「籐かご」がお風呂場にいい理由をプロに聞く

かつては、日本各地の温泉旅館や近所の銭湯で必ず目にした籐(とう)のかご。

無垢でやわらかな質感はどこか懐かしく、和やかな気持ちにさせてくれる暮らしの道具です。

ツルヤ商店の籐かご

輸入品やプラスチック製品が主流となり、お風呂場で国産の籐製品を目にする機会は少なくなってしまいましたが、いまでも籐製品を作り続けているのが「ツルヤ商店」です。

籐でできたハンガー
籐でできた一輪挿し

ツルヤ商店は、1907年(明治40年)山形県で創業。地元に古くから伝わる「つる細工」の技法を取り入れながら、現代の生活に寄り添った商品を展開する籐工芸の老舗メーカーです。

 

籐ってどんな植物?

素材の「籐(とう)」は、ヤシ科のつる性植物。漢字の「藤」に似ていますが親戚という訳でもなく、「竹」でも「木」でもありません。

素材の籐(とう)は英語で「ラタン」と呼ばれます
素材の籐(とう)は英語で「ラタン」と呼ばれます

また日本では育たず、東南アジアを中心とした熱帯雨林地域のジャングルに自生しています。

軽くて柔軟で折れにくい特性から曲線の加工もしやすいため、細かく裂いたものを編み込んだかご作りや、太いものでは家具のフレーム材としてさまざまに活用されています。

素材の籐(とう)

 

籐がお風呂場に適している理由

素材としての最大の特徴はその吸水性にあります。

籐の内部には無数の導管があり、空気中の水分を出し入れします。高温多湿の場所では水分を吸収して湿度を下げ、乾燥した冬場は内部の水分を放出して湿度を上げ、呼吸を続ける生きた素材。

ツルヤ商店のかご細工

そのため木材よりも湿気に強く、お風呂場や水まわりでの使用に適しています。もし、完全に濡れてしまった場合には、カビや汚れを防ぐためにも日陰干しなどでよく乾かして使うのが長持ちさせる秘訣です。

ツルヤ商店の籐かご

使うほどに飴色の風合いが増す「籐」の魅力

使えば使うほど愛着が湧く、籐の家具。

表皮を剥いたままの滑らかな白い肌には塗装を施しません。無垢な質感を生かして仕上げたかごは、使うほどに飴色の風合いが増していくのだそう。

過ごした時間の分だけ美しく変化する籐かごには、まだ見ぬ楽しみがつまっています。

蒸気で熱した素材を型にはめて成型していく
蒸気で熱した素材を型にはめて成型していく
パーツごとに仕上げた部材を組み立てる作業
厳選した素材のみを使用して、熟練の職人さんがひとつひとつ組み立てています
ツルヤ商店の籐かご
編み方は、地元に伝わる手法をベースにしているものの、編み目の太さや透け感・全体のバランスは時代に合わせて柔軟に調整を行うそうです。/左:1本素編み(ざる編み) 右:2本素編み(ざる編み)

 


身の回りのあらゆるものがとても便利になりましたが、その一方、機械でたくさん作っては使い捨てられるものも多くなってしまったのも事実です。

そんな現代だからこそ、手仕事によるたしかな品を暮らしに取り入れたいなと思いました。

ツルヤ商店の籐かご

自宅の水まわりにまずは、ひとつ。使うほどに愛着が湧く道具との暮らしはいいものです。時間とともに育つ、手仕事による籐のかごを迎え入れてみてはいかがでしょうか。

 

明日は、籐かごの制作過程を紹介します。

 

〈取材協力〉
有限会社ツルヤ商店
山形県山形市宮町5丁目2-27
tsuruya-net.com

 

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬、商品写真:ツルヤ商店

*こちらは、2019年6月11日の記事を再編集して公開しました

「モノづくりをしたいなら山形だよ」ロンドンから移住したデザイナーが魅了された、COOHEMのものづくり

「海外でファッションの勉強がしたい」。その一心で日本を飛び出したひとりの女性がいます。

洋装の本場、イギリス「ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション(ロンドン芸術大学)」のニット専攻で基礎を学び、帰国後に出会ったのは山形県に拠点を置く、とある繊維会社。

その時、彼女は気がつきました。「作品をつくることと、多くのひとへ届けるために量産できる製品づくりは全く別物」ということに。

米富繊維の編み機
COOHEM(コーヘン)の編地

イギリス留学後、米富繊維株式会社(以下、米富繊維)に入社し、現在はCOOHEM(以下、コーヘン)デザイナーとして活躍される神山悠子(かみやま ゆうこ)さんに、ファクトリーブランドだから実現できる質の高いものづくりについてお話を伺いました。

募集はしていなかったけど、履歴書を送ってみた

—— 米富繊維・コーヘンと神山さんの出会いについて教えてください。

神山悠子(以下、神山):留学から帰国後、ニットの製作に関わりたいと思い職場探しをしていたところ、知人の紹介で訪ねたイベントでコーヘンと出会いました。それが2013年のことですね。

「こんなすごいことをしているブランドがあるんだ!」と、奥深さに圧倒されて調べてみたところ、コーヘンは山形に本社・東京にオフィスがある米富繊維のファクトリーブランドということを知りました。

米富繊維の本社2階から見える風景
米富繊維の本社2階から見える風景

神山:早速履歴書を送ったところ、社長の大江が「モノづくりをしたいのであれば山形だよ。とりあえず見に来てみて」と。当時、私は山形への行き方すら知らなかったんですけど言われるままに行ってみました。

訪ねたのが6月というのもあって暑くも寒くもなく、しかも本社のある山辺町には駅があった。私は群馬の出身ですが地元には駅がなかったので、駅がある時点で「地元より上だな、全然余裕!」と思ってしまって(笑)

もともと自分の手を動かせる現場を希望していたので、すぐに山形での勤務を決めました。

デザイナーの神山さん

—— 連絡をした当時、会社としても採用活動をしていたのですか。

神山:その時は営業職しか募集していなかったけど、割と新しいブランドだから人手が足りないんじゃない?と勝手に予想して、一方的に履歴書を送りました(笑)

普通だったら「募集してない」と言われちゃうと思うんですけど、運よく働けることに。

—— タイミングが良かったんですね。実際、人手も足りていなかった?

神山:入社してみると、人手は足りてたんですよ。いまは大江と私がコーヘンのデザインを担当しているのですが、その時は大江の下にアシスタントデザイナーがいて。

当時は新人研修用のカリキュラムなどもなく、自分に任されるような仕事もまだなかったので、自主的に原料倉庫の仕分けを行うなかで糸の種類を覚えたり。

とりわけコーヘンは使う糸の種類がすごく多いので、展示会後のサンプル糸の集計や棚の整理は率先してやりました。そこで「この糸と糸の組み合わせでこういう仕上がりになるんだ」と、仕上がりのイメージを掴んで頭に入れていくのが楽しかったですね。

コーヘンの生地づくりに欠かせない様々な糸

—— 品番も糸の種類もきっとものすごい数ですよね。入社してしばらくは担当部署などにつかず、わりと自由に動いていたんですか。

神山:原料レベルでいうと1000種類ではきかないかも。最初はわりと自由に動いていたんですが、その後は編み立ての部署・編地の開発見習い・サンプル班を経験させてもらいました。

2016年に前任のアシスタントデザイナーの子が退職することになったので、シーズンでいうと「2017 春夏」からウィメンズのデザインを担当しています。

—— デザインは、大江社長と一緒に練り上げていくのですか。

神山:そうですね。私から提案することもありますが、シーズンの主要アイテムは彼から「こういうものが作りたい」と発案されることが多いです。

私たちだけでわからない技術的なことは、すぐに現場の技術者にも相談します。

米富繊維の大江社長とデザイナーの神山さん
大江社長(写真右)と常にコミュニケーションをとりながら新たなデザインを探っていく

—— シーズン毎のテーマは、どうやってデザインに落とし込むのですか。

神山:ブランドとしては割と“物”ありきな方だと思います。

テーマを先に決めてやったこともあったんですけど、あまりにも言葉に縛られて窮屈に感じてしまったのと、幸いにもデザイナーが大江と私しかいないので、基本的には大江の頭のなかにあるイメージや気分から膨らませていくことが多いです。

「いま、どんなものが着たいですか?」みたいな感じで話していると、いきなり「俺ライダースが着たい」と言い出したり(笑)、古着屋で買った服からイメージを膨らませたり。

その時選ぶアイテムに次のシーズンの気分が反映されながら進んでいきます。そしてある程度輪郭ができたなかからテーマを編み上げていきますね。

米富繊維の大江社長と神山さん

—— 大江社長のその時の「気分」が各コレクションで表現されているのですね。

神山:はい、トレンドはあまり意識しないです。大江自身、好きな色はずっと好きなタイプ。毎シーズン、ついつい選ぶ色が重なったりするんですけど、2019年 秋冬のコレクションでは珍しく茶色が多くて。

コーヘンの2019年 秋冬のコレクション
COOHEM 2019 AUTUMN & WINTER テーマは「T.P.O」 写真提供:米富繊維株式会社

それまで茶色とかベージュは極端に少なかったので「今回は茶色が多いですね」と大江に言ったら、「なんかちょっと着たいと思って。最近、似合うようになってきたって感じるんだよね」と(笑)

コーヘンのデザイナー神山さんと大江社長
コーヘンのデザイナー神山さん

作品づくりとは違う、量産するための創意工夫

—— イギリスで学んできたこととコーヘンの技術では、何か違いましたか。

神山:ひとつは、ニットを専門に学んできたといっても私が学んできたのは作品だったので量産を目的としていないんです。

それはある意味、見た目をいちばんに考えていてコストや着心地などにはそこまでこだわっていなかった。だから帰国後に米富繊維と出会ったときは、量産を目的とするメーカーとしての創意工夫や、質の高さにまず圧倒されました。

あともうひとつは、応用力みたいなものですかね。例えばたくさんの素材を組み合わせた時に想像していなかった模様の現れ方をするだとか。

コーヘンの生地

神山:学生時代は、想像できる範囲もすごく狭いんですよ。でも米富繊維では、みんなすごく広い視野、長い経験のなかで培った勘を使って無限にニットの可能性を広げていくんです。それはプレーンな天竺編みだけじゃないことをずっとやってきて、積み上がった知識と経験なんだと思います。

なのでいま最新に作っているものも元をたどると、数十年前に開発された編地だったりするわけです。それからずっと応用・応用・応用でやってきた。

—— なんだか細胞分裂みたいですね。応用を続けることによって、想像力が培われていくような。

神山:ほんとうにそんな感じです。開発室長とかをみていると、長年の経験と勘のなかで自然とイメージがつくようになるんだろうなぁと。

逆に「こういう感じにしたい」と相談した時には、ゴールから辿って導いてくれたりもします。何よりも、これだけの開発をこの規模の企業で途切れずにやらせてもらえてきたのもすごいことです。

開発室長の鈴木さん

積み重ねと創意工夫が、モノづくりの質を生む

40年以上に渡って編地開発を続けた結果、米富繊維のテキスタイルアーカイヴはすでに数万枚を越えるそうです。

その思いはどこまでもまっすぐ。

ひとりでも多くのひとへ、ニットの面白さ・可能性の奥深さを届けるために。

T.P.O」2019 A/W
「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社
「T.P.O」コーヘンの2019 A/W
「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社

すべての工程が一箇所で完結する希少なファクトリーブランド・COOHEMは、ますます勢いを加速して日本のモノづくりカルチャーを世界に発信していきます。

 

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米富繊維株式会社
山形県東村山郡山辺町大字山辺1136
023-664-8166

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬
メインビジュアル:米富繊維株式会社

編物界の革命品。奇跡のニット〈COOHEM〉は2万枚もの試作から生まれた

近年、工場自身がブランドを立ち上げる、「ファクトリーブランド」をよく見かけるようになりました。

アパレル製品をはじめ、私たちの生活を支える様々な“物”の製造拠点が安価な海外へとシフトしていってもなお、日本でつくり続けられる製品の数々。

ものづくりに精通したメーカーならではの強みはどこにあるのか。そして、そこにはどのような想いが込められているのか。

今回は、山形県山辺町(やまのべまち)に拠点を置く、米富繊維株式会社のファクトリーブランド「COOHEM(コーヘン)」誕生の背景に迫ります。

365日、新しいニットを生み出し続ける

ニットの見本として活用する四角い布を「編地(あみじ)」と言います。

山形・米富繊維のブランド、「COOHEM」ができるまで
米富繊維の「編地」
編機。プログラミングによって複雑な編物を実現する 写真提供:米富繊維株式会社

米富繊維では、毎日新しい編地が生まれています。その作業を担うのが、開発室長の鈴木恒男(すずき つねお)さん。入社から40年以上新しい編地を開発し続ける、編物界の第一人者です。

「とにかくやってみないとわからない。柄や色・素材感を考えながら新しいことを毎日繰り返している」のだそう
米富繊維のブランド「COOHEM」の開発室長 鈴木さん

編地のアイディアのインスピレーションは、日常のさまざまな場面から得ています。そうして生み出されたアイディアは、すでに2万枚を超えるほどに。

使用する糸の色や素材を組み合わせ編み方を変えることで様々な模様がうまれる
使用する糸の色や素材を組み合わせ編み方を変えることで様々な模様がうまれる 写真提供:米富繊維株式会社

そうした開発の日々から偶然発見されたのが、業界の常識を覆す「ニットツウィード」でした。

編地開発の段階で偶然生まれた「ニットツウィード」

米米富繊維の最大の持ち味は、独自の「交編(こうへん)」技術を用いて生み出される「ニットツウィード」です。

「交編」とは、2種類以上の異なる糸を使用してニットを形成する編物技術。異なる糸を組み合わせることで、さまざまな風合いや質感のニットを表現できるほか、機能性も付与できます。

「交編」とは、2種類以上の異なる種類の糸を使用して編むこと

「ツウィード」とは羊毛を手紡ぎしてできる太い糸を、さらに手織りで織り上げた毛織物の総称です。織る前に糸を染色するため、さまざまな色彩で表現することができます。

厚みのある生地には温かみ、耐久性があり、コートやジャケットはもちろん、さまざまな製品の生地として人気があります。

米富繊維では、交編の技術を研究していくうちに、機械織りでありながらツウィードのように品があり、美しい仕上がりの編地を生み出すことができました。

写真提供:米富繊維株式会社
COOHEMのニットツウィード
写真提供:米富繊維株式会社

こうした編物技術は、複雑に組み上げられたプログラミングと職人の勘、機械の微調整から生まれた偶然の産物です。

プログラミングソフト

「こんなに美しく複雑な編地は、他社が簡単に真似できるものではない。この技術は米富繊維の確固たるアイデンティティになるだろう」と現社長・大江健さん。この技術で生み出された布地を「ニットツウィード」と名付けました。

COOHEMのニットツウィード生地

そして、これだけ編物の技術を磨いてきた自分たちであれば、OEM や ODM*による生産だけでなく、山辺町発の自社ブランドとして世界に発信できるのではないか、という想いを実現するのです。

*)OEM/ODM:OEMとは、Original Equipment Manufacturingの略語で、委託者のブランドで製品を生産すること、または生産するメーカーのこと。ODMとは、Original Design Manufacturingの略語で、委託者のブランドで製品を設計・生産すること

ニット製造で栄えた山形県山辺町のルーツ

米富繊維のアイデンティティが確立された背景には、山辺町がニットの産地として築いてきた紡績・染色技術の集積があります。

山形の景色
写真提供:米富繊維株式会社

戦時中、庄内平野から米沢盆地まで、山形県を貫くように流れる最上川沿いでは羊の飼育が推奨されていました。当時、この一帯では「ローゲージ」と呼ばれる、羊毛の手紡ぎ・手編みをしており、これが山辺町における編物技術のルーツです。

写真提供:米富繊維株式会社

戦後の復興とともに女性の社会進出や機械技術は進歩をとげ、国内のニット産業は急速に発展していきます。県内には多くの繊維・紡績メーカー、染色業が新たに誕生し、山辺町内だけでも100軒以上の製造工場があったほどです。

米富繊維のほかでは真似できない、編物技術と生産力のヒミツ

その後、時代の変化によって多くの紡績メーカーが廃業を余儀なくされる中、米富繊維は独自の発展をとげてきました。

米富繊維で営業を担当する渡邊あゆみさん
米富繊維で営業を担当する渡邊あゆみさん

「山辺町はもともとニット製造が盛んな土地でした。しかし、バブル景気以降、国内のニット製造が海外へと拠点を移すにしたがって、町内の工場も年々減少し、染め工場もいまでは2軒しかありません。

けれど、車で数分の場所にいまでも染工場があることで、私たちは想い描くものづくりをスピーディーに実践していくことができるんです。

多くの場合、デザインからサンプルを仕上げるまでにはすごく時間がかかります。それは、デザイン・染色・製造する場所が離れているケースがほとんどだから。注文してから完成するまでにかなりのロスタイムが発生します。

輸送するにもコストがかかってしまうし、思いついたときにすぐにカタチにすることは難しい。でも山辺町には、すぐそばに相談できる専門の人がいる。

なので、あれこれ頭のなかで思い悩む前に、思いついたらすぐに行動して『編地』という実際のカタチをつくり出し、米富繊維全体だと年間6千枚以上量産できる体制が整っているんです」

1952年、故・大江良一によって創業された「米富繊維株式会社」。同業他社が競合するこの地で製造を続けていくため、常識にとらわれない新たな表現方法、編物技術を日々模索し、とりわけ編地の開発には心血を注いで取り組んできました。

COOHEMのニット生地
COOHEMの製造現場

奇跡のニットから生まれたファクトリーブランド「COOHEM」

2010年に本格始動した「COOHEM (コーヘン) 」。独自の編物技術で生み出された「ニットツウィード」を取り扱うファクトリーブランドです。

COOHEMのルック
写真提供:米富繊維株式会社

「いまでは会社一丸となり力を注ぐ生産ラインへと成長しました。しかし、立ち上げ当時は、スタッフの理解を得るまでにはかなりの時間を要しました」と渡邉さん。

「立ち上げ当初は、現場の反発もかなり強かったと聞いています。サンプルの製造をお願いしてもなかなかつくってもらえなかったり、OEMが優先で進められるなど、『よくわからないこと』は後回しの状態。

コーヘンを立ち上げて1年くらいは、なんとか現場のスケジュールに入れ込んでやっている感じでした。

初めのうちは社販をとっても、注文するのは3人くらい‥‥(苦笑)スタッフの本音が社販の反応でわかるんですね」

米富繊維の営業・渡邉あゆみさんが当時のことを教えてくれた

「徐々に現場の反応が変わってきたと感じられるのは、本当にここ5年くらい。OEMやODMが主流の時代は、外から褒められる機会はなかったです。それは会社自体の名前が表立つことがなかったから。

けれどコーヘンの立ち上げによって米富繊維自体のブランディングが洗練されて、自分たちがやっていることのすごさをスタッフ自身も認識できるように。

いまではテレビCMなどで有名人がコーヘンのセーターを着ているのを見かけたりすると、誇らしい気持ちになれるみたいで。ものづくりに携わるスタッフ一人ひとりが『私が作ったもの』と自信を持てるのは、会社にとってもすごく良いことだなぁと思います」

米富繊維の製造現場 カット
米富繊維の製造現場

2017年からコーヘンでは、念願のメンズラインをスタート。

「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社

軽く柔らかく・伸縮性もハリもあるのにシワができない。機能性にも富みながら、着るだけでワクワクできるコーヘンの「ニットツイード」。

「高級なものとして捉えられるよりも、もっと気軽に普段のコーディネートに取り入れてほしい。着ていくうちに身体に馴染んでいくのも、嬉しいです」と渡邉さん。

たくさんの米富愛を感じました。

「競い合い認め合い助け合いyonetomi愛」と書かれた米富繊維のポスター
米富繊維の社屋からの風景

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「軽くて柔らか、丸めてもシワにならない。普段使いのサマーニットができました」

<取材協力>
米富繊維株式会社
山形県東村山郡山辺町大字山辺1136
023-664-8166

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬
メインビジュアル:米富繊維株式会社

未来へものづくりを残す方法。100年続く籐かご「ツルヤ商店」の決断

高度経済成長の電化製品ブームの中、「手仕事」を続けていくことを選んだ若者がいました。

「これから便利なものが増えれば増えるほど、人の手のあたたかみのあるものが求められるようになるだろう。そうなった時に作れる職人たちを、私は守らなければいけないと思った」

その決断に、頭が下がります。おかげでいまも残っている日本の「籐かご」。

今日はその籐かごができるまでの過程と、迷いながらも手仕事への道を選んだひとりの社長のお話です。

————

かつては、日本各地の温泉旅館や近所の銭湯で必ず目にした籐(とう)のかご。

無垢でやわらかな質感はどこか懐かしく、和やかな気持ちにさせてくれる暮らしの道具です。

ツルヤ商店の籐かご
写真提供:ツルヤ商店

輸入品やプラスチック製品が主流となり、お風呂場で国産の籐製品を目にする機会は少なくなってしまいましたが、いまでも籐製品を作り続けているのが「ツルヤ商店」です。

ツルヤ商店は、1907年(明治40年)山形県で創業。地元に古くから伝わる「つる細工」の技法を取り入れながら、現代の生活に寄り添った製品を展開する籐工芸の老舗メーカーです。

ツルヤ商店のショールーム
ツルヤ商店のショールームには、さまざまな籐製品が並びます
籐の椅子

手間ひまを惜しまない製造工程(蒸して曲げる・組む・編む・組み立てる)

はじめに、骨組みとなるフレームを蒸気でたっぷりと蒸して型にはめ込み曲げていきます。蒸すことによって素材の内部まで蒸気が染み込み、柔らかく成型しやすくなるのだそう。

蒸し器で籐を柔らかくする工程
蒸し器で籐を柔らかくします
籐を曲げる工程
曲げは手作業でおこないます

 

次に、成型したフレーム同士をつなぎ合わせる「組み」の工程です。

籐のかごは、土台となる底の形状が全体の基礎となります。そのため製品によって円形や楕円、四角に型どった木枠を使用します。

成型したフレーム同士をつなぎ合わせる「組み」の工程
成型したフレーム同士をつなぎ合わせる「組み」の工程
使用する木枠の種類もさまざま
使用する木枠の種類もさまざま

 

その後、編み込みの作業。機械や釘などを使わないため、地元に暮らす熟練の方にお願いすることもあるのだそうです。

代表を務める會田さん
代表を務める會田さん

代表の會田源司(あいた  げんじ)さん曰く、輸入製品と国内加工品の違いは接合部分の強度にあるとのこと。

一見すると飾りのようにも見える角の部分。実は単なる飾りではなく、強度を増すために巻き材でひと手間加えています。

ツルヤ商店の籐製品
ひねりを加え、強度を確かめる
ひねりを加え、強度を確かめる

籐製品は斜めから加わる力に弱く、一般的なネジを使用する海外製品はひねるとすぐに緩んでしまいます。また、経年によるネジのサビが折れやすい原因になるそうです。

ツルヤ商店の籐製品は、ネジよりも折れにくい釘を打ち込むことで通常よりも3倍近い強度に。物によって木製品よりもずっと長持ちするそうです。

製品に使用する連携した状態の釘
製品に使用する連携した状態の釘。断面が丸いものと角ばったものを部位によって使い分ける

こうしてパーツごとに仕上げた部材を組み立てる作業は失敗が許されない、いちばん難しい工程なのだとか。會田さんのほか、4名の職人さん方の腕の見せどころでもあります。

パーツごとに仕上げた部材を組み立てる作業

 

パーツごとに仕上げた部材を組み立てる作業

「職人を守りたい」。その一心でつないだ技術

ツルヤ商店の代表を務めながら職人でもある會田さんは、「職人を守りたい」という一心で手仕事によるものづくりを続けています。

1960年代、国内では籐製品のニーズが一気に高まりました。いわゆる「ブーム」です。

雪に閉ざされる農閑期の山形では、冬場の出稼ぎとして、山間部の農家さんの多くが籐のかご作りに携わっていたそうです。

子ども用のゆりかごの写真
60、70年代は子ども用のゆりかごなども多く作られていた

しかし皮肉なことに、ニーズが高まるにつれて安価な海外製品の大量輸入がはじまります。1970年代の終わりから80年代、国内では相次いで同業者が廃業していきました。

細々とながらも下請けの仕事を続けていた20代のはじめ、先代でもあるお父さんが病気で倒れたことをきっかけに、この仕事を継いだ會田さん。

一方、時代はデジタル製品の隆盛へ。

当時、勢いが盛んだった電子部品の製造工場へ切り替えないか?という誘い話もあったそうです。

父の不在のなか状況は次々と変化し、まだ24歳だった會田さんは岐路に立たされました。

けれどそこで、會田さんは考えます。

代表を務める會田さん

「便利なものが増えれば増えるほど、手仕事によるあたたかみのある品物は求められるようになるだろう。それらが必要となった時のために、作れる人や技術が残っていないといけないのではないか」

正直、ビジネスとしてこれから成り立つのかという迷いもありましたが、なによりも、「職人さんを守りたい」という強い想いがあったのだとか。

工房の壁に貼られていた昔のかご写真
工房の壁に貼られていた昔のかご写真

それから40年近くが経ち、当時を振り返り「いま思うと的外れではなかった」と語る會田さん。

「誰でもできることではなく、技術の高い仕事がしたい」

漠然とそのような思いに達した會田さんは、手仕事ならではの職人技術のクオリティをつないでいくため、まずは自身で技術を身につけました。

若手の職人さん
若手の職人さんも頑張っていました

そうして、100年以上の歴史を重ねたツルヤ商店。

昔から続く技術を続けるのみではなく、時代の感度を確かめながら、オリジナルブランドなど柔軟に新たなものづくりを展開してきました。

籐でできたハンガー
籐でできた一輪挿し

これから残っていく技術や工芸品は、こうして時代に合わせてアップデートしながら変化していくものだと思いました。

ツルヤ商店の籐かご
写真提供:ツルヤ商店

高度経済成長からずいぶん経ち、たしかに現代の暮らしで電化製品は欠かせません。

もちろん便利さも必要ですが、無機質なものよりも、使うほどに愛着が湧き育てていけるようなものをできるだけ暮らしに取り入れたいなと思います。

まずは、水まわりにひとつ。手仕事による籐のかごを迎え入れてみてはいかがでしょうか。

ツルヤ商店の籐かご

 

一階部分をギャラリースペース「つるや品物店」として開放している
一階部分をギャラリースペース「つるや品物店」として開放している

〈取材協力〉
ツルヤ商店
山形県山形市宮町5丁目2-27
tsuruya-net.com

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬

藍染絞りに生きた職人。片野元彦のものづくりから「仕事」のあり方を考える

日本民藝館 特別展「藍染の絞り 片野元彦の仕事」を訪ねて

新しく何かをはじめるタイミングとして、57歳という年齢が遅いのか、適齢なのか。

一つの仕事を極めるうえで、19年という月日が短いのか長いのか。

人生100年といわれる時代に「仕事」の捉え方は、人それぞれです。

57歳で絞り染め(しぼりぞめ)をはじめた、片野元彦(かたの もとひこ)。いまや彼が生みだした「片野絞り」という藍染の絞り技法は、周りの職人たちから高い山脈を望むように崇められています。

そんな絞りの極致ともいうべき品々が、日本民藝館特別展『藍染の絞り 片野元彦の仕事』で一挙に公開されました。

日本民藝館 片野元彦の仕事
木綿地藍染熨斗目小華繁紋折縫絞着物 1960年代後半 工房草土社蔵

今日は、絞り染めの歴史と片野元彦のものづくりをたどりながら、「仕事」について考えてみたいと思います。

もっとも原始的な技法「絞り染め」

絞り染め(しぼりぞめ)とは、模様を表現する染め技法の1つ。

布の一部を糸で縫い締める・折るなどして、意図的に染液が染み込まない部分をつくることで模様を表現する技法。

文様を染め出す最も原始的な技法として、世界の各地に存在しています。

日本の「絞り染め」の歴史

日本における最古の絞り染めは、奈良の正倉院や法隆寺の宝物に見ることができます。奈良時代に中国からもたらされた、いくつかの染め技法を取り入れてつくられたと言われています。

簡単な方法はそれ以前から存在しますが、絞り染めが大きく発展するのは江戸時代に入ってからのこと。

高級品として京都の絹(きぬ)の布に絞った「京鹿の子」や、木綿に藍染をした「地方絞り」など、広く取り入れられるようになりました。

とりわけ、木綿の産地として名を馳せた豊後(現在の大分県)の「豊後(ぶんご)絞り」や、豊後より尾張(現在の愛知県名古屋市緑区)へ伝えられた「有松・鳴海絞り」が有名です。

父娘で確立した技法。美しい藍染の「片野絞り」を知る

絞り染めの第一人者として知られ、「片野絞り」と呼ばれる独自の技法を確立した片野元彦。

日本民藝館 片野元彦の木綿地藍染よろけ縞紋白影絞広巾
木綿地藍染立湧梅散紋白影絞裂 1972年 日本民藝館蔵
片野元彦の絞り染め 日本民藝館
木綿地藍楊梅染松皮菱紋巻上絞広巾 1963年 昭和38年度日本民藝館展 日本民藝館賞受賞作 日本民藝館蔵

「片野絞り」は、折り畳んだ染布にさらに折り畳んだ当て布を上下に当て、その上から縫い絞り防染していく技法で、別名「重ね縫い絞り」とも呼ばれています。

重ねた当て布の上から文様にそって、さらに一針一針縫って押さえていくため布には厚みが出ます。熟練の職人でも針を通すのがたいへん難しいそうです。

片野元彦の娘、片野かほりさん
木綿糸で括る作業を行う片野元彦の娘・かほりさん。自邸にて 1976年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

重ね縫いされ、まるで生きもののような布のかたまりを藍染すると、独特のぼかしが浮かびあがり、さまざまな文様が立体的に現れます。

これらは、片野父娘が二人三脚で高めた代表的な技法のひとつです。

片野元彦の片野絞り 木綿地藍染筋立段紋折巻絞広巾
木綿地藍染筋立段紋折巻絞広巾 1970年代前半 工房草土社蔵
片野元彦・片野かほりの「片野絞り」
木綿地藍染流水紋杢目絞広巾 1960年代後半 日本民藝館蔵

思想家・柳宗悦との出会いと職人としての目覚め

染色家・片野元彦(1899-1975)を57歳で絞りの世界へ導いたのは、日本民藝館の創設者であり思想家の柳 宗悦(やなぎ むねよし)でした。

青年時代、画家を志した片野は、洋画家の岸田劉生(きしだ りゅうせい)に師事するために21歳で上京。

しかし画家だけで生活していくことは難しく、画業のかたわら染めものも行いました。

30歳のときに岸田が急逝し、以後、片野は染物に専念するように。

その後、戦争で一時は仕事ができなくなりますが、1955年、片野は民藝運動の主要メンバーでもある、河井寛次郎・濱田庄司・芹沢銈介(せりざわ けいすけ)らと知り合いました。

翌年、片野の故郷である名古屋の「有松・鳴海絞り」の視察に柳が訪れた際、片野が案内役を引き受けます。

本筋の仕事ではなくなりつつあった絞りの現状を嘆いた柳は、片野に「藍染絞りを再興するように」と勧めたうえで、「ものを作る心を河井寛次郎に、染色の道を芹沢銈介に学べ」と伝えます。

そこから、片野元彦と長女・かほりによる絞り染めの仕事がはじまりました。

片野元彦と片野かほり
編集作業をする元彦とかほり 1971年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

職人の覚悟。「悲願」ということばの重み

片野は、「絞りと私」という文章の中で柳との思い出をこのように綴っています。

——— 或時私の仕事場に先生からお手紙とお軸の小包がとどけられ、さっそく開封するとお軸の文字は「悲願」の二文字であり、お手紙には「絞りを悲願とせられるよう祈る」としたためられてあった。此のお軸の文字を拝見した瞬間、私は頭から冷水を浴びた如く全身の血が止った思いで言い表わしようの無い戦きを覚えた。

(「絞りと私②」片野元彦/雑誌『民藝』788号 特集「片野元彦・かほり– 人と仕事」より引用)

またある時、河井は片野に対して、職人としての心構えをこのように伝えたそうです。

「柳が絞りをやれと言うならば、どこまでもそれに答えねばならん」

「絞りをやるなら過去の絞りを忘れることだ、そしていままでの絞りをことごとく火で焼き捨てて終え、そしてその畑に自分の種をまいて懸命に育てるのだ、自分もその耕作を手伝うよ」と。

片野にとって柳や河井らとの出会いが、どれほど大きかったのか。

どれほどの重責を感じながら仕事へ打ち込んでいったのか、その一端をうかがい知ることができるエピソードです。

藍染絞りに捧げた人生。職人の手仕事から学ぶこと

近代以降、私たちの衣類の多くは機械生産へと変化しました。かつては日本のどこにでもあった、人が手で糸をつむぎ、布を織り、染めあげるといった手仕事の文化は、いまでは珍しい過去の営みのようにも感じられます。

片野は晩年、自身の仕事について綴った文章のなかでこのように語っています。

——— 私は、私の作る絞がいかに拙なくともこの仕事に生命をもやし続けたい。繰り返し繰り返し絞った布を藍甕で染める、そのくりかえしの間に色の滲みはだんだんに浄化され、美しい布に調えられてゆく姿を見て、私はすべてを忘れ自分さえも忘れさせてくれる此の仕事に生きる喜びを感じている。

(「絞りと私①」片野元彦/雑誌『民藝』788号 特集「片野元彦・かほり– 人と仕事」より引用)

素材づくりにはじまり、一枚の布を何十回・何百回とくりかえし絞り、仕上がりの色を思い浮かべながら幾度も藍 甕をくぐらせる日々を想像したところで、すんなりと理解することは難しいかもしれません。

ただ、頭だけではなく心と身体を使って全身で取り組む仕事。それが、手仕事ならではの力強さや生きる喜びにつながっていくのではないか。

片野元彦の染め仕事
縄もっこ絞 1968年(藤本巧撮影、写真提供:工房草土社)

片野が手がけた一連の絞り染めを前に、生きる喜びとしての「仕事」について、私は思いを馳せました。

選択肢が多様化した現代だからこそ、自分にとって「仕事」とは何なのか。

ふと立ち止まり、向き合うきっかけを与えてくれる展覧会です。ぜひ、この機会に会場を訪ねてみてください。

日本民藝館 片野元彦の木綿地藍染よろけ縞紋白影絞広巾
木綿地藍染立湧梅散紋白影絞裂 1972年 日本民藝館蔵

 

藍染の絞り 片野元彦の仕事

【会期】2019年4月2日(火)~6月16日(日)
【時間】10:00~17:00(入館は16:30まで)
【休館日】月曜日(ただし、4月29日、5月6日は開館)、5月7日(火)
【会場】日本民藝館(〒153-0041東京都目黒区駒場4-3-33)
【入館料】一般 1,100円 大高生 600円 中小生 200円
【URL】http://mingeikan.or.jp

 

文:中條美咲
写真提供:日本民藝館

TOP画像:「木綿地藍染熨斗目小華繁紋折縫絞着物 1960年代後半 工房草土社蔵」
参考文献:『民藝』2018年8月 第788号 特集「片野元彦・かほり−人と仕事」