薬師寺東塔 大修理に挑んだ匠たちの現場レポート。「凍れる音楽」は今、どうよみがえったのか?

薬師寺東塔の大修理プロジェクト

「こういう、たくさん挑戦が必要になる仕事は、終わったら面白い。でもね、終わるまでは喧嘩ですよ。職人の世界というのは、そういうものです」

腕利きの職人たちが喧嘩も辞さず、総力をあげて取りかかる世紀の大修理プロジェクトが、ある世界遺産で行われました。

「古都奈良の文化財」の1つとして世界遺産に登録される薬師寺。

西暦680年に造営が開始され、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)に建立。その後710年の平城京遷都に伴い、現在の奈良市西ノ京町に移転したと伝えられています。

薬師寺を構成する建物の1つ、国宝・薬師寺東塔は、その現在の奈良の境内で唯一、およそ1300年もの間、その姿をとどめてきた建築物です。

修理前の薬師寺東塔 (画像提供 薬師寺)
修理前の薬師寺東塔 (画像提供 薬師寺)

その飾り屋根のリズミカルさと、真っ直ぐ天に向かって建つ佇まいは多くの人々を魅了し、いつの頃からか「凍れる音楽」とも評されるようになりました。この薬師寺東塔こそが、今回の修理プロジェクトの主役。

2009年から約10年の歳月をかけた解体修理事業が行われており、2020年4月の落慶 (修理完了) 予定に向け、多くの現代の匠が関わっています。

なかでも、最初に解体が行われた塔頂部の「相輪(そうりん)」と呼ばれる部分の修理に挑んだ匠たちが、ある街にいます。

鋳物産業の伝統息づく、高岡へ

その匠たちがいるのは、富山県高岡市。

約400年前から続く鋳物 (いもの) のまちで、金属加工に関する多様な技術が集積しています。

鋳物とは、金属をとかし、型に流し込んで器物を作ること。またその製品を指します (画像提供 高岡市)

薬師寺東塔の修理は明治以来110年ぶり。この一大プロジェクトに金属加工のプロフェッショナルとして参加したのが、「伝統工芸高岡銅器振興協同組合」です。

組合理事長として修理のまとめ役を担った梶原製作所の梶原壽治社長と、参画企業である老子製作所の元井秀治社長、平和合金の藤田和耕さんにお話を伺いました。

*大型の一品製作を得意とする梶原製作所さんは、あの浅草寺の大提灯を手がけたメーカーさんでもあります。インタビュー記事はこちら:浅草寺の提灯、両脇はなぜ銅製?そこには思わぬ理由があった

天に向かってそびえる「相輪」を修理

今回高岡で修理された塔頂部の「相輪」とは、五重塔などの仏塔の屋根から天に向かって突き出た金属部分のことです。もともと、仏教の開祖である仏陀のお骨(仏舎利)を納めた塚で、ストゥーパ(仏塔)の上に重ねられた傘が起源となっています。

画像提供:高岡市
画像提供:高岡市

高岡が主に担当したのは、相輪先端部の「宝珠(ほうじゅ)」「竜車(りゅうしゃ)」「檫菅(さつかん)」「水煙(すいえん)」「九輪 (くりん) 」の新調。

画像奥から、今回新調した宝珠、竜車。「宝珠」は、古来仏舎利を納めていたことから、仏陀の輝きを表すものとして、塔の一番先端部に祀られるもの。「竜車」は「宝珠」と「水煙」の間に位置し、貴人の乗り物を表すともいわれる
画像奥から、今回新調した宝珠、竜車。「宝珠」は、古来仏舎利を納めていたことから、仏陀の輝きを表すものとして、塔の一番先端部に祀られるもの。「竜車」は「宝珠」と「水煙」の間に位置し、貴人の乗り物を表すともいわれる
檫菅(さつかん)。「檫管」は塔の中心を貫く心柱を包む金属菅で、特に相輪最下部の檫菅には、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って薬師寺を建立した、という創建の経緯を語る文章が129の文字で刻まれている
檫菅(さつかん)。「檫管」は塔の中心を貫く心柱を包む金属菅で、特に相輪最下部の檫菅には、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って薬師寺を建立した、という創建の経緯を語る文章が129の文字で刻まれている

そして、とりわけ重要だったのは「水煙」。高さ約2メートルにもおよぶ4枚の飾りで、災いから守る祈りが込められた、東塔の象徴的存在です。

水煙の原型
水煙の原型

他の塔では火焔文様をデザインしたものが多いのですが、この水煙は24人の飛天が飛雲のなかで笛を奏で、花をまき、衣を翻して舞うという、大変美しい意匠となっています。

水煙の原型(拡大)
水煙の原型(拡大)

修理にかかるすべての工程を一手に

「これまでも高岡では、いくつかの会社は文化財の修理事業に部分的に関わってきたんです。ただ、会社や高岡の名が表に出ることはありません。

今回は、組合としてこの仕事を受けたということに大きな意味があるんです。技術力の高さを高岡の名前とともに国内外に発信できますから」

と、今回の大仕事を振り返るのは、梶原製作所の梶原社長。

梶原社長
梶原社長

同組合では、今回の受注に先立つ2015〜2017年、国宝・法隆寺の釈迦三尊像を限りなく同質のもので複製するという「釈迦三尊像再現プロジェクト」に参画していました。今回の受注は、その実績が認められたもの。

「今回は、組合員のメーカー同士で工程を分担して、いわば高岡の総力をあげて取り組みました。関わった会社は、15社以上になりますよ」

そのうちの一社、老子製作所の元井社長も、高岡で受注したことの意味を次のように話します。

老子製作所の元井社長。老子製作所は江戸中期創業の鋳物総合メーカー。梵鐘製作で日本一を誇り、京都の西本願寺や三十三間堂、成田山新勝寺などに2万鐘を超える梵鐘を納めている
老子製作所の元井社長。老子製作所は江戸中期創業の鋳物総合メーカー。梵鐘製作で日本一を誇り、京都の西本願寺や三十三間堂、成田山新勝寺などに2万鐘を超える梵鐘を納めている

「今回の修理には、原型製作、鋳造、仕上げ、着色、彫金と金属加工のあらゆる技術が使われています。これら全て、一つの街で出来るのはとても珍しいことなんです。

他の地域であれば、一つの工程は出来ても、あとは県外に持って行く、ということになる。修理にかかる工程の全部を一貫して出来るというのは、高岡の面白いところでもあり、強みでもありますね」

彫金の作業風景。オリジナルの銘文をシルクスクリーンで転写し、オリジナルを確認しながら彫金した(画像提供:高岡市)
彫金の作業風景。オリジナルの銘文をシルクスクリーンで転写し、オリジナルを確認しながら彫金した(画像提供:高岡市)
鍛金職人による槌目打ちの様子(画像提供:高岡市)
鍛金職人による槌目打ちの様子(画像提供:高岡市)

水煙に見る、1300年前の職人のわざに驚嘆

「1300年前の職人はすごい技術をもっていた」

そう強調する梶原社長。

たとえば、と塔の象徴である水煙の説明をしてくれました。

「水煙1枚で、100キロあるんですよ。それを、ボルトやナット、溶接といった技術もなく、上に物を持ち上げる重機もない時代に、35メートルも上に、組み上げているんです。

4枚組み上げて、ボルト1本たりとも使っていないんです。それで1300年の間もたせる技術というのは、本当にとんでもないことです。今でいうと、宇宙ロケットを打ち上げるくらいの技術ですよ」

その水煙4枚のうち2枚の新調を任されたのが、平和合金さん。担当した藤田和耕さんも、こう言います。

平和合金の藤田さん。平和合金は創業120年以上の歴史を持ち、大型鋳造を得意とする鋳物メーカー。二宮金次郎の哲学に共感し、その哲学を広めるため二宮金次郎の銅像を90年に渡って作り続ける
平和合金の藤田さん。平和合金は創業120年以上の歴史を持ち、大型鋳造を得意とする鋳物メーカー。二宮金次郎の哲学に共感し、その哲学を広めるため二宮金次郎の銅像を90年に渡って作り続ける

「原型を見た瞬間に、本当にこれは1300年前に設計されたものなのかな?という雰囲気がありました。

クレーンがない当時の技術を考えると、よくこれだけのものを塔の上にあげたな、と。再現を通して、当時の技術を知ることができて本当に良かったなと思います」

原型製作会社での、水煙の原型製作の様子。3D切削機で製作している(画像提供:高岡市)
原型製作会社での、水煙の原型製作の様子。3D切削機で製作している(画像提供:高岡市)
平和合金での、水煙の鋳型製作風景(画像提供:高岡市)
平和合金での、水煙の鋳型製作風景(画像提供:高岡市)
平和合金での鋳造風景。鋳型に金属を流し込む「鋳込み」のときは、いつも薬師寺の僧侶の方々が読経を行っていた(画像提供:高岡市)
平和合金での鋳造風景。鋳型に金属を流し込む「鋳込み」のときは、いつも薬師寺の僧侶の方々が読経を行っていた(画像提供:高岡市)

ベテランたちをうならせた未知の領域

藤田さんの語った「再現」という言葉は、実は修理のキーポイント。

1300年前と同じ製法を使うわけではなく、かといって、今の技術でただ単に形を似せた新しいものを造るというわけでもありませんでした。

なぜなら、今回の大修理では相輪の部品全てを新調するのではなく、現存する1300年前からの他のパーツをそのまま残して使う部分もあるからです。

つまり、新調する部分も現存部分となじむような、「1300年後の今」の姿を再現しなければならない、というミッション。

まず形状は、1300年の間で微妙に反り返っていたり、波を打っていたりする姿を再現しなければなりません。

その難しさを、梶原社長はこう説明します。

「1300年の時間を経た姿を造る。歪みも再現するんです。そういうものは3Dの最新の技術でデータをとって、原型を製作しました。こうした現代の技術がないと、今回の事業もなかなかできなかったと思います」

富山県総合デザインセンターの設備を使って、「擦管」のオリジナルを3Dスキャン(画像提供:高岡市)
富山県総合デザインセンターの設備を使って、「擦管」のオリジナルを3Dスキャン(画像提供:高岡市)

「再現」は見た目の姿だけでなく、材料となる銅合金の配合についてもそうでした。次の100年後、200年後に、修理した部分だけが違う見た目になってしまうようなことを避けるためです。

「型を作って、金属を溶かし、鋳型に流し込むという鋳造の基本プロセスは、昔も今も変わりがないんです。でも、銅合金の配合が、我々が今使っているものと、全く異なっていました」

何かの配合が違うだけで、結果が全て変わる

「まず、純銅の割合が非常に高い。我々が通常使う銅合金の銅の割合は86〜87パーセントなのに対して、93.6パーセント。そこに通常合わせる錫・亜鉛・鉛の割合も、極端に低かったり。もう1つ大きな違いは、通常我々が使わないヒ素が2.4パーセント含まれていたことです」

擦管の鋳型(画像提供:高岡市)
擦管の鋳型(画像提供:高岡市)
老子製作所での擦管鋳造の様子(画像提供:高岡市)
老子製作所での擦管鋳造の様子(画像提供:高岡市)

「鋳造では、何かの配合が数パーセント違うだけで、粘りや硬さ、強さ、収縮率などが全部変わってしまうんですよ。収縮率が変わるということは、いつもの銅合金と同じように鋳造してしまうと国宝のサイズが変わってしまうということですからね。

もう、原型の段階からすべてが未知でした。我々が溶解したことのない材料だから、溶解温度に達するときの金属の様子がどう通常と違うのかわからなくて、不安でしたよ」

梵鐘と同じ最古の鋳造法を用いて作られたもの

原型完成後は、溶かした金属をそこに流し込む鋳造の工程。ここでは、化学反応を応用する最新の「ガス型鋳造法」と呼ばれるものから、梵鐘の製作などで使われる、もっとも古い「双型鋳造法」と呼ばれるものまで、新旧の様々な技法が用いられました。

この双型鋳造法を用いて作られたものの1つ、「九輪 (くりん) 」。

九輪の鋳造風景(老子製作所)(画像提供:高岡市)
九輪の鋳造風景(老子製作所)(画像提供:高岡市)
九輪の着色工程。細部を金箔で表現している(画像提供:高岡市)
九輪の着色工程。細部を金箔で表現している(画像提供:高岡市)

担当したのは、梵鐘製作を主力事業とする老子製作所です。

「1300年前にも使われていた双型鋳造法を、うちの会社では今も日常業務のなかで行っています。

火鉢や梵鐘といった円筒型や円錐型のものを作るのに必要な作り方で、うちではこの工法で、普段は梵鐘を作っています。全く同じやり方で、今回の仕事ができたのは誇らしいです」(元井社長)

老子製作所の工場内にて。社長の隣にあるのは梵鐘の中子(なかご)と呼ばれるもので、外の型の中に入れ、肉厚を出すためのもの。外の型と中子を組み合わせてできる隙間に金属を流し込んで梵鐘を造る。社長が指差す刃物のようなものは、梵鐘の形にあわせて中子を成型するための引き型
老子製作所の工場内にて。社長の隣にあるのは梵鐘の中子(なかご)と呼ばれるもので、外の型の中に入れ、肉厚を出すためのもの。外の型と中子を組み合わせてできる隙間に金属を流し込んで梵鐘を造る。社長が指差す刃物のようなものは、梵鐘の形にあわせて中子を成型するための引き型

1300年分の色の再現は、金属の心まかせ

1300年前のものを再現するために行った挑戦のなかでも、「一番難しかった」と梶原社長が振り返るのが、着色です。

相輪はもともと、鍍金技術により金色に光っていました。それが長い年月を経て金が剥がれ、その金の痕跡が残りながらも、下の銅合金が露出している状態。それがまた時間とともに様々な色合いを醸していました。

「人がつけた色じゃないんですよね。1300年かけて、金属が自分で作った色を再現するわけです。『着色』といいますが、金属が自ら発色するためのお手伝いをして、あとは金属の心まかせなんです」

ちなみに銅器の「着色」とは、古くから伝わる技法で、さまざまな薬品や溶液を用いて表面に化学反応を起こし、金属から様々な色を引き出すというものです。硫酸銅やアンモニア、鉄くずのほか、食塩や食酢、日本酒、大根おろし、米糠、刈安(すすきの一種)の煮汁など、実に多様な材料が使われます。

着色見本。鋳造法と同様に、着色の技術も長い年月の試行錯誤から多くの技法が生まれており、高岡でも伝統的な技法だけでなく、それらを応用した各社オリジナルの最新技法も多く存在する(画像提供:高岡市)
着色見本。鋳造法と同様に、着色の技術も長い年月の試行錯誤から多くの技法が生まれており、高岡でも伝統的な技法だけでなく、それらを応用した各社オリジナルの最新技法も多く存在する(画像提供:高岡市)

「茶色を塗ったら茶色になる、という作業ではないんです。同じ薬品や溶液を持っていっても、金属の素材の成分、湿度や温度で違う発色の仕方をします。また、その場ですぐに色が出るのではなく、薬品や溶液が乾くときに反応して色が分かるんです。完全に、素材まかせというわけです」

加えて、再現しなければならない実物は、経年変化によって色の出方もまだらです。緑の部分があったり、白みがかった部分があったり、青くなっている部分があったり。それが水煙1枚だけでも、高さ2メートルという大きさに渡って、それを再現しなければなりません。

しかも、実物は国宝のため門外不出。横に置いて見比べながら作業することもできませんでした。

「何回も実物を見に行きましたよ。ここはもうちょっと白い、ここの雰囲気はちょっと違う気がする、など何度も話しながら作業して。こうなると、化学よりも経験値がものを言うんです」

水煙の着色風景。オリジナルの写真を参考に細部の色を調整(画像提供:高岡市)
水煙の着色風景。オリジナルの写真を参考に細部の色を調整(画像提供:高岡市)

着色させた後も、薬品が相輪の別の部分に沁みていかないよう、数日雨ざらしにして薬品を抜く作業も。

「直前まで、できることはすべてやろうと努力しました」

過去の経験を駆使しても、「やってみないとわからない」ことの連続。試行錯誤の繰り返しで少しずつ、修理は進んでいきました。

完成した水煙(南北)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(南北)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(東西)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(東西)(画像提供:高岡市)
経年劣化の雰囲気もよく再現されている
経年劣化の雰囲気もよく再現されている

15社が“喧嘩”しながら協働

「新しいものを作ることは誰でもできる。でも、1300年前のものを今の姿と同じように鋳造して、同じような色をつけて、元あったところに馴染むように戻せるのは、たぶん高岡でしかできません」

事業を振り返り、老子製作所の元井社長はこう語ります。

高岡では、特に量産化が進んだ昭和初期ごろから、原型製作から着色までの工程がそれぞれ分業して発達してきました。

それによって、「この色はこの人にしか出せない」「これをやるならあの人に頼もう」といった具合に、それぞれに特化した技とプライドが磨かれてきました。

「良い着色をするためには、良い仕上げを。良い仕上げのためには、良い鋳物を。そんな具合に連携が必要になるなかで、職人のプライドというか、プロ根性が出てくるわけです。

たとえば、1つの仕上げ屋さんに、いろんな鋳物屋さんから仕上げの仕事が来るから、他の鋳物屋さんの仕事と比べられる。それでもし『あそこの鋳物は汚い』と言われたら、ものすごく恥ずかしいでしょ。そのプライドが職人を育てていく。そうやって、プロ集団になってきたんです」

と語るのは梶原社長。

今回は15社が心と力をあわせての取り組み。1社につき何人も職人が関わっているので、総勢で関わった高岡の関係者は何百人にもなる計算です。

「だからこういう、たくさん挑戦が必要になる仕事は、終わったら面白い。でもね、終わるまでは喧嘩ですよ。職人の世界というのは、そういうもの」

喧嘩しながらも数多くの未知の領域に挑み、成果を上げられたのも、各社、各職人の知恵や技の経験値を集められたから。

「この事業をやる上で、いろんなところの知恵を出し合いましたよ。各社が持っているいろんな成功例、失敗例を教えてもらうというのがとても大事で、そういう引き出しが高岡にはあるんです」

「心が入っていますね」の一言に

そして最後の納品を迎えた2019年1月29日。

ぎりぎりまで色の調整を重ねて新調した水煙を一目見たときの、薬師寺の方からの一言が、それまでずっと張りつめていた梶原社長の心を緩ませました。

「心が入っていますね」

「嬉しかったです。ちょっと肩の荷がおりたような気持ちになりました。

それから、『1300年前に作った気持ちも再現されたような気がしました。高岡の職人さんの気持ちも感じます』とね。1年以上格闘していましたからね。そういう意味でも、嬉しかったですね」

高岡で新調された水煙は薬師寺で組み立てられた。左が新調品、右がオリジナルの国宝の水煙(画像提供:高岡市)
高岡で新調された水煙は薬師寺で組み立てられた。左が新調品、右がオリジナルの国宝の水煙(画像提供:高岡市)

その後組合では、今回の大修理事業を経て何十ページもの報告書を作りました。どんな仕事をして、それを何のためにやったかを、すべて書き残すため。

「我々のものづくりの考え方は、何百年もあり続けることを見据えます。だから今回造ったものが何百年後にも、同じように、違和感なく塔の中に溶け込んでいてほしい。そして次に修理や新調をするときに、この報告書を100年後、200年後の人たちに参考にしてもらえるようにしたいのです。

私たちは記録を見ることができなかったから、後世の人たちは見ることができるように」

400年の蓄積を、さらに次の世代へ

原型、鋳造、仕上げ、彫金、着色と、それぞれのプロが、伝統技術を駆使しながらも、一方で3Dなどの最新技術も活かして完成を迎えた今回の事業。

この仕事を通じて、技術を継承していく、ということも梶原社長たちが強く意識したことでした。

「今回の仕事は、我々にとって、平成の職人が今しかできない形で『伝統と革新の融合』をさせたということですね。別の時代には別の伝統と革新の融合があった。高岡の鋳物技術が400年続いてきたのは、いろんな段階で、時代に応じて、新しい技術を導入しながら色んな挑戦をしてきたからだと思うんですよ。

先輩方の努力があって、その恩恵を受けて我々が続けてこれた。そして平成の職人がやってきたことが、次につながる。この仕事は、次世代の高岡の職人に『お前らもチャレンジしろよ』というメッセージでもあると思います。挑戦していかないと、チャンスは増えないし、継承できないと思いますから」

昔から続いてきた技術を「そのまま」守ることのみで継承していくのではなく、伝統技術を守りながらも新しいチャレンジをすることこそが、継承につながるということ。それを実践で示している高岡の職人たち。

「伝統を守るってなんだろう?」という問いに対する1つの答えが、このまちにあるような気がします。

取材協力
株式会社梶原製作所
富山県高岡市横田町3-3-22
http://kajihara-ss.com/

株式会社老子製作所
富山県高岡市戸出栄町47-1
http://www.oigo.jp/

株式会社平和合金
富山県高岡市戸出栄町56-1
http://www.heiwagokin.co.jp/

文:荻布裕子
写真:浅見杳太郎、荻布裕子、高岡市、薬師寺

*こちらは、2019年8月30日の記事を再編集して公開いたしました。

イスラエル出身、45歳でデビューした職人が夢中になる「言葉より結果」の世界

「今の会社、すぐに辞めなさい。日本一の会社を紹介するから」

イスラエルから日本の地方都市・高岡へやってきて20年。

それは、地場産業でもある鋳物 (いもの) の工場で派遣社員として働いていた、ある日の休日でした。

男性は近くの山のドライブコースに佇む、大きな鐘の下にいました。それは伝統的な高岡銅器の技術で造られた、全国でも有数の大梵鐘。

そこで出会った60代半ばの男性の一言をきっかけに、彼の人生は大きく変わることに。これは、遠い異国の地からやってきて日本の職人になった、1人の男性のお話です。

鍼灸がつないだ高岡との縁

男性の名は、エラン・フィンクさん。イスラエル出身の彼が奥さんの生まれ故郷である富山県高岡市に来たのは、1999年のことでした。

奥さんとの出会いは中国。お互い同じ学校で鍼灸を学んでいました。

「鍼灸を学んだのは、先に習っていた先輩に勧められて、伝統的な技術や東洋の思想に興味を持ったからでした。中国で習ったあと、母国で9ヶ月ほどクリニックを開いていました」

結婚を機に来日し、高岡で生活をスタート。高岡に来て初めての印象は、市内から見える立山連峰の景色の素晴らしさでした。

「高岡に来てもう20年になりますが、たまの好天時に、真っ白な雪の映える立山連峰が本当にきれいで。毎年見ても、飽きないですね。

海、魚、食べ物も最高だし、文化や人も面白い。日本は食も文化も多様なのが、魅力的だなと思います」

エラン・フィンクさん

鍼灸がつないだ二人の縁、そして高岡との縁。奥さんは今も鍼灸師ですが、エランさんは来日を機に別の道を歩むことになります。

「日本の法令では、国内の大学を卒業しないと鍼灸の仕事ができなかったんです。でも、それでよかったと今では思っています。

イスラエルでやっていたクリニックは患者さんもいっぱいいたのですが、一人一人、生身の体に向き合うのは日々とてもハードで。自分の性には合っていないように感じはじめていたんです」

鍼灸師の道を諦めたエランさんは、高岡で出来る仕事を探しました。最初はコンクリートを扱う土木工事。それから、自分のお店として飲食店を10年間。その後お店もたたみ、派遣社員として鉄鋳物の工場で働いていたとき、運命の日は訪れたのです。

突然誘われた“日本一の会社”とは

冒頭の大梵鐘の下で出会った60代半ばの男性は、水上さん。高岡を代表する鋳物メーカーのひとつ「梶原製作所」を引退したばかりのベテラン職人でした。

鋳物は、溶かした金属を型に流し込み、冷やし固めて仕上げる「鋳造 (ちゅうぞう) 」によって作られます。

鋳物の街・高岡の中でも1902年 (明治35年) 創業の梶原製作所は、大きな仏像やモニュメントなど大型の一点物を得意とし、企画デザインから設計、制作、施工、設置まで一貫して行う鋳造所。

国宝・文化財などの修復も手がけており、製作した物は国内外各地に設置されています。

「それまでいた鉄鋳物の工場は、生産ラインで同じものを繰り返し作るタイプのところでした。

水上さんは僕に仕事の話を尋ねた後、すぐどこかへ電話し始めたんです」

電話の相手は、梶原製作所社長、梶原壽治さん。

その場で水上さんは約束を取り付け、なんと翌週には面接することに。突然の電話を受けた梶原社長は当時を振り返り、こう言います。

梶原社長

「それまでは日本人としか仕事をしたことがなくて。言葉の問題もありますし、最初話を聞いたときには正直、『勘弁してくれ。俺に何の話をしとるんや』と思いましたね」

それでも「とにかく一回会ってくれ」という水上さんに根負け。しぶしぶ会ってみると、当時すでに日本語はペラペラだったエランさんとは言葉の障害もなく、梶原社長もすぐにエランさんを気に入りました。

職人になりたい

「最初に会ったときにエランが言った、『職人になりたい』という一言がまず好きだなと思いました。『職人』という言葉を知っていること自体が大きい。

今の日本でも、就職したいという人はいても、『職人になりたい』という言葉が出てくる人は、なかなかいないんじゃないでしょうか」

それから2〜3週間後には梶原製作所に入社したエランさん。「職人になる」という選択に、奥さんも「あなたが幸せならオッケーよ」と、最初からサポートしてくれたといいます。

「職人になりたい」と語った面接時の心境をエランさんに尋ねると、こんな答えが返ってきました。

「やっぱりものづくりが好きなんです。言葉を多く使わず、静かに集中して、良い品物を作り上げるということが魅力で。だから、妥協せずにレベルの高いものを作れるようになろうと、自分に目標を課しました」

実は、お父さんやお兄さんが石の彫刻家だというエランさん。ものづくりが好きなのは、その血を受け継いでいるからなのかもしれません。

毎回自分で考えて新しいものを作る面白さ

原型製作〜鋳型製作〜鋳造〜仕上げ〜着色といった、いくつもの鋳造工程のなかで、エランさんが入社以来担当しているのは、溶かした金属を流し込む鋳型を作る仕事。この型がなくては、鋳物は始まりません。

エランさんが前職で鉄鋳物の工場で鋳型や鋳物砂 (鋳型を作るための砂) の扱いに関わっていたことから、鋳型づくりが一番合うのでは、と梶原社長が見込んで選んだのだそう。

「僕が担当する鋳型製作は、原型をもらって、その凹凸を反対にした『外型』を作る仕事です。

ひとつの原型をどのようなパーツに分けて鋳型にするかなど、考えながら取り組みます。

たとえば人の型で服のシワがあれば、金属を流したあと、凹凸に引っかかって型がうまくばらせません。引っかからないように、『寄せ型』 (抜けにくい部分にはめる小さな鋳型) をどう取り付けるか」

写真中央でエランさんが触れているのが「寄せ型」。後の工程をスムーズにするため、角度なども重要になる

「毎回違う品物を作るので、都度リセットして考えるんです。ここはどうやったらうまくいくか?って、頭をひねるのが楽しいです」

大きな型は砂だけでは弱いので、芯金(しんがね)という太い鉄の骨を作る。鉄骨の強度や砂にひびが入らないようになど、考えることは多い

「ある程度の大きさの像は中を空洞にしますから、空洞にするための『中子 (なかご) 』という型も作ります。できあがりの肉厚を考えながら、砂で作るんです。

鋳型を作るという仕事ひとつ取っても、細かな手作業が多いし、仕事は幅広いです。なので、全然飽きませんね。そういう仕事はなかなか無いですよ」

神様より、自分を信じる

近しい業界で働いていたとはいえ、鋳型づくりという未知の仕事。

エランさんはどうやってその技術を身につけていったのでしょうか。

「答えがないことだから、知らないところはたまに聞くけれど、先輩を邪魔したくないし、なるべく聞かないようにして自分で考えてきました。いちいち聞くと、自分のレベルが上がるのが遅いと思うんです」

「先輩が常に見ているので、たいてい、大きな失敗をしそうになったらすぐ『エラン違う!こうやったほうがいい』とアドバイスをくれる。それで大きいミスは少なく済んでいます。

ミスしたら後の工程が大変だったり、仕上がりが悪かったり、品物に穴が空いてしまったりしますから」

壁にぶつかっても、自ら考えて自分のやり方を積み上げる。一方で誰しもが通りがちな失敗、過去に先人や現場の先輩が経験している失敗は、未然にアドバイスを受けて修正していく。

そんな現場の様子が伝わってきました。

「難しい品物をもらっても、自分が自分を信じればなんでもできる、と思っています。神様より、自分を信じて一生懸命やれば、結果は出ると信じているから。

アドバイスと多少違っていても『ダメ!』と言われていなければ、自分のやり方を貫くことも多いです。それで成功すれば、次に進む。

結果が大事なんです。良い結果を出せば、誰も文句は言わない。だから、ここの職人でも、微妙に違うやり方を持っていますよ」

職人は失敗した経験値 (=引き出し) をたくさん持つことが大事だ、という梶原社長も、「それがエランの引き出しになるから」と見守ります。

「ちょっとしたことで失敗することもあるかもしれないけど、ちょっとしたことで成功する可能性もある。

そういうのが『引き出し』になりますから。もちろん、明らかに失敗することは止めますけどね」

「でも」とエランさんは続けます。

「自信は持ちすぎたらダメね、失敗するから。

特に大きいものは失敗したら、コストが高い。材料も、人件費も。あと、職人としてのプライドも傷つく。誰か失敗したら、みんな覚えてるから」

質と速さのあいだで

梶原製作所にとって初めての、外国出身の職人。その彼を、梶原社長はこう評価します。

「エランは合理的にものづくりに取り組むタイプ。合理性は、他の日本人の職人よりあるかもしれない。

ただ、合理的だから良い仕事になるとは限りません。かけた時間で出来上がったものに微妙な違いが生まれることもある。そのわずかな違いを求める人もいる。ここが難しいところです」

エランさんも、職人として仕事をする上で「質と速さのバランスが大事」だといいます。

「例えば同じ品物を、この人は4日間で仕上げる、あの人は2週間かかる、としたら何かがおかしい。どちらかがおかしいか、そのあいだに正解があるのか。

質も比べてみて、どっちがいいかのバランスを見るのが大事だと思います。自分はちょっと急ぎすぎるクセがあるから、気をつけないと」

これから極めていきたいもの

45歳で職人デビューし、鋳型製作一筋で約5年の経験を積んできたエランさん。今後も他の工程を幅広く経験するよりは、鋳型製作の仕事を極めていきたいといいます。

それに応じ、「鋳物の世界は奥深いからね」と答える梶原社長。

「20年、30年の熟練職人も失敗する。パーフェクトに近づくことはできても、完璧はあり得ない」

梶原社長も文化財などの修復に多数関わるなかで、何百年も前に鋳造されたものに驚嘆することも少なくないそうです。

「たとえば今預かっている800年前の品物も、肉厚がすごく薄くて。『これ、本当に鋳造で作ったんですか?』と。鋳物は薄く作るのが難しいんです。どう再現しようかなと思っているところなんですよ」

同じ現場で働く職人の先輩だけでなく、遠い先人も追うべき背中になる。それは、鋳造が遥か昔から続いてきた技術だからこそ。

エランさんの今後の挑戦も、何か新しいものに対してというよりは、今持つ技術を磨き、深めていきたい、というところにあるようです。

「日本には昔から、1人がひとつのことに集中して、上手になっていくという考え方がありますよね。僕もこれまでの経験を生かして、立派な職人になれたら」

先の工程と出来映えの美しさを思い描きながら、その時々の鋳型と静かな対話を重ねるエランさん。

鋳型製作の”道”を通して自分自身も磨いていこうとしている姿が、とても美しく印象的でした。

取材協力

株式会社梶原製作所
富山県高岡市横田町3-3-22
http://kajihara-ss.com/

文:荻布裕子
写真:浅見杳太郎

浅草寺の提灯、両脇はなぜ銅製? そこには思わぬ理由があった

江戸下町の雰囲気を色濃く残し、外国人観光客からも熱視線を浴びる東京・浅草。

そのランドマークである浅草寺といえば、多くの方は門前の大きな提灯を思い浮かべるのではないでしょうか。

浅草寺の提灯

提灯というと、竹ひごを組み合わせて和紙を貼ったものが一般的。しかしこの両脇の黒い提灯に注目です。

浅草寺の大提灯

こちらは紙でなく、銅で出来ています。見たことある、という人も多いのではないでしょうか。

今日は、この浅草を代表する風景の一部となっている、銅製提灯のお話。

なぜ、中央の赤い大提灯と同じ紙でなく、わざわざ銅製なのか。作り手を訪ねてみると、そこには意外な理由がありました。

作り手は、鋳物のまち高岡に

向かったのは、富山県高岡市。

画像提供:富山県高岡市

歌人・与謝野晶子が「美男」と褒め称えたというまちのシンボル、高岡大仏が迎えてくれます。

三代目とされるこの大仏さまの像は、昭和初期に高岡の鋳造技術を結集して造られたもの。そう、実は高岡は、日本の銅像や銅器の約9割を生産しているとも言われる「鋳物 (いもの)」 のまちなのです。

その歴史は約400年前、高岡の開町にあたり、加賀藩二代藩主・前田利長が高岡に7人の鋳物師を迎え入れ、鋳物産業を奨励したことがその始まり。現在「高岡銅器」は国の伝統的工芸品にも指定されています。

さて高岡の鋳物とひとくちに言っても、小さな部品から巨大な仏像、伝統的な仏具からモダンな生活用品まで、多種多様なメーカーがあります。

あの浅草寺の提灯を手がけたのは、「大型鋳造」を得意とする梶原製作所さんです。

そもそも鋳造って?

浅草寺の銅製提灯を可能にした「鋳造 (ちゅうぞう) 」は、紀元前数百年には日本に伝わっていたとされる歴史の古い技術。

その基本的な方法は、熱を加えてドロドロに溶かした金属を型に流し込み、それを冷やし固めて型から外し、1つの形に仕上げるというものです。

溶けた金属を型に流し込む、ダイナミックな「鋳込み」の作業

「古代ギリシャ人が知っていた芸術作品の複製技術の方法は、ふたつだけであった。鋳造と刻印である」(『複製技術の時代における芸術作品』より)

ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンが言ったように、「鋳造」は古代から人間が行ってきた「複製」「量産」するための営みの1つでした。

高岡でも同じ型のものを複製し量産する鋳物メーカーが多い中、梶原製作所さんは毎回異なる原型作りから行う、一品製作を主としています。

手がけるのは大型の銅像から銘板まで多岐にわたり、浅草寺の提灯だけでなく、川崎大師や高野山金剛峯寺、昭和天皇多摩御陵など、全国いたるところに納められています。

銅製の提灯で、江戸の魚河岸文化を伝え残す

なぜ、銅製の大提灯が誕生したのか?梶原製作所社長の梶原壽治さんに経緯をうかがいました。

社長の梶原壽治さん

「やっぱり提灯というのは、当然『紙』のイメージがありますよね。あの提灯のおもてに書かれている文字も、独特のものです。

江戸文字と言って、大きく書かれる方が今はなかなか少なくなっているらしい。そんな話が、ひとつのきっかけだったかと記憶してます」

「江戸文字」とは、歌舞伎や相撲の番付、落語の寄席などにも見られる、極太で勢いのある独特の書体。これらは実は似ているようで、それぞれ違います。

浅草寺の提灯に使われている江戸文字は、もとは江戸の魚河岸(江戸・東京の食を支えてきた魚市場。17世紀初頭に日本橋〜江戸橋の間に開設され、1935年に築地、2018年に豊洲に移転)だけで使われてきた独特の書体なのだそう。

紙の提灯であれば5〜6年、長くても10年で作り替えなければなりません。

なんとか長く、後世に残せるものにできないか。その挑戦はまず成田山新勝寺の提灯に始まり、そして浅草寺の銅製提灯につながっていったそうです。

紙でしか想定していなかったものを銅に置き換える

「もともと紙でしか想定していなかったサイズのものを金属で造るわけなので、最大の課題は軽量化でした」という梶原社長。

それも普通サイズではなく、およそ3メートルもある大提灯 。銅に置き換わっても違和感がなく、もともとの紙提灯らしい雰囲気を出すにはどうしたらいいか。

「これはこうしたほうが良いですか、こんなことならできますよ」と様々なサンプルを見せながら、知恵を絞り、実現に向けて打ち合わせを重ねていきました。

提灯の製作期間は、約1年。でもそれは決して珍しいことではない、と梶原さんは言います。

400年分の知恵を駆使して

「一品製作」は、毎回が挑戦です。造るものに応じて適切な鋳造法や加工技術を考え抜き、製造していきます。高岡のものづくりは分業制が基本なので、都度他のメーカーや職人と連携し、造り上げていきます。

「高岡には400年分の、伝統工芸の、金工の歴史がありますから。その中に先輩方のいろんな知恵がある。挑戦の度に、難しいことがあると周りの先輩方に『こんなものができますか?力を貸してください』と相談し、連携しながら造っていくのです」

毎回打ち合わせに時間をかけ、1からデザインを決め、原型を造り、鋳造し、研磨・彫金などの仕上げや加工を施し、着色をして、やっと完成。

粘土による原型づくりの工程
原型を元に鋳型 (金属を流し込む型) づくり
鋳造にも様々な方法がある。これはそのうちの一種、「ガス型鋳造法」の鋳型
溶けた金属を型に流し込む、ダイナミックな「鋳込み」の作業
鋳込みにより作られた大きな仏像の蓮華座。溶接による仕上げ作業をしているところ

たとえば10メートルの仏像であれば、原型に半年、パーツごとに分けて鋳造して半年、パーツの組み上げに半年と、それだけでも1年半。「全ての工程で気が抜けません」と梶原社長は言います。

「きれいすぎない」加工で紙のような質感に挑む

1年という期間をかけて完成に至った浅草寺の提灯。

固くて重い金属という素材を、いかに軽くするか。紙や竹素材のような柔らかく軽い質感に見せるか。そんな課題を、梶原さんはどのように解決したのでしょうか?

「たとえば、表面がきれいすぎても不自然でしょ。いわゆるシンメトリーの世界のような美しさよりも、肌がシワシワとしているのが、提灯らしさ。

それで軽さと質感、両方を実現するために、鍛金の技術と鋳造の技術とを併用しました。

鋳造だけだと6〜8ミリくらいと厚くなる。一方で鍛金した銅板を使えば、その部分は薄くできる。

鋳造の部分と鍛金による銅板の部分を組み合わせることで、まず軽量化が実現できました」

さらに、パーツ同士を組み立てる際の溶接痕も、質感を表現するための大事な材料として工夫が凝らされました。

紙のやわらかな質感を出すために、溶接痕の磨きを加減することで、紙がよれたような雰囲気に。また、溶接痕をあえて残し、竹の節に見立てました。

そんな発想や工夫ができるのは、400年間、高岡で先人たちが積み上げてきた、技術と知恵があってこそなのでしょう。

こうして無事に完成した提灯には、梶原製作所の名が刻まれています。次に浅草寺を訪れたら、ぜひこの銅製の提灯を見上げてみてください。

浅草寺の大提灯

東京のランドマークを支える高岡のものづくり。

それは職人たちが知恵と技を競って取り組んできた、挑戦の歴史と言えるかもしれません。

そんな挑戦の伝統は、今も。

400年続く高岡のものづくりに、はるか遠くイスラエルの地から飛び込んだ1人の男性がいます。近日、そんなある職人の、挑戦のお話をお届けします。お楽しみに!

取材協力
株式会社梶原製作所
富山県高岡市横田町3-3-22
http://kajihara-ss.com/

文:荻布裕子
写真:浅見杳太郎、株式会社梶原製作所、浅草寺