土産の起源は神宮にあり。西郷どんも買った!? 鹿児島神宮のおもちゃ

赤、黄、緑の鮮やかな配色に、凛々しい2頭の馬が描かれた太鼓。

鹿児島神宮に伝承される信仰玩具の一つ「初鼓(はつづん)」です。

鹿児島神宮の初鼓
初鼓

棒をくるくる回すと、糸の先に付いた大豆が「ポンパチ、ポンパチ」とかわいらしい音を響かせることから、「ポンパチ」ともよばれています。

信仰玩具とは全国各地に伝わる伝説や信仰と結びついたもので、それぞれの地域の郷土玩具としても親しまれています。

「初鼓」のある鹿児島神宮は多くの信仰玩具が伝承されていることでも知られています。

海幸彦の釣り針を呑んだ魚、「鯛車」

鹿児島空港のある霧島市にある鹿児島神宮。社伝によると、創建は708年のこと。当時、鹿児島は大隅国と薩摩国の2つに分かれていましたが、鹿児島神宮は東側の「大隅国」の一宮でした。平安時代に編集された「神名帳」に「大隅国 鹿児島神社」と記されている、格式の高い神社です。

祀られている御祭神は、浦島太郎物語のモデルにもなった「海幸彦と山幸彦伝説」の天津日高彦火火出見尊(山幸彦)と、奥さんの豊玉比売命(豊玉姫)で、ふたりの伝説にちなんだ信仰玩具も多くあります。

鹿児島神宮の鯛車
鯛車

これは、海幸彦の釣り針を呑んだ赤女魚(鯛)に因んだ「鯛車」。

鹿児島神宮の鯛車

クリッとした目と水玉模様の尻尾が愛らしいです。

浦島太郎の玉手箱に通じる「香箱」

鹿児島神宮化粧箱
化粧箱

こちらは、豊玉姫の御輿入れの時の調度化粧箱にちなんだ「化粧箱」。香箱ともいわれています。

「化粧箱には、ほかにもいろいろ云われがあるんですよ」
と話すのは権禰宜(ごんねぎ)の伊賀昇三さんです。

鹿児島神宮の伊賀昇三さん
伊賀昇三さん

「山幸彦が海の御殿から帰るときに、海の神から“満ち潮の玉”と“引き潮の玉”をもらいますが、その玉が入っていた箱にちなんだものという話もあります」

なるほど、浦島太郎の玉手箱にも通じるものですね。

そのほか竹刀、はじき猿、馬土鈴、弓矢、シタタキタロジョ、笛太鼓、羽子板、鳩笛、土鈴と全部で12種類の信仰玩具が納められています。

龍馬さんや西郷さんも買ったかもしれない!?

現在、鹿児島県の伝統工芸品にも指定されている「鯛車」「化粧箱」「初鼓」。
これらの信仰玩具はいつ頃から作られているのでしょうか。

「はっきりとはわかりませんが、ずいぶん昔から続くのもののようですね。時代、時代で多少変わっていると思いますよ。初鼓の絵柄もほとんど変わっています。塗料もその時代にある塗料を使ってるしょうからね、」

鹿児島神宮の鯛車
明治7年、神宮号を宣下され鹿児島神宮と改称。一番小さな鯛車には「正八幡」の文字があるのでそれ以前のものと思われる

「この辺りは、坂本龍馬が新婚旅行で訪れたという妙見温泉や西郷隆盛が通ったという日当山温泉など湯治場が多く、昔から賑わっていました。当宮にお参りにきて、温泉に入って帰るという方も多かったのではないでしょうか。そのお土産として、お札などと一緒に信仰玩具があるわけです。子どもや孫へのお土産ですね。昔は玩具屋とかいうのがありませんでしたからね」

もしかしたら龍馬さんや西郷さんもここを訪れ、鯛車や初鼓を買っていたかもしれないと思うと、なんだかワクワクします。

「“みやげ”は“土産”と書きますね。その土地、土地のものを買うから“土産”ですが、“宮笥(みやけ)”とも書くんですよ」

“みやげ”の語源はお札の入った“宮笥”

「宮笥」は、江戸時代に人気となった「お伊勢詣り」に由来するそうです。当時、大金のかかるお伊勢詣りは誰もが行けるものではなく、村の代表者(厄年の人が多い)が、村人たちからお金を集めてでかけていました。

「厄払いのためですね。その時に、ちゃんとお参りに行ってきましたよという印として、お宮からお札の入った“宮笥”をもらってきたんです。それが“みやげ”の語源になっているともいわれています」

なるほど。お土産はとても縁起のいいものだったんですね。

人馬一体になって踊る初午祭

鹿児島神宮に伝わる信仰玩具の中でも人気なのが、冒頭にご紹介した「初鼓」。

鹿児島神宮の郷土玩具、ポンパチ
ポンパチと音が可愛い

毎年旧正月の1月18日を過ぎた最初の日曜日に行われる「初午祭」で、馬を装飾する豆太鼓を模したものです。

鈴懸馬
華やかな装飾をまとった神馬

御神祭である天津日高彦火火出見尊が農耕畜産漁猟の殖産を指導奨励したことから、五穀豊穣、家内安全、厄除・招福を祈るお祭りで、毎年10万人が訪れる、鹿児島の三大行事の一つでもあります。

見どころは「鈴懸馬踊り」。華やかに飾られた御神馬を先頭に踊り子たちが続き、太鼓や三味線に合わせて人馬一体となって踊りながら参詣します。一説には、1543(天文12)年、島津貴久公が神馬の夢を見たことがはじまりともいわれています。

「神様の前に馬をお連れするから華やかにしていこうというので、足元に鈴をつけたり、花飾りや初鼓をさしたり、徐々に増えていって、今の形になったんじゃないかなと思います」

鹿児島神宮鈴懸馬
背には太鼓や花を挿し、首には鈴がかけられている

お祭りの縁起物として売られる「初鼓」は、年間、2000個以上も出るそうで、信仰玩具としてはもちろん、地域に根付いた郷土玩具であることがよくわかります。

初鼓をはじめ、鹿児島神宮に納められている信仰玩具の多くを作っているのは、神宮側にある「工房みやじ」さん。代々信仰玩具を納めている工房で、全て手作り、ひとつひとつ色をつけ、絵を描いています。

赤、緑、黄の色には健康を、豆の音で悪いものを追い払うという願いが込められているそうです。

鹿児島神宮の伊賀昇三さん
農家の方が農作業の合間につくるという、大きいサイズのポンパチ

描かれた踊り子さんたちの笑顔から、楽しんで描いている様子が伝わってきて、みなさんがお祭りを大切にしていることが感じられます。

神様と一緒に遊ぶ

「信仰玩具にはいろいろな意味がこめられていると思います。おもちゃとは言え、神様のご利益のあるものですから。例えば、そこら辺に投げ散らかしたらだめですよというようなこともありますね。」

それは確かにすごく説得力がありますね。お守りやお札と同じで、決して粗末には扱えません。

「それだけでなく、神様は子どもが大好きなので、子どもと一緒に遊んでくださっているんだと思いますよ。童子八幡とか、座敷童とか、小さな子どもの格好をして出てきたりしますよね。」

「その子どもが家におれば家が繁栄するけれども、居なくなると家が廃れるとか。だから、信仰玩具もきっと、神様が一緒に遊ぶ、いろいろな神事にも使われる、そういうものだと思います」

鹿児島神宮の境内
境内に置かれた鯛車

神様に見守られながら一緒に遊ぶ。

そこには、作り手の想いや、それを大切に持ち帰る人の想いも重なるようで、なんだかとっても温かい気持ちになりました。

古くから地域の人々に愛されてきた信仰玩具。

これからも子どもたちを楽しませ見守りつづけることでしょう。

<取材協力>
鹿児島神宮
鹿児島県霧島市隼人町内2496番地1
0995-42-0020
http://kagoshima-jingu.jp/

 

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

100年後を想い、ともに歳を重ねていきたい漆器

こんにちは。ライターの坂田未希子です。

木々が色づき、秋も深まってきた栃木県の茂木町(もてぎまち)に出かけてきました。

焼きものの町・益子の隣にある茂木。ここに、木漆工芸家の松﨑融(まつざき とおる)さん、修(おさむ)さん親子の工房があります。

木地づくりの作業場
松﨑さん親子の作業場。もとは納屋と馬小屋だったものを作業場にして木地づくりを行っている
松崎修ぐい呑ダミー
ぐい呑(作:修)
漆分角皿
漆分角皿(作:修)
朱漆花形皿
朱漆花形皿(作:修)

この器は「なにを入れよう?」と楽しくなってくる器

漆器というと、扱い方が気になって、お正月やお祝いなどの特別な日以外はしまいがちです。

でも、それではもったいない!そう思わせるのが松﨑親子の漆器です。

煮物やおにぎりを盛ったり、どら焼き、みかん、草花を活けたり。

なにに使おうかと考えるのが楽しくなる器です。

ぽってりとした厚み、温もりのある朱色、素朴な風合い・・・どこか陶器を思わせる、親しみやすい雰囲気があるからでしょうか。

木をくりぬいて作る継ぎ目のない額縁

融さんは1944年(昭和19年)東京の出身。祖父が漢文学者、父親が日本画家だったこともあり、幼少期から芸術に触れる機会が多かったそうです。子どもの頃からものづくりは好きだったものの、木漆をはじめたのは30歳の時。父親の知人である人間国宝の陶芸家・島岡達三のアドバイスを受けながら、作品を手がけはじめます。

木をくりぬき、継ぎ目のない額縁を作ったところ、染色工芸家の芹沢銈介(せりざわ けいすけ)の目にとまりました。それが転機となって、本格的に木漆の道へ進みます。

ぐい呑(作:融)
ぐい呑(融作)

1998年(昭和63年)、仕事場が手狭になったことから、茂木町に転居。益子で暮らしていた師匠の島岡達三さんの勧めもあったといいます。

息子の修さんは、子どもの頃から父の仕事を手伝っていたそう。神奈川の大学に在学中も、木材の荷下ろしや粗彫りをするため、度々、帰省していました。

就職活動中、それまで意識していなかった父の仕事を意識するようになり、同じ道を進むことを決めたそうです。

「仕事のサイクルは、自分が生きてきたサイクルと同じなので、日常の延長でした。父に弟子入りする人は、一日中、粗彫りをさせられて『こんなはずじゃなかった』って辞めていく人も多いのですが、僕はそういうものだと思っていましたから」

粗彫り
粗彫り。重労働のため、腕や胸に筋肉がつき、修さんは3年で体型が変わってしまったそう

100年後の美しさを想像して作る

「なにものにも囚われず、自分の作りたいものを作ってきた」という融さんの出発点は、大正期に提唱された民芸運動だったそうです。

「濱田庄司さんや河井寛次郎さんが新しい世界を見せてくれました。きらびやかな芸術品ではなく、日常生活で使われてきたものこそ美しい。島岡さんからも技術的なことではなく、ものの考え方を学びました。だから、100年前の使い込まれてきた漆器に惹かれます。使うほどに美しさが増す。僕らは100年後の美しさを想像して作っているので、毎日使ってほしいですね」

漆作業場
漆は古来のものようにたっぷりと塗り重ねる

ふだん使いの漆器。

それは、民芸運動の根付いた益子の陶器にも通じるものです。

「ここは益子の隣町ですし、陶器からの影響は意識していませんが、あるんでしょうね。焼き物屋の中で育っているようなものですから」

漆の作業場
漆が並ぶ作業場

陶芸に触れると同時に、漆器ながら「焼き物に負けたくない」という思いも強くあると言います。

自分の思いが形になるおもしろさ

漆器づくりは分業にすることが多いですが、ふたりは木取りから漆塗りまで全て一人でおこなっています。

粗彫り
粗彫りの後は、半年以上、材料を寝かせる。その間に木の形が変化するという
倉庫にはケヤキ、トチ、クリノキなどの一枚板が並ぶ
倉庫にはケヤキ、トチ、クリノキなどの一枚板であふれている
作業場
右が修さん、左が融さんの作業場。互いに集中するため、なるべく顔を合わせないよう作業場を変えている

「粗彫りは自分の思いとか悪さが出てしまう」という融さん。

「自分の気持ちがもろに出ます。仕上げたいように彫っているはずなのに、お金が欲しい時は”お金が欲しそうなものができちゃう”とか、”認められたい”とか」

だからこそ、粗彫りはおもしろい。分業ではなく、全ての工程を自分で行うのは、そのおもしろさがあるからなのでしょう。

漆器のある暮らし

お昼になり、母・道子(みちこ)さんの手料理をご馳走になりました。

出てきたのは融さんのお重に入ったおにぎりや煮物。

漆の食卓
漆のお重に入れるだけで華やかな食卓に

松﨑家では、ふだんからふたりの作品を使っているそうですが、最上級のおもてなしを感じ、とてもうれしくなりました。

「僕らのものは、相手が考える要素がたくさんあるほど面白い。使い方をいろいろ考えてくれるようなものを作れるといいね」

毎日の生活の中で漆器を使うことが、次の作品を生むヒントになっているのかもしれません。

松﨑親子
作家とよばれるのが苦手だという融さんと寡黙な修さん

使い込むほどに、色が擦れ、傷ができ、なお美しくなる漆器。

人もまた歳をとるごとに、しわが増え、髪が白くなり、腰が曲がっていきますが、
そこには積み重ねた人生の美しさがあるように思います。

松崎修、漆長皿
上/漆分長皿(作:修)、下/漆長皿(作:修)

ふたりが想像する100年後の美しさとはどんなものなのか。

毎日の暮らしの中で使いながら、ともに歳を重ねていきたい漆器です。

<取材協力>
松﨑融、松﨑修


文:坂田未希子
写真:坂田未希子、西木戸弓佳、松﨑修