わたしの一皿 海寒く鯖肥ゆる冬

今年の初雪は先ごろ出かけたアルメニアだった。そんな記憶も新しいまま、先日、九州でも雪に降られました。もうすっかり冬なんだな。みんげい おくむらの奥村です。

冬は好きかと問われれば、苦手です。と曖昧に答えるのが常。嫌いではない。が、体が縮こまる感じがどうにも窮屈だから、好きだとはやっぱり言い切れない。そんな冬ですが、食材は大好きなものばかり。その中でも、というのが今日のお話。鯖 (サバ) 、です。

サバ

年中美味しい魚だけど、冬の真鯖は脂のノリがすばらしい。焼いても、揚げても、煮ても、〆てもやっぱりこの時期のサバが格別おいしい。今日のサバは地元の市場で買ってきた岩手のもの。

市場を歩いていると季節の変化を敏感に感じるのだけれど、サバが太ると冬が近づいてきた、という感じがする。今日のものは1キロもので、見るからに丸々と太って、パンッパン。冬をこれで乗り越えるぞ、というエネルギーが伝わってくるよう。

買ってきたサバは鮮度が落ちやすいので早々に調理。まずは頭を落とす。断面から伝わってくる脂感。この時点で何をしてもおいしいのは確定。

サバの断面図

今日はシメサバにするので三枚おろしに。サバは身が割れやすいのでここは注意しつつ、すばやく。うまく出来たらざるにとって、塩をたっぷり両面に振る。しばらく置いて、いらない水分を抜く。

洗って、きれいに拭いたら酢に浸す。シメサバは文字にすればとても簡単だが、塩をして置いておく時間。酢に浸して置いておく時間がそれぞれこだわりのポイント。

サバの下ごしらえ

ここらでうつわの話。民藝と呼ばれるものを扱うお店ながら、実はこの連載 (もう12回目!) で取り上げてこなかった産地がある。山陰だ。島根県と鳥取県には焼き物を中心に、民藝と呼ばれるものが数多くある。

調べてみると、島根・鳥取ともサバの消費量が多い県らしい。日本海側は美味しいサバが獲れますからね。ということで今回はそんな角度から山陰のうつわ。

この「さんち」でも特集が組まれた島根県の「出西窯 (しゅっさいがま) 」のもので、白。同じ形で、今の出西窯の代名詞とも言える青も持っているのだけど、なぜだかこの白をよく使う。

今日も青魚の代表格のサバだけに青か悩んだのだが、最後に手に取ったのは白だった。前回同様、これもフラットなお皿。

 

今日はサバを酢で〆たのは、20分ほど。骨を取り除き、皮をはいで、いよいよ切って盛り付ける。切り方は色々あるが、最近はこの寿司ネタのような感じが個人的には好きだ。皿の手前、身の細くなっているのは腹側。ピンクというか、脂のおかげでかなり白みがかっている。こりゃ見ただけでうまいのがわかりますよ。

民藝と呼ばれる窯元のうつわの白は、どこかやさしいぬくもりがある。白自体が、黄色味がかったような、ベージュのような色が多い。柔らかく、自然な風合いだからシンプルな素材がよく似合うのだと常々思う。食器の白も色々見比べてみると違いがあるもんです。

意外だが、出西窯は歴史が長くない。しかし今や山陰の代表のようなものと言っても過言ではないだろう。民藝というのは歴史の長さではない。現代、自分で窯を始めた人たちも、未来に民藝と呼ばれるものになる可能性は大いにある。そして僕はそんな出会いを常に求めてあちこちを歩き回っています。

気づけば連載を始めて12回。12通りのうつわと料理の組み合わせは毎回なかなか楽しい時間だった。この連載は2年目、少し変化すると思いますが、どうぞ引き続き楽しんで頂ければ、これ幸い。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

皆さん、新酒ができましたよー!

どこからか吹いてくる冷たい風と年末の慌ただしさに、早足で町を行く。そんな日々に「新酒ができあがりました!」と吉報が入りました。

新酒とは、新米でつくった今年の日本酒のこと。日本酒の年度は、米づくりの周期に合わせて7月始まり6月終わりの1年間。新酒がつくられるのは寒い季節で、現代では11から3月が多いようです。

まだ熟成が進んでいない新酒のおいしさは、舌に刺激が残るような荒々しさや、弾けるほどの若々しさ。フレッシュな味わいを堪能するには、やっぱり冷酒で。キリっと冷えた日本酒を片手に、あっつあつの鍋を味わうのは、最高の冬のひとときです。

日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会

杉玉は新酒の完成を告げる、冬の風物詩

ところで。酒屋さんで見かけるこの丸いもの。これがなにかご存知ですか?

日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
軒下に鎮座している、これです
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山

これは酒屋の軒下へ新酒完成のときに飾られる「杉玉」。青々とした球体が目を惹くため、酒蔵であることを示す看板の役目と、「今年の新酒が完成しました!」を伝える目印の役目を果たしています。

その起源は諸説ありますが、なかでも有力とされているのが、お酒の神様が祀られている大神神社(奈良県桜井市)の習慣が全国に広がったというもの。「今年も良いお酒ができますように」と祈願して杉玉を吊るしていたそうです。この神社のご神体は三輪山の杉。それにあやかって杉が用いられてきたとか。また杉はお酒の酸化を防ぐ効果があるとも言われ、杉とお酒の縁は意外にも深いのかもしれません。

酒屋を通り過ぎたときに、緑の杉玉を見て「お、新酒の時期か」なんて言えたらちょっと素敵です。今回訪れた高山は酒づくりに適した気候と水、お米に恵まれた酒どころ。観光地としても人気の高い「さんまち」でも杉玉をいくつか見かけました。古い町並みと杉玉。なんとも風情があります。

日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会

高山を訪れたちょうどその日、200年の歴史をもつ舩坂酒造店の「杉玉奉納会」がちょうど開催されていると聞きつけ急いで向かいました。今年の新酒の完成とともに、去年活躍した杉玉を酒造スタッフで降ろし、新しいものを杜氏と社長も加わって掲げます。

日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
1年間軒下で活躍した杉玉に感謝を込めて降ろしていく
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
毎年杜氏と社長が新しい杉玉を運ぶ
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
非常に重たいので大勢で
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
高山伝統の祝い歌「めでた」を唱和するのが恒例
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会

スタッフさんが身を包む真っ赤な法被と杉玉の緑の鮮やさに感じる賑わい。新緑の杉玉が軒下に上がったあとは、鏡割りが行われ、記念用のオリジナル枡で新酒が振る舞われます。

炊き出しも行われ、酒造スタッフ、近所の人、全国から集まった日本酒好きや外国人観光客が集まる様はさながら大宴会のようです。

日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
日本酒、新酒、杉玉。飛騨高山・高山・舩坂酒造の杉玉奉納会
舩坂酒造店 飛騨杜氏 平岡誠治さん(左)と代表取締役社長 有巣弘城さん(右)

杉玉を見れば、新酒の時期が分かる!?

新調された杉玉の葉は、水分を多く含んだフレッシュなもので、きれいな緑色をしています。深緑の杉玉を見られるのは、なんとわずか数週間。新酒完成の号外は、静かに告げられているようです。

軒下に吊るして程なくすると、葉っぱが枯れて徐々に茶色へと変化していきます。日本酒がワインなどと比べても短い1年で熟成されていく様は、杉玉の色が短い間に移ろう様を表しているかのよう。花見酒、夏酒、秋のひやおろしといった季節によって違う楽しみ方と、杉玉の色の変遷を重ねてみれば、いつもの一杯にも風情が漂います。

杉玉のまんまるさの秘訣

日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
杉玉をつくる中谷紀久雄さん

飛騨高山で杉玉をつくるのは、酪農を営む中谷さん。このお仕事を始めた理由を伺うと、柔らかい口調で答えてくれた姿に、この人柄がまるっこい、きれいな形の杉玉を生むのかもしれないと感じました。

「親父がやってたんだけど、親父が歳とともにつくれなくなったもんで。つくる人がおらんで、周りから頼まれてつくるようになったんよ」

今年で77歳ながら、良質な杉を探しに山奥まで行くこともあるそう。

酒屋にとって神聖な存在の杉玉。京都、大阪、兵庫、静岡、埼玉、福島など、全国の酒造が中谷さんを頼って注文をします。

あの大きな球体はどうやってできてるのだろう。杉玉づくりの工程を少し教えてもらいました。

日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
自ら探し刈ってきた杉の様子を見極める
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
サイズごとの寸法で杉の葉を丁寧にカット
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
針金で束にし、葉先を切って整える
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
針金と金網で作った芯に3本の束を通す。これは約40cmの杉玉の芯
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
中央の芯は意外と小さい
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
束を金網の全面に差しこんで芯に差していく
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
球体になったら形を整え、まんまるに
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
そして完成。まだ緑色の杉の葉は水分を多く含んでいるので重い
日本酒、新酒、杉玉、飛騨高山
「大変やけど他に作る人がおらんでな」と笑う中谷さん。杉玉づくりの後継者を探しているそうです

新酒の完成を告げる、杉玉。この文化が色褪せずずっと残ってくれたらいいなぁ。そんなことを思いながら、さっそく手に入れた新酒を味わうと、年末の焦燥も忘れさせてくれるようなフレッシュさが広がりました。

 


取材協力
舩坂酒造店
岐阜県高山市上三之町105番地
0577-32-0016
営業時間 8:30〜20:00

杉玉製造・販売
中谷紀久雄さん
岐阜県高山市朝日町

文 : 田中佑実
写真 : 今井駿介

「産地で手に入れる暮らしの道具」奥井木工舎の有道杓子

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

各地の取材で出会う暮らしの道具。作っている人や生まれる現場を知ると、自分も使ってみたくなります。

この記事では、実際に作り手を訪ねて自分で使ってみる、その体験をまとめていきたいと思います。

レポート001:飛騨高山の有道杓子

12月に特集中の飛騨高山を調べていて、「有道杓子」という道具に出会いました。うとうしゃくし、と読むそうです。

有道杓子

コロンとした形、木のあたたかみ。そしてすくいの部分の表面が、波打つようでとても美しい、と思いました。

有道杓子のすくいの部分
有道杓子のすくいの部分

調べると、かの白洲正子も絶賛した道具だとか。

「うちでは煮物の他に、ジャムや小豆を煮るのにも使っていますね」

教えてくれたのはこの杓子の作り手、奥井木工舎の奥井さん。有道杓子は軽くて丈夫、調理の時に具材が崩れにくい利点があるといいます。

価格はサイズ別に4000円台から。

いいお値段!とはじめは驚きましたが、これはそうなるだけの理由が、作る過程にありそうです。

さっそく工房にお邪魔してお話を伺いました。

飛騨の恵み、ホオノキ

「有道とは、昭和に廃村になった村の名前。そこで作られていた日用品が有道杓子です。

材料にはホオノキの材を使います。有道村にはたくさんホオノキが生えていたようなんですね」

飛騨高山とホオノキと聞いて、ピンとくる方もいるでしょうか。実は飛騨高山の郷土料理として有名な「朴葉味噌」の「朴葉」とは、ホオノキの葉っぱのことです。

葉の上に味噌を炙ることで、味噌にいい香りが移ります
葉の上に味噌を炙ることで、味噌にいい香りが移ります

有道杓子は、このホオノキの丸太から全て手作業で杓子の形を切り出して作られるのです。

白洲正子が愛した「杓子の中の王様」

「昔の村の暮らしでは煮炊きが大半だったでしょうから、きっとこういう道具も作られたのですね。冬の農閑期の仕事として作られていたようです」

昔の有道村の事が書かれた資料。口頭で受け継がれてきた作り方や形を、奥井さんはこうした古い文献に当たって復刻しています
昔の有道村の事が書かれた資料。口頭で受け継がれてきた作り方や形を、奥井さんはこうした古い文献に当たって復刻しています

必要から生まれた飾りのない暮らしの道具を称賛したのが白洲正子でした。飛騨の地で有道杓子と偶然に出会い、「杓子の中の王様」と自身の随筆の中で讃えたそうです。

こちらは変形版の飯しゃもじ。奥井さんが古道具屋さんなどで見つけてきたものです
こちらは変形版の飯しゃもじ。奥井さんが古道具屋さんなどで見つけてきたものです

明治には最大で5万本作ったという記録も残されていますが、戦後は金属製のレードル (普段私たちが「おたま」と呼んでいるもの) にとって代わられ、衰退。

廃村後は村の出身者や有志が保存会を立ち上げ、細々とものづくりを続けてきたそうです。

先ほどの飯しゃもじ、ひっくり返すと天狗の絵が。使わなくなったものをお土産品に転用したもののようです
先ほどの飯しゃもじ、ひっくり返すと天狗の絵が。使わなくなったものをお土産品に転用したもののようです

木工の原点。「有道杓子」はこうして作られる

今この杓子を作れるのは保存会所属のおじいさん2名と、奥井さんのみ。

「シンプルなようで、やってみるとこれが難しい。3年くらいやってようやく楽しくなってきました」

一見素朴な形ですが、実は飛騨にしかないという独特の道具から出刃包丁まで、様々な刃物を使い分けて形づくられています。

自宅の一室が作業場所。大阪生まれの奥井さんは、幼い頃から木工好き。ご両親が奥飛騨ご出身で、親しみのあった飛騨高山で木工の技能専門学校に学び、作家として出店していた高山の市で、同じく出店者の有道杓子保存会と出会ったそうです
自宅の一室が作業場所。大阪生まれの奥井さんは、幼い頃から木工好き。ご両親が奥飛騨ご出身で、親しみのあった飛騨高山で木工の技能専門学校に学び、作家として出店していた高山の市で、同じく出店者の有道杓子保存会と出会ったそうです
使う刃物をざっと並べただけでこれだけの種類が
他にも様々な道具が揃えられています
他にも様々な道具が揃えられています

作る季節も限られています。

「夏の材は養分を吸うから、仕上げると黒ずんで見栄えが悪くなるんです」

ホオノキの丸太。ここから杓子を切り出していきます
ホオノキの丸太。ここから杓子を切り出していきます

そのため有道杓子を作るのは冬の寒い間だけ。年間でも100〜150本ほどしか作れないそうです。

軽くて丈夫な理由:やわらかいホオノキを、「旬」のうちに加工

「ホオノキは軟材といって、木の中でも加工がしやすい材なんです。それを水分を含んで一番やわらかい生木の状態で加工します。僕は木のお刺身って呼んでいるんですよ」

水分を逃がさないよう、丸太の切り口にはボンドが塗られていました。乾燥を避けるために、雪の多い時は雪の中に埋めて保存したりもするそうです
水分を逃がさないよう、丸太の切り口にはボンドが塗られていました。乾燥を避けるために、雪の多い時は雪の中に埋めて保存したりもするそうです

機械を使わずに、全てを手作業で作る有道杓子。いかに力を入れずに加工できるかが重要です。

「だから木が柔らかいうちに、木の繊維に沿って形を切り出していく。割 (わり) 木工と言って、木工の原点といえるような作り方です。縄文時代に大木の幹をくりぬいてつくられた、えぐり舟なんかもそうですね」

木目を見ながら、ハンマーで刃先を丸太に入れていきます
木目を見ながら、ハンマーで刃先を丸太に入れていきます
丸太を割っているところ

今、同じやり方で杓子が作られているのは広島と、この飛騨高山だけだそうです。

ここから杓子作りがスタートです
ここから杓子作りがスタートです
柄の部分を切り出します
柄の部分を切り出します
ここでも道具の力を借りて
ここでも道具の力を借りて
なんとなく、形が見えてきました
なんとなく、形が見えてきました
繊維をさくように形を作っていきます
繊維をさくように形を作っていきます
杓子っぽくなってきました!
杓子っぽくなってきました!
今度は角度をつけていきます
今度は角度をつけていきます
すくいの部分がくびれてきました
すくいの部分がくびれてきました
すくいの部分にきれいな木目が来るよう計算して切り出されています
すくいの部分にきれいな木目が来るよう計算して切り出されています
柄がどんどん細くなっていき‥‥
柄がどんどん細くなっていき‥‥
柄の形が決まってきました
柄の形が決まってきました

柄からすくいの部分まで全てひとつの材からできているので、軽くても丈夫。

木材がやわらかいうちに木の繊維に沿って形を削り出しているため、木が本来もっている強度をよく保ったままで杓子の形になっています。

奥井さんはその作業を、木目を見ながら「形を見つける」と、おっしゃっていました。

「その分寸法や格好が変わってくるので、インターネットで売るのはなかなか難しくて。今のところは各地の小売店さんと、高山での実演販売だけでお売りしています」

具材を傷つけにくい理由:有道杓子特有の「曲がり鉋」が生み出す波模様

柄の部分を仕上げたら、すくいの部分を作ります。

はじめに驚いたのが、「木のお刺身」を切るのに、ここで本当に調理に使う出刃包丁が登場したこと。形を削り出していくときも、スコン、トン、と野菜を切るような音が響きます。

鉈で大まかな形を整えてから‥‥
鉈で大まかな形を整えてから‥‥
出刃包丁の登場です!
出刃包丁の登場です!

鉈では大まかな形しか削り出せないので、包丁で杓子としての形を整えていくのだそうです。

美しい曲線が現れました
美しい曲線が現れました

すくいの底の部分は、必ず面が台形になるように仕上げていくのだとか。

すくいの底部分に台形が並んでいます。このことで鍋や具材への当たりがやわらかくなるそう
すくいの凸部分に台形が並んでいます。このことで鍋や具材への当たりがやわらかくなるそう

次に登場したのは、くるんと丸い形の刃物。「曲がり鉋」と言って、奥井さんが調べた中では、全国でも飛騨特有の刃物だそうです。

あぐらをかいて、杓子を足で固定します
あぐらをかいて、杓子を足で固定します

「資料も残っていないので、はじめは研ぎ方もわからなくて苦労しました。この道具を作れるのは、今では高山にある鍛冶屋さん1軒だけなんですよ」

その使い方も独特で、足で材料を固定しながらシャッシャとすくい部分を削っていきます。

模様のように、すくい部分が彫られていきます
模様のように、すくい部分が彫られていきます
くるんと丸まった削りカス。触るとまだしっとりとしていました
くるんと丸まった削りカス。触るとまだしっとりとしていました
すくい部分の形が見えてきました!
すくい部分の形が見えてきました!

こうしてできた表面の凹凸が、具材との当たりを和らげ、身を崩さずにしっかりキャッチする役目を果たします。鍋も傷つけにくく、かき混ぜる時の金属音もありません。

あの美しい波模様は単なるデザインではなく、ちゃんと意味があったのですね。

この凹凸が具材を崩さないポイント
この凹凸が具材を崩さないポイント

おおよその形が出来上がるころには、木の放ついい香りとともに削りカスがが絨毯のように広がっていました。

ここから仕上げまであと一息です
ここから仕上げまであと一息です

一般的な木工品は外側に塗装をするため紙やすりで表面を整えるそうですが、有道杓子は無塗装。紙やすりに代えて、全体に鉋をかけて完成させます。

「大工さんが柱の仕上げに鉋をかけるでしょう。あれも、表面に汚れをつきにくくして、長持ちさせるためなんですよ」

鉋は表面の繊維のささくれを平らげるので、水や汚れが繊維の中に入りにくくなるのだそうです。これは調理道具には嬉しいところ。

形が出来上がったら木の呼吸が落ち着くまで3〜4ヶ月、しっかり乾燥させて一本の杓子がようやく完成します。

奥井さんの言っていた「シンプルなようで意外と難しい」のわけが、よくわかりました。

「もう少しすくいの深い、味噌汁用も欲しいってよく言われるんですが、それだと材料の取り方が変わるので、形や繊維の強さなども変わってきてしまうんですね。本来の『有道杓子』はやはりこの形なのかなと思います」

一方で、柄の部分は持ちやすいように台形に整えるなどの工夫も。

柄の部分が台形になっています
柄の部分が台形になっています

200年以上受け継がれてきた形を尊重しながら、使い勝手に工夫がこらされています。これはぜひ使って使い心地を試してみたい。

そんなわけで、このお話はまだ終わりません。使ってみる編に続きます。

<取材協力>
奥井木工舎
https://mainichi-kotsukotsu.jimdo.com/

文・写真:尾島可奈子

稀代の左官・挾土秀平が語る。ものづくりの果てなき苦悩と無限の可能性

「助かった、神様ありがとう、だな」

左官として、日本で唯一無二の地位を築いている挾土秀平(はさど しゅうへい)さん。「ひとつの仕事を終えた時、どんな気持ちになるんですか?」と尋ねた時、挾土さんは少し遠くを見るようにしてこう答えた。

その瞬間、予想外の答えに「え?」と聞き返してしまったが、取材を終えてから、ようやく理解することができた。この言葉には、挾土さんの「いま」が詰まっていた。

職人の枠組みに収まらない存在

総理公邸、洞爺湖サミット会議場、ペニンシュラ東京、アマン東京、JALの羽田空港国際線ファーストクラスラウンジ、NHK大河ドラマ『真田丸』の題字とその題字が記された壁……。さまざまなシチュエーションで「日本の顔」となる場所に、挾土さん率いる「職人社 秀平組」が手掛けた土壁が掲げられている。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
挟土さんが手掛けた高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁と「真田丸」の題字(写真提供:職人社 秀平組)

左官とは、鏝(こて)を使って建物の壁や床などを塗り、仕上げる職人を指す。挟土さんの仕事はどれもがユニークで、同じ顔をしたものはない。最近ではミキモト銀座本店の新社屋に、ジュエリーが持つ品と妖艶さを兼ね備えたような「波」をイメージした5メートルの作品が納められた。

挾土さんは、これらの作品を土と自然の素材だけを使って生み出す。飛騨高山の郊外、自然豊かな里山のなかにある「職人社 秀平組」のアトリエを訪ねると、土から作られたとは思えない多彩な色と表現が目に飛び込んできて、思わずため息が漏れた。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィスは飛騨高山の田畑と野山に囲まれている

左官は日本の伝統的な職業だが、挾土さんはその枠組みに収まらない存在だ。画廊やギャラリーで個展を開き、テレビ、雑誌などメディアへの出演も多い。これほどスポットライトを浴びる職人はほかにいないだろう。しかしその歩みは「土下座」から始まった。

ひとりで壁に向き合った日々

1962年7月1日、左官業を営む家に生を受けた挾土さん。「いつかは継ぐんだろうな」という想いを抱えながら育ち、高校を卒業してから左官の道を歩み始めた。修行先は、熊本の建設業者。技能五輪で左官の金メダリストを何人も輩出している会社だった。

「その会社とはなんの縁もなかったんだけど、どうせならそういうレベルの高いところで修行したいと思ったんだ。でも最初は断られて、土下座して『お願いします』って頼み込んで入れてもらったよ」

「無理に雇ってもらったんだから、なんだ、全然だめだって言われちゃいかん」。そう思った挾土さんは、夕飯を食べてから寝るまでの間、職場で練習に励んだ。暑くても、寒くても、仕事がきつかった日も、何時間もひとりで壁に向き合った。

腕利きの先輩たちも、その姿を見ていたのだろう。いつしか、挾土さんが練習をしていると、ふらっと現れては一言、二言、アドバイスをくれるようになった。仕事の現場でも「一緒にやるぞ」と声をかけてくれた。

先輩たちのアドバイスを聞き、技を間近に見ることで挾土さんの技術はみるみるうちに上達。その成長速度は圧倒的で、21歳の時に初めて出場した技能五輪全国大会・左官の部で、優勝する。左官業に就いて2年1ヵ月しか経っていない人間が優勝するのは、極めて稀なことだった。しかし、挾土さんにとっては、驚くような結果ではなかったようだ。

「高校野球でもなんでも、どこよりも練習したチームが勝つわけでしょ。俺もそういうふうにやったから。誰よりも練習したよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
アトリエに置かれていた土壁。アトリエでは日々実験が行われている。

憤怒の気持ちだけを燃料に

熊本で4年の修業を積んだ挾土さんは、名古屋にある別の会社で2年過ごした後、25歳の時に跡取りとして実家に戻った。それから、想像もしなかった苦汁の日々が始まった。

もともといた職人たちにとって、腕に覚えのある社長の息子の存在は厄介な存在、一緒に仕事をしづらい存在だったのかもしれない。だからこそ挾土さんを自分たちに従わせようとしたのかもしれないが、それだけが理由とも思えないような酷い仕打ちが待っていた。

30年、40年の経験を持つ会社で一番の職人がやるような現場で「お前が頭で入れ」と指示されて、10人の職人が必要な現場で5人しかいないということが繰り返されたのである。誰から見ても、左官の仕事を始めてまだ10年前後の若者が仕切るような現場ではなかった。

そこで素直に頭を下げて助けを乞えば、その後の関係も変わったのかもしれないが、挾土さんはそうしなかった。憤慨の気持ちと自分で何とかしてやるという反骨心を燃料にして、がむしゃらに働いた。自分が深夜まで働けばふたり分の仕事量になると考えて、毎日、遅くまでコテを握り続けた。肉体を酷使するだけでは限界があるから、頭もフル回転させて、どういう交渉してどういう段取りを組めば10人分の仕事が5人で済むかを考えた。

そうしてなんとか及第点で現場を終えると、さらに厳しい仕事が割り振られる。必死でその現場をクリアすると、より過酷な仕事を任される。挾土さんは「憎しみと苛立ちしかなかった」と振り返るが、ひとつだけ確かなことは、この圧力のなかで職人として鍛え上げられていったということだ。

「誰も経験できないことをしたと思うよ、この業界では。それで経験値が増えて、賢くなって強くなって。そのうちに、前はあの環境でやったんだから、これくらいは大丈夫だろうとか、自分でさばける仕事の規模とか幅がでかくなるし、視界も広くなるよね」

起死回生の転機

挾土さんは無理難題を吹っかけられてもそれに屈せず、むしろ糧にして大きくなっていった。そんな若者の姿を見て、挟土さんにつらく当たっていた職人たちは何を思ったのだろう。この悪意のサイクルは、14年間も続いた。

最初の頃は若さと勢いに任せて突っ走っていた挾土さんも、逆風に晒され続けるうちに心身のバランスが狂い始めた。仕事を始めようとすると吐いてしまう。上司の顔を見るだけで、胸が締め付けられて苦しくなる。頑張ろうと思っても、体がいうことを聞かない。当時の心境を象徴するような作品が、アトリエに飾られている。「鬱」と大きく書かれた土のキャンバスに、13匹のミミズを這わせた作品だ。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
見ているだけで憂鬱になりそうな作品

「このまま続けていたら心がダメになる」と思い始めた頃に、起死回生の転機が訪れた。ある日、偶然に出会った、能率ではなく高いクオリティと技能を求められる物件。その物件は土壁だった。それまでの14年間、セメントの仕事ばかりだったから、新鮮だった。挾土さんは意気に感じて、腕によりをかけて仕事にあたった。すると、主に土壁を手掛ける職人や雑誌『左官教室』の編集長である小林澄夫さんから高い評価を得た。

話をしてみると、同じ壁でも価格と効率が重視されるコンクリートと、繊細さや仕上がりの美しさ、周囲との調和が大切な土壁では求められることが大きく違うことがわかった。挾土さんは目を開かれる思いだった。

「例えば200人も300人もいて、いつもケンカしてるような人材派遣センターがあってさ。そこで仕事をしてたら、突然、舞台の仕事がきてね。良い役者や監督に出会って、能率じゃなくて深いことをひとつでもしっかりやりなさいって言われたらさ、やっぱりその世界に惹きつけられるでしょ。それまで俺がいたような金とか権力とかどっちが上とか下とか、ガキみたいなしょぼい世界じゃなくて、人間的で豊かで深い世界でしょう」

新たな苦悩の始まり

あっという間に土壁の世界にのめり込んだ挾土さんは、コンクリートの世界から逃れるようにして独立。数少ない理解者だった12人の職人を引き連れて「職人社 秀平組」を立ち上げた。2001年、38歳の時だった。

こうして苦痛の日々とは別れを告げたが、新たな苦悩が始まった。最初の頃は自分の技能やこだわり、完成度の高さを評価される仕事が楽しくて仕方なかったという。土壁についてははほぼ独学だったから、既成概念に捉われないアイデアがどんどん湧いてきては、それを試した。その斬新さと、イメージを着実に具現化する能力が関係者に評価され、次第に「挾土秀平」の名が知れ渡るようになった。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィス

そうして、「吐き気がする依頼」がくるようになった。それは冒頭に並べたような人の目に多く触れる、責任重大な「絶対に失敗できない仕事」を指す。最初にその重圧を感じたのは2005年、TBS系のニュース番組『NEWS23』のスタジオでキャスターたちの背景に掲げられる壁の依頼だった。それから現在まで、同様の大きな仕事が途絶えることなく続く。

「『NEWS23』っていったらとんでもない数の人が観る番組でしょ。総理公邸とか洞爺湖サミットの会議場は国の威信にかかわる仕事だし、ペニンシュラ東京とかアマン東京は外資系の世界の仕事でしょう。それは、失敗したって『ごめんなさい!』で済む仕事とは圧力の規模が違うわな。しかも、やり直しが許されないし、失敗したら訴訟の可能性だってある。謝ってすまん場所で、絶対80点以上取りなさいって言われたら吐き気するよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
『NEWS23』の背景となった「鳳凰の壁」を作る挟土さん。(写真提供:職人社 秀平組)
職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
スタジオの様子。当時の番組テーマ曲「to you」から受けたイメージを表現したそう。(写真提供:職人社 秀平組)

勉強しないことがオリジナリティ

「吐き気がする依頼」を無事に終えるたびに、「もうやりたくない」と思うという。それでも仕事を請けるのは、「職人社 秀平組」の親分としての矜持だった。

「俺たちは、左官の世界では最後の一家だと思ってるから。俺についてきてくれる仲間がいるなら、飯を食わせていくのは俺の責任なんだよ。そこで仕事選ぶなんて、ありえない。むしろ、自分を殺してでもやるよ。それくらい仲間が大事なんだ。仕事選ぶっていうのはアーティスト。俺は一家の親分なんだから」

この言葉を聞いてふと思った。挾土さんは仕事を選ばない。でも求められる仕事の規模やクオリティは、間違いなくアートの領域だ。挾土さんの「吐き気」は、そこにも理由がある。30代後半まで、無名の左官としてひたすらコンクリートの壁を作っていた自分が、常にデザイナーやアーティストと同じ土俵に立たされて、センスや美意識を問われるのだ。しかも一家の長として仲間たちの生活を背負って。その緊張感を想像し、「美的センスを磨くために何かしていることはありますか?」と尋ねると、挾土さんは首を横に振った。

「勉強はしたことないよ。だって勉強したらパクリが生まれるでしょう。色合いとかも知らんうちに頭に残って、誰かに似てしまう。似てないことが新しいということで、それが評価になるわけでしょう。勉強しないってことがオリジナリティじゃないのかな」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
土と自然の素材だけを使って生み出す鮮やかな色

「休む方法を探さんと仕事ができなくなるぞ」

この答えに驚き、思わず、それでは自分の内面だけで勝負していることですか? 自分のイマジネーションに限界があるかもしれないという怖さはないんですか? と重ねて聞くと、挾土さんは「可能性は無限にある。それを自分が探せるかどうかだよ」と微笑んだ。

「ヒントは日常にごまんとあるでしょう。目って1日に何万もの写真を撮っているのと同じ。そのなかからどれを選ぶのかという話だね。例えば畑を鍬で耕している人がいてさ。ぐっと鍬で掘った跡を見たときに美しいと思ったら、それは壁になるかもしれないと思うし。あらゆるところにあるはずだよ、ヒントは」

「ヒントは日常のあらゆる瞬間にある」と言われても、大半の人はそれほど気を張って生きてはいないだろう。しかし、全国から依頼が届き、それに応じる挾土さんは、常にヒントを探し続けなくてはいけない。その生活は、わずかな休息すら奪ってしまった。

「休むことは課題。日曜は休日にしてるけど、結局、何を見ても壁のことにつなげて考えるようになってるから、けっこう疲れる。昔はカラオケで発散したけど、そういうことでは収まらなくなった。酒飲んでる時は、脳がもっと回転してるしな。だから、酒飲む時はいつもメモ帳を持ってて、閃いたらメモを取る。脳が24時間営業みたいなもんで、最近は医者に、休む方法を探さないと本当に仕事ができなくなるぞって言われたんだ」

漫画家・井上雄彦さんとの出会い

振り返ってみれば、周囲からの圧力に負けじと過ごした14年、独立してからの16年、合わせて30年、そのほとんどで息を詰めるような時間を過ごしてきた。それでもその合間、ある瞬間、特別な出会いを得て、あるいは会心の作品を仕上げて、胸がすくこともある。

例えば、2015年に放送されたNHKの大河ドラマ『真田丸』の仕事では、地元松之木町の土を使って高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁を築き、そこにコテで「真田丸」とタイトルの文字を刻んだ。ぶっつけ本番、一度きりの勝負で挑んだこの大作は、挾土さんが「天才」と認めるある人との出会いによって、完成することができたという。

「(漫画家の)井上雄彦さん。何回か会って話したり、あの人が描くところも見たりしているけど、本物の天才やな。あの人は一本の線を描いただけでアートになるでしょ。何が美しいって、あの人の髪の毛の表現。本当に生きたような線で、あれが俺に焼き付いてるんだな。あの人に会って、あの線の美しさが俺に焼き付いていたから、あの真田丸っていう字が書けたんだと思う。真田丸の字もすかーっとして線がきれいでしょ。だから俺はあの人に感謝してるの。真田丸の仕事ができたのは、あの人のおかげだと思う」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)真田丸の文字
コテで書いたとは思えない「真田丸」の文字

挾土さんは何度も「井上さんは天才」と絶賛した後で、「でも俺は違う」と言った。

「能力があればこんな風に疲れないよ。能力がある人はこんなに悩まないで、もっとさらっとできちゃうでしょ。だから俺はダメだなって思うもん」

ものづくりは自然との交信

天才は悩まないのか。悩み、疲れるから凡人なのか。それは意見が分かれるところだろうが、挾土さんが寝ても覚めても気を張り詰め、酒を飲みながらメモを取り、人知れず足掻いて作り上げてきた土の壁は、ひび割れの線一本にまでこだわっている。その繊細さは、井上雄彦さんが描く髪の毛一本の美しさに通じるものがあるのではないだろうか。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「ものづくり・匠の技の祭典2017」で披露した葛飾北斎の浮世絵をモチーフにした作品。間近で見ると細かな表現が目に留まる。

「ものづくりは自然との交信だから。その想いは年々強くなってくんだ。仕上がった壁の表面にそれを感じるよな。この季節のこの環境のこの時の感覚でできたもの、自然の空気とか光が乾燥させてできた肌は、二度と同じものができない。それが価値になるでしょう。同じことができないという意味で、自然のひび割れという現象すらも価値になる。ただし、自分のイメージと違うひびが入ったら、壊さなあかんよな。なんでも自然だからいいってわけじゃない。お客さんはわからないかもしれないけど、そこで妥協したら誰かが気づく。それで次の仕事がなくなるかもしれない。だからこの仕事は難しいんだよ」

一家の親分として仲間を食わせていくために、どんな仕事もいとわない。絶対に80点以上を取らなければいけない、失敗したら後がないというプレッシャーのなかで、限界まで考え抜く。手を動かす。そして、コントロールできない「自然」とも向き合う。だから、だろう。ひとつの現場が無事に終わるたびに、この言葉が浮かんでくるのだ。

「助かった、神様ありがとう」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」挾土秀平さん

<取材協力>
「左官挾土秀平 | Official website of Syuhei Hasado」
岐阜県高山市松之木町1108-6
0577-37-6226

文・写真:川内イオ

飛騨高山の版画文化が生んだ、真工藝の木版手染ぬいぐるみ

こんにちは。ライターの岩本恵美です。

私は毎年、その年の干支の置物や人形を玄関に飾っているのですが(風水的にいいらしいんです)、飛騨高山でとっても可愛らしい干支のぬいぐるみを見つけました。

見てください、このぬいぐるみたちを。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
真工藝の木版手染ぬいぐるみ

コロンとした丸みのある形、どこかぬくもりを感じる色合い、そして動物たちの何ともいえない素朴な表情。これを「可愛い」と言わずして、何を「可愛い」と言うのでしょう。

飛騨高山と版画のカンケイ

これらのぬいぐるみを作っているのは、飛騨高山にある「真工藝 (しんこうげい) 」。木版画を基調とした工芸品を製作する工房です。つまり、このぬいぐるみたちも実は版画の技術を応用して作られているんです。

真工藝 外観
風情ある町家を店舗にした「真工藝」
真工藝 内観
店内には干支の他に山鳥や魚などのぬいぐるみも

ここ飛騨高山は、昔から木材の産地として知られ、人々の暮らしの中に版画がありました。雪深い冬、余暇の楽しみとして版画をしたり、大正時代以降は版画を教育に取り入れたりするなど、版画は飛騨高山の人々にとても身近なものです。

武田由平 (たけだ・よしへい) や守洞春 (もり・どうしゅん) ら数多くの版画家を輩出し、今でも木版画の国際公募展が行われているほど。

版画文化から生まれた新たな技法

「飛騨高山では子どものころから版画をよくやるんです。小学校でも図工の時間に必ずやりますね」と教えてくれたのは、真工藝の田中博子さん。

1972 (昭和47) 年に先代が創業した真工藝。その始まりは、版画皿だったそう。市内で民芸品を扱う土産物屋の記念品として考案されたのだとか。版画で何かを作ろうというのは、ごく自然な流れだったといいます。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
市内の飲食店や土産物屋のレジで、釣り銭トレイとしてもよく見かけた版画皿

そして、先代の奥さまが絵更紗をたしなむ染色家であったことから、版画を何とか布に摺れないかと試行錯誤。その結果生まれたのが、ぬいぐるみにも施されている「木版手染」という独自の染めつけ技法でした。

一つの版木に彩りを宿す

木版手染は、布を版木の上に置いてばれんで摺るという、まさに版画の要領で行われます。版画では、多色刷りの場合、仕上がりの色ごとに版木を製作して紙に色を重ねていきますが、木版手染の版木はただ一つ。

というのも、布はタテヨコ斜めに伸縮するため、摺っているうちに版がずれてしまう恐れがあるからです。そこで、一つの版木に一度に全部の色をのせて摺っていきます。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
羊の版木。近くで見ると深く彫られているのがよくわかります
真工藝の木版手染ぬいぐるみ工程
羊の場合、使用する染料は6色

「色が混ざらないように、通常の版画よりも版木を深く彫らないといけないのが難しいところ」と田中さん。深く彫ることで、余分な染料が溝に逃げていくのだそうです。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ工程
仕上がり図を見ながら、1色ずつ丁寧に版木に色をのせていきます
真工藝の木版手染ぬいぐるみ工程
色を全てのせたら、織りあげたままの生木綿 (きもめん) を版木にのせます。ずれないように慎重に
真工藝の木版手染ぬいぐるみ工程
ばれんで摺っていくと、徐々に柄が浮き上がっていきます。しっかり摺らないと布に色がつかないので念入りに

摺りあがったら、高温で蒸して色止めします。摺った直後と蒸した後の発色は違うので、色の調整も必要とのこと。

染料も市販のものをそのまま使用せず、色を合わせて微妙な色合いを作っているので、まったく同じ彩りが出ないのも木版手染の面白いところです。

「染料も生きているんですよね。状態が悪いと変色してしまうので、特に夏場はこまめに少しずつ作るようにしています」

最後にもみ殻をつめて、縫い上げたら出来上がり。全て手作業で行われ、一つひとつ表情や形が異なるのも魅力です。

もみ殻
綿なども試したそうですが、置いた時の安定感などを考慮して最終的にもみ殻に辿り着いたそう
真工藝の木版手染ぬいぐるみ
職人さんの手を経て出来上がった羊たち。一つとして同じものはありません

飛騨高山を感じさせる「物語」のあるデザイン

ぬいぐるみのデザインは、自分たちの生活の中にあるものをモチーフにするところから始まったといいます。先代も当代も狩猟や釣りが好き。雉や馬、山鳥、魚など、自然豊かな飛騨高山を彷彿とさせるものが多いのも納得です。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
真工藝の木版手染ぬいぐるみ

初期に製作した馬のぬいぐるみは、飛騨高山に伝わる名匠・左甚五郎 (ひだり・じんごろう) 作の木彫「稲喰馬 (いなくいうま) 」をモチーフにしたもの。この馬のぬいぐるみが午年に人気を博したことから、毎年干支のぬいぐるみを作るようになったといいます。

ただし、いわゆる干支っぽいものでなく、一つひとつに物語を込めてデザインしているのだそう。

たとえば、ねずみは飛騨の赤かぶを抱いた白鼠。「立派な赤かぶを拝借してきて嬉しいのかも」なんて想像が膨らみます。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
のほほんとした表情の牛は、美しい野の花が咲く草原で和んでいる様子。竹やぶに潜む姿を連想したという虎は、鋭い眼光で獲物でも狙っているかのよう

和風すぎないデザインが、日本家屋だけでなく、現代の部屋にもなじむ真工藝の木版手染ぬいぐるみ。毎年一つずつ集めてみたくなりました。一年の始まりに飾るたびに、その物語や飛騨高山に思いを馳せることができそうです。

真工藝の木版手染ぬいぐるみ
親子ペアでそろえられる干支シリーズ。来年の干支、戌の子どもを我が家に連れて帰りました

<取材協力>

真工藝

岐阜県高山市八軒町1-86

TEL:0577-32-1750

営業時間:10:00~18:00

定休日:火曜日

文・写真:岩本恵美

飛騨牛に朴葉味噌、だけじゃない。飛騨高山「郷土料理 京や」で味わう冬

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

旅先で味わいたいのはやはりその土地ならではの料理です。あとは地酒と地の器などがそろえば、もうこの上なく。産地で晩酌、今夜は飛騨高山で一杯。

高山の夜は早い。

ひっそりとした通り

昼間は観光客で賑わっていた目抜き通りも、日に日に早くなる日暮れとともにひっそりとして来ます。

そんな中、どこか一杯立ち寄れるところはないかしらとそぞろ歩いていると、闇に浮かび上がる大きなシルエット。

京やの外観

暗い中でも建物の立派さがうかがえます。脇の看板には煌々と「京や」の文字。

京や、と浮かび上がる看板
明かりを目指していくと、いいお店を見つけた予感です
明かりを目指していくと、いいお店を見つけた予感です

誘われるようにのれんをくぐると「いらっしゃい」の明るい声とともに、

「席はテーブルとお座敷と、焼き物をするなら囲炉裏席がありますがどちらがいいですか?」

と尋ねられました。

中をちらりと覗くと囲炉裏席は網の上で食材を焼くスタイル。先客がいい匂いをさせているのはきっと、かの有名な飛騨牛でしょう。網の下の炭火が、とても暖かそうです。

囲炉裏席

「囲炉裏席でお願いします」と答えて席に落ち着くと、店内は高い天井、立派な梁。

わざわざ新潟から移築してきたという古民家を改築した店内は、内装もどこか懐かしさを感じさせます。

内装

早速くつろいだ気持ちになって、高山にきたらやっぱり食べたい、飛騨牛と朴葉味噌をまず注文。もちろん地酒も忘れません。

まずは定番の郷土料理で一杯

お店自慢の、A5ランクの飛騨牛を網焼きで。飛騨牛は「溶けるような口当たりもありつつ、しっかりと肉らしい食べ応えがあることが良さ」だそうです
お店自慢の、A5ランクの飛騨牛を網焼きで。飛騨牛は「溶けるような口当たりもありつつ、しっかりと肉らしい食べ応えがあることが良さ」だそうです
おすすめをお願いした地酒は、地元でも有名だという平瀬酒造の「久寿玉 (くすだま) 」
おすすめをお願いした地酒は、地元でも有名だという平瀬酒造の「久寿玉 (くすだま) 」
待ってました、朴葉味噌!
待ってました、朴葉味噌!

秋に一斉に葉を落とすというホオノキ。朴葉味噌は、その葉の上で味噌を炙り、葉の香りを味噌に移していただく飛騨伝統の郷土食です。

しいたけや刻みネギと一緒に炙ると、風味が一段と豊かになって、ご飯や晩酌のおともに最高です。

天然の器でいただく土地の恵み。炭火と地酒で体も温まって大満足、ですが今日の晩酌はこれでは終わらなかった。

店内のお品書きにふと目をやると、

店内のお品書き

漬物ステーキ‥‥こもどうふ‥‥?見慣れない料理名ばかりです。

「雪の多い飛騨は冬に野菜が採れなくなるので、どの家も漬物にしてあるんですね。でもそればっかりだと冷たいので、玉子でとじて焼いたものが漬物ステーキです」

教えてくれたのはご両親からお店を受け継いだ2代目の西村直樹さん。

そう、「京や」さんは飛騨牛や朴葉味噌だけにとどまらない、飛騨高山伝統のさまざまな郷土料理を味わえるお店なのです。

漬物ステーキ

冷めないうちに食べてね、の言葉通り出来立てを急いでほおばると、アツアツの卵とじの中にシャキシャキとした白菜の歯ごたえ。あっさりしているので、濃いめの朴葉味噌と好相性です
冷めないうちに食べてね、の言葉通り出来立てを急いでほおばると、アツアツの卵とじの中にシャキシャキとした白菜の歯ごたえ。あっさりしているので、濃いめの朴葉味噌と好相性です

ころいも

間引いた芋を「もったいないから」と保存し、皮ごと甘辛く炊いたもの。一口サイズでついついお箸が進みます
間引いた芋をもったいないからと保存し、皮ごと甘辛く炊いたもの。一口サイズでついついお箸が進みます

こもどうふ

飛騨のお豆腐屋さんやスーパーでは、すまきにして水分を抜いた状態のお豆腐が売られているそうです。それを家庭ごとに醤油や出汁で味付けしたものが「こもどうふ」。冠婚葬祭やお正月のおせちにも登場するそう
飛騨のお豆腐屋さんやスーパーでは、すまきにして水分を抜いた状態のお豆腐が売られているそうです。それを家庭ごとに醤油や出汁で味付けしたものが「こもどうふ」。冠婚葬祭やお正月のおせちにも登場するそう

ネギ焼き

あれこれと頼んだ中で一番心を打たれたのが、実は「ネギ焼き」。

お肉の付け合わせ程度に考えていたのですが、私が炭火でぼちぼちと焼いていると、

「ちょっと、焼き方を教えようかね」

焼き方指南

このお店の初代女将さん、西村さんのお母さんが声をかけてくれました。

「このネギは霜が降りないと採れないネギなの。分厚いから、芯と外側は別々に焼くのよ」

そう言って、程よく外側が焼けたネギから、器用に青々とした芯の部分をつるん、と網の上に押し出しました。

芯を押し出しているところ

ネギの名は飛騨ネギ。この地域で11月から2月頃までしか採れない季節限定の郷土野菜です。

コロコロ転がしながらしっかり焼き目がついたところで、生姜醤油で食べる。

いい具合に焼き目が付いてきました
いい具合に焼き目が付いてきました

「この芯の部分が、バカにならんのよ」

どうぞ、と女将さん
どうぞ、と女将さん

うまい!

外側の白い部分と全く味が違います。とろんとした甘みのあとに、薬膳のような、鼻に抜けるすっとした後味。食べるそばから体がポカポカと温まるようです。

めくるめく郷土料理の世界に夢中になっていると、耳に異国の言葉が飛び込んできます。しかもドアが開くたびに、違う言葉のよう。

店員さんも慣れた様子で相手ごとに挨拶を変えて応対します。

外国人観光客からも人気の高い飛騨高山。この地ならではの料理を味わえる「京や」さんは、国境を越えて愛されているようです。

「これからもっと賑やかになるよ、ここはどこの国だって思うくらい」

ネギを転がしながら、お母さんが冗談めかして笑いました。

飛騨高山の夜は長い。

気になる郷土料理がまだあって、なかなか席を立つ気になれません。

<取材協力>
飛騨高山郷土料理 京や
岐阜県高山氏大新町1-77
0577-34-7660
http://www.kyoya-hida.jp/

文・写真:尾島可奈子