「助かった、神様ありがとう、だな」
左官として、日本で唯一無二の地位を築いている挾土秀平(はさど しゅうへい)さん。「ひとつの仕事を終えた時、どんな気持ちになるんですか?」と尋ねた時、挾土さんは少し遠くを見るようにしてこう答えた。
その瞬間、予想外の答えに「え?」と聞き返してしまったが、取材を終えてから、ようやく理解することができた。この言葉には、挾土さんの「いま」が詰まっていた。
職人の枠組みに収まらない存在
総理公邸、洞爺湖サミット会議場、ペニンシュラ東京、アマン東京、JALの羽田空港国際線ファーストクラスラウンジ、NHK大河ドラマ『真田丸』の題字とその題字が記された壁……。さまざまなシチュエーションで「日本の顔」となる場所に、挾土さん率いる「職人社 秀平組」が手掛けた土壁が掲げられている。
左官とは、鏝(こて)を使って建物の壁や床などを塗り、仕上げる職人を指す。挟土さんの仕事はどれもがユニークで、同じ顔をしたものはない。最近ではミキモト銀座本店の新社屋に、ジュエリーが持つ品と妖艶さを兼ね備えたような「波」をイメージした5メートルの作品が納められた。
挾土さんは、これらの作品を土と自然の素材だけを使って生み出す。飛騨高山の郊外、自然豊かな里山のなかにある「職人社 秀平組」のアトリエを訪ねると、土から作られたとは思えない多彩な色と表現が目に飛び込んできて、思わずため息が漏れた。
左官は日本の伝統的な職業だが、挾土さんはその枠組みに収まらない存在だ。画廊やギャラリーで個展を開き、テレビ、雑誌などメディアへの出演も多い。これほどスポットライトを浴びる職人はほかにいないだろう。しかしその歩みは「土下座」から始まった。
ひとりで壁に向き合った日々
1962年7月1日、左官業を営む家に生を受けた挾土さん。「いつかは継ぐんだろうな」という想いを抱えながら育ち、高校を卒業してから左官の道を歩み始めた。修行先は、熊本の建設業者。技能五輪で左官の金メダリストを何人も輩出している会社だった。
「その会社とはなんの縁もなかったんだけど、どうせならそういうレベルの高いところで修行したいと思ったんだ。でも最初は断られて、土下座して『お願いします』って頼み込んで入れてもらったよ」
「無理に雇ってもらったんだから、なんだ、全然だめだって言われちゃいかん」。そう思った挾土さんは、夕飯を食べてから寝るまでの間、職場で練習に励んだ。暑くても、寒くても、仕事がきつかった日も、何時間もひとりで壁に向き合った。
腕利きの先輩たちも、その姿を見ていたのだろう。いつしか、挾土さんが練習をしていると、ふらっと現れては一言、二言、アドバイスをくれるようになった。仕事の現場でも「一緒にやるぞ」と声をかけてくれた。
先輩たちのアドバイスを聞き、技を間近に見ることで挾土さんの技術はみるみるうちに上達。その成長速度は圧倒的で、21歳の時に初めて出場した技能五輪全国大会・左官の部で、優勝する。左官業に就いて2年1ヵ月しか経っていない人間が優勝するのは、極めて稀なことだった。しかし、挾土さんにとっては、驚くような結果ではなかったようだ。
「高校野球でもなんでも、どこよりも練習したチームが勝つわけでしょ。俺もそういうふうにやったから。誰よりも練習したよ」
憤怒の気持ちだけを燃料に
熊本で4年の修業を積んだ挾土さんは、名古屋にある別の会社で2年過ごした後、25歳の時に跡取りとして実家に戻った。それから、想像もしなかった苦汁の日々が始まった。
もともといた職人たちにとって、腕に覚えのある社長の息子の存在は厄介な存在、一緒に仕事をしづらい存在だったのかもしれない。だからこそ挾土さんを自分たちに従わせようとしたのかもしれないが、それだけが理由とも思えないような酷い仕打ちが待っていた。
30年、40年の経験を持つ会社で一番の職人がやるような現場で「お前が頭で入れ」と指示されて、10人の職人が必要な現場で5人しかいないということが繰り返されたのである。誰から見ても、左官の仕事を始めてまだ10年前後の若者が仕切るような現場ではなかった。
そこで素直に頭を下げて助けを乞えば、その後の関係も変わったのかもしれないが、挾土さんはそうしなかった。憤慨の気持ちと自分で何とかしてやるという反骨心を燃料にして、がむしゃらに働いた。自分が深夜まで働けばふたり分の仕事量になると考えて、毎日、遅くまでコテを握り続けた。肉体を酷使するだけでは限界があるから、頭もフル回転させて、どういう交渉してどういう段取りを組めば10人分の仕事が5人で済むかを考えた。
そうしてなんとか及第点で現場を終えると、さらに厳しい仕事が割り振られる。必死でその現場をクリアすると、より過酷な仕事を任される。挾土さんは「憎しみと苛立ちしかなかった」と振り返るが、ひとつだけ確かなことは、この圧力のなかで職人として鍛え上げられていったということだ。
「誰も経験できないことをしたと思うよ、この業界では。それで経験値が増えて、賢くなって強くなって。そのうちに、前はあの環境でやったんだから、これくらいは大丈夫だろうとか、自分でさばける仕事の規模とか幅がでかくなるし、視界も広くなるよね」
起死回生の転機
挾土さんは無理難題を吹っかけられてもそれに屈せず、むしろ糧にして大きくなっていった。そんな若者の姿を見て、挟土さんにつらく当たっていた職人たちは何を思ったのだろう。この悪意のサイクルは、14年間も続いた。
最初の頃は若さと勢いに任せて突っ走っていた挾土さんも、逆風に晒され続けるうちに心身のバランスが狂い始めた。仕事を始めようとすると吐いてしまう。上司の顔を見るだけで、胸が締め付けられて苦しくなる。頑張ろうと思っても、体がいうことを聞かない。当時の心境を象徴するような作品が、アトリエに飾られている。「鬱」と大きく書かれた土のキャンバスに、13匹のミミズを這わせた作品だ。
「このまま続けていたら心がダメになる」と思い始めた頃に、起死回生の転機が訪れた。ある日、偶然に出会った、能率ではなく高いクオリティと技能を求められる物件。その物件は土壁だった。それまでの14年間、セメントの仕事ばかりだったから、新鮮だった。挾土さんは意気に感じて、腕によりをかけて仕事にあたった。すると、主に土壁を手掛ける職人や雑誌『左官教室』の編集長である小林澄夫さんから高い評価を得た。
話をしてみると、同じ壁でも価格と効率が重視されるコンクリートと、繊細さや仕上がりの美しさ、周囲との調和が大切な土壁では求められることが大きく違うことがわかった。挾土さんは目を開かれる思いだった。
「例えば200人も300人もいて、いつもケンカしてるような人材派遣センターがあってさ。そこで仕事をしてたら、突然、舞台の仕事がきてね。良い役者や監督に出会って、能率じゃなくて深いことをひとつでもしっかりやりなさいって言われたらさ、やっぱりその世界に惹きつけられるでしょ。それまで俺がいたような金とか権力とかどっちが上とか下とか、ガキみたいなしょぼい世界じゃなくて、人間的で豊かで深い世界でしょう」
新たな苦悩の始まり
あっという間に土壁の世界にのめり込んだ挾土さんは、コンクリートの世界から逃れるようにして独立。数少ない理解者だった12人の職人を引き連れて「職人社 秀平組」を立ち上げた。2001年、38歳の時だった。
こうして苦痛の日々とは別れを告げたが、新たな苦悩が始まった。最初の頃は自分の技能やこだわり、完成度の高さを評価される仕事が楽しくて仕方なかったという。土壁についてははほぼ独学だったから、既成概念に捉われないアイデアがどんどん湧いてきては、それを試した。その斬新さと、イメージを着実に具現化する能力が関係者に評価され、次第に「挾土秀平」の名が知れ渡るようになった。
そうして、「吐き気がする依頼」がくるようになった。それは冒頭に並べたような人の目に多く触れる、責任重大な「絶対に失敗できない仕事」を指す。最初にその重圧を感じたのは2005年、TBS系のニュース番組『NEWS23』のスタジオでキャスターたちの背景に掲げられる壁の依頼だった。それから現在まで、同様の大きな仕事が途絶えることなく続く。
「『NEWS23』っていったらとんでもない数の人が観る番組でしょ。総理公邸とか洞爺湖サミットの会議場は国の威信にかかわる仕事だし、ペニンシュラ東京とかアマン東京は外資系の世界の仕事でしょう。それは、失敗したって『ごめんなさい!』で済む仕事とは圧力の規模が違うわな。しかも、やり直しが許されないし、失敗したら訴訟の可能性だってある。謝ってすまん場所で、絶対80点以上取りなさいって言われたら吐き気するよ」
勉強しないことがオリジナリティ
「吐き気がする依頼」を無事に終えるたびに、「もうやりたくない」と思うという。それでも仕事を請けるのは、「職人社 秀平組」の親分としての矜持だった。
「俺たちは、左官の世界では最後の一家だと思ってるから。俺についてきてくれる仲間がいるなら、飯を食わせていくのは俺の責任なんだよ。そこで仕事選ぶなんて、ありえない。むしろ、自分を殺してでもやるよ。それくらい仲間が大事なんだ。仕事選ぶっていうのはアーティスト。俺は一家の親分なんだから」
この言葉を聞いてふと思った。挾土さんは仕事を選ばない。でも求められる仕事の規模やクオリティは、間違いなくアートの領域だ。挾土さんの「吐き気」は、そこにも理由がある。30代後半まで、無名の左官としてひたすらコンクリートの壁を作っていた自分が、常にデザイナーやアーティストと同じ土俵に立たされて、センスや美意識を問われるのだ。しかも一家の長として仲間たちの生活を背負って。その緊張感を想像し、「美的センスを磨くために何かしていることはありますか?」と尋ねると、挾土さんは首を横に振った。
「勉強はしたことないよ。だって勉強したらパクリが生まれるでしょう。色合いとかも知らんうちに頭に残って、誰かに似てしまう。似てないことが新しいということで、それが評価になるわけでしょう。勉強しないってことがオリジナリティじゃないのかな」
「休む方法を探さんと仕事ができなくなるぞ」
この答えに驚き、思わず、それでは自分の内面だけで勝負していることですか? 自分のイマジネーションに限界があるかもしれないという怖さはないんですか? と重ねて聞くと、挾土さんは「可能性は無限にある。それを自分が探せるかどうかだよ」と微笑んだ。
「ヒントは日常にごまんとあるでしょう。目って1日に何万もの写真を撮っているのと同じ。そのなかからどれを選ぶのかという話だね。例えば畑を鍬で耕している人がいてさ。ぐっと鍬で掘った跡を見たときに美しいと思ったら、それは壁になるかもしれないと思うし。あらゆるところにあるはずだよ、ヒントは」
「ヒントは日常のあらゆる瞬間にある」と言われても、大半の人はそれほど気を張って生きてはいないだろう。しかし、全国から依頼が届き、それに応じる挾土さんは、常にヒントを探し続けなくてはいけない。その生活は、わずかな休息すら奪ってしまった。
「休むことは課題。日曜は休日にしてるけど、結局、何を見ても壁のことにつなげて考えるようになってるから、けっこう疲れる。昔はカラオケで発散したけど、そういうことでは収まらなくなった。酒飲んでる時は、脳がもっと回転してるしな。だから、酒飲む時はいつもメモ帳を持ってて、閃いたらメモを取る。脳が24時間営業みたいなもんで、最近は医者に、休む方法を探さないと本当に仕事ができなくなるぞって言われたんだ」
漫画家・井上雄彦さんとの出会い
振り返ってみれば、周囲からの圧力に負けじと過ごした14年、独立してからの16年、合わせて30年、そのほとんどで息を詰めるような時間を過ごしてきた。それでもその合間、ある瞬間、特別な出会いを得て、あるいは会心の作品を仕上げて、胸がすくこともある。
例えば、2015年に放送されたNHKの大河ドラマ『真田丸』の仕事では、地元松之木町の土を使って高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁を築き、そこにコテで「真田丸」とタイトルの文字を刻んだ。ぶっつけ本番、一度きりの勝負で挑んだこの大作は、挾土さんが「天才」と認めるある人との出会いによって、完成することができたという。
「(漫画家の)井上雄彦さん。何回か会って話したり、あの人が描くところも見たりしているけど、本物の天才やな。あの人は一本の線を描いただけでアートになるでしょ。何が美しいって、あの人の髪の毛の表現。本当に生きたような線で、あれが俺に焼き付いてるんだな。あの人に会って、あの線の美しさが俺に焼き付いていたから、あの真田丸っていう字が書けたんだと思う。真田丸の字もすかーっとして線がきれいでしょ。だから俺はあの人に感謝してるの。真田丸の仕事ができたのは、あの人のおかげだと思う」
挾土さんは何度も「井上さんは天才」と絶賛した後で、「でも俺は違う」と言った。
「能力があればこんな風に疲れないよ。能力がある人はこんなに悩まないで、もっとさらっとできちゃうでしょ。だから俺はダメだなって思うもん」
ものづくりは自然との交信
天才は悩まないのか。悩み、疲れるから凡人なのか。それは意見が分かれるところだろうが、挾土さんが寝ても覚めても気を張り詰め、酒を飲みながらメモを取り、人知れず足掻いて作り上げてきた土の壁は、ひび割れの線一本にまでこだわっている。その繊細さは、井上雄彦さんが描く髪の毛一本の美しさに通じるものがあるのではないだろうか。
「ものづくりは自然との交信だから。その想いは年々強くなってくんだ。仕上がった壁の表面にそれを感じるよな。この季節のこの環境のこの時の感覚でできたもの、自然の空気とか光が乾燥させてできた肌は、二度と同じものができない。それが価値になるでしょう。同じことができないという意味で、自然のひび割れという現象すらも価値になる。ただし、自分のイメージと違うひびが入ったら、壊さなあかんよな。なんでも自然だからいいってわけじゃない。お客さんはわからないかもしれないけど、そこで妥協したら誰かが気づく。それで次の仕事がなくなるかもしれない。だからこの仕事は難しいんだよ」
一家の親分として仲間を食わせていくために、どんな仕事もいとわない。絶対に80点以上を取らなければいけない、失敗したら後がないというプレッシャーのなかで、限界まで考え抜く。手を動かす。そして、コントロールできない「自然」とも向き合う。だから、だろう。ひとつの現場が無事に終わるたびに、この言葉が浮かんでくるのだ。
「助かった、神様ありがとう」
<取材協力>
「左官挾土秀平 | Official website of Syuhei Hasado」
岐阜県高山市松之木町1108-6
0577-37-6226
文・写真:川内イオ