こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は自転車の世界的なフレームビルダーのある挑戦についてお届けします。
ある日の午後、神宮前を歩いていたら独特のフォルムの自転車が目に入って、思わず立ち止まった。滑らかな弧を描くフレームがハンドルから後輪へ流れ、そのフレームの上にサドル (座る場所) がちょこんと収まっている。自転車の素人の僕にはまるで乗り心地を想像できないけれど、ショーウインドー越しに見ているだけで未来を感じさせる、ワクワクしてくるようなデザインだった。
「Humming Bird」と名付けられたこのユニークな自転車のブランドは、その名を「CHERUBIM(以下ケルビム)」という。1965年、日本の自転車フレームビルダーのパイオニアとして知られる今野仁さんが創業。世田谷区にアトリエを構え、競技用フレームの制作を始めたのがその成り立ちだ。1968年のメキシコ五輪の際には、日本代表選手に競技用自転車を提供し、日本新記録と6位入賞という快挙を陰で支えた。
そして現在、父からケルビムを受け継いでいるのが、2代目の今野真一さん。神宮前にあるケルビムのショップで僕が見惚れた「Humming Bird」を生み出した男である。今野さんは、生涯獲得賞金が27億円を超え、「走るレジェンド」と呼ばれる神山雄一郎選手など多数の現役競輪選手たちのフレームを製作していることでも知られる。競輪選手の自転車は、1ミリ単位での調整が求められる精密マシンだ。
類まれな独創性と圧倒的な技術力を兼ね備える今野さんの原点を知りたくて、東京・町田にある本店を訪ねた。
工場が遊び場だった子ども時代
今野さんが生まれたのは、メキシコ五輪から4年後の1972年。「見渡せば自転車ばかり」という家で「工場 (こうば) が遊び場だった」。物心ついたときには、自分で自分の自転車をカスタマイズするようになっていた。
「雑誌もいっぱいあったから、参考にしながらタイヤを変えたり、チェーンを変えたり。性能がいい、悪いはわかんないから、小学生ながらにもブランド志向で、当時、かっこいいと思っていたイタリアのパーツとかシマノのパーツを工場でかき集めていましたね。誰かに教えてもらってというよりは、自分でやってみて、わかんないことは聞きにいって」
真剣に取り組む、というよりは、毎日の生活の延長線上で自転車について学んでいった今野さん。中高時代は若者らしくバイク、サーフィン、音楽などほかの遊びに夢中になりながらも、自転車に乗り続けていた。高校卒業後は「自転車の設計にも役立つかな」とパソコンのプログラミング関係の専門学校に進学。卒業後、20歳の頃には実家のアトリエで働き始めた。
「子どもの頃から、ずっと、いずれはこの仕事を継ぐんだろうなと思っていましたから。そのとき、親父とふたりの職人さんで仕事をしていたんだけど、職人さんのひとりが辞めるというタイミングも重なって」
自転車の販売に注力するも‥‥
自転車のフレームビルダーの仕事は、多岐にわたる。設計に始まり、旋盤などを使った機械加工、溶接、仕上げまで自転車にまつわるすべての作業をひとりでできるようになって一人前だ。
当時、自転車の素材として安価で軽量なカーボンやアルミのフレームが主流となり、炭素鋼 (鉄) にクロムとモリブデンを加えた合金「クロモリ」を使うケルビムのオーダーメイドの自転車フレームをつくる事業は下火になっていた。メーカーの下請け仕事もあったが、生産の拠点が中国や台湾に移っていく時期で、売り上げは下降線をたどっていた。
経営者の父・仁さんにとっては苦しい時期だっただろうが、工房のスケジュールにも余裕があるなかで、今野さんは先輩の職人さんからじっくり技術を学ぶことができたと振り返る。すべての工程の技術を一通り身に着けるまでに、だいたい5年間。その間に、ケルビムの方向性も徐々に変わっていった。それは、「パーツを組んだりばらしたりするのが得意だった」という今野さんの存在が影響している。
「父親はフレーム作ってそれを売るという対プロの仕事がメインでした。要するに、自分で組み付けできる人にしか売らなった。でも、僕が入社してからは完成車の状態で渡せるようになったので、一般のユーザーにも売れるようになったんです。それで、一般の方への販売にも力を入れていこうって」
今野さんが30歳になる頃には先輩職人も工房を離れ、ケルビムは今野さんが組んだ低価格帯の自転車や、初心者向けの自転車、輸入自転車を仕入れて店頭で売る、プロスポーツショップに舵を切っていた。この決断によって一般ユーザーのお客さんが増えて経営は持ち直したが、今野さんは次第に、「何か違う」と思うようになっていった。
「全部がイヤになって」一大決心
量販店ではない小規模のショップでブランドものの自転車を売るというビジネスには、ノルマなどさまざまな制約があった。他のショップとの値引き合戦や価格勝負も性に合わなかった。なによりもストレスだったのは、10万円で自転車を仕入れても、新しいモデルが出ると「型落ち」扱いになり、仕入れ値より低い価格で売らざるを得なかったということ。自分で自転車を作ってきた今野さんにとって、自動的に短期間で価値が落ちる自転車を売ることは「寂しかった」という。
この時期、今野さんは父・仁さんと頻繁に衝突していたそうだが、それは恐らく、ショップ事業に対する不満や「このままでいいのか」という不安、疑問が互いの胸中に渦巻いていたからではないだろうか。そのうち、「全部がイヤ」になってしまった今野さんは、腹をくくった。
「僕がずっとやりたかったのは、ケルビムで最高のフレームを作ること。車だったら、多分、フェラーリに乗っている人って車を持っている人の1%にも満たないでしょう。でも、1%でもいいから、そこをターゲットにやっていきたいという思いがありましたし、作ることに関して妥協したくなかった。だから、ショップじゃなくて、自分のブランドだけでやってこうと決めたんです」
この決意は、低迷期を乗り越えて築き上げたショップ事業の縮小につながる。さらにいえば、軽量で安価な自転車の量販化と海外生産が進むなかで、高度な溶接技術を要し、重くて高価な「クロモリ」を使った自転車が売れなくなり、職人もどんどん引退しているという状況で、今野さんいわく「時代に逆行しているのは確かだった」。それを父・仁さんがどう感じたのかいまとなってはわからないが、ふたりの言い争いはさらに激化し、険悪な雰囲気が立ち込めていたという。
転機をもたらした奥さんの一言
それも、ケルビムブランドの一新を目指す今野さんを押しとどめる理由にはならなかった。今野さんが素材や塗装などにこだわり抜いて組んだフレームが売れ始めたのだ。
「だんだん、僕のフレームを欲しいというお客さんが増えていったんです。いま思えば僕がやっていることを面白がってくれていたんだと思うけど、そのときは『お客さんもわかってくれるんだ』って前向きに勘違いしてたから (笑) 、手応えを感じましたね」
父・仁さんとの冷戦状態は続いていたが、そんなことはお構いなしに、今野さんは「会社の人は誰も手伝ってくれないから」とひとりで展示会への出展を始めた。すると、日本を代表するハンドメイドビルダーが集う「ハンドメイドバイシクル展」などでも高い評価を得るようになり、ますます自信を深めていった。
独自のセンスを持つフレームビルダーとして頭角を現すようになった今野さんに大きな転機をもたらしたのは、奥さんの一言だった。2006年頃から毎年、今野さんのもとに英語で手紙が届くようになっていた。今野さんはそれが招待状らしきものとはわかっていたものの、「面倒だなー、うさんくさいなー」と思って無視していた。
ちょうど同じ頃、日本の自転車愛好家の間ではアメリカで開催される世界最大の自転車の祭典、北米ハンドメイドバイクショー「NAHBS」の話題が出るようになっていた。あれ、と思って手紙を確認すると、その招待状は「NAHBS」からのものだった。そのとき、今野さんは「まずは、見に行ってみるか」と思ったそうだが、その話を奥さんにすると、奥さんはこう言った。
「見にいくなら、出したほうがいいんじゃない?」
確かに!とひざを打った今野さんは、アメリカに向かう直前の2週間で繊細な曲線を持つ細身のシルバーフレームの自転車を作りあげ、「PISTA」と名付けて出品した。2009年、37歳のときのことである。
「NAHBS」から拡がった可能性
インディアナポリスで開催された「NAHBS」の会場についてみると、出展している日本人は自分ひとりしかいなかった。右も左もわからず不安もあったが、それよりも会場の雰囲気に胸が躍った。来場者の多くが自分で自転車を作っていたり、作ろうとしている人たちで、ビルダー向けの講座が開催されていたり、道具も販売されていて熱気に満ちていた。
「PISTA」に興味を示す人も多く、マニアックな質問を次々と投げかけられた。「これはすごい!」とテンションが上がった今野さんも、面白い自転車を見つけるとビルダーに話しかけて情報交換をしたり、気になる部品を購入した。3日間の会期をすっかり満喫した今野さんだが、最終日にさらなるサプライズが待ち受けていた。
「NAHBS」ではグランプリにあたる「The Best of Show」などさまざまな賞が参加ビルダーたちに授与されるのだが、今野さんの「PISTA」が「Best Track Frame」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠に輝いたのだ。初出品での2冠によって、今野さんは気鋭のフレームビルダーとして国内外で注目を集めるようになった。その追い風に乗って、今野さんの活躍のフィールドは広がった。
2012年には、イギリスに拠点を置く世界的デザイン集団「TOMATO」を主宰するSimon Taylorとのコラボレーションから生まれた自転車「Humming Bird」が、NAHBSでグランプリ「The Best of Show」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠を獲得。
昨年は、イタリアの老舗チューブ (鋼管) メーカー「コロンバス」によって5大陸を代表するビルダーのひとりに選ばれ、今野さんが同社のチューブで作ったフレームがミラノで開催された国際美術博覧会「トリエンナーレ・デル・デザイン」に展示された。
「和」の感性を磨くために
NAHBSではこれまでに計7回受賞し、いまや海外での売り上げが3~4割に及ぶ。子どもの頃、工場で遊びながら自分の自転車をカスタマイズしていた少年は、世界にその名を知られるビルダーになった。だが、探求心は尽きることを知らない。
「海外に行くと、僕のフレームはすごく日本的だと言われるんです。『和』の要素はまったく意識していなかったんですけどね。日本に戻ってから何が日本的なのかと探るようになって、僕の自転車の特徴であるゆるやかな曲線やシンプルなブランドマークの張り方が、禅とかミニマリズムに通じる欧米のビルダーにはない感覚だと気付いたんです。僕はデザインの勉強なんてしたこともないから、これはきっと日本人が昔ながら持っているDNAなんでしょう。だから、もっと『和』の感性を磨きたくなって、いまはお茶を習っているんですよ (笑) 」
世界広しと言えども、茶道を学ぶフレームビルダーはほかにいないだろう。まだ、奥深き茶道の世界の一端に触れたに過ぎないが、それでも新たな気づきがあったという。
「茶道って決まりごとが多すぎるんですけど (笑) 、それをマスターしてからの自由があるらしいんですよ。型があるからこそ、そのなかで際立つ自由を楽しむ文化がある。それを知って、僕は修行時代に父親から型を習ってたんだなって思ったんです。
修業時代は、お客さんがオーダーしてきた歴史あるフレームをひたすら作っていました。自転車って200年以上前からある道具だから、デザインや部品全てに意味と理由があるんです。そのフレームを作りながら、なんでこうなってるんだろう、ここの処理はどうなってるんだろうってひたすら考えながらやっていた。自転車の型にどっぷり浸かった時期があるから、いま自由に作るなかで個性を出せるのだと思います」
祖母が授けた天使の羽
今野さんのいう茶道の教えとは「守破離」だろう。型を守って習得し、修行を積むなかでより自分に合った道を求めて師匠の型を破ることで、もとの型から離れて自在になるという。確かにこれまでの歩みに重なるものであり、今野さんのこれからにも通じていく。
稀代のフレームビルダーが抱く野望。それは「いまある自転車の型を超えること」。その挑戦の軌跡が、「NAHBS」での数々の栄誉につながっている。もちろん、今野さんは自転車の歴史に名を刻むような斬新なアイデアがそうそう浮かんでくるとは思っていない。しかし、考え続けなくては、何も生まれない。
「これをやってみたいとか、ああしたいとうのはエンドレス。それでいつか『型』を超えたいし、型の素晴らしさもさらに理解したい。そこがやっぱり面白いから」
取材を終えてから、ふと今野さんから聞いた「ケルビム」という社名の由来が頭に浮かんだ。「CHERUBIM」という綴りはヘブライ語で、聖書に出てくる天使の名前。仁さんが兄弟と一緒に起業する際に、もともとクリスチャンだった今野さんの祖母が命名したという。
帰り道、ケルビムがどんな天使か気になって検索すると、「その中には4つの生き物の姿があった。 (中略) 生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた」という記述を見つけた。
「天使に乗るってどうなの、と言われることもあるんですけどね (笑) 」と今野さんは苦笑していたが、僕は、あ、と思った。今野さんのおばあさんはきっと、「車輪でどの方向にも速やかに移動することができた」という天使の羽を息子たちに授けたのだ。その羽を受け継ぐ今野さんなら、自転車の歴史という揺るぎない壁を越えられるのかもしれない。
<取材協力>
CHERUBIM ケルビム 今野製作所
町田本店:東京都町田市根岸 2-33-14
042-791-3477
文・写真:川内イオ
*こちらは、2017年8月15日の記事を再編集して公開しました。