「魔鏡」をローマ法王に献上した、京都の鏡師

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は日本で唯一「魔鏡」を手づくりできるという、京都の鏡師のお話をお届けします。

「魔鏡」の作り方を今に伝える、山本合金製作所

2017年の冬、江戸時代のキリシタン弾圧を題材にした遠藤周作の小説『沈黙』を題材にした映画『沈黙サイレンス』が公開された。

京都の下京区に工房を構え、伊勢神宮、伏見稲荷など全国の神社や寺に納める青銅の鏡「和鏡」を製作する山本合金製作所の五代目鏡師、山本晃久さんに「映画、観ましたか?」と尋ねると、はい、と頷いた。

「やっぱり、観に行かなきゃと思って」

山本合金製作所 五代目鏡師 山本晃久さん
山本合金製作所 五代目鏡師 山本晃久さん

隠れキリシタンが使っていた「魔鏡」とは

江戸末期の1866年に創業された山本合金製作所は、和鏡のほかに「魔鏡」も製作していることで知られる。山本さんによると、いま日本で魔鏡を手づくりできる技術を持っているのは山本合金製作所だけだ。

「魔鏡」とはなにか?辞書を引くと「鏡面を見ると普通の鏡と変わりないが、太陽光線の反射光を当てて投影すると、裏側に鋳造されている経文や仏像などが写し出されるもの」(大辞林 第三版より抜粋)とある。

魔鏡は中国で紀元前1世紀ごろから作られており、3世紀ごろ、中国から邪馬台国の卑弥呼に与えられたとされる「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう/さんかくぶちしんじゅうきょう)」も魔鏡現象を起こすことがわかっている。

鏡に光を当てる
鏡に光を当てる
反射した光を投影すると鏡の裏面の文様が浮かび上がる
反射した光を投影すると鏡の裏面の文様が浮かび上がる

この技術が日本にいつ、どう伝わり、広まったのかは謎に包まれているそうだが、江戸時代、忽然とその姿を現す。江戸幕府の禁教令下で、隠れキリシタンが魔鏡を使用していたのだ。

鏡の裏面にキリストが描かれ、表面に光を当てると反射光でキリストが投影される魔鏡を使って、人目を忍んで祈りをささげていたのだろう。魔鏡の所有者は、裏面のキリストが見えないように、差しさわりのない柄のフタをかぶせていたそうだ。

山本さんは、無形文化財にも指定された三代目の祖父、山本眞治さん(屋号:凰龍)や自身が手掛けた魔鏡が置かれている工房のガラスケースを見ながら、こう語った。

「映画に魔鏡は出てきませんが、映画を観ていて、その頃、どういう思いで魔鏡を作っていたのかを考えました。誰かに見られたらまずいという危険な状況のわけですよね。きっと、自分の技術を求める人がいるなら、その思いに応えて拠り所になるものを作ろうというのが当時の職人だったんじゃないかな。もちろん稼ぐ、生活していくというのは重要ですけど、僕も職人としていかに自分の技術で社会と関わるか、必要とされるかというのが大切だと思っています」

時給に惹かれてアルバイト

1975年、京都に生まれた山本さんは、子どもの頃、親がどんな仕事をしているのかほとんど知らなかった。高校生のとき、進路を考えるようになってはじめて親の職業を意識したと聞いて驚いた。

「工房とは別の場所に家があったので、そんなに現場を見ることがなかったんですよね。その頃は仕事が忙しかったから父親の帰りも遅かったし、そもそも家で仕事の話をしないので。跡継ぎの話をされたこともありません」

京都下京区にある山本合金製作所の工房
京都下京区にある山本合金製作所の工房

進学した大学は文学部で、日々を楽しむことに真剣な、どこにでもいる若者だった。山本さんは飲食店の厨房でアルバイトをしていたが、ある日、四代目の父親から魅力的なオファーを受けた。「いま働いてるとこより50円多くだしたるから、うちこいよ」。しかも、時間に余裕があるときにくればいいという。

時給が50円高く、勤務時間も自由となれば、かなりの好条件。山本さんは午後、京都市南区にある工場に顔を出し、夜は飲食店で働くようになった。山本合金製作所では、鏡のほかに仏具金物も生産している。最初の仕事は、職人さんに手順を教えてもらいながら、小さな仏具金物の鋳型を作ることだった。

高校時代まで全く興味のなかった親の仕事だが、いざ始めてみると熱中した。

「職人って、ルーティンワークじゃないですか。僕、同じ作業を繰り返しながら、自分で考えたり工夫したりして、精度が上がったり、スピードが速くなることに喜びを感じるんですよね。逆に、少しでも雑にやると、それも顕著にわかるし、自分がすべてコントロールできるわけじゃなくて、努力したからってすべてが報われる訳じゃないというスリルもある。それが面白かった」

工房の様子
工房の様子

父は言った。「それでええんちゃう?」

「うちの仕事の基礎の基礎」という鋳型作りにやりがいを感じた山本氏は、飲食店でのアルバイトと掛け持ちを続けた。そうして1年、2年と経ち、就職活動の時期になるとほかの学生と同じように企業説明会に足を運ぶようになったが、間もなく気づいた。

「自分がやりたいと思う仕事がない」

しばらく思い悩んだ末に出した結論は、「せっかく家の仕事が面白いと思うんだから、家の仕事をやろうかな」だった。アルバイトとして楽しめるということと、生業にするのは別の話だ。五代目として、跡を継ぐという覚悟も必要になる。なにが山本さんの背中を押したのか?

「3年もアルバイトをしていると、最初のころより明らかに仕事が減ってるなってわかるんですよ。でも僕は、食べられるぐらいの稼ぎがあればいいやと思っていたし、世の中に絶対安泰の仕事なんてありませんよね。ここで働きたいと思える企業がないなら、自分が唯一面白いと思える仕事をやりたかった」

山本さんの作業場。非常にコンパクト
山本さんの作業場。非常にコンパクト

腹をくくり、両親に「卒業してもここで仕事を続けたい」と伝えると、もともと飄々としている父、四代目の富士夫さんは「それやったら、それでええんちゃう?」とあっさり受け入れてくれたという。

大学卒業後、フルタイムの職人になった山本さんは、アルバイト時代と同じく、工場で仏具金物の鋳型を作っていた。そうして6年が経ったころ、祖父から「そろそろ鏡の仕事を教えたいからこっちきてくれ」と言われて、下京区の工房に通い始めた。

数か月間、毎日「炭研ぎ」

和鏡がどう作られるのか、知っている人は少ないだろう。その手順を解説する。

・鋳造/砂を固めた「型」に「ヘラ」という道具を使って模様を入れる。山本さんの工房には、初代から受け継がれてきた先端の形が違うヘラが200本ある。

直径20センチの鏡で、すべての模様を完成させるまでに2、3ヵ月かかる。その後、型を焼く。これが鋳型になる。工場の炉で合金を溶かし、鋳型に流し込む。30分ほどで固まった合金を取り出す。

ヘラで文様を入れた状態
ヘラで文様を入れた状態
初代の頃から増え続け、200本以上あるヘラ
初代の頃から増え続け、200本以上あるヘラ

・削り/合金の表面をやすりで削る。やすりで削った後に線が残るので、カンナに似た「セン」という道具でさらに削る。「セン」は3種類あり、カーブの強いものからフラットに近いものの順に使用する。

焼きあがった状態の合金。まだ鏡にみえない
焼きあがった状態の合金。まだ鏡にみえない
3種類の「せん」で削っている様子
3種類の「せん」で削っている様子

・研ぎ/ムラを消すために、砥石で研ぐ。その後、最後の仕上げとして、朴炭(ほうずみ)と駿河炭(するがずみ)を使ってさらに研ぐ。これを「炭研ぎ」という。ていねいに炭研ぎすることによって滑らかできめ細かい鏡面になる。

指導役の祖父から最初に任されたのが、最終段階の「炭研ぎ」だった。ほかの作業は一切なく、毎日、毎日、1日中、ひたすら鏡面を炭で研ぎ続けた。ルーティンワークを苦にしない山本さんも、「さすがに面白くないな」と感じていたそうだ。しかしいま思えば、この単純作業はテストだったのでは、と振り返る。

「なんでこれをやらされているのかがよくわからなくて、ほかのことももっと教えてほしいと思っていました。でも祖父はきっと、この単純作業をいかに丁寧に、気持ちを込めてするかを見ていたんじゃないかと思うんです。仕上げの仕事を中途半端にしかできないようなら、他の作業を教えても中途半端になるだろうと。祖父の最低限の基準をクリアしないと、次に進めなかったんだと思います」

最初の頃、もういいかな、と思って祖父に見せにいくと、「ここがあかんよ」と指摘されて研ぎ直す、ということを繰り返した。しかし数カ月が経ち、最初のチェックで合格点をもらえるようになると、ようやく「そろそろ次の仕事教えよか」と言ってもらえた。その頃には、1日半かかっていた炭研ぎが、半日で終わるようになっていた。

この後、祖父の教えを受けながら、削り、鋳造という順番で仕事を学んでいった。

手仕事を続ける意味

職人というと昔気質で武骨で怖そうなイメージがあるが、祖父、眞治さんは「ただただやさしかった」という。

「いつも、こうこうこうやから、こうやんねんで、とていねいに説明してくれました。まずは祖父の作業をひたすら見て、それから少しずつ手伝わせてもらえるようになります。祖父はそれを横で見ているという感じで、すべての工程を教えてくれました」

各工程を習得するのに10年、一人前になるには30年と言われている世界で、無形文化財の眞治さんの仕事には目を見張るものがあったという。わかりやすいのは、鏡1枚の仕事に対する作業量。

通常、製作の過程で何らかの想定外が起こる可能性を考えて、同じものを必ず複数枚作るそうだ。山本さんが独り立ちしたころは1枚の注文が入ると6枚から10枚作り、そのなかで最もできがいいものを納めていたというが、なんと眞治さんが作るのは2枚。基本的には失敗しないという前提で、どちらも最高のクオリティになるというという確信がなければ、できないことだ。

無形文化財にも指定された祖父の作品
無形文化財にも指定された祖父の作品

実は、一時期途絶えていた魔鏡の技術を復活させたのも眞治さんだった。

「ほんまかどうかわからないですけど、魔鏡のトリックを悪用している人がいて、その現場をみた二代目が、こういう風に使われるんやったらもうつくらないと、製造をやめてしまったらしいんです。その技術は祖父にも伝えられていなかったので、祖父はひとりで試行錯誤しながら魔鏡を復活させたんです」

魔鏡を作るのは、和鏡よりも時間と技術が求められる。

魔鏡現象は、鏡面を極限まで薄く削り上げ、表面に裏面の文様の凹凸を浮かび上がらせることで発現する。和鏡の場合、削りの作業は半日で終わるが、魔鏡は1ヵ月かかる。その薄さはミリ単位で、少しでも削りすぎると割れてしまうため、経験と手先の感覚のみを頼りに慎重に進めていく。

やすりで削っている様子
やすりで削っている様子

はたから見れば気が遠くなるような作業が必要な魔鏡を、なぜわざわざ復活させたのか。それは眞治さんにしかわからないことだが、眞治さんの技術と哲学を受け継いだ山本さんの言葉から、それはうかがえる。

「(第二次世界大戦の)敗戦後、国から神社にお金がまわらなくなって、祖父の時代に鏡の仕事がゼロになったことがあるんです。そのときに祖父は、鏡の技術を維持するために、おなじ鋳造の仕事である仏具の製造も始めました。手仕事の技術って、一度その仕事をやめてしまうと失われちゃんですよね」

「いまでも、うちには全国の神社から先代が何十年も前に納めた鏡をきれいにしてほしいという修復の依頼がくるんです。そういう仕事は、やっぱり機械では難しい。僕らが常に手仕事でやっているからこそ、シビアな状況の鏡と対峙して、それをきれいにして納めることができる。常に技術を守り、保つということが、いまも手仕事を続けている意味かな」

いつか再び魔鏡が脚光を浴びる日

1866年から続く家業を継ぐ五代目として、同時に現代を生きる職人として、山本さんはいつも、「『いま』とどうかかわっていくか」を考え続けてきた。修復の仕事にしても、ビジネスとして割り切ってしまえば、新しく買い替えませんか? というセールストークになる。しかしそれは、これまで大切にお祀りしてきた鏡を残したい、きれいにして使い続けたいという人たちの期待に応えることになるだろうか?

機械化できる作業もあるかもしれない。しかし、そうすることで失われる技術がある。そして、その技術を必要としている人たちは、いまも確かに存在している。山本さんは「技術を保護してもらうのではなく、必要とされることによってその技術が残っていくのが理想」と語る。その理想を実現するためにはどうすればいいか。商売や効率では片づけられない想いがあり、ときには葛藤もしてきたのだろう。だから、山本さんは映画『沈黙サイレンス』を観て、当時の魔鏡職人に思いをはせたのではないか。

山本さんは毎日この工房で鏡を作っている
山本さんは毎日この工房で鏡を作っている

1866 年に神鏡を作り始めた初代の山本石松さん。その技術をもとに魔鏡を作った二代目の真一さんは、悪用に気づいて製造を打ち切った。三代目の眞治さんはそれを復活させて、1990年に「隠れキリシタン魔鏡」をローマ法王に献上。2014年に安倍首相がローマ法王に献上した「隠れキリシタン魔鏡」は、四代目の富士夫さんと五代目の山本さんの合作である。

2017年2月、長崎県と熊本県が世界文化遺産への登録を目指して「長崎の天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」推薦書をユネスコに提出した。これが認められたら、再び山本合金製作所の魔鏡にも光が当てられるだろう。その反射光に浮かび上がるキリスト像は、151年にわたる山本家の手仕事の結晶だ。

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文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年3月29日の記事を再編集して公開しました

「ゴロー」の登山靴に世界中から注文が集まる理由。オーダーメイドで仕立てる靴職人の手仕事

雑誌『MONOCLE』で紹介された巣鴨の小さな店

豊島区のホームページに「おばあちゃんの原宿」と紹介されている巣鴨。区が公認するほどお年寄りに人気のこの町に、外国人旅行者がわざわざ訪ねてくる小さなお店がある。

訪問者の国籍は多様だ。イギリス、スウェーデン、ノルウェー、アメリカ、カナダ、メキシコ、ドバイ、ロシア、タイ‥‥。

そのうちのほとんどの人に共通しているのは、世界80カ国超で発売されているイギリスの情報誌『モノクル(MONOCLE)』が2015年に発売した東京のガイドブックを手にしていること。ガイドブックの1ページを割いて巣鴨の小さなお店が掲載されていて、外国人旅行者はその情報を頼りにやってくる。

ゴローを紹介している『モノクル』の誌面
ゴローを紹介している『モノクル』の誌面

ページの冒頭にはこう書かれている。「日本全国の人が、ウォーキングブーツを求めてゴローにくる」

1973年創業の「ゴロー」。登山家やハイカーの間では名を知られた、日本で唯一の登山靴、ウォーキングシューズのオーダーメイドメイカーだ。注文してから靴ができるまで2か月待ちにもかかわらず、今や世界中から靴を求める人がやってくる「ゴロー」の二代目が、この道65年の靴職人、森本勇夫さん。

登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん
登山業界では知らぬ人のいないゴローの二代目、森本勇夫さん

名だたる人たちが、森本さんがつくった靴を履いてきた。

日本を代表する登山家、冒険家で国民栄誉賞を受賞している植村直己さん、2013年に80歳で3度目のエベレスト登頂を果たし、世界最高齢登頂記録を持つプロスキーヤー、冒険家の三浦雄一郎さん、オートバイによる史上初の北極点・南極点到達、エベレスト登攀(6,005m)などの世界記録を持つ冒険家、風間深志さん。南極観測隊や多数の登山家たちの靴も手掛けている。

極地に挑む人たちはみな命懸けで、装備に妥協はない。言い換えれば、ゴローの靴は命を預けるに足る信頼を得ているのだ。

登山靴ゴロー

10歳から修行

「私は不器用なんだけどね」と苦笑する森本さんの腕は、父、森本五郎さんに鍛え上げられた。

「生まれは牛込(新宿区)で、20歳まで過ごしました。親父も靴の職人でね。婦人靴、紳士靴、スポーツで使う靴となんでも作っていたんだけど、小学4年生頃から学校が終わると毎日仕事を手伝わされてたな。遊びに行くこともできなくて、ほんと嫌々でしたよ」

昔ながらの職人気質、武骨で厳しい父親に靴底をボンドで貼る、木やすりで靴底を削るという靴づくりの基礎から叩き込まれた。

父親は親方から仕事を受けて一足ごとの工賃をもらうという仕事をしていたから、完成した靴を浅草にいる親方のもとに届けるのも森本少年の役目だった。小学4年生にして浅草までの定期を持ち、ひとりで都電を乗り継いで何度も浅草と牛込を往復した。

中学に入ってからも、遊ぶ暇なく見習いが続いた。変化といえば、親方が変わって靴の届け先が四谷になり、自転車で通うようになったことと、弟も仕事を手伝うようになったこと、そして腕が上がってきたこと。父親は手縫いの靴を作っていたから、森本少年も靴用の太い針と糸で毎日、毎日、靴を縫った。

父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術
父親から受け継いだ繊細な手縫いの技術

家の仕事があるからという理由で、渋々、夜間の高校に進学。昼間に集中して仕事をすることでメキメキと実力をつけ、あっという間に「半人前以上になった」そうで、靴の仕事に専念しようと1学期で中退した。

登山靴店「ゴロー」オープン

それから時が経ち、森本さんが23歳の頃には親方から仕事をもらうのではなく、森本家が作った靴を店に直接卸すようになっていた。

1960年代から70年代にかけて登山とスキーがブームになったこともあり、徐々に登山靴とスキーシューズの割合が増えていった。一家そろって腕の良い職人だったから、卸先は地方にも広がり20店舗ほどになった。

ところがそれから1、2年もするとスキーシューズが一気にプラスチック製に入れ替わり、さっぱり売れなくなる。森本さんが「靴屋、辞めようか」と振り返るほどの危機を救ったのは、登山靴だった。

「それまではあまり営業みたいなことはしてなかったんだけど、東京都内で登山靴を扱っているいろんな店をまわったんですね。そうしたら、面白いように注文が取れたの。うちの靴は値段も安かったんだろうね。それは今も変わらないけど(笑)」

登山ブームの追い風もあり、森本家がつくる登山靴はよく売れた。そうして1973年、父親の名前を冠したオーダーメイドの登山靴店「ゴロー」をオープンする。フィット感をなによりも大事にして、お客さんが納得するまで調整することを売りにした。

森本さんがちょうど30歳の時で、その頃は父、弟、2人の職人の5人で働いていたから、森本家にとっては一国一城の主になったようなものだった。

45年前から変わらぬ店の様子
45年前から変わらぬ店の様子

植村直己さんとの出会い

本格的に山を登る「山屋」の世界は狭い。腕利きの職人が手縫いで作るゴローの登山靴の評判は瞬く間に広がり、著名な登山家からも依頼が入るようになった。

そのうちのひとりが、植村直己さん。植村さんも所属していた明治大学の山岳部OBの間で「ゴローはいい靴を作っている」と評判になり、数人分まとめて靴の製作の依頼が入った。そのなかに植村さんもいたそうだ。

持ち込まれた登山靴を修繕している様子
持ち込まれた登山靴を修繕している様子

1970年に世界初の五大陸最高峰登頂者となった植村さんは、1978年、犬ぞりで人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断に成功するなど世界的な冒険家として名を轟かせていた。

依頼があったのはちょうどその時期で、1981年の初頭、植村さんが日本隊の隊長として臨むエベレストの厳冬期登頂に向けて靴を作ることになった。

「植村さんは、あんまり細かいこと気にしない人でね。お任せしますよ、なんて言うんです。でも、肝心なことだけはちゃんと伝えてくる。裏を毛皮にしてくれ、とか、緩めにつくってくれ、とか。そういうところはやっぱり自分のノウハウを持ってる人だなと」

死と隣り合わせの極地に向かう人たちから選ばれる。それは、森本さんにとって大きなやりがいであると同時に、失敗の許されないチャレンジでもあった。もし足に合わず登山、下山に支障をきたせば最悪の場合、死につながるからだ。森本さんは登山家、探検家の命を懸けた挑戦を支えるために、靴づくりに心血を注いだ。

ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー
ゴローに保管されている植村さんの足型のコピー

植村隊長率いる日本隊は、隊員の事故死や悪天候によって登頂を断念することになったのだが、こういったトラブルを耳にした森本さんの心境を想像すると、その緊張感は並大抵のものではなかっただろう。

厳冬期エベレストの挑戦から3年後、植村さんはマッキンリー冬期単独登頂を果たした後に行方不明になった。そのことを尋ねると、森本さんはそれまでの笑顔を消して、悔しさと悲しさと諦めが入り混じったような複雑な表情を浮かべた。

「遭難はニュースで聞いて、びっくりしたね。その時はうちの靴じゃない靴を履いていたんですよ。そっちの靴はうちのより軽いからね。軽い靴のほうが良かったんだろうね。だけど遭難しちゃったんだよね。もったいないね、もったいない話ですよ」

極地に挑む靴づくり

余談だが、1981年のエベレストではにわかには信じられないようなことが起きていた。植村隊がエベレストのベースキャンプで使用していた無線を、どういうわけか遠く離れた南極観測隊が傍受。

たまたま植村隊がゴローの登山靴の話をしていたのを南極観測隊員が耳にしたらしく、しばらく後に南極観測隊を派遣している国立極地研究所からゴローに隊員の靴のオーダーが入ったのだ。

「そんなことあるのかと思ったけど、自分は確かにそう聞いたんだ。すごいですよね」

エベレストも南極も、当然ながら森本さんは足を踏み入れたことがないし、似たような環境に身を置いたこともない。どうやって想像もつかない環境下でも圧倒的にフィットする靴を作ってきたのだろうか?

「とにかく足に合わせるために、履く人の意見を聞いて作る。ただそれだけでしたね。科学的な実験なんて一切やらなかった。というよりできないから、いつもぶっつけ本番ですよ。それで、山や南極から戻ってきたら、こういう方が良かったよとか言われて、そのノウハウをどんどんためていきました」

「風間(深志)さんがバイクで北極に行く時は寒いだろうからって羊の毛皮を何枚も使って作ったら、暖か過ぎちゃったみたいでね。その次にオートバイで南極に行ったんだけど、もっと涼しく作ってくれって言われましたよ(笑)」

靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている
靴のベースとなる足型には様々な情報が書き込まれている

愛される理由

森本さんにとって、登山家や冒険家と話をしながら靴を作るのは刺激的な時間で、どんどんアイデアが湧いてきた。1983年には、日本で初めて防水透湿性素材のゴアテックスで登山靴を作っている。その数年後には、同じく日本で初めてクライミング用のラバーソールも完成させた。

「私は日本初、世界初が大好きだからね、いろんな靴を作りましたよ。新しいアイデアが浮かぶと、寝ないで靴を作っていましたからね。それが楽しいから夢中になっちゃって、知らない間に夜が明ける」

寝食を忘れて靴作りに没頭してきた森本さんは、その技術力を一般の登山愛好家からのオーダーにも存分に活かした。

しかも、誰であろうと足にフィットするまで根気強く調整してくれるから、山での履き心地の良さは言うまでもない。広告などしなくても、ゴローの靴を求める人は後を絶たなかった。

店を出してから45年。その間に父親からゴローを受け継いだ森本さんも、現在75歳。今なお店頭に立ち、訪ねてくる人たちの足型をとり、靴の好みや悩みを聞き、フィッティングをしている。

靴を作る工房は別の場所にあり、靴を作って50年のベテランから30代の若者まで7人の職人が働く。森本さんは弟子たちにその技術を伝えながら、自らも手を動かす。

森本さんはプロからアマチュアまで山に登る人たち、ハイキングを楽しむ人たちが「あったらいいなあ」と思う靴、「安心して履ける靴」をつくってきた。ゴローにはその魂が今もしっかりと息づいている。それが国境を越えて支持される理由だろう。

ゴローへの手紙

ゴローがいかに特別な存在か、それは、ゴロー宛に届くお客さんからの手紙や葉書からもわかる。森本さんが見せてくれた葉書には、こう書かれていた。

「過日は私の35年間愛用しましたゴロー製チロリアンシューズを見事に補修して下さって、心より感謝し、御礼申し上げます! 入手し、手にとってみますと、愛着がますます深まり、自宅の調度品としてかざり、さすっては眺めてくらしております。ありがとうございました。」

35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書
35年間、ゴローの靴を愛用しているユーザーからの葉書(許可を得て掲載)

35年という年月に驚くが、靴を購入した店に感謝の葉書を送ったり、履き古した靴を調度品として飾ったことがあるだろうか? 店内にはほかにもお客さんからの手紙、葉書が貼られている。

海外の山に挑んだユーザーからの葉書も
海外の山に挑んだユーザーからの葉書も

取材中、たまたま来店した白髪の年配の方は、20年以上前にゴローで購入した登山靴を3度目の修理に出していて、それを受け取りに来たところだった。

森本さんが「もうダメになりそうなところは手で縫っておいたからね」と言うと、靴を受け取りながら、ニコニコと思い入れを語ってくれた。

「もうね、なかなかほかの靴は履けないですよ。死ぬ前に靴がだめになるか、俺が先にダメになるかの勝負だね(笑)」

一度購入したら、その後の人生をともに歩む靴。それがゴローなのだろう。

ゴロー

<取材協力>
ゴロー
東京都文京区本駒込6丁目4-2
03-3945-0855

文・写真:川内イオ

※こちらは、2018年10月26日の記事を再編集して公開しました。

絶妙な切れ味で数ヶ月待ちの「房州鋸」。ただ一人の職人が支えた復活の軌跡

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は日本で唯一の存在であり、さらに注文が引きも切らない房州鋸 (ぼうしゅうのこ) 職人のお話をお届けします。

奥深き、鋸の世界を知る

鋸 (のこぎり) 。この言葉から思い浮かぶのは、大工さんが大きな鋸を前後に素早く動かして、丸太をギコギコと切っている姿だった。しかし、今や日本で唯一となった房州鋸職人、粕谷雄治 (かすや・ゆうじ) さんの仕事ぶりを聞いて僕の安易なイメージは覆された。

粕谷さんが作る房州鋸は安いものでも1万円を超えるが、日本全国からオーダーメイドの注文が届く。

顧客の職業は多彩で大工はもちろん、華道家、庭師、能面師、仏師、人形職人、ふすま職人、桶職人、団扇職人と枚挙にいとまがない。鋸を必要とするニッチな需要を一通り押さえているといっても過言ではないだろう。

もちろん、皆が同じ鋸を使うわけではなく、粕谷さんは依頼に応じてさまざまな形の鋸を作っている。手のひらに乗るような軽くて小さな鋸から、丸太を切るのに使う刃渡りだけで40センチを超えるものまで、その種類は優に30を超えるという。

仏像用のノコギリ。木材を繊維の方向に沿って切断する「縦引き用」(下)と、繊維に対して直角に切断する「横引き用」(上)

「こういうものが欲しいという要望を聞いていたら、どんどん種類が増えていった」という粕谷さんの鋸を求める人は後を絶たず、たとえば今、注文しても数カ月待ちの状態だ。

それにしても、である。粕谷さんは、なぜ、どうやって、多様なニーズに応える技術力を身に着けることができたのか。そこには一般的な鋸とは異なる房州鋸の歴史が関係していた。

和船の建造に使われた鋸

房州鋸の歴史が始まるのは、今から450年以上前。上総の国 (今の千葉県の一部) を治めた里見家の鍛冶が、貿易などで使う和船 (日本固有の木造船) を作るための「船鋸 (ふなのこ) 」として生み出した。

和船の建造には、ケヤキや樫など堅くて丈夫な木材を用いる。切れ味と耐久性が求められた「船鋸」の素材には、日本刀とほぼ同じ鋼が用いられた。

里見家発祥の船鋸は独自の発展を遂げ、刃の反り具合や鋸目 (歯の部分) の立て方など一般的な船鋸とは形状も違うものになった。

徳川家康が全国を平定して戦がなくなると貿易が活発になり、江戸時代には和船の数が増えた。同時に、上総の里見家の鍛冶が作る船鋸の需要も増し、次第に今の千葉県南部の「安房 (あわ) =房州 (ぼうしゅう) 」の沿岸部にまで製造の技術が伝わった。

安房鴨川の海岸

刃渡りが45センチから60センチ弱と大きく、薄くしなやかで切れ味抜群、丈夫で長持ちする里見家の船鋸は思わぬことにも使われた。

江戸時代、財物が収められていた土蔵に侵入して盗み出す「土蔵破り」の犯人が捕まった時、里見家発祥の船鋸を使って土蔵の閂 (かんぬき) の鉄棒を切り落としていたことがわかったのである。

そこで幕府が一時期製造を禁止し、むしろこの船鋸は「閂の鉄棒すら切れる鋸」として名を馳せたのだった。

才能に溢れた初代

時計の針を少し進めよう。
1900年代の初頭、粕谷さんの祖父、雄吉さんが子どもの頃にはまだまだ和船の製造が盛んで、雄吉さんが生まれ育った千葉の安房鴨川にも船鋸製造の工房がいくつもあった。

雄吉さんは15歳で弟子入りし、やがて独立。「中屋雄造正直 (なかやゆうぞうまさなお) 」という屋号を掲げた。雄吉さんは、鋸職人としての才能に恵まれていた。

1942年に開催された日本鋸品質審査展覧會で、全国1位の栄誉に輝いているのだ。雄吉さんの孫で「中屋雄造正直」三代目の粕谷さんは「この賞でうちの鋸が有名になったんだよね」と振り返る。

日本鋸品質審査展覧會の賞状

里見家発祥の船鋸に改良を加え、「房州船鋸」と名付けたのは、雄吉さんだった。第二次世界大戦中も、腕利きの雄吉さんのもとには注文が殺到した。

日本は鉄が不足していたから、木造漁船をベースにした軍用の船を建造していた。そのために質の良い船鋸が必要だったのだ。さらに日本軍の戦線が拡大すると船大工も海外の各地に拠点を構えるようになり、大量の船鋸を輸出したそうだ。

「うちの鋸は、息は切れないけど木は切れると言ってね (笑) 。とにかく評判が良かったから、海外に行った大工のなかにはうちの鋸を持って行って使っている人も多かった。その大工がまた海外から注文したりして、韓国、台湾、中国、南洋諸島あたり、日本軍が侵攻したほとんどのところから注文が来たと聞いたよ」

戦後も漁船として使う木造船の需要は衰えず、「中屋雄造正直」は大盛況。1951年に生まれた粕谷さんが子どもの頃には、雄吉さん、粕谷さんの父で二代目の實さんのほかに3人の職人がフル稼働して、1ヵ月に100本を超える鋸を作っていたという。ちなみに、二代目の實さんも雄吉さんの才能を受け継ぎ、1995年の日本伝統的工芸品展で日本商工会議所会頭賞を受賞している。

工房に飾られている木造船の模型

10年かかる技術を2年で習得

粕谷さんが物心ついた時には家の前の工房に出入りしていて、中学生になると小遣いをもらって簡単な手伝いをするようになった。遊び盛りの高校時代は「手伝いがイヤで逃げ回っていた」そうだが、いずれ長男の自分が家業を継ぐということに疑問はなかった。

「昔の人間っていうのはさ、長男が家業を継がないといけないというのが常識だったから、そういうもんだとしか思ってなかった」

高校を卒業すると、粕谷さんは「中屋雄造正直」の三代目として鋸の一大生産地だった長岡市脇野町の工房に修行に出た。その工房では船鋸よりかなり薄い大工用の鋸を作っていて、実家よりも機械化が進んでいるなど勝手が違う部分もあったが、この時、粕谷さんは自分のポテンシャルに気づいた。

「実家で祖父や父の仕事を見ていたから、ひと通りの作業を憶えてたんだ。だから、親方に鋸の刃先を固くするための『焼入れ』という作業をやってみろと言われると、どれぐらい熱すればいいのか鋼の色でそのタイミングがわかった。3、4ヵ月経ったら、80%ぐらいのことができるようになりましたね。『門前の小僧習わぬ経を読む』みたいなもんです」

その年のお盆に帰省した粕谷さんの様子を見て、驚いたのは祖父と父だった。自ら「手伝おうか」と申し出て、慣れた様子で多くの仕事をこなしていたからだ。

「薄くてペラペラの大工用の鋸に比べると房州鋸は分厚くて大きい分、作りやすく感じました。だから、手伝ってみたらだいたいの仕事がそれなりにできたんですよ」

独特の形状をした房州鋸。上の鋸は完成品で、下の鋸はまだ未完成

当時も「中屋雄造正直」は大忙しで、仕事の一部を周囲の同業者に外注するほどだったから、雄吉さんと實さんにとって粕谷さんの急成長は嬉しい誤算だったに違いない。5年ぐらいは修行してこいと送り出したはずなのに、「そんなに仕事できるなら、もう帰ってこい」と言ったそうだ。しかし、粕谷さんは戻りたくなかった。

「新潟は日曜日が休日だったけど、実家はとにかく仕事が忙しすぎて、盆と正月以外に休みがないんだよ。正直、新潟にいたほうが良いと思ったよね (笑) 」

結局、数カ月で新潟の工房を辞めるわけにもいかず、粕谷さんは2年間、現地で修業を積んで1971年、20歳の時に実家に戻った。鋸職人としてひとり立ちするには10年かかると言われるそうだが、粕谷さんはわずか2年で必要な技術を身に着けていた。粕谷さんも雄吉さん、實さんの優秀な職人としての血をしっかりと受け継いでいたのだ。

三代で千葉県知事指定伝統的工芸品に認定されている

効率よりも質を追求

当時は高度成長期で、住宅建設ブーム。木造家屋の建築にも房州鋸が使用されるようになって、祖父、父、粕谷さんに3人の職人を加えた工房は目が回るような忙しさだった。

しかし、目先の効率化には手を出さなかった。房州鋸の製造は手作業の工程が多く、それだけに時間を要する。当時、ダイヤモンドを使った砥石が登場したため、やすりがけの作業を短縮しようと導入を検討したが、使ってみると微妙な違和感があった。

「ダイヤモンド砥石で鋸を擦ると目が細かすぎて、鋸が滑っちゃうんです。それに比べてやすりはザラザラしているから、木に対する鋸の食いつきがよくなる。実際に鋸を引いてみると全然違うんだよね。だから、ダイヤモンド砥石は粗仕上げの時だけ使うことにして、本仕上げは全て手作業でやすりがけです」

効率よりも質を優先する判断は、ほかにもあった。例えば、鋸の形にした鋼を薄くするために平面研磨する過程は、ほとんどの工房で機械化されている。機械化すれば、オペレーターひとりいればできる作業だ。しかし、粕谷家は「せん」という昔ながらの道具で一枚、一枚、鋸を削る作業を頑なに守った。

「平面研磨の機械は砥石を使って円を描くように研ぐので、目には見えないレベルだけど刃の表面がわずかに波打つんです。それで鋸を引いた時に引っ掛かりができる。でも、せんは手前から奥に押すように研いでいくので、刃の表面がまっすぐになる。だから、鋸を引いた時の滑りがまるで違うんですよ」

ダイヤモンド砥石を使うと滑りすぎる。砥石で研ぐと引っかかりすぎる。やすりだとほどよく食いつき、せんだとほどよく滑る。この微妙かつ繊細な違いへのこだわりが、絶妙な切れ味と使い心地を実現していた。

一本、一本、鋸の歯の部分を叩いて平らにする「刃ならし」の作業。こういった気の遠くなるような手作業の工程が20以上もある

なくなった需要

変化の波は立て続けに訪れた。

各国の岸から200海里 (およそ370キロ) の中に、外国の船は勝手に入って漁をしてはいけないという「200海里漁業水域」が国際ルールとして定められ、日本で適用されたのが1977年。これによって日本の遠洋漁業は大きな打撃を受けた。

さらに、繊維強化プラスチックという新しい素材でできた船が登場し、木造船を造る人も乗る人もいなくなってしまったのだ。後を追うように、マイホームも柱や梁を用いる在来工法からツーバイフォー住宅やプレハブ住宅に変わり、高価な鋸を必要としなくなった。

長らく粕谷家の仕事を支えていた船と家の工法が抜本的に変化したことで、最盛期には月に100本を優に超えていた注文が、80年代に入ると20本程度にまで落ち込んだ。房州船鋸は行き場を失ってしまったのだ。

これでまず、粕谷家の外注先となっていた近隣の鋸屋が次々と廃業した。粕谷家で働いていた職人も、別の仕事を探さざるをえなかった。休みなくがむしゃらに働いて、気づけば40歳を超えていた三代目は、途方に暮れた。

「それまでの蓄えがあるから食べていけないわけじゃなかったし、この仕事しかやってこなかったから、やめるという発想はなかった。でもその時はとにかく仕事がなかったから、ブラブラしていましたね」

大繁盛していた過去は「今となってはまるきり嘘みたい」

かつての賑わいが嘘のようにひっそりとした工房で、粕谷さんは考えた。これからどうしよう‥‥。

転機をもたらしたのは、自ら踏み出した一歩だった。仕事を始めた時からずっと、ひっきりなしに届く注文に追われていたが、その時代は終わった。このままではじり貧だ。注文が来ないなら取りに行くしかない。

窮地を救った新たな出会い

その頃ちょうど、名のあるデパートで伝統工芸品に焦点を当てた催しが開かれるようになっていた。ある程度の実績を持つ職人しか出展することができない催しで、粕谷家はその一員として名を連ねることができた。

修理も受け付けると掲げて出展してみると、想像以上に鋸に関心を示す人たちがいた。しかも、それまでなんのつながりもなかったジャンルの人たちが多かった。この出会いが、窮地を脱するきっかけとなった。

たとえば、ある華道の講師は工作に使うような鋸を持ってきて、修理してほしいと依頼してきた。そこで粕谷さんは、その鋸ではうまく枝を切ることができないでしょうと説明し、「ちょうどいい鋸を作ってあげますよ」と生木がきれいに切れる花木用の鋸を考案した。するとそれが華道の講師の間で評判となり、次々と依頼が舞い込んだ。

ある時には、雅楽で使う篠笛の製作用の鋸が欲しいと相談を受けた。粕谷さんは「雅楽だったら漆を塗ったところから切るんじゃないか」と予想し、そのために目が細かい鋸を作って納品したところ、「すごく良いからまた作って欲しい」と依頼を受けた。

弟子を抱える職業の人たちは、縦と横に強いつながりがある。デパートに出展するようになってから、粕谷さんが作る痒い所に手が届くような鋸の噂を聞き付けた各界の人がこぞって注文をしてくるようになった。

そのタイミングで、粕谷さんは房州船鋸という名を「房州鋸」に変えた。粕谷さんが作る鋸はもはや、船用ではなかったからだ。間もなく、粕谷さんがブラブラする時間はなくなった。

木目込み人形の製作に使う鋸の設計図と実際の鋸

「もし使えなかったら返してくれればいい」

粕谷さんはお客さんから「こういうものを、こういう風に切りたい」という依頼を受けると、あとはほとんど相談せず、頭のなかでイメージを膨らませて鋸を作る。

どれもかつて船大工が使っていた大きな房州鋸とは似ても似つかないような形や大きさになったが、長年培ってきた、よく切れて長持ちする精巧な鋸を作る昔ながらの技術がベースになっていると振り返る。

「すべては応用ですよ。船鋸といってもいくつか種類があって、たとえば局面を切り出すための廻し引き鋸の技術は能面用の鋸に使えました。房州鋸を小さくしたり、薄くすることで、いろいろな鋸を作ることができる」

それにしても、篠笛や能面などほとんど知識がないようなものに使う鋸を作るのは、誰にでもできることではないだろう。思わず、「才能ですかね?」と尋ねると、粕谷さんは苦笑しながら首を横に振った。

「難しい注文がくると大変だなと思うけど、ちょっとやってみようかっていう気持ちにはなるよね。今なんて、一寸 (約3センチ) の間に30本の目 (歯) を入れたりするけど、そうやって細かい作業をコツコツやるのは好きだったかもしれない。才能っていうより、この仕事が自分に合ってたのかもね」

確かに、粕谷さんにとって鋸職人は天職だったのかもしれない。粕谷さんは、どんな顧客に対しても、「もし使えなかったら返してくれればいい」と伝えて納品している。しかし、これまで鋸が送り返されてきたことはない。ただの一度も。

<取材協力>
中屋雄造商店
千葉県鴨川市東江見2-2
0470-96-0349

文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年11月11日の記事を再編集して公開しました。

ケルビムのフレームビルダーが抱く野望。「自転車の歴史を変える」挑戦

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は自転車の世界的なフレームビルダーのある挑戦についてお届けします。

ある日の午後、神宮前を歩いていたら独特のフォルムの自転車が目に入って、思わず立ち止まった。滑らかな弧を描くフレームがハンドルから後輪へ流れ、そのフレームの上にサドル (座る場所) がちょこんと収まっている。自転車の素人の僕にはまるで乗り心地を想像できないけれど、ショーウインドー越しに見ているだけで未来を感じさせる、ワクワクしてくるようなデザインだった。

レトロ感と未来感が同居する不思議なフォルムの自転車 (写真提供/CHERUBIM)

「Humming Bird」と名付けられたこのユニークな自転車のブランドは、その名を「CHERUBIM(以下ケルビム)」という。1965年、日本の自転車フレームビルダーのパイオニアとして知られる今野仁さんが創業。世田谷区にアトリエを構え、競技用フレームの制作を始めたのがその成り立ちだ。1968年のメキシコ五輪の際には、日本代表選手に競技用自転車を提供し、日本新記録と6位入賞という快挙を陰で支えた。

町田の本店に展示されている1968年のメキシコ五輪モデル

そして現在、父からケルビムを受け継いでいるのが、2代目の今野真一さん。神宮前にあるケルビムのショップで僕が見惚れた「Humming Bird」を生み出した男である。今野さんは、生涯獲得賞金が27億円を超え、「走るレジェンド」と呼ばれる神山雄一郎選手など多数の現役競輪選手たちのフレームを製作していることでも知られる。競輪選手の自転車は、1ミリ単位での調整が求められる精密マシンだ。

類まれな独創性と圧倒的な技術力を兼ね備える今野さんの原点を知りたくて、東京・町田にある本店を訪ねた。

工場が遊び場だった子ども時代

今野さんが生まれたのは、メキシコ五輪から4年後の1972年。「見渡せば自転車ばかり」という家で「工場 (こうば) が遊び場だった」。物心ついたときには、自分で自分の自転車をカスタマイズするようになっていた。

「雑誌もいっぱいあったから、参考にしながらタイヤを変えたり、チェーンを変えたり。性能がいい、悪いはわかんないから、小学生ながらにもブランド志向で、当時、かっこいいと思っていたイタリアのパーツとかシマノのパーツを工場でかき集めていましたね。誰かに教えてもらってというよりは、自分でやってみて、わかんないことは聞きにいって」

真剣に取り組む、というよりは、毎日の生活の延長線上で自転車について学んでいった今野さん。中高時代は若者らしくバイク、サーフィン、音楽などほかの遊びに夢中になりながらも、自転車に乗り続けていた。高校卒業後は「自転車の設計にも役立つかな」とパソコンのプログラミング関係の専門学校に進学。卒業後、20歳の頃には実家のアトリエで働き始めた。

「子どもの頃から、ずっと、いずれはこの仕事を継ぐんだろうなと思っていましたから。そのとき、親父とふたりの職人さんで仕事をしていたんだけど、職人さんのひとりが辞めるというタイミングも重なって」

ショップと工房を備える町田本店
工房では今野さんから自転車づくりを学ぼうと大勢の若者が働いている

自転車の販売に注力するも‥‥

自転車のフレームビルダーの仕事は、多岐にわたる。設計に始まり、旋盤などを使った機械加工、溶接、仕上げまで自転車にまつわるすべての作業をひとりでできるようになって一人前だ。
当時、自転車の素材として安価で軽量なカーボンやアルミのフレームが主流となり、炭素鋼 (鉄) にクロムとモリブデンを加えた合金「クロモリ」を使うケルビムのオーダーメイドの自転車フレームをつくる事業は下火になっていた。メーカーの下請け仕事もあったが、生産の拠点が中国や台湾に移っていく時期で、売り上げは下降線をたどっていた。

経営者の父・仁さんにとっては苦しい時期だっただろうが、工房のスケジュールにも余裕があるなかで、今野さんは先輩の職人さんからじっくり技術を学ぶことができたと振り返る。すべての工程の技術を一通り身に着けるまでに、だいたい5年間。その間に、ケルビムの方向性も徐々に変わっていった。それは、「パーツを組んだりばらしたりするのが得意だった」という今野さんの存在が影響している。

「父親はフレーム作ってそれを売るという対プロの仕事がメインでした。要するに、自分で組み付けできる人にしか売らなった。でも、僕が入社してからは完成車の状態で渡せるようになったので、一般のユーザーにも売れるようになったんです。それで、一般の方への販売にも力を入れていこうって」

「クロモリ」のフレームに磨きをかける今野さん

今野さんが30歳になる頃には先輩職人も工房を離れ、ケルビムは今野さんが組んだ低価格帯の自転車や、初心者向けの自転車、輸入自転車を仕入れて店頭で売る、プロスポーツショップに舵を切っていた。この決断によって一般ユーザーのお客さんが増えて経営は持ち直したが、今野さんは次第に、「何か違う」と思うようになっていった。

「全部がイヤになって」一大決心

量販店ではない小規模のショップでブランドものの自転車を売るというビジネスには、ノルマなどさまざまな制約があった。他のショップとの値引き合戦や価格勝負も性に合わなかった。なによりもストレスだったのは、10万円で自転車を仕入れても、新しいモデルが出ると「型落ち」扱いになり、仕入れ値より低い価格で売らざるを得なかったということ。自分で自転車を作ってきた今野さんにとって、自動的に短期間で価値が落ちる自転車を売ることは「寂しかった」という。

この時期、今野さんは父・仁さんと頻繁に衝突していたそうだが、それは恐らく、ショップ事業に対する不満や「このままでいいのか」という不安、疑問が互いの胸中に渦巻いていたからではないだろうか。そのうち、「全部がイヤ」になってしまった今野さんは、腹をくくった。

「僕がずっとやりたかったのは、ケルビムで最高のフレームを作ること。車だったら、多分、フェラーリに乗っている人って車を持っている人の1%にも満たないでしょう。でも、1%でもいいから、そこをターゲットにやっていきたいという思いがありましたし、作ることに関して妥協したくなかった。だから、ショップじゃなくて、自分のブランドだけでやってこうと決めたんです」

「ひとりでフレームと向き合う仕事が好き」と語る今野さん

この決意は、低迷期を乗り越えて築き上げたショップ事業の縮小につながる。さらにいえば、軽量で安価な自転車の量販化と海外生産が進むなかで、高度な溶接技術を要し、重くて高価な「クロモリ」を使った自転車が売れなくなり、職人もどんどん引退しているという状況で、今野さんいわく「時代に逆行しているのは確かだった」。それを父・仁さんがどう感じたのかいまとなってはわからないが、ふたりの言い争いはさらに激化し、険悪な雰囲気が立ち込めていたという。

転機をもたらした奥さんの一言

それも、ケルビムブランドの一新を目指す今野さんを押しとどめる理由にはならなかった。今野さんが素材や塗装などにこだわり抜いて組んだフレームが売れ始めたのだ。

「だんだん、僕のフレームを欲しいというお客さんが増えていったんです。いま思えば僕がやっていることを面白がってくれていたんだと思うけど、そのときは『お客さんもわかってくれるんだ』って前向きに勘違いしてたから (笑) 、手応えを感じましたね」

父・仁さんとの冷戦状態は続いていたが、そんなことはお構いなしに、今野さんは「会社の人は誰も手伝ってくれないから」とひとりで展示会への出展を始めた。すると、日本を代表するハンドメイドビルダーが集う「ハンドメイドバイシクル展」などでも高い評価を得るようになり、ますます自信を深めていった。

独自のセンスを持つフレームビルダーとして頭角を現すようになった今野さんに大きな転機をもたらしたのは、奥さんの一言だった。2006年頃から毎年、今野さんのもとに英語で手紙が届くようになっていた。今野さんはそれが招待状らしきものとはわかっていたものの、「面倒だなー、うさんくさいなー」と思って無視していた。

ちょうど同じ頃、日本の自転車愛好家の間ではアメリカで開催される世界最大の自転車の祭典、北米ハンドメイドバイクショー「NAHBS」の話題が出るようになっていた。あれ、と思って手紙を確認すると、その招待状は「NAHBS」からのものだった。そのとき、今野さんは「まずは、見に行ってみるか」と思ったそうだが、その話を奥さんにすると、奥さんはこう言った。

「見にいくなら、出したほうがいいんじゃない?」

確かに!とひざを打った今野さんは、アメリカに向かう直前の2週間で繊細な曲線を持つ細身のシルバーフレームの自転車を作りあげ、「PISTA」と名付けて出品した。2009年、37歳のときのことである。

わずか2週間で作りあげた「PISTA」。シンプルな美しさを放つ (写真提供/CHERUBIM)

「NAHBS」から拡がった可能性

インディアナポリスで開催された「NAHBS」の会場についてみると、出展している日本人は自分ひとりしかいなかった。右も左もわからず不安もあったが、それよりも会場の雰囲気に胸が躍った。来場者の多くが自分で自転車を作っていたり、作ろうとしている人たちで、ビルダー向けの講座が開催されていたり、道具も販売されていて熱気に満ちていた。

「PISTA」に興味を示す人も多く、マニアックな質問を次々と投げかけられた。「これはすごい!」とテンションが上がった今野さんも、面白い自転車を見つけるとビルダーに話しかけて情報交換をしたり、気になる部品を購入した。3日間の会期をすっかり満喫した今野さんだが、最終日にさらなるサプライズが待ち受けていた。

「NAHBS」ではグランプリにあたる「The Best of Show」などさまざまな賞が参加ビルダーたちに授与されるのだが、今野さんの「PISTA」が「Best Track Frame」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠に輝いたのだ。初出品での2冠によって、今野さんは気鋭のフレームビルダーとして国内外で注目を集めるようになった。その追い風に乗って、今野さんの活躍のフィールドは広がった。

2012年には、イギリスに拠点を置く世界的デザイン集団「TOMATO」を主宰するSimon Taylorとのコラボレーションから生まれた自転車「Humming Bird」が、NAHBSでグランプリ「The Best of Show」と「プレジデンツチョイス賞」の2冠を獲得。

グランプリを獲得した「Humming Bird」 (写真提供/CHERUBIM)

昨年は、イタリアの老舗チューブ (鋼管) メーカー「コロンバス」によって5大陸を代表するビルダーのひとりに選ばれ、今野さんが同社のチューブで作ったフレームがミラノで開催された国際美術博覧会「トリエンナーレ・デル・デザイン」に展示された。

「トリエンナーレ・デル・デザイン」に展示されたフレーム (写真提供/CHERUBIM)

「和」の感性を磨くために

NAHBSではこれまでに計7回受賞し、いまや海外での売り上げが3~4割に及ぶ。子どもの頃、工場で遊びながら自分の自転車をカスタマイズしていた少年は、世界にその名を知られるビルダーになった。だが、探求心は尽きることを知らない。

「海外に行くと、僕のフレームはすごく日本的だと言われるんです。『和』の要素はまったく意識していなかったんですけどね。日本に戻ってから何が日本的なのかと探るようになって、僕の自転車の特徴であるゆるやかな曲線やシンプルなブランドマークの張り方が、禅とかミニマリズムに通じる欧米のビルダーにはない感覚だと気付いたんです。僕はデザインの勉強なんてしたこともないから、これはきっと日本人が昔ながら持っているDNAなんでしょう。だから、もっと『和』の感性を磨きたくなって、いまはお茶を習っているんですよ (笑) 」

ケルビムのブランドマーク

世界広しと言えども、茶道を学ぶフレームビルダーはほかにいないだろう。まだ、奥深き茶道の世界の一端に触れたに過ぎないが、それでも新たな気づきがあったという。

「茶道って決まりごとが多すぎるんですけど (笑) 、それをマスターしてからの自由があるらしいんですよ。型があるからこそ、そのなかで際立つ自由を楽しむ文化がある。それを知って、僕は修行時代に父親から型を習ってたんだなって思ったんです。

修業時代は、お客さんがオーダーしてきた歴史あるフレームをひたすら作っていました。自転車って200年以上前からある道具だから、デザインや部品全てに意味と理由があるんです。そのフレームを作りながら、なんでこうなってるんだろう、ここの処理はどうなってるんだろうってひたすら考えながらやっていた。自転車の型にどっぷり浸かった時期があるから、いま自由に作るなかで個性を出せるのだと思います」

祖母が授けた天使の羽

今野さんのいう茶道の教えとは「守破離」だろう。型を守って習得し、修行を積むなかでより自分に合った道を求めて師匠の型を破ることで、もとの型から離れて自在になるという。確かにこれまでの歩みに重なるものであり、今野さんのこれからにも通じていく。

稀代のフレームビルダーが抱く野望。それは「いまある自転車の型を超えること」。その挑戦の軌跡が、「NAHBS」での数々の栄誉につながっている。もちろん、今野さんは自転車の歴史に名を刻むような斬新なアイデアがそうそう浮かんでくるとは思っていない。しかし、考え続けなくては、何も生まれない。

「これをやってみたいとか、ああしたいとうのはエンドレス。それでいつか『型』を超えたいし、型の素晴らしさもさらに理解したい。そこがやっぱり面白いから」

取材を終えてから、ふと今野さんから聞いた「ケルビム」という社名の由来が頭に浮かんだ。「CHERUBIM」という綴りはヘブライ語で、聖書に出てくる天使の名前。仁さんが兄弟と一緒に起業する際に、もともとクリスチャンだった今野さんの祖母が命名したという。

ブランドマークにも天使が描かれている

帰り道、ケルビムがどんな天使か気になって検索すると、「その中には4つの生き物の姿があった。 (中略) 生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた」という記述を見つけた。

「天使に乗るってどうなの、と言われることもあるんですけどね (笑) 」と今野さんは苦笑していたが、僕は、あ、と思った。今野さんのおばあさんはきっと、「車輪でどの方向にも速やかに移動することができた」という天使の羽を息子たちに授けたのだ。その羽を受け継ぐ今野さんなら、自転車の歴史という揺るぎない壁を越えられるのかもしれない。

<取材協力>
CHERUBIM ケルビム 今野製作所
町田本店:東京都町田市根岸 2-33-14
042-791-3477

文・写真:川内イオ

*こちらは、2017年8月15日の記事を再編集して公開しました。

田野屋塩二郎が作る塩は、1キロ100万円の味と輝き。元サーファー塩職人のこだわり

トリュフと同価格の塩

高知龍馬空港から、一路、東へ車を走らせる。潮風が心地いい海沿いの道をぐんぐんと進み、1時間もすると四国で一番面積が小さい自治体、高知県田野町にたどり着く。

総面積がわずか6.53平方キロメートルのこの町に、日本全国にとどまらず、海外の料理人をも惹きつける人がいる。そのなかには、星付きレストランのシェフもいるという。

彼らが訪ねるのは、「田野屋塩二郎」という屋号を掲げている佐藤京二郎さん。田野町で完全天日塩を作っている塩の職人だ。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
東京の広尾出身の佐藤京二郎さん

佐藤さんが作る塩は、最高値のもので1キロ100万円。欧州では「黒いダイヤ」と称されるトリュフが同程度の価格で取引されているそうで、佐藤さんの塩は「白いダイヤ」とも言えるだろう。

佐藤さんは、どんなに有名店でも、有名人でも、田野町に足を運ばない人には塩を売らない。「田野屋塩二郎」の塩が欲しければ、佐藤さんと顔を合わせて、話をしなくてはならない。その時に佐藤さんが「違う」と思った相手には、塩を売らない。それでも引く手あまただから、なんの支障もない。

なぜ、佐藤さんの「白いダイヤ」は、それほどまでに求められるのだろう?

手塩にかける

その話をする前に、少し、塩について説明をしよう。

海水の塩分は約3%で、1 リットルの海水に含まれる塩は30グラム程度。この3%の塩を効率よく回収するために、日本では、99%の塩が機械でろ過した海水を釜で焚き上げ、蒸発させて作られている。

一方、完全天日塩は太陽光と潮風を利用して作る。木箱に入れた海水をビニールハウスに入れ、日々、手作業でかく拌しながら自然に蒸発させるのだ。この方法だと海水から塩になるまでに時間がかかるが、加熱処理した際に失われる海水のミネラルを残したまま結晶化するので、滋味豊かな味となる。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
「田野屋塩二郎」で作られている塩

さらに、完全天日塩の作り方にも違いがあることはあまり知られていない。一般的に、完全天日塩を作る際には予め貯めておいた海水をポンプでくみ上げ、内部にネットを張り巡らせた高さ数メートルのタワーに放水する。海水はそのネットを伝って下に落ちていく。その間に海水が太陽光と風に晒されて、少しずつ蒸発していく。この作業を繰り返して、塩分濃度の高い「かん水」を作る。そのかん水から塩を作る業者がほとんどだ。

しかし佐藤さんはこの方法ではなく、海水そのままの状態から塩を作り始める。

「タワーを使うと、その過程で大事な養分が飛んじゃうし、余計ななにかが加わると思うんですよ。だから、なるべく海水からじかに作るようにしています」

タワーを使うと数週間から1、2カ月程度で塩ができるが、塩分3%の海水をそのまま塩にしようとすると、最低でも3ヵ月はかかる。その間、毎日、一時間から一時間半に一回、100個を超える木箱の海水をかく拌しなくてはならない。

夏場には、ビニールハウス内の温度が70度にも達する。そのなかでの作業だ。気が遠くなるような工程だが、それでも、なるべく自然のままで、丁寧に、時間をかけて塩を作る。これは、よくある職人の「こだわり」とは少し違う。「手塩にかける」という言葉そのままの、塩を育てる男の物語である。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
佐藤さんが「僕の子ども」と称する塩。雪のような繊細な白さ

消去法で選んだ仕事

腕利きの職人というと、寡黙で朴訥な人柄が思い浮かぶが、佐藤さんは全くそのイメージに当てはまらない。

「田野屋塩二郎」の製塩所を訪ねた時、こんにちは~と姿を現した佐藤さんは坊主頭にタオルを巻き、Tシャツに短パン、ビーチサンダルというラフな姿で、第一印象は海の家にいるお兄さんだった。挨拶をしながら、僕はすぐに佐藤さんの耳に、釘付けになった。釘が5本、刺さっていたからだ。もちろん、ファッションである。

佐藤さんは、現在46歳。塩に関係する家に生まれたわけでも、塩が特に好きだったわけでもない男が塩の道を選んだきっかけは、「海」と「日本一」がキーワードだった。

もともと「一番じゃなきゃ嫌」という性格で高校、大学とラガーマンとして全国レベルで活躍した佐藤さん。就活の時期になり、「普通のサラリーマンになるのも嫌」で、趣味だったサーフィンやスノーボード関係の仕事をしながら競技者を志した。

一時はスノーボードで五輪を目指すほど本気で取り組んだそうだ。それもなかなか思うようにはいかず、サーフショップの経営を始めた。ところが、30代半ばで「飽きた」。その時に、残りの人生をどう生きるか、考えた。

「ショップの仕事はもう上が見えないなと思って。人生で働ける年齢が70歳までと考えて、残りの半分、もう一度、日本一を目指して何かやろうと考えたんですよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
高校時代は2度、ラグビーの全国大会に出場したという佐藤さん

サーフィンが趣味だから、海の近くでできる仕事が良い。思い浮かんだのが、塩の職人と漁師。大間のマグロ漁師になってのし上がろうとも考えたが、意外なほど高額な船の価格とサーフィンに向かない寒さなどがネックになり、消去法で選んだのが塩の職人だった。

土下座して弟子入り

その時点で塩についての知識は皆無ながら、日本一になるためには日本一の職人のもとで学ぼうと考え、いろいろと調べているうちにひとりの職人にたどり着いた。

高知県の黒潮町で完全天日塩を作っていた吉田猛さんだ。思い立ったら即行動の佐藤さんは、「電話をしても断わられる」と、黒潮町まで行き、アポなしで吉田さんを訪ねて「弟子にしてください」と頭を下げた。

しかし、吉田さんは佐藤さんを一瞥すると、一言も声をかけずに立ち去った。一度東京に戻った佐藤さんは、最初の接触から三日後、再び黒潮町にいき吉田さんに土下座した。その時は一言、二言、言葉を交わせたが、弟子入りについては無視されたので、翌週、また黒潮町で土下座した。それでも、ダメだった。

そこで、佐藤さんは勝負に出た。黒潮町にアパートを借りたのだ。4回目に土下座した時、「アパートも決まりました。来週、黒潮町に住民票を移して引っ越します」と告げると、吉田さんは渋々と首を縦に振った。

「一番の人に習って自分も日本一になろうと決めていましたからね。本気度を見せたいと言ったらかっこいいですけど、こっちも意地ですよ。10回でも20回でも頼み込もうと思っていたから、4回目でOKが出て、むしろ早いなって拍子抜けしたぐらい」

塩と話す

2007年、修業が始まった。初めてビニールハウスに足を踏み入れた瞬間、鳥肌が立ったという。

「なんていうんだろう、完全に違う世界でした。びっくりしましたね。昔から、塩は殺菌とか浄化に使われてきたじゃないですか。今思えばですよ、例えば悪いものがついていたのが、塩の力でワッと逃げ出したんじゃないかなって思います。別空間でしたよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
ビニールハウスのなかでは、塩がツララ状になっている

この時、佐藤さんは塩が持つ力に魅せられたのかもしれない。佐藤さんは、あえて厳しい修行を自分に課した。

修業の身ということで、給料はいらいないと申し出た。自主的に朝3時半には製塩所に出向き、トイレや部屋の掃除をした。お風呂を沸かすための薪割りも日課だった。日中は吉田さんから完全天日塩の作り方を学び、16時頃、仕事を終えるとアパートで2、3時間の仮眠をとって工事現場でアルバイトをした。夜中の2時ごろに帰宅して、3時半には製塩所にいくという日々が続いた。

お金がなかったわけではない。むしろ、それまでのショップ経営で貯金がかなりあったから、アルバイトをする必要はなかった。ただ、ダラダラする時間を極力なくして自分を追い込み、どこまでできるかを試したかったのだという。そうして1週間が経ち、1ヵ月が経ち、1年が経った頃、塩についてわかってきた。

「教えてもらうといっても、すべてを目で見て覚えるんです。人の手とか体温とか全部違うんで、誰かと同じようにやってもダメなんですよ。だから、吉田さんも何をどう伝えたらいいのかわからないという感じでしたね。とにかく毎日来て、見よう見まねで塩に触る。そうするうちに、塩と喋れるようになってくるんですよ。会話している気になるっていうのが正解かもしれないですけど」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
365日、毎日1時間から1時間半に一度、海水をかく拌する。この手作業をしている時に塩とを会話をする

塩と喋る。え? と思うかもしれないが、道を究める人に共通の感覚なのかもしれない。パリで自分の店を構え、一着100万円を超えるスーツを作っているある日本人テーラーは、「糸と会話ができる」と言っていた。極限まで指先の感覚を対象に集中することで、わずかな変化を察知し、身体が自然とその変化に対応できるようになる。そういう状態を指すのだと理解している。

「植物に話しかけると喜ぶっていうじゃないですか。そんな変なこと言うやつは気持ち悪いと思ってたんですけど、あながち間違いじゃないなって。もちろん人間の言葉で話しかけられるわけじゃないですけど、感覚的に喋ってる感覚というか、こうしてほしいと思ってるだろうという塩の気持ちはわかるようになりました。だから、テクニックとかではないんですよ。こう味付けたいならこうしなさいって塩が教えてくれる感じですから」

全財産が10万円に

塩の声が聞こえるようになると、試してみたいことが増えていった。そこで、修業を始めてから二年が経った頃、独立を決めた。製塩所を作るにあたり、海沿いの町に片っ端からアプローチするなかで、唯一、「日本一の塩を作りたい」という佐藤さんの言葉に耳を傾けたのが田野町の役場だった。ほかの町では「よそ者には土地を貸さない」と冷たくあしらわれていた佐藤さんは、田野町に製塩所を作ることに決めた。

田野町と隣町の奈半利町の間には、奈半利川が流れている。佐藤さんは、偶然にも緑豊かな山から流れてきた川が海にそそぎ、小魚や貝が育つ栄養豊富な汽水域の水を塩づくりに使うことができるようになったのだった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
海に流れ込む奈半利川

お金を貸してくれる金融機関もなかったので、4000万円あった貯金をすべて使って、ビニールハウスを2棟建てた。施設が完成した時、全財産は10万円だった。

「逃げ道をなくせば、塩を作るしかないでしょう。それに、施設さえできちゃえば、海水はタダ。僕ひとりだから人件費も必要ないし、あとは塩を作って売るだけですから」

2009年の9月、「田野屋塩二郎」で塩づくりが始まった。この屋号は、師匠の吉田さんが考えてくれたものだった。最初の1ヵ月、佐藤さんはビニールハウスで寝泊まりしていた。寝る間を惜しんで作業をしていたわけではない。

「それまでとは違う土地で、違う海水ですからね。一緒に過ごして会話しなきゃいけない。まず心を許してもらおうということです」

塩のオーダーメイド

寝食を共にすることで、田野町の海水とはすぐに打ち解けたようだ。当時は誰も知らない「田野屋塩二郎」の塩だったが、道の駅などで「どうぞ舐めて下さい」「お弁当にかけていいですよ」と言って観光客に試食してもらうと、美味しい、美味しいと飛ぶように売れた。100グラム1080円と高値ながら、1日に10万円を売り上げたこともあるという。

開業してすぐに「俺の塩は売れる!」と大きな手ごたえを得た佐藤さんは、また飽きてしまわないように日本一ではなく、世界一の職人になるために新たな挑戦を始めた。顧客の注文に応じて味や結晶の大きさを変える塩のオーダーメイドだ。

「誰もやっていないし、誰もできない。そういうことをやってやろうと思ってね。それで店とダイレクトで取引するようになったら面白いなっていうのはありましたよね」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
佐藤さんは塩の甘さと結晶の大きさをコントロールできる

ちょうど、佐藤さんが道の駅で売っていた塩の評判を聞きつけた東京や大阪などの料理人が、田野町を訪ねてくるようになっていた。話をしてみると、どんな塩を使ったらいいのか迷っている料理人が多いことがわかった。佐藤さんはカウンセリングをするように料理人がどんな料理にどんな塩を使いたいのかを聞き出し、それに合う塩を作るようになった。その細かさは、想像をはるかに超える。

「もし牛肉に合う塩をくれって言われたら、萎えますよね。こいつは料理がわかってねえなって。何の肉か、肉のどの部位か、産地はどこか、食べるのは子どもか大人か、どういう風に調理するのか、調理してから何分でお客さんに出すのか、塩を振るのはシェフなのかアルバイトなのかまで聞きます。それによって、塩の溶けやすさ、いつ香りを立たせるかとか調整が必要ですから。それで、サンプルを出してオッケーならそれを定期的に卸します。文句を言われたことはありません」

料理人の求めに応じて塩を作ることができる職人は、ほかにいない。佐藤さんの存在はあっという間に知れ渡り、注文が殺到した。佐藤さんは難しい依頼があればあるほど燃えるタイプで、相手が本気だとわかればどんな注文も断らなかった。

その結果、飲食店からのオーダーメイドの注文が全体の9割を占めるようになり、売り上げは右肩上がりで伸びていった。今ではビニールハウスが3棟になり、130の木箱で常時100種類以上の塩が作られている。木箱は常に埋まっていて、ひとつの塩が出荷されると、ウエイティングリストの1番目の塩づくりが始まる。その注文が途切れることはない。

塩の職人を目指した当初は、仕事をしながら空いた時間にはサーフィンを楽しもうと思っていたのに、波乗りともご無沙汰だ。

「今は全然やる気が起きないですね。この仕事が楽しいし、まだまだ上を狙えるっていう手ごたえもあります。生産者が上に立つような仕事、商品というのがやっぱり面白いですよね。汗流してるやつが一番上に立たなきゃいけないんですよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
「田野屋塩二郎」のビニールハウス

わが子のように

ビニールハウスをのぞかせてもらうと、そこはまるで実験室のような雰囲気だった。ある木箱には、海水と一緒に藁が敷き詰められていた。塩ソフトクリームを売りにするある牧場から、藁の風味がする塩を作って欲しいという依頼だという。蟹の甲羅が浸してある木箱、たくさんのアーモンドが浮いている木箱もあった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
同じ藁を食べている牛の乳から作るソフトクリームと合わせる塩
高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
アーモンドの塩は、アーモンド業者からの依頼

特定の場所で採った海水が送られてきて、その海水で塩を作って欲しいという依頼もある。取材に行った日はプレートに「富山湾」と書かれた木箱があった。ちなみに、1キロ100万円の塩は1年かけてトリュフを浸した海水を塩にしたものだという。

塩の甘みは100段階あり、塩の結晶の大きさは3.0ミリ、0.3ミリと0.2ミリの3種類。これらを組み合わせて、これまでに作った塩は優に1000種類を超える。

36歳の時、「もう一度、日本一を目指して何かやろう」という思いだけで、何も知らない塩の世界に踏み込んだ佐藤さん。今では塩を「作る」のではなく、わが子のように育て上げている。

「塩は生き物であり、僕の子どもです。常にそばにいてやって、何かあった時はすぐに駆け付けるし、夜は静かに寝かせてあげる。喜怒哀楽もあるんですよ。泣いてる時は、優しくしてあげるとかそんなふうに接してきました。だから、気に入らない人には売らない。お前のところにお嫁になんか出すか!と(笑)」」

雪のように真っ白で眩しい塩。この白いダイヤをかく拌するする時、佐藤さんの指先はわが子の頬を撫でるように優しく、繊細だった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎

<取材協力>

田野屋塩二郎
高知県安芸郡田野町2703-6
0887-38-2028

文・写真: 川内イオ

こちらは、2018年5月8日の記事を再編集して掲載しました。作り手の情熱が溢れるお塩に会いに、ぜひ一度訪れてみたいものです。

5分で生命を生み出す、超絶技巧の飴細工職人

棒の先にくっついたゴルフボールほどの飴(あめ)が、5分もすると水のなかに入れたらヒュッと泳ぎだしそうな金魚に変わっていく。

ガラスの仕切りに顔を寄せて、その様子を熱心に眺めている外国人の女の子がいた。中学生ぐらいだろうか。

僕が「あれはキャンディだよ。食べることができるんだ」と話しかけると、目を真ん丸にして「ワオ!」と小さく叫んだ後、近くにいた母親のもとに駆けていき、なにやら熱心に訴えていた―。

90度に熱して柔らかくなった水飴を指先で捏ね、つまみ、握りばさみで形を整えることで、まるで命ある生物のような躍動感を持つ飴細工を生み出す若き職人がいる。飴細工「アメシン」を経営する手塚新理(てづかしんり)さん、28歳だ。

飴細工職人として異色の経歴を持つ手塚新理さん
飴細工職人として異色の経歴を持つ手塚新理さん

職人といえば、熟練のベテランについて何年も修行を重ねて、技術と心得を身に着けるというイメージがある。しかし、手塚さんに師匠はいない。ほぼ独学でいまの技術を磨き上げてきた。

なぜ独学なのか。そもそも、なぜ飴細工なのか。水晶のように透き通る飴を通して、手塚さんは何を見ているのだろうか。

小学生のときに「ものづくりをして生きる」と決意

物心ついたときから、手塚さんのおもちゃは工具だった。日曜大工が好きな父親が買い揃えた工具をいじり、「ほしいものは作る」という少年時代を送っていた。

「小さいときから、何かを買い与えるというよりは、自分でなにかつくって遊びなさいという家でした。絵を描いたり、なにかを彫ったり、手先を動かして遊ぶのが好きでしたね。鉄を切る工具も家にあったので、小学生のときの夏休みの自由研究では、ナイフを作って提出したこともあります。先生からしたら、お前、どんな工具使ってんだよという感じですよね(笑)」

なにかを作り始めると、ご飯を食べるのも忘れるほど熱中した。空腹で気持ち悪くなるまで、手を動かし続けた。父は不動産業を営んでいて、母もモノづくりとは縁のない生活をしていたが、幼いながらに時間を忘れて絵を描き、彫刻し、工具を使いこなす息子に口を出さず、見守った。

「いわゆる子どもが欲しがるものは買ってくれないけど、こういう工具が欲しいというと買ってくれました。そういう意味での英才教育は受けていたのかな」

90度に熱した、火傷しそうなほどに熱い飴細工を指で引き延ばしていく
90度に熱した、火傷しそうなほどに熱い飴細工を指で引き延ばしていく

小学生のときからすでに「絶対に、ものづくりの世界で生きていくんだ」と心に決めていたという手塚さん。地元の千葉県八街市の中学を出た後は、木更津にある木更津高等専門学校に進学した。高等専門学校(以下、高専)とは、機械、コンピューターなどより専門分野に特化した学業の習得を目指す5年制の学校だ。

「いい環境でものづくりを学ぶなら高専」という理由で選んだ学校だったが、機械科に入学してしばらくすると、何か違うと思い始めていた。自分で手先を動かす職人的な側面よりも、エンジニアや研究者を養成するようなカリキュラムだと感じたからだ。

前代未聞の就職先

2年生になった頃には「このまま高専でお利口さんに勉強していてもつまらないし、自分の思い描くような未来はない」と、学校の外に目を向けるようになった。当時の手塚さんは、部活動で空手をやりながら、バイクを乗り回す毎日だった。「刺激に飢えていた」という日々のなかで、ふとした瞬間に閃いた仕事が花火師だった。

「クリエイティブな感覚が昔から強かったから、感受性とか創造性と職人としての技術がかけ合わさった世界で勝負したいなと思っていました。花火師は、刺激、ものづくり、感性という要素が揃っていてぴったりだった」

握りばさみで細かく刻み、形を整えてリアルな躍動感を出していく
握りばさみで細かく刻み、形を整えてリアルな躍動感を出していく

子どもの頃からやりたいことには没頭する性格だった手塚さんは、火が付いたように勉強を始め、高校3年生のときには火薬を無制限に取り扱える国家資格を取得。その資格を持って近隣の花火店に「働かせてほしい」と直接アプローチし、アルバイト先を見つけた。最初は雑用係だったが、花火師も若手が不足しているので歓迎された。学校をさぼって花火を打ちに行ったりしているうちに、職人の手仕事や現場の緊張感に惹かれていった。

専門技術と理論を叩き込まれる高専の学生は企業から引っ張りだこで、就職倍率が数十倍に達するそうだ。大学と同じように4年生になると就職活動が始まり、大手メーカーから内定を得る学生も続々と出てくる。

そのなかで、手塚さんは「花火師になる」と宣言。高専から花火師になる生徒は前代未聞で、教師や同級生は呆気に取られて言葉を失っていたそうだ。

たいていのことには動じない父親からは「花火の事故で中途半端にケガをするぐらいなら、きれいに死ねよ」と言われただけだったが、母親には「危ない仕事はやめてほしい」と止められた。それでも気持ちは揺るがず、アルバイト先にそのまま就職を決めた。

よみがえった夏祭りの思い出

ところが、それからわずか1年で花火師の仕事を辞めた。そこには、手仕事に懸ける譲れない想いがあった。

「社員として働き始めてわかったんですけど、いまは安い花火でいいからたくさん打ち上げてほしいという花火大会が増えているんですよ。もちろん、職人を大切にしている地域もあるし、ひとつひとつの花火にプライドを持っている職人もたくさんいます。でも、一時期は海外製の安い花火がどんどん輸入されて、質より量になっている流れがあった。僕は手仕事にこだわりたかったから、それが納得いかなかったんです」

花火師は命を懸ける仕事である。職人は、誰もが死と隣り合わせの職場で精魂込めて作り上げた花火に誇りを持っている。

しかし、大量の安い花火に埋もれ、たいして評価もされずに消費されていく。その現実を目の当たりにするのは、どんな気分だっただろう。手塚さんは、社長に「来年から中国工場の責任者をやってほしい」と言われたのをきっかけに辞表を提出。花火の世界を後にした。まだ21歳だった。

無職になって実家に戻った手塚さんは、これから自分の進むべき道を定めるために、本を読み、調べ物をして過ごした。

心配した高専時代の教師が中途採用の求人を紹介してくれたり、「うちで働かないか」と声をかけてくれた花火屋もあったが、手塚さんは「本当にやりたいことを実現するためにはどうすればいいか」を考え続けていた。

するとある日、過去の記憶がよみがえた。子どもの頃、父親と行った夏祭り。飴細工の屋台の前を通りがかったとき、父親がなにげなく言った言葉。

 

「お前、飴細工でもやれば?」

生き物を造形するときは身体の太さも形もひとつひとつ変えている
生き物を造形するときは身体の太さも形もひとつひとつ変えている

ああ、そういえば飴細工ってあったな‥‥と思った手塚さんは、飴細工とその仕事について調べてみた。

わかったのは、市場が衰退した結果、技術を学べる場所どころか、飴細工を仕事にしている人もほとんどいないということだった。いたとしても祭りの屋台レベルで、修行するという雰囲気ではない。

その一方で、飴細工自体には魅力を感じた。作る過程を見せながら、短時間で何かしらの形を表現するという仕事は、感性と技術が問われるし、緊張感もある。

手塚さんは、急激に胸が高鳴るのを感じた。

「これ、すごいチャンスだなって思ったんですよ。なんでこんなに面白そうなものなのに、誰もちゃんとやってないんだろ?って。もし本腰を入れてやったら、5年で業界の現状を引っ繰り返せるなと思いました」

「伝統だから偉い」では食っていけない

もともと、ヒリヒリするような刺激を求めて花火師になった手塚さんにとって、衰退しきった飴細工の業界にひとりで乗り込むこともまた、大きな刺激になったのだろう。

やると決めたら一直線。手塚さんは、親子が参加するような飴細工のワークショップで基礎の基礎を学ぶと、あとは家の台所で材料から研究し始めた。このとき、「実験して、データを出して、それをもとにまた実験をする」という高専時代に学んだ勉強方法が役に立った。温度や配合を変えて、飴細工をつくるのにベストになる材料を見極めた。

両親に「この子は大丈夫か?」と不審に思われながら、実験と実践を重ねて1年。ある程度、自分が思うような形を表現できるようになると、ホームページを立ち上げてイベント制作会社に売り込んだ。このときすでに、手塚さんがつくる飴細工は現在と共通する躍動感のあるリアルな造形になっていた。それは、技術を突き詰めていく過程で生まれた。

「僕は技術というものに執着していて。飴細工に限らず、技術のある人は思い描いたものをちゃんと形にできるんですよ。どんなものでも再現できるということが、技術があるということ。そうであれば、リアルなものを作れて当然ですよね」

一度、形を作って冷やしたものを熱して艶を出し、さらに細かい部分を整える
一度、形を作って冷やしたものを熱して艶を出し、さらに細かい部分を整える
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色付けを経て完成した金魚の飴は、いますぐにでも動き出しそう(提供:アメシン)
色付けを経て完成した金魚の飴は、いますぐにでも動き出しそう(提供:アメシン)

手塚さんは技術を究めることにどん欲だが、技術さえあればお客さんがついてくる、とは考えなかった。日本の花火職人の技術は世界トップレベルだが、それがいまどうなったか? だから、パッケージのデザインや自分のスタイルなどの「見せ方」にもこだわった。

「飴細工って、江戸時代に始まったストリートパフォーマンスみたいなものなんですよ。だから、ちゃんとした巻物が残っているわけじゃないけど、それでも廃れずにいまの時代まで残ってきた。それは、何かしらの魅力があって、なおかつ時代に合わせて進化し続けてきたからだと思うんです。伝統だから偉い、同じものずっと守っているのが偉いのではなく、時代に寄り添って、人からいいねって思ってもらえるものをつくらなきゃいけない。それは、見せ方に関しても同じでしょう」

飴細工の完成度にうぬ惚れることなく、いかに戦略的に付加価値をつけるかに知恵を絞った手塚さんの飴細工は、斬新なデザインで際立ち、イベントに出展するごとに注目を集めるようになった。

その追い風に乗って2013年の秋、24歳のときに浅草に店舗「アメシン」を構えた。

内装、外装の施工はほとんど自力で行った。(写真提供:アメシン)
内装、外装の施工はほとんど自力で行った。(写真提供:アメシン)

お店を出すとリスクが大きくなりますが、不安はありませんでしたか? と尋ねると、手塚さんは首を横に振った。

「コンテンツ自体が面白いから、工夫次第ですごく可能性があると思っていましたから。それに、店自体もほぼ私の手作りなんですよ。ドアを立てたり、電気やガスの工事は業者に頼みましたけど、それ以外はだいたい自分と友人でつくったから、かなり安上がりでした。店ができたらあとはやるだけ。これで身を立てられなきゃ死ぬと思ってたんで(笑)」

職人のトッププレイヤーを目指して

意外なことだが、浅草に飴細工のお店はアメシンしかない。伝統が色濃く残る浅草で24歳の若者が個性的な飴細工のお店を開いたというニュースはあっという間に広まり、メディアにも取り上げられるようになった。浅草という観光客が多い土地柄、メディアに出るたびに、話題のお店をひと目見よう、お土産を買おうとお客さんが足を運ぶようになる。そのうわさを聞きつけて、またメディアが取材にくるという好循環が生まれ、2015年5月にはニューヨークでもその技を披露。さらに同じ年の7月には、スカイツリーのおひざ元にある「ソラマチ」からも出店のオファーが届き、2店舗目を出すことになった。

ソラマチ4階にあるアメシン2号店(提供:アメシン)
ソラマチ4階にあるアメシン2号店(提供:アメシン)

アメシンが軌道に乗ると、手塚さんに弟子入りしたいという若者も現れるようになった。それがひとり、ふたりと増えていって、現在7名が修業を積む。アルバイトを含めると総勢12名のスタッフを抱えるアメシンは、いまや業界最大手だ。

市場が縮小して職人が食えなくなり、後継者が不足して消滅の危機に陥るという負のスパイラルを独力で断ち切り、店舗を増やし、若者を引き付けている手塚さんは、飴細工の業界のみならず、後継者不足に悩むものづくりや職人の世界で異彩を放つ。

「うちわ」をモチーフにしたうちわ飴はソラマチ店限定商品(提供:アメシン)
「うちわ」をモチーフにしたうちわ飴はソラマチ店限定商品(提供:アメシン)

その意味を自覚する手塚さんは、飴細工という枠を超えて「職人・手塚新理」を最大限に活用しようとしている。

「私自身は自分のことを職人であり、プロデューサーでもあると思っています。職人としてはもっと技術を高められると思うし、プロデューサーとしては手塚新理を職人のトッププレイヤーにして、楽しく仕事をしながらしっかりと稼ぐ姿をもっと世界に向けて発信したいですね。

活躍する姿を見せて、次の世代から職人になりたいと思う人がどんどん出てきたら、面白くなりますよ。そのためにも、コツコツものを作っている人たちがもっと日の目をみる環境を作っていきたいし、手仕事にお金を落としてくれる仕組みづくりもしなきゃいけない。

飴細工と同じく、日本のモノ作りも見せ方が下手なだけでポテンシャルはあると思うから」

衰退しきっていた飴細工の世界に飛び込み、わずか7年で業界をけん引するまでになった男は、いま再び昂っている。

次のターゲットは、課題が山積みの日本のモノづくり。技術の尊さを知る職人の心とアメシンを世に出したプロデュース力の二刀流で、新風を吹き込む。

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<取材協力>
浅草 飴細工 アメシン
東京都台東区今戸1-4-3
03-5808-7988

文・写真:川内イオ

この記事は、2017年5月15日に公開したものを再編集して掲載いたしました