子どもが喜ぶオリジナルもなか。ポイントは専門店の“もなかの皮”

最近の子どもとしては珍しいかもしれませんが、うちの娘はケーキよりも和菓子好き。

今日は、娘が大好きな和菓子の中から「最中(もなか)」について学んでみることに。

“もなか”というと、どうしても中身が気になってしまいがちですが、今日は「皮」が主役です。

オリジナルアイス最中

みなさん、もなかの皮を作る専門店があるのをご存知でしょうか?

和菓子屋さんでも、あんこは自家製で皮は専門店のものを使う、というケースが多いのだそう。

そんな専門店が作る皮を使って、オリジナルのアイスもなかを作ってみたいと思います。

加賀種食品工業株式会社の「最中皮」

菓子どころ金沢にある「加賀種食品工業株式会社」。

1877年(明治10年)の創業以来、最中皮や、ふやきなどを専門に作っています。

写真提供:加賀種食品工業株式会社

専務の日根野逸平(ひねの いっぺい)さんにお話を伺いました。

「もなかの皮を自家製で用意している和菓子屋さんは全国でも数軒です。もなかの皮は複雑で長い工程を経て作られるため、昔から分業制になっています」

「もなか」と名のつくお菓子は平安時代からあったそうですが、今の形になって一般的に食べられるようになったのは江戸中期頃からといわれています。

「明治の頃には、もなかの皮は専門店で作られるようになりました」

多くの人にもなかを食べてもらいたい。190種類の「最中皮」

加賀種さんは東京の神田で創業。その後、2代目が富山出身だったこともあり、1912年(明治45年)に北陸の金沢に移転しました。

加賀種さんの特徴の一つが、既製の皮の種類が多いこと。顧客に合わせた皮だけを作るのではなく、丸型、四角型をはじめ、一般的に広く使われる型を多く取り揃えています。

「昔ながらのものですと、お城や藁葺き屋根の家とか、桜、菊、栗、貝などの季節ものが多いですね」

オリジナルアイス最中
帆立貝
オリジナルアイス最中
金沢ゆかりの「福梅」。お正月には紅白の福梅最中を食べる

金沢ゆかりの「福梅」のほか、七福神、干支、ダルマ、松竹梅、鏡餅、鯛などの縁起物や、金太郎、眠り猫、くま、うさぎ、いちご、クローバーなど、バリエーション豊富です。

オリジナルアイス最中
うさぎ
オリジナルアイス最中

どうしてこんなに種類があるのでしょう?

「うちは、皮を焼く金型も自社製なんです」

通常、金型は専門業者が作るそうですが、現在、業者が全国で2軒となってしまったことから危機感を持ち、10年ほど前に自社製に切り替えたのだそう。

自社製になってからは、型のアイディアが出るとすぐに製作できることから、さらに種類が増え、現在、その数は190種類にものぼります。

オリジナルアイス最中
カップ型

誰にでも買えるように。そこには「もっと多くの人にもなかを食べてもらいたい」という思いもあります。

また、「今、我々が金沢にいることの意味は大きい」という日根野さん。

「茶の湯の文化が受け継がれてきた金沢の街で、目も舌も肥えているみなさんの厳しい目に晒されながら技術を磨いています」

加賀種さんの最中皮で作るアイスもなか。作る前から楽しみになってきました。

材料は、もち米と水だけ

それでは、もなかの皮を選びましょう。

加賀種さんの最中皮は、オンラインショップ「たねらく」で誰でも注文することができます。

「いっぱいあって、迷っちゃうなぁ〜」と言いながら、娘が選んだのは「うさぎ」と「星」。

オリジナルアイス最中

他にも、カップ型や定番の型を選び、注文から数日で届きました。

いよいよ、アイスもなかを作ります。

と、その前に、もなかの皮はどうやって作られているのでしょうか。

加賀種さんのHPで製作工程を見ることができるので、視聴することに。

オリジナルアイス最中

皮の材料はシンプルで、もち米と水のみ。

そのため、良質な「もち米」が欠かせません。加賀種さんでは、北陸産の「新大正もち」を使っています。

独特の粘りとコシがあり、焼き上がりの風味がよく、皮を作るにはぴったりの品種なのだそう。

精米したお米は粉にしてから蒸し、餅につきあげます。

オリジナルアイス最中
蒸しあがったもち米(写真提供:加賀種食品工業株式会社)

米のまま蒸すよりも、粉にしてから蒸して餅にする方が均一に伸び、サクッとした食感になるそうです。

その後、餅を伸ばし、人差し指サイズに切っていきますが、やわらかい餅を均等に切るのが職人の腕の見せ所。

「小さ過ぎると形にならないし、大き過ぎると耳(余分な部分)ができてしまう。手の感覚だけで切っていくので覚えるのが大変です」(日根野さん)

次に、切った餅を金型に入れ、焼いていきます。

写真提供:加賀種食品工業株式会社

これもすべて手作業。火加減を調整しながら焼き過ぎたり色むらがないよう、均一に焼いていきます。

焼きあがったら、ひとつひとつ検品し、色むらのあるものや欠けているものは外していきます。

オリジナルアイス最中
検品作業(写真提供::加賀種食品工業株式会社)

こうして最中皮が完成。職人さんの手作業にこだわり、ひとつひとつ丁寧に作られていることがわかりました。

娘も、皮の材料が大好きなお餅と知り、俄然、興味が湧いてきた様子。

せっかくなので、まずは、皮そのものを味わってみることに。

オリジナルアイス最中

美味しい!!

パリッとして、香ばしくて、口溶けはふわっとしています。甘みはないので、子どもには物足りないようですが、大人は皮だけ何枚でも食べられそう。

アイスと一緒に食べるとどんな風になるのでしょう。

あれこれ試してみたくなる

最初に、シンプルな「アイスもなか」を作ります。

オリジナルアイス最中

うさぎの型に、いちごアイスを詰めていきます。

オリジナルアイス最中
皮は冷やさず、常温のままでOK。アイスは少し溶けている方が詰めやすい

隙間なくアイスを詰めるのがコツとのこと。バターナイフなどを使うと子どもでもきれいに詰められます。

オリジナルアイス最中

裏表、両方の皮にアイスをつめたら、2つを重ねます。

オリジナルアイス最中

星型にはバニラ。

オリジナルアイス最中
オリジナルアイス最中
オリジナルアイス最中

できたら冷凍室へ入れて固めます。その方がアイスと皮がなじむのだそう。

オリジナルアイス最中

30分ほど置いて、いただくことに。

オリジナルアイス最中
オリジナルアイス最中

美味しい!!!皮がしっとりとアイスになじみ、口どけがふわっとしています。

オリジナルアイス最中

コンビニなどに売っているアイスモナカの皮は小麦粉で作られているものが多く、最後までパリッとした食感が特徴ですが、もち米の皮は、もちっとした食感。

皮の風味もしっかりと感じられます。

フルーツなどを挟んでみるのも美味しそうです。

次は、トッピングで楽しんでみることに。

オリジナルアイス最中
オリジナルアイス最中
フルーツ、あんこ、レーズン、くるみ、カラーシュガーなどお好みのものを
オリジナルアイス最中
オリジナルアイス最中
カラーシュガーをのせて。あえてピンク色だけを選んでのせるのが女子っぽい

アイスが溶けないうちに「いただきます!」

オリジナルアイス最中

これまた美味しい。パリッとした食感の後、皮が主張し過ぎずにアイスと一緒にふわっと溶けていきます。

皮を味わっているかどうかは不明ですが、娘も「おいしぃ〜」と、あっという間に完食。

もなかの皮は小さめのものが多いので子どもにもピッタリ。味やトッピングを変えていろいろ楽しめるのもうれしいです。

オリジナルアイス最中
大好きなレーズンをのせて
オリジナルアイス最中
大人向けの抹茶にあんこ。もち米の皮にはやっぱりあんこが合う
オリジナルアイス最中
カップ型の皮を使えばフルーツパフェ風にも。子どもが集まる時に、アイス最中パーティーもいいですね

あれこれ試したくなって、ついつい食べ過ぎてしまいました。

いろんな食のシーンで使える材料に

自分で作るアイスもなかに、娘も大満足。

オリジナルアイス最中

皮自体の美味しさも知ることができ、親子で楽しく美味しく学べました。

「これからは、もなかの皮を和菓子の材料としてだけでなく、料理やデザートなど、いろんな食のシーンで使える材料として提案していきたい」という日根野さん。

オリジナルアイス最中

「お米でできているものなので、毎日食べているご飯のように、いろんなものと相性がいいので、いろいろに楽しんでもらえたらと思います」

クラッカーがわりに、チーズなどのおつまみをのせても美味しそうです。

「もちろん、もなかとしても食べてもらいたいです。ケーキだけでなく、もなかやおまんじゅう、どらやきとか、和菓子を食べてもらえるとうれしいです」

オリジナルアイス最中

オリジナルのアイスもなか作りをきっかけに、親子で和菓子を楽しんでみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
加賀種食品工業株式会社
石川県金沢市春日町8-8
076-252-2221
オンラインショップたねらく

文・写真 : 坂田未希子

美しすぎて土佐藩が隠した「高知サンゴ」とは?知られざる海の宝石の物語

赤く輝く海の宝石、サンゴ。

アクセサリーや数珠など、全国のサンゴ製品の8割以上が高知県で生産されています。

前回は、高知サンゴ工房さんを訪ね、赤ちゃんのお守り「ベビーブレス」をご紹介しました。

高知サンゴ工房
水分によって色が変わるサンゴの特性を生かした「ベビーブレス」

高知サンゴ工房さんは、高知でも珍しい、工房と店舗が併設されたお店。

今回は、工房でサンゴの加工を見せていただきました。

サンゴにまつわる悲劇を綴った絵本「お月さんももいろ」

国産のサンゴは、1812(文化9)年、高知県月灘沖(現在の大月町)で漁師がたまたまサンゴを引き上げたのが始まりといわれています。

以降、土佐沖でのサンゴの採取漁が行われていたものの、1838(天保9)年、土佐藩によりサンゴの採取、所持、販売が禁止されます。

「江戸幕府に、こういうお宝があることを知られたらいかんということで隠していたんです」

サンゴの話をすることすら許されなかったそうです。

お話を聞いた、高知サンゴ工房二代目の平田勝幸さん

当時のことがわかるものに、土佐に伝わるわらべ唄「お月さんももいろ」という唄があります。

お月さん ももいろ
だれん いうた
あまん いうた
あまの口 ひきさけ

江戸時代、禁止されていたサンゴの秘密をもらした海女の口を引き裂け、という唄だそうです。

唄を題材にした絵本もあります。

『お月さんももいろ』文・松谷みよ子/絵・井口文秀

古くから桃色サンゴが眠っていると知られていた月灘の海辺。そこに暮らす少女が、禁制と知らずに桃色サンゴを拾ったことから起こる悲劇の物語です。

土佐におけるサンゴの歴史と、土佐で採れるサンゴがいかに美しく、人々が魅了されていたかがわかるお話でもあります。

「明治に入って幕府が無くなるとサンゴの採取が自由化されて、そこからサンゴの加工も始まりました。今から170年ぐらい前ですね」

サンゴ漁をするのは許可を得た漁師さんだけで、採る場所も室戸岬沖のわずかな範囲と水産庁によって決められているそうです。

店内のディスプレイにある、サンゴ漁に使われる専用の網

「いいサンゴが採れるところは漁師さんに聞いても絶対に教えてくれんです。サンゴは一攫千金なんで。人に喋ると、どういうルートで伝わるか分からんから」

昔も今もサンゴがお宝であることに代わりはないようです。

原木の形を残さず、元の形が分からないように彫る

では実際、サンゴの原木からどのように加工されていくのでしょうか。

「どんな形にするかは、原木に合わせて。でも、原木の形を残すと彫りが堅くなってきれいにまとまらないので、元の形が分からないような彫りにしています」

「土佐彫りと言って、立体的に直線的に縦方向に彫っていくのが高知県伝統の技術ですね」

バラのアクセサリー

「例えばバラだったら、花びらを寝かさずに、縦に直線的に立体感を出すように彫っていく。関東とか台湾にいくと花びらをぺたっと寝かせた平たいデザインが多いですね」

厚みがあり、本物のバラのように見える

サンゴの正体は植物ではなく虫

ところで、サンゴとはどんなものなのでしょうか。

「サンゴには“八放(はっぽう)サンゴ”と“六放(ろっぽう)サンゴ”があって、加工に使うのは八放サンゴ、宝石サンゴと言われています。サンゴは珊瑚虫(さんごちゅう)と呼ばれる動物なんですよ」

え!虫!?

「珊瑚虫の口の周囲にある触手の数によって、六放サンゴ(6本)と八放サンゴ(8本)に分類されています」

加工に使う八放サンゴは、海底100m以上の深海から採れるもの。サンゴ礁やイソギンチャクは六放サンゴで、種類が違うものだそうです。

「サンゴはまだまだ未知の生物で、研究している大学の教授もいるんですが、詳しいことはよくわかっていません」

サンゴは植物のように思っていましたが、生物だったとは。

当然、寿命もあります。

「今、水揚げされている原木はほとんど死んでいる、枯れたサンゴですね。折れて海底に倒れているものや、昔、網にかけ損ねて折れたものとか」

枯れサンゴでも、ものによっては価値が上がるそうですが、やはり生きたサンゴがいいそうです。

「生きたサンゴは独特な透明感があります。なんか不思議な。たぶんコラーゲンやと思います。枯れたサンゴになると、その成分がなくなっているから磨いてもちょっとくすんだような色になります」

タンパク質。なるほど、生き物だということがよくわかります。

赤、白、ピンク。色の濃さでも価値が違う

加工される宝石サンゴは色も様々。一つとして同じ色はありません。

「桃、赤、白、ピンク、全部で4種類ぐらいですね。採れる海の場所によって色も違います。濃い赤のものばかり採れるところや、白っぽいのばかり採れるところ。昔は室戸沖で、最高品質の赤サンゴが採れました」

赤サンゴは小さくても船が1隻買えるぐらいの値段になるそうです。

「昔は日本人が嫌った色なので一番安い原木やったのに、今はスゴイ価値がある。赤黒ければ黒いほど価値が高い」

こちらの桃色サンゴも最近人気のもの。

「昔は白いところが入ると、皆さん嫌がったんですけど。今は白が入ってるほうが可愛い言うてね」

時代とともに色の好みが変わるというのも面白いです。

歯医者さんと同じ道具を使って加工

作業場にはきれいに道具が並べられています。

実はこれ、歯医者さんが使っているものと同じ道具。

それもそのはず、サンゴはとても硬く、人間の歯とほぼ同じ硬さだそうです。

「少々落としても大丈夫です」

虫眼鏡を覗きながら、細工をしていきます。

こんなに細かな模様!

まん丸のピンポン菊をイメージした「玉菊」というパーツができました。

こちらは、削りながら細工していく「くり抜き」加工を施したもの。

「象牙なんかに似たようなものがありますけど、サンゴでやるのは難しいので、他所にはないものですね」

加工で一番難しいところはどんなところでしょうか。

「原木を切って思い通りにいかないところですね。削っていくと中に大きな穴が開いてたりとか、8割キズが出てくるんです。それを想定して切らんといかんから」

「この原木の場合は、恐らくキズが出んであろうというのは絵付けしているこの部分だけです。大体、又になってるところに大きなキズがあります」

穴の空いているもの

キズを避けてデザインを決めていく。

「残った部分は別のもんに。削って削って、小ちゃい球にしたりとか」

一人前に加工ができるようになるまで30年。

高知でも伝統の細工ができる職人さんは10数人、関東ではいなくなってしまったそうです。

サンゴの成長は1年間で0.3㎜。製品を作るまでには150年以上かかる

サンゴは高知のほか、小笠原諸島、奄美大島でも採れますが、全て加工職人が多い高知に水揚げされます。

その水揚げ量は減っているそうです。

「30年ぐらい前が水揚げ量のピークじゃなかったかな。ずっと安定した採取量がありましたので、いつ入札に行ってもざくざくありました。今は小っちゃな原木が一本だけとか、そんな感じになっていますね」

技術を受け継ぐ人材がいても、材料がどこまで持続できるかという問題があるそうです。

「今、黒潮海洋研究所と宝石サンゴの組合で一緒にサンゴの養殖をしていますが、1年間で0.3㎜。ちょこっとした製品を作るだけでも150年かかるので、なかなか難しいですね」

成長するまでに職人を絶やさずに続けていくには、今たくさん作るのではなく、原木を少しずつ削っていく方がいい。

「うちも昔採った原木があるんですけど、お客さんがどうしても欲しいっていう特注以外は切らないようにしています」

美しく可愛らしい海の宝石、サンゴ。

その美しさのため人々が魅了されてきた歴史、限りある資源を大切にしながら伝統技術を後世につなげていく厳しさも知りました。

身につける方も大切に親から子へと受け継いでいきたい宝石、サンゴです。

<取材協力>高知サンゴ工房
高知市桟橋通4-7-1
088-831-2691

こちらは、2018年4月15日の記事を再編集して掲載しました。

途絶えてしまうかもしれない鹿沼の組子細工。400年の技を受け継ぐ職人たち

みなさん「組子」をご存知ですか?

私は栃木の工芸品を調べていた時、初めて「鹿沼組子」の写真を目にし、その美しさに惹かれました。

その鹿沼組子は、なくなってしまうかもしれません。

釘を使わず立体的に仕上げる組子細工

組子は、障子や欄間、襖など建具の一部に組み込まれる細工のことで、幾何学模様が特徴です。その歴史は鎌倉時代にまで遡るともいわれています。

漁師が投網をしている様子を描いたこちらは、県の伝統工芸品である「鹿沼組子書院障子」。「曳き網」と言う模様で、漁師や魚、富士山部分には彫刻が組み込まれるなど、見事な職人技と遊び心のあるデザインは、見ていてワクワクします。

鹿沼組子書院障子
「木のふるさと伝統工芸館」所蔵の鹿沼組子書院障子

平面に描くのではなく、立体ならではの美しさ。しかも、小さく切り出した木片を釘を使わずに作られているのだそうです。

いったいどうすればそんなことができるのでしょうか。

実際に見てみたいと、「鹿沼組子」の産地、鹿沼に出かけてきました。

全国の腕利き職人があつまった鹿沼

栃木県鹿沼市は、江戸時代、日光西街道、例幣使街道の宿場町として栄えました。

日光東照宮を造営の折、全国から集められた腕利きの大工職人たちが仕事のない冬場や帰郷の際に滞在し、その技術を伝えたのが現在まで400年続く鹿沼の木工技術のはじまりとも言われています。

鹿沼組子の原点といわれる「花形組子障子」

そんな木工の街で江戸時代に作られたお祭りの「屋台」に、鹿沼組子の原点を見ることができます。

石橋町の彫刻屋台
組子の原点とも言われる、鹿沼市石橋町の「彩色彫刻黒漆塗屋台(さいしきちょうこくくろうるしぬりやたい)」。鹿沼市の「木のふるさと伝統工芸館」で見学できます。色彩鮮やかな花鳥の彫刻が艶やかです

屋台とはお祭りの山車のこと。この屋台の脇障子「花形組子障子」が、鹿沼の組子技術の原点とも言われているものです。現代の、細かいパーツを組んで模様を作っていくものとは違いますが、パーツを組んでいく工法は同じだそうです。

花形組子障子
正面、両脇にある「花形組子障子」

こうした職人の技術が受け継がれる一方、鹿沼では周辺から質のよいスギ、ヒノキなどが切り出されていたことから、江戸時代より戸、障子、雨戸など建具の生産がはじまり、華やかな組子を取り入れた建具が鹿沼で作られていくようになります。

今回は、そんな鹿沼で今も組子を使った建具作りを続ける豊田木工所を訪ね、組子が生まれる瞬間に立ち会うことができました。

模様は200種類以上。スピードが鍵を握る組子づくり

豊田木工所
豊田木工所。一際目立つブルーの外観は、遠方の方が来てもわかるように選んだそう

「組子の魅力は華やかさ。木片に切り込みを入れて組み合わせる技術は日本独特のものです」

と語るのは豊田木工所社長、豊田晧平(とよだ・こうへい)さん。職人だった祖父から数えて3代目。自身は職人ではありませんが商品企画のアイディアを出し、建具だけでなく新しい組子製品を製作、販売しています。

麻の葉模様の組子の建具
麻の葉模様の組子の建具。これだけで部屋の雰囲気が一変する

「組子の技術が発展したのは明治以降、温泉旅館などで高級建具として使われるようになってから。模様は職人たちが腕を競い合って編み出したものです」

模様の数はなんと200種類以上。さらに、模様を組み合わせることで、様々なデザインを作ることができます。

「組子は全国で作られていますが、産地として製作しているのは鹿沼だけだと思います。1本の建具を作るのに、2、3社で分業しているので早くできるのが特長です。そのため、組子職人も技術だけでなく早さが求められます」

ひとつひとつ時間をかけて作り上げていくものだと想像していたので、スピード重視で作り上げるというのは意外なお話でした。

ほんのわずかな厚みを残して切り込みを入れる

豊田木工所
建具や組子の部材を加工する機械がいくつも並ぶ工場

組子職人の伊澤栄(いざわ・さかえ)さんに、組子の代表的な模様「麻の葉」を作る様子を見せていただきました。

材料はヒノキを使用。木目の美しさだけでなく、油分があるため、刃物切れもよく、仕上げが楽だそうです。工場はヒノキのいい香りで包まれていました。

組子は、何千もの細かなパーツで組み立てられているため、作業はパーツ作りからはじまります。

木材を機械で必要な厚さと長さに揃え、組み合わせるための切り込みを入れたり、角度をつけたりしていきます。

組子つくり
一番薄いもので5厘(りん)、約1.5mmの厚さにしていく

切り込みの角度が1ミリでもずれると組み立てられないので正確さが求められます。

現在は機械でできる工程も多くなりましたが、それでも一人前になるには10年はかかるそうです。

組子パーツ
麻の葉模様をひとつ作るのに、6種類21本のパーツが必要。両端や切り込み部分にも角度がつけられている
組子のパーツ葉っぱ
葉っぱと呼ばれるパーツ。中央部にはごくわずかな厚みを残して切り込みが入っている

パーツが揃ったところで、外枠を組み、その中に三角形の地組み(基本の形)を作っていきます。

組子製作風景
基本の形となる地組み

地組みが出来上がったら、いよいよその中に模様となるパーツを組み込んでいきます。

組子の製作の様子
「葉っぱ」を折って組み込む

パーツが隙間なく、気持ちいいほどぴったりとはまっていきます。なるほど、こうやって作っていたんですね。

みるみるうちに模様ができていき、わずか3分ほどで完成。今回は私に説明をしながらだったので、これでもゆっくり作っていただいたようです。普段はいくつも同時に作っているとのこと。

麻の葉模様の組子
完成した麻の葉模様。鹿沼は麻の産地でもあり、「鹿沼組子」は麻の葉模様をシンボルにしています。こちらは食品などを載せるロングトレーに使われます

それにしても、組子がこんなに細かくパーツに分かれているとは思いませんでした。だからこそ、細かい模様が作れるんですね。

「好きな模様?そういうのはないですね。注文がきたものを作るだけですから」という伊澤さん。
職人歴50年、伝統を受け継ぐ数少ない職人の一人です。

中学卒業後、建具屋で10年修行するも、建具だけでは食べていけないと、組子職人の元へ。30歳でようやく一人前になれたと言います。

「自分は今67歳で、後輩が50代、その後はいないので我々で終わりかもしれませんね」

1964年(昭和39年)、鹿沼木材工業団地が造成されるなど、鹿沼の建具は昭和30年代〜40年代にかけ、最盛期を迎えます。組子を使った建具も多く生産されていました。

しかし、時代とともに私たちの住まいも変わり、建具を使った和室のある家が少なくなっていきます。

現代に合った組子のかたちを目指して

このままでは鹿沼の誇るべき伝統技術が途絶えてしまう。豊田木工所では2006年(平成18年)より、東京ビッグサイトで開催されていた「グッドリビングショー」に出展し、鹿沼の建具、組子の技術を紹介するようになりました。

その後、組子を使った現代風の建具、ホテルの客室の照明器具、ロングトレーやコースターなど新しい製品開発に繋げていきます。

2014年(平成26年)に日光オープンした「星野リゾート 界 日光」の「鹿沼組子の間」もそのひとつです。豊田木工所をはじめ、鹿沼建具商工組合に加盟する組子職人たちが腕を振るいました。

鹿沼組子の部屋
星野リゾート 界 日光「鹿沼組子の部屋」。豊田木工所は床の間の飾りなどを制作
ベッドサイドランプ
ベッドサイドランプ
組子コースター
コースター

「今は、設計士さんやデザイナーさんが描いてきたデザインを職人に見せて、どうやったらできるか相談しながら作っています。これからは組子をどう使うか。何かと組み合わせて使うなど、コラボレーションの時代だと思っています」

鹿沼のこと、組子のことを熱心に教えてくださる豊田さん

建具があってこそ活かされる組子の美しさ

江戸時代より職人たちが腕を磨き、競い合って発展してきた組子。

今回、豊田木工所でコースターやロングトレーなど様々な組子製品を見せていただきましたが、一番印象に残ったのが「障子」でした。

「これひとつで部屋がガラッと変わりますよ」

豊田さんも嬉しそうに話していたように、組子の建具のある部屋を想像するだけで気分も華やかになります。

重ね輪胴模様の組子が入った障子
重ね輪胴模様の組子が入った障子

建具でこそ活かされる木目の美しさ、デザイン性、連続する幾何学模様。

いつか組子を使った建具のある暮らしをしてみたい。

すっかり組子に魅了された旅となりました。

<取材協力>
豊田木工所
鹿沼市戸張町2357
0289-65-5333
http://www.toyodamk.com/

木のふるさと伝統工芸館
鹿沼市麻苧町1556-1
0289-64-6131


文:坂田未希子
写真:坂田未希子、豊田木工所、星野リゾート 界 日光

こちらは、2018年7月7日の記事を再編集して掲載しました。

新宿の染物屋が考える着物の未来。なにを本当に残すべきなのか

高層ビルが立ち並ぶ東京・新宿。

多くの外国人観光客も訪れる、繁華街としてのイメージが強い街ですが、実は古くから地場に根付く伝統産業があるのをご存知でしょうか。

それが「染め物」。

神田川流域には、今も染物屋と関連業者が点在し、文化を守り続けています。

染色業は新宿でどのように発展してきたのでしょうか。

流行は京都から江戸へ

神田川が流れる新宿区早稲田。

神田川
富田染工芸

都電荒川線面影橋近く、住宅地の中に工房があります。

1882年(明治15年)創業の富田染工芸です。

富田染工芸
富田染工芸

創業以来、江戸更紗、江戸小紋を専門に着物地を作ってきました。

「うちのルーツは、京都の染物屋です」

そう話すのは、富田染工芸の社長、富田篤(とみた あつし)さん。

富田染工芸
富田篤さん

「長男が京都の店を継いだので、次男の初代富田吉兵衛が東京へ出て、仕事をはじめました」

かつて、着物文化は京都が中心であり、京都で作られた着物が江戸に運ばれていました。

ところが、江戸が人口100万人を超える大都市となり、京都から運ぶのでは流行に間に合わなくなったことで、江戸でも着物が作られるようになりました。

はじめに京都から染物屋が集まったのは、現在の神田紺屋町の辺りや、隅田川に近い浅草周辺。

富田染工芸も最初に工房を開いたのは浅草馬道でした。

大正時代になると、職人たちは清流を求めて神田川をさかのぼり、新宿区早稲田、落合周辺に移転していきます。

富田染工芸が早稲田に移ってきたのは1914年(大正3年)のこと。この地で最初に工房を開いた染物屋です。

大正中頃には、神田川と支流の妙正寺川の流域に染色とその関連業者が多く集まるようになり、新宿の地場産業となっていきます。

糊を使って模様を描く江戸小紋

「はじめは、京都から持ってきた型友禅(刷毛を使って型紙の上から染める)の技法を使って、江戸更紗を染めていました」

江戸更紗のスカーフ
江戸更紗のスカーフ

更紗とは、インドから海のシルクロードを通じて伝わってきた文様のことで、ペルシャではペルシャ更紗、インドネシアにいくとジャワ更紗(バティック)とよばれています。

「『江戸更紗』は江戸時代末期ころからあるもので、型染めと更紗の技術を合わせたもの。多いもので、一枚の布に35枚くらいの型紙を使って色を重ねていきます」

江戸更紗に使う「丸ハケ」
江戸更紗に使う「丸ハケ」。型紙の上から染料を摺りこんでいく

エキゾチックな更紗模様は江戸っ子の人気となり、着物の表地はもちろん、八掛(裾回し)や羽織の裏に使うなど隠れたおしゃれとしても好まれたそうです。

そして現在、富田染工芸で主に作られているのは「江戸小紋」。

江戸小紋のスカーフ
江戸小紋のスカーフ

更紗は型紙を使って直接生地に色を乗せていきます。江戸小紋も型紙を使いますが、色の入れ方が違います。

はじめに「型付け」といって、型紙の上から糊を置いていきます。この糊がついた部分には色が入らず、白く抜かれて模様になります。

富田染工芸
型付けの様子(写真提供:富田染工芸)
富田染工芸
型付けに使う白糊。モチ粉と米ヌカ、塩が入っている
型紙は伊勢型紙を使っている。手漉き和紙を2、3枚、柿渋で貼り合わせ、彫って作る

糊が乾いたら、「地色染め」といって、布全体に地色糊を塗りつけます。

富田染工芸
地色染の機械。地色糊を塗りながら、おがくずを振りかけることで、生地同士が張り付かずに全体に均一に染料を定着させる
富田染工芸
色糊の調合も職人の仕事

次に生地を蒸箱に入れ、摂氏90〜100度で20分ほど蒸して色を定着させます。

蒸し上がったら生地を水洗いし、糊や余分な染料を落とすと、型付けで糊を置いた部分が模様として浮き上がってきます。

富田染工芸
洗う機械。昭和38年までは工房の前に流れる神田川で洗っていた。現在は地下水をくみ上げている

その後、水洗いした生地を乾燥させ、生地を整えて完成します。

着物の未来のために、その“技術”を残す

「多い時はこの辺りで、布の仕上げ加工の業者や、染めた反物に紋を入れたり刺繍をしたりする職人さんも集まって、100軒以上あったんじゃないかな」という富田さん。

富田染工芸だけでも約130人の職人さんが働き、毎日100反もの生地を染めていたそうです。

富田染工芸
今も、作業のほとんどが職人さんの手で行われている

「昔は、3年間隔ぐらいで新しい反物を発表していました。次は紅型風でいこうとか、絞りでいこうとか、流行を発信していくことが会社としても楽しかったですね」

富田染工芸
代々使われてきた張板が天井にたくさん吊られている。張板には、節のないモミの一枚板を使う。1枚35〜40キロある

ところが、昭和30年代をピークに、着物文化に陰りが見えはじめます。

「親父の頃はまだそういう気風も残っていたけど、今はいくら新しいものを考案してもどこも買ってくれない。着物が売れない時代になってしまいました」

かつて100軒以上あった新宿の染色関連業者も、現在は40軒ほど。このまま衰退してしまっていいのだろうか。

そこで考えたのが、着物以外のものに染めの技術を生かす道です。

富田染工芸
(写真提供:富田染工芸)

「子供の頃から、うちの着物で東京の着物文化を引っ張っていく、リーダーになっていくんだ」と教え込まれていたという富田さん。

大学を卒業後に7年間務めた洋服メーカーでの経験を生かし、早くから着物地以外の染色をはじめ、海外展開もしていきました。

それは全て、染色の技術を残していくため。

「全く違う技法で新しいものを作るのではなく、100年以上の歴史がある技術を生かして新しいものを作っていく。それはこの先、着物が復活した時に技術・技法を残していくためです」

富田染工芸
これまでに使ってきた型紙は12000枚以上。戦時中も防空壕に入れられ守られてきた。今も大切に使われている
富田染工芸
型紙の入っている引き出し。ここから職人さんが好きなものを選び、組み合わせていく。色も変えられるので、パターンは無限。世界に1つしかないものができる

「染屋が技術を残していくためには染めなきゃダメ。職人の技術、腕を残していくことを考えています」と富田さんは言います。

富田染工芸では、日本全国の織物屋さんで作られた特徴ある生地を使って染めています。

「材料によって染め方も変える必要があります。研究して、自分たちでノウハウを作っていきます。それをやらなくちゃダメなんです」

富田染工芸
革を染めることにも挑戦している
富田染工芸

今も昔も先駆者でありたい

2012年には、デザイナー南出優子氏とブランド「SARAKICHI」を設立。

蝶ネクタイやスカーフ、日傘など、江戸小紋・江戸更紗の技術を生かした商品を開発し、販売しています。

富田染工芸
2柄2色使いのポケットチーフ「小紋チーフ」(写真提供:YUKO MINAMIDE)
富田染工芸
江戸更紗のスカーフ(写真提供:YUKO MINAMIDE)
富田染工芸
裏と表で模様の違う両面染のスカーフ。江戸小紋の最高の技術であり、今もその技術を持っているのは富田染工芸だけ
富田染工芸

2019年3月には、パリ店を開業。「SARAKICHI」ブランドの販売だけでなく、フランスでも在住の日本人の方に着物を楽しんでもらえるよう、着物のクリーニング・ケアなどの相談にも応じています。

「2代目の富田市兵衛は、シルクスクリーンの原型である『写し絵型』で特許を取っていますが、うちは代々、流行を発信したり、新しいものを作っていく先駆者だったんです」

富田染工芸

「こんなこと言ったらおこがましいけど、伝統工芸の新しいルネサンスを起こさなくちゃいけないと思っています。これまでの技術を使って、お客様に喜んでもらえる、もっといろんな新しいものができるはずです」

染色の技術を残すために、新しいものを開発していく。

なかなかできることではありません。

「全国の伝統工芸に携わる人に、そういう奴がいるんだって伝えてほしい」そう熱く語る富田さん。

常に新しいものを作り、流行を生み出してきた新宿の染色産業の誇りを感じました。

<取材協力>
富田染工芸
東京都新宿区西早稲田3-6-4
03-3987-0701
工房は「東京染ものがたり博物館」としても公開中。見学や染体験(有料・要予約)もできる

文 : 坂田未希子
写真 : 白石雄太

「珪藻土バスマット」誕生秘話 「素人には作れん」と言われた左官技術を継承する女性たち

soil「珪藻土バスマット」はどのように生まれたのか?

水をすっと吸収し、いつまでもサラッとした感触で使える心地よさで人気の「珪藻土バスマット」。

珪藻土バスマット

元々はこんな素材から作られています。

珪藻土

珪藻土 (けいそうど) とは「珪藻」という植物プランクトンの殻の化石からなる堆積物(堆積岩)で、調湿性が高いのが特徴。

湿気を吸収、放出するため、部屋の壁材などに使われています。

この珪藻土を活かした調湿剤やバスマットを製造販売しているのは、金沢で左官業を営む株式会社イスルギの子会社、soil株式会社。

soilのDRYING BLOCK
バスマットと同じく人気アイテムの「DRYING BLOCK」。まるでお菓子のような姿の調湿剤です
soilのDRYING BLOCK
このように割って使います
soilのDRYING BLOCK
お塩などの調味料容器に入れると、調味料が固まらずに使えるという優れものです

「DRYING BLOCK」のほか、珪藻土を使った様々な日用品を作っているsoil。

soilではDRYING BLOCKのほか、珪藻土を使った様々な商品を作っています

左官といえば、建物の壁や床の塗りを担う仕事。彼らが日用品を作っているのも驚きですが、さらに商品の作り手は全員が女性だといいます。

いったいどのような経緯から、珪藻土バスマットは生まれてきたのでしょうか。

製作現場を訪ねました。

江戸時代から続く、全国屈指の左官屋さん

金沢城の西側を流れる犀川の近くに本社を置くイスルギは、1917年(大正6年)創業。

主に大きなビルを手がける、全国屈指の左官屋さんです。

東京オリンピックや大阪万博などの国家的プロジェクトに参加し、国から「優秀技能賞」の表彰を受ける職人を数多く輩出しています。

珪藻土商品専門の「soil」を創立したのは2009年。大手の左官屋さんが、なぜ珪藻土商品を開発することになったのでしょうか。

イスルギの3代目で、soil代表の石動博一さんにお話を聞きました。

金沢城の西側を流れる犀川の近くに本社を置くイスルギ

「もとは江戸時代から続く富山の左官屋です。祖父の石動半七が次男だったので家を出て、金沢で創業したのが始まりです」

半七さんは先見の明がある方でした。明治以降、鉄筋コンクリート建造物が多くなると、住宅の左官からビルの左官に転換。

「でも、ビルの仕事をするには職人の数が足りない。これまでの徒弟制では人の養成に限りがあると、日本で初めて左官の職業訓練校(現在のイスルギ付属技能専門校)を設立しました」

他の左官屋さんは職人さんを外注するところ、イスルギは訓練校の卒業生をそのまま職人として雇うため、高度経済成長期は人を集める苦労がなかったそうです。

ところが、バブル崩壊後は職人を抱えていることがネックに。

また、経済成長を優先させるため、安値で手軽な新建材が現れ、昔からの左官技術が衰退していくことにも危機感を持ったと言います。

「景気の波によって左右されない、左官の技術と職人を生かす方法はないかと模索して、左官の仕上げ方法を作品として見せる“左官アート額”をまず作りました」

左官アート額「Yuyake」
左官アート額「Yuyake」

珪藻土バスマットが大ヒット

左官技術の素晴らしさと、「土壁」や「漆喰」の風合いや良さを改めて認識してもらおうという取り組みが石川県デザインセンターの目に止まり、同センターが企画する新規プロジェクトに参加することに。

「県内のデザイナーとものづくり企業をマッチングして新商品を開発するというもの。僕はものづくりをやりたかったので、喜んで参加しました」

数人のデザイナーが商品を提案する中、ひとりのデザイナーが珪藻土に注目。

「他社製品の珪藻土コースターが『水を吸う』というので、どんなふうに吸うのかと。試作したところ好評価となって、そこから1年間かけてブラッシュアップしていきました」

珪藻土のコースターとソープディッシュの開発をきっかけに、珪藻土商品専門の「soil」事業部を設立。

業界に先駆けて珪藻土バスマットを開発し、大ヒット。「soil」の名が知られるようになりました。

珪藻土バスマット。水をすっと吸収するため、いつまでもサラッとした感触で気持ちよく使える
珪藻土バスマット。水をすっと吸収するため、いつまでもサラッとした感触で気持ちよく使える

職人は「素人には作れん」と言った。高度な左官技術を女性たちに伝えるには?

soilでは、珪藻土の特性や左官の技術を生かすため、商品のほとんどを手作りしていますが、作っているのは左官職人ではありません。

現場で見かけるのはほとんどが女性スタッフ。

従来の左官のイメージを覆すものづくり現場は、どのように生まれたのでしょうか?

「当初は職人の空いた時間に作るつもりでしたが、その頃から本業が忙しくなって、退職した職人3、4人でやっていました」

次第に職人さんだけでは数をこなせなくなり、人手を増やすためにパートスタッフの募集をすることに。家事や育児の間に短時間で働きたい人など、女性の応募者が多く集まりました。

ところが、職人さんに相談したところ「素人には作れん」と言われたそう。

「泥状の珪藻土を型に流し、左官のコテでならしていくんですが、素人にはそのコテ使いが難しいと」

泥状の珪藻土を型に流し、左官のコテでならしていく

「たしかに壁に塗るのは難しいんです。でも、型に入れて作るのは訓練すればできるはずだと思って、思い切って募集しました。やってみたら、だんだんできるようになって。それ以降は彼女たちに任せるようになりました。今では現場で働くほとんどのスタッフが女性です」

彼女たちが働く現場を見に行きました。

チョコレートみたいで美味しそう

伺うと、ちょうど女性たちが左官のコテを使って作業していました。

soil

左官屋さんというよりも、お菓子を作っているようにも見えて、なんだか楽しそうです。

soil

仕事は、最初から最後まで一人で全部作る完結型。

出来高制なので、タイムカードもなく、家族や自分の時間に合わせて仕事ができるのもメリットです。

この日もお昼時でしたが、作業途中の人、お昼休憩をしている人、出勤してくる人など様々でした。

珪藻土の粉

材料となるのは、珪藻土を焼成した粉。色は4種類(ピンクと白は珪藻土の自然の色)あります。

珪藻土を採取する場所によって色が違うそうで、どれも自然な色合いそのまま。ピンク色のこちらは石川県産のものです。

この珪藻土の粉に、水を加えて練っていきます。

珪藻土の粉に水を加えて練っていきます

季節によって粘り気が変わるため、慣れるまでは水分量の調節が難しいそうです。

珪藻土の粉に水を加えて練っていきます

こちらは、グラスなどの水切りをする「DRYING BOARD」の型。

コースーターの型

練った珪藻土を型に流し込んでいます。

珪藻土を型に流し込む

あぁ、なんだかチョコレートみたいで美味しそう。

固まったところで型から外し、乾燥させます

固まったところで型から外し、乾燥させます。

乾燥には2週間ほどかかるそうです。

最後に使った型を洗って乾かすところまでが一連の作業になっています。

自分専用の型を使うので、手入れも肝心
自分専用の型を使うので、手入れも肝心

完成すると検品。気泡があるものや欠けているものは弾かれます。

検品

熟練するほど仕事も早く検品も少なくなるので、数をこなすことができお給料にも反映されます。

「最盛期は稼ぐ人で月30万くらい。内職的な仕事としては、ちょっと考えられないですよね」

なぜ珪藻土は水や湿気を吸うのか?左官だからこそ気づけた強み

珪藻土は目に見えない微細な穴がたくさんあり、その穴で水や湿気を吸い取ります。

その特性を損なわないよう焼き固め加工をしないので、機械ではどうしても作れないと言います。

「季節によって水分量も変わってくるし、乾き方も違う。水で練るときも、機械だと気泡ができて空気抜きができません」

そもそも、珪藻土が建築材として使われるようになったのは、シックハウス症候群が注目されたことがきっかけだそうです。

「それまで日本家屋に使われていた土壁(漆喰など)では起こらなかった。つまり、壁が呼吸をしないのがいけないのだということで、調湿ができる珪藻土が使われるようになりました。

左官屋で珪藻土が使われていなければ、soilはできていなかったかもしれませんね」

製作には左官の技術も生かされています。

現在はシリコン型を使っているが、江戸時代は寒天やコンニャクを使った「かたおこし」左官の技法がある

DRYING BLOCKの型。現在はシリコン製ですが、江戸時代の寒天やコンニャクを使った「型起こし」技法が応用されています。

左官の「洗い出し仕上げ」の技法を使った、ソープディッシュ

左官の「洗い出し仕上げ」技法を使った、ソープディッシュ。小石を入れることで石鹸がくっつくのを防ぎます。

soilの立ち上げから10年。

左官の技術と女性の手仕事により、使い心地のよい珪藻土商品は生み出されていました。

次はどんなアイデア商品が生み出されるのか、楽しみです。

<取材協力>
soil株式会社

文・写真: 坂田未希子

こちらは、2018年5月31日の記事を再編集して掲載しました。ジメッとした季節にも重宝する珪藻土、オススメです。

虎屋さんに教わる「和菓子の日」の起源と楽しみ方

6月16日は「和菓子の日」。

これは単なる記念日ではなく、江戸時代に盛んになった行事「嘉祥 (かじょう、嘉定とも) 」にちなんだもの。

なんでも、その日は和菓子を食べて厄除け招福を願うのだとか。

「和菓子で厄除け」と聞くと意外に思えますが、実は元々、ひな祭りや端午の節句と同じように親しまれてきたもの。

毎年この日には、東京・赤坂にある日枝神社で「山王嘉祥祭」が行われ、東京和生菓子商工業協同組合の技術者が「菓子司」として神前にて和菓子 (煉切) を作り、奉納。

全国各地の和菓子屋さんで、嘉祥にちなんだお菓子を販売しています。

一体「嘉祥」とは? そしてこの日のための和菓子とはどんなものなのでしょう。

老舗和菓子屋の虎屋さんに和菓子に関する資料収集、調査研究を行っている「虎屋文庫」なるものがあると聞き、お話を伺いました。

左から虎屋文庫の森田環さん、小野未稀さん、虎屋社長室の奥野容子さん

食べ物を贈り合う風習

「虎屋文庫」は、1973年 (昭和48年) に創設された、虎屋にあるお菓子の資料室です。

古くから宮中の御用を勤めてきた虎屋に伝わる、歴代の古文書や古器物なども収蔵。一般公開はされていませんが、和菓子についての様々な疑問にもお答えいただけます。

まずは「和菓子の日」の由来となった行事「嘉祥」について、虎屋文庫の小野未稀 (おの みき) さんに話を聞きました。

和菓子の日

「『嘉祥』の起源は諸説あり、はっきりしたことはよくわかっていないのです」

「嘉祥」とは「めでたいしるし」という意味。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によると、「847年 (承和14年) 、朝廷に白亀が献上されたことを吉兆とし、仁明天皇が6月16日に「嘉祥」と改元、群臣に食物などを賜った」とあります。

「室町時代、公家では嘉祥の日に食べ物を贈り合い、武家では楊弓 (ようきゅう) の勝負をし、敗者が勝者に嘉定通宝16文で食べ物を買ってもてなすという風習がありました」

嘉定通宝とは中国のお金で、当時、日本でも流通していたもの。「嘉 (か) 」「通 (つう) 」が勝つに通じることから、武家の間で縁起の良いものとして尊ばれていたのだそう。

「嘉祥」と「嘉定」をかけて、招福を願っていたのかもしれません。

大広間に並ぶ2万個のお菓子

「嘉祥」の風習が盛んになったのは江戸時代のこと。

「宮中では天皇が公家などにお米を与え、公家たちはこのお米をお菓子に替えて献上していました。

また、幕府でも盛大に行われ、多い時には江戸城の大広間に2万個を超えるお菓子が並べられ、将軍から大名や旗本に配られていたそうです」

和菓子の日
千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図(提供:虎屋文庫)

2万個!すごいですね。

「2代将軍徳川秀忠の頃までは、将軍自ら菓子を手渡していたとも言われます。

片木盆の上に1種類ずつお菓子が載っていて、もらえるのは1人ひとつの盆のみ。並ぶ順番が決まっていたのでお菓子は選べなかったようです」

どんなお菓子があったんですか?

「羊羹、饅頭、鶉焼 (うずらやき) 、寄水 (よりみず) 、金飩 (きんとん) 、あこや。お菓子以外に熨斗 (のし) 、麩などがあったようです」

和菓子の日
当時の幕府の「嘉定菓子」を再現したもの。上から時計回りに金飩、羊羹、あこや、鶉焼、寄水、大饅頭(中央)(写真提供:虎屋文庫)

明治時代に編纂された『徳川礼典録』には、1833年 (天保4年) に用意されたお菓子の数「饅頭三ツ盛 百九十六膳 惣数五百八十八」「羊羹五切盛 百九十四膳 惣数九百七十切」などと書かれており、盛大さがわかります。

では「嘉祥」は、宮中や幕府の中だけの風習だったのでしょうか?

「一般の人々の間でも、銭16文でお菓子やお餅を16個買って食べる『嘉祥喰 (かじょうぐい) 』などが行われたそうです。井原西鶴の『諸艶大鑑』にも京都島原での嘉祥の様子が書かれています」

今日嘉祥喰とて二口屋のまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん、東寺瓜、大宮の初葡萄、粟田口の覆盆子 (いちご) 、醒井餅 (さめがいもち) 取りまぜて十六色

「お菓子だけでなく、京都市内・近郊の名産品もあるので、縁起物という意味合いもあったんだと思います」

大奥の嘉定の様子
大奥の嘉定の様子を描いた錦絵(「江戸錦 嘉祥」提供:虎屋文庫)

謎多き嘉祥菓子

では現代の「嘉祥菓子」はどんな姿をしているのでしょうか。

虎屋さんで作られている代表的な「嘉祥菓子」が、こちらの「嘉祥菓子7ヶ盛」です。

和菓子の日
菓銘は、真上から時計回りに『武蔵野』『源氏籬』『桔梗餅』『伊賀餅』『味噌松風』『浅路飴』『豊岡の里』(中央)

社長室の奥野容子 (おくの ようこ) さんに「嘉祥菓子7ヶ盛」について詳しくご紹介いただきました。

「江戸時代末期、『嘉祥』の際に、虎屋が宮中に納めていたものをもとにおつくりしています。嘉祥は6月16日なので、16にちなんで、1と6を足した7つのお菓子を盛り付けています」

当時と同じように、今も土器 (かわらけ) に檜葉を敷き、お菓子を盛り付けて販売しています。

和菓子の日
虎屋に残る「数物御菓子見本帖」(大正7年)より(提供:虎屋文庫)

「お菓子の名前や形の由来も面白いんですよ。『武蔵野』は、晩秋から冬へ向かう寂しい武蔵野のわびた風情を表したもの。『源氏籬 (げんじませ) 』は、数寄屋建築にある源氏塀を見立てたもの。

桔梗の花を形どった『桔梗餅』。『豊岡の里』は、お菓子の神様を祀った中嶋神社がある、兵庫県の豊岡にちなんだものと思われます」

名前の意味を知ると、趣がありますね。

 

「普段はあまり店頭に並ばない、特別なお菓子の組み合わせです」

桔梗があったり、晩秋があったり季節もいろいろ。この7つが選ばれた理由はわかっていないそうです。

「組み合せが違ったり、7つではない場合もあったようです。どうしてこの取り合わせなんだろうと、あれこれ想像しながら食べるのも楽しいですね」

和菓子を食べるのはなぜ?

嘉祥の謎はお菓子の取り合わせだけではありません。

そもそも、なぜお菓子を食べるようになったのか、その理由もはっきりしていないそうです。

「ただ、旧暦の6月 (現在の6月下旬から8月上旬頃) は、とても暑い時期なので、夏負けしないように小豆で栄養を摂るという意味もあったのではないかと思います」

そう話すのは虎屋文庫の森田環 (もりた たまき) さん。

和菓子の日

小豆で栄養を補っていたんですね。

「産後のお母さんに大きなぼた餅を食べさせるとか、地域によってはそういう風習が残っているところもあります。実際に小豆は栄養価の高い食べ物です。

また、日本人にとって古来、赤い色は血や太陽の色を表す神聖なものと考えられていて、赤い色の小豆も同様に重要視されていました」

確かにお赤飯もそうですね。

「その通りです。おめでたい時にお赤飯を食べたり、土用にあん餅を用意したり、小豆を食べることで招福や厄除けを願っていました」

和菓子の日
富岡鉄斎画「嘉祥菓子図」。明治15年、画家・富岡鉄斎が虎屋京都店の近くに移り住んだことから虎屋と交流があった。「嘉祥菓子図」は、虎屋から嘉祥菓子をもらったお礼に菓子と嘉祥の由来を描いたもの(年不詳/提供:虎屋文庫)

医療技術の発達していない時代、病に倒れ、命を落とす人も多かったのでしょう。栄養のあるものを食べて病気を予防する、医食同源の考え方が今より根強かったといいます。

「ひな祭りも端午の節句も、元は厄払いをして次の季節を迎えるという願いが込められていたように、『嘉祥』も同じように考えられていたのかもしれません」

一度は廃れた「嘉祥」が復活

江戸時代、宮中や幕府、一般庶民の間でも親しまれていた「嘉祥」。

明治に入り、時代の変革の中で「嘉祥」の風習は一度廃れてしまいますが、1979年 (昭和54年) 、全国和菓子協会が嘉祥にちなみ、6月16日を「和菓子の日」に制定。

和菓子を食べて厄除け招福を願うという、他にはない文化を復活させ、和菓子業界をより一層盛り上げたいという思いから始まりました。

各地の和菓子屋さんで、嘉祥にちなんだお菓子が並ぶ中、虎屋さんでは「嘉祥菓子7ヶ盛」のほかにも、年に一度の行事のために用意された様々な嘉祥菓子を見ることができます。

和菓子の日
「嘉祥蒸羊羹」。江戸城で行われていた「嘉祥の儀」で配られていた菓子を再現。黒砂糖入りの蒸羊羹。奥野さんの一推し
和菓子の日
薯蕷(じょうよ)饅頭、新饅、利休饅の3種類がセットになった「嘉祥饅頭」。左の薯蕷饅頭に押されているのは「嘉定通宝」の意匠、真ん中は縁起の良い打出の小槌、右は全国和菓子協会のマーク
和菓子の日
縁起の良い3つのお菓子の詰め合わせ「福こばこ」。中央の「はね鯛」は、鯛が勢いよく飛び跳ねる姿から、病魔を跳ね除ける意味も

毎年、楽しみにされている方や、「季節のものだから」と周りの方に配られる方もいらっしゃるそうです。

「家族やお友だちと一緒に、嘉祥の話をしながら食べてもらえると嬉しいです。

もちろん、弊社のものに限らず、お好きなもので“嘉祥”を楽しんでいただき、普段は召し上がらない方も和菓子に触れるきっかけになればうれしいです」 (奥野さん)

多くの人に「和菓子の日」を知ってもらい、「嘉祥」の風習を伝えていきたいと言う、虎屋のみなさん。

最後に、和菓子の魅力について伺ってみました。

「季節感があるのが和菓子の最大の特長といえるでしょう。現在は一年を通じていろいろなものが手に入りますが、季節や行事を感じるお手伝いができるのが和菓子だと思います」 (森田さん)

「嬉しい時はもちろん、悲しい時も甘いもので癒されることは多いと思うので、あらゆる年代の方に召し上がっていただけたらと思います」 (小野さん)

ぜひ、暑い夏を乗り切るため、和菓子を食べてみてはいかがでしょう。

<紹介した虎屋さんの和菓子>
嘉祥菓子 7ヶ盛(要予約)
嘉祥蒸羊羹
嘉祥饅頭
福こばこ

<取材協力>
株式会社 虎屋
菓子資料室 虎屋文庫

文 : 坂田未希子
インタビュー写真 : 岩本恵美