タイル好き必見。アートなタイルを巡る、小旅行スポットたち

見ているだけで楽しい、カラフルなタイル。壁や床など、その土地でしか見られない模様も多く、旅先でタイルに注目してみると面白いんです。今回は、編集部が見つけた、素敵なタイルが見られる場所を紹介します。いざ、アートなタイルを巡る旅へ。

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京都から多治見まで、美しきタイルアートを巡る小旅行

京都で人気の元銭湯を活かしたカフェ。年間来場者数を半年も経たず達成してしまった博物館。共通点は強くて美しいタイルでした。今日は銭湯に行ったつもりで、湯船の向こうに覗く美しきタイルアートの世界を訪ねてみましょう。

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産地:多治見

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京都の近代美術工芸「泰山タイル」

京都にある老舗の喫茶店や、歴史ある花街の建物など、ふとしたところで目にする色とりどりのタイル。実はこのタイル、国内の歴史的建造物にも多く用いられた、京都が誇る美術工芸品のひとつでした。

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産地:京都

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常滑「世界のタイル博物館」

マジョリカタイル回廊
マジョリカタイル回廊

和製タイルの歴史展は終了しましたが、INAXライブミュージアムでは世界のタイル博物館が常設しています。紀元前から近代まで、タイルコレクションの中から約1000点を展示し、装飾タイルの発展の歴史を紹介している日本で希少なタイルの博物館です。

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産地:愛知

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日本のタイル発祥の地「瀬戸」

瀬戸本業窯 窯垣の小径

陶磁器のうつわ全般を指して「瀬戸物」という言葉があるほど、日本を代表する焼きもの産地、瀬戸。日本で最初のタイルが生まれた土地でもあるそうです。

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産地:瀬戸

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<番外編>

タイル作りから始まった陶板名画

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」のレプリカ

ここは、世界で初めての「陶板名画美術館」。当初、陶板は地元鳴門の白砂を活用したタイル作りから始まった取り組みでした。

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産地:徳島

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気になった記事はありましたか?読み返してみると、また新しい発見があるかもしれません。

それでは、次回もお楽しみに。

折り畳み傘が生まれた理由──そして行き着いた「超軽量」という選択

こんにちは。THEの米津雄介と申します。

THE(ザ)は、ものづくりの会社です。漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発しています。

例えば、THE ジーンズといえば多くの人がLevi’s 501を連想するはずです。「THE〇〇=これぞ〇〇」といった、そのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ここでいう「ど真ん中」とは、様々なデザインの製品があるなかで、それらを選ぶときに基準となるべきものです。それがあることで他の製品も進化していくようなゼロ地点から、本来在るべきスタンダードはどこなのか?を考えています。

連載企画「デザインのゼロ地点」、今回のお題は「折り畳み傘」です。

梅雨の時期には欠かせない傘。
僕は手に何かを持って歩くのが好きではないのでレインウエア派だったのですが、ここ数年は折り畳み傘を持ち歩いています。

今回は、傘嫌いだった僕が常に持ち歩くに至った傘のデザインの進化をご紹介いたします。

洋傘・和傘・頭にかぶる笠などの歴史に伴う形状の違いや、雨傘・日傘などの用途や機能・素材の違いなど、話が多岐に渡ってしまいますが、可能な範囲で雨傘に焦点絞りつつ、折り畳み傘のデザインのお話ができたらと思います。

神具から生まれた「傘」の歴史

傘を使っていたという世界最古の記録は約4000年前のエジプトやペルシャ。
祭礼のときに神の威光を表するものとして神像の上にかざしていたそうです。

アジャンター壁画
wikipedia参照

一般的に使われだした古代ギリシャでは日傘として従者に持たせるものでした。
東洋でも道具としての目的は主に魔除け。ヨーロッパでも富と権力の象徴であり、用途は日傘が主だったそうです。

フランスのピエール・セギエ
wikipedia参照

出自が神具や日傘だったのは少し意外ですね。他の用途はあれど、雨を避けるために生まれたものだと思っていました。

そして、18世紀頃にイギリスで現在の傘に近い構造のものが生まれていますが、やはり当初は女性の日傘。男性は帽子で雨を避けるのが一般的だったようで、男性が雨傘を使うということはファッション的にも相当に変わったことだったようです。19世紀近くなってやっと少しずつ男性が雨傘を使うことに抵抗がなくなってきたとのことです。

世界的にも早い段階で「雨傘」を使っていた日本人

一方日本では、欽明天皇(509年〜571年頃)の時代に朝鮮半島から和傘に近いものが伝わったそうです。

開閉ができるものではなかったようですが、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、平安時代末期から鎌倉時代初期の「鳥獣戯画」にも、雨を避けるためにカエルが蓮の葉を傘のように持っている姿が見られます。

「鳥獣戯画」東京国立博物館像
「鳥獣戯画」東京国立博物館像 提供:東京国立博物館

さらに、鎌倉時代の「一遍聖絵」という絵巻物には、頭にかぶる笠と雨傘の両方が描かれています。しかも画像左下には畳まれた傘が描かれていて、この頃には既に親骨と小骨で構成された番傘の原型が存在していたことがわかります。

「一遍聖絵」国立国会図書館像 提供:国立国会図書館ウェブサイト
「一遍聖絵」国立国会図書館像 提供:国立国会図書館ウェブサイト

室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになりました。
それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場し、さらに江戸時代になると分業制が発達したことでより広く普及するようになったとのことです。

京和傘
京和傘 wikipedia参照

つまり、日本人は世界的に見てもかなり早い段階で雨傘を使っていたことになります。

ちなみに、世界の主要都市の多くは日本と同緯度圏内にありますが、その中でも日本は圧倒的に降雨量が多い国です。海に囲まれ、急峻な山地があり、水流が速く、山地全体の保水量が多い。

おかげで緑が多く地形のバリエーションも豊かで、自然の恩恵を多大に受けている国だと思うのですが、湿度が高く衣類が乾燥しにくいため、濡れることを嫌う人が多いそうです。

1人あたりの傘の所持数でも日本は世界1位(日本3.3本・世界平均2.4本)、1本の傘にかけるお金も世界平均の1.8倍(日本約22ドル・世界平均12ドル)と、日本人と傘は関係が深いことが伺えます。(weather news調査・n=38,603)

では現在使われている雨傘としての洋傘はいつから日本に根付いたのでしょうか?

日本最古の洋傘の輸入記録は江戸後期の1804年(文化元年)。
長崎に入港した中国からの唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られます。これが現在、洋傘として特定できる最古の記録とされるものです。

それから程なくして多くの日本人が洋傘を目にしたのは1853年の黒船来航でした。上陸した水兵たちが洋傘をさす様が多くの野次馬の目に触れ、数年後の1859年(安政6年)には本格的に輸入されることになります。

ただ、江戸時代には洋傘はまだまだ高級な舶来品で、一般市民の手に渡ることはなかなかなかったそうです。

そしてついに明治に入ると洋傘の国内生産が始まります。明治18年に国として特許制度が導入されますが、明治23年には「蝙蝠傘・自動開」という特許登録がされています。

国産品が生まれたことでコストが下がり、明治~大正にかけて一気に庶民の手に行き渡ります。明治後期には日本から海外への主要輸出品目にまでなっていたそうです。

明治時代の傘広告
明治時代の傘広告 wikipedia参照

折り畳み傘の登場

さて、やっと「折り畳み傘」の登場です。

少し時間が飛びますが、折り畳み傘は1928年にドイツのハンス・ハウプト氏の考案によって世の中に生まれました。同年に特許を取得し、その特許をもとにKnirps社(クニルプス社)が製造・販売を開始します。

日本でも1950年前後にいくつかのメーカーが折りたたみ傘を開発しています。

中でも、1954年に開発されたアイデアル社(旧・丸定商店)のスプリング式折り畳み傘は、1回の動作で開閉ができることや植木等さん出演のCMによって国内で爆発的にヒットしました。1960年代の洋傘市場は年間2500万〜3200万本ほど(ちなみに現在1億3000万本)。当時アイデアル社は市場の3割以上のシェアを占めていたそうです。

1954年に開発されたアイデアル社(旧・丸定商店)のスプリング式折り畳み傘広告

その後も、機構によるコンパクト性能や耐風性(耐久性)など、日本人お得意のブラッシュアップが次々と成されていきます。

1965年には従来二段折り式だったものを三段折り式に改良、加えて真鍮だった素材はアルミ合金に、ナイロン生地から国産化に成功したポリエステル生地への改良など、今日の傘生産の基礎が作られていきました。

高度経済成長と同時にどんどん進化を遂げた日本の折り畳み傘ですが、機構や材質の劇的な変化は現在では生まれにくくなっていると思います。

これは他の製品にも当てはまることですが、昭和の時代には次々に新素材や新技術が生まれ、それが「みんなが求める進化」である確率が高かった、つまり材料から加工まで、工学や化学分野の進化がわかりやすく生活に直結する時代でした。

一方で現在では「生活に直結するわかりやすい進化」はなかなか生まれにくくなっています。
ただ、技術の進化だけが製品開発やデザインの拠り所ではありません。例えば環境が変わればそれに伴う道具にも変化が訪れます。

超軽量折り畳み傘

折り畳み傘の話に戻りますが、僕がここ数年使っているのは「超軽量折り畳み傘」です。

なんだそんなことか・・と思うかもしれませんが、ここに開発やデザインにおける取捨選択の大事な要素が詰まっていると思うのです。

この超軽量折り畳み傘は何社かで発売されているのですが、本当に驚くくらい軽い。

86gのものを使っていますが、現行のiPhone Xが174gなので半分以下の重量。カバンに入っていることを忘れてしまうほどの軽さです。
もちろんレインウエアよりも小さくて軽いので重宝しています。

一方で軽さ以外の面で製品としてどうかというと、広げた大きさは50cmとかなり小さめ(一般的な傘は60cmが多い)で、堅牢性や耐久性という側面から見ても「本当に大丈夫?」と思ってしまう少し華奢な作りです。

ただ、実際に毎日持ち歩いてみて思ったのは、雨の中を長時間歩く機会の少なさです。そもそも都市部は屋根のあるところが多く、僕が物心ついたこの30年くらいでも、交通インフラはかなり整備されました。また、地方でも車移動が多く、長時間雨にさらされながら歩くという機会はかなり減っています。

広げた時には小ぶりで少し華奢な作りのこの傘は、暴風雨の中で使えるようなものではありませんが、もともと折り畳み傘は「もしかしたら降るかも・・」といった場合の保険に近いものだと考えると、軽さに重きをおくのは理にかなっています。

天気予報の精度向上や軽自動車の普及、そして都市インフラの整備など、超軽量折り畳み傘は、技術の進化よりも環境の変化で生まれた側面が強いプロダクトと言えそうです。(もちろん軽量化のための材質改良はありますが)

KIU AIR-LIGHT UMBRELLA ¥3,240(税込)
KIU AIR-LIGHT UMBRELLA ¥3,240(税込)
5本骨で軽量化を図り90g。UVカット率は色によって変わりますが、80〜90%以上ですので日傘としても使えます。
mont-bell トラベルアンブレラ  ¥5,616(税込)
mont-bell トラベルアンブレラ  ¥5,616(税込)
6本骨で86g。7デニールという極薄で撥水性能の高い生地で繊維の保水を防ぎます。

ちなみに、上記の超軽量折り畳み傘はどちらも二段折り式で、折り畳んだときの長さが21〜23cmくらいになります。三段折り式であれば15cmくらいにはなりそうですが、実は三段折り式には折り畳んだときに濡れている側が表にきてしまう、というデメリットがあります。

単純に強度不足や重量増、そしてコストといった問題で二段折り式になっているのかもしれませんが、機能のバランスとしても最良の選択だと思います。

技術がある程度成熟した中で生まれた「良い塩梅」な製品たち。
生活環境の変化に伴ってデザインのゼロ地点も緩やかに進化していくのだと思います。

デザインのゼロ地点「折り畳み傘」編、如何でしたでしょうか?

次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいと思います。

米津雄介
プロダクトマネージャー/経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp

大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。

※こちらは、2018年6月26日の記事を再編集して公開しました。良い塩梅な折り畳み傘を持ち歩いて、梅雨の時期も快適に過ごしたいですね。

中川政七商店の元バイヤーが惚れ込んだ。和と洋、伝統と現代が融合するうつわ「布志名焼 船木窯」

こんにちは。細萱久美です。中川政七商店のバイヤーを経て、現在はフリーにてメーカーの商品開発や仕入れなどの仕事をしております。

大学生の頃から器に興味を持ち、陶芸も習っていました。なんだかんだで10年近く習っていたような。その割に上達しなかったので作品はあまり残っていませんが、いずれまた習いたいと思っています。

気に入った器もよく買いましたが、20代では海外ブランドの食器が流行っていたので、買うのはほとんど洋食器。例えば今ではすっかり身近なデュラレックスのピカルディグラスは、30年程前にF.O.B COOPオーナーである益永みつ枝さんがフランスから輸入販売し始めて人気が広まりました。グラス1個にフランス文化を感じてワクワクしたのを覚えています。

現在は、どちらかといえば日本の器を中心に、中国や韓国などアジア圏の食器が生活に馴染んでいます。正直こだわりは結構強くて、各地の窯元や作家もの、古いものなど気に入ったものを一つ一つ集めています。

もはや公私の線引きもしていませんが、日本各地に行く機会があると、陶磁器産地であれば、なるべく窯元を訪ねるようにしています。現在奈良に住んでいることもあり、比較的西日本が多いのですが、山陰・山陽も窯元巡りを目的に旅するのにも最適な地域です。私も何度か行ったことがあります。

例えば島根県だと、比較的大きくて有名な「出西窯」、黄釉が印象的な「湯町窯」、「袖師窯」は様々な釉薬を使いこなします。いずれの窯も、見やすく選ぶのが楽しいショップがあるので、旅の思い出にお気に入りの器を探すのにもってこいだと思います。

島根県松江市の老舗、布志名焼・船木窯

今回ご紹介するのは、ちょっと趣の違う窯元の「布志名焼(ふじなやき)船木窯」。松江市の宍道湖畔にあります。江戸時代から続く老舗の窯で、現在6代目の船木伸児さんが作陶を継承されています。

船木窯は、4代目道忠が個人作家の道を選ぶと、民藝運動家の濱田庄司やバーナード・リーチ、柳宗悦たちと出会い、西洋風の陶技を取り入れたり、来待石(きまちいし)を使った、独自の布志名黄釉を完成させました。

布志名焼船木窯
布志名焼船木窯

6代伸児さんがご在宅だと、バーナード・リーチが泊まった部屋や作品、4代・5代の作品やら各国から蒐集されたインテリアが拝見できるスペシャルな窯元です。

伸児さんは布志名黄釉を守りつつ、独自の造形と意匠を生み出しています。この黄釉はとても温かみのあるなんとも魅力的な色。見た瞬間に魅了されましたが、量産する作陶ではないので、正直衝動買いできる価格ではない作品も多いです。

布志名焼船木窯

どうしようかと悩んでいたら、ショップにちょっとしたB品が手の届く価格で販売されていました。黄釉の大皿もあったので、飾り皿のつもりで思い出として購入。

布志名焼船木窯の大皿にパスタを盛り付け

一見、実用には難しいかなと思ったのですが、これは嬉しい誤算で実際に盛り付けると料理が美味しそうに見えます。レモンのような楕円も使いやすく、盛り付けも野菜から肉からパスタまで何でも合うのです。特に来客時には必ず出番のある頼もしいお皿。

理性的には、ベーシックで使いやすそうな食器を選びがちですが、主役を張れる食器のパワーを思い知りました。飾っても美しく、使ってより美しい「用の美」。一見の価値以上のものが見つかる「船木窯」は、行かれる予定があれば事前に連絡をされると良いと思います。

<紹介した窯元>
船木窯
島根県松江市玉湯町布志名437
0852-62-0710

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

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文・写真:細萱久美

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世界で唯一、奄美大島だけで体験できる「泥染め」。1300年つづく工芸を訪ねて

奄美大島 金井工芸

東京から九州・鹿児島を飛び越え1200キロ。直線距離なら、お隣の国の首都・ソウルより遠い奄美大島。

そんな奄美の地で1300年前から受け継がれる伝統技法「泥染め」を体験するため、梅雨明けしたばかりの初夏の奄美を訪ねました。

奄美大島の海岸

冬でも水温が20度を下回ることがないというあたたかな奄美の蒼い海や、明らかに植生の違う南国の植物たち。

リゾート感たっぷりの景色を眺めつつ、湿度を含んだ空気と、夏に向かってだんだん強くなる日差しを浴びながら、染色工房を目指します。

(有)金井工芸の看板

ナビを頼りに空港から車を走らせること約30分。龍郷(たつごう)と呼ばれる集落に、目的地である染め工房〈金井工芸〉を見つけることができました。

金井工芸の外観
金井工芸の内観
金井工芸の後継者、金井志人(ゆきひと)さん

今回染めの事を教えてくれる金井志人(ゆきひと)さんは、金井工芸の若き後継者。一度は島を出たものの25歳の時に島に戻り、染めの工房を守りながら様々な取り組みを精力的に行っています。

重なりあうことで生まれる色

テキスタイルサンプルを見せてもらいながら、染め上がりをイメージ

Tシャツやハンカチなど自分の好きなテキスタイルを持ち込んで、泥染め・藍染めの体験ができる金井工芸。

まず、染める生地がうまく染まるかどうかの確認。次にテキスタイルサンプルを見せてもらいながら、染め上がりをイメージしていきます。

金井工芸で染められる色は多種多様ですが、基本は5種類ほどの天然染料。それらで染めを重ねていくことで様々な色を生み出していくそう。

金井工芸のストール。カラフル

今回染めるのは白いコットンのワンピース。果たしてうまくいくでしょうか?

「中川政七商店」の白いコットンのワンピース

染めのイメージが決まったら、いよいよ染め体験のスタートです。

木を切り出すことから始まる染料作り

工房の横に積み上げられていた車輪梅という木
車輪梅がチップ状にされ、鉄籠に入れられている

工房の横に積み上げられていた車輪梅(しゃりんばい)という木は、奄美では「テーチ木」と呼ばれ、地元の山から切り出されたもの。

約600キロものチップ状の車輪梅が、大きな鉄かごに入れられ、大釜でグラグラと2日間に渡って煮出されます。その煮汁を3〜5日寝かせた後、ようやく泥染めの染料として使うことができるそうです。

工房内の様子
工房には、スティールパンのような大きなボウルがいくつも並んでいます

爽やかな風が通り抜け、強い太陽の光が差し込む南国独特の開放感のある工房。

使い込まれ染料が付着した道具や作業台などからは、今までに染められた色の歴史を伺い知ることができます。

染料となったテーチ木の煮汁
染料となった車輪梅の煮汁は少しトロみがあり、独特の不思議な香りが。

「染料は生きてるので、天候、気候温度で染まり具合も違うんです」と金井さん。

奄美大島の金井工芸

その染料を生地に幾度となく揉み込んでいくうちに、だんだん茶褐色に染まっていくワンピース。繰り返されるその作業は、何か神秘的な儀式のようにも感じられました。

天然の染め場「泥田」

工房の裏手に設えられた天然の染め場である泥田

車輪梅の煮汁で染めた褐色のワンピースを抱えて、工房の裏手に設えられた天然の染め場である泥田へ。

周りには青々とした草木が茂る、今まで見たことが無い光景。いよいよ念願の泥染めです。

攪拌させた泥にワンピースを深く潜らせ、生地をこするようにして泥をすり込みます

長靴とエプロンを装着して、太ももの深さまである泥田に入ります。泥田の底を踏み込みながら、攪拌させた泥にワンピースを深くくぐらせ、生地をこするようにして泥水で揉み込みます。

ここで、土に多く含まれる「鉄分」と、先ほどの車輪梅に含まれる「タンニン」が化学反応を起こします。そうして、生地が少しずつ大地の色に染まっていくのです。

クリーミーでとても粒子が細かい奄美の泥

クリーミーでとても粒子が細かい奄美の泥。この細かさがあるからこそ、生地や糸を傷めることなく、美しく染めあげることができるのだそうです。

そういえば、最高級といわれる奄美の織りもの「大島紬(おおしまつむぎ)」の糸は絹。車輪梅と泥の染めを100回ほど繰り返す奄美の染めに対し、粒子の荒い土壌だったら、その絹糸はあっという間にボロボロになってしまうに違いありません。

工房内の流水プールにさらしながら、余分な泥の粒子を落としていきます

泥染めが終わったあとは、余分な泥の粒子を落として完成です。

自然の恵みに染められる

「遊 中川」の白いコットンのワンピース
染めあがったワンピース

最後に水通しをして、奄美の風に揺られてすぐ乾いたワンピースは、車輪梅の赤褐色に淡い泥の色が重なり、スモーキーでシックな色に。

一度藍に染めたあと、泥田で染めたストール

一度藍で染めたあとに泥田で染めたストールは、深みのある藍色になりました。水玉とストライプ部分は顔料プリントだったので染まらず白いままに。ベースの生地によって色が大きく変わるのも、染めの醍醐味です。

 

偶然が必然に変わるほど、豊かな自然

あああああ

その始まりは偶然、自然のいたずらだったかもしれませんが、この地ではるか昔から脈々と染めの歴史が受け継がれることは必然だったのかもしれないと思いました。

素材だけでなく、環境のひとつひとつから恵みを受けること。

—— “染める”ではなく、“染めさせてもらっている”。

染めの行程をひと通り終えて、改めて金井さんの言葉が身にしみます。

 

1000年以上昔の人々も同じように、この豊かな自然に手伝ってもらいながら布を染めていたと思うと、その染めあがる色ひとつひとつがとても愛おしく、感動もひとしおの泥染め体験でした。

 

<取材協力>
金井工芸
www.kanaikougei.com
鹿児島県大島郡龍郷町戸口2205-1
0997-62-3428

※ 染め体験については直接お問い合わせください

文:馬場拓見
写真:清水隆司

奄美「大島紬」を支える伝統技法「泥染め」とは。泥にまみれて美しくなる不思議

日本でつくられている、さまざまな布。染めや織りなどの手法で歴史を刻んできた布にはそれぞれ、その産地の風土や文化からうまれた物語があります。

「日本の布ぬの」をコンセプトとするテキスタイルブランド「遊 中川」が、日本の産地と一緒につくった布ぬのを紹介する連載「産地のテキスタイル」。今回は奄美大島の伝統染織「大島紬(おおしまつむぎ)」を支えてきた技法「泥染め」がテーマです。

奄美大島の「泥染め」

奄美の伝統染織「大島紬」とは

大島紬とは、鹿児島県南方にある奄美群島の伝統工芸品。深い黒に加え、緻密な染めと織りの技術で知られる、日本が誇る絹織物の最高峰のひとつです。

その大島紬にとって重要な工程である「泥染め」の歴史はとても古く、正倉院の書物の中に“南方から赤褐色の着物が献上された”という記述があるほど。1300年前にはすでに奄美では文化として根付いていたと言われています。

そんな、名実ともに日本の伝統工芸品である「大島紬」。その泥染めを担う染工房・金井工芸さんを訪ねるため、鹿児島市から海を越え南に370キロ。奄美大島に向かいました。

奄美大島に生える木
天然染色工房・金井工芸の工房。使い込まれ、染料が付着した道具や作業台などから、今までに染められた色の歴史を伺い知ることができます
天然染色工房・金井工芸の工房。使い込まれ、染料が付着した道具や作業台などから、今までに染められた色の歴史を伺い知ることができます
金井工芸の二代目・金井志人(ゆきひと)さん
金井工芸の二代目・金井志人(ゆきひと)さん

大島紬の伝統色は山の恵み「テーチ木」から

奄美で「テーチ木」と呼ばれる車輪梅(しゃりんばい) の木
チップ状にしたテーチ木

泥染めの染料づくりは、奄美で「テーチ木」と呼ばれる車輪梅(しゃりんばい) の木を、工房の職人さんたちが山から切り出すところから始まります。

チップ状にした車輪梅600キロほどを大きな鉄かごに入れ、工房内の大釜で2日間に渡って煮出します。

その後煮汁を寝かすこと数日間。煮出してから1週間ほどかけてようやく泥染めの染料ができあがります。

染料となった車輪梅の煮汁は少しトロみがあり、独特の不思議な香りが。その染料を生地に幾度となく揉み込むことで味わいのある茶褐色が生み出されます
染料となった車輪梅の煮汁は少しトロみがあり、独特の不思議な香りが。その染料を生地に幾度となく揉み込むことで味わいのある茶褐色が生み出されます

大島紬には欠かせない。天然の染め場「泥田」

工房の裏手に設えられた天然の染め場である「泥田」
金井工芸の創業者、金井一人社長

大島紬の泥染めをはじめ、様々なブランドの依頼で泥染めを手がけてきた金井工芸の創業者、金井一人社長。

車輪梅の煮汁で褐色に染められた糸や生地たちは、工房の裏手に設えられた天然の染め場である「泥田」に運ばれます。

泥田の底を踏み込みながら、攪拌させた泥に生地を深く潜らせ、こするようにして泥をすり込む。奄美の土壌に多く含まれる鉄分と、車輪梅の染料に含まれるタンニンが化学反応を起こすことで、生地は少しずつ大島紬の伝統色「大地の色」に染まっていきます。

大島紬の深い黒を生み出すためには、車輪梅と泥の染めが80〜100回ほど施されると言います。

奄美の泥は、とても粒子が細かくなめらか

奄美大島の泥は、とても粒子が細かくなめらか。この粒子のキメ細かさがあるからこそ、奄美の泥染めは生地や糸を傷めることなく、美しくそしてしなやかに染めあげることができるのだそうです。

また、泥染めを施すことで、その天然成分により防虫効果や、消臭作用も生まれます。

産業としてだけではなく、自然の恵みと先人たちの知恵から生まれた奄美大島の泥染め。1300年以上ものあいだ受け継がれてきたその文化を知るほどに、この島だからこそ生まれた偶然と必然を見つけることができました。

大島紬の未来。新たな色を創造するギャラリーショップ

工房と同じ敷地内にあるギャラリーショップ。様々なクリエイターとの協働で制作されたプロダクトが並びます
工房と同じ敷地内にあるギャラリーショップ。様々なクリエイターとの協働で制作されたプロダクトが並びます
泥染めだけでなく、車輪梅をはじめ藍、福木、茜染めと鮮やかな天然染色のストールたち。色を重ねることで様々な色が生まれます
泥染めだけでなく、車輪梅をはじめ藍、福木、茜染めと鮮やかな天然染色のストールたち。色を重ねることで様々な色が生まれます

二代目・金井志人さんの代から始まったギャラリーショップには、長く重厚なその泥染めの歴史とは対照的に、軽やかで鮮やかな「草木染め」のストールをはじめ、様々な染めのプロダクトが並びます。

大島紬という伝統染織における泥染め文化を守りながらも、国内外のクリエイターとともにその文化に新しい色を重ねるようにスタートしたこの取り組み。この工房の新たな魅力となるとともに“奄美の染め”の魅力を再発見することができます。

奄美大島に群生する蘇鉄(ソテツ)をイメージした布

金井工芸のある奄美大島。この島はその自然の豊かさから東洋のガラパゴスと称され、南国特有の植生はもとより、手つかずの原生林が多く残っています。

南国特有の植生はもとより、手つかずの原生林が多く残る奄美大島

中でも奄美大島に多く自生する蘇鉄(ソテツ)は、昔から泥田の鉄分が少なくなってくると、その葉っぱを浮かべることで、泥田に鉄分を補う役目を担ってきました。まさに、鉄を蘇らせる植物、なのですね。

今回、ブランド「遊 中川」が金井工芸さんとつくったテキスタイルは、大島紬の古典模様にも使われてきた蘇鉄をモチーフに、大胆な大柄で表現されています。

「ソテツ」のテキスタイルシリーズ

金井工芸さんとつくった「ソテツ」のテキスタイルから、「遊 中川」オリジナルのバッグやストール、ネックレスが生まれました。奄美の島々を囲む海やものづくりの背景を思い浮かべて、ぜひ手にとってみてください。

 

〈掲載商品〉
奄美草木染め・泥染め ソテツ (遊 中川)

▼ ワンピース ソテツ(テーチ木)

中川政七商店 遊中川のバック

▼ バック横長 ソテツ(テーチ木)

「奄美・金井工芸」シリーズ(遊 中川) バック大 テーチ木

 

▼ バッグ小 ソテツ(藍)

「奄美・金井工芸」シリーズ(遊 中川) バック小 藍

 

▼ ネックレス 奄美草木染め・泥染め(泥藍)

ネックレス 奄美草木染め・泥染 泥藍

 

※在庫状況はHPでご確認いただくか、店舗までお問い合わせください。

 

<取材協力>
金井工芸
http://www.kanaikougei.com/
鹿児島県大島郡龍郷町戸口2205-1
0997-62-3428

文:馬場拓見
写真:清水隆司

「ほっとひと息」を丁寧に過ごしたい人へ。有田焼の「mg&gk(もぐとごく)」でお茶にしませんか

春風が吹いていた。

午前中に洗濯はすませたし、掃除もさっと終わらせた。さてと。これから何をしようか。さしあたり予定はないし、出かける気分でもないような。まあ、いいか。ゆっくりお茶でもしながら考えようっと──。

たまの休日。穏やかな午後。

忙しい毎日のなかで何もせずゆったりと寛ぐことのできるひとときは大切だ。自分に甘く、自分に優しい。そんな愛しい時間に、そっと寄り添ってくれそうなのが「mg&gk」の器である。

mg&gk(もぐとごく)ロゴ

“もぐとごく”と読むという。もぐもぐ、と、ごくごく。文字通り、ちょこっと食べたり飲んだりするための有田焼の新ブランドだ。

有田焼というけれど、料亭や旅館で目にする、いわゆる“ザ・有田焼”とは違う。もっと優しくて可愛らしい雰囲気をもっている‥‥そんなことを思いながら「mg&gk」の故郷をたずねることにした。

有田焼の伝統と格式に
柔らかく、みずみずしい世界観を

改めて、有田焼とは佐賀県有田町周辺で焼かれた磁器の総称。有田町は日本で初めて磁器が焼かれた産地としておよそ400年の歴史をもつ。

有田焼の神様を祀る陶山神社。「mg&gk」の工房はそのすぐ脇にある
有田焼の神様を祀る陶山神社。「mg&gk」の工房はそのすぐ脇にある

訪れたのは、創業62年を誇る「渓山窯(けいざんがま)」だ。名工・篠原龍一さんが、豊かな自然と清冽な水に恵まれた猿川渓谷に魅せられて、同地に窯を築いたそうである。

青空に「渓山窯」の煙突が伸びる
青空に「渓山窯」の煙突が伸びる

時代の流れをくみ取りながら、使う人の“日常の豊かさ”を思い描き、料理が主役になる器づくりを大切にする窯元である。

「有田焼というと濃い染付がくっきりと施されていたり、赤や青、黄など絵付けの色鮮やかさがあったりと、どちらかというとインパクトの強い印象があるのではないでしょうか」

そう話すのは「渓山窯」三代目の篠原祐美子さん。

有田焼のイメージ。「渓山窯」の伝統的な文様を描いた猪口の数々
有田焼といえばこんなイメージが主流。「渓山窯」の伝統的な文様を描いた猪口の数々

「それに有田焼というとやはり“和食器”というイメージがありますよね。そうしたイメージをちょっと覆してみようかと」

佐賀県のコンサルティング事業の一環として、中川政七商店とクリエイティブデザイナー兼プロダクトデザイナーの辰野しずかさんとともに、有田焼の新しいかたちを模索した。

「そのなかで『渓山窯』らしさとは何だろうってことを改めて考えて。うちならではの魅力とは?やっぱりそれは“染付(そめつけ)”にあるのかなと思ったんです」

有田焼は陶石を原料にした透明感のある白磁に、鮮やかな色が繊細に施されているのが特徴だが、そのなかで染付とは呉須(ごす)と呼ばれる藍色に発色する絵の具で絵付けをしたもの。簡単にいえば白地に青だけを施した器のことである。

同窯では創業以来、“染付の美”を追い求め、今も昔と変わらず、職人1人1人が全製品を手づくり手描きで絵付けを行っている。

和紙に炭で描いた図柄を器に写してから、呉須で線を描いていく
和紙に炭で描いた図柄を器に写してから、呉須で線を描いていく
「渓山窯」三代目の篠原祐美子さんが絵付けをしている風景
絵付歴25年のベテラン。絵を描くことが好きで、この道に入ったとか

篠原さんのほかにも女性職人は数名いるが、辰野さんは、篠原さんらが染付する姿を見て、有田焼に女性ならではの柔らかな雰囲気を重ね合わせ、有田焼の新しいかたちを思い浮かべたのだという。

──優しくて、大らかで、エレガントな有田焼の姿である。

主張しすぎないこと。
極限まで“呉須”を薄くする

そんな世界観を表現するために辰野さんから提案されたのは「呉須を極限まで薄くしてはどうか」ということだった。

絵付けの作業風景

実は、これには「抵抗があった」と篠原さんは言う。

「というのも、有田焼では輪郭となる線はくっきりと描くものという概念があったから。濃み(だみ:塗る作業)で薄い絵の具を用いることはあっても、線書きを薄くするということをやったことがなくて。だから、はじめはとても勇気がいりました」

それは、技術的にも難しい挑戦だった。

まず、どのくらい薄くしていいのかが分からない。薄すぎれば焼き上がったときにラインが見えないし、かといって濃すぎれば「mg&gk」ならではの柔らかなニュアンスが出なくなる。ポイントは“主張し過ぎない”ことだった。

熟練職人の作業風景
熟練の職人でもはじめは難しい作業だったとか

呉須の濃度や成分、色味を変えながら、何度もテストを繰り返す。どんな表情に仕上がるのかは焼き上がってみないと分からないから、

「とにかく毎回、心配で(笑)」。

一方、新たな試みにより見えてくることもあった。

「呉須の濃度を変えるだけで、こんなにも印象が違うんだとはじめて知りました。同じ和柄でも呉須を薄くするだけで柔らかくやさしい表情になるし、和食器としてだけでなく、洋食器の雰囲気にもなり得るんだという発見があったんです。これには驚きました」

穏やかな、それでいて芯のある口調で、篠原さんは語る。ちなみに呉須の濃度はマニュアル化ができないという。

「作業の途中で水分が蒸発したりするから、職人が水分や顔料を加え、濃度を調整しながら絵付けをしなければなりません。最後はやっぱり職人の技と勘に頼ることになります」

呉須を含んだ細い筆先から淡い青色が線となって描かれる。それはとてもみずみずしく、とてもたおやか。絵柄の濃淡やラインのゆらぎが異なるのも手描きでつくる「mg&gk」ならではの魅力である。

縁起のいい吉祥文様4種

こうして生まれた「mg&gk」の第一弾は、フィナンシェと紅茶の器だ。

「mg&gk」の第一弾、フィナンシェと紅茶の器

絵柄は4種類。平穏な日々を祈る青海波に金の上絵で星を描いた「波」、円満を意味する円形を重ねた吉祥文様の「七宝」、成長を願う吉祥文様の「麻の葉」、そしてシンプルに描いた定番の「縞」模様など、縁起の良い模様を採用している。

4種の絵柄
左上:「波」、右上:「七宝」、左下:「麻の葉」、右下:「縞」

本当だ。
和柄なのに、薄い呉須で描かれているからか洋食器のような雰囲気。穏やかに、素朴でありながら、気品のある佇まいを醸している。

4月3日の発売に先駆けて、4月1日からは兵庫県、芦屋で生まれた洋菓子ブランド「アンリ・シャルパンティエ」とのコラボレーションモデルも発売。

日本発の洋菓子ブランド「アンリ・シャルパンティエ」とのコラボレーションモデル

こちらは「七宝」文様に、同店のモチーフとなる「青い炎」を配したオリジナルデザイン。カップと小皿に、長年愛され続けるフィナンシェを詰め合わせたセットは、たとえば母の日のプレゼントにもおすすめだ。

そして第二弾以降も「mg&gk」は今後さらに面白い展開を予定している。

「まだまだ模索中ですけど、これまでの有田焼になかったような、日常的に“もぐもぐ、ごくごく”を楽しめるアイテムを製作中です」

何が登場するのか心待ちにしつつ、さてと。まずは、ゆっくりお茶にしよう。

<取材協力>
渓山窯
佐賀県西松浦郡有田町大樽2-3-12
https://www.keizan-shop.com/

<掲載商品>
・ mg&gk フィナンシェと紅茶の器(中川政七商店)
・ mg&gk フィナンシェと紅茶の器 限定モデル(アンリ・シャルパンティエ)

文:葛山あかね
写真:藤本幸一郎