世界の芸術を支える陰の立役者、刷毛

こんにちは、さんち編集部の井上麻那巳です。
前々回の記事で日本の伝統画材のいろはを教えてもらった伝統画材ラボ「PIGMENT」の岩泉さん。前回の墨に続き、岩泉さんのご案内で伝統画材の製造現場にお邪魔します。第2回目は日本独特の製法が海外でも評価を得ているという刷毛の工房へ。それでは早速行ってみましょう。

筆・刷毛専門メーカーの株式会社中里へ

今回お世話になるのは京都の筆・刷毛専門メーカーの株式会社中里さん。中里さんの筆はそれぞれの種類ごとに専門の個人の職人さんによって製作されているのですが、今回は唯一の自社工房である、三重県は多気郡(たきぐん)の刷毛製造所にお邪魔してきました。

今日の先生、岩泉さん
今日の先生、岩泉さん

松坂牛で知られる松坂駅から車を走らせること30分。伊勢ともほど近い、田んぼに囲まれたのどかな風景の中に今回の目的地である工房がありました。

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まずは柄の部分から

刷毛づくりは柄の部分からスタートします。材料となるのはマツ科のスプルスという木。細かい木目が美しく、ピアノやバイオリンなど、楽器材としても使われるものだそうです。

「木もスプルスならなんでも良いというわけではなく、柾目(まさめ:木目がまっすぐに通ったもの)のものを使います。板目(いため:木目が平行ではなく山形や筍形のもの)の材料だと歪んでしまったり、割れの原因となってしまう。刷毛としては、実はここがとっても大事なんです」

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面をとった柄の部材
面をとった柄の部材

「なかなか幅の広い材料というのが貴重なんです。サイズによっていきなり金額が上がることがあるんですが、その理由が実はこの柄の材料だったりすることもあるんですよ」

糸を通すための穴を一箇所ずつ開けていきます
糸を通すための穴を一箇所ずつ開けていきます

刷毛の要はやはり原毛

「刷毛の要はやはり毛の部分です。中里では天然の毛であるヤギ、豚、牛、馬、うさぎなどの毛を中心にナイロンの刷毛も製作しています。一概に天然の毛が質が良いとは言い切れず、やはり使う絵の具や表現によってナイロンが適していたり、硬い豚の毛が適していたりと複雑なので、使い手がそれぞれの特性をしっかり理解することが大切です」

原料のヤギの毛
原料のヤギの毛

これらの原料はどこから来ているんですか?

「原料はほとんど中国からです。馬の場合は他の国から取り寄せる場合もありますが、現在はほぼ中国ですね。中里さんは中国へ買い付けに行くこともあるそうです。実は、この状態まで持っていく原毛の処理をする人が今はもう日本にいないという背景もあります」

「原料として、もう日本に入ってこないものもあります。山の馬と書いて山馬(さんば)という、東南アジアにいる大型の鹿なのですが、ワシントン条約でその毛を日本へ輸入することができなくなってしまった。ぼかしたりかすれを引いたりするための刷毛として重宝していたのですが、日本ではもう今出回っているものだけになります。もともと山馬を使用していた、ぼかしやかすれの技法自体がなくなってしまわないように、数年前に山馬の代わりになる刷毛を中里さんと開発しました。それで採用したのが、この黒豚の毛です」

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黒豚の刷毛
黒豚の刷毛

「そのほかにも、例えばヤギなんかは大体の毛が原料として使えるのですが、それに対してイタチの毛は尻尾の、それも真ん中の方の毛しか使えないので手に入りにくく、大変貴重になってきています」

「動物の毛にはとても虫がつきやすいので、原毛の状態から製品となって出荷するまでずっと防虫剤を入れて、虫が入らないように完全密封しています。実は筆や刷毛づくりには防虫剤は必需品なんです」

原毛を刷毛の形へ整えていく

「原毛を見ていただきましたが、やはり天然のものなので、このままの状態では不揃いです。この毛をバリカンと呼ばれる機械に通して長さを揃えていきます。多いときは20回くらい通してまんべんなく長さを揃えていきます」

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「次に、刷毛の形に整えていきます。この作業は35年のベテランさんとその娘さんがふたりで担当されているんですよ。今はちょうどドーサ刷毛というにじみどめの刷毛を作っていますね。水分をたっぷり含めるために厚みを持たせた刷毛です」

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「ふのりを使いながら刷毛の形に整えていきます。ふのりは新潟だとコシを出すためにお蕎麦に練り込んだりもしますね。なぜふのりかと言うと、いちばんは毛を傷めないため。化学のりだと水どけが悪かったり固まりすぎてしまう。あまり硬く仕上げると、結局毛が傷んでしまうのでふのりが一番適しています」

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「使っている途中で毛が抜けてしまわないように、毛をていねいに揃えて、何度も何度もくしを通していきます。その回数は200回にも及ぶそうです。大きい刷毛であればあるほど左手の固定する力が必要であったり、感覚的な判断も多く、この作業は特に職人技ですね」

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娘さんはナイロンの刷毛を作っていました。

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「ナイロンのものも工程はほぼ同じですが、やはり天然の毛の方が扱いは難しいようです。こうして出来上がったものは網の上で自然乾燥していきます」

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柄に毛を挟み込んでいく

「出来上がった柄にこの毛を挟んでいきます。ひとつひとつ手作業で接着剤をつけて挟み込みます」

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この日はちょうどPIGMENTさんから依頼の特注品の一次試作を進めていました。手のひらに収まらないほどの大きな豚毛の刷毛です。

1円玉と比べるとこんな感じ
1円玉と比べるとこんな感じ

こちらの刷毛はある海外の作家さんからのご依頼だそうで、現在職人のみなさんで試行錯誤し改良中とのことでした。ああすれば、こうすればとつくり手のみなさんが意見を出し合う、ひとつひとつ作っていく手作業ならではの光景が印象的でした。

いよいよ仕上げ

「刷毛の形が出来上がったら、この回転するブラシのような機械で、ふのりやホコリなどの余計なものを除去していきます」

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左が作業前、右が作業後。ふわふわになりました
左が作業前、右が作業後。ふわふわになりました

「最後に縫いの作業です。この大きな機械に挟み込んで、ひと針ひと針手で縫っていきます」

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「糸がたるんでいると強度が弱くなるので、しっかりと糸を通していきます」

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「刷毛を使っていて、いちばんいけないのは毛が抜けることです。抜けた毛が作品にくっついてしまうのがいちばんいけない。最後の仕上げではさまざまな道具を使って途中で引っかかっている毛やきちんと固定されていない毛を抜いています」

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「使っているのは刃物ですが、毛を切っているわけではなく除去しています。毛先は刷毛の命ですからね」

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これで刷毛が完成です。驚くことに、ほぼ機械を使わず、人の目と人の手によってすべての工程が行われていました。原料の調達や職人の確保などたくさんの問題を乗り越えて、アーティストたちの作品づくりは守られているようです。

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次回は胡粉と岩絵具の製造現場へお邪魔します。お楽しみに。

伝統画材ラボ PIGMENTの岩泉さんに教えてもらう日本の画材
プロローグ 日本の伝統画材って?

無限の色を持つ、墨


<取材協力>

株式会社 中里
本社
京都府京都市中京区麩屋町通竹屋町上る舟屋町411番地ノ2
075-241-4178
中里筆刷毛製造所
三重県多気郡多気町五佐奈
www.kyoto-nakasato.com

画材ラボ PIGMENT
東京都品川区東品川2-5-5 TERRADA Harbor Oneビル 1F
03-5781-9550
pigment.tokyo

文・写真:井上麻那巳

無限の色を持つ、墨

こんにちは、さんち編集部の井上麻那巳です。
前回の記事で日本の伝統画材のいろはを教えてもらった伝統画材ラボ「PIGMENT」の岩泉さん。今回から3回にわたり、岩泉さんのご案内で伝統画材の製造現場にお邪魔します。第1回目は前回の記事で「無限の色を持つ」と教えてもらった墨。それでは早速行ってみましょう。

奈良で200年余りの歴史を持つ墨運堂へ

向かったのは、奈良市で生まれ200年余りの歴史を持つ墨・書画用品のメーカー、墨運堂。墨運堂は、はじめて墨がつくられてから1300年以上経つという奈良の地で生まれ、現在では液体墨から建築用品や園芸用品まで、幅広く製品開発を行なっています。今回は固形墨の製造を中心に見学させてもらいました。

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墨の原料、スス

「前回のおさらいですが、墨には、大きく分けると2つの種類があります。ひとつは油煙墨(ゆえんぼく)。もうひとつが松煙墨(しょうえんぼく)です。墨のもととなるススの採取方法が違い、油を不完全燃焼させてできたススからは油煙墨、松のチップを燃やしてできたススからつくるのが松煙墨です」。

「こちらが松煙墨をつくるときの原料である松のチップです。3つの種類があり、生木より採取した生松(いきまつ)、伐採後放置された切り株である落松(おちまつ)、伐採後10年から15年経過した松の根を根松(ねまつ)と呼びます」。

落松と根松
落松と根松
生松
生松

「ここではつくられていないのですが、こちらに油煙のデモンストレーションがあります。菜種油などの植物性の油を灯油皿に入れて灯芯(とうしん)に点火し、覆った皿に付着したススを採取します。芯はイ草を用い、芯の太さによっても違った仕上がりのススができます」。

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「余談ですが、みなさんの化粧品に使われるカーボンブラックはこういった油煙や松煙から生まれた植物由来のものです。最近では墨のようななめらかさや濃密な発色をイメージした化粧品も開発されているなんてお話もありますし、そう考えると身近な感じがしてくるでしょう」。

職人による練りは力仕事

練る前のスス
練る前のスス
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「こうして出来上がったススは、膠(にかわ)と練り合わせ、実際の製品の木型に入れていきます。型に入れるのは、大きさにもよりますがおおよそ10分間ぐらい。見ているとわかりますが、墨を練る作業は力仕事。大きな機械を使って練った後で、こうして職人による手や足を使っての仕上げの練りの作業に入ります」。

足も使うんですか!

「そうです。うどんの生地を練るような感じで、棒につかまりながら踏んで練っていきます。それに、墨は冷えると硬くなってしまいますから、型入れの作業中はああやってお尻の下に置いておくんですよ」。

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足を真っ黒にして、一心不乱に作業をしていた職人さんはこの道15年だそう。15年のキャリアがあっても「まだ15年です」と控えめに答えてくれたのが印象的でした。

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実際の練られたてホヤホヤの墨を触らせてもらうと、やわらかくてあったかい。粘土のようなやさしい触り心地でした。

野生の梨の木からつくられる木型

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「木型は主に野生の梨の木でつくられています。梨の木は、木が固くて油が少なくて、木目がきれい。そういったことから梨の木を採用しているのですが、梨の木は植林されていないので、製材屋さんが山に入った時に、見つかったら送ってもらうという契約をしているそうです」。

木型の材料である梨の木
木型の材料である梨の木

「墨運堂さんでは木型も社内でつくられています。細かい図案もひとりの職人さんの手によってひとつひとつ彫られています。そのとき、木目の悪いところは取らず、良いところだけを使う。よく身が詰まった墨ほど、よく見ると木型の木目が移っています。墨の表面は、良い墨を見極めるときのひとつの目安にもなりますね」。

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こんなに細かいものも
こんなに細かいものも

手しごとによる仕上げと乾燥

「一部の墨には釉薬(うわぐすり)を塗って、磨きをかけていきます。ひとつひとつ丁寧に手しごとで仕上げています」。

このブルーの液体が釉薬です
このブルーの液体が釉薬です
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「出来上がった墨の表面の文字や図案に顔料を入れていきます。このように、文字だけのものもあれば細かい絵柄が多く入っているものも多く、その分職人さんの高い技術が求められます」。

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「出来上がった墨はこうして自然乾燥していきます。墨運堂さんには180あまりの種類がありますから、ひとつひとつ棚ごとにラベルをつけて管理されています」。

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1日1組限定、貸し切りの試墨庵

「先ほど180種類と言いましたが、墨はたくさんの種類がありながら、一見しただけでは違いがわかりにくい。そういった使い手のために、墨運堂さんでは試墨(しぼく)するための場所を用意しています。それがこちらの永楽庵です。僕も学生時代は入り浸っていました (笑) 」。

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「この棚の中にひとつひとつ墨が収められ、実際に試してみることができます。紙や硯(すずり)も備えつけていますが、実際には自身の使い慣れた道具を持ち込む人が圧倒的に多い。1日1組限定で貸し切りのため、予約必須ですが、その分ゆっくりじっくりと試墨することができます」。

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ちなみに岩泉さんは墨は何種類ぐらいお持ちなんですか?

「うーん‥‥そうだな、すべてが絵を描くためのものではないけれど、100本くらいかな。やはり、それぞれで色味やにじみ、深みが違うので使い分けています」。

墨だけで100本とはすごいですね。さすがです。やはり墨の世界は奥深いですね。

「墨だけでなく、どの画材も驚くほどの種類があり、手間がかけられています。僕らのお店を通して使い手にしっかり伝えていきたいと思っています」。


次回は三重県にある刷毛の工房へお邪魔します。お楽しみに。

株式会社 墨運堂
奈良市六条 1-5-35
0742-43-0600
boku-undo.co.jp

画材ラボ PIGMENT
東京都品川区東品川2-5-5 TERRADA Harbor Oneビル 1F
03-5781-9550
pigment.tokyo

文・写真:井上麻那巳

伝統画材ラボ PIGMENTの岩泉さんに教えてもらう日本の画材 プロローグ 日本の伝統画材って?

こんにちは、さんち編集部です。
みなさんは、最後に絵を描いたのはいつですか?趣味で毎週末には描いているよ、という方もいれば学生時代の美術の授業が最後、という方もいるのではないでしょうか。全国の作家・アーティストの間で話題の伝統画材ラボが東京・天王洲アイルにあると聞きつけ、早速お邪魔することに。でも、日本の伝統画材ってどんなもの?

天王洲アイルの伝統画材ラボ「PIGMENT(ピグモン)」

伝統画材ラボ PIGMENTは、日本をはじめとするアジアに古来より伝わる4,500色に及ぶ顔料をはじめ、200を超える古墨、50種の膠(にかわ)といった希少かつ良質な画材を取り揃えた画材店。2015年にオープンしました。今までになかった、単なる画材屋さんではなく、画材も販売するけれど知識や技術を提供する「伝統画材ラボ」という形はもちろん、建築家・隈研吾さんによるインテリアデザインも日本だけでなく世界中で話題になりました。取材中も海外からのお客さまがたくさん。

竹の簾(すだれ)をイメージした天井が印象的(写真提供/PIGMENT)
竹の簾(すだれ)をイメージした天井が印象的(写真提供/PIGMENT)

学校の授業で使ったことがあるのは水彩絵の具やボトル入りの墨汁。日本の伝統画材なんて、見たこともさわったこともない!ということで、画材の研究で博士号を取得しPIGMENTの所長を務める岩泉慧(いわいずみけい)さんに日本の伝統画材のいろはを教えてもらうことになりました。教えて、岩泉さん!

今日の先生、岩泉さんです
今日の先生、岩泉さんです

すべての色の源、顔料

お店に入ってまず目に入ってくるのが、4,500色に及ぶ色とりどりの顔料たち。この美しい顔料たちが、実際の絵の具の原料になっていきます。

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「顔料は主に3つの種類に分けられます。うちのお店でいちばん多いのが有機顔料。いわゆる岩絵具と呼ばれるもので、天然の石や陶磁器で使用する釉薬を焼いたものを砕いてつくられます。それに対して合成無機顔料は人工的に作られた色の物質です。金属を酸化させたり、何かと化合させたり。石油系の染料を化学変化で顔料にさせた有機顔料なんかもあります。合成無機顔料でいちばん有名なのは本朱(ほんしゅ)ですね。硫黄と水銀を加工させたもので、水銀朱とも呼ばれるのですが、神社仏閣や仏像などにも使われている、あの朱色です。最後にパール顔料。キラキラと光るもので、よくお化粧品に使われています」

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このグラデーションに並んでいる岩絵具たちは、同じ原料からできているのですか?

「岩絵具はひとつのかたまりを砕いてつくられています。同じ石からできていても、粒子の荒さで分けていて、粒子が大きくなればなるほど色が濃く、小さくなればなるほど色が薄くなっていきます。また、粒子の大きさによって実際の絵の具にした時の質感も変わってきます。特に、天然の石はそのグレード(質)によって色や質感が大きく異なります。同じ粒子の大きさでも、同じ種類でもそれぞれが全然違う。金額も何倍かになったりもしますが、一概にどれが良い悪いではなく、使い手の方が自分の作品にあったものを選んでいかれます」

同じ種類の石からできていてもグレードによって色が全然違う
同じ種類の石からできていてもグレードによって色が全然違う

同じ種類でも、宝石に使われるような質が良いものはキラキラしていますね。

天然の接着剤、膠(にかわ)

次に紹介してもらうのは膠(にかわ)です。えっと、そもそも膠ってなんですか?

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「膠は動物の皮を煮出してつくられる天然の接着剤です。つくり方はいわゆるゼラチンと同じですね。魚やお肉の煮こごりで、あれを乾燥するとこれになる。口に入れても大丈夫ですが、お腹の保証はしません」

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「多く使われているのは牛や豚ですが、地域によって違います。昔はその地域ごとに膠をつくっていたので、山の地域だと熊、鹿、イノシシとか。逆に海の地域だと魚が多いですね。基本的に食べたものの余った皮を膠にします。なので、ヨーロッパだとうさぎが多かったり。変わったところだと使い古したカバンや靴、和太鼓(!)を膠にすることもあり、それはそれで個性のあるものができます」

どんな風に使うのでしょう?

「画材としては、顔料と混ぜて日本画の絵の具をつくります。絵の具は今ではチューブが当たり前のように流通していますが、本来的には絵の具は油絵の具にしても何にしても自分でつくっていました。ダヴィンチもミケランジェロも、大理石の板の上で顔料を混ぜて自分たちの色をつくっていた。そこに各工房のレシピがオリジナルであったので、同じ顔料でもそれぞれの個性のある絵の具ができたのです。チューブの絵の具ができたのは産業革命以降です。だからといってチューブの絵の具がダメだという話ではなくて、あれができたおかげで印象派の人が外で描けるようになった。チューブがなかったら印象派は生まれなかったともいえます」

ラピスラズリを好んで使ったというフェルメール・ブルーも、そうやって大理石の上で生まれたのですね。

「また、固形の墨には必ず膠が使われています。墨は硯(すずり)でするので、水に溶けなきゃいけない。他の人口的な接着剤では無理なんですね。だからといって他のものだとあの形に固められない。そのふたつの条件を満たすのが、唯一膠だけなのです」

一度溶かした膠は冷蔵庫で冷やし、また湯煎で溶かして使います
一度溶かした膠は冷蔵庫で冷やし、また湯煎で溶かして使います

画材以外の使われ方もあるのですか?

「今だと様々な接着剤があるけれど、昔は強い接着剤といえば膠だったので、大工さんや家具屋さんなど幅広く使われていたそうです。ヴァイオリンの製作には今でも膠が欠かせません。ヴァイオリンは、とりわけ質の良いものになればなるほどメンテナンスすることが前提。なので、いつか剥がさなきゃいけない。その時にボンドを使っているとうまく剥がれなかったり、板についたボンドを無理に削ると痛んで音色が変わってしまう。対して膠で接着していると、お湯で溶かして剥がすことができるので、木を痛めずに修理ができます」

水溶性であること。それが膠の弱点でもあり、長所でもあるのですね。

無限の色を持つ、墨

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「ところで井上さん、墨の色って何色ですか?」
黒…ですかね。
「そう。そう思いますよね。でもね、ただの黒じゃないんです」

「中国の古い言葉で “墨には五彩がある” という言葉があります。これは5色という意味ではなくて、無限にいろんな色が出せるという意味なのです。そのこころを科学的な視点も合わせてお話していきますね」

「墨には、大きく分けると2つの種類があります。ひとつは油煙墨(ゆえんぼく)。もうひとつが松煙墨(しょうえんぼく)です。このふたつはススの採取方法が違って、油を不完全燃焼させてできたススからは油煙墨、松のチップを燃やしてできたススを集めてつくるのが松煙墨です。それぞれ油煙墨が茶墨(ちゃぼく)、松煙墨が青墨(せいぼく)とも呼ばれるように、色が違います。ススの特性で、粒子が細かいほど赤っぽく、逆に粒子が大きくなると青っぽく見える。なので、油煙墨の方が粒子が細かいというわけです。試してみましょう」(もちろん例外もあります)

こちらが油煙墨
こちらが油煙墨
こちらが松煙墨
こちらが松煙墨

実際にそれぞれの墨を試してみると、色が全然違う。この違いが粒子の大きさで生まれた違いなのですね。

「それぞれの方法で採取したススを先ほどの膠と混ぜて墨をつくっていくわけですが、膠はタンパク質なので、食べものと同じように劣化していきます。つくったばかりの墨は、粒子同志がくっついている状態だったものを膠がひとつひとつの粒子を引き剥がしてくれている状態なのですが、それが劣化してくっつき始めると、しだいに粒子が大きくなり、すなわちそれが色が変化を生みます。墨屋さんは、きちんとしたものに限りますが、墨を100年持つように設計してつくっています。100年後にこの墨がどんな色を出すのか、そこまで想定してつくっているのですね。ワインと同じように、寝かせ方ひとつで色が変わる。そこがまたおもしろい」

硯(すずり)と墨の切っても切り離せない関係

「墨には切っても切り離せない重要な道具があります。硯(すずり)です。」
そう言って見せてもらったのはたくさんの硯の原石。こんなに種類があるんですね。

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「硯は墨にとってヤスリの役目を果たします。同じ1本の墨でも、硯の目の細かさで、磨(す)った墨の感じが全然違ってきます。また、同じ石の種類でできた硯でも、天然の石を使っているのでそれぞれ個体差がありますね。硯選びは墨を扱うときにはとても重要です」

意識したことはありませんでしたが、硯もこう見ると美しいですね。

「墨とか硯は中国が発祥なのですが、もともとは字を書くための道具です。当時、字を書くことができるのは一部の特権階級の人たちだけでした。字を書く道具を持ってること自体がステータスになる時代ですね。そういった背景から、装飾としての彫り物がある硯ができたり、石の模様にこだわるようにもなりました」

たかが水、されど水

「墨にとってもうひとつ重要な要素が、水です。たかが水ですが、水ひとつで墨が変わります。ちょっと試してみてください」

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同じ墨と硯を使って、硬水と軟水、それぞれ磨ってみます。硬水の方は、カリカリと音がして、削れているような感触。軟水の方はヌルッとなめらかな感触です。

「そうなんです。ここでも膠の特徴が影響していて、硬水にはあまり膠が溶け出さない、浸透しないのでガリガリと粒子が立った墨ができあがります。濃い色がはっきりと強く出る反面、薄い色だとすすけた感じになります。それに対して軟水には膠が溶け出しやすく、潤滑油になる。硯とのあたりが柔らかくなり、出来てくる粒子もなめらかです。濃い色はあまり強く出ない代わりに、やわらかく、薄くしていくと透明感のある綺麗な色が出てきます」

「こういったところから、水は文化にも影響を与えました。墨を使って絵を描いていた作家たちは、どういう絵にしようか、色を見て描いていた。中国でも硬水の地域に住んでいた作家は力強い印象の水墨画を描き、湖のほとりに住んでいた作家はやわらかい作品を残すようになった。日本も軟水なのでやわらかい作品が多いです。水ひとつが文化に大きく影響しているとも言えます。」

「これは料理の世界でも同じで、日本でお出汁の文化が発達した理由もそこにあります。実は、同じ日本でも水質は違うのですよ。これは東京と京都を行き来しはじめて改めて実感したことなのですが、関西の方が若干軟水です。昆布だしを綺麗にとって、その旨味を殺さないように薄口の醤油で味をつける。そうして京料理が生まれたのではないでしょうか」

水は文化を考えて行く上で実は結構重要な課題なのですね。

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「墨は、ススと膠という単純な組み合わせでできているけれど、条件ひとつで色が変わる、とてもデリケートな画材です。色を出すまでにいろんな要素が関わってくるので、無限の色、五彩があるといわれるようになりました。古代からたくさんの作家たちが、単なる絵の具の黒ではない墨の奥深さに魅せられてきました」


岩泉さん、ありがとうございました。はじめてのことばかりで、とっても勉強になりました。

「せっかく “さんち” ですから、もしよかったらそれぞれのつくり手さんのところに行ってみませんか?顔料と、墨と、日本で特に発達しているといわれている筆・刷毛もぜひ見てもらいたい。ご案内しましょう」

ぜひぜひお言葉に甘えて。ということで、次回はそれぞれの工房へお邪魔することに。日本の伝統画材たちが現代でどのように生まれているのか、とても楽しみです。

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文・写真:井上麻那巳