生漆の行方 “オール岩手”で育まれた「浄法寺漆器」の佇まい

漆は、樹液である。美しく仕立てられた漆器を手にすると、当たり前であるはずのそんなことを忘れてしまいがちだが、漆器とは椀なら椀の形に削り出した木地、箸なら箸の形の木地に、漆を塗ったものである。

前回は、漆=樹液を採る漆掻き職人の仕事を拝見(前回の記事:漆は甘い、のか)。

樹の辺(傷)からじわりと流れ落ちる様子を見て、漆は樹液であると改めて納得した。今回、気になったのはその先のこと。

天然の樹液である生の漆は、どのようにして漆器になるのだろう。

“オール岩手”で育まれる「浄法寺漆の器」

訪れたのは岩手県二戸市浄法寺町にある「滴生舎」。

岩手県二戸市浄法寺町にある「滴生舎」

“浄法寺漆芸の殿堂”と称されるここは、5人の塗師が浄法寺塗を制作する工房であると同時に、その魅力を世に広く発信するため、歴史や文化を紹介しながら、地元塗師の作品を展示販売する店でもある。

浄法寺漆の器が並ぶ店内を通り抜け、奥に進むと工房が。

「これが生の漆です」

樽中には半分ほどの漆が残っていた。
樽中には半分ほどの漆が残っていた。

樽中の漆を見せてくれたのは、塗師の小田島勇さん。この道、20年ほどのベテランだ。

地元・浄法寺町出身の小田島さん
地元・浄法寺町出身の小田島さん

「塗師は、精製業者から漆を仕入れるのが一般的ですが、浄法寺町では漆掻き職人から直接、漆を買い付けます」

同地では地元の漆だけを塗って、漆器をつくることができる──簡単なことのように聞こえるかもしれないが、国内でそんな芸当ができる場所はほかにない。日本一の国産漆の生産量を誇る、ここ浄法寺町以外には。

さらに言えば土台となる木地も岩手県内の木材を使い、岩手に暮らす木地師によってつくられる。

漆の樹を育てるのも、漆を掻くのも。木地をつくり、それに地元産の漆を塗って漆器にするのも──浄法寺漆の器は“オール岩手”で育まれている。

話を元に戻そう。買い付けた漆はどうするのか。

「精製をします。ゴミや樹くずを含んでいるし、成分や粒子の大きさがバラバラですから」

精製には大事な作業が二つある。漆に含まれる水分を飛ばす“クロメ”という作業と、漆の成分を均一化するために行う“ナヤシ”。漆の温度を適度に上げながら、攪拌するように摺り合わせていくことで、粒子の細かい艶やかな漆になるという。

かつては直射日光で温めながら行っていたというこの作業。いまでは機械化されているもののデリケートな生漆ゆえ、気を抜けば、失敗することにもなりかねない。そんな繊細な作業をこなすのも、ここではやはり小田島さんら塗師である。

精製して水分を飛ばすと、漆は黒っぽい色になる
精製して水分を飛ばすと、漆は黒っぽい色になる

精製して水分が飛ぶと、漆は黒っぽく変化。これを素黒目(すぐろめ)というそうだ。ちなみに生の漆は1樽(約18㎏)100万円。精製するとこれが3割ほど減ってしまうというから…。

浄法寺の漆は“透け”が良い

そもそも浄法寺で採れた漆の魅力は?

「印象としては“透け”が良いことでしょうか。木地にダイレクトに塗ったときに木目の透け具合が良く、塗り上がったときの表情にしても透明度の高い仕上がりになる。

色づけには顔料を加えますが、浄法寺の漆は発色度もいいと思います。同じ量の顔料を混ぜても、たとえば、中国産漆は仕上がりが少し黒っぽくなるのに対して、浄法寺産の漆は顔料の色がちゃんと出る。赤なら赤、黒なら黒そのものの色が綺麗に表現できるんです。あくまでも、私の経験上での話ですけどね」

顔料は少し堅め。漆を少しだけ加えて伸ばしながら練り上げる
顔料は少し堅め。漆を少しだけ加えて伸ばしながら練り上げる

たとえば、赤色の漆器に使うのは「本朱」という顔料。これを漆にそのまま加えてもうまく混ざらないため、顔料の粒子を潰すように練ってから混ぜることが必要になるという。これがなかなかの力技。

顔料を練っていたのはこの道8年目の塗師、三角裕美さん
顔料を練っていたのはこの道8年目の塗師、三角裕美さん
滑らかな質感になった顔料を漆に加える
滑らかな質感になった顔料を漆に加える

顔料が滑らかな質感になって、はじめて精製した漆と混ざり合う。ここまでの作業だけでもかなりの手間暇と労力がかかるのが分かる。

一度廃れた、浄法寺の漆器づくり

古くから漆器づくりが行われてきた同地だが、現在、浄法寺塗と呼ばれるものは、昔とは技法が違うらしい。

「いまは下地から上塗りまで漆を使用しますが、江戸の昔からこのあたりでは、豆柿に含まれる“柿渋”を下地に使った簡便なものが主流でした」

「浄法寺歴史民俗資料館」館長の安ヶ平義光さん

そう話すのは「浄法寺歴史民俗資料館」館長の安ヶ平義光さん。

「柿渋を使うことで庶民でも手の届く漆器として親しまれ、重宝されたわけですが、日常使いを目的とするために、さまざまな技法で製作された浄法寺の漆器は、会津や輪島などと比べられて評判を落とした。おまけにプラスチック製品など、より簡便なものが登場するなどして、戦後間もなく浄法寺塗りは絶えてしまったと言われています」

それでもこの地には、ほかにはない素地があった。森には漆の樹々が豊かに茂り、漆のことを知り尽くす漆掻き職人も残っていた。

「昭和50年代になり、改めて浄法寺塗を復興しようという動きが盛んになり、現在の浄法寺塗が誕生。伝統工芸品として今に受け継がれています」

六度の塗り重ねが生み出す、光沢としなやかさ

では、現在の浄法寺塗とはどんなものだろう。

「まずは、木固めといって木地にたっぷり漆を染み込ませます。これは伸縮を防ぎ、防水性のある漆器にするためです。それが終わったら今度は下塗り、中塗り、上塗りへと続きます」と小田島さん。

塗師の小田島勇さん

驚いたのは漆を塗る回数だ。漆を塗ったら、紙やすりで表面を研磨し、また漆を塗って研磨する。この作業を“塗り重ね”というが、これを6回も繰り返す。そもそも、せっかく塗った漆をなぜ、わざわざ削るのか。

左上の丸太を木地師が削って木地をつくり、左下が木固めしたもの。右上が、塗り重ねを返した状態
左上の丸太を木地師が削って木地をつくり、左下が木固めしたもの。右上が、塗り重ねを返した状態

「最初に漆を塗るときには表面にどうしても塗りムラというか、凸凹ができるんです。それをサンドペーパーで削って平らにしながら細かい傷をつける。

漆を塗って固まったら、サンドペーパーで削っていく
漆を塗って固まったら、サンドペーパーで削っていく

すると次に塗る漆の食いつき度が増すわけです。凹凸に漆がぴったりはまるという感じでしょうか。そんな塗り重ねを6回繰り返すことで強くて、しなやかで、美しい漆の層ができるんです」

塗りと研磨を何度も繰り返すことで、しなやかで丈夫な仕上がりに
塗りと研磨を何度も繰り返すことで、しなやかで丈夫な仕上がりに
今年6月、塗師になるため名古屋からやってきた梅山愛子さん
今年6月、塗師になるため名古屋からやってきた梅山愛子さん

ちなみに各工程で使われる漆はそれぞれ違うそうだ。下塗りには固まるのが速い漆を、上塗りにはきめ細かな漆、というように。

「漆は甘い、のか」でもお話したが、一口に漆といっても、その個性は多種多様。固まるスピードが速い漆もあれば、遅い漆もある。粘り気が強いタイプがある一方、柔らかなものもある。樹の個性、採取時期、漆を掻く職人によっても、その質は違うのだ。

使いかけの漆。乾燥しないようぴっちり密閉
使いかけの漆。乾燥しないようぴっちり密閉

「どの漆を好むかは塗師それぞれ。この地では自分の仕事に合った漆を選び、ときには自分好みにブレンドしながら使っています」と小田島さん。

塗師の小田島勇さん

塗って、研磨し、また塗っては研磨する。木固めにはじまり、一つの製品ができあがるまでには最短でも3カ月かかるとか。漆掻き職人に始まった今回の取材を通して改めて思うのは、漆器が高価であることは当然の結果である、ということだ。

暮らしの中に、漆器が“普通”にある風景

浄法寺塗はいたってシンプル。華美な印象ではなく、穏やかで優しい表情の持ち主というほうが近い気がする。

穏やかな表情が印象的
穏やかな表情が印象的

なかでも「滴生舎」の作品は、飾りを施さず、漆の重ね塗りだけで仕上げていく。

「浄法寺塗りはあくまでも日常の器。漆器というと特別なイメージがあるかもしれませんが、僕にしてみたら“なんつことない”ものですよ(笑)。いろんな食器の中の一つであって、日々の暮らしの中に普通にある、そんなものであればいいなと」

持ってみると手にしっくり馴染む
持ってみると手にしっくり馴染む

また、漆器は最後に磨いて仕上げるのが一般的だが、「滴生舎」ではあえて磨かない。見た目はマットでしっとりとした印象。これにも狙いがある。

漆器は最後に磨いて仕上げるのが一般的だが、「滴生舎」ではあえて磨かない

「漆器にツヤを与える最後の仕上げは、皆さんが“使う”ことにあると思っています。漆器は使ってこそ育つもの。使い込んでいるうちにツヤが増していきますから、それもぜひ楽しみにしていただきたい」

椀を持ってみると、思いのほかそれは軽く、手にしっくりと馴染む。

「なんつことないものですよ」──つくり手のそんな言葉を思い出し、漆器のある豊かな日常を思い浮かべた。

<取材協力>
滴生舎
岩手県二戸市浄法寺町御山中前田23-6
0195-38-2511

浄法寺歴史民俗資料館
岩手県二戸市浄法寺町御山久保35
0195−38−3464

岩手県二戸市浄法寺総合支所 漆産業課
http://urushi-joboji.com

文:葛山あかね

写真:廣田達也

漆は甘い、のか

漆は、樹液である。

当たり前のことをと思われるかもしれないが、普段、私たちが目にしたり、手にすることができるのは、すでに漆器という工芸品になったもの。そのものの美しさに魅せられて、漆=原料であることは頭の中からすっぽりと抜け落ちていることが多く、もしかしたら、漆が樹液であることを知らない人だっているかもしれない。

日本において漆とはウルシ科ウルシ属の落葉高木「漆の木」から採れる樹液である。このことに改めて思い至ったのは、とある記事で目にした塗師の言葉。

「漆って、甘いんですよ」

もちろん、漆は食べるものではない。それは分かっている。でも…。漆って本当に甘いのだろうか。漆には香りもあるの? あれ、そもそも漆って何だっけ? そんな単純な思考回路がクルクルと回り出した。

実際、漆ってどういうもので、いかに採取し、いかなる工程で漆器になっていくのだろう。

国産漆の生産量、日本一の二戸市浄法寺へ

向かったのは、岩手県二戸市浄法寺町。浄法寺塗という漆器づくりで名を馳せる漆の里だ。

浄法寺塗が始まったのは平安時代のこと。古刹「天台寺」の僧侶たちが、日々の食事のためにつくったのが最初と言われているが、縄文時代の遺跡から漆を塗った出土品が見つかっているというから、漆との関わりは相当に古いらしい。

そして浄法寺町は、日本で最も国産漆の生産量を誇る地でもある。

国内に流通する漆は何と97〜98%が輸入物。残りの2〜3%が国産であるけれど、そのうちのおよそ7割が浄法寺で生産されている。

浄法寺ブランドの漆を入れる樽
浄法寺ブランドの漆を入れる樽

生産量の多さはもちろん品質にも定評があり、平泉の中尊寺金色堂をはじめ京都の鹿苑寺金閣、栃木の日光東照宮といった国宝や重要文化財の修復にも使用されているほどだ。

今回、訪れたのは町の中心部から車で15分ほどの山中にある、およそ2ヘクタールの漆林。

木々には、漆を掻いた跡が見られる
木々には、漆を掻いた跡が見られる

迎えてくれたのは若き女性の漆掻き職人の長島まどかさん。

埼玉県出身の30歳
埼玉県出身の30歳

9月初旬。林の中には熊よけのラジオと蝉の声。そしてカリカリと樹を削る音だけが響いていた。

ラジオからはFM岩手が流れていた
ラジオからはFM岩手が流れていた

樹を仕立てながら、漆をいただく

簡単に、漆掻きの手順を説明しよう。

まず「カマ」と呼ばれる道具を使い、でこぼことしたと樹幹の表皮を薄くはいで平らにし、

「カンナ」で横一線に細い傷をつけて、樹液を出やすくするために「メサシ」で切り込みを入れたり、入れなかったり。

「カンナ」で横一線に細い傷をつけて、樹液を出やすくするために「メサシ」で切り込みを入れたり、入れなかったり。

漆掻きの手順
簡単そうに見えるが、きれいに細い傷をつけるのは難しい
カンナとメサシ
ちなみにカンナとメサシは1本になっている

そして出てきた漆を「ヘラ」で掻き取り、「タカッポ」と呼ばれる漆樽に入れる。

ヘラで掻き取った漆は「タカッポ」と呼ばれる漆樽へ
ヘラで掻き取った漆はタカッポへ

一連の流れを言葉で追うと、とてもシンプルなように思えるかもしれないが、ことはそう単純ではないらしい。

「カンナで入れる傷のことを『辺』といいますが、前回入れた辺よりも少しだけ長い傷を入れます」

漆の掻き跡
黒い部分は、流れ出た漆が時間を経て酸化したもの

掻き跡を見ると確かに三角形だ。短い辺から始まり、少しずつ長くしているのが分かる。でも最初から長い辺を入れれば、もっと多くの漆が採れるのでは?

「辺を入れるということは、樹にとってはやっぱりストレス。いきなり長い傷をつけちゃうと樹へのダメージが大きくて漆が出なくなったり、最悪の場合は枯れてしまう。少しずつ辺を長くすることで樹に慣れてもらうというか。樹を仕立てながら作業することが大切なんです」

同地の漆掻きは6月〜10月に行われるが、シーズン最初に入れるのは2㎝ほどの辺。これは“目立て”と呼ばれ、「これから漆を採ります」という樹へのメッセージであり、「よろしくお願いします」の挨拶なのだとか。

辺の深さも重要だ。

「表皮を削った内樹皮のあたりに樹液の流れる樹液道がありますが、ちょうどそこにあたるような深さに削ります。深すぎれば幹の中まで傷つけることになり、浅すぎれば漆は出てくれません」

少しずつ出る漆を、丁寧に採っていく

長島さんが掻いた辺からは樹液がじわじわと滲み出てくる。これが生の漆か。艶やかできれいな乳白色。少し粘り気のあるような質感だった。

大切なのは、樹を見ること

漆掻き職人になって今年で3シーズン目に突入した長島さん。今でこそベテランに劣らぬ量の漆を採取する腕前だが、最初から漆が採れたのかというと、答えはノーだ。

漆掻き職人の長島まどかさん

長島さんはかつて熊野の化粧筆職人だった。テレビで文化財修復に使う国産漆が足りないというニュースを見て、「漆を掻く職人になるのも面白そう」と二戸にやってきた。

熟練の漆掻き職人に付いて回り、漆掻きを学んだ。ひと通りの技術を覚えて漆を掻いた。でも、何かが違う。方法も手順も同じ。師匠と同じやり方をしているはずなのに思うように漆が出ないのだ。師匠を見て、また同じように掻いてみた。何度も、何度も。そしてあるとき師匠の目線が常に一点を見つめていることに気がついた。

そうか、樹を見ればいいんだ。

話をしながらも、長島さんは樹から目を離さない
話をしながらも、長島さんは樹から目を離さない

「頭だけで考えてもしようがないというか、漆掻きは“こういうもの”という理論を樹に押しつけてもだめなんだなと。人間の理屈は樹に通用しない。あくまでも樹がメインですから。それが分かってからは樹と相談しながらやっています。もちろん分からないことは師匠に聞きますけど、結局は自分と木との問題なんで。

山に入ったときにはまず、この子(樹)はどういう子なんだろうって考えます。辺を入れて、すぐに漆を出す樹もあれば、出る速度は遅いけれどたっぷりと漆を採らせてくれる樹、パッと出てパッと終わる樹もある。掻くうちに、1本1本の個性が分かるようになって、それぞれの子に合わせた掻き方をしてあげようと心がけるようになりました」

雨の日は掻かない。傷口から雨水が入ると樹が弱ってしまうから。晴れている日でも樹の調子が悪そうなとき(=漆があまり出ない状態)はそっとしておく。調子が良い場合でも、こちらが調子にのって掻き過ぎれば不機嫌になってしまうこともある。

「意外と難しいんです、この子たち(笑)」

採取をはじめて8時間経った本日の収穫量は500g〜600g。

乳白色だった漆は、時間が経つにつれて飴色に変化していく
乳白色だった漆は、時間が経つにつれて飴色に変化していく

「1日1㎏採れればいいところ。今日はまあ、ぼちぼちですね」

“殺し掻き”で、漆林を守り続ける

ちなみに浄法寺地区では、漆掻き職人は漆林の所有者から樹を買い、漆を掻き、最後には伐採して、持ち主に返すというルールになっている。

漆掻きには、伐採せずに同じ幹から繰り返し掻く“養生掻き”と、伐採して新しく出てきた芽を育てて掻く“殺し掻き”がある。前者は漆蝋(漆の実でつくる和ろうそく)づくりも鑑みたやり方で、江戸時代までは同地でもこちらの方法で採られていたが、明治期に入って漆を採ることだけにシフトチェンジ。今でも後者の方法が継承されている。

掻き終わった樹を伐採すると翌年春には新しい芽がたくさん顔を出し、それをまた所有者が大事に育てていく。再び、漆が採れるようになるまでには約15年かかるという。

浄法寺町が日本一の国産漆の生産量を誇るのは、もともと豊かな資源に恵まれていることはもちろん、こうして大事に漆林を守り続けているからなのだ。

「漆を見れば、誰が採ったのかが分かるんです」

浄法寺地区では季節ごとに採れる漆を区別し、管理している。

「同じ樹でも、採る時期によって漆の性質はまったく違いますから」

そう話してくれたのは、岩手県二戸市 浄法寺総合支所 漆産業課の立花幸博さん。

岩手県二戸市 浄法寺総合支所 漆産業課の立花幸博さん
浄法寺漆について、詳しく説明してくれた立花さん

「6月の採り始めから7月中旬くらいを『初辺(初漆)』、8月いっぱいくらいを『盛辺(盛漆)』、そこから終わりまでを『末辺(末漆)』と呼び、漆掻き職人のみならず、漆器に漆を塗る塗師もこれを厳密に区別して使用します。

初辺は乾きが良いとされていますし、盛漆は品質的にも良く、透明感があってツヤが出ますから、漆器の最終仕上げに使用する上塗りに最適とされるなど、時期によって漆の粘度や硬化する速度などが違うんです」

また興味深いのは、掻く職人によっても漆の性質が異なることだ。

掻いた辺から漆がダラダラと流れ落ちる
掻いた辺から漆がダラダラと流れ落ちる

「乾きの早い漆を採る人もいるし、乾きは遅いんだけれども、透明度の高い漆を採るような職人さんもいらっしゃいます。掻き方によってその性質が違うんです。

なぜかと問われると、はっきり言って分かりません。もちろん傷の深さやヘラの使い方といった微妙な違いはあるでしょうけれど、技術がどれだけ漆に影響しているのかは、科学的に証明されていないんです。でも確かにそこには違いがある」

熟練の塗師に聞けば、漆を見て使ってみれば、誰が採ったのかが分かるとか。いやはや、奥深き漆の世界。

果たして、漆は甘いのか。

さて懸案の件。漆は本当に甘いのだろうか。

長島さんに聞いてみると「初辺と末辺じゃあ、香りは確かに違いますね。初辺は青々しいイメージがあるけれど、盛辺から末辺にかけては甘い香りが強くなるような。

味は…食べたことはないですけど(笑)、掻いていたら顔にはねたことがあって、それを嘗めたら、ちょっとだけ甘かったような」

なるほど。採れる時期によって漆の質が変わるように香りや味も変わるのか…。改めて漆は植物であることを実感しながら、意を決する。嘗めてみよう。

ご存知のように漆はかぶれる。ウルシオールという成分が含まれているためだ。

立花さんからは「唇についたら大変なので、舌の上にのせるようにしてください」との声がかかる。唇に少しでも触れようものなら、かぶれて腫れ上がる人もいるらしい。

漆掻き職人の長島まどかさん
「漆掻きを始めたばかりの頃はあちこちかぶれましたね。面白いから写真を撮って両親に送りました(笑)」

掻いたばかりの辺から乳白色の漆がじわり。確かにほのかな甘さを連想させる香りがあった。指にとって嘗めてみた。

漆を指にとって嘗めてみた。

果たして──。

正直、甘くはなかった。強いて言うなら木やナッツを噛んだときのこうばしさを感じ、蜂蜜を連想させる風味が広がった。うん、まずくはない。

その後、舌はピリピリと痺れて一部が焼けて黒っぽくなったけど、数時間後には元通り。幸いそれ以外に症状はなく終了。あくまでも自己責任ゆえ、あしからず。

生の漆はどこへ行くのか

さて、次なる疑問が一つ。生の漆はどのようにして漆器になるのか。立花さんに相談すると

「それなら『滴生舎』にご案内しましょう」

「滴生舎」とは浄法寺漆芸の殿堂と言われる工房だ。実際に、漆塗りの現場を見せてもらうことにした。その模様は次回のお楽しみ。

<取材協力>
岩手県二戸市浄法寺総合支所 漆産業課
http://urushi-joboji.com

文:葛山あかね
写真:廣田達也