夏目漱石『三四郎』の名場面を今に残す、数少ない職人が受け継ぐ菊人形の世界

近年、秋といえばカボチャのお化けが定番になっていますが、昔からの風物詩に「菊人形」があります。

菊というと、仏花のイメージもありますが、色とりどりの菊花で着飾った人形たちはとても華やかです。

菊人形は江戸末期、江戸・麻布台の植木屋さんが、菊で鶴などの造形物を作ったのがはじまりといわれています。

菊人形
扇を模した菊細工

明治中頃、東京・団子坂で歌舞伎の場面などを再現して見せる「菊人形興行」が人気となり、多くの人で賑わうようになりました。

菊人形団子坂

二葉亭四迷、正岡子規、森鴎外らの作品にも当時の様子が描かれていますが、夏目漱石『三四郎』もそのひとつ。

「…一行は左の小屋へ這入った。曾我の討ち入りがある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。…」

主人公・三四郎が思いを寄せる美禰子との印象的なシーンに団子坂の菊人形が登場します。

戦後、菊人形の興行は全国で開催され、秋の行楽として親しまれるようになりましたが、時代とともに少なくなり、今では数えるほどになってしまったといいます。

これぞ日本の秋の風物詩

東京上野の湯島天神では、毎年11月に「菊まつり」が開催され、今年(2018年)で40回目を迎えます。

境内には様々な菊花が約2千株ほど展示され、多くの観光客が訪れます。

菊人形
菊人形
会期中、花が満開になると赤いダルマになる

愛好家のみなさんが丹精込めて育てた菊が展示される中、一際目を引くのが菊人形です。

菊人形

今年はNHKの大河ドラマ「西郷どん」をテーマに3体の艶やかな人形が並びました。

活人形から菊人形へ

菊人形は、人形の顔や手足を手がける「人形師」、そこに菊を付ける「菊師」、菊人形専用の人形菊を作る「菊栽培師」など、それぞれ専門の職人さんがいます。

かつて菊人形で賑わった団子坂近くの千駄木に、今も人形を作る工房があります。江戸時代から続く「面六」(田口人形製作所)さんです。湯島天神の菊人形も手がけています。

菊人形

5代目の岡本史雄さんに話を伺いました。

「初代は浅草で神楽面(神事に使うお面)を作っていました。2代目の頃から、その当時人気だった活人形(本物そっくりに見える人形)を作るようになって、多い時は10人くらい、手、足、顔それぞれの職人がいたようですね」

菊人形
歌舞伎十八番『暫』の鎌倉権五郎を模した活人形。今にも「しばらく〜」と喋り出しそう

その後、活人形の手、足、顔を使った菊人形が盛んになったことから、千駄木に移り、団子坂での菊人形の興行の最盛期には、一度で約60体を提供していたそうです。

明治42年、両国の国技館での菊人形展が始まると客は移り、団子坂の菊人形興行は衰退。面六も国技館の仕事を請け負うようになりました。

菊人形
昭和11年、両国の国技館で開催された菊人形展の資料。人形師に「田口人形製作所」の名前
菊人形
各場面の登場人物が描かれ、これを元に人形を作っていく

お楽しみは「見流し」

岡本さんが人形の仕事をするようになったのは10代のころ。面六は中学校の同級生だった奥様の実家で、遊びに来る度に仕事を見ていたのがきっかけだったそう。

「最初はアルバイトではじめたのが、結婚してからは仕事しながら手伝うようになって、そうこうしているうちに継承することに。一人ではできないから家族にも手伝ってくれって」

以来、奥さんと息子さんの3人で店を守っています。

人形作りが楽しいという岡本さん。菊人形の魅力はなんでしょうか。

「なんだろうなぁ。俺たち夢中になってやってるからね。鮮やかさ、華やかさかな」

菊人形
現在、江戸東京博物館に展示されている菊人形。人形だけでなく菊の衣装も面六で手がける。館内には貴重な紙資料が保管されているため、虫のつく生花は使えず、造花の菊で飾っている(写真提供:面六)

菊人形の楽しみ方の一つに「見流し」があるといいます。

「人形を見ながら歩く。一場面、一場面、物語になってるんです」

歩いて行くと物語が進んでいく。だから大河ドラマがテーマになっていたりするんですね。

「そうそう。以前に大阪のひらかたパークで、坂本龍馬の菊人形で、お龍さんの湯上がりシーンを作りました。肌を出した菊人形は初めてだったらしいですよ。色っぽいって言われてね」

菊人形
お龍さんの菊人形。鮮やかなピンクの着物が艶やか

そこだけすごい人だかりになったそうです。

「昔はたくさん人形を並べられたからできたけど、今はそれだけの体数がないから見流しもできなくてね」

そういう楽しみ方があったとは。菊人形がただの人形の展示ではなく、興行として成り立っていたことがわかる気がします。

頭だけなのに、ものすごく色っぽい

では、菊人形はどのように作られているのでしょうか。

菊人形
湯島天神「菊まつり」のデザイン画

まずは人形の顔作り。桐材を彫り、中に目玉を入れ、表と裏を膠(にかわ)で合わせます。

菊人形
菊人形
菊人形

次に、胡粉(ごふん)を塗ります。胡粉とは、貝の粉を細かくしたもの。ぬるま湯で溶かした膠に胡粉を混ぜ、刷毛で塗っていきます。

菊人形
胡粉(蛤と牡蠣などを混ぜたもの)と膠

羽二重(はぶたえ)と呼ぶ髪の毛は、人毛が1本ずつ縫われています。

菊人形
菊人形

胡粉を塗った上に羽二重をつけ、その上にまた胡粉を塗っていきます。

菊人形

その後、色を混ぜて肌色の胡粉を作り、4から5回にかけて薄く塗って仕上げていきます。

完成するとこのようになります。

菊人形
頭だけなのに、ものすごく色っぽい

手、足も同様に作っていき、人形のパーツが完成します。

人の形を想像しながら作る

次に人形の枠組みとなる胴殻(どうがら)を作ります。材料となるのは、竹ひごを芯に藁で包み、糸で巻いた「巻藁」。

材料の藁は近場で揃わないので、毎年、千葉の農家まで取りに行く
菊人形
巻藁を作るのは菊人形の終わる12月頃からはじめ、来年の準備をする。面六さんでは180cmの巻藁を1000本ほど仕込む

「胴殻は、最初に腰の位置を決めてます。人形は等身大だから、腕の長さなんかは自分たちの腕を採寸しながら作っていきます」

着物姿の場合、襟の合わせや袴、裃など、時代や性別などによって形が変わります。

菊人形

胴殻に菊をつけていくため、形が正確でないと見栄えに関わります。重要な作業ですが、想像しながら作るのは難しそうです。

「大事なのはバランス。身長に対してどこに腰がくるか。顔の大きさと体が整っているのか、遠くから見ながら考えます」

以前は胴殻だけを作る胴殻師もいたそうですが、現在は、菊を付ける菊師が請け負うことも多いそうです。

これで胴殻が完成。面六さんが作るのはここまでで、この先は菊師さんにバトンタッチされます。

菊人形

面六さんがお願いしているのは、茨城県龍ヶ崎の菊師・辻さんです。面六さんが龍ヶ崎まで胴殻を運び、辻さんがご自宅で菊をつけた後、会場の湯島に運んできます。

菊人形のために栽培された菊

菊人形

こうして出来上がった菊人形。三人三様の美しい衣装で飾られました。

男性は鮮やかな色使いで凛々しく、女性は淡い黄色と白がグラデーションになって、柔らかな印象に仕上がっています。

菊人形
菊人形
蕾もあるので、満開になるとまた雰囲気も変わってくる

衣装となる菊花は、菊人形専用の「人形菊」。細工がしやすいよう、枝が柔らかく、花が先に集まるように栽培されています。

生花なので、水やりも欠かせません。水をやるのはこの根元の部分。

菊人形
菊の根を水苔で巻き、イ草で縛って玉にした根巻(ねまき)

湯島天神では、文京区の菊愛好家の方々が毎朝水やりを行なっているそうです。

毎日水やりをしても、どうしても花が傷んできてしまうので、会期中頃に衣装の着せ替えが行われます。

そのため、再び龍ヶ崎から菊師さんが来て全て菊を外し、新しい菊をつけていきます。3体着せ替えるのに4日ほどかかるそうです。

菊人形
その時期に咲いている人形菊が使われるので、会期の最初と最後では全く違った衣装になるのも菊人形の楽しみの一つ

みんなが残っていかなければ続けられない

これだけ多くの人が携わり、技術のいる菊人形ですが、興行数が減ったことで、伝統を受け継ぐ職人さんも少なくなってしまったといいます。

「特に大変なのは菊師さんですよ。ほとんどの人が他の仕事と二足のわらじ。

菊人形は9月から11月で終わっちゃうからね。それも毎日の作業でなく、菊を付けたら着せ替えまで仕事はない。だから、農家の人が多いのかな」

面六さんも菊人形だけでなく、山車人形(祭りの山車に飾られる人形)、初代の奥さんが鳶の家の生まれだったことから「纏」も作っています。

菊人形
面六の名が入った纏を手にする岡本さん。胡粉は火に強いため、纏にも塗られている

人形の製作は多い時で、年間60体。

「家族3人では、なかなか製作が追いつかないので、今まで作った人形の顔の表情を変えたりしながら作っています」

胡粉は水に弱いため、屋根のない屋外に展示する場合などは、水にも強い樹脂で製作しています(湯島天神の菊人形は手足が樹脂)。

菊人形

「材料もね、なかなか揃わなくて。胡粉もないんですよ。今まで仕入れてたところがやめちゃって、別の胡粉にしたら石膏っぽかったりして。膠もなくなるっていうし」

羽二重を作る職人さんもいなくなっているそうです。

「羽二重は頭の型を取って合わせて作ってもらうんだけど、今、やる人いなくなっちゃった。目玉は目玉屋さん、もう都内に作る人がいないんですよ」

菊人形

「材料もそうだし、人形師、菊師、菊を栽培する人、舞台を作る大道具さん、菊人形は共同作業でやらないとできませんからね」

『三四郎』の世界から、現代の菊人形へ

今も菊人形展を続けているところは全国で数カ所ありますが、そのひとつに大阪のひらかたパークがあります。面六さんも7年ほど前から人形を出しています。

菊人形
百周年記念・ひらかた大菊人形「龍馬伝」より(2010年・写真提供:ひらかたパーク)
菊人形
ひらかたの秋・菊人形祭「時代を変えた男 平清盛と源頼朝」より(2012年・写真提供:ひらかたパーク)
菊人形
ひらかた菊人形回顧展「関ヶ原」より(2017年・写真提供:ひらかたパーク)

そんな、ひらかたパークの菊人形展が、今年、新しくなりました。

菊人形
「ひらパー×ネイキッド 新・菊人形展 DRESS」(2018年・写真提供:枚方パーク)

なんと、映像やインスタレーションプロジェクションマッピングなどを組み込んだ斬新な菊人形展です。これまでとは全く違う、幻想的な世界が広がります。

もちろん、面六さんの人形も飾られます。

菊人形
「ひらパー×ネイキッド 新・菊人形展 DRESS」より(写真提供:ひらかたパーク)
菊人形
「ひらパー×ネイキッド 新・菊人形展 DRESS」より(写真提供:ひらかたパーク)

「どんな風に見えるのか楽しみだよね。観に行こうと思って」

新しい菊人形の世界、ぜひみなさんも観に行ってみてはいかがでしょうか。

『三四郎』に欠かせない菊人形の場面。菊人形を知らずとも小説は読めますが、その風景を想像できることで、より物語の世界に親しむことができ、主人公たちの心情に触れることができるような気がします。

名作を楽しむためにも、いつまでも菊人形が秋の風物詩として続いていくことを願っています。

<取材協力>
面六

第40回 湯島天神菊まつり
2018年11月1日(木)〜 11月23日(祝)

「ひらパー×ネイキッド 新・菊人形展 DRESS」
2018年10月27日(土) 〜 11月25日(日) ※期間中休園日あり

文・写真 : 坂田未希子

エジソンが電気の発明に使った京都の竹は、食べ物にも武器にもなる

旅先で出会う風景や街並み。

いつもとちょっと目線を変えると見えてくるものがあります。

たとえば、壁。

土壁、塗壁、漆喰、石壁、板壁。

あらゆる壁には、その土地に合った素材、職人の技、刻まれた歴史を見ることができます。

何も言わず、どっしりと構えている「壁」ですが、その土地の歴史をしずかに物語っているのです。

いざ、さんちの「壁」に目を向けてみるとしましょう。

今回のテーマは、京都の「竹垣」

お寺の庭園や店先など、京都の景観に欠かせない「竹垣」
お寺の庭園や店先など、京都の景観に欠かせない「竹垣」

竹は、筍を食べるだけでなく、縄文時代から建築資材、農具や猟具、調理器具などの道具として使われてきた日本人の生活には欠かせない植物です。

竹の産地でもある京都では、古くから竹の文化が発達してきました。

その竹垣の歴史や見所について、京都を中心に全国で活躍する造園家、猪鼻一帆さんにご案内いただきました。

猪鼻一帆


猪鼻一帆(いのはな かずほ)さん
・いのはな夢創園 代表
・1980年京都生まれ

高校卒業後、熊本県在住の庭師・中野和文に造園学、自然学を学ぶため弟子入り。京都に帰り、父であり師である猪鼻昌司と共に「いのはな夢創園」で庭創りを始める。2014年「ハウステンボス ガーデニングワールドカップ」金賞、最優秀施工賞、ピープルズ・チョイス賞受賞。2016年「シンガポール ガーデニンフェスティバル」金賞受賞

京都の竹がなかったら電気はなかったかもしれない

京都の竹垣・駒寄せ
京都の街中でよく目にする雨除けの「駒寄せ」も竹垣の一種

「実はエジソンが電球の発明に使ったのも、京都の竹なんですよ」

様々な材料で長持ちする電球を研究したエジソンは、日本製の扇子の骨(竹)が最適であることを発見。数々の竹を試した中、京都の男山周辺の真竹が1000時間以上も光り続けたことから、長く京都の竹が使われていたそうです。

京都の竹がなければ電気はなかった、と言っても過言ではないかもしれません。

竹垣のスタンダード、建仁寺垣

最初に案内していただいたのは東山区にある「建仁寺(けんにんじ)」です。

建仁寺

竹垣には「銀閣寺垣」「金閣寺垣」「龍安寺垣」など、京都のお寺の名前がついたものが多くありますが、「建仁寺垣」もそのひとつ。

建仁寺で最初に造られたためその名がついたと言われていますが、はっきりしたことはわかっていないそうです。

花見小路通から門を入ったすぐのところに竹垣を発見。

「これが建仁寺垣です。竹垣といえば、建仁寺垣を思い浮かべるほどスタンダードなものですね」

四つ割りの竹が縦に並び、横に4段組まれたものを押縁(おしぶち)、上部の竹を玉縁(たまぶち)と呼ぶ
四つ割りの竹が縦に並び、横に4段組まれたものを押縁(おしぶち)、上部の竹を玉縁(たまぶち)と呼ぶ

お店の入り口などでもよく見かける竹垣です。

建仁寺垣

「横ラインの竹が等間隔に付いていますが、一番上だけ間隔が広くなっています。こうすることによって、力が上にすっと抜けるようになってるんです」

力が抜けるようにとは?

「竹垣を軽く見せるというのかな。押縁をただただ均等に割り付けてしまうと、すごく不細工になってしまうので」

微妙な工夫が美しさを生む。竹垣、なんとも奥深そうです。

庶民の生活の中で洗練されていった竹垣

建仁寺の本坊を入り、庭園を歩いていくと、茶室「東陽坊」の茶庭にも建仁寺垣を見ることができます。

「建仁寺垣は、一般的には外から中が見えないようにする遮蔽垣(しゃへいがき)として使われていますが、茶庭の中ではパーテーションのようにも使われています」

屏風のような役割ですね。

建仁寺垣

とてもシンプルな形の竹垣。なぜこれがスタンダードになったのでしょうか。

「建仁寺垣は、“土壁”に代わるものだと考えています。

土壁は構造的にある程度の幅がないと造れませんが、建仁寺垣は薄いので幅を取りません。土地の狭い京都では、土壁よりも建仁寺垣の方が家と家の間を仕切るのに重宝したんだと思います」

建仁寺垣

京都には材料となる竹も多く、土壁よりも簡単に安く造ることができたこともあり、建仁寺垣が一般的になっていったようです。

「庶民の生活の中で洗練されていった竹垣と言ってもいいかもしれませんね」

武家屋敷では、武器になった

東陽坊の茶庭には、他にも竹垣を見ることができます。

「これは四ツ目垣(よつめがき)。ごく簡単な竹垣ですが、竹の長さが刀と同じくらいの長さになっています」

四目垣

「昔、武家屋敷では、敵が攻めてきたときにすぐに戦えるよう、竹垣には武器としての用途も備えてありました」

なんと、竹垣が武器にもなったとは驚きです。

「四ツ目垣は、“かいづる”という結び方で縄を結びます。それは縄を切りやすい結び方なので、竹垣の竹をパッと手にとって戦える。竹垣一つとっても、もともとの始まりを知ると、もうひとつ庭が面白くなります」

これからは竹垣を見るたびに時代劇の戦いのシーンを思い浮かべて、ニマニマしてしまいそうです。

東陽坊の入り口にある鉄砲垣。昔、戦さ場で鉄砲を立てかけていた形からその名がついたと言われている
東陽坊の入り口にある鉄砲垣。昔、戦さ場で鉄砲を立てかけていた形からその名がついたと言われている

造園屋の呪文?木七竹八塀十郎

竹垣に使うのは日本原産の「真竹(まだけ)」。真っ直ぐ伸びて節間が長く、肉厚が薄く、丈夫で腐りにくいことなどから竹垣に向いているといいます。

「竹垣は真っ直ぐな方が使いやすい。そうすると山で育った竹よりも川の側に生えている川竹がいい。でも、丈夫なのは山の竹なので、用途によって使い分けています。竹の割り方も、使う場所によって変わります」

竹垣

同じ真竹でも生えている場所でずいぶん違うんですね。

「竹を切る時期、何時の材料を使うかというのも大事です。“木七竹八塀十郎(きしちたけはちへいじゅうろう)”と言って、木は旧暦の7月、竹は8月が最適で、壁は10月に塗るのがよいとされています」

壁とは土塀のことで、空気が乾燥した十月に土を塗ると長持ちすると言われているそうです。

「竹垣は青竹で作ります。青竹が次第に黄色くなって、その後白くなって、皮がむけて茶色くなる。それを磨くと赤黒くなる。名古屋の方では磨くのがよしとされていますが、京都では朽ちて変化するのをよしとするところがありますね」

建仁寺近くにあるお寺の塀。朽ちた竹の色が味わい深い
建仁寺近くにあるお寺の塀。朽ちた竹の色が味わい深い

竹垣の歴史を変えた、光悦寺垣

日本において、竹垣は奈良時代、平安時代の頃より造られていましたが、かつては柵としての要素が強いものでした。竹垣が発達してきたのは安土桃山時代の頃だと言います。

発達した竹垣を見に続いて向かったのは、北区鷹峯にある光悦寺(こうえつじ)。

光悦寺
光悦寺

江戸初期に当時活躍していた文化人・本阿弥光悦が築いた工芸集落のあった場所で、光悦の墓碑があるお寺です。

ここに、「光悦寺垣」があります。

「光悦寺垣は、竹垣の中でもちょっと珍しい形なんです」

光悦寺垣。光悦垣、また牛が寝ている姿に似ていることから臥牛垣(がぎゅうがき)とも呼ばれる
光悦寺垣。光悦垣、また牛が寝ている姿に似ていることから臥牛垣(がぎゅうがき)とも呼ばれる

おぉー、これはカッコイイ!なんとも美しく、凛々しい竹垣です。

「これは竹垣を柵としてだけではなく、柵をすることによって、むこう側の景色をよりよく見せる透かし垣(すかしがき)です」

光悦寺垣

「垣の奥を見せんでもいいんだけども、あえて透かして見せることで、奥の景色が変わって見える。隠さないことで空間がすごく広く見えるのも光悦寺垣の面白いところですね。隠してしまうとそこで景色が止まってしまうので」

誰がデザインを考えたのでしょうか?

「光悦が考えたと言われています。それまでの竹垣にはなかった曲線が特徴です」

光悦寺垣
曲線を作るため、割竹を2枚合わせた格子組みにし、上の部分は太い竹ではなく、小割りにした竹が束ねられています(いる)
光悦寺垣
上部は縄のところで竹を継いでいる。継ぎ目が見えないのでまるで1本の竹からできているような不思議な感じがする

「直線でしか表せなかったものが、竹を割ることによってしならせることができ、格子にすることでそのアールについていけるようになる。竹をもっと細くすればもっと丸められたり、いろんな形に曲げられます」

光悦寺垣

光悦寺垣は竹の可能性、竹垣の可能性を広げたと言います。

「竹垣に武器や防御の用途だけでなく、デザインを取り入れ、新たな魅力を生み出した。光悦寺垣は竹垣の歴史の中のひとつのターニングポイントですね」

竹垣そのものも美しく、景色も美しく見せる竹垣。見れば見るほど面白いです。

終わりを見せないことで想像力を掻き立てる

それにしても、とても長い竹垣。どこまで続いてるのでしょうか?

「行ってみましょう」

光悦寺垣
歩いていくと竹垣がカーブを描きながら低くなっていきます。
光悦寺垣
全長18mほどある
光悦寺枝折戸

あら?気づいたら景色が変わっていて、どこが最後だったのでしょう?

「終わりを見せないことで、イマジネーションをかきたてられます。どこで終わってんの?どこまで続いてんの?と想像させる、そこが光悦垣の面白さですね」

「高さをだんだん低くすることで他の草木が目に入り、景色も変わっていく。何かが発展していくような景色を作っています」

光悦寺垣
この辺りが最後。決して探してはいけません

枝折戸(しおりど)は職人の技の見せ所

光悦寺垣ができた頃から、美意識が優先されるようになってきたという竹垣。

光悦寺垣
見栄え良く飾り結び(男結び)で整える
光悦寺垣
節もきれいに並んでいると美しい。並び方でリズムを出す

京都で竹垣が発展した理由の一つには、茶の湯の文化があったからとも言われています。

竹垣は庭の風景を作り出すだけでなく、茶の湯の精神である仕切りの目的もあることから、茶庭に欠かせないものになっていきました。

光悦寺枝折戸
これは茶庭の入り口にある竹の扉

「枝折戸(しおりど)です。竹垣を作るには、竹を切る、割る、裂く、曲げる、編むといった要素がありますが、枝折戸には全ての要素が含まれています」

光悦寺・枝折戸
ちいさな扉ですが、よく見ると細やかな細工を見ることができます
光悦寺・枝折戸

美しさのためには、しっかり作ることが大事だといいます。

「足元に節を持ってくると頑丈になったり、釘を打つ前にきれいにくり貫いておくと割れないとか、ノコ跡が見えないようにするとか。枝折戸を見れば、職人の腕前、力量がわかるし、庭の美しさもわかります」

扉一つにも美しさを求め、細工を施す。職人の心意気が感じられる扉です。

時代時代で自分なりの答えを乗せて造っていくのが庭

光悦寺垣がそれまでの竹垣のイメージを変えたように、今も新しい竹垣は造られているんでしょうか?

「もちろん。例えば、光悦寺垣のように、四ツ目垣でも高さをどんどん低くしていくものがあります。同じ高さにすると野暮ったいので、傾斜を付けてすっと力を抜く。庭が広がるというか、柔らかな印象になります。

これは昔からある技法ではなくて、昭和になって、京都の橋本春光園っていう造園屋の親方たちがはじめたものと伝えられています」

それが「いいね」となり、他の場所でも使われていく。自分たちが考えたものだから他は使うな、とはならないのでしょうか。

「なかなかないですね。流動的なものだし、技術といっても何かと何かの組み合わせでしかないから、オリジナルとは言い切れないし」

「ただ、真似する方はそれ以上のもの、さらに自分の色をつけなくちゃダメですね」

光悦寺垣をアレンジした猪鼻さん作の袖垣(そでがき)
光悦寺垣をアレンジした猪鼻さん作の袖垣(そでがき)

そうやって技術が受け継がれ、発展してきた。

「僕たちが終わりでもないし、僕たちがやっていることを次の世代の人たちが自分なりの答えを乗せて造っていくのが庭」だと猪鼻さんは言います。

「庭は植物相手なので、この庭も最初に造った時のコンセプトとは違っているはずです。木も太くないし、通路も整備されていないし。だから、その時代時代で答えを出していく必要がありますね」

 

京都にはこの釘を作っている職人がまだ居るという誇り

これは茶室の窓の部分。ポイントは釘です。

和釘

“階折(かいおれ)”という名前の和釘。

今、普通の釘は落としたら拾う手間より新しく買う方が安いっていうくらいの値段だけど、和釘はほとんど作られてないので高価です。」

1本260円する釘もあるほど。昔の釘はいい鉄を使っているため、100年経っても叩けばまた使えるのだそう。神社仏閣など古い建物を修理復元する時などにも使われています。

階折釘
階折釘

「今も和釘を使うところがありますが、それは施主のお寺さんの方が、“京都にはこの釘を作っている職人がまだ居る、あなたたちが文化を守っていってほしい”という想いを込めて使っていたりします。

竹垣も庭も、そうやってプレゼンする人がいないと残っていかない文化でもあります。僕たちはいろんな人たちに支えられてる業界なので」

来客を大切に思う気持ちを青い竹に込める

竹垣のスタンダード「建仁寺垣」、竹垣の歴史を変えた「光悦寺垣」。

竹垣にも様々な表現があることを知りました。

「今日みたのは竹の茎(竹稈)を使った竹垣でしたが、竹の枝を使う“穂垣(ほがき)”もあります」

穂垣は枝を1本、1本編んで作る、手間のかかるものなので、竹垣の中でも最上とされているそうです。

竹垣の最高級と言われる桂垣(穂垣の一種)を使った庭(猪鼻さん作)
竹垣の最高級と言われる桂垣(穂垣の一種)を使った庭(猪鼻さん作)

ごく一部の紹介となりましたが、京都の竹垣、いかがでしたでしょうか。

猪鼻さん自身も竹垣を見にいくのは久しぶりだったそうです。

「改めて見て、とても面白かったです。造園家として駆け出しのころ見た景色と違って、沢山の納得がありました。10年後はまた全然違う景色に見えているかもしれません」

猪鼻一帆

朽ちていく竹垣にこそ魅力があると言う猪鼻さん。

 

「竹垣は青竹で作りますが、青々としているのは長くて2カ月。夏場などは1週間で青みが抜けて白くなります。京都では四季が移ろうような美しさを朽ちていく竹垣に感じます。

だからこそ青い竹の竹垣を見るとより清潔に見え、朽ちた竹垣を見ると時間と刹那を感じるのだと思います」

京都ではまだまだ家の庭に竹垣があるところも多いそうです。

「例えば、娘の結婚相手のご両親が家に来られるとか、お茶の初釜、お正月とか、そんな時に竹垣は新しく青々としたものに変えられます。来客を大切に思う気持ちを青い竹に込める、来客も青い竹を見て歓迎の気持ちを汲み取る。竹を使うがゆえ生まれた、気持ちの手渡し方を感じて頂けると嬉しいです」

竹垣に見る京都ならではのおもてなしの心。

京都の旅がまたひとつ楽しくなりそうです。

 

<取材協力>
いのはな 夢創園

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子

魚沼で越後のミケランジェロ「石川雲蝶」の世界に酔いしれる

石川雲蝶をご存知でしょうか?

江戸末期に越後で活躍した伝説の彫り師。

秀でた腕前から「越後のミケランジェロ」とも呼ばれています。

石川雲蝶・道元禅師猛虎調伏図

これは雲蝶終生の大作といわれる「道元禅師猛虎調伏図(どうげんぜんしもうこちょうふくのず)」。

赤城山西福寺開山堂にある天井彫刻です。

突如、立ち込めた黒雲の合間から龍が現れ、トラに襲いかかる!

そんな迫力のあるシーンが彫り込まれています。

初めて見たのは、東京にある新潟県のアンテナショップに貼られていた観光ポスターでした。

これが彫刻? いったいどうなっているの??

鮮やかな色彩と躍動感あふれる彫刻に一目惚れし、ぜひとも本物を見てみたいと会いに出かけました。

江戸の彫り物師から魚沼へ

石川雲蝶、本名「安兵衛」は、1814年に江戸・雑司が谷の飾り金具職人の家に生まれました。20歳前後で「江戸彫石川流」奥義を窮め、幕府専属の彫り物師(建築装飾の木彫り職人)として活躍。しかし、天保の改革により、贅沢な装飾は避けられるようになり、仕事を失うことに。

32歳の時、越後三条の金物商・内山又蔵と出会い、又蔵の紹介で三条にある本成寺の欄間を手がけたことをきっかけに、越後で数々の作品を手がけ、生涯を過ごしました。

今回訪ねたのは、雲蝶の作品が多く残されている新潟県魚沼市にある赤城山西福寺。あの「道元禅師猛虎調伏図」がある曹洞宗のお寺です。

赤城山西福寺

雲蝶は、1852年に西福寺に招かれ、開山堂の建立に携わりました。

西福寺開山堂。開山堂とは、お寺を開かれた御開山様である初代御住職様をおまつりする御堂のこと。こらには、御開山芳室祖春大和尚と道元禅師がまつられている
西福寺開山堂。開山堂とは、お寺を開かれた御開山様である初代御住職様をおまつりする御堂のこと。こちらには、御開山芳室祖春大和尚と道元禅師がまつられている

副住職の平澤龍彦さんに案内していただきました。

「当時の23世・蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚様が、この辺りは雪深く貧しい土地なので、地域のみなさんの心の支えになるお堂を建てたいと願い、越後で活躍していた雲蝶さんの噂を知って頼まれたようです」

大龍和尚33歳、雲蝶39歳。ふたりは歳が近いこともあり、意気投合。曹洞宗の開祖、道元禅師の世界を再現したいという大龍和尚の想いを雲蝶が形にしていきました。

いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議な作品

いよいよ開山堂へ。

本堂から渡り廊下を通り、仁王像がそびえる入り口を入ると、天井にあの彫刻が!

開山堂、道元禅師猛虎調伏
石川雲蝶「道元禅師猛虎調伏図」
……あまりの迫力と美しさに圧倒され、言葉になりません

「これは、道元禅師が天童山への行脚の途中、山中で虎に襲われそうになった時、持っていた杖を投げつけると、杖が龍に姿を変え、禅師を守ったという場面が彫られています」

道元禅師猛虎調伏

勢いよく流れる滝、暗雲立ち込め稲光が走り、虎をめがけて飛び出す龍。その傍らで静に座禅を組む道元禅師。

「静」と「動」が見事に表現され、ただただ見惚れてしまいます。

それにしてもこの立体感、どうなっているのでしょうか。

「透かし彫りという技法で彫られています」

いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議です。

鮮やかな彩色は岩絵の具を使ったもので、雲蝶独特の技術だそう。当時のままの色がきれいに残っています。

「虎と龍の目はギヤマン(ガラス玉)が使われています。当時はすごく貴重なものだったようですね」

五間四方の堂内は、天井彫刻の他にも雲蝶作品で埋め尽くされています。

雲蝶の彫り師としての技がふんだんに盛り込まれているのが欄間。

道元禅師と白山大権現
道元禅師と白山大権現

「これは、道元禅師が中国での修行から帰る前夜、『碧巖録』という禅書を写経していると、白山大権現が老人となって現れて写経を手伝ってくださるという場面を彫ったものです」

当時では珍しい遠近法を使い、奥の奥まで実に細かく彫り込まれています。

「燭台や、右手の方には布袋様、その奥には香炉もあります」

道元禅師と白山大権現
いやはや、一枚の板からどうしたらこんな風に彫れるのか。驚くばかりです
永平寺血脈池縁起

こちらは「永平寺血脈池縁起」。成仏できない幽霊を道元禅師が諭して成仏するというお話の一場面が彫られています。

「幽霊の顔が角度によっておどろおどろしく見えたり、すごく安らかな表情に思えたり。見るたびに感じ方が違うのが魅力ですね」

永平寺血脈池縁起

雲蝶はどんな人だった?自分の徳より周りのために働く人

石川雲蝶鏝絵

これは左官の技法である鏝絵(こてえ)。漆喰の壁に鏝を使って施す装飾のことを呼びます。ノミだけでなく鏝まで使えるとは、雲蝶はなんて多才なのでしょう。

雲蝶作:漆喰鏝絵「娘道成寺」
雲蝶作:漆喰鏝絵「娘道成寺」

天井彫刻に、欄間に鏝絵。どの作品も素晴らしく、いつまでも見ていたくなり、何度も訪れる方がいるというのもよくわかります。

これだけの作品を作った雲蝶とは、いったいどんな人だったのでしょうか。

実は、雲蝶が暮らしていた住居や菩提寺が火災で全焼してしまったため、詳しいことはわかっていないそうです。

「大龍和尚様と同じように、人のために自分の仕事を役立てたい、そういう人柄を感じます。職人さんはみんな一緒かもしれんけど。自分の徳より周りのためみたいな」

雲蝶作:埋め木細工「アヤメ」。西福寺本堂の大廊下には雲蝶作の埋め木細工が多く残されている。埋め木とは、板の割れ目や節穴に木片を入れて繕うもの。雲蝶の優しさ溢れる心遣いが感じられる
西福寺本堂の大廊下には雲蝶作の埋め木細工が多くあり、歩く人の目を楽しませてくれる。埋め木とは、板の割れ目や節穴に木片を入れて繕うもの。雲蝶の優しさ溢れる心遣いが感じられる
瓢箪の埋め木
瓢箪の埋め木

1857年、約5年の歳月をかけて開山堂が完成。しかし、その翌年に大龍和尚は住職の座を退き、同市内にある正円寺に移ることに。

「貧しい村にこれだけ贅を凝らしたお堂ができたことで、心ない噂も広がったようです。自ら身を引いたのではないかと言われています」

その後も大龍和尚と雲蝶の交流は続き、正円寺にも雲蝶作の仏像が多くまつられているそう。これもまた雲蝶の人柄を表しているエピソードだと思います。

生誕200年でブレイク

雲蝶作品は西福寺のほか、魚沼をはじめ、越後の各地で見ることができます。

神社仏閣だけでなく、雲蝶が滞在した家の欄間や仏像など作品が残されており、その数1000以上とも言われています。

これだけの作品を残した雲蝶ですが、注目されるようになったのは生誕200年を迎えた2014年と、ごく最近のこと。

それまで、雲蝶を研究する人はいたものの、作品が越後から出ることはなく、雪国の人々の間でひっそりと伝わっていたようです。

生誕200年に建立された、西福寺の石川雲蝶顕彰像
生誕200年に建立された、西福寺の「石川雲蝶顕彰像」

現在は、「名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー」も開催され、全国からファンが訪れるようになりました。

雲蝶をブレイクさせた立役者のひとり、雲蝶バスツアーのガイドをする中島すい子さんに雲蝶作品の魅力などお聞きしました。

お話を聞いた中島すい子さん
お話を聞いた中島すい子さん。著書『私の恋した雲蝶さま』は、数少ない雲蝶資料としても読んでおきたい(写真提供:中島すい子)

中島さんはもともと、東京でバスガイドをしていましたが、結婚を機に南魚沼へ。その後、南魚沼の地域観光ガイドを務めることに。

「地域観光ガイドに転向した時、地元の埋もれた宝を磨くには何をターゲットにしたらいいかと考えて、昔から観光地だった西福寺の開山堂に行ったのが雲蝶さんとの出会いでした」

石川雲蝶・道元禅師猛虎調伏図

初めて、天井彫刻を見上げた時に「絶対この人を深掘りしたい」と思った中島さん。

「最初から感動した訳ではないんです。どちらかと言えば、これはどうやって彫ったのかとか、重ねたのか削ったのか、この奇抜な色は何なんだと、疑問ばかりで頭の中がいっぱいになりました。

不思議でしょうがなかったんです。感動はいろんなことが理解できてからじわじわとやってきました(笑)」

開山堂正面の向拝にある彫刻
開山堂正面の向拝にある彫刻

実際、どのように彫られたのか、技術的なことは今もわかっていません。

「開山堂の天井彫刻は、当時の雲蝶さんの持つ技術の粋を施した作品だと思いますが、細かいことは解体しないとわかりません。修繕する時に限られてしまうので、難しいですね」

作品作りだけでなく、大工仕事もプロの腕前を持っていたという雲蝶。

「江戸時代、堂塔大工(現在の宮大工)という役職がありましたが、雲蝶さんは堂塔大工と同じくらいの腕があり、お堂などの設計から施工までこなしていました」

2004年に発生した新潟県中越地震は、北魚沼地域を震源としたものでしたが、雲蝶の建てたお寺などは被害が少なかったと言います。

「作品も完成から160年経った今も、ひび割れたり折れてしまったというものはありません。木地師のように材を見極める知識もあったようですね」

大工としても確かな腕を持った雲蝶。開山堂の天井彫刻が修繕されるのはまだまだ先のことになりそうです。

お酒好き、バクチ好き、女好き

雲蝶ツアーの様子(写真提供:中島すい子)
雲蝶ツアーの様子(写真提供:中島すい子)

中島さんがガイドを務める、雲蝶作品のバスツアーも今年で6年目。中には、毎年楽しみにしているリピーターも多いとのこと。

中島さん自身が雲蝶作品の残されている地域をまわり、集落のおじいちゃん、おばあちゃんから家に伝わる雲蝶さんの話などを聞いているそうです。

伝わっているのは「お酒好き、バクチ好き、女好き」のエピソード。なかなか豪快な人だったようです。

「雲蝶作品の魅力は、やはりその技術力にありますが、それ以上に作品に隠された遊び心です。観るたびに新しい発見があり、謎に包まれた雲蝶の人生と同様に、その作品の謎解きをしているとその費やす時間が楽しくて仕方ありません」

開山堂にある「蕪をかじる鼠たち」。動物も雲蝶が得意としたモチーフ
蕪をかじる鼠たち(開山堂)

中島さんは今でも見るたびに発見があると言います。

「代表作のひとつ、永林寺(魚沼市根小屋)の“天女の欄間”には刻印がありません。他の代表作には刻印があるので、どこかにあるはずとずっと探していたのですが、一昨年の春、ついに発見したんです。天女の中にあるのですが、これはぜひ実際に見て探してほしいと思います」

天女の中に隠れし刻印。女好きと言われる雲蝶さんならではの場所なのでしょうか。想像するだけでワクワクします。

「雲蝶さんは腕のいい彫り物師でしたが、特別な人ではなく、村の人たちと同じ環境の中で生きていた人だと思います。

雲蝶さんの作品は美術館のように一ヵ所にまとめられていないので、越後に足を運んでいただかないと観る事ができません。でも一度、観ていただくと、予想をはるかに超える感動を味わう事ができます。

何世紀に一人現れるかどうかわからないと言われるほどの彫り師が、山間の越後に残した作品は、他県に流出することなく、越後人の謙虚な人柄にひっそりと守られてきました。雲蝶が人生の後半40年の間に残した作品は、きっと観る人の心を鷲掴みにすると確信しています」

設計から施工まで、雲蝶の技と心意気が詰まった神社

最後に、中島さんおすすめの作品を見に、長岡市栃堀にある「貴渡神社(たかのりじんじゃ)」に出かけました。

貴渡神社は、設計から施工まで全て雲蝶が携わったもので、丸ごと雲蝶作品です。

見どころは、一連のストーリーで構成されている脇障子(わきしょうじ)。

ストーリー性があるのもまた雲蝶作品の特徴です。

この地域は縞紬(つむぎじま)発祥の地で、紬縞をこの地に根付かせた植村角左衛門貴渡翁を祖として奉ったのが貴渡神社です。

脇障子(わきしょうじ)や長押(なげし)には、桑の葉を運ぶ、繭棚に繭を運ぶ、繭を煮る、糸を紡ぐ、機を織る場面など、蚕から布になっていく様子が詳細に彫られています。

貴渡神社、桑の葉を運ぶ場面
桑の葉を運ぶ場面
雲蝶の刻印。お堂は現在、鞘堂(さやどう・雨風から守るためのもの)の中に入っているが、以前は雨、風、雪にさらされていた
雲蝶の刻印。お堂は現在、鞘堂(さやどう)の中に入っているが、以前は雨、風、雪にさらされていたため、施されていた彩色も部分的に薄い色が残っているだけになってしまった
貴渡神社、糸を紡ぎ、機を織る場面
糸を紡ぎ、機を織る場面
繭を煮ている場面。釜戸で頬を膨らませて火吹竹を吹く様子がよくわかる
繭を煮ている場面。釜戸で頬を膨らませて火吹竹を吹く様子が見事に表現されている

小さな神社ですが、作品の素晴らしさだけでなく、雲蝶の心意気が感じられ、雲蝶の世界を堪能できました。

見れば見るほど興味深く、人柄を知るほどにますます他の作品を見たくなる石川雲蝶。

まだ見ぬ多くの作品に思いを馳せる旅となりました。

<取材協力>
赤城山西福寺
新潟県魚沼市大浦174番地
025-792-3032

中島すい子
名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー

文・写真 : 坂田未希子

沖縄の旬のうつわに出会える楽園「GARB DOMINGO」

産地のものや工芸品を扱い、地元に暮らす人が営むその土地の色を感じられる、「さんち必訪の店」。

“必訪 (ひっぽう)” はさんち編集部の造語です。産地を旅する中で、みなさんにぜひ訪れていただきたいお店をご紹介していきます。

沖縄、GARB DOMINGOへ

今日訪ねたのは、沖縄の台所・牧志第一公設市場のほど近く、壺屋街にあるGARB DOMINGO(ガーブ・ドミンゴ) 。

陶器、漆器、紅型、織物やガラスなど、沖縄の旬の作家ものが並ぶセレクトショップです。

GARB DOMINGO

選ぶのは、作家の人となりが見える作品

壺屋街には沖縄の伝統的な焼き物「やちむん」の店が軒を連ねていますが、GARB DOMINGOには、伝統にとらわれない作家さんの作品が置かれています。

GARB DOMINGO
GARB DOMINGO
GARB DOMINGO

「伝統には過去から現在への流れがありますが、僕が出会う沖縄の作家にはそういう長れを持たない、自分ひとりのものを作ってる人が多いですね」と語るのは、オーナーの藤田俊次さん。

もともと東京で建築の仕事をしていましたが、将来子どもを育てる環境を考えて奥さんの実家がある沖縄に移住。2009年、ご夫婦でGARB DOMINGOを開きました。

オーナーの藤田さん

現在20数名の作家さんの作品を扱っています。

「ちょっと自分の好みと違うなと思っても、個人が『見える』作品だったら、選んでみるようにしています」

個人が見える?

「なんとなく、その作家の人となりが作品から見えるような人を選んでいるのかもしれないですね。今は形が出来上がっていなくても、自分が作りたいなと思ったものがゆっくりと、10年20年後に出来上がるかもしれないなって感じさせる人」

沖縄を感じられるうつわ

作品から沖縄を感じられることも大切にしているそうです。

「修業した先が沖縄だったり、沖縄が好きでしょっちゅう来てる人だったり。沖縄に住んでいなくても、作品から沖縄のエッセンスが感じ取れればいいなと思っています」

藤田さんに、取り扱っている代表的な作家さんを紹介していただきました。

ミスマッチを楽しむ「木漆工とけし」のうつわ

木漆工とけし

こちらは木工職人の渡慶次弘幸(とけしひろゆき)さんと奥さんで塗師の渡慶次愛(とけしあい)さんの工房「木漆工とけし」のうつわ。

共に沖縄出身で、輪島で漆を学び、現在は名護市で作品を作っています。

一瞬金属を思わせるうつわは、持ってみると、とても軽い。

木漆工とけし

「沖縄県の木、デイゴを使ってます。沖縄の木は、木自体が軽いものが多くて、本当にスカスカしてもろいんですけど、漆を塗ると硬度が出る。それが質感でも表現されていて、重たそうで軽い、そのミスマッチ感が面白い作品です。

沖縄の木じゃないと出ない軽さですね」

歪んでいるのに、美しい。藤本健さんのうつわ

藤本健さんのうつわ

木工作家・藤本健さんのうつわもアカギやホルトノキ、ガジュマルなど、沖縄の木が使われています。

穴が空いていたり、欠けていたり、歪んでいるのに、なんとも美しいうつわです。

アカギを使ったうつわ。アカギは名前の通り切ると赤く、日に当たるうちにタンニンが出て茶色っぽくなってくる。時間ともに色が変化していく

作家の藤本さんは地元で倒され処分される運命だった木を引き取り、うつわに蘇らせているそうです。

「割れとかひびを、その木が持っている個性として出しているのが面白いですね。穴が空いているなら水物を入れなければいい、とうつわに言われているようで、確かにそうだな、とこちらもすんなり受け入れられる。

素材の形と作家の作りたい形がうまくマッチしているように思います」

うつわにとって居心地のいい場所づくり

GARB DOMINGOのディスプレイは、1日のうちに何度も変わります。

「直射日光は入らないんですけど、日の入り具合で店の雰囲気が変わるんです。それで、“今はここに置いたらよさそうだな”って所にうつわを置いています」

GARB DOMINGO

配置換えをすると、不思議とお客さんが何度も手に取ったり、変えた直後に買われて行くこともあるそうです。

瞬間、瞬間で、うつわにとって居心地のいい場所を感覚で捉えていく藤田さん。

訪れるお客さんに対しても、大切にしていることがあります。

「僕はあんまり置いているものの説明をしないんです。持って帰る方の、それぞれの家庭があるので。お客さんが“何を盛ろうかな”とか家で使うイメージをしてる時に話しかけちゃうと集中できないと思うので」

GARB DOMINGO

ゆったりとくつろいだ気分で作品を見ることができるGARB DOMINGO。

お店の前の並木越しにゆらゆらと光の入る2階
お店の前の並木越しにゆらゆらと光の入る2階

ここに住みたいというお客さんもいたそうですが、なんだか納得できます。お店の外から聞こえる話し声まで心地よく感じます。

「そうなんですよね。ここを決めた時、朝方だったかな。道を箒で掃く音が聞こえたんですよ、シャッシャッって。その音と混ざってバイクが市場に向かう音が聞こえてきて、それが妙に『旅感』があった。

何でだろうと思って2階から外を見たら、前の通りが一方通行だったんですね。一方に音が抜けていくところに時間の流れを感じて、“あ、ここだな”と直感的に決めました」

お店づくりは、街づくりの視点で

並ぶうつわもお店の場所も、お話を伺っていると藤田さんは感性で選んでいるように思えます。

しかし、お店をこの場所に決めたのには建築をやってきた藤田さんらしい、大きな「戦略」がありました。

「もともとお店は、中心地からちょっと外れた、観光客と地元の人が行き交うようなところに作りたいなと思っていました。

重視したのが、自分たちのお店のまわりに次の店舗が入れる余地があるかどうか、です。シャッターが全部開いているのではなく、空き店舗も所々あるような」

お店の前の通り

旅先でも出来上がっている場所ではなく、これから発展していきそうな所の方が面白いものが見られると藤田さんは言います。

余地を残すことで、どんな「面白い」ことを目指しているのでしょうか?

楽園へ

店名の「DOMINGO」は、スペイン語で「日曜日」という意味だそうです。では、GARBは?

「実は、この近くの市場の下を流れてる川の名前が“ガーブ川”なんです。あまりきれいな川でなく、子どもたちが通る時は鼻をつまんで走ったりしていました。

ガーブは沖縄の言葉で“湿地”という意味もあるらしいと知って、以前、旅先で見た風景と結びついたんです。のどかな日曜日、湿地帯にフラミンゴが居る。

ガーブ川にそんな楽園的なイメージが付いたらいいなと思いました。人がのんびりやって来て、顔見知りの何軒かのお店に顔を出して休日を楽しむような」

架空のオーナーGARBおじさん
架空のオーナーGARBおじさん

お店が市場に近いというのも考えてのこと。

「市場は生活の下支えになっているものなので、うつわともリンクしやすいかなと。生活に近いところで、うつわから影響を与えるといいなと思って」

影響というと?

「伝統的な沖縄の食文化はどんどん廃れているんです。昔はお盆になると手作りしていたご馳走も、今はスーパーで買うようになって。

プラスチックケースに入ったオードブルではやっぱり味気ないんですよね。それを、自分で気に入って選んだうつわに盛るようにしたら、食卓から文化が息づいてくるんじゃないかと思うんです」

実際、お盆の時期に「今日は親戚が来るから」と、市場の買い物帰りにうつわを買いに寄ってくれる地元のお客さんもいるそうです。

「うれしいですね」

GARB DOMINGO

藤田さんの人となりを表しているかのようなGARB DOMINGO。

作品の中に「人」を見つけるように、藤田さんはその街が本来持っている魅力や心地よさを感覚的に見つけて、このお店から発信しているのかもしれません。

みなさんも沖縄の旬のうつわと藤田さんの生み出す心地よい空間に触れ合いに、楽園に出かけてみては。

<取材協力>
GARB DOMINGO
沖縄県那覇市壺屋1-6-3
098-988-0244
http://www.garbdomingo.com/

文 : 坂田未希子
写真 : 武安弘毅

80年間変わらぬ味でお客さんを迎える「おでん若葉」

金沢に出かけるとなると、やっぱり北陸の新鮮なお魚が食べたい!と思うのですが、実は「おでん」も名物とのこと。

なんでも数年前、某テレビ番組で、当時のタウンページに記載されているおでん屋の数を人口で割ったところ、全国で石川県がもっとも多いと紹介されたのをきっかけに、「金沢おでん」として注目されるようになったそうです。

観光情報誌などによると、あっさり風味の出汁に、車麩やバイ貝、冬は香箱カニが名物だとか。
それは知らなんだ。ぜひとも味わってみたい。そんなわけで今回の「産地で晩酌」は金沢おでんをいただきます。

兼六園から15分。いわしのつみれが名物の「若葉」へ

向かったのは昭和10年創業の老舗「おでん若葉」。兼六園から歩いて15分ほどの、繁華街から少し離れた商店街にあります。

暖簾をくぐると、ふわっといい香り。食べごろのおでんが出迎えてくれました。

金沢おでん若葉

カウンターに座り、おでん鍋をのぞきながらなにを食べようかと考えるのが至福の時間。金沢おでん名物のバイ貝と、店主おすすめのいわしのつみれに、大根とフキをいただきました。

金沢おでん若葉のいわしのつみれ

噛むほどにねっとりとした旨みのあるバイ貝、特製の白味噌をつけていただく大根。創業以来、継ぎ足して使う煮干しベースの出汁も、おでん種の旨みが加わり格別な味わいです。加えて、どれも大きくて食べ応え抜群。

「当たり前の大きさでやってますが、みなさんびっくりされますね」と言うのは、3代目の吉川政史さん。2代目のお父さんが作る自家製のつみれは、いわしと玉ねぎ、生姜、卵、片栗粉が入り、外はしっかり中はふわふわです。

「みなさん、つみれを食べにおいでになります。ほかの店は固いのが多いので、うちのを食べてイメージが変わったと言われますね」

口の中でほろほろ溶けていくのに、つみれ特有の骨の食感もちゃんと残っていて、確かに食べたことのないつみれです。いわしの脂の乗り具合でつなぎの分量を変えているそうで、「脂がのってるときは、中はトロトロ」なのだとか。

おでん若葉3代目の吉川政史さん
3代目の吉川政史さん

お客さんに声をかけながら、黙々と調理をする政史さんに、金沢おでんの特徴を聞いてみると、「急に“金沢おでん”なんて言われてねぇ」と苦笑。

あぁやっぱり。実はお店に伺う前、取材先で会う人ごとに「おでん」の話を聞いてみたところ、みなさん「なんだか急に騒ぎ出して」と同じような答え。人気店は地元の人が入れなくなってしまったり、「おでん」を出していなかった店まで出すようになったりしているそうです。

「自分らは“金沢おでん”としてやってるわけではないし、店々で味も全然違うと思いますよ。金沢おでんていうと車麩みたいに言われてますけど、うちは、いわしのつみれ、土手焼き、茶飯が名物で、あとはみなさんの好き好きですね。大根もフキも一年中ありますし、もう、ほんとにずっと変わらない、同じです」

突如訪れたブームにもスタイルを変えることなく、いつも通りの味でお客さんを迎える。特徴を見つけようとしたことがなんだか恥ずかしくなりました。

白味噌とたっぷりネギの土手焼きも

おでん若葉の土手焼きの特製鍋
土手焼きの特製鍋

土手焼きも定番メニューのようですが、これも決まりがあるわけでなく、お店によって様々だそう。若葉では、串に刺した豚バラを専用の鍋で茹で、白味噌とたっぷりのネギでいただきます。

おでん若葉の名物、土手焼きと茶飯

うまいっ!

豚の脂と味噌が絡み合って抜群の美味しさ。幸せ。いくらでも食べられそうです。煎茶で炊くという茶飯も滋味深く、おでんにぴったりの味わいです。

おでん若葉
おでんは100円からとリーズナブル

こんなに話題になる前から、金沢おでんに注目していたのが作家の五木寛之さんです。

「金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。(中略)ガメ湯からあがって、厳しい寒気のなかを<わか葉>に駆け込む気分は最高だった。」(五木寛之『小立野刑務所裏』より)

若葉は、一時期、金沢に暮らしていた五木さんがよく訪れていた店としても知られています。

「何年か前にも取材できたり、ひとりでふらりとおいでになりましたね。この味を懐かしんでくれてるみたいで」

金沢おでん若葉

創業から80年以上、ずっと同じ場所で営業を続けてきた、おでん若葉。「お客さんが来たらすぐに出せるように」仕込みは朝9時すぎから。はじめてなのに懐かしいような、ほっとできる味を求めて、帰省したときには必ず来てくれるお客さん、家族4代続けて通っているお客さん、お鍋を持って買いに来るお客さん、金沢おでんを楽しみに来た観光客、今日も若葉は大勢のお客さんで賑わっています。

<取材協力>
おでん若葉
石川県金沢市石引2-7-11
076-231-1876
月曜日定休

赤ちゃんの体調がわかる?高知サンゴのベビーブレス

出雲の「勾玉」や飛騨高山の「さるぼぼ」など、全国各地にその土地土地の材料や風土から生まれたお守りがあります。

この連載ではそんなご当地ならではのお守りを紹介します。

今回は、高知に昔から伝わる赤ちゃんのお守り、サンゴでできた「ベビーブレス」です。

高知サンゴ工房ベビーブレス

サンゴは魔除けや厄除けのお守りとしても知られていますが、このお守りは、言葉を話せない赤ちゃんの「代わり」を務めてくれるといいます。

どんな「代わり」を務めてくれるのでしょうか。

実物を見に高知へ向かいました。

よさこい節に登場する“かんざし”もサンゴ

全国のサンゴ製品の8割以上を生産する高知県。

古くから伝わる民謡「よさこい節」の一節で、高知の夏の風物詩「よさこい祭り」の曲の1フレーズにもなっている

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た」

竹林寺の僧侶と鋳掛屋の娘・お馬との悲恋を歌ったものですが、僧侶が娘のために買ったかんざしも、サンゴのかんざしだそう。

高知では昔からサンゴが身近にあったことがわかります。

今回訪ねたのは1965年創業の高知サンゴ工房。

高知サンゴ工房

店舗と工房が併設され、高知でも珍しい、作り手さんから直接、サンゴ商品を購入できるお店です。

高知サンゴ工房店内
高知サンゴ工房平田勝幸さん

二代目の平田勝幸さんにお話を伺いました。

原木の質がいい高知のサンゴ

日本では、高知のほか小笠原諸島、奄美大島でも採れるそうですが、全て高知で水揚げされるそうです。

「加工する職人が他にいないんです。高知が一番多いので」

加工する職人さんがいる高知に材料が集まってくるんですね。

「高知で採れる原木は質もすごくいいんですよ。同じ赤サンゴでも小笠原や奄美のほうで採れたものと、高知のものは全然違ってきます」

採れる海の場所によって色も違うそうです。

「室戸の沖で採れる赤サンゴは、最高品質のものです」

店内のディスプレイにある、サンゴ漁に使われる専用の網

現在は水揚げ量が減ってしまったものの、高知では古くから魔除けとしてお数珠にしたり、お守りとして身につけていたそうです。

赤ちゃんの発熱を教えてくれるお守り

店内のショーケースには赤、白、ピンク、色とりどりのサンゴの商品が並んでいます。

その中にありました。

赤ちゃんのお守りベビーブレス。

高知サンゴ工房

赤ちゃんの小さな腕にぴったりな、小さくて可愛らしいお守りです。

「サンゴは体から出る水量で光沢がなくなるので、赤ちゃんが発熱すると汗で色が変わるんです」

なるほど。言葉で伝えられない赤ちゃんに変わって、体調の変化を知らせてくれるわけですね。

赤ちゃんは熱も測りにくいので、ちょっとした変化に気付けるのはありがたいです。

赤ちゃんのためでもあり、お母さんのお守りなのかもしれません。

「赤ちゃんがなめてもカルシウム100%なので大丈夫です」

高知では子どもからお年寄りまで幅広い年齢で親しまれ、大切にされてきたサンゴ。

高知サンゴ工房さんには小学生が買いにくることもあるそうです。

「この間も、近所の女の子がお姉ちゃんときて、“お小遣いで買えるものだけにしなさいよ”って、イヤリングを買って行きました」

かわいらしいですね。ずっと欲しいなって思って買いに来たんでしょうね。

「今は材料が高くなって、小学生が買えるようなものがなかなかできないんですが、嬉しいですね」

今ではとても貴重なものとなったサンゴ。

お祝いや自身へのお守りに持ち帰りたくなりました。

<取材協力>
高知サンゴ工房
高知市桟橋通4-7-1
088-831-2691
http://www.kochi-sango.com/index.html