沖縄「オハコルテ」の絶品レモンケーキが生まれた理由とおすすめの食べ方

取材やものづくりで、よくお邪魔する産地のお店やメーカーさん。そこで、大概「およばれ」に預かります。お茶とお茶うけ。地元の銘菓や駄菓子、そのお家のお母さんが作ったお漬物だったりと、頂くものはいろいろですが、これがまた、とても美味しいのです。普通の旅ではなかなか見つけられない、地元の日常をさんち編集部よりお届けします。

シークヮーサーの爽やかな香りが広がる、オハコルテの甘酸っぱい「ヒラミーレモンケーキ」

コロンとした形が可愛らしいレモンケーキ。実は沖縄では、お盆やお墓参りのお供え物にレモンケーキを買ってくるのが定番なんだそうです。

しかし、今日およばれにあずかったのはただのレモンケーキではありません。お供えもののイメージを刷新し、沖縄手土産の新定番になっている、「ヒラミーレモンケーキ」なのです。

オハコルテのレモンケーキ

“ヒラミーレモン”とはシークヮーサーの和名。アイシング部分のザクザク感とシークヮーサーの風味を効かせたケーキ部分のしっとり感が絶妙で、噛むほどにシークヮーサーの爽やかな香りと甘酸っぱさが口の中に広がります。

作っているのは沖縄のフルーツタルト専門店「oHacorte(オハコルテ)」さん。旬の果物を使ったタルトが人気です。

沖縄のフルーツタルト専門店オハコルテ
沖縄のフルーツタルト専門店オハコルテ

フルーツタルトと並んで人気なのが、沖縄特産の柑橘“シークヮーサー”の香りと酸味をギュッと詰め込んだ「ヒラミーレモンケーキ」です。

今回は「今日もおよばれ」特別編、作り手のオハコルテさんに沖縄とレモンケーキの美味しいお話を伺うことができました。

オハコルテのヒラミーレモンケーキ

沖縄のお墓参りの定番はレモンケーキ

沖縄では、旧暦の二十四節季のひとつ「清明」の時期に「清明祭(シーミー)」が行われます。親族が揃ってお墓参りをする先祖供養の行事ですが、お供え物の定番のひとつに「レモンケーキ」があるそうです。

レモンの形をしたケーキの上に、チョコレートがコーティングされているのが一般的なもの。沖縄ではスーパーなどで手軽に買えるそうです。

「レモンケーキは小さいころから馴染み深いお菓子で、私も大好きでした」
と語るのは、オハコルテの商品開発部長、高良鐘乃(たから・しょうの)さん。

オハコルテの企画開発部長、高良鐘乃(たから・しょうの)さん

「沖縄にあるものを使って、沖縄の新しいお菓子を作りたい」という思いから誕生したのが、このヒラミーレモンケーキです。

従来のものはレモンの形はしていても、レモンらしい味はあまりしないそう。沖縄らしくシークヮサーを使ってレモンケーキを作ろうとなった時、お菓子作りでポイントとなったのが、シークヮーサーの残さ(ざんさ:果汁を絞った後の残り)でした。

「果汁ではなく残さを生地に混ぜ込むことで、香りが豊かになり、シークヮサーの味がしっかり感じられるんです。色も可愛く仕上がって、酸味とシャリッとした食感もアクセントになりました」

生地は、従来のパウンドケーキのようなしっかり硬めではなく、スポンジケーキのようなやわらかさ。

ほおばった時にふわっと香り立つ爽やかな香りと口の中に広がる酸味、ふわふわしっとりの食感は食べたことのない美味しさで、もういくつでも食べられてしまいそうです。

楽しみ方もいろいろ

最近では、お供え物はもちろんお中元やお歳暮、3月の人事異動の時期にはご挨拶のお配りものに利用する方も多いそう。

オハコルテのヒラミーレモンケーキ

親しみのあるお菓子なのに、ちょっと特別感があって、人にあげやすい。その絶妙さが人気の秘密かもしれません。

オハコルテのヒラミーレモンケーキ

甘酸っぱいケーキは、紅茶やコーヒー、日本茶や沖縄のさんぴん茶にもよく合うそう。甘いのが苦手な方にもおすすめです。

そのままでも美味しいですが、さらに美味しくいただく方法が。

「電子レンジでアイシングが溶けない程度に5秒くらい温めると、焼き立ての食感が味わえます。冬場にオススメですね。夏は冷蔵庫で冷やして食べるのも美味しいですよ」

懐かしくて新しい、沖縄の新定番お菓子。

こんな手土産なら、もらった人もご先祖様も、さぞや嬉しいはずです。

ごちそうさまでした!

oHacorte

文 : 坂田未希子
写真 : 武安弘毅

※こちらは、2018年6月28日の記事を再編集して公開しました。

電気街・秋葉原の誕生秘話。その鍵は高架橋にあった

土壁、塗壁、漆喰、石垣、板壁、レンガなど、その土地の歴史を知ることができる、特集「さんちの壁」。

今回は、首都東京だからこそ発展した「高架橋」を、さんちの壁として紹介しています。

日本で初めて鉄道が開通(新橋-横浜間)したのは明治5年のこと。

その後、東京を目指し、私鉄、国鉄、地下鉄が次々に開業。鉄道技術の発達とともに様々な高架橋が造られてきました。

日本で最初に高架橋ができたのも東京でした。

「神田、秋葉原周辺を歩くと、高架橋の歴史がよくわかりますよ」

そう語るのは、前編に引き続いてご案内いただく鉄道技術史研究の第一人者、小野田滋さんです。

小野田滋(おのだ しげる)さん 鉄道総合技術研究所勤務
小野田滋(おのだ しげる)さん 鉄道総合技術研究所勤務。工学博士、土木学会フェロー。1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒業。日本国有鉄道勤務を経て現職。著書に『高架鉄道と東京駅(上・下)』(交通新聞社)、『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』(講談社)など。NHK「ブラタモリ」にも出演

前編では、東京駅の設計者でもある辰野金吾が東京駅の「試作品」として設計した幻の「万世橋駅」と、「万世橋高架橋」を訪ねました。

万世橋高架橋
万世橋高架橋

なんでもこの辺り、高架橋の宝庫なのだとか。

前編に引き続き、神田、秋葉原周辺にある高架橋を訪ねます。

幻の「万世橋駅」と「万世橋高架橋」を訪ねた前編はこちら:「東京駅には『試作品』があった。専門家と歩く東京の『壁』」

海を渡った橋

万世橋高架橋沿いを御茶ノ水方面に進むと、外堀通りにぶつかります。上を中央線が走っています。

昌平橋

「これは、明治37年にできた昌平橋架道橋です。ドイツ製の鉄橋です」

昌平橋

わざわざドイツで造って運んできた?当時の日本には技術がなかったのでしょうか。

「技術もなかったし、鉄ができなかった。明治34年に福岡の八幡製鉄所ができましたが、品質がまだよくなかったので、当時の鉄道製品はイギリス、アメリカ、ドイツ製のものが多いです」

昌平橋
橋の中央のプレート「HARKORT/DUISBURG-GERMANY/1904」(ハーコート製/デュイスブルク・ドイツ/1904年製)とある

「この架道橋は線路の下に砂利が敷いてあるので、音がちょっと静かなんです」

確かに電車が通過する時、大声を出さなくても話が聞こえます。

「都心の鉄道は騒音が発生しないように、砕石を敷いてあります」

なるほど。音を聞き分けてみるのも楽しそうです。

高架橋とは

そもそも、高架橋とはどういうものなのでしょうか?

「高架橋は、道路と鉄道の平面交差をさせない目的で作られたものです。道路が発達している市街地では、踏切を作るわけにいかない。立体交差をさせるため高架にしています」

外堀通りをまたぐ昌平橋架道橋
外堀通りをまたぐ昌平橋架道橋

東京では鉄道が開通した当時から高架鉄道にするという方針があったそうです。

あの本田宗一郎が働いていた!?

外堀通りを渡るとまた高架橋があります。

昌平橋

「明治41年にできた紅梅河岸高架橋です。円形のトンネルのようになっている、アーチ式の構造。アーチは、古代メソポタミア文明に起源があると言われる、歴史ある構造ですね」

ヨーロッパの古い建物などによく見られます。

紅梅河岸高架橋

「今、日本に現存する一番古い高架橋です」

これが!100年以上前のものが今も使われているんですね。

「昔は蒸気機関車が走ることを前提に造っているので頑丈にできています」

なるほど。

「ここには昔、昌平橋という駅がありました」

当時、甲武鉄道(現在の中央本線)が御茶ノ水駅から東京駅に向かって線を伸ばしていました。

昌平橋高架橋
レンガの高架橋の上がプラットホームだった

昌平橋駅は、明治45年に隣の万世橋駅ができると廃止に。駅がなくなった後は町工場になっていたそうです。

「本田宗一郎さんが青春時代に働いていた自動車修理工場もあったそうですよ」

えー!すごい!ここで働いていたと思うとなんとも感慨深いです。

それにしても、高架下というのは昔からいろいろ使われていたんですね。

「東京の土地は限られているので、使えるところは何でも使おうと。昔は倉庫や事務所が多かったようです。飲食店が入り出したのは戦後あたりかなと思います」

上に上に

あの右側の水色の高架橋は、またすごく高いですね。

昌平橋

「この先の御茶ノ水で中央線と分岐する総武線の高架橋です。

中央線を超えて秋葉原に向かっていますが、秋葉原駅は先に山手線の高架橋が通っていたので、その上を越さなくてはいけません。それで、あれだけ高くなっています」

なるほど。既にあるものの上をいかなくてはいけない。

「物事には順番があるので、最初にできたものよりは上に。高さがよくわかるところがあるので、見に行ってみましょう」

伊万里で門外不出だった「鍋島焼」とは。窯元と歩く、お殿様が愛したうつわの里

佐賀には日本の磁器発祥の地・有田をはじめ、唐津、伊万里、嬉野、武雄などたくさんの焼き物の里があります。

そのひとつ、伊万里市大川内(おおかわち)にある焼き物をご存知でしょうか。

名前を「鍋島焼 (なべしまやき) 」。

江戸時代、鍋島藩(佐賀藩の別名。当主鍋島氏の名前から)の御用窯が置かれ、将軍家や諸大名への献上品、贈答品として作られていた焼き物です。

色鍋島

お殿様への献上品という性質ゆえに、その器や技術が民間に出回ることは厳しく取り締まられ、産地である大川内は「秘窯の里」とも呼ばれてきました。

山々に囲まれ、30軒の窯元が坂に面して立ち並ぶ風景は水墨画のように美しく、今では観光地としても人気を集めています。

お殿様が愛した鍋島焼とは一体どんな場所で作られ、どんな姿をしているのでしょう。

窯元さんにご案内いただきながら、歴史に秘められた鍋島焼の魅力を訪ねてみましょう。

青磁の原石が採れる山すそ、伊万里市大川内へ

伊万里市街地から車で10分ほどの静かな山あい。

レンガ造りの煙突が建ち、窯元が軒を連ねています。

地図

里の入り口には焼き物でできた大きな地図が。

「大川内に鍋島藩窯ができたのは1675年です。有田から31人の優れた陶工たちを連れてきて作らせたのがはじまりなんですよ」

ご案内いただくのは「鍋島 虎仙窯(こせんがま)」の川副(かわそえ)さんです。

「それまで有田で将軍や老中などに献上する焼き物が作られていましたが、技術の漏えいを防ぐため、険しい地形の大川内に藩窯が移されたんです。

昔は入り口で人やものの出入りを取り締まっていたんですよ」

それがわかる場所にご案内いただきました。

大川内関所跡

関所跡です。

大川内関所跡

「明治時代頃までは、この辺りには牛小屋があって、下は全部田んぼだったようです」

職人さんたちがいる場所とそれ以外に分かれていたんですね。

「陶工たちは管理されていましたが、武士のように優遇もされていたようですね」

窯元が並ぶ坂を登っていくと…

大川内

あぁ、ほんとに水墨画のような風景が。

「この辺りで、みなさん写真を撮ったり、絵を描いたりしています」

焼き物の産地でありながら、この景色を見るために外国人観光客も多く訪れるそうです。

それにしても、なぜこんな運搬も大変な山あいに藩窯が開かれたのでしょうか。

「釉薬に使う青磁の原石がこの山で採れるからとも言われています。今も自分たちで石を採って、釉薬を作っています」

日本で青磁の原石が採れる場所はほかにもありますが、産業として現在も原石を使用してもいるのは大川内だけだそうです。

虎仙窯さんに教わる、鍋島焼3つの見方

「鍋島焼には大きく分けて、色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁の3つがあります」

主に薄い染付輪郭線の内側に赤・淡緑・淡黄の3色だけで上絵付をした「色鍋島」。

色鍋島

色絵は使わずに染付けだけで文様を描きまとめた「鍋島染付」。

鍋島染付

そして大川内山でとれる原石を使った青磁釉を、器の全体にかけて焼きあげた「鍋島青磁」。

鍋島青磁
左から色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁のコーヒーカップ
左から色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁のコーヒーカップ

それぞれ表情が違って美しいです。お殿様はこうした違いも楽しんでいたのでしょうね。

鍋島焼も有田焼も、伊万里焼?

ところで、この辺りには唐津焼、伊万里焼、有田焼といろいろな焼き物がありますが、何が違うんでしょうか。

「江戸時代、伊万里の港から出していたものの総称が“伊万里焼”です」

え、港の名前?

「海外から見た時に伊万里の港から輸入されていたので総称で『IMARI』と呼ばれるようになったんです」

海外から逆輸入した呼び名だったとは。知りませんでした。

「もちろん、唐津焼、有田焼、鍋島焼、それぞれの特徴があって、伝えていくべきものがあると思うので、私たちも鍋島焼はこういうものなんだ、というのを伝えていきたいと思っています」

黄色い石から美しい青が生まれる

鍋島焼の中でも虎仙窯さんは代々、鍋島藩窯仕事場で青磁の製作と絵描きをされてきたそうで、今も青磁にこだわったものづくりをしています。

ギャラリーには喫茶スペースもあり、虎仙窯さんの器でお茶を楽しむことができます
ギャラリーには喫茶スペースもあり、虎仙窯さんの器でお茶を楽しむことができます

「これが青磁の石です」

青磁の石

黄色い!青磁の色とはまるで違います。

青磁

「これを細かく砕いて、水に溶かして釉薬状にして、白い磁器にかけて焼くと青磁色になります」

黄色から青磁色に。なんとも不思議です。

青磁の器。黄色い石から美しい青磁色に
青磁の器。黄色い石から美しい青磁色に

青磁を主力商品として作っている窯元は3軒ほどだそう。

「青磁は天然のものなので、山の層によって色の出方が違ったりして安定しないんです。粘土と釉薬がマッチしないとボロボロになるし、窯に入れても割れる率がものすごく高い。それを何度も何度も繰り返しながら、青磁が誕生しました」

江戸時代からの技法を忠実に守り続ける鍋島御庭焼

鍋島焼の特徴を知った後は、鍋島焼の歴史を知る上で欠かせないという窯元さんを訪ねます。

鍋島御庭焼

鍋島御庭焼(おにわやき)さんです。

鍋島藩御用窯の唯一の直系の窯元で、今も鍋島家に器を納めているそうです。

お話を伺った鍋島御庭焼五代目の市川光春さん
お話を伺った鍋島御庭焼五代目の市川光春さん

「鍋島藩のお殿様が1675年に、将軍に献上の目的として造られたのが御庭焼です。御庭焼というのは、江戸時代の藩の御用窯のことを指すので、ここは鍋島御庭焼ですね」

当時は大川内全体が藩窯でしたが、廃藩置県後、藩の下絵図の図案帳と杏葉の紋を使うことを許された唯一の窯元が御庭焼さんです。

鍋島家の杏葉の紋
鍋島家の杏葉の紋

「紋所が入るので、いろんなものは作れませんね。昔の技術を磨いて伝えていくことを大切にしています」

鍋島御庭焼さんでは、今も江戸時代からの技法を忠実に守ってものづくりを続けています。

江戸時代からある図案に基づいた絵皿。淡いブルーは、筆跡がわからないようぼかしながら色を配る、高度な技術の賜物
江戸時代からある図案に基づいた絵皿。淡いブルーは、筆跡がわからないようぼかしながら色を配る、高度な技術の賜物
工程の見本。奥の素焼きから線書き、色付けと工程を重ねてようやく完成します
工程の見本。奥の素焼きから線書き、色付けと工程を重ねてようやく完成します

大川内に藩の御用窯がつくられて300年以上。

その受け継がれてきた技術と歴史を感じることができます。

大川内山を向いて立つ880の陶工のお墓

坂を下って、川沿いの遊歩道を歩きます。

川沿いの遊歩道。向こうに見えるのは‥‥
川沿いの遊歩道。向こうに見えるのは‥‥

「夏場はこの辺りで子どもたちが水遊びをしたり、毎年、“ボシ灯ろうまつり”が開かれます。本窯を焚くときに使っていたボシ(焼き物を入れる耐火性の器)に、ろうそくを立てるんです」

火が灯ったボシが並ぶ風景は、想像するだけでもとても幻想的です。

川沿いの橋の欄干も焼き物でできています。

橋

陶片がモザイクになっていて、なんとも美しく贅沢な橋です。

橋

鍋島焼を堪能しながら歩いていくと、

「こちらが陶工無縁塔です。大正初期につくられました」

陶工の墓

点在していた古い陶工たちのお墓を「先人たちを供養しよう」と大川内の人たちがたてたそうです。

石碑

880基ある無縁墓標は全て窯場のある大川内山を向いて立っています。

大川内山を臨む

「毎年11月に、ここで“筆供養”もしています。絵付けには熊野筆を使っているので、広島県から熊野筆の方も来ていただいて、先人に感謝を述べています」

ご案内いただいた虎仙窯の川副 (かわそえ) さん
ご案内いただいた虎仙窯の川副 (かわそえ) さん

無名の陶工たちが技術の粋を尽くして作り上げられた鍋島焼。

先人たちに思いを馳せながら改めて鍋島焼を見ると、その美しさが一層際立つような気がします。

あまり知られていない場所ですが、ぜひ立ち寄りたいスポットです。

釉薬を厚くしないと出せない青磁の色

窯元さんの中には、実際のものづくりを見学できるところもあります。

大川内の里から車で15分ほどのところにある虎仙窯さんの工房へ伺いました。

虎仙窯

器の成形は鋳込みやろくろで行われています。

虎仙窯

こちらは青磁の釉薬掛け。

虎仙窯
青磁の釉薬掛け

やっぱり黄色い!

青磁の釉薬掛け

「焼くと青磁の色になります」

うーん、全然想像がつきませんが、最初にこの原石から青色が生まれると気づいた人は本当にすごいですね。

青磁の器

「青磁の釉薬は厚くしないと色が出せません。だから、たっぷり釉薬をつけています」

その分、乾くのに時間もかかるので、量産が難しいそうです。お殿様への献上品らしい、贅沢な器です。

ツバキの葉を使った転写法

「こちらが絵付室です」

絵付け室の扉

なんだか学校の図工室とか理科室みたいです。

絵付け中

「こちらは薄描きと言って、赤絵を付けるときの補助線みたいなものです」

下の黒い線はなにで描かれているんでしょう?

「桐灰です。桐を炭にして、水を含ませて型紙に筆で描きます。それをツバキの葉でこすると写るんです」

桐灰で線書きされた型紙
桐灰で線書きされた型紙

ツバキの葉で?

「江戸時代からの技法です。今は手でやることが多いですね」

型紙を乗せて手でこすると転写される
型紙を乗せて手でこすると転写される

「ツバキの葉を使うとツバキ油が出て、和紙が丈夫になると言われています。

江戸時代の量産方法ですね。今は転写とかいろいろありますけど、同じものを同じようにたくさん作るために、この方法が使われてきました」

転写の跡

「一度、型紙に桐灰で描くと、50回くらい使えます。先ほど行った御庭焼さんには、江戸時代の型紙が残っていますが、和紙だから残っている。これがもしコピー用紙だったら、たぶん残っていないだろうと言われています」

鍋島焼には、献上品としての品格、風格を保つため、多くの決まりごとがあるそうですが、どれだけ精密に作られているか、よくわかります。

転写された線の上に絵付けが施されていきます
転写された線の上に絵付けが施されていきます

藩の御用窯として発展してきた鍋島焼ですが、廃藩置県後、自分たちで窯を構えるようになると、窯元も職人たちも少なくなっていきます。

「一時は8軒くらいになってしまったようです。今は30軒になりましたが、後継者不足などの問題はどこも抱えています」

鍋島焼をより広く知ってもらうため、虎仙窯さんでは伝統的な3つの技法を生かした新しいブランド「KOSEN」を立ち上げました。

KOSEN

「鍋島焼は将軍家や大名のために贅を尽くして作られてきたので、高価な物が多く、一般市場に出回りませんでした。

これからは、一般にも流通しやすい価格帯で技法やデザインをわかりやすく伝えるなど、鍋島という存在価値をみんなに知ってもらいたいと思っています」

ちょうど絵付け中だった「KOSEN」のゴブレット。ギャラリーで教えてもらった鍋島焼3つの技法を生かしている
ちょうど絵付け中だった「KOSEN」のゴブレット。ギャラリーで教えてもらった鍋島焼3つの技法を生かしている

31名の陶工たちによってはじまった鍋島焼。

その産地である大川内は、2時間もあればぐるりと見どころを見て回れます。お殿様が愛した焼き物の里、一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
鍋島 御庭焼
伊万里市大川内町乙1822-1
0955-23-2786

鍋島 虎仙窯
佐賀県伊万里市大川内町乙1823-1 (ギャラリー)
佐賀県伊万里市南波多町府招1555-17 (工房)
0955-24-2137
http://www.imari-kosengama.com/

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

※この記事は、2018年3月26日の記事を再編集して公開しました。

<掲載商品>
鍋島虎仙窯 鍋島青磁 煎茶碗

<関連特集>

お殿様が愛した鍋島焼のハレのうつわ「虎仙窯特集」

東京駅には「試作品」があった。専門家と歩く東京の「壁」

東京駅の「試作品」があったのをご存知ですか?

なんでも東京駅の「習作」、つまり練習として造られた建築が今も残っているというので出かけてきました。

やってきたのは、神田川にかかる万世橋。

「向こうに見えるのが1912年(明治45年)にできた、万世橋高架橋です。実は昔、あの高架橋の上に駅があったんですよ」

高架橋
橋の向こうに見える赤煉瓦が高架橋
高架橋

そう話すのは、本日ご案内いただく小野田滋さん。駅、橋梁、トンネル、そして今見えているような高架橋などを専門とする、鉄道技術史研究の第一人者です。

高架橋
小野田滋 (おのだ しげる) さん 鉄道総合技術研究所勤務。工学博士、土木学会フェロー。1957年愛知県生まれ。日本大学文理学部応用地学科卒業。日本国有鉄道勤務を経て現職。著書に『高架鉄道と東京駅 (上・下) 』(交通新聞社)、『東京鉄道遺産「鉄道技術の歴史」をめぐる』(講談社)など。NHK「ブラタモリ」にも出演

ということは、ここが東京駅の「試作品」だった駅ですか!?

「それは後ほどご説明しますが、高架橋の上にプラットホームがありました。万世橋駅です。

1889年(明治22年)に開業した甲武鉄道 (私鉄) の終着駅でした。最初は飯田橋が終点でしたが、鉄道国有化によって国鉄の中央線になり、明治45年にここまで線を伸ばしたんです。

当時はあらゆる路線が、東京を目指していました」

万世橋の辺りは、路面電車が集まるターミナルになっていたとのこと。

万世橋駅前を走る市電の様子
当時の様子。正面奥が万世橋駅。駅前を市電が走っている(写真提供:小野田滋さん)

「今の大手町駅のように、いろいろな路線の市電が万世橋に集中して、かなり賑わっていたようです。

中央線も飯田橋からまっすぐ東京駅に行けば楽なのに、遠回りをしたのは、ターミナル駅である万世橋を通りたかったんでしょう」

その後、東京駅、神田駅、秋葉原駅ができ、地下には銀座線が開通。乗り換え客が減少したことから、昭和18年に万世橋駅は廃止になりました。

「高架橋は今も使われていて、中央線が走っています。数年前に高架下が再開発され、かつての駅の面影をたどれるようになりました。行ってみましょう」

電車好きにはたまらないスポット発見

万世橋を渡って、高架橋の裏側に回ると、何やらガラス扉の向こうに階段があります。

高架橋

「1935年に造られた階段です」

階段や空間そのものが展示品のようになっています。

高架橋
高架橋

階段を上って行くと‥‥

高架橋
高架橋

ガラス張りの、見晴らしのいいところに出ました。

「ここは駅が開業した当時のプラットホームで、今は展望デッキになっています」

え!?ここが!

高架橋
高架橋

すごい!デッキの両側を電車が通過していきます。

高架橋

「駅が廃止される頃は草ぼうぼうだったのを、きれいに整備しました。昔は、反対側にもう一つプラットホームがあったんですよ」

これはもう、電車好きにはたまらないスポットです。

高架橋
デッキに続く別の階段 (1912階段) は、開業時に造られたもの。昔の階段によく見られた蹴込み(けこみ)がある

懐かしくて新しい空間

さらに、高架下のスペースには、こんな空間が広がっていました。

高架橋
高架橋
通路の両側には店舗がずらり。穴ぐらを探検しているようでワクワクしてきます

「壁にコンクリートを巻いて補強していますが、そのほかは昔の高架橋の姿のままです」

高架橋
白い部分が補強したところ。グリーンの線路の桁も見える

小野田さんは専門家としてレンガの補強方法などをアドバイスしていたそうです。

高架橋

通路の天井部分が三角形でかわいらしいですね。

「これも最初からこの形で、連絡通路として使われていました」

高架橋
高架橋
線路の下に、こんなくつろぎの空間。ついつい長居してしまいそう
高架橋
神田川に面したオープンデッキは、施設開業時にできたもの

幻の駅のレンガに触れる

どこか懐かしくて新しい、おしゃれな空間に生まれ変わった万世橋高架橋を堪能し、再び外へ。

高架橋の前に広場があります。

高架橋

「ここに万世橋駅の駅舎がありました」

写真パネルで当時の駅舎を見ることができます。

高架橋
駅前の広場には日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた
高架橋
高架橋の上にあった昔のプラットホーム。左側にかつての駅舎が見える

2階建ての駅舎は、当時としては大きな建物だったそうです。

現在はビルが建っていますが、周辺に駅の面影を見ることができます。

ひとつはこちら。地面にあるガラス板を覗いてみると…

高架橋
高架橋

「新しくビルを建てる時に、駅の基礎部分が出てきたので、そのまま残しています」

高架橋

こちらの壁には、駅に使われていたレンガの破片が埋め込まれています。

高架橋
高架橋
高架橋
まるで有田のトンバイ塀のよう!

万世橋駅は東京駅の「試作品」だった

それではいよいよ核心へ。なぜここが東京駅の「試作品」なのでしょうか?

「実は万世橋駅を設計したのは、東京駅を設計した辰野金吾さんなんです」

え、そうなんですか!

万世橋駅の様子
万世橋駅の様子。東京駅の雰囲気とよく似ている(写真提供:小野田滋さん)

「万世橋駅は1912年(明治45年)、東京駅は1914(大正3年)に開業したので、両方掛け持ちでやっていたようです。

万世橋駅は、駅としては初めて鉄骨とレンガを組み合わせた構造が使われていますが、“これでできる”と確信して東京駅も同じ構造で造ったようです」

なんと、万世橋駅は東京駅の練習もかねて造られていた。

歴史的にも貴重な建物と言えますが、残念ながら関東大震災で焼失。幻の駅となりました。

水辺の景観を考えた高架橋

駅舎が再建された後、昭和11年には交通博物館が併設され、再び観光客の訪れる人気スポットに。

高架橋
交通博物館があった頃。懐かしく思う人もいるのでは

高架下は博物館の展示スペースとバックヤードとして利用されていました。

2006年に博物館閉館(大宮の鉄道博物館が後継施設)された後、高架橋は先ほど探索したマーチエキュート神田万世橋に生まれ変わりました。

高架橋

最後に万世橋の西側にある昌平橋から、万世橋高架橋の全景を見てみることに。

高架橋
昌平橋から見る万世橋高架橋。レンガ部分は高架下に土が埋められている。黒く見えるのは赤レンガの壁を保護するためのネット

「ドイツのベルリンにある高架橋がモデルになっています」

高架橋

赤レンガがきれいですね。

「神田川の水に映るのがポイントです」

ポイントとは?

「例えば、レンガの橋脚の隅にある白い石。レンガは強度が弱く角が欠けやすいので、隅に石を入れて強くしているのですが、高架橋の反対側には入っていないんです」

高架橋

水辺の景観を考えたということですか?

「おそらくそうではないかと」

確かに、石の入れ方もデザインされています。

「ところどころに装飾があるのも、ただの壁では寂しいから。ヨーロッパの古典建築から引用していると思います」

高架橋
高架橋
高架橋
反対側の柱には隅石がない

装飾を施すことで華やかになる。高架橋を見ることで、かつて万世橋駅がターミナル駅として栄えていたことがよくわかりました。

高架橋

「この辺り、実は高架橋の宝庫なんですよ。他にも特徴的な橋がいくつもあります」

高架橋の宝庫!?

いったいどんな高架橋があるのでしょうか。次回へ続きます!

<取材協力>
小野田茂さん
マーチエキュート神田万世橋

文 : 坂田未希子
写真 : 尾島可奈子

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日本のタイル発祥の地「瀬戸」は壁を見ながら歩くのが面白い

瀬戸・窯垣の小径

 

名古屋の中心街・栄から直通電車で30分。日本を代表する焼きもの産地、瀬戸に到着します。日本で最初のタイルが生まれた土地でもあるそう。

そんな焼きものの町・瀬戸は、実は壁を見ながら町を歩くのが面白い。

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本編「専門家と歩く東京の『壁』」の後編もお楽しみに!

蒔絵のアクセサリーがかわいい!蒔絵師一家「うるしアートはりや」の作品づくり

木の樹液である天然の塗料「漆(うるし)」。

日本では12000年以上前から使われ、その技術や文化が受け継がれてきました。

漆を使った伝統技法のひとつに「蒔絵(まきえ)」があります。

漆で絵を描き、絵が乾かないうちに金粉、銀分、色粉などを蒔いて仕上げていくもので日本独自の技法です。

話題の蒔絵師一家「うるしアートはりや」

そんな蒔絵の魅力を多くの人に伝えたいと、作品づくりをしている工房があります。

蒔絵師一家が活動する「うるしアートはりや」です。

うるしアートはりや・針谷祐之:秋色蒔絵雪吹
祐之作:秋色蒔絵雪吹
うるしアートはりや・針谷絹代作:翡翠(かわせみ)蒔絵琥珀ペンダント
絹代作:翡翠(かわせみ)蒔絵琥珀ペンダント
うるしアートはりや・祥吾作:かわせみ蒔絵黒蝶貝ブローチ、蝶々蒔絵黒蝶貝ブローチ
針谷祥吾作:かわせみ蒔絵黒蝶貝ブローチ、蝶々蒔絵黒蝶貝ブローチ
うるしアートはりや・針谷崇之作:Bisai Traditional 麻葉ペンダント&ピアス
崇之作:Bisai Traditional 麻葉ペンダント&ピアス

作品は茶道具の棗(なつめ)や香合のほか、ブローチやピアスなど様々。

伝統工芸という格式ばったイメージはなく、モダンでポップで可愛らしくて、ちょっと手に取りたくなるようなものばかり。

どんな想いで作品づくりをしているのか。工房を訪ねました。

山中漆器の産地にある工房

加賀温泉郷のひとつ山中温泉。

松尾芭蕉をはじめ、文人たちにも愛された自然豊かな温泉地です。

温泉街から少し離れた山の上に工房があります。

うるしアートはりや

作業場にはご両親が向かい合って仕事をする机。

うるしアートはりや

隣の部屋には息子さんたちの作業場があります。

「うるしアートはりや」の蒔絵師は、父・針谷祐之さん、母・絹代さん、長男・崇之さん、次男・祥吾さんの4人。分業ではなく、それぞれ自分の作品をひとつひとつ作っています。

工房のある山中温泉は「山中漆器」の産地で、もともと山中漆器の蒔絵師として活動していたご両親が独立。

蒔絵や漆をもっと身近に感じてもらいたいという思いから「うるしアートはりや」が誕生しました。

うるしアートはりや・祐之作:家守蒔絵石
祐之作:家守蒔絵石

蒔絵作家として生き残るために、何に描こうか常に考えている

工房をはじめた当初は問屋さんから棗などの絵付けの仕事をもらう一方、絹代さんがアクセサリーの制作を開始。

1994年、「テーブルウェアフェステバル 暮らしを彩る器展」に出展。布に漆を塗ったランチョンマット、金箔を貼ったグラス、竹に絵を描いた箸のセットで、テーブルウェアオリジナルデザイン部門大賞を受賞。その後、活動の場を広げていきます。

うるしアートはりや・針谷絹代作:ふくろう蒔絵白蝶貝ブローチ、金魚蒔絵白蝶貝ブローチ
絹代作:ふくろう蒔絵白蝶貝ブローチ、金魚蒔絵白蝶貝ブローチ

絹代さんの作品は蝶貝やべっ甲、皮、石など様々な素材を土台にしているのも特長。

次は何に描こうか常に考えていると言います。

「他所にないものを作ってみたい。蒔絵の可能性を探るという感じですね。蒔絵のアクセサリーは私が先駆者的なところはあるんだけど、今はやっている人がたくさんいるので、その中で生き残っていくにはどうすればいいんだろうって、家族で話しながらやっています」

うるしアートはりや
うるしアートはりや

家族4人でのスタート

「子どもの頃は金粉で遊ぶくらいで、手伝いをしたこともなかった」という息子さんたち。

絹代さん自身が家の仕事を手伝わされるのが嫌だったことから、自分の大好きな仕事を嫌いになってほしくないと、一切手伝わせなかったそう。

そんなふたりが蒔絵の道へ。

「まさか二人とも蒔絵をやるとは思ってなかった」と両親を驚かせることに。

弟の祥吾さんは高校を卒業後、お菓子屋さんに就職したものの、3ヶ月ほどで退職し、「他の人ができないような仕事をしたい」と、両親に弟子入り。

苦手だった絵も地元の画家さんに習うなど人一倍努力しながら、繊細な図柄を描きこんだアクセサリーなどを手がけています。

うるしアートはりや
うるしアートはりや・針谷祥吾作:竹に天の川蒔絵やどかり貝殻
針谷祥吾作:竹に天の川蒔絵やどかり貝殻

兄の崇之さんは高岡短期大学漆芸コース・専攻科を卒業後、うるしアートはりやに入社。

「家のことも漆芸のこともなにも知らなかったのですが、大学で勉強するうちに作るのが楽しくなって。卒業後は家の仕事に可能性があると思ったので、一緒に働くことに決めました」

うるしアートはりや
モチーフ画を得意とする崇之さんの下絵
うるしアートはりや
ブローチなどはカメラのフィルムケースに、ピアスなど小さいものはボルトに固定して描く。道具は手製のもの
うるしアートはりや・崇之作:青海波蒔絵黒蝶貝カフス
崇之作:青海波蒔絵黒蝶貝カフス

こうして家族4人での活動がスタート。

「家族でやってるって言うと羨ましいって言われるし、ありがたいことなんだなと思います」と言う絹代さん。

「自分たちだけじゃできなかったことを息子たちの力も合わせたらできるんじゃないかなと、楽しみです」

漆はお風呂に入れて乾かす!? 蒔絵の技法は伝統技術を継承

「うるしアートはりや」では、日常生活にもっと蒔絵や漆を取り入れてもらえるよう、気軽に使えるアクセサリーなどを制作していますが、蒔絵の技法は昔からの伝統技術そのまま。手描きにこだわり、作品づくりをしています。

うるしアートはりや・作業工程の模型
作業工程の模型。一つの作品が完成するまで、いくつもの行程を経る

制作の一部を見せていただきました。

まずは、下絵を漆でなぞります。

うるしアートはりや

それを素材に転写。

うるしアートはりや

上から金粉をのせていくと、金で描かれた図柄が浮かび上がります。

うるしアートはりや金粉をのせる

さて、これはなんでしょう。

うるしアートはりやうずらの卵

正解はうずらの卵。

酢に漬けると表面のまだら模様が消えるそうです。これを細かく砕き、漆を塗った素材に貼り付けていく。卵殻(らんかく)という伝統的な技法です。

うるしアートはりや卵殻という技法

では、こちらは何でしょう。

うるしアートはりや漆風呂

各作業場にあり、中には製作中の作品が並んでいます。

うるしアートはりや漆風呂

これは漆風呂です。

漆は湿度がないと乾かないという不思議な塗料。

そのため、絵付けをした後は、このお風呂に入れて乾かします。

うるしアートはりやうの漆風呂

床にヒーターを置き、霧吹き内部に水を吹き付けて調節。漆が垂れずに乾くように、24時間回転させる機能もある、
すごいお風呂なのです。

新アイテムと伝統工芸の融合

蒔絵の魅力は漆の魅力でもあると言う崇之さん。

「漆はすばらしい天然の塗料です。普通の絵の具は描いた後、乾いてしまうので金粉がのりませんが、漆は湿度がないと乾かないので、描いてから金粉を蒔くと、金粉が付着します。蒔絵は漆がないとできないんです」

漆でしかできない蒔絵のアートを広めていきたいと、崇之さんは独自のブランドも立ち上げています。

そのひとつがメンズ蒔絵アクセサリーのブランド「Mt.Artigiano」。

カフスやタイピン、ループタイなどを制作する中、世界初の「ボタンダウンピアス」が誕生しました。

うるしアートはりや・ボタンダウンピアス Nanahoshi 赤
ボタンダウンピアス Nanahoshi 赤
うるしアートはりや・ボタンダウンピアス

「はじめはシャツのボタンを蒔絵にしようと考えたんですが、縫い付けてしまうと洗濯のときに外さなくてはいけない。取り外しがしやすいものということで、ボタンダウンピアスにたどり着きました」

ボタンの穴に通すので、ボタンを外さなくてもいいし、ボタンも隠れるというのがポイント。

「ちょうどクールビズで、ネクタイを付けない代わりにボタンダウンシャツを着る人が増えたんですよね。それが目につくようになって、新しいアイテムとして考えました」

うるしアートはりや・ボタンダウンピアス

ありそうでなかった新アイテムと伝統工芸の融合。

蒔絵のさらなる可能性が感じられる作品です。

山中から世界へ

山中漆器の蒔絵師からはじまった「うるしアートはりや」。

「山中漆器があってこその自分たちだと思っている」と絹代さんは言います。

世界に誇る「蒔絵」という伝統文化の中で自分たちも跡を残したいと、海外へ向けても活動中。

「ゆくゆくは“針谷蒔絵”というブランドで、蒔絵の世界をもっと広げていきたいですね」と言う絹代さん。

かつて漆器が西欧で「ジャパン」と呼ばれ愛されてきたように、世界で蒔絵が「ハリヤ」と呼ばれる日が来るかもしれない。

そんな夢を一緒にみたいと思いました。

うるしアートはりやの針谷一家
右から祐之さん、絹代さん、崇之さん、祥吾さん

<取材協力>
うるしアートはりや
「うるしアートはりや」の作品は、加賀温泉駅前にある「アルプラザ加賀内・加賀百選街」などで購入できます。

文・写真:坂田未希子

※こちらは、2018年6月21日の記事を再編集して公開しました。

京都伝統工芸大学校でインタビュー。ものづくりの学校にはどんな若者が学んでいる?

「力仕事ばっかりかなと思ってたんですけど、繊細なことが多くて。大雑把ではいけないという基本的なことを学びました」

こう語るのは木工専攻2年の学生さん。

ここは、京都府南丹市にある「京都伝統工芸大学校」。伝統工芸技術の後継者育成を目的とした学校として24年前に設立されました。

京都伝統工芸大学校での授業の様子

専攻は陶芸、木彫刻、仏像彫刻、木工芸、漆工芸、蒔絵、金属工芸、竹工芸、石彫刻、和紙工芸、京手描友禅の全11種。

各専攻の専用実習室には一人にひとつの机が与えられ、伝統工芸士をはじめとした一流の工芸士から直接、技術を学ぶことができる、ものづくりをしたい人にとっては理想郷のような環境と、先生方は自身もうらやましそうに語ります。

京都伝統工芸大学校の授業の様子

前回は学校について紹介しましたが、今回は、どんな人たちがどんな思いで、ものづくりを学びにきているのかレポートします。

前編はこちら:「学校から職人デビュー。京都で出会った今どきのものづくり事情」

伝統工芸技術を学べる学校は、世界的にも珍しい?

「高校を卒業して入ってくる学生が多いですね。それも優秀な進学校を卒業して、国立でも、どこでも入れるような成績の子が、わざわざ入学してきます」

と話すのは、教務部長・陶芸専攻工藤良健先生。

京都伝統工芸大学校 教務部長・陶芸専攻 工藤良健先生

志望動機は?

「日本の伝統文化に興味を持ってという学生が多いですね。教科書に、後継者不足ということも書かれているようで、後継者になりたいという思いもあるようです」

京都伝統工芸大学校の授業の様子

以前は2年制だったこともあり、大学を卒業した人や社会人、定年退職した人、転職を考えている人が多かったそうですが、3、4年制が中心になってから若い学生が増えたと言います。

「最近は、6割が女の子。以前は逆でしたが、今は専攻によっては、女の子だけのところもあります。一般的な社会もそうですが、伝統工芸の世界も男性が多かったのが最近は女性もどんどん活躍していますね」

京都伝統工芸大学校の授業の様子

留学生も増えているそうです。

「留学生がくるとは、夢にも思っていなくて。面接で聞くと、世界中で伝統工芸を勉強する場所を探していたらここにたどり着いたと」

日本だけでなく、世界でも珍しい学校。

「美術や芸術を学ぶ学校はいっぱいありますが、伝統工芸、手作りを勉強する学校は中々ないと。今は中国、台湾、韓国とアジア系が多いですけど、過去には、フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスからも来ています」

京都伝統工芸大学校の授業の様子

みなさん、専攻は?

「陶芸が一番多いですね。今、1年生34名中、14名が留学生です」

大人気ですね。

「中国には景徳鎮 (けいとくちん) とか素晴らしい焼き物がありますが、教えるところがない。伝統工芸を理論だって学べる学校として選ばれているようです」

自分で納得できるものを100個作る

どんなふうに学んでいるのか、実習が行われているクラスを見学させていただきました。

こちらは陶芸専攻1年のクラス。最初の課題である煎茶碗を作っています。

京都伝統工芸大学校で課題を制作している学生

学校では、「技術は反復練習によって身につく」とし、講義のうち約80%が実習。陶芸では一つの課題に対して作品を100個提出するそうです。

京都伝統工芸大学校で課題を制作している生徒

「ものづくりがやりたくて入った」という学生さんたちに、陶芸を選んだ理由を聞きました。

京都伝統工芸大学校で課題を制作している生徒

「高校の時に木工やガラス工芸をやっていたので、それ以外のことがやりたいと思って陶芸に」

工房に弟子入りすることは考えなかったんでしょうか?

「弟子入りは難しいイメージがあったので、大学で4年間しっかり職人の方に教えてもらってから弟子入りしたほうが確実かなと思ったので」

課題を100個提出すると聞きましたが、今、何個目ですか?

「120か、130個目です」

あ、100個作って100個提出するんじゃなくて、自分で納得できるものを100個!

「はい」

京都伝統工芸大学校で課題を制作している生徒

すごい!ありがとうございます。がんばってください。

技術が身につき、ものの見え方も変わる

続いてお邪魔したのは木工専攻のクラス。

京都伝統工芸大学校で課題を制作している生徒

椅子の座面を作る作業をしていた学生さんに話を聞きました。

京都伝統工芸大学校で課題を制作している生徒

「もともと装飾が好きで、装飾をするには土台が必要なので土台を作れるようになりたくて木工を選びました」

弟子入りするのではなく、この学校を選んだのは?

「それまで、ものづくりは何もしていなくて、ここは基礎から教えてもらえるので、ここで学ぼうと思いました」

京都伝統工芸大学校で課題を制作している学生

2年間やってみてどうですか?

「木は好きでしたが、初めて知ることがたくさんあります。木の種類によって性質が違うとか。どんどん形ができあがっていくときは気持ちがいいです」

京都伝統工芸大学校で課題を制作している学生

イメージと違って、大変なところはありますか?

「力仕事ばっかりかなと思っていたんですけど、繊細なことが多くて。大雑把ではいけないなと。基本的なことですが」

ありがとうございます。がんばってください。

修了制作の本棚を作っている木工専攻の3年生にも話を聞きました。大阪の自宅からスクールバスで2時間かけて通っているそうです。

京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生

3年間で自分の技術の変化を感じますか?

「ぜんぜん違います。改めて木工が好きだなって思ってます。技術もだいぶ変わりました」

「高校でも木工をやっていましたが、かじる程度だったので、ここに来て、見え方も変わりました。組み方とか細かいところまで分かるようになったので」

使用する道具
卒業する頃には様々な道具の使い方もしっかりマスター

大阪には木工や家具をけっこう扱っているところも多いので、卒業後も楽しみですね。

「まだ進路は考えていないんですけど、木工のおもちゃとか、小物を作っているところ。手作りできるところがいいなと思っています」

ぜひがんばってください。ありがとうございました。

ノウハウは学べても、技術は自分で身につけるしかない

最後に案内していただいたのは京手描友禅専攻のクラス。

京都伝統工芸大学校で作品制作中の学生
京都伝統工芸大学校で課題を制作する学生

「ずっと憧れていたんですが、衰退産業なので女の子には、と反対されている」と話すのは、家が着物関係の仕事をしているという学生さん。

社会人を経験したものの、やっぱりやりたい、と入学を決めたそうです。

京都伝統工芸大学校で制作中の作品

「工房に入ることも考えましたが、雇って一から教える余裕がないと言われて、それだったら自分で力をつけてから入ろうと」

即戦力になる。作り手さん思いですね。

クラスでは先生も一緒に作業をしていました。

京都伝統工芸大学校で一緒に作業をおこなう先生

「これは商品なんです」と話すのは京手描友禅講師の駒井達夫さん。

ご自分の商品を作るところを見せるのも講義の一環だそうです。

ご自分で作るのと、教えるのは違いますか?

「難しいですね。工程やノウハウは教えられるけれども、技術ばかりは自分で努力してもらうしかない」

繰り返し、繰り返し。

京都伝統工芸大学校で制作中の作品

「そうですね。繰り返して技術を身に付けていく。こういう仕事は、一人前になるには随分かかりますからね」

それを3、4年という短期間で。

「だから、完璧にやるということは難しいですけど、卒業する時には、一応は自分でものを作れるようになれるかなと思います」

京都伝統工芸大学校で制作中の作品

職人だけが卒業後の道ではない

どの教室でも、みなさん黙々と手を動かしているのが印象的でした。

卒業後はどこに進まれるのでしょうか?

「伝統工芸技術の後継者を育てるという大前提があるので、以前は職人だけ。伝統工芸、職人、と限られたところに送り込もうとしていましたが、今は多様化しています」と言う工藤さん。

志望動機や将来の目標も多様化しているそうです。

京都伝統工芸大学校で制作中の作品

「金属大好き、木工大好き、陶芸大好きという子が多いですね。工程はわからないけれど着物の柄や模様が好き、とか。とにかくそのモノが大好き、というのが一番多い理由ですね」

学校でも多様性に応えるため、カリキュラムを多様化させていくことを考えているそうです。

「作家になったり、カルチャーセンターの先生になったり。基本は職人を育てる、後継者を育てる、ですけど、こんな技術やこんな生き方もあるよ、というのを指導していかなければと思っています」

京都伝統工芸大学校で制作中の学生

お昼休みも実習室でお弁当を食べるぐらい、ものづくりが好き

「私たち、ここを温室に例えるんです。すごく恵まれた環境の温室は、すくすく伸びるけれども、外からのプレッシャーに弱い面があります」

「昔は何も分からず弟子入りして理不尽に怒られて、そんな過酷な環境で育つ中で我慢強さや底力がついてきました。良くも悪くも、ここの環境にはそれがありません。親方にやめろと言われてすぐに『辞めようと思います』と連絡してきた子もいました」

技術はある。あとはどう社会の中で折り合いをつけながら力を生かしていくかだと工藤さんは語ります。

「職人になると黙々と仕事をして、自分以外が見えなくなってしまいがちですが、皆と和気あいあいやることも必要です。技術力と人間力を兼ね備えて社会に出ていってもらえたら嬉しいですね」

京都伝統工芸大学校で制作中の学生
京都伝統工芸大学校で制作中の学生

伝統工芸技術の後継者育成を目的として開校した「京都伝統工芸大学校」。

1時間のお昼休みも実習室でお弁当を食べる学生さんが多いと聞き、みんな、本当にものづくりが好きなんだと実感しました。

これからの時代は、そんな熱い想いが未来の職人を育てるのかもしれません。

その想いを忘れずに、力強く羽ばたいていってほしいと思います。

<取材協力>
京都伝統工芸大学校
京都府南丹市園部町二本松1-1
0771-63-1751(代)

文 : 坂田未希子
写真 : 木村正史

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