素材別「風鈴」の音くらべ。好みの音色を楽しもう

夏の季語でもある風鈴。

窓を開け、さぁっと入ってくる風に鳴る音が、一時の安らぎをくれます。風鈴は形や材質によって、奏でる音がまちまち。

部屋をお気に入りの音楽で満たすように、風鈴も自分好みの音色を選んでみると、ちいさな安らぎをもっと楽しめる瞬間がふえるかもしれません。

中川政七商店の工芸を活かした風鈴

さて、選べるものも数あれど、どこか「風鈴=ガラス」というイメージをお持ちの方も多いのでは。

もちろん、ガラス風鈴も澄んだ音が素敵なのですが、鋳物や焼き物を胴体に用いると、また異なる趣で楽しめるのです。

まさにそれを感じるのにうってつけの風鈴が、発売しました。

基本の「江戸風鈴」をはじめ、小田原鋳物や有田焼といった6つの工芸産地と手を組んだシリーズです。

いざ、風鈴音くらべ

そこで、今回は下記の風鈴を用意して、それぞれの音を鳴らしてみた様子を動画で収めました。

高岡銅器の風鈴

小田原鋳物の風鈴

江戸風鈴 透明

南部鉄の燕鈴

益子焼の風鈴

有田焼の風鈴

風鈴も部屋の景色のひとつですから、見た目が愛せることも大切。さらに、音まで好みならば、それはまさに「自分のためにあるもの」といってもいいはずです。良い出会いがあると嬉しくおもいます。

<掲載商品>
高岡銅器の風鈴
小田原鋳物の風鈴
江戸風鈴
南部鉄の燕鈴
益子焼の風鈴
有田焼の風鈴
(※すべて中川政七商店)

文・写真:長谷川賢人

*こちらは、2019年4月23日の記事を再編集して公開しました

石川・山中温泉の観光は「東山ボヌール」のランチから。絶品ビーフシチューと楽しむ地元の工芸たち

加賀・山中温泉の大聖寺川がある鶴仙渓の谷沿い。漆器(木地師)の神様を祀る、この地で大事な意味を持つ東山神社の鳥居の中という神聖な地。

松尾芭蕉が行脚した地であることを記した芭蕉堂の目の前に、一軒の木造の建物があります。

苔やシダ植物に覆われた森の中にある「東山ボヌール」は、まるでおとぎの世界に迷い込んだような幻想的な佇まいです。

店舗は旅館『かよう亭』の別邸として使われていた、築50年以上の木造2階建を改装。外観はほぼ元のまま風合いのある木壁を残し、中は木のテーブルを仄暗い明かりが照らす落ち着いた雰囲気の空間です。

鬱蒼とした森の中に突如現れたこのカフェ、実は地元の山中温泉中央振興会が「黒谷地区に温泉中心部からわざわざ来たくなるような新たなスポットを作りたい」という想いのもと、中部経済産業局の補助事業を利用して作られたお店。

モダンな設計は、『我戸幹男商店』なども手掛ける金沢の堀岡康二建築設計事務所によるものです。

※業界で注目を集める山中の木工メーカー『我戸幹男商店』のお店を訪ねた様子はこちら:「こんなに軽やかで、薄い木の器があったなんて。山中温泉で触れる漆器の奥深い世界」

メニューは生搾りレモンスカッシュやデンメアのオーガニックティーなどのドリンクほか、ナッツたっぷりの「森のケーキ」やガトーショコラといったスイーツが中心。

ケーキ類も全て手作り。写真は森のケーキ400円

数量限定のビーフシチューライスは必食

しかしここで絶対食べて欲しいのが、一番人気のビーフシチューライス。昼のみの数量限定で、平日でも売り切れてしまうことも。電話で予約を!

ビーフシチューライスは飲み物とセットで1620円。この日はウィーンの高級紅茶ブランド「デンメア」のホットティーと一緒に

ビーフシチューライスは、バターライスに温野菜がトッピングされ、スキレットで提供されます。ポットで別添えのビーフシチューはA5ランクの和牛がゴロッと入り、赤ワインがきいた味。香味野菜やトマト、タマネギなどをじっくり煮込み、濃厚なコクがあります。

牛肉も赤ワインのソースに一晩漬け込んでおり、とにかく柔らかく、ホロホロととろけるのが自慢。「山中温泉は高齢のお客様も多いのですが、『あらっ、スプーンで押したら崩れたわ!』って驚かれることもあります」と語るのは店長の竹中さん。老若男女が来る温泉地だけに、客層に合わせて食べやすくするという配慮も欠かせません。

山中温泉で人やお店をつなぐハブのような存在に。

お話を聞いていると、このカフェは人と人、お店とお店のつながりをとても大切にしているのだと感じられます。

例えば、ビーフシチューに使う牛肉を仕入れるお肉屋さん。

「『今週すごい良いお肉が入ったんですよ!』って持ってきてくださると、『じゃあ美味しく使います!』って張り切っちゃう。野菜もそう。信頼できる専門家にお任せして、その人達が自信を持って届けてくださるから、お客様に自信を持ってお出しできます」

それは食材だけではありません。店内の一角に並ぶのは、山中の作家が作った器や、オリジナルの手ぬぐい、旅館の自家製調味料など。ここは地元で活動する作家やお店のものづくりを知ってもらうため、出会いの場としての役割もあるのです。

この日に並んでいた木の豆皿は木地屋の工房『mokume』が東山ボヌールのために作ったもの。ちなみに木地屋とは、山中漆器の工程に欠かせない、木を器の形に削る職人のこと。

こちらは東山ボヌールで料理に用いられ、お客さんに使い心地を確かめてもらうことで買ってもらうきっかけを作っています。
隣に並ぶのは『九谷焼窯元 きぬや』によるオリジナルの蕎麦猪口です。

竹中さんはお客さんから「山中でのおすすめの過ごし方」を聞かれると、『mokume』で開いている器づくり体験を勧めるなど、地元だからこそ伝えられる山中の楽しみ方を伝えます。

また、鶴仙渓沿いの植物を紹介する「モジャモジャマップ」の配布や、苔を見るための小さなルーペの販売など、森林をミクロに散策する提案も。

「東山ボヌールに来ることで、予定と違うプランに出会ってくれるような、一歩踏み込んだ旅の発信ができるお店になりたいです。旅行雑誌には載っていない情報は、現地の人たちだからこそ発信できるのだと思います。ちょっと一休みに入るつもりやったんやけど、あ、こんなんあるんや!って知ってもらえると嬉しいですね」

2階は客席のほか、写真展を開催するなどギャラリーとしても活用

ノープランで山中温泉を訪れたとしても、まずは東山ボヌールへ行けばきっと大丈夫。どんなガイドブックよりも自分に合った旅の楽しみ方を発見できそうです。

<取材協力>
東山ボヌール
石川県加賀市山中温泉東町1丁目ホ19-1芭蕉堂前
0761-78-3765
9時~17時
木曜休
https://higashiyama-bonheur.jimdo.com/

文:猫田しげる
写真:長谷川賢人、猫田しげる

*こちらは、2019年6月25日の記事を再編集して公開しました。

年間1万5千食売れる加賀パフェとは。「温泉とパフェ」という旅の提案

パフェ、それは心を踊らせる食べ物。しかしそれだけではありません。最近では地域おこしのフックとしても一役買っているのをご存知でしょうか。

札幌発祥の「シメパフェ」に始まり、各地でもご当地パフェが登場しています。そんな中、ちょっとユニークなパフェを石川県加賀市で発見しました。

それは「加賀パフェ」。地元の食材だけではなく「伝統工芸」もキーワードに誕生したパフェです。

デビューは2016年3月。北陸新幹線が金沢まで開業し、山代温泉・山中温泉・片山津温泉を訪れた人に、朝昼晩のほかにプラス1食楽しんでもらう「1泊2日3湯4食作戦」が打ち出されたことがきっかけ。加賀市のおもてなし喫茶メニューとしての「地産地消5層パフェ」を考案しました。

ただのパフェじゃ、「加賀パフェ」と呼べません。

加賀パフェは現在、市内の6店で提供しており、各店で見た目や素材が違います。しかし、加賀パフェと称するためにはルールがあります。

・加賀市産の加賀九谷野菜(ブロッコリー・味平かぼちゃなど)、牛乳、お米、はちみつ、吸坂飴、献上加賀棒茶などを使用する
・パフェは5層とし、その上にトッピングをのせる
・パフェの1層目(底から数える)は「色鮮やかなゼリー」とする
・パフェの2層目は「はちみつ生クリーム」とする
・パフェの3層目は「野菜スポンジケーキ」とする
・パフェの4層目は「ポン菓子」とする
・パフェの5層目は「ブロッコリーアイス・味平かぼちゃアイス・温泉卵など」とする
・パフェのトッピングは「加賀九谷野菜など」とする
・名物菓子「吸坂飴」を使った各店こだわりのオリジナルソースをつける
・急須に入れた献上加賀棒茶をつける
・料金は980円(税込)以下とする

などなど。細かく規定されているのですね!

加賀パフェは毎年バージョンが変わり、上記の規定を踏まえつつ各店が自由に味や見た目をリニューアルします。3月12日より2019年度にバージョンが一新されたばかり。さて、今年の加賀パフェはというと……。

ますますパワーアップした2019年バージョン。

1:加賀片山津温泉総湯 まちカフェ

屋形船を模したさつまいもクラッカーにご当地キャラ「かもやん」が乗り、3つの野菜ゼリーで虹を表現。柴山潟の美景を写し取ったパフェはボリューム&遊び心たっぷり。

住所:石川県加賀市片山津温泉乙65-2
営業時間:10:00~17:00(L.O.16:30)※ランチ11:30~14:00
定休日:木曜

2:加賀フルーツランド

自社果樹園で収穫した旬のフルーツを、生、ドライ、クッキー、クリームなど形を変えて盛り込みました。濃厚なチョコ感を味わえる吸坂飴ソースをディップにしても。

住所:石川県加賀市豊町イ-59-1
営業時間:9:00~17:00(L.O.16:30)
定休日:火曜(12~2月)、年末年始

3:カフェ・ランチ 加佐ノ岬

ほうれん草ロールケーキで新緑、ビーツ白玉や紫芋餡で季節の花を表現。さらにゼリーとプチトマトで日本海の夕景をイメージ。レモン味の吸坂飴ソースで味変を!

住所:石川県加賀市橋立町ふ23
営業時間:3~10月10:30~17:00
11~2月10:30~16:30 ※ランチ混雑時はパフェ注文不可の場合あり
ランチ11:30〜14:30

定休日:金曜

4:くいもんや ふるさと 加賀店

加賀大聖寺藩にちなんだ紅梅最中をはじめ、加賀梅酒のゼリーや赤紫蘇ゼリー、梅ロールケーキなどとことん梅と赤紫蘇づくし。赤紫蘇入りの吸坂飴ソースでさらに甘酸っぱく。

住所:石川県加賀市小菅波町1-55
営業時間:11:00~23:00(金・土曜 ~24:00)※ランチ 11:00~15:00
※混雑時には提供に時間がかかることがあります
定休日:火曜

5:ギャラリー&ビストロ べんがらや

生野菜や漬物に加え、口の中でパチシュワッと弾ける「炭酸氷」がアクセント。白ネギを練り込んだクッキーや炭れんこん、季節ごとの団子やあしらいなど工夫が盛りだくさんです。

住所:石川県加賀市山代温泉温泉通り59
営業時間:10:00~17:30、ランチ11:00~15:00
※ランチ混雑時はお受けできない場合もあります。
定休日:水曜

6:はづちを茶店

加賀棒茶ゼリー、ブラックペッパー味のおからクッキー、麩せんべいなど、甘さ控えめの組み合わせで男性にも好評。縁結びの祈りを込めた手作りの結び求肥と水引で食後も幸せに。

住所:石川県加賀市山代温泉18-59-1
営業時間:9:30~18:00(L.O.17:30)
11~2月は~17:00(L.O.16:30)
定休日:水曜

器も、お盆も、手織りコースターも、このパフェのために。

何よりも特徴的なのは、加賀パフェに使う食器などを地元工芸品で作り、全店で同じものを使用すること。このパフェに合わせて地元作家が新たに作り下ろしています。

半月型のお盆は山中漆器。加賀温泉駅の近くにある山中温泉では、安土桃山時代から続く山中漆器が伝統産業として根付いています。

パフェには、山中漆器連合協同組合の作家がパフェに合わせてオリジナルサイズで作ったお盆を使用。総黒漆塗を用い、華やかなパフェを引き立てる風合いに仕上げています。

また加賀は九谷焼の発祥地。パフェグラス皿とソースカップは加賀九谷陶磁器協同組合の作家が作ったもので、5色のカラーは「九谷五彩(緑・黄・紫・紺青・赤)」に基づいています。

献上加賀棒茶の急須に敷かれた手織コースターは、加賀市の「手織・草木染工房いとあそび」の作品。加賀市内にある町屋の格子をイメージした縞模様で、繰り返し洗っても弱らない耐久性の強い麻糸で織り上げました。

加賀には食だけでなく工芸、ものづくりの文化が息づいているのですね。

加賀パフェプロジェクトを主導する「加賀ご当地グルメ推進協議会」の鴨出会長にお話を伺いました。

「加賀パフェを通して、加賀の魅力を伝えたい」

加賀パフェより1年前の2015年にまず「加賀カニごはん」がスタートし、こちらの盛況を受けてパフェバージョンも考案されたそう。プロデュースは「空飛ぶご当地グルメプロデューサー」として有名なヒロ中田氏です。

鴨出会長は「加賀には温泉以外にも素晴らしいものがたくさんあります。加賀九谷野菜、加賀棒茶、伝統工芸、個性的なお店。朝昼晩のご飯プラス『パフェ』で、もっと加賀の深い魅力に触れて欲しいですね」と話します。

「加賀パフェを通して、加賀の魅力を伝えたい」と話す鴨出会長

鴨出会長は加賀温泉駅前で『くいもんや ふるさと』というお店を経営しています。

『くいもんや ふるさと』は地元客にも観光客にも親しまれる居酒屋

 

今回は、こちらで提供している加賀パフェを実際に作っていただきました(取材当日に提供していた2018年バージョンのものです)。

パフェはスタッフが一つ一つ作るため、提供はランチタイムを除きます
クリームを挟んだドーナツも一から組み立てます
カボチャ・ブロッコリー・温泉玉子のアイスをのせます
かぼちゃホイップクリームを巻き巻き
かぼちゃクリームを巻いた抹茶ロールケーキは事前に手作り
完成! 見事なバランスで組み立てられています

加賀特産の味平かぼちゃで作ったプリンはかぼちゃそのものの甘みが際立ち、クリーミーで濃厚。ポン菓子で作ったフレークのサクサク感が小気味よく、加賀産のゴマを使ったブラウニーのしっとり感もたまりません。かぼちゃチョコレートをコーティングしたクッキーもポリポリと美味。まさに味平かぼちゃを堪能できるパフェです。

加賀パフェは2019年で4期目を迎えますが、2018年は1年間で1万5千食以上を販売。当初の狙い通り、金沢から足を延ばして来るお客さんや、近隣から加賀パフェ巡りを楽しみに来る人も増えているのだとか。

また、加賀パフェ効果は観光客だけでなく地元にも及んでいます。居酒屋やビストロといった加賀パフェ提供店に普段は訪れなかった客層が増えたり、男性でも食後のデザートとしてオーダーする人が増えたり。

地元の人も、自分の知らなかった味や工芸、お店に出会い、「加賀にこんなものがあったなんて」と再発見しているのだそう。

お店同士の結束や意識にも影響があった

「加賀パフェがきっかけでお店にも変化がありました」と鴨出会長の奥様、円さんは話します。

「加賀パフェを通じて集まり、協力することで、それまでつながりのなかったお店同士が結びつき、情報交換をするようになりました。またお店のメニューも『地産地消』を意識するようになり、地元の食材の魅力をもっと発信していこうという気運が高まりました」

パフェが地元の意識を変え、訪れた人に新たな気づきをもたらす。朝昼晩の食事だけでなく、“ベツバラ”なパフェにこそご当地の知られざる魅力が詰め込まれているのかもしれません。

現在は2019年バージョンを提供中。ホームページで詳しく紹介しています!

2019年の新バージョンをぜひ食べに行ってみてくださいね!

<取材協力>
くいもんや ふるさと 加賀店
住所:石川県加賀市小菅波町1-55
営業時間:11:00~23:00(金・土曜 ~24:00)※ランチ 11:00~15:00
※混雑時には提供に時間がかかることがあります
定休日:火曜

文:猫田しげる
写真:長谷川賢人

*こちらは2019年5月20日の記事を再編集して公開しました。ご当地パフェ巡りも、旅の計画にぜひ入れてみてはいかがでしょうか。

日本酒と相性のいい酒器の選び方。和酒バーのマスター・下木さんに教わった「器のタイプ」の奥深さ

石川県加賀市の山中温泉・ゆげ街道から細い道に入った場所、長谷部神社のすぐ前にある『和酒BAR 縁がわ』。

日本酒専門のバーで、マスターの下木雄介さんは利酒師の上級資格である「酒匠」の資格保持者です。

石川県の日本酒にこだわって仕入れ、その味を最も美味しく感じさせる酒器で飲ませてくれます。

柔らかな加賀ことばで熱心に説明してくれる下木さん

本当に酒器で味が変わるの?とお思いの方、下木さんのお話を聞くと目からウロコが落ちるはず。実際に自宅でも実践できる酒器の選び方をお聞きしました。

お酒と酒器にも「相性」がある。

下木さんは山代温泉の出身。さまざまな職業を経てお酒の道へ進み、2014年にこのバーを開くのですが、そのユニークな経緯については以前の記事で

ここで扱うのは加賀、能登など地元で造られた日本酒が中心。種類はその日によって変わり、常時30銘柄をその時最高の飲み頃を見計らってメニューに載せています。

また県外ではあまり口にすることのできない、鶴野酒造の「谷泉 特純無濾過生原あらばしり」や農口酒造の「農口 山廃純米 無濾過生原酒」など、蔵元が近いからこそ仕入れられるフレッシュで珍しい銘柄も登場します。

こだわりはお酒だけではありません。「これ綺麗でしょう、お酒入れたらまた表情変わるんですよ」と愛おしそうに見せてくれたのは、漆黒の盃に金色の蛇が走る、シックで重厚感のある酒器。

漆器は、山中温泉在住の木地師の作品

こちらは漆器の盃にヒビが入ったため、蒔絵師に「蒔絵継ぎ」していただいたものだそう。

下木さんが大事にしているのは、酒器の「美しさ」だけでなく、日本酒との相性。口径の大きさやカーブの角度で香味が変わるといいます。

お店の酒器は作家や職人にオーダーするものも多く、その理由は「既製品では理想の形と、ちょうど良い容量のものがないからです」

そもそも、日本酒は古来から「楽しく飲んで酔う」ことを良しとされた文化で、酒器に関しても深い研究がされていないと言います。したがって、片口や盃の容量なども厳格な規定がないのだそうです。

しかしお店で提供するからには、然るべき原価率になるよう、どの酒器でも一定量を守って注がなければなりません。

大量生産の既製品であれば容量も一定ですが、下木さんの思う形状とは違う。一方、作家ものは形状が優れているが、どのくらい入るかが分からず、一定でもない。

となると「この容量で、この形状で」とオーダーメイドするのが、下木さんの想いを「具現化」する最良の方法なのだそうです。

では、日本酒の香味は酒器の形状によってどう変わるのでしょう。早速、その関係性についてお聞きしてみました。

大切なのは「底」と「天面」

酒器にはガラス、漆器、陶器、錫などさまざまな素材がありますが、「大事なのは素材よりも形状だと考えています」と下木さん。酒器において大切な要素は「天面」と「底」なのだとか。

天面とは飲み口の2〜10mmの部分で、唇に当たる部分。底はその名の通り、内側の底部分です。

「天面の形状で人間が日本酒をどう感じるかが変わり、底の形状で日本酒自体の味が変わります」

日本酒の「香り」おいて大事な要素は、口に含んで広がる「含み香」(口内香とも言います)。

天面が外に向いていたら含み香が広がり、内側にすぼまっていたら含み香が柔らかくなるのだそうです。

また、底の形状は、大きく分けると「鋭角」「小さな曲線」「大きな曲線」「下ぶくれ」に分けられます。

下木さんが大切に持っている日本酒の官能評価のテキスト。細かな容量や寸法で酒器の形状と味の変化が解説されている

鋭角は日本酒の香りを高め、小さな曲線は味をすっきりさせます。大きな曲線は熟成感を際立たせ、下ぶくれは旨味を強調するのだそう。

左から、「小さい曲線」「鋭角」「下ぶくれ」「大きい曲線」

それぞれの酒器の形状に合った日本酒のタイプを聞きました。

<天面>
・外に向いているもの‥‥含み香が広がりやすい
石川県の吟醸酒の中で、シャープで香りの高いもの。「手取川」の純米吟醸など

・内に向いているもの‥‥含み香が柔らかくなる
旨味、酸味のあるもの。「菊姫」の山廃純米など

<底>
・小さな曲線‥‥味をすっきりさせる
淡麗辛口タイプ

・鋭角‥‥日本酒の含み香を高める
フルーティータイプ

・下ぶくれ‥‥旨味を強調させる
旨口タイプ

・大きな曲線‥‥熟成感を際立たせる
熟成タイプ

自然に合わせ、自然に倣うことも大事。

下木さんが作家や職人に酒器をオーダーで作ってもらう際には、容量や形状の他にも、「自然の造形をイメージすること」を大事にしています。

例えば、九谷焼職人の前田昇吾さんに作ってもらったという花の蕾をモチーフにした熱燗用の酒器。1年前からこの酒器をオーダーし、何度も試作を重ねて、ようやく完成しました。

なぜ熱燗で蕾なのかというと、「花が開こうとする時に帯びる熱、生命のエネルギーが熱燗のぬくもりに通じるから」と下木さん。

自然を倣うこと。それもお酒を美味しくする重要な要素です。これは前編で触れていますが、下木さんはあるお客様からの一言で「季節感」の大切さに気づき、以来お酒にも酒器にも、自然との融和性を心がけているそうです。

実際にこの器で菊姫の「特撰純米」を温めの燗でいただきました。

この日本酒はじっくり熟成させた濃醇旨口タイプ。酒器は下ぶくれで天面が外に向いている形状なので、これを飲むのにぴったりです。

味わってみると、天面が唇に触れ、お酒が口に入った瞬間に香りが鼻に抜け、一気に広がりました。

舌で転がすと、お酒のなんとまろやかなこと!

思わず、「お酒ってお米の糖分でできているんですね」という言葉が出てしまったほど、濃厚な甘みです。

下木さんのトークを聞いていると、どんどんお酒の世界に引き込まれていきます。

燗酒も、数度単位で変えてつける

皆さんも、自宅でお酒と酒器の相性を試してみるのもいいですが、『和酒BAR 縁がわ』に足を運んで、そのトークを聞きながら飲み比べてみてください。

唇に触れる飲み口や底のカーブの形状でこんなにも香りが広がり、あるいは爽味がキリッと際立ち、燗酒が舌にすっと馴染み‥‥と次々に新しい味覚を発見できます。

「お酒はどの器で飲んでも味が一緒」と思っていた方は、その価値観が覆されるはずです!

<取材協力>
和酒BAR 縁がわ
石川県加賀市山中温泉南町ロ82
0761-71-0059
14時~24時
木曜休
https://www.facebook.com/washubarengawa/

文:猫田しげる
写真:長谷川賢人

*こちらは2019年2月28日の記事を再編集して公開しました。自宅のうつわで飲み比べをしてみるのも楽しそうですね。

 

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「さらっと着られる」麻デニムパンツを中川政七商店が作りたかった理由

デニムには「日常着」という言葉がぴったり似合います。いつからか、その軽やかさは一つのスタイルとして定着しました。

世の中に求められるうち、あるいは紡績の工夫が高まるにつれ、さまざまなデニムが店頭を賑わせるようになりました。ストレッチが効くもの、デニム生地なのに軽いもの‥‥今日紹介するのは、おそらくどれとも異なる履き心地、けれども“デニムらしさ”をしっかり備えた一本。

さらっとした肌ざわりと、しなやかさが心地よい、麻だけで織られたデニムです。

なぜ、麻だけのデニムはなかったのか?

このデニムを手がけたのは、「暮らしの道具」を取り扱う中川政七商店。現在こそ広範な商品を扱うブランドですが、もとは1716年に創業し、伝統工芸である奈良晒の製法を使った麻織物を作り続けてきた出自があります。

たとえば、綿と麻を合わせた「コットンリネン」など、麻が一定の割合で編まれているデニム生地は、これまでにもありました。その中で、麻という素材への思いを大切にしてきた中川政七商店が取り組んだのは、綿のようなしっかりしたデニムを麻で実現することでした。

中川政七商店のデザイナー・河田めぐみさんは、このデニムを企画したときのことを、こう振り返ります。

「デニムの定番は厚みのある生地です。あれは目を詰めて織っているからしっかりとした生地になるんです。

一方で麻糸は柔軟性がなく、糸にフシがあったり太さにムラがあるため、なかなか目を詰めて織れません。扱いの難しい素材なんです。仮に目を詰められたとしても、ムラの出やすい糸なので隙間ができたり、織り上がっても厚みが足りなかったり。織るスピードもゆっくりにしなければいけないから、大量生産にも向きません。

だからこそ、綿のようにしっかりした生地感の麻のデニムは、今までなかなか世の中になかったんですよね」

麻デニム

しかしながら、麻生地は、吸水、吸湿、速乾性に優れているのが魅力。もし、麻だけのデニムが実現できれば、夏場のように汗をかきやすいシーズンでも、さらりと着られるものが出来上がります。

さらに、綿には無い光沢感も、麻生地の特長。

「カジュアルになりすぎないので、年齢を重ねても長く履けるデニムになるはずと思いました」

世代を選ばず、軽やかに日々を楽しみたい人に勧められる一着になるという確信がありました。

ほどよい「ワーク感」のある麻生地を求めて、滋賀へ。

白のカラーバリエーションも。

試作を重ねる中で、大切にしたのがほどよい「ワーク感」。

「麻100%の生地で試作してみても、いわゆる一般的な麻のパンツのようになってしまったりして。ちょっと柔らかすぎたんです。麻らしい柔らかな風合いは残しつつ、日常的に履いてもらうには、しっかり目が詰まった丈夫さも欲しい。

これ、という生地にはなかなか出会えませんでした」

そんな折、河田さんが生地の展示会で出会ったのが、明治30年に創業以来、滋賀県の近江湖東産地で、4代に渡って麻を織り続ける「林与」さんでした。

「展示会にデニムの生地を一つ出していらっしゃったんですけど、本当に麻だけで織っているのかな?と思えるくらい目もしっかり詰まった、まさに『デニム生地』だったんです。そこで改めて、林与さんの社屋を訪ねました。

倉庫を含めて“生地の山”でしたね。そこに、きれいなインディゴ染めの麻デニム生地を見つけたんです。目の詰まり具合も生地の柔らかさもちょうど良く、これならイメージしていた麻のデニムが作れると思いました」

河田さんが出会った理想的な麻デニムの生地。その生まれる現場を、私たちも見に行ってみることにしました。

「麻織物の本場」で伝統を守り続ける4代目

「近江麻布」をはじめ、麻織物で古くから知られる滋賀県の近江湖東産地ですが、高齢に伴って廃業する工場も多いなか、林与ではそれらの工場から織機を移設し、産地ならではの麻織りの文化を守り続けているメーカーです。

林与の4代目を務める林与志雄 (はやし・よしお) さんは、産地に息づく伝統を胸に、コレクションブランドや百貨店ブランド向けのリネンや麻素材を織り続けてきました。

「ただ、2000年くらいを境に、アパレルも売れない時代が長くなってきました。僕としても、自分にできるこだわりのものを作ってみたりしないとあかんと動き出したんです。

これまではアパレルメーカーのリクエストに沿った柄生地を織っていたところから、機械を調整してどこまで高密度に織れるだろうか、太い糸で織れないだろうか‥‥と工夫し出したんですね」

ストールブームがもたらした、「ゆっくりしか織れない」織機との出会い

そのきっかけになったのが、10年ほど前に訪れた「ストール」のブームに応えるために導入した「シャトル織機」でした。糸を織物にするための機械(織機)の中でも、古くから使われていたシャトル織機は、現代的な織機に比べてスピードが遅く、生産性の観点では劣ります。

いずれ時代の波に消える機械となるはずでしたが、その「ゆっくり」とした動作こそが、ストールに求められる独特の風合いや柔らかさといった特徴をもたらしました。

ゆっくりなら、切れやすい麻の糸とも相性が良く、目を詰めて丈夫に織ることができることもわかりました。シャトル織機に新しい生地づくりの可能性が見え始めたのです。

その後、林さんは非常に糸の細いアイリッシュリネンの生地を織るプロジェクトや、麻糸をうつくしく藍染めできる協力企業との出会いなどを経て、「麻でデニム生地を織る」という新しいチャレンジにも成功。

それも、古くからのシャトル織機を自ら調整し、向き合い続けた林さんだからこそ織れる生地でもありました。

「全ての糸のテンションが均一にならないと織れませんから、糸が切れないギリギリのところまで調節します。はじめは調子よく織れていても、途中でテンションが変わってくることもある。

機械に問題が起きれば、地べたに油がついていようが、織機の下にもぐって調整します。僕が仕事を始めた頃、同じように織機の下にもぐることを厭わない職人の姿を見て、『これこそが仕事なんだ』と感じたのを思い出しましたね。

ちゃんと“織る”という覚悟のある人でないと、これは織れないんですよ」

いまだかつてないほど「麻なのに目の詰まった」デニムの誕生

一日に織れる速度はゆっくり。織り始める前にも、織り始めてからも、糸の様子を見ながら調整を繰り返す。ただ、あきらめずに、完成形を追求し続ける──林さんの職人としての意気込みがあるからこそ、いまだかつてないほどの麻デニム生地が生まれていました。

「売り場には良いものがあふれていて、みんなが競争している。そういうふうな状況もわかります。

でも、その中だからこそ出来る仕事があるというか‥‥自分から仕事を生み出していくという意識も必要なんですよね。それができないことには、残っていけない業種ですから」

林与さんの生地だからこそ、しっかりとデニムのスタイルを楽しめて、それでいて麻の良さを十二分に感じられるものが出来上がりました。

かつてないほど「さらっと」着られるデニムには、「さらっと」は織れない職人の創意工夫が込められていたのでした。

<掲載商品>
麻デニムパンツ(中川政七商店)

<取材協力>
株式会社 林与
0749-42-3245
http://www.hayashiyo.com/

文:長谷川賢人
写真:尾島可奈子

*こちらは、2019年3月20日公開の記事を再編集して掲載しました。デニムを履きたいけど暑い‥‥ゴワゴワするのは苦手‥‥そんな悩みを解決するアイテム、ぜひチェックしてみてください。

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“よさこいエリート”と振り返る、商店街と共に歩んだ高知「よさこい祭り」66年の全歴史

全長約700メートルの「帯屋町筋商店街」。

高知中心街のシンボル的存在であり、今や全国にその名を広めた「高知よさこい祭り」の花形演舞場だ。

「もともとよさこいは、高知の商店街を盛り上げようとして始まったお祭りです。つまり、その商店街の中核である帯屋町商店街は、よさこいの歴史そのものなんですよ」

そう語るのは、岩目一郎(いわめ いちろう)さん。

66歳の岩目さんは、今年第66回を迎える「よさこい祭り」と同年代。

帯屋町筋商店街に生まれ、物心つく頃には帯屋町筋のよさこいチームに所属、青年時代には地方車(じかたしゃ:音響機材を搭載した車)に乗ってチームを牽引するようになり、当時最年少で、よさこいの運営母体である「よさこい振興会」の委員にもなった“よさこいエリート”だ。

よさこいと共に生まれ、よさこいと共に生きた岩目さんと共に、商店街と歩んだ「よさこい祭り」66年の歴史を振り返ってみよう。

その歩みには、現在の盛況からは想像もつかない苦境や閑散期を経て、高知の人々を鼓舞し続けた祭りの魅力が浮かび上がってくる。

よさこい祭り誕生のきっかけは、商店街の「夏枯れ現象」

「よさこい祭り」が誕生したのは、今から約70年前。終戦直前の大爆撃とその翌年の震災によって立て続けに甚大な被害を受けた高知市が、町に活気を取り戻そうと奮闘していた最中だった。

県庁前から東方を望む、昭和28頃の電車通り(出典:高知市編著(1969)『高知市戦災復興史』)

「商店街はよさこい祭りの“育ての親”。会場を貸し、ルールを作り、スタッフを出し、踊り子の接待を66年続けてきた。でも、商店街だけではこの祭りを誕生させることはできなかったよ。“生みの親”は、商工会議所やね」(岩目さん)

そんな「よさこいの生みの親」高知商工会議所が、当時、大きな課題としていたのが「夏枯れ現象」だった。夏になると暑さで客足が減り、商店街の売り上げも煽りを受ける。長年その問題解消に取り組んできたものの、なかなか妙案は浮かばなかった。

そんな彼らの元に、ある「招待」が飛び込んできたのは、昭和27年のこと。お隣・徳島県からの「阿波踊りの舞台で、高知のよさこい踊りを披露してみないか」というものだった。

「よさこい踊り」は、土佐の民謡「よさこい節」に振りをつけた踊り。現在「よさこい祭り」で踊られている「よさこい鳴子踊り」のベースとなった踊りで、戦後、高知市の復興祭で披露するために作られたものだ。商工会議所は、その復興祭の主催だった。

戦後復興祭として昭和25年(1950年)に開催された南国博の様子(画像提供:高知新聞社)

徳島からの招待を受けることに決めた商工会議所の面々は、昭和28年8月、踊り子隊を引き連れ、阿波踊り会場を訪れた。

その帰途の車中会議が、「阿波踊りに負けんようなものを作るしかない」と熱っぽくまとまったのは言うまでもない。

帰高後まもなく、商工会議所は夏枯れ対策として「よさこい踊り」を活用する方針を決定。この踊りを豪華にリニューアルし、それを目玉とした市民祭を開催することで、商店街へ客を呼びこもうとしたのだ。これが「よさこい祭り」誕生の第一歩であった。

祭りの立ち上げに貢献した、2人の「いごっそう」

「よさこいの立ち上げに関わった人はたくさんいるんですよ。でも、それを取りまとめ、形にしたのは、ほかでもない、浜口さんです」(岩目さん)

プロジェクトの矢面に立ったのは、料亭「濱長」の初代店主で、商工会議所観光部会のメンバーだった浜口八郎(はまぐち はちろう)さん。残念ながら逝去されているが、岩目さんがよさこい振興会の委員になった頃には、まだ現役で活躍中。「若いもんが変えなイカン」と次の世代の背中を押してくれる、おおらかな人物だったという。

祭りの衣装を着た浜口八郎さん(画像提供:濱長)

当時のことを、浜口さんの妻・千代子さんはこう書き記している。

正直申しまして、主人は自分の店の仕事にはそう熱心ではございませんでしたが、人さまに依頼されたり、大勢の人に喜んでもらえることになると大層力をいれました。特に高知県の観光振興には熱心で、高知市の夏の名物行事「よさこい祭り」には、高知商工会議所観光部会の役員だったこともあり、随分と力を入れておりました。(料亭「濱長」サイト内「初代女将・千代子の日記」より

そんな浜口さんが、自分の店のお客でもあった作曲家の武政英策(たけまさ えいさく)さんを尋ね、ある依頼をしたのは昭和29年6月25日のこと。

「実は、市民の健康祈願祭になにか踊りのようなものをやりたいのだが、民衆にヒットするものを考えてみてほしい」(『よさこい20年史』より)

すでに祭りの日程は8月10日、11日に決まっており、7月1日から練習を始めたいと言う。つまり、わずか5日間で曲と歌詞を作ってほしいという依頼である。武政さんは「まことにムチャな話」と驚きつつも依頼を引き受け、その晩からさっそく制作にとりかかった。

作曲家の武政英策さん(画像提供:森田繁広さん / 『よさこい祭り60年史』より引用)

伝統ある阿波踊りに対抗するには素手ではだめだ…、思い付いたのが鳴子。「年にお米が二度とれる土佐において、何かやると言えば、鳴子は最高の圧巻だ。これなら阿波踊りに対抗できる。」(『よさこい20年史』より 武政英策さんの手記)

武政氏が思いついたのは、田畑の「すずめ脅し」として使われていた鳴子(なるこ)を、稲の二期作地帯である高知をイメージした打ち物として利用すること。そうして誕生したのが、現在の踊りのベースとなっている「よさこい鳴子踊り」だ。

よっちょれよ よっちょれよ よっちょれよっちょれよっちょれよ
高知の城下へ来てみいや じんまもばんばもよう踊る
鳴子両手によう踊る よう踊る

土佐の(ヨイヤサノサノサノ)高知の はりまや橋で
坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい

武政さんは、歌詞の着想を『よさこい節』『土佐わらべ歌』『郵便さん走りゃんせ』などの土佐の民謡から得たことをのちに明らかにしている。

「「郵便さん走りゃんせ」の中に「いだてん飛脚だ、ヨッチョレヨ」というのがある。私は、このヨッチョレの言葉が楽しくてたまらない。また、よさこい祭りというからには、昔から伝わる「よさこい節」も入れた方がよいだろう」(『よさこい20年史』 武政英策さんの手記「鳴子踊りの誕生」より)

振り付けに難航した、よさこい祭り草創期の鳴子踊り(画像提供:高知新聞社)

曲と歌詞が完成したら、残るは踊りである。

浜口さんが次に声をかけたのは、日本舞踊の五流派の師匠たち。のちに争いを生まないように、特定の流派への依頼を避けたのだ。

浜口さんも同席の上で制作を始めたものの、振り付けは難航した。お師匠さんたちの振り付けは、回ったり、後ろへ下がったりと、どうしても優雅な舞台踊りになってしまう。しかし、よさこいは街頭での踊りを想定していたため、前へ前へと進む踊りでなければならなかった。

「それは徳島の阿波踊りなど、先進地の視察も十分したうえでのことでしたが、専門家の振り付けを無視するわけにもいかず、あでやかなお師匠さんたちの中に入って、ああでもない、こうでもない、と注文を付けておりました」(料亭「濱長」サイト内「初代女将・千代子の日記」より

しかし、そうしている間にも祭りの日はだんだんと近づいてくる。そこで、一回目は仕方がない、と手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という型だった。

市役所前の本部審査場。左手に四国電力旧社屋、向こうに県民ホールが見える(画像提供:高知新聞社)

こうして、昭和29年8月10日・11日、第1回目の「よさこい祭り」が開催された。

水上ショーや酒の振る舞い、郷土芸能などの出し物も話題を呼び、狙い通りの大盛況。翌日の新聞紙面には「人出八万」という言葉が踊った。

初期のよさこいを支えたテレビ中継

昭和31年開催、第3回よさこい祭りにて、追手門内特別舞台につめかけた観衆(画像提供:高知新聞社)

ほとんど娯楽がない時代に珍しい参加型のお祭りとあって、「よさこい祭り」はあっという間に市民に受け入れられた。期間中は商店街に人がごった返し、老いも若きも大盛況だった。

「顔は知ってるけど普段は交流のないおっちゃんとかも、祭りの日には気さくに話しかけてきてね。もうみんな酒飲んで酔っ払ってるから『おいボウズ! つまみ食うか!』という感じで絡んでくるんですよ」(岩目さん)

しかしそれも、祭りが始まって数年のうちだけだった。

次第に飽きがきたのだろうか、参加者も参加チームもどんどん少なくなり、ついには踊り子に日当が出る始末。岩目さんも、幼少期には「プラモデルの引換券目当てに踊った」と記憶しているそうだ。

昭和34年・第6回の祭り時には、市役所前で踊りの中継がされた(画像提供:高知新聞社)

そんな、初期のよさこい低迷期の救世主となったのは、当時、県内唯一の民放テレビであった「ラジオ高知テレビ」。昭和34年(第6回)から、祭りの生放送をすることになったのだ。

当時は、テレビに自分の姿が映ることが特別で、画面に見切れるだけでも大騒ぎする時代。その効果は絶大で、祭り当日、中継会場である市役所広場には、例年の何倍もの参加者が押しかけたという。

放送時間が残り少なくなって来ると、参加各団体の代表者はけんか腰。終いには司会者の胸ぐらをつかんで「もし自分たちの団体が放送に出なかったら、俺は町内におられなくなる。どうしてくれるか」などと詰め寄られてこづき回された。(『よさこい20年史』元本部舞台司会者・RKCプロダクション社長 武内清氏の手記「司会者とテレビ中継」より)

結局、30分を予定していた放送時間を延長し、47団体、2千5百余人が参加、午後1時から4時までの丸3時間という長時間の生中継になった。その日、家庭のテレビや電気店のテレビの前は、近所の人々や通行人が群がって、「だれやろさんが映っちゅう!」と大騒ぎだったという。

自由化を加速させた「ニースのカーニバル」

祭り期間は気温30度超えの暑さ。踊るのも見るのも体力が必要(画像提供:高知新聞社)

しかし、5年ほどするとテレビ中継も当たり前になり、逆に「家でも見られるから」と観客の数は減っていった。祭りの時期は気温30度を軽く超える猛烈な暑さで、見物も大変。しかも当時は全チームが同じ踊りを踊っていたため、見る方も飽きてしまうのだ。

そんな「よさこい祭り」に、第二の転機が訪れたのは、昭和46年のこと。

フランスのニース市で開催されるカーニバルに「よさこい鳴子踊り」が招待されたのだ。カーニバルには、日本びいきのニース市長の招待で、よさこい鳴子踊りのほか、新潟県の「佐渡おけさ」、山形県の「花笠踊り」、岩手県の「鬼けんまい」が参加するという。

初めての海外遠征に、関係者たちは期待と不安でざわめいた。そこへ、ある「声」をあげた人物がいた。「よさこい鳴子踊り」を生んだ、作曲家の武政英策さんだ。

実は武政さん、当初の踊りは自分の作った曲とイメージが合わず、フラストレーションを抱えていたのである。

「今のままの踊りでは、ニースの人たちに、ほかの踊りとは違うよさこいの魅力を伝えることはできないのではないか」

武政さんは、これを機会に「よさこい鳴子踊り」を、海外の人たちにも楽しんでもらえるよう、サンバのリズムに編曲することにした。

振り付けを務めたのは、若柳流・荒谷深雪師匠。若くて元気いっぱいな踊り娘のひとりだった。諸先輩方からの「日舞の師範が西洋のダンスの振り付けをするなんて!」という批難にもめげず、「受けた仕事は誰に何を言われてもやりきる」と、破門も覚悟でニースに乗り込んだ。

当時の様子を語る岩目一郎さん

昭和47年2月。カーニバル会場に到着したのは、31名の踊り子隊。

フランス国旗にちなんだ、青、白、ピンクの法被の背には、赤い日の丸に「土佐」の文字が誇らしげに染め抜かれていた。

サンバのリズムは、武政さんの予想通り、フランスの人々を夢中にさせた。「ジャパニーズダンス、リズミカル、ベリービューティフル!」と人々は大歓声を上げ、踊り子たちに向かってところかまわず紙吹雪を投げつけたという。

新聞やテレビはその成果を大きく取り上げ、それを見た人たちもまた「よさこいが世界に認められた!」と、何日間もこの話題で盛り上がった。

「ニースから凱旋した踊り子隊は、まさに高知の大スターといった扱いでした。このあたりから、よさこいが市民の祭りから県民の祭りへと変化してきたように思います」(岩目さん)

「よさこいに人生賭ける」と思えた、“青果の堀田の衝撃”

今では禁止となっている、大型トレーラーを使った地方車(画像提供:高知新聞社)

当時、岩目さんが所属していた帯屋町筋踊り子隊は、資金力もあり、踊り子は300人以上(当時はまだ人数制限がなかった)、地方車も20トントレーラーを使用するなど、ほかを圧倒する巨大チーム。チーム内のポジションも上り詰めていた岩目さんは、そのときまさに「よさこいは自分のための祭り」状態だったという。

そんな岩目さんを驚かせる事件が起きたのは、昭和48年(第20回)。

2年連続でニース・カーニバルによさこい鳴子踊りが招待され、県全体のよさこいへの注目度が上がっていた頃のことだった。

「僕らのチームのひとつ前が、『青果の堀田』チームやったんです。代表の堀田イクは小学校の同級生でした。彼らは2トンくらいのちっちゃな車に5〜60人程度の踊り子、僕らは20トンのトレーラーに300人の踊り子で、そのときは正直彼らのことバカにしとりましたね」(岩目さん)

しかし、「青果の堀田」の音楽がスタートした瞬間、その場にいた人たちは皆、凍りついた。それまでのよさこいは、アレンジといっても整列して振りを合わせるマスゲームである点は変わらなかった。しかし、彼らは、音楽……というよりも、生バンドが演奏する、曲の「ビート」に合わせて、自由に飛んだり跳ねたりしたという。

「青果の堀田」の衝撃以降、生バンド演奏をするチームが急増した(画像提供:高知新聞社)

代表の堀田イクさんと音楽担当のジュリアン(通称)は、ニースのカーニバルに参加した踊り子の一員だった。その経験を共有し恋仲となった2人は、現地で感じた熱と興奮を持ち帰り、自分たちの踊りで表現したのだ。

「その表情、迫力たるや、ものすごいエネルギーでしたね。思わず見惚れてしまった。そしたら『ピピー!』と笛が鳴って『帯屋町さん、次! 出番です!』って言われて。正気に戻って『おうみんな! 行くぞ!』って振り向いたら、誰もおらんがです。踊り子たちはみんな、堀田の踊りを追っていってしまったんですよ」(岩目さん)

そのときから岩目さんは「よさこいに人生を賭けてもいい」と思うようになったという。悔しさ以上に、アイデアだけでいくらでも人を惹きつけることができる、よさこいの「可能性」を感じたのだ。

交通渋滞、騒音問題、チーム間トラブル…沸き起こる問題の数々

踊りも衣装も、どんどん自由に変化を遂げる「よさこい祭り」(画像提供:高知新聞社)

「ニース以降、サンバやロックなどいろいろなリズムが登場するようになり、それぞれの連(チーム)がより自由に個性を出すようになったんです。よさこいを自由にアレンジできる! と若者に火がついたね」(岩目さん)

しかし、隆盛と共に、当然さまざまな問題も現れてくる。

昭和54年(第26回)には、多様化の一途をたどる踊りのスタイルや音楽に、関係者だけでなく市民からも活発な賛否両論が出るようになった。高知新聞の「読者の広場」欄では、両論が「激突」の形で展開される状態だった。

昭和61年(第33回)には、伴奏音楽の「ボリューム合戦」について、「祭りだから良いのでは」という意見と「いくら祭りでも行き過ぎ」との声がぶつかり合った。

そのほかにも、交通渋滞や若者のモラル、チームの資金事情やトラブルなど、当時すでに振興会の委員として活躍していた岩目さんのもとには、さまざまな訴えが届いていたという。

盛り上がりは最高潮(画像提供:高知新聞社)

そしてついに、昭和63年(第35回)、事件が起こる。

祭りのムードが最高潮となった、最終日の夜のこと。踊り子たちはいずれも汗にまみれ、興奮し切った表情をしていた。個人賞のメダルを胸に、片肌脱ぎになった女性の踊り子もいた。

そこへ、冷めやらぬ熱を抱えた踊り子の一部が、帯屋町商店街へと流れ込んだ。

地方車まで参加して、音楽のボリュームを上げ、再び踊りはじめたのである。そのときすでに夜10時過ぎ。しかし、その盛り上がりは止まらぬどころか、別の踊り子たちが次々と合流。総勢600人余りとなり、さながら野外ディスコの状態となったのだ。

たまりかねた一般市民の通報で警察の出動となったが、興奮の極みにある踊り子たちの一部は説得を聞き入れなかった。やむなく警察が地方車を強制的に引き離すなどして夜半近くにやっと収めたという。

平成元年7月29日放送、RKC高知放送のオールナイト公開番組『朝まで討論!どうする?よさこい祭り』収録風景(画像提供:高知新聞社)

そのころ、深夜から朝6時まで徹して語る、よさこい祭りの生討論番組が放送された。ゲストは、高知市やよさこい振興会、競演場の代表、警察など。そこに帯屋町代表として岩目さんも参加していた。

どの議題も「良い・悪い」の大激論。結論はまとまらなかったものの、この番組以後、祭りの問題に対して人々の意識は高くなっていった。改善策を考える上で、「規制」を求める声は次第に大きくなる。

「でもね、よさこいの一番の魅力である根幹の『自由さ』を奪っちゃいけないと思ったんですよ。だから、僕からは『規制じゃなくて、リーダーを作ろう』と。要するに、みんなの手本となるチームをこちらから提示して、自覚を促そうと提案したんです。それが『よさこいグランプリ』誕生のきっかけとなりました」(岩目さん)

よさこい祭り、最大の転機「セントラルグループ」の登場

実は、高知の人に「よさこいの転換期はいつ?」と聞くと、ほぼ全員の口から出るキーワードがある。それが「セントラルグループの出現」。

それは奇しくも、岩目さんが提唱した「よさこいグランプリ」が開始された平成3年(第38回)のできごとだった。

「手本となるリーダーを選出するのに、祭りが終わったタイミングでは意味がない。祭りの前日に『前夜祭』を設け、そこでグランプリを選出しよう!」

第一回よさこいグランプリは、本祭前日の8月9日に開催される前夜祭にて幕をあけた。舞台は中央公園。よさこいは街頭踊りがメインだったが、「正面から見る踊りを楽しんでほしい」との意図もあり、ステージを設け、その上で踊りを披露する形になった。

前夜祭のステージで乱舞する踊り子たち(画像提供:高知新聞社)

踊り子たちは舞台上で次々と自慢の踊りを披露し、観客は「どのチームがグランプリに相応しいか」について熱っぽく語り合った。しかし、高知を中心とした総合エンターテインメント企業「セントラルグループ」の踊り子隊 総勢150名が構えをとり、音楽が鳴った瞬間、そのすべてがひっくり返った。

当日、司会役を務めていた岩目さんは、そのときのことを鮮明に覚えているという。

「鳥肌が立ったよね。今までとはまるで違うものだったのよ」(岩目さん)

これまでの踊りは、躍動感すらあれ、ぐるぐる回ったり跳ねたりを繰り返す「動き」を楽しむものだった。しかし、セントラルグループは「動き」に加えて、踊りで「物語」を表現したのだ。4分30秒のなかに、起承転結があり、静と動、明と暗が共存していた。

「すべてのグループが踊り終わったら、投票でグランプリを決めるんです。でも、どの票を開けても『セントラル』。1位と2位の票差が凄まじかった。誰が見ても圧倒的、圧勝やったんです」

平成9年・第44回よさこい祭りにて、恒例となった前夜祭の様子(画像提供:高知新聞社)

かくして、「前夜祭でグランプリを決定し、踊り子たちの手本となるようなグループを選出しよう」との振興会側の狙いは、予想外の形での達成を遂げた。

その他の取り組みも功を奏したのはもちろんだが、この衝撃的なセントラルグループのデビューによって、よさこいが刹那的な楽しみやお金儲けの手段ではなく、「作品作り」へと変化したのだ。

そして、翌平成4年(第39回)、セントラルグループの踊りに魅せられたひとりの青年が北海道で始めたのが、よさこいを全国に広めるきっかけとなった「YOSAKOIソーラン」なのである。

そして、歴史は繋がれていく

「みんな、もっとキレッキレで踊って!!!!」

そんな怒号が響くのは、2018年7月の帯屋町筋商店街アーケード。一ヶ月後に控えた「よさこい祭り」に向かって、帯屋町筋のよさこいチームが練習をしていた。

現在の帯屋町筋よさこいチームのメンバーは、全部で130名ほど。8割以上がリピーターで、中には20年、30年と、このチームで踊り続けているメンバーもいるそうだ。市内からの参加がほとんどであるが、ここ十数年で随分と県外からの参加も増え、130名中30名ほどが県外メンバーだという。

最近では、よさこいのために移住する人も増え、「よさこい移住」という言葉まで誕生しているらしい。

帯屋町筋の踊り指導を務める清水美優(しみず みゆ)さんは、2017年4月、群馬から「よさこい移住」をしてきた。幼い頃に通っていたバレエ教室の縁で、年に一度、高知に来てはよさこいを踊り、気づけば虜になっていたという。

「踊っていると、お客さんがうちわであおいでくれたり、『頑張れ!』と声援をくれたりする。よさこいは、踊り子も観客も、それぞれのチームも、参加者みんなが一丸となって作り上げるお祭りだと感じます。そこがたまらなく好きなんです」

第66回となる今年、参加チームは合計207。県内が136チームで、県外が71チームだ。海外からは、ポーランドなど世界18の国や地域から集まる「高知県よさこいアンバサダー絆国際チーム」が参加する。本場高知の舞台で踊りたいというチームの数は年々増加の一途をたどり、振興会側も苦渋の決断で数を制限しているほどだという。

岩目さんは、変化を続けるよさこいについてこう語る。

「もともと商業祭として誕生したよさこい祭りは『神なき祭り』。つまり、時代と共に生きていくお祭りなんです。トレンドと共に、その時代の人間が作り上げていく、それこそがよさこいの真髄であり、今、全国の人が熱狂する理由なんじゃないでしょうか」(岩目さん)

神仏に奉納する踊りではないからこそ、「よさこい」は市民の変化と共に、柔軟にその形を変えてきた。歴史を振り返ると、まさにその「自由さ」こそが、高知から全国へ、そして世界へと拡がるよさこいのうねりを生み出したのだということが分かる。

最後に、「よさこい鳴子踊り」の作曲者・武政英策さんが予言のように記していた言葉で終わりたいと思う。よさこいがこんなにも自由な変化を遂げ、世界の「YOSAKOI」となることを誰も想像していなかった時代に書かれたものだ。

「郷土芸能は民衆の心の躍動である。誰の誰べえが作ったかわからないものが、忘れられたり、まちがったりしながら、しだいに角がとれシンプル化していくものである。要は、民衆の心の中に受け入れられるかどうかが問題で、よさこい鳴子踊りにしても、時代や人によって変わってきたし、これからもどんなに変わっていってもかまわないと思っている」(『よさこい20年史』より 武政英策さんの手記)

平成19年・第65回よさこい祭りにて、帯屋町筋演舞場での帯屋町筋よさこいチームの演舞(画像提供:高知新聞社)

<参考文献>
よさこい祭り振興会(昭和48年)『よさこい祭り20年史』
よさこい祭振興会(平成6年)『よさこい祭り40年』
よさこい祭振興会(平成16年)『よさこい祭り50年』
よさこい祭振興会(平成27年)『よさこい祭り60年』
岩井正浩(2006年)『いごっそハチキンたちの夏』岩田書院
高知新聞 連載『よさこいの「かたち」』

文:坂口ナオ
写真:二條七海