有田で目にうつる全ての坂は登り窯、かもしれない

日本磁器発祥の地、有田。

その町並みは、江戸時代に作られた焼き物の「工業団地」の姿がほぼそのまま残されているそうです。

有田古地図看板
町歩き中に出会った古地図の看板。現在もこの地図を手に町を歩けてしまうそう

今日は有田町役場の深江亮平さんのご案内で、そんな焼き物の里を町歩き。

前編では泉山磁石場を訪ね、有田焼に欠かせない陶石がどのように採掘されていたのか知ることができました。

後編のキーワードは、深江さんがご案内中に何度も口にした「有田で坂を見たら登り窯」。

一体、なんのことでしょうか?

まずは、有田の町を焼き尽くした「文政の大火」 (1828年) をまぬがれた池田家で、貴重な資料を見せていただきます。

有田火災を免れた家
水を多く含むため、そばに建つ池田家を守った大イチョウ

共同で使っていた登り窯

有田池田家

窯元の名前が書かれ、判が押されています。一番左には「池田」のお名前も見てとれます。

「これは有田ではとても珍しいものです。今は各窯元に窯がありますが、昔は共同で登り窯を使っていたことがわかる資料なんです。

来月この日に窯入れするから、あなたは下から1番目、あなたは2番目の位置ね、と割り当てられているんですね。

この時の窯入れの取りまとめ役だった池田家に、割り当て表が残されていたんです」

昔は窯を焚くのは大変なことで、色々と決め事もあったそうです。

「天気が悪かったら温度が上がらないとか、自然の状態に左右されるので、全てきれいに焼き上げるのは大変だったと思います」

有田池田家
赤絵師の池田久男さん

庭を掘り返したら、捨てられた失敗作がたくさん出てくるそう。

青が美しい杯

今は天然のコバルトがないので、こんなにきれいな青は出ないそうです。

有田池田家色の調合書

こちらは絵具の調合を記したもの。文化8年と書かれています。

「昔は各窯元で絵具の原料を微妙に合わせて独自の色をつくっていました。今も調合はするけど、これは本当に元から絵具を作っているのがわかります」

有田の年に一度のハレの日、奉納相撲

さて、また面白いものを見せていただきました。これはなんでしょう?

有田池田家お弁当箱

なんと、お相撲を見に行く時に使われていた、お弁当箱です!

「有田の人にとって磁石場は神聖な所なので、昔から石場神社で奉納相撲が行われています。昔は娯楽もなく、一年中休みなく焼き物を作っていたので、相撲が唯一の楽しみだったんです」

立派なお弁当箱からも楽しみにしていた様子がよくわかります。

おにぎりやのり巻き、卵焼きを入れたり、下にはお酒も入っていたのかもしれません。

「他の窯元には負けたくない。ライバルなので、観戦にも力が入りますね」

当時は機械もなく、土をこねたりろくろひいたり、窯元の仕事は力仕事。力自慢がたくさんいたようです。

かつてほどの賑わいはないものの、現在も毎年、奉納相撲が行われ、町の大切なお祭りになっています。深江さんもその場内放送係で参加されているそうですよ。

トンバイ塀のある裏通り

池田家を後に、再び町へ。

「昔は表通りに器の卸をする商家、裏通りに窯元や職人たちの住まい、裏通りに沿って流れる川沿いに窯元があったのが特徴です」

有田川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる

かつては採石された陶石を粉にするために「唐臼」が使われていました。唐臼は水力で動かすため、窯元が川沿いに多く立ち並んでいたようです。

窯元が多くあったという内山地区の裏通りには有田ならではの風景、「トンバイ塀」を見ることができます。

トンバイ塀とは、登窯の内壁に使われた耐火レンガの廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で固めた塀のこと。江戸時代から作られており、有田らしい風景として訪れる人の目を楽しませています。

トンバイ塀については、「旅先では『壁』を見るのがおもしろい。焼き物の町・有田のトンバイ塀」で詳しく紹介しておりますのでこちらも見てみてくださいね。

坂道を見たら登り窯の跡

最後に、町の西にある「天神森窯跡」を訪れました。

有田天神森窯跡

「ここは、有田で最初に成立した窯場の一つであったと考えられています」

鳥居をくぐってさらに奥へ進むと、ぽっかりと広がる空間があります。

有田天神森窯跡

この坂が、登り窯の土台の跡だそう。有田で焼き物づくりが始まった初期の姿が、こうして残されているのですね。

「有田で坂を見たら登り窯の跡、ということが多いんですよ。

登り窯は耐用年数があって、使えなくなったらその隣に作るんです。同じ斜面を利用して。

こっちを使っているときに、あっちを作って、あっちを使い始めたらこっちを壊す、またあっちを使いながら作る、みたいな。近くに何個かあるのが登り窯の特徴ですね」

当時、朝鮮人陶工のグループがいくつかあり、初めはこの辺りで唐津焼(陶器)を焼いていたとのこと。

「窯では、陶器と一緒に最初期の磁器も焼いていたことがわかっています。

白い原料を求めて移動していくうちに、ついに泉山を見つけたという流れです」

山々に囲まれた有田の町。

有田の町並み

かつてここには磁器の原料となる石があり、唐臼を使うための川があり、登り窯を作るための傾斜地があり、窯の燃料となる赤松がある、焼き物の理想郷でした。

この土地で生まれるべくして生まれた有田焼。

そんな運命を感じさせる町歩きになりました。

<取材協力>
有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

まるで特撮の舞台。日本磁器が産声を上げた有田を歩く

白く美しい磁器、有田焼。

その歴史は、さかのぼること400年ほど前、李参平率いる陶工集団が有田の町で磁器に使える陶石を発見したことに始まります。

現在の有田の町並みは、焼き物が盛んになった江戸初期に作られたものと考えられ、今もほとんど変わっていないそう。

有田の焼き物がどのように誕生し、町が作られていったのか。

有田町役場の深江亮平さんにご案内いただきながら、史跡を巡りました。

有田の歴史を語るのに欠かせない、泉山磁石場へ

有田泉山磁石場の入り口

まずはJR上有田駅すぐそばにある採石場、泉山磁石場へ向かいました。

採掘というと、山奥から石を掘り出してくるイメージがありますが、町中に採石場があるというのが不思議な感じがします。

はじめに立ち寄ったのが、磁石場のそばに建つ「石場神社」。

向かう途中、足元を見ると…

なんとなく、白っぽい。

有田石場神社境内

「この白っぽい石が、李参平率いる陶工集団が、日本で最初に発見した陶石です。この辺りは、元は山の中だったんですよ」

え?山の中とは?

「陶石を採取するために、もともと山だったところを今の地面の高さまで掘り下げてきたんですね。

採掘をした後の穴には作業の無事などを願って神様を祀っていました。そうしてたくさんあった土穴の神様を、1860年代に合祀したのが、この石場神社です」

境内には焼き物でできた有田焼陶祖の李参平も祀られています。

神社の裏手にまわると、今も観音様が祀られているところがあります。

実はこの観音様…

石場神社裏の観音様

見上げる高さにあるのです。以前はあの位置に地面があったことが窺えます。

ヒーローが出てきそうな景色が広がる採石場

神社を離れて、いよいよ磁石場へ。

「ここが泉山磁石場です」

有田泉山磁石場
野球場がいくつも入りそうな広さの磁石場

おぉ!なんだか特撮ものの撮影ができそうな景色!

ここで石を採っていたんですね。

通常は立ち入りできませんが、今回は特別に、中までご案内いただきました。

「あそこを見ると、山を上から掘り下げていったのがよくわかると思います」

有田泉山磁石場

植物が生えているところがもともとは地表だったとすると、いかに深く掘り下げてきたかがよくわかります。

例えるならお饅頭のあんを食べて残された皮

「石にも等級があるんです。ひとつは白いか白くないか。鉄分の含有が少ないほど白いので、等級が高い。もうひとつが粘り気。粘り気がある方が等級が高いです」

つまり、白くて粘り気があるものが最上となるわけですね。

「当時の人たちも、いい石を狙って掘っているので、今残っているこの辺りは等級としては低いものですね。

江戸時代の地図を見ると、佐賀藩の御用窯で使う石を採る「御用土」もあったようです」

一番いい石が採れた場所は、お殿様のためのものだったのですね。

泉山磁石場
崩落し、石が落ちてくることも。採石には危険が伴うことがよくわかる

磁石場は山をえぐるように採石されたため、全体がすり鉢状になっています。

「地質学に詳しい方に聞いた話です。210万年前の地熱活動で、一帯の山を成形する流紋岩 (火山岩の一種) が熱水と反応して陶石に変化した。

山をお饅頭に例えるなら、中のあんこに当たる部分が質が良く掘りつくされて、周りの白い皮が残っている、というのが今の状態です」

お饅頭のあんこと皮!とてもわかりやすいです。

「この辺りの石は焼き物のボディの為の石ですが、この山の向こう側には釉薬に使う石が採れます。耐火度といって、火に耐えられる温度が違うんです。採る場所によって石を使い分けていました」

2種類の石が採れるなんて、贅沢な山です。

 

壁に刻まれたつるはしの跡

実際に採石をしていた穴の中に入ってみることに。

泉山磁石場
泉山磁石場

人の背丈以上の高さをよじ登って中へ。

薄暗く、中はひんやりしています。

泉山磁石場穴

「寒いと地中の水分が凍るので、膨張収縮が繰り返されて崩落します。10年くらい前も寒さでこの辺が全部ごろっと落ちてきました」

泉山磁石場
ご案内いただいた深江亮平さん

「これは、つるはしで掘った跡です」

泉山磁石場つるはしの跡

機械ではなく、手で掘っていたのがよくわかります。大変な作業です。

泉山はその陶石の多くを掘り尽くし、現在、有田焼の材料には熊本の天草のものを使っているそうですが、ここが日本で一番最初の陶石発見の場だと思うと、感慨深いものがあります。

焼き物をするためにあるような場所

有田焼の産業が始まった場所、泉山磁石場。

「当時は、原料がある所に家を建て、窯を築いて生活し、原料が無くなると移動していたようです。

泉山で陶石を発見した李参平らもここより西の方で器を焼いていて、原料が枯渇したため、探し歩いた結果、ここにたどり着いたと考えられています」

泉山磁石場
穴の中から見た景色

泉山で良質な陶石が安定して採れるようになってから、佐賀藩による本格的な焼き物作りがはじまります。

「ここで採れた石を使い、町の北と南にある山の斜面の地形を利用して登り窯を築いた。今にも続く有田の町並みは1637年頃にはできていたようです。400年近く前に佐賀藩が作った工業団地ですね」

なるほど。町なかに磁石場があるように感じましたが、山のひとつから石が見つかったため、そこを起点に窯場ができ、町が作られていったんですね。

「有田は焼き物にとって本当に奇跡的な場所で、原料の石のほか、窯焚く燃料の赤松が自生していました。原料と燃料が揃っていたんです」

焼き物をするためにあるような場所なんですね。

安政6年から変わらない街並み

磁石場を後に、再び町を歩いていると、古地図の看板がありました。

「安政6 (1859) 年の地図です。当時から街並みがほとんど変わっていないのがよくわかります。江戸時代に作られた工業団地が今もそのままです」

東西に細長く、北と南に山。この地形を上手く利用して山の斜面に登り窯が作られた有田の町並み。

地図には小さく、「番所」という印が示されています。

有田古地図看板
左上、山の下部分に並んでいるのが登り窯

役人さんが常駐して、原料や技術を持って陶工が逃げないように監視をしていたそうです。

町を焼き尽くした大火

しかし、1828年、有田の町は「文政の大火」に見舞われます。台風による大風で窯の火が燃え広がり、町は焼き尽くされてしまいました。

そのため、有田には江戸後期より以前の紙の資料がほとんど残っていないと言います。

「火事で焼けなかった家はほんの数軒でした。そのうちの一軒が燃えなかった理由がこれなんです」

有田大公孫樹

なんて大きなイチョウの木!

「イチョウの木は水を含む性質があるので、木が家に覆い被さって、火事から守ったと言われています」

有田火災を免れた家

大火をまぬがれたのは、江戸時代は窯元で、現在は赤絵師 (焼き上げた白磁の器に上絵付を施す仕事)をしている池田家。

今回は特別に、火事から守られたご自宅の貴重な資料を見せていただけることに。

次回、有田の歴史を語るお宝の数々を拝見します。

<取材協力>
有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

有田池田家お弁当箱
これは一体…?

鳥居も狛犬も、焼きものづくし。日本磁器発祥の地、有田を守る陶山神社

日本で初めて磁器が焼成された有田。

2016年には有田焼創業400年を迎えました。

そんな有田に全国でも珍しい、鳥居や狛犬まで焼きものづくしの神社があります。

有田焼陶祖の神「陶山神社(すえやまじんじゃ通称とうざんじんじゃ)」です。

磁器でできた鳥居や狛犬とはどんなものなのか。

一目見たいと出かけてきました。

踏切の向こうに広がる神域

JR有田駅から歩いて15分ほど。

階段を登ると…

陶山神社の参道入り口

わ!突然、踏切!

なんと、参道の前に線路が通っています!

「豪華列車の“ななつ星”が通ったりして、なかなかいいですよ」と、お話するのは陶山神社、宮司の宮田胤臣さん。

JR佐世保線の博多〜佐世保間を開業する際、有田には線路を通す場所がなくて、神社の一番端を通すことになったそうです。

山々に挟まれ、昔は住んでいる人も、人の行き来も少なかったという有田。1616年に陶石が発見され、焼きものの生産が始まると町が栄えていきました。

陶山神社の創建は1658年のこと。

「それまで、有田の方は伊万里の神原八幡宮さんにお参りに行かれていたようです

産業も盛んになり、景気も良くなってきたので、有田の町にも神様をお祀りしたいと応神天皇さまを主祭神に迎え、創建されました」

以降、有田焼の窯元、商人をはじめ、有田の人々を見守っています。

なにからなにまで焼きものづくし

石段を登っていくと、

石段
陶山神社の大鳥居

大きな鳥居が現れました!

表面は全て磁器でできています。すごい!

白地に青い唐草模様が映えて、とてもきれいです。

鳥居のアップ

そして、狛犬。

磁器の狛犬

ちょっと独特なお顔でかわいらしい。

ほかにも、

特大サイズの器や、
特大サイズの器や、
門柱 (左) や灯籠 (右) まで!
門柱 (左) や灯籠 (右) まで!

本殿裏手にまわると欄干まで磁器です!

木造の神殿に磁器の青が美しく浮かび上がります
木造の神殿に磁器の青が美しく浮かび上がります

境内のあちこちに焼きものがあり、発見するのも楽しくなります。

挑戦し続ける職人たちの心意気

なんとも有田らしく、訪れる人を喜ばせてくれる神社ですが、これらの焼きものはどなたが奉納されたのでしょうか。

「窯元さんや職人さんはじめ、各地区のみなさんからお納めいただいています。かつては職人さんたちの技術革新の場になっていたんじゃないかなと思います」

技術革新の場?

「はじめは小さな器から作り始めて、そのうち四角い物はどうやって作るのか、動物の形はどうすればいいのか、いろいろと試行錯誤を重ねていかないとできません。

そうやって自分たちが挑戦した成果として、神様にご奉納する。鳥居や狛犬さんを作ることで神様への感謝の気持ちを表すとともに、自分たちの産業の発展にもつなげていったのだと思います」

なるほど。そう言われて改めて見ると、狛犬の姿から職人さんの懸命な努力と心意気が感じられ、格別な味わいがあります。

この大きな鳥居は、どうやって作っているのでしょうか。

「いろんな窯元さんが一緒になって作っていただいているようです。柱の円筒形になっている部分と上の四角い部分は、作っている職人さんが違うんです。

有田焼は分業制なので、丸もの細工人さん、角もの細工人さんと分かれています。絵を描く人も、もちろん別の人ですね」

宮司の宮田胤臣さん
宮司の宮田胤臣さん

「当時は機械ではなく手で成形しているので大変だったと思います。奉納された当時の技術でこれができるというのは、すごいことだそうです。大変な努力をされたんだろうなと思いますね」

鳥居は一度、台風で倒れてしまい、焼き直しや継ぎ合わせて修復されています。

「少し青が濃く見えるのは焼き直した部分です。今はコバルトを使っているんですけど、昔は別のものを使っていたもので、薄い淡い色をしていたんですね。技術の進化を見ることもできますね」

先ほど通ってきた参道にも焼きものの燈篭がありました。

石段の脇の灯篭
石段の脇の灯篭

「あの灯篭は、お年を召された参拝者の方が階段を上るのは大変だろうから、下からも焼きものが見えるようにしてあげたいということで、全部同じ方が奉納してくださいました。ありがたいなあと思います」

有田の町を見守る陶祖

有田焼は1616年、朝鮮からやってきた陶工・李参平が有田泉山で陶石を発見し、焼成が始まったのがはじまりと言われています。

神殿から陶祖坂と名のついた坂道を上っていくと、

石段の向こうに‥‥
石段の向こうに‥‥

有田焼陶祖・李参平の碑があります。

李参平の碑

この碑は、有田の礎を築いた李参平の功績をたたえ、1917年、有田焼創業300年を記念して建てられました。

碑文には「公はわが有田の陶祖であることは無論のこと、我が国、陶業界の大恩人である。現在陶磁器関係に従事する人は、その恩恵にあずかっている、その偉業をたたえここに仰ぎ祀る」と記されています。

良土、大恩人という字が読める
良土、大恩人という字が読める

碑の建つ場所からは有田の町が一望でき、陶祖から見守られているようです。

碑の建つ場所からの眺め
碑の建つ場所からの眺め

「100年前、この碑を建てたときは、人力で石を上げていたようです。先ほどの鳥居の前まで電車で運んで、あそこで下ろして、そこから運んだらしいですよ」

境内に電車を通したことがそんな役に立つとは。お導きのようにも感じます。

有田の人々が特別な思いで参列する陶祖祭

碑が建てられた1917年より、5月4日には有田焼の繁栄を願って「陶祖祭」が行われています。

窯元や職人をはじめ、韓国の陶業界の方々も参列し、先人たちに感謝を述べているそうです。

神殿に陶祖祭で詠まれた参列者の歌が飾られていました。

歌札がずらり

「350年祭の時のものです。これを読むと、当時の様子がよくわかります」

大鈴の 山車も陶器よ 陶祖祭

紋服で参ずる 釜男 陶祖祭

技術を結集させて作った大鈴の山車を、いつもの作業着ではなく紋付袴姿で誇らしげに見つめる陶工たち。

陶祖祭が町の人たちにとって、特別な存在であることがよくわかります。

叩いても割れない?有田焼ならではの硬い太鼓

「こちらの太鼓も焼きものなんですよ」

太鼓

え?これも!?

「胴の部分が焼きものです。割れませんよ (笑) 有田焼は焼く温度が高いんです。高い温度で焼くと、硬くなる。硬くなればなるほど強いんです。だから薄いものも作れるし、割れにくいんです」

でもちょっと叩くのは怖いような。

「いつも使っています。木製の太鼓なんかに比べると少し高い音がしますね」

太鼓まで作れるとは恐るべし有田焼。御見逸れしました。

宮司自ら奉製するお守り

焼きものの神様は他所にないこともあり、陶山神社には全国から参拝客が訪れるそうです。

「職人さんや窯元さん、商人さん、焼きものに従事している方はたくさん来られていますね。新しい商品を作ったり、どこかに出品する時なんかにも持って来られて、祈願される方もおられます」

毎年来られないという方にはお札の発送も対応しているそうです。

そして、そのお札も焼きもの。

花瓶の形を模した窯内安全のお札
花瓶の形を模した窯内安全のお札

「これはうちの窯で焼いています」

え?窯があるんですか!?

「自分たちでできるものは全て作っています」

1987年頃より、先代の宮司さんが作りはじめたもの。宮田さんも学校で焼きものの技術を学んだそうです。

宮田さん自らデザインを考案されたという御朱印帳も素敵です。

有田焼のお皿を3枚並べたようなデザイン
有田焼のお皿を3枚並べたようなデザイン

「参拝にいらした方との話題を考えながら、楽しんで作っています。年末は絵馬を作るので大忙しで、てんやわんやしてます。窯元さんかと思うぐらい(笑)」

「皆さまから支えていただいて、お宮があります」と言う宮田さん。

お守りやお札には感謝の気持ちが込められています。

先人への感謝を忘れず、研鑽を積みながら発展していく有田焼。

その礎を感じられる陶山神社です。

<取材協力>
陶山神社
佐賀県西松浦郡有田町大樽2-5-1
0955-42-3310
http://arita-toso.net/

文:坂田未希子
写真:菅井俊之

旅先では「壁」を見るのがおもしろい。焼き物の町・有田のトンバイ塀

旅先で出会う風景や街並み。

いつもとちょっと目線を変えると見えてくるものがあります。

たとえば、壁。

土壁、塗壁、漆喰、石壁、板壁。

あらゆる壁には、その土地に合った素材、職人の技、刻まれた歴史を見ることができます。

何も言わず、どっしりと構えている「壁」ですが、その土地の歴史をしずかに物語っているのです。

いざ、さんちの「壁」に目を向けてみるとしましょう。

この壁、何で作られているでしょう?

焼き物の町、有田。

ここには、焼き物の町ならではの壁があります。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀です。

トンバイ塀とは、登窯の内壁に使われた耐火レンガの廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で固めた塀のことで、江戸時代から作られています。

有田のトンバイ塀

今は少なくなってしまいましたが、町の中心部である内山地区の裏通りに点在し、全て合わせると900メートルほどになるそうです。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀、眺めるほどに、窯のあと

トンバイ塀にはどんな歴史が刻まれているのでしょうか。

有田町役場商工観光課の深江亮平さんに、現存する中でも一番古い、1830年頃に建てられたトンバイ塀を案内していただきました。

「こちらが、17世紀のはじめに操業、1668年から皇室に納め続けている窯元、辻精磁社さんです。ここのトンバイ塀が最古のものと言われています」

有田のトンバイ塀

「登窯の耐用年数は10数年で、使い終わると窯を壊します。その時に廃材がたくさん出るので、それを使って築かれたものです」

よく見ると、レンガだけではなくいろいろなものが埋まっています。丸いものはなんでしょう。

有田のトンバイ塀

「これは窯道具のハマとかトチンです。焼き物を窯に入れる時に、焼成中の歪みを防いだり、窯の効率をよくするために使うものです」

有田のトンバイ塀
丸いものがハマ
有田のトンバイ塀_左中程、ドーナツ型のものがトチン
ドーナツ型のものがトチン

ツルツルしているのは釉薬がかかっているのでしょうか。

有田のトンバイ塀の松ヤニ

「登窯は松の木などの薪をくべて焼くので、松の油が飛んだり、灰がかかったりして、自然に釉薬がかかって、いろんな色になっているようです」

有田のトンバイ塀
いろいろな釉薬が混ざり合い複雑な色合いに

窯の中で高温に熱され、釉薬のかかったレンガや道具は廃材とはいえ、なんとも美しい色合いになっています。

「おそらくですが、元はこの上に漆喰が塗られていたと思われます。これは基礎部分。本当は白い壁だったものが、漆喰が剥がれ落ちて、中の基礎部分が露わになっている状態ですね」

漆喰が残っているトンバイ塀
漆喰が残っているトンバイ塀

なるほど、レンガが不規則に並んでいるのは基礎部分だから。偶然の産物とはいえ、風化したことで味わい深い壁になったんですね。

トンバイ塀に見る有田の歴史

有田焼は17世紀初頭、朝鮮陶工の李参平が泉山に陶石を発見し、窯を築いたのがはじまりといわれています。その後、有田の磁器は国内外で珍重されるほど人気となり、有田は焼き物の町として発展していきます。

「トンバイ塀のある裏通り」とよばれるこの辺りには、多くの窯元が立ち並んでいました。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀はいつ頃から作られたものなのでしょうか。

「実はよくわかっていません。有田は1828年の大火で町が全焼して、古文書が残っていないんです」

1828年、有田の町は「文政の大火」に見舞われました。台風による大風で窯の火が燃え広がり、町は全焼。その後、復興を遂げるまで、焼け出された町民の中には、登窯で生活した人もいたそうです。

「今ある家やトンバイ塀は1830年以降に建てられたものがほとんどです」

家の壁がトンバイでできているもところも
家の壁がトンバイでできているもところも

技術の漏洩を防ぐため

「表通りは器の卸をする商家で、裏通りに窯元や職人たちの住まいがありました。町並みを流れる川沿いに窯元があったのが特徴ですね」

有田焼は陶石を粉にし、水に溶かして粘土にしたもので作っていきますが、かつては陶石を粉にするために「唐臼」が使われていました。唐臼は水力で動かすため、窯元が川沿いに多く立ち並んでいたようです。

有田川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる
町並みに沿って流れる川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる

その窯元を囲むように築かれていたトンバイ塀。廃材を利用したリサイクルとしてだけでなく、陶工の技術の漏洩を防ぐ意味もあったそうです。

「有田焼の工程は歴史的に分業になっています。それは、一つ一つの技術のレベルを上げるためでもありますが、一人で全部でき、その技術を持って逃げる人が出ないように分業にしていたようです。そういう意味でも各窯元でトンバイ塀を作って技法を守っていたんだと思います」

壁を作ることで中を覗かれないようにしていた。でも、それにしては塀が少し低いような気もします。

「この高さだと中が覗けますが、本当は2メートル以上あります。昭和に入って道路が高くなったため、塀の高さが当初よりも低くなっているんです」

有田のトンバイ塀
内側から見ると塀の高さが分かる
有田のトンバイ塀
左から右に行くにつれ高くなっている。高いところは2メートル以上ある

うーん、知れば知るほど歴史がつまっています。

そもそも、なぜ、「トンバイ塀」なの?

今も、トンバイ塀は作られているのでしょうか。

「現在は登窯も少ないので、新しく作られることはあまりありませんが、壊れたら窯元さんが補修しているようです」

かつては技術を守るために築かれたトンバイ塀ですが、今は焼き物の町を象徴する風景として、大切に守られているんですね。

有田のトンバイ塀

登窯を再利用して作られた壁は、焼き物の町ならでは。

ほかでは見ることができない風景です。

最後になりましたが、なぜ「トンバイ塀」と呼ぶのでしょうか?

「“トンバイ”とは、耐火レンガのことです。語源がわかっていないのですが、朝鮮語説、中国語説など、いくつかの説があります。窯道具の“トチン”や“ハマ”もそうですね」

朝鮮や中国から技術が伝わってきた歴史を感じます。

高温で焼かれ、釉薬のかかったレンガに触れると、技術を磨き、切磋琢磨していた陶工たちの姿がよみがえるよう。

今回はそんな「さんちの壁」でした。

取材協力:有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

日本でただ二人、鹿児島の「うまい焼酎」の鍵を握る職人親子「岩崎蛇管」

鹿児島の焼酎造りにしか使われないという「錫蛇管(すずじゃかん)」。

錫には不純物を吸着させる性質があり、錫蛇管で作った焼酎は、雑味の少ない、まろやかな風味に仕上がると言われています。

錫蛇管
使用済みの錫蛇管

かつては鹿児島の酒造会社では一般的に使われてきた錫蛇管ですが、今は少なくなってしまったそうです。

前回は、現在も錫蛇管を使っている酒造のひとつ、本坊酒造の知覧蒸溜所を訪ね、錫蛇管がどのように使われているか見せていただきました。

本坊酒造錫蛇管
錫蛇管が使われているのは、もろみを熱して発生した蒸気を冷やし液体にする部分。蒸留機の冷却水を入れるタンクの中に入っている

では、その錫蛇管はどのように作られているのでしょう。

使用済みの錫蛇管を固定する木枠に作り手の名前が。

岩崎蛇管

日本で唯一、錫蛇管を作っているという工房に伺ってきました。

「ブーム」が焼酎の造り方を変えた

かつて鹿児島には錫鉱山がありました。

鉱山から錫を運んだ旧「錫街道」沿いに、今回訪ねる「岩崎錫管」さんがあります。

住宅街の一角。

一見すると普通の住宅に、親子二人で錫蛇管を作る工房がありました。

岩崎蛇管
岩崎さん親子。昔は子供部屋だったという作業場にて

仕事を始めて10年目という息子の岩崎隆之さんにお話を伺いました。

「昔は、鹿児島のほとんどの酒造会社さんが錫蛇管を使われていましたが、何年か前の焼酎ブームで需要が増えて、どこもステンレスの蛇管を使った大型の蒸留器に変わっていきました」

錫蛇管は大型の蒸留機には使えないことや寿命が短いことがネックになったようです。

岩崎蛇管
壁には過去の制作事例の写真がいっぱい

「ステンレスは、半永久的ですからね。でも、酒造会社さんによっては“これじゃないと駄目だ”というところもあるので、本坊酒造さんのほか数社に納めています」

錫蛇管の製造元も何社かあったそうですが、後継者不足や需要の減少などから、今では岩崎蛇管さん1社になってしまったそうです。

全国で鹿児島の焼酎を楽しめるのは嬉しい一方、そのために継ぎ手が減る伝統もあるのだと思うと複雑な気持ちがします。

流す量によって、薄くしたり厚くしたり

今では貴重となった錫蛇管の制作を見せていただくことにしました。

「まず、錫を溶かします」

岩崎蛇管
元となる錫のインゴット。今は鹿児島では採れず、こちらはインドネシア産のもの。これで15キロほど
岩崎蛇管
錫を溶かす鍋
岩崎蛇管
冷えて固まった錫。緑色になる

溶かした錫を和紙を敷いた台の上に流し、石の重しを乗せて固め、錫の板を作っていきます。

岩崎蛇管
下の台に錫を流す
岩崎蛇管
重たい石を持ち上げるので腰が大変です。

「錫は高温になりすぎるともうダメです。固まらずに全部流れちゃいます、ダーッと」

厚みを調整するのは、流す錫の量。

「流す量によって、薄くしたり厚くしたり、加減ですね」

経験とはいえ、加減で調整するとは驚きです。

「厚みは重要ですね。蛇管の上の部分はけっこう圧力が結構かかるので、ちょっと厚めにしたり。でも、あまり厚くなると硬くなって曲げるのが大変なので、そのあたりの加減を見ながら作っています」

岩崎蛇管
固まった板を見ると、左に向かって厚みが増している。これもすべて加減で調整

続いて、型取り。

型は全部で13種類あります。

岩崎蛇管
管部分の型。管の径をだんだん細くしていくため、両端の幅が違う。
岩崎蛇管

型に沿って線を引き

岩崎蛇管

型が取れたらカットしていきます。

岩崎蛇管

え⁉︎ハサミで!

金属なのにハサミで切れるなんて、やっぱり錫って柔らかいんですね。

「これは比較的薄いので簡単に切ってますが、厚みがあるところはなかなか大変です。切っているときに厚すぎるなと思ったら失敗、使えませんね」

岩崎蛇管
カットするのは力仕事なので息子さんが担当
一番大きいものと小さいもの。これだけ幅が違う
岩崎蛇管

1つの錫蛇管を作るのに100枚以上のパーツを切り出し、カットした後は切り口にヤスリをかけて滑らかにしていきます。

岩崎蛇管
切り取った端材。再び溶かされて板になる

名前のない道具

岩崎蛇管

これはいったいなんでしょう?

岩崎蛇管

錫の板を当てて

岩崎蛇管

叩いて!

岩崎蛇管

叩いて!

丸く曲げて、筒の形状(半分)にしていきます。

岩崎蛇管

この道具の名前を聞くと「名前?知らない。道具も自分で考えてつくってもらったりしよんのや」とお父さん。

鍛冶屋さんで特注して作ってもらったそうで、板の幅や作りたい形状に合わせて使うため様々なものが揃っています。

「トントンすっと、音がうるさいでしょう。近所にさ。気使いますよね。だから昼間は叩くんだけど」

作業場が住宅地にあるため、叩く工程は朝の10時過ぎから始めて、夕方4時前には終わらせているそうです。

波打つような模様が美しい溶接部分

続いて、鏝が登場。

岩崎蛇管
岩崎蛇管

鏝を熱して端材の錫を溶かしながら、2枚の板をつなぎ合わせて筒にしていきます。

ようやく一部分が完成!

岩崎蛇管
溶接部分は波打つような模様になり美しい

ひとつの蛇管を作るのにこのパーツだけで40数本必要になります。

岩崎蛇管
岩崎蛇管
筒の大きさで使う鏝の大きさを変える

全てが手作業

完成すると、錫蛇管の重さは1台100キロほど。

今は酒造会社さんに取りに来ていただいているそうですが、かつては輸送手段がなかったため、輪にしたものを酒造に運び、泊まり込みで作り上げていたといいます。

それにしても、全てが手作業で行われていることに驚きました。

もしかしたら機械を使える工程もあるのかもしれませんが、微妙な加減は手作業でしか出せないもの。

ふたりで1台作るのに、2ヶ月ほどかかるといいますが、想像以上に大変なお仕事でした。

錫蛇管
完成形(使用済みのもの)

「毎年、10月ぐらいから醸造がはじまるので、それまでにメンテナンスを済ませて、新しいのを入れ替えるような感じですね」

「昔は酒造会社さんによって錫蛇管の形も違ったみたいなんですけど、それだとちょっと大変なので、今はだいたい型を統一してもらっています。出口の方向だけは、酒造会社さんによって違いますね」

思いの詰まった焼印

錫蛇管を作る方が少なくなっていく中、なぜ岩崎さんは続けてこられたのでしょうか。

「師匠に、これ覚えといたら必ずいいことがあるからって言われて、続けてきました。ほんと、誰も今つくる人いないもんなあ。面倒くさいし。好きでないとな。根気がいるから。ねえ」というお父さん。

10年前、そんな父親の仕事を継ごうと、息子さんは会社勤めを辞めたそうです。

きっかけは雑誌の取材でした。

「本坊酒造さんがメインの取材だったんですが、うちにも来られて。それを見たときに、やっぱり残しておいたほうがいいかなと思って」

その時、すでに錫蛇管を作っているのは岩崎さんだけになっていました。

「最近、やっと作れるようになりました。曲げるのが難しいんです。理屈ではわかっているんだけど、なかなか上手くいかない。体で覚えていくしかないっていう感じですね」

岩崎蛇管

本坊酒造さんで見かけた焼印がありました。

「これは私がうちの仕事を始めた時に、何かしたいなと思って作りました」

錫蛇管は冷却タンクの中に入ってしまって、外からは全く見えないものですが、自分たちが作ったものに誇りをもっている、そんな力強さを感じます。

たったふたりで、昔ながらの鹿児島の美味しい芋焼酎の味を支える岩崎蛇管。

錫蛇管は今日も住宅街の中で粛々と作られています。

岩崎蛇管

<取材協力>
岩崎蛇管

文 : 坂田未希子
写真 : 尾島可奈子

焼酎大国・鹿児島の秘伝。「錫蛇管」の酒造りとは?

全国でも鹿児島の芋焼酎造りにしか使われない部品があります。

その名も錫蛇管。すずじゃかん、と読みます。

すず?ヘビ?

一体どんなものなのか?なぜ鹿児島にしかないのか?明治創業の老舗酒造、本坊酒造さんにおじゃましてきました。

芋焼酎が生まれる現場へ

本坊酒造

訪れたのは鹿児島市内から車で50分ほど。本坊酒造さんの知覧蒸溜所です。
本坊酒造さんは鹿児島で焼酎造りに錫蛇管を使っている酒造メーカーのひとつです。

車を降りるとふわっとお酒の香りが。

「知覧は芋焼酎の原料となるさつま芋の産地で、水量豊かな天然水にも恵まれています」

迎えてくれたのは蒸溜所所長の瀬崎俊広 (せざき・としひろ) さん。

本坊酒造の中でも最大規模を誇る知覧蒸溜所は、昭和48年の創立当初から「錫蛇管」を使っているそうです。

錫蛇管との対面

さっそく瀬崎さんのご案内で錫蛇管のある蒸溜所の中へ。ワクワクします。

本坊酒造貯蔵タンク
原酒の貯蔵タンク

大きなタンクが整然と並ぶ蒸溜所内。なんだかとってもかっこいいです。

そして‥‥

「これが、役目を終えた錫蛇管です」

本坊酒造
所長の瀬崎さん

おぉー!これが錫蛇管!

錫蛇管
錫蛇管

確かに蛇のように、とぐろを巻いています!

想像していたものより蛇感があって、でもちょっと可愛らしさもあります。なぜ錫を使い、こんな形をしているのでしょうか。

錫蛇管で造ったものは、ふくよかな味になる

瀬崎さんによると、錫には不純物を吸着させる性質があり、錫蛇管を使った原酒は、雑味の少ない、まろやかな風味に仕上がるのだとか。

「錫蛇管が使われているのは、焼酎の元となるもろみを熱して発生した蒸気を、冷やして液体にする部分です。同じもろみでも、錫蛇管で造ったものは味がふくよかな感じになるんですよ。

ただ形状から大きさに限度がありまして、10機ある蒸留機のうち大型4機はステンレス、小型の6機に錫蛇管を使っています」

ステンレスの蛇管が使われている大型の蒸留機。子供の背丈ほどの錫蛇管とは規模感が違います
ステンレスの蛇管が使われている大型の蒸留機。子供の背丈ほどの錫蛇管とは規模感が違います

本坊酒造さんでは、錫蛇管の特性を活かしたいと、錫蛇管だけで仕込んだ焼酎「錫釜」という銘柄もあります。

錫を使うことで味に変化を与えるというのは、酒造りに携わる方の中では常識だそうですが、なぜ錫蛇管は鹿児島にしかないのでしょうか。

薩摩錫器にルーツをもつ、鹿児島ならではの錫文化

かつて、鹿児島には錫鉱山がありました。

明治期には錫器の生産が盛んになり、贈答品をはじめ、一般家庭でも錫製の酒瓶、盃、チロリ(酒の燗をするもの)、茶壺、仏具などが愛用されてきました。

現在、錫山は閉山されましたが、薩摩錫器は県の伝統工芸品として、その技法が受け継がれています。

美しい薩摩錫器
美しい薩摩錫器 (岩切美巧堂)

錫は加工がしやすいことなどから、鹿児島では古くから焼酎造りにも使われてきたそうです。

「では、焼酎の造り方をご案内しながら、実際に錫蛇管が使われているところをお見せしましょう」

おいしい焼酎ができるまで

「ここは、もろみをつくるタンクです」

本坊酒造蒸留所
足元にあるのがもろみタンク

焼酎も日本酒と同じように米麹造りから始めます。お米を洗って水に浸漬(水に浸ける)させ、蒸して冷ました後、種麹(黒麹・白麹など)を種付けし、発酵させると米麹ができます。

「もろみにも一次と二次があって、まずタンクに米麹と水と酵母を入れて、一次もろみをつくります」

続いて二次もろみに必要なさつま芋の加工場へ。

本坊酒造蒸溜所
さつま芋の処理場

大きな保管庫からさつま芋がコンベアを伝って運ばれてきます。

コンベアの両脇に30人ぐらいが座って、大きな傷のあるものなどを選り分け、芋の傷んだところを手作業で削っていくそうです。

本坊酒造蒸溜所
さつま芋を蒸す機械
本坊酒造蒸溜所
蒸した芋を粉砕する機械

「その後、芋を蒸して冷やし、砕いて、水と一緒に第2タンクに入れて、二次もろみをつくります。二次もろみができると、蒸留機に入れて、いよいよ蒸留していきます」

蒸気から液体に変わる道

「こちらが錫蛇管を使った蒸留機です。6基で大きな蒸留機1個分を蒸留します」

本坊酒造錫蛇管

この中に錫蛇管が!

本坊酒造蒸溜所
蒸留機の裏側

蒸留機の中で熱されたもろみから、蒸気が発生します。これを冷やして液体にするのが、錫蛇管の役割です。右側の冷却水を入れるタンクの中に入っています。

タンクの中を見させていただくと…

本坊酒造錫蛇管

いました!いました!錫蛇管!

この管を蒸気が通って原酒になっていくんですね。

本坊酒造錫蛇管
釜から蒸気を横に流す“わたり”部分にも錫が使われている
本坊酒造錫蛇管
水温管理の機械。錫蛇管を使った蒸留機の方が温度管理もしやすいそう

ゆっくり冷やすことでより美味しいお酒になる

「蛇のような管の形になったのは、熱効率がとてもいいからです。上は湯気が出る80度ぐらいの温度で、一番下は20度。急に冷やされるのではなく、じわーっと冷えていく感じですね」

本坊酒造錫蛇管

「管の太さが下にいくにつれて、細くなってるでしょう?

上の部分は蒸気がいっぱいなので太くしてあるんです。気体が冷えてだんだん液体に変わり、体積が小さくなっていくにつれ細くしてあります。こうすることで冷気がじわじわと全体に、効率よく伝わります」

本坊酒造錫蛇管
溶接部分は美しい模様のようです

「作る時は溶かした錫を板にして、曲げて管にしたものを溶接し、蛇管の形にしていくようです。錫は柔らかいので、こうした凝った加工もできますね」

味がより美味しくなるのであれば、全ての蒸留機が錫蛇管であればいいと思うのですが、人の手で作るため大型化には向いてないとのこと。

「これが錫で作れる最大サイズじゃないかな」

また、熱が伝わりやすいがゆえ、熱の収縮で曲がってしまい、5~6年で引退。しかし使ったものは溶かされ、再び錫蛇管となって生まれ変わります。

本坊酒造錫蛇管
熱の収縮により管が潰れている
本坊酒造錫蛇管
”わたり”部分。こちらも一緒に取り替えられる

土地の豊かな資源から生まれた機能的で味もまろやかになる錫蛇管。

産地ならではの酒造りの様子を知ることができました。

では、この錫蛇管は一体どんな風に作られているのでしょうか。

蛇管を固定している木枠に、造り主の名前が!

岩崎蛇管

鹿児島の焼酎探訪、錫蛇管を作り続けている「岩崎蛇管」の話に続きます!

<取材協力>
本坊酒造株式会社 知覧蒸溜所
https://www.hombo.co.jp/


文:坂田未希子
写真:尾島可奈子、画像提供:岩切美巧堂