小平奈緒の金メダルを支え、谷口浩美は「この靴のおかげ」と言った。

ゴールドのライン

「銀メダルおめでとう。500メートルは必ず金。応援してます。体調には気をつけて」

今年2月14日、平昌五輪の6日目。スピードスケート女子1000メートルが行われ、日本の小平奈緒選手が銀メダルを獲得した。

兵庫県加古川市の自宅でその快走を見ていたシューフィッター 三村仁司さんは、小平選手にお祝いと激励のメッセージを送った。しばらくすると、小平選手から返信が届いた。

「ありがとうございます。自信をもってあとはやるだけです」

銀メダルに気落ちした様子も、4日後に控えた500メートルに向けて気負っている気配もない。三村さんは頼もしく感じながら、再びメッセージを書いた。

「そうですね。自信をもってやれば結果がついてきますよ。気持ちを強く持って、自分に勝ってください」

三村さんは、平昌五輪前のやり取りを思い出していた。アシックスを定年退職した後の2009年、故郷の加古川市に立ち上げた「ミムラボ」では、さまざまなジャンルのスポーツ選手にオーダーメイドのシューズを作っている。

ミムラボ。15人の若手社員がシューズづくりに勤しむ
兵庫県加古川市のミムラボ。15人の若手社員がシューズづくりに勤しむ

小平選手にも、レース前のアップ用、ダッシュ用などトレーニングシューズを4種類提供しているのだが、五輪前に小平選手から「金メダルを取るので、ゴールドのラインが入ったシューズを作ってください」と頼まれたのだ。

今年1月1日、三村さんはニューバランスとグローバルパートナーシップ契約を締結。小平さんにもニューバランスのシューズを提供しており、側面に入る白い「N」の文字をゴールドにしてほしいという依頼だった。

まだニューバランスと契約して間もないこともあり、「N」をほかの色に変えたことがなかった三村さんは、「わしは白のラインしか無理やねん」と一度は断ったそうだ。しかし、小平選手も諦めない。

「一足だけでいいので、ゴールドのラインで作ってもらえませんか?」

いつも素直で謙虚な小平選手が、ここまで食い下がるのだ。よっぽど平昌五輪に懸ける想いが強いのだろうと思った三村さんは、ニューバランスに掛け合い、特別に「N」が金色に輝くシューズを二足用意した。そのシューズが小平選手のもとに届けられたのは2月4日。その二日後、小平選手はピョンチャンに向けて旅立った。

1000メートルで銀メダルを取り、迎えた500メートル戦の2月18日。小平選手は、五輪新記録の36秒94を叩き出し、表彰台の一番高いところで君が代を聞いた。スピードスケートでは、日本女子で初となる金メダルだった。

三村さんが小平選手に送った「N」がゴールドのシューズ
三村さんが小平奈緒選手に送った「N」がゴールドのシューズ

51年のキャリアを誇る三村さんがシューズの製作を手がけてきた数百人の選手のなかで、五輪の金メダリストは4人目だった。フィンランドのラッセ・ビレン選手、マラソンの高橋尚子選手、野口みずき選手、そして小平選手だ。

1967年3月21日、兵庫県神戸市。

この日、兵庫県立飾磨工業高等学校を卒業した三村さんは、アシックスの前身、オニツカに入社した。配属は第2製造課。多品種少量生産の部署で、さまざまな種類のシューズを手づくりするのが仕事だった。

三村さんは、納得がいかなかった。陸上の名門校でキャプテンを務め、インターハイにも出場した経験のある三村さんのもとには、3校の大学から推薦入学の話が来ていた。それを蹴り、オニツカで働くことを選んだ理由は「勉強が嫌いだから」だけではない。

高校時代に履いていた布製のランニングシューズがあまりに貧弱で、すぐに破れたため、「もっと丈夫な靴があったらええのに。研究して良いものを作りたいな」という強い想いがあったからだ。

面接の時にも「研究所で働きたい」と希望を伝えていたから、第2製造課への配属は不本意だった。その不満を上司に伝えると、「ものづくりをわかってからにしたほうがええ」と諭されて、渋々ながら受け入れた。

第2製造課では靴づくりをイチから学び、6年目、念願の研究室に異動。ゴムやスポンジの硬度、軽さ、クッション性、接着剤、摩耗の速度など機能的なことを学んだ。

すべてのシューズの基礎となる足型を測るための道具
すべてのシューズの基礎となる足型を測るための道具

転機が訪れたのは74年。この年、オニツカはトップアスリートを育成し、サポートすることでシューズのブランドと認知度を高めようという方針を定めた。当時、同じような戦略をとっているメーカーはほかになく、日本では先進的なアイデアだった。この新機軸を担う人材として経営陣から白羽の矢を立てられたのが、三村さんだった。

「トップ選手とコミュニケーションを取るにはある程度運動できる人間が適してるだろうってね。僕は入社してからずっと陸上部のエースで、別府毎日マラソンにも出ていましたから。それと、選手個々の対応をするからには、軽さとか反発性とか専門的なことがわからないといけない。さらに、自分で靴づくりもできなきゃいけない。その3つの条件に適う人材がほかにいなかったんですよ」

名刺には「特注チーム」と刷られていたが、メンバーはひとり。この日から、「教えてくれる人もいないし、ほんまにええ靴できるかな」と半信半疑の若者の試行錯誤が始まった。

1980年7月、モスクワ。

足型の作り方を模索するところから始まった三村さんのシューズづくりは、早くも1976年のモントリオール五輪で実を結んだ。三村さんが作ったオニツカの靴を履いて1万メートルに出場したフィンランドのラッセ・ビレン選手が金メダルを獲得したのだ。

日本でこのニュースを知った三村さんは、自分のシューズを履いた選手の活躍を「現地で見たかった」と思ったという。その願いは、次のモスクワ五輪で叶う‥‥はずだった。

モスクワ五輪の前年に行われたプレ五輪では、なんと陸上競技の選手のおよそ8割が三村さんのシューズを履いていた。そのなかには、マラソンでメダルが期待された宗茂、猛の宗兄弟、瀬古利彦選手も含まれていた。しかし、当時の国際情勢によって日本はモスクワ五輪をボイコットしてしまう。

商魂たくましいオニツカの経営陣は、それでもモスクワに幹部3人と三村さんを派遣。メダルが有力視される旧ソ連の選手にシューズを履いてもらおうと手を打った。

「バスを借り切ってね。ソ連の選手に声をかけたんですよ。バスの後ろにうちの靴を置いて、前から順番に入ってきてもらって『この靴、履く?履くならあげるけど』って。その当時、ソ連はモノが乏しい国だったから、選手はみんな『履く』と言ってね。50人ぐらいきましたかね。モスクワは暑くて、あの頃はクーラーもあれへんから、上半身裸になってトレパン一枚でやりましたよ」

笑顔でモスクワ五輪での出来事を振り返る三村仁司さん
笑顔でモスクワ五輪での出来事を振り返る三村仁司さん

この大会で、ソ連は80個の金メダルを獲得した。そのなかにオニツカのシューズを履いている選手は、残念ながらいなかった。

「大会に入ったら、うちのシューズを履いてたのはひとり、ふたり。ソ連で日本の靴なんてものすごく高かったから、売っちゃったみたい。みんな嘘ばっかりや(笑)」

 

1991年9月1日、東京。

東京で開催された世界陸上の最終日、男子マラソンが行われた。三村さんは、高輪プリンスホテルに用意されたオニツカのブースでレースを見守っていた。38キロ過ぎ、三村さんのシューズを履いていた谷口浩美選手が猛烈なスパートをかけて先頭集団から抜け出し、そのままトップでゴールテープを切った。世界陸上では日本人初となる金メダルだった。

優勝インタビュー。アナウンサーの「金メダル、おめでとうございます!」という言葉に「ありがとうございます」と返した谷口選手はこう言葉を続けた。

「三村さんの靴のおかげで勝てました」

足型など詳細なデータを記入するシート
足型など詳細なデータを記入するシート

テレビでこの言葉を聞いた三村さんは、「谷口の靴を作ってよかった」と胸が熱くなったという。しかし、その後の展開は予想外だった。金メダルを取った選手が第一声でシューフィッターに感謝するというのは、誰も想像しない異例の事態だった。そこに疑問を抱いたオニツカの社長から「お前、谷口にあんなふうに言えと言うたんか」と問い詰められてしまったのだ。これには三村さんも驚いた。

「社長に言いましたよ。僕はそんなん絶対に言いませんと。それに、もし谷口に『優勝したら靴が良かったって言えよ』と頼んだって、あんだけ走って第一声でそんなん出てきますか?ありえませんよって」

金メダルを取った直後、恐らく無心の状態で発した谷口選手の一言が引き起こした、知られざる珍事件だった。

 

2004年8月22日、アテネ。

アテネ五輪の女子マラソンは、18時にスタート。気温が30度を超える酷暑のなか、力強い走りを見せた野口みずき選手が独走状態になり、五輪発祥の地で金メダルに輝いた。

パナシナイコ競技場の片隅でレースを見守っていた三村さんは、野口選手のゴール後、シューフィッターとして取材を受けていた。すると、別の記者がやってきて「野口みずきがシューズにキスしたの、見ました?」と聞かれた。いや、見ていないと答えたが、その数分後、シューズを両手に持ち、数秒間、目をつぶりながら唇を当てている野口選手の姿がオーロラビジョンに映し出された。

三村さんはアテネのマラソンコースを現地で分析し、野口選手の優勝を予想していた
三村さんはアテネのマラソンコースを現地で分析し、野口選手の優勝を予想していた

翌日の10時半ごろ、監督、コーチとともに野口選手が訪ねてきた。靴にキスしたらしいな、と言うと、野口選手は頬をほころばせた。

「独走してたから、ゴールの2キロぐらい手前からなにかパフォーマンスせなあかんと思ってたそうですね。彼女は、この過酷なコースに耐えられるような靴を作ってくれた三村さんに感謝したい、金メダル取れたのは皆さんの応援があったからで、感謝の気持ちを込めてやりましたと言ってました」

野口選手はそのシューズにサインを入れて、三村さんに差し出した。「ほんまにわしにくれるんのか?」と尋ねると、少し戸惑ったように黙っている。三村さんは「やっぱり手元に置いておきたいんだな」と察し、「いいよ、お前が記念に持っとけ」と言うと、野口選手はニコリと笑って頷いた。

翌日、野口選手がまた訪ねてきた。優勝タイム「2時間26分20秒」と記したサイン入りのブロンズの置物を手にして。

思い返せば、2000年のシドニー五輪で同じく靴を作っていた高橋尚子選手が金メダルを獲得していたから、シューフィッターとして五輪二連覇だった。

ひとつの武器としての靴

三村さんがたったひとり、まさに手探り状態でシューフィッターの仕事を始めてから、44年が経った。その間、三村さんのシューズを履いた多くの選手が、国内外で栄冠を手にしてきた。

陸上選手以外にもイチロー選手、青木宣親選手、内川聖一選手、長谷川穂積選手、香川真司選手などそうそうたるアスリートが名を連ねる。同じような実績を持つシューフィッターは、ほかにいない。

プロアマ問わず、大勢のアスリートがミムラボを訪れる
ミムラボの壁に飾られたアスリートたちの写真

なぜ、三村さんのシューズは、これほどまでにアスリートを惹きつけるのか。次の言葉が、そのヒントになるだろう。

「僕は選手が疲れにくい、故障しにくい靴を作っています。そしたらたくさん練習できるじゃないですか。練習ができるということは一番の強みであり、武器なんですよ。練習できない選手が強くなる要素はひとつもない。選手は、強くなるために必死にやっとるんですよ。それを叶えてあげるひとつの武器として靴があるんやという気持ちがあれば、いい加減なモノづくりはできませんよ」

アスリートの疲労や故障は、バランスの崩れから生まれる。

例えば走っている時、左右の足の蹴る力に差が大きければ大きいほど歪みが生じる。無意識にそれを庇おうとしてさらに偏りが出て、身体全体に蓄積していく。それが疲労やケガにつながるのだ。

それを防ぐためには、選手の癖や弱点を把握して、矯正しなくてはならない。三村さんはそこまで徹底的に付き合う。

「選手の足にフィットするシューズを作るのは、仕事の半分。もう半分は、選手をいかにして強くするか。シューズをつくる時に選手の希望を聞くだけじゃダメでね。足の測定をすると、その選手の弱点、悪いところ、みんなわかるわけですよ。そこは長年の勘だけどね。

ここが傷むだろうと聞くと、どうしてわかるんですか?とみんな驚くよ。弱いところは強くしなあかん。悪いところは直していかなあかん。それをせん限り、お前は強くならんよと伝えます。それから、ここが弱かったらここが痛くなるから、このように鍛えて強くせいとトレーニングの方法まで教えます」

シューズ職人の三村仁司さん
長く活躍できるのは「素直な選手」と語る三村さん

三村さんの指導は、日常生活にまで及ぶ。例えば、小平選手は足のアーチ(土踏まず)が低くなる傾向があるため、アーチを上げるための矯正用インナーソールを作り、私生活で履くように伝えているという。

数々の好記録の陰には、強くなりたいと願う選手が思う存分トレーニングができるように作られた三村さんの特製シューズがあったのだ。

2018年5月9日、兵庫県加古川市。

小平選手が、2つのメダルを持ってミムラボを訪問した。その様子はテレビ番組でも報道されたから、憶えている方もいるかもしれない。小平選手は感謝の印として、15人いる社員ひとりひとりにキーホルダーを手渡した。

三村仁司さんと小平選手のツーショット
提供:ミムラボ

その日に撮影された、三村さんと小平選手のツーショット写真。満面の笑顔で金メダルをかけているのは、今年70歳、生ける伝説とも称されるシューフィッターだった。

<取材協力>

ミムラボ
兵庫県加古川市東神吉町神吉1123-4
079-432-1236

文・写真: 川内イオ

「かっこいいだけ」では国の豊かさが無くなる。梅原真、ローカルデザインの流儀

土地に根差す人々に目を向け、その土地の物語に耳を傾ける。

そうして土地の風景が浮かび上がるようなデザインを作ることで、一次産業に新風を吹き込んできたデザイナーがいる。

高知県で生まれ育ち、今も高知市に拠点を置く梅原真さんだ。

一本釣りの風景を消したらいかんぜよ

1980年に事務所を設立してから38年。「一次産業×デザイン=風景」をテーマに掲げ、地域で埋もれていた産品にデザインの力で光を当てて、数々のヒット商品を生み出してきた。

今や日本を代表するデザイナーのひとりとして知られる梅原さん。その原点は、1988年の仕事にある。代表作のひとつ「土佐一本釣り・藁焼きたたき」のデザインだ。

梅原真デザイン「土佐一本釣り・藁焼きたたき」
「土佐一本釣り・藁焼きたたき」のパッケージ。(写真提供:梅原デザイン事務所)

ある日、かつおの一本釣りの漁師が梅原さんを訪ねてきた。その漁師は、梅原さんに率直に窮状を訴えた。

かつおを一網打尽にする巻き網漁船が主流になって、効率が悪い一本釣りのかつおは価格を高く設定せざるを得ない。そのうえ原油が高くなって、漁に出るだけでお金がかかるのに、巻き網漁で魚が減っていてかつおが釣れない。

魚を食べる人が減って、かつおの魚価も下がっている。このままではかつおの一本釣りはできなくなる。

かつおの一本釣りといえば、高知の風物詩。漁師の話を聞いているうちに、梅原さんの脳裏にはふたつの光景が思い浮かんだ。漁船に乗り込んだ17人の漁師が、次々とかつおを釣り上げる勇壮な姿と、その家族の姿だ。

漁師たちは日本全国の海を回ってかつおを釣るため、一年の大半は海の上。だから2月に高知から出港する時には、漁師の家族が港に集まり、「いってらっしゃい!」と見送る。手を振り、無事を祈る家族の横顔―。

「あの風景がね、消えるんやと思って。それはいかんぜよと思ったね」

大企業と仕事をしない理由

すぐに、漁師からの依頼を受けることに決めた梅原さん。2時間を超える打ち合わせの間に、ある思い出が蘇った。

子ども頃、梅原さんの祖母は藁でかつおのたたきを焼いてくれた。香ばしい匂いが漂い、口に含むとかつおのうま味がじゅわっと染み出してきた。梅原さんは、漁師にその場で伝えた。

「藁で焼きましょうや」

すると、漁師は一瞬の戸惑いも見せずに、「よっしゃ、やろう!」と答えた。

このやり取りから「一年の半分、港に入り浸り」という濃密な交流が始まり、「土佐一本釣り・藁焼きたたき」のデザインが生まれた。この商品は、8年をかけて売り上げ20億円を超える大ヒット商品に成長し、かつおの一本釣りの漁師を守ることにもつながった。

梅原真氏
「漁師と打ち合わせた時もこのテーブルだったな」と振り返る梅原真さん

この仕事は梅原さんのその後にも大きく影響した。著名なデザイナーでありながら、梅原さんは基本的に大企業の仕事を受けない。そのきっかけとなったのである。

「僕がこうしましょうやって言うと、彼は即座に対応する。それくらいパワフルな人でしたからね。その副作用で(笑)、企業の部長さんが来て、帰って相談してきますっていうのが許せなくなったんです。決定権がない人とは仕事をしたくない。だから、必然的に小さな会社の社長が来られるようなことになる。かっこつけて大きいところと仕事しないって言ってるんじゃないですよ」

「土佐一本釣り・藁焼きたたき」のデザイン以来、梅原さんが仕事をする上で「土地の風景を守ること」が大きなキーワードになった。そこには、危機感がある。

「大きく言えば日本がフラットになってしまって、青森も鹿児島も岐阜もみんな一緒になっちゃった。バイパスができて、ラーメン屋とハンバーガー屋なんかがいっぱいできて、そんなんどこでも一緒やないか。土地の個性を知らせてくれるのが自然現象だけですよ」

梅原さんにとって、その土地ならではの風景を失わせるフラット化は、阻止すべきもの。土地の風景を守るためには、クライアントとケンカすることもいとわなかった。

村長とケンカ

日本屈指の清流、四万十川に面した十和村(2006年に窪川町、大正町と合併し四万十町に)の総合振興計画書の作成に携わった37歳の時のこと。

梅原真デザイン「十和村の総合振興計画書」
十和村の総合振興計画書(写真提供:梅原デザイン事務所)

四万十川には増水すると水の下に沈む沈下橋(ちんかばし)が47本かかっているのだが、十和村では町をあげて、もっと大きくて便利な橋に変えようと動いていた。

しかし梅原さんはひとり反対し、沈下橋の近くに引っ越した。

「利便性を求めて大きな橋をかけたら、大阪の郊外にある橋と一緒になるわけですよ。フラット化への反対ですよね。でも、高知市内に住んでいながら、沈下橋を残しませんかと言っても、村の人からしたら、何言うてんかってなるのは当然だと思う。

村長とケンカもしました。だから、よそ者がじゃなくて“うちら者”になって楽しく反対したらええんやと思って、十和村に引っ越して、5年住みました」

総合振興計画書の作成に携わりながら、村民が願う新しい橋をかけることに反対して、村長とケンカする。デザイナーの仕事の領域を明らかに超えているが、当時からそれほどまでにフラット化の危険性を感じていたのだろう。

ちなみに、バブルの崩壊などもあって残された沈下橋は、今では旅行者が大型バスで乗り付ける観光名所になっている。

“暮らしはさておきのデザイン”

梅原さんは、日本のフラット化がデザインの世界にも及んでいると指摘する。

「地方のデザイナーも東京的なものに憧れて、東京並みのデザインをしたいと思っているし、行政は東京で認められるデザインをしたくて、東京のデザイナーに依頼する。デザイナーも行政も爪先立ちで東京の方ばかり見ているから、地に足がついていない。

そういうデザインには、一番大切な暮らしの匂いを感じないんだよ。デザイナーが作ったスプーンって、かっこええけど使いにくいのがたくさんあるじゃないですか。僕はあれを、“暮らしはさておきのデザイン”と呼んでいるんだ」

デザイナーがデザインを通じてフラット化に抗うためのヒントは、「暮らし」にある。「暮らし」という生活に密着したデザインがヒットすれば、経済的な恩恵をもたらすだけでなく、その土地の風景を守ることにもつながるからだ。

例えば、梅原さんがプロデュースした「しまんと地栗 渋皮煮」。これは、旧十和村で長らく放置されていた山の栗を使った商品である。

梅原真デザイン「しまんと地栗 渋皮煮」
大ヒットしてさまの再生にもつながった「しまんと地栗 渋皮煮」(写真提供:梅原デザイン事務所)

「農協のにいちゃんに山に連れていかれてね。この栗はどうにかならないかと言われたんだけど、栗を見た瞬間にやった!と思ったね。だって、無農薬無化学肥料やんか。

農協には暮らしの発想がないから、中国産に値段で負けると言っていたけど、僕らは、安全なものであれば高くても買うという暮らしがあることを知っていますからね。

この貴重な栗に『四万十地栗』と名付けて、地元でもともと作られていた渋皮煮にして一瓶3000円で東京のデパートで売り出したら、1週間で500万円を売り上げました」

「しまんと地栗 渋皮煮」のヒットは、四万十地栗を使った様々な商品の誕生のきっかけとなった。そのため栗の需要が急増し、栗の植樹が始まって、荒れた山の再生にもつながった。

現在、多くの移住者を集めて全国的に注目されている島根県海士町(あまちょう)のキャッチフレーズ「ないものはない」。

これも、地方創生ブームにさきがけて2011年に梅原さんが考案したものだ。

梅原真デザイン海士町のポスター
2011年に制定された際に大きな話題を呼んだ海士町のキャッチフレーズ(写真提供:梅原デザイン事務所)

「もともと、海士町のキャッチフレーズは『LOVE ISLAND AMA』だったんですよ。Mのところにハートがあってね。

ええかげんにしなさい、と言いました。やっぱり、きちんと本当のことを言う方が好感度があって、ないものはないと言ったほうが海士町らしい。それが海士町の暮らしだし、風景なんだから」

この潔いキャッチフレーズと、「ない」という割にどこか楽し気なデザインが海士町のブランディングに大きく貢献したのは確実だろう。

土地の力を引き出すデザイン

これまで一貫して地方の仕事を受けてきた梅原さんは「地方が豊かでないと、その国は豊かでない」と語る。

「東京とかパリとかニューヨークとか、大都市を比較する時は指標が経済になるじゃないですか。でも、ローカルで大切なのは経済じゃなくて、いかにその人たちがここに住みたいと思って住んでいるか。

フランスの地方は、豊かですよ。個性的な風景があって、みんなでワインやら何やら自分で作って楽しんでいるじゃないですか。

日本だって、もともとは豊かな地方がありました。だから、僕は日本の風景を作り直したいんですよ」

梅原真氏
郷土愛が強く「生まれ変わっても高知に生まれたい」という梅原さん

雑誌に取り上げられるようなおしゃれなデザインを得意とするデザイナーは、たくさんいるだろう。

しかし、「土地の風景を守る」「日本の風景を作り直す」という幕末の志士のような志を持ち、実践するデザイナーは、梅原さんぐらいではないか。

だからこそ、今も梅原さんのもとには地方の小さな企業や団体からの依頼が絶えない。

「僕の仕事を総括すると、土地の力を引き出すデザインだと思う。その土地の人とよそから来た人が素敵だねと思うような価値観をどうやって見つけ出すか。

“暮らしはさておきデザイン”じゃなく、暮らしを中心にしたデザインを、ローカルでやっていく必要がある。そのためには、その土地での暮らしを知ることが大事なんですよ」

最近、梅原さんは「竜馬がいく」という名のお菓子のデザインを手掛けた。その包装紙には、梅原さんの熱い想いが隠されている。

梅原真デザイン「竜馬がゆく」
包装紙を触ると坂本龍馬の言葉が浮かび上がっているのがわかる。(写真提供:梅原真デザイン事務所)

このお菓子を目にしたら、ぜひ手に取って見てほしい。ぱっと見ではわからないが、包装紙にはエンボス加工で坂本龍馬の言葉が記されている。

「日本を今一度 洗濯いたし申し候」

<取材協力>
梅原真デザイン事務所

文・写真: 川内イオ

和紙の使い道を考え抜いた「土佐和紙プロダクツ」100のアイデア

想像してみる。

こだわりの品が取り揃えられた素敵なショップで買い物をして領収書をもらう時、それがコンビニで売られているような一般的な領収書ではなく、活版印刷が施された手漉きの和紙の領収書だったら。

和紙ならではの手触りや風合いにほっこりした気持ちになりそうだし、領収書にまでこだわるショップの心遣いに驚くだろう。一方のショップからすれば、お客さんに感謝の意を表すための印象的なツールになるに違いない。

日本三大和紙・土佐和紙づかいの製品に

「伝える」ということをテーマに、実際にこの手漉き和紙と活版印刷を組み合わせた領収書を作っている人たちがいる。

高知市内のデザイン事務所「タケムラデザインアンドプランニング」、「d.d.office」、活版印刷を手掛ける「竹村活版室」が組むプロジェクトチーム「土佐和紙プロダクツ」だ。

土佐和紙の職人や土佐和紙の産地であるいの町・土佐市などの機械漉き工場から仕入れた和紙を使って、領収書、カレンダー、ご祝儀袋など日常で使う様々なものを企画、製作している。

活版印刷を施した土佐和紙の領収書
活版印刷を施した土佐和紙の領収書。温かみを感じる

土佐和紙の用途の変遷

土佐和紙プロダクツが誕生した経緯は、土佐和紙の歴史と紐づいている。平安時代から高知の一部地域で作られてきた土佐和紙は、越前和紙や美濃和紙と並んで日本三大和紙のひとつとされる。

破れにくく、軽く、柔らいなどの特徴を持ち、江戸時代から明治にかけては、土佐藩の下級武士が着用した「紙衣」、和紙を重ねて漆を塗った弁当箱、髪を結ぶ「元結」など幅広い用途で使われてきた。

土佐和紙に原料である雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)、楮(こうぞ)
土佐和紙に原料である雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)、楮(こうぞ)

しかし、時代の流れとともに手漉きの工房も減り、現在は高知県のいの町と土佐市に数えるほどしか残っていない。現代の土佐和紙は主に美術品の修復、版画や水墨画の用紙、書道紙、ちぎり絵の材料などの用途に使われているが、需要が先細りするなかで新たな使い道を開拓しようと立ち上げられたのが、土佐和紙プロダクツ。タケムラデザインアンドプランニングのメンバーで、竹村活版室も主催する竹村愛さんは、このプロジェクトの成り立ちについてこう振り返る。

「土佐和紙は高級品で気軽に使いにくいものというイメージがありますよね。それで、いの町からもっと身近に使える方法を考えて展示してほしいと相談を受けました。

それから、日常生活のなかで気軽に使えるものを作ってみようということで、高知県内の作家やデザイナーに声をかけて、100案出そうというところから始まりました」

持ち寄られた100のアイデアを50に絞り、土佐和紙職人と組んで製作したものが展示されたのが、2009年にいの町の紙の博物館で開催された「使える和紙展」。この時に生まれたアイテムのひとつが、冒頭に記した領収書だ。

土佐和紙プロダクツの「使える和紙展」の様子
「使える和紙展」の様子(写真提供:土佐和紙プロダクツ)

職人との微妙な距離感

50のアイテムは「使える和紙展」に向けて作られたもので、役割はあくまで土佐和紙の新たな可能性を世に提示することだった。しかし、この展示でタッグを組んだタケムラデザインアンドプランニングと「d.d.office」のメンバーは、商品化に向けて動き始めた。

「これまでも、同じようなイベントは何度も開かれていたと思います。一度きりのイベントだと、職人から『またか』という思われてしまうかもしれない。それは悔しいし、せっかくこれだけ案を出したのに、展示で終わらせてはもったいない。だから持続可能な方法で、商品化してみようということになったんです」

最初の一歩として、土佐和紙プロダクツのホームページを作り、ネットショップで販売を始めた。さらに、「紙漉き」の現場を知ろうと、デザインチームが職人のもとに出向き、定期的に紙漉きの体験をするようにした。

そうするうちに職人とデザインチームの距離が近づき、次第に「伝える」というプロジェクトの幹となるテーマが固まっていった。

紙漉き体験の様子
紙漉き体験によって和紙職人の仕事の大変さを実感したという(写真提供:土佐和紙プロダクツ)

このテーマに沿ってラインナップを絞り、現在は「真心を伝える」「言葉を伝える」「祝福を伝える」「伝統を伝える」という4つのカテゴリーで商品が販売されている。

例えば、「真心を伝える」のカテゴリーでは4種類の領収書、「言葉を伝える」ではレターセットや原稿用紙、「伝統を伝える」では、A4サイズで家庭用プリンターでも使用できる和紙などが並ぶ。

最近、新しく作られたのが「祝福を伝える」のカテゴリーにある、ご祝儀袋。シンプルながらも、手漉きの和紙ならではの温かみと品の良さが際立つ注目の逸品だ。

ネットショップでも人気のご祝儀袋
ネットショップでも人気のご祝儀袋(写真提供:土佐和紙プロダクツ)

職人の変化

土佐和紙プロダクツの商品は少しずつ売れ始め、今では青森から九州までセレクトショップに商品を卸すほどになった。竹村さんは「課題は発信力」というが、宣伝などしなくてもネットショップのリピーターが増え続けており、外国からの注文も入る。

この変化によって、これまでどちらかといえば裏方だった職人自身にも光が当たるようになった。

「以前、ある職人さんは、自分が漉いた和紙が最終的にどう使われているのかわからないと言っていました。でも、土佐和紙プロダクツの商品は誰の、どの和紙を使っているのかわかるので、これだけ売れたよと伝えると喜んでくれます。

県内のセレクトショップなどにも置かれているので、あそこで見たよ、とか知り合いに声をかけられることも増えたそうで、それも嬉しいみたいですね」

職人にとっては、付き合いのある業者から注文をもらい、期限までに収める仕事と違い、土佐和紙プロダクツは顔と結果が見える仕事だ。

土佐和紙の紙見本を兼ねたカレンダー
土佐和紙の紙見本を兼ねたカレンダー。六人の若手職人たちが漉きあげた和紙に活版印刷が美しい

その分プレッシャーもあるだろうが、意気に感じているのだろう。当初は明らかに乗り気ではなかったという職人から「万年筆専用の和紙を作ったらどうかな?」など希望やアイデアが出てくるようになったそうだ。

海外からの観光客にもおすすめの土佐和紙プロダクツ

土佐和紙プロダクツの活動がきっかけとなり、東京の企業と新製品も開発した。

「2014年にプラチナプリントの写真を和紙に焼く方法ができて、東京のPGIというと企業から土佐和紙でプラチナプリント専用の和紙を作れないかという話がきました。普段お世話になっている職人に呼び掛けて、1年ぐらいかけて完成しました。これは職人とPGIで直接やり取りしてもらっていますが、今も定期的に注文があるそうです」

「使える和紙展」から9年。土佐和紙の魅力は確実に全国に広まっている。それはきっと、土佐和紙プロダクツのメンバーの想いも「伝わって」きたからだろう。

追い風も吹いている。

高知市では、高知新港を訪れるクルーズ船が急増しており、2015年度には8隻だった寄港数が2016年度に30隻、2017年度には40隻に増えた。これによって日によっては4000人の外国人旅行者が高知市の町を歩いているという。

竹村さんによると、彼らはアンテナショッや土産屋で土佐和紙を購入しているそうだ。そのなかで土佐和紙プロダクツが目指した「日常生活のなかで気軽に使える土佐和紙」も、続々と海を渡っている。

<取材協力>
土佐和紙プロダクツ

文・写真: 川内イオ

ドラ息子が再生した佐賀 嬉野の老舗旅館 ~転がる宿には苔が生えない~

お抱えの大工がいる宿

江戸時代から宿場町として賑わっていた、佐賀県の嬉野。昔ながらの趣を残す温泉街に、とてもユニークな老舗旅館があると聞いて足を運んでみると、まずは「旅館」というイメージとはかけ離れたその規模に圧倒された。

嬉野 和多屋別荘のエントランス
広々としたエントランス
嬉野 和多屋別荘の中庭
敷地内の中庭

数羽のカモがくつろぐ嬉野川をまたぐ広大な敷地は、2万坪。よくある表現でいえば東京ドーム1.4個分の土地に、129室の客室がある。

客室も眼下に嬉野川を望む客室や庭園に面した露天風呂付客室、数寄屋造りの離れなど多彩で、過去には昭和天皇、皇后両陛下、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王なども宿泊しているそうだ。取材に訪れた日も国籍問わずたくさんの旅行客が宿泊していた。

宿の名は、和多屋別荘。長崎街道を往来していた島津家薩摩藩が道中に休息していた施設に由来を持ち、1950年に設立された。この規模で、しかも皇族も宿泊しているような格式高い旅館は日本にもそうそうないが、そこがユニークというわけではない。

この宿の敷地の一角には、「大工小屋」がある。そこでは、定年退職したけれども衰えない技術を持つ大工さんが4人、常駐している。そして、毎朝出勤しては部屋の改修や館内で使用するさまざまな什器をせっせと作っているのだ。

嬉野 和多屋別荘のお抱え大工さん
大工の山口さんは80歳にして現役
嬉野 和多屋別荘の大工室

この大工小屋をつくったのが、和多屋別荘の三代で、2013年、社長に就任した小原嘉元さん。驚くべきは、リノベーションのデザインや什器のアイデアはすべて小原さんがイメージを絵に描いて、大工さんたちが形にするという方法で行われている。

「もともと宿で使わなくなったものが所狭しと置かれていた元リネン工場をきれいにして大工小屋にしました。僕が戻ってきた時はひとりだったんですが、僕が依頼するものが余りに多すぎて人を増やしたんです(笑)。僕が社長に就任してから5年間、この敷地に設計士も建築士も入れていません。全部自前です。外部に依頼するよりも仕事が速くなるし、柔軟にできるじゃないですか」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん
敷地内を見回る小原社長

「嬉野茶時」に「出前DJ」

今時、お抱えの大工さんがいる宿自体耳にしたことがないが、ここまでくると日本唯一の存在と言えるのではないだろうか。小原さんはさらに、腕の良い大工さんを10人ぐらいまで増やして、宿の仕事だけでなく商店街のリノベーションなどを請け負うことも考えていると話していた。

そう、小原さんは常識に捉われないアイデアマンなのである。もちろん、大工小屋は実現してきたさまざまなアイデアのひとつに過ぎない。

小原さんは、最近都内の有名ホテルでもイベントを開催するなど知名度を上げている嬉野茶のブランド化を目指すプロジェクト「嬉野茶時(ちゃどき)」の発起人でもあり、嬉野の若手茶農家が自ら生産した茶を和多屋別荘や、同じく嬉野にある旅館大村屋で提供する期間限定の喫茶「嬉野茶寮」も自ら企画している。

昨年には盟友である旅館大村屋代表北川健太氏とともに、著名なラジオDJ、音楽ジャーナリストであるピーター・バラカンさんによる「出前DJ」も企画し、和多屋別荘で開催した。

こういった活動を見ると、三代目のお殿様が自由な発想で伝統と格式のある宿に新風を吹き込んでいるように見えるかもしれないが、それは、違う。

小原さんは一度、実家から放り出された。そして、和多屋別荘が倒産の危機に陥った時に戻ってくると、次々と改革を断行してV字回復させたのである。大工小屋も、嬉野茶時も、出前DJも、すべては和多屋別荘を再興戦略につながっているのだ。

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん

世間知らずのドラ息子

子どもの時、小原さんは「おぼっちゃん」と呼ばれていた。

宿には200人の従業員がいて、2万坪の敷地が自宅の庭。180室の客室(当時)、25メートルプール、子ども用のプール、テニスコート5面、ゲームセンター、売店、レストラン数カ所、大浴場や露天風呂があり、宿泊客に迷惑さえかけなければ、どこでも入り放題、遊び放題というどこかの王侯貴族のような生活を送っていた。

嬉野 和多屋別荘
ラグジュアリーな雰囲気の宿内
嬉野 和多屋別荘 露天風呂
嬉野川を見下ろす露天風呂

この環境でも謙虚に育つ自信がある、と断言できる人はそういないだろう。小原さんは都内の大学に進学するも中退し、「就職するつもりもなかったけど、旅館の仕事はダサいからイヤ」と実家が営業所として購入した福岡のマンションに転がり込んだ。

体裁としては社員で、21歳にして給料は30万円。それでも、「なんでこんな少ない給料しかもらえないのかな」と不満を抱いていた。

その頃、ちょうどお姉さんも勤めていたテレビ西日本を辞めて同じ福岡のマンションで同居するようになったので、一緒にチラシのデザインなどを始めた。それで、いっぱしの仕事をしているつもりになっていたのだが、ちょうどその頃から和多屋別荘の経営が大きく傾き始め、福岡で暮らし始めてわずか2年で福岡事務所の閉鎖が決定。すぐに売却されることになった。嬉野では、200人いた社員の4分の1を1ヵ月で解雇するほど経営がひっ迫していたのだ。

それでも、奔放に育ってきた小原さんには危機感がなかった。

「住む場所を取られ、仕事場所も取られて、なんでそうなるんだよ、と。だから、姉と一緒になって、本館と橋でつながっている離れの水明荘を全部くれと父親に言いました。気の利かない社員しかいないだろうから社員も選ばせてもらうし、いなかったら雇うからねって」

嬉野 和多屋別荘 水明荘と嬉野川
水明荘と嬉野川

この時、23歳。失礼ながら、完全に世間知らずのドラ息子である。

父親に無理な要求を突き付けた結果、無残な展開になる。当時、和多屋別荘のコンサルタントをしていたK氏が、父親、小原さん、お姉さんのいる席で、こう切り出したのだ。

「会社を取るのか、異分子を切るのか選んでください」

この言葉を聞いた瞬間、小原さんは「このコンサル馬鹿やねー」と呆れていた。父親が子どもたちを切り捨てるわけがない。それが甘かった。しばらくして、父親から「出ていってくれ」と言われたのである。まさに青天の霹靂。この瞬間、収入も、仕事も失い、小原さんの「おぼっちゃん生活」は終わりを告げた。

極貧時代を経て丁稚奉公に

父親と再会したのは、3年後だった。その間、小原さんは姉と一緒に父親と離婚して福岡に住んでいた実母のマンションに身を寄せ、母子三人で暮らしていた。

仕事は、姉と自分のなけなしの貯金300万円を合わせてIT企業を作り、ホームページやチラシの製作、ネットショップの運営を始めたが、まったくうまくいかず、「極貧時代」に突入していた。

「和多屋別荘という看板も、親父の後ろ盾もない。ただの23歳と26歳のちんちくりんの娘と息子がやった会社なんて、誰も相手にしないっていうのが世の中ですね。ひとり女性スタッフがいて、その方に給料の15万円を支払うために仕事をしているようなもので、あとは僕と姉貴のポケットに入っているお金が全財産というような生活でした」

父親と再会した頃、和多屋別荘は実の子どもを追い出すという身を切る改革が功を奏して見事に再生を果たしていたが、ふたりが戻る余地はない。

父は小原さんに「経営の勉強しにKさんのところに行け」と言った。小原さんは唖然としてすぐに席を立った。ところがその日の夜、苦楽を共にしてきたお姉さんが意を決したようにこう言った。

「多分、行った方がいい」

この言葉を聞いて、小原さんはハッとした。そして、ようやく気づいた。

「ひょっとしたら、僕は人生を踏み外してんのかな」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん

当時、お姉さんは交際相手と結婚することが決まっており、もう一緒に会社を運営することもできない。恐らく、弟の行く末を心配しての発言だったのだろう。同志のような存在だった姉の言葉を受けて、小原さんはKさんのもとに向かった。ここから怒涛の巻き返しが始まった。

ドラ息子の強み

Kさんの会社は旅館の再生事業を手掛けており、たった5人で80社のコンサルを請け負うスペシャリストの集まりだった。その仕事ぶりを見て、家を出てから3年間、自分と姉がやってきたことは「ままごとに見えた」。それから小原さんは目が覚めたように、365日、ほぼ休まず無給で働いた。丁稚奉公のようなものである。

ところが2年目に入る頃、父親とKさんが揉めて訴訟沙汰になり、Kさんのもとを離れざるを得なくなった。そこで、Kさんのもとで学んだことを活かそうと、会社を立ち上げて、和多屋別荘の敏腕フロントマンで、父親の命を受けたAさんと旅館の再生事業を始めたのである。26歳の時だった。

たった1年、丁稚奉公をしただけで何ができるのかと思うかもしれないが、この事業は10年続き、計70軒の旅館を再生させることができたという。スペシャリストたちのもとで学んだ経験は大きかったのだろうが、理由はそれだけではない。

「再生を余儀なくされる旅館の経営一族は、全て僕と一緒です。ちんちくりん息子、ちんちくりん娘が会社をダメにしていたんです。だから社長には、あなたの息子さんがこの会社潰しますよ、会社が潰れたら全社員、一族が路頭に迷いますけどどうしますか?という話をして。もちろん息子にもどんどん厳しいことを言って、一念発起したらそこからが再生のスタートです。

この仕事をして分かったのは、数十社見せてもらって、僕ほどズレてる経営者の息子はこの世にはいないということでした(笑)」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん
「若い時は勘違いをしていた」と笑顔で振り返る小原社長

誰よりもズレていたからこそ、ズレている人の気持ちがわかった。その人が経営の足を引っ張っていることも分かった。自分が父親にクビを切られたことで会社が復調したことを知っているから、真実味を持ってクライアントに伝えることができた。なにより、家から放り出された経験があったからこそ、信頼を得ることができたのである。

逆風が追い風に変わる時

軌道に乗った再生事業を離れて、2013年、和多屋別荘に戻ることになったのは、再び経営危機に陥っていたからだ。一度目の時よりも経営状態が悪いなかで、小原さんは、再生事業で手を組んでいた弁護士、会計士、コンサル仲間を役員に入れて、35歳にして社長に就任した。

最初に始めたのは取引先からの信頼の回復、そして一緒に働く従業員たちとの信頼関係の構築だった。詳しい再生事業の話は省略するが、例えば子どもの日には、従業員用の自動販売機をこっそり「お金を入れなくてもボタンを押せば出てくる」状態にして従業員を驚かせたり、何かの折には社員食堂で佐賀牛を振る舞うなど、身近なところから次々と自身のアイデアを活かしていった。

嬉野 和多屋別荘の椅子
館内のいたるところに高級チェアが置かれている。これも小原社長のアイデア

こうして2年半をかけて信頼を再構築すると、自然と追い風に変わり始めたという。同時に大工小屋を作ってスピーディーかつフレキシブルに古くなった部屋のリノベーションを始め、「嬉野茶時」などの活動で宿に活気を吹き込むと、経営は次第に回復していった。

和多屋別荘の屋台骨

宿のなかに足を踏み入れると、印象的なのは小原さんがデザインし、大工さんが作った鉄のパイプを加工した和モダンな花器が館内のいたるところに置かれ、すべてに色とりどりの生花が飾られていること。

嬉野 和多屋別荘の装飾
嬉野 和多屋別荘の装飾

宿泊者のアンケートにも、生花の装飾について触れられることが多いそうだが、これも和多屋別荘らしいエピソードが隠されている。

「お掃除の方をいれると、正社員とパートを合わせて180人くらい働いているんですが、みんな花を持ってきてくれるんですよ。花器は全部で200~300か所あるんですけど、月の花代の予算は5万円ですから。それで、毎日、エグチさんという60代の古株の方が花を入れ替えてくれるんです。

若いスタッフがフロントで頑張ってくれて経営が成り立っているんですけど、大工さんやエグチさんの存在が和多屋別荘の屋台骨ですね」

毎日、広大な宿のなかに生花を飾るというと多額のコストをかけて業者に依頼すると想像してしまうが、コストはなんと月5万円。従業員もきれいな花が飾られているところで働く方が気持ちいいし、お客さんにも喜んでもらえるなら、花を摘んで持っていこうと思うのだろう。コストを懸けずとも、考え方ひとつで環境は大きく変わるのだ。

2万坪の敷地の管理人

小原さんが戻ってきて、5年。就任当初から売り上げがいつ倒産してもおかしくないとう危機的状況を脱し、売り上げを伸ばしているが、小原さんのアイデアは尽きない。

「離れにある水明荘は、いずれ独立させて水明荘という数寄屋造りの宿として世に出したいんですよね。まだアイデア段階ですが、思い切って地下の宴会場と1階のショップをつないで、ツタヤのような素敵な図書館にしたいと思っています。

あとは、テナントリーシング業。2万坪の敷地のなかにデッドスペースがいくらでもありますから、レストランとかスパ、カフェ、セレクトショップなど20〜30店舗は入れたいですね。そのうちの5軒くらいは直営で、残り25軒はテナントにするイメージです。僕は2万坪の敷地の管理人としか思っていないので、それをどう活用するのか、いつも考えています」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さんと大工さん

小原さんの話を聞いていて、「転がる石には苔が生えない」という言葉を思い出した。もちろん、アメリカで使われている、動き続けることで常にフレッシュであるという意味だ。築68年の宿ながら、小原さんのもとで和多屋別荘はとどまることなく姿を変え、苔むすことなく生花のようにみずみずしく輝き続けるのだろう。

<取材協力>
和多屋別荘
代表取締役 小原 嘉元(こはら よしもと)さん

文 : 川内イオ
写真 : mitsugu uehara

“This is a pen”だけで単身渡英した25歳が「世界の庭師」になるまで

改革者としての千利休

「千利休って、当時は『こいつクレイジーやろ!』と思われていたと思います。それぐらい、千利休がやったことは半端ない、すごいことなんですよね」

いかにも楽しそうにこう話すのは、世界を舞台に活躍する庭師・山口陽介さん。かつて千利休が起こした「庭」に関するイノベーションについて、解説してくれた。

「千利休は、お茶庭というジャンル作ったんですけどね。庭に明かりを灯すために、石灯籠を使った人なんです。灯篭はもともと神社の参道の両端に置かれていたもので、魂の道しるべなんですよ。それを庭の明かりに使うというのは、昔の人からすればかなり奇抜やったはず。

でも、それが現代まで受け継がれているということは、利休によってお茶の世界がアップデートされたということでしょ。利休は常識に捉われないから今も生きてたら、お茶庭にLEDとかプロジェクションマッピングとか、絶対使ってると思いますよ」

千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた茶人で、現代に伝わる茶道を生み出した「茶聖」として称えられている。しかし、裏を返せばその時代、ほかの茶人とは異なる茶の道を歩む先駆者であり、改革者だったともいえる。ちなみに、千利休は茶室にも変革をもたらしたことで知られる。

「庭」も、茶道と同じく歴史が深い。例えば、京都には平安時代から存在する神泉苑という庭園がある。しかし、その歴史や技法を忠実に守るだけでは、新しいものは生まれない。そう考えてきた山口さんは、千利休に倣い、常に自分と庭をアップデートすることを意識してきた。それが、現在のキャリアにつながっている。

波佐見の山・西海園芸 山口陽介
山口さんが所有する山の上から見た波佐見町

木を枯らせて気づいたこと

2016年、世界三大ガーデンフェスティバルのひとつ「シンガポール・ガーデン・フェスティバル」で金賞を受賞。

ちょうど今開催中の南半球最大の規模を誇る「メルボルン国際フラワー&ガーデンショー」に、日本人として初めて招待を受けて参加。日本全国にクライアントを抱え、昨年はシンガポールの資産家から指名を受けて現地で庭を作っている。

山口さんの拠点は生まれ故郷の長崎県波佐見町にあるが、いくつものプロジェクトを抱えて国内外を飛び回る日々。庭師の仕事は、依頼を受けて庭園を作ったり、庭木の手入れをすることが主で、世の中の庭師の大半は地元密着型。山口さんのような存在は稀だ。山口さんが手掛けた庭は、どうして国境を越えて人の心を捉えるのか。山口さんの人生を振り返りながら、そこに迫りたい。

西海園芸 庭師 山口陽介
山のなかに作った小屋も作業場に

山口さんは、波佐見町の造園会社「西海園芸」の二代目。しかし、「高校の時は美容師とかファッション系の華やかな感じが好きで、植木屋に興味はなかった」と振り返る。

しかし、父親から「一回でいいから、ちょっとやってみーな」と言われ、20歳の時、渋々ながら京都の庭師に弟子入りした。とはいえやる気はなく、いつも「早く辞めて帰りたい」と思っていた。ところがある日、その後ろ向きの気持ちが逆転した。

庭師・山口陽介さんと周る波佐見町の山

「朝早くに仕事に行って、夜遅くまで働いた後に、広い植木畑に水をやらないといけないんですよ。そんなんやってられるかと思って、煙草を吸いながら適当に水をあげてたら、木が枯れちゃって。それで、親方に思いっきり怒られたんですけど、その時に、木に対して『生きてんだ、こいつらも』と思ったんです。

当たり前のことなんですけど、それまではモノとしか見てなかったからね。木も命ある生き物と気づいてから、仕事が面白くなってすごくのめり込んだんですよね」

京都を離れ、ガーデニングの本場へ

京都時代の親方は、少し変わっていた。鶏やイノシシを飼い、育てて食べた。山口さんの仕事にはその動物たちの世話も含まれていた。

鶏やうり坊の世話は、庭仕事とは関係がないように思える。若かりし頃の山口さんも、「なんで俺が!」と思っていたそうだ。しかし、いま振り返れば庭の仕事とすべてがつながっていると語る。

「命をいただくということ、人間が生きるための食物連鎖ということを体で理解したよね。これは、水をあげなくて木を枯らしたことと一緒やなっていうことは腑に落ちていて。命ということでいえば、植物も鶏もイノシシも変わらないでしょう。多分、親方はそれを俺に伝えたかったんかなあって。

それに、鶏やイノシシを世話することで、鶏が食べない虫とか、イノシシはミカンを食べないとか、そういうことも学んだし。それが直接何かの役に立つわけじゃないけど、庭のことだけじゃなくて広い意味での知恵を学んだよね」

すぐに辞めるはずだった京都での修業は、気づけば5年が経っていた。ちょうどその頃、日本に「ガーデニング」という言葉が入ってきた。

ファッションが好きだった山口さんは、ファッション雑誌や写真集を通して「ガーデニング」に触れていた。ヨーロッパの庭で撮影された写真も多かったからだ。そして、日本の庭とは明らかに違う手法や見た目に、興味を抱くようになった。

その当時、京都では本当のガーデニングを知る人はおらず、みんなが手探り状態。そこで山口さんは、自分の好奇心に従った。

「ほんまもん、見に行こう」

親方の元を離れ、2005年、25歳の時に単身でガーデニングの本場、イギリスに渡った。英語といえば、「This is a pen」ぐらいしかわからなかった。

波佐見の西海園芸 山口陽介さん

王立植物園「キューガーデン」にアタック

イギリスにはひとりだけ、知り合いがいた。山口さんはそこに転がり込もうと考えていたが、甘かった。「1週間ぐらいしたら、ひとりで暮らせよ」と言われて大慌て。なんとかアパートの一室を借りて、何もかもが手探り状態でのひとり暮らしが始まった。

山口さんは、ガーデニングを学ぶためにいきなり最高峰の門を叩いた。現地で知り合った日本人女性の彼氏(ドイツ人)に頼んで英語で履歴書を書いてもらい、250年に及ぶ歴史を誇る世界遺産の王立植物園「キューガーデン」に「働きたい」とアプローチしたのだ。

ドイツ人の手による完璧な履歴書を提出した成果か、書類審査はパス。面接では、面接官との会話はほとんど成立しなかったが、日本最高峰の庭園が集中する京都で5年間仕事をしていたという経歴が評価されて、キューガーデンで働くことになった。若さゆえの勢いでぶち当たり、開いた扉だった。

キューガーデンには、世界中のガーデナーが集う。血気盛んな山口さんは「絶対負けん!」と気を張りながらも、自分が持っていない技術やセンスはどん欲に盗んだという。

「日本には差し色という感覚はあるでしょう。例えば、真っ白なところに赤の墨を落として、余白を楽しむ『間』を大切にする文化。一方の欧米は、鮮やかな色使いで華やかさを演出する。『間』を潰しながら、色で高低差を出したりするんですよ。そのスキルを学ぶのが、自分にとって新鮮でした」

「あと、仕事は17時に終わるんだけど、みんな16時50分にはソワソワし始める。日本はこの現場が終わらんと帰れんという文化だから、その価値観の違いは面白かったよなあ。でも、時間通りに仕事を終えてプライベートを楽しむというのはすごく豊かなことやなと思うようになって、日本に帰ってからもあまり残業しないようになったよね」

波佐見町 西海園芸の庭師 山口陽介さん

日本庭園の担当に抜擢

キューガーデンで仕事を始めてしばらくした頃、スタッフから「うちの日本庭園、どう思う?」と尋ねられた。

「素直にいって、汚い。松の木に漬物石みたいのをぶら下げているけど、今の日本ではやらないし、ダサいと思う」

率直すぎる山口さんは、思いつく限りのダメ出しをした。その話を聞いたスタッフは、一本の木を指して「切ってみろ」と言ってきた。恐らく、偉そうなことを言っている若造のお手並み拝見、というところだろう。

そこで山口さんは、枝を切る際に、なぜ切るのか一本一本、すべての理由を説明しながら、鋏を入れていった。

「この枝を切って光を入れることによってこういう芽が出るよ、とか、この枝を切って光と風を通すことによって虫がつきにくくなるよ、という話をしました」

波佐見 西海園芸の山口陽介
その瞬間の見栄えではなく、木の未来を見据えて仕事をする

すると、スタッフは「アメージング!」と絶賛。

「日本庭園のバックアップの講師をやって欲しい」と頼まれて、それから日本庭園の担当になった。キューガーデンの仕事としてはステップアップだったが、ギラギラした若者にそんなことは関係ない。

数カ月後、「勉強しにきたのに、伝える側に回ったら面白くなくなった」とキューガーデンの仕事を辞め、バックパックを背負って旅に出た。

波佐見ハラン

「良い庭」とは?

そうして2006年、帰国。波佐見町に戻った山口さんは、うなだれていた。

1年の欧州滞在で刺激を受け、「なにか面白いことをやってやろう」と前のめりになっていたが、空回り。当時は波佐見町にあるジャズバーに遅くまで入り浸っては愚痴っていたそうだ。

振り返ってみれば、山口さんにとってこの時期は、キューガーデンで世界中のガーデナーから吸収した養分が体と脳にいきわたるのに必要な時間だったのかもしれない。

京都とイギリスで培った経験がブレンドされ、芽吹き、花を咲かせたのは2013年。日本全国から30組のガーデナーが招待され、ハウステンボスで開催されたガーデニングジャパンカップフラワーショーで、最優秀作品賞を獲得したのだ。

それからは毎年、さまざまな賞を国内外で受賞。山口陽介の名が知れ渡り、仕事の幅も広がっていった。

山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品
西海園芸 山口陽介
山口さんが作った作品

山口さんにとって「良い庭」とは、「愛される庭」。100年先まで残したい、孫の時代まで伝えたいと思われる庭づくりを目指している。

そのために、庭に関するすべての設計に携わる。庭師という仕事は樹木、植物を扱う仕事というイメージがあるが、土を作り、庭に水を流す時には配水管の配置を考え、水の音まで調整し、石垣や土壁を作り、瓦を組む。

「京都時代の親方に、何でも屋になれって言われたんですよ。一本の木しか見えてなかったら空間が見えないし、建築が見えてなかったら庭も見えない。家と庭が見えてなかったら、家族も見えない。

そういういろいろな面をみて植木屋、庭師というフィルターで通せるかというのが大切やと思ってるんで」

武雄市の高野寺
佐賀県武雄市にある高野寺の日本庭園では、昔ながらの手法で土壁もイチから作った
武雄市の高野寺
高野寺の日本庭園を流れる小川。高低差などでせせらぎの音もコントロールする
武雄の高野寺
武雄市の高野寺
古い瓦を買い集め、1枚、1枚、丁寧に組んでいく。これも庭師の仕事 / 高野寺
西海園芸 山口陽介
山口さんが仕事をする上で参考にするのはリアルな山の風景

シンガポールで北海道を再現

「何でも屋」になることで、視野が広がる。植物学に加えて土木、建築などの知識もあれば、やれることの選択肢が増える。そうすれば、庭のポテンシャルが高まる。

例えばシンガポールでの仕事は、クライアントと話をしているうちに雪が好きで、毎年北海道に通っているということがわかった。そこで、コンセプトを「エブリデー北海道」にして、四季のない熱帯雨林気候のシンガポールで北海道を感じさせる庭を作った。

「日本人だから紅葉を植えるんでしょって言われるんだけど、そうじゃない。

単純に海外に紅葉や松を植える江戸時代のスタイルを持っていてもね、後世まで絶対残らんもんやなと思うし。もうひとつ深いところを伝えんと、僕はダメだと思っていて。だから今回は音や色で涼しく感じるという日本の文化、伝統を使って北海道を表現しました。

例えば、雪をイメージさせる白い葉の植物をベースに植えて、白い砂利を使ったり、壁を白く塗ったり。そこに水を流して川の音を聞かせたら、なんとなく涼しく見えるわけじゃないですか。クライアントもすごく喜んでましたよ」

自分がクライアントの立場になった時、どこかで見たような昔ながらの日本庭園と、大好きな北海道や雪をテーマにしたオリジナルの日本庭園、どちらを愛するだろうか。

答えを言うまでもないだろう。山口さんにとっても、熱帯雨林気候の土地で音や色を使って涼しく見せるというチャレンジとなった。

波佐見 西海園芸の山口陽介さん 山で

究極の庭づくり

こういった仕事ぶりによって今や引っ張りの山口さんだが、奢りはない。むしろ、どん欲だ。その理由は、好敵手の存在。

ひとりは、香港ディズニーランドやリゾートホテルの造園を手掛けるマレーシア人のリム・イン・チョングさん。もうひとりは、ブラッド・ピットなどハリウッドの超VIPの庭を手掛ける南アフリカ人のレオン・クルーゲさん。

「リムさんも、レオンも本当にすごいガーデナーであり、デザイナーでまだ勝てないなあ。ふたりのことは本当に尊敬しとるけんな。ただ、俺は俺の良さがあると思うし、ふたりはそれも言ってくれるから、良きライバルだよね。それぞれ、世界中で庭つくっとるけえ、日本の物件があると、『陽介、ちょっと手伝える?』って相談がきたりするし」

波佐見の庭師 山口陽介

山口さんは、自分をデザイナー兼職人と捉えている。そのデザインの部分で、ふたりの力に及んでいないと自覚している。だから、庭とは関係ないジャンルで経験を積んだデザイナーを雇いたいと考えている。

「僕は、発想豊かじゃないけん、実は。かけ算がうまいだけで、生み出すのは下手だなっていつも思うし。でも、対世界で見たら自分にはデザインの力がもっと必要だから、デザイナーに来てもらって、得意なかけ算で相乗効果を生み出したい」

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
自分をアップデートすることで、庭をアップデートする

山口さんは自分の限界に挑むように、「究極の庭づくり」も始めた。

波佐見町近隣の荒れた山をいくつも購入し、自ら整備。これまでに桜と紅葉の木を2000本以上植えてきた。

焼き物の産地である波佐見町がいつか焼き物だけで食べられなくなった時に備えて、春に桜、秋に紅葉が見どころになる観光名所を作ろうという個人的なプロジェクトだ。

山口さんは木々が成長する100年先を見据えて、イメージを膨らませている。

波佐見 西海園芸 山口陽介さん
山口さんが所有する山の様子。桜と紅葉の木を植えると目印に棒を立てる

こうして自分の能力を拡張し続けたその先に、後の世に受け継がれるような日本の庭の新しいヒントがあるのかもしれない。その答えを探して、山口さんの庭を巡る旅は続く。

「仲間たちと冗談でよく、死んだ時に千利休に茶をたててもらえるくらい面白いことをしようやって言ってるんです。お前らようやったなあって」

波佐見 西海園芸の山口陽介

<取材協力>
西海園芸

文:川内イオ
写真:mitsugu uehara

庭を知ると旅の景色が変わる。世界の庭師とめぐる、山と庭園

300年以上の伝統を誇る焼き物の町、長崎県波佐見町に世界的な庭師がいる。

世界三大ガーデンフェスティバルのひとつ「シンガポール・ガーデン・フェスティバル」の10回目となる2016年、最高賞の金賞を受賞した庭師、山口陽介さんだ。

庭師山口陽介

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の二代目である山口さんは、京都で5年間修業を積んだ後、ガーデニングを学ぶため、23歳で発祥の地イギリスへ。

現地では王立植物園「キューガーデン」で1年間勤務し、2006年に波佐見町に戻ってからは、国内外で数々の受賞歴を誇る。

最近では、シンガポールの資産家から依頼を受けて現地に日本庭園を造園。南半球最大の規模を誇る「メルボルン国際フラワー&ガーデンショー」(2018年3月21日~25日開催)からも、日本人として初めて招待を受けた。

今回は、山口さんの案内で長崎と佐賀にある3つの庭を巡った。日本屈指の庭師から庭の見方、楽しみ方を教わると、そこには新しい世界が広がっていた。

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが所有する山の頂上からの風景
長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、山口陽介さんが所有する山からの風景

「愛される庭」とは?

山口さんにとって「良い庭」とは、「愛される庭」。

庭の手入れには、お金も手間もかかる。業者が整備をしても、日々のケアは家主の仕事だ。庭の存在を面倒に感じるようになれば、放置されて荒れてしまったり、最悪の場合、代替わりの時に一掃されてしまう可能性もある。

だからこそ、「後々まで残していきたい」と思われることが必要なのだ。

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、山口陽介さん

「愛される庭」とはどういうものなのか。2月某日、山口さんが連れて行ってくれたのは、波佐見町の隣町、川棚町の私邸。

外見からもその大きさと品の良さが伝わってくる、築150年のお屋敷だった。ここ数年、山口さんが勤める「西海園芸」が庭の手入れを請け負っているという。山口さんいわく「このあたりでは、間違いなく一番良い庭」。

家主に挨拶し、玄関の脇から庭に向かう細いアプローチから山口さんの解説が始まった。

「まず、この細いアプローチに置かれた敷石のラインを見てください。なにげなく置かれているようで、計算された配置です。大きさも、並びも野暮ったさがないでしょ。150年前の職人のセンスを感じますよね」

長崎県川棚町の私邸にある庭の敷石

庭の素人である僕には比較対象がないのが残念だけど、確かに苔むした敷石が並ぶこのアプローチには静けさが漂っている。

アプローチを抜けると、しっかりと手入れが行き届いた日本庭園が現れた。足を踏み入れた瞬間、思わず、わあ!と声を上げてしまった。

長崎県川棚町の私邸にある日本庭園
長崎県川棚町の私邸にある庭の敷石

「京都の庭にもありそうな景色だよね。スッと抜けているでしょ。サラッとしているけど、間の取り方がすごくいいから、心が鎮まる。

変に豪華なものを使っていなくて、敷石もこのあたりの地の石だと思うんだけど、使う人が使えばこんなに品が良くなる。もちろん、苔の生え方も計算していたでしょう。入場料を取ってもいいぐらいの庭ですよ」

150年前の職人との対話

山口さんによると、石を置く位置、置き方、樹木や草花の選び方、植栽の位置取り、すべてが繊細に計算されているそうだ。「これを見てください」と山口さん。ランダムな形をした敷石のなかで、ひとつだけ四角のものがある。

長崎県川棚町の私邸にある日本庭園の石
ひときわ目立つ色と形が違う石

「一枚の人工的な切り石で、この先はプライベートのエリアですよ、お客さんは手前で楽しんで、ということを暗に示しているんだと思います。プライベートのエリアには社(やしろ)があるでしょう。昔はなにかしらの垣根、仕切りがここにあったんじゃないかな。すごくセンスを感じるよね」

一枚だけある切り石の意味を読み解く。これが、山口さんの仕事でもある。

「150年前の腕の良い職人が丁寧に、センス良く作ってきた庭を手入れするのは、すごく気を遣いますよ。どこを目指していたのか、過去と対話しながら仕事をしています」。

庭園長崎県川棚町の私邸にある日本に咲く桜の花

しかし、昔ながらの庭をただ守るだけではない。「京都は、庭を昔の形のまま維持しようとします。その文化はすごいと思うけど、アップデートは少ない。僕は守るべきものは守りながら、新しいものを作りたい」と語る山口さん。成長する植栽に合わせて、自分ならではのアイデアを加えていく。

長崎県川棚町の私邸にある日本庭園
山口さんが家屋のほうに伸びるように枝をコントロールしている百日紅

「例えば、150年前からある百日紅(さるすべり)は、僕が枝を伸ばす方向をコントロールしています。夏場、下に生えている苔を枯らさないために影が欲しいし、家に強い陽ざしが入るのを避けるためにも、枝を横に伸ばしています。

百日紅は夏に真赤な花を咲かせるから、庭に散る真赤な花びらを縁側から見て楽しむこともできる。秋には落葉するから、冬場は陽ざしを遮りません」

先人の仕事に敬意を払いつつ、庭をアップデートする。現在の家主からこの庭のすべてを任されているというのは、山口さんの仕事のスタイルが評価されているからだろう。

古文書を読み解くことから始まった庭

翌日は早朝に待ち合わせて、佐賀の武雄にある「高野寺」に向かった。

1200年以上前に弘法大師が立ち寄り、草庵を建てたという歴史を持つこの寺には、今年38歳の山口さんが自ら「三十代の代表作」と表現する日本庭園がある。寺の門をくぐると、そこには色味に乏しい冬でありながらも木々、植物の彩を感じさせる艶やかな庭があった。

高野寺
数年前に完成したとは思え
ない趣のある雰囲気
武雄 高野寺の庭
高野寺

「いま、庭園があるエリアはもともと何もない平地だったんです。住職からの依頼は、そこに日本庭園を造ってほしいというものでした。でも、意味のないものは作りたくない。

それで、歴史あるお寺だから古文書はないんですかと聞いたら、出てきてね。境内には石楠花(しゃくなげ)が多くあり、ほかに小滝や止観石(瞑想する場所)などもあると書かれていました。それを自分なりにくみ取って、弘法大師がここで最初に見た景色を見せたいという想いでこの庭を作りました」

高野寺のシャクナゲ

依頼があってから構想2年。「すべての植栽には意味があって、ひとつひとつの配置の理由を説明できます。最低でも350年は残る技術を使った庭」が2014年の春に完成した。

「山寺だから、山の景色を作りたかった。ところで山ってなんだろうと疑問がわいて、ひとりで山にこもりました。そこで見た自然の草木、そこで聞いた川の音などを模写して、庭というフィルターに通しました」

音にも、人の心にも気を配る

まず、平らな土地に莫大な量の土を加えて、実際の山にあるような起伏を作った。庭を流れる小川の水はパイプで循環させているが、まるで庭の背後にそびえる山から流れ出てきているように見せた。

古文書にあったように小さな滝をいくつか作り、流れ落ちる高さを工夫することで水の音もコントロール。立つ場所によって違う水の音が聞こえてくる。

高野寺
高野寺の庭園
武雄の高野寺
古文書に書かれていた「小滝」を現代風に表現

例えば、庭の右手に位置する茶室は、小さなせせらぎの音しかしない。それは、茶道の所作の音を邪魔しないためだ。

「音は振動でしょ。それをどう当てて逃がすか。だから、入り口に高低差をつけて、葉がついている木を多くしたり、壁で包み込むことで音が来ないようにしてるんですよ」

高野寺の庭から茶室までの道
庭から茶室までの道

回廊から茶室に向かうアプローチも独特だ。

「これは亭主の気持ち、茶会に参加する人の気持ちを意識した道なんです。ラフな配置の敷石が途中から整い、土壁に挟まれた道がすーっと伸びて茶室に続く。そうすることで徐々に気持ちが落ち着いて、無意識のうちにお茶の世界に入っていけると考えました」

西海園芸 山口陽介が作る佐賀 武雄にある高野寺
日本庭園の回廊から茶室に向かうアプローチ

また、この庭園の敷石には、人の手で加工した四角の切り石が一枚だけ使われている。

「川棚の庭からヒントを得てね。ここからが山、ということを示すために人が手を入れている石を持ってきました。もちろん気づかない人が大半だけど、それは関係ない。誰かが気づいてくれたら、それが粋でしょう」

高野寺の切り石
中央の石が切り石

視覚的な美しさだけでなく、音や人の気持ちまで考え抜く。

そこまでしてはじめて「人に愛される庭」が作れるのだろう。花が上品に咲き誇る春も、緑が濃い夏も、紅葉が鮮やかな秋にも訪れたいと思う庭だった。

“究極”の庭

最後に向かったのは、山口さんが「究極の庭」と表現する山だった。

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが「究極の庭」と表現する山
長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが「究極の庭」と表現する山
長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが「究極の庭」と表現する山
長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが「究極の庭」と表現する山
長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、加藤陽介さんが「究極の庭」と表現する山

山口さんはいま、波佐見町近郊にある山を買い集めている。そして、一昔前に植林され、いまや使い道がなくなって伸び放題の杉を切り倒し、桜とモミジに植え替えている。これまで植えた桜とモミジは2000本を超えるが、誰かに頼まれた仕事ではない。

「将来、波佐見が陶器だけじゃ食べられなくなった時に備えて、観光名所を作ろうと思ってね。春に桜、秋に紅葉を楽しめるようにと始めたんです。

そのうちツリーハウスも建てるし、最終的にはこの山に村を作りたい。それができたら、庭師の仕事として究極じゃないですか。

花の見ごろはあと100年後ぐらいだけど、町が苦しくなった時に、あの植木屋がやりおったと言われたい(笑)」

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、山口陽介さん

いま植林が行われている山の頂上に立つと、山間に波佐見の町が見えた。ということは、町からもこの山が見えていることになる。いずれ、観光客だけでなく町の人たちも春にはピンク、秋には朱色に染まった山を見て、心を和ませるのだろう。

長崎県波佐見町の造園会社「西海園芸」の庭師、山口陽介さん

そうしてもうひとつ、「人に愛される庭」が増えてゆく。

庭師の解説を聞きながら庭に目を凝らすと、時代を超えた日本人ならではの気遣いや粋な計らいが浮かび上がってきた。

かつて栄えた工芸の町には、庭園も多く残されている。日本各地の庭園を歩いて共通点、あるいは異なる点を探してみるのもまた一興。

<取材協力>
高野寺

文:川内イオ
写真:mitsugu uehara