学校から職人デビュー。京都で出会った今どきのものづくり事情

職人になるには、弟子入りして生活を共にしながら長い修行期間を経て‥‥以外にも、最近は道があるようです。

学生から伝統工芸の職人を目指せる「京都伝統工芸大学校」。

京都伝統工芸大学校でろくろをまわす学生
京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生

キャンパスがあるのは、数多くのものづくりが今も息づく街、京都。

なんでもこの学校では、職人さんがこれまで10年かけて身に付けてきた技術を、より短期間で習得できるようカリキュラムを開発してきたのだとか。

これまで「東京都立工芸高等学校」「金沢職人大学校」を紹介してきたさんち編集部としては、紹介しないわけにはいきません。

一体どんな学校で、どんな人たちが学んでいるのか。キャンパスを訪ねてきました。

前編では学校について、後編では実習中の学生さんの様子をレポートします。

10年かかったものを最短2年で習得?

京都府南丹市。緑豊かな山間にある「京都伝統工芸大学校」。

「1995年の開校から、創立24年になります。伝統工芸技術の後継者育成を目的としてはじまりました」

そう話すのは開校前から学校づくりに携わってきた教務部長・陶芸専攻の工藤良健先生。

京都伝統工芸大学校 教務部長・陶芸専攻 工藤良健先生

それまで、伝統工芸の後継者育成には時間がかかることが課題になっていたと言います。

「一人前になるには10年はかかります。それでも、昔は10歳頃に弟子入りして、20歳そこそこで一人前になれました。

今は高校を出てから入門することが多いので、10年経つと30歳近くなる。そこから自由にしろといってもなかなかできない、後継者になりにくいという課題がありました」

そこで、国と京都府、伝統工芸産業界が設立した京都伝統工芸産業支援センターの支援により、最短2年間で技術を習得するための学校を設立。

しかし、開校当初は短期間でどれだけ習得できるのか、半信半疑だったそうです。

「はじめてみると、短期間で驚くほど技術が身に付いたんです」

京都伝統工芸大学校 作品

「ものを作るのに時間はかかりますが、完成したものはほとんどプロと変わらないものができあがる。教えている方もびっくりしました」

期待以上の成果があったんですね。逆にいうと、従来はなぜ10年かかっていたのでしょうか。

「工房は利益を追求する必要があるので、教えることだけしているわけにいきません。だから時間がかかるんだと思います。でも教育に特化した環境を整えれば、短期間で習得することができるんです」

学生数も初年度は20数名だったものの、翌年は40名、80名と増え、10年間で300名ほどに。

中には、弟子入り志願をしたところ「うちに来る前に京都伝統工芸大学校で勉強してこい」と言われて入学した学生さんもいるそうです。

京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生

「毎年、卒業制作展を観に来られる方に“レベルが上がっていますね”と言われると、良かったなとほっとします。24年経って、学校のカリキュラムに間違いはなかったのだとの思いを強くしています」

一流の工芸士が講師という贅沢な環境

では、実際どんなことが学べるのでしょうか。

現在、コースは、工芸の基礎と技術を身に付ける「工芸コース」(2、3、4年制)と、工芸技術とデザインを学ぶ「工芸クリエイターコース」(4年制)の2つ。どちらも4年制は大学卒業資格を取得できます。

「3、4年制課程が7割近く、2年制課程は3割くらいと、3、4年制課程で入学する子が増えていますね。オープンキャンパスでも技術習得には時間がかかることを説明して、理解してもらった上で入学してもらっています」

専攻は、陶芸、木彫刻、仏像彫刻、木工芸、漆工芸、蒔絵、金属工芸、竹工芸、石彫刻、和紙工芸、京手描友禅の全11種。

京都伝統工芸大学校で制作中の学生

講師は、伝統工芸士をはじめ、現代の名工、京の名工など、各工芸界の一流の工芸士の方々ばかりです。

「最高の技術を持った方々に、直接、手とり足とり教えていただけるというのが、ここの学校の一番の魅力だと思います」

京都伝統工芸大学校での授業の様子

専攻の違う学生同士が交流できる

「環境もすごいんです。自然環境も設備も、世界一と自負しています」

と工藤さんがおっしゃる通り、総面積30万平方メートル、甲子園球場の約24倍という広大なキャンパスには、一人一台の電動ろくろを備えた「ろくろ実習室」をはじめとした各工芸の専用実習室。

京都伝統工芸大学校での授業の様子

竹工芸専攻で使う竹を取るための竹林まで、さまざまな環境と設備が充実しています。

竹工芸専攻で使う竹を採取する学生

「学生にはそれぞれ自分の机、スペースを与えられます。

何人かで使い分けるのではなく、一つの机には一人しか座れない。ものづくりだけでこれだけの設備、空間をとっているというのは、なかなか無い環境だと思います。

陶芸では、穴窯、薪で焚く窯を学生と一緒に作って焚いたりもするんですよ」

京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生

ものづくりをやりたい人にとっては理想郷のような環境ですね。

「そうですね。もうひとつ、いいところは専攻の違う学生同士が友だちになれるんです。そうすると、お互いにいろんな情報を得られたり、“ここに金物が欲しいんだけど作ってくれるか”と頼むこともできる。

将来的にはグループ展を開いたり、一生付き合っていける仲間ができるのは、羨ましい環境です」

一つの課題で作品100個を提出

一人に一つ机が与えられることからもわかるように、京都伝統工芸大学校の講義は約80%が実習。

そこには、伝統工芸の技術を学ぶのに大切な「反復練習」の要素があります。

「技術は反復練習によって身に付きます。例えば、陶芸では一つの課題に対して作品を100個提出します」

え!100個!

京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生

「1個できて終わりではなく、100個すべて揃っていなければなりません」

それが反復するということ。

「そうですね。50個くらいで一度見て、もう50個。とにかく100個を目標に」

もうひとつ大切なのが「言葉」。

「例えば、陶芸で窯の蓋を開けることを“窯をきる”と言うように、それぞれ専門用語や特殊な言葉があります。ゼロから弟子入りすると当然、道具の名前や言葉、工程、作業の内容、いろいろなものが通じません。

京都伝統工芸大学校  教務部長・陶芸専攻の工藤良健先生

でも、ここで勉強すれば、技術だけでなく日常的な会話の流れもある程度は理解できるので、職人としてすぐに役に立つんじゃないかと思います」

技術を学ぶというと、つい道具の使い方とかを考えてしまいますが、確かに言葉は重要ですね。

「以前、学生に手本を見せていた時に、道具が足りなくて、あれ?という仕草をしたら、学生が道具を出してくれたんです。この作業で必要なのはこの道具、そういうのがすっと出てくるのは、やっぱり勉強している成果だなと思いますね」

『ぎゅー』とか『んー』とか

自身も陶芸家である工藤さん。

「京都で勉強して職人をやっていました。一時期離れていたんですが、この近くで独立して、2年目くらいに学校ができるので誰か教えてくれないかと」

以来、学校づくりから携わり、開校時より陶芸を教えてきました。

「弟子をとったことがなく、教えるのも初めてで、最初は、やっぱり“言葉”に困りました。力を入れるとか、抜くという感覚をどう言葉で伝えればいいのか、苦労しました」

京都伝統工芸大学校 作品制作の様子

自分で作るときは何も考えずに作ることができる。でも、その技術を伝えるには言葉が必要となる。

「“力を入れて”と言っても、男の子と女の子では受け取る理解が違うんです。だから、「ぎゅー」とか「んー」とか、擬音を使いました」

技術を言葉に置き換える。学校とは、いかに理論をプラスして伝えるかだと工藤さんは言います。

京都伝統工芸大学校 作品制作の様子

「最初の頃、ここは職業訓練校みたいでした。理論なしに、できれば良い。一生懸命“できる”ように指導していました。

でも、理論がなければ学問ではない。技術を見様見真似で伝えるのではなく、そこには理論があって、方法や数値、いろんなものが付随されて学問になっていく。20数年経って、やっと学校らしくなってきました」

京都という恵まれた環境

「京都市内は博物館のような街並みですし、歩いているだけで国宝に出会えたり、お店でいろんなものが見られます。京都は伝統工芸を学ぶのに恵まれた環境にあるのも事実かもしれませんね」

講師も招きやすい土地柄だといいます。

「京都には、神社仏閣が多く、着物文化も残っているので、それにたずさわる伝統工芸の全てが京都にはある。現役の職人さんもいっぱいおられるので、声をかければ、講師としてすっと来ていただけるということもあります。

京都伝統工芸大学校での授業の様子

ほかの産地にも伝統工芸を学べる場はありますが、学べるものは限られています。ここは11専攻あって、11の業種の方に来ていただける。それはやはり、京都という土地柄だからこそだと思います」

学生のみなさんも、京都が大好きだそうです。

「地方から出てきて、卒業後も京都に残りたいという学生も多いですね。学校は京都から離れているので“悪いな、ここは京都じゃなくて”と言っているんですが(笑)」

ものづくりを学ぶのに素晴らしい環境が揃った京都伝統工芸大学校。

では、どんな人がどんな理由で学んでいるのでしょうか。

後編に続きます。

<取材協力>
京都伝統工芸大学校
京都府南丹市園部町二本松1-1
0771-63-1751(代)

文 : 坂田未希子
写真 : 木村正史

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日本で唯一、大きな桶を作る桶屋。その技術を受け継ぐのは蔵人たちだった

冬に最盛期を迎えるのがお酒の寒仕込みです。

昔ながらの仕込みに欠かせないものといえば大きな木桶。

現在、木桶仕込みをする酒蔵も少なくなり、この大桶を作る桶屋さんも全国で1軒だけになってしまいました。

かつて桶、樽の産地だった大阪の堺市で唯一となった、大桶を作る藤井製桶所を訪ねました。

木桶で一番大事なのは木目

「今は、日本酒の仕込桶を作ってます」

そう話すのは藤井製桶所3代目の上芝雄史(うえしば・たけし)さん。

藤井製桶所

案内していただいた広い工場には、桶の材料となる板があちこちに並んでいます。

藤井製桶所

「杉材を使います。赤い部分と白い部分があるでしょ。この境目を白線帯(はくせんたい)といって、これを取り込んで材を取ります」

藤井製桶所

白線帯は幅3mmくらいで密度が高く、アルコールが抜けにくいのだそう。

「この部分だけ使って日本酒の桶を作ります。直径4、50cmの原木から4枚しか取れない。非常に贅沢な取り方です」

藤井製桶所

木の中心の赤い部分は、味噌や醤油の桶を作る材料になるそうです。

「木桶で一番大事なのは木目。木目が上から下までしゅーっと真っ直ぐに通ってること。斜めになってると漏れる原因になります」

素材の見極めが肝心なことがよくわかりました。

いよいよ、ここからは桶づくり。まずは鉋がけから。

藤井製桶所

丸い桶を作るために側面に角度をつけていきます。

藤井製桶所
鉋の上を木材を滑らせて削っていく

角度の調整に使うのはカマと呼ばれる手製の道具。

藤井製桶所

細かく角度を確認しながら鉋をかけていきます。

藤井製桶所

板を繋ぐのは竹釘。

藤井製桶所

板を4、5枚繋いで、再び鉋をかけます。

藤井製桶所

桶の形が少し見えてきました。

工場の外では竹を削る作業をしています。

藤井製桶所
藤井製桶所

「箍(たが)の材料を作っています。長さ10mの竹を割って、節を全部落として、ツルツルにして編んでいくんです」

藤井製桶所
藤井製桶所
箍を編んで桶にはめる

今回、最後の桶を組む工程は見られませんでしたが、板を組んで箍をはめると桶が完成します。

藤井製桶所
20石(3600ℓ)の大桶

「組み立てるのは30分くらいですが大仕事です。それまでは単純作業の繰り返し。最後の仕上げは手で削りますから、体力もいりますね」

もともと桶屋は高給取りだった

藤井製桶所の創業は大正11年頃。

「初代がなぜ桶屋になったかと言うと、手間賃が大工の倍ぐらいあったから。桶屋は高級取りだったんです」

当時、全国の就労人口の2%は桶屋だったという記録も残っているほど桶屋は多く、それだけ需要もありました。

藤井製桶所

「生活の全てに桶が使われてました。ご飯を入れるお櫃、風呂桶、洗面桶、井戸から水を汲み上げるのも鶴瓶桶。あらゆる生活シーンの中に桶があったんです」

昔は赤ちゃんの産湯桶、洗濯桶、行水桶を3つ重ねて入れ子にしたものが結納品の一つだったそうです。

「それが戦後、10年ぐらいのうちに劇的に変わりました。焼け野原になったところに大量に住宅を立てるため、木材が高騰。逆に軍事産業がストップして鉄が余って安くなった。業界がガラッと入れ替わったんです」

酒、味噌、醤油などに使われていた木桶も、次第にホーローやFRP(強化プラスチック)に取って代わられるようになる。

藤井製桶所
FRPタンク

「そもそも、木桶は味噌や醤油なら150年ぐらいは使えます。今でも慶応時代の桶を使っていたりするぐらいだから、仕事の発生件数もそれほどあるわけじゃないので、必然的に仕事にあぶれる状態になってしまいます」

そのため、桶屋さんが次々と廃業していくことに。

そんな中、なぜ藤井製桶所は残っていけたのでしょうか。

お得意さんは工場

初代が堺で桶屋を始めた当時、すでに50軒ほどの桶屋があり、桶屋を営みはじめたのは最後の方だったそうです。

「新参者で、酒屋の仕事をしたくても取引先がなかったので、最初から他とは違う工場関係の仕事を手がけていました」

目をつけたのは桶の仕立て直し。全国の酒屋から中古の桶を引き取り、組み直して工場に収めました。

藤井製桶所

堺は戦前から化学産業が盛んだったため、戦中、戦後も仕事にあぶれることはなかったそうです。

高度成長期、工場でもステンレスやFRPタンクが使われるようになっても、木桶ならではの需要もありました。

例えば、カセットテープやビデオテープなどの記録媒体に使う磁性酸化鉄を作るのもそのひとつ。

「桶の中でカドミウムだとかいろんなものを化学反応させて、粒子を作るんです」

藤井製桶所

なんだかお酒の発酵みたいです。

「そうですね。木桶の一番のメリットは酸に強くて保温性があること。化学反応をさせるためには保温性が必要なんです。鉄やステンレスだと一定の温度で反応させることが難しくなるので、木桶が使われていました」

高さ10mもある大きな桶を作っていたこともあるそうです。

「工場の仕事をしていた桶屋は大阪でも3軒ぐらいあったかな。だけど、それも私のところ1軒になってしまいました」

桶屋の技術を活かした仕事

時代とともに工場の仕事も少なくなると、桶以外の仕事をするように。

「桶屋は円筒形のものを綺麗に組み合すという技術があるので、それを活かした仕事を請け負っていました」

公園のベンチや遊具などもそのひとつ。

「20数年やっていました。丸太と丸太を合わす、大工さんとはまた違う技術なですね。当時は人気があってたくさん作りましたけど、それもプラスチックやステンレスになってしまいましたね」

ほかにも、中古の桶を使った茶室、家具などさまざまなものを手がけたと言います。

事務所も桶の廃材で作ったもの。

藤井製桶所
30年以上前に建てた事務所。「廃材やし、こないに保つとは思ってなかった(笑)」
藤井製桶所

もちろん、それらの仕事をしながら桶の仕事も続けていました。

「なんせ桶の職人さんやから、彼らにとったら遊具はあんまり気が進まん。桶作ってる方がいいと(笑)」

その一方で、「どんな仕事であろうと自分のところでできると思ったら手にかける。桶の仕事自体を捨てなかったのが私のところが残った理由です」と言う上芝さん。

「仕事が続く状態、チームが残るという状態が長い間維持されてきたのがよかったのでしょうね。大桶づくりはチームで残らないとダメだから」

藤井製桶所

現在、藤井製桶所で桶作りに携わるのは上芝さんの兄弟と研修生の4名に加え、90歳を過ぎたお父さんも毎日工場で作業をしているそうです。

「職人がいなくなって、親方一人が残った桶屋さんもたくさんありました。仕事が来ても一人ではできないので、うちが下請けをするという時代もありましたね」

桶をずっと作ってこれたのは職人さんがいたから。

「そうですね」

美味しい味噌や醤油の蔵元には木桶が並んでいた

時代とともに使われなくなった木桶ですが、20年ほど前から、その良さが見直されてきたと言います。きっかけはテレビ番組でした。

「戦後、醤油や味噌の蔵元さんが一斉にホーローやFRPのタンクに買い換えた時、お金がなかったところは、仕方なしに木桶を使ってたんですが、そこの醤油や味噌がグルメ番組で取り上げられるようになったんです」

味にこだわる板前さんが使っている醤油や味噌を調べると、どこの蔵元にも木桶が並んでいました。

「木は断熱性と保温性が高いので、外気温が変わっても一定の温度を保つことができるんです。だから、発酵する時に、中にいる菌にとって住み心地がよく、仲間を増やしやすいんです。菌が活発に活動することで、お蔵さんのオリジナルの味が生み出されるわけですね」

藤井製桶所

木桶仕込みは熟成の段階で味に変化が出てきます。一方、FRPやステンレスタンクでは味の変化が進まないといいます。

「木桶仕込みのものには、他の桶で仕込んだものには入っていない物質がたくさん入っている。だから、複雑な味になる。味に深みが出てくるんです」

買い換えられずに木桶を使っていたことが、知らず知らずのうちに蔵の味を守ることに繋がっていたのです。

藤井製桶所
一番大きい100石桶の箍。今は注文する人がいないそう

蔵人たちの手で受け継がれる木桶作り

意外な形で見直されてきたことから、ここ10年、木桶仕込みで昔の味を取り戻そうとか、他とは違う味のものを作ろうという蔵元が増えてきたといいます。

とはいえ、「仕事の量は知れてます」と言う上芝さん。

「基本的に桶は長く使えるものですから。そういうもんを扱う業者はなかなか生き残れない。それは現実にありますね。だから、木桶を使いたいところは自分のところで作りなさいと。

私は技術指導はできるけど作るだけの体力はもうないから、そこから先は自分のところでやりなさいと。今、3軒くらいかな、ある程度自分のところでできるようになってきましたね」

この日、酒の仕込桶を作っていたのも、新潟にある今代司酒造の蔵人さんたちでした。

藤井製桶所
藤井製桶所

自分たちの味は自分たちで守っていく時代。

「これからは私らみたいなスタイルでチーム組んで、それだけで仕事を続けていくのには限界があると思います。自分の生活は酒蔵や醤油蔵の仕事で保証されてて、必要な時に桶を作る、直すということに移っていかないと。

新しい需要があって、桶職人で生活できるということであれば、過去30年の間に新しいチームができていて当たり前なんですが、できていないということは、やっぱり仕事がないですね」

和竹屋さんと木取り商があって、はじめて桶屋は成り立っていた

かつての新参者が最後の桶屋となった藤井製桶所。今後は2020年をめどに仕事を縮小していくといいます。

「得意先にはもう大きな桶はできませんよって、10年ぐらい前から伝えています。それまで何十年間、お得意さんとして仕事くれてる方々に迷惑をかけないために。

ところが、辞めるっていうのが業界で噂になって、ここ2、3年、わしのところも、わしのところも、って言うてくるところがあるんですが、ほとんどお断りしてます。辞めるんやったら作って欲しいっていう、駆け込み寺的な感覚で言ってくるところは、受けてないですね」

藤井製桶所

「昔は、箍を作る専門の和竹屋さんや、桶専門の材木を提供する木取り商があったんです。木取り商は、桶1個分の材料を1パックに仕立てて、それを桶屋に売る。和竹屋さんと木取り商があって、はじめて桶屋は成り立っていたんです」

ところが、この二つがなくなってしまった。

「だから、今は全部自分のところでやらないといけない。工具を作る鍛冶屋さんもなくなっているから、それも自分のところで作るということになってしまう。そういう時代に入ってるんです」

藤井製桶所

今になって急に「昔はよかった」といっても、なくなってしまったものが多すぎる。私たちは便利さを優先してきたことで大切なものを失ってきたのだと痛感しました。

桶の文化はこの先どうなるのでしょうか。

「根強いものは感じています。桶を作る業者はなくなるだろうけど、桶自体がなくなることはなさそうですね」

桶は資源を無駄なく使い、機能的で長持ちするとてもよいもの。

「桶がいい」と表面的なカッコよさだけで使うのではなく、木が持つ特性や本質的な部分でのよさを知った上で長く使ってほしい。

日本で唯一となった桶屋さんの思いを重く受け止めました。

<取材協力>
藤井製桶所

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子

目指すは左甚五郎!「ワクワクしながら庭づくりをしたい」京都で活躍する庭師の想い

「京都の若手庭師で、今いちばん実力があるのは一帆じゃないかな」

そう紹介されてお会いしたのは、猪鼻一帆(いのはな かずほ)さん。

名庭とされる庭が多く、いわゆる日本庭園の「産地」とも言える京都。そこで活躍する庭師とはどんな方なのでしょうか。彼の生き方や、庭作りへの考えについて、お話を伺ってきました。

京都で活躍する庭師の一人、猪鼻一帆さん

庭を見て、美しいと思えるか。

「いのはな夢創園」の二代目である猪鼻さん。両親共に庭師で、子どもの頃から仕事を手伝っていたものの、若い頃は造園屋以外の職につきたいと思っていたそうです。

理由を聞くと、「自分に庭造りの全てができると思えなかった」と話します。

「造園屋は面白さを感じるまでにすごく時間がかかる仕事です。木を切る、石を組む、木を植える、どれも全然違う仕事だし、庭を作ろうと思ったら電気工事も水道工事もできなあかん。いろんな要素があってひとつなんですよね、庭って」

それでも18歳の時、父親に「この家に生まれたからには修行に行け」と言われて熊本へ。「『庭』という雑誌に載ってた、かっこいい庭を作ってる方に電話をかけたんです。そこがたまたま、熊本でした(笑)」

修行に出たものの、仕事にすぐに興味を持てるはずもなく、毎日のように「辞めよう」と思っていたのだそう。

ところが、面白さはじんわりやってきます。

個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)
個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)

「庭を美しいと思える瞬間があるんです。自然を相手に仕事をしていると、いろんなものの道理みたいなのがぼんやりと見えてくる瞬間があります。そうすると庭の見方も変わってきて、その時からあれもこれも面白く感じられるようになりました」

気がついたらいつのまにか造園の仕事にのめり込んでいた。

「ハマるとすっごい魅力的なんですよね。広い場所をもらって、自分の頭で考えた美しいものを作らせてもらえた上に、お金までいただける。そしてみんなが褒めてくれるなんて、これ以上のことはないですね(笑)」

京都の庭師 猪鼻一帆

20代でいい庭はつくれない

造園の仕事で大切なのは積み重ね。

「例えば、竹垣を作るのは、1年間それだけやれば絶対に誰でもできること。それは技術じゃなくて知識やから。物が作れる、石を積めるのは大前提で、そこから何をするかが本当の僕らの技術です」

個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)
庭造りは、常に室内から見てどう映るかを計算する。木を植える時も建物からの奥行きを考えながらバランスを整える(写真提供:猪鼻一帆)

「自分のカードが多ければ多いほどいろんなことができるので、積み重ねが少ない20代でめっちゃいい庭を作る人はなかなかいません」

造園家としての積み重ねの中には、「茶道」や「華道」の知識も含まれます。

「どこの庭師でもそうですが、特に京都で仕事をするならお茶もお花も必要です。掛け軸や花入れのこと、出されたお菓子の意味をわかるかどうかで、仕事も変わってきます。その知識が茶庭造りにもつながってくるからです」

個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)
手水鉢の石質によっては苔を生やせることができ、造形物が自然と同化していく景色が見られる。庭の手前に瓦の通路を直線で通すことで、石や木の輪郭が引き締まって見える(写真提供:猪鼻一帆)

「伝統を知っていればお客さんに伝えられるし、お客さんもそれを来客に話したくなる。そうやって“庭”という空間を愛してくれる人が増えると、僕たちはすごくうれしいです」

“ひび”に込められた想い

庭を作るのも好きだけど、植物や石などの後ろにある物語が好きだという猪鼻さん。

個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)
石や木は一つとして同じ物は無く、皆個性を持っている。それらを配置して設えるのが庭。その後、植物が庭をゆっくり飲み込んでいくことで、完成されない美しさが現れる(写真提供:猪鼻一帆)

「利休が作った園城寺(おんじょうじ)という花入れがあります」

園城寺は、天正18年、秀吉の小田原攻めに帯同した利休が、秀吉との最後の茶席に飾ったという竹の花入れで、国宝にもなっています。

「その花入れには、ひびが入っているんです」

雪割れと言って、何百本かに1本、寒さで竹の節が黒ずんで、ひびが入ることがあるそうです。

物語があるのは、その「ひび」。

「園城寺(滋賀県・三井寺)には“弁慶の引き摺り鐘”があって、それは弁慶が奪って比叡山まで引き上げていったという伝説の鐘で、その時の傷や破れが残ってるんです。

利休は雪割れを破れた鐘にちなんで、自分とあなたの関係性が修復できないという想いを表したと言われています。まぁ、完成されていない美しさを求めていたのかもしれませんね」

個人宅の庭。猪鼻さん作庭(写真提供:猪鼻一帆)
2本の石橋を繋ぐのは、江戸時代の分銅を模した金属のクサビ。そこにある物語を想像するのも面白い(写真提供:猪鼻一帆)

雪割れはとてもきれいだそうです。

「お茶関係の人はこの話を知ってる人が多いので、竹屋さんで雪割れを見つけたら真っ先にとって園城寺を作ります。もらった時にすごいシビレるというか、この人そこまでの物語を知っててこれを私に贈ったんだと思うと嬉しいですよね」

人や国、様々な縁を繋いでいく

猪鼻さんの作る庭にも物語があります。

こちらは、2014年にハウステンボス主催のガーデニングワールドカップに出場した時の庭「悟りの夢枕(木火土金水)」。

人が産まれ人生を歩む中で、未来へと続く希望が表現されています。

「悟りの夢枕(木火土金水)」生まれる前の世界から、トンネルをくぐっていく
生まれる前の世界から、トンネルをくぐっていく
「悟りの夢枕(木火土金水)」トンネルは産道でもある
トンネルは産道でもある
トンネルを抜けると人生が広がる。タイルを使った飛び石は、五行(木・火・土・金・水)の元素を色で表している。飛び石を苦楽と共に自分で選択し踏みしめて人生を歩んでいく
トンネルを抜けると人生が広がる。タイルを使った飛び石は、五行(木・火・土・金・水)の元素を色で表している。飛び石を苦楽と共に自分で選択し踏みしめて人生を歩んでいく

世界の一流デザイナーが参加したこの大会で、猪鼻さんは見事、金賞を受賞。

これをきっかけに自分の中の意識も変わったといいます。

「精神的にも肉体的にも辛かったですけど、自信にも繋がりました。考え方も柔軟になったのかな」

大会で猪鼻さんを全面的にサポートしたのは、以前、さんちで紹介した長崎・波佐見町の庭師・山口陽介さんです
大会で猪鼻さんを全面的にサポートしたのは、以前、さんちで紹介した長崎・波佐見町の庭師・山口陽介さん(左)です

2016年には、「シンガポール・ガーデンフェスティバル」に参加。こちらでも金賞を受賞しました。

庭を通して、人や国、様々な縁を繋いでいく。この先の活躍が楽しみです。

手水鉢のコウモリに見る侘び寂び

さて、これはなんでしょう。

猪鼻一帆さんの門松
(写真提供:猪鼻一帆)

杉の葉を使い瓢箪を模した猪鼻さん作の門松。

なんとも可愛らしい形が印象的です。

とても斬新な門松。京都は伝統と文化を重んじる印象がありますが、その中で、このような新しいものを作っていくのは大変ではないのでしょうか?

「400年くらい前までは、お菓子でも器でも文化でも中国から来たものが最上で、安土桃山時代になって、利休たちが活躍して、文化や美しさの概念を変えていった。

だから、京都は常に伝統を変えようとしてきた場所のはずなんです。もしかすると、それを“伝統”と言い始めた頃から止まってるのかもしれません」

猪鼻一帆

「もちろん、アバンギャルドな人もいっぱいます。以前、見たことのある手水鉢には、覗き込まないと見えないぐらいのところにコウモリの模様が彫ってあったんです。すごいオシャレなことしてるんですよ。それを誰に伝えたかったのかはわからないですけど、たぶん彫りながら自分でニヤニヤしてるんじゃないかと」

それが庭の世界の“侘び寂び”。

「見せたいものを敢えて見せなかったり、敢えて歩きにくい道を作ったりするのが“詫び”。それを受け取って楽しむのが“錆び”。受け取る側の器の広さというか、コウモリの柄を見つけられたことで作り手とやりとりできるところに面白さがあります。

わかりやすいこともいいことではありますが、わかる人だけにわかるというのもあっていいと思うんです。それが一番ええとは言いませんけど、でもそれも面白いですよね」

ワクワクしながら作ったものは見てわかる

「18でこの世界に入って、20年ですが、最近になってようやく自分がやりたいことを本当にやらせてもらえるようになりました」という猪鼻さん。

猪鼻さん作庭、帽子ブランド「MANIERA」南青山店の坪庭
猪鼻さん作庭、帽子ブランド「MANIERA」南青山店の坪庭(写真提供:猪鼻一帆)
樹歴100年以上の山桜の根に水鉢を入れ込み、太い根が石を引き上げる一瞬をイメージ
樹歴100年以上の山桜の根に水鉢を入れ込み、太い根が石を引き上げる一瞬をイメージ(写真提供:猪鼻一帆)

これから、どんな庭師になりたいのかと尋ねると、江戸時代の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)の話になりました。

ある時、彫り物勝負で鯉を彫ったら、甚五郎の鯉はとても魚には見えない仕上がりだった。ところが、池に放つとまるで泳いでいるかのように見える。「鯉は水の中にいてこそ鯉」と言ったとか。

またある時、ネズミの彫刻で腕を競うことになった甚五郎。両者のネズミは見事な出来栄え。甲乙つけがたく、ネズミの専門家である猫に鑑定させることに。すると、猫は一方のネズミに噛みつくもすぐに吐き捨て、甚五郎のネズミをくわえて逃げたという。

「実はこのネズミ、鰹節で彫られていたんです(笑)」

この話が大好きだと言う猪鼻さん。

「甚五郎はじめ、ものづくりに卓越した人には”ものづくりを積み重ねたからこそ表現できるユーモア”があって、その部分に痺れます。そんな風にワクワクしながら庭造りをしたい。魯山人(ろさんじん)も『楽しみながら作ったものは作品を見ればわかる』と言っていますが、僕もそういう世界にいたいと思っています」

猪鼻一帆さん

「いつの時代でも伝統っていうのは、“守るもの”じゃなくて“変えるもの”なんです。いつか、『伝統』と言われるような新しい文化を僕は作っていきたい。左甚五郎みたいに楽しみながら、ね。

これだけは言える。僕は、この仕事を一番楽しんでる人間じゃないかな」

伝統があるからこそ、その先にも進める。

新しい文化をつくり続ける庭師の手で、京都の庭はまだまだ変化していきそうです。

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猪鼻一帆さんに京都の庭を案内してもらいました。なんと、京都の竹がなかったら電気はなかったかもしれないのだそうです。

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稀代の左官・挾土秀平が語る。ものづくりの果てなき苦悩と無限の可能性

挾土秀平インタビュー

「助かった、神様ありがとう」左官として、日本で唯一無二の地位を築いている挾土秀平さんは、ひとつの現場が無事に終わるたびに、そう思うのだそう。
NHK大河ドラマ『真田丸』の題字、総理公邸、洞爺湖サミット会議場、アマン東京、JALファーストクラスラウンジ……。「日本の顔」となる場所の土壁を手がける「職人社 秀平組」。
「休む方法を探さんと死ぬぞ」と医者に言われながら、「一家の親分として、自分を殺してでも仲間を守る」という挾土さんの人生・仕事観に迫りました。

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庭を知ると旅の景色が変わる。世界の庭師とめぐる、山と庭園

波佐見の庭師 山口陽介と巡る庭


計算してつくり出される光と影。一つひとつに意味が込められた敷石。
そんな庭があるのを知っていますか?
数々の受賞履歴を誇る、日本屈指の庭師から庭の見方や楽しみ方を教わりながら、今までに見たことのない「庭」を探訪してみましょう。

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“This is a pen”だけで単身渡英した25歳が「世界の庭師」になるまで

波佐見の庭師 山口陽介

2016年、世界三大ガーデンフェスティバルのひとつで金賞に輝き、国内外を飛び回るスゴ腕の庭師・山口陽介さん。波佐見町の造園会社の2代目だった彼はなぜ海外へ?
そして、荒れた山を買い、波佐見町で「究極の庭づくり」を手がける理由とは?
彼の原点、歩み、そして100年後を見据える眼差しを追いました。

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<取材協力>
いのはな 夢創園
京都市伏見区日野岡西町4-30
075-572-1546

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子

誕生から60年。変わらぬデザインで愛されてきた鳩の砂糖壺

みなさん、「農民美術」をご存知ですか?

大正期、版画家で洋画家の山本鼎(やまもと・かなえ)が、ロシアで出会った無名の農民たちの美術作品に感銘を受け、日本でも農閑期に絵画や木彫りの工芸品などを作ることで生活を豊かにしようと始めた運動です。

農民美術の代表作の一つが木彫りの人形。

鳩の砂糖壺

北は樺太から南は鹿児島まで、全国100ヶ所余りで人形作りの講習会が開かれ、運動が広まりました。

手のひらサイズの小さな人形で、各地の土産物として売られていました。

鳩の砂糖壺
戦地にも送られていたという親指サイズの登山人形

農民美術発祥の地である長野県上田市。

かつては多くの人が作品作りに携わっていましたが、現在は少なくなってきたといいます。

そんな中、誕生から60年以上経った今も人気の品があります。

鳩の砂糖壺です。

鳩の砂糖壺
鳩の砂糖壺
フタを開けると、尻尾の部分がスプーンに!

素朴な風合いが可愛らしく、昔から結婚式の引き出物などに使われてきたそうです。

長く愛されてきた魅力はどこにあるのでしょうか。

北欧のデザインを元に

長野県須坂市にある工房「すの・くらふと」を尋ねると、色とりどりの鳩たちが出迎えてくれました。

鳩の砂糖壺

「昔は赤と茶色の砂糖壺だけでしたが、今はボンボン入れ、爪楊枝入れ、香合の4種類、色も6色になりました」

そう話すのは、製作者の春原敏之(すのはら・としゆき)さん。

「バリエーションは増えましたが、基本的なデザインはほとんど変わっていません」

上田市出身の春原さんは、現在75歳。小学生の頃から叔父たちがはじめた工房に出入りし、仕事を手伝っていたそうです。

鳩の砂糖壺
爪楊枝入れ

「叔父はお皿や実用品を作っていました。砂糖壺はいつから作っているのかわかりませんが、僕が中学生の頃にはもうありましたね」

現代風というか、60年以上前から作っているものとは思いませんでした。

「山本鼎がヨーロッパから持ち帰った鳩の菓子器をヒントにしたようです。北欧のデザインがもとになっているので、モダンなのかもしれませんね」

ロクロ挽きの職人さんと二人三脚

春原さんが本格的に工房の仕事を始めたのは中学生の頃。

「学校から帰ったらすぐ工房に行ってました。やらされてたわけじゃなくて、好きだったんです。色を塗ったり、ノミを使ったり、ロクロを挽くこともありました」

その後、現代美術の世界へ。

「図案を描く勉強のために絵をはじめたんだけど、東京の展覧会に出したら入選して、農民美術をやりながら絵も描いてました」

鳩の砂糖壺

伊勢丹で家庭用品のクリエイターとして働いた経験もあるそうです。

「当時は木工ブームで、家庭用品売り場もヨーロッパのものを並べたりして、賑やかでした。全国の工芸品を見て回ったり、一緒にデザインを考えたり、楽しかったですね」

現代美術作家としての活動も続けながら、25年前に工房を引き継いだ春原さん。

現在は、上田の工房で長年働くロクロ挽きの職人・丸山さんが生地を作り、春原さんが色塗りと模様を彫るという、二人三脚で製作しています。

黙々とこなす職人仕事

色塗りの工程を見せていただきました。

こちらは上田から届いた生地。材料は白樺を使います。

鳩の砂糖壺

「白樺は白いので、色を塗るときれいに発色するんです」

赤の色は、赤と黄色の顔料を混ぜて作ります。

鳩の砂糖壺

「顔料は計りで測っています。昔から比率は同じ、解かす溶液のパーセンテージも同じ。色が昔と変わらないようにしています」

刷毛で手早く塗っていきます。

鳩の砂糖壺
鳩の砂糖壺

1度塗ったら乾かし、乾いたらサンドペーパーをかけて磨いてから上塗り。

鳩の砂糖壺

これを3回繰り返し、最後に彫刻刀で模様を彫り、色を塗って完成です。

鳩の砂糖壺

「30個塗るのに3日くらい。単純作業なので黙々と。職人仕事ですね。その心みたいなものがないとできませんね」

材料の準備に1年間かかる

製作工程で一番大変なのは材料作り。白樺の木の皮を剥くところからはじまります。

「毎年、2mの白樺を100本から200本、皮を剥きます。そうしないと虫が入ったり、割れる原因にもなるので」

2週間以上かかって皮を剥いた後は、1年間乾燥させて、ようやく材料となります。

手間はかかるものの、白樺は身近で手に入るので値段が安く、柔らかいからノミも入れやすいので、砂糖壺作りには欠かせない材料です。

鳩の砂糖壺

ところが、近年、白樺が手に入りにくくなっているといいます。

「以前は山を整備するときの間伐材をもらってたんですが、白樺林は長野県の観光地にもなっているので、行政が切らない方針になってきたんです。今年は切る予定がないので、今、材料を探しているところです」

来年の分はあっても、次の年の分がない。北海道から取り寄せることもあるそうですが、そうすると材料代が高くなってしまう。

結果的に1年間作れなかった年もあるそうです。

「最初は砂糖壺だけだったのが小物を作るようになったのは、木材の細い部分でも作れるものを考えてのことです」

鳩の砂糖壺
香合を使った朱肉入れ

実用品から始まった農民美術

春原さんは鳩シリーズの他にも作品を手がけています。

こちらは、上田市・サントミューゼで開催された展覧会『ウィリアム・モリス 英国の風景とともにめぐるデザインの軌跡』で販売された木箱。

鳩の砂糖壺

「モリスの柳のモチーフをイメージしてデザインしました」

竹久夢二が好きだという春原さん。長野の高山植物や身の回りの草花をデザインするのは楽しいそうです。

鳩の砂糖壺
鳩の砂糖壺
よく見ると「LOVE」の文字に

どれも可愛らしく、手元に置きたくなるものばかりです。

「もともと、農民美術は実用品からはじまったものです。身近なものに和みを与えるというのが魅力だと思います」

時代の流れとともに、農民美術品が作家性の高いものになっていく中、あえて実用品にこだわっているという春原さん。

「飾り物ではなく、日常で使うものに喜びや趣味的な要素を加えたいですね」

鳩の砂糖壺

生活が豊かな気分になります。

「うちは代々、実用品を作ってきているんで、職人に徹して、大儲けすることは考えず、作ることを楽んでいます」

使ってこそ価値のある逸品

農民美術は、大正8年(1919)に初の講習会を開いてから、来年2019年で100周年を迎えます。

「この先は難しいですね。これだけでは生活できません」

現在、長野県で農民美術に携わっているのは12人ほど。後継者も少ないそうです。

春原さんの工房もかつてはたくさんいた職人さんも一人となり、後継者はいないと言います。

「この先何年続けられるかわからないけど、その間に後継者が見つかれば伝統にこだわらず、ノウハウは全て教えたいですね」

鳩の砂糖壺
お話を伺った春原敏之さん

貧しい農民の生活を豊かにしたいという想いからはじまった農民美術。

そのスピリットを受け継いだ鳩の砂糖壺は、飾るのではなく、使ってこそ価値のある逸品。

上田市にある栄屋工芸店やサントミューゼのミュージアムショップ、小諸市のギャラリーまきのでは鳩の砂糖壺をはじめ、春原さんの作品がたくさん並んでいます。

手元に置いて、毎日の生活に彩りを添えてみてはいかがでしょうか。

文・写真:坂田未希子

なんとも可愛い猫つぐら。雪国生まれの買える手仕事

冬本番。雪の降り積もっている地域もあるのではないでしょうか。

日本有数の豪雪地帯といわれる、長野県栄村。

ここでは、稲刈りが終わると冬支度をはじめ、遅い時は5月の連休頃にようやく農作業が始められるということもあるくらい、長い冬を過ごします。

そんな栄村では、古くから冬の間の手仕事として稲藁を使った民具などが作られてきました。

籠状に編む「つぐら」もそのひとつ。

赤ちゃんを入れて寝かせておく「ぼぼ(赤ちゃん)つぐら」、おひつを入れる「飯つぐら」など、「栄村つぐら」として長野県の伝統工芸品に指定されています。

猫つぐら
ぼぼつぐら

本日ご紹介するのは、つぐらの中でも猫のために作られた「猫つぐら」です。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

保温性に優れ、暖かくて狭いところが好きな猫にぴったり。

雪国らしい、かまくらにも似たころんとした形が可愛らしく、愛猫家の方にも人気のようです。

どんな方たちが作っているのか、栄村を訪ね、その手仕事を見せていただきました。

冬の楽しみだった生活民具作り

長野県北端、新潟県との県境にある栄村。山々に囲まれ、冬は雪に閉ざされます。

「冬は何もできなくなるので、昔からみんなで蓑(みの)やつぐら、草履、米俵なんかを作っていました」

そう話すのは栄村公民館の島崎佳美さん。

「雪かき以外にやることがないので、冬の楽しみでもあったようです」

公民館の2階には、昔の民具が展示されています。

猫つぐら

これは大根つぐら。

猫つぐら
大根つぐらは今も作って使っている人もいる

冬の間、大根を入れておくと、いい湿度と温度で新鮮なまま保存できます。

これは大正時代に作られた猫つぐら。

猫つぐら

今のものより大胆に編まれています。

「“つぐら”は栄村だけでなく、雪の多いところでは似たようなものがどこにもあるようです。生活民具ですね」

自慢の民具を見せ合う「田舎百貨店」の始まり

農家の手仕事として作られていた「猫つぐら」が商品となったのは30年ほど前のこと。

「新潟県の関川村で商品化しているという話を聞いて、栄村でも作りたいと視察に行ったのがきっかけです」

多くの村民が猫つぐら作りに携わるようになり、品評会として「田舎百貨店」を開催することに。

「3月の終わり、畑が始まる前に冬の仕事の集大成を発表する場になっていました」

猫つぐらだけでなく、自分の発想で作った作品が村民会館の廊下に並べられ、優秀な作品には「田舎大賞」が贈られたそうです。

「たぶん、村民に自分たちの技術や文化に誇りを持って欲しいという、当時の村長の想いがあったんだと思います。

村民も張り合いになってたんでしょうね。田舎百貨店に向けて、今年は何作るかなって」

村外からもお客さんが来るほどの賑わいとなり、10年ほど続きましたが、村の体制が変わったことで現在は開催されていないそうです。

藁の確保が一仕事

では、猫つぐらはどのように作られるのでしょうか。

まずは材料となる「藁づくり」から始まります。

稲を刈ったら「はぜ掛け」をして、1週間から10日ほど天日で乾燥させます。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

その後、脱穀して籾(もみ)を落とし、表面についている「すべ(皮)」を取り除きます。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

次に、きれいに編めるよう干した藁を叩いて、茎を柔らかくして完成です。

猫つぐら
栄村には藁を叩くための専用の機械もある(写真提供:栄村公民館)

藁にも良し悪しがあり、9月の彼岸頃までに籾落としをした藁でないと色が悪いのだそう。

今年は稲刈り時期に雨が続き、いいタイミングで日干しができた藁が少なく、いい藁ができなかったといいます。

また、栄村は米どころですが、藁を干さずに粉砕している農家が多く、藁を確保するのが年々大変になっているそうです。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

いよいよ、猫つぐらを編んでいきます

藁の準備ができると、ようやく編み始めます。

まずは底編み。藁で輪を作り、1本ずつ藁を差し込み、目を増やしながら渦巻き状に編んでいきます。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

底が出来上がったら、胴編み。底から真っ直ぐに立ち上げて、側面と出入り口部分を作ります。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

次に、天井部分。目を減らしながらドーム状に編んでいきます。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

最後に持ち手をつけて完成。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)

すべて手作りのため、ひとつ作るのに10日間ちかくかかり、冬の間に作れる数も限られてきます。

カッコよさにこだわって30年

第4回と第10回に「田舎大賞」を受賞した、猫つぐら名人の藤木金寿(ふじき・かねとし)さんに、作業を見せていただきました。

胴編みが終わって、天井部分を編んでいるところです。

猫つぐら
猫つぐら

現在91歳、猫つぐらを作り始めて30年以上になる金寿さん。

名人ならではのこだわりがたくさんあります。

例えば藁作り。日干しして皮を取り除いた後、もう一度日干し。

それを叩いて、取り残した皮をとってきれいにします。

猫つぐら
(写真提供:栄村公民館)
猫つぐら
藁の準備は妻・みちさんが担当(写真提供:栄村公民館)

さらに、藁の中でも状態のいいものを選り分け、出入り口のある正面部分を作るときに使うのもこだわり。

猫つぐら

編み込むときも「藁を平ら一律に差さないと、ぼさぼさのができちゃう」のだそう。

猫つぐら

どこを作るのが一番大変なのでしょうか。

「どこっていうか、縁のところがなかなか覚えらんねぇでさ」

猫つぐら

「前はこうしてなかったんだけど、誰かが作ってるの見てさ、これカッコいいなって。教わったわけじゃなくて、うちの亡くなったばあさんが蓑を作るときにそんなのをやってたのを思い出して、こうやるんでないかなって。

はじめはわからんでなぁ。覚えちまえばなるほど簡単なんだけど、覚えるまではなかなかうまくできなくて」

猫つぐら
猫つぐら名人、藤木金寿さん

カッコよく作りたい。

「まぁ、そういうことだよね。そういう気持ちでなければ上達はしねぇやな。よし、こんだおれもって。上手な人のを見てさ、“おぉ、これいいな”とかさ、いろいろ見てさ、そうすると研究になるわけだ」

カッコよさにこだわりぬいて作った猫つぐらがこちら。

猫つぐら

金寿さんの猫つぐらは、形がとても美しいのが最大の特徴。真上から見ても中心がずれることなく、きれいなドーム型になっています。

これほどきれいにつくるのはとても難しいといいます。

底からの立ち上げも真っ直ぐで、みんなが難しいという出入り口も歪むことなく、ほぼ同じ採寸で作れるのは金寿さんだけだそうです。

猫つぐら
猫つぐら
底の部分もとてもきれい

「なかなか満足いくものができない」と言う金寿さんですが、出来栄えにこだわり、一つひとつ丁寧な仕事をすることで、美しいものができるのだと実感しました。

文化財レスキューで保護された暮らしの歴史

2011年3月11日に起こった東日本大震災の翌日、栄村は震度6の地震に見舞われました。

10日間の避難所生活を強いられ、多くの古民家が全壊し、取り壊されることに。

そんな中、栄村の暮らしの歴史を守ろうと「文化財レスキュー」が行われました。

「全壊になった古民家の屋根裏に古い民具がたくさん残されていたんです。栄村がお世話になっていた大学の先生が、民具を保存しておかないと、栄村の暮らしの歴史が失われてしまうと、文化財保護の活動をしてくださったんです」と話す島崎さん。

公民館に展示されていた民具はその時に保護されたものだそうです。

猫つぐら

「民具を展示して、いろんな方に見ていただくことで、栄村の昔からの営みにもう一度光を当てて、村の技術や文化、郷土料理とかをしっかり伝えていこうと思っています」

手間がかかることから継承する人が増えない現状もあり、自分たちの文化を見直すことで、新しい可能性も見えてくるのではと、後継者育成のため猫つぐら教室を開いたり、蓑づくり、米俵づくりなどを開催しているそうです。

猫つぐら
猫つぐら教室の様子(写真提供:栄村公民館)

猫つぐらと一緒に栄村の風景を

現在、栄村の猫つぐらは委託販売のほか、栄村の直売所でも販売しています。

「ここに来ないと買えないようにしていけたらベストなんですけど」と島崎さんは言います。

「猫つぐらは、作る人によって形も違うので、実際に見て納得して買っていただくのが一番いいなと思って」

猫つぐら

なんでもネットで買えてしまう時代には、そこに行かないと買えないことは大きな付加価値になる。

初めて猫つぐらを見た時、かまくらに似ていて、雪国ならではの形なのかなと思いました。

「かまくらを見慣れているから、そんなイメージもあるかもしれないですね。猫つぐらと一緒にこの風景を見てもらった方がより深みも出ると思います」

一年の半分近くが雪に覆われる栄村。

この土地だからこそ生まれた「つぐら文化」。

ぜひ一度訪れて、冬の手仕事に触れてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
藤木金寿さん
栄村公民館
長野県下水内郡栄村大字堺9214-1
0269-87-2100

文・写真 : 坂田未希子

上を向いて歩こう!道頓堀の空を賑わす立体看板は大阪の文化なのだ

通天閣、太陽の塔など大阪名物はいろいろありますが、食い倒れの街・道頓堀といえば「立体看板」。

ポップ工芸

足を動かす巨大なカニをはじめ、フグやら餃子やら寿司やらが道頓堀の空を所狭しと埋め尽くしております。

こちらはラーメン屋さんの看板。

金龍ラーメン本店

ラーメン鉢を手にした龍が、あまりのおいしさでしょうか、看板を突き破って飛び出しています

ポップ工芸

よく見ると、尻尾の近くにプレートがあります。

ポップ工芸

龍を作った会社のようです。

いったいどんな会社なのでしょうか。

キャラクターが出迎える、楽しそうな仕事場に見えますが

八尾市にあるポップ工芸さんを訪ねました。

ポップ工芸
せんとくんがお出迎え!

入り口や倉庫の中には、所狭しとキャラクターたちが並んでいます。「どうぞ」と案内された先には、なんとお菓子の家!

ポップ工芸

「応接室代わりに小屋を作ったら、スタッフの女の子が飾ってくれて」と話すのはポップ工芸代表の中村雅英さん。

なんだかとっても楽しそうな仕事場に見えます。

「いやいや、結構キツイ仕事ですよ。発泡スチロールまみれになるし」

ポップ工芸さんでは「FRP造形」といって、発泡スチロールで原型を作ったものに、軽くて強度の高いFRP(強化プラスチック)加工を施した立体造形物を製作しています。

2mのゴジラより、2mのゴジラの「手だけ」を作る

道頓堀では、先ほどの龍をはじめ、多くの立体看板を手がけています。

ポップ工芸

「立体いうのは子供からお年寄り、どこの国の人にもすぐわかる看板。別にぜんぜん新しいことないんですよ。江戸時代には履物屋さんが大きな草履をぶら下げたり、キセル屋さんは大きなキセルぶら下げたり」

昔は文字が読めない人も多かったことから、誰でもわかる造形看板が主流だったそうです。

こちらは餃子屋さんの看板。

ポップ工芸
中村さん曰く「食品サンプルのお化け」

焼き目がリアルで美味しそうです!

ポップ工芸

看板の下側に、ひとつだけ大きい餃子があります。

「お皿から落ちてきたみたいな感じにしたくて。下から見ると迫力ありますよ!」

こちらは回転寿司のお店。寿司を握った手がぬっと飛び出すという、斬新な看板です。

ポップ工芸
ポップ工芸

「大きさは3mくらい。寿司だけで2mあるかな」

当初は、ネタがのったお皿を6枚並べるという依頼だったそうですが、この形に。

「6個作るよりも、大きいの1個だけドンと作った方がインパクトありますよいうて、場所も道頓堀いうから、それやったら手をつけた方が面白いよと、これになったんですわ。

看板は、例えば2mのゴジラを作るより、2mのゴジラの手だけの方が絶対迫力あるいうのが信条です。見えない部分はお客さんが想像してくれはるから」

薬屋から看板屋へ転身。看板の材料もわからないままスタート

会社の創業は1986年。中村さんは、それまで製薬会社で働いていたそうです。

「働くのが嫌いなんです(笑)。サラリーマンは毎朝、出ていかなあきませんやん、それが嫌で嫌でたまらんで。自分でなんかしたいなと思ってたら、たまたま新聞広告で看板屋さんが人手を募集してはって、そこに入りました。看板屋さんやったら、すぐ独立できるなという軽い気持ちで」

勤めたのは道具屋筋にある看板屋さん。

「字も何も書けなかったけど、1年ぐらいやったらそれなりにできるやろ思って、1年で独立しました」

ポップ工芸

「10坪のガレージで、一人ではじめました。月の半分働いて半分遊びたいと思ってたから、一人でないと。家族が食っていけたらええわいうことで」

下請けとして、あちこちの看板屋さんから仕事を受けていたところ、10年ほどして立体看板の注文が。

「お得意さんから道頓堀に龍を作れいわれて。彫刻の勉強もしたことないし、できないって断っててんけど、得意先やから、もうしょうがなしに。ほな、なんとかやりますわいうて」

やると言ったものの、何で作るか材料もわからなかったそうです。

「FRPという樹脂がええらしいと人に聞いて、材料屋さんを教えてもらって。最初は本当にわからなくて、発泡スチロールに直接FRPつけたら溶けるんですわ。せっかく作ったものが、みんな溶けてしまって」

試行錯誤しながら金網に樹脂をつけるという方法を編み出し、見事に龍を作り上げました。

こちらが初めて作った龍。今もそのまま飾られています。

ポップ工芸
金龍ラーメン道頓堀店

さすがに一人では作れず、奥さんに手伝ってもらったそうです。

龍の体が壁から突き出しているのは、やはり想像させるためでしょうか?

ポップ工芸

「いや、初めて作ったときやったから、1体作るのも難しいな思うて。どっちみちトラック積んだりできへんから、ぶった切った方がええかなと。それやったら壁から出した方がええわいうことで」

苦肉の策が高じて、目を引く看板を誕生させました。

「初めは図面も何もなくて、行き当たりばったりですわ」

以来、年に1、2個、立体看板を作るようになります。

ポップ工芸

発泡スチロールの削り方は「テレビを見て勉強」

「別に看板屋になりたかったわけでもなく、他の業種で募集してたら別の仕事をしていたかもしれない。看板屋になったのも立体を始めたのも、みんな成り行きです」

という中村さんですが、2008年には「TVチャンピオン 発泡スチロール王選手権」に出場し優勝した、実力の持ち主です。

「出るからには優勝しようと思って攻めただけで、技術的には他の選手と変わらなかったと思います。僕、TVチャンピオン見て、発泡スチロールの削り方を覚えたんですよ」

え!そうなんですか?

ポップ工芸

「教えてくれる人がいないから自分なりにやってたけど、テレビ見て、自分と同じことやってはるって。行き着くとこは一緒ですね」

2013年からは立体造形物を専門に、5人ほどの従業員と一緒に今も看板を作っています。

「今も月半分はないけど、休ませてもらってます。それがないと続けられない。初心を貫こうと思って。従業員に怒られることもありますけどね(笑)」

作業場は「白い世界」だった

作業場を見せていただきました。

ポップ工芸

こちらで作っているのは、道頓堀に新しくできる歌舞伎のミュージアムの看板。

ポップ工芸
道頓堀は歌舞伎の発祥の地であることから、2018年末に私設のミュージアムが開館予定

畳一枚分の大きさの発泡スチロールを削りながら、原型を作っていきます。

設計図はほとんどなく、正面だけのデザイン画から、側面や背面を想像しながら、職人の勘でガシガシと削っていきます。

ポップ工芸
ポップ工芸

道具は包丁、ナイフ、ワイヤーブラシなど、いたってシンプルなもの。

ポップ工芸

形ができあがったら、FRP加工を施します。

ポップ工芸

これはガラス繊維。

ポップ工芸
ポップ工芸

これをできあがった原型に乗せ、上から液体のプラスチック樹脂を塗り、固めていきます。

固まったものを磨くとピカピカ、ツルツルに。

ポップ工芸
FRP加工を施したパーツ

中身が発泡スチロールとは思えない質感になります。

最後に塗装。色を変える度にマスキングをするため、色が多いと手間もかかります。

「塗装が一番大変やね」

ポップ工芸
ポップ工芸

ひとつの看板を作るのに1ヶ月ほどかかります。

ポップ工芸

実は、完成された看板の多くがどこに設置されているかわからないそうです。

「大阪以外が多いですね。うちは作ったらここで渡してしまいますからね、どこにあるかわからない。僕、休みにあちこち旅行行くから、行った先で“これうちの作ったやつだな”とか、そんなときちょっと感動しますね」

職人として手を抜くわけにはいかない

以前は看板屋さんからの仕事がほとんどでしたが、最近は広告代理店からの注文が増えたことで、作り方も変わってきたといいます。

「看板いうのは高いところに上がったら細かいところはわからんから、そこまでこだわらんでもいいとは思うんだけどね。前はどんなものでも2週間以内で作ってたけど、広告代理店からの依頼は成果もシビアだから、倍の納期をかけてますね」

ポップ工芸

特に、誰もが知っている有名キャラクターを作る時は、職人として手を抜くわけにはいかない。正確に作る必要があるときは、型を取ってから作っています。

「でも、うちにきてる子はね、みんな小ちゃい時からプラモデルとかそんなん作るのが好きやね。そういう子の方がよう続くみたい」

好きだからこそこだわる。これで終わりというのがないから、いくらでも手をかけられる。

「そうそう。こだわったらきりがないから、僕はみんなに“手を抜け、手抜をけ”っていうんだけど、彼らは絶対抜けへん(笑)」

ポップ工芸

10年以上働いているというスタッフの守屋さんも、子どもの頃はプラモデル作りが好きだったと言います。

ポップ工芸

「こういう仕事がしたいと思いながら、どこにあるのかも知らないし、モヤモヤしながら別の仕事を長くしてたんですけど、ある日、テレビでこの会社のことを知って、すぐに見学に行って、それからですね」

思い入れがあるのは「せんとくん」。

「はじめて3年目ぐらいの時ですかね。技術的にまだまだでしたが、大きな仕事だったので気合い入れてやりました。その後も、有名キャラクターの仕事をやらせてもらってますが、やりがいも緊張感もありますね」

ポップ工芸

食品サンプルのお化けから妖怪まで

キャラクターものや、リアルな造形物を得意とするポップ工芸さん。

民俗学者・柳田國男の出身地で、妖怪の住む町としても知られる、兵庫県福崎町。町に点在する妖怪たちもポップ工芸さんが手がけたもの。

ポップ工芸
柳田國男著『故郷七十年』に登場する「河童(ガタロ)」の弟役として誕生した、福崎町キャラクター「ガジロウ」
ポップ工芸
妖怪ベンチシリーズ。ガジロウと将棋が指せる。写真映えすると人気に

スタッフも力を入れる渾身の作品です。

これからはどんなものを作っていきたいですか?と聞くと「僕はもう隠居したい(笑)」という中村さん。

「まぁでも、この商売もあと5年くらいだと思いますよ。これからはコンピューターが全部削ります」

あ、3Dプリンター!

「そういう時代になってくると思うな。看板で文字を書いてた時、一生懸命練習して書いてやってたけども、5年も経たないうちに、コンピューターがプリントとかカッティングとかやってしまうようになって、字書きさん仕事あらへんもん」

ポップ工芸

「うちらも一緒ですよ。彼らみたいに技術がなくても、コンピューター入れて、機械入れたら十分できるようになると思うんです。だから、あの子らにも3Dの勉強ぐらいはしときやって」

もちろん、これまでの技術が生かせないわけではないといいます。

「コンピュータで作るにしても全然彫れない子と、ちゃんと彫れる子が作るのはぜんぜん違うからね」

塗装など手作業でなくてはできない部分も多くあります。

コンピューターや機械でできることが多くなればなるほど、それを支える職人技術の大切さを感じられるのかもしれません。

大阪の文化として増やしていきたい

20年前、ポップ工芸さんが初めて「龍」の看板を作った時、道頓堀の立体看板は「カニ」だけだったそうです。

今では外国人観光客が訪れるほど名物となりました。

ポップ工芸

「たまに僕らも道頓堀行って、端から端まで歩きますわ。どんなの増えてるかないう感じで」

中村さんは、もっと看板を増やしていきたいと言います。

「僕は大阪の文化だと思ってますから。どこにもないからね。みんな止まって写真撮ってくれはる。立体ものは面白いからね」

訪れる人を楽しませてくれる立体看板。

次はどんなものができているのか、行く度にワクワクする道頓堀です。

<取材協力>
ポップ工芸
大阪府八尾市高安町南6丁目2
072-928-0444

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子