そろばんがなくなる?日本一の産地・兵庫県小野市に生まれた「新たな可能性」

かつて、計算の道具として人々の生活に欠かせなかった「そろばん」。

最近では計算力や集中力を高める効果があると注目を集め、あらためて習い事としての価値も見直されているところです。

しかし、長く続いた需要の低迷を受けて、つくり手である職人の数も少なくなり、このままではそろばんづくりが続けられない、という危機的な状況も生まれています。

そんなそろばんの「今」を知る人を、生産量日本一の産地に訪ねました。

生産量日本一「播州そろばんの町」兵庫県小野市

大きなそろばんのモニュメント
大きなそろばんのモニュメント

そろばんの二大産地の一つ、兵庫県小野市。

ここで安土桃山時代から製造が始まったとされるのが、生産量で日本一を誇る「播州そろばん」です。

昭和35年の最盛期には、年間360万丁もつくられていた「播州そろばん」。

その現状について、明治時代に創業し、そろばんの製造販売を手がけてきた株式会社ダイイチの宮永 信秀社長に聞きました。

株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長
株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長

習い事としてのそろばん・珠算の可能性

「最近は、そろばんを習いはじめる子どもたちの年齢がどんどん下がってきています」

以前であれば、小学校3年生ごろに受ける珠算の授業が、そろばんに触れるはじめての機会という子どもがほとんどでした。

今は、年齢が小さいほど力を引き上げてやれる。と考える親が多いのか、3~4歳くらいからはじめる子どもが増えたんだそう。

ワークショップでつくるカラフルなそろばん
ワークショップでつくるカラフルなそろばんは子どもに人気

「脳や学力への影響を実証するのは難しいですが、そろばん自体はさておき、珠算教育の効果は確かにあると個人的には考えています。

珠算では、問題を読み、読み上げた数字を指で弾き、出てきた答えを紙に記入する。これを決められた時間の中で完結させることが求められます。

一定時間、座ってしっかりと集中する。それが習慣となれば、そのほかの勉強の場面でも集中力が発揮できる。ということは実感しています」

電卓の登場。全国の珠算塾の減少。さらに子どもの数自体も少なくなっている。

こうした状況にありながら、そろばん・珠算教育の価値が見直されてきた関係で、再びそろばんの需要が増えている地域もあるとのこと。

「弊社の実績としても、わずかではありますが、増えつつあります。

ただし、子どもの数自体は少なくなっているので、大幅な増加は見込めないと思っています。

この技術をきちんと守りながら、海外輸出なども少しずつ始めているところです」

ダイイチ 宮永社長

計算の道具から教育に欠かせない道具へ。

一度は役目を終えたかに思えたそろばんが、再び脚光を集めようとしています。

そろばんは、四分業制でつくられる工芸品

道具としての役目を変えつつあるそろばん。しかし熟練の職人が手作業でつくり上げる工芸品は今、存続の危機を迎えています。

工芸品としての美しさもある「播州そろばん」
工芸品としての美しさもある「播州そろばん」

「播州そろばんは、四分業制でつくっています。

そろばんの珠(たま)を削る職人。削られた珠に染色して竹ひごが通る穴をあける、珠仕上げの職人。竹ひご自体をつくる職人。そして最後に組み立てる職人。

それぞれ専門の職人の力が合わさってそろばんが完成します」

と宮永さんが言うように、一人だけでは完結しないのがそろばんづくりの難しいところ。

ダイイチも、社内にいるのは「組み立て」の職人のみで、その他の工程はそれぞれ外部の職人にお願いしてつくっています。

ダイイチの組み立て職人さん
ダイイチの組み立て職人さん
珠を竹ひごに通していく作業
珠を竹ひごに通していく作業

「各工程、使う道具や機械もことなり、それぞれ熟練した感覚と経験が必要です。

過去を遡っても、全工程をひとりでまかなった職人は、いないと思います」

たとえば、珠を仕上げる職人が担当する染色と穴あけ。

なんとなくシンプルで簡単そうにも思えますが、寸分違わず綺麗な穴をあけていくには相当の技量が必要。一朝一夕には身につきません。

そろばんは、珠が動き過ぎても、逆に動かなすぎても使い勝手が悪くなるもの。

播州そろばんでは、理想の使い勝手を追求した結果、珠の穴の直径は3.05ミリ、そこに通す竹ひごの直径は2.95ミリと明確な基準が定まっています。

この穴を開けるのが、難しい
この穴を開けるのが、難しい

「年間に360万丁をつくっていた時代には、四分野それぞれに何十軒と会社があり、競い合っていました。

大量につくりながら、品質も高めていくには、分業が理にかなったやり方だったのだと思います」

需要の高まりを受けて確立されていった分業制。専門の職人の技能は向上しましたが、今では後継者不足という大きなリスクを抱えることになりました。

竹ひご職人はあと一人。危機的な状況

四分野の職人は、どれくらい残っているのでしょうか。

「珠削りは60代と80代が1名ずつ。珠仕上げも同じく60代と80代が1名ずつ。竹ひごづくりは70代の職人があと1名だけ残っています。

組み立ての職人は12〜13軒前後と、比較的多く残っていますが、法人として運営しているのは弊社のみで、あとは個人でやられている方たち。正直、危機的な状況です」

ダイイチ 宮永社長

どこかひとつでも倒れてしまうと、製品自体がつくれなくなってしまう分業制。

播州そろばんにおいては、四分野のうち、三つの分野がいつ無くなってもおかしくない状況となっています。

なお、もう一つのそろばん産地である島根の「雲州そろばん」に関しては、すでに「組み立て」以外の職人が断絶しており、材料を播州から供給している状態なんだそう。

前例はないものの、いずれは自社で四分野すべてをまかなう必要があると、宮永さんは考えています。

「私自身、36歳で小さい子どももいます。まだまだそろばんで飯を食べていかないといけない。当然、先祖代々つないでくれたものを次の世代に残していきたい気持ちもあります」

引退された珠削りや珠仕上げの職人さんから機械を譲り受けるなどして、自社でできる範囲を広げていこうと挑戦している最中とのことでした。

つくったものに名前が残る仕組み

従来のそろばんは、組み立てた職人の名前だけが枠に彫られて商品となっていました。

「作者として、一人の名前しか入っていないので、すべてその職人だけでつくっていると思われがちです。

四分業でやっていることをもっと知っていただきたいし、全員の名前を出すことで、自分の仕事に誇りと責任がうまれるのではないかと思っています」

ダイイチでは、左端の珠に四分野の職人すべての名前を彫った商品を発売しています。

関わった職人の名前を珠に刻んでいる
関わった職人の名前を珠に刻んでいる

やはり自分の名前が残る分野に人が集まりやすく、それが、組み立ての職人が多く残っている要因のひとつ。

現状では後継者不足の解消に直接つながることは難しいかもしれませんが、少なくとも今残っている職人たちのモチベーション向上につながる取り組みです。

使わない人が買うそろばん

その他、ダイイチでは本来のそろばんだけでなく、そろばんの技術や素材をいかした商品の開発・販売も積極的におこなっています。

ストラップや時計、知育玩具にアクセサリーまで。社内の意見を吸い上げつつ、まずは形にしてみることを大事にしているそう。

さまざまな商品を開発・販売している
さまざまな商品を開発・販売している
そろばんの珠をつかった時計
そろばんの珠をつかった時計

「そろばんの珠、竹ひごなど、そろばんのパーツを使う前提ですが、なにかそろばん以外の可能性があるんじゃないかと考えています。

売れる商品が増えれば職人の仕事も増やせますし、後継者育成にもつながるかもしれません」

5と9しかあらわせない、合格祈願のストラップ
5か9しか示せない、合格祈願のストラップ

「使わない人がそろばんを買う時代がくる」

宮永さんの父で、ダイイチの現会長はよくこんな風におっしゃっていたそう。

計算の道具としての役目が終わっても、きっとそろばんを必要とする人、魅力に思う人が出てくるはずと、考えられていたのかもしれません。

播州そろばんのこれから

喫緊の課題である後継者不足の問題は非常に大きく、その解決は一筋縄ではいきません。

それでも、少しずつ糸口は見えてきています。

ダイイチには、20代と10代の職人が一人ずつ入社しました。

2人の若い職人が働いている
2人の若い職人が働いている
ダイイチのそろばん職人
ダイイチのそろばん職人

今は「組み立て」を学んでいる彼らが、いずれはほかの工程にも習熟していけるかもしれない。

「仕事が楽しい」と話す彼らの後に続く若者がまだまだいるかもしれない。

若い職人がいきいきと働く姿を見ていると、そんな明るい可能性を感じずにはいられませんでした。

<取材協力>
株式会社ダイイチ
兵庫県小野市垂井町734
http://daiichi-j.com/

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年3月1日の記事を再編集して公開しました。そろばんに長けた人は、10桁以上の暗算もできるそうです。絶やしたくない道具ですね。

「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは

戦国時代に名を馳せた伝説の石積み職人「穴太衆」

自然にある石を加工しないままに積み上げ、石垣をつくる。

この「野面積(のづらづみ)」という技法を得意とし、戦国時代、日本中を席巻した職人集団がいました。

現在の滋賀県大津市坂本 穴太(あのう)地区に暮らしていたことから、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工(いしく)職人たち。

彼らがつくる石垣は非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城の築城時に穴太衆を召し抱えるなど、全国の城づくりに大きな影響を与えたとされています。

ただ無秩序に積まれているように見えて、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでおり、地震にはめっぽう強く、豪雨に備えて排水をよくする工夫も備わっている。

坂本の石積み

自然のままの石を使いながら、どうしてそんなことができるのか。その驚異の技を現代の生活にいかす道はあるのか。

現代において唯一、穴太衆の技を継ぐ株式会社粟田建設 15代目の粟田純徳さんに話を聞きました。

石積みの里で穴太衆の技を継ぐ、粟田建設

比叡山の門前町である大津市 坂本。かつての穴太衆が携わったとみられる石垣が町のそこかしこに点在しており、「石積みの里」としても知られています。

石積みの里として知られる坂本
石積みの里として知られる坂本
琵琶湖を望む
琵琶湖を望む

この地で会社組織として存続しているのが株式会社粟田建設です。

最盛期には300人を超えたとされる穴太衆の石工職人ですが、伝承する家は今や粟田家ただ一軒になっています。

粟田家
粟田家

「需要の問題が大きいですね。徳川の時代になって、一国一城令ができてからは新しくお城を建てることもなくなって、メンテナンスくらいしか仕事がなくなり、ほとんどの家は職を変えるしかなかったんだと思います」

粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん
粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん

新規の仕事が減少し、そもそもが丈夫で長持ちであるがゆえにメンテナンスも滅多に発生しない。そんな状況ではほかに仕事を探すほかありません。

一方の粟田家は、比叡山延暦寺をはじめ、近隣の神社仏閣の仕事を引き受けながら今日まで存続してきたそう。

「穴太衆は、石積みだけでなく今でいう土木作業も一手に引き受けてきました。うちの家は幸い、そのあたりも含めてやらせていただきながら技術をつないできました」

自然石をそのまま使い、美しく丈夫に積み上げる「野面積」の秘密

土木作業全般に通じている穴太衆ですが、やはり一番の特徴は「野面積」。自然石をそのままのかたちで使い、堅牢で美しい石垣を積み上げる技です。

粟田建設の周囲には石積みが多く残っている
粟田建設の周囲には野面積の石積みが多く残っている

石積みの技には、「野面積」のほかに、綺麗な形に石を加工して使う「打込みハギ」や「切込みハギ」といった方法もありますが、地震や豪雨への備えを考えた時「野面積」がもっとも耐久性にすぐれていると粟田さんは言います。

「たとえば、穴太衆には『石は二番で置け』という教えがあります。

これは、荷重がかかる位置を必ず石の面(つら)から少し奥のところに持っていきなさいということです。

切込みハギの場合、石の表面をピタッと揃えるので、一番前に荷重がかかってしまう。そういった積み方では、地震などが起きた時に石が滑る可能性があります」

石の表面がピタッと合っている方が、外から見た時にはなんとなく綺麗で、丈夫に見えます。しかし、様々な方向から力が加わったとき、石の面同士がくっついていて遊びがないと、力が分散されず崩れる可能性がある。

話を聞くと、なるほどと感じます。

穴太衆にはこのように、やってはいけない積み方がいくつか伝えられていますが、それ以外にマニュアルなどは存在していません。

形と大きさが異なる自然の石をそのまま使うため、マニュアルに残しようがないのです。

洲本城 南の丸 石垣修復の様子
洲本城 南の丸 石垣修復の様子

「石の声を聞く」穴太衆の真髄とは

学ぶべきマニュアルがない中で、どのように石工として習熟していけばよいのか。

粟田さんの祖父で、13代目だった万喜三さんは「石の声を聞く」と言い残しています。

「要するに、石を見る目を養う。どれだけ石を観察しているかが重要だと思っています」

現場に出て仕事をするうちに、万喜三さんの残した言葉をそう解釈するようになった粟田さん。

粟田純徳さん

「僕らの仕事はまず“石選び”なんですわ。

実際に石垣をつくる現場を見て、そして山へ行って石を選ぶ。自然石なので図面には起こせないし、同じ石はひとつもありません。

自分の頭の中で組み合わせをイメージして、買ってきて現場で置いていきます」

この石選びの段階で、穴太衆の石積みの仕事の八割は終わったと言われるほど、重要な作業です。

穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある
穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある

「石屋の上手い下手は、残った石の量を見ればわかる。とお祖父さんには言われていました。自分の頭の中で組み立てたものと、実際に現場で積んだものとが、どこまで合うのか。

僕たち穴太衆にとっての究極は、たとえば100個の石で完成する石積みがあるとして、山で100個の石を買ってきて、その全てを積み切って最後にひとつも余らないこと。

それが、石積みとしても理想だし、会社としても余計な石を買わずに済むから望ましいですよね」

頭の中で石垣の完成図をイメージし、そのイメージに合った石を山から持ってくる。そしてそれがピタリと合い、ひとつも余らせない。神業のように聞こえます。

個人宅の石垣修復工事の様子
個人宅の石垣修復工事の様子

「もちろん、石がひとつも余らないなんて、不可能なんです。でも、その不可能に近づいていくっていうのが、修行ですよね。

それが、石を見る目を養う、石の声を聞く、っていうことやと思います」

経験を積む機会が減っている

そういった面で、祖父の万喜三さんは本当にすごかったと、粟田さんは振り返ります。

「僕や親父と比べて、石を見る目がかなり長けていたと思います。

ほとんど石を残さなかったですし、指示するところにピタリと石が入りますし。

規格が存在しない自然石を組み合わせるって、やっぱり難しいんですよね。何年もやってきて、今あらためて当時のお祖父さんのすごさがわかるようになりました」

粟田純徳さん

そんな祖父や、祖父とチームを組んでいたベテランの職人たちに、穴太衆の一から十までを教わってきた粟田さん。今、下の世代にどう技術を引き継いでいくのか、悩ましい状況であるといいます。

「自然石を相手にする、マニュアル化のできない仕事なので、基本は現場に出てやってみるしか上達する術がないんです。

特に、石を見る目を養うためには新規の石積みに関わって、石を選ぶところから経験しないと腕が磨けない。

それが、今は新規の工事が少ないのでなかなか教えられない。そこは本当に厳しいと感じています」

個人宅の注文も、かなり減少してしまったといいます。

「今は、石垣を家の前に積もうという方はなかなかいないですし、そもそも新築の日本家屋自体が減ってきているので難しいです。

お城や寺院の修復については、無くなりはしないでしょうが、一度修復すると長持ちしてしまうので、需要自体が増えてきません」

穴太衆の石積みを海外へ

国内の需要拡大を待っていては埒が明かないと、近年、粟田建設では海外での施工に活路を見出しています。

ポートランド日本庭園拡張工事
ポートランド日本庭園拡張工事

「新規の大きい工事として、ポートランドの日本庭園の仕事をやりました。庭園の管理をされているのが日本の方で、その方から声をかけていただいて。

庭園の拡張工事でしたが、建物の方を設計されたのが建築家の隈研吾さんで、ちょうど現場でお話しする機会があり、『今度ダラスで別のプロジェクトがあって、石積みも取り入れたい』とお話しいただいて、そちらもやらせていただくことになりました」

ダラスではビルの外構工事を全て請け負ったそう。現地で取れる花崗岩を使い、スタッフも現地の土木作業者を雇いながら3〜4ヶ月の施工をやり終えました。

「こういった外構工事で、石積みが日本でも多く採用されるようになれへんかなと。アメリカで評判になってくれると、日本でまた流行る可能性も上がるかなと期待しています。

今回のように建築家の方やデザイナーの方と仕事をすると、今までになかった石積みの活かし方に気づきますし、刺激をもらえますね」

シアトルのクボタガーデン
シアトルのクボタガーデン

法律の壁

石積みを取り巻く大きな課題として、海外でも国内でも、建築にまつわる法律の問題が付いて回ります。

たとえ、400年の間風雪に耐えてきている実績があっても、新規で建造物を作る際には、耐震基準をクリアしていると数字で証明しなければなりません。

その都度で異なる形・大きさの石を組み合わせる穴太衆の石積みにおいて、現代のフォーマットに沿った数字を提出することは現実的でなく、実質、ある程度の規模を超えると新規施工ができない状況になってしまっています。

竹田城 石垣の修復工事
竹田城 石垣の修復工事

いくつかの実証実験や、京都大学の研究グループによるシミュレーション等で良好なデータが出ているものの、現行の法律が変わらない限り、状況は大きくは変わらないようです。

ダラスの外構工事では、本来穴太衆では小石を詰めるような部分にコンクリートを使用し、その合わせ技で建築許可が下りました。

石の組み合わせだけでつくる方が丈夫であると確信を持ちながら、それでも、「許される範囲の中で最大限丈夫に、美しく仕上げるしかない」と粟田さんは言います。

石積みと人間社会。今後の穴太衆

「僕らの石積みは人間社会と一緒なんです。大きい人もいれば小さい人もいる。

性格のいい人も悪い人も。それらが組み合わさったのがこの世の中で、だから面白い」

穴太衆 粟田さん

そう聞いてから眺めてみると、確かに一つとして同じ石が使われていない穴太衆の石垣は、とても個性豊かで味わい深く見えてきます。

「個性があればあるほど、それが生きてくる。あえて悪い石を使うこともあります。

大きい石はより大きく見せてあげる。そのために、まわりに小さい石を配置する。すべてに役割があって、大事なんです。

『綺麗な石ばかり使ってなにがおもろいねん!』とお祖父さんはよく言っていました」

そんな多様性を大切にする石積みだからこそ、職人ごとの個性も出てくるのだとか。

石積みの里 坂本

「僕の積んだ石垣、親父が積んだ石垣、お祖父さんの石垣。昔からうちの家のことを知っている人が見たら、すぐにわかるって言いますよね。性格が出るんで。

お祖父さんは、繊細で優雅な感じ。親父は荒々しい。

僕は、そのどちらも。両方を見てるんで良いところを取りたいと思ってやっています」

粟田さん

そんな、穴太衆の石積みならではの魅力を残したまま、どうにか生き残る手立てを考え、既存技術との共存や海外への進出を考えている粟田さん。

「理想は、昔ながらの技、工法をそのままに残っていきたいんです。

ただ、実際の話それでは残れない。そこは、コンクリートとの兼ね合いなんかも含めてやるしかないと思っています。

並行して、実証実験や土木学会での発表を通してアピールは続けます。

なんとか、昔の伝統技術に関しては、法律の緩和を訴えていきたいですね」

現在、粟田建設には粟田さんを除いて3名の従業員が働いており、そのうち一人はまだ10代の若者。

「石の仕事、職人の仕事がやっぱり好きなんやと思います。やっぱりきつい仕事ですんで、そうじゃないと続きません。

そんな若者もいてくれてますし、僕も息子がいるんで、つないでいきたい。

現状では、本当に胸を張って継いでくれって言うのは厳しいですけど。なんとか、生きる道を探してあげたいと思っています」

自然の石をそのまま用いて、数百年の時を耐える石垣をつくる。その石垣は地震にも、豪雨にも強く、そして美しい。

この驚異の技が、現代に新たな形でいかされた時、どんな姿を見せてくれるのか楽しみでなりません。

<取材協力>
株式会社粟田建設
077-578-0170

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年7月16日の記事を再編集して公開しました。これから石垣を見るときは、一つひとつ積み上げられていく光景を想像しながら、思いを馳せてみたいと思います。

木のまな板 基本の選び方、洗い方。使ってわかった和食に最適な理由

こんにちは。細萱久美です。

以前のさんち記事で、調理道具の基本として包丁について書かせていただきました。長く使うにはなるべく専門店などの、研いで使い続けることの出来るステンレスや鋼の包丁をおすすめしました。

包丁を使う時は、ほとんどの場合がまな板を使うことになると思います。まな板の素材は、主に木か合成樹脂ですが、包丁のことを考えると木製のまな板をおすすめします。

包丁とまな板

単に天然素材好きというだけではなく、木のまな板を使うメリットがいくつかあります。

木のまな板を愛用する理由

第一に包丁の当たりが柔らかいので、包丁の切れ味が落ちづらく、研ぎ直しのペースが私の場合、長いものだと4ヶ月位です。

第二に、これも包丁の当たりが柔らかいことの恩恵ですが、包丁の跳ね返りが少なく、手に力を入れ過ぎないのでひたすら刻んでいても手が疲れにくいです。

包丁の持ちのため、手のためを考えたら、木製のまな板が良いという理由はここにあります。

木のまな板のお手入れ方法

反対に、木のまな板のハードルと言えば、手入れが難しそうといったイメージでしょうか。

木は濡れたまま放置すると、水分を吸水しやすいのでカビや菌、においが発生しやすいです。とは言え、ラフな私でも問題なく使っているので、少し気を遣ってあげるだけで味わい深いまな板に育つと思います。

気を付ける点は、まず使う前にまな板を濡らすこと。ちょっと水にくぐらせて軽く拭けば準備OK。これでにおいが付きにくくなります。

まな板のお手入れ

そして洗う時にはタワシで木の目に沿ってゴシゴシ。まずはお湯ではなく水で洗い流します。

特に肉や魚を切った時は、熱いお湯を掛けるとたんぱく質が固まってしまうので要注意。その後、まだ油や匂いが残っているようなら洗剤を少し使って洗い上げましょう。

ネギやニンニクのような匂いの強いものを切った時にはすぐに洗うことを心がけます。例えば、においの残ったまな板で果物を切ると残り香がして、がっかりすることがあります。

最後に布巾で拭いて、立ててよく乾かします。

使う前に濡らし、こまめに洗い、洗い終わったら完全に乾かす。これだけ気を付ければ、気持ちよく使い続けることが出来ると思います。

漂白剤はその成分を吸収してしまう可能性があるので使いません。消毒をしたい時は、水洗いして綺麗になった後に熱湯を回し掛けて十分に乾かします。

頻繁に料理をされる方は、完全に乾く間もないかもしれませんが、それはそれでOK。道具はせっせと使うこともお手入れの一つだと思います。

木のまな板、種類とサイズの選び方

お手入れ以外の難しい面があるとしたら、まな板の木の種類とサイズ選びでしょうか。

代表的なもので、ひのき・桐・いちょう・青森ひばなどがあります。これがベスト!というほど絞れるものでもなく、どれを選んでも使いやすいまな板であると言えます。

木のまな板ビギナーであれば、ひのきは最もポピュラーで扱いやすいのでおすすめです。カビや菌も繁殖しにくく、刃当たりも柔らか。ただ、最初はひのき独特の香りが強い場合があるので、そこはお好みです。

ねこ柳のまな板

私は、ひのきと、やや高級でプロ向けと言われる「ねこ柳」のまな板も愛用しています。

柳が高級なのは、木の成長が比較的遅く生産量が多くないため。成長が遅いということは年輪がぎゅっと詰まっているので、木材の耐久性に優れます。また、柔軟性に優れるので刃当たりも柔らかく、弾力性があるので包丁の刃で傷ついた部分の自然な修復も期待出来ます。

板前さんが使うような大きくて厚みのある柳のまな板は非常に高価ですが、家庭サイズであれば買えない価格ではありません。使いやすくて、手入れをすれば一生ものとも言えるので、十分に価値はあります。

木の素材は好みや予算感で選んで良いと思いますが、是非とも国産材のまな板をおすすめします。海外産のまな板やカッティングボードの品質が悪いという意味ではなく、日本の包丁には日本のまな板が相性が良いのです。

料理研究家の土井善晴さんの「おいしいもののまわり」

料理研究家の土井善晴さんの「おいしいもののまわり」という本の中にも、土井さんの海外での料理の経験談があり、オランダの厨房のまな板が固く、ご自身の和包丁の刃が潰れてすぐに切れなくなったそうです。

ヨーロッパの包丁は固く刃を立てて使うのでまな板も負けないように固い必要があり、中華でも重たい中華包丁の重さを落として切るので非常に分厚いまな板を使っているのを見ます。あくまでも食文化の違いです。

日本料理にはやはり、包丁にやさしい日本のまな板が最適だと思います。

最後にサイズ選び。ちゃんと料理をするならなるべく大きい方が、切った食材がこぼれにくくストレスなく調理が出来ると思いますが、スペースとの兼ね合いがあるので、スペースに置ける最大のサイズを選ぶか、シンクの縦幅に収まるサイズが目安と言われています。

まな板の使用イメージ

私が最近頻繁に使っているのは丸いまな板。奥行きがあるので食材がこぼれにくく、狭いスペースでも収まりが良いです。

四角い小さめのまな板

あと20センチ角の小さめのまな板がサブ使いでかなり便利。パンや果物などちょっと切りたい時に活躍しています。10年近く使い続けているので十分長持ちですが、ヘビーユースしたのでそろそろ買い替え時かも。

箸の食文化とまな板の関係

昔の日本のまな板は全て木製で、凹んできたり汚れてきたら地元の大工さんに削り直してもらうのが当たり前だったようです。それだけまな板は日本の台所には欠かせない毎日の道具です。

一方で、ナイフ・フォークなどのカトラリーを使う欧米の家庭ではカッティングボードは必需品ではないとか。

和食の場合、食卓では箸で取り分け口に運びやすい「箸の食文化」です。その分、あらかじめ食材のサイズを小さくする必要があり、調理の中で「切る」作業の比率が高いと言えます。箸とまな板の文化圏はほぼ一致するそうで、なるほどと思います。

調べてみるとまな板の削り直しをしている専門店も結構あるよう。少しだけ手入れに気を配りながら、木のまな板をじっくり使い続けてみてはいかがでしょうか。3センチ程度のしっかり厚みのある1枚ものがおすすめです。

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

Instagram

文・写真:細萱久美

出雲神話は存在しない?!『古事記』もう一つの読み解き方

2016年に映画化されて話題を呼んだ『この世界の片隅に』。その作者、こうの史代さんの作品に『ぼおるぺん古事記』があります。『古事記』上巻を原文 (書き下し文) そのままに絵巻物にした漫画です。

これがすごく面白かったのです。今から1300年以上も前に書かれた日本神話たちにこれほど惹きつけられるなんて!と興奮しました。

3冊で『古事記』上巻を描いた『ぼおるぺん古事記』
3冊で『古事記』上巻を描いた『ぼおるぺん古事記』 (平凡社)

なかでも物語の中心部分、現在の島根県出雲地方を舞台にしたスサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治、オホクニヌシによる国作りや国譲りなど、いわゆる「出雲神話」に興味が湧きました。そこで、詳しく書かれていそうな『出雲風土記』も現代語訳で読んでみることに。

風土記とは、その土地の風土や産物、神話などをまとめて中央政府に提出する報告書。

当然『古事記』に記載されているようなドラマチックな土地の物語が読めるのだろうと思ったのですが‥‥。

なんだか、神話の部分がすごくさっぱりしている。載っている物語自体も少ないし、『古事記』で数々のドラマが繰り広げられた舞台とは思えないのです。同じ土地の話を取り上げているはずなのに不思議です。

そこで、専門の先生に聞いてみよう!と、上代文学(古代文学のうち、太古から奈良時代までの文学)を研究されている青山学院大学の文学部日本文学科教授、矢嶋泉 (やじま・いづみ) 先生を訪ねました。

青山学院大学

この訪問が、まさか今まで自分の持っていた『古事記』や『日本書紀』のイメージを大きく覆すことになるとは。学問の視点から覗く神話の世界へ、ご案内します。

出雲神話は存在しない?!矢嶋泉先生に教わる、史料の読み解き方

『古事記』研究の第一人者の矢嶋先生
『古事記』研究の第一人者の矢嶋先生

——— 先生、『古事記』と『出雲風土記』を読んでみたのですが、神話の描かれ方の印象がまるで違うんです。なぜでしょうか。

「出雲について語る前に、まずは文献の読み解き方についてお話ししましょう。

そもそも『読む』という行為はとても曖昧なものです。作者が他のことを意図して書いていたとしても、読み手はそれを易々と乗り越えて、違うことを読み込めるし、あるいは読み違えることもできる。

これは人間が持って生まれた才能ですから、読者は自由に楽しめば良いのです。ただし、研究となると、そうはいきません。『作品の意図』を理解した上で解読を進める必要があります」

——— 作品の意図、ですか。

「古代の読み物については、ここ最近まで、作者の一貫したテーマや意図など存在しないものだと考えられていました。単なる資料集と言いましょうか‥‥『作品』としては低く見積もられていたのです。そんな先入観がずっと何百年も先行していました。

そのため、『古事記』や、同じく古代の歴史書である『日本書紀』については、作品全体の構想がどうなっているか、どんな意図があるのか、という作品論が十分に研究される前に、素材そのものの面白さや読み解きが先行してきた経緯があります」

——— 素材そのものというのは、個々のエピソードということですか?

「そうです。たとえば、『古事記』や『日本書紀』に登場する話の一部は、一般的に『出雲神話』なんて呼ばれていますね。でも、実際にはそういう神話は『存在』しないんです」

——— え!出雲神話が、存在しないのですか?『古事記』を読んでいて、出雲の存在感を強く感じましたが‥‥。きっと大きな影響力があった土地なのだろうな、と。

「そういう印象をもたれる方は多いですよね。でも、『出雲に特定の勢力が存在して、その人たちが中央でも無視できないような強大な力を持っていた』、あるいは『その人たちが伝承した素材が古事記や日本書紀に大きな影響を与えている』というのは、研究の世界では、実はありえない話と考えられています。

具体的には後ほどお話ししますが、出雲神話というものは、『古事記』にも『日本書紀』にも基本的になかったものなのです。

今日はそのあたりを解説していきましょう。きっと小俣さんが出雲風土記に抱いた違和感の答えも見つかりますよ」

——— ドキドキしてきました。ぜひ詳しくお聞かせください。

古事記、出雲風土記などの書籍がテーブルに広がる

イザナミが死なないパターンも。意図によって改変される神話

「『古事記』が日本各地の物語を寄せ集めて作られていることをご存知の方もいるかもしれませんね。

現在の研究では、『古事記』の編纂には大きな目的があったと考えられています。それは天皇が統治する国家を磐石なものとすること。

この目的を果たすために、歴史の『あるべき姿』をかため、物語を綴ります。そこで使われたのが各地の神話や伝承です。
ヤマト朝廷に服属した国々は、自分たちの大切なものを捧げました。土地や財産はもちろん、自分たちのルーツを語るものとして重要視されていた神話や伝承も含まれます。そうして集まった神話や伝承を『古事記』の構想に基づいて取捨して、改変、再構成していきます。

例を挙げると、イザナキ・イザナミが登場する冒頭の国作りの物語には、淡路島の海女たちの伝承を取り入れているんです」

——— 服属した地域の神話などを、「意図に合わせてパッチワークのようにつなげて物語を作っていった」ということでしょうか。

「パッチワークだったら、元の伝承の原型が見えるのですが、素材の取捨選択だけでなく『改変』もした上で再構成されています。そのため、原型を留めているとは限りません」

「例えば、『古事記』ではイザナミは死にますが、『日本書紀』ではイザナミは死なずにイザナキとともに国土を完成させます。登場人物の生き死にまで異なっているのです。

『日本書紀』では、イサナキ・イザナミによって国土が完成してしまっているので、『古事記』に登場する出雲を舞台にしたオホクニヌシの国作りのエピソードは、ごっそりと削られています。

これは、『古事記』とは異なる意図を持って『日本書紀』が書かれていることから生まれる違いです。それぞれの作品の構想に合わせて、素材を大胆に料理しているわけですね。

編纂者にとって、神話の舞台は出雲でも、そうでなくてもよかったのかもしれない。さらには、他の地域のよく知られている話から面白い部分を抽出して混ぜ合わせて書かれている可能性だってあるのです。

ですから、今現在の研究では、この中から直接当時の出雲を伺い知ろうとすることは不可能と考えられています。はじめにお伝えした『出雲神話は存在しない』というのは、このことです」

出雲大社から見る、「出雲ニュータウン」説

「こんな文献もありますよ。鳥越健三郎さんの『出雲神話の成立』 (創元社) 。

この本は、出雲大社ができたのは、神話の時代のずっと後の8世紀初頭だという説を述べたものです。『古事記』や『日本書紀』ができて、その中身が定着したころにやっと出雲大社ができたと考えられると言っています。

出雲大社をお祀りしていた出雲国造家は、元々は熊野神社をお祀りしていた人たちで、松江に住んでいました。それがあるときに、だいぶ遠く離れた、現在の出雲大社 (杵築大社) のある木築 (きずき) に引越しをしているんです。

出雲国造は大領 (だいりょう) という役職も兼務している人たちで、本来持ち場を離れてはいけないはずなのに移動している。おそらく、朝廷から指示されて、移住したのだと考えられます。

そして、『出雲国造神賀詞 (いずものくにのみやつこのかむよごと) 』という出雲国造家の服属詞章 (服属の証に天皇の前で述べる文章) ができあがります。『古事記』の中の天孫降臨 (出雲に天皇の祖先となる神様が降り立ち統治することになったエピソード) をなぞりながら朝廷に服属を誓うものです。

これが書かれたのは716年ごろ。ちょうど『古事記』が出来上がった時期に、出雲国造家がこのエピソードを歴史として語り始めた、というのが鳥越さんの主張です」

「さらには、出雲の古墳の状況を調べると、出雲大社の周辺地域にはほとんど古墳がない。一方、松江には前方後方墳という巨大な古墳がある。このことからも、出雲大社のある地域が元々栄えていたわけではなく、8世紀の初頭に突然開発されたのだということが見えてくる。

付け加えると、『日本書紀』の顕宗(けんぞう)即位前記に、「出雲は新墾(いずもはにいばり)」、つまり出雲は新開拓地だと書いてある。何にもなかった土地を新たに開発して人が住めるようにしたという文章が出てきています」

——— 新開拓地。いまで言う「ニュータウン」のようなものなんですね。

「まとめると、鳥越さんが述べていることと、他の文献が述べていることを照らし合わせると、もともと未開拓の地であった出雲の地に、突然とんでもなく立派なお社が出来上がったというわけです」

——— そこまでして出雲大社をつくる理由があったのでしょうか?

「なぜこの時期に出雲大社を作る必要があったのかというと、神話ではなく『歴史』として、事実として人々に認識させようという狙いがあったからです。歴史である以上、それを裏付けるモニュメントが必要だった。私はそう考えています。

その役目を出雲国造家が引き受けたわけですね。出雲国造家は、その後平安朝の間もずっと、この服属詞章を奏上 (天皇に申し上げること) し続けています」

地方官僚はつらいよ‥‥。風土記に見る、古代国家の様子

——— お話を伺っていると、当時の朝廷がすごく強くて厳しい存在であったように感じます。

「かなり厳しかったと考えられますよ。地方は、中央から派遣された国司によって見張られ、統治されている状況。それこそ、地方官僚がお金をささやかにごまかすことすら難しかったでしょうね。

厳しい支配下にあったことは、地方の報告書である『風土記』からも伺えます」

「『常陸国風土記』にはこんな記述があります。『ここは常世 (理想郷) の国と同じだ。いい国だ』と、長々と自分たちの土地の豊かさ素晴らしさを書いた後、ハッと我に返ったのか『唯 (ただし) …』と言い始める。『豊かとは書いたけれど、大したことはないのですよ、水田も小さいものばかり、天候によっては農作物の収穫は不安定です』などと記されています。

各地はお国自慢をしたいし、朝廷から評価されたい。しかし、あまり自慢しすぎて豊かだと知られてしまい、税が重くなることは避けたい、そんな思惑が伺えます。

また、風土記には土地や農作物についての報告に加えて、神話や伝承についても奏上するように指示されています。各地は中央の伝承につながり、天皇との関連性のある場所の存在を記すことで自分の土地に価値を見出したい。

『古事記』や『日本書紀』に登場する神話や伝説の一部にすりよるように、ただし突出することで反感を買わないように、『そのとき天皇がお座りになった場所がこの土地です』というようなこと遠慮がちに書いている。

悪目立ちするような独自の伝承を書くことなく、中央の伝承を元に差し障りない部分を少しだけ付加する。それが本当に涙ぐましい。『出雲風土記』を読んで持たれた違和感はここから来ているはずですよ」

——— 遠慮がちに書かれているから、簡単な記述のみで『古事記』とほぼ同じ、なおかつ大人しめなエピソードしか見つけられなかったのですね。地方官僚の苦労が伺えます。

「『古事記』を読んで、出雲の存在感を強く感じたとおっしゃっていましたね。その読み方は、人が文学を楽しむ行為としてあってよいのですよ。話の舞台となった土地に興味を持ったり、歴史的な意味を考えたり、想像も含めて自由でいいのです。

ただ、研究として作品の意図と共に読み解くと、全く違った様子が見えてくるんですね」

矢嶋先生のお話を伺って、研究の視点から分析される作品の読み解き方に衝撃を受けました。

いずれにしても、『もののけ姫』の世界に迷い込んだかのような神々しい山々、美しい夕日、清々しい空気‥‥出雲に宿る特別感は変わりません。出雲で大きな役目を担った出雲国造家の人々の苦労や、壮大な物語を綴りながら磐石な古代国家を作り上げたヤマト朝廷。彼らの様子も思い浮かべながら出雲の地を訪れると、これまでと違う視点で旅が楽しめそうです。

*さんちの出雲特集はこちら

<参考文献>
『新校 古事記』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2015年 おうふう
『出雲国風土記』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2005年 山川出版社
『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2016年 山川出版社
『日本神話論考 出雲神話篇』 神田典城 1992年 笠間書院
『古事記の世界観』 神野志隆光 1986年 吉川弘文館
『出雲神話の成立』 鳥越健三郎 1971年 創元社

文・写真:小俣荘子

*こちらは、2017年10月26日の記事を再編集して公開しました。研究とは、研ぎすまし究める。その意味の通り奥深い世界に触れることができました。

これがプラスチック?調理・食事・保存の3役を一つで担う、陶器のような「9°」の器

近年、よく耳にする海洋プラスチックごみ問題。大手スーパーではプラスチックごみを減らすべく、徐々にレジ袋の有料化やプラスチックストローの廃止へと舵を切っています。

このような社会の流れもあり「プラスチック製品は環境によくない」というイメージが先行しますが、本当に「プラスチック」だけが悪者なのでしょうか?

そんなプラスチックのことを、ちょっと違った視点から考えさせられる器を見つけました。

それが「9° (クド) 」の器です。

目指したのはプラスチックらしからぬ器

9°は、都内でプロダクトデザインを手がけるカブ・デザインとデザイン事務所のPORT、富山県のプラスチック製品メーカー、シロウマサイエンスの3社による共同開発から生まれました。

プラスチック (合成樹脂) の付加価値を高めるべく、「素材の寿命と同じくらい長く使い続けてほしい」という思いからスタートしたブランドです。

もともとシロウマサイエンスが食品関連のパッケージに使われるプラスチック部品を製造していたことから、「食」に着目し、ブランド初のアイテムは器となりました。

まず、驚くのがその見た目。

プラスチックといってイメージする、無機質な感じとはまるで違います。ほどよい色ムラで手仕事で作られたような色味です。

9°
9°

「製造元のシロウマサイエンスが白馬岳という山の麓にあるので、その山の自然、『雪』と『大地』と『緑』をイメージした色なんです」

そう教えてくれたのは、カブ・デザインの市橋樹人さん。

カブ・デザインの市橋樹人さん
カブ・デザインの市橋樹人さん

9°の器の見た目にも驚かされましたが、実物を手にしてみて、見た目以上に驚いたのが、その質感でした。

少しざらっとするような、まるで陶器のような感触なのです。

「五感で感じられる部分は、プラスチック感を出さないようにしています。そうすることで愛着を持って長く使ってもらえると思うんですよね。見た目の雰囲気や触ったときのテクスチャーはもちろん、音にもこだわっています」

そう言って市橋さんが9°の器をテーブルに置くと、「コトン」という重みを感じさせる、きれいな音が響きました。

愛着を持って長く使ってもらえるものを

長く使ってもらいたいという思いは、その形にも込められています。

シンプルで飽きのこない、時の風化に耐えうるフォルム。

一見、何の変哲もない形に見えますが、実は隅々まで計算しつくされています。

器の底から口にかけての角度が9度であることから、ブランド名を「9°」にしたといいます。

9°
9°はきれいにスタッキング収納できる角度でもあるそう

また、神前式などで執り行われる日本古来の儀式「三々九度」の「九度」にもかけられているそう。「三々九度」が夫婦や親族の絆を結ぶ「固めの盃」と呼ばれることから、末長く愛されて繁栄するようにという願いも込められているのだとか。

9°

作って、食べて、保存。ひとつで3役を担える理由は素材にあり

私たちが想像するプラスチックの器とは、何から何まで違う9°の器。

ひとくちにプラスチックと言っても、何か特別な素材なのでしょうか?

9°

「『エンジニアリングプラスチック』と呼ばれるSPS樹脂を使っています。高い成型技術を必要とするもので、車の内部パーツなどの工業部品に使われることが多いです。

PP (ポリプロピレン) などのいわゆる汎用プラスチックと比べると耐熱温度が−20℃〜220℃と高く、強度もあって耐久性が高いのが特徴ですね」

耐熱温度が幅広いだけに、冷凍も電子レンジによる加熱も可能。電子レンジで調理して、そのまま食卓に出したり、余った料理をそのまま冷凍・冷蔵したりすることができます。

9°
写真提供:9°

また、強度や耐薬品性にも優れているので、食洗機や食器乾燥機はもちろん、塩素系漂白剤も使えるとのこと。後片付けやお手入れにも手間がかかりません。

ひとつで「調理」「食事」「保存」と3つの役割を果たしてくれるので、食事の時間にゆとりが生まれそうです。

どんなシーンで使えるかを提案するレシピも

器のサイズは直径90mmと150mmの2種類。「1人分の食事」というコンセプトで作られています。

9°
上が「U90」、下が「U150」。Uは「器」の頭文字、数字は器の直径を表しています

9°では、使うシーンにあわせてレシピも開発。Webサイトで公開しています。

これから寒くなる季節には、小さい方にお酒を入れて電子レンジでチンして燗酒にしてみるのもおすすめだそう。ふたの部分をプレート代わりにしてお好みの肴を盛れば “ひとり晩酌セット”が簡単にできちゃいます。日本酒でなく、ホットワインにチーズ、なんていう組み合わせもよさそうです。

ただモノを作って終わりでない、使い手に寄り添う気持ちがうれしいところです。

大量消費でないプラスチックの時代へ

「プラスチックに希少性はないですが、デザイン的にも自由度が高くて、大量生産にも向いている素材です。もはやプラスチックなしでは生活できないくらい、僕たちの身のまわりにはプラスチック製品であふれています。

便利な素材であることには違いないので、その上手な使い方を考え直すべきだと思うんですよ。

プラスチックの製品も、愛着を持って長く使ってもらえれば、安易に消費されないと思うんです」

9°
写真提供:9°

技術の力で機能性を、デザインの力で愛着を生み出し、プラスチック製品を末長く使ってもらえるものにした9°。

日々の食卓に豊かさと便利さを届けてくれる9°の製品は、プラスチックのことを改めて見直す機会になりました。

<取材協力>



公式サイト

文:岩本恵美

写真:中里楓

今、茅葺き屋根は世界のトレンドに。職人・相良育弥が伝える「茅葺きの魅力」

茅葺きに拾ってもらった男

茅葺き(かやぶき)の屋根という言葉から、どんなイメージが湧いてくるだろう? 千葉で生まれ、東京で暮らす僕の生活の身近には茅葺の屋根を持つ家がないから、思い浮かぶのはアニメ『日本昔ばなし』の世界だ。

でも、ところ変われば景色も変わる。神戸といえばシックな港町という印象があるけど、街の反対側、港を背にして山のほうに目を向けると、神戸市北区には茅葺きの屋根を持つ民家がなんと700軒も残っている。しかも、「旧〇〇邸」のような文化財だけではなく、今も実際に住んでいる人たちがたくさんいる。北区の住民にとっては、茅葺きの建物がある生活が今も日常に溶け込んでいるのだ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

そこには、「茅葺きに拾ってもらった」という人もいる。北区で生まれ育った、相良育弥さん。今年8月、NHKの番組「SWITCHインタビュー 達人達」で、俳優・映画監督の奥田瑛二さんとの対談が放送されたから、記憶に残っている読者もいるかもしれない。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

淡河かやぶき屋根保存会「くさかんむり」の代表で、神戸市内の茅葺き屋根のメンテナンスや修理、葺き替えを生業にしながら、店舗の壁やイベントの舞台などで現代的な茅葺きを表現する気鋭の茅葺き職人だ。

それにしても、「茅葺きに拾ってもらう」とはどういうことだろう? その人生をたどる前に、そもそも茅葺きの「茅(かや)」がなにか、それすら知らない自分に気が付いた。相良さん、茅ってなんですか?

「屋根に使うことが出来る植物の総称なんですよ。大きく分けると5、6種類くらい。ススキとヨシ、稲わら、麦わらと笹が必要な材料ですね。使われる植物は地域によって違うんですけど、それは人力とか、馬とか牛に乗せて運べる範囲内で調達していたから。茅葺きは世界中にあって、例えばインドネシアに行くと、椰子の葉みたいなものとか、とにかく身近で大量にとれる植物が使われますね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

‥‥この答えを聞いて、僕は初めて「茅」という植物が存在しないことを知った。茅葺き職人として活躍する相良さんも実は、20代半ばまで茅葺きにまったく興味がなかったという。それがどういう経緯で職人になったのか。その歩みは、意外なところから始まる。

牛小屋で宮沢賢治に出会う

「高校を出た後、2年間、建築デザインの専門学校に通っていたんですけど、その頃、DJをやっていて、そっちのほうが面白かったから、就職しませんでした。でもDJでも食べていけず、どうしようかと悩んでましたね」

専門学校卒業後の20歳から24歳までの4年間は、自分が本当はなにをしたいのか、悶々としながら模索する日々だった。祖父の家の牛小屋を改装して、そこにこもってひたすら本を読み漁った。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

自分の琴線に触れる言葉があると、紙に書きだして、壁に張った。そこには心理学者の河合隼雄、解剖学者の三木成夫、文化人類学者の岩田慶治などの言葉が並んだ。なかでも「自分の腹の底から響く言葉を探してた」という相良さんの心をグっと掴んだのが、宮沢賢治だった。

「『農民芸術概論』という本があるんです。そこには、芸術しようと思って芸術をするんじゃなくて、生活自体が表現であるし芸術である、それが美しくて尊いと書かれていて、確かになあって。じいちゃんが鍬でポクポク土を耕して、暑いなぁって一息ついてる姿とか、めっちゃ美しいですよ。そうか、こういうことかもしれんなぁって思いましたね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

『農民芸術概論』を読んで、相良さんは思った。生活自体が芸術だとしたら、それを観察して描く芸術家ではなく、描かれる実践者になりたい。フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーの作品『落穂拾い』なら、落ち穂を拾っている農婦のように、誰かに描かれる美しい景色のなかに存在していたい。この気づきは、「ぐちゃぐちゃだった」4年間を経て、牛小屋を飛び出すきっかけになった。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

百姓を目指して弟子入り

相良さんは、「百姓」を目指すことにした。農民という意味ではなく、農業を含めて「生活に必要とされる百の業(わざ)ができる人間」だ。まずは、農業を始めた。家の裏に農地があって、すぐに始められる環境だったこともあるが、阪神淡路大震災を経験して、「食べるものくらい、自分でどうにかできないと」という思いもあった。

それから間もなくして、運命を決める出会いが訪れる。2005年の晩秋、友人に誘われて、山のなかで開催されたイベントに行った時のこと。そこで知り合ったばかりの人から、「年明けから、茅葺きの現場でアルバイト募集してるから来いよ」と声をかけられたのだ。

「地下足袋を履いてたんですよ、その時。それを見て、こいつは使えるかもしれないと思われたみたいで、スカウトされて(笑)」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

百姓への第一歩として、本格的に米作りを始めようと考えていたが、冬の間は農閑期ですることがない。相良さんは「春まで働くにはちょうどいいや」と腰かけのつもりでアルバイトをすることにした。

正月が明け、神戸の現場に出向くと、「親方」と呼ばれる人がいた。相良さんをスカウトした人は、親方の仕事上のパートナーで、親方は京都に拠点を置きながら、関西を中心に仕事をしていた。相良さんは茅を運んだり、掃除をしたりしながら、初めて目の当たりにする茅葺き職人の仕事を興味深く見ていた。

ある日のこと。親方から「なにになりたいの?」と聞かれたので、こう答えた。

「百の業(わざ)を持った、百姓になりたいんです。でも、まだ駆け出しで3つくらいしかないので三姓なんですわ!」

「それやったら、茅葺きやったら?」

「なんでですか?」

「百のうちの十くらいは、茅葺きの中にあるよ。ロープワークだったり、茅を刈り取って束ねる技術とか。やりたい?」

この時、相良さんは、ハッとした。「米や野菜を作ったりするのが百姓だと思っていたけど、住むところを整えるのも、百姓の業なんや!」。茅葺きも、自分のやりたいことの延長線上にあると知った相良さんの心は決まった。

「茅葺きなら、百の業のうち、十も手に入るんか。こんないい話はねえな!」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

義務感で独立するも‥‥

2006年9月、親方のもとに弟子入り。そこで5年間の修業を積み、2011年に独立した。この間に、茅葺きに惚れ込んだ、というわけではなかった。親方の指導は厳しく、休日は雨の日だけで、何度辞めようと思ったかわからないという。

それでも修業を続けたのは、「それまで、けじめを通してこなかったことが多かったから、もうここから先は逃げちゃいかん」と腹を括っていたからだ。

独立したのも、自分の強い意志ではなかった。修業が終わった頃は、また百姓を目指そう、米作りに戻ろうと考えていた。しかし、相良さんの地元にはメンテナンスすべき茅葺きの建物がたくさんあるのに、それを担う若手の茅葺き職人がいなかった。それで「自分がやらざるを得ないよなあ」という義務感もあって、職人を続けることにしたのだ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

ところが、仕事を続けるうちに、修業時代にはほとんど感じなかった「楽しい」「嬉しい」という気持ちが湧いてくるようになった。20歳から4年間はほぼ引きこもり、それから5年間、厳しい修業をしていた相良にとって、それは、とても新鮮な感情だった。

「修業している時は、感謝もクレームもぜんぶ親方に言うじゃないですか。独立したら、仕事に対する感想がダイレクトに自分に届きますよね。それは責任にもつながるけど、20代の頃、仕事で誰かに感謝されることなんてなかったから、すごく嬉しかったし、楽しさを感じるようになりました。それで、次はもっと頑張ろうとか、これだけ喜んでくれるんだったらもっときれいに仕上げよう、もっと勉強しようと思えるようになりましたね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

茅葺きは最先端?

独立してしばらくは夢中で仕事に取り組んでいたが、余裕が出てくると、茅葺きの面白さやポテンシャルを感じるようになった。

日本では1950年、建築基準法で「市街地で新しく建物を建てる時、燃えやすい屋根材はNG」という法律が制定されて、市街地で茅葺き屋根の家を新築することができなくなってから、急速に茅葺きの家が減少していった。

今ある茅葺きの家のほとんどは1950年より前に建てられたものだが、茅葺きの屋根は30年から40年に一度、葺き替えが必要だし、囲炉裏やかまどで火をたく前提なので通気がよく、夏は涼しいけど冬はとても寒いという構造もあり、オーナーの代が変わると建て替えてしまうことも多い。

その結果、1990年、神戸に約1000軒あった茅葺きの建物が、この30年で約700軒に減った。神戸市内だけで1年間に10軒ずつ取り壊されている計算だ。この流れのなかで茅葺き職人の数も減っていき、現在は全国に100人程度しかいない。

しかし、世界に目を転じると日本とは真逆の流れが起きている。オランダやデンマークでは、茅葺き屋根を持つモダンな公共施設や住宅がどんどん増えているのだ。

特にオランダでは、年間2000軒から3000軒の勢いで新築されているという。オランダもデンマークも寒い国だけど、断熱素材や床暖房などを効果的に使って、冬でも快適な茅葺き住宅が続々と誕生している。

なぜか? ここ数年、持続可能性を意味するサステナビリティとか、資源循環型の経済を指すサーキュラーエコノミーに注目が集まっているなかで、相良さんは茅葺きの屋根が「最も環境負荷が少ない素材」だという。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「茅って、なににも使われない地元の素材を有効活用しているんです。しかも、僕らの作業は編む、組む、結ぶとか、すべて糸偏が付くんですよ。それは、自分で解けるということで、葺き替える時に簡単に取り外すことができるんです。

しかも、茅は土に還って養分になるし、燃やしたら草木灰として肥料になる。世の中を悪くするようなことが一切ない、本当の意味で持続可能な素材なんですよね。大きな地震や災害を経験した日本が、世界に対して提案できる持続可能な暮らし方の答えのひとつは茅葺きだと思っています」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

オランダ人を驚かせた壁面の茅葺き

この説明を聞いて、ノスタルジックな印象しかなかった茅葺きのイメージが一新された。確かに、今の時代の最先端をいくような建築資材と捉えることもできるのだ。日本も70年前にできた法律にこだわっていないで、世界の時流に合った形に変えていったらどうだろう?と思ったら、実は法律を変える必要すらないという。

「建築基準法には『市街地で~』と書かれているので、例えば地方なら、茅葺きの新築一軒家を建てることができる場所がたくさんあるんです。神戸市内でも建てられます。でも、誰も知らないんですよね。

今、マイホームを建てたいという若い夫婦がいた時に、じゃあ茅葺の屋根にしようという発想にならないでしょう。そこで少なくとも選択肢のひとつになるようにするために、これからの茅葺き職人にとって一番大事なのは、正しい情報を世の中に伝えることだと思います」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「情報発信は、現代の百姓の業のひとつ」と話す相良さんは、ワークショップやイベント、メディアを通して茅葺きの魅力を伝えてきた。

また、2013年から定期的にヨーロッパに渡り、現地の職人たちと交流。オランダで伝統的な手法である壁面を茅葺きにする技術を学び、それを日本に持ち込んだ。神戸市内にある美容院の壁は、相良さんが手がけた見事な茅葺きで覆われている。オランダの手法に工夫を加え、凹凸をつけて葺くことで、装飾性を高めた。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「これは、オランダの茅葺き職人も驚いてくれましたよ。オランダで学んだ技術をお前はそんな風にしたのかって」

壁面の茅葺きの技術は恐らく日本でほとんど知られていないが、これからの時代の建築デザインとして脚光を浴びるかもしれない。僕が帰京した後、友人の建築家に写真を見せると、「なんですか、これは!すごい!これでなにか作りたい!」と大興奮していた。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

茅葺きの神様の計らい

最近では、東京でも相良さんの茅葺きを見ることができる。今年、恵比寿にオープンした渋谷区の施設「景丘の家」に掲げられているメインのネームプレートに茅葺きを施した。

「看板の場合、面積が10平米までと決まってるんですけど、可燃不燃の指定はないんですよ。そういう意味で、都市部において看板はひとつ可能性があるなぁと思っています。都市部なら10平米くらいでもかなりインパクトはあるので、都市のなかにも茅葺きを知るきっかけを仕込んでいきたいですね」

どうしたら、茅葺きに興味を持ってもらえるか。茅葺きを使おうと思ってもらえるか。アイデアは尽きない。デザイン性が高く、水回りもハイスペックで、断熱や床暖房で現代的な快適性も追求した茅葺きのモデルハウスを作るというのも、ひとつの目標だ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
相良さん宅の玄関

今や、茅葺きの伝道師ともいえる相良さんだが、振り返れば13年前、「イベントに地下足袋で行った」という些細な出来事がすべての始まりだった。いや、もっと遡れば、親方の仕事のパートナーがたまたま声をかけたのが、茅葺きの建物が豊富な神戸市北区出身の相良さんだったということも運命的だ。

「不思議なもんですよね。もし茅葺きの神様がおるんだとしたら、ちょっとあいつを茅葺き業界に放り込もうかって、選ばれた気がするんですよ (笑)。本当に偶然の連続で、自分の意志で決めたことあったかなーってくらい。茅葺きに拾ってもらったと自分でも思ってるので、何か返せたらなって」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

取材に伺った日、相良さんは神戸市北区にある小さなお堂の屋根を葺き替えていた。現場には、弟子が3人、助っ人が1人と、定年退職してから手伝いに来ているという相良さんのお父さんがいた。

その日はとても気持ちのいい天気で、広々とした青空の下、それぞれがリラックスした様子で「糸偏の仕事」をしていた。今、その様子を思い出して、ふと思った。相良さんたち6人が立ち働く姿は、まさに絵になるような景色だった。ミレーの作品『落穂拾い』のように。


茅葺き職人・くさかんむり代表・相良育弥さん

相良育弥

茅葺き職人
くさかんむり代表
KUSAKANMURI https://kusa-kanmuri.jp/
1980年生まれ

空と大地、都市と農村、日本と海外、昔と今、百姓と職人のあいだを、草であそびながら、茅葺きを今にフィットさせる活動を展開中。
平成27年度神戸市文化奨励賞受賞


文:川内イオ
写真:木村正史