忍者の里で受け継がれる伊賀くみひも

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は伊賀の伝統的工芸品「伊賀くみひも」についてお届けします。

昨年に公開されたメガヒット映画『君の名は。』。日本と海外での興行収入を合わせると約3.5億ドル(約385億円)に達し、世界で最も稼いだ日本映画となった。この映画で、一躍脚光を浴びた日本の伝統的工芸品がある。主人公の男女をつなぐ重要なアイテムとして登場する「組紐(くみひも)」だ。

組紐とは、3本以上の糸や糸の束を組みあげた紐のことを指す。その歴史は古く、縄文時代の土器にも組紐でつけた文様が施されている。また、奈良時代には仏具や経典、巻物の飾りつけに使用されていた。
その後、歴史の移り変わりとともに武具、茶道具、印籠、たばこ入れの飾り紐、そして和装束の帯締めや羽織紐として用途を広げていった。

組紐のシェアトップは伊賀

仏教の伝来とともに京都に伝わり、のちに江戸でも発展した組紐には現在、量産に対応するために製紐機(せいちゅうき)などの機械で作るものと手で組みあげる手組紐があり、現在、国内でトップシェアを誇るのが三重県の伊賀が産地の「伊賀くみひも」だ。

50玉以上の糸を組んで作られている帯締め

その伊賀の伝統工芸士、松島組紐3代目の組紐職人、松島俊策さんは若かりし頃には京都で修業した経験を持ち、伊勢志摩サミットの際、各国代表団とプレス関係者に配られたバッグの取手部分に付けられた組紐飾りを手がけた。

松島組紐3代目、松島俊策さん

伊賀で組紐が発展した理由

産業としての組紐の歴史を紐解くと、組紐の三大産地は東京、京都、伊賀で、伊賀には最後に伝わった。ほかにも小規模なところがあるが、松島さんによると東京、京都という大都市と肩を並べるほど伊賀の土地に馴染んだのは、いくつかの要因があるそうだ。

「明治中期に廣澤徳三郎という人物が東京の組紐の技術を持ち帰ったのが伊賀組紐の始まりです。伊賀の組紐が発展したのは、京都と大阪、名古屋に近いという便利さがひとつ。もうひとつは、当時、伊賀に主だった産業がなかったことですね。組紐はほとんど一般の家庭で家庭内手工業的に作られてきたので、農家の女性の内職として広がりました。あとは、伊賀は忍者の里というぐらいで秘密を厳守する地域性だったこと。もともと組紐の技術は伏せられていたので、伊賀の文化に合ったのでしょう。いまでも門外不出の柄がありますから」

松島さんが京都で修業をしていたのはバブルの真っただ中で、高級な和服がよく売れたために質の良い帯締め、羽織紐も人気があった。しかし、バブルが弾けると和服業界は一気に冷え込み、組紐業者も大打撃を受けた。
そうして京都、東京の組紐業者が激減していくなかで、大都市に近く、高品質な手組紐と量産できる機械組のどちらもニーズにも応えられる伊賀に注文が流れてくるようになってきて、伊賀のシェアが拡大した。

ちなみに、松島組紐の工房では1965年から製紐機を導入しており、「マシンメイドもできるし、手組もできるという環境にあったから、いままで続けられた」と振り返る。近年は、売り上げも両方のバランスのとれた状態に落ち着いた。

町中から離れたのどかな集落にある工房

いまでも着物の帯締めは主力の商品で、特に女性が成人式に着る振袖用の帯締めは年間を通して注文が入るそうだが、最近では紋付き袴の羽織紐の注文も増えているという。松島さんが手掛けたものを見せてもらうと、フワフワで光沢のある毛先の広がりが美しい。

男性用紋付きの羽織紐

「ポリエステル、レーヨン、ナイロン繊維などいろいろな繊維を取り寄せて試作してみることからスタートして、10から20種類は試しましたね。そのなかでポリエステルを選びました。ポリエステルにもいろいろな種類があるので、その中で一番合うものを使っています」

帯締め1本に4日間

取材に訪れた日には、松島さんの奥さんのひろ美さん、長男の健太さん(26)と次男の康貴さん(25)が手組の作業を見せてくれた。
紐を組む道具には「高台」と「丸台」があり、それぞれ特徴がある。

左側が高台、右側が丸台。特に丸台の技術の継承者が少ないという

大掛かりな木製の高台は使う糸の数が多く、しっかりとした組紐ができ、美術工芸品や絹の帯締めなどフォーマルなものを作ることが多い。丸台は普段使いのカジュアルなものを作るのに使うが、柔らかく、伸縮性がある紐ができるので、着物を着慣れた人は、丸台の紐を好むそうだ。

3人のなかで一番手慣れた様子のひろ美さんは、松島さんのお母さんから手ほどきを受けて7、8年。この日は60玉の糸を使った、長さ1メートル55センチの帯締めを作っていたが、驚いたのは完成までの日数。「1日高台に座っていたとして、3、4日ぐらいです」。松島さんが「よっぽど好きじゃないと、この仕事はできません」と言っていた意味が分かった気がした。

ひろ美さんの作業の様子。滑らかな手つきがに思わず見入ってしまう

ふたりの息子さんは、奥深く、決して楽ではないこの仕事を継ごうとしている。
「ずっとこの家の仕事を継ぐんだろうなと思いながら育ってきた」という健太さんは、昨年、自動車販売の営業を辞めて実家の仕事を手伝うようになった。この日、健太さんが組んでいたのは、52種類の糸を使った帯締め。「(組んだ目を)叩く力、角度、糸の引っ張り方次第ですぐに歪んでしまう。指がうまく動かないし、糸の順番を間違えることもある。まだわからないことばかりです」と苦笑する。

日々、試行錯誤続ける健太さん

弟の康貴さんは、大阪のデザイン専門学校を卒業し、京都市でデザイナーとして働いた後、実家に戻った。「組紐のこともまだまだ知らないことがあるので、勉強しつつ、やりたいことがもっとできたらいい」と語る。

組紐の照明作品などを手掛ける康貴さん

健太さんが「僕と弟は全然違う。自分はアイデアがわいたりするタイプではないから、弟が考えたものを僕が作りたい」というと、康貴さんは照れたように俯いた。その様子を見ていた松島さんとひろ美さんは、静かに微笑んだ。近い将来、松島さんからふたりの息子に門外不出の柄が継承される日が来るのだろう。

<取材協力>
松島組紐店
伊賀市緑ヶ丘西町2393-13
TEL 0595-21-1137
FAX 0595-21-8061

くみひも studio 荒木
伊賀市荒木160番地
090-5879-8002
http://www.iga-kumihimo.com/

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 全国から「変わった桶」の依頼が届く桶職人の矜持

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は三重県亀山市関町で店を構える唯一の桶職人のお話をお届けします。

昔ながらの町並み、という売り文句はよく耳にするけど、訪ねてみるとがっかりすることも少なくない。すっかり観光地化されて、似たようなお土産屋さんばかりということも多く、テーマパークのように見えてしまう。

その点、東海道五十三次の47番目の宿場にあたる三重県亀山市の関町は、歴史情緒を感じさせる落ち着いた町並みが、東西1.8キロにわたって続く。特に、江戸後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上も現存している町の中心部、中町はそこにしっかりと根付いた生活の息吹を感じて、タイムスリップしたような感覚を味わえる。

関の中町。週末は観光客でにぎわう

宿場として栄えた関は、人や馬が足を洗うために桶の需要が高まり、往時は数軒の桶屋が軒を連ねていたという。その関の中町で唯一いまも店を構えているのが、明治15年創業の桶重。135年の歴史を持つ、桶屋さんだ。

風情を感じさせるレトロな店構え

ガラス張りのお店をのぞくと内側には仕事場が広がっていて、いかにも使い込まれたさまざまな道具や作りかけの花桶が見える。引き戸を開けて挨拶をすると、四代目の服部健さんが迎えてくれた。

一から十まで手作りの桶

服部さんは、今年67歳。小柄で語り口は穏やかながら、向き合うと熟練の職人さんが共通して持っている「静かな迫力」のようなものが伝わってきて、思わず背筋が伸びる。

服部さんは花桶、おひつ、寿司桶、漬物桶、たらいなど「桶」と名の付くものとその類縁にあるものを受注生産していて、修理も受け付けている。価格は最も小さな花桶が7000円と聞いて驚いたが、桶を作る過程を聞けば誰もが納得するのではないだろうか。

服部さんが作業をしている日は、店先から見学できる

服部さんは、創業時から受け継がれる伝統的な技法を頑なに守り続けている。「昔からのものをそのまま伝えるのが、伝統工芸」というのが持論で、既製品を一切使用せず、一から十まで完全なる手作り。「親の代から子の代まで、50年は持つ」というその仕事は、素材を選ぶことから始まる。

よく使うのは、椹(さわら)と槙(まき)と杉。一番高級なのが椹で、信州(長野県)で生えているモノを使う。寒さが厳しい長野の高地で育つと、成長が遅くなり年輪が詰まる。すると目が細かくなり、水が漏れにくいそうだ。漬物桶や味噌桶に使う地元の杉、風呂桶や風呂で使う湯たらいに使う槙も、長年の付き合いがある業者から原木を仕入れていて、市販されているような材木は使わない。

「うちの桶は高いと言われるけど、木が高いんだ (笑)。例えば、おひつや寿司桶みたいに熱いものを入れる桶を作るとき、普通に売っている木を使うと、2、3年もしたら木が歪んで、タガ(桶の周りにはめる輪)も緩む。それで終わりやで。だから、熱いものに使う桶は、自分で仕入れた原木を割ってみて、まっすぐに割れた木しか使わない。そういう素性の良い木を使えば、何年たっても歪まん」

竹一本にまでこだわり抜く

タガや一枚一枚の板を固定する釘としても重宝する竹にも徹底的にこだわる。服部さんが作る桶は、一般的によく使われる接着用の米糊を使わないものもあるので、タガと竹釘が生命線なのだ。

一本一本、竹を細く割いて作るタガ

服部さんが使うのは、硬くもなく柔らかすぎず加工がしやすいという「生えてから4年、5年経った、関東の雑木林の南斜面にある真竹」だが、これは最初の条件に過ぎない。

求めているのは、暦の上で1年に6回ある「八専(はっせん)」と呼ばれる期間のうち、11月頃の八専が終わった直後に刈った竹のみ。その時期の竹は水を吸い上げる力が弱っており、刈った後に虫がつかないという。

竹を刈る日も、限られている。竹の中にある節が闇夜には上を向き、月夜には下を向く。節が下を向いている竹のほうが作業しやすいため、月夜の晩に刈ったもの限定。これも、信頼関係のある業者から条件に合った竹を一括で仕入れ、暗闇の中で保管する。

そうして注文が入ると一本、一本引きだしてきては竹を細かく裂いてタガにする。指先に乗るような直径数センチほどの竹釘も、この竹を使ってひとつひとつ手作りする。
これだけで気が遠くなりそうな作業量に思えるが、服部さんは「なんも大変なことない。昔から普通にやっていたことやんか」と笑う。

鉄の釘は弾力性がなく水で錆びてしまうため、柔軟性があり強度もある竹釘を使う

小さな花桶の製作にかかる日数とは?

原木を割り、必要な大きさに切った木材は、一度、3年ほど乾燥させる。その後、「せん」という道具で荒削りしてから、注文に合う大きさのカンナで削りだす。刃の部分が湾曲しているため、桶の円周に近づいていく。一枚、一枚、「正直台」と呼ばれるカンナで削る角度をこまめに確認し、ミリ単位の調整をしながら作業を進める。寸胴ではなく、上口から下口へすぼまる形の桶の場合、その勾配の角度(落ち)は計算せずに感覚で決めていく。

「落ちが強いとみっともない。ちょうどええ形になる角度がある」

桶用のカンナ。よく見ると桶の形に合うように刃の部分が婉曲している

ひと通り側板ができたら、キリで側面に穴をあけて竹釘を打ち込み、ときには米糊を塗って板と板をつなげていく。そうして一度桶の形にすると、内側と外側を改めてカンナで削り直し、滑らかに整える。それから底板をはめ込み、編み込んだタガで桶を締め上げる。
完成品にはわずかなズレもなく、きれいな円や楕円を描く。その見た目は凛として清々しく、桶としての機能性も抜群に高い。

「水が漏れないようにするのが桶屋の技術。桶の寿命は50年と言われているから、その感覚で作ってます」

これこそまさに、圧倒的な経験値と技術に裏打ちされた手仕事の極みだろう。しかし、冒頭で7000円と書いた小さな花桶が完成するまでに、2日半。旅行者用に手ごろな値段に設定しているとは言っていたが、つい頭のなかで時給の計算をしようとして諦めた。日給で考えても厳しすぎる金額だ。

ちょうど作業場で作り途中だった7000円の花桶

服部さんが、作り置きをせず、インターネットで販売もせず、受注生産に絞っている意味がわかった。服部さんの技術力を認めている人が注文し、その価値に見合った対価を支払うという形にしなければ成り立たない。

すべてを変えたプラスチック

裏を返せば、自分の腕に相当な自信がなければできないことで、服部さんは「うちが他所より(質が)落ちるとは思わない」とはっきり口にする。
とはいえ、幼い頃から桶屋を目指して修業を積んできたわけではない。「本気で桶屋をやろうと思ったのは、40歳ぐらいから」と照れ臭そうに笑う。
そこには、時代の荒波に揉まれてきた桶重の歴史が関係している。

「初代は重蔵という名前で、明治15年に関でこの店を開いて、桶重と名付けたんだ。その頃、桶はライフ用品でしょう。風呂桶、おひつ、寿司桶、行水する大たらい、小さなたらい、水桶、井戸で使う釣る瓶。とにかく需要が多くて、初代と二代目までは羽振りが良かったみたい」

初代がつけていた台帳。三重県伊勢市の銘菓として知られる赤福餅を作っている老舗の和菓子屋赤福の名も

そういうと、服部さんはアルバムを見せてくれた。そこには、二代目が巨大な桶を作っている写真が収められていた。かつて味噌桶や漬物桶として使われていたもので、大きなものは7尺(約212センチ!)もあるそう。こうした大掛かりな注文のほかにも桶屋の需要は幅広かったが、あるときを境に、完全に流れが変わった。

「先代まではね、冬場になると京都に作業場を借りて、職人を連れて京都で仕事をしていました。冬に売られる京都の千枚漬けってあるでしょう。昔は贈答用で千枚漬けを木の桶に入れて送ってたんだ。でも、昭和40年代にプラスチックが出てきて、木の桶が必要なくなった。いまは千枚漬けもプラスチックの桶を使っているところが多いな」

二代目と三代目の作業の様子

安く、大量に作ることができるプラスチック製品は便利な生活用品となって一気に広まり、木桶はあっという間に駆逐された。三重県の伝統工芸品として知られる「関の桶」も、時代の変化の波に押し流され、「ひとつの町に必ず2軒はあった」という桶屋は、どんどん廃業した。

先代の粘り腰

しかし、先代は店をたたまなかった。桶重では桶の修理もしている。長年使いこんだ桶を修理したいという顧客もいるし、おひつや漬物桶など「やっぱり木桶じゃないと」という取引先もわずかながらに残っていたからだ。

先代は、日雇いのアルバイトをしながら、激減した注文に応える日々を選択した。
そうして粘っているうちに桶屋は全国的にも姿を消していき、わずかに残っていた需要が桶重にまで届くようになった。「いつか桶一本に」と思っていた先代は、腹をくくって再び桶づくりに専念。もともと三重県の名工に認定されていた先代の評判を聞きつけて、少しずつ注文が増えていった。その姿を見て、服部さんも覚悟を決めた。

「その前は手伝うぐらいで、うわべだった。店をどうするかわからんかったしな。親父ももう辞めようかなと言っていた時期もあって、やっていけんのか、ものすごい不安やんか。でも、取引先や修理に持ってくる人がいて、店がなくなったら困るやろなと思って。それに、買ってもらえなかったら自分が悪いし、こういう風にしたほうが良いとか自分の責任で工夫ができるのが良い。スポーツでもなんでも腕一本で勝負するのが好きやし」

後を継ぐと決めてからは、先代からマンツーマンで教えを受けた。見て盗め、というまどろっこしい方法ではなく、手取り足取り仕込まれた。もちろん怒られることもあったが、「仕事してるときは弟子と師匠の関係や。自分ができるようになったら親父もなにも言わへん」と割り切っていたから、耐えられた。

よく使い込まれた様子の道具。初代から使っているものもある

竹や木材の知識、刃物の使い方、水が漏れないようにするための技術など憶えることは無数にあったが、1990年代の半ば、修業を始めて5、6年が経つと先代はこう告げた。
「もうお前に教えることはなにもない」

「死ぬまで修行」はアホ

それから先代が亡くなる1999年までふたりで店を切り盛りし、名工のあらゆる技を吸収した。いま、関に残る唯一の桶屋として店を守る服部さんは、こういう。

「中途半端に習ったら、真似事の世界。極めた人に教えてもらうと、あとは自分の技量次第でなんでもできるようになる」

タガを打ち込んで桶を引き締める

いま、服部さんのもとに届く依頼は「変わった桶ばっかり」。宣伝は一切していないが、口コミで腕の良さが広まり、一般の客だけでなく、全国の神社やお寺などで使う特別な桶の注文がくる。例えば、静岡の神社からは昔から使っていた桶を再現してほしいと声がかかり、関西の神社からは作り手がいなくなった卵型の桶を作ってほしいと連絡が来る。作ったことがない形や用途のものもあるが、それでも、ここには書けない一度の例外を除き、依頼を断ったことがない。

「職人は死ぬまで修行ですという人いるけど、アホかこいつと思う。お客さんがせっかくお金出して買うてくれてるのに、失礼な話や。でも職人の世界はな、例えば昔の古い桶、これと同じものを作ってくれとか修理してくれとか言われたときに、うちはこんなんできんと言うのはありえん。誰が、いつ作った桶でも作れなきゃ、直せなきゃあかん。それができるのが職人、できなかったら単なる趣味や」

小さな花桶を作るのに2日半かかる桶屋の仕事が、決して楽なわけではない。それでも依頼が届く限り、現代の匠は作業場で桶と向かい合う。どんな注文にも応えてみせるという誇りと気概を持って。

「人とグループで仕事してもつまらん。なにがええんかなって。生きとるっていう感じがせんわけよ。桶は一から十までひとりで作ってるからこその達成感があるし、大事に使って喜んでもらうのが一番好き。商売やから、それでなんとか儲かったら嬉しいなって」

服部さんが作ってきた桶の数々

<取材協力>
桶重
三重県亀山市関町中町474-1
0595-96-2808

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 京都の女性黒染め師が拓いた新境地

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は京都の女性黒染め師のお話をお届けします。

「なんで黒やねん!」
創業1870年、京都の黒染屋・馬場染工業(ばんばせんこうぎょう)の4代目の次女として生まれた馬場麻紀さんは、物心ついたときから家業を苦々しく思っていた。自宅兼工房で目に焼き付いているのは、モノトーンの風景。白い反物か、染めた後の黒い反物が視界を埋めていた。

ずっと「うちは黒ばっかりでイヤやな‥‥」と思っていたが、「うちは、白のものでも父が黒といったら黒になるという家で、すごく厳格でものすっごく怖かった」ので、家ではニコニコして過ごしていた。

「カラスの濡れ羽色」を生み出した父

馬場家の初代が中京区柳水町で創業した明治3年ごろは、京都で黒紋付が売れ始めた時期だった。黒紋付は喪服というイメージがあるが、一般的に喪服として着用されるようになったのは戦後からとされており、創業時は富裕層の正装として需要があったのだ。

時代の流れで2代目は藍染に方向転換したが、3代目のころになると、それまでは一部の人間にしか許されなかった家紋を一般人でも持てるようになった。すると、自分が持っていた生地を黒紋付用に染め変える、という人が増えた。そこで3代目は約16メートルある紋付き袴の生地をぜんぶ広げて黒染めの手作業ができるように工房を拡大した。

今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。
今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。

そして麻紀さんの父、4代目の孝造さんは、家業の黒染めを進化させた。ある日、「今までの黒はグレーに見える! 黒っていうのはもっと黒やと思う!」と言いだし、目指したのが「カラスの濡れ羽色」。

「染料やさんと一緒にいろいろ試行錯誤をして、黒より黒い最高級の黒色を開発しはったんですよ。『秀明黒(しゅうめいぐろ)』と名付けた黒色はまさにカラスの濡れ羽色と呼ばれて、みんながびっくりするほどの出来栄えでした」

「秀明黒の馬場染工」はその名を全国にとどろかせ、注文が殺到。なんと1ヵ月に3万反の生地が届けられ、工房に所狭しと積みあがっていたという。さすがにこの数を手作業で染めることはできない、ということで、孝造さんは機械メーカーに話をつけ、自ら設計に携わり黒染めの機械を開発。秀明黒を機械で表現するために研究に研究を重ねて数年後、ついに業界で初めて機械化に成功した。

「アイデアマン」と呼ばれていた孝造さんは、ほかにも1985年、世界で初めて黒絹織物の摩擦堅ろう度試験(着用中の摩擦などにより、他の色移りする恐れがないか調べるための基準)で4級(5級が最上級)をクリアしたり、スイスと技術提携、中国と原料提携するなど黒染め業界のパイオニアとして慌ただしい日々を過ごしていた。

テキスタイルデザイナーとして活躍するも…

麻紀さんが育ったのはまさに孝造さんがフル回転していた時期だったから、「黒」が溢れる自宅で家の外のカラフルで華やかな世界に憧れ、高校時代には「お父さんの知らん世界で仕事をしたい」と願うようになった。

5代目の馬場麻紀さん。
5代目の馬場麻紀さん。

洋裁が好きだった麻紀さんは、就職しろという孝造さんをなんとか説得して洋裁の専門学校に進学。在学中、生地の魅力に目覚めた麻紀さんはテキスタイルデザインを学び、卒業後、テキスタイルデザイナーとして商社に入社した。

会社ではワコール、レナウンなど女性下着のデザインを任されたが、次第に「アウターのテキスタイルをやりたい」という想いが芽生えて転職。大手の生地問屋の社長が始めたばかりのテキスタイルデザインの会社に入り、社長の下についてイチから商売を学んだ。

「マンツーマンで社長に2年間ずっとついてまわったんですよ。おかげでどう営業して、仕事はどう取ってっていうノウハウを全部教えてもらった気がします。冒険もさせてくれはって、私は柄が好きやから、あんな柄は、こんな柄はって展開していくうちにだんだん会社が大きなってきて、東京事務所と京都事務所を往復するようになりました」

大きな仕事も任されるようになり、充実した生活を送っていたが、あまりに多忙で体調を崩したこともあり、28歳のとき、結婚を機に退社。専業主婦になり、3人の子どもに恵まれてビジネスからは遠ざかった。

子育てに追われる日々のなかで数年が経ったころ、転機が訪れた。離婚が決まり、子ども3人を連れて実家に戻ることになったのだ。

ひょんなことから戦国時代風の小物入れがヒット

孝造さんと母親と計6人での新生活。常にポジティブな麻紀さんは、めげることなくすぐにアルバイトを始めた。そのアルバイト先での出来事が、「ありえない」と思っていた黒染め職人の道へ進むきっかけとなる。

「学生時代にアルバイトしていた歯科医院の先生が新しく医院を開いていたので、そこで働き始めたんですけどね。そのとき、私38歳ぐらいで、職場の先輩がみんな年下なんですよ。私は特に気にしていなかったんだけど、その子たちからすると、いきなり入ってきた年上の新人が先生と親し気にしているのが気に食わなかったんでしょうね……」

学生時代とは仕事の内容が変わり、仕事に慣れるのに時間がかかったこともあって、職場の人間関係は悪化の一途。それでも3ヵ月は耐えていたが、ある日、麻紀さんが電話で予約を取った際に、それを見ていた20代の“先輩”の一言で、堪忍袋の緒が切れた。

「今の喋り方オッケーです! 今の調子で頑張って下さい!」

予約の取り方など学生時代から変わらないのに、馬鹿にするように褒め称えて拍手までする姿を見て、麻紀さんは思った。

「この子らと一緒に仕事できひん!」

このとき、気づいた。ほかの場所で働こうと思っても周りは年下ばかり。どこに行っても同じような目に遭うかもしれない。それなら、家で仕事をしよう——。

その少し前から、アイデアマンの幸造さんは「これからは家紋がくる!」と思い立ち、工房の一角を使って「家紋工房」を始めていた。これは、黒染めの手法を用いて家紋入りグッズを作るワークショップで、旅行会社と組んで観光客を受け入れていた。

幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。
幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。

すると、2005年に『戦国BASARA』という戦国武将をキャラクターにしたアクションゲームが発売されて人気に。その流れでゲームに登場する武将の家紋にも注目が集まるようになり、家紋を取り扱っている馬場染工業ともう1社、戦国グッズの専門店「戦国魂」が新聞に取り上げられた。

この記事を機に戦国魂と交流が生まれ、裁縫が得意な麻紀さんがデザインした戦国時代風の小物入れを戦国魂のオンラインショップで発売することになる。それが、本人も予想外の大ヒット。1日に平均30個のペースで売れるようになり、麻紀さんは工房で幸造さんの手伝いをしながら、小物入れを作るようになった。

勢いだけで後を継ぐことに

こうして6人での生活は平穏に過ぎていったのだが、幸造さんが肺ガンで倒れてすべての状況が一変した。診断はステージ4で、余命2年。実は5年前からガンだと診断されていながら、「気合いで直す!」と治療をしてこなかったため、手遅れになってしまった。

もう自分は長くないと受け入れた幸造さんは、決断が早かった。妻と娘と孫3人の生活を守るために、工房の2階と3階にあった機械をすべて処分して、トランクルームに。レンタル料金の収入を生活費の足しにしろ、と麻紀さんに告げた。

忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。
忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。

1階部分は残すことになっていたが、幸造さんは、ある日突然、長年、継ぎ足し、継ぎ足し使ってきた「黒より黒い、秀明黒」の染料を自ら流しに捨て始めた。
それを見た麻紀さんは驚き、「えっなにしてんの!?」と慌てて止めに入ったら、幸造さんは落ち着いた口調でこう言った。

「もう仕事する人いいひんし捨てんのや」

「やめときな、もったいない!染める染める!」

「誰がや!」

「‥‥‥‥はい!」

思わず手を挙げた麻紀さんに、幸造さんはポカンとして呟いた。

「え、ほんまけ?」

余命いくばくもない父をだますことはできない。「ダチョウ倶楽部のギャグと一緒ですよ」と笑うこのやり取りで後に引けなくなった麻紀さんは、翌日から工房に立った。

幸造さんも嬉しかったのだろう。麻紀さんが跡を継ぐと宣言してから、瞬く間にその話が広がり、多くの人が店を訪ねてきた。この間、麻紀さんは「カラスの濡れ羽色」を出す技術を受け継いだが、なにより「人間」としての父の偉大さを知った。

「お父さんには世話になったからとか、社長に恩返しせなっていうて、いろんな方が代わる代わる店に来てくれはるんですよ!昔、工房で働いてた従業員の人たちも、大丈夫か、なんかわからへんことあるか、わしが教えたるよ!って」

工房内の様子。
工房内の様子。

かけられた言葉は、建前ではなかった。
元従業員に力仕事をするのが難しいと相談したら、「重たいものはここに置いておいたらええで、私が全部処分してあげるしな」と言って、2週間に一度整理してくれるようになった。もちろん、無償である。

まだ黒染めに慣れていない麻紀さんのために、「私の染め!」といって衣類をたくさん持ち込んでくれる人も大勢いた。

幸造さんは病院での入院生活が長かったから現場で教わることはできなかったが、わからないことはすべて周りの人が教えてくれた。麻紀さんは、周囲の支えで黒染め職人として独り立ちしていったのである。

2008年、幸造さんが亡くなると、お葬式には900人が参列した。

洋服の染め替えで大盛況に

常々、「自分の食い扶持は自分で稼げ」と幸造さんから言われていた麻紀さんは、代々続く着物の黒染めを請け負いつつ、徐々に自分の得意分野に仕事をシフトしていった。コートやセーター、ワンピースなどの洋服を黒く染める「染め替え」だ。

ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。
ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。

「洋服の染め替えは洋服のことがわかってないとできないんですけど、私は学校でテキスタイルを学んでいたので、たくさん種類がある生地をそれぞれどう染めたらいいかっていうことがわかるんです。染めるということは、染料でクツクツ炊くので、たまに裏地の生地が破けたり、袖がくちゃくちゃになったり、トラブルが起きるんです。でも直せる技術もあるから全然動揺しないんですよ」

麻紀さんは、ひとつひとつの仕事にじっくりと時間をかける。
まずは、依頼主と10分から15分をかけてカウンセリング。染めの作業は、ボタンやバックルなどの付属品をはずすことから始まる。それから、生地が傷まないように普通の染屋さんが2時間でやる作業を6時間かけて染め上げて、乾いたら付属品を付け直す。ファスナーには生地を貼って、ダメージを与えないように気を遣う。これらの作業をすべて手作業でやっているのだ。

顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。
顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。

このていねいな仕事と幸造さんから受け継いだ艶やかな黒色が評判を呼び、口コミだけで右肩上がりに仕事が増えていった。以前、自分で手作りしていたホームページを業者に頼んで刷新したら、1週間に3着程度だった洋服の染め替えの依頼が、1日1着ペースになった。噂を聞きつけた関西ローカルの番組が取材に来たら、放送後、関西中からあらゆる衣類が持ち込まれて、365日休みなしという状態にまでなった。

「お前は儲けることを考えるな」

馬場染工業の大盛況を見て、同じように染め替えを売りにする店が雨後の筍のように現れた。その様子を見ながら、麻紀さんはふたりの人から言われた言葉を思い出していた。

ひとりは、父・幸造さん。
「お前は儲けることを考えるな。いいもんをつくって、ありがとうと言われる仕事をしろ。自分がこれやったらぎりぎりOKやっていう値段を設定したら、あとは1円でも高くとか、これやったら安すぎるとか考えたらあかん。人から喜ばれる仕事をしたら、勝手にお金がまわってくるから」

もうひとりは、某大企業のお偉いさん。
「君が今やってることはライバルがいいひんやろ。でも、君のやってることがほんまもんやったら、3年たったら必ず真似するやつは出てくるぞ。でもそのときに絶対に動揺することなく、君のやってるスタンスで君の値段でそのまま突き進んでいけ」

馬場染工業をまねて黒染めを始めた店は、半額の価格をつけていた。それでも麻紀さんは値段を下げず、仕事のスタイルも変えなかった。
そうすると、一度は低価格の店に流れたお客さんも、また麻紀さんの店に戻ってくるようになった。低価格の店は数をこなさなければいけないから、ゆっくりカウンセリングしている余裕はない。そのため、服にトラブルが起きることもあるし、満足度も高くないからだ。

黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。
黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。

競合店はいまもあるが、取材の訪れた3月某日、馬場染工業の工房には黒く染められるのを待つ洋服がハンガーにたくさんかかっていた。幸造さんが始めたワークショップも継続しており、なかなか休みが取れない日が続くが、今年3月に52歳になった麻紀さんは、「こんな楽しいことあらへんわ!ってくらい、むっちゃくちゃ楽しいです」と笑う。

「子どものころは、黒染め屋さんっていうのが嫌で、染めやさんですって言っていたんですけど、今はもう黒が一番かっこいいと思ってます。釜で炊いて服の色が変わっていくのをみて、いつも独り言を言ってるんですよ。ああ、素晴らしい黒やって」

この呟きを、聞いていたのかもしれない。あるいは、いつも陽気な麻紀さんが笑顔で働く姿が目に焼き付いているのかもしれない。いま、子どもたち3人ともが、黒染めの仕事に興味を示しているそうだ。幸造さんが生み出した「カラスの濡れ羽色」は、これからも受け継がれていくのだろう。

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<取材協力>
馬場染工業株式会社
京都府京都市中京区柳水町75
075-221-4759

文・写真:川内イオ