“This is a pen”だけで単身渡英した25歳が「世界の庭師」になるまで

改革者としての千利休

「千利休って、当時は『こいつクレイジーやろ!』と思われていたと思います。それぐらい、千利休がやったことは半端ない、すごいことなんですよね」

いかにも楽しそうにこう話すのは、世界を舞台に活躍する庭師・山口陽介さん。かつて千利休が起こした「庭」に関するイノベーションについて、解説してくれた。

「千利休は、お茶庭というジャンル作ったんですけどね。庭に明かりを灯すために、石灯籠を使った人なんです。灯篭はもともと神社の参道の両端に置かれていたもので、魂の道しるべなんですよ。それを庭の明かりに使うというのは、昔の人からすればかなり奇抜やったはず。

でも、それが現代まで受け継がれているということは、利休によってお茶の世界がアップデートされたということでしょ。利休は常識に捉われないから今も生きてたら、お茶庭にLEDとかプロジェクションマッピングとか、絶対使ってると思いますよ」

千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた茶人で、現代に伝わる茶道を生み出した「茶聖」として称えられている。しかし、裏を返せばその時代、ほかの茶人とは異なる茶の道を歩む先駆者であり、改革者だったともいえる。ちなみに、千利休は茶室にも変革をもたらしたことで知られる。

「庭」も、茶道と同じく歴史が深い。例えば、京都には平安時代から存在する神泉苑という庭園がある。しかし、その歴史や技法を忠実に守るだけでは、新しいものは生まれない。そう考えてきた山口さんは、千利休に倣い、常に自分と庭をアップデートすることを意識してきた。それが、現在のキャリアにつながっている。

波佐見の山・西海園芸 山口陽介
山口さんが所有する山の上から見た波佐見町

木を枯らせて気づいたこと

2016年、世界三大ガーデンフェスティバルのひとつ「シンガポール・ガーデン・フェスティバル」で金賞を受賞。

ちょうど今開催中の南半球最大の規模を誇る「メルボルン国際フラワー&ガーデンショー」に、日本人として初めて招待を受けて参加。日本全国にクライアントを抱え、昨年はシンガポールの資産家から指名を受けて現地で庭を作っている。

山口さんの拠点は生まれ故郷の長崎県波佐見町にあるが、いくつものプロジェクトを抱えて国内外を飛び回る日々。庭師の仕事は、依頼を受けて庭園を作ったり、庭木の手入れをすることが主で、世の中の庭師の大半は地元密着型。山口さんのような存在は稀だ。山口さんが手掛けた庭は、どうして国境を越えて人の心を捉えるのか。山口さんの人生を振り返りながら、そこに迫りたい。

西海園芸 庭師 山口陽介
山のなかに作った小屋も作業場に

山口さんは、波佐見町の造園会社「西海園芸」の二代目。しかし、「高校の時は美容師とかファッション系の華やかな感じが好きで、植木屋に興味はなかった」と振り返る。

しかし、父親から「一回でいいから、ちょっとやってみーな」と言われ、20歳の時、渋々ながら京都の庭師に弟子入りした。とはいえやる気はなく、いつも「早く辞めて帰りたい」と思っていた。ところがある日、その後ろ向きの気持ちが逆転した。

庭師・山口陽介さんと周る波佐見町の山

「朝早くに仕事に行って、夜遅くまで働いた後に、広い植木畑に水をやらないといけないんですよ。そんなんやってられるかと思って、煙草を吸いながら適当に水をあげてたら、木が枯れちゃって。それで、親方に思いっきり怒られたんですけど、その時に、木に対して『生きてんだ、こいつらも』と思ったんです。

当たり前のことなんですけど、それまではモノとしか見てなかったからね。木も命ある生き物と気づいてから、仕事が面白くなってすごくのめり込んだんですよね」

京都を離れ、ガーデニングの本場へ

京都時代の親方は、少し変わっていた。鶏やイノシシを飼い、育てて食べた。山口さんの仕事にはその動物たちの世話も含まれていた。

鶏やうり坊の世話は、庭仕事とは関係がないように思える。若かりし頃の山口さんも、「なんで俺が!」と思っていたそうだ。しかし、いま振り返れば庭の仕事とすべてがつながっていると語る。

「命をいただくということ、人間が生きるための食物連鎖ということを体で理解したよね。これは、水をあげなくて木を枯らしたことと一緒やなっていうことは腑に落ちていて。命ということでいえば、植物も鶏もイノシシも変わらないでしょう。多分、親方はそれを俺に伝えたかったんかなあって。

それに、鶏やイノシシを世話することで、鶏が食べない虫とか、イノシシはミカンを食べないとか、そういうことも学んだし。それが直接何かの役に立つわけじゃないけど、庭のことだけじゃなくて広い意味での知恵を学んだよね」

すぐに辞めるはずだった京都での修業は、気づけば5年が経っていた。ちょうどその頃、日本に「ガーデニング」という言葉が入ってきた。

ファッションが好きだった山口さんは、ファッション雑誌や写真集を通して「ガーデニング」に触れていた。ヨーロッパの庭で撮影された写真も多かったからだ。そして、日本の庭とは明らかに違う手法や見た目に、興味を抱くようになった。

その当時、京都では本当のガーデニングを知る人はおらず、みんなが手探り状態。そこで山口さんは、自分の好奇心に従った。

「ほんまもん、見に行こう」

親方の元を離れ、2005年、25歳の時に単身でガーデニングの本場、イギリスに渡った。英語といえば、「This is a pen」ぐらいしかわからなかった。

波佐見の西海園芸 山口陽介さん

王立植物園「キューガーデン」にアタック

イギリスにはひとりだけ、知り合いがいた。山口さんはそこに転がり込もうと考えていたが、甘かった。「1週間ぐらいしたら、ひとりで暮らせよ」と言われて大慌て。なんとかアパートの一室を借りて、何もかもが手探り状態でのひとり暮らしが始まった。

山口さんは、ガーデニングを学ぶためにいきなり最高峰の門を叩いた。現地で知り合った日本人女性の彼氏(ドイツ人)に頼んで英語で履歴書を書いてもらい、250年に及ぶ歴史を誇る世界遺産の王立植物園「キューガーデン」に「働きたい」とアプローチしたのだ。

ドイツ人の手による完璧な履歴書を提出した成果か、書類審査はパス。面接では、面接官との会話はほとんど成立しなかったが、日本最高峰の庭園が集中する京都で5年間仕事をしていたという経歴が評価されて、キューガーデンで働くことになった。若さゆえの勢いでぶち当たり、開いた扉だった。

キューガーデンには、世界中のガーデナーが集う。血気盛んな山口さんは「絶対負けん!」と気を張りながらも、自分が持っていない技術やセンスはどん欲に盗んだという。

「日本には差し色という感覚はあるでしょう。例えば、真っ白なところに赤の墨を落として、余白を楽しむ『間』を大切にする文化。一方の欧米は、鮮やかな色使いで華やかさを演出する。『間』を潰しながら、色で高低差を出したりするんですよ。そのスキルを学ぶのが、自分にとって新鮮でした」

「あと、仕事は17時に終わるんだけど、みんな16時50分にはソワソワし始める。日本はこの現場が終わらんと帰れんという文化だから、その価値観の違いは面白かったよなあ。でも、時間通りに仕事を終えてプライベートを楽しむというのはすごく豊かなことやなと思うようになって、日本に帰ってからもあまり残業しないようになったよね」

波佐見町 西海園芸の庭師 山口陽介さん

日本庭園の担当に抜擢

キューガーデンで仕事を始めてしばらくした頃、スタッフから「うちの日本庭園、どう思う?」と尋ねられた。

「素直にいって、汚い。松の木に漬物石みたいのをぶら下げているけど、今の日本ではやらないし、ダサいと思う」

率直すぎる山口さんは、思いつく限りのダメ出しをした。その話を聞いたスタッフは、一本の木を指して「切ってみろ」と言ってきた。恐らく、偉そうなことを言っている若造のお手並み拝見、というところだろう。

そこで山口さんは、枝を切る際に、なぜ切るのか一本一本、すべての理由を説明しながら、鋏を入れていった。

「この枝を切って光を入れることによってこういう芽が出るよ、とか、この枝を切って光と風を通すことによって虫がつきにくくなるよ、という話をしました」

波佐見 西海園芸の山口陽介
その瞬間の見栄えではなく、木の未来を見据えて仕事をする

すると、スタッフは「アメージング!」と絶賛。

「日本庭園のバックアップの講師をやって欲しい」と頼まれて、それから日本庭園の担当になった。キューガーデンの仕事としてはステップアップだったが、ギラギラした若者にそんなことは関係ない。

数カ月後、「勉強しにきたのに、伝える側に回ったら面白くなくなった」とキューガーデンの仕事を辞め、バックパックを背負って旅に出た。

波佐見ハラン

「良い庭」とは?

そうして2006年、帰国。波佐見町に戻った山口さんは、うなだれていた。

1年の欧州滞在で刺激を受け、「なにか面白いことをやってやろう」と前のめりになっていたが、空回り。当時は波佐見町にあるジャズバーに遅くまで入り浸っては愚痴っていたそうだ。

振り返ってみれば、山口さんにとってこの時期は、キューガーデンで世界中のガーデナーから吸収した養分が体と脳にいきわたるのに必要な時間だったのかもしれない。

京都とイギリスで培った経験がブレンドされ、芽吹き、花を咲かせたのは2013年。日本全国から30組のガーデナーが招待され、ハウステンボスで開催されたガーデニングジャパンカップフラワーショーで、最優秀作品賞を獲得したのだ。

それからは毎年、さまざまな賞を国内外で受賞。山口陽介の名が知れ渡り、仕事の幅も広がっていった。

山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品

山口さんにとって「良い庭」とは、「愛される庭」。100年先まで残したい、孫の時代まで伝えたいと思われる庭づくりを目指している。

そのために、庭に関するすべての設計に携わる。庭師という仕事は樹木、植物を扱う仕事というイメージがあるが、土を作り、庭に水を流す時には配水管の配置を考え、水の音まで調整し、石垣や土壁を作り、瓦を組む。

「京都時代の親方に、何でも屋になれって言われたんですよ。一本の木しか見えてなかったら空間が見えないし、建築が見えてなかったら庭も見えない。家と庭が見えてなかったら、家族も見えない。

そういういろいろな面をみて植木屋、庭師というフィルターで通せるかというのが大切やと思ってるんで」

武雄市の高野寺
佐賀県武雄市にある高野寺の日本庭園では、昔ながらの手法で土壁もイチから作った
武雄市の高野寺
高野寺の日本庭園を流れる小川。高低差などでせせらぎの音もコントロールする
武雄の高野寺
武雄市の高野寺
古い瓦を買い集め、1枚、1枚、丁寧に組んでいく。これも庭師の仕事 / 高野寺
西海園芸 山口陽介
山口さんが仕事をする上で参考にするのはリアルな山の風景

シンガポールで北海道を再現

「何でも屋」になることで、視野が広がる。植物学に加えて土木、建築などの知識もあれば、やれることの選択肢が増える。そうすれば、庭のポテンシャルが高まる。

例えばシンガポールでの仕事は、クライアントと話をしているうちに雪が好きで、毎年北海道に通っているということがわかった。そこで、コンセプトを「エブリデー北海道」にして、四季のない熱帯雨林気候のシンガポールで北海道を感じさせる庭を作った。

「日本人だから紅葉を植えるんでしょって言われるんだけど、そうじゃない。

単純に海外に紅葉や松を植える江戸時代のスタイルを持っていてもね、後世まで絶対残らんもんやなと思うし。もうひとつ深いところを伝えんと、僕はダメだと思っていて。だから今回は音や色で涼しく感じるという日本の文化、伝統を使って北海道を表現しました。

例えば、雪をイメージさせる白い葉の植物をベースに植えて、白い砂利を使ったり、壁を白く塗ったり。そこに水を流して川の音を聞かせたら、なんとなく涼しく見えるわけじゃないですか。クライアントもすごく喜んでましたよ」

自分がクライアントの立場になった時、どこかで見たような昔ながらの日本庭園と、大好きな北海道や雪をテーマにしたオリジナルの日本庭園、どちらを愛するだろうか。

答えを言うまでもないだろう。山口さんにとっても、熱帯雨林気候の土地で音や色を使って涼しく見せるというチャレンジとなった。

波佐見 西海園芸の山口陽介さん 山で

究極の庭づくり

こういった仕事ぶりによって今や引っ張りの山口さんだが、奢りはない。むしろ、どん欲だ。その理由は、好敵手の存在。

ひとりは、香港ディズニーランドやリゾートホテルの造園を手掛けるマレーシア人のリム・イン・チョングさん。もうひとりは、ブラッド・ピットなどハリウッドの超VIPの庭を手掛ける南アフリカ人のレオン・クルーゲさん。

「リムさんも、レオンも本当にすごいガーデナーであり、デザイナーでまだ勝てないなあ。ふたりのことは本当に尊敬しとるけんな。ただ、俺は俺の良さがあると思うし、ふたりはそれも言ってくれるから、良きライバルだよね。それぞれ、世界中で庭つくっとるけえ、日本の物件があると、『陽介、ちょっと手伝える?』って相談がきたりするし」

波佐見の庭師 山口陽介

山口さんは、自分をデザイナー兼職人と捉えている。そのデザインの部分で、ふたりの力に及んでいないと自覚している。だから、庭とは関係ないジャンルで経験を積んだデザイナーを雇いたいと考えている。

「僕は、発想豊かじゃないけん、実は。かけ算がうまいだけで、生み出すのは下手だなっていつも思うし。でも、対世界で見たら自分にはデザインの力がもっと必要だから、デザイナーに来てもらって、得意なかけ算で相乗効果を生み出したい」

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
自分をアップデートすることで、庭をアップデートする

山口さんは自分の限界に挑むように、「究極の庭づくり」も始めた。

波佐見町近隣の荒れた山をいくつも購入し、自ら整備。これまでに桜と紅葉の木を2000本以上植えてきた。

焼き物の産地である波佐見町がいつか焼き物だけで食べられなくなった時に備えて、春に桜、秋に紅葉が見どころになる観光名所を作ろうという個人的なプロジェクトだ。

山口さんは木々が成長する100年先を見据えて、イメージを膨らませている。

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
山口さんが所有する山の様子。桜と紅葉の木を植えると目印に棒を立てる

こうして自分の能力を拡張し続けたその先に、後の世に受け継がれるような日本の庭の新しいヒントがあるのかもしれない。その答えを探して、山口さんの庭を巡る旅は続く。

「仲間たちと冗談でよく、死んだ時に千利休に茶をたててもらえるくらい面白いことをしようやって言ってるんです。お前らようやったなあって」

波佐見 西海園芸の山口陽介

<取材協力>
西海園芸

文:川内イオ
写真:mitsugu uehara

稀代の左官・挾土秀平が語る。ものづくりの果てなき苦悩と無限の可能性

「助かった、神様ありがとう、だな」

左官として、日本で唯一無二の地位を築いている挾土秀平(はさど しゅうへい)さん。「ひとつの仕事を終えた時、どんな気持ちになるんですか?」と尋ねた時、挾土さんは少し遠くを見るようにしてこう答えた。

その瞬間、予想外の答えに「え?」と聞き返してしまったが、取材を終えてから、ようやく理解することができた。この言葉には、挾土さんの「いま」が詰まっていた。

職人の枠組みに収まらない存在

総理公邸、洞爺湖サミット会議場、ペニンシュラ東京、アマン東京、JALの羽田空港国際線ファーストクラスラウンジ、NHK大河ドラマ『真田丸』の題字とその題字が記された壁……。さまざまなシチュエーションで「日本の顔」となる場所に、挾土さん率いる「職人社 秀平組」が手掛けた土壁が掲げられている。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
挟土さんが手掛けた高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁と「真田丸」の題字(写真提供:職人社 秀平組)

左官とは、鏝(こて)を使って建物の壁や床などを塗り、仕上げる職人を指す。挟土さんの仕事はどれもがユニークで、同じ顔をしたものはない。最近ではミキモト銀座本店の新社屋に、ジュエリーが持つ品と妖艶さを兼ね備えたような「波」をイメージした5メートルの作品が納められた。

挾土さんは、これらの作品を土と自然の素材だけを使って生み出す。飛騨高山の郊外、自然豊かな里山のなかにある「職人社 秀平組」のアトリエを訪ねると、土から作られたとは思えない多彩な色と表現が目に飛び込んできて、思わずため息が漏れた。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィスは飛騨高山の田畑と野山に囲まれている

左官は日本の伝統的な職業だが、挾土さんはその枠組みに収まらない存在だ。画廊やギャラリーで個展を開き、テレビ、雑誌などメディアへの出演も多い。これほどスポットライトを浴びる職人はほかにいないだろう。しかしその歩みは「土下座」から始まった。

ひとりで壁に向き合った日々

1962年7月1日、左官業を営む家に生を受けた挾土さん。「いつかは継ぐんだろうな」という想いを抱えながら育ち、高校を卒業してから左官の道を歩み始めた。修行先は、熊本の建設業者。技能五輪で左官の金メダリストを何人も輩出している会社だった。

「その会社とはなんの縁もなかったんだけど、どうせならそういうレベルの高いところで修行したいと思ったんだ。でも最初は断られて、土下座して『お願いします』って頼み込んで入れてもらったよ」

「無理に雇ってもらったんだから、なんだ、全然だめだって言われちゃいかん」。そう思った挾土さんは、夕飯を食べてから寝るまでの間、職場で練習に励んだ。暑くても、寒くても、仕事がきつかった日も、何時間もひとりで壁に向き合った。

腕利きの先輩たちも、その姿を見ていたのだろう。いつしか、挾土さんが練習をしていると、ふらっと現れては一言、二言、アドバイスをくれるようになった。仕事の現場でも「一緒にやるぞ」と声をかけてくれた。

先輩たちのアドバイスを聞き、技を間近に見ることで挾土さんの技術はみるみるうちに上達。その成長速度は圧倒的で、21歳の時に初めて出場した技能五輪全国大会・左官の部で、優勝する。左官業に就いて2年1ヵ月しか経っていない人間が優勝するのは、極めて稀なことだった。しかし、挾土さんにとっては、驚くような結果ではなかったようだ。

「高校野球でもなんでも、どこよりも練習したチームが勝つわけでしょ。俺もそういうふうにやったから。誰よりも練習したよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
アトリエに置かれていた土壁。アトリエでは日々実験が行われている。

憤怒の気持ちだけを燃料に

熊本で4年の修業を積んだ挾土さんは、名古屋にある別の会社で2年過ごした後、25歳の時に跡取りとして実家に戻った。それから、想像もしなかった苦汁の日々が始まった。

もともといた職人たちにとって、腕に覚えのある社長の息子の存在は厄介な存在、一緒に仕事をしづらい存在だったのかもしれない。だからこそ挾土さんを自分たちに従わせようとしたのかもしれないが、それだけが理由とも思えないような酷い仕打ちが待っていた。

30年、40年の経験を持つ会社で一番の職人がやるような現場で「お前が頭で入れ」と指示されて、10人の職人が必要な現場で5人しかいないということが繰り返されたのである。誰から見ても、左官の仕事を始めてまだ10年前後の若者が仕切るような現場ではなかった。

そこで素直に頭を下げて助けを乞えば、その後の関係も変わったのかもしれないが、挾土さんはそうしなかった。憤慨の気持ちと自分で何とかしてやるという反骨心を燃料にして、がむしゃらに働いた。自分が深夜まで働けばふたり分の仕事量になると考えて、毎日、遅くまでコテを握り続けた。肉体を酷使するだけでは限界があるから、頭もフル回転させて、どういう交渉してどういう段取りを組めば10人分の仕事が5人で済むかを考えた。

そうしてなんとか及第点で現場を終えると、さらに厳しい仕事が割り振られる。必死でその現場をクリアすると、より過酷な仕事を任される。挾土さんは「憎しみと苛立ちしかなかった」と振り返るが、ひとつだけ確かなことは、この圧力のなかで職人として鍛え上げられていったということだ。

「誰も経験できないことをしたと思うよ、この業界では。それで経験値が増えて、賢くなって強くなって。そのうちに、前はあの環境でやったんだから、これくらいは大丈夫だろうとか、自分でさばける仕事の規模とか幅がでかくなるし、視界も広くなるよね」

起死回生の転機

挾土さんは無理難題を吹っかけられてもそれに屈せず、むしろ糧にして大きくなっていった。そんな若者の姿を見て、挟土さんにつらく当たっていた職人たちは何を思ったのだろう。この悪意のサイクルは、14年間も続いた。

最初の頃は若さと勢いに任せて突っ走っていた挾土さんも、逆風に晒され続けるうちに心身のバランスが狂い始めた。仕事を始めようとすると吐いてしまう。上司の顔を見るだけで、胸が締め付けられて苦しくなる。頑張ろうと思っても、体がいうことを聞かない。当時の心境を象徴するような作品が、アトリエに飾られている。「鬱」と大きく書かれた土のキャンバスに、13匹のミミズを這わせた作品だ。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
見ているだけで憂鬱になりそうな作品

「このまま続けていたら心がダメになる」と思い始めた頃に、起死回生の転機が訪れた。ある日、偶然に出会った、能率ではなく高いクオリティと技能を求められる物件。その物件は土壁だった。それまでの14年間、セメントの仕事ばかりだったから、新鮮だった。挾土さんは意気に感じて、腕によりをかけて仕事にあたった。すると、主に土壁を手掛ける職人や雑誌『左官教室』の編集長である小林澄夫さんから高い評価を得た。

話をしてみると、同じ壁でも価格と効率が重視されるコンクリートと、繊細さや仕上がりの美しさ、周囲との調和が大切な土壁では求められることが大きく違うことがわかった。挾土さんは目を開かれる思いだった。

「例えば200人も300人もいて、いつもケンカしてるような人材派遣センターがあってさ。そこで仕事をしてたら、突然、舞台の仕事がきてね。良い役者や監督に出会って、能率じゃなくて深いことをひとつでもしっかりやりなさいって言われたらさ、やっぱりその世界に惹きつけられるでしょ。それまで俺がいたような金とか権力とかどっちが上とか下とか、ガキみたいなしょぼい世界じゃなくて、人間的で豊かで深い世界でしょう」

新たな苦悩の始まり

あっという間に土壁の世界にのめり込んだ挾土さんは、コンクリートの世界から逃れるようにして独立。数少ない理解者だった12人の職人を引き連れて「職人社 秀平組」を立ち上げた。2001年、38歳の時だった。

こうして苦痛の日々とは別れを告げたが、新たな苦悩が始まった。最初の頃は自分の技能やこだわり、完成度の高さを評価される仕事が楽しくて仕方なかったという。土壁についてははほぼ独学だったから、既成概念に捉われないアイデアがどんどん湧いてきては、それを試した。その斬新さと、イメージを着実に具現化する能力が関係者に評価され、次第に「挾土秀平」の名が知れ渡るようになった。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィス

そうして、「吐き気がする依頼」がくるようになった。それは冒頭に並べたような人の目に多く触れる、責任重大な「絶対に失敗できない仕事」を指す。最初にその重圧を感じたのは2005年、TBS系のニュース番組『NEWS23』のスタジオでキャスターたちの背景に掲げられる壁の依頼だった。それから現在まで、同様の大きな仕事が途絶えることなく続く。

「『NEWS23』っていったらとんでもない数の人が観る番組でしょ。総理公邸とか洞爺湖サミットの会議場は国の威信にかかわる仕事だし、ペニンシュラ東京とかアマン東京は外資系の世界の仕事でしょう。それは、失敗したって『ごめんなさい!』で済む仕事とは圧力の規模が違うわな。しかも、やり直しが許されないし、失敗したら訴訟の可能性だってある。謝ってすまん場所で、絶対80点以上取りなさいって言われたら吐き気するよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
『NEWS23』の背景となった「鳳凰の壁」を作る挟土さん。(写真提供:職人社 秀平組)
職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
スタジオの様子。当時の番組テーマ曲「to you」から受けたイメージを表現したそう。(写真提供:職人社 秀平組)

勉強しないことがオリジナリティ

「吐き気がする依頼」を無事に終えるたびに、「もうやりたくない」と思うという。それでも仕事を請けるのは、「職人社 秀平組」の親分としての矜持だった。

「俺たちは、左官の世界では最後の一家だと思ってるから。俺についてきてくれる仲間がいるなら、飯を食わせていくのは俺の責任なんだよ。そこで仕事選ぶなんて、ありえない。むしろ、自分を殺してでもやるよ。それくらい仲間が大事なんだ。仕事選ぶっていうのはアーティスト。俺は一家の親分なんだから」

この言葉を聞いてふと思った。挾土さんは仕事を選ばない。でも求められる仕事の規模やクオリティは、間違いなくアートの領域だ。挾土さんの「吐き気」は、そこにも理由がある。30代後半まで、無名の左官としてひたすらコンクリートの壁を作っていた自分が、常にデザイナーやアーティストと同じ土俵に立たされて、センスや美意識を問われるのだ。しかも一家の長として仲間たちの生活を背負って。その緊張感を想像し、「美的センスを磨くために何かしていることはありますか?」と尋ねると、挾土さんは首を横に振った。

「勉強はしたことないよ。だって勉強したらパクリが生まれるでしょう。色合いとかも知らんうちに頭に残って、誰かに似てしまう。似てないことが新しいということで、それが評価になるわけでしょう。勉強しないってことがオリジナリティじゃないのかな」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
土と自然の素材だけを使って生み出す鮮やかな色

「休む方法を探さんと仕事ができなくなるぞ」

この答えに驚き、思わず、それでは自分の内面だけで勝負していることですか? 自分のイマジネーションに限界があるかもしれないという怖さはないんですか? と重ねて聞くと、挾土さんは「可能性は無限にある。それを自分が探せるかどうかだよ」と微笑んだ。

「ヒントは日常にごまんとあるでしょう。目って1日に何万もの写真を撮っているのと同じ。そのなかからどれを選ぶのかという話だね。例えば畑を鍬で耕している人がいてさ。ぐっと鍬で掘った跡を見たときに美しいと思ったら、それは壁になるかもしれないと思うし。あらゆるところにあるはずだよ、ヒントは」

「ヒントは日常のあらゆる瞬間にある」と言われても、大半の人はそれほど気を張って生きてはいないだろう。しかし、全国から依頼が届き、それに応じる挾土さんは、常にヒントを探し続けなくてはいけない。その生活は、わずかな休息すら奪ってしまった。

「休むことは課題。日曜は休日にしてるけど、結局、何を見ても壁のことにつなげて考えるようになってるから、けっこう疲れる。昔はカラオケで発散したけど、そういうことでは収まらなくなった。酒飲んでる時は、脳がもっと回転してるしな。だから、酒飲む時はいつもメモ帳を持ってて、閃いたらメモを取る。脳が24時間営業みたいなもんで、最近は医者に、休む方法を探さないと本当に仕事ができなくなるぞって言われたんだ」

漫画家・井上雄彦さんとの出会い

振り返ってみれば、周囲からの圧力に負けじと過ごした14年、独立してからの16年、合わせて30年、そのほとんどで息を詰めるような時間を過ごしてきた。それでもその合間、ある瞬間、特別な出会いを得て、あるいは会心の作品を仕上げて、胸がすくこともある。

例えば、2015年に放送されたNHKの大河ドラマ『真田丸』の仕事では、地元松之木町の土を使って高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁を築き、そこにコテで「真田丸」とタイトルの文字を刻んだ。ぶっつけ本番、一度きりの勝負で挑んだこの大作は、挾土さんが「天才」と認めるある人との出会いによって、完成することができたという。

「(漫画家の)井上雄彦さん。何回か会って話したり、あの人が描くところも見たりしているけど、本物の天才やな。あの人は一本の線を描いただけでアートになるでしょ。何が美しいって、あの人の髪の毛の表現。本当に生きたような線で、あれが俺に焼き付いてるんだな。あの人に会って、あの線の美しさが俺に焼き付いていたから、あの真田丸っていう字が書けたんだと思う。真田丸の字もすかーっとして線がきれいでしょ。だから俺はあの人に感謝してるの。真田丸の仕事ができたのは、あの人のおかげだと思う」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)真田丸の文字
コテで書いたとは思えない「真田丸」の文字

挾土さんは何度も「井上さんは天才」と絶賛した後で、「でも俺は違う」と言った。

「能力があればこんな風に疲れないよ。能力がある人はこんなに悩まないで、もっとさらっとできちゃうでしょ。だから俺はダメだなって思うもん」

ものづくりは自然との交信

天才は悩まないのか。悩み、疲れるから凡人なのか。それは意見が分かれるところだろうが、挾土さんが寝ても覚めても気を張り詰め、酒を飲みながらメモを取り、人知れず足掻いて作り上げてきた土の壁は、ひび割れの線一本にまでこだわっている。その繊細さは、井上雄彦さんが描く髪の毛一本の美しさに通じるものがあるのではないだろうか。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「ものづくり・匠の技の祭典2017」で披露した葛飾北斎の浮世絵をモチーフにした作品。間近で見ると細かな表現が目に留まる。

「ものづくりは自然との交信だから。その想いは年々強くなってくんだ。仕上がった壁の表面にそれを感じるよな。この季節のこの環境のこの時の感覚でできたもの、自然の空気とか光が乾燥させてできた肌は、二度と同じものができない。それが価値になるでしょう。同じことができないという意味で、自然のひび割れという現象すらも価値になる。ただし、自分のイメージと違うひびが入ったら、壊さなあかんよな。なんでも自然だからいいってわけじゃない。お客さんはわからないかもしれないけど、そこで妥協したら誰かが気づく。それで次の仕事がなくなるかもしれない。だからこの仕事は難しいんだよ」

一家の親分として仲間を食わせていくために、どんな仕事もいとわない。絶対に80点以上を取らなければいけない、失敗したら後がないというプレッシャーのなかで、限界まで考え抜く。手を動かす。そして、コントロールできない「自然」とも向き合う。だから、だろう。ひとつの現場が無事に終わるたびに、この言葉が浮かんでくるのだ。

「助かった、神様ありがとう」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」挾土秀平さん

<取材協力>
「左官挾土秀平 | Official website of Syuhei Hasado」
岐阜県高山市松之木町1108-6
0577-37-6226

文・写真:川内イオ

ルーヴル美術館にも和紙を納める人間国宝・岩野市兵衛の尽きせぬ情熱

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は現在83歳の人間国宝で、いまも売れっ子の越前和紙職人のお話をお届けします。

世界の美術館を対象にした来場者数のランキングで、毎年のようにナンバーワンに輝くルーヴル美術館。所蔵品55万点、昨年も740万人が訪れた世界最大級の美術館が、福井県越前市の小さな工房から越前和紙を取り寄せていることは、あまり知られていない。

手漉き和紙の産地として1500年の歴史を誇る越前市五箇地区の一角、周囲を山に囲まれた静かな集落のなかに、その工房はある。こんにちは、と玄関をくぐると、ルーヴル美術館からの依頼を受けて、2014年から和紙を納めている九代目・岩野市兵衛さんが、奥さん、息子さんと一緒に仕事をしている最中だった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
自然豊かな越前市五箇地区の「和紙の里」

日本で唯一の和紙

2000年6月、国指定重要無形文化財に認定された岩野さん。わかりやすく表現すると、人間国宝だ。人間国宝というと、高価な着物を着て、立派な工房で大勢の弟子を抱えているというイメージがあったが、岩野さんの姿を見てすぐにその偏見を改めた。1933年生まれでこの9月に84歳を迎える岩野さんは、いまも現役の職人として紙を漉いている。取材に訪れた真夏の午後も、涼しげなシャツ一枚で、正座をして黙々と指先を動かしていた。

現在日本で唯一、岩野さんとその家族だけが手掛けているのは、越前和紙のなかでも越前生漉奉書(えちぜんきずきぼうしょ)と呼ばれる最高級の和紙。原料として楮(こうぞ/クワ科の植物)だけを用い、古来より伝わる手漉きの技法で作られている。
ほぼ薬品を使わず、気の遠くなるような緻密な工程を経て漉かれた紙は、美術品を痛めないだけでなく、驚異的な耐久性と保存性を誇り、詳しくは後述するが主にルーヴル美術館の膨大な収蔵品の修復に用いられているという。

昔ながらの「川小屋」

岩野さんの工房は自宅の敷地内で複数に分かれていて、今回、岩野さんが作業をしていた所は独特の作りになっていた。南側の壁はお風呂で使うようなタイル張りで、水が緩やかに流れている。工房の片側にあるパイプからすぐ近くの山林の湧水をくみ取り、もう片側から流れ出るようになっているのだ。工房が湧水の通り道になっていることから、昔から「川小屋」と呼ばれているそうだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「川小屋」での作業の様子

僕が訪ねた時、川小屋で行われていたのは「選り(より)」。岩野さんの言葉では「ちり取り」という。

「今日の午前中、楮をでっかいお釜で炊いて、それからちり取りです。黄色い部分が固いから、固いところだけを取るの。きれいに取らないと、紙の表面に黄色い線がすっすっすっと入ってしまうんですね。もっと簡単な方法もあるんですよ。真冬でも水に手を突っ込んでこんなひとつひとつのちりをとらなくても、薬品の力を借りれば簡単に真っ白になる。そこに人工で着色してから漉けば見た目は変わらない紙になるんだ。いまの時代にこんだけやっている所は他にないでしょうね」

人間国宝といっても気取ったところがまるでない岩野さんが、これがちり、と見せてくれたのは、本当に微小な楮の繊維片。黄色い、固いと言われても素人目にはほかの部分と判別がつかないが、岩野さんは話をしながら、パッパッパッと「ちり取り」を続けている。頼りになるのは目と手触りだけだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
指先で細かな「ちり」を取る岩野さん

アーティストを虜にする和紙

「選り」は越前生漉奉書を作るうえで欠かせない作業ながら、ほとんど化学薬品に頼らない伝統的な技法の一部に過ぎない。岩野さんが薬品を使うのは、最初に楮を煮る時だけ。アルカリ成分で木の繊維を柔らかくするために、ソーダ灰を用いている。

煮だした繊維を「選る」と、繊維を叩いて一本一本をバラバラにする「叩解(こうかい)」という作業に続く。その後に一度水洗いしてでんぷん質を取り、きれいな繊維だけの状態にしてからようやく漉舟(すきぶね)に入れて紙を漉く。

このとき、一般的には漉船にトロロアオイという植物の根を原料にした「ねり」を入れて水の粘度を高めるが、岩野さんは北海道からノリウツギという低木の樹皮を仕入れて、「ねり」にしている。トロロアオイに比べるとかなりの高額だが、「優しい粘りが出る」というのが理由だ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
成長が遅く、木になるのに10年以上かかるというノリウツギの樹皮

紙の厚みを出すために何度か漉き重ねたうえで、ジャッキに載せて水を絞る。これを「圧搾(あっさく)」という。圧搾が終わると、漉き重ねた紙を一枚、一枚はがし、板に張り付けて暖かい部屋で室乾燥(むろかんそう)にかける。温度を高くするとしっかり乾燥する前にめくれ上がる可能性があるので、時間をかけてゆっくりと乾燥させる。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
室乾燥をしている様子

この過程を経てようやく越前生漉奉書ができあがるが、岩野さんが厳しい目で検品をして製品としてのレベルに至らない紙も多い。不合格になった紙はどうなるのか。もう一度、叩解し、繊維の状態に戻して、漉き直す。岩野さんの工房で捨てられるのは「選り」の際に残ったわずかなちりぐらい。そのちりで作った紙が欲しいというリクエストもあるそうで、無駄になる素材はほとんどない。

そうして完成した越前生漉奉書は、しなやかなのに伸び縮みせず、発色が良く、色あせもしないことで主に木版画の用紙として絶大な信頼を集め、横山大観や平山郁夫、草間彌生らが作品に用いていることで知られる。先代は、桂離宮松琴亭の襖壁紙も手掛けた。

戦争で閉ざされた夢の扉

岩野さんの家は、家族経営で先祖代々この製法を守り続けてきた。岩野さんの父、八代目の岩野市兵衛さんも人間国宝で、親子で認定されるのは極めて珍しい。これまで和紙業界で人間国宝は5人しかおらず、そのうちふたりが岩野さん親子というだけで、圧倒的な技術とその希少性がわかるだろう。

しかし、いかに貴重な和紙を作る家に生まれたからといって、すぐにその運命を受け入れられるわけではない。もともと、岩野さんは「紙漉きに興味がなかった」と笑う。

「もともと版画の彫師になりたかったんですよ。子どもの頃は、鉛筆削りといえば小刀でしょう。私が持っていた小刀がとにかくよく切れて、クラスのみんなが使ってました。そうするとすぐに切れなくなるから、家で研ぐ。研ぐのも好きで、毎日研いでました。それで、キレのいい刃物があれば良い彫刻もできるだろうと思うようなったんです」

版画の彫師になりたいというのは、子どもにありがちな漠然とした夢ではなかった。

「その頃、東京に大蔵半兵衛、京都には菊田幸次郎さんという人がいて、版画の彫師として有名な人で、そこの門を叩こうと思っていました。それでアカンと言われたら、うちの一番の得意先が下落合で版画を扱っているから、そこに行って弟子入りをしようかと。いまでもふたりの名前を憶えているぐらい、彫師に憧れていましたね」

しかし、時代が彫師への扉を閉ざした。1945年に、岩野さんの父が太平洋戦争で出征。間もなく終戦を迎えたが、運悪くシベリアに抑留されてしまった。小学校5年生になっていた岩野さんは、必然的に家業の紙づくりの手伝いをさせられるようになった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「選り」の作業をしながら少年時代を振り返る岩野市兵衛さん

「ピカソが使っていた紙」の真相

父が2年後の1947年に戻ってくると、家業がどんどん忙しくなっていった。終戦後、東京などに駐留していたアメリカの軍人が母国に帰国する際の土産として、オリエンタルで軽くて持ち運びに便利な浮世絵が人気となり、爆発的に売れた。浮世絵は、和紙に描かれている。仕事に復帰した岩野さんの父が東京の得意先回りをすると、次から次へと注文が舞い込むようになったのだ。

「当時、私の家で働けるのは親父と叔父さん、それから私の母親と叔父さんの連れ添い、あとほかの家族の者をいれた5、6人でした。それではどうにもならんようになって、お前は学校に行かないでうちの手伝いせえということで、高校に行くどころじゃなかった」

岩野家の唯一無二の和紙は海を渡り、海外でもその存在を知られるようになった。一時期、岩野さんの父がせっせと輸出用の紙を漉いていた記憶があるという。戦前からパリで画家として活動し、成功を治めた日本人画家、藤田嗣治も愛用者のひとりだった。

きっかけは、岩野家の和紙の評判を聞きつけた藤田嗣治の従妹が「これはすごくいい紙だから、送ってやりたい」と訪ねてきたこと。その際に越前生漉奉書を数十枚買った従妹が、パリにいた藤田嗣治のもとに送り届けた。それから岩野家と藤田嗣治の交流が始まった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
完成品の紙。一般的な紙とは全く異なる風合いを持つ

やがて、「岩野家の和紙をピカソが使っていた」という話が広まるが、それは岩野さんの父と藤田嗣治の会話から生まれたものだ。

「藤田先生がピカソ先生のところを訪ねた時に、どこの紙を使っているのですか? と尋ねたら、ピカソ先生はにこにこ笑って答えなかったそうです。それから時が経ち、藤田先生の従妹がうちの紙を送ったところ、藤田先生が『ピカソのところで使っていた紙と同じだ!』と気づいた。それで、藤田さんから私の親父のところに連絡があったんですよ。ピカソはきっと、日本人なのに日本の紙を知らないのかと笑っていたんだろうと。だから、ピカソ先生がうちの紙を使っていたのか、使っていなかったのか、確かなコトはわかりませんが、藤田先生はそう信じていました」

「古い方法」を求めて絶えない依頼

岩野さん自身は、彫刻の彫師になるどころか、学校にもいけないほど仕事に追われる日々だったが、厳しい環境のなかで職人としての技能を身に着けていった。父が1976年、75歳で他界すると、1978年には跡継ぎとして九代目・岩野市兵衛を襲名した。父からは、ひたすら心構えを説かれたという。

「父が私にずっと言っていたのは、ごまかすな、手抜きをするな、ということです。昔からの製造工程を頑なに守れって。だから言われた通りにやってきたけど、やっぱりごまかさんと紙を作れば、絶対いいものができるのよ。私ももう年だから、得意先に、どっかよその紙も使ってみてくださいって言っても、いや、市兵衛さんが紙漉きを辞めたら、私も版画屋を辞めなあかんやろって言われるんです」

「最近では、カナダに住んでいる日本人の版画家から電話があって、100枚の注文が入りました。それから2カ月したら、また電話があって、あまりにも上手くいったから手元に置いておきたいともう100枚の注文がありました。全然違う音がするということで、音響メーカーのスピーカーにも使われています。親父の言う通りに古い方法を守り抜いて仕事をすれば、それでいいんですよ」

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
煮だして「選り」をしている時の楮
人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
岩野さんの紙を破ると細かで柔らかな楮の繊維質が現れる

まさに、この「古い方法」を求めたのが、ルーヴル美術館だった。ルーヴル美術館には数百年前の絵画や版画など紙を使った美術品が数多く収蔵されている。その当時、紙の原料は楮や三椏(みつまた)だったため、ルーヴル美術館は修復用として同じような製法で作られた紙を探し求めていた。そうして世界中の紙を集めて比較検討するなかで、岩野さんの紙がトップの評価で選ばれたそうだ。

「東京の美術品を修復する工房からこの話がきてね。去年は厚さが100分の10ミリ、100分の20ミリ、100分の30ミリのものを合計で300枚ぐらい納めたかな。今年は100分の20ミリばかり600枚ぐらい。600枚作るとなると、3人で毎日仕事をしても1カ月ぐらいはかかるねぇ。紙作りで一番大変なことといえば、ご希望の厚さに揃えること。紙を漉きながら、そろそろ100分の20になったなぁ、まだならんなぁとかって目で見て判断するほかない。これが一番難しい」

完全に自然の素材だけで作られた紙

いま、岩野さんのもとにはあらゆる依頼が届く。昨年から今年にかけて、アニメ「攻殻機動隊」の浮世絵シリーズや、映画『スター・ウォーズ』を木版画浮世絵にした「浮世絵 スター・ウォーズ」、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』の漫画家、松本零士の「浮世絵コレクション」などにも岩野さんの紙が使われており、いまや数カ月待ちの状態だ。

83歳の現役職人は、忙しい。しかし、今後さらに手をかけた究極の和紙を求める依頼があった時のために、まだ温めているものがある。蕎麦の葉を燃やして作られた灰だ。

先述したように、普段、楮を煮る時にはソーダ灰を使っているが、ソーダ灰などなかった時代には、植物の灰を使っていた。楮の繊維は植物の灰と相性が良く、岩野さん自身、これまでに数回しか作ったことがないそうだが、完全に自然の素材だけで作られた紙は、光沢や色味、手触りも品が良くなるという。

しかし、10キロの楮を煮るのにソーダ灰なら1.2キロで済むところ、蕎麦の灰なら約6キロも必要になる。この大量の灰を作ってくれるところが、もうなくなってしまった。

「福井県では今庄(南越前町)がお蕎麦の産地だから、そこのおばちゃんなんかに小遣いをあげて、灰を作って、というと喜んで作ってくれた。昔は、稲と同じように蕎麦が実ったら稲機(いなばさ)に引っ掛けて乾燥させて、蕎麦の実を取った後に残った部分を燃やして灰を作ってもらっていたんだ。でも、いまはコンバインで刈っちゃうでしょう。余ったくずを乾燥させて燃やせば灰もできるだろうけど、そんなもん誰もやってくれないよ」

蕎麦の灰の供給は途絶えてしまったが、岩野さんの蔵にはまだ少しだけ蓄えられている。その灰は、「どうしてもせなあかん」依頼があった時のために、眠らせてあるのだ。
人間国宝が紙づくりに燃やす情熱は、まだまだ尽きていない。

「もうこれでええっちゅうことはないもん。死ぬまで一年生」そういうと、岩野さんは静かに微笑んだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛

<取材協力>
福井県和紙工業協同組合
福井県越前市新在家町8-44パピルス館内
0778-43-0875

越前 和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 世界のトランぺッターを虜にするマウスピース職人

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は世界のトップトランぺッターから引っ張りだこのマウスピース職人のお話をお届けします。

モーリス・アンドレ。「トランペットの神様」と呼ばれた不世出のカリスマ。
ホーカン・ハーデンベルガー。モーリス・アンドレ以来の大器と呼ばれたスウェーデン生まれのスタートランペッター。
ミロスラフ・ケイマル。天才と謳われたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以下チェコ・フィル)の元首席トランペット奏者。
ハンス・ガンシュ。世界3大オーケストラのひとつ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ウィーン・フィル)で首席トランペット奏者を務めた世界的名手。

トランペット界で知らぬ者のいない存在である彼らには、ひとつの共通点がある。演奏時に使うマウスピースだ。彼らのマウスピースをハンドメイドで作ってきたのが、亀山敏昭 (かめやま・としあき) さん。これは、世界中から注文が殺到するマウスピース職人の知られざる物語である。

マウスピースの製作を始めて38年の亀山敏昭さん

メッセンジャーで受注する68歳

浜松駅から徒歩数分。昔ながらの住宅街の一角に、亀山さんの工房「Toshi’s Trumpet Atelier」がある。もともと妻の実家だったという平屋を改装した慎ましやかなたたずまい。呼び鈴を押すと、柔らかな笑みを浮かべた亀山さんが「どうぞ」と招き入れてくれた。旋盤などいくつかの工作機械が置かれた工房には、無数のマウスピースが並んでいる。

亀山さんがこの小さなアトリエを開いたのは、2000年4月。長年、ヤマハの社員として働いていた亀山さんは、早期退職制度を利用して独立した。50歳のときだった。

マウスピースの上の大きな写真は創業時の亀山さん

「もちろん、最初は不安もありましたよ」と振り返るが、今ではヨーロッパ全土のほか、アメリカ、メキシコ、トルコなど世界各地からマウスピース製作の依頼が届く。

「ここを始めた時よりも、今のほうがワールドワイドに仕事ができています。フェイスブックのメッセンジャーで、こういうものを創ってほしいと言われますから」

何気ない言葉に耳を疑う。え?メッセンジャー?

「はい。いろんな国から依頼が届きます。知らない人からも連絡が来るし。基本的には英語とドイツ語でやり取りしています」

現在68歳の亀山さんは文字通り世界中のトランペット奏者から引っ張りだこの存在で、すべての依頼を受けるのは難しいという。2カ国語を操り、SNSを駆使して世界を舞台に仕事する68歳の売れっ子。僕の脳裏には、「グローバル職人」という言葉が浮かんだ。

なぜ、この小さなアトリエで作られたマウスピースが、それほど求められるのか。亀山さんの足跡を追おう。

長良川のトランペット少年

亀山さんがトランペットに出会ったのは、中学2年生のとき。音楽が好きで中学から吹奏楽部に入ってクラリネットやパーカッションを担当したが、トランペットを吹いた瞬間に「これだ!」と直感した。

「自分に合っていたのか、割と楽に音を出せたんですよ。それに、僕は小学校のときから弱虫で、性格も強くなかったんです。トランペットは明るい音で目立つ楽器だから自分を鼓舞できるような気がしました」

すっかりトランペットにはまった亀山さんは、岐阜の地元を流れる長良川の岸辺でいつもひとり練習に熱中していたという。みるみるうちに上達し、高校3年生のときにヤマハ吹奏楽団の団員試験を突破。高校卒業後、吹奏楽団のメンバーとしてヤマハの本社のある浜松に越してきた。

楽団といっても朝から晩まで練習するわけではなく、日中は社員のひとりとしていろいろな部署に配属されて仕事に当たる。亀山さんは最初、トランペットなど管楽器の試作工場で部品を作ったり、検品をする部署で働いた後、トランペットの設計に就いた。

NHK交響楽団のトランペット奏者と検品をする亀山さん

アメリカやイギリスの先行メーカーの楽器をベンチマークとして、部品の寸法や内径の太さなどをミリ単位で調整しながら、より良い音を目指す繊細かつ根気のいる仕事だ。このときの働きぶりが評価されたのだろう。当時、新興メーカーだったヤマハが欧州に本格的に進出するにあたり、「現地に楽器に精通した人間が必要だ」ということで、30歳の亀山さんに白羽の矢が立った。1979年、亀山さんは西ドイツに渡った。

オペラハウスの思い出

新しい職場は、西ドイツのハンブルグにあったヤマハの工房。「ヤマハの楽器をさらに広めていこう。高いレベルのモノを作ろう」という目標を掲げ、欧州の名門楽団を訪ね歩き、演奏家たちとコミュニケーションを取りながら、ヤマハの楽器に関する意見を聞いて日本にフィードバックをしたり、楽器のメンテナンスをするのがミッションだった。

まだ若く、やる気に満ちていた亀山さんは、必死に語学を学びながら練習場所やコンサートに何度も足を運び、演奏家たちの言葉に耳を傾け、細かなリクエストに応えることで、少しずつ演奏家たちの信頼を得ていった。

「ドイツにはマイスター制度があって各地でマイスターが楽器を作ったり、メンテナンスをしています。ドイツの演奏家からよく言われたのは、マイスターは権威的で、演奏者がこうしてほしいと要望を伝えても、聞き入れてくれない。逆に、新米で言われたことを素直に聞く私は、柔軟性があるからやりやすい、話しやすいと言われていました」

トランペットをモチーフにした絵や写真が飾られている亀山さんのオフィス

やがて、とことん演奏家に寄り添おうとしていた亀山さんに特別の計らいをみせる演奏家も出てきた。

「オペラハウスは舞台の下にオーケストラピットがあるので、観客席からは見えません。そういうとき、よく演奏者の横に座って演奏を聞かせてもらいました。普通、部外者はそんなところに入れないんですけど、演奏者は吹きやすくて、良い音がする楽器を望んでいますし、ヤマハが本気で良い楽器を作ろうとしているとわかってくれていたので、自分の音をもっと理解してほしいということでした」

ドイツに来た時点でヤマハの楽団からは離れていたが、亀山さんは単なる営業や技術者ではなく、同じ演奏家の立場でより良い音を求める気持ちに共感できた。だからこそ、ここまで距離を縮めることができたのだろう。

100分の1ミリの戦い

各地のトランペット演奏家たちと親しくなると、しばしば「トシ、マウスピースを作れないのか?」と尋ねられるようになった。多くの演奏家が悩みを抱えていたのだ。

「演奏家のなかには、同じマウスピースを何十年も使っていて、もしそれを失くしたら演奏できないという人もいますし、自分に合ったマウスピースで吹いていると、楽器が変わっても自分がイメージした音が出せます。演奏者にとってマウスピースはそれほど大事なものなんです。マウスピース自体はとにかく種類がたくさんありますが、人それぞれ唇の形も吹き出す息の量も違うので、既製品で満足していない演奏家も大勢いました」

楽器メーカーにとってマウスピースのカスタマイズはたいして儲からない上に面倒だから、目をそらしていたのだろう。しかし、相談を受けたら検討もせずに「できない」という返事をしないのが亀山さんだ。ドイツに発つ前に日本でマウスピース製造の研修を受けていたこともあり、試行錯誤しながらマウスピースを作り始めた。

見本となるマウスピース (奥) の形をなぞるようにして手前のマウスピースを削る

マウスピースは真鍮の素材で外側の形を削るところから始まる。外形ができたら、旋盤で息を通すための穴を中央に開ける。その後、カップと呼ばれる息の吹き込み口を円錐状に削る。カップが浅いと張りのある明るい音になり、深いと落ち着いた豊かな音になる。リムという唇が当たる部分の角度や厚みも整える。

マウスピースは100分の1ミリの違いで音が変わり、演奏家はその音を聞き分けるため、非常に繊細な技術が必要だ。亀山さんは何度も試作し、演奏家のもとに持参しては意見を聞いて調整をした。そうして初めて理想のマウスピースを手にした演奏家は、亀山さんの目の前で喜びを爆発させた。

スーパースターがやってきた

演奏家の口コミは、恐ろしく早い。最初の1本を納品すると、その噂は瞬く間に広がり、亀山さんのもとに次々と依頼が舞い込んだ。楽器を売り込みたいヤマハにとってマウスピースの製作は本来の業務ではなかったが、演奏家と良好な関係を築くための手段として亀山さんが製作を担った。

亀山さんが作ったマウスピースの評判はやがて国境を越えた。1981年のある日。フランスからハンブルグの工房を訪ねてきた男がいた。20世紀最高のトランペット奏者と呼ばれたモーリス・アンドレだった。モーリスは、自分が望む複数のマウスピースの説明をすると亀山さんに聞いた。

「明日には別のところに行かなきゃいけないんだ。1日でできるか?」

モーリス・アンドレからの依頼を書き留めた仕様書

亀山さんにとって、モーリスは憧れのスーパースターだった。それまで1日に何本もマウスピースを作ったことなどなかったが、断るという選択肢など思い浮かびもしなかった。二つ返事で請け負うと、同僚とふたりで夜を徹して手を動かし続け、なんとか完成させたマウスピースを翌朝、モーリスに納品した。モーリスにはそれを試す時間すらなかったが、上機嫌で「これでいいか?」と1000マルク、約15万円をポンと支払って、ふたりと写真を撮ると風のように去っていった。

徹夜してマウスピースを仕上げ、モーリス・アンドレに納品したときの写真

それからしばらくすると、フランスから1人、2人と著名なトランぺッターがハンブルグにやってくるようになった。彼らは皆、モーリスから亀山さんの評判を聞きつけていたのだ。「あのマウスピースはどうだったのか‥‥」と気にしていた亀山さんにとって、それは雲の上の人からもらった合格点だった。

間もなくして、「モーリス・アンドレのマウスピースを作った男」として名をはせた亀山さんのもとにヨーロッパ中から依頼が殺到するようになった。モーリスはもちろん、冒頭に記したスウェーデンのスター、ホーカン・ハーデンベルガー、チェコの天才奏者、ミロスラフ・ケイマル、オーストリアの名手、ハンス・ガンシュらも依頼人に名を連ねた。

彼らにとって亀山さんがどんな存在だったのかがわかるエピソードがある。ある日、ミロスラフ・ケイマルから緊急の連絡が入った。話を聞くと、プラハでの演奏会場に車を駐車した際、、一瞬のすきに車のトランクに入れていた楽器やマウスピースが全て盗まれしまったという。そのとき、ケイマルは亀山さんにこう伝えた。

「楽器は店で買えるけど、トシのマウスピースは買えない。どうにかして作ってほしい」

この言葉を聞いて、亀山さんはすぐに新しいマウスピースを作って届けたという。

自分にできる一番いい仕事

1988年、ヤマハから日本に戻るように辞令を受けた亀山さんが帰国するとき、ヨーロッパのトランぺッターたちがどれほど嘆いたか、想像に難くない。なかには「工房を作るから俺のところで働いてほしい」と言って引き止めた演奏家もいたそうだ。

亀山さんは浜松で再びトランペットの設計を3年間やった後、東京で8年間、ドイツ時代と同じような仕事に就き、国内の演奏家、海外から来る演奏家の対応をした。その間も付き合いのある演奏家のマウスピースを作り続けていたが、次第にもどかしさを感じるようになった。

「ヤマハの社員でいる限りは、アマチュアの演奏家や他のメーカーの楽器を使っている演奏家のマウスピースは作れません。ずっと、気持ち的には作ってあげたいのにできないというジレンマがありました」

モヤモヤを抱えているうちに、世の中は不景気になり、その影響でヤマハにも早期退職制度ができた。このとき、自分が最も親しみのあるトランペットにかかわる職人として独り立ちしようと腹をくくった。

「この仕事は、演奏者を助けることになる。そういう意味で、自分にできる一番いい仕事だと思いました」

繊細なタッチでマウスピースを削っている様子

2000年4月にトランペットの修理やメンテナンス、マウスピースの製作を手掛ける「Toshi’s Trumpet Atelier」を立ち上げてから17年。独立時には「生活できるのか」「金管楽器全般を対象にしたほうが良いんじゃないか」などと心配されたそうだが、いまは仕事の9割がトランペットのマウスピースの製造で、亀山さんを頼る演奏家は世界に広がり続けている。

理由はふたつ。ヤマハ以外の楽器を使う演奏家のオファーを受けるようになったこと。もうひとつは、インターネット。もともと常に良い楽器を求めている演奏家の口コミのスピードは速かったが、インターネットによって口コミの拡散範囲と速度がグンと広がり、トランぺッターの間で亀山さんの名前がより広く知られるようになったのだ。

長良川の河川敷でトランペットを吹いていた少年は、世界のトッププレイヤーに求められる存在になった。これまでの人生を振り返って、どう思いますか?と尋ねると、亀山さんは目を細めて「できすぎですね」と笑った。

「すごいラッキーだと思います。特に頭が良いわけでもないし、すごい技術があるわけでもない。たまたまいまの仕事を始めて、演奏者に寄り添い、できるだけのことをしてきた。そういう仕事のスタンスが喜んでもらえたのではないでしょうか。マウスピースを作ること自体は難しくありません。大切なのは、希望のマウスピースを作れるかなんです」

亀山さんには忘れられない瞬間がある。もう30年近くの付き合いにあるミロスラフ・ケイマルの演奏会に行ったときのこと。最後の曲が終わり、観客席から万雷の拍手が降り注いだ。するとケイマルはトランペットからマウスピースを抜き取り、満面の笑みで観客に向けてマウスピースを掲げたのだった。

<取材協力>
Toshi’s Trumpet Atelier
浜松市中区砂山町 362-23
053-458-4143

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 全国から「変わった桶」の依頼が届く桶職人の矜持

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は三重県亀山市関町で店を構える唯一の桶職人のお話をお届けします。

昔ながらの町並み、という売り文句はよく耳にするけど、訪ねてみるとがっかりすることも少なくない。すっかり観光地化されて、似たようなお土産屋さんばかりということも多く、テーマパークのように見えてしまう。

その点、東海道五十三次の47番目の宿場にあたる三重県亀山市の関町は、歴史情緒を感じさせる落ち着いた町並みが、東西1.8キロにわたって続く。特に、江戸後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上も現存している町の中心部、中町はそこにしっかりと根付いた生活の息吹を感じて、タイムスリップしたような感覚を味わえる。

関の中町。週末は観光客でにぎわう

宿場として栄えた関は、人や馬が足を洗うために桶の需要が高まり、往時は数軒の桶屋が軒を連ねていたという。その関の中町で唯一いまも店を構えているのが、明治15年創業の桶重。135年の歴史を持つ、桶屋さんだ。

風情を感じさせるレトロな店構え

ガラス張りのお店をのぞくと内側には仕事場が広がっていて、いかにも使い込まれたさまざまな道具や作りかけの花桶が見える。引き戸を開けて挨拶をすると、四代目の服部健さんが迎えてくれた。

一から十まで手作りの桶

服部さんは、今年67歳。小柄で語り口は穏やかながら、向き合うと熟練の職人さんが共通して持っている「静かな迫力」のようなものが伝わってきて、思わず背筋が伸びる。

服部さんは花桶、おひつ、寿司桶、漬物桶、たらいなど「桶」と名の付くものとその類縁にあるものを受注生産していて、修理も受け付けている。価格は最も小さな花桶が7000円と聞いて驚いたが、桶を作る過程を聞けば誰もが納得するのではないだろうか。

服部さんが作業をしている日は、店先から見学できる

服部さんは、創業時から受け継がれる伝統的な技法を頑なに守り続けている。「昔からのものをそのまま伝えるのが、伝統工芸」というのが持論で、既製品を一切使用せず、一から十まで完全なる手作り。「親の代から子の代まで、50年は持つ」というその仕事は、素材を選ぶことから始まる。

よく使うのは、椹(さわら)と槙(まき)と杉。一番高級なのが椹で、信州(長野県)で生えているモノを使う。寒さが厳しい長野の高地で育つと、成長が遅くなり年輪が詰まる。すると目が細かくなり、水が漏れにくいそうだ。漬物桶や味噌桶に使う地元の杉、風呂桶や風呂で使う湯たらいに使う槙も、長年の付き合いがある業者から原木を仕入れていて、市販されているような材木は使わない。

「うちの桶は高いと言われるけど、木が高いんだ (笑)。例えば、おひつや寿司桶みたいに熱いものを入れる桶を作るとき、普通に売っている木を使うと、2、3年もしたら木が歪んで、タガ(桶の周りにはめる輪)も緩む。それで終わりやで。だから、熱いものに使う桶は、自分で仕入れた原木を割ってみて、まっすぐに割れた木しか使わない。そういう素性の良い木を使えば、何年たっても歪まん」

竹一本にまでこだわり抜く

タガや一枚一枚の板を固定する釘としても重宝する竹にも徹底的にこだわる。服部さんが作る桶は、一般的によく使われる接着用の米糊を使わないものもあるので、タガと竹釘が生命線なのだ。

一本一本、竹を細く割いて作るタガ

服部さんが使うのは、硬くもなく柔らかすぎず加工がしやすいという「生えてから4年、5年経った、関東の雑木林の南斜面にある真竹」だが、これは最初の条件に過ぎない。

求めているのは、暦の上で1年に6回ある「八専(はっせん)」と呼ばれる期間のうち、11月頃の八専が終わった直後に刈った竹のみ。その時期の竹は水を吸い上げる力が弱っており、刈った後に虫がつかないという。

竹を刈る日も、限られている。竹の中にある節が闇夜には上を向き、月夜には下を向く。節が下を向いている竹のほうが作業しやすいため、月夜の晩に刈ったもの限定。これも、信頼関係のある業者から条件に合った竹を一括で仕入れ、暗闇の中で保管する。

そうして注文が入ると一本、一本引きだしてきては竹を細かく裂いてタガにする。指先に乗るような直径数センチほどの竹釘も、この竹を使ってひとつひとつ手作りする。
これだけで気が遠くなりそうな作業量に思えるが、服部さんは「なんも大変なことない。昔から普通にやっていたことやんか」と笑う。

鉄の釘は弾力性がなく水で錆びてしまうため、柔軟性があり強度もある竹釘を使う

小さな花桶の製作にかかる日数とは?

原木を割り、必要な大きさに切った木材は、一度、3年ほど乾燥させる。その後、「せん」という道具で荒削りしてから、注文に合う大きさのカンナで削りだす。刃の部分が湾曲しているため、桶の円周に近づいていく。一枚、一枚、「正直台」と呼ばれるカンナで削る角度をこまめに確認し、ミリ単位の調整をしながら作業を進める。寸胴ではなく、上口から下口へすぼまる形の桶の場合、その勾配の角度(落ち)は計算せずに感覚で決めていく。

「落ちが強いとみっともない。ちょうどええ形になる角度がある」

桶用のカンナ。よく見ると桶の形に合うように刃の部分が婉曲している

ひと通り側板ができたら、キリで側面に穴をあけて竹釘を打ち込み、ときには米糊を塗って板と板をつなげていく。そうして一度桶の形にすると、内側と外側を改めてカンナで削り直し、滑らかに整える。それから底板をはめ込み、編み込んだタガで桶を締め上げる。
完成品にはわずかなズレもなく、きれいな円や楕円を描く。その見た目は凛として清々しく、桶としての機能性も抜群に高い。

「水が漏れないようにするのが桶屋の技術。桶の寿命は50年と言われているから、その感覚で作ってます」

これこそまさに、圧倒的な経験値と技術に裏打ちされた手仕事の極みだろう。しかし、冒頭で7000円と書いた小さな花桶が完成するまでに、2日半。旅行者用に手ごろな値段に設定しているとは言っていたが、つい頭のなかで時給の計算をしようとして諦めた。日給で考えても厳しすぎる金額だ。

ちょうど作業場で作り途中だった7000円の花桶

服部さんが、作り置きをせず、インターネットで販売もせず、受注生産に絞っている意味がわかった。服部さんの技術力を認めている人が注文し、その価値に見合った対価を支払うという形にしなければ成り立たない。

すべてを変えたプラスチック

裏を返せば、自分の腕に相当な自信がなければできないことで、服部さんは「うちが他所より(質が)落ちるとは思わない」とはっきり口にする。
とはいえ、幼い頃から桶屋を目指して修業を積んできたわけではない。「本気で桶屋をやろうと思ったのは、40歳ぐらいから」と照れ臭そうに笑う。
そこには、時代の荒波に揉まれてきた桶重の歴史が関係している。

「初代は重蔵という名前で、明治15年に関でこの店を開いて、桶重と名付けたんだ。その頃、桶はライフ用品でしょう。風呂桶、おひつ、寿司桶、行水する大たらい、小さなたらい、水桶、井戸で使う釣る瓶。とにかく需要が多くて、初代と二代目までは羽振りが良かったみたい」

初代がつけていた台帳。三重県伊勢市の銘菓として知られる赤福餅を作っている老舗の和菓子屋赤福の名も

そういうと、服部さんはアルバムを見せてくれた。そこには、二代目が巨大な桶を作っている写真が収められていた。かつて味噌桶や漬物桶として使われていたもので、大きなものは7尺(約212センチ!)もあるそう。こうした大掛かりな注文のほかにも桶屋の需要は幅広かったが、あるときを境に、完全に流れが変わった。

「先代まではね、冬場になると京都に作業場を借りて、職人を連れて京都で仕事をしていました。冬に売られる京都の千枚漬けってあるでしょう。昔は贈答用で千枚漬けを木の桶に入れて送ってたんだ。でも、昭和40年代にプラスチックが出てきて、木の桶が必要なくなった。いまは千枚漬けもプラスチックの桶を使っているところが多いな」

二代目と三代目の作業の様子

安く、大量に作ることができるプラスチック製品は便利な生活用品となって一気に広まり、木桶はあっという間に駆逐された。三重県の伝統工芸品として知られる「関の桶」も、時代の変化の波に押し流され、「ひとつの町に必ず2軒はあった」という桶屋は、どんどん廃業した。

先代の粘り腰

しかし、先代は店をたたまなかった。桶重では桶の修理もしている。長年使いこんだ桶を修理したいという顧客もいるし、おひつや漬物桶など「やっぱり木桶じゃないと」という取引先もわずかながらに残っていたからだ。

先代は、日雇いのアルバイトをしながら、激減した注文に応える日々を選択した。
そうして粘っているうちに桶屋は全国的にも姿を消していき、わずかに残っていた需要が桶重にまで届くようになった。「いつか桶一本に」と思っていた先代は、腹をくくって再び桶づくりに専念。もともと三重県の名工に認定されていた先代の評判を聞きつけて、少しずつ注文が増えていった。その姿を見て、服部さんも覚悟を決めた。

「その前は手伝うぐらいで、うわべだった。店をどうするかわからんかったしな。親父ももう辞めようかなと言っていた時期もあって、やっていけんのか、ものすごい不安やんか。でも、取引先や修理に持ってくる人がいて、店がなくなったら困るやろなと思って。それに、買ってもらえなかったら自分が悪いし、こういう風にしたほうが良いとか自分の責任で工夫ができるのが良い。スポーツでもなんでも腕一本で勝負するのが好きやし」

後を継ぐと決めてからは、先代からマンツーマンで教えを受けた。見て盗め、というまどろっこしい方法ではなく、手取り足取り仕込まれた。もちろん怒られることもあったが、「仕事してるときは弟子と師匠の関係や。自分ができるようになったら親父もなにも言わへん」と割り切っていたから、耐えられた。

よく使い込まれた様子の道具。初代から使っているものもある

竹や木材の知識、刃物の使い方、水が漏れないようにするための技術など憶えることは無数にあったが、1990年代の半ば、修業を始めて5、6年が経つと先代はこう告げた。
「もうお前に教えることはなにもない」

「死ぬまで修行」はアホ

それから先代が亡くなる1999年までふたりで店を切り盛りし、名工のあらゆる技を吸収した。いま、関に残る唯一の桶屋として店を守る服部さんは、こういう。

「中途半端に習ったら、真似事の世界。極めた人に教えてもらうと、あとは自分の技量次第でなんでもできるようになる」

タガを打ち込んで桶を引き締める

いま、服部さんのもとに届く依頼は「変わった桶ばっかり」。宣伝は一切していないが、口コミで腕の良さが広まり、一般の客だけでなく、全国の神社やお寺などで使う特別な桶の注文がくる。例えば、静岡の神社からは昔から使っていた桶を再現してほしいと声がかかり、関西の神社からは作り手がいなくなった卵型の桶を作ってほしいと連絡が来る。作ったことがない形や用途のものもあるが、それでも、ここには書けない一度の例外を除き、依頼を断ったことがない。

「職人は死ぬまで修行ですという人いるけど、アホかこいつと思う。お客さんがせっかくお金出して買うてくれてるのに、失礼な話や。でも職人の世界はな、例えば昔の古い桶、これと同じものを作ってくれとか修理してくれとか言われたときに、うちはこんなんできんと言うのはありえん。誰が、いつ作った桶でも作れなきゃ、直せなきゃあかん。それができるのが職人、できなかったら単なる趣味や」

小さな花桶を作るのに2日半かかる桶屋の仕事が、決して楽なわけではない。それでも依頼が届く限り、現代の匠は作業場で桶と向かい合う。どんな注文にも応えてみせるという誇りと気概を持って。

「人とグループで仕事してもつまらん。なにがええんかなって。生きとるっていう感じがせんわけよ。桶は一から十までひとりで作ってるからこその達成感があるし、大事に使って喜んでもらうのが一番好き。商売やから、それでなんとか儲かったら嬉しいなって」

服部さんが作ってきた桶の数々

<取材協力>
桶重
三重県亀山市関町中町474-1
0595-96-2808

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 京都の女性黒染め師が拓いた新境地

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は京都の女性黒染め師のお話をお届けします。

「なんで黒やねん!」
創業1870年、京都の黒染屋・馬場染工業(ばんばせんこうぎょう)の4代目の次女として生まれた馬場麻紀さんは、物心ついたときから家業を苦々しく思っていた。自宅兼工房で目に焼き付いているのは、モノトーンの風景。白い反物か、染めた後の黒い反物が視界を埋めていた。

ずっと「うちは黒ばっかりでイヤやな‥‥」と思っていたが、「うちは、白のものでも父が黒といったら黒になるという家で、すごく厳格でものすっごく怖かった」ので、家ではニコニコして過ごしていた。

「カラスの濡れ羽色」を生み出した父

馬場家の初代が中京区柳水町で創業した明治3年ごろは、京都で黒紋付が売れ始めた時期だった。黒紋付は喪服というイメージがあるが、一般的に喪服として着用されるようになったのは戦後からとされており、創業時は富裕層の正装として需要があったのだ。

時代の流れで2代目は藍染に方向転換したが、3代目のころになると、それまでは一部の人間にしか許されなかった家紋を一般人でも持てるようになった。すると、自分が持っていた生地を黒紋付用に染め変える、という人が増えた。そこで3代目は約16メートルある紋付き袴の生地をぜんぶ広げて黒染めの手作業ができるように工房を拡大した。

今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。
今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。

そして麻紀さんの父、4代目の孝造さんは、家業の黒染めを進化させた。ある日、「今までの黒はグレーに見える! 黒っていうのはもっと黒やと思う!」と言いだし、目指したのが「カラスの濡れ羽色」。

「染料やさんと一緒にいろいろ試行錯誤をして、黒より黒い最高級の黒色を開発しはったんですよ。『秀明黒(しゅうめいぐろ)』と名付けた黒色はまさにカラスの濡れ羽色と呼ばれて、みんながびっくりするほどの出来栄えでした」

「秀明黒の馬場染工」はその名を全国にとどろかせ、注文が殺到。なんと1ヵ月に3万反の生地が届けられ、工房に所狭しと積みあがっていたという。さすがにこの数を手作業で染めることはできない、ということで、孝造さんは機械メーカーに話をつけ、自ら設計に携わり黒染めの機械を開発。秀明黒を機械で表現するために研究に研究を重ねて数年後、ついに業界で初めて機械化に成功した。

「アイデアマン」と呼ばれていた孝造さんは、ほかにも1985年、世界で初めて黒絹織物の摩擦堅ろう度試験(着用中の摩擦などにより、他の色移りする恐れがないか調べるための基準)で4級(5級が最上級)をクリアしたり、スイスと技術提携、中国と原料提携するなど黒染め業界のパイオニアとして慌ただしい日々を過ごしていた。

テキスタイルデザイナーとして活躍するも…

麻紀さんが育ったのはまさに孝造さんがフル回転していた時期だったから、「黒」が溢れる自宅で家の外のカラフルで華やかな世界に憧れ、高校時代には「お父さんの知らん世界で仕事をしたい」と願うようになった。

5代目の馬場麻紀さん。
5代目の馬場麻紀さん。

洋裁が好きだった麻紀さんは、就職しろという孝造さんをなんとか説得して洋裁の専門学校に進学。在学中、生地の魅力に目覚めた麻紀さんはテキスタイルデザインを学び、卒業後、テキスタイルデザイナーとして商社に入社した。

会社ではワコール、レナウンなど女性下着のデザインを任されたが、次第に「アウターのテキスタイルをやりたい」という想いが芽生えて転職。大手の生地問屋の社長が始めたばかりのテキスタイルデザインの会社に入り、社長の下についてイチから商売を学んだ。

「マンツーマンで社長に2年間ずっとついてまわったんですよ。おかげでどう営業して、仕事はどう取ってっていうノウハウを全部教えてもらった気がします。冒険もさせてくれはって、私は柄が好きやから、あんな柄は、こんな柄はって展開していくうちにだんだん会社が大きなってきて、東京事務所と京都事務所を往復するようになりました」

大きな仕事も任されるようになり、充実した生活を送っていたが、あまりに多忙で体調を崩したこともあり、28歳のとき、結婚を機に退社。専業主婦になり、3人の子どもに恵まれてビジネスからは遠ざかった。

子育てに追われる日々のなかで数年が経ったころ、転機が訪れた。離婚が決まり、子ども3人を連れて実家に戻ることになったのだ。

ひょんなことから戦国時代風の小物入れがヒット

孝造さんと母親と計6人での新生活。常にポジティブな麻紀さんは、めげることなくすぐにアルバイトを始めた。そのアルバイト先での出来事が、「ありえない」と思っていた黒染め職人の道へ進むきっかけとなる。

「学生時代にアルバイトしていた歯科医院の先生が新しく医院を開いていたので、そこで働き始めたんですけどね。そのとき、私38歳ぐらいで、職場の先輩がみんな年下なんですよ。私は特に気にしていなかったんだけど、その子たちからすると、いきなり入ってきた年上の新人が先生と親し気にしているのが気に食わなかったんでしょうね……」

学生時代とは仕事の内容が変わり、仕事に慣れるのに時間がかかったこともあって、職場の人間関係は悪化の一途。それでも3ヵ月は耐えていたが、ある日、麻紀さんが電話で予約を取った際に、それを見ていた20代の“先輩”の一言で、堪忍袋の緒が切れた。

「今の喋り方オッケーです! 今の調子で頑張って下さい!」

予約の取り方など学生時代から変わらないのに、馬鹿にするように褒め称えて拍手までする姿を見て、麻紀さんは思った。

「この子らと一緒に仕事できひん!」

このとき、気づいた。ほかの場所で働こうと思っても周りは年下ばかり。どこに行っても同じような目に遭うかもしれない。それなら、家で仕事をしよう——。

その少し前から、アイデアマンの幸造さんは「これからは家紋がくる!」と思い立ち、工房の一角を使って「家紋工房」を始めていた。これは、黒染めの手法を用いて家紋入りグッズを作るワークショップで、旅行会社と組んで観光客を受け入れていた。

幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。
幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。

すると、2005年に『戦国BASARA』という戦国武将をキャラクターにしたアクションゲームが発売されて人気に。その流れでゲームに登場する武将の家紋にも注目が集まるようになり、家紋を取り扱っている馬場染工業ともう1社、戦国グッズの専門店「戦国魂」が新聞に取り上げられた。

この記事を機に戦国魂と交流が生まれ、裁縫が得意な麻紀さんがデザインした戦国時代風の小物入れを戦国魂のオンラインショップで発売することになる。それが、本人も予想外の大ヒット。1日に平均30個のペースで売れるようになり、麻紀さんは工房で幸造さんの手伝いをしながら、小物入れを作るようになった。

勢いだけで後を継ぐことに

こうして6人での生活は平穏に過ぎていったのだが、幸造さんが肺ガンで倒れてすべての状況が一変した。診断はステージ4で、余命2年。実は5年前からガンだと診断されていながら、「気合いで直す!」と治療をしてこなかったため、手遅れになってしまった。

もう自分は長くないと受け入れた幸造さんは、決断が早かった。妻と娘と孫3人の生活を守るために、工房の2階と3階にあった機械をすべて処分して、トランクルームに。レンタル料金の収入を生活費の足しにしろ、と麻紀さんに告げた。

忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。
忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。

1階部分は残すことになっていたが、幸造さんは、ある日突然、長年、継ぎ足し、継ぎ足し使ってきた「黒より黒い、秀明黒」の染料を自ら流しに捨て始めた。
それを見た麻紀さんは驚き、「えっなにしてんの!?」と慌てて止めに入ったら、幸造さんは落ち着いた口調でこう言った。

「もう仕事する人いいひんし捨てんのや」

「やめときな、もったいない!染める染める!」

「誰がや!」

「‥‥‥‥はい!」

思わず手を挙げた麻紀さんに、幸造さんはポカンとして呟いた。

「え、ほんまけ?」

余命いくばくもない父をだますことはできない。「ダチョウ倶楽部のギャグと一緒ですよ」と笑うこのやり取りで後に引けなくなった麻紀さんは、翌日から工房に立った。

幸造さんも嬉しかったのだろう。麻紀さんが跡を継ぐと宣言してから、瞬く間にその話が広がり、多くの人が店を訪ねてきた。この間、麻紀さんは「カラスの濡れ羽色」を出す技術を受け継いだが、なにより「人間」としての父の偉大さを知った。

「お父さんには世話になったからとか、社長に恩返しせなっていうて、いろんな方が代わる代わる店に来てくれはるんですよ!昔、工房で働いてた従業員の人たちも、大丈夫か、なんかわからへんことあるか、わしが教えたるよ!って」

工房内の様子。
工房内の様子。

かけられた言葉は、建前ではなかった。
元従業員に力仕事をするのが難しいと相談したら、「重たいものはここに置いておいたらええで、私が全部処分してあげるしな」と言って、2週間に一度整理してくれるようになった。もちろん、無償である。

まだ黒染めに慣れていない麻紀さんのために、「私の染め!」といって衣類をたくさん持ち込んでくれる人も大勢いた。

幸造さんは病院での入院生活が長かったから現場で教わることはできなかったが、わからないことはすべて周りの人が教えてくれた。麻紀さんは、周囲の支えで黒染め職人として独り立ちしていったのである。

2008年、幸造さんが亡くなると、お葬式には900人が参列した。

洋服の染め替えで大盛況に

常々、「自分の食い扶持は自分で稼げ」と幸造さんから言われていた麻紀さんは、代々続く着物の黒染めを請け負いつつ、徐々に自分の得意分野に仕事をシフトしていった。コートやセーター、ワンピースなどの洋服を黒く染める「染め替え」だ。

ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。
ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。

「洋服の染め替えは洋服のことがわかってないとできないんですけど、私は学校でテキスタイルを学んでいたので、たくさん種類がある生地をそれぞれどう染めたらいいかっていうことがわかるんです。染めるということは、染料でクツクツ炊くので、たまに裏地の生地が破けたり、袖がくちゃくちゃになったり、トラブルが起きるんです。でも直せる技術もあるから全然動揺しないんですよ」

麻紀さんは、ひとつひとつの仕事にじっくりと時間をかける。
まずは、依頼主と10分から15分をかけてカウンセリング。染めの作業は、ボタンやバックルなどの付属品をはずすことから始まる。それから、生地が傷まないように普通の染屋さんが2時間でやる作業を6時間かけて染め上げて、乾いたら付属品を付け直す。ファスナーには生地を貼って、ダメージを与えないように気を遣う。これらの作業をすべて手作業でやっているのだ。

顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。
顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。

このていねいな仕事と幸造さんから受け継いだ艶やかな黒色が評判を呼び、口コミだけで右肩上がりに仕事が増えていった。以前、自分で手作りしていたホームページを業者に頼んで刷新したら、1週間に3着程度だった洋服の染め替えの依頼が、1日1着ペースになった。噂を聞きつけた関西ローカルの番組が取材に来たら、放送後、関西中からあらゆる衣類が持ち込まれて、365日休みなしという状態にまでなった。

「お前は儲けることを考えるな」

馬場染工業の大盛況を見て、同じように染め替えを売りにする店が雨後の筍のように現れた。その様子を見ながら、麻紀さんはふたりの人から言われた言葉を思い出していた。

ひとりは、父・幸造さん。
「お前は儲けることを考えるな。いいもんをつくって、ありがとうと言われる仕事をしろ。自分がこれやったらぎりぎりOKやっていう値段を設定したら、あとは1円でも高くとか、これやったら安すぎるとか考えたらあかん。人から喜ばれる仕事をしたら、勝手にお金がまわってくるから」

もうひとりは、某大企業のお偉いさん。
「君が今やってることはライバルがいいひんやろ。でも、君のやってることがほんまもんやったら、3年たったら必ず真似するやつは出てくるぞ。でもそのときに絶対に動揺することなく、君のやってるスタンスで君の値段でそのまま突き進んでいけ」

馬場染工業をまねて黒染めを始めた店は、半額の価格をつけていた。それでも麻紀さんは値段を下げず、仕事のスタイルも変えなかった。
そうすると、一度は低価格の店に流れたお客さんも、また麻紀さんの店に戻ってくるようになった。低価格の店は数をこなさなければいけないから、ゆっくりカウンセリングしている余裕はない。そのため、服にトラブルが起きることもあるし、満足度も高くないからだ。

黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。
黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。

競合店はいまもあるが、取材の訪れた3月某日、馬場染工業の工房には黒く染められるのを待つ洋服がハンガーにたくさんかかっていた。幸造さんが始めたワークショップも継続しており、なかなか休みが取れない日が続くが、今年3月に52歳になった麻紀さんは、「こんな楽しいことあらへんわ!ってくらい、むっちゃくちゃ楽しいです」と笑う。

「子どものころは、黒染め屋さんっていうのが嫌で、染めやさんですって言っていたんですけど、今はもう黒が一番かっこいいと思ってます。釜で炊いて服の色が変わっていくのをみて、いつも独り言を言ってるんですよ。ああ、素晴らしい黒やって」

この呟きを、聞いていたのかもしれない。あるいは、いつも陽気な麻紀さんが笑顔で働く姿が目に焼き付いているのかもしれない。いま、子どもたち3人ともが、黒染めの仕事に興味を示しているそうだ。幸造さんが生み出した「カラスの濡れ羽色」は、これからも受け継がれていくのだろう。

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<取材協力>
馬場染工業株式会社
京都府京都市中京区柳水町75
075-221-4759

文・写真:川内イオ