一夜のために10年以上の歳月をかけて作る、浜松まつりの御殿屋台

こんにちは、ライターの小俣荘子です。

毎年5月に開催される浜松の一大イベント「浜松まつり」。今年は取材に訪れ、地域のみなさんの熱い想いに触れることができました。お祭りの夜を彩る「御殿屋台引き回し (ごてんやたいひきまわし) 」。提灯に灯がともり、人々に引かれて各町内の御殿屋台が現れます。名前に「御殿」と付くとおり、5メートルを超える高さのものもあり、豪華絢爛で大変な迫力があります。まるで絵巻物の世界のように幻想的な御殿屋台。各町内の大切な宝物です。この美しさに魅了され、再び浜松へ!御殿屋台について詳しく取材してきました。

◆「浜松まつり」の記事はこちら

浜松の夜を幻想的に彩る御殿屋台

御殿屋台の歴史

浜松まつりは、大凧合戦が起源のお祭りです。その昔、凧揚げの道具を乗せた大八車の四隅に柱を立て、凧を屋根代わりにして運んだことが屋台の始まりと言われています。その後、造花や提灯で華やかに飾った屋台が登場し、次第に豪華さを増し、現在のような多重層の屋根で見事な彫り物がたくさん施された豪華絢爛な屋台が作られるようになったそうです。

現在では、町内で積み立てをしたり出資者を募って、1台に1億円以上の制作費をかけて作られることもあるのだとか。みなさんの情熱が伺えます。今年の浜松まつりでは、81もの町内の御殿屋台が街を優美に行き交いました。

御殿屋台には、1台につき100〜120点もの彫刻が施されています (和田町の御殿屋台)
目立たない場所にもこんな精巧な彫刻が埋め込まれています (和田町の御殿屋台)

御殿屋台ができるまで

この美しい御殿屋台はどのようにして作られているのでしょうか?

御殿屋台づくりの専門家である、早川真匠 (はやかわ・しんしょう) さんにお話を伺うことができました。早川さんは、浜松の重層御殿屋台を生みだした「三嶽 (みたけ) 流」の伝統を継ぐ四代目として、祭り屋台一筋に新造・修復をされています。各町内会で大切に保管されている御殿屋台。本来であれば、お祭りの時期以外に目にすることは出来ないのですが、町内からの信頼も厚い早川さんが相談してくださり、浜松市和田町のみなさんご協力のもと、特別に見せていただけることに。実際の御殿屋台を間近に解説していただきました。

屋台師の早川真匠さん
全長5.4メートルもの御殿屋台を保管する巨大な倉庫
和田町の御殿屋台。全長5.4メートルもの大きさに圧倒されます

精巧な細工の魅力はもちろんのこと、毎年のお祭りで何人もの人を乗せ、街中を華麗に引き回される屋台は耐久性も重要です。狭い道や急な坂など町内によって通る場所も様々。どんな状況で引き回されても力に耐え、壊れにくくかつ美しい姿を形づくるには、釘を使わずに組み立てる宮大工の技術が用いられます。この技術により、毎年のお祭りを経ても100年もつと言われているのです。制作費1億円、全長5メートル以上、100年の耐久性‥‥キーワードを並べているだけでも圧倒されてしまう御殿屋台。さっそく、早川さんに教えていただいた御殿屋台づくりの道のりをご紹介します。

まず始まる材木探し

美しさと耐久性の備わった屋台をつくるため、素材を厳選することから始まります。御殿屋台はケヤキとヒノキを使った白木づくりが中心です。木肌の美しさをそのまま見せるところに特徴があります。質がよく美しい材木を求めて、愛知県、岐阜県、長野県、滋賀県など各地の森の中を空師 (そらし=高い木の上で伐採などを行う専門家) と一緒に早川さんも探し回ります。すぐに良木に巡り会うのはなかなか難しく、やっと見つけても切り落として中を見ると空洞になっていたり、腐っていたりと使えないこともあり、全体の1/3くらい使えれば良い方なのだそう。何年もかけて探します。

原木を入手したら次は乾燥です。大割り (大木を山から搬出できるようにひき割る) して、毎日水をかけて、雨さらし、陽さらしをし、数年かけて天日乾燥してから、さらに、二度引き、三度引き (使える形に木材を整えていく作業) をして、また乾燥させます。ここまでで、すでに5年以上の年月を費やします。御殿屋台づくりの序盤中の序盤ですが、「早川さん、早くも想像以上です‥‥」と、お話を伺う声も震えました。

1本1本探し求めた大木の記録資料を見せていただきました。なんて大きい‥‥

木の部位や向きを見極めて使い所を決める

材料のとなる木材がやっと揃ったところで、「型板おこし」が始まります。屋台の大きさ、高さ、軒の出をどれくらいにするか、屋根はどうするか?など検討します。図面を引きつつも、ご自身の脳内にある3Dの完成イメージが正確なので、それを照らし合わせながら寸法を出し、各パーツを作っていきます。

興味深かったのが、丸太のどの位置から切り出した木材なのかが、使う位置に大きく影響するということ。木目など柄としての影響だけでなく、反りが強度にも影響するのだとか。永きに渡り壊れず美しい屋台の形を保つには、内側に反りが向いていて均一に圧力がかかっている状態がベスト。「内に締まるように、木を見てカンナを使う」とおっしゃっていました。

装飾の彫刻のサイズも決まってくるので、木を切り出し、彫り師へ依頼します。イメージを共有して最後に合わせた時に美しくピタリとしたサイズ、デザインで出来上がる。信頼関係を築き上げたチームワークの成せる技ですね。

カンナの刃。美しく研がれ、切れ味抜群
様々な形のカンナ。何を削るかに合わせて使い分けます
木目が美しく表れた面に細工を施します
どの面を切り出して削るかで木目が変わります。ペーパーヤスリをかけると木が死んでしまう、と最後までカンナで磨きます
大切に手入れされている道具の数々も見せていただきました
こちらは早川さんこだわりの逸品。刃物の名産地、燕三条で特注して作ったもの。何層にも重なった刃の波模様が美しいですね

超難関パズル「組子 (くみこ) 」づくり

同じ硬さのもの同士で圧力を加え合った方がものは壊れにくい。釘を使わず、木を組み合わせることで強度と美しさを生む宮大工の技術。組み合わせると一言にいっても、それは単純に2つのパーツを合わせるだけではありません。土台、柱などの大きなものから、細かなものまで様々なパーツを材木から切り出し、組んでいきます。

特に、屋根を支える「組子」と呼ばれる部分は異なる形状のバーツをパズルのように組み合わせていくことで、強度を高めていきます。木を細かく組むことで、屋根の重さや揺れた時の衝撃の力をを分散させる役割を担っているのです。 (ただの飾りではないのです!)

とても複雑なので「図面を見てやろうとすると間違う。頭に入っている3Dのイメージを元に組んでいきます。毎晩夜中まで、休むことなく作り続けます」と早川さん。組子のパーツは、1200〜1300個ほどにも及び、もちろんすべて早川さんが切り出して組んでいます。

屋根を支える組子。全てバラバラのパーツからできている細かいパズルなのです
こちらは、土台部分を支える腰組。屋根の組子と同じように細かいパーツを組み合わせています

垂木 (たるき) の幅が全体の寸法を決める

ある程度、組子が仕上がってくると屋台を組む作業へと進みます。整然と組まれる組子をはじめとした各パーツ。全体の大きさが相似となっているようにも感じられます。何か基準があるのでしょうか?伺うと、「垂木を基準として寸法を決めます (「支割り」と呼びます) 。これによって、縦軸、横軸を全てピシッと合わせます」と、教えてくださいました。垂木は、屋根の下の部分に整然と並んでいる棒状の木材のことです。1支2支とカウントします。

整然と並んでいる棒状の木材部分を垂木と呼びます
正面から見ると屋根の下に点のように並ぶ垂木。この点をたどると、下の組子の位置や柱の位置とピタリと一致します

早川さんの脳内に入っている3D完成図のイメージも、この垂木の単位で数字を全て整理しているそうです。垂木による支割りは長い年月をかけて体で覚え込んでいきます。「常に親方について行って修行することで身につけていく技術です」と早川さん。大工さんは、支割りの正確性を見て仕事ぶりを評価するのだとか。

情報共有のために2Dの図面イメージは書き上げますが、実際の仕事は脳内の3D完成図をイメージして行なっています

最後に全てのパーツを組み合わせて完成

材木を探し、小さな組子を1つ1つ組み合わせることから始まった屋台づくり。少しずつパーツを組み合わせて段々と形が出来上がっていきます。最後は屋根に銅板を貼り、車をはめ、飾りの金具をつけ、彫刻を取り付け、提灯をつけてやっと完成です。

今回拝見した和田町の御殿屋台は10年の月日を費やして作り上げられました。製作中は、屋台が気になって夜中に目が覚めてしまったり、眠れない日があったり痩せてしまったりもするという早川さん。しかし出来上がると、えも言われぬ喜びがあり、よかったなぁと思うと笑顔で語ってくださいました。

御殿屋台づくり、想像をはるかに超える世界でした。こんなにも時間と手間がかかっていたなんて。装飾の豪華絢爛さばかりに注目が集まるところもありますが、その美しさを引き立たせ、長い年月に渡ってその姿を保ち、町内の財産として残していくためにはたくさんの苦労と技術、素材にこだわり抜く目がありました。

御殿屋台製作のために、積み立てや出資者を募り、出来上がった屋台を各町内の誇りとして大切にするみなさん。その思いを一身に背負って製作する作り手の方々。たくさんの思いが詰まった御殿屋台。ここでもまた、浜松まつりへの人々の情熱を感じました。

<取材協力>

早川真匠

浜松市東区和田町のみなさん

文・写真:小俣荘子

古典芸能入門「能」の世界を覗いてみる ~内なる異界への誘い~

こんにちは。ライターの小俣荘子です。
みなさんは古典芸能に興味はお持ちですか?
独特の世界観、美しい装束、和楽器の音色など、なにやら日本の魅力的な要素がたくさん詰まっていることはなんとなく知りつつも、観に行くきっかけがなかったり、そもそも難しそう‥‥なんてイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。 気になるけれどハードルが高い、でもせっかく日本にいるのならその楽しみ方を知りたい!そんな悩ましき古典芸能の入り口として、「古典芸能入門」を企画しました。そっとその世界を覗いてみて、楽しみ方や魅力を見つけてお届けします。

今回は、「能」の世界へ。
歌舞伎と並べて語られることも多いですが、この2つは両極にあると言っても過言ではないかもしれません。豪華絢爛なエンターテイメントとして大衆に支持された歌舞伎に対して、能は神事として発展し、豊臣秀吉を始め、多くの大名たちに愛されました。能を演じることは「茶の湯」と同様に、武家社会におけるたしなみの1つでもあったと言います。
削ぎ落とされたストイックで禅的な世界。現代では思想的な面でも国内外から注目され、多くの人を魅了し続けています。

能楽堂の様子。舞台を取り囲むように客席があり、写真右手前から正面、中正面(角から柱越しに鑑賞します) 、ワキ正面(本舞台を真横から鑑賞します)と呼ばれ、位置によって異なる視点で味わうことができます

なにやらよくわからない、けれど惹きつけられてしまう

私が初めてお能を観たのは、能楽堂主催の鑑賞教室でのこと。12歳くらいの時でした。美しい装束や、楽器の音色や謡(うたい=節のついたセリフや唱歌)、優美な舞‥‥夢うつつの幻想的で美しい世界が広がっていて、よくわからないながら知らぬ間に引き込まれていました。それからおよそ20年の間に何度もお能を観る機会に恵まれましたが未だに「わかった」と言えません。
よくわからないまま、それでもまた観に行ってしまう。とても気になる。不思議な魅力に引き寄せられ続けています。

ご紹介にあたり、なんとかわかりやすい解説をお届けできればと思っていたのですが、なかなか一筋縄にはいきません。
説明しようとすればするほど本質から離れてしまう気さえします。白洲正子さんをはじめ、著名な方々が書かれた数々の解説書においても「能を説明することは困難、むしろ解説しようとすること自体が適切では無い」といった類のことが書かれていることもありました。 (解説書なのに!!)

しかし、その「難しさ」は他者を受け付けない閉鎖的なものではありません。
ストーリーは非常にシンプルですし、事前知識を持たなくても研ぎ澄まされた美しさを味わうことができます。
ただ、その奥深さゆえ、1度鑑賞したり解説されただけでは、きっと全てを理解し得ないのです。わからないからこそ、惹きつけられる。その魅力や根源にある「何か」をずっと探し続ける、問い続ける、そのこと自体が鑑賞の大きな要素にある芸能、と言えるかもしれません。

百聞は一見に如かず、まずは観てみる

平成29年国立能楽堂能楽鑑賞教室 能「黒塚」 (金春流)

そんな奥深い「能」の世界。まずは実際に鑑賞して感じ取ってみることからはじめてみよう!と、取材では、6月に国立能楽堂で開催された能楽鑑賞教室にお邪魔しました。

冒頭から、難しさを語ってしまいましたが、能楽堂に足を踏み入れることのハードルは高くはありません。様々な場所で公演や鑑賞教室が開催されています。服装も、かしこまった姿である必要はなく気軽です。社会人向けや外国人向けの解説付きの公演もあり、チケットを取っておけば、お仕事帰りにふらりと訪れることもできます。

鑑賞教室では、金春 (こんぱる) 流能楽師 山井綱雄 (やまい・つなお) さんによる解説と、狂言「附子 (ぶす) 」、能「黒塚(くろづか)」を10代の学生さんたちと一緒に鑑賞しました (一般的に能と狂言は一緒に上演され、2つを総称して「能楽」と呼びます) 。

能は、楽器の音色や声も耳に美しく響き心地よいので、上演中に夢の世界にぐっすり旅立った学生さんもちらほらいましたが (「良い能ほどよく眠れる」とも言われていますので、眠ってしまって堪能するという贅沢な鑑賞もアリかもしれません) 、終わった後に「あの部分が綺麗だった!」「あそこはこういう意味かな?」と感じたことを楽しそうに語り合いながら帰っていく学生さんたちも多く印象的でした。みなさんそれぞれに感じ入るポイントがあったのでしょうね。

公演後、山井さんにお時間をいただき、能への向き合い方をお尋ねしました。記事の後半でご紹介させていただきます。

神様の宿る、松の木の前で舞う「一期一会」の世界

能のルーツは千数百年以上もの昔、「散楽 (さんがく) 」という芸能に遡ります。平安時代に散楽から発展して生まれた「猿楽 (申楽=さるがく) 」が、能の直接の母体と言われ、神事の際に演じられるようになりました。

その後、室町時代に観阿弥・世阿弥親子が芸術性を高め、現在の能の原型が生まれました。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など多くの大名が愛好し、江戸時代には幕府の儀式を彩る役割を担ったと言われます。
明治維新〜第二次世界大戦時期にやや衰退するものの、世界でもその芸術性を高く評価され、2001年にはユネスコの無形文化遺産の一つに登録されました。

写真提供=国立能楽堂

庶民のためのエンターテイメントではなく、神事、武家社会における芸術へと育った能。1つの公演はたった1度きり。同じ演目を連続で公演することはなく、その場限り「一期一会」の芸能とも言われます。

舞台も独特です。元々は社寺の境内の一角 (屋外) に建てられていたため、現代の屋内に建てられた能舞台にもそのまま屋根が付いています。舞台の正面奥の板 (鏡板=かがみいた、と呼びます) には、神様が宿ると言われる松の絵が描かれており、この松の前のむき出しの4本柱に囲まれた舞台がメインステージとなって演目は進みます。
舞台袖の揚幕と舞台をつなぐ橋掛リ (はしがかり) の脇にも松が3本植えられており、それぞれ一ノ松、二ノ松、三ノ松と呼ばれ、順に松の背が低くなっており遠近感を演出しています。こちら側とあちら側の世界 (黄泉の世界) をつなぐ長い橋を表しているようにも感じられますね。なんとも非日常的で、この舞台を前にしただけでも異世界へ誘われたような不思議な気持ちになります。

曖昧な境界線、観客も参加することで完成する空間

舞台には幕がなく、上演中の客席も暗転しません。演目の始まりと終わりも曖昧です。始まる際には、「お調べ」と呼ばれるオーケストラのチューニングのような囃子方 (はやしかた=、笛、小鼓、大鼓、太鼓の奏者) の奏でる音が奥の部屋から聞こえてきます。音が消え、橋掛リの奥の揚幕が少しだけ開き、囃子方が橋掛リの端をそろそろと歩いて舞台へ登場します。
また、鏡板の脇にある小さな引き戸 (切戸口=きりとぐち、と呼びます) が開き、地謡方(じうたいかた=コーラス部隊のような役割)も舞台に出てきて静かに着座します。
この準備のような時間がすでに演能の一部なのです。

そうして舞台上が整ったところで、囃子方が楽器を奏で始め、演者達が登場して物語がはじまります。終演時も同様の曖昧さの中で終わります。そのため、演者が登場したときや、退場したときにも観客は拍手をしません。特に、内容が素晴らしかった時ほど、客席は息を飲み、シンと静まり返っているようですらあります。

能のストーリー展開はシンプルで、とても象徴的です。
道具も最低限のものだけ、演者の動きも決まった型によって構成された削ぎ落とされた世界。観客はイマジネーションを膨らませながら、そこに情景を見出したり、能面に喜怒哀楽の表情を見つけたりします。その時々に、私たち自身の持っている感性を投影しているのかもしれません。
また、話の筋を追うというよりは、そのストーリーのまとう「悲しみ」や「高揚感」そのものを味わっているように感じることもあります。能は静かなようでいて、とても情緒豊かなのです。静まり返った空間では、観客にもある種の緊張感が訪れます。そうした緊張感による集中力の高まりが、より一層の能の世界への没入感を生み出すようでもあります。

古くから日本では、「曖昧な空間は、異界への入り口」と捉えられてきました。
昼と夜の合間である夕方(「黄昏時」とも呼びますね)、廊下、道が交わる辻(つじ)、橋(能舞台にもかかっていますね)などでは怪異に遭遇しやすいと言われます。

シテ(主役)が演じるのは、鬼や幽霊など異界の者であることが多いのですが、物語ではじめに登場する、ワキ(脇役)がシテのいる異界へと観客を誘います。異界に行って戻ってくる(異形のものを成仏させる)というのが能の基本ストーリーですが、能鑑賞そのものも、能楽堂という異界への入り口を訪れ、曖昧な状況からはじまる物語の鑑賞を通して、知らず知らずに入り込んだ異界で、あちら側の者と向き合い、物語の終演をもってこちら側の世界に戻ってくるという行為にも見えます。

集中して能を鑑賞した後は、心地よい疲労感と心のリフレッシュ感を覚えます。
異界を疑似体験することを通して心を整え、生まれ変わった自分になってこちら側へ帰ってきているのかもしれませんね。

能楽師 山井綱雄さんに伺う、能の世界

金春流能楽師 山井綱雄さん

ここまで、鑑賞する視点から歴史や舞台、鑑賞例などお伝えしてきましたが、舞台上で演じている方々は、能とどのように向き合っているのでしょうか。
金春流能楽師 山井綱雄さんにお話を伺いました。
山井さんは、国内外での公演活動をはじめ、異なるジャンルの芸術家とのコラボレーション、大河ドラマでの能楽指導や能楽講座の講師を務めるなど、様々な形で能の普及に精力的に取り組んでいらっしゃいます。多様な視点から、興味深いお話の数々をお聞かせくださいました。

——— 初めて観た時、とてもシンプルなストーリーでわかりやすい一方で、なにか胸騒ぎがするような‥‥、削ぎ落とされた美しさや静けさの中にある情念のようなものをなんとなく感じて、「これは何なんだろう?どう捉えたらよいのだろう?」と、何かあるのはわかるけれど見えない、不思議な気持ちになりました。

「やはり前提として、能というのは簡単ではないのですよね。神事をベースとした成り立ちからしてもそうですし、(世阿弥の時代は少し違ったようですが)武士たちと出会ったことでストイックさを高めていったことによる要素もあると思います。武士道的なストイックさが加味されて、極限状態を作り出すことへ向かいました。
『静の中の動』と言いますか、じっとしているけれど、心の中は燃えたぎっているという状態です。ある格闘家の方が、能で演者が座っている様子を見た時に『高速回転している駒のようだね』とおっしゃっていました。じっとしているけれど、休んでいない。私たちは、立っていても中腰で構えていたり、座っていても楽ではない体勢をとっています。とてもキツい苦しみの状態です。能の型は、能楽師を極限に追い込む方向に出来ているのですよ。

これはどういうことかというと、植物を育てる時にあまり肥料をやりすぎたり甘やかしたりしない方が植物自身の生命力を使ってしっかりと育つというのに似ています。
厳しい限界の状況に追い込むことで、役に変身できる、独特の世界を生み出しているのです。能は一期一会なので、1度きりということへの緊張感も良い作用をしています。それがお客様にも伝わって、凛とした空気を作り上げているのではないでしょうか」

——— 緊張感がある中で集中して鑑賞していると、そのあとドッと疲れています。ですが、不思議な清々しさがあります。単にエンターテイメントを味わった後の「ああ楽しかった!」という感覚とも違っている気がします。

「こういった非日常性のある緊張感を持つ事って普段の生活にはあまり無いですよね。能楽堂という異世界で、日常のことを遮断して舞台に向き合う時間。どっぷりと能の独特の世界に身を委ねることで、心を整える。
能は元々神事ですから、心を清めてすっきりと浄化させるところがあるのだと思います。
ストーリーの展開を楽しむというよりは、人間の根源的なところにストレートに問いかけるような、理屈ではなく、頭で考える前の感覚的な深いところに訴えかけている。お客様もそれに知らず知らずに反応しているのだと思います。
思考するばかりでなく、自分をリセットして心を整える時間、現代人はなかなか経験できなくなっているので、能を通じてそのことに気づいてくださるのかもしれません」

——— 「問いで自分を整える」というと、禅のようですね。

「例えば最近ではIT長者の方々、それこそ故スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグなど、みなさん日課として座禅を組まれていますよね。マインドフルネス(瞑想)をはじめ、心を整えることを習慣づけている。もちろん、仕事の効率をよくするためなど目的は様々だと思いますが、人間が人間としていられるために心のバランスを整えることの重要性を知っています。
古くから、日本人には身近にあったことが今世界的に見直されています。非日常と日常を行き来することで心を整える、心を切り替えるということを日常的にやっていたのが日本人なのではないでしょうか。そういう場をみんな持っていた。能舞台もその1つだと思います。
例えば、戦国時代の大名たちは、陣中で能やお茶を楽しんでいたそうです。それだけ聞くと、とんでもないバカ殿かと思うかもしれません。ですが、そういった行為を通してきっと心を整えていたのだと思います。人間にとって必要な心のリセット、浄化作用があったのです」

——— 大変な状況に置かれた時こそ必要なことですね。もしかすると、現代のハードワーカーこそ観るべきかもしれません。

「現代人は、1回観てその瞬間にわかるかわからないかで判断をしてしまいがちです。能の世界は、あまりにも奥が深いのでとても1回では理解できません。それで『わからなかった、私が不勉強である、頭が悪い』と自分を責めてしまったりします。でもそれで当たり前ということを知って観ていただきたいですね。全てを理解できなくても、何か感じるものはあります」

——— きっと、そういう「わからないものが存在すること」自体にも価値がありますね。それを受け入れることが最初の一歩かもしれないと思いました。

「そうですね、まずは受け入れて、何かを感じてもらうだけでも十分だと思います。そういうことを重ねていけば、色々な気づきが出て来て味わえるものです。能には想像力が必要で、感受性を試されます。
演じる側も無から有を演じますが、観る側にも求められます。説明されるのを待つのではなく、自分から見つけに行く。そういう楽しみの存在を知っていただきたいですね」

——— 普段、ついつい「答え」を探してしまいますが、そうでない世界があると気づかされます。

「能には答えがありません。描いているものが人間そのものですから。だから簡単ではありません。能を観て何を感じるのかは千差万別。能は意図的なメッセージを置くことをしません。どう捉えていただいても、解釈していただいても構わないのです。1人の方が同じ演目を観たとしても、その時々できっと全く違うものに見えるはずです。それは、自分自身が移り変わっているから。

故・金春 信高先生(こんぱる・のぶたか=能楽シテ方金春流79世宗家)から教わった興味深い話があります。
能舞台にある松の絵の描かれた板は「鏡板」と呼ばれるのですが、なぜ「鏡」と言うのか?実はあそこに松は生えていないというのです。
能舞台の正面向こう側(正面客席側)にある松が、ただ映っている。つまり能舞台は客席(こちら側の世界)を映し出す大きな鏡なのだ、と。己を投影して見つめる、それが能であると。
自分が解釈していたこと、投げかけたことは全て自分への問いかけとして返ってくる。自分が変われば見え方が変わってくるということなのです」

——— 受け身の芸術鑑賞ではなく、自分の感性で映るものを見つめてみることに現代人に必要なことが詰まっているように感じました。新しい取り組みも様々されていますが、これからの能をどう捉えていらっしゃいますか?

「今、例えばマインドフルネスなど、東洋的な思想が学問領域でも注目されています。海外の大学を訪れた際など、いかに興味を持たれているかを実感しました。元々それを知っていた私たちが、今改めてそれらを正しく理解することが求められているのではないでしょうか。

理解し、生活の中に取り戻す。ただ昔通りにやれば良いということではなく、やはりそこは温故知新だと思います。今の時代にどう活かすか、今の時代を生きている芸術としてどう高めて行くか、非常に難しい問題です。古典としての能の公演の際にも、他ジャンルの方々とのコラボレーションや新しい取り組みを通しても常に問うています。

もちろん、そうした新しい取り組みに疑問を投げかける声もあります。保守もリベラルも両方の考えがあることが大切です。今後、保守の方から見ても『そういうものもありだね』と言われるものを生み出したい、そんな感覚をいつも持ち続けています。
また、新しい試みを通じて『本来の能とは何か?』という問いかけに立ち返ることにもなります。こうして問い続け、自分の答えを探していきたいと思っています」

——— ありがとうございました。

山井さんのお話を伺って、1度観ただけで判断しないというお話が印象的でした。
「わからないこと(答えがないこと)」の存在を受け入れること、問い続けることの大切さなど、日常の中でも重要な視点であるように感じます。観るたびに違って映る能の世界。その時々に感じたものを大切にしながら自分を省みると、また新しい発見がありそうです。
まずは鑑賞してみて、不思議な幽玄の世界に浸ったときに自分の心に何が映るのか?映し出された心を眺めてみるのもおもしろいかもしれません。

山井綱雄 (やまい・つなお)
金春 (こんぱる) 流能楽師。
(公社) 能楽協会会員。
(公社) 金春円満井会常務理事 (業務執行理事)。
1973年横浜市出身。國學院大學文学部卒。79世宗家故金春信高、80世宗家金春安明、富山禮子に師事。金春流能楽師であった祖父(故梅村平史朗)の影響で5歳で能「柏崎」子方にて初舞台。12歳で初シテ「経政」。以来、 「乱」「石橋」「望月」「道成寺」 「翁」「正尊」「安宅」等の大曲を披演。
金春流能楽師の会「座 SQUARE」同人。
山井綱雄公式サイト:http://www.yamaitsunao.com/

 

◆入門展 能楽入門
国立能楽堂の資料室では、企画展「能楽入門」が開催中です。面や装束、絵画資料などの国立能楽堂所蔵の能楽資料を中心に、能楽の基礎的な知識を交えて、わかりやすく展示紹介されています。
期間:2017年8月3日(木)まで
時間:10:00~ 17:00
休室日:7月18、24、31日
http://www.ntj.jac.go.jp/nou/event/426.html

面や装束、絵画資料などが展示されていて間近に観ることができます
能楽で使われる楽器の展示も
海外の方も多く来館するため、日本語以外の言語 (英語・中国語・韓国語) の資料も用意されています

◆国立能楽堂 9月公演
9月には4つの公演が予定されています。 解説付きの普及公演や、夜の特別公演もありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。

2017年9月6日 (水) 13:00開演
定例公演
 狂言「狐塚」  三宅 右矩 (和泉流)
 能 「大江山」 本田 光洋 (金春流)
 http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9188.html?lan=j

2017年9月9日 (土) 13:00開演
普及公演
 解説・能楽あんない 梅内美華子 (歌人)
 狂言「蟹山伏」 善竹 隆司 (大蔵流)
 能 「天鼓」  當山 孝道 (宝生流)
 http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9189.html?lan=j

2017年9月15日 (金) 18:30開演
定例公演
 狂言「月見座頭」山本 則俊 (大蔵流)
 能 「小督」  粟谷 明生 (喜多流)
 http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9190.html?lan=j

2017年9月30日 (土) 13:00開演
特別公演
 能 「楊貴妃」 豊嶋三千春 (金剛流)
 狂言「宗八」  松田 髙義 (和泉流)
 能 「烏帽子折」観世銕之丞 (観世流)
 http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9191.html?lan=j

<取材協力>
国立能楽堂
東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1

文・写真 : 小俣荘子(舞台・公演写真:国立能楽堂提供)

8月 江戸っ子が夏に愛した「トキワシノブ」

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
日本の歳時記には植物が欠かせません。新年の門松、春のお花見、梅雨のアジサイ、秋の紅葉狩り。見るだけでなく、もっとそばで、自分で気に入った植物を上手に育てられたら。

そんな思いから、世界を舞台に活躍する目利きのプラントハンター、西畠清順さんを訪ねました。インタビューは、清順さん監修の植物ブランド「花園樹斎」の、月替わりの「季節鉢」をはなしのタネに。

植物と暮らすための具体的なアドバイスから、古今東西の植物のはなし、プラントハンターとしての日々の舞台裏まで、清順さんならではの植物トークを月替わりでお届けします。

8月はトキワシノブ。漢字では「常盤忍」と書いて、いかにも日本らしい、クラシックな響きです。今回はどんなお話が伺えるでしょうか。

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◇8月 江戸っ子が夏に愛した「トキワシノブ」

夏はちょっとでも涼しさを感じたいですよね。例えば風鈴は、リンリンという音と風に揺れている姿で涼を感じます。風を視覚化しているんですね。

植物も同じで、この時期は風の動きを見た目に感じられるような植物がいいですね。江戸時代中ごろ、庭師が普段出入りしている屋敷へ「夏の挨拶の贈りもの」として贈って人気を呼んだのが、トキワシノブです。濃い緑が風に揺れる姿はなんとも涼しげです。

当時は山苔をつけた竹にトキワシノブを巻きつけて、風鈴のように軒下に吊るす仕立てが一躍ブームにもなりました。

トキワシノブは他の植物に着生して成長する「着生シダ植物」です。自然の中ではよく樹皮に張り付いていますが、鉢植えでは苔などいろいろなものに茎を絡ませて伸びていきます。

その根茎がまるで猫の手のようで、なんとも憎めない可愛らしい見た目ながらしたたかさを備えた植物と言えます。

水が大好きなので、水やりと一緒に葉に霧吹きをしてあげると生き生きして、見た目にも一層涼しげになります。夏は直射日光の当たらない日陰の屋内で、冬は室内で育てれば一年中緑を楽しめますよ。江戸の庭師にならって夏の挨拶に贈ってもいいですね。

それじゃあ、また来月に。

<掲載商品>

花園樹斎
植木鉢・鉢皿

・8月の季節鉢 トキワシノブ(鉢とのセット。店頭販売限定)


*季節鉢は以下のお店でお手に取っていただけます。商品の在庫は各店舗へお問い合わせください。
中川政七商店全店
(東京ミッドタウン店・ジェイアール名古屋タカシマヤ店・阪神梅田本店は除く)
遊 中川 本店
遊 中川 横浜タカシマヤ店

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西畠 清順
プラントハンター/そら植物園 代表
花園樹斎 植物監修
http://from-sora.com/

幕末より150年続く花と植木の卸問屋「花宇」の五代目。
日本全国、世界数十カ国を旅し、収集している植物は数千種類。2012年、ひとの心に植物を植える活動「そら植物園」をスタートさせ、国内外含め、多数の企業、団体、行政機関、プロの植物業者等からの依頼に答え、さまざまなプロジェクトを各地で展開、反響を呼んでいる。
著書に「教えてくれたのは、植物でした 人生を花やかにするヒント」(徳間書店)、 「そらみみ植物園」(東京書籍)、「はつみみ植物園」(東京書籍)など。


花園樹斎
http://kaenjusai.jp/

「“お持ち帰り”したい、日本の園芸」がコンセプトの植物ブランド。目利きのプラントハンター西畠清順が見出す極上の植物と創業三百年の老舗 中川政七商店のプロデュースする工芸が出会い、日本の園芸文化の楽しさの再構築を目指す。日本の四季や日本を感じさせる植物。植物を丁寧に育てるための道具、美しく飾るための道具。持ち帰りや贈り物に適したパッケージ。忘れられていた日本の園芸文化を新しいかたちで発信する。

きものを今様に愉しむ ゆかたをアレンジして纏う

こんにちは。ライターの小俣荘子です。

私はここ数年、洋装と和装それぞれ半分ずつくらいの割合で外出するようになりました。慣れてしまうと思いのほか楽しく快適なものですが、出かける先々で「大変でしょう」と労いの言葉をかけられてしまったり、不安を口にされつつも興味を持ってくださる方にたくさん出会いました。きものは現代の装いとして身近なものではなくなっている一方で、いつかは着てみたいと興味を持っている方も多いようです。 洋服と同じようにきものも日常に取り入れられたら、毎日はもっと彩り豊かになるはず。連載「きものを今様に愉しむ」では、きものとの付き合い方や、愉しむヒントをご紹介してまいります!

ゆかた姿でおでかけ

夏は普段きものを着ない方も和装になる方が増える時期ですね。そう、ゆかたの季節です。最近では、洋服のブランドでのゆかたラインの展開や、リーズナブルなセットアップ販売のゆかたなど、身近な場所での購入機会も増えました。ゆかた姿の方向けの来店サービスのあるお店や、ビアガーデンでのゆかたパーティなど、お祭りや花火大会だけでなく、ゆかた姿で出かけることでより楽しめる機会もたくさんあります。男女問わず、お昼間からゆかたを纏う方を見かけることも多くなりました。かく言う私も、友人とゆかたランチやお出かけを愉しんでいます。

そんな身近になったゆかたではありますが、今年初めてチャレンジしようと思っている方には着こなしや着付けなど不安な点もきっと多いはず。単発の着付けレッスンに1度行ってみたり、動画を見ながらほんの数回練習すればゆかたはすぐに自分で着られるようになりますので、どうぞご安心を。慣れてしまえば思いのほか簡単です。また、必要なのは帯とゆかたと腰紐などのシンプルな小物のみなのですぐに揃えられます。加えて、帯留めなどのきものの小物や、洋服のアイテムなどを加えてアレンジして愉しむこともできるのです。


今回は、「きものが着たくなる呉服店」をコンセプトに、呉服に馴染みのない現代人も気軽にライフスタイルに取り入れられるように提案している「大塚呉服店 (おおつかごふくてん) 」さんへお邪魔して、夏のゆかたの着こなしについてお話を伺ってきました。

自由なアレンジで、キレイめにもカジュアルにも

大塚呉服店 ルミネ新宿店の中でアパレルブランドと軒を連ねていて気軽に入店できます

一見、きものを纏っているようにも見える店頭のトルソー。実は2体ともゆかたをアレンジしたものなのです。ゆかたの下に衿がついていたり、帯締めや帯揚げ、帯留めを加えていたり、少しドレッシーな装いです。元々は湯浴みや部屋着として使われていたゆかた(旅館でもお風呂上がりに纏いますね)。おでかけに纏うことが一般的になった現代でも、そのままのシンプルな着こなしで出歩くのには少し恥じらいのある大人の女性も多いのだとか。近年のトレンドとして、きもののような雰囲気にアレンジして愉しむスタイリングが人気となっているそうです。


簡単に取り入れることのできるアレンジや、スタイリングのポイントについて店長の森村 祐妃(もりむら・ゆき)さんが詳しく教えてくださいました。

店長の森村 祐妃さん

衿をはさんで、きもの風に

きもののように半衿 (はんえり) を重ねた衿もと

きものでは、長襦袢 (ながじゅばん) と呼ばれる衿付きのインナーの上からきものを重ねますが、ゆかたの場合は直接下着の上にゆかたを纏うのが基本のスタイルです。アレンジして衿を重ねると、華やかさや、きちんと感のある雰囲気が生まれます。

衿がつけられる肌着もあります

ゆかたの下着はタンプトップなど洋服用のものでも問題なく着られますが、写真のように衿が付けられる肌着もあります。この襟の部分に半衿をつけて着ると先ほどのような首もとに。(専用の半衿でなく、お気に入りのスカーフや手ぬぐいでアレンジされる方もいらっしゃいます。)

シーンに合わせて履き物もアレンジ

続いて、ゆかたの時の履き物についても伺いました。

スタンダードな下駄を合わせるスタイルはもちろんのこと、洋装のサンダルを合わせたり、草履風の下駄を合わせても少し改まった雰囲気になるそうです。ストラップ付きのデザインのサンダルなどを合わせるときは、足首まわりのデザインとの相性に注意。足首のベルトを見せたくて裾を短めにしてしまうと子どもっぽくなってしまうこともあるのだとか。

上品な大人の装いにしたい場合は「くるぶし丈」くらいがおすすめとのこと。また、「裾が短い方が歩きやすいと思われる方も多いですが、かえって足首のところで裾が擦れて違和感があったりもするので、短くしない方が着心地も良く、快適に歩けますよ」と教えていただきました。

スタンダードな下駄でカジュアルに
こちらは布貼りの草履風の下駄。少し改まった印象に

レースの足袋などを合わせても、涼しげな雰囲気と改まった印象のスタイリングになりますね。裾丈はこちらを参考にしてみてください。

レースの足袋を合わせて

アクセサリーや小物アレンジも自由に

大ぶりのカジュアルなピアス

「和装にはパールやカチっとしたアクセサリーじゃないとダメかしらと心配される方も多いのですが、大ぶりのピアスなどカジュアルなものを合わせても素敵なんですよ」と森村さん。店頭にも洋装にも使えるようなモダンなデザインのものが並んでいました。

帯締めと帯留めを加えるだけでも「きちんと感」が出ます

きもの風アレンジとして、帯締め、帯留めを加えるというアレンジも。去年と同じゆかたと帯に小物を合わせることで、少し雰囲気を変えた着こなしを愉しむという方も多くいらっしゃるのだとか。また、帯の結び方を変えるだけでも印象が変わるのでおすすめです。

帯も様々な結び方があります

和装小物をつかったアレンジの他、洋服の時に使うアクセサリーを活用するというアイデアもあります。例えば、こちらはブローチですが、帯締めにつけることで帯留めとして活躍します。お気に入りのアクセサリーを洋服の時にも和服の時にも活用できたら嬉しいですね。

クリップや安全ピンのついたブローチを帯留めのように使うこともできます

ゆかたといえば、手には巾着のイメージもありますが、最近は大きめの籠バッグも人気です。お財布や携帯電話、ポーチや水筒なども入る洋装にも使えるような籠バッグ。涼やかな見た目も夏のお出かけにぴったりですね。

大きな籠バッグ

似合うゆかたの見つけ方

ここまでゆかたのスタイリングやアレンジをご紹介してきましたが、そもそもゆかたを選ぶ時のポイントはあるのでしょうか?

洋服と和服では不思議と似合う雰囲気が異なったり、思いがけないいつもと違う自分に出会えるのも醍醐味です。「自分にぴったりの一着」に出会うためのゆかた選びについても伺いました。

「和服は、帯や小物合わせて雰囲気を大きく変えることができます。ですので、まずはお好きな一着を選んでみてください。もしくは、なりたい雰囲気があれば店頭でおっしゃってみてください。ふんわりした雰囲気がお好きなのか、レトロな感じが良いのか、クールに着こなしたいのか‥‥など、何かイメージされているものがあればそこからお似合いになるもの探しをお手伝いできますよ。また、すでにご自宅にあるゆかたや帯に合わせたい場合などは写真を撮って持参されると選びやすいです」と、森村さん。

実際に同じゆかたでも合わせるものでガラリと印象が変わるところを実際に見せていただきました。

ゆかたに黄色い帯

まずは黄色い帯を合わせてみました。コントラストがしっかりとついてアクティブな印象です。続いて、薄いブルーの帯を合わせてみると‥‥。

同じゆかたに青い帯

こちらは色が馴染んで、落ち着いた雰囲気に。確かに、印象がだいぶ異なりますね。そして、小物を合わせてみることでさらにアレンジすることも可能です。

同じ黄色い帯を別のゆかたに合わせてみると、また異なる趣きになりました。

黄色い帯を別のゆかたに

こちらは可愛らしい印象になりましたね。

最後に、小物合わせによる雰囲気の変化も見てみましょう。

落ち着いた紫の帯締めに繊細な花の帯留めを合わせて

綺麗めアレンジで、はんなりとした雰囲気となりました。帯揚げや帯留めの色を選ぶときは、ゆかたの柄の中にある色を持ってくると一体感が生まれやすく、おすすめです。

同じ帯でも、帯締めや帯留めを合わせても雰囲気が変わります

帯締めと帯留めを変えるだけでも印象が変わりました。こちらの方がキュート、カジュアルといったイメージでしょうか。

こうしたアレンジを加えるだけで、1着のゆかたを様々な雰囲気で楽しめますね。

ゆかたで夏を愉しんで

今回ご紹介してきたように、アレンジやスタイリングに難しいルールなどはありません。好きな雰囲気をイメージしたり、使いたい小物を生かして、洋服をスタイリングするように自由自在です。

履きなれない下駄で歩くことに不安があれば、普段履いているサンダルやパンプス、バレエシューズを合わせてみても。素材が夏仕様なので、夏の和装は案外涼しいものですが、炎天下を歩くよりは室内が安心ということであれば、ランチやレトロ喫茶店でのティータイム、水族館やプラネタリウム、映画館などへのおでかけもおすすめです。今年の夏はゆかた姿で愉しんでみてはいかがでしょうか。

◆大塚呉服店 着付け教室

大塚呉服店 ルミネ新宿店では、ゆかたの着付け教室を開催しています。

日時:7月22日、23日(いずれも時間は14:00〜15:30)

参加費:1,000円

お問い合わせ:03-6279-0112 shinjuku@otsuka-gofukuten.jp


まずはゆっくりと手順の解説を受けながら着てみます。難しい用語は使わず、シンプルな言葉に導かれながらみなさん着付けていきます。一度着たら脱いでもう1度。2度目は少しスピードをあげつつ、綺麗に着るポイントや、自分に合う帯の長さ調整などをしながら再チャレンジ。2度の練習でしたが、そのまま着て出かけられるような綺麗な着姿に仕上がっていました。「あと自宅で数回練習すれば大丈夫です」と、先生。ゆかたは、慣れてしまえば本当に簡単なのです。

着付け教室の様子
ポイントが詰まったオリジナルの着付け資料。自宅で着る時に大いに役立ちそうです

<取材協力>

大塚呉服店 ルミネ新宿店

東京都新宿区西新宿1-1-5 ルミネ新宿店 ルミネ14F

03-6279-0112

文・写真:小俣荘子

本と人の出会う場所 BOOKS AND PRINTS

こんにちは。「BOOKS AND PRINTS ( ブックスアンドプリンツ ) 」の神尾知里です。
本日は浜松出身の写真家・若木信吾さんが立ち上げたセレクトブックショプ「BOOKS AND PRINTS」による新たな場所作りの取り組みをご紹介したいと思います。

国内外の写真集が揃うセレクトブックショップ

浜松の書店が作るローカル・コミュニティー

浜松駅北口から徒歩10分。交差点の角に立つKAGIYAビルの2階に、写真家の若木信吾さんがオーナーを務めるセレクトブックショップ「BOOKS AND PRINTS」があります。
国内外の写真集を専門に取り扱う書店として2010年にオープンし、2012年に現在のKAGIYAビルへ移転。店員は私のような写真好きや本好き、地元の学生が客として出入りしているうちにいつの間にかスタッフになっていた人ばかり。開店当初は3人入ればいっぱいだった小さなお店も、今では展覧会やトークショーなど様々なイベントを開催する書店として注目を集めています。

カウンター奥の壁には祖父の琢次さんの写真が飾られている

移転したKAGIYAビルは、築50年以上の古いビルをリノベーションし、クリエイターのための「ショップ&ワーキングスペース」としてオープンしたもので、「BOOKS AND PRINTS」がリニューアル後のテナント第一号となった後も次々と個性的なショップが入り、KAGIYAビル全体で浜松の文化発信拠点となっています。

個性的な店舗が集まる KAGIYAビル

写真家として活動しながら、映画監督や雑誌出版など、様々なことにチャレンジされてきた若木信吾さん。写真集のコレクターでもあり、自ら出版社を立ち上げるほど本が好きだという若木さんは、映画を制作するために東京と浜松を行き来する中で、次第に浜松での書店開業を考えるようになったそうです。

書店オーナーを務める写真家の若木信吾さん

店内には若木さん自らセレクトされた写真集やZINEなど、浜松ではなかなか手に入らない書籍が並ぶ一方、浜松でしか手に入らないオリジナルグッズにも力を入れています。

静岡のイフニコーヒーさんのB&PオリジナルブレンドとMT.FUJI DRIPPER
浜松出身の朝倉洋美さんが活躍するクリエイティブユニット“Bob Foundation”のカラフルなプロダクト

中でもひときわ異彩を放っているのは若木さんのお父さんである、若木欣也さんの手書きのトートバッグです。開店当初はお店に立たれていた欣也さん。店の白い紙袋が味気ないという理由で、イラストやロゴをサインペンで描いた紙袋が話題を呼び、紙袋展が開催されるほどの人気に。

私たちスタッフは欣也さんの素晴らしい手書きの字を尊敬の意を込めて「欣也フォント」と呼んでいます。最近では、トートバッグとなってお店の人気商品となっていますが、これももちろんひとつずつ手書きです。

欣也さんの新作トートバッグ
トートバッグを届けにいらした若木欣也さん
初期の欣也さん紙袋

また、鹿児島や香川の人たちと「勝手に姉妹都市宣言」をしてイベントを開催するなど、ローカルベースで活動する人たちとつながり、地方から発信していく楽しさを伝える活動も増えてきました。「自分たちの街を自分たちで楽しくしたい」と活動している人たちとの出会いは、とても刺激的で新たな原動力を生んでくれます。

鹿児島や香川の本も
コーヒーを飲みながら写真集を見ることができるテーブルスペース

オーナーの若木さんは「本屋がオルタナティブな場所であってもいい、という考えが現在の個人書店を支えていると思います。散歩がてら自然と足が向く、そんな場所をこれからも続けることが可能なのかチャレンジしていきたいです」と話されます。

浜松に着いたらまず「BOOKS AND PRINTS」へ、そこに行けば新しい発見や驚きがあるかもしれないと期待されるような本屋でありたいです。

<取材協力>

BOOKS AND PRINTS

静岡県浜松市中区田町229-13 KAGIYAビル201

053-488-4160


営業時間:13:00~19:00

OPEN:金,土,日,月

CLOSE:火,水,木

文・写真:神尾知里

日本職人巡歴 世界のトランぺッターを虜にするマウスピース職人

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は世界のトップトランぺッターから引っ張りだこのマウスピース職人のお話をお届けします。

モーリス・アンドレ。「トランペットの神様」と呼ばれた不世出のカリスマ。
ホーカン・ハーデンベルガー。モーリス・アンドレ以来の大器と呼ばれたスウェーデン生まれのスタートランペッター。
ミロスラフ・ケイマル。天才と謳われたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以下チェコ・フィル)の元首席トランペット奏者。
ハンス・ガンシュ。世界3大オーケストラのひとつ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ウィーン・フィル)で首席トランペット奏者を務めた世界的名手。

トランペット界で知らぬ者のいない存在である彼らには、ひとつの共通点がある。演奏時に使うマウスピースだ。彼らのマウスピースをハンドメイドで作ってきたのが、亀山敏昭 (かめやま・としあき) さん。これは、世界中から注文が殺到するマウスピース職人の知られざる物語である。

マウスピースの製作を始めて38年の亀山敏昭さん

メッセンジャーで受注する68歳

浜松駅から徒歩数分。昔ながらの住宅街の一角に、亀山さんの工房「Toshi’s Trumpet Atelier」がある。もともと妻の実家だったという平屋を改装した慎ましやかなたたずまい。呼び鈴を押すと、柔らかな笑みを浮かべた亀山さんが「どうぞ」と招き入れてくれた。旋盤などいくつかの工作機械が置かれた工房には、無数のマウスピースが並んでいる。

亀山さんがこの小さなアトリエを開いたのは、2000年4月。長年、ヤマハの社員として働いていた亀山さんは、早期退職制度を利用して独立した。50歳のときだった。

マウスピースの上の大きな写真は創業時の亀山さん

「もちろん、最初は不安もありましたよ」と振り返るが、今ではヨーロッパ全土のほか、アメリカ、メキシコ、トルコなど世界各地からマウスピース製作の依頼が届く。

「ここを始めた時よりも、今のほうがワールドワイドに仕事ができています。フェイスブックのメッセンジャーで、こういうものを創ってほしいと言われますから」

何気ない言葉に耳を疑う。え?メッセンジャー?

「はい。いろんな国から依頼が届きます。知らない人からも連絡が来るし。基本的には英語とドイツ語でやり取りしています」

現在68歳の亀山さんは文字通り世界中のトランペット奏者から引っ張りだこの存在で、すべての依頼を受けるのは難しいという。2カ国語を操り、SNSを駆使して世界を舞台に仕事する68歳の売れっ子。僕の脳裏には、「グローバル職人」という言葉が浮かんだ。

なぜ、この小さなアトリエで作られたマウスピースが、それほど求められるのか。亀山さんの足跡を追おう。

長良川のトランペット少年

亀山さんがトランペットに出会ったのは、中学2年生のとき。音楽が好きで中学から吹奏楽部に入ってクラリネットやパーカッションを担当したが、トランペットを吹いた瞬間に「これだ!」と直感した。

「自分に合っていたのか、割と楽に音を出せたんですよ。それに、僕は小学校のときから弱虫で、性格も強くなかったんです。トランペットは明るい音で目立つ楽器だから自分を鼓舞できるような気がしました」

すっかりトランペットにはまった亀山さんは、岐阜の地元を流れる長良川の岸辺でいつもひとり練習に熱中していたという。みるみるうちに上達し、高校3年生のときにヤマハ吹奏楽団の団員試験を突破。高校卒業後、吹奏楽団のメンバーとしてヤマハの本社のある浜松に越してきた。

楽団といっても朝から晩まで練習するわけではなく、日中は社員のひとりとしていろいろな部署に配属されて仕事に当たる。亀山さんは最初、トランペットなど管楽器の試作工場で部品を作ったり、検品をする部署で働いた後、トランペットの設計に就いた。

NHK交響楽団のトランペット奏者と検品をする亀山さん

アメリカやイギリスの先行メーカーの楽器をベンチマークとして、部品の寸法や内径の太さなどをミリ単位で調整しながら、より良い音を目指す繊細かつ根気のいる仕事だ。このときの働きぶりが評価されたのだろう。当時、新興メーカーだったヤマハが欧州に本格的に進出するにあたり、「現地に楽器に精通した人間が必要だ」ということで、30歳の亀山さんに白羽の矢が立った。1979年、亀山さんは西ドイツに渡った。

オペラハウスの思い出

新しい職場は、西ドイツのハンブルグにあったヤマハの工房。「ヤマハの楽器をさらに広めていこう。高いレベルのモノを作ろう」という目標を掲げ、欧州の名門楽団を訪ね歩き、演奏家たちとコミュニケーションを取りながら、ヤマハの楽器に関する意見を聞いて日本にフィードバックをしたり、楽器のメンテナンスをするのがミッションだった。

まだ若く、やる気に満ちていた亀山さんは、必死に語学を学びながら練習場所やコンサートに何度も足を運び、演奏家たちの言葉に耳を傾け、細かなリクエストに応えることで、少しずつ演奏家たちの信頼を得ていった。

「ドイツにはマイスター制度があって各地でマイスターが楽器を作ったり、メンテナンスをしています。ドイツの演奏家からよく言われたのは、マイスターは権威的で、演奏者がこうしてほしいと要望を伝えても、聞き入れてくれない。逆に、新米で言われたことを素直に聞く私は、柔軟性があるからやりやすい、話しやすいと言われていました」

トランペットをモチーフにした絵や写真が飾られている亀山さんのオフィス

やがて、とことん演奏家に寄り添おうとしていた亀山さんに特別の計らいをみせる演奏家も出てきた。

「オペラハウスは舞台の下にオーケストラピットがあるので、観客席からは見えません。そういうとき、よく演奏者の横に座って演奏を聞かせてもらいました。普通、部外者はそんなところに入れないんですけど、演奏者は吹きやすくて、良い音がする楽器を望んでいますし、ヤマハが本気で良い楽器を作ろうとしているとわかってくれていたので、自分の音をもっと理解してほしいということでした」

ドイツに来た時点でヤマハの楽団からは離れていたが、亀山さんは単なる営業や技術者ではなく、同じ演奏家の立場でより良い音を求める気持ちに共感できた。だからこそ、ここまで距離を縮めることができたのだろう。

100分の1ミリの戦い

各地のトランペット演奏家たちと親しくなると、しばしば「トシ、マウスピースを作れないのか?」と尋ねられるようになった。多くの演奏家が悩みを抱えていたのだ。

「演奏家のなかには、同じマウスピースを何十年も使っていて、もしそれを失くしたら演奏できないという人もいますし、自分に合ったマウスピースで吹いていると、楽器が変わっても自分がイメージした音が出せます。演奏者にとってマウスピースはそれほど大事なものなんです。マウスピース自体はとにかく種類がたくさんありますが、人それぞれ唇の形も吹き出す息の量も違うので、既製品で満足していない演奏家も大勢いました」

楽器メーカーにとってマウスピースのカスタマイズはたいして儲からない上に面倒だから、目をそらしていたのだろう。しかし、相談を受けたら検討もせずに「できない」という返事をしないのが亀山さんだ。ドイツに発つ前に日本でマウスピース製造の研修を受けていたこともあり、試行錯誤しながらマウスピースを作り始めた。

見本となるマウスピース (奥) の形をなぞるようにして手前のマウスピースを削る

マウスピースは真鍮の素材で外側の形を削るところから始まる。外形ができたら、旋盤で息を通すための穴を中央に開ける。その後、カップと呼ばれる息の吹き込み口を円錐状に削る。カップが浅いと張りのある明るい音になり、深いと落ち着いた豊かな音になる。リムという唇が当たる部分の角度や厚みも整える。

マウスピースは100分の1ミリの違いで音が変わり、演奏家はその音を聞き分けるため、非常に繊細な技術が必要だ。亀山さんは何度も試作し、演奏家のもとに持参しては意見を聞いて調整をした。そうして初めて理想のマウスピースを手にした演奏家は、亀山さんの目の前で喜びを爆発させた。

スーパースターがやってきた

演奏家の口コミは、恐ろしく早い。最初の1本を納品すると、その噂は瞬く間に広がり、亀山さんのもとに次々と依頼が舞い込んだ。楽器を売り込みたいヤマハにとってマウスピースの製作は本来の業務ではなかったが、演奏家と良好な関係を築くための手段として亀山さんが製作を担った。

亀山さんが作ったマウスピースの評判はやがて国境を越えた。1981年のある日。フランスからハンブルグの工房を訪ねてきた男がいた。20世紀最高のトランペット奏者と呼ばれたモーリス・アンドレだった。モーリスは、自分が望む複数のマウスピースの説明をすると亀山さんに聞いた。

「明日には別のところに行かなきゃいけないんだ。1日でできるか?」

モーリス・アンドレからの依頼を書き留めた仕様書

亀山さんにとって、モーリスは憧れのスーパースターだった。それまで1日に何本もマウスピースを作ったことなどなかったが、断るという選択肢など思い浮かびもしなかった。二つ返事で請け負うと、同僚とふたりで夜を徹して手を動かし続け、なんとか完成させたマウスピースを翌朝、モーリスに納品した。モーリスにはそれを試す時間すらなかったが、上機嫌で「これでいいか?」と1000マルク、約15万円をポンと支払って、ふたりと写真を撮ると風のように去っていった。

徹夜してマウスピースを仕上げ、モーリス・アンドレに納品したときの写真

それからしばらくすると、フランスから1人、2人と著名なトランぺッターがハンブルグにやってくるようになった。彼らは皆、モーリスから亀山さんの評判を聞きつけていたのだ。「あのマウスピースはどうだったのか‥‥」と気にしていた亀山さんにとって、それは雲の上の人からもらった合格点だった。

間もなくして、「モーリス・アンドレのマウスピースを作った男」として名をはせた亀山さんのもとにヨーロッパ中から依頼が殺到するようになった。モーリスはもちろん、冒頭に記したスウェーデンのスター、ホーカン・ハーデンベルガー、チェコの天才奏者、ミロスラフ・ケイマル、オーストリアの名手、ハンス・ガンシュらも依頼人に名を連ねた。

彼らにとって亀山さんがどんな存在だったのかがわかるエピソードがある。ある日、ミロスラフ・ケイマルから緊急の連絡が入った。話を聞くと、プラハでの演奏会場に車を駐車した際、、一瞬のすきに車のトランクに入れていた楽器やマウスピースが全て盗まれしまったという。そのとき、ケイマルは亀山さんにこう伝えた。

「楽器は店で買えるけど、トシのマウスピースは買えない。どうにかして作ってほしい」

この言葉を聞いて、亀山さんはすぐに新しいマウスピースを作って届けたという。

自分にできる一番いい仕事

1988年、ヤマハから日本に戻るように辞令を受けた亀山さんが帰国するとき、ヨーロッパのトランぺッターたちがどれほど嘆いたか、想像に難くない。なかには「工房を作るから俺のところで働いてほしい」と言って引き止めた演奏家もいたそうだ。

亀山さんは浜松で再びトランペットの設計を3年間やった後、東京で8年間、ドイツ時代と同じような仕事に就き、国内の演奏家、海外から来る演奏家の対応をした。その間も付き合いのある演奏家のマウスピースを作り続けていたが、次第にもどかしさを感じるようになった。

「ヤマハの社員でいる限りは、アマチュアの演奏家や他のメーカーの楽器を使っている演奏家のマウスピースは作れません。ずっと、気持ち的には作ってあげたいのにできないというジレンマがありました」

モヤモヤを抱えているうちに、世の中は不景気になり、その影響でヤマハにも早期退職制度ができた。このとき、自分が最も親しみのあるトランペットにかかわる職人として独り立ちしようと腹をくくった。

「この仕事は、演奏者を助けることになる。そういう意味で、自分にできる一番いい仕事だと思いました」

繊細なタッチでマウスピースを削っている様子

2000年4月にトランペットの修理やメンテナンス、マウスピースの製作を手掛ける「Toshi’s Trumpet Atelier」を立ち上げてから17年。独立時には「生活できるのか」「金管楽器全般を対象にしたほうが良いんじゃないか」などと心配されたそうだが、いまは仕事の9割がトランペットのマウスピースの製造で、亀山さんを頼る演奏家は世界に広がり続けている。

理由はふたつ。ヤマハ以外の楽器を使う演奏家のオファーを受けるようになったこと。もうひとつは、インターネット。もともと常に良い楽器を求めている演奏家の口コミのスピードは速かったが、インターネットによって口コミの拡散範囲と速度がグンと広がり、トランぺッターの間で亀山さんの名前がより広く知られるようになったのだ。

長良川の河川敷でトランペットを吹いていた少年は、世界のトッププレイヤーに求められる存在になった。これまでの人生を振り返って、どう思いますか?と尋ねると、亀山さんは目を細めて「できすぎですね」と笑った。

「すごいラッキーだと思います。特に頭が良いわけでもないし、すごい技術があるわけでもない。たまたまいまの仕事を始めて、演奏者に寄り添い、できるだけのことをしてきた。そういう仕事のスタンスが喜んでもらえたのではないでしょうか。マウスピースを作ること自体は難しくありません。大切なのは、希望のマウスピースを作れるかなんです」

亀山さんには忘れられない瞬間がある。もう30年近くの付き合いにあるミロスラフ・ケイマルの演奏会に行ったときのこと。最後の曲が終わり、観客席から万雷の拍手が降り注いだ。するとケイマルはトランペットからマウスピースを抜き取り、満面の笑みで観客に向けてマウスピースを掲げたのだった。

<取材協力>
Toshi’s Trumpet Atelier
浜松市中区砂山町 362-23
053-458-4143

文・写真:川内イオ