三十の手習い「茶道編」八、手紙とお辞儀の共通点

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。

そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇先人の消息を読み解く

6月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室8回目。床の間の掛け軸は、何かの和歌、でしょうか‥‥?

「これは人気の武将、独眼竜・伊達政宗の手紙です。中ほど空間の広いところに『五月晦日』と書いてあります。その下には政宗の花押 (かおう) 。今で言うサインですね。形が鳥の鶺鴒 (せきれい) の姿に似ていることから、政宗のセキレイ判とも呼ばれます。

晦日とは、月の終わりの日をさします。だから年末は大晦日。旧暦の五月晦日を今に置き換えると、6月の末になります。だいたい、ですけれどね。時期にことよせて、今日の掛け軸にしました。読み終わった手紙もこうしてしつらえになるんですよ」

なんと、博物館で拝見するような歴史上の人物の便りが、目の前の床の間を飾っています。

「手紙は難しい言い方をすると尺牘 (せきとく) と言います。その人の息吹が込められているものだから消息 (しょうそく) とも。

書き損じたり、いらなくなった手紙や文書は反故 (ほご)と言います。反故、つまりゴミです。約束を反故にする‥‥は皆さんも知っているでしょう。それを捨てずに、茶室の壁に貼ったりするものは反故張りと言います。

本当は、表には出ない下地に貼ったのですが、“侘び”の表現としてわざと見えるようにしたのです。もちろん、適当ではなくて、文字のグラデーションがまるで文様に見えるように考えて貼っていきます。

その昔、紙は貴重な資源だったので、漉き直して使いました。ですが人気の武将や茶人など、名のある人物の手紙は、受け取ったほうが喜んで大事にとっておいた。だから、反故にされずに、残ったのです」

この手紙は伊達政宗が江戸幕府大老の土井利勝に宛てた手紙だそうです。土井利勝は幕府の体制を整えた2代目将軍・秀忠の側近で、幕府最初の大老。伊達政宗は武将の中でも筆まめで知られるそうです。しかし、私には全く読めません‥‥

「読めないですよね。でも途端に読めるようになる方法があるんですよ。

今は新年の挨拶を『あけおめ、ことよろ』と短縮するでしょう。それと同じで、昔の手紙はどうしても言いたい、わかって欲しいというところは、下手にくずしたりせずにちゃんと書くんです。そこさえ読めればいい。

右から1行目、段が下げてあるところは袖書きと言って、後から書き足した追伸です。段が下がっているのがその目印。つまり本文は右端から3行目、『明日の』から始まります。

3行目から濃く書いてあるところを見ていくと、4行目に『一々御自筆にてお書付』とあります。“わざわざ直筆の手紙ありがとう”と言っているんですね。

5行目は中ほどから6行目の頭まで『入御念千万辱』、“念の入ったことで辱 (かたじけな) い”。6行目の最後は『天気』と書いてあって、“天気が良いといいですね”と用件が終わります。

つまり、自筆で文書をもらったことへのお礼と、明日はよろしくね、晴れるといいですね、というだけの手紙なんです。今日のビジネスマナーと同じですね。明日よろしくって、今日のうちに江戸のお屋敷から事前に連絡しているんです。

手紙は当時の一番リアルな通信手段ですから、現代の携帯でのやりとりのように、いたってカジュアルで、口語的な内容の場合も多いのです。

よく使うツールだからこその共通ルールもあります。7行目、墨を足して書いてあるところ、末尾の部分は、これで『恐惶謹言 (きょうこうきんごん) 』と読むんですよ。

今も女性が手紙を「かしこ」と結ぶのと同じで、当時は男性でもカジュアルな手紙の場合は「かしく」と書くこともありました。より正式には『恐惶謹言 (きょうこうきんごん) 』と書いて、どんな手紙も、必ずこの言葉でしめてあります。『おそれつつしんで申しあげる』意味で、改まった手紙の末尾に書き添え、相手に敬意を表す語でした。

必ず、そのように書く決まりだったので、あえてリズミカルに省略して書いたりしたのです。今でいう、絵文字やスタンプに似た役割になっています。きちんと書く、ではなくてカッコよく書く。

もちろん、どうでもよい訳ではなくて、読み手がわかりやすいように、崩し方にも一応の決まりがあります。

先生がさらさらと崩し方のパターンを書かれていきます

例えば結婚式に出席するたびに、毎回違う服を用意するのは難しいですよね。コードはある程度決めておくことでみんなが救われます。書き手も読み手もはじめに共通言語となり得る型を覚えて段々と使いこなしていくのです。

今はミミズがのたくっているように見えるかもしれませんが、かすれて読めないところは読めなくてもいい。大事なところはしっかりと書いてありますから、ちょっと見方を覚えておくと、そこだけ浮かんで見えるようになりますよ」

先生のガイドのおかげで、大河ドラマや教科書でしか知らなかった歴史上の人物が、少し身近になったような。

「なにしろ遠いものだと思わないことです。昔の人も生きていたんです。恋もすれば失恋もして、嫌いな奴もいれば喧嘩もした。今の私たちと一緒です。伝えようとしたことがある、と思って読むと読めるようになりますよ」

お菓子に込める祈り

「掛け軸は『5月晦日』と日付にかけて選びましたが、6月晦日に行われるのが夏越の祓(なごしのはらえ)です。

もちろん、もともとは旧暦の6月末に行われていました。この行事は、一か月ずらしたりせず、新暦に移った現在でも、6月30日ごろに執り行われます。

お盆の行事が、旧暦では7月15日だったのが今は関東は7月15日、関西では8月15日が多くなっているように、旧暦と新暦の置き換えはいろいろあり、面白いですね。

本格的に夏になるという時に、心身の穢れをはらう儀式を執り行いました。由来は神話の伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) の禊祓 (みそぎはらひ) にまで遡るそうですが、京都を中心に、日本各地の神社で行なわれている伝統行事です。

昔は暑さ厳しい夏の間に病気で亡くなる人が多かった。夏を無事に過ごすことは、切実な願いでした。

位の高い人は、ひとつの儀式として氷を保管している氷室 (ひむろ) から氷を運ばせて、夏本番になる前に食べました。聞くところによると、加賀の前田家が越中五箇山の氷室から徳川将軍家に献上するためにひと抱えの桶に入れて運んだ氷は、江戸城に届く頃にはコップ一杯くらいになっていたそうです。大変なぜい沢品ですね。

庶民はもちろん氷なんて口に入りませんから、お餅を三角に切って氷のつもりで食べたのが今日のお菓子、水無月です。

今月のお菓子、その名も水無月。器と相まってとても涼しげです

小豆がのっているのは、赤いものには魔除けの力があると信じられていたためです。お赤飯も同じ理由ですね。赤いあずきの力で魔を払って、この夏無事に過ごせますようにとの願いを込めた行事食というわけです」

今日もう一種のお菓子は太宰府にある御菓子而 藤丸さんのもの。目にするだけですっとします
海の生き物が描かれた水差し。いたるところに涼を感じさせるおもてなしが

手紙とお辞儀の共通点

日々使う携帯に置き換えて古い手紙に触れ、夏の無事を祈る思いとともにお菓子を味わう。今日は何か、触れるものの奥にそれぞれ、人の体温が感じられるようです。「昔の人も生きていた」という先生の言葉が耳に残ります。

「最後に少しお辞儀の仕方をおさらいしましょうか。真・行・草のお辞儀の仕方を覚えていますか。きれいにする、というのは一面、見られているという意識を持つということですよ。

手指は何時も揃えてバラバラさせない。立ち上がる時はかかとの上にキュッとお尻をのせて、重心は後ろのまま、すっと立ち上がる。立ち姿はピアノ線で吊るされているように。

そしてお辞儀の時に大事なのは一拍おくことでしたね。相手の頭が上がったかどうかをちゃんと伺って息を合わせること。頭が下がる時はたとえバラバラでも、あげる時に揃っていたらきれいです。

こうした型は、いつでもできるように、体で覚えておけば、そこから崩すことができるでしょう。相手に合わせて堅い表情でやった方がいいか、カジュアルにやった方が喜ぶ相手なのか。いつでもできるようにしておけば、崩す余白ができるんです。型を知るというのはそういうことです」

今日触れた手紙も同じなのだと、改めて気づきます。お辞儀も手紙も、さらに先月から少しずつ覚え始めた帛紗さばきも、共通する「型」というキーワードで、ひとつながりにつながっていきます。

「与謝野晶子が詠んだ『その子二十歳、櫛に流るる黒髪の、おごりの春の美しきかな』という一句を、俵万智は『二十歳とはロングヘアーをなびかせて畏れを知らぬ春のヴィーナス』と現代語訳して一躍有名になりました。

とにかく何事も、怯えないことです。敬遠している間は絶対頭に入りません。昔の手紙も、読んだら読める。なんでもそうですよ。我がことにさえ思えばいくらでも、身につくんです。

–では、今宵はこれくらいにいたしましょう」

◇本日のおさらい

一、手紙もお辞儀も、型を知っておくことで自在に扱えるようになる

一、何事も怯えず、自分ごとにすれば自然と身についていく


文:尾島可奈子
写真:山口綾子
衣装・着付協力:大塚呉服店

片時もメモが手離せません。今回も大塚呉服店さんのご協力て、涼やかな着物を身に付けて臨みました

浜松の熱き伝統を支える凧職人の心意気

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回はあまり知られていない浜松の凧文化と凧職人についてお届けします。

浜松市民にとって、5月は特別だ。5月3日から5日の3日間にわたって開催される浜松まつり。人によっては「年末年始よりも大切」というその祭りのメインイベントのひとつが、浜松市の174の町がそれぞれの凧を揚げる「凧揚げ合戦」である。

まず、各町単位でその町に生まれた子どもの誕生を盛大に祝う「初凧揚げ」が行われ、さらに各町入り乱れての「糸切り合戦」が行われる。「糸切り合戦」とは、凧を揚げながら互いの凧糸を絡ませ、グイグイと擦り合って相手の糸を断ち切るもので、切ったら勝ち、切られたら負けという各町のプライドを懸けた戦いだ。

ちなみに、凧揚げというと正月に子どもが揚げるような手持ちサイズを想像してしまうが、浜松の凧は桁が違う。江戸時代から浜松で凧を製造・販売している「上西(かみにし)すみたや」さんの工房を訪ねたとき、なによりも圧倒されたのはその凧の大きさだった。

「凧の大きさは1帖、2帖という単位で表します。美濃半紙の大判を12枚つなぎ合わせた大きさが1帖で、約1.3メートル×1.3メートルになります。昔は1枚、1枚張り合わせていましたが、いまは土佐の和紙屋さんに60×90センチの大きな紙を作ってもらっています。昔は3、4帖が多かったけど、いまは5、6帖が主流ですね。最大の凧は10帖で、約3.6メートル×3.6メートルになります」

取材に伺った日、工房には10帖の凧の骨組みが置かれていたのだが、何も知らずにそれを見たら、恐らく浜松市民以外は誰も凧とは思わないだろう巨大さ。

工房ではすでに来年5月のお祭りに向けて凧作りが始まっている

10帖の凧が揚がる姿が想像できません、というと、「上西すみたや」10代目の大隅文吾さんは、そうかもしれませんね、と少し誇らしげに微笑んだ。

町印、家紋、名前入りの凧

浜松の凧は、独特だ。凧が空高く揚がっているときに、どこの町の凧かはっきりとわかるように、凧の中央には大きな町印が描かれる。そして、左上に家紋、右下には名前が記される。

凧に町印を描いている様子。右手前が家紋 (写真提供:上西すみたや)

これが「初凧」で、もともとは長男が生まれた家があると、端午の節句にその町を挙げて「初凧」を揚げてお祝いした。現在では次男でも、長女でも同じようにして5月3日から5日のいずれかの日に祝う。凧が大きすぎて家に飾れないので、無事に凧揚げを終えると、名前と家紋の部分だけを切り取って額に入れ、家に飾る。浜松市民にとって、これは一生の宝物になるという。

従来、子どもの名前入りのめでたい凧を糸切り合戦に使うわけにはいかないので、合戦用に名前が入っていない組凧、町凧も作られてきた。こういった凧揚げ文化は江戸時代に始まり、明治時代以降に盛んになったと言われている。近年では「初凧」の依頼主である「施主さん」の意向で、初凧でも合戦に参加することが増えているそうだ。大隅さんは「浜松の人間は合戦好きなんです」と語る。

竹ひご1本を作るところから始まる

270年以上、浜松で初凧、組凧、町凧の製作を手掛けてきた「上西すみたや」は、昔ながらの手作りをいまも続けている。

「暖かい時期の竹は水を吸っているので、秋に切った真竹を使います。10月から12月にかけて、手作業でその竹を割り、ひごや親骨と呼ばれる太い竹の骨に加工します。同時に、竹ひごを格子状に麻糸で縛って凧の形にした障子骨に親骨を針金で括り付けてがっちりと骨組みを作っていきます。浜松凧は糸切り合戦で相手の凧の揚げ糸を切りたいので、風を受けたとき、凧が力強く自分の揚げ糸を引っ張ることができるように、所々に親骨を入れて頑丈な造りにするんですよ。秋の間に障子骨を200枚は作っておきますね」

凧作りの作業は竹を真っ二つに割くところから始まる
指先の感覚を頼りに割いた竹を削って竹ひごや親骨にする

前年に子どもが生まれた家から174の各町に「初凧揚げ」の依頼があり、それを各町がまとめて発注するというしきたりになっているため、凧の注文が入るのは年明けから。注文が来ると、骨組みに和紙を張り、染料で色付けをする。一般的な凧で使用されている顔料ではなく染料を使うのもこだわりだ。

「顔料と染料の違いは光にかざしてみると一目瞭然。顔料は光を通さないけど、染料は通します。凧を揚げたときに、きれいにはっきりと町印や名前が見えるように染料を使っているんですよ。染料は顆粒や粉末状のものを配合してから煮て、『今年の色』を作ります。和紙も手作りなので、同じように頼んでも毎年微妙に出来が違う。その和紙に合う安定した色を作らなきゃいけないんですよ」

染料を使うことによって鮮やかな絵柄が空でも映える

最終工程は、家紋と名前を入れる作業。大隅さんにとって、凧作りのハイライトだ。

「凧に入れる名前はすべて僕が書いてるんだけど、これがね、ものすごくエネルギーが必要なんですよ。さらっと書いてしまうとどこか弱々しい感じになってしまうから、勢いがあって、勇ましく、元気よく、力強いものを書こうとすると、自分のパワーを込めないといけない。そうすると、漢字の一本、一本の線を引くのにもすごく時間がかかって、だいたいひとりの名前を書き上げるのに30分はかかるんです。それが終わると休憩して、また次の名前にうつる。昼間は集中できないから、夜中にひとり引きこもって書いています。実際に名前を書くのは2月と3月ぐらいなんだけど、筆を持っていないと腕がさびるのでいまも書道に通っています」

町印が目立つデザインだが「名前の部分が一番強くないといけない」と語る (写真提供:上西すみたや)

凧が大型化している理由

もともと「上西すみたや」は「際物業 (きわものぎょう) 」で、季節ごとに表具や盆飾りを作ったりしていて、凧も冬から春にかけての季節限定の仕事だった。しかし、もともと70ちょっとの旧町だけだった凧揚げの参加地域が昭和の終わりから平成にかけて急増し、現在は174もある。

各町からの初凧の注文に加えて、糸切り合戦で凧が壊れたり、古くなって新調するための組凧、町凧の注文もあれば、結婚式や新しくお店がオープンする際にお祝いとして凧が贈られるという浜松特有の文化もあり、いまでは凧の注文が年間300から400個にのぼるという。しかも、凧が大型化して作業工程が増えたため、最近ではほぼ専業になった。

ところで、なぜ大型化しているのか。そこには浜松ならではの事情が隠されている。
一昔前、凧揚げの会場になっている中田島砂丘では陽に照らされて砂浜が熱くなると、南から空気が入り込んで強い風が吹いたため、3、4帖の凧で十分だった。

しかし、砂浜が徐々に小さくなり、あまり強い風が吹かなくなってしまった。その条件でも凧を揚げるために、風をしっかりと捉える大きな凧が求められるようになったのだ。そうしていくつかの町が5、6帖の凧を揚げるようになると、当然、3、4帖の凧よりも空の上で見栄えが良いし、重くて頑丈なので糸切り合戦でも強さを発揮するようになる。そうなると、3、4帖の凧を使っていた町も「うちも大きくしよう!」ということになり、大きな凧が人気になっていったのだ。

10帖の凧 (左端) を運ぶときには、10トントレーラーが必要になる (写真提供:上西すみたや)

とある日の緊急事態

凧に思い入れのない者からすると、そんなに張り合わなくても、と思ってしまうが、大隅さんの話を聞いていると、凧揚げに懸ける浜松市民の尋常ならざる想いが伝ってくる。

「30本ほどある凧の糸目で重要なのは上の両端と下の真ん中にある糸を通す場所で、これを『みつ』と呼びます。浜松にはお施主さん本人が初凧のみつに糸目をつける糸目式という行事があるのですが、そのとき『みつ』以外の糸目も全部つけてしまいます。凧の糸目は各町によって糸を通す場所や本数、長さ、どこを張らせてどこを緩めるかとかいうのも全て違います。自分たちのやり方を盗まれるのが嫌なので他の町内の人間には見せませんし、必ず町ごとに糸目に関する秘密の資料があるはずですよ」

「あと、浜松の人間は各町で元日にも大凧を揚げますね。大晦日に支度をして、年が明けると暗いうちから河川敷や海で揚げるんです。凧が良く見えないから、電球をつけたりして。変わった光景ですよね (笑) 」

この環境で生まれ育った大隅さんも、もれなく凧が好きでたまらない。だからこそ、浜松で代々続く凧の作り手として、他にはない独特の技術と文化を継承していきたいという想いもあり、父親の跡を継いだ。

浜松を離れていた学生時代も、ゴールデンウィークには必ず帰郷したと語る大隅さん

実は、冒頭で記した「年末年始よりも浜松まつりのほうが大切」というのも大隅さん。この生粋の凧職人には忘れられない日がある。

3年前の5月3日。お祭り当日の夕方に、電話が鳴った。出ると「初凧を揚げてお祝いする前に、潰れてしまった (壊れた) 。4日の朝までに新しい凧を作ってほしい」という緊急連絡だった。タイムリミットは数時間。しかし幸い、必要な材料はそろっていた。言うまでもなく、返事は「わかった!」。電話を切ってからノンストップで凧を完成させて、翌朝の凧揚げに間に合わせた。

「事情はともあれ、なんとかして間に合わせてあげないとと思って作りました。浜松では結婚式を控えても、初凧のお祝いはするという人もいるぐらい一生に一度の大切なお祝い事ですからね」

凧文化がここまで根付いている町、ほかにあると思いますか? 最後にそう尋ねると、大隅さんは「ないと思いますよ」と即答した。その笑顔はやはり誇らしげだった。

冬場の制作風景。工房が凧で埋まる (写真提供:上西すみたや)

<取材協力>
すみたや上西・凧店
静岡県浜松市東区上西町25-12
053-464-4000

文・写真:川内イオ

虫の音を愛でる日本人が生んだ、芸術品のように美しい虫籠

こんにちは、ライターの小俣荘子です。

みなさんは、何か品物を見た時に、心を撃ち抜かれたような経験はありますか?胸がドキドキしたり、理屈を抜きにビビビっと来て見入ってしまう瞬間、見惚れてため息が出てしまうような出会い。実は私、先日経験いたしました。

ある夏の日、催事で展示されていた工芸品を何の気なしに見て回っていた時のこと。思わず足が止まり、釘付けになってその場をしばらく離れられなくなりました。そして食い入るようにずっと眺め、細部の美しさにもまた興奮したのです。

それは、静岡で江戸時代から続く繊細な竹細工、「駿河竹千筋細工 (するがだけせんすじざいく) 」という難しい技術で作られた虫籠でした。

これはぜひみなさんにもご紹介したい!と、現在唯一この虫籠を作ることができる職人さんをご紹介いただき、取材に行ってまいりました。


さて、まずは写真でその虫籠をご覧いただきましょう。こちらです!

いかがでしょう?繊細な竹ヒゴが整然と並び、天井は優雅なアーチ。朱色に手染めされた正絹の紐。そして、足元の曲線が美しい台も目を引きます。これは、「大和虫籠」と呼ばれる虫籠。

そのお値段、なんと8万568円 (右の小さいものは2万7864円) 。さらに飾りが施されたものは10万円を超える大人の虫籠、美術品とも言うべき代物です。

もちろん中に砂などを敷いて虫を入れて楽しむ方もいらっしゃるそうですが、お料理屋さんが十数個まとめて購入し、お料理の器として使ったり、人形や折り紙などを入れて自宅のインテリアとして活用されることも。毎年この美しさに心を奪われ購入される方々がいらっしゃり、作り続けられています。

家康の趣味と、貴人の美意識が育んだ贅沢品

駿河竹千筋細工は、徳川家康が駿府城で大好きな鷹狩りをするための餌箱を作らせたのが始まりと言われています。その技術を用いて、家康お抱えの鷹匠たちが鷹に合わせて籠を作り、改良が重ねられていきました。

その中で生まれた大和籠は、高貴な方々の愛玩用に用いられ、贅沢を極めます。籠本体は最高級品を用い、籠台には上質の檜材、足は上品な猫足型‥‥と、品質からデザインまでこだわり抜かれ、籠台の装飾は、黒または朱塗りに、金・銀の高蒔絵まで施してあったといいます。これを元にした虫籠が1860年 (万延元年) 頃から作られるようになります。

実用性だけでなく、美しさを追求して作られた鳥籠から生まれたのが、現代に伝わる大和虫籠だったのです。

いざ、工房へ!

冒頭で、難しい技術とご紹介した「駿河竹千筋細工」。1976年に通産省指定 (現経済産業省) の伝統的工芸品の指定を受けています。

具体的にはどのような技術で、どんな風に虫籠は作られるのでしょうか?

現在唯一、大和虫籠を作っておられる工房「みやび行燈」、伝統工芸士の杉山貴英 (すぎやま・たかひで) さんの元を訪れました。

みやび行燈で作られる虫籠や照明器具など繊細な作品の数々。その美しさは海外でも認められ、ドバイのホテルから注文を受けたり、杉山さんが「徹子の部屋」に出演された折には、虫籠をはじめとした作品の美しさに黒柳徹子さんが大いに感激されたほど。

近年では、照明デザイナー谷俊幸氏とのコラボ作品「HOKORE06」が、全国伝統的工芸品公募展にて経済産業大臣賞を受賞するなど数々の注目を集めています。百貨店などで展示されていることも多いので、私のようにどこか身近な場所で目にしたことのある方もいらっしゃるかもしれません。

伝統工芸士 杉山貴英さん

枠が肝!駿河竹千筋細工の美しさと強さの秘密

「この2つ何が違うと思いますか?」と、2つの小さな虫籠を並べて杉山さんが解説してくださいました。

右が駿河竹千筋細工の虫籠

「左は棒状のものに穴をあけて組み上げていくもの、右 (駿河竹千筋細工) は、1本の長い棒状にした竹の4箇所を曲げていって端と端を継いで作った枠に、穴を開けて竹ヒゴを通して組み立てていきます。この枠が静岡独自の特徴です。枠の継ぎ目は斜めにし、接地面を多くして平らになめらかに継ぎます。例えば秋田の曲げわっぱなどでは面を重ねていますよね。重ねると段差ができるのですが、段差を作らないようにするために斜めに切断して継いでいます」

よくよく見ると斜めに繋いである部分が見えますが、ひと目ではどこにあるのかわからない程なめらかです

「その他にも、編む竹の場合も、0.4ミリメートルほどの厚みのものを編んでいくのが一般的ですが、静岡のものは4〜5ミリメートルほどあります (ほぼ10倍ですね) 。それに熱を加えて曲げていきます。強度特化型の細工なのです。例えば、そこにあるバッグだったら2つ並べて上に板を敷いたら十分に人が乗れます。軽く上で跳ねても大丈夫なくらいの強度があるのです。編むというよりは組み立てていく、これが静岡の竹細工の特徴です」

駿河千筋細工のバッグ。美しさに加えて強度も高い
焼コテを使って熱で竹を曲げていきます

焼コテを使って熱で竹を曲げるところを実演していただきました。

形ごとの型があるわけではなく、熱の強弱で丸、または角の大きさを決めていきます。その時々の竹の質や季節によって曲げ方を調整するので、何千何万本も曲げて体に覚えさせていくのだそう。

目の前で様子を拝見していると、スイスイと簡単にやってらっしゃるようにも見えるのですが、お話を聞いているだけでとても難しそうです。角の中心から左右に均等な長さと角度に曲げていきます。四角に曲げるのが一番難しく (4つの角が均等でないと繋がらない、台形や平行四辺形になってしまうため) 、伝統工芸士の試験でも四角曲げが課題となるそうです。多角形から修行をはじめ、四角を美しく作るには最低7年はかかると言われているのだとか。

「やってみる?」と、杉山さん。

お言葉に甘えて体験させていただいたのですが、四角以前にそもそも曲がらない!!「力を入れずに重力に従って少しずつ両手を均等に下げていく」と伺ったのですが、竹のしなりの変化を腕で全然感知できず、「まだ曲がってくれないです」と言っているうちに最後には熱の入れすぎで折ってしまいました‥‥。曲げるだけでもとても難しかったです。

熱を加えて角を曲げた竹。これを4つの角全てに均一に施します

竹とバンブーは似て非なるもの

「静岡の竹細工は、平ヒゴではなく丸ヒゴを使うことも特徴ですが、これは元々が鳥籠や虫籠を作ることがルーツであったことによるものです。丸ヒゴにも、熱で曲げた枠にも尖ったところや出っ張りがなく、鳥や虫の体を傷めない作りとなっています。

実はこの技術があるのは日本だけなのです。

竹のことを英語でバンブーと言いますが、日本の竹とバンブーは別のものです。

タケ類は大きく分けると、タケ (竹) とササ (笹) とバンブーの3つに分類されます。バンブーは中国南部や東南アジア系の種を指します。熱帯雨林に生息しているので一気に水を吸って1年で15〜18メートルにも育ちます。

対して、日本の竹は、約3年かけて12〜15メートルほどに育ちます。

四季があるので、水がない時期や寒い時期も経験しながら順繰りに、時間をかけて育つので身がしまったものになるのです。

熱を加えて曲げると、曲げた部分に内周と外周ができますが、バンブーの場合は内周が大きくブチっと潰れて尖ってしまい、なめらかになりません。そして強度が低い。一方、日本の竹で作ると、この内周の部分が細かく潰れるに留まるので、なめらかにしなります。この日本の竹が無いと作れない技術なのです」

身のしまった日本の竹

日本の風土に根ざして発展した技術だったのですね。

ちなみに、年月と共に移り変わっていく竹の色、白から徐々に飴色となっていきますが、これを美しいと感じるのは日本人ならではの感覚なのだそう。苔に対してなども言えますが、経年変化を「劣化ではなく趣の変化」と捉えるのは確かに日本人独特の美意識かもしれないですね。

釘と刃物を固定して、均一な幅にしていきます
専用の穴に通して、細く均一な太さの丸ヒゴを作っていきます
曲げた枠の側面に丸ヒゴを挿す穴を開けていきます
穴を均等に開けるために印をつけるスタンプ
1本1本穴に丸ヒゴを差し込んでいきます。かつては内職の方々の仕事でした。素人の方でもスムーズにさせるよう穴や竹ヒゴの大きさを均一にすることが求められました。ここまで全て手作業です

虫の音を愛でる日本独特の文化

「虫籠が存在するのは日本ならではなんです。日本って、虫の扱い自体が独特ですよね」と杉山さん。虫の音と日本人の歴史についても興味深いお話が伺えました。

「日本人は、虫もいろんな名前で呼び分けますが、国によっては、「黒い虫」みたいな表現だけで、個々の名前がない場合も多いんです。虫によって異なる鳴き声を聞き分けて、○○虫が鳴いてるね、なんて言ったり、自分好みの虫の声があったりもしますよね。こういう感性は日本人以外あまり持ち合わせていないそうなんです。

元々、虫を愛でる文化は平安時代に中国から渡ってきていて、貴族たちが虫を集めて庭に放ってその声を楽しんだと言われています。コオロギをはじめ、それぞれの好みのバラエティ豊かな虫の音を楽しむようになり、館の主人の好みの虫を集めてくる、なんてこともあったのだとか。

一方中国では、虫を戦わせる文化 (賭け事) が流行して、聞く文化が廃れたようです。

日本ではそのまま残って、江戸時代に鈴虫が流行したといわれています。元々は庭に放っていたのですが、いつからか虫籠に入れるようになったようです。文献に明確に記述されてはいないのですが、挿絵として、竹でできた虫籠が旅館や銭湯などに置かれた様子が登場します (竹なので風化して現物が残っていないのです。文字通り土に還ります) 。

音に関して言えば、風鈴の音を聞いて涼むというのも独特ですよね。海外では呼び鈴など機能の音なので、涼しさと関連しません。虫の音は輸入された文化でしたが、耳で楽しむことは日本人の感性にあっていたのでしょうね」

昔の形を可能な限り忠実に再現して作られる大和虫籠。天井のアーチは、1本1本長さの異なる丸ヒゴによって形作られている

日本人独特の感性から長きに渡り愛され続けてきた虫の音。日本の風土で育った独自の竹。そこで生まれた美しい虫籠。

文章での解説は残っていないそうですが、どの文献を見ても不思議と変わらないことがあると言います。それは、虫かごの向き。常に戸がついている方が左に来るように置かれています。現代もそれにならって置かれ、左手前の部分を正面とし、腕によりをかけた細工を施します。太い枠の角を4つとも揃えるだけでも難しいですが、加えて、この角に沿って飾り細工をするところがすごいですね。なめらかな角に歪まずに均一に通された丸ヒゴ。ため息が出る技巧です。

正面左角には技術を尽くした細工が施される

技極まる駿河竹千筋細工。1873年 (明治6年) には、日本の特産品としてウィーン国産博覧会に出品されました。

竹ヒゴの優美な繊細さは、当時の西欧諸国の特産品をしのぐと好評を博し、これをきっかけに多くの製品が海外に輸出されるように。一時は200人もの竹に携わる職人がいたと言われています。

現在ではわずか数名にまで減少しましたが、伝統の技術を受け継いた美しい品々が今も日々製作されています。

ガラス越しに眺める芸術品と異なり、手元に置いて、使うことも愛でることもできるところが魅力でもある工芸品。この技術、美しい品々を後世にも伝えていければと願っています。

<取材協力>

みやび行燈

静岡竹工芸協同組合

文・写真:小俣荘子

“やらまいか”日帰り浜松の旅

こんにちは。さんち編集部です。
7月の「さんち〜工芸と探訪〜」は静岡県の浜松特集。浜松のあちこちへお邪魔しながら、たくさんの魅力を発見中です。
今日は浜松特集のダイジェスト。さんち編集部おすすめの、日帰りで浜松を楽しむプランをご紹介します。

今回はこんなプランを考えてみました

【午前】龍潭寺:おんな城主 直虎が眠る遠州の古刹
【お昼】石松餃子 本店:「浜松スタイル」の原点
【午後】
・HUIS:遠州織物を生かした浜松発のシャツブランド
・楽器博物館:アジア最大級の規模を誇る、日本初・公立楽器博物館
【ちょっと休憩】こんどうコーヒー:町の体温が感じられる喫茶店

【夕方】BOOKS AND PRINTS:写真家 若木信吾が故郷にオープンした写真集専門店

【夜】うなぎ料理専門店 あつみ:余計な手を加えないまっすぐな味で勝負して110年

浜松一帯はJRのほかに私鉄も走っていますが、浜松駅周辺以外の見どころは駅から少し離れたところにあり、車での移動が便利。電車メインで回るけれどあちこち見たい!という人は、駅からタクシーやバスを上手に使うと効率的です。

では、いよいよ“やらまいか”日帰り浜松の旅へ出発です!

【午前】おんな城主 直虎が眠る遠州の古刹
龍潭寺 (りょうたんじ)

旅の始まりは、今年浜松に行くならぜひ訪れたい話題のスポットから。浜名湖の北に位置する龍潭寺は井伊家存続の危機を救った女領主、井伊直虎が眠る井伊家の菩提寺。

境内には歴代の井伊家墓所があり、2017年大河ドラマでその激動の人生を描かれた井伊直虎は、生前結ばれることのなかった幼少時代の許嫁、直親の隣に祀られています。

「日本の森百選」にも選ばれた約1万坪の美しい境内や、東海一の名園と謳われる小堀遠州作の庭園など見どころもたくさん。奥浜名湖の自然を愛でながら、歴史散策を楽しみましょう。

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時間に余裕のある人は、織物産地・浜松を見守る三ケ日 (みっかび) の初生衣 (うぶぎぬ) 神社

【お昼】「浜松スタイル」の原点
石松餃子 本店

そろそろお昼時。ここはやはり浜松名物を食べたいところです。浜松の中心部へ戻りながら、浜松餃子の名店へ向かいます。

2014年から餃子購入額3年連続日本一の浜松市。餃子取扱店300店以上、餃子専門店約80店が軒を連ねます。そのなかで、お皿の上に餃子を円形に並べて中央の空いたスペースに茹でたもやしを置く「浜松スタイル」の元祖と言われているのが、昭和28年 (1953年) 創業の老舗「石松餃子」。

特製の酢醤油をつけてパクリと食いつくと、あっさりとしながらもじゅわっとジューシーな口当たりで、ひとつ、ふたつと箸が進みます。平日のお昼前でも続々とお客さんがやってきます。ここは早めに行ってさっと腹ごしらえを。

野菜の甘みと豚肉の旨味のコラボレーションが絶妙。あっという間に皿の上の餃子が減っていきます
石松餃子本店。平日のお昼前にもかかわらず続々とお客さんが。女性の姿も多い

こちらも車でのアクセスが便利ですが、難しい人はJR浜松駅ビル「メイワン」に支店があるので、諦めずにそちらを利用する手もありますね。

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【午後】遠州織物を生かした浜松発のシャツブランド
HUIS (ハウス)

腹ごしらえをしたら、そのまま浜松駅周辺を観光、の前に、JRでひと駅お隣の高塚駅で下車して、織物の町としての浜松の顔に触れてみましょう。

浜松は楽器や自動車のものづくりだけでなく、遠州織物という織物の一大産地。HUISさんはオーナーの松下あゆみさん自ら地元の機屋 (はたや) さんとともに生地開発を行い、遠州織物を生かしたものづくりを続けるシャツブランドです。

2017年7月7日にオープンしたショールームには飽きのこないシンプルなデザインのシャツやストール、スカートなどが並びます。遠州織物の今に触れられる場所として、また上質な日常着を探しに、訪ねてみては。かつて機屋さんだったという建物も素敵です。

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>>>関連記事 :「織姫が縁をむすぶ織物の町・浜松を訪ねて」

アジア最大級の規模を誇る、日本初・公立楽器博物館
楽器博物館

続いては音楽の町、浜松の顔を覗きに行きましょう。JR浜松駅から徒歩5分ほどの場所にある「浜松市楽器博物館」へ。

1995年4月にオープンした日本初の公立楽器博物館で、「楽器を通して世界と世界の人々の文化を知ろう」というコンセプトのもと集められた世界の楽器はなんと1300点!

他にも膨大な量の資料が保管・展示され、その規模はアジア最大級を誇ります。展示だけでなく、コンサートや展示楽器の演奏付き「ギャラリートーク」、珍しい楽器に触れることのできる体験ルームなど様々な形でどっぷりと楽器の世界に浸ることができます。

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【ちょっと休憩】町の体温が感じられる喫茶店
こんどうコーヒー

昔ながらのタバコ屋販売も続けている喫茶店です

さて、浜松巡りも後半戦。ちょっと休憩、という時におすすめなのがJR浜松駅から徒歩5分、親子3代で受け継ぐ「こんどうコーヒー」。

「こんどう」の名前が掲げられた店内。カウンターが落ち着きます

黄色い柔らかい照明の色に照らされたカウンターのみの店内は、どこか懐かしさが漂います。1杯ずつ丁寧なネルドリップで淹れられるコーヒーをいただきに、親子代々の常連客が毎日通い詰めるそう。

地元密着の店ながら気さくなママさんに迎え入れられ、一見客にも居心地が良いのが嬉しいところです。ケーキ職人だった先代の味を引き継ぐケーキとともにゆったり休憩を。

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>>>関連記事 :「愛しの純喫茶〜浜松編〜 こんどうコーヒー」

【夕方】写真家 若木信吾が故郷にオープンした写真集専門店
BOOKS AND PRINTS (ブックスアンドプリンツ)

ひと息休憩も入れたところで、JR浜松駅北口から徒歩10分。「浜松の今を知りたいなら絶対に外せない場所」と教わった、築50年以上の雑居ビルに向かいます。

浜松出身の写真家・若木信吾さんが2010年に開店したセレクトブックショップ「BOOKS AND PRINTS」が入るKAGIYAビルに到着。店内には若木さん自らセレクトした国内外の写真集やZINEのほか、浜松でしか手に入らないオリジナルグッズも並び、展覧会やトークショーなど様々なイベントを開催する書店としても注目を集めています。

他にもKAGIYAビルには個性的なショップが入り、ビル全体がさながら浜松の文化発信拠点。ぜひ各階足を伸ばしてみて。

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>>>関連記事 :「本と人の出会う場所 BOOKS AND PRINTS」

【夜】余計な手を加えないまっすぐな味で勝負して110年
うなぎ料理専門店 あつみ

いよいよ浜松の旅も総仕上げです。浜松に来たらこれを食べずして帰れません。そう、うなぎ。

浜松のうなぎは、海のプランクトンとミネラル豊富な地下水が混ざりあう汽水湖の浜名湖で養殖されるために旨味が凝縮され、美味しいのだそう。そんな浜名湖産うなぎにこだわって営業しているのが、創業明治40年 (1907年) の老舗「うなぎ料理専門店 あつみ」です。

浜松駅近くの繁華街に位置する「あつみ」

うなぎだけでなく、浅漬けやお吸い物、さらには箸にまで、とにかくお客さんの口に触れるもの、口に入れるものすべてに徹底的に配慮する5代目が、110年続く暖簾を守ります。ランチも夜も早い時間帯から混雑するのが地元で愛されてきた何よりの証。舌の肥えた浜松っ子も通う名店の味をしっかりとお腹におさめて、日帰り浜松の旅の締めくくりとしましょう。

浜名湖産うなぎの白焼き (2300円) 。シンプルだからこそ、素材の良さが際立つ絶品

うなぎ料理専門店 あつみの情報はこちら

いかがでしたでしょうか。直虎にうなぎに楽器はもちろん、織物に老舗喫茶店にと、様々な顔を持つ浜松をめぐる盛りだくさんの日帰り旅。遅くまで遊んでも、新幹線で東西どちらにも出やすいのが浜松のいいところですが、遊び過ぎにはご注意を!

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写真 : 尾島可奈子・小俣庄子・神尾知里・川内イオ
写真提供 : 浜松市

浜松の音はざざんざ 民藝運動から生まれた紬の物語

こんにちは。浜松在住のライター、神尾知里です。
その土地から生まれ、使い勝手が良く、生活に根ざした「民衆的工芸」=「民藝」。最近では若い人の中にも「民藝」が好きな人が増えていると聞きます。その歴史を探ると日本初の民藝館は意外にもここ浜松にありました。そして浜松には「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦 (やなぎ・むねよし) のDNAを受継ぐ織物があるのです。
「ざざんざ織」というちょっと変わった名前のその織物を、今も昔ながらの手法で受け継がれている工房にお邪魔しました。

浜松に誕生した日本初の民藝館

大正15年、柳宗悦が陶芸家の河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉らと共に「日本民藝美術館設立趣旨書」を発表し、浜松で教師をしていた中村精 (なかむら・せい) の元にこの趣旨書が届いたことが、浜松の民藝運動の始まりでした。
趣旨書に深く感銘を受けた中村は、昭和2年に浜松に柳を招き民藝についての座談会を開き、昭和6年には浜松の素封家 (そほうか・財産家の意)・高林兵衛の母屋を改装して、日本初の「日本民藝美術館」を開館したのです。

中村精 著『濱松と民藝』より 高林邸内に開設された日本初の「日本民藝美術館」(浜松市立中央図書館 所蔵)

その後柳宗悦と高林兵衛の決別により、美術館は2年で閉館となりましたが、浜松の民藝運動の中核を担っていた中村精の実兄、平松實 (ひらまつ・みのる) が浜松の民藝運動を支えることとなります。

ざざんざ織 創始者 平松實

平松は、遠州地方で最も早く動力織機を導入した織屋の子息でしたが、柳が提唱した民藝運動に共鳴し、手織りと草木染めの研究をはじめ、「ざざんざ織」を完成させました。
平松が浜松に民藝織工房「あかね屋」を開店したのは昭和7年、東京に「日本民藝館」ができる4年も前のことでした。

足利義教が詠った、松風の音「ざざんざ」

ざざんざ織、そのちょっと変わった名前の「ざざんざ」とは「颯々」とも書きます。
古くより浜松の地にあった有名な松の木の下で、将軍足利義教が宴を催した折に「浜松の音はざざんざ‥‥」と詠ったことから、この松を「ざざんざの松」と呼ぶようになり、広重の五十三次にも描かれています。
潮風に冴え、人々に美しさと安らぎを与える松風の音を表現した「ざざんざ」にあやかって、その名が付いたそうです。

東海道五十三次之内 濱松 ざざんざの松

昔ながらの手法で作られるざざんざ織

ざざんざ織は、玉繭と呼ばれる、ひとつの繭に2匹の蚕が入った繭から取り出した絹糸で織った紬 (つむぎ) の絹織物です。
玉繭は、規格外のくず繭として売りものにはせず、古くから養蚕家の家庭用として用いられていました。
そのため安価で手に入るものの、手作業でしか生糸を取り出せず大変手間がかかったそうです。
手作業で取り出した玉糸は、太さ細さの変化があり、節のある玉糸を数十本も縒 (よ) り合わせた紬糸自体の出すムラが生む特有の風合いが、ざざんざ織の特徴です。

左は普通の繭、右が玉繭

もう一つの特徴は草木染めです。現在は鮮やかさを出すために一部の色に化学染料を使うこともあるそうですが、基本は植物染料を用い、灰汁、みょうばん、鉄などの媒染液によって色合いを工夫しているそうです。やまもものベージュ、あかねの赤、ハンノキの黒‥‥落ち着いた優しい色合いがざざんざ織の魅力です。

茜はざざんざ織の代表的な色

また、丈夫で長持ちするざざんざ織は織りたての時は固く張りがあり、使い込むうちに糸の表面が平らになり、ツヤとしなやかな触り心地が増していくのが特徴で、ネクタイは特に使い込んだものの方が良いそうです。

使い込むうちに手に馴染むと評判のネクタイ

「ざざんざ織」継承者・平松久子さんを訪ねて

ざざんざ織 あかね屋

現在のあかね屋は、JR浜松駅から車で5分ほどの静かな住宅街の中にあります。
「昔はね、浜北の方に行けば桑畑が沢山あったんですけどね。今は玉繭を仕入れるのも大変ですよ。染料のあかねも昔は機場 (はたば) の近くにいくらでも自生していたのよ」
そう話してくださったのは、ざざんざ織の四代目・平松久子さん。二代目平松哲司氏 (故人) の奥様にあたります。
昭和33年に平松家に嫁ぎ、手織りの手ほどきを受けてから50余年。80歳を過ぎた現在も毎日織り続けていらっしゃいます。

「もう1人では、こんな絣 (かすり)の模様 はできないわね」とおっしゃる久子さん

「こんな古い手織機見たことある?」久子さんに案内していただき工房に入ると、昔話で見たような手織機や糸車が並んでいます。

あかね屋 工房

「糸車は竹が使われているから、息子が修理してくれるの。昔の人は道具も自分で作ったり、手入れしていたのね。」

緯糸 (よこいと) 巻き
染めた糸を緯糸にするため小管に巻いたもの

とんとんからり、とんとんからり。織り上げの作業を見せてくださる久子さん。
足と手を使って、みるみるうちに織りあがっていくのを見ている私に、家事や子育てをしながら手織りを続けてこられた話や、自分の帯を織らせてもらった時の話、濱田庄司さんのご自宅にお邪魔した時のお話、義父・實 (みのる) さんのお話をしてくださいました。

手織機で織り上げる

「義父はざざんざ織をよく考えたなと思いますよ。染めも全部ご自分で大きな御釜で染めてらしてね。私は嫁いで3日目には綜絖(そうこう)通しのお手伝いをしていたわね。何にもわからないから義父のテンポに合わせるのが大変だったの」

縦糸の綜絖(そうこう)通しで模様が決まる

受け継がれた心と民藝のあるべき姿

平松實さんが手織り・草木染めのざざんざ織を始めた頃は、機械化が進む世の中。大きな志を持って世に問うような気概で、機に向かっておられたかもしれません。一方の久子さんが手織機に向かう姿はとても自然体です。先代と同じように県の無形文化財保持者に推薦されても断わられた久子さんにとって、ざざんざ織は嫁ぎ先の大切な家業であり、生活の一部なのでしょう。

「私、幸せだと思ってますよ。普通にお勤めの人のところに嫁いだら、こんなことできなかったでしょう?最近はね、織らなかった日は運動不足なのかしら、眠れないの。だから毎日織るのよ」

もともと紬とは、衣服に対する決まりごとが厳しい江戸時代でも、絹でありながら質素なものと思われ、百姓町人でも着ることが許された絹織物でした。
その昔、各地の農村で日々機にむかっていた織り子さんたちのように、喜んでくれる人のために淡々と織り続ける久子さんこそが、柳宗悦が提唱した生活に根ざした民藝のあるべき姿なのかもしれない、そんなふうに思えました。

<取材協力>
ざざんざ織 あかね屋
静岡県浜松市中区中島2-15-1
053-461-1594
http://www.zazanza.com
営業日・時間などは事前にお問い合わせください


文・写真:神尾知里

わたしの一皿 キリッとしないガラス

きゅうり、空芯菜、ししとう、モロヘイヤ、ズッキーニ、おかひじき、オクラ‥‥。テーブルは緑の野菜の乱打戦。夏がやってきましたね。もう10日以上の真夏日が続いています。梅雨、まだ明けてないはずなんだけどな。クーラー付け過ぎで電気代がひたすら気になる、みんげい おくむらの奥村です。

今日は「オクラ」。夏野菜の四番打者といってもよいかもしれません。世界中で愛される野菜。生でもよし、ゆでてよし、煮込んでもよし。暑い日はとにかく料理もめんどくさい。出来ればささっと作れて、夏バテにならないような栄養のとれるものを食べたい。それならこのネバネバ野菜はぴったりの素材。

あついあつい日、使いたいのはやっぱりガラスのうつわ。前にも琉球ガラスを紹介したけれど、今回は福岡、旧小石原村 (きゅうこいしわらむら・現東峰村) で再生ガラスのうつわを作る太田潤手吹きガラス工房。

小石原 (こいしわら) は焼き物の産地。太田潤さんは小石原焼の家系に生まれた次男坊。長男が焼き物の道に入り、彼自身はガラスの道に入りました。修行は沖縄ですが、今は郷里で、あこがれる倉敷ガラスの小谷真三さんのように1人きりで 再生ガラスのうつわを作っています。

ガラスは焼きものとちがい、短時間の勝負。炉の中からガラス原料を取り出し、一気に成形していく。数人の工房なら分業で行程ごとにぽんぽんと作業が受け渡されていきますが、1人だとそうはいきません。全ての段取りが自分の両手の届く範囲にあり、狭い中でリズミカルに動き回り、1つの形を生み出します。

太田潤さんのガラスの良さは、キリっとしていないところ。していないところって何だよ、とは言わないで。同じコップを10並べると、10の表情がある。工業製品ならこれはダメでしょう。手の仕事でも同じコップなら、出来るだけ同じサイズ、形は当然意識して作られています。しかし、彼のものには10の表情がある。いや、15くらいあるかもしれない。なんだかほめているのかわからないようですが、ほめています。

今回使ったうつわもフチにゆがみがあるもの。作家もののわざとくずした形にしたものって、そのいやらしさが伝わってきて好みではない。でも、こう作りたいというのがあって、そこに辿り着いているのか辿り着いていないんだかわからない、そんな着地点のこのうつわのゆがみには愛らしさがあります。名誉のために言っておきますが、ヘタということではないんですよ。

ゼロから完成までが全て1人の手。原料として不安定な再生ガラスを、体調や心もちも一定しないふつうの人が吹く。そんなうつわなので、どこか仲の良い友人のような親しみがあります。

さて、オクラは板ずりで下ごしらえをして、さっとゆでる。クッタリしたら台無し。生でも食べられる野菜なので食感がきちっと残るようゆでたいところ。ゆで上げて冷水にとってオクラがおちついたところで、いそいで梅をたたき、調味料と合わせる。オクラをささっと切って和えるだけ。オクラの梅肉和えの完成。この料理は時間が経つと色が悪くなるので作りたてを食べたいもの。

この時期、明るい時間はガラスのうつわが光を通してより表情豊かになります。ひとときの涼をテーブルに。

最後に、小石原を含む東峰村やその周辺のこと。7月上旬の豪雨で甚大な被害に見舞われています。特に、高速の杷木 (はき) を降りてから小石原に向かう、のどかな山間のエリアが被害が大きかったようです。買い付けにむかう時にいつも季節季節を感じさせてくれる日本の里山の風景がありました。一刻も早くおだやかな暮らしが戻ってきますように。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理