「新潟県といえば?」と聞くと必ずと言っていいほど上がる名産が「こしひかり」。
新潟出身の私は、もちろん子どもの頃からずっとお世話になり続けている、新潟自慢の一品です。
新潟県燕三条地域は江戸時代から続く金属加工製品の産地でありながら、実はお米をはじめとした農作物も豊富な土地柄。
2013年からこの地域ではじまった工場見学イベント「燕三条 工場の祭典」に、第1回から農家の皆さんが参加されています。
2016年からはイベントの3本柱として「工場」に加え、農家さんを中心とした「耕場 (こうば) 」と「購入する」の「購場 (こうば) 」が登場。総称して「KOUBA」とも呼ばれています。
今日のお話の主役は、「耕場」のネーミングの張本人であり、「燕三条 工場の祭典」で和洋中の料理を丸ごと一つのコースとして楽しめる前代未聞のパーティーを企画した樋浦幸彦 (ひうら・ゆきひこ) さん。
わずか2000グラムで生まれてきた息子さんのために挑んだ無農薬・自然肥料の米づくりが、家業から全力で逃げいていた青年を、地域の一大イベントを担う大黒柱へと変えていきました。
燕三条を「食」で盛り上げる樋浦さんの奮闘ストーリーに迫ります!
農薬0%・自然肥料100%の米作りに挑戦する27代目当主
突然ですが、今この記事を読まれている皆さんは、どちらにお住まいですか?
地方に生まれ育つと若い頃に「この町を出て、都会に行きたい」という思いが募りやすいもので、実際私も進学を機に一度地元である新潟から上京した一人です。
樋浦さんも学生時代に同じことを思ったそうですが、修行のために新潟県外で暮らした以外は、地元燕で街を盛り上げるべく活動されています。それはなぜか?樋浦さんの足跡もたどりながら、金物加工に留まらない“燕のものづくりの今”を紐解いていきましょう。
樋浦さんが代表を務める「ひうら農場」は、メインの生産物がお米ときゅうり。6ヘクタール (6万平米) にも及ぶ田んぼの米作りは、繁忙期以外樋浦さんがほぼ一人で行っています。
ひうら農場の作るお米は
・一笑 (いっしょう) こしひかり…農薬0%、自然肥料100%使用栽培
・百笑 (ひゃくしょう) こしひかり…農薬30%、自然肥料99%使用栽培
・八百笑 (やおしょう) こしひかり…農薬30%、化学肥料90%使用栽培
の3種類。(2017年8月時点)
米作りは天候に左右され、体力も必要なハードな仕事。それなのにさらに除草剤を撒かずに草むしりを行い、有機肥料をたくさん撒くという手のかかる農法に、なぜチャレンジしているのでしょうか?
そこには、2000年に誕生したお子さんの存在が大きかったそうです。
「息子が生まれた時2,000グラムくらいしかなくて、原因は食べ物なのか、ストレスなのか?何がいけなかったのか嫁さんが悩んでいたんです。じゃあまずは息子を大きく育てることと、同じ悩みを持つ人が減ったらいいなと思って、無農薬栽培に力を入れ、17年続けてきました」
心が折れそうな時もいっぱいあるんですけどね、あっはっはと笑いながら語る樋浦さん。その背景にある、身近な人を大切に思う信念が伝わってきました。
美味しいは難しい、だから楽しい
研修先で勉強したとは言え、無農薬の米作りは苦労の連続。試行錯誤が続きます。
「最初はそんなに雑草も生えなくて『簡単じゃん』と思ったんですけど、3年目~5年目の頃は田んぼ一面が草だらけになって (笑) 。親からは『もうやめれば』って言われて、『来年は大丈夫』って返答するけど草がわーっと生えたり。大分勉強して、7年目くらいにようやく他の田んぼと同じくらいまで草がなくなりました。
今はかなり分かってきたので、ようやく面積を広げたり人にお手伝いも頼めるようになってきましたね」
樋浦さんの作るお米は通常の米作りよりも肥料を多く与えているので、その分甘みや旨味は格別!特に自然肥料を多く使う「百笑こしひかり」や「一笑こしひかり」は、「八百笑こしひかり」の4倍以上の肥料を与えているそうです。
そしてひうら農場もう一つの看板商品が、燕市の特産品でみずみずしさと甘さが特徴のもとまちきゅうり。
「春・夏・秋と3回育てられるので、毎月種屋さんを呼んで9軒あるきゅうり農家合同で勉強しています。種の精査・栽培管理・土作り、この3つがもとまちきゅうりの美味しさの鍵ですね」
1日に多い時で6,000本ものきゅうりを収穫するひうら農場。“アタリ”“ハズレ”が出ないように水やりや温度管理など、育てるのは油断できない作業とのこと。
ただ、毎日畑を見ているからこそ「今きゅうりには何が必要か」がわかるようになるそうです。
「赤ちゃんと一緒で、喋らなくても求めていることがわかるし、難しいからこそ面白いです」
「燕って食の器もあれば中身もあるじゃん」という気づき
地方に生まれ育ち、しかも家業は農業という体力的に厳しく自然相手の大変な仕事。それをニコニコと語る樋浦さんに、農業を継ぐことへの迷いはなかったのでしょうか。
「高校2年まで全力で逃げていました (笑) 。立派なサラリーマンになるか歌手になるかって本気で考えていたくらいで。でもその2年の夏に父親から進路の決定を迫られて、よくよく家の仕事を見てみると、早くから全国に発送していたり先進的な農法にチャレンジしていることを知って。1年間フル回転で考えて、継ぐことを決めたんです」。
そこからは農家の後継ぎを育成する農業大学校に進み、農業街道まっしぐら。
しかも樋浦さんはもとまちきゅうりのブランディングや、味噌屋さんとコラボ商品の開発など、受け継いだ農業をさらに“その先”へ進めています。
「樋浦家が継いできた土地は、もともとは吉田町というエリアで、2006年に燕市と合併しました。地元に貢献したい思いと、吉田町の特産物だった『もとまちきゅうり』が、合併後に燕市の特産として認知されない状況に危機感もあって。生産40周年のタイミングに、ロゴデザインやパッケージを刷新し、ブランディングを行いました」
「燕三条 工場の祭典」との出会い
全力で農家になりたくないと思っていた少年の面影はどこへやら、きゅうりのブランディングを皮切りに、樋浦さんの挑戦は加速していきます。そのステージが「燕三条 工場の祭典」でした。
「初めて『燕三条 工場の祭典』に参加したのが2015年。新米の試食ときゅうり収穫体験をすることは決めていたんですが、開催直前に『やっぱりうちは“工場”じゃないしなぁ。まだ何かできないかな』と考えながら稲刈りをしていたんです。そしたら『あっ、耕すって“こう”って読むじゃないか、“耕す場”で“耕場 (こうば) ”ってどうだろう』と思いついたんです」
実際に「耕場」と銘打って当日を迎えたところ、実行委員会からも「面白い!」と評判になり、そこからはトントン拍子で2016年からは工場と耕場、さらに地場産品が購入できる「購場」も加えた3本柱で打ち出していくことが決まったのでした。
迎えた2016年は、地元の味噌屋さんやシェフなど多くの出会いがあり、それらすべての経験が「燕三条 工場の祭典」で昇華されたそう。
この年のひうら農場は2015年のプログラムに加え、燕市の料理人とコラボしたきゅうり専用ディップBOXを販売。実は私も偶然購入していましたが、6種類ものディップがあり「次はどれできゅうりを食べようか」と、とっても楽しい食体験を満喫しました。
2016年の「燕三条 工場の祭典」でもう一つの樋浦さんの大きな活躍が、レセプションパーティーの開催です。味噌や包丁などものづくりに携わる燕市の若手で「吉田のKOUBAーズ」というチームを結成し、1夜限りのディナーパーティーを開いたのでした。
「洋食器の生産が世界一であったり、きゅうり・トマトの生産は県内トップクラス。燕市は料理の器や食材など、食にまつわるコンテンツが豊富なことに気づき、改めて金物加工だけではない、食も含めた“ものづくりの街”なんだなと思いました。
ある人に『ミラノは工業都市でもあるけど美食の街でもある、スペインのサンセバスチャンは、料理人や農家さんたちなどが食のまちとして盛り上げて、世界的な美食の街として一大観光地になってます。燕市もそうなりますよ!』って言われて、その気になりました(笑)」と樋浦さんは笑います。
先輩、仲間、そして次世代へとつなぐ燕市のものづくり
樋浦さんたちよりも上の世代までは、農家はいいものを作ればちゃんと売れてお客様にも喜んでもらえるから、ものづくりに専念しよう、という意識が強かったと言います。
「でも農家をただ『作り手』で終わらせてしまうのはもったいない。しっかり情報を整えて発信したら、喜んでもらえるんじゃないかなと。
燕三条には工業も農業もものづくりを盛り上げてきた先輩たちがいて、そのおかげで今があるし、同じ志を持った仲間とも出会えていろいろ企画して、広がりを実感しています」
「先祖が代々いい土地を残してくれたことに感謝しているし、だからこそ、次の世代、そしてまたその次の世代につなげられるような、持続可能な農法であったり経営をやっていきたいと思います。
それに自然相手の農家は休みがない仕事。生きるように働いているので、だからこそどうやって日常を楽しむかということに全力ですが、それが『一笑百姓』を謳う僕の生き方です」
お話を伺うほどに早く一面黄金色に輝く田んぼの風景を眺めてみたくなり、そしてお茶碗の中で白く輝く新米と出会いたい!と来たる秋の燕市の田園風景に、思いを馳せずにはいられなくなりました。
<取材協力>
ひうら農場
新潟県燕市吉田本町1064
0256-93-3668
http://hiurafarm.com
文・写真:丸山智子
2016年「燕三条 工場の祭典」写真:樋浦幸彦さん提供
*こちらは、2017年8月23日の記事を再編集して公開しました