「こぼれない出前そば」を支えるマルシン出前機、日本唯一の技術とは

全国で唯一となった出前機の製造販売を手がける「マルシン」

あっという間に年末も近づいてきました。

年越しそばを出前する方もいるのではないでしょうか。

そばの出前というと、バイクで運ばれてくることが多いですが、つゆがこぼれずに届きますよね。

これ、ごく当たり前になっていますが、改めて考えてみるとすごいことだと思いませんか?

バイクに揺られても、なぜこぼれないのか。

その秘密は、この出前機です。

マルシン出前機

街のお蕎麦やさんのバイクに乗っている、あれです。

昭和30年代に開発され、日本の高度成長期に活躍した出前機。かつては3社で作られていましたが、現在は1社となりました。

開発から50年以上、出前機の製造・販売を手がけるマルシンを訪ねました。

つゆがこぼれないことが絶対条件

府中市にある株式会社大東京綜合卸売センター。

マルシン出前機

その一角に、業務用の調理道具を扱うお店「マルシン」があります。

マルシン出前機

ここで販売しているのが「マルシン出前機」です。

マルシン出前機

株式会社マルシンの代表、森谷庸一さんにお話を聞きました。

「うちは、昭和40年頃から作っています。私も生まれる前の話なので、詳しい開発経緯はわからないのですが、最初に作ったのはエビス麺機製作所というところです」

エビス麺機製作所の出前機が開発されたのは昭和30年代前半。とある日本蕎麦屋さんが考案し、商品化されたそうです。

「うちは出前機の製造販売からはじめて、だんだん他の調理道具を扱うようになって、今の形になりました」

出前機の製造は、創業時から変わらず群馬県にある協力工場で行われています。

「部品はいろんな工場で作っているので、それを群馬に集約し、溶接と組み立てをして、こちらで出荷しています」

マルシン出前機
お店ではパーツだけの販売もしている

販売当初からこれまで、大きなモデルチェンジはないそうです。

「素材を見直して新しくしたパーツもありますが、色も形も構造も変わっていません。それだけ優れてもいるんでしょうが、そもそも完成しないと商品にならなかったってことなんでしょう。今も変わっていないのは、手を加える必要がないのだと思います」

ちなみに、エビス出前機も構造は同じだそうです。

全国どこでもこの出前機を使っているのでしょうか?

「南は沖縄までありますが、北は仙台より上からの注文はほとんどないんです」

寒い地域では冷めてしまうからか、出前は車で運ばれてくることが多いようです。

シンプルながら優れた構造

では、どうしてつゆがこぼれないのでしょうか。

こちらはカタログにある出前機の構造です。

マルシン出前機
注:古い型のため、背当シートなどない部品もあります

要となるのは、厚くて弾力性のあるゴムでできた空気バネの部分。

「今でいうエアーサスペンションですね」

マルシン出前機
マルシン出前機
特許も取得した優れもの

バイクが走行中に揺れてもバネで緩和され、荷台は振り子のように水平に動いて傾かないようになっています。

マルシン出前機
出前機を斜めにしても荷台は水平が保たれる
マルシン出前機
バネが伸び縮みして揺れを吸収
マルシン出前機

すごいシンプルな構造!

「説明すると、みなさんそうおっしゃいますね。もっとすごい構造かなと思われていらっしゃるんですけど」

もう一つ大事なのが丼を上から押さえる荷台部分。

マルシン出前機

中央にあるスプリングの働きによって、程よい力で上から丼を押さえ、左右の揺れを防ぎます。

マルシン出前機

「どの部分も大事ですね。どこか1個が欠けても商品として成り立ちません」

出前機がオリンピックの聖火を運んだ!?

構造の優秀さがわかるエピソードがあります。なんと、1972年の「札幌オリンピック冬季大会」の時に、聖火を運んだのです!

マルシン出前機

「聖火ランナーが持つものとは別に、予備の聖火を運んだみたいですね。1964年の東京オリンピックではエビスさんの出前機で運んだようです」

予備とはいえ、万が一に備える大事な聖火。伴走する車で運ぶよりも安全だと判断されたのかもしれません。

日本の食文化を支えてきた

現在、販売されているマルシン出前機は4種類。

日本そば屋や一般食堂用の1型。寿司店など岡持桶を使う2型。

マルシン出前機
(カタログより)

中華料理などアルミ出前箱を乗せられる3型。自転車用の小さな5型。

マルシン出前機
(カタログより)

運ぶものによって使い分けることができるので、出前をするお店は重宝しますね。

「開発当初はそんなに売れてなかったみたいですが、昭和40年代、高度成長期になって売れ始めたと聞いています」

生活が豊かになり、仕事も忙しくなると、仕事先や自宅で出前をとる人も多くなる。

それまでは、自転車で肩にいくつもせいろを重ねて運んでいたことを考えると、画期的な開発であり、考案したのがお蕎麦やさんというのもわかる気がします。

しかし、その後、出前機に転機が訪れます。

「1970年の大阪万博の時、ファーストフード店が初登場したんです」

同時期にファミリーレストラン、コンビニが登場。

「それまで、出前でお蕎麦やカツ丼を食べてた人たちが、ファーストフード店やファミレスに行くようになって、日本の食文化が変わってきたんです」

マルシン出前機

出前が少なくり、出前機の需要も低迷する中、今度は新しくデリバリーピザが登場。

「ピザができるならと、いろんな食品の宅配がはじまると、出前機を使わないと運べないというお店もあって、また出前機が出るようになりましたね」

それでも出前機の需要はかつてほどなくなり、製造する会社もマルシンさんだけになってしまいました。

「街のお蕎麦屋さんも減ってきましたよね。あったとしても立ち食い蕎麦屋とか。昔から街に馴染んでるようなお蕎麦やさんで、今も一軒で5台使ってくださってるところもありますけど、全体としては少なくなりましたね」

革新的な発明だった

高度成長期からこれまで、日本の食文化の変化とともに活躍してきた出前機。

お蕎麦屋さんが必要としなければ誕生しなかったのでしょうか。

「どうなんでしょうね。道具というのは、これがあったら便利だなというところから始まっている気がするので、それと同じじゃないんですかね」

マルシン出前機

それまで手で運んでいたところから、出前機ができる。

「すごいですよね。洗濯板から洗濯機ができるぐらい革新的なものだったんじゃないですかね」

この先、出前機はどのようになっていくのでしょうか。

「作っているところはうちだけになってしまったので、出前機を必要としている方がいる以上は、なるべく長く作り続けたい、販売し続けたいですね。これでずっと生活させてもらってきたわけですから、続けていかなきゃなと思っています」

マルシン出前機
お話を伺った森谷庸一さん

街で出前機を乗せたバイクを見かけたら、ぜひ美しく滑らかな動きに注目してください。

実際に見ると感動すること請け合いです。

<取材協力>
株式会社 マルシン
東京都府中市矢崎町4-1大東京綜合卸売センター第3通路東側
042-364-0933

文・写真 : 坂田未希子

*こちらは、2018年12月29日の記事を再編集して公開しました。

琉球王朝の最高傑作を、未来に。21世紀に蘇った幻の「東道盆」プロジェクト

*こちらは、2018年6月20日に公開した記事です。琉球王朝の美しい漆器文化を、未来に継承していこうと取り組む人たちを取材しました。首里城のこれからの再建を願い、再掲いたします。

色鮮やかな花々に負けず劣らず華やかな器。

これはいったいなんでしょう?

琉球漆器の最高峰と言われる「東道盆(トゥンダーボン)」です。

名前は、中国の歴史書「春秋左氏伝」にある「東道 (主人となって客の世話をする) の主」に由来するという東道盆
名前は、中国の歴史書「春秋左氏伝」にある「東道 (主人となって客の世話をする) の主」に由来するという東道盆

琉球王朝時代、中国の大使をもてなすために使われていた蓋つきの器で、中には伝統料理などを盛り付けます。

主に首里城内でしか使われていなかったため、王朝が消滅してからは、ごく一部で受け継がれてきました。

そんな歴史と伝統ある東道盆を現代に蘇らせた人たちがいます。しかも単なる復刻ではなく、現代の暮らしで使える形に仕立て直して。

いったいどんな人たちが、どのように蘇らせたのか。

発起人であるプロデューサーの宮島さおりさんと、実際に東道盆を手がけた漆職人の森田哲也さんにお話を伺いました。

*以下、宮島さんの発言は「宮島」、森田さんの発言は「森田」と表記します。

中国からのお客さまをもてなす器

沖縄本島の南にある森田さんの自宅兼工房を訪ねると、たくさんの東道盆が出迎えてくれました。

形も様々で、お正月のおせちを入れるお重のようにも見えます。

宮島「東道盆の形は長方形、正方形、六角形、丸といろいろあります。真ん中のお皿も丸や、四角、素材も石、陶磁器、漆器があったりと、決まりごとはあまりありません」

ただ、お皿の数だけは意味があるそうです。

宮島「中国では、5、7、9、11、13といった奇数が縁起のいい数とされています。東道盆は王朝が中国から来るお客さまをおもてなしするための器なので、中国人の方に気持ちよく食事をしてもらうために、縁起のいい数にしてあるんです」

お話を伺った森田哲也さん(左)と宮島さおりさん(右)
お話を伺った森田哲也さん(左)と宮島さおりさん(右)

お皿の数以外は、時代時代によって変わってきたのではないかとのこと。

というのも、資料や古文書が残っておらず、東道盆そのものも減っているため、詳しいことがわからないそうです。

宮島「東道盆が琉球王朝で使われていたことはわかっていますが、いつから使われていたのかもわかっていません。中国に贈ったものが残っており、おそらく17世紀ぐらいにはあったんじゃないかと考えられています」

一生に一回作れるかどうか分からない、沖縄漆器の最高峰

プロジェクトが始まったのは2014年のこと。

宮島さんが代表を務めるNPO法人アートリンクで、学校に琉球漆器を紹介する出前授業をすることになり、若い漆工芸士たちと知り合ったことがきっかけだったそうです。

宮島さおりさん

宮島「その年の忘年会の席で“沖縄漆器の中の最高峰って何?”って森田君に聞いたら、東道盆だっていう話になって。“でも、作ってみたいけれど一生のうち一回作れるかどうか分からない”と言われました」

東道盆はその背景から一般的な需要がなく、依頼がないと作れないもの。

宮島「じゃあ作ってみよう!って。それがきっかけなんです。

どうせ作るなら昔のものをただ復刻するのではなく、今のライフスタイルに合った、新しいものを作ろうと始まりました」

プロジェクトのきっかけを生んだひとり、森田さんは沖縄伝統の琉球漆器の職人として首里城の復元も手がける実力の持ち主。そんな森田さんでも、東道盆を作るのは初めてだったと言います。

普段は漆のアクセサリーなど、小さな作品を作ることが多いという森田さん
普段は漆のアクセサリーなど、小さな作品を作ることが多いという森田さん

森田「普段、作っている器はお椀くらいのサイズのものなので、箱もので足があって、加飾も全部やるということはありません。だから、東道盆を作ること自体が新鮮でしたね」

こうして東道盆プロジェクトが動き出しました。

15世紀から続く琉球漆器の歴史

そもそも沖縄の漆工芸の歴史は古く、1400年代にはすでにあったと言われています。

宮島「沖縄は高温多湿で、漆を塗るのにとてもいい気候なのと、螺鈿に使う夜光貝が生息しているんです。沖縄の夜光貝は光がすごくきれいだというので珍重されていたこともあって、漆器の産地になったんです」

様々な色合いがきれいな夜光貝の螺鈿
様々な色合いがきれいな夜光貝の螺鈿

琉球王朝時代、中国や日本への献上品として漆工芸が発達し、国を挙げて優れた漆器が輸出されていました。その技法はとても華やかです。

森田「琉球漆器の四大技法に螺鈿(らでん)、箔絵(はくえ)、沈金(ちんきん)、堆錦(ついきん)があります。この四つは、今回制作した東道盆にも使われています」

夜光貝の光沢を生かした螺鈿
夜光貝の光沢を生かした螺鈿
漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵
漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵
立体的に表現する堆錦。漆に顔料を混ぜた堆錦餅(ついきんもち)を薄く延ばし、文様の形に切り抜いて貼り付ける技法
立体的に表現する堆錦。漆に顔料を混ぜた堆錦餅(ついきんもち)を薄く延ばし、文様の形に切り抜いて貼り付ける技法
模様を彫った中に金粉や金箔を埋め込む沈金
模様を彫った中に金粉や金箔を埋め込む沈金。この器には四つの技法全てが使われている

現代価格にして300万。かつての王族仕様を現代のマンション仕様に

琉球漆器のあらゆる技術を駆使して臨んだプロジェクト。わずかに現存するものを参考にしながら、最初に見直したのは器の大きさでした。

可愛らしい足のついた現代版の東道盆
可愛らしい足のついた現代版の東道盆

宮島「もともと東道盆は床に置いて使うものなので、足がついています。元はもっと背が高いんですよ。しかも、大勢で食事をするので、すごく大きいんです」

華やかな酒席が目に浮かぶようですが、今作れば最高級品で300万はかかるそうです。さすが、王朝で使われてきた琉球漆器の最高峰です!

宮島「ただ、それではとても買えないですよね。今は核家族が多いし食事もテーブルでするので、背を低く、サイズも小さくしました」

手加減しないデザイン

宮島「デザインは商業デザイナーさんにお願いしました。もちろん、職人も自分でデザインはできるのですが、自分ですると加減しちゃうって言うので」

加減するとは、どういうことでしょう?

森田「それぞれ得意な技法があるので、どうしても自分が作れるデザインになってしまいがちなんですよね。それよりも全然やったことがない人に考えてもらった方が、斬新なものが出てくるんじゃないかと」

宮島「デザイナーさん、職人、私と、みんなで相談しながら作り上げました。そうすることでフラットに東道盆の良さをつかむことができて、とてもよかったなと思っています」

昔の人がみたらびっくりするような発色

塗りの技術の進化も、新しい表現を可能にしました。

森田「昔は鉱物顔料しかなかったので、黒、赤、緑ぐらいで色のバリエーションは少なかったかもしれませんね」

森田「こういうカラフルな発色は、昔は難しかったと思います。今は漆に適した顔料が開発されたので、絵の具に近いような発色ができます」

現代のデザインにあった華やかな色使いができるのはうれしいですね。

宮島「昔の人がみたらびっくりするでしょうね」

世界で自分だけの東道盆

こうして2015年、現代に生きる東道盆が完成しました。

価格は30〜40万円。一般的な食卓道具と比べれば値が張りますが、プロジェクト発足以降、オーダーメイドの注文もあるそうです。

宮島「お母さんが自分がデザインしたものを娘に残していきたいとか、息子さんが絵を描くのが好きで上手なので、そのデザインを使いたいとか」

森田「欲しいと思う人は、自分だけの東道盆が欲しいみたいです。おじいちゃんからもらったものをもうちょっと新しくしたいとか、自分好みのデザインがあるんですね。

これからは、今あるものを見本にしながら、もう一回り大きくしたいとか、花を青色にしたいとか、お客さんひとり一人の要望を聞きながら作るのようになるのかなと思います」

宮島「それが工芸の良さですよね。昔も職人さんと話しながら作っていたんだと思います」

一家に一台、東道盆

東道盆は、一人の職人がひとつ作るのに1年かかるという大作です。そんな長丁場のプロジェクトを支えたスローガンがありました。

「一家に一台、東道盆」

宮島「今は大量生産で大量消費の時代。ですが、工芸はそれでは成り立っていきません。少々高いのも、そりゃそうです、全て人の手で作るものだから。

高くても頑張って買って、それを直してずっと使っていくという文化の元で、はじめて成り立つ器です。だから、『一家に一台、東道盆』。家宝を手に入れるつもりで、暮らしに迎え入れてもらえたらと思っています。30万、40万するけれど、車を買うよりは安いですからね」

森田「ひとつ作るのに1年はかかるというのは、個人工房でいくつも仕事しながら作っているためなんですね。平行で作っても2個ぐらいが限界です」

宮島「それが一家に一台という需要が生まれてきたら、自分は親方になって、分業制にして指導をしたりもできる。東道盆で、琉球漆器の産業全体を復興するっていう大それた夢も持ってるんですよ」

家族の思い出を、東道盆に乗せて

漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵

宮島「今、漆器の代わりになるものがいっぱいあって、漆じゃなきゃいけないものが家に見つからないんです」

漆器は摩擦に弱い、紫外線に弱い、値段も高い、出来上がりに時間がかかる。利便性だけで言えば、他の素材よりかなり分が悪い、と宮島さんは言います。

宮島「じゃあ、この文化を残していくために何が必要だろうって考えたときに、歴史や先代から受け継がれてきた誇りや使命感、アイデンティティーを柱にするしかないと。それが一番色濃く出せるのが、東道盆かなと思ったんです」

東道盆

宮島「作る方も使う方も、琉球にこんな歴史があったんだって、ちょっと誇らしく思うような状況が生まれればいいかなと思っています。

沖縄に住んでいる人はもちろん、沖縄に縁がある人、この土地や文化を好きな人だったらどなた誰でも使って欲しいなと思います。

家族の思い出を東道盆に載せて、未来に運んで行ってもらえたら嬉しいですね」

「いつかは東道盆」と呼ばれる日まで

2014年に始まったプロジェクトも今年で4年目。

今後は海外に持って行くことも考えているそうです。

宮島「販売というよりは東道盆を使った食事会とか、文化的な体験もいいのかなと思っています。

食事会での使い方を参考にしてもらって、自分の暮らしにある姿を想像して欲しいんです。“いつかはクラウン”じゃないけど、いつかは東道盆みたいに、ちょっと頑張って買う、憧れの存在にできたらいいなと思います」

フランスの展示会では、東道盆にお花を入れたり、チョコレートやマカロンを入れたりもしたそうです。

他にはどんな使い方が、と森田さんにたずねると、こんな答えが返ってきました。

「僕は自分が大切だと思うお客さんが来たときに、何でも好きなお料理を盛り付けてくれたらいいと思っています。

何よりもまず、使うことに意義がありますから」

森田哲也さん

現代に蘇った琉球漆器の最高峰、東道盆。

時代から忘れさられそうになっていた美しい文化は、「一家に一台、東道盆」の合言葉とともに、21世紀の沖縄に再び、息づこうとしています。

<取材協力>
NPO法人ARTLINK
木とうるし工房 ぬりとん (森田さんの工房)

文:坂田未希子
写真:武安弘毅
画像提供:NPO法人ARTLINK

「おおたオープンファクトリー」に参加して就職を決めた人に聞く、町工場の魅力

ここ数年、各地で賑わいを見せている町ぐるみの工場見学イベント。

中でも、東京大田区で毎年開催され人気を集めているのが、「おおたオープンファクトリー」です。

大田区は3000を超える工場がある、都内でも有数のものづくりの町。

最終製品ではなく、高精度が求められる部品づくりや、切削、研磨、成型などの加工技術を専門にしている企業が多いことが特徴です。

そんな大田区の「ものづくり」の魅力を体験できるのが、毎年秋に開催される「おおたオープンファクトリー」。

区内の町工場を巡りながら、技術や製品、人の魅力を紹介するもので、2012年の初開催から今年で9回目を迎えます。

毎年、全国から4000人以上が訪れる人気のイベント。工場見学だけでなく、職人さんから手ほどきを受けながら加工体験をしたり、親子で楽しめる企画もたくさんあります。

おおたオープンファクトリー
工場での体験の様子(写真提供:大田観光協会)
おおたオープンファクトリー
(写真提供:大田観光協会)

そんな「おおたオープンファクトリー」に参加したことをきっかけに、ものづくりに興味を持ち、未経験から大田区の工場に就職した一人の女性がいます。

オープンファクトリーや町工場のどんなところに魅力を感じ、仕事に選んだのでしょうか。ぜひお話を聞いてみたいと、会いに行ってきました。

就職先は、材料試験片製作のパイオニア、昭和製作所

訪れたのは、大田区大森にある株式会社昭和製作所。

昭和製作所

1950年(昭和25年)の創業以来、金属材料を中心とした材料試験片・超音波深傷用試験片・試作部品などを製造、加工している工場です。

昭和製作所

材料試験とは、例えば車のエンジンやボディーなどの部材や素材について、強度や機械的性質などを調べる試験のこと。

試験に使うために実際の部材・素材から切り取って製作した小片を材料試験片といいます。

昭和製作所
材料試験片。昭和製作所では、大手メーカーや大学等の研究機関からの依頼を受け、オーダーに合わせた材料試験片を製作している(写真提供:昭和製作所)

材料試験片を取り扱う企業は全国でも珍しく、材料試験片製作のパイオニアでもあります。

「私は検査を担当しています」

そう話すのは、西銘佑梨(にしめ ゆり)さん。

昭和製作所
お話を伺った西銘佑梨さん

試験片の精度や表面の粗さ、寸法などを検査機器でチェックするのが仕事です。

入社5年目の西銘さん。難しい超音波探傷試験レベル2の資格を持ち、第一線で働いていますが、最初は図面も読めなかったのだそう。

「学生時代は化学を専攻していたので、工学の知識もなく、検査という仕事も就職して初めて知りました」

昭和製作所
材料試験は製品の安全性や機能を見極める重要な仕事
昭和製作所
昭和製作所

「子どもの頃からアクセサリー作りとか、ものづくりが好きだったので、就職活動の時に改めて考えて、製造業を希望したのがきっかけです」

自然体の職人さんと交流できた一日

はじめは、好きなアクセサリー作りに携わりたいと宝飾関係の企業も見学したそう。

「でも行ってみたら、おしゃれな雰囲気が自分には合わないような気がして(笑)それよりも、もっと現場に近い、工業系の方がいいなと思うようになりました。

足を運んだ就職セミナーで大田区の町工場がやっている“下町ボブスレー”プロジェクトの話を聞いて、大田区のものづくりにも興味を持ちました」

昭和製作所
昭和製作所
「下町ボブスレー」は、大田区の町工場が中心となって、世界のトップレベルに挑戦する日本製のソリを作り、大田区のモノづくりの力を世界に発信しようというプロジェクト

実家のある川崎市にも近いこともあり、大田区を就職先の候補として調べていたところ、「おおたオープンファクトリー」に出会いました。

「実際に現場を見られるのがいいなと思って、就職活動の一環として金属加工の工場を見学しました。

それまで参加した企業説明会とは雰囲気が違い、オープンファクトリーでは職人さんが自然体で話してくれるのが新鮮でしたね」

実演や体験も楽しく、製造業で働くイメージも持てたと言います。

「若い人の採用も積極的で、受け入れ態勢ができているのを感じられて安心できました」

自分では気づかなかった長所を評価してもらえた

「おおたオープンファクトリー」に参加したことで、セミナーや企業説明会だけではわからない現場の雰囲気を知ることができたという西銘さん。

その後、「下町ボブスレー」プロジェクトにも参加している昭和製作所の存在を知り、面接を受けることに。

「実は、面接の前に他の企業の内定をもらっていて、気持ちのゆとりがあったので、気負わずに受けられたのがよかったなと思っています。

4次選考まであるんですが、いろんな社員の方といつも通りの自分で話せたので、この会社なら大丈夫という気持ちになれました」

昭和製作所
一緒に話を伺った取締役経営企画室長の今冨英志さん。二人の会話からアットホームな会社の雰囲気が伝わってくる

面接時には手製のアクセサリーを持参したのだそう。

「入社後に、アクセサリーを見せたことで、ものづくりの感性や丁寧なところが検査に向いているんじゃないかと評価されたと聞きました。

自分では気づかなかった長所を見てもらえたことが嬉しくて、ここで頑張っていこうと思いました」

元々は製造部門を志望していたものの、今では製造とはまた違った面白さを感じているそうです。

ピンチである反面、チャンスでもある

「オープンファクトリーは町工場を知ってもらういい機会になっていると思います」

そう話すのは、昭和製作所代表取締役社長の舟久保利和(ふなくぼ としかず)さん。

昭和製作所
お話を伺った舟久保利和さん

「当社はエリアが少し離れていて現在参加はしていないのですが、『下町ボブスレー』プロジェクトをやってきた経験から、やはり、こうした町ぐるみのプロジェクトは重要だと思っています」

昭和製作所のある大森地域では、「おおたオープンファクトリー」が始まる1年前の2011年から「下町ボブスレー」プロジェクトがスタート。

これまでに70社近くの町工場が参加し、ボブスレーの製造に取り組んでいます。

昭和製作所では立ち上げ当初から参加し、舟久保さんは2代目の委員長を勤めました。

昭和製作所

「オープンファクトリーにしても下町ボブスレーにしても、こういうプロジェクトが出てくるというのは、ある種の危機感があるわけです。

オープンファクトリーが西銘さんの一歩に繋がったのは、ピンチをチャンスに変えられた、嬉しい結果だったと思います」

今ここにある意味を作り出していく

かつては、海苔の養殖や麦わら細工が盛んだった大田区。大正時代になり、東京湾沿いに工場が建ちはじめ、関東大震災後には都市部にあった多くの工場が移転してきます。

その後、時代とともに工場が増え、昭和58年のピーク時には9000社以上と、都内一の工場地帯に。しかし、バブル崩壊やリーマンショックなどの影響を受け、現在は3300社ほどに減少しました。

「大田区はもともと計算されてできた工業地帯ではありません。だからこそ、今ここでものづくりをする意味を、自分たちで見出していかないといけないと考えています」

昭和製作所

町工場の未来を作るためには新しい力が必要だという舟久保さん。現在、昭和製作所の従業員は約40名。そのうち、10〜30代が18名、女性が5名働いています。

大田区で、これだけ若い人が働く企業は珍しいそう。

「うちには中学2年生の時に職場体験をしたことをきっかけに入ってくれた子もいますが、奇跡的な例です」

少人数の工場では受け入れ態勢が取れず、若い人を入れたくても入れられない現状もあります。

「どこの会社も魅力はあるけれど、それをどう表に出すか。自分たちからオープンにしていく必要があります。そういう意味でもオープンファクトリーは、いい機会になっていると思いますね」

大田区の伝統「仲間回し」も体験できる、おおたオープンファクトリー

今年も11月16日(土)に「おおたオープンファクトリー」が開催されます。

おおたオープンファクトリー

「工業系の企業に就職したいと思っている人には、実際のものづくりの現場を見られる、いい機会だと思います」という西銘さん。

「中小企業や小規模の工場の様子は、普段はなかなかわかりません。実際の仕事環境が見られるのは、すごく勉強になると思います」

今年は20社の工場が公開され、見学や加工体験をすることができます。

おおたオープンファクトリー
部品提供や資料提供などを含めると60社余りの企業が参加する(写真提供:大田観光協会)
おおたオープンファクトリー

過去の「おおたオープンファクトリー」より(写真提供:大田観光協会)

また、大田区の伝統である「仲間回し」(一社だけでは完成しない作業を複数社に回すことによって完成する手法)を体感できる「仲間回しツアー」や、工場を巡りながら缶バッジを集めてトートバッグに地図を完成させる「飾ろう!トートラリー」など、大田区ならではの企画も盛りだくさんです。

町工場の晴れ舞台、オープンファクトリー。

職人さんの素顔に出会いに、ぜひ出かけてみてはいかがでしょうか。もしかしたら人生を変えるような感動が、待っているかもしれません。

<取材協力>
株式会社昭和製作所
東京都大田区大森西2-17-8
03-3764-1621

一般社団法人大田観光協会

<開催情報>
第9回 おおたオープンファクトリー

11月16日(土)
会場:東急多摩川線 武蔵新田駅・下丸子駅周辺
11月17日(日)・23日(土)・24日(日)
会場:京浜急行本線 雑色駅周辺

文 : 坂田未希子
写真 : 尾島可奈子

京都の鍛金工房WESTSIDE33で「行平鍋」をメンテナンス。10年使った愛用品がプロの手で蘇る

WESTSIDE33

京都七条、三十三間堂の西隣の通りにある鍛金工房「WESTSIDE33」。

明るい店内には、オリジナルの調理器具や器、テーブルウェアが並べられています。料理好きだけでなく、プロの料理人も通う人気店です。

WESTSIDE33
WESTSIDE33

これらはすべて、手作業で形づくられたもの。銅やアルミ、真鍮などの金属の板を、金槌で叩いて形をつくる、鍛金(たんきん)という技法で作ります。

WESTSIDE33

職人さんがひとつひとつ打ち出して作るため、槌目(つちめ)と呼ばれる模様がそれぞれ異なります。規則性がありながらも大きさや形がランダムな槌目には、職人さんの手作業を見てとることができ、大切に使いたいなと思わせてくれます。

WESTSIDE33

私がお店を訪ねるのは、実は3度目。最初に小さな行平鍋を、次に料理を取り分けるスプーンを購入。どちらもすこぶる使い勝手がよく、毎日の料理に欠かせません。

 

愛用の行平鍋をメンテナンスへ

今日は10年以上使っている行平鍋のメンテナンスへ。柄の部分がぐらぐらしてきたので直してもらおうと、「WESTSIDE33」を訪ねました。

WESTSIDE33
10年以上使っている行平鍋。まだまだ使えるものの、柄がガタガタしてきた

持参した鍋を渡すと、まずは「柄の根元が黒ずんでいる」と指摘が。

「黒くなるのは、水の中に入ってる塩素やらいろんな薬品に反応してるから。柄まで洗えばこうならへん」

そう言うと、店の奥にある作業場へ。

WESTSIDE33

柄がついているネジを外し、柄を鍋に打ち込むと再びネジを閉め、あっという間にメンテナンス終了。

WESTSIDE33

 

ゴシゴシ洗うことが長持ちの秘訣

「洗いも教えてやろか?」と言って、今度は台所へ。

ナイロンたわしに洗剤を付け、ゴシゴシと洗っていきます。

こんなに擦っていいのだろうかと思うくらいゴシゴシ、ゴシゴシ。

WESTSIDE33

「表面に何にも加工してないから、なんぼ洗うたかて大丈夫」

なるほど。確かに、剥がれて困るようなものは塗られていません。

でも、なんとなく、洗いすぎるときれいな槌目がなくなってしまうのではないかと思っていました。

「そんな簡単に取れるもんじゃない。プロの料理人でも、槌目がなくなるまで使うには何十年もかかる」

洗うときのコツはあるのでしょうか。

「自分の洗いやすいように工夫して洗ったらいい。洗うものは、タワシでもナイロンでも」

おすすめは石鹸付きのスチールウール。洗うと光沢が出るそうです。

「これは長いことちゃんと洗ろうてないから力がいるけど、普通はこんな力いらへんよ。毎日丁寧に洗ってれば、そんなに汚れもつかへんし」

WESTSIDE33

…いかにいい加減に洗っているか。お恥ずかしい限りです。

洗うこと3、4分。

「きれいになったやろ?」

WESTSIDE33

わ!すごい!さっきまで霞がかかっていたお鍋がピカピカに。

WESTSIDE33の調理器具は、いいものだからこそ長く使いたいとメンテナンスの依頼も多いそうです。

「空焚きして柄が燃えちゃったとか、やっぱり柄を直すことが多いかな。これもまだまだ10年以上使える。普通の家庭なら一生使えると思う」

そして、きちんと洗う。肝に銘じました。

WESTSIDE33

見違えるほどキレイになった愛用の行平鍋。

槌目もキラキラと輝いています。

良いものは、正しく使ってきちんと手入れをすれば長く使えるのだと、メンテナンスを通して改めて感じました。

 

これからも付き合える一生ものの鍋。愛情と技術を込めて作ってくださった職人さんのことも思い浮かべながら、大切に大切に使っていきたいと思います。

 

<取材協力>
WESTSIDE33
京都市東山区大和大路通七条下ル七軒町578
075−561−5294
※取っ手の修理期間・料金などは、直接お問い合わせください

文 : 坂田未希子
写真 : 太田未来子

*こちらは2018年11月13日の記事を再編集して公開しました。

「石垣の博物館」金沢城の楽しみ方。プロに教わる謎多き庭園の魅力

金沢の人気観光地、金沢城には別名があります。

出入口や庭園など、場所に応じて様式を使い分けた多種多彩な石垣が存在し、石垣に関する歴史資料が備わっていることなどから、ついた名前が「石垣の博物館」。

今回は、そんな金沢城の石垣の魅力をプロと一緒に巡ります!

まずは玉泉院丸庭園で、庭の景色として石垣を見る。

金沢城の石垣

金沢城は1583(天正11)年、前田利家の入城後、本格的な城作りが始まり、1869(明治2)年まで加賀藩前田家14代の居城として置かれました。

明治以降は陸軍の拠点、終戦後は金沢大学のキャンパスとして利用。金沢城公園として一般公開されたのは2001(平成13)年のこと。

公園整備をするため発掘調査や研究が行われ、そこではじめて石垣が注目されたそうです。

石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さんに、中でも一番金沢城らしい石垣が見られるという「玉泉院丸庭園(ぎょくせんいんまるていえん)」を案内していただきました。

金沢城玉泉院丸庭園

美しい風景が広がる、一般的な庭園のように見えますが、なんだかちょっと違う。

「庭というと、景色の一つに石を置いたりしますが、ここは石垣を見て楽しむ庭になっています」

金沢城玉泉院丸庭園

確かに、言われてみれば石垣ですが、あまりに景色に馴染んでいて石垣とは思えず、ここがお城であることを忘れてしまいそうです。

「たまたま石垣があって、それを庭の借景にしているのではなく、石の積み方を変えたり、石の色合いを変えるなど意匠的な石垣をしつらえています」

そもそもここに石垣は必要だったのでしょうか?

「斜面ではあるので、擁壁(ようへき)という本来の機能を持っていることは間違ありません。でも、もっと簡単に作ることもできるのに、あえて手の込んだ作りをしているのは、やはり石垣が庭の一部になっているからだと思います」

色、形も様々な石垣、実はものすごい労力が‥‥

回遊路に沿って、石垣に近づいてみます。

金沢城切石積石垣

「これは“切石積石垣”と言って、ぴっちりと隙間なく合わせて積み上げていく技法です」

同じ形の石を積む方法もあるそうですが、ここは形がバラバラ。

「形が違うので、ひとつ石を積んだら型取りをして、その形に合わせた石を作って隣に積んでいく。ものすごく時間がかかります」

想像しただけで気が遠くなる作業です。

「石は“戸室石”を使っています。戸室石には茶系の赤戸室と、灰色系の青戸室があって、その色使いもポイントになっていますね」

いろんな色があってパッチワークのようです。

「ほかのお城の石垣は形や積み方に変化はあっても、色の変化はありません。どこまで意識していたかわかりませんが、戸室石ならではのメリットだと思います」

石垣で庭に変化をもたせる

パッチワークの石垣の横には、刻印のある石垣が並んでいます。

金沢城玉泉院丸庭園

「刻印が面白いと発想した人がいて、わざわざここに集めたのではないかと」

これは何のマークなのでしょうか?

「重臣たちのマークなのか、ひとつの仕事をするグループのマークなのか、はっきりしたことはわかっていません。家紋とも違います」

刻印は城内に200種類以上あるそうです。

「他の藩の石垣にも刻印はありますが、金沢城は種類が多いので、百万石を構成する家臣の多さと関連しているのではないかという説もあります。あとは運用の仕方も違うのかもしれません」

それにしても、少し歩くだけでいろんな石垣を見ることができて、楽しくなります。

「庭というのは変化に飛んでいることが大事で、単調では面白くない。ここは石垣で変化をつけていたのではないかと思います」

石垣にあるまじき不自然な段差

こちらは、池に架かる「紅葉橋」の前にある石垣です。

金沢城玉泉院丸庭園

「元は庭の入り口になる大きな門を載せていた石垣ですが、全体のプロポーションを見ると、橋を渡る時に目を引くような石垣になっています」

プロポーション?

「普通、石垣というのは高さより幅が広く作られますが、ここは逆に幅より高さを大きく作られていて、存在感が際立っています。不自然な段差といってもよいでしょう」

なるほど。紅葉橋だけに、石垣で山を表現していたのかも。そんな想像をするのも楽しくなります。

石垣滝の景色を表現した「色紙短冊積石垣」

「これは“色紙短冊積石垣”と名付けられた石垣です」

金沢城色紙短冊積石垣

「上にあるV字型の黒い石が石樋で、そこから水が流れ、滝になっていました」

金沢城色紙短冊積石垣

石垣に滝を組み込むという、大胆な発想!このようなものは他にはなく、金沢城独自のものだそう。

「普通、石垣は頑丈にするために石を横にして積んでいきますが、ここは縦長の石を段差をつけて三段に組み込んでいるのも大きな特徴です。庭に石を置くとき、高さを変えて配石するのが定番ですが、それを石垣で表現したのでしょう。縦方向のラインは滝の水の流れとマッチしますから、全体としては庭の景の要である「滝石組み」の景色を石垣で表現したのではないかと考えられています」

なんと!滝を組み込むだけでなく、さらに水の流れを表現しているとは!

いったい誰がデザインしたのでしょうか?

「それがわからないんです。古文書にも記録されていないので。ただ、庭というのは一般の家臣が楽しむのではなく、藩主が楽しむものなので、当時の藩主の趣向は入っているのではないかと思います。これから研究されていくテーマのひとつですね」

どんな方が考えたのか。なんだかワクワクします。

「誰かデザインセンスに飛んだアーティスティックな方がいて、設計、全体をプランニングしていかないと、こういうカッコイイ景観にはならんのではないかと思いますね」

崖の下から石を積み、隙間に川原石を埋めて積み上げていく

金沢城の石垣の特徴がわかったところで、これらの石垣がどのように作られたのか、城内にある模型を見ながら教えていただきました。

「これが石垣の構造です」

金沢城の石垣
石切場や発掘調査で発掘された石を使った模型。城内2箇所に展示され、見ることができる

「崖の下の方から石を積んで、後ろや隙間に川原石で埋めながら積み上げていきます。

奥行きの長い石は重量もあるので頑丈です。構造としては、石と石の間にモルタルや粘土を挟んで一体化する剛構造の壁ではなく、大きな石をバランスよく積んでいく柔構造の壁ですね」

金沢城の石垣

左が原石に近いもの。右は石垣用に加工された石。どうやって、この形にしたのでしょうか。

「割って加工します。初めに穴をいくつも掘って、穴の中に鉄製の太い楔(くさび)を入れ、上から大きなハンマーで叩くと割れます」

穴を掘ったり削ったりするのは鉄のノミを使っていたそうです。

金沢城の石垣

江戸時代の設計士「穴生」とは

石垣に使われている戸室石は、金沢城から9キロほど離れた石切場から運ばれてきました。

「戸室石は火山のマグマが冷え固まった安山岩で、堅いけれど加工がしやすい。そのため、早くから加工の技術も発達しました」

ご案内いただいた石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さん
ご案内いただいた石川県金沢城調査研究所の冨田和気夫さん

石切場で形を作って、お城では積むだけというのが基本的な流れ。

ということは、設計段階で石の形や数が決まっていたということでしょうか?

「そうですね。まずはどういう石垣を作るか、高さ幅、そのためには石がいくつ必要か見積もらなければなりません」

設計士がいたのでしょうか。

「石垣作りの一番上にいる技術官僚を“穴太(あのう)”といいます。現場での指揮はもちろん、石垣を作るのに角石は何個必要か、この形はいくついるのか、企画寸法、数を積算し、それを作って持ってくるまでの人夫賃の経費まで積算するのが穴太の仕事です」

金沢城の石垣
石垣が露出しているところもあり、より構造がわかりやすい

穴太は、近江国(現在の滋賀県)坂本が発祥とされます。城郭の石垣などをつくる専門の技術者として幕府や諸藩に仕え、築城ラッシュの際には大きな活躍を果たしたそうです。

「信長が安土城の技術者として穴太を抱え、秀吉が継承し、秀吉につながる大名のところに穴太が散らばって、全国に広がっていったようです」

加賀藩では利家が穴太を抱え、武士と同様に「穴生」という職を置きます。

「職になると代々世襲になるので、技の伝承が図られていく。でも、一つの家だけだと途絶えることもあるので、穴太家(後の奥家)と後藤家が世襲していました」

金沢城の石垣に関する古文書の多くは、この後藤家の10代目、彦三郎氏によるものだそうです。

「普通、職人の技は文字に残すものではなく、一子相伝、秘密のもの。ところが、江戸後期になって世の中の様子が変わってくると現場の数が少なくなって、技術伝承が難しくなってくる。そこで、筆まめだった彦三郎さんが自分の家に伝わってきた技術を書き残さないといかんと、図面を入れながら残した。これが他にはない貴重なものになっています」

彦三郎さんが手がけた石垣。大火から建物を守った亀甲石(六角形の石)を入組み込むなど、陰陽五行思想の影響もみられる。玉泉院丸庭園の「色紙短冊積石垣」も彦三郎さんが命名
彦三郎さんが手がけた石垣。大火から建物を守った亀甲石(六角形の石)を入組み込むなど、陰陽五行思想の影響もみられる。玉泉院丸庭園の「色紙短冊積石垣」も彦三郎さんが命名

手仕事ならではの美しさがある

石切場で形作られた石は城に運ばれた後、そのまま積まれていくものもありますが、切石積み石垣はさらに表面加工を行います。

金沢城石垣

「戸室石はスパッと切れるわけではないので、割った後、削って平らにする必要があります。荒加工までを石切場でやって、現場に運んでから仕上げ加工をしていたようです」

金沢城の石垣

これは、表面を平らにし、さらに角を縁取り加工したもの。

「“縁取り”技法は、石垣で凹凸のない真っ平らな壁面を作る上でとても重要です。この縁に定規をあてて、石の出入りをミリ単位で微調整することになります」

なぜそこまでやったのでしょう。

「“縁取り”は庭園や重要な門など、人目に触れる所に多いので、見栄えだと思います。

今の工業製品のような均一性はありませんが、そこがまたいい。手仕事なのでひとつひとつ違う、工芸品のような美しさがあると思っています」

お宝が眠ってる!?ロマンを感じる利家時代の石垣

最後に東の丸北面にある、城内で最も古い石垣を見に行きました。

「こちらが利家時代に築かれた石垣です。自然石や荒割りしただけの石を積む“自然石積み”です」

金沢城石垣

無骨で荒々しく勇ましさを感じさせる石垣です。

「これまで見てきたものと違ってデザイン性などはありませんが、よく見ると、一つだけ大きな石があるでしょう」

金沢城の石垣
中央下に一つだけ大きな石

「あの石の裏に何かあるんじゃないかと思っているんです」

え!お宝ですか!?

実際何か入っていたことはあるんですか?

「石工の道具が入っていることはありますね。ここを発掘するということはまずないので、想像するしかないのですが」

これだけ石垣にこだわってきた金沢城です。きっとなにかある。あってほしいと期待してしまいます。

美的センスを持ち合わせた藩主

防御としてだけでなく、見せるための石垣。

今回ご紹介したのはごく一部ですが、どれもこれまでの石垣のイメージを覆すものばかりでした。

金沢城に限って、なぜこれほど多彩な石垣が作られたのでしょうか。

金沢城の石垣
奥は「切石積み」、手前は「金場取り残し積み」と、違った手法の石垣が組まれているところもある

「加工に適した戸室石があったこと、穴太家を家臣に抱えるなど石垣造りの技術的な体制が整備されていたこともありますが、やはり、藩主の意向がなければできなかったと思います」

美的センスを持った藩主、そしてそのセンスを家臣たちも認めていたからこそ、腕によりをかけたのかもしれません。

石垣の博物館であり美術館ともいえる金沢城。

当時の技の粋を見に出かけてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
石川県金沢城調査研究所
*金沢城公園の散策には金沢城ARアプリのご利用もおすすめです。

文・写真 : 坂田未希子

この連載は‥‥
土壁、塗壁、漆喰、石壁、板壁。その土地に合った素材、職人の技、歴史が刻まれた各地の「壁」を紹介する、特集「さんちの壁」。壁を知ると、旅はもっと面白くなります。

*こちらは、2018年5月26日公開の記事を再編集して掲載しました。金沢城を訪れたら、数百年も前の手仕事に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

幻の薬用酒「サフラン酒」を求めて長岡へ。創業者が財を投じた「日本一の鏝絵 (こてえ) 蔵」も必見

美味しいお米と越後の山々の清らかな雪解け水が、多くの銘酒を生み、蔵元数日本一と言われる酒どころ新潟。

そんな新潟で、明治時代、日本酒ではないお酒が誕生し、一世を風靡したのをご存知でしょうか。

その名も「サフラン酒」。

機那サフラン酒本舗

サフランとは西南アジア原産のクロッカス属の花。

「サフラン酒」はお酒といっても、サフラン、はちみつ、桂皮、丁子、甘草など20種類以上の植物などを調合した薬用酒で、あの養命酒と人気を二分したとも言われています。

今回はこの「サフラン酒」で巨万の富を得た人物と、彼の夢を形にした美しい館のお話です。

世にも珍しい日本一の「鏝絵蔵(こてえぐら)」

訪ねたのはJR長岡駅からひと駅、信越本線宮内駅を出て徒歩10分ほどのところにある摂田屋(せったや)地区。

この辺りは江戸時代、天領地(江戸幕府の直轄地)だったため、特別に自由な商いが認められてきたこともあり、醸造の技術が発達してきました。

今も県内最古の酒蔵「吉乃川」をはじめ、酒、味噌、醤油の蔵が並ぶ醸造の町として知られています。

そんな街の一角にあるのが、明治20年創業の「機那サフラン酒本舗(きなさふらんしゅほんぽ)」です。

機那サフラン酒本舗

母屋の隣には立派な蔵。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

一階部分は海鼠壁(なまこかべ。壁面に平瓦を張り、その目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る方法)、扉には色鮮やかな装飾が施された「鏝絵蔵(こてえぐら)」です。

江戸末期にはじまった左官技法「鏝絵」とは?

鏝絵とは、漆喰の壁に鏝を使って施す漆喰装飾の一つで、江戸末期に活躍した左官職人・入江長八が作ったのがはじまりと言われています。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
羊と菖蒲

全国的に見ても、これだけ多くの鏝絵が施された蔵は珍しく、また保存状態も極めてよいことなどから「日本一」とも言われています。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

扉(戸前・とまえ)に描かれた鏝絵は、十二支、鳳凰、麒麟など縁起物尽くし。

日本一というのも納得の豪華な蔵です。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
右:犬と牡丹。犬には安産祈願の意味もある/左:馬と桜。シャレのような取り合わせがおもしろい
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
こちらは牛と紅葉。牛の体の色は紅殻(ベンガラ)が使われている
窓には鳳凰。軒下には2匹の龍。軒下にまで鏝絵があるのは珍しいそうです

大仕掛けの行商でサフラン酒を売り歩いた男

これだけの蔵を建てたのはどんな人物だったのでしょうか。

「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」の平沢政明さんにお話を伺いました。

「こちらがサフラン酒の生みの親、吉澤仁太郎さんです」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

1863(文久3)年、摂田屋の隣村で農家の次男として生まれ、19歳の時、奉公先の薬種屋(やくしゅや。現在の薬屋)で薬酒の製法を学び、21歳で「サフラン酒」を開発。

「自分で調合したサフラン酒を竹筒に入れて、行商から始めたと言う話です」

行商の仕方も大仕掛け。

宿の近くの薬屋にサフラン酒のサンプルを置かせてもらい、宿に帰って自分が腹痛を起こすと「サフラン酒を持ってきてくれ」と頼み、飲むとたちどころに治ってしまうというもの。

まるでガマの油売りのよう。

「そんな話を聞けば話題になる。昔の人はそういうのを喜んだのかもしれませんね」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

女性がお酒を飲む機会がなかった時代。でも「薬なら」。女性をターゲットにしたサフラン酒は人気となり、瞬く間に売り上げを伸ばしていきます。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
琥珀色がきれいなサフラン酒。現在はリキュールとして新潟銘醸株式会社が製造している

当時、サフランは輸入品で高価なものだったそうです。

「どうやって手に入れたのかわかりませんが、情報通で噂を聞きつけたんでしょう。

効能だけでなく、ハイカラで、いかにも女性が好きそうですよね」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
サフランの花と球根

富を得て、興味は商売から趣味の世界へ

明治27年、現在の摂田屋に移転。31歳で「機那サフラン酒本舗」を創業した仁太郎さん。

一代で大成功を収め、大地主となります。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
広告には新潟県出身の歌手、三波春夫を採用
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
当時のチラシ。店の前には高さ12m、彫刻が施された大看板があった(現在、本舗の土蔵に保管)

やがて、仁太郎さんの興味は商売だけでなく、建築や造園、古銭蒐集など趣味の世界に広がっていきます。

自作の打ち上げ花火でお寺が全焼

高価なものを見栄え重視で惜しみなく使うのが仁太郎流。

「たぶん、人を驚かせたかったんでしょうね。打ち上げ花火も自分で作っちゃうんですよ」

打ち上げ花火?

「打ち上げて、400mくらい離れたところにあったお寺を全焼させたとか、家の建前の時には屋根から小判をまいたとか、派手な逸話の多い人ですね」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
大黒天。打ち出の小槌からは小判が。仁太郎さんそのもののような構図

まるで絵に描いたような豪商ですが、地元の人たちには愛されていたのではと平沢さんは言います。

「不景気の時には、職にあぶれた人たちを呼んで庭の草取りをさせ、日当を払っていたとういう話も残っています」

仁太郎の夢を叶えるため、商人から左官職人となった河上伊吉

人をあっと言わせたい。先ほどの鏝絵蔵にも、仁太郎さんの心意気が感じられます。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

鮮やかな色彩は岩絵の具を使ったもの。

一際目を引くブルーはラピスラズリ。サフランの花の色にも似ています。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

そんな仁太郎さんの夢の館を、今に残る「日本一の鏝絵蔵」に仕上げたのが、左官職人・河上伊吉(かわかみ・いきち)です。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
鏝絵の端には、左官・伊吉を表す「左伊」の文字

「鏝絵蔵を作ってみないか?」

仁太郎さんから伊吉へそんな誘いがあったのかどうか、きっかけは定かではありませんが、伊吉は富山へ左官の修行に出ます。

もとは近所に住む商人で、酒・味噌・醤油・薪炭の行商をしていました。

「仁太郎よりふた回りほど年下で、親子ほど年が違いましたが、とても仲が良かったようです」

左官の技術を身につけると仁太郎の元へ戻り、鏝絵蔵をはじめ吉澤家の13の建物づくりに携わりました。

伊吉の鏝絵の特徴は立体感。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
恵比寿
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

「盛り上がり方がダイナミックですよね。背景を黒くしているのは、絵を浮き出たせて立体的に表現するためじゃないかと言われています。

左官屋さんに聞くと、鏝絵だけでなく、壁の仕上げや細かいところまできっちり仕事をしているようです」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
右:うさぎと松、左;鶏と菊。軒下にはレリーフが施されている

それだけの腕前を持っていたのに、伊吉が携わったのはサフラン酒本舗だけ。

「しかも、左官の仕事をする合間にサフラン酒の行商もしていたようです」

左官職人になりたかったわけではなく、仁太郎の元で働きたかった。

一緒に鏝絵蔵を作りたかった。

「ふたりは好きなものが同じだったんだろうと思います」

世代を超えて同じ趣味を持つもの同士、よほど気があったのかもしれませんね。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
鏝絵蔵より10年前に造られた衣装蔵。伊吉30歳の作品。一階部分には、当時は輸入品で高級建材だった波鉄板で覆われている
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
伊吉が手がけた初期の鏝絵

窓を閉めたのは空襲の時、一度だけ

仁太郎さんと伊吉の夢が詰まった豪華な鏝絵蔵。きっとサフラン酒や高価なお酒がたっぷりと入っていたんでしょうね。

「いえいえ、違います。これは見せるための蔵です」

見せるため?どういうことでしょうか?

「この蔵、窓だらけでしょう?普通は蔵にこんなにいっぱい窓はつけません」

確かに!

「蔵には防火や泥棒よけの役割があります。火事から守るための土蔵なのに、この蔵は窓だらけ。きっと鏝絵の窓をつけたかったんでしょうね」

鏝絵があるのは窓の内側で、閉めると見えなくなってしまうため、雨の日も閉めることはなかったと言います。

「冬は雪囲いをしていたようです。閉めたのは長岡空襲の時、一度だけだったそうです」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

執念というかなんというか。まさに見せるための蔵。

「実際は事務所に使っていたようですが、使いづらかったでしょうね(笑)」

手本としたのは江戸時代末期に越後で活躍した石川雲蝶!?

作品作りには目を養うもことも必要。

ふたりは度々、魚沼の小出方面に出かけていたと言います。

小出には、先日さんちでご紹介した越後のミケランジェロこと「石川雲蝶」が手がけた作品が多く残されており、それを観に出かけていたのではないかとのこと。

石川雲蝶作の天井彫刻「道元禅師猛虎調伏図」(赤城山西福寺開山堂所蔵)
石川雲蝶作の天井彫刻「道元禅師猛虎調伏図」(赤城山西福寺開山堂所蔵)

石川雲蝶は彫刻だけでなく鏝絵も手がけています。

もしかしたら雲蝶の作品を手本にしていたのかもしれません。

ちなみに、こちらは雲蝶作の彫刻「羊」(貴渡神社所蔵)。

サフラン酒本舗鏝絵蔵

こちらが伊吉作の鏝絵「羊」。どちらもヤギっぽいところが似ているような。

サフラン酒本舗鏝絵蔵

*石川雲蝶については魚沼で越後のミケランジェロ「石川雲蝶」の世界に酔いしれるもぜひお読みください。

震災後、現代によみがえった夢の館

こうして一代で築き上げたサフラン酒本舗ですが、昭和16年に仁太郎さんが亡くなった後は衰退の一途を辿ります。

「昭和40年頃までは裕福だったようです。その後は建物や庭の管理が行き届かなくなって荒れ果て、忘れ去られていったという感じですね」

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

サフラン酒本舗が再び注目されるようになったのは、2004年の中越地震の後のこと。

地域で摂田屋に残る歴史的な建造物などの保存活動をする中、仁太郎さんの豪邸の一部も保存されることになったのです。

鏝絵蔵は、全国から寄せられた復興基金によって修復。その後、地域の人たちや大学生のボランティアが庭園や室内の清掃を繰り返し、2015年より機那サフラン酒本舗の一般公開がはじまりました。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
現在、2013年に発足された「機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会」が保存活動、公開を行っている(写真提供:機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会)
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
伸び放題だった草を刈って、ようやく庭の全貌が見えてきた(写真提供:機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会)

多くの方に見ていただけて、仁太郎さんたちもうれしいでしょうね。

「きっとそうだと思います。そのために作ったんでしょうからね。仁太郎さんの想いを大切に活動しているので、来て、見て、喜んでもらえるとうれしいですね」

さて、仁太郎さんの人となりが溢れる夢の館。いかがでしたでしょうか?

鏝絵蔵のほかにも、奇想天外な庭、豪華絢爛な離れ座敷など、まだまだ見所はたくさんあります。

みなさんもぜひ、仁太郎さんの創り上げた世界へ足を運んでみませんか。

お土産には、香り豊かなサフラン酒をどうぞ!

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵

<取材協力>
機那サフラン酒本舗保存を願う市民の会
新潟県長岡市摂田屋4-6-33

機那サフラン酒本舗の公開
[公開日時]土曜日・日曜日・祝日の10:00~15:00
※詳細情報はFacebook「醸造の町摂田屋町おこしの会」

文・写真 : 坂田未希子

*こちらは、2018年8月3日公開の記事を再編集して掲載しました。新潟・長岡に行ったら圧巻の装飾をぜひその目でご覧ください。もちろんお土産にはサフラン酒を忘れずに!