トップダウンから最強のチームワークへ。14代千石社長と中川政七商店302年目の挑戦

これは、ある奈良の小さな会社で創業302年目に起きた、13代から14代への社長交代のお話、その後編です。

前編はこちら:「300年企業の社長交代。中川政七商店が考える『いい会社ってなんだろう?』」

2018年2月。

一会社員だったひとりの女性が、300年続く企業の社長に就任するという発表が行われました。

舞台は、株式会社中川政七商店。
1716年に当時の高級麻織物、奈良晒の商いで創業。全国に52店舗を展開する生活雑貨メーカーです。

企業名を冠したブランド「中川政七商店」は2010年デビュー
企業名を冠したブランド「中川政七商店」他、全国に50店舗以上を展開

社員全員を集めてこの発表をしたのは、創業から数えて13代目となる中川政七 (なかがわ・まさしち) 。

13代 中川政七。工芸界初のSPA業態を確立し、そのノウハウを生かして業界特化型の経営コンサルティングを全国16社手がける。2015年に会社としてポーター賞、2016年に日本イノベーター大賞優秀賞を受賞
13代 中川政七。工芸界初のSPA業態を確立し、そのノウハウを生かして業界特化型の経営コンサルティングを全国16社手がける。2015年に会社としてポーター賞、2016年に日本イノベーター大賞優秀賞を受賞

「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げての様々な取り組みから、「工芸の再生請負人」と呼ぶ人もいます。

社長就任からちょうど10周年の今年、13代は「これからの10年のために」と、自らは社長を退き、社員の中から新社長を据えることを決断しました。

「社長を交代します。14代は、この人です」

ごくり。

みんなの唾をのむ音が聞こえた、と回想するのは、他でもない14代その人です。

300年にわたり代を継いできた中川家と、血縁関係はありません。

7年前、中川政七商店のものづくりに惹かれて転職してきました。

「14代社長は、千石あやさんです」

おおおっとどよめく会場前方、マイクを受け取った一人の女性にその場にいた全員の視線が注がれます。

正面に1枚のスライドが現れました。

「びっくりしたよね。」

その一文にどこかホッとしたような笑い声が起きて、会場は前に立つ女性の、次の言葉を待ちます。

中川政七商店奈良本社の食堂
会場となった奈良本社の食堂

「私も半年くらい前にこの話を言われた時は、その100倍、1000倍はびっくりしたと思います。

私は普通の人間なので、まさか自分の人生で、社長になるようなことがあるとは思ってもみませんでしたし、まさか中川政七のあとを継ぐことになるなんて、思いもしませんでした。

それでも、どうしてここに立っているかというと、13代の判断を信じたこと、上長たちが全員、一緒に頑張りましょうと言ってくれたこと。

そのために自分ができることをやろうという覚悟が、やっとこの数ヶ月で決まったからです。

現時点でみなさんとの違いは、少し先に覚悟をしたこと。唯一ここだけだと思います」

トップダウンからチームワークへ

その「覚悟」を持って、14代はこの交代の意味をこう語りました。

「中川政七からの完全なる卒業です。

13代は、家業に戻ってきてから雑貨部門をブランディングして事業規模を13倍、成長率は15%をキープした素晴らしい社長です。

もしこのまま誰かについて行くなら、この会社で中川政七以外にふさわしい人はいない。私でもないと思います。

それでも、誰かについていく体制では会社の発展に限界がある。だから、一人で背負うよりも全員が成長し続けることに舵を切った。今回の13代の決断を、私はそう受け止めています。

つまり、この社長交代は、トップダウンからチームワークへの変化です」

最強のプロ集団になる

「チームワークって、一緒に助け合っていこうという弱いものの集まりではないです。

強いプロが集まった集合体です。チームで最強にならなければ、変わった意味がないと思っています」

チームとは達成すべき目標のために協力する集合体。

チームワークとは集合体がその目標を達成するために役割を分担し、協働すること。

14代はそう定義した後、こう社員に語りかけました。

「では、私たちは中川政七商店という大きなチームで、何を達成すべきでしょうか。

それは『いいものを作り、世の中に届ける』ことだと考えます」

中川政七商店の考える「いいもの」

いいものとは何か?14代は3つのキーワードを挙げます。

ものとして丁寧であること。

使い手にとって気が利いていること。

作り手が誇りを持てること。

「特に3つめはうちらしい考え方です。

対等な立場で全国の作り手とともにものづくりを行い、自信と期待を込めた適正な価格で世の中に送り出し、適正な利益を得る。

これにより作り手が経済的に自立し、ものづくりに誇りを持つ。そんな状態を目指します。

そして届け方も大事です。

ただものを売りたくて『接客』をするのではなく、相手の心に接し、お客様との間に好感を生む。そんな『接心好感 (せっしんこうかん) 』が、私たちの届け方です。

いいものを作り、それを世の中に届ける。

中川政七商店はこれを続けることで存続し、日本の工芸を元気にします」

——社長として最初に掲げた指針は、「いいものを作り、世の中に届ける」こと。そのために最強のチームになること。

これは何より、14代当人にとっての大きな挑戦でもあります。

300年受け継がれてきたのれんの重み。創業時から続く「家業」からの脱却。

「工芸再生請負人」と呼ばれてきた経営者、中川政七からの後継。

一会社員から従業員数400人弱を束ねる企業トップに。

たった一人で受け取るにはあまりにも重く思えるバトンパスを、14代はどんな「覚悟」で受け止め、社長交代の壇上に立ったのか。

後日当人を訪ねると、社長交代挨拶のキリッとした印象とは、また違う姿がそこにありました。

大爆笑で返した新社長辞令

「何が自分のいいところなのかは、正直わからないんです。この間の13代の記事にあった任命理由も、自分ではコントロールできないところを評価されたんだなって(笑)

自分では強みがわからないから、人から任されたことはきっと合っているのだろうって、これまでは引き受けてきました。

でも、社長就任は、さすがにそれだけでは引き受けかねましたね (笑) 」

14代 千石あや
14代 千石あや

2011年、中川政七商店のものづくりに惹かれて転職。小売課、生産管理部門、経営コンサル案件のアシスタントを経て、13代初の秘書に就任。

身近で仕事をする機会が増えていく中で、13代は千石さんの「コミュニケーション力とバランス感覚」を買っていました。

ここ数年ではテキスタイルブランド「遊 中川」のブランドマネージャーを経験。

遊 中川 本店の様子
遊 中川 本店の様子

そして2017年7月。

東京事務所の会議室で「次の社長をやってほしい」と13代から告げられた時、千石さんは会社のものづくりの全体指針を決める「ブランドマネジメント室」の室長を務めていました。

「最初は大爆笑でした。ないないない、なんの冗談ですかって」

実は13代は少し前から、千石さんをはじめ上長陣にだけ、近いうちの社長交代を予告していたそうです。

「社長の考えることだから、交代自体はもしかしたら必要なのかもしれない。けれどそれは私じゃないし、今変えなくてもいいのではないか」

ブランドマネジメント室を中心にものづくりから販売まで戦略を作り、13代には定例で相談・報告を入れる体制が、整いつつある頃でした。

最初の通達から数週間後、考え直して欲しい、今の体制でいいのではと、こんこんと説得にかかる千石さんに対し、13代はこう返します。

「いい企業文化を育むには、トップダウンじゃなく、一人一人が戦闘能力を上げる必要がある。

それには俺が自分から離れんとダメやねん」

「このまま私が断り続けたらどうするんですか」

「こればっかりは、納得するまで話し合うしかない」

本気なんだ。この時千石さんはようやく、13代が真剣であるとわかったそうです。

「ちょっと、考えさせてください」

そう返してから正式に13代に返事をするまで、実に4か月が経っていました。

2017年12月、千石さんは震えながら、「やってみようと思います」と13代に答えます。

決断までの数ヶ月、一体どんなことを思っていたのでしょうか。

尋ねてみると、人にも言えず悩み続けて、口には口内炎がいくつもできるし、白髪も一気に増えて、と、笑いながら当時を振り返ってくれました。

「でも、もし私がこれで後任を断ったら、そのことを抱えたまま会社に残ることはきっとできない。

継ぐか、辞めるか。

私にはその二択しかないんだとわかった時に、それなら、ずっと一緒に仕事をしてきた13代の決断を信じて、できるかどうかわからないけれど頑張ってみよう、と思ったんです」

夢がありますね

千石さんは社長就任の返事をしたその足で、上長会議に向かいました。製造・販売・管理など全部署の上長を集めて13代が社長交代を告げた会議室は、シンと静まり返っていたそうです。

13代に促されて千石さんが口を開きます。

「まだ、やっと覚悟が決まったという状態ですが、それでもやっていこうということだけは決めました。できれば一緒に、頑張ってほしいと思っています」

今まで一緒にやってきた上長たちに受け入れてもらえるのか。その瞬間は本当に怖かった、声が震えた、と千石さんは回想します。

千石さん

しばし沈黙のあと。

「夢がありますね」

一人が言葉を返すと、

「夢があるって、『俺にもチャンスがあるかも』ってこと?」

すばやいツッコミに笑いが起きて、場が一気に和やかになりました。

「僕らもほんまに腹くくってやらんと、あかんと思いました」

「そんなこともあるよねって思いました。うちの会社らしい」

最後の一人が

「一緒に頑張っていこうと思います」

と返した言葉にその場の全員がうん、と頷き、会議は解散。

トップダウンからチームワークへ。新社長千石あやが舵をとる、新しい体制が承認された瞬間でした。

雰囲気のいい雑貨屋さん、で終わらせない

いい企業文化を育み、この先10年も会社が発展するために、13代が手渡したバトンパス。

受け取った14代は就任スピーチで、「いいものを作って届ける」ことを掲げました。後日インタビューで、こう振り返ります。

「いいものを作って届ける。当たり前のようですが、いちメーカーとしてこの日々の積み重ねなしに、いい企業文化も何もないと思っています」

中川政七商店のアイテム

「どこに出しても恥ずかしくないものづくりが常にできる、強いチームになる。

自分たちが強くないと、経営コンサルのように他を助けることもできません。13代が今後10年全力を注ぐと宣言した産業観光や産業革命も、自社が優れたものづくりをするメーカーであってこそ、先頭に立って取り組めるものだと思います。

ですが、現状の私たちにはまだ、甘いところがある。中川政七商店といえばこれだよねと言える商品がどれだけあるのか。『雰囲気のいい雑貨屋さん』で終わってはいけないんです」

ロングセラー商品、花ふきんを手に。「こういう長く愛される、うちらしい商品をもっと増やしたいです」
ロングセラー商品、花ふきんを手に。「こういう長く愛される、うちらしい商品をもっと増やしたいです」

知らんぷりして理想を語る

「だから最近は、知らんぷりして理想を語ることも、社長の大事な仕事だなと思うようになりました。

手を出したら大変で、できれば避けたいと思っているような選択に対して、何の事情も考慮せずに『それが実現できたら素晴らしい価値だよね』と言える人って、やっぱり社長なんじゃないかなと」

就任してからの半年間をそう振り返る14代ですが、これからトップダウンからチームワークへ変わっていく会社の「トップ」として、自身の社長業をどう捉えているのでしょうか。

インタビュー中に偶然やってきた13代との雑談シーン
インタビュー中に偶然やってきた13代との雑談シーン

一人からみんなに

「就任直後はやっぱり、私が決めなきゃ、みんなをリードしなきゃと変に力んでいたんですが、それでは13代の劣化版にしかならない、と気づきました。

うちの会社はデザイナーや生産管理といったものを『作る』部門、販売や広報などの『届ける』部門、その人達を『支える』物流や管理部門でできています。

一人一人がプロとしてさらに力をつけて、私はみんなの話をよく聞く。その調和をはかってできる限り正しい選択をしていくのが、私に任された重要な仕事だと思っています。

幸い、うちには先代が築いた『日本の工芸を元気にする!』というはっきりしたビジョンがあるので、正しい選択はしやすいかなと思っています」

会議の様子

「今回の社長交代は、中川政七から私にではなく、中川政七からみんなになったことが、一番大きいんです」

変わるからにはよく変わる

家業からの脱却。トップダウンからチームワークへ。その節目に立ち、これからの中川政七商店の羅針を示した14代の就任スピーチは、こう結ばれました。

「早くいきたいなら一人で、遠くへ行きたいならみんなで行けというアフリカのことわざがあります。

今年、中川政七商店はより早く、より遠くへみんなで行くことを選びました。

変わるからにはよく変わりましょう。

私も、覚悟を決めたからにはできる限り力を尽くそうと思います。

今日のことをきっかけに、自分が仕事に対して持っている覚悟はなんだろう、と考えてみるのもいいと思います。

いい会社にしていきましょう。厳しくても、一人ではありません」

翌日、社員たちはまた自身の持ち場へ戻って行きました。奈良や東京の事務所、全国のお店へ、物流倉庫へ。これから始まっていく、新しい10年の第1日目を踏み出しに。

文:尾島可奈子

世界にたった2人の職人がつくる伝統コスメ。伊勢半本店の「紅」

7月は紅花の季節。一大産地の山形では、6月下旬から8月初旬にかけて紅花摘みが行われます。

この紅花から生まれたのが日本伝統のコスメ、「紅」。

高畑勲監督の作品「おもひでぽろぽろ」にもエピソードが登場するので、ご存知の方も多いかもしれません。

ですが、実際に完成した紅が、こんな姿をしているのをご存知でしょうか?

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まばゆいような緑色!

一体、赤やオレンジのイメージがある紅花からどうしてこんな色が生まれ、そして唇を紅く染めるのでしょう?

今日は不思議な「紅」の魅力に迫ります。

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伊勢半本店 紅ミュージアムへ

訪れたのは東京・南青山にある「伊勢半本店 紅ミュージアム」。

運営するのは日本で唯一、江戸期より「紅」づくりを続ける株式会社 伊勢半本店さんです。

館内には実際の紅作りに使われる道具や昔のお化粧道具(これが美しい!)などが展示されているほか、実際に紅を試せるコーナーやショップも併設されてます。

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伊勢半本店さんの創業は1825年、日本橋にて。時は町人文化の全盛期です。

町行く女性たちのお化粧は、3色で成り立っていました。白・黒・赤。それぞれに白粉(おしろい)、眉墨・お歯黒、紅。

この紅を扱う「紅屋」は、それまで文化経済の中心地だった大阪・京都に多く軒を連ねていましたが、この頃次第に江戸にもお店が出るようになります。

そのひとつが、川越から出てきた半右衛門さんが20余年の奉公の末に伊勢屋の株を購入して開いた「伊勢半」でした。

なぜ、紅花といえば山形、なのか?

全国の産地から、紅花を丸く平らに固めた紅餅(べにもち)が紅屋に運ばれてきます。

中でも質が良いと評判だったのが最上紅花(もがみべにばな)。「おもひでぽろぽろ」の舞台にもなった山形の紅花です。

伊勢半本店さんでつくる紅は、この最上紅花のみを使用しているそうです。

案内いただいた阿部さんによると、紅花は朝夕の寒暖差のあるところでよく育つ植物。

山形の気候がその条件に適していたこと、加えて最上川の流通が古くから発達し、遠く大阪や京都にも物資を運べたこと、さらに他の産地に比べて花弁から取れる赤の色素が多く、生産が安定していたことが、山形の高品質な最上紅花ブランドを生んだそうです。

この赤い色素を紅花から取り出すというのが、大仕事。

日本に3世紀ごろまでに伝わったという紅花は、その色素の99%が黄色です。黄色は水に溶けやすいので、洗い流してたった1%の赤を取り出すところから、紅づくりは始まるのです。

実際の作業工程を少し覗いてみましょう。

産地の仕事、紅花摘みから紅餅づくりまで

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夏至から数えて11日目の半夏生の日 (毎年7月2日頃) 、花が咲き始めます。花の下1/3が赤く色づいた頃が摘みどき。つまり、花によって摘みどきがまちまちです。

摘むのは朝露でトゲが柔らかくなる早朝。花を支えているガクが収穫に混じらないよう、今でも全て手摘みです。

摘んだ花弁を揉み洗いして黄色の色素を流し、日陰で朝・昼・晩と水を打ちながら発酵させていくと、花弁の赤味が強くなります。

程よく発酵したところで臼でつき、丸めながら煎餅状にのばして天日干しすれば、紅餅の完成。

映画でも主人公がこの紅餅づくりの工程を体験していました。情景が思い出されます。

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この紅餅、ミュージアムでもガラス容器に入って展示されていました。蓋を開けると香ばしくツンとした、独特な香りがします。

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産地から紅餅が運ばれて、いよいよここからが紅屋さんの仕事。紅餅から赤い色素のみを取り出す工程に入ります。

紅屋の仕事、紅餅から紅を取り出すまで

お話を伺って感心したのが、その赤い色素の取り出し方。まるで身近なものを使った科学の実験のようなのです。

水に溶けやすい黄色に対して、赤の色素はなかなか表に出てくれません。そこで使われるのが、灰汁(あく)と烏梅(うばい)。

灰汁は灰を水に浸した上澄みの水で、アルカリ性の性質を持ちます。この溶液を紅花に染み込ませ、赤の色素を引っ張り出します。

こうして出来た「紅液」に、今度はゾクと呼ばれる麻を編んだ束を浸します。不思議なことに麻は、赤の色素を吸着する性質を持つそうです。

液の中に溶け出している赤色だけが麻に移しとられ、紅絞り機でしぼると、より濃い紅液が作り出されるという仕組みです。

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濃縮された紅液に、次は烏梅(うばい)を漬けた液を加えます。烏梅は梅の実の燻製。漬けた液は酸性です。

今度は紅液の中の赤色を再び化学反応で取り出して、色素を結晶化させます。この後ていねいに余分な水分を取り除いてゆき、ようやく紅が完成します。

漉されてとろりと泥状にになった紅。
漉されてとろりと泥状にになった紅。

江戸の暮らしと紅

紅屋は紅を、お猪口やお皿の内側に刷毛で塗って売りました。

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写真は有田焼などの紅器。17世紀には海外への輸出がメインだった有田焼は、この頃国内での需要に力を入れるようになり、紅器として用いられることも多かったようです。

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紅の価格はピンキリで、お猪口入りで現代の金額になおすと約6・7万のものから、安いものでは300円程度のものまであったそうです。

中でも質の良い紅は美人の代表、小野小町にあやかって「小町紅」の名で親しまれました。

また、当時の美人画には紅を点(さ)す女性の姿もよく描かれています。筆がわりに指をちょっと湿らせて紅を点す姿はなんとも色っぽいものです。

紅を点すのにちょうど良い薬指は、紅点し指とも呼ばれていました。使い切ればまた紅屋に器を持ってゆき、内に紅を塗ってもらいます。

看板代わりに赤く染めた布を軒先に掲げる紅屋は、江戸の風物として歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれました。

玉虫色の美しさを求めて

メイクに流行があるのは今も昔も同じ。当時は高級な紅を唇にこれでもかと塗り重ねて、玉虫色に発色させる「笹紅(ささべに)」が流行しました。

玉虫色?

そう、内側から光り輝く金色を兼ね備えたような、美しい緑色です。

紅は不思議なことに、純度が高いほど玉虫色に光り輝いて見えます。ですから、お猪口の内側に塗られた紅は、乾くと次第に、こんな風に!

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この玉虫色の紅を、ほんの少し水分を含んだ筆に取るとみるみる艶やかな紅色に変化するのが、まさに紅点しのハイライトです。

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紅が玉虫色に見える理由は未だによくわかっていないそうなのですが、塗り重ねて玉虫色になるのは、純度の高い紅の証。

しかも1度にお猪口1/3以上を使わなければ笹紅になりません。

笹紅は、太夫と呼ばれるような身分の高い遊女や歌舞伎役者が「どう?これだけ贅沢なお化粧をしているのよ」と自らのステータスを誇示するために生まれたお化粧でした。

今の感覚でいうと「緑の口紅‥‥?」と戸惑いますが、笹紅に手の届かない一般の女性は、唇に墨を塗った上から紅を重ねて、玉虫色を真似たそうです。いじらしく、なんだか好感が持てます。

紅を点す日

館内を案内いただく内に、すっかり紅に魅了されてしまいました。私も使ってみたい。

けれど、今ポケットに入っている色つきのリップクリームや鞄の中の口紅も、手軽で便利です。どんな風に付き合ったら良いのでしょう。案内いただいた阿部さんに伺います。

「紅の魅力のひとつは、使う人によって色が変わるところです。地肌の色に馴染んで、自分の似合う色に発色してくれるんです。

ですので、これからお化粧を始めるという若い人や、自分にどんな口紅が合うかわからないという人にも、おすすめです」

これは、実際にミュージアムで試してみるとわかります。私は赤よりもややピンク味がかった色になりました。

人によってはオレンジになったり、真っ赤になるというから不思議です。

併設の紅点し体験コーナー
併設の紅点し体験コーナー

「紅は、紅花の色素だけでできています。究極のナチュラルコスメですよね。

添加物の無いお化粧品を探されている方も、これならつけられる、とお求めに来られたりします」

乾燥が気になる場合は、紅を塗った上からリップクリームを重ねると良いそうです。

さらにもうひとつ、紅にはお化粧以外の役割が。

「赤は昔から、魔除けの色として人生の行事の節目節目に使われてきました。

おめでたいことにはお赤飯を炊きますし、花嫁さんの角隠しは、内側に赤が使われていますね。還暦のお祝いには赤いちゃんちゃんこです。

それで結婚や出産、還暦のお祝いにと、女性への贈りものとして紅を選ばれる方も多いようです」

もうじき結婚する友人の顔が思い浮かびました。お祝いに贈ったら、喜ばれるかもしれません。

「他にも、化粧品の種類が限られていた昔は、口紅に限らず何にでも紅を活かしました。

うすめてチークにしたり、目の縁に塗ってアイメイクにしたり、爪先を紅で染めたり模様を描いたり。

誰でも同じ色にはならないところに、クリエイティビティが生まれるんですね」

今、紅づくりに携わる職人さんは、わずかに2人。その製法は社内であっても公開されない秘伝だそうです。

「明治以降、西洋の口紅が入ってきてから日本古来の紅のニーズは激減し、戦前には京都にも数軒あった紅屋が、今は全国でも弊社1社のみになっています。

紅花を作る農家さんも年々減り、紅づくりは厳しい環境下に置かれていますが、最後の紅屋として紅の魅力を残し伝えていかなければという想いでできたのが、このミュージアムです」

取材を通してその奥深さを知った日本の紅。知るほどに面白く、自分でも使ってみたくなりました。

ちょうど先日、熊野筆の取材で、リップブラシを手に入れたところ。ぴったりの使い時です。

手毬という小ぶりな器のものをひとつ、買い求めました。いいなと思ったものが長く続くように、まずは使い手になってみようと思います。

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<取材協力>

伊勢半本店 紅ミュージアム
http://www.isehanhonten.co.jp/museum/


文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、外山亮一、伊勢半本店 紅ミュージアム

*2017年2月の記事を再編集して掲載しました。紅花の季節、今度はぜひ山形へ紅花摘みに行ってみたいです。

「人を呼ぶ」雪山生まれのそうめん。奈良・坂利製麺所が冬にしか麺をつくらない理由

夏の定番食、そうめん。

お中元にも喜ばれるアイテムですが、実は暑い季節のイメージとは裏腹に、寒さ厳しい冬こそが製造のハイシーズンであるのをご存知でしょうか。

今日はそうめん発祥の地といわれる奈良で、山奥に「人を呼ぶ」そうめんのお話です。

奈良県東吉野村へ

「ここから先に、民家はありません」

そこは2月の吉野。

春はお花見でにぎわう奈良の一大観光地も、真冬は一面が銀世界です。

吉野山

車中で履き替えるのは長靴でなくスノーブーツ。どれほどの雪深さかが推し量られます。

降り立ったのは奈良県を流れる吉野川の最上流に位置するところ。水の分配を司る水分 (みくまり) 神社が建っていた
降り立ったのは奈良県を流れる吉野川の最上流に位置するところ。水の分配を司る水分 (みくまり) 神社が建っていた

車を降りて案内された道を進むと、一筋の滝が静かに流れていました。

雪道
滝

弘法大師の伝説が残る傍らの「衣掛 (きぬがけ) 杉」 には、樹齢千年の看板。

滝の傍にそびえ立つ伝説の杉
滝の傍にそびえ立つ伝説の杉
看板

どうどうという水の音以外は何も聞こえてきません。

滝

人の住む世界との境目のような神聖な空気。そんな滝のそばに、今日のお話の舞台であるお宅があります。

民家

坂口家。

玄関には立派なのれんが
玄関には立派なのれんが

古くからこの地で林業に携わり、8代目。しかし今は林業とは別に、もうひとつの事業でもその名を知られます。

手延べそうめん・うどんの製造会社、坂利 (さかり) 製麺所。1984年創業。

坂利製麺所

国内に先駆けて素材に国産小麦を導入。地元吉野の葛をつかったそうめん、業界初のフリーズドライ製法を生かしたマグカップそうめんなど、アイディア商品も人気です。

フリーズドライのにゅうめん
フリーズドライのにゅうめん

山深い東吉野村で何百年と続く材木屋さんがこの地で作り出すそうめんが、今日のお話の主役。実はこの坂利製麺所が始めたのは、「人を呼ぶ」そうめんなのです。

そうめんで過疎を食い止める

「ここ東吉野村は多くの家が林業をなりわいとしています。しかし林業は夏の仕事です。雪が降れば山に入れず、仕事ができません。

安定した収入にならないため、高度経済成長期に都会に出て行く人が急増し、過疎が一気に進みました」

なんとか冬の仕事を作りたい。

現代表である坂口利勝さんの母で当時専業主婦だった良子さんは、従業員たちが次々と自分の子どもを都会へ出す姿をみて、思案しました。

飛び込んだのが、そうめんの発祥と呼ばれる「三輪そうめん」の製麺所。

そうめん

当時、規制緩和により製造した麺を「三輪そうめん」と名乗れるエリアが拡大され、周囲の人たちが次々とそうめん作りを習いに行っていました。

そうめんなら保管がきくので冬につくって夏に売ることが出来る。そこに可能性を感じたそうです。

「おしん」が後押ししたそうめん起業

「最初は楽しかったんですけどね、だんだん、これは難しいかなぁと思い始めたころでした。NHKの取材がはいったんです。

研修に来ている動機を尋ねられて、この村の実情を話して『地域の産業にしたい』と語りました。

そうしたら、放映された直後から『私も手伝いたい』って人からどんどん連絡がきて。

ちょうど『おしん』が大ヒットしている年で、ドラマが始まる直前の時間帯にそのニュースが流れたから、地域の人がみんな見ていたみたいなんです (笑) 」

無理ですよ、失敗しますよと当人の弱気をよそに、冬の収入源に困っていた地域の人は大喜び。周りに後押しされる格好で坂利製麺所はスタートしました。

冬季限定の理由

起業の動機が「冬の仕事をつくること」だったので、坂利さんの工場に年間稼働率という言葉は存在しません。そうめんをつくるのは、10月から4月の7ヶ月間だけ。

そうめんの製造現場

それ以外の期間は商品を包装する仕事がありますが、夏に山仕事を持っている人は、冬場の麺づくりだけ働きにやってきます。

練り上げた麺の原型。この時点ではまだ太さがある
練り上げた麺の原型。この時点ではまだ太さがある
機械でよりをかけて麺を細くしていく
機械でよりをかけて麺を細くしていく
よりをかけながら熟成の工程に向けて麺をセットしていく
よりをかけながら熟成の工程に向けて麺をセットしていく
よりをかけて細くした麺を熟成させる「風呂」に入れているところ
よりをかけて細くした麺を熟成させる「風呂」に入れているところ
乾燥の工程で麺同士がくっつかず均一な太さになるよう整えているところ
乾燥の工程で麺同士がくっつかず均一な太さになるよう整えているところ
そうめん製造の現場

人によって勤務形態もさまざま。良子さん自身が3人のお子さんを育てながらはじめた事業だったので、子育て世代の短時間勤務も歓迎しているそうです。

「一般的な食品メーカーだったら年間稼働率などをまず考えるでしょうから、うちは珍しいケースだと思います。

でも昔から、暑い時期よりも冬につくるそうめんのほうがおいしいと言われているんですよ。価格もはっきり違うくらいです」

実は、夏麺冬麺 (なつめんふゆめん) といって、冬場につくることは地域にとって良いだけでなく、おいしさの理にかなっているのだそうです。

夏麺冬麺

「麺は気温が高いほど早く熟成します。夏は人の作業スピードに熟成をあわせるため、粘りを遅くする塩を多く投入するんです。

すると、ゆがいたときに塩分が流出して、麺の密度がスカスカになる。冬につくった麺は塩分が少なくすむので、その分ゆがいた後も密度を落とさず、コシの強い麺を味わえるんです」

そうめん

そうめんの主成分は小麦粉と水、塩。東吉野には、それらをじっくり熟成させる寒さ厳しい冬と、山からの清らかな水がすでに揃っていました。

滝の水

「原材料表示にこそ載りませんが、この冬山の澄んだ空気と水が製品を支えていると思います」

良子さんから事業を受け継いだ利勝さんはそう語ります。

坂口利勝さん
坂口利勝さん

過疎を食い止めるためのそうめんづくり。まだ、続きがあります。

最近は人を留まらせるだけでなく、新たに「呼ぶ」礎にもなっているようです。

林業とそうめんの町のこれから

「実はこの地域で木工をやりたいという若い子がいて、うちで空いていたそうめん工場を工房に使ってもらっているんです。住まいはうちの寮を提供しています」

元そうめん工場にずらりと並ぶのは木の椅子。ここは家具を製作する「維鶴 (いずる) 木工」の工房です。

維鶴木工
維鶴工房

維鶴木工のお二人は、2017年の年末に工房をこの東吉野に移したばかり。

維鶴木工のお二人
維鶴木工のお二人

「昔から林業が盛んで資源も豊富なこの土地をものづくりの拠点にしようと思った時に、坂口さんに『うちを使ったら』と声をかけてもらいました。元は色々な素材を使っていたのですが、この土地に来て吉野ひのきの面白さを知って、今では吉野ひのきだけを使って椅子を作っているんです」

製作途中の椅子がずらり
製作途中の椅子がずらり

林業の産地の未来を想って始まったそうめんづくり。そのバトンは少しずつ、次世代に受け継がれようとしています。

吉野山

<関連商品>
そうめんくらべ (中川政七商店)
*西日本の5つのそうめん産地の味を食べ比べるセット。奈良代表で坂利さんのそうめんが入っています。

そうめんくらべ

<取材協力> *登場順
坂利製麺所
https://sakariseimensyo.bsj.jp/

維鶴木工
http://izr.jp/

文・写真:尾島可奈子

サッカー日本代表 大迫、乾の共通点はスパイクにあり。ASICSが表現した究極の「素足感覚」とは

世界が注目する赤と白のスパイク

『DS LIGHT X-FLY 3』

ワールドカップ・ロシア大会で、決勝トーナメント進出を果たした日本代表。そのなかでも、獅子奮迅のプレーで話題を呼んでいるのが大迫勇也選手、乾貴士選手だ。

大迫選手は初戦のコロンビア戦で勝ち越しとなる決勝ゴールを決め、次のセネガル戦ではセネガル代表の監督が試合後の記者会見で「15番(大迫選手の背番号)」を称賛した。

乾選手は初戦こそ見せ場は少なかったものの、セネガル戦では2度のリードを奪われる苦しい展開のなかで、1得点1アシストを記録して日本に貴重な勝ち点1をもたらした。

いよいよ迎える7月3日の決勝トーナメント1回戦、ベルギー戦では、日本史上初のワールドカップベスト8進出に向けて、両選手のさらなる活躍が期待される。

日本代表の中心として、いまや世界が注目するふたり。そのプレーを足元から支えているのが、日本の総合スポーツ用品メーカー、アシックスだ。大迫選手は赤、乾選手は白のアシックス製スパイクを履いて、ワールドカップに挑んでいる。

大迫選手モデルのスパイク (サイン入り)
大迫選手モデルのスパイク (サイン入り)
乾選手モデルのスパイク (サイン入り)
乾選手モデルのスパイク (サイン入り)

今回はふたりのスパイクの企画開発に携わったアシックスジャパン プロダクトマーチャンダイジング部の岩田洋さんに、知られざる「スパイクづくり」の舞台裏を尋ねた。

スパイクの企画開発に携わった岩田さん
スパイクの企画開発に携わった岩田さん

究極の「素足感覚」

―まず、岩田さんのお仕事の内容を教えてもらえますか?

「私の主な役割は、新商品のコンセプトづくりですね。開発と現場をつなぐのが仕事で、最も情報を得られる立場にいます。私たちが作ったコンセプトを形にするのが、神戸本社にいるスパイクの開発チームです」

―なるほど!大迫選手、乾選手が履いているスパイクのコンセプトを教えてください。

「大迫選手が履いているのは『DS LIGHT X-FLY 3 SL』、乾選手が履いているのは『DS LIGHT X-FLY 3』というシューズです。

『DS LIGHT』シリーズの初代は1999年に発売されたので、ちょうど今年で20年目。コンセプトも20年前から変わっておらず『軽くて、足にしっかりフィットするスパイク』です」

「20年間、軽量性とフィット性を追求してきたシリーズで、特に乾選手、大迫選手のフィードバックを重ねながらつくった『DS LIGHT』シリーズの最高位モデル『X-FLY 3』は軽量性とフィット性の究極の形である素足感覚が特徴です」

―「素足感覚」と言葉で表すのは簡単ですが、それをモノづくりで表現するのはとてもハードルが高いように感じます。

「素材、パターンを細かく変え、ミリ単位の修正を加えて少しずつアップデートしてきました。例えば今ふたりが履いているスパイクは、その前のモデルと比べて軽くなっています。

単純に軽くするのではなく、トッププレイヤーが試合で履ける安定性、耐久性を担保しながら軽くしていくのが難しいところです。スパイクの柔軟性も同様で、あくまでも足の自然な屈曲に合わせて曲がるようなソールの構造を目指しています」

しなやかに曲がるつま先部分
しなやかに曲がるつま先部分

完成までおよそ2年、試作は約50足。

―どれぐらい試作を重ねるのでしょうか?

「『素足感覚』を実現するために、ソール(靴底)の厚さ、スタッド(スパイクの突起)の位置などがミリ単位で違うものを何種類も用意し、選手にひとつずつ足を入れてもらってすり合わせます」

アシックスのスパイクDS LIGHT X-FLY 3
スタッドのわずかな位置調整も、素足感覚の達成には欠かせない

「『X-FLY 3』の場合、サンプリングは3段階に分けて行われます。そのたびに、ひとつひとつのパーツについて選手の意見を聞き、良いものをつなぎあわせて理想の形に近づけていきます。

コンセプト段階から最終形にいたるまでにおよそ2年、約50足ほど試作しますね。数えきれない人が開発に携わっています」

―50足!その集大成として今の赤、白のスパイクがあるんですね。やはり、大迫選手と乾選手のリクエストは違うのでしょうか?

海外でのプレーが生んだ、大迫選手の赤い人工皮革スパイク

「そうですね。大迫選手は、アッパー(甲被)が人工皮革のタイプを履いています」

大迫選手モデルのスパイク

「もともとはよく伸びて足に馴染む天然皮革のものを履いていたんですが、大迫選手が2015年からプレーしているドイツは、雨が多くてピッチのコンディションが良くないことが多いうえに、芝も深い。なおかつ大柄で、フィジカルに優れた選手を背負いながらプレーすることも多い」

岩田さん

「この環境に対応するために、しっかり踏ん張れるようにより強いホールド性、グリップ性を求められました。そこで、当社から高いフィット性とホールド性を兼ね備えているマイクロファイバー製の人工皮革を提案させてもらったんです。

大迫選手は当初、人工皮革は足に合わないというネガティブなイメージを持っていたんですけど、何度も試作を重ねる中で柔らかさとホールド性のバランスがいいということで気に入ってもらうことができました」

小学校からアシックスを愛用。乾選手は白い天然皮革スパイク

―乾選手はどうでしょうか?

「乾選手はどちらかというとスパイクに柔軟性を求める感覚が強いので、アッパーが天然皮革のタイプを履いています」

乾選手モデルのスパイク

「ちなみに、乾選手は小学生の頃からずっとアシックスを履いているのですが、高校生の時に『DS LIGHT』シリーズの白いスパイクを履き始めてからは、シンプルで本物感を追求したようなスパイクを履きたいということで、ずっと白のカラーを好んで使っています」

開発者視点で観るワールドカップ

―ワールドカップでは、ふたりの活躍とともに紅白のカラーのスパイクが目立っています。社内も盛り上がっているのでは?

「はい。ワールドカップ以前よりセールスチームからのサッカースパイクに対する問い合わせが格段に増えましたし、マインドとしても、サッカーで攻めていこうよという雰囲気が高まっているなと感じます」

岩田さん

「サッカースパイクの企画開発に携わっている者としてこのワールドカップが追い風になればいいなという想いもあって、日本代表の試合は自分のことのように力みながら観ていますね。どうしてもふたりのプレーを中心に食い入るように観戦してしまうので、試合が終わった後にはぐったりしています(笑)」

根底にあるのは、徹底した現場主義

―最後に、日本のメーカーとして「ものづくり」へのこだわりを教えてください。

「究極的にはプレイヤーのパフォーマンスを最大化するのが一番いい靴だと思っていますが、それはプロだけに限りません。

当社は日本を拠点にしているので、外資のメーカーよりも実際にグラウンドに行って、小中学生、高校生、大学生のプレイヤーの声を聞きやすい環境にあります。その強みを活かすためにも、現場の声にもとづいたものづくりを大切にしていきたいと思っています」

スパイクの開発を担当した岩田さん

「例えば、外資メーカーが日本の高校生の意見を商品に反映する可能性は低いと思いますが、僕らは高校生向け、小中学生向けのモデルを作る時にはそれぞれのターゲットプレイヤーに必ず意見を聞くようにしています。

ジュニアモデルであれば少年団に行って、意見を聞きながら子どもたちの足に合うスパイクの企画開発を進めるんです。そうしたモノづくりこそアシックスが培ってきた強みであり、生命線だと思っています」

『DS LIGHT X-FLY 3』

大迫選手、乾選手の活躍の裏には、徹底的に選手の声と現場を重視したアシックスの「ものづくり」があった。普段はあまり注目しない選手の足元だが、視点を変えれば数えきれないほどの人の想いと挑戦の物語がそこにある。

<掲載商品>
DS LIGHT X-FLY 3 SL
DS LIGHT X-FLY 3

<取材協力>
アシックスジャパン株式会社
https://www.asics.com/jp/ja-jp/
*お問合せ先:「アシックスジャパン株式会社 お客様相談室」0120-068-806

文:川内イオ

暑さにも寒さにも強い植物、「アデニウム アラビカム」がピンクの花を咲かせる時期です

塊根植物ブームを作ったと言われる、アデニウム アラビカム。
この時期、7月に入るとピンク色の花が咲き出します。

別の名で「砂漠のバラ」と呼ばれるアデニウムですが、なぜそう呼ばれるようになったのでしょう。
その訳を聞きに、世界を舞台に活躍するプラントハンター、「そら植物園」の西畠清順さんを訪ねました。

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7月 砂漠のバラ「アデニウム」

西畠清順さん アデニウム

— 以下、西畠清順さん

「ぽってりとした形が可愛らしいでしょう。アデニウムは塊根(かいこん)植物と言って、根や幹が養分を蓄えて大きなかたまりのように太る植物の一種です。中でもこれはアラビア半島の乾燥した荒れ地が原生地の、アラビカムという品種。

もともと日本に入ってきていたのは寒さに弱い品種で、印象もこれといって強く残っていなかったんです。ところがイエメンに初めて行った時、乾いた砂の、何の色もない荒野でピカッと冴えるように咲いている花を見つけました。それがこのアデニウム・アラビカムです。

一帯は今では戦地となって入ることの難しい荒地です。殺伐とした無味乾燥の大地に素朴なピンク色の花が咲いている。感動しました。なんて美しい花なんだろうって。

ぷっくりとした姿も面白いし、この『砂漠のバラ』を世間に訴えてみたいと動き出したのがちょうど6年前くらいだったかな。暑さはもちろん寒さにも強くて育てやすかったのも受けて、一気に人気になりました。日本での塊根植物ブームのきっかけになった植物です。

現地では樹齢数百年くらいの大きな株もあって、高さ4メートル、直径にすると2.5メートルくらいまで成長します。この鉢はいわばミニチュア版。盆栽のように、小さくても形になるところが気に入っています。小さい方が年齢にして4歳くらい。僕の叔父が種から育てたものです。大きい方は5・6歳。より温暖な台湾で育てているので育ちが早いんです。

もともと暑くて乾燥した砂漠生まれの植物なので、育て始めるにはこれからの季節がぴったりです。留守しがちな人でも日当たりさえあれば大丈夫ですよ。ぜひあのイエメンで見た、目の覚めるような『砂漠のバラ』のピンク色を楽しんでもらいたいです」


日本の歳時記には植物が欠かせません。新年の門松、春のお花見、梅雨のアジサイ、秋の紅葉狩り。見るだけでなく、もっとそばで、自分で気に入った植物を上手に育てられたら。そんな思いから、世界を舞台に活躍する目利きのプラントハンター、西畠清順さんを訪ねる「プラントハンター西畠清順に教わる、日本の園芸 十二ヶ月」。

植物と暮らすための具体的なアドバイスから、古今東西の植物のはなし、プラントハンターとしての日々の舞台裏まで、清順さんならではの植物トークを月替わりでお届けしています。

7月の植物は、アデニウム。

もうすぐ中川政七商店でも販売を始めます。ぜひ、「砂漠のバラ」のピンク色をご覧ください。

<掲載商品>

花園樹斎
・常滑植木鉢、常滑鉢皿
・7月の季節鉢 ミニアデニウム(鉢とのセット。店舗販売限定)

季節鉢は以下のお店で取り扱い予定です。
 中川政七商店全店
 (東京ミッドタウン店・ジェイアール名古屋タカシマヤ店・阪神梅田本店は除く)
 *商品の在庫は各店舗へお問い合わせください

——


西畠 清順
プラントハンター/そら植物園 代表
花園樹斎 植物監修
http://from-sora.com/

日本全国、世界数十カ国を旅し、収集している植物は数千種類。2012 年、ひとの心に植物を植える活動「そら植物園」をスタートさせ、国内外含め、多数の企業、団体、行政機関、プロの植物業者等からの依頼に答え、さまざまなプロジェクトを各地で展開、反響を呼んでいる。
著書に「教えてくれたのは、植物でした 人生を花やかにするヒント」(徳間書店)、 「そらみみ植物園」(東京書籍)、「はつみみ植物園」(東京書籍)など。


花園樹斎
http://kaenjusai.jp/

「“お持ち帰り”したい、日本の園芸」がコンセプトの植物ブランド。目利きのプラントハンター西畠清順が見出す極上の植物と創業三百年の老舗 中川政七商店のプロデュースする工芸が出会い、日本の園芸文化の楽しさの再構築を目指す。日本の四季や日本を感じさせる植物。植物を丁寧に育てるための道具、美しく飾るための道具。持ち帰りや贈り物に適したパッケージ。忘れられていた日本の園芸文化を新しいかたちで発信する。

*こちらは、2017年7月の記事を再編集して掲載しました。清順さんが感動したという「砂漠のバラ」が、ピンクの花を咲かせる時期です。
*プロフィールを最新のものに修正いたしました。ご指摘ありがとうございます。

沖縄のおいしいが大集合。まーさんマルシェには沖縄の食の未来がある

こんにちは。沖縄在住で、テレビのフリーディレクターをしている土江真樹子です。

番組制作だけでなく、工芸やファッションブランドのディレクションも手がけていますが、沖縄は今、食が熱い。

おいしさだけでなく、食の安心や土地のことを想う作り手、お店が続々と現れています。そんな「おいしい」のうねりは、沖縄の作家さんが作るうつわにも影響を与えているように思えます。

今回は、そんな沖縄の食の「今」がわかる「まーさんマルシェ」をご紹介します。

沖縄にしかない食イベント、まーさんマルシェとは?

那覇市の中心、久茂地にあるデパートリウボウ (パレット久茂地) の1階広場で不定期に開かれる無農薬、遺伝子組み替えなし、無添加の食材と食のマルシェ。沖縄ならではの食材や野菜もたくさん並ぶユニークなイベントが、「まーさんマルシェ」です。

開催地であるデパートリウボウがあるのは、人通りも多い那覇市の中心地
開催地であるデパートリウボウがあるのは、人通りも多い那覇市の中心地
沖縄、まーさんマルシェ
沖縄のまーさんマルシェ
沖縄のまーさんマルシェ
沖縄、まーさんマルシェ
沖縄のまーさんマルシェ

「まーさん」とは沖縄の言葉で「おいしい」。

その名の通り、イベントにはおいしくて体に良いものが満載です。今回は生産者さんと店舗、30軒が参加していました。

沖縄のまーさんマルシェ

うりずんの恵みをいただきに

今回の開催はうりずん(初夏の爽やかな季節)の季節。まさにうりずんの恵みをいただくちょうどいい機会です。

まずは大好きな「島バナナ」。小ぶりでちょっと甘酸っぱい島バナナは熟れて皮が薄くなると甘さが増すんです。ハルサー(農家)さんオススメ、濃厚な南国の味!

沖縄のまーさんマルシェ、島バナナ
沖縄のまーさんマルシェ、島バナナ
手に持つとこんなに小ぶり

そのそばで、次々と買い物客が買っていくジャムを見つけました!沖縄本島の北端、国頭村の森岡いちご農園のジャムです。

沖縄のまーさんマルシェ、国頭村の森岡いちご農園のジャム

「露地栽培で無農薬です。生で食べる季節は過ぎたからジャムで楽しんでもらおうと思って」

試食させてもらうとジューシーでまろやかな甘さで、飛ぶように売れていくのも納得です。

さて、うりずんの季節といえど気温はうなぎのぼり。

こんな日にはきび糖と黒糖のやさしい甘さ、しかもカロリー控えめが魅力の「うるまジェラート」に直行です。

沖縄のまーさんマルシェ、うるまジェラート
味は10種類以上。どれもおいしそうで悩んでしまいます

選んだのは沖縄産の紅茶ジェラート。沖縄紅茶に濃いめの県産牛乳、両者を引き立てるのはミネラル豊富なうるま市の天然塩なんだそう。しっかりした紅茶の香りと味、食物本来のおいしさが口の中に広がります。

沖縄のまーさんマルシェ、うるまジェラート

喉が渇いたら、ぜひコーヒーを。

実は最近沖縄ではコーヒーがすごいんです。コーヒー栽培には向かないと言われていた沖縄で、厳しい亜熱帯の気候に寄り添い、闘いながらのコーヒー栽培が行われています。

中には国際審査で日本初のスペシャルティコーヒーに認定された生産者さんもいるほど。残念ながらまだどこも生産量が少ないのですが、将来100%沖縄産のコーヒーが店頭に並ぶ日も近いはずです。

沖縄のまーさんマルシェ、KIZAHA COFFEE
KIZAHA COFFEE

土地の食材を、新しい料理に、手土産に

ちょっと珍しいサンドイッチを発見。その名も「タピオカサンドイッチ」。

沖縄のまーさんマルシェ、タピオカサンドイッチ

タピオカのサンドイッチって?と不思議そうにしていると、「リマタピオカサンド店」のリマ・セイジさんが「タピオカはキャッサバ芋のデンプン。水を少し加えた粉を焼いて生地を作るからグルテンフリーでさっぱりしてるでしょ」と教えてくれました。

沖縄のまーさんマルシェ、タピオカフムスサンドイッチ

カリカリとした生地の中にレタスなど野菜がいっぱい。そこにひよこ豆のペーストがもっちりとした弾力で、初めての食感と味は驚きがいっぱいです。

まだまだあります。次は、ぜひ持ち帰りたい手土産を。

沖縄のまーさんマルシェ、「特産離島便」

ずらりと並ぶ小さなガラスの容器は、「特産離島便」。沖縄の特産食材を使った手作りのおいしい加工品が瓶詰めされています。

石垣島などの離島には独自の食材を使ったものが色々あるのですが、輸送コストがかかる上に生産者が個人の場合が多く、販路拡大という課題を抱えています。そんなおいしい良いものをひとつのブランドとして売り出したのが「特産離島便」です。

沖縄のまーさんマルシェ、「特産離島便」
アーサつくだ煮、かちゅー汁の素など、同じパッケージで違う味が楽しめます

お土産として手渡すと「これ何?どうやって使うの?」と話も盛り上がり、リピーターになる人続出という、わたしの愛用お土産のひとつなんです。「次もシークヮーサーこしょうお願いね」「今度は生七味で」と、プレゼントした人から嬉しいリクエストも。

まーさんマルシェの立役者、浮島ガーデン

そしてまーさんマルシェを語るのに欠かせないお店があります。沖縄でヴィーガンといえば、の「浮島ガーデン」。

沖縄県産の有機無農薬野菜にこだわった食事で「ヴィーガン、オーガニックはおいしくない」というイメージを見事に覆した人気店です。オーナーの中曽根勇一郎さんオススメは「高キビバーガー」。

一見シンプルなバーガーに見えますが‥‥
一見シンプルなバーガーに見えますが‥‥

畑のひき肉と呼ばれる高キビは食感も味もお肉そのもの。ヴィーガンならずとも納得のおいしさに人気なのだとか。

実は、島である沖縄は食物自給率が低く、昔から栽培されていた穀物も今では忘れ去られようとしています。高キビもそのひとつ。

そこで浮島ガーデンでは8年前から穀物栽培に乗り出し、絶滅寸前の穀物復活と普及に力を入れています。

全て自分たちでやっているため相当な労力と時間がかかりますが、それでも安心安全、心も体も喜ぶ食を目指す姿勢が、料理の一品一品によく現れています。

沖縄のまーさんマルシェ
浮島ガーデンのテント

「ハルサーさんたちは不便な地域で生産している場合が多い。そんなハルサーさんたちのおいしく高品質な農作物を知ってもらうことで、食のあり方も変わっていくはず」と中曽根さんは話していました。

浮島ガーデンオーナーの中曽根勇一郎さん
オーナーの中曽根勇一郎さん

実は、そんな思いから浮島ガーデンが毎月店内で始めた「ハルサーマーケット」が、まーさんマルシェの始まり。

そこにフードディレクターの小川弘純さんが加わり、デパートリウボウのコンセプトの1つである「からだに良いもの」を体現しようとマルシェをプロデュース。

浮島ガーデンの中曽根勇一郎さん、直子さん夫婦がハルサーさんたちのオーガナイザーを引き受けて始まったのが「まーさんマルシェ」です。

まーさんマルシェプロデューサーの小川弘純さん
まーさんマルシェプロデューサーの小川弘純さん

「沖縄にはおいしいものや体にいいものがたくさんあるんです。けれど小規模であるためにその良さがなかなか発信できない。その点と点を繋いで線にしてブランド化して紹介していく。それがまーさんマルシェの役割でもあるんですね」と、小川さん。

特産離島便を説明してくれる小川さん

小川さんや中曽根さんの熱い思いが「まーさんマルシェ」を作り上げてきました。

食から沖縄を見る、まーさんマルシェ

ここは、出店するハルサーさんたちに野菜のことを尋ねたり、食べ物を紹介してもらったりする「生産者との会話」の場。

沖縄のまーさんマルシェ
沖縄のまーさんマルシェ
沖縄のまーさんマルシェ

多くのハルサーさんやお店がやんばるなど都市部から遠いこともあり、沖縄在住のわたしでもなかなか足を運ぶことができないため、このように一堂に揃うマルシェは心踊る場。見たことがない野菜や果物、食事にワクワク幸せを感じる時間です。

沖縄ってこんなに食が豊かなんだと感じられるマルシェ。

次回は7月14日 (土) に開催が決まったそうです。真夏の開催とあって、涼しくなるような食べ物やメニューが満載とのこと。チャンスのある方はぜひ足を運んでみてください。

食材や食から沖縄をみる、感じる体験ができるはずです。

<取材協力>
まーさんマルシェ
沖縄県那覇市久茂地1−1−1 パレット久茂地1階広場
https://masan-marche.com
*次回開催:7月14日 (土)11:00〜18:00

土江真樹子 (つちえ・まきこ)
沖縄に住んで気づくと30年近く。元・琉球朝日放送報道部記者。放送ウーマン賞2002年。2006年からフリーランスディレクター。
「告発」、「メディアの敗北」 (QAB) 、「カンブリア宮殿〜一澤信三郎帆布〜」 (テレビ東京) など多数。
京都の唐紙の老舗「唐長」と沖縄のアロハブランド「PAIKAJI」のコラボシャツなどのディレクションも手がける。

文:土江真樹子
写真:武安弘毅