こんにちは。ライターの小俣荘子です。
みなさんは古典芸能に興味はお持ちですか?
独特の世界観、美しい装束、和楽器の音色など、なにやら日本の魅力的な要素がたくさん詰まっていることはなんとなく知りつつも、観に行くきっかけがなかったり、そもそも難しそう‥‥なんてイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。 気になるけれどハードルが高い、でもせっかく日本にいるのならその楽しみ方を知りたい!そんな悩ましき古典芸能の入り口として、「古典芸能入門」を企画しました。そっとその世界を覗いてみて、楽しみ方や魅力を見つけてお届けします。
今回は、「能」の世界へ。
歌舞伎と並べて語られることも多いですが、この2つは両極にあると言っても過言ではないかもしれません。豪華絢爛なエンターテイメントとして大衆に支持された歌舞伎に対して、能は神事として発展し、豊臣秀吉を始め、多くの大名たちに愛されました。能を演じることは「茶の湯」と同様に、武家社会におけるたしなみの1つでもあったと言います。
削ぎ落とされたストイックで禅的な世界。現代では思想的な面でも国内外から注目され、多くの人を魅了し続けています。
なにやらよくわからない、けれど惹きつけられてしまう
私が初めてお能を観たのは、能楽堂主催の鑑賞教室でのこと。12歳くらいの時でした。美しい装束や、楽器の音色や謡(うたい=節のついたセリフや唱歌)、優美な舞‥‥夢うつつの幻想的で美しい世界が広がっていて、よくわからないながら知らぬ間に引き込まれていました。それからおよそ20年の間に何度もお能を観る機会に恵まれましたが未だに「わかった」と言えません。
よくわからないまま、それでもまた観に行ってしまう。とても気になる。不思議な魅力に引き寄せられ続けています。
ご紹介にあたり、なんとかわかりやすい解説をお届けできればと思っていたのですが、なかなか一筋縄にはいきません。
説明しようとすればするほど本質から離れてしまう気さえします。白洲正子さんをはじめ、著名な方々が書かれた数々の解説書においても「能を説明することは困難、むしろ解説しようとすること自体が適切では無い」といった類のことが書かれていることもありました。 (解説書なのに!!)
しかし、その「難しさ」は他者を受け付けない閉鎖的なものではありません。
ストーリーは非常にシンプルですし、事前知識を持たなくても研ぎ澄まされた美しさを味わうことができます。
ただ、その奥深さゆえ、1度鑑賞したり解説されただけでは、きっと全てを理解し得ないのです。わからないからこそ、惹きつけられる。その魅力や根源にある「何か」をずっと探し続ける、問い続ける、そのこと自体が鑑賞の大きな要素にある芸能、と言えるかもしれません。
百聞は一見に如かず、まずは観てみる
そんな奥深い「能」の世界。まずは実際に鑑賞して感じ取ってみることからはじめてみよう!と、取材では、6月に国立能楽堂で開催された能楽鑑賞教室にお邪魔しました。
冒頭から、難しさを語ってしまいましたが、能楽堂に足を踏み入れることのハードルは高くはありません。様々な場所で公演や鑑賞教室が開催されています。服装も、かしこまった姿である必要はなく気軽です。社会人向けや外国人向けの解説付きの公演もあり、チケットを取っておけば、お仕事帰りにふらりと訪れることもできます。
鑑賞教室では、金春 (こんぱる) 流能楽師 山井綱雄 (やまい・つなお) さんによる解説と、狂言「附子 (ぶす) 」、能「黒塚(くろづか)」を10代の学生さんたちと一緒に鑑賞しました (一般的に能と狂言は一緒に上演され、2つを総称して「能楽」と呼びます) 。
能は、楽器の音色や声も耳に美しく響き心地よいので、上演中に夢の世界にぐっすり旅立った学生さんもちらほらいましたが (「良い能ほどよく眠れる」とも言われていますので、眠ってしまって堪能するという贅沢な鑑賞もアリかもしれません) 、終わった後に「あの部分が綺麗だった!」「あそこはこういう意味かな?」と感じたことを楽しそうに語り合いながら帰っていく学生さんたちも多く印象的でした。みなさんそれぞれに感じ入るポイントがあったのでしょうね。
公演後、山井さんにお時間をいただき、能への向き合い方をお尋ねしました。記事の後半でご紹介させていただきます。
神様の宿る、松の木の前で舞う「一期一会」の世界
能のルーツは千数百年以上もの昔、「散楽 (さんがく) 」という芸能に遡ります。平安時代に散楽から発展して生まれた「猿楽 (申楽=さるがく) 」が、能の直接の母体と言われ、神事の際に演じられるようになりました。
その後、室町時代に観阿弥・世阿弥親子が芸術性を高め、現在の能の原型が生まれました。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など多くの大名が愛好し、江戸時代には幕府の儀式を彩る役割を担ったと言われます。
明治維新〜第二次世界大戦時期にやや衰退するものの、世界でもその芸術性を高く評価され、2001年にはユネスコの無形文化遺産の一つに登録されました。
庶民のためのエンターテイメントではなく、神事、武家社会における芸術へと育った能。1つの公演はたった1度きり。同じ演目を連続で公演することはなく、その場限り「一期一会」の芸能とも言われます。
舞台も独特です。元々は社寺の境内の一角 (屋外) に建てられていたため、現代の屋内に建てられた能舞台にもそのまま屋根が付いています。舞台の正面奥の板 (鏡板=かがみいた、と呼びます) には、神様が宿ると言われる松の絵が描かれており、この松の前のむき出しの4本柱に囲まれた舞台がメインステージとなって演目は進みます。
舞台袖の揚幕と舞台をつなぐ橋掛リ (はしがかり) の脇にも松が3本植えられており、それぞれ一ノ松、二ノ松、三ノ松と呼ばれ、順に松の背が低くなっており遠近感を演出しています。こちら側とあちら側の世界 (黄泉の世界) をつなぐ長い橋を表しているようにも感じられますね。なんとも非日常的で、この舞台を前にしただけでも異世界へ誘われたような不思議な気持ちになります。
曖昧な境界線、観客も参加することで完成する空間
舞台には幕がなく、上演中の客席も暗転しません。演目の始まりと終わりも曖昧です。始まる際には、「お調べ」と呼ばれるオーケストラのチューニングのような囃子方 (はやしかた=、笛、小鼓、大鼓、太鼓の奏者) の奏でる音が奥の部屋から聞こえてきます。音が消え、橋掛リの奥の揚幕が少しだけ開き、囃子方が橋掛リの端をそろそろと歩いて舞台へ登場します。
また、鏡板の脇にある小さな引き戸 (切戸口=きりとぐち、と呼びます) が開き、地謡方(じうたいかた=コーラス部隊のような役割)も舞台に出てきて静かに着座します。
この準備のような時間がすでに演能の一部なのです。
そうして舞台上が整ったところで、囃子方が楽器を奏で始め、演者達が登場して物語がはじまります。終演時も同様の曖昧さの中で終わります。そのため、演者が登場したときや、退場したときにも観客は拍手をしません。特に、内容が素晴らしかった時ほど、客席は息を飲み、シンと静まり返っているようですらあります。
能のストーリー展開はシンプルで、とても象徴的です。
道具も最低限のものだけ、演者の動きも決まった型によって構成された削ぎ落とされた世界。観客はイマジネーションを膨らませながら、そこに情景を見出したり、能面に喜怒哀楽の表情を見つけたりします。その時々に、私たち自身の持っている感性を投影しているのかもしれません。
また、話の筋を追うというよりは、そのストーリーのまとう「悲しみ」や「高揚感」そのものを味わっているように感じることもあります。能は静かなようでいて、とても情緒豊かなのです。静まり返った空間では、観客にもある種の緊張感が訪れます。そうした緊張感による集中力の高まりが、より一層の能の世界への没入感を生み出すようでもあります。
古くから日本では、「曖昧な空間は、異界への入り口」と捉えられてきました。
昼と夜の合間である夕方(「黄昏時」とも呼びますね)、廊下、道が交わる辻(つじ)、橋(能舞台にもかかっていますね)などでは怪異に遭遇しやすいと言われます。
シテ(主役)が演じるのは、鬼や幽霊など異界の者であることが多いのですが、物語ではじめに登場する、ワキ(脇役)がシテのいる異界へと観客を誘います。異界に行って戻ってくる(異形のものを成仏させる)というのが能の基本ストーリーですが、能鑑賞そのものも、能楽堂という異界への入り口を訪れ、曖昧な状況からはじまる物語の鑑賞を通して、知らず知らずに入り込んだ異界で、あちら側の者と向き合い、物語の終演をもってこちら側の世界に戻ってくるという行為にも見えます。
集中して能を鑑賞した後は、心地よい疲労感と心のリフレッシュ感を覚えます。
異界を疑似体験することを通して心を整え、生まれ変わった自分になってこちら側へ帰ってきているのかもしれませんね。
能楽師 山井綱雄さんに伺う、能の世界
ここまで、鑑賞する視点から歴史や舞台、鑑賞例などお伝えしてきましたが、舞台上で演じている方々は、能とどのように向き合っているのでしょうか。
金春流能楽師 山井綱雄さんにお話を伺いました。
山井さんは、国内外での公演活動をはじめ、異なるジャンルの芸術家とのコラボレーション、大河ドラマでの能楽指導や能楽講座の講師を務めるなど、様々な形で能の普及に精力的に取り組んでいらっしゃいます。多様な視点から、興味深いお話の数々をお聞かせくださいました。
——— 初めて観た時、とてもシンプルなストーリーでわかりやすい一方で、なにか胸騒ぎがするような‥‥、削ぎ落とされた美しさや静けさの中にある情念のようなものをなんとなく感じて、「これは何なんだろう?どう捉えたらよいのだろう?」と、何かあるのはわかるけれど見えない、不思議な気持ちになりました。
「やはり前提として、能というのは簡単ではないのですよね。神事をベースとした成り立ちからしてもそうですし、(世阿弥の時代は少し違ったようですが)武士たちと出会ったことでストイックさを高めていったことによる要素もあると思います。武士道的なストイックさが加味されて、極限状態を作り出すことへ向かいました。
『静の中の動』と言いますか、じっとしているけれど、心の中は燃えたぎっているという状態です。ある格闘家の方が、能で演者が座っている様子を見た時に『高速回転している駒のようだね』とおっしゃっていました。じっとしているけれど、休んでいない。私たちは、立っていても中腰で構えていたり、座っていても楽ではない体勢をとっています。とてもキツい苦しみの状態です。能の型は、能楽師を極限に追い込む方向に出来ているのですよ。
これはどういうことかというと、植物を育てる時にあまり肥料をやりすぎたり甘やかしたりしない方が植物自身の生命力を使ってしっかりと育つというのに似ています。
厳しい限界の状況に追い込むことで、役に変身できる、独特の世界を生み出しているのです。能は一期一会なので、1度きりということへの緊張感も良い作用をしています。それがお客様にも伝わって、凛とした空気を作り上げているのではないでしょうか」
——— 緊張感がある中で集中して鑑賞していると、そのあとドッと疲れています。ですが、不思議な清々しさがあります。単にエンターテイメントを味わった後の「ああ楽しかった!」という感覚とも違っている気がします。
「こういった非日常性のある緊張感を持つ事って普段の生活にはあまり無いですよね。能楽堂という異世界で、日常のことを遮断して舞台に向き合う時間。どっぷりと能の独特の世界に身を委ねることで、心を整える。
能は元々神事ですから、心を清めてすっきりと浄化させるところがあるのだと思います。
ストーリーの展開を楽しむというよりは、人間の根源的なところにストレートに問いかけるような、理屈ではなく、頭で考える前の感覚的な深いところに訴えかけている。お客様もそれに知らず知らずに反応しているのだと思います。
思考するばかりでなく、自分をリセットして心を整える時間、現代人はなかなか経験できなくなっているので、能を通じてそのことに気づいてくださるのかもしれません」
——— 「問いで自分を整える」というと、禅のようですね。
「例えば最近ではIT長者の方々、それこそ故スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグなど、みなさん日課として座禅を組まれていますよね。マインドフルネス(瞑想)をはじめ、心を整えることを習慣づけている。もちろん、仕事の効率をよくするためなど目的は様々だと思いますが、人間が人間としていられるために心のバランスを整えることの重要性を知っています。
古くから、日本人には身近にあったことが今世界的に見直されています。非日常と日常を行き来することで心を整える、心を切り替えるということを日常的にやっていたのが日本人なのではないでしょうか。そういう場をみんな持っていた。能舞台もその1つだと思います。
例えば、戦国時代の大名たちは、陣中で能やお茶を楽しんでいたそうです。それだけ聞くと、とんでもないバカ殿かと思うかもしれません。ですが、そういった行為を通してきっと心を整えていたのだと思います。人間にとって必要な心のリセット、浄化作用があったのです」
——— 大変な状況に置かれた時こそ必要なことですね。もしかすると、現代のハードワーカーこそ観るべきかもしれません。
「現代人は、1回観てその瞬間にわかるかわからないかで判断をしてしまいがちです。能の世界は、あまりにも奥が深いのでとても1回では理解できません。それで『わからなかった、私が不勉強である、頭が悪い』と自分を責めてしまったりします。でもそれで当たり前ということを知って観ていただきたいですね。全てを理解できなくても、何か感じるものはあります」
——— きっと、そういう「わからないものが存在すること」自体にも価値がありますね。それを受け入れることが最初の一歩かもしれないと思いました。
「そうですね、まずは受け入れて、何かを感じてもらうだけでも十分だと思います。そういうことを重ねていけば、色々な気づきが出て来て味わえるものです。能には想像力が必要で、感受性を試されます。
演じる側も無から有を演じますが、観る側にも求められます。説明されるのを待つのではなく、自分から見つけに行く。そういう楽しみの存在を知っていただきたいですね」
——— 普段、ついつい「答え」を探してしまいますが、そうでない世界があると気づかされます。
「能には答えがありません。描いているものが人間そのものですから。だから簡単ではありません。能を観て何を感じるのかは千差万別。能は意図的なメッセージを置くことをしません。どう捉えていただいても、解釈していただいても構わないのです。1人の方が同じ演目を観たとしても、その時々できっと全く違うものに見えるはずです。それは、自分自身が移り変わっているから。
故・金春 信高先生(こんぱる・のぶたか=能楽シテ方金春流79世宗家)から教わった興味深い話があります。
能舞台にある松の絵の描かれた板は「鏡板」と呼ばれるのですが、なぜ「鏡」と言うのか?実はあそこに松は生えていないというのです。
能舞台の正面向こう側(正面客席側)にある松が、ただ映っている。つまり能舞台は客席(こちら側の世界)を映し出す大きな鏡なのだ、と。己を投影して見つめる、それが能であると。
自分が解釈していたこと、投げかけたことは全て自分への問いかけとして返ってくる。自分が変われば見え方が変わってくるということなのです」
——— 受け身の芸術鑑賞ではなく、自分の感性で映るものを見つめてみることに現代人に必要なことが詰まっているように感じました。新しい取り組みも様々されていますが、これからの能をどう捉えていらっしゃいますか?
「今、例えばマインドフルネスなど、東洋的な思想が学問領域でも注目されています。海外の大学を訪れた際など、いかに興味を持たれているかを実感しました。元々それを知っていた私たちが、今改めてそれらを正しく理解することが求められているのではないでしょうか。
理解し、生活の中に取り戻す。ただ昔通りにやれば良いということではなく、やはりそこは温故知新だと思います。今の時代にどう活かすか、今の時代を生きている芸術としてどう高めて行くか、非常に難しい問題です。古典としての能の公演の際にも、他ジャンルの方々とのコラボレーションや新しい取り組みを通しても常に問うています。
もちろん、そうした新しい取り組みに疑問を投げかける声もあります。保守もリベラルも両方の考えがあることが大切です。今後、保守の方から見ても『そういうものもありだね』と言われるものを生み出したい、そんな感覚をいつも持ち続けています。
また、新しい試みを通じて『本来の能とは何か?』という問いかけに立ち返ることにもなります。こうして問い続け、自分の答えを探していきたいと思っています」
——— ありがとうございました。
山井さんのお話を伺って、1度観ただけで判断しないというお話が印象的でした。
「わからないこと(答えがないこと)」の存在を受け入れること、問い続けることの大切さなど、日常の中でも重要な視点であるように感じます。観るたびに違って映る能の世界。その時々に感じたものを大切にしながら自分を省みると、また新しい発見がありそうです。
まずは鑑賞してみて、不思議な幽玄の世界に浸ったときに自分の心に何が映るのか?映し出された心を眺めてみるのもおもしろいかもしれません。
山井綱雄 (やまい・つなお)
金春 (こんぱる) 流能楽師。
(公社) 能楽協会会員。
(公社) 金春円満井会常務理事 (業務執行理事)。
1973年横浜市出身。國學院大學文学部卒。79世宗家故金春信高、80世宗家金春安明、富山禮子に師事。金春流能楽師であった祖父(故梅村平史朗)の影響で5歳で能「柏崎」子方にて初舞台。12歳で初シテ「経政」。以来、 「乱」「石橋」「望月」「道成寺」 「翁」「正尊」「安宅」等の大曲を披演。
金春流能楽師の会「座 SQUARE」同人。
山井綱雄公式サイト:http://www.yamaitsunao.com/
◆入門展 能楽入門
国立能楽堂の資料室では、企画展「能楽入門」が開催中です。面や装束、絵画資料などの国立能楽堂所蔵の能楽資料を中心に、能楽の基礎的な知識を交えて、わかりやすく展示紹介されています。
期間:2017年8月3日(木)まで
時間:10:00~ 17:00
休室日:7月18、24、31日
http://www.ntj.jac.go.jp/nou/event/426.html
◆国立能楽堂 9月公演
9月には4つの公演が予定されています。 解説付きの普及公演や、夜の特別公演もありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
2017年9月6日 (水) 13:00開演
定例公演
狂言「狐塚」 三宅 右矩 (和泉流)
能 「大江山」 本田 光洋 (金春流)
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9188.html?lan=j
2017年9月9日 (土) 13:00開演
普及公演
解説・能楽あんない 梅内美華子 (歌人)
狂言「蟹山伏」 善竹 隆司 (大蔵流)
能 「天鼓」 當山 孝道 (宝生流)
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9189.html?lan=j
2017年9月15日 (金) 18:30開演
定例公演
狂言「月見座頭」山本 則俊 (大蔵流)
能 「小督」 粟谷 明生 (喜多流)
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9190.html?lan=j
2017年9月30日 (土) 13:00開演
特別公演
能 「楊貴妃」 豊嶋三千春 (金剛流)
狂言「宗八」 松田 髙義 (和泉流)
能 「烏帽子折」観世銕之丞 (観世流)
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2017/9191.html?lan=j
<取材協力>
国立能楽堂
東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
文・写真 : 小俣荘子(舞台・公演写真:国立能楽堂提供)