます。昔の人の平均身長は150㎝ほど。その目線に合わせて計算された庭づくりには脱帽してしまいます

こうした素晴らしい庭が生まれた背景には、どうやら知覧の薩摩藩士たちのルーツが関係しているようです。

「知覧に移り住んだ武士たちは、平家の末裔と言われている。資金があったからこそ、これほどのものが造れたんじゃないかと。私が小さいころは、この辺のおじいちゃん、おばあちゃんは皆、きれいな京都弁だったよ」と、森さんは振り返ります。

知覧武家屋敷庭園
西郷恵一郎庭園には、「鶴亀の庭」の別名も。鶴と亀が同居する、おめでたい庭です
知覧武家屋敷庭園
サツキと石で水の流れを表現している平山克己庭園。どこを切り取っても庭園としての調和がとれています

知覧の人々で守ってきた庭と町並み

江戸時代に造られた立派な庭と町並みが、当時の姿を残したまま見られるのは稀有なこと。そもそも、どうして残っているのでしょう?

「それはここに住んだ人たちが残していったからなんだよね。知覧の庭も町並みも、行政じゃなくて住民たちで管理している。入園料は、7つの庭園だけじゃなくて周辺の家々の手入れにも使っているから、風情ある町並みに保たれている。そして、毎日みんなが掃除をするからきれいなの。そういう取り組みを、きっとどこよりも早く始めたから今でも残っているんだよ」と森さん。

知覧の人々が武家集落の町並みを守り継いでいけたのは、外城制度で育まれた地域意識や結束力が根底にあったのかもしれません。

そんな江戸時代の面影が残る知覧の町。ぜひその町並みを歩いて、江戸を生きた薩摩藩士の暮らしを肌で感じてみてください。

<取材協力>
知覧武家屋敷庭園
http://chiran-bukeyashiki.com/
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡13731-1
TEL:0993-58-7878

文:岩本恵美
写真:尾島可奈子

わたしの一皿 富士吉田のうつわ

宝くじが当たったらどうするか。いつも考えてしまう。世界中行きたいところだらけ。蒐集もやめられないから買いたいものだらけ。

ついワクワクしちゃうけど、実は宝くじは買わない。みんげい おくむらの奥村です。

当たってもらいたいものは当たらないのに(買わないから当然だけど)、あたってほしくもないものは勝手にあたる。食材の話。

たとえば先月取り上げたサバ、そして今日の食材カキ。過去を振り返ればどちらにも派手にあたってます。あたると本当に辛い、でもやめられない。不思議なもんだ。

今日は寒い、寒いところから地元の市場に届いたカキ。北海道のサロマ湖から。サロマ湖は汽水。海水と淡水がまじった湖で、北のゆたかな海と大地の栄養が存分に蓄えられている。

もうそれだけでずいぶんと期待が高まりますが、ここのカキは漁協が独自にノロウイルスの検査をしているそうで、安心感もある。

どうやって食べようか。もちろん生でいけるけど、個人的にはちょっと加熱してさらに甘みが出たものが好きだ。ということで蒸すことにする。焼きもよいが、蒸すほうが味のバリエーションも付けやすいので個人的には好き。

どう食べるでも、まずはカキの殻を洗う。海藻やら付着物を取って、少し身ぎれいに。最近のものはもともときれいにしてあるものが多くそんなに神経質に洗うこともないが、手にずっしりくると、ぎゅっと詰まった身を想像してつい顔がほころぶ。

牡蠣を洗う

マニアックな話になって申し訳ないが、二枚貝をむくのがとても好きだ。これは実に経験を要する技術。

カキなら、貝の上下、貝柱の位置がポイントで、貝剥き(家にありますか?)を差し込み、最短でもっとも美しく貝を開けるその瞬間に人生の歓びすら感じるのであります。

せっかく閉じ込められていた汁を全てこぼしてしまったり、貝柱がうまく切れずみじめな姿になってしまうとしょげる。今日はうまくいった。そして実はこの段階で一つ生で食べています。やっぱり生もうまいうまい。

ところで、食卓にそのままうつわとして出せる調理道具というのがある。例えばすり鉢。白和えを作ってそのまま出したっていい。今日もそんな道具だ。竹ザル。貝を乗せて鍋に入れて蒸す。

蒸しあがった牡蠣

そしてそのまま食卓に。見た目がとてもよい。竹ザルはそばぐらいなら使うという方、それだけじゃもったいない。敷紙を敷いて揚げ物を乗せたって美しい。うつわとしてもずいぶん頼もしい道具なんです。

今日使った竹ザルは富士山麓で取れるスズ竹を使ったもの。年配の熟練の編み手が多い中、若い編み手さんにお願いしているもので、サイズ違いで持っているととにかく便利。

全国的に多い真竹のものに比べると、やわらかくしなりの強さを感じるのが特徴。スズ竹は、竹を採取してすぐに編むことができるので編み立てのカゴは青々とした美しさが。使い込めばだんだんと色が落ち着き、茶色、飴色っぽくなっていく。うちのはこれで3年目。少し落ち着いてきました。

牡蠣の寄り

鍋に合う大きさのザルにカキを並べて酒や調味料を。今日は中華風。ごま油と刻んだ豆豉(トウチ)を効かせて、あしらいには豆苗を。生でも食べられるカキだから蒸し加減には気をつけて。蒸しすぎて小さく硬くなってしまっては意味がない。

蒸しあがったらまずは殻にたまった汁をずずり。クラクラするほどの旨味。あとは大ぶりの身を一気に口に放り込む。ほっぺたの内側からまたも旨味の応酬。とぅるりと消えてなくなった後も海の余韻がしばらく続く。

竹ザルの上の蒸し牡蠣

なんて贅沢をしてしまったんだ、とあらゆる方面に感謝。もつかの間、二巡目にいきたい。ザルを持って次のカキを盛り、鍋に設置。蒸しガキは一気にやってはもったいない。自分のリズムで何度も出来立てを食べるに限る。これで冬のエネルギーをぐぐっと蓄えて寒さをもう少し耐えるのだ。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

アノニマスな建築探訪 浄瑠璃寺

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

ABOUTはインテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけています。『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介する第3回。

今回も前回に引き続き、国宝である浄瑠璃寺 (じょうるりじ)。

平安時代を代表する、阿弥陀堂建築

所在地は京都府木津川市加茂町西小札場40。建立 永承2年 (1047年)、開基は義明上人 (ぎみょうしょうにん) である。

浄瑠璃寺は京都府と奈良県の県境に位置し、奈良市内からの方がアクセスはよい。平安時代の代表的な阿弥陀堂建築である。

平安中期に末法思想が世に広まり、人々は浄土教の教えから死後に極楽浄土に生まれ変わることを願って、方三間 (9坪) の阿弥陀堂や九体阿弥陀堂 (くたいあみだどう) などが数多く造られた。

藤原道長が治安2年 (1022年) に法成寺 (ほうじょうじ) に無量寿院を造立したのが九体阿弥陀堂の始まりとされている。極楽往生の仕方は生前の業により九段階あるとされ、九体の阿弥陀様を祀ることによってこれらすべての人が救われることを願った。

九体阿弥陀堂は30棟ほど造られたようだが、応仁の乱や内乱によって焼失し、現存するのは浄瑠璃寺の本堂だけである。

奈良市内から浄瑠璃寺までは車で約30分ほど。駐車場に車を止め、土産物屋さんの前の道が参道である。道中にはお茶屋さん。お正月を終え参道の植木は刈り込まれていたが、南天の赤い実が綺麗に色づき、冬を感じさせてくれる。

浄瑠璃寺の「包み込まれるような」感覚は、なぜか。

まず見えてくるのが山門。作りは非常に簡素であるが高さが抑えられているため、結界のような役割を果たしている。
山門をくぐると宝池だ。

三方が小高い丘に囲まれたコンパクトな境内で、右手に本堂、中央に宝池、左手に三重塔がある。

宝池は、梵字 (ぼんじ) の阿字 (あじ) をかたどっていると言われ、東側には薬師如来坐像を安置する三重塔が、
対岸の西側には本尊の九体阿弥陀如来を安置する本堂が置かれている。

これは薬師如来を教主とする浄瑠璃浄土 (東方浄土) と、阿弥陀如来が住むとされる極楽浄土 (西方浄土) の世界を表現しており、参拝者はまず日出づる東方の三重塔前で薬師如来に現世の救済を願い、そこから日沈む西方の本堂を仰ぎ見て、理想世界である西方浄土への救済を願ったものである。

堅苦しい説明はこのぐらいにして、まず浄瑠璃寺に身を置いて感じるのは安定感。

一番外側に見えるのは円形の空。その空を形どるのは大きな木々。そして一段下がった雑木林の木立、中央には宝池。高いところから何重にも重なったレイヤーのお陰で、包み込まれているような感覚を覚えるのである。

また、全体の配置も秀逸で、単なる平面計画ではなく、階段や、緩やかな坂道、下り坂など高低差をつけることにより、
多様なシーンをコンパクトな敷地の中で創り上げている。

また庭の道も一本道ではなく選択肢が用意されているところも、浄土への道のりのように感じてならない。

三重塔の前、そして本堂の前には、それぞれ一基ずつ石灯籠が置かれ、二つの石灯籠の延長線上には三重塔と本堂がちょうど中心に来るように結ばれる。

阿弥陀如来像 – 本堂 – 石灯籠 – 宝池に浮かぶ小島 – 石灯籠 – 三重塔の薬師如来像が一直線上に配置される。

日本の寺社仏閣は目に見えない軸線が時として現れることがある。今回は石灯籠の穴からの眺めがそれである。

寒さも、なにも、すべてを忘れるほどの阿弥陀如来像に出会う

本堂の中には横の受付側から入ることができる。参拝料を払い、靴を脱いで本堂の裏側の縁を回り本堂に入る。伺った日は宝池に氷が張るほどの寒空で、素足で本堂に入る頃には足の感覚はほぼなく、障子を開ける手はかじかみ、少しでも早く暖かい場所に行きたいと‥‥。

しかし本堂に入って九体阿弥陀如来像に対峙すると、足の感覚や、手のかじかみなどは忘れ、障子越しに入る間接光に薄暗く照らされた阿弥陀如来像の、一体一体全く違う表情や美しさに心を奪われてしまう。

本堂の中は撮影禁止のためここで紹介することができないのが残念で仕方ないが、ぜひ冬の夕暮れ時に本堂の中に入ってみていただきたい。

障子越しの夕日に照らされた金色の阿弥陀如来像は、まさに極楽浄土にいるかのような錯覚を覚えてしまうはずだ。

佛願 忠洋 ぶつがん ただひろ 空間デザイナー/ABOUT
1982年 大阪府生まれ。
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、
副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。
私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

文・写真:佛願忠洋