里山から始まる堆肥革命~“飛騨高山のフンコロガシ”の挑戦~

いま、一部の農家でとんでもなく大きな注目を集めている「堆肥(たいひ)」がある。堆肥とは家畜の排泄物にオガコ、わら、籾殻などを混ぜて、発酵させて作る肥料を指す。排泄物という言葉を見て、ん?と眉をひそめる方もいるかもしれないが、できることならもう少し読み進めてほしい。

まだ日本でもごく一部にしか知られていないこの堆肥は、もしかすると農業に革命をもたらすかもしれないのだ。それは、あなたの口に入る野菜を変えることを意味するし、一般の人も購入できるものだから、家庭菜園で革命の一端を担うこともできる。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
話題の堆肥「みな土」を使った農地で収穫されたみずみずしい野菜

病虫害から野菜を守る堆肥

長年の試行錯誤の末に革新的な堆肥を生み出したのは、飛騨高山の藤原孝史さんだ。藤原さんの堆肥を使った飛騨高山の農家からは、こんな電話がよくかかってくるという。

「藤原さん! 藤原さんの堆肥を置いたところだけダニにやられません!」(ほうれん草農家)

「藤原さん! 夏場にほかのみんなはダニに負けたんですけど、藤原さんが言った通りにしたらうちはぜんぜんやられなかった」(イチゴ農家)

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
自分の仕事を「フンコロガシ」と表す藤原さん。

どちらの農家も有機栽培をしていて、いつも病虫害に悩まされていた。この病虫害を防ぐために農薬がある。農家は農薬を使うか、病虫害に怯えながら有機栽培や無農薬栽培にこだわるのか、選択を迫られているのだ。そこで救世主のごとく現れたのが、藤原さんが作った堆肥「Revive soil」だ。堆肥とは肥料であり、土を豊かにするものである。なぜ、ダニの被害を減らすことができるのか?

「有用菌の密度の高い堆肥のベースがあると、益虫となるダニなど土壌生物が繁殖するんですよ。その益虫が、害虫となるダニを食べてくれるんです。だから、うちの堆肥を撒くと目に見えるほど大きなダニが歩いていますけど、それは益虫なんです」

ここで、あれ? と思った方は、多少なりとも農業に通じた方だろう。堆肥によって土壌生物が繁殖し、農作物の栽培に適した豊かな土になるという話は、藤原さんの「Revive soil」に限らず、当たり前の話だ。ダニを防ぐほどの効果を持つ堆肥は珍しいかもしれないが、それが果たして「革新的」なのか?と疑問を持つ方もいるだろう。

そうではない。革新性のカギを握るのは、藤原さんが最近、口にするようになった「社会的農業」という言葉だ。藤原さんの堆肥は、農業だけでなく、堆肥のもとになる畜産業も変えるポテンシャルを持つのである。

野菜農家から牛飼いに転身

1956年、田んぼと畑が広がる高山市の丹生川町で生まれた藤原さん。父は林業に就いていたが、夫婦で農業も手掛けていた。中学2年生のある日、唐突に、藤原さんの脳裏に鮮明なイメージが浮かんだ。それは、自然のなかで伸び伸びと飼育されている家畜がいて、そこから出る堆肥を使って農作物を作るという循環型農場だった。

「本当に、ひとつの絵として総合農場のイメージが降りてきた。僕が目指すものは、それからずーっと変わってないんですよ」

時は経ち、大人になった藤原さんは野菜を作る農家になっていた。ブロッコリーやグリーンピース、赤カブやとうもろこしなど色々な野菜を育てていたが、27歳の時、やむを得ない理由で肉牛を育てる牛飼いに転身。右も左もわからぬ状態で、牛と向き合う日々が続いた。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
高山市の丹生川町にある藤原さんの会社「SPIRIT」のオフィス

独学で有用菌の培養を開始

そして2001年、「牛飼いの仕事もひと段落したな」と判断した藤原さんは、堆肥の研究を事業として本格化することになった。

「僕の頭のなかにはずっと『総合農場』のことがあったので、実は1989年ぐらいからうちの牛のフンを使って堆肥の研究をしていました。その時に、まずはフンの悪臭をどうにかしたいと思って、独学で土壌学や微生物について勉強して、微生物の応用を始めたんです。自分で土着菌を採って培養して、乳酸菌を中心とした有用菌を入れた飼料をホルスタインに食べさせていました。それがだんだん良い結果が出るようになったので、特許も取りました。それで、委託生産に移したタイミングでもっと良い堆肥を作ろうと」

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
藤原さんが作る堆肥は柔らかい土のようにしか見えない。

藤原さんは知人の酪農家と相談し、牛に有用菌を入れた飼料を食べさせ、そこで出たフンを藤原さんが回収して堆肥にするという事業を始めた。瞬く間にその堆肥の評判が広がり、宣伝もしていないのに完売するようになった。フンの匂いや処理は酪農家の課題でもあるので、全国の酪農家から依頼を受けてコンサルティングをするようにもなった。

するとある時、乳酸菌を製造販売する会社から連絡があった。藤原さんは「循環のシステムが日本に定着すればいい」という思いで知り合いの酪農家を紹介したところ、その飼料は爆発的に売れるようになった。ところが、次第に品質が低下するようになったため、藤原さんは自ら別の乳酸菌を探し求めた。

牛の腸内フローラを整える乳酸菌

そうして出会ったのが「NS乳酸菌」だ。乳酸菌についての説明は割愛するが、これが藤原さんも想像しなかったような効果を生んだ。

「フンの悪臭が全くなくなったんです。悪臭の原因は微生物が分解できないぐらいの栄養素で、乳酸菌とか微生物の機能性が低いと分解しきれない。これまでは多少なりともフンの匂いがしていたのですが、いまはそれがまったくなくなりました。それだけじゃありません。牛の乳量が増えて、乳質も良くなったんです。さらに、搾乳作業中についた粘膜の傷に有害菌が入って乳房炎になると、抗生剤を打ってそのミルクを廃棄するという悪循環になるんですけど、乳房炎の発生率が激減しました」

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
手で触れてもまったく嫌な臭いがしない

乳房炎が減り、乳量が増え、乳質が良くなるということは、端的にいえばその牛の免疫力が高まり、健康になっているということだ。いま、人間の健康管理に腸内フローラが注目されているが、NS乳酸菌は乳牛の腸内フローラを整えるのに合っていたのだろう。そして、フンのなかに含まれるNS乳酸菌を微生物や土壌生物が食べると、それらもまた見違えるように活性化する。そうして、病虫害を防ぐ堆肥ができたのだ。藤原さんはこの仕組みを鶏や豚にも応用できないかと考え、同じようにNS乳酸菌を使った飼料を食べさせたところ、どちらのフンも牛と同様の効果が得られたという。

目指すのは「社会的農業」

取材当日、実際にまだ湯気が出るほど発酵している状態の堆肥を見学させてもらったが、鼻先につくほど顔を近づけても全く悪臭はしなかった。むしろ、豊かな土だけが持つどこか懐かしいような香りがした。鶏糞と牛糞を混ぜた堆肥は牛糞だけの堆肥とはまた違う匂いで、出汁や味噌、醤油のような香しさがあった。それを藤原さんに伝えると「アミノ酸が豊富だからだと思います」と微笑んだ。

誰でもこの堆肥を使えるように「みな土」と名付けて販売を始めた藤原さんは、「みな土」のみを使う無農薬、無化学肥料、不耕起の農園「みな土農園」を開園。40種~50種類ほどの健野菜やハーブを作っている。さらに、これからもともと牛舎として使っていた土地で鶏や豚の飼育を始めようとしている。また、堆肥作りに欠かせないオガコも地元で調達しようと、間伐材を使った割り箸作りの研究を始めた。

岐阜・堆肥づくり、みなつち農場・藤原さん
無農薬、無化学肥料、不耕起のみな土農園

牛や鶏、豚が健康になり、そのフンと地元の木材から出るおがくずを使った堆肥が土地を強く、豊かにする。自然豊かなその里山には栄養たっぷりで美味しい野菜がなり、人間も動物もそれを食べて、また健康になる。その景色を想像すると、中学二年生の時に思い描いた「総合農場」そのままなのだという。そのあり方を表す言葉が「社会的農業」だ。

「30年もこんなことをずーっとやってるもんですから、最近、絞り出るようにしてこの言葉が出てきたんですよ。自然と社会が調和して、人も家畜も健康になる。これが社会的農業だと思っています」

取材の最後に、藤原さんが嬉しそうに顔をほころばせながら「まだ公表できないんですけどね」と、ある研究結果を教えてくれた。広く名を知られた某大学で、藤原さんの堆肥から驚くべき腐植酸が発見されたと連絡があったそうだ。その内容についてここでは書けないが、それが明らかにされたときには日本、いや世界の研究者が飛騨高山に殺到するだろう。

<取材協力>
株式会社スピリット
岐阜県高山市丹生川町大萱1150番地1

文・写真:川内イオ

稀代の左官・挾土秀平が語る。ものづくりの果てなき苦悩と無限の可能性

「助かった、神様ありがとう、だな」

左官として、日本で唯一無二の地位を築いている挾土秀平(はさど しゅうへい)さん。「ひとつの仕事を終えた時、どんな気持ちになるんですか?」と尋ねた時、挾土さんは少し遠くを見るようにしてこう答えた。

その瞬間、予想外の答えに「え?」と聞き返してしまったが、取材を終えてから、ようやく理解することができた。この言葉には、挾土さんの「いま」が詰まっていた。

職人の枠組みに収まらない存在

総理公邸、洞爺湖サミット会議場、ペニンシュラ東京、アマン東京、JALの羽田空港国際線ファーストクラスラウンジ、NHK大河ドラマ『真田丸』の題字とその題字が記された壁……。さまざまなシチュエーションで「日本の顔」となる場所に、挾土さん率いる「職人社 秀平組」が手掛けた土壁が掲げられている。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
挟土さんが手掛けた高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁と「真田丸」の題字(写真提供:職人社 秀平組)

左官とは、鏝(こて)を使って建物の壁や床などを塗り、仕上げる職人を指す。挟土さんの仕事はどれもがユニークで、同じ顔をしたものはない。最近ではミキモト銀座本店の新社屋に、ジュエリーが持つ品と妖艶さを兼ね備えたような「波」をイメージした5メートルの作品が納められた。

挾土さんは、これらの作品を土と自然の素材だけを使って生み出す。飛騨高山の郊外、自然豊かな里山のなかにある「職人社 秀平組」のアトリエを訪ねると、土から作られたとは思えない多彩な色と表現が目に飛び込んできて、思わずため息が漏れた。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィスは飛騨高山の田畑と野山に囲まれている

左官は日本の伝統的な職業だが、挾土さんはその枠組みに収まらない存在だ。画廊やギャラリーで個展を開き、テレビ、雑誌などメディアへの出演も多い。これほどスポットライトを浴びる職人はほかにいないだろう。しかしその歩みは「土下座」から始まった。

ひとりで壁に向き合った日々

1962年7月1日、左官業を営む家に生を受けた挾土さん。「いつかは継ぐんだろうな」という想いを抱えながら育ち、高校を卒業してから左官の道を歩み始めた。修行先は、熊本の建設業者。技能五輪で左官の金メダリストを何人も輩出している会社だった。

「その会社とはなんの縁もなかったんだけど、どうせならそういうレベルの高いところで修行したいと思ったんだ。でも最初は断られて、土下座して『お願いします』って頼み込んで入れてもらったよ」

「無理に雇ってもらったんだから、なんだ、全然だめだって言われちゃいかん」。そう思った挾土さんは、夕飯を食べてから寝るまでの間、職場で練習に励んだ。暑くても、寒くても、仕事がきつかった日も、何時間もひとりで壁に向き合った。

腕利きの先輩たちも、その姿を見ていたのだろう。いつしか、挾土さんが練習をしていると、ふらっと現れては一言、二言、アドバイスをくれるようになった。仕事の現場でも「一緒にやるぞ」と声をかけてくれた。

先輩たちのアドバイスを聞き、技を間近に見ることで挾土さんの技術はみるみるうちに上達。その成長速度は圧倒的で、21歳の時に初めて出場した技能五輪全国大会・左官の部で、優勝する。左官業に就いて2年1ヵ月しか経っていない人間が優勝するのは、極めて稀なことだった。しかし、挾土さんにとっては、驚くような結果ではなかったようだ。

「高校野球でもなんでも、どこよりも練習したチームが勝つわけでしょ。俺もそういうふうにやったから。誰よりも練習したよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
アトリエに置かれていた土壁。アトリエでは日々実験が行われている。

憤怒の気持ちだけを燃料に

熊本で4年の修業を積んだ挾土さんは、名古屋にある別の会社で2年過ごした後、25歳の時に跡取りとして実家に戻った。それから、想像もしなかった苦汁の日々が始まった。

もともといた職人たちにとって、腕に覚えのある社長の息子の存在は厄介な存在、一緒に仕事をしづらい存在だったのかもしれない。だからこそ挾土さんを自分たちに従わせようとしたのかもしれないが、それだけが理由とも思えないような酷い仕打ちが待っていた。

30年、40年の経験を持つ会社で一番の職人がやるような現場で「お前が頭で入れ」と指示されて、10人の職人が必要な現場で5人しかいないということが繰り返されたのである。誰から見ても、左官の仕事を始めてまだ10年前後の若者が仕切るような現場ではなかった。

そこで素直に頭を下げて助けを乞えば、その後の関係も変わったのかもしれないが、挾土さんはそうしなかった。憤慨の気持ちと自分で何とかしてやるという反骨心を燃料にして、がむしゃらに働いた。自分が深夜まで働けばふたり分の仕事量になると考えて、毎日、遅くまでコテを握り続けた。肉体を酷使するだけでは限界があるから、頭もフル回転させて、どういう交渉してどういう段取りを組めば10人分の仕事が5人で済むかを考えた。

そうしてなんとか及第点で現場を終えると、さらに厳しい仕事が割り振られる。必死でその現場をクリアすると、より過酷な仕事を任される。挾土さんは「憎しみと苛立ちしかなかった」と振り返るが、ひとつだけ確かなことは、この圧力のなかで職人として鍛え上げられていったということだ。

「誰も経験できないことをしたと思うよ、この業界では。それで経験値が増えて、賢くなって強くなって。そのうちに、前はあの環境でやったんだから、これくらいは大丈夫だろうとか、自分でさばける仕事の規模とか幅がでかくなるし、視界も広くなるよね」

起死回生の転機

挾土さんは無理難題を吹っかけられてもそれに屈せず、むしろ糧にして大きくなっていった。そんな若者の姿を見て、挟土さんにつらく当たっていた職人たちは何を思ったのだろう。この悪意のサイクルは、14年間も続いた。

最初の頃は若さと勢いに任せて突っ走っていた挾土さんも、逆風に晒され続けるうちに心身のバランスが狂い始めた。仕事を始めようとすると吐いてしまう。上司の顔を見るだけで、胸が締め付けられて苦しくなる。頑張ろうと思っても、体がいうことを聞かない。当時の心境を象徴するような作品が、アトリエに飾られている。「鬱」と大きく書かれた土のキャンバスに、13匹のミミズを這わせた作品だ。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
見ているだけで憂鬱になりそうな作品

「このまま続けていたら心がダメになる」と思い始めた頃に、起死回生の転機が訪れた。ある日、偶然に出会った、能率ではなく高いクオリティと技能を求められる物件。その物件は土壁だった。それまでの14年間、セメントの仕事ばかりだったから、新鮮だった。挾土さんは意気に感じて、腕によりをかけて仕事にあたった。すると、主に土壁を手掛ける職人や雑誌『左官教室』の編集長である小林澄夫さんから高い評価を得た。

話をしてみると、同じ壁でも価格と効率が重視されるコンクリートと、繊細さや仕上がりの美しさ、周囲との調和が大切な土壁では求められることが大きく違うことがわかった。挾土さんは目を開かれる思いだった。

「例えば200人も300人もいて、いつもケンカしてるような人材派遣センターがあってさ。そこで仕事をしてたら、突然、舞台の仕事がきてね。良い役者や監督に出会って、能率じゃなくて深いことをひとつでもしっかりやりなさいって言われたらさ、やっぱりその世界に惹きつけられるでしょ。それまで俺がいたような金とか権力とかどっちが上とか下とか、ガキみたいなしょぼい世界じゃなくて、人間的で豊かで深い世界でしょう」

新たな苦悩の始まり

あっという間に土壁の世界にのめり込んだ挾土さんは、コンクリートの世界から逃れるようにして独立。数少ない理解者だった12人の職人を引き連れて「職人社 秀平組」を立ち上げた。2001年、38歳の時だった。

こうして苦痛の日々とは別れを告げたが、新たな苦悩が始まった。最初の頃は自分の技能やこだわり、完成度の高さを評価される仕事が楽しくて仕方なかったという。土壁についてははほぼ独学だったから、既成概念に捉われないアイデアがどんどん湧いてきては、それを試した。その斬新さと、イメージを着実に具現化する能力が関係者に評価され、次第に「挾土秀平」の名が知れ渡るようになった。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」のオフィス

そうして、「吐き気がする依頼」がくるようになった。それは冒頭に並べたような人の目に多く触れる、責任重大な「絶対に失敗できない仕事」を指す。最初にその重圧を感じたのは2005年、TBS系のニュース番組『NEWS23』のスタジオでキャスターたちの背景に掲げられる壁の依頼だった。それから現在まで、同様の大きな仕事が途絶えることなく続く。

「『NEWS23』っていったらとんでもない数の人が観る番組でしょ。総理公邸とか洞爺湖サミットの会議場は国の威信にかかわる仕事だし、ペニンシュラ東京とかアマン東京は外資系の世界の仕事でしょう。それは、失敗したって『ごめんなさい!』で済む仕事とは圧力の規模が違うわな。しかも、やり直しが許されないし、失敗したら訴訟の可能性だってある。謝ってすまん場所で、絶対80点以上取りなさいって言われたら吐き気するよ」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
『NEWS23』の背景となった「鳳凰の壁」を作る挟土さん。(写真提供:職人社 秀平組)
職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
スタジオの様子。当時の番組テーマ曲「to you」から受けたイメージを表現したそう。(写真提供:職人社 秀平組)

勉強しないことがオリジナリティ

「吐き気がする依頼」を無事に終えるたびに、「もうやりたくない」と思うという。それでも仕事を請けるのは、「職人社 秀平組」の親分としての矜持だった。

「俺たちは、左官の世界では最後の一家だと思ってるから。俺についてきてくれる仲間がいるなら、飯を食わせていくのは俺の責任なんだよ。そこで仕事選ぶなんて、ありえない。むしろ、自分を殺してでもやるよ。それくらい仲間が大事なんだ。仕事選ぶっていうのはアーティスト。俺は一家の親分なんだから」

この言葉を聞いてふと思った。挾土さんは仕事を選ばない。でも求められる仕事の規模やクオリティは、間違いなくアートの領域だ。挾土さんの「吐き気」は、そこにも理由がある。30代後半まで、無名の左官としてひたすらコンクリートの壁を作っていた自分が、常にデザイナーやアーティストと同じ土俵に立たされて、センスや美意識を問われるのだ。しかも一家の長として仲間たちの生活を背負って。その緊張感を想像し、「美的センスを磨くために何かしていることはありますか?」と尋ねると、挾土さんは首を横に振った。

「勉強はしたことないよ。だって勉強したらパクリが生まれるでしょう。色合いとかも知らんうちに頭に残って、誰かに似てしまう。似てないことが新しいということで、それが評価になるわけでしょう。勉強しないってことがオリジナリティじゃないのかな」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
土と自然の素材だけを使って生み出す鮮やかな色

「休む方法を探さんと仕事ができなくなるぞ」

この答えに驚き、思わず、それでは自分の内面だけで勝負していることですか? 自分のイマジネーションに限界があるかもしれないという怖さはないんですか? と重ねて聞くと、挾土さんは「可能性は無限にある。それを自分が探せるかどうかだよ」と微笑んだ。

「ヒントは日常にごまんとあるでしょう。目って1日に何万もの写真を撮っているのと同じ。そのなかからどれを選ぶのかという話だね。例えば畑を鍬で耕している人がいてさ。ぐっと鍬で掘った跡を見たときに美しいと思ったら、それは壁になるかもしれないと思うし。あらゆるところにあるはずだよ、ヒントは」

「ヒントは日常のあらゆる瞬間にある」と言われても、大半の人はそれほど気を張って生きてはいないだろう。しかし、全国から依頼が届き、それに応じる挾土さんは、常にヒントを探し続けなくてはいけない。その生活は、わずかな休息すら奪ってしまった。

「休むことは課題。日曜は休日にしてるけど、結局、何を見ても壁のことにつなげて考えるようになってるから、けっこう疲れる。昔はカラオケで発散したけど、そういうことでは収まらなくなった。酒飲んでる時は、脳がもっと回転してるしな。だから、酒飲む時はいつもメモ帳を持ってて、閃いたらメモを取る。脳が24時間営業みたいなもんで、最近は医者に、休む方法を探さないと本当に仕事ができなくなるぞって言われたんだ」

漫画家・井上雄彦さんとの出会い

振り返ってみれば、周囲からの圧力に負けじと過ごした14年、独立してからの16年、合わせて30年、そのほとんどで息を詰めるような時間を過ごしてきた。それでもその合間、ある瞬間、特別な出会いを得て、あるいは会心の作品を仕上げて、胸がすくこともある。

例えば、2015年に放送されたNHKの大河ドラマ『真田丸』の仕事では、地元松之木町の土を使って高さ3メートル、幅6メートルの赤土の壁を築き、そこにコテで「真田丸」とタイトルの文字を刻んだ。ぶっつけ本番、一度きりの勝負で挑んだこの大作は、挾土さんが「天才」と認めるある人との出会いによって、完成することができたという。

「(漫画家の)井上雄彦さん。何回か会って話したり、あの人が描くところも見たりしているけど、本物の天才やな。あの人は一本の線を描いただけでアートになるでしょ。何が美しいって、あの人の髪の毛の表現。本当に生きたような線で、あれが俺に焼き付いてるんだな。あの人に会って、あの線の美しさが俺に焼き付いていたから、あの真田丸っていう字が書けたんだと思う。真田丸の字もすかーっとして線がきれいでしょ。だから俺はあの人に感謝してるの。真田丸の仕事ができたのは、あの人のおかげだと思う」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)真田丸の文字
コテで書いたとは思えない「真田丸」の文字

挾土さんは何度も「井上さんは天才」と絶賛した後で、「でも俺は違う」と言った。

「能力があればこんな風に疲れないよ。能力がある人はこんなに悩まないで、もっとさらっとできちゃうでしょ。だから俺はダメだなって思うもん」

ものづくりは自然との交信

天才は悩まないのか。悩み、疲れるから凡人なのか。それは意見が分かれるところだろうが、挾土さんが寝ても覚めても気を張り詰め、酒を飲みながらメモを取り、人知れず足掻いて作り上げてきた土の壁は、ひび割れの線一本にまでこだわっている。その繊細さは、井上雄彦さんが描く髪の毛一本の美しさに通じるものがあるのではないだろうか。

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「ものづくり・匠の技の祭典2017」で披露した葛飾北斎の浮世絵をモチーフにした作品。間近で見ると細かな表現が目に留まる。

「ものづくりは自然との交信だから。その想いは年々強くなってくんだ。仕上がった壁の表面にそれを感じるよな。この季節のこの環境のこの時の感覚でできたもの、自然の空気とか光が乾燥させてできた肌は、二度と同じものができない。それが価値になるでしょう。同じことができないという意味で、自然のひび割れという現象すらも価値になる。ただし、自分のイメージと違うひびが入ったら、壊さなあかんよな。なんでも自然だからいいってわけじゃない。お客さんはわからないかもしれないけど、そこで妥協したら誰かが気づく。それで次の仕事がなくなるかもしれない。だからこの仕事は難しいんだよ」

一家の親分として仲間を食わせていくために、どんな仕事もいとわない。絶対に80点以上を取らなければいけない、失敗したら後がないというプレッシャーのなかで、限界まで考え抜く。手を動かす。そして、コントロールできない「自然」とも向き合う。だから、だろう。ひとつの現場が無事に終わるたびに、この言葉が浮かんでくるのだ。

「助かった、神様ありがとう」

職人社 秀平組の左官・挾土秀平(shuhei hasado)
「職人社 秀平組」挾土秀平さん

<取材協力>
「左官挾土秀平 | Official website of Syuhei Hasado」
岐阜県高山市松之木町1108-6
0577-37-6226

文・写真:川内イオ

ルーヴル美術館にも和紙を納める人間国宝・岩野市兵衛の尽きせぬ情熱

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は現在83歳の人間国宝で、いまも売れっ子の越前和紙職人のお話をお届けします。

世界の美術館を対象にした来場者数のランキングで、毎年のようにナンバーワンに輝くルーヴル美術館。所蔵品55万点、昨年も740万人が訪れた世界最大級の美術館が、福井県越前市の小さな工房から越前和紙を取り寄せていることは、あまり知られていない。

手漉き和紙の産地として1500年の歴史を誇る越前市五箇地区の一角、周囲を山に囲まれた静かな集落のなかに、その工房はある。こんにちは、と玄関をくぐると、ルーヴル美術館からの依頼を受けて、2014年から和紙を納めている九代目・岩野市兵衛さんが、奥さん、息子さんと一緒に仕事をしている最中だった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
自然豊かな越前市五箇地区の「和紙の里」

日本で唯一の和紙

2000年6月、国指定重要無形文化財に認定された岩野さん。わかりやすく表現すると、人間国宝だ。人間国宝というと、高価な着物を着て、立派な工房で大勢の弟子を抱えているというイメージがあったが、岩野さんの姿を見てすぐにその偏見を改めた。1933年生まれでこの9月に84歳を迎える岩野さんは、いまも現役の職人として紙を漉いている。取材に訪れた真夏の午後も、涼しげなシャツ一枚で、正座をして黙々と指先を動かしていた。

現在日本で唯一、岩野さんとその家族だけが手掛けているのは、越前和紙のなかでも越前生漉奉書(えちぜんきずきぼうしょ)と呼ばれる最高級の和紙。原料として楮(こうぞ/クワ科の植物)だけを用い、古来より伝わる手漉きの技法で作られている。
ほぼ薬品を使わず、気の遠くなるような緻密な工程を経て漉かれた紙は、美術品を痛めないだけでなく、驚異的な耐久性と保存性を誇り、詳しくは後述するが主にルーヴル美術館の膨大な収蔵品の修復に用いられているという。

昔ながらの「川小屋」

岩野さんの工房は自宅の敷地内で複数に分かれていて、今回、岩野さんが作業をしていた所は独特の作りになっていた。南側の壁はお風呂で使うようなタイル張りで、水が緩やかに流れている。工房の片側にあるパイプからすぐ近くの山林の湧水をくみ取り、もう片側から流れ出るようになっているのだ。工房が湧水の通り道になっていることから、昔から「川小屋」と呼ばれているそうだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「川小屋」での作業の様子

僕が訪ねた時、川小屋で行われていたのは「選り(より)」。岩野さんの言葉では「ちり取り」という。

「今日の午前中、楮をでっかいお釜で炊いて、それからちり取りです。黄色い部分が固いから、固いところだけを取るの。きれいに取らないと、紙の表面に黄色い線がすっすっすっと入ってしまうんですね。もっと簡単な方法もあるんですよ。真冬でも水に手を突っ込んでこんなひとつひとつのちりをとらなくても、薬品の力を借りれば簡単に真っ白になる。そこに人工で着色してから漉けば見た目は変わらない紙になるんだ。いまの時代にこんだけやっている所は他にないでしょうね」

人間国宝といっても気取ったところがまるでない岩野さんが、これがちり、と見せてくれたのは、本当に微小な楮の繊維片。黄色い、固いと言われても素人目にはほかの部分と判別がつかないが、岩野さんは話をしながら、パッパッパッと「ちり取り」を続けている。頼りになるのは目と手触りだけだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
指先で細かな「ちり」を取る岩野さん

アーティストを虜にする和紙

「選り」は越前生漉奉書を作るうえで欠かせない作業ながら、ほとんど化学薬品に頼らない伝統的な技法の一部に過ぎない。岩野さんが薬品を使うのは、最初に楮を煮る時だけ。アルカリ成分で木の繊維を柔らかくするために、ソーダ灰を用いている。

煮だした繊維を「選る」と、繊維を叩いて一本一本をバラバラにする「叩解(こうかい)」という作業に続く。その後に一度水洗いしてでんぷん質を取り、きれいな繊維だけの状態にしてからようやく漉舟(すきぶね)に入れて紙を漉く。

このとき、一般的には漉船にトロロアオイという植物の根を原料にした「ねり」を入れて水の粘度を高めるが、岩野さんは北海道からノリウツギという低木の樹皮を仕入れて、「ねり」にしている。トロロアオイに比べるとかなりの高額だが、「優しい粘りが出る」というのが理由だ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
成長が遅く、木になるのに10年以上かかるというノリウツギの樹皮

紙の厚みを出すために何度か漉き重ねたうえで、ジャッキに載せて水を絞る。これを「圧搾(あっさく)」という。圧搾が終わると、漉き重ねた紙を一枚、一枚はがし、板に張り付けて暖かい部屋で室乾燥(むろかんそう)にかける。温度を高くするとしっかり乾燥する前にめくれ上がる可能性があるので、時間をかけてゆっくりと乾燥させる。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
室乾燥をしている様子

この過程を経てようやく越前生漉奉書ができあがるが、岩野さんが厳しい目で検品をして製品としてのレベルに至らない紙も多い。不合格になった紙はどうなるのか。もう一度、叩解し、繊維の状態に戻して、漉き直す。岩野さんの工房で捨てられるのは「選り」の際に残ったわずかなちりぐらい。そのちりで作った紙が欲しいというリクエストもあるそうで、無駄になる素材はほとんどない。

そうして完成した越前生漉奉書は、しなやかなのに伸び縮みせず、発色が良く、色あせもしないことで主に木版画の用紙として絶大な信頼を集め、横山大観や平山郁夫、草間彌生らが作品に用いていることで知られる。先代は、桂離宮松琴亭の襖壁紙も手掛けた。

戦争で閉ざされた夢の扉

岩野さんの家は、家族経営で先祖代々この製法を守り続けてきた。岩野さんの父、八代目の岩野市兵衛さんも人間国宝で、親子で認定されるのは極めて珍しい。これまで和紙業界で人間国宝は5人しかおらず、そのうちふたりが岩野さん親子というだけで、圧倒的な技術とその希少性がわかるだろう。

しかし、いかに貴重な和紙を作る家に生まれたからといって、すぐにその運命を受け入れられるわけではない。もともと、岩野さんは「紙漉きに興味がなかった」と笑う。

「もともと版画の彫師になりたかったんですよ。子どもの頃は、鉛筆削りといえば小刀でしょう。私が持っていた小刀がとにかくよく切れて、クラスのみんなが使ってました。そうするとすぐに切れなくなるから、家で研ぐ。研ぐのも好きで、毎日研いでました。それで、キレのいい刃物があれば良い彫刻もできるだろうと思うようなったんです」

版画の彫師になりたいというのは、子どもにありがちな漠然とした夢ではなかった。

「その頃、東京に大蔵半兵衛、京都には菊田幸次郎さんという人がいて、版画の彫師として有名な人で、そこの門を叩こうと思っていました。それでアカンと言われたら、うちの一番の得意先が下落合で版画を扱っているから、そこに行って弟子入りをしようかと。いまでもふたりの名前を憶えているぐらい、彫師に憧れていましたね」

しかし、時代が彫師への扉を閉ざした。1945年に、岩野さんの父が太平洋戦争で出征。間もなく終戦を迎えたが、運悪くシベリアに抑留されてしまった。小学校5年生になっていた岩野さんは、必然的に家業の紙づくりの手伝いをさせられるようになった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「選り」の作業をしながら少年時代を振り返る岩野市兵衛さん

「ピカソが使っていた紙」の真相

父が2年後の1947年に戻ってくると、家業がどんどん忙しくなっていった。終戦後、東京などに駐留していたアメリカの軍人が母国に帰国する際の土産として、オリエンタルで軽くて持ち運びに便利な浮世絵が人気となり、爆発的に売れた。浮世絵は、和紙に描かれている。仕事に復帰した岩野さんの父が東京の得意先回りをすると、次から次へと注文が舞い込むようになったのだ。

「当時、私の家で働けるのは親父と叔父さん、それから私の母親と叔父さんの連れ添い、あとほかの家族の者をいれた5、6人でした。それではどうにもならんようになって、お前は学校に行かないでうちの手伝いせえということで、高校に行くどころじゃなかった」

岩野家の唯一無二の和紙は海を渡り、海外でもその存在を知られるようになった。一時期、岩野さんの父がせっせと輸出用の紙を漉いていた記憶があるという。戦前からパリで画家として活動し、成功を治めた日本人画家、藤田嗣治も愛用者のひとりだった。

きっかけは、岩野家の和紙の評判を聞きつけた藤田嗣治の従妹が「これはすごくいい紙だから、送ってやりたい」と訪ねてきたこと。その際に越前生漉奉書を数十枚買った従妹が、パリにいた藤田嗣治のもとに送り届けた。それから岩野家と藤田嗣治の交流が始まった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
完成品の紙。一般的な紙とは全く異なる風合いを持つ

やがて、「岩野家の和紙をピカソが使っていた」という話が広まるが、それは岩野さんの父と藤田嗣治の会話から生まれたものだ。

「藤田先生がピカソ先生のところを訪ねた時に、どこの紙を使っているのですか? と尋ねたら、ピカソ先生はにこにこ笑って答えなかったそうです。それから時が経ち、藤田先生の従妹がうちの紙を送ったところ、藤田先生が『ピカソのところで使っていた紙と同じだ!』と気づいた。それで、藤田さんから私の親父のところに連絡があったんですよ。ピカソはきっと、日本人なのに日本の紙を知らないのかと笑っていたんだろうと。だから、ピカソ先生がうちの紙を使っていたのか、使っていなかったのか、確かなコトはわかりませんが、藤田先生はそう信じていました」

「古い方法」を求めて絶えない依頼

岩野さん自身は、彫刻の彫師になるどころか、学校にもいけないほど仕事に追われる日々だったが、厳しい環境のなかで職人としての技能を身に着けていった。父が1976年、75歳で他界すると、1978年には跡継ぎとして九代目・岩野市兵衛を襲名した。父からは、ひたすら心構えを説かれたという。

「父が私にずっと言っていたのは、ごまかすな、手抜きをするな、ということです。昔からの製造工程を頑なに守れって。だから言われた通りにやってきたけど、やっぱりごまかさんと紙を作れば、絶対いいものができるのよ。私ももう年だから、得意先に、どっかよその紙も使ってみてくださいって言っても、いや、市兵衛さんが紙漉きを辞めたら、私も版画屋を辞めなあかんやろって言われるんです」

「最近では、カナダに住んでいる日本人の版画家から電話があって、100枚の注文が入りました。それから2カ月したら、また電話があって、あまりにも上手くいったから手元に置いておきたいともう100枚の注文がありました。全然違う音がするということで、音響メーカーのスピーカーにも使われています。親父の言う通りに古い方法を守り抜いて仕事をすれば、それでいいんですよ」

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
煮だして「選り」をしている時の楮
人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
岩野さんの紙を破ると細かで柔らかな楮の繊維質が現れる

まさに、この「古い方法」を求めたのが、ルーヴル美術館だった。ルーヴル美術館には数百年前の絵画や版画など紙を使った美術品が数多く収蔵されている。その当時、紙の原料は楮や三椏(みつまた)だったため、ルーヴル美術館は修復用として同じような製法で作られた紙を探し求めていた。そうして世界中の紙を集めて比較検討するなかで、岩野さんの紙がトップの評価で選ばれたそうだ。

「東京の美術品を修復する工房からこの話がきてね。去年は厚さが100分の10ミリ、100分の20ミリ、100分の30ミリのものを合計で300枚ぐらい納めたかな。今年は100分の20ミリばかり600枚ぐらい。600枚作るとなると、3人で毎日仕事をしても1カ月ぐらいはかかるねぇ。紙作りで一番大変なことといえば、ご希望の厚さに揃えること。紙を漉きながら、そろそろ100分の20になったなぁ、まだならんなぁとかって目で見て判断するほかない。これが一番難しい」

完全に自然の素材だけで作られた紙

いま、岩野さんのもとにはあらゆる依頼が届く。昨年から今年にかけて、アニメ「攻殻機動隊」の浮世絵シリーズや、映画『スター・ウォーズ』を木版画浮世絵にした「浮世絵 スター・ウォーズ」、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』の漫画家、松本零士の「浮世絵コレクション」などにも岩野さんの紙が使われており、いまや数カ月待ちの状態だ。

83歳の現役職人は、忙しい。しかし、今後さらに手をかけた究極の和紙を求める依頼があった時のために、まだ温めているものがある。蕎麦の葉を燃やして作られた灰だ。

先述したように、普段、楮を煮る時にはソーダ灰を使っているが、ソーダ灰などなかった時代には、植物の灰を使っていた。楮の繊維は植物の灰と相性が良く、岩野さん自身、これまでに数回しか作ったことがないそうだが、完全に自然の素材だけで作られた紙は、光沢や色味、手触りも品が良くなるという。

しかし、10キロの楮を煮るのにソーダ灰なら1.2キロで済むところ、蕎麦の灰なら約6キロも必要になる。この大量の灰を作ってくれるところが、もうなくなってしまった。

「福井県では今庄(南越前町)がお蕎麦の産地だから、そこのおばちゃんなんかに小遣いをあげて、灰を作って、というと喜んで作ってくれた。昔は、稲と同じように蕎麦が実ったら稲機(いなばさ)に引っ掛けて乾燥させて、蕎麦の実を取った後に残った部分を燃やして灰を作ってもらっていたんだ。でも、いまはコンバインで刈っちゃうでしょう。余ったくずを乾燥させて燃やせば灰もできるだろうけど、そんなもん誰もやってくれないよ」

蕎麦の灰の供給は途絶えてしまったが、岩野さんの蔵にはまだ少しだけ蓄えられている。その灰は、「どうしてもせなあかん」依頼があった時のために、眠らせてあるのだ。
人間国宝が紙づくりに燃やす情熱は、まだまだ尽きていない。

「もうこれでええっちゅうことはないもん。死ぬまで一年生」そういうと、岩野さんは静かに微笑んだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛

<取材協力>
福井県和紙工業協同組合
福井県越前市新在家町8-44パピルス館内
0778-43-0875

越前 和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363

文・写真:川内イオ

漆塗りのトーキョーバイクが、鯖江を走る。

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は越前漆器(えちぜんしっき)の漆塗り職人が手掛けた漆塗りの自転車についてお届けします。

漆塗りという言葉から、どんなイメージがわくだろう。多くの人が思い浮かべるのは、漆が塗られた伝統的な食器「漆器」ではないだろうか?

しかし、漆の使い道は漆器だけにとどまらない。福井県鯖江市の東端、1500年の歴史を持つ越前漆器の産地として知られる「越前 漆の里」では、昔から漆に関するこんな言葉があるそうだ。

「土と水以外は塗れる」

この言葉を教えてくれたのは、創業1793年の老舗、漆琳堂(しつりんどう)の8代目、内田徹さん。2013年に県内最年少で伝統工芸士に認定された、越前漆器の産地を代表する若手職人だ。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)
漆琳堂の8代目・内田徹さん

漆塗り職人 × 自転車

内田さんは、「土と水以外、漆は塗れる」という言葉を体現するように、今夏、これまでにない素材に挑んだ。自転車だ。世界でも珍しい漆塗りの自転車は、2017年10月12日から4日間、鯖江市で開催されるイベント「RENEW×大日本市鯖江博覧会」の目玉のひとつとして、イベントの企画にも携わっている内田さんとスタイリッシュな自転車で人気のtokyobike(以下トーキョーバイク)のコラボレーションから生まれた。

「もともとは、イベントのときに、レンタサイクルで鯖江の町なかをかっこいい自転車が走っていたら素敵だよね、という話から、トーキョーバイクさんに自転車のレンタルをお願いできないか聞いてみようという流れでした。その時、イベントのメンバーから自転車に漆を塗ったら目立つし面白いよね、というアイデアが出て、内田さん、塗れますよね? と聞かれたので、うん、塗れると思うよと。そのアイデアをトーキョーバイクの社長の金井一郎さんが気に入ってくれて、実現したんです」

漆器の職人である内田さんに対して、「自転車に漆を」というメンバーの思い付きは、ある意味無茶ぶりに近いが、恐らく、内田さんならやってくれるという確信があったのではないだろうか。伝統工芸の職人のなかには新しいチャレンジを好まない人もいるが、内田さんは身内の反対を押し切り、産地の常識を覆した経験がある。

家業を継ごうと思った理由

高校時代は甲子園を目指す球児で、大学時代には体育の教師を志していたという内田さん。それまでほとんど家業を手伝ったことがなく、当然のように、家を継ごうと思ったこともなかったという。

しかし、大学3年生になり教育実習で実家へ戻っている間に、祖父や父が遅くまで忙しく働き、その分、しっかり稼いでいる姿を改めて目の当たりにして、良くも悪くも安定している教師より、「頑張れば成果が見える仕事っていいな」と思うようになったそうだ。その決断は早く、大学4年の12月頃には漆琳堂の名刺を持ち、それから当たって砕けろの体当たりで営業を始めていた。

「電話帳で全国の漆器屋さんを調べて、電話をかけて飛び込み営業ですよ。体力には自信があったので、名古屋日帰り、東京日帰りでハードに動いていました。今思えばたいした成果もないまま出張を繰り返していて効率が悪いんですが(笑)、その時に取引を始めてくれたお客さんのうち数社は今もつながっています」

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

営業をしながら、祖父と父から職人の仕事を学んでいった。漆を塗る「塗師」の仕事は主に木の器に漆を塗る準備をする「下地」、漆器の土台となる「中塗り」、仕上げの「上塗り」という3つの工程に分かれており、内田さんいわく、通常は下地、中塗りだけで数年の修行をした後に、上塗りの作業を許される。しかし、内田さんはすぐに上塗りを教わった。それはきっと大学卒業後に学び始めた8代目に対する特別な教育で、内田さんはたくさんの失敗をして何度も怒られながら、技術を吸収していった。

「そんなの売れるわけねえだろう」

そうして7、8年と時が経ち、ひと通りの仕事ができるようになった頃、内田さんは大胆な行動に出た。越前漆器に黒と赤しかないことに疑問を抱き、ポップなカラーの漆器を作り始めたのだ。鮮やかなイエロー、穏やかな空色、目が覚めるようなピンク……。これが、祖父と父から大不評だった。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

「みんな黒と赤の器しか見たことがないから、気持ち悪いとか、そんなの売れるわけねえだろうとかボロクソに言われました(笑)。でも、黒と赤で定番化している越前漆器全体の売り上げが伸び悩んでいるなかで、ほかと同じことだけをし続けたら価格競争になる。それを避けるために、差別化はしたいと思っていました。新しい色のお椀が売れたらラッキーだし、売れなくても自分のところで作っている商品だから大きなリスクはないので、これぐらいチャレンジをしてもいいだろうと」

当初、内田さんの斬新なお椀に興味を示したのは、美術館のミュージアムショップなど数カ所だった。そこに委託販売の形でカラフルなお椀を置くと、普段は静かな「漆の里」にざわざわとさざ波が起きた。「これ、誰が作っているの?」という反応とともに問い合わせが増え、次第に売れ始めたのだ。1500年間、黒と赤だけで彩られてきた越前漆器の世界に風穴が開いた瞬間だった。

秘伝のモスグリーン

内田さんはその後、「aisomo cosomo(アイソモ コソモ)」「お椀やうちだ」というオリジナルブランドを立ち上げ、さらに自社工場の1階には洗練されたショップを開いた。長年、業務用の需要がほとんどだった越前漆器にあって、これもまた革新的な取り組みだった。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

こうした過去を持つ内田さんだから、「自転車に漆を塗る」というアイデアにも躊躇することなく賛同することができたのだろう。とはいえ、漆塗りの自転車が簡単にできたわけではなく、試行錯誤があった。

「漆を定着させるためにどうすればいいのか、悩みました。最終的に、フレームの表面を綺麗に磨いて水研ぎして表面を荒らしてから漆で中塗りして、その後にうちで調合しているモスグリーンに色付けした漆で上塗りをしました。この色は、うちの特徴的な色で真似しにくい配合になっているんです」

漆を塗る作業にも気が遠くなるほどに神経を使ったと振り返る。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)
トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

「漆器を塗る時と同じく刷毛で塗りましたが、塗りムラを残さないようにすることに神経を使いましたね。器の場合は回転風呂という機械を使って回しながら塗るところ、自転車はそうもいかない。ホコリがつかないように自転車が入るぐらいの箱を作って、そのなかで漆を塗っては20〜30分おきに静かに、ゆっくりと箱の中で回転させるということを繰り返しました。お椀は数分で塗れるのに、自転車はふたりがかりで数時間かかりましたね」

この繊細な作業を経て完成したフレームを見たトーキョーバイクは、内田さん秘伝のモスグリーンに合う色や形のサドル、ハンドル、タイヤを特別に選び出し、独特の艶やかさを持つ自転車となった。そして、この仕上がりを気に入ったトーキョーバイクからの提案で、1台限りの予定だった漆塗りバイクは、「RENEW×大日本市鯖江博覧会」に向けてもう1台作られることになった。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

漆塗り自転車の経年変化を楽しむ

イベントの期間中2台の自転車はレンタサイクルとして活躍する予定で、そのうちの1台はイベントに関連する約80カ所をフルに巡った来場者のなかから抽選でプレゼントされるそうだ。
この自転車が欲しい人にとっては心弾むイベントだろうが、今回、自転車の漆塗りに挑んだ内田さんも負けず劣らず、少し先の未来を想像して胸を躍らせている。

「8月の展示会の時に、この自転車いくらですか?って聞いてくれた人がいたんです。それって買う気があるということですよね。もし、今回のコラボをきっかけに漆塗りの自転車を売るようになったら、塗り直しのメンテナンス付きにしたいんですよ。漆は塗った時、少し黒っぽいんだけど、日が経つにつれて経年変化で明るくなるんです。買ってくれた方と自転車の色が変わっていくのを楽しむって楽しいですよね」

さて、改めて漆塗りという言葉からどんなイメージがわくだろう。10月、世界で2台しかないモスグリーンの漆塗り自転車が鯖江を走る。

トーキョーバイク・漆琳堂(しつりんどう)・中川政七商店 鯖江博覧会×renew(リニュー)

<取材協力>
漆琳堂
福井県鯖江市西袋町701

0778-65-0630

文:川内イオ
写真:上田順子、林直美

浜松の熱き伝統を支える凧職人の心意気

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回はあまり知られていない浜松の凧文化と凧職人についてお届けします。

浜松市民にとって、5月は特別だ。5月3日から5日の3日間にわたって開催される浜松まつり。人によっては「年末年始よりも大切」というその祭りのメインイベントのひとつが、浜松市の174の町がそれぞれの凧を揚げる「凧揚げ合戦」である。

まず、各町単位でその町に生まれた子どもの誕生を盛大に祝う「初凧揚げ」が行われ、さらに各町入り乱れての「糸切り合戦」が行われる。「糸切り合戦」とは、凧を揚げながら互いの凧糸を絡ませ、グイグイと擦り合って相手の糸を断ち切るもので、切ったら勝ち、切られたら負けという各町のプライドを懸けた戦いだ。

ちなみに、凧揚げというと正月に子どもが揚げるような手持ちサイズを想像してしまうが、浜松の凧は桁が違う。江戸時代から浜松で凧を製造・販売している「上西(かみにし)すみたや」さんの工房を訪ねたとき、なによりも圧倒されたのはその凧の大きさだった。

「凧の大きさは1帖、2帖という単位で表します。美濃半紙の大判を12枚つなぎ合わせた大きさが1帖で、約1.3メートル×1.3メートルになります。昔は1枚、1枚張り合わせていましたが、いまは土佐の和紙屋さんに60×90センチの大きな紙を作ってもらっています。昔は3、4帖が多かったけど、いまは5、6帖が主流ですね。最大の凧は10帖で、約3.6メートル×3.6メートルになります」

取材に伺った日、工房には10帖の凧の骨組みが置かれていたのだが、何も知らずにそれを見たら、恐らく浜松市民以外は誰も凧とは思わないだろう巨大さ。

工房ではすでに来年5月のお祭りに向けて凧作りが始まっている

10帖の凧が揚がる姿が想像できません、というと、「上西すみたや」10代目の大隅文吾さんは、そうかもしれませんね、と少し誇らしげに微笑んだ。

町印、家紋、名前入りの凧

浜松の凧は、独特だ。凧が空高く揚がっているときに、どこの町の凧かはっきりとわかるように、凧の中央には大きな町印が描かれる。そして、左上に家紋、右下には名前が記される。

凧に町印を描いている様子。右手前が家紋 (写真提供:上西すみたや)

これが「初凧」で、もともとは長男が生まれた家があると、端午の節句にその町を挙げて「初凧」を揚げてお祝いした。現在では次男でも、長女でも同じようにして5月3日から5日のいずれかの日に祝う。凧が大きすぎて家に飾れないので、無事に凧揚げを終えると、名前と家紋の部分だけを切り取って額に入れ、家に飾る。浜松市民にとって、これは一生の宝物になるという。

従来、子どもの名前入りのめでたい凧を糸切り合戦に使うわけにはいかないので、合戦用に名前が入っていない組凧、町凧も作られてきた。こういった凧揚げ文化は江戸時代に始まり、明治時代以降に盛んになったと言われている。近年では「初凧」の依頼主である「施主さん」の意向で、初凧でも合戦に参加することが増えているそうだ。大隅さんは「浜松の人間は合戦好きなんです」と語る。

竹ひご1本を作るところから始まる

270年以上、浜松で初凧、組凧、町凧の製作を手掛けてきた「上西すみたや」は、昔ながらの手作りをいまも続けている。

「暖かい時期の竹は水を吸っているので、秋に切った真竹を使います。10月から12月にかけて、手作業でその竹を割り、ひごや親骨と呼ばれる太い竹の骨に加工します。同時に、竹ひごを格子状に麻糸で縛って凧の形にした障子骨に親骨を針金で括り付けてがっちりと骨組みを作っていきます。浜松凧は糸切り合戦で相手の凧の揚げ糸を切りたいので、風を受けたとき、凧が力強く自分の揚げ糸を引っ張ることができるように、所々に親骨を入れて頑丈な造りにするんですよ。秋の間に障子骨を200枚は作っておきますね」

凧作りの作業は竹を真っ二つに割くところから始まる
指先の感覚を頼りに割いた竹を削って竹ひごや親骨にする

前年に子どもが生まれた家から174の各町に「初凧揚げ」の依頼があり、それを各町がまとめて発注するというしきたりになっているため、凧の注文が入るのは年明けから。注文が来ると、骨組みに和紙を張り、染料で色付けをする。一般的な凧で使用されている顔料ではなく染料を使うのもこだわりだ。

「顔料と染料の違いは光にかざしてみると一目瞭然。顔料は光を通さないけど、染料は通します。凧を揚げたときに、きれいにはっきりと町印や名前が見えるように染料を使っているんですよ。染料は顆粒や粉末状のものを配合してから煮て、『今年の色』を作ります。和紙も手作りなので、同じように頼んでも毎年微妙に出来が違う。その和紙に合う安定した色を作らなきゃいけないんですよ」

染料を使うことによって鮮やかな絵柄が空でも映える

最終工程は、家紋と名前を入れる作業。大隅さんにとって、凧作りのハイライトだ。

「凧に入れる名前はすべて僕が書いてるんだけど、これがね、ものすごくエネルギーが必要なんですよ。さらっと書いてしまうとどこか弱々しい感じになってしまうから、勢いがあって、勇ましく、元気よく、力強いものを書こうとすると、自分のパワーを込めないといけない。そうすると、漢字の一本、一本の線を引くのにもすごく時間がかかって、だいたいひとりの名前を書き上げるのに30分はかかるんです。それが終わると休憩して、また次の名前にうつる。昼間は集中できないから、夜中にひとり引きこもって書いています。実際に名前を書くのは2月と3月ぐらいなんだけど、筆を持っていないと腕がさびるのでいまも書道に通っています」

町印が目立つデザインだが「名前の部分が一番強くないといけない」と語る (写真提供:上西すみたや)

凧が大型化している理由

もともと「上西すみたや」は「際物業 (きわものぎょう) 」で、季節ごとに表具や盆飾りを作ったりしていて、凧も冬から春にかけての季節限定の仕事だった。しかし、もともと70ちょっとの旧町だけだった凧揚げの参加地域が昭和の終わりから平成にかけて急増し、現在は174もある。

各町からの初凧の注文に加えて、糸切り合戦で凧が壊れたり、古くなって新調するための組凧、町凧の注文もあれば、結婚式や新しくお店がオープンする際にお祝いとして凧が贈られるという浜松特有の文化もあり、いまでは凧の注文が年間300から400個にのぼるという。しかも、凧が大型化して作業工程が増えたため、最近ではほぼ専業になった。

ところで、なぜ大型化しているのか。そこには浜松ならではの事情が隠されている。
一昔前、凧揚げの会場になっている中田島砂丘では陽に照らされて砂浜が熱くなると、南から空気が入り込んで強い風が吹いたため、3、4帖の凧で十分だった。

しかし、砂浜が徐々に小さくなり、あまり強い風が吹かなくなってしまった。その条件でも凧を揚げるために、風をしっかりと捉える大きな凧が求められるようになったのだ。そうしていくつかの町が5、6帖の凧を揚げるようになると、当然、3、4帖の凧よりも空の上で見栄えが良いし、重くて頑丈なので糸切り合戦でも強さを発揮するようになる。そうなると、3、4帖の凧を使っていた町も「うちも大きくしよう!」ということになり、大きな凧が人気になっていったのだ。

10帖の凧 (左端) を運ぶときには、10トントレーラーが必要になる (写真提供:上西すみたや)

とある日の緊急事態

凧に思い入れのない者からすると、そんなに張り合わなくても、と思ってしまうが、大隅さんの話を聞いていると、凧揚げに懸ける浜松市民の尋常ならざる想いが伝ってくる。

「30本ほどある凧の糸目で重要なのは上の両端と下の真ん中にある糸を通す場所で、これを『みつ』と呼びます。浜松にはお施主さん本人が初凧のみつに糸目をつける糸目式という行事があるのですが、そのとき『みつ』以外の糸目も全部つけてしまいます。凧の糸目は各町によって糸を通す場所や本数、長さ、どこを張らせてどこを緩めるかとかいうのも全て違います。自分たちのやり方を盗まれるのが嫌なので他の町内の人間には見せませんし、必ず町ごとに糸目に関する秘密の資料があるはずですよ」

「あと、浜松の人間は各町で元日にも大凧を揚げますね。大晦日に支度をして、年が明けると暗いうちから河川敷や海で揚げるんです。凧が良く見えないから、電球をつけたりして。変わった光景ですよね (笑) 」

この環境で生まれ育った大隅さんも、もれなく凧が好きでたまらない。だからこそ、浜松で代々続く凧の作り手として、他にはない独特の技術と文化を継承していきたいという想いもあり、父親の跡を継いだ。

浜松を離れていた学生時代も、ゴールデンウィークには必ず帰郷したと語る大隅さん

実は、冒頭で記した「年末年始よりも浜松まつりのほうが大切」というのも大隅さん。この生粋の凧職人には忘れられない日がある。

3年前の5月3日。お祭り当日の夕方に、電話が鳴った。出ると「初凧を揚げてお祝いする前に、潰れてしまった (壊れた) 。4日の朝までに新しい凧を作ってほしい」という緊急連絡だった。タイムリミットは数時間。しかし幸い、必要な材料はそろっていた。言うまでもなく、返事は「わかった!」。電話を切ってからノンストップで凧を完成させて、翌朝の凧揚げに間に合わせた。

「事情はともあれ、なんとかして間に合わせてあげないとと思って作りました。浜松では結婚式を控えても、初凧のお祝いはするという人もいるぐらい一生に一度の大切なお祝い事ですからね」

凧文化がここまで根付いている町、ほかにあると思いますか? 最後にそう尋ねると、大隅さんは「ないと思いますよ」と即答した。その笑顔はやはり誇らしげだった。

冬場の制作風景。工房が凧で埋まる (写真提供:上西すみたや)

<取材協力>
すみたや上西・凧店
静岡県浜松市東区上西町25-12
053-464-4000

文・写真:川内イオ

日本職人巡歴 世界のトランぺッターを虜にするマウスピース職人

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は世界のトップトランぺッターから引っ張りだこのマウスピース職人のお話をお届けします。

モーリス・アンドレ。「トランペットの神様」と呼ばれた不世出のカリスマ。
ホーカン・ハーデンベルガー。モーリス・アンドレ以来の大器と呼ばれたスウェーデン生まれのスタートランペッター。
ミロスラフ・ケイマル。天才と謳われたチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(以下チェコ・フィル)の元首席トランペット奏者。
ハンス・ガンシュ。世界3大オーケストラのひとつ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(以下ウィーン・フィル)で首席トランペット奏者を務めた世界的名手。

トランペット界で知らぬ者のいない存在である彼らには、ひとつの共通点がある。演奏時に使うマウスピースだ。彼らのマウスピースをハンドメイドで作ってきたのが、亀山敏昭 (かめやま・としあき) さん。これは、世界中から注文が殺到するマウスピース職人の知られざる物語である。

マウスピースの製作を始めて38年の亀山敏昭さん

メッセンジャーで受注する68歳

浜松駅から徒歩数分。昔ながらの住宅街の一角に、亀山さんの工房「Toshi’s Trumpet Atelier」がある。もともと妻の実家だったという平屋を改装した慎ましやかなたたずまい。呼び鈴を押すと、柔らかな笑みを浮かべた亀山さんが「どうぞ」と招き入れてくれた。旋盤などいくつかの工作機械が置かれた工房には、無数のマウスピースが並んでいる。

亀山さんがこの小さなアトリエを開いたのは、2000年4月。長年、ヤマハの社員として働いていた亀山さんは、早期退職制度を利用して独立した。50歳のときだった。

マウスピースの上の大きな写真は創業時の亀山さん

「もちろん、最初は不安もありましたよ」と振り返るが、今ではヨーロッパ全土のほか、アメリカ、メキシコ、トルコなど世界各地からマウスピース製作の依頼が届く。

「ここを始めた時よりも、今のほうがワールドワイドに仕事ができています。フェイスブックのメッセンジャーで、こういうものを創ってほしいと言われますから」

何気ない言葉に耳を疑う。え?メッセンジャー?

「はい。いろんな国から依頼が届きます。知らない人からも連絡が来るし。基本的には英語とドイツ語でやり取りしています」

現在68歳の亀山さんは文字通り世界中のトランペット奏者から引っ張りだこの存在で、すべての依頼を受けるのは難しいという。2カ国語を操り、SNSを駆使して世界を舞台に仕事する68歳の売れっ子。僕の脳裏には、「グローバル職人」という言葉が浮かんだ。

なぜ、この小さなアトリエで作られたマウスピースが、それほど求められるのか。亀山さんの足跡を追おう。

長良川のトランペット少年

亀山さんがトランペットに出会ったのは、中学2年生のとき。音楽が好きで中学から吹奏楽部に入ってクラリネットやパーカッションを担当したが、トランペットを吹いた瞬間に「これだ!」と直感した。

「自分に合っていたのか、割と楽に音を出せたんですよ。それに、僕は小学校のときから弱虫で、性格も強くなかったんです。トランペットは明るい音で目立つ楽器だから自分を鼓舞できるような気がしました」

すっかりトランペットにはまった亀山さんは、岐阜の地元を流れる長良川の岸辺でいつもひとり練習に熱中していたという。みるみるうちに上達し、高校3年生のときにヤマハ吹奏楽団の団員試験を突破。高校卒業後、吹奏楽団のメンバーとしてヤマハの本社のある浜松に越してきた。

楽団といっても朝から晩まで練習するわけではなく、日中は社員のひとりとしていろいろな部署に配属されて仕事に当たる。亀山さんは最初、トランペットなど管楽器の試作工場で部品を作ったり、検品をする部署で働いた後、トランペットの設計に就いた。

NHK交響楽団のトランペット奏者と検品をする亀山さん

アメリカやイギリスの先行メーカーの楽器をベンチマークとして、部品の寸法や内径の太さなどをミリ単位で調整しながら、より良い音を目指す繊細かつ根気のいる仕事だ。このときの働きぶりが評価されたのだろう。当時、新興メーカーだったヤマハが欧州に本格的に進出するにあたり、「現地に楽器に精通した人間が必要だ」ということで、30歳の亀山さんに白羽の矢が立った。1979年、亀山さんは西ドイツに渡った。

オペラハウスの思い出

新しい職場は、西ドイツのハンブルグにあったヤマハの工房。「ヤマハの楽器をさらに広めていこう。高いレベルのモノを作ろう」という目標を掲げ、欧州の名門楽団を訪ね歩き、演奏家たちとコミュニケーションを取りながら、ヤマハの楽器に関する意見を聞いて日本にフィードバックをしたり、楽器のメンテナンスをするのがミッションだった。

まだ若く、やる気に満ちていた亀山さんは、必死に語学を学びながら練習場所やコンサートに何度も足を運び、演奏家たちの言葉に耳を傾け、細かなリクエストに応えることで、少しずつ演奏家たちの信頼を得ていった。

「ドイツにはマイスター制度があって各地でマイスターが楽器を作ったり、メンテナンスをしています。ドイツの演奏家からよく言われたのは、マイスターは権威的で、演奏者がこうしてほしいと要望を伝えても、聞き入れてくれない。逆に、新米で言われたことを素直に聞く私は、柔軟性があるからやりやすい、話しやすいと言われていました」

トランペットをモチーフにした絵や写真が飾られている亀山さんのオフィス

やがて、とことん演奏家に寄り添おうとしていた亀山さんに特別の計らいをみせる演奏家も出てきた。

「オペラハウスは舞台の下にオーケストラピットがあるので、観客席からは見えません。そういうとき、よく演奏者の横に座って演奏を聞かせてもらいました。普通、部外者はそんなところに入れないんですけど、演奏者は吹きやすくて、良い音がする楽器を望んでいますし、ヤマハが本気で良い楽器を作ろうとしているとわかってくれていたので、自分の音をもっと理解してほしいということでした」

ドイツに来た時点でヤマハの楽団からは離れていたが、亀山さんは単なる営業や技術者ではなく、同じ演奏家の立場でより良い音を求める気持ちに共感できた。だからこそ、ここまで距離を縮めることができたのだろう。

100分の1ミリの戦い

各地のトランペット演奏家たちと親しくなると、しばしば「トシ、マウスピースを作れないのか?」と尋ねられるようになった。多くの演奏家が悩みを抱えていたのだ。

「演奏家のなかには、同じマウスピースを何十年も使っていて、もしそれを失くしたら演奏できないという人もいますし、自分に合ったマウスピースで吹いていると、楽器が変わっても自分がイメージした音が出せます。演奏者にとってマウスピースはそれほど大事なものなんです。マウスピース自体はとにかく種類がたくさんありますが、人それぞれ唇の形も吹き出す息の量も違うので、既製品で満足していない演奏家も大勢いました」

楽器メーカーにとってマウスピースのカスタマイズはたいして儲からない上に面倒だから、目をそらしていたのだろう。しかし、相談を受けたら検討もせずに「できない」という返事をしないのが亀山さんだ。ドイツに発つ前に日本でマウスピース製造の研修を受けていたこともあり、試行錯誤しながらマウスピースを作り始めた。

見本となるマウスピース (奥) の形をなぞるようにして手前のマウスピースを削る

マウスピースは真鍮の素材で外側の形を削るところから始まる。外形ができたら、旋盤で息を通すための穴を中央に開ける。その後、カップと呼ばれる息の吹き込み口を円錐状に削る。カップが浅いと張りのある明るい音になり、深いと落ち着いた豊かな音になる。リムという唇が当たる部分の角度や厚みも整える。

マウスピースは100分の1ミリの違いで音が変わり、演奏家はその音を聞き分けるため、非常に繊細な技術が必要だ。亀山さんは何度も試作し、演奏家のもとに持参しては意見を聞いて調整をした。そうして初めて理想のマウスピースを手にした演奏家は、亀山さんの目の前で喜びを爆発させた。

スーパースターがやってきた

演奏家の口コミは、恐ろしく早い。最初の1本を納品すると、その噂は瞬く間に広がり、亀山さんのもとに次々と依頼が舞い込んだ。楽器を売り込みたいヤマハにとってマウスピースの製作は本来の業務ではなかったが、演奏家と良好な関係を築くための手段として亀山さんが製作を担った。

亀山さんが作ったマウスピースの評判はやがて国境を越えた。1981年のある日。フランスからハンブルグの工房を訪ねてきた男がいた。20世紀最高のトランペット奏者と呼ばれたモーリス・アンドレだった。モーリスは、自分が望む複数のマウスピースの説明をすると亀山さんに聞いた。

「明日には別のところに行かなきゃいけないんだ。1日でできるか?」

モーリス・アンドレからの依頼を書き留めた仕様書

亀山さんにとって、モーリスは憧れのスーパースターだった。それまで1日に何本もマウスピースを作ったことなどなかったが、断るという選択肢など思い浮かびもしなかった。二つ返事で請け負うと、同僚とふたりで夜を徹して手を動かし続け、なんとか完成させたマウスピースを翌朝、モーリスに納品した。モーリスにはそれを試す時間すらなかったが、上機嫌で「これでいいか?」と1000マルク、約15万円をポンと支払って、ふたりと写真を撮ると風のように去っていった。

徹夜してマウスピースを仕上げ、モーリス・アンドレに納品したときの写真

それからしばらくすると、フランスから1人、2人と著名なトランぺッターがハンブルグにやってくるようになった。彼らは皆、モーリスから亀山さんの評判を聞きつけていたのだ。「あのマウスピースはどうだったのか‥‥」と気にしていた亀山さんにとって、それは雲の上の人からもらった合格点だった。

間もなくして、「モーリス・アンドレのマウスピースを作った男」として名をはせた亀山さんのもとにヨーロッパ中から依頼が殺到するようになった。モーリスはもちろん、冒頭に記したスウェーデンのスター、ホーカン・ハーデンベルガー、チェコの天才奏者、ミロスラフ・ケイマル、オーストリアの名手、ハンス・ガンシュらも依頼人に名を連ねた。

彼らにとって亀山さんがどんな存在だったのかがわかるエピソードがある。ある日、ミロスラフ・ケイマルから緊急の連絡が入った。話を聞くと、プラハでの演奏会場に車を駐車した際、、一瞬のすきに車のトランクに入れていた楽器やマウスピースが全て盗まれしまったという。そのとき、ケイマルは亀山さんにこう伝えた。

「楽器は店で買えるけど、トシのマウスピースは買えない。どうにかして作ってほしい」

この言葉を聞いて、亀山さんはすぐに新しいマウスピースを作って届けたという。

自分にできる一番いい仕事

1988年、ヤマハから日本に戻るように辞令を受けた亀山さんが帰国するとき、ヨーロッパのトランぺッターたちがどれほど嘆いたか、想像に難くない。なかには「工房を作るから俺のところで働いてほしい」と言って引き止めた演奏家もいたそうだ。

亀山さんは浜松で再びトランペットの設計を3年間やった後、東京で8年間、ドイツ時代と同じような仕事に就き、国内の演奏家、海外から来る演奏家の対応をした。その間も付き合いのある演奏家のマウスピースを作り続けていたが、次第にもどかしさを感じるようになった。

「ヤマハの社員でいる限りは、アマチュアの演奏家や他のメーカーの楽器を使っている演奏家のマウスピースは作れません。ずっと、気持ち的には作ってあげたいのにできないというジレンマがありました」

モヤモヤを抱えているうちに、世の中は不景気になり、その影響でヤマハにも早期退職制度ができた。このとき、自分が最も親しみのあるトランペットにかかわる職人として独り立ちしようと腹をくくった。

「この仕事は、演奏者を助けることになる。そういう意味で、自分にできる一番いい仕事だと思いました」

繊細なタッチでマウスピースを削っている様子

2000年4月にトランペットの修理やメンテナンス、マウスピースの製作を手掛ける「Toshi’s Trumpet Atelier」を立ち上げてから17年。独立時には「生活できるのか」「金管楽器全般を対象にしたほうが良いんじゃないか」などと心配されたそうだが、いまは仕事の9割がトランペットのマウスピースの製造で、亀山さんを頼る演奏家は世界に広がり続けている。

理由はふたつ。ヤマハ以外の楽器を使う演奏家のオファーを受けるようになったこと。もうひとつは、インターネット。もともと常に良い楽器を求めている演奏家の口コミのスピードは速かったが、インターネットによって口コミの拡散範囲と速度がグンと広がり、トランぺッターの間で亀山さんの名前がより広く知られるようになったのだ。

長良川の河川敷でトランペットを吹いていた少年は、世界のトッププレイヤーに求められる存在になった。これまでの人生を振り返って、どう思いますか?と尋ねると、亀山さんは目を細めて「できすぎですね」と笑った。

「すごいラッキーだと思います。特に頭が良いわけでもないし、すごい技術があるわけでもない。たまたまいまの仕事を始めて、演奏者に寄り添い、できるだけのことをしてきた。そういう仕事のスタンスが喜んでもらえたのではないでしょうか。マウスピースを作ること自体は難しくありません。大切なのは、希望のマウスピースを作れるかなんです」

亀山さんには忘れられない瞬間がある。もう30年近くの付き合いにあるミロスラフ・ケイマルの演奏会に行ったときのこと。最後の曲が終わり、観客席から万雷の拍手が降り注いだ。するとケイマルはトランペットからマウスピースを抜き取り、満面の笑みで観客に向けてマウスピースを掲げたのだった。

<取材協力>
Toshi’s Trumpet Atelier
浜松市中区砂山町 362-23
053-458-4143

文・写真:川内イオ