栃木「きびがら工房」きびがら細工のへびを訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載6回目は巳年にちなんで「きびがら細工のへび」を求め、栃木県鹿沼市にあるきびがら工房を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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栃木の水田の景色

東京を出て列車で北へ。個性的な技法に興味を抱いた、きびがら細工の蛇に会いに行く。線路沿いに見える水田は、住宅に接し、見渡す限りあちこちに広がっている。水が土に入れ替わった光景は、西洋人の私には驚くべきものだ。

緑豊かな自家農園

目的地、鹿沼の駅のホームで若い女性が待っていた。彼女が職人だ。田舎にある自宅兼アトリエまで車で連れて行ってくれる。
到着するやいなや、前置きなしに庭に案内された。

畑の土から芽が出ている

というのも、ここで、必要な箒きびを栽培しているからだという。成長すると1.5メートルほどの高さになる。「この植物が絶えないように自分で栽培しないといけない」と彼女は言う。

束ねられた箒きびの茎

切った後、茎は乾かされ、束ねられる。小さな干支の動物や箒になるのを待っている。

工房の様子

そして工房へ。伝統的な日本間で、家具はない。部屋の奥の畳の上に、木でできた素朴でシンプルな作業道具と座布団が置かれている。
どうやったら長い時間、あぐらをかいていられるのだろう?私には想像もつかない。

赤い壁と天井の電球

壁に掛けられた時計のチクタクという音だけが聞こえ、静けさと穏やかさが漂っている。彼女のことをうらやましく思う。私は、どこへ行くでもないのに、あちこち走り回りすぎるのだ。

青い首輪をつけた黒猫

猫も静かで穏やかだ。疲れを知らずに繰り返される彼女の手作業を飽きずに眺めているようだ。

しめらせたタオルと箒きび

箒きびを濡らして柔らかくして扱いやすくしてから、蛇の制作にとりかかる。

箒きびを編んでいく手元

何千回も繰り返す、きびきびとした動作。そして、茎から小さな蛇が生まれてくる。

きびがら細工の3匹の蛇

素早い手さばきで、あっという間に3匹できた。取材する私たち3人にひとつずつ。ぽかんとしてしまった!

かごに入ったたくさんのきびがら細工

3匹のへびは仲間に合流し、かごの中へ。形を保てるように太陽のもとで乾かすのだ。

きびがら細工の十二支

全員集合の時がきた。十二支の中に、私の小さな蛇がいる。

駅のホーム

15時。東京へ戻る時間だ。列車を待ちながら、彼女のことを思う。たったひとりできびがら細工の全ての工程を行っている。原材料の栽培から完成まで。彼女がいなかったら、きびがらの蛇は消えてしまうのだ。それは悲しすぎる。

電信柱に巻きついた布とツタ植物

列車に乗り込む前、ホームの反対側の写真を撮った。柱にタイヤが巻きついていて、まるで蛇を思わせる。鹿沼で生まれた小さな蛇は、ポケットに入って私と一緒に旅を続ける。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカーさん

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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日本で唯一のきびがら細工職人

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、鹿沼市で箒づくりの一端からきびがら細工が生まれた理由や、きびがら工房を訪ねて教えてもらったきびがら細工の詳細な製造工程(材料の栽培まで!)をご紹介します。

栃木県の鹿沼地方は、江戸時代の古文書に鹿沼の箒職人の記録が見られるほど、昔から農家の副業として座敷箒づくりが盛んなところ。かつては全国一の生産量を誇っていました。

水はけの良い鹿沼の土が、箒の材料となるほうき草の栽培に適していたため、ほうき草の産地となり、また良質な材料が採れることから、自分たちでも箒を作り始めたそうです。

「鹿沼箒」は、大型かつ丈夫で長持ちなのが特徴。目減りしてきたら、編み糸を下から外していき、座敷掃き、土間掃き、そして外掃きへと使い続けられる。しかし、その技術がなくなりつつあるといいます。

根本に膨らみのあるハマグリ型が特徴の鹿沼箒

箒の材料は、ホウキモロコシ(ほうき草)というイネ科の一年草です。中国から日本へ渡ってきたことから、「唐黍(とうきび)」ともいいます。「きびがら細工」とは、この黍(きび)のガラ、つまり箒づくりの廃材でつくる人形のことです。

そのきびがら細工をつくる「きびがら工房」の創業は大正7年。代々鹿沼で箒屋を営んでいた家系の初代が、分家して工房を立ち上げました。

当時は、座敷箒をつくっていた工房が市内に1000軒もあったといいます。しかし、昭和30年に掃除機が誕生したことで、鹿沼箒の需要は激減し、昭和42年には箒屋が18軒にまで減ったそうです。

そんな時代の真っ只中、二代目の青木行雄さんが、箒づくりの技と材料を違う形で残そうと、鹿沼の白鹿伝説にちなんで、鹿の郷土玩具を作ったのがきびがら細工の始まり。昭和37年のことだといいます。

またその2年後、東京オリンピックが開かれた昭和39年の干支「辰」のきびがら細工を創案して販売したところ大人気に。これをきっかけに、毎年買い揃えてもらえるようにと、十二支のきびがら細工が誕生しました。

きびがら細工十二支
きびがら細工十二支

現在、きびがら細工を作るのは祖父の跡を継ぐ三代目の丸山早苗さん。日本で唯一のきびがら細工職人であり、年間にすると2500個ほど作っておられるそうです。

きびがら工房三代目 丸山早苗さん

「両親がお店をやっていたため忙しく、子供の頃から祖父の工房で過ごして育ったので、祖父が大好きでした。11年前に祖母が亡くなってから、箒作りのお手伝いを始めたのがきっかけです」

当然、跡を継ぐのは簡単ではなかったそうで、「箒づくりは力仕事のため女性職人が少なく、周りに反対もされました。」と、丸山さんの言葉には前途多難を乗り越えた強い意志がにじみ出ていました。

必要な素材は、育てるところから

丸山さんのきびがら細工作りは、箒の材料となるほうき草を育てる工程と、人形を作る工程の大きく二つに分かれます。

まずは、ほうき草を育てる工程。

1)5月「種まき」
収穫が手刈りで一気に刈り取れないので、2週間おきに植えます

工房横の畑で発芽したばかりのほうき草

2)8月~9月半ば「刈り取り」
  この頃には150cmくらいまでに成長

3)「種の採取、湯通し」
  タネを採った後、殺虫と成長止めのため、5~30分お湯に浸けます

4)「天日干し」
  3日~1週間ほど外で日光に晒します

天日干しされたほうき草

以前に、ほうき草の栽培者がいなくなり材料が手に入らないことがあったことから、ほうき草の栽培は近くの農家さん2軒に依頼した上で、さらにもしもの時に備えて、自身の畑でも栽培して種を保存する徹底ぶり。

「栽培技術が一度途絶えているので、肥料の具合や水のタイミング・量など、箒が作れるように育つのかまだうまくつかめていないんです」

収穫したほうき草のうち、箒をつくれる材料に育っているのは2割に満たないといいます。そして、その残りがきびがら細工の材料となるわけです。ほうき草の供給としては不足していますが、小さい箒にするなどして地場産材だけで作ることにこだわっているそうです。

また、職人さんなのに指先がきれいなのが気になり伺うと、
「材料に農薬や薬を一切使っていないので、手が荒れないんです。修行時代はよく手を切って傷だらけにしていましたが(笑)」

と、ほうき草の栽培は、農家さんが自身で作っている米ぬか、おから、ビール粕などの有機肥料のみを使用した無農薬栽培と、こちらも徹底しています。

続いて、人形を作る工程。

1)ほうき草を水で濡らす
2)ほうき草数本を束ねて糸で編む

力を入れて糸が切れないギリギリのテンションで編む(ナイロンの漁網を使用)
きびがら細工を編んでいる丸山さんにじゃれる黒猫
ときおり、猫のちょっかいを受けながら‥‥

3)針金とゴムで留めて完成形をつくる

へびの形をつくって固定する

4)天日干し

ザルに入れられて工房の前で日光浴

ほうき草は育った環境によって表皮の硬さや筋の入り方が1本ずつ異なり、柔らかい・曲げにくいなど、素材の「タチ」といわれる個性があり、慣れるまではそれを見極めるのが難しいとのこと。

丸山さんは小さい頃からほうき草で遊んでいたので、草の目を読むのが得意なのだそうです。余裕がある時は、手元にある材料を見て何を作るか決めることもあるとか。

きびがらを編んでいく手元では、へびが淡々と同じ方向にとぐろを巻きながら成長していきます。デザインは、先代のものから微妙に替えてつくっているといいます。

「自分が最高だと思うきびがら細工を作ればいい」という先代の言葉を胸に、「作り方は以前とまったく同じですが、リアルに作ろうとしていた先代に比べて、絵的な感じで子どもがぱっとみても何かわかるものを目指している」

と、三代目らしいものづくりを目指されているようです。

古来より箒は「安産祈願」、「災いを掃き出す」などと言い伝えられてきました。その廃材で作られるきびがら細工も同じように、丸山さんが使い手の幸せと健康を祈り、一個一個心を込めて作られています。

その功績が認められ、昨年12月には「鹿沼きびがら細工」が栃木県の伝統工芸品に認定されました。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第6回は栃木・きびがら細工のへびの作り手を訪ねました。それではまた来月。

第7回「大分・北山田のきじ車」に続く。

<取材協力>
ぎびがら工房

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」3月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

岡山「津山民芸社」の竹細工の龍を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載5回目は辰年にちなんで「竹細工の龍」を求め、岡山県津山市にある津山民芸社を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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オレンジの電車の前の工事職員の後ろ姿

岡山駅から津山駅に向かう列車はきれいな色だ。これから竹細工の職人に出会う私たちを連れて行ってくれる。

津山民藝社の看板

目的地に到着。工房前の植物は豊かで、愛情をこめて世話されているようだ。あたたかい歓迎を予想させてくれる。

津山民藝社の白石さん

そして期待は裏切られなかった。白石さんは、陽気でにこやかだ。頭にベレー帽をのせ、私たちを中に招いてくれる。日本の「ジュゼッペじいさん」に出会ったのだ。

ぶら下がった麦藁帽子

不思議な事に、店の奥に入ったとたん、自分の家にいるような気分になった。この場所に棲む、つつましい様々なオブジェに囲まれて、白石さんのセンシビリティを共有できたような気持ちがする。麦わら帽子が3つ、埃だらけになって、家具の上にのせてある。

サルノコシカケ

伝統的な藤細工に混じって、見事なサルノコシカケがあった。

竹製のハチドリ

竹の繊細なハチドリが、軸の上にこっそり乗せてある。

様々な道具が並ぶ

工房に向かう。これはまさに「ジュゼッペ」のアトリエだ!玩具だけでなく、機械や道具も全てが手づくりなのだ。
すばらしい創意工夫で、まさにミュージアムピースだ。

道具箱

竹の材料を入れておく箱まで手づくりだ。おそらく白石さんは、美しさを優先させているに違いない。というのも、家具が痛まないように、ブロックを置いて床との直接の接触を避けているからだ。

工房の風景

特別につくられた、この竹を切るためのノコギリベンチも同様だ。壁に掛かっているザルも、偶然ではないはずだ!

竹の水分を出させるかまど

中庭には、細工される前に竹の水分を出させるかまどがある。

壁に掛けられた時計

あっという間に16時40分だ!14時に訪れたのに、このアリババの洞窟で時間を忘れてしまった。しかもここに来た目的のものをまだ見ていなかった。小さなドラゴンだ。

机の上の様々な道具

店の奥の部屋に戻った。そこで白石さんは、仕上げの組み合わせをしてくれる。

仕上げを行われている龍の郷土玩具

ああ!やっとドラゴンに会えた。待った甲斐があった!最後に少しレタッチして、仕上がりだ。

龍の郷土玩具

なんと誇らしげで美しいのだろう!上にまたがったら、怖いものなしだ!

作りかけの郷土玩具と道具

しかし、私たちの天才工作者の制作は、これだけではない。

郷土玩具の虎

トラもつくる。

郷土玩具の餅付きうさぎ

かわいいウサギも。

作州牛

しかし、何よりも、ここの名を知らしめた、有名な作州牛だ。

竹林

私たちのジュゼッペじいさんは、近所の竹林に車で連れて行ってくれた。彼の竹細工の源だ。訪問は終わりに近づき、この素晴らしい出会いの後の別れは感動的だった。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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竹細工と農耕牛の産地で、郷土玩具をつくる

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、津山市で竹細工が誕生して全国に知られるようになった理由や、津山民芸社を訪ねて教えてもらった竹細工の製造工程、郷土玩具の由来などをご紹介します。

その昔、「美作の国」や「作州」と呼ばれていた岡山県北部。中心に位置するのが、中国山地沿いの山間の城下町、津山市です。

津山では大正末期に、地場産業として竹細工が推奨され、昭和初期にかけて、大分とともに2大産地といわれました。
大分の竹細工は、竹を割ったものを編んでつくるものが多かったのに対し、津山では機械を使って玩具などが盛んに作られたそう。

当時、竹細工は生糸に続いて二番目の出荷を占める津山の主要産業で、市内には36軒もの工房があり、終戦まで生産量は全国トップクラスを誇っていました。地場産の竹を使用していて、素材をまるごと活かしているのが特徴です。

また、美作地方は江戸時代から農耕牛の飼育が盛んでもある土地。一宮の中山神社近くでは明治時代まで牛市が開かれ、役牛の産地として各地に広くその名を知られていました。

こうした背景をもとに、昭和32年から竹細工の「作州牛」を製作しているのが今回訪れた津山民芸社。市内で竹細工を作り続けるのは今や、同社の白石靖さんただ一人となったそうです。

城下町の北側、かつての武家屋敷通りの一角にある津山民芸社

戦後生まれの牛が、津山を代表する郷土玩具に

筑前琵琶を弾く琵琶師であった父・安太郎さんが、津山に移り住んで竹細工を始めたのが昭和2年。

「父は竹に魅了され、釘から水筒までとにかく竹製品で代用を考えていました。また、アイデアマンでもあり、次々に事業を立上げていましたが、そっちは失敗ばかりでした」と苦笑しながら話す白石さん。

発想の豊かさと手先の器用さは父親譲りだったようで、白石さんが17歳の時に2年間修行に出た後、親子で観光土産の開発に取り組み、作州牛を考案。翌年の昭和33年に津山民芸社を設立しました。

白石靖さんと娘の七重さん

作州牛は、昭和天皇が岡山国体のお土産に購入されたことや、昭和60年に戦後生まれの郷土玩具としては初めて年賀切手に採用されたことで、広く知られるようになり、今では津山の代表的な郷土玩具に。

昭和60年の年賀切手

店舗を訪ねると、奥が工房になっていて、作州牛を始め十二支の竹細工の製作風景が見られます。

店頭に並ぶ竹細工は竹の素材や形をそのまま活かし、一つ一つに微妙な違いが。十二支の玩具には、その干支にまつわる津山地方の言い伝えが栞として添えられているのも嬉しいです。

ピーク時の約40年前は、従業員50人の工場で、年間約2万個を生産するような大きな規模でしたが、時代とともに縮小し、現在は年間約1200個を白石さんお一人でつくられるそうです。今のところ、弟子や跡継ぎはいないとのこと。

往時の津山民芸社での製作風景

手作りの道具で竹の魅力を引き出す

木製玩具にはこけしに代表される挽物、そして箱物、板物、木彫りなどがありますが、竹製はごくわずか。

今回のお目当ては、30年前、白石さんの娘さんの干支が一回りした時に考案した玩具だったため、記憶によく残っているという「竹の龍」。その作り方を見せていただきました。

まずは材料となる竹の「伐採」。近隣に豊富にある竹林で許可をもらって自ら取りにいきます。

工房から車で5分ほど行ったところにある竹林

次に「油抜き」。

青竹から余分な水分や油分を除去する作業で、材料を作り上げるための大切な工程。
熱湯に竹を入れて煮込み、油分を取ります。

工房の裏手で油抜きや染色をするための釜

油抜きを終えたら「裁断」です。

種々の刃物を使って、必要な大きさに竹材を裁断します。裁断した部材は「ガラン」に入れて、角を滑らかに。

裁断の道具
竹の断面を滑らかにするため、「ガラン」に入れて回す
モーターとベルトで動く木製のガランも全て手作り

最後に「彩色」して、「組み立て」をして完成です。

絵の具で彩色
丁寧に組み立てる

伐採、油抜き、裁断、彩色、組み立て、すべての工程を今は白石さんがひとりで手がけます。白石さんの創作は玩具にとどまらず、ほとんどの道具も使い勝手の良いように自分で手作り。自然の竹をまるごと活かし、道具に至るまで手作りでつくるため、ひとつひとつ形や表情も違います。

「無になって、つくることに集中する。無心に切って、描く。そうすることでクオリティ高く仕上げています」

何度つくっても、竹細工に対する白石さんの信念は変わらないようです。

「竹の龍」は、名画のワンシーンから生まれた?

龍に少年が跨っている「竹の龍」の姿、何かに似ていると思いませんでしたか?

「ネバーエンディングストーリーに着想を得て考案した」という白石さん。そう言われると、主人公がファルコンにのっているあのシーンに見えてくる気が‥‥。

添えられている栞には、

『龍は鯉が中国の揚子江を遡り、天から落下している滝を登りきって龍と化したと言われている。その龍は日本に来て水を司る神と崇められた。

龍神を祭る山の一つに作州地方最高峰の那岐山がある。この山は今でも毎年この地方特有の広戸風をまきおこしている。

「昔、昔、この山に三穂太郎という大男が住んでおったそうな。この大男、那岐山から京都まで三歩であるいたそうな。この大男の担いだ畚(もっこ/縄を網状にしたものの四隅に綱をつけ、土・石などを入れて運ぶもの)からこぼれ落ちた土が鏡野町の男山、女山に成り汗の雫が作州一の大池と言われる誕生寺池になったそうな‥‥」この三穂太郎は子供の頃から龍にまたがり、天空を飛び回って遊んでいたと言われている。この様子を竹細工にした。』とあります。

ファンタジーな着想の奥には、古くから津山地方に伝わる郷土民話のエピソードを、心に残るイメージで後世に伝えようとする白石さんの信念がうかがえるような気がします。

そしてそれは、白石さんのつくる道具、玩具、栞、すべての創作に共通する郷土愛なのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第5回は岡山・竹細工の龍の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第6回「栃木・きびがら細工のへび」に続く。

<取材協力>
津山民芸社
岡山県津山市田町23
営業時間 9:00~18:00(不定休)
電話 0868-22-4691

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」2月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

第4回 金沢「中島めんや」のもちつき兎を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載4回目は卯年にちなんで「金沢のもちつき兎」を求め、石川県にある中島めんやを訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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薬局の前のサトちゃん

さよなら東京。これから新幹線に乗って金沢へ行くのだ。

建物

金沢でまず驚いたのは、伝統的な家の屋根瓦に黒く光沢があることだ。

中島めんや外観

兎の郷土玩具をつくる職人、中島さんのお店に到着。全体的に黒くて、見過ごしてしまいそうだ。

縁起のいいお面

入り口。すでに歓迎されているようだ。

おかめのお面

店に入ると、壁に掛かった、大きな膨らんだ顔に気を取られた。表面のあちこちが剥がれている。とても古いものにちがいない。店主の中島さんから先祖がつくった張り子面だと聞いた。

実のところ、中島さんが主に制作しているのは、木の型を使った張り子に絵を描いたお面や人形なのだ。

これが一例。中島さんの娘さんがアシスタントとなって描いたもの。おそらく彼女があとを継ぐのだろう。

店内に飾られた兜

兎に会いに来たのに、どこにいるのだろう?大きな兜の絵に隠れているのかな?

想像していたよりもずっと小さく、とても可愛い。餅をついている。月面のクレーターは、日本人にとっては餅つき兎、西洋人には女性の顔に見える。このグローバリゼーションの時代、どちらかに統一したほうがいいだろう!

中島さんは、主に冬にこの玩具をつくるそうだ。冬は張り子が乾きにくいからだ。柔らかく削りやすい桐を材料としている。桐はこの地方によく植えられていたという。この木材について、もっと知りたくなった。

兎の玩具を見学し終わった後、桐をつかって制作している、岩本清商店の工場を訪ねた。

ものすごく衝撃的で、感動した。目の前でベルトが動き、全ての機械が稼働している。過去の時代の名残が、いまも活動し続けている。

この素晴らしいスペクタクルを前に、言葉はでない。ただ眺めて撮影するだけだ。

楽しかった2か所の見学を終え、次の取材場所に向かうことにする。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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加賀百万石の城下町、金沢へ

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、金沢で木製カラクリ玩具が誕生した理由と、作り手の「中島めんや」を訪ねて教えてもらったもちつき兎の製造背景や由来などを解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

江戸時代から北陸の文化都市として知られる石川県。それゆえに優れた工芸品が多く、郷土玩具も町のアイコンとして大事にされています。それらは、政治・文化の中心地であった城下町金沢に集中しています。

代表的なのは何といっても、さんちで以前に紹介した加賀八幡起上りでしょう。元々は八幡様の祭神である応神天皇の御幼体を赤い綿布で包んだ形を作ったのが始まりとされ、七転び八起きの縁起ものとして金沢の人たちに愛されてきました。その他にも、加賀獅子頭、お面、張子、もちつき兎や米食いねずみのからくり人形などがあります。

昔は何人かの作り手がいましたが、現在は一軒の工房が製造・販売しているのみです。それが、今回訪れる「中島めんや」です。

きっかけは村芝居の「お面」づくり

中島めんやの創業は文久3年 (1862年) の江戸末期。初代の中島清助氏が村芝居のお面や小道具をつくっていたことから、「めんや」という屋号で商売を始めたそうです。お面だけでなく玩具や人形も作っていました。

現在の「中島めんや」の店構え
店内に飾られた創業当時に製作されたお面

そして、現在の尾張町に移ってきたのが明治初期、四代目の頃。上質の二俣和紙を手に入れるため、当時の中心街に。ほかの職人とともに近代的加賀人形の基礎を築いたといわれます。

今回お話を伺ったのは、七代目の中島祥博さん。

中島めんや7代目中島祥博社長

現在は人形や郷土玩具の製作を、中島さんと娘さん、そして専属の職人の自宅や工房でされているそう。

「最盛期だった30年前の生産規模と比べると、今は10分の1程度。そんな中でも、昔ながらの技法を生かして手作りにこだわり、若い人達にも喜んでもらえる商品作りにも取り組むようにしています」

地場産業×海外文化で生まれた木製カラクリ玩具

金沢でカラクリ玩具が作られるようになったのは、加賀藩主が十三代前田斉泰になった天保元年 (1830年) 頃。当時、海外から日本に入って流行したカラクリ人形の影響を受け、藩内に仕える足軽などの下級武士が内職として木製玩具をつくり始めました。

その時に誕生したのが、もちつき兎や米食いねずみなどの木製カラクリ玩具。他の地域にも木製玩具はありますが、材料に桐を使うところに金沢特有の理由があったようです。

金沢は元々桐製品の産地であり、家具や火鉢、花活けなどが作られていました。木製玩具に利用されたのはおそらく、その余材だったと考えられます。現在でも材料には桐材が使われているそうです。

職人が桐のお椀を削る作業中でした

当時、戦国時代が終わり人々が生活を楽しんでいたとはいえ、長引く経済不況の最中でした。木製玩具の細工からは、貧しくも生活に楽しみを見出そうとする足軽職人の創意、工夫が感じられます。

久保市さん (久保市乙剣宮 くぼいちおとつるぎぐう) の境内で、おばあさんが売っていたという記録もあり、金沢ではお宮さんの祭りやお正月の縁起物として、売られていたそうです。からくりを楽しむ子どもたちの遊び心や好奇心を満たしてくれたことでしょう。

もちつき兎のつくり方

今回の目的はうさぎということで、もちつき兎の作り方を中島さんに教えて頂きました。

まず、材料となる木材 (ほとんどが桐、耳は竹) を適当な大きさに切り出し、ノミ・キリなどで細かく削って各パーツの形をつくります。腰巻きの布も適当な大きさに切り揃えます。そして、胴体・耳を水性絵の具で着色。最後に、接着剤ですべてのパーツを接合し、操り紐を通して完成です。

ノミで桐を削ってパーツをつくる
着色されて接合する準備が整ったパーツたち
タコ糸をひいて正しく動作することを確認したら完成

内職をベースとしているため、前回のずぼんぼと同じくシンプルな作りになっています。

「身近な材料と道具しか使っていないから、やり方を教えれば誰でもつくれる。ただし、カラクリがきちんと動作するように調整するのがポイント」と中島さんが話すもちつき兎は、赤い腰布をまとったうさぎが両手に持った杵で餅をつくカラクリが特徴。

木の台には臼があり、土台の下の糸をひくと、兎が杵を振り上げ、離すと振り下ろす。ただそれだけの仕掛けなのですが、その動きがなんとも滑稽で憎めない。トリコロールの色合いや、完成度のゆるさも、いい塩梅。昔の写真を見ると、顔が平たく削られていた時代もあったようです。

うさぎの腰巻きはカラクリを隠す機能も果たしているように思われますが、ワイズベッカーさんは「腰巻きがない方がカラクリのメカニズムが見えるし、全部木でできていることになる。より本質的になるのでは」と独自の見解をお持ちで、腰巻きのないうさぎとしばし見比べ合い。

もちつき兎の腰巻き有り (左)と腰巻きなし (右)

どうですか?腰巻きを外しても意外と違和感なく、素朴さやカラクリ人形らしさが増した気がしませんか。

ワイズベッカーさんと交わす議論には、こういった気づきや示唆が節々にありましたので、時折ご紹介していきますね。

おとぎの世界へと誘い込まれるおもちゃ

もちつき兎は、前回のずぼんぼと同じく遊びに主眼が置かれたカラクリ玩具です。そのため、縁起の由来は薄いと考えられますが、うさぎの餅つきといえばお月見。古来より、日本において満月は幸運の象徴であり、円満な人間関係を表すともいわれます。

これは想像ですが、もちつき兎の見た目の素朴さ、その動きの巧妙さ、面白さは、手に取る子どもたちをおとぎの世界に誘い入れて、ロマンチックな想像とともに楽しませてくれていたのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第4回は石川・金沢のもちつき兎の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第5回「岡山・竹細工の龍」に続く。

<取材協力>
中島めんや本店
石川県金沢市尾張町2-3-12
営業時間 9:00~18:00 (火曜定休)
電話 076-232-1818

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」1月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

第3回 浅草「助六」江戸趣味小玩具のずぼんぼの寅を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載3回目は寅年にちなんで「ずぼんぼの寅」を求め、東京都・浅草にある助六を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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遠くに見えるスカイツリー

浅草で地下鉄を降りる。私が選んだ虎に会いに行くのだ。

駐車用コーン

虎はいったいどこに隠れているのだろう。青い尻尾を持っているのかな?

大きな草履の飾り物

ひょっとしたら、忍び足で歩くために草履を履くのかも?

意地悪なのかも?寺の番人まで驚かせてしまったのか?

いずれにせよ、ここまで紐をひっぱるとは、なんと強い奴なんだろう!

いや違った!とても可愛い小さな紙の寅は、仲見世にある、商品で満ちあふれた小さなお店、木村さんの経営する助六で見つかった。

紙、のり、そして立つための4つのシジミ貝でできている。なんと素晴らしいシンプリシティ!

パラシュートのようなお腹と足につけた4つのシジミ貝のおかげで、いつも足を下に着陸する。すごい!

店を出たら、あちこちに奴が見えるようになった‥‥。これは地下鉄の通路。

そして路上にも。いつまで追いかけてくるんだろう?!

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏
写真:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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贅沢禁止令から生まれた、江戸の豆おもちゃ

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、江戸のおもちゃの成り立ちやワイズベッカーさんと共に訪ねた助六のこと、ずぼんぼ製作の裏側などを、解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

「江戸趣味小玩具」という言葉をご存知でしょうか?

江戸趣味小玩具とは、江戸時代より浅草に伝承されている精巧な細工を施したこぶりなおもちゃ。「豆おもちゃ」と呼ばれます。誕生のきっかけは、八代将軍吉宗が出した「奢侈禁止令」といわれる贅沢禁止令でした。

この法令により、裕福な町人が楽しんでいた大型の玩具や豪華な細工の施されたおもちゃはご法度に。

その代わり、江戸時代の人はできるだけ小さなサイズの玩具に精巧な細工を施したり、言葉遊びを取り込んだ江戸趣味の小玩具を作り、こっそり楽しむようになったそうです。

貧しくとも心豊かに暮らそうという江戸っ子らしさだったのかもしれませんね。

そんな江戸趣味小玩具を現在でも扱う店は、全国で浅草に1軒のみ。仲見世宝蔵門前の「助六」が今回の目的地です。

浅草寺の雷門をくぐった先にある、日本で最も古い商店街の一つ「仲見世」

浅草寺の境内には、昔から数々の郷土玩具があったようですが、震災や戦争による焼土、戦後のめまぐるしい変化を経て廃絶した品も多くある中で、助六では今もなお力強く残っているものや、復活したものなどを見ることができます。

日本で唯一の江戸趣味小玩具の店

助六は江戸末期創業。今から約150年前の1860年代、初代木村八十八氏が浅草寺宝蔵門前の現在の地に玩具店を出したのが始まりだそうです。現在は5代目の木村吉隆さんと6代目の息子さんを中心に、家族5人でお店を経営されています。

豆玩具を見つめるお客さんで賑わう助六
5代目店主の木村吉隆さん

まず圧倒されるのは、9平米しかないという店内にびっしりと並んだ豆玩具の数。伺うと、現在約3500種類が揃っていて、戦前は加えて全国の玩具も扱っていたそうです。

これらは全て助六のオリジナルで、それぞれ担当の職人がつくっています。40年前に5代目が店を継いだ時、玩具をつくる職人は約50名いたそうですが、高齢化や後継者不足で減り、現在は23名の手で作られています。

シジミの蹄をおもりにゆらり、ゆらり

今回のお目当てであるずぼんぼは、紙製の江戸玩具の一つ。江戸時代から浅草寺門前で売られていたことが、江戸・明治期の書物に記録されています。

明治に入って以降、何度か廃絶と復活が繰り返されたようですが、昭和期に再度復活してからは東京の郷土玩具として残り続けています。現在、助六では「獅子舞」と「虎」の2種類が並びます。

全国に紙製の郷土玩具は数多くありますが、それらは前回紹介した赤べこと同じ張子製がほとんどであり、ずぼんぼのように紙を折って作る玩具は、珍しいものです。

今回は特別に、ずぼんぼを作られている職人の森川さんに、製作工程を見せていただきました。

現在ずぼんぼを作られている森川さん

まずは黒い模様を印刷した黄色の色紙を切り取り、長方形の箱型に組み立てて糊付けし、「胴体」をつくります。

次に、「足」を取りつけるため、蹄に見立てたシジミ付きの赤い色紙を、胴体の四隅に糊付けします。

そして、模様が描かれた黄色い色紙で頭部と尾をつくり、胴体に糊付けして完成です。

切り取られた胴体のパーツ
組み立てた胴体 (奥) とシジミに赤紙を付けた足のパーツ (手前)
胴体の四隅に足を貼り付ける
顔と尾を貼り付けてずぼんぼの虎が完成

シジミ貝を蹄に見立てた足がなんとも特徴的です。「以前は、隅田川沿いにある浅草でもシジミが捕れたため材料に使用したのではないか」と森川さん。

遊び方は、ずぼんぼを屏風や部屋の角など衝立となるものの前に置き、団扇であおぐことで、胴体の箱に風が入ってふわりと宙に浮きます。4本の足につけられたシジミ貝が錘の役割を果たし、飛び上がってしまうことなく空中で微妙に揺れ動くのです。

また、ずぼんぼとは、獅子舞の囃子言葉からきたもので、明治期の書物によると、これを見ている周囲の人たちは「ずぼんぼ ずぼんぼ」と手拍子を打って囃したそうです。

飾り気はなく、風の流れを目に見える形で楽しませる。この単純ながら優れた玩具は、宴席の余興として、粋な江戸っ子に愛されたことでしょう。

勇敢な動物だけがずぼんぼになれる?

「ずぼんぼ」の由来は、獅子舞のときの囃子詞だと言われています。今回取り上げたのは虎ですが、江戸時代の文献には虎の存在は確認できないため、当初のずぼんぼは獅子の形をしたものの一種ではなかったかと考えられます。

このことからも、獅子舞の際の囃子詞を玩具の名前に用いたといってよさそうです。

「ずぼんぼ」の言葉の意味は、木村さんの推測では「すっぽんのことだったのではないか」とのことですが、残念ながら判然とした答えがありません。(ご存じの方がいらしたら、ぜひ教えてください!)。

いずれにせよ、獅子や虎などの勇敢で強い動物をモチーフにしたずぼんぼは、「江戸のおもちゃは子どもの健康を願ってつくられた」という木村さんの言うとおり、どんな苦難にも負けずたくましく成長してほしいという子どもへの願いが込められたものだったのかもしれません。

次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第3回は東京・ずぼんぼの虎の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第4回「石川・金沢のもちつき兎」に続く。

<取材協力>
助六
東京都台東区浅草2-3-1
営業時間 10:00~18:00 (定休日なし)
電話 03-3844-0577

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

芸術新潮」12月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

福島の郷土玩具 「野沢民芸」会津張子の赤べこを訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介していただきます。

連載2回目は丑年にちなんで「会津張子の赤べこ」を求め、福島県西会津町にある「野沢民芸」の工房と店舗を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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小さい牛に会うために、郡山駅で電車を乗り換えた。駅のあらゆる壁面に牛がいる。この地方でとても人気があるのを知って安心した。

会津若松駅に到着。私たちを待ってくれていた。

お利口だ!ボタンを押すと、頭まで下げてくれるのだ。駅の出口にて。

本当にどこにでもいる。たとえば、道の駅のパーキングの入り口にも。

はたまた、小売店の前でガーデニングをしたり。

そして、もちろん円蔵寺にも。先祖の牛の横に赤毛の牛がいる。

小さな牛はピノキオのように、職人の巧みで器用な手から生まれてくる。

現代アートに見えてくる。これは、紙のペーストで小さな体をつくるのに必要な型の外側。

太陽の光を避ける日本人のように、日陰で、仲間と一緒に乾かされる。

専門家の手によって、はじめの身だしなみをしてもらう。余分な部分を切り落とし、研磨してもらうのだ。

仲間と一緒に、赤くて美しい衣装を纏うのを、楽しみに待っている。

しかしその前に、下塗りは不可欠だ。

頭と全身が揃った。藁の束に刺され、キャンディのように仕上げを待っている。

色々な入れ墨を描く前に、全身を赤くする。勇敢な祖先の毛並みの色だ。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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進化を遂げた会津の「赤べこ」づくりの裏側を追ってみる。

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、ワイズベッカーさんと共に訪ねた野沢民芸や会津張子の歴史、そして進化を遂げた赤べこづくりの裏側について、解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

郷土玩具は主に江戸時代以降に寺社の授与品やお土産、節句のお祝いとして誕生しました。

自然や動物などの形には子どもの成長や商売繁盛、五穀豊穣などを願う当時の人たちの想いが託されています。作られた地域や時代、職人によるわずかな違いも味であり魅力の一つでしょう。

今回訪れたのは、東北地方の中でも「郷土玩具の宝庫」といわれる福島県。

郡山駅で新幹線を降り、磐梯山や猪苗代湖を眺めながらJR磐越西線で向かったのは、会津若松です。「会津張子」が伝わる街で、最も有名なのが赤べこ。

ワイズベッカーさんの写真の通り、赤べこのオブジェやイラストが目に入らない場所はないのではと思うほど、会津地方のアイコンとして愛されています。

赤べこの歴史と伝説

東北最古といわれるほどに会津張子の歴史は古く、400年前の安土桃山時代まで遡ります。
豊臣秀吉に仕えていた蒲生氏郷 (がもう・うじさと) が会津の領主として国替を命じられた際、下級武士たちの糧になるようにと京都から人形師を招き、その技術を習得させたのが会津張子の始まりとされます。

昔は張子づくりに反古紙 (書き損じなどで使えない紙) を利用したため、会津のようにそれが大量に発生した城下町でつくられることが多かったそうです。

会津若松から車で30分ほどのところにある日本三大虚空蔵尊の一つ、圓藏寺。

圓藏寺のなで牛
赤べこ
なで牛の隣には立派な赤べこが (ちゃんと首も揺れます)

約1200年前に建創されたこのお寺が、赤べこ伝説の発祥の地といわれています。

その伝説は、こんなふう。今から400年ほど前の大地震がきっかけで、現在の巌上に本堂を再建することになりました。その際、再建に使う資材を岩の上に運ぶのに困り果てていたところ、どこからともなく現れたのが赤毛の牛の群れ。

赤毛の群れは運搬に苦労していた黒毛の牛たちを助けるも、本堂が完成する前になぜかぱったりと姿を消したといいます。

以来、一生懸命に手伝った赤毛の牛を、会津地方の方言で「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さの象徴、さらには福を運ぶ赤べことして多くの人々に親しまれるようになりました。

会津張子の赤べこも、この伝説にあやかった玩具として生まれたと考えられています。

市場シェア7割の赤べこの産地

赤べこをつくる会津張子の工房は50年前には30軒ほどありましたが、現在は作り手の高齢化が進み、片手で数えるほどになっているそうです。

その中でも、伝統的な型と手法でつくっている作り手の方とは対照的に、技術革新を進め、張子の大量生産を実現したのが野沢民芸。赤べこの市場シェアを尋ねると、なんと約7割が野沢民芸製なのだそうです。

創業者である伊藤豊さんは、学校卒業後こけし職人を志し、こけし製作に7年間携わり、より自由度の高い表現ができる張子の魅力に惹かれ、昭和37年に創業地の名を冠した「野沢民芸」を設立。

従業員が最も多い時期は60~70名ほどいたそうですが、今では絵付担当が約10人、内職を含む組立て担当が約15人、成形担当が2人とほかをあわせて約40人。82歳になる伊藤さんは成形をされ、娘さんおふたりも、それぞれ絵付と広報・事務を担当されています。

創業者の伊藤豊さん (右) と娘さんで絵付師の早川美奈子さん (左)

変わり続けることで会津張子の伝統をつなぐ

創業当初、野沢民芸では、木型を用いた伝統的な張子づくりの手法を用いていました。まず木型に濡らした紙を張り重ねていき、乾燥したら切れ目を入れて木型を取り出す。

そして、切れ目を紙でつなぎ合わせた後、胡粉を塗ってから絵付けをして完成。

しかし、この方法で製造効率を上げるようとすると、木型の数とそれを使って成形する内職さんの数を増やすしかありません。木型に切れ目を入れるため、傷んだ型の交換もしばしば発生します。

また、経営的にも工場のある野沢での直売だけでは売上に限界があったことから、会津若松のような観光地の土産もの屋で販売を拡大する戦略に切り替えたそうです。

そうなると、採算をとるために本格的な量産体制を整える必要があります。そこで、約40年前に伊藤さんが開発したのが、「真空成形法」といわれる張子の製法です。

真空成形法の装置。水槽には原料となる再生紙の溶液が入っている
真空成形後の型枠。溶液に溶けた再生紙の繊維が型枠に張り付き、成形されている
左から伝統的な木型、真空成形法に用いる金型、金型で成形された張子

真空成形法では、再生紙を水と混合した溶液を原料とします。溶液を貯めた水槽に型枠を沈め、ホースで一気に型枠の内水を抜いて真空にすることで、水に溶けた再生紙の繊維が型枠の内側に張り付き成形されるという製法です。

これを思いついたきっかけは、和紙の紙漉き製法からなのだといいます。紙漉きの場合は簀桁を用いて重力で繊維を重ねていきますが、真空成形法では金網を張った金型を用いて強制的に吸引することで繊維を重ねているわけです。

原理を聞くと簡単なようですが、これを思いつき形にする伊藤さんはまさに発明家。木型でつくると一日7体しかつくれなかった張子が、真空成形法だと一日500体もつくれます。

一方で、成形後の工程は、昔とまったく変わらないまま。乾燥したら余分な部分を削り、糊づけ・下塗り・上塗り・絵付けを経て、最後に首を取り付けて完成です。

針と糸で赤べこの首を縫い付ける

「首の角度や揺れ方をみながらバランスをとるのが難しい」と言いながら、目の前でなんなく首を縫い付けていかれる職人さんの手際の良さ。

赤べこの最大の特徴、ゆらゆらと首を振るユーモラスな動きはこうした手仕事により生まれているわけです。

真空成形法による張子生地の量産化は、郷土玩具界の産業革命であったと思います。現在の年間生産数は約15万体、赤べこのみでも約5万体にのぼるそう。

そして、昨年購入した3Dプリンタを使って新たな原形づくりに取り組まれるなど、今もとどまることなく、進歩し続けようとする伊藤さん。

木型を使ってつくられた伝統的な張子は言うまでもなく味があって良いものですが、後継者不足という会津張子の現状に対して伊藤さんが選んだ道は、変わり続けることで会社を未来へと繋げることでした。

赤べこのつくり手としては後発であった野沢民芸が、市場シェア7割を獲得した理由がここにあるような気がします。

赤べこが首を振っているのはクサを食べている様子?

愛らしい表情を浮かべ、ゆらゆらと首を振る会津張子の赤べこですが、昔のものを見てみると、今とはちょっと違った雰囲気であったことがわかります。

戦前は引いて遊べるような台車がついたもの、戦後には千両箱や打ち出の小槌を背負ったものなど、変わった赤べこがつくられていたそうです。

400年の伝統がある会津張子ですが、時代や作者によって創作や変化が加えられていることは、郷土玩具では珍しいことではありません。

昔からの思想や歴史を受け継ぎつつも、時代に合わせて柔軟にアップデートしていくというものづくりのセオリーが、彼らには息づいていたのかもしれません。

上が昭和初期~30年代の赤べこ、下が昭和30年~40年代の赤べこ(日本玩具博物館蔵)

そしてこの赤べこ、何とも鮮やかな真っ赤。あれっと思った方もいたのではないでしょうか。伝説にあった「赤牛」からイメージする牛の色は、実際には茶色に近いでしょう。

単にデフォルメしたと捉えることもできますが、これには理由があると考えられます。

達磨や鯛、獅子などの赤色を基調に彩色されている人形は、「赤もの」と呼ばれます。その昔、赤ものは疱瘡(天然痘) など悪性の疫病除けのまじないや子育ての縁起物とされていました。

病気を引き起こす疱瘡神 (ほうそうがみ) が赤を好むとされたことから、赤で神をもてなし、病を軽く済ませてもらうためです。また、高熱の後、全身に広がる発疹を「クサ」と言うことから、草をはむ牛ならば、天然痘のクサも食べてくれると、赤べこは子どもの守り神としても慕われていました。 (うまいですね!)

風土に合わせた形や素材で作られ、さまざまな祈りが捧げられてきた郷土玩具。色や名前にも、人々の想いが託されているものです。

次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第2回は福島・会津張子の赤べこの工房を訪ねました。それではまた来月。

第3回「東京・江戸趣味小玩具のずぼんぼの寅」に続く。

<取材協力>
野沢民芸
福島県耶麻郡西会津町野沢上原下乙2704-2
電話 0241-45-3129

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

芸術新潮」11月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。