モダンな一面を持つ守り神、熊本の「木の葉猿」を訪ねて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載9回目は申年にちなんで「木の葉猿」を求め、熊本県玉名郡の木の葉猿窯元を訪ねました。

ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

木葉の山生まれ、異国情緒漂う赤土の猿

熊本県の荒尾・玉名地域は県内最大の窯元の集積地。
江戸初期、肥後藩主となった細川忠利の主導でこの地に“小代焼”が生まれました。

小代焼はスリップウェアに代表される装飾性と実用性を兼ね揃えた日用の器。
その流れをくむ窯元が大半である中、群を抜いて歴史が古い素焼きの土人形を作っているのが「木の葉猿窯元」です。

熊本県玉名郡の木の葉猿窯元
木の葉猿窯元

木の葉猿の起源は遡ること1300年以上前、奈良時代初期の養老7年元旦に木の葉の里に貧しい暮らしをしていた都の落人が夢枕に立った年老いた男のお告げによって奈良の春日大明神を祀り、木葉山の赤土で祭器を作った。残った土を捨てたところ、それが猿になり「木葉の土でましろ(猿)を作れば幸いあらん」と言い残して姿を消したため、落人たちは赤土で祭器と共に猿を作り神に供えたところ、天変地異の災害があっても無事であった、と言い伝えられます。

以来、悪病、災難除け、夫婦和合、子孫繁栄の守り神とされるようになったそうです。

春日大明神が祀られた宇都宮神社
春日大明神が祀られた宇都宮神社
種々の木の葉猿
種々の木の葉猿

「日本的ではない気がする。アフリカっぽい。」

ワイズベッカーさんがそう言うように起源は諸説あり、南方やインド、中国を起源とする説や明日香村の猿石やモアイを原型とする説などもあるそうです。

江戸時代、木の葉の里が薩摩藩の参勤交代の道中だったこともあり、土産品として全国へ広まり、小説「南総里見八犬伝」の挿絵にも描かれていました。
大正5年の全国土俗玩具番付では、東の横綱に選ばれるほど有名な存在だったようです。

大正5年発行「全国土俗玩具番付」
大正5年発行「全国土俗玩具番付」

現存する唯一の窯元で、受け継がれる意志

「木の葉猿窯元」は、木の葉猿を作る窯元で唯一現存している窯元。

春日大明神を祀ったとされる「宇都宮神社」の参道を下った、ほど近いところにあります。
現在は、中興7代目の永田禮三さん、奥さん、娘さんの家族3人で営んでおられます。

木の葉猿窯元の8代目川俣早絵さん、7代目永田禮三さん、英津子さん
左から8代目川俣早絵さん、7代目永田禮三さん、英津子さん

「終戦後の6代目の頃は、焙烙、七輪、火消し壺などの日用品を作っていました。木の葉猿は僅かしか売れていなかったけれども継続はしていました。」

意外にも、木の葉猿に再び注目が集まるようになったのは近年のことだといいます。
昭和50年に熊本県伝統工芸品に指定、今では年間1万5千~2万個を作られているとのこと。

県内の伝統工芸館、物産館、東京の民芸店などに卸しており、最近は若いお客さんも多くなったといいます。

「小学生の頃から早く両親を楽にさせたいと言ってました。」

そんな親思いの三女・川俣早絵さんは、芸術短期大学で陶芸を専攻して、実家に戻り父に師事。7代目と共に木の葉猿の成形を担当しながら、8代目を継ぐ準備をされています。

習字の経験があり筆が早いという母・英津子さんは着彩を担当。親子3人の共同作業でつくられています。

木の葉猿は、指先だけで粘土をひねって作ったものを素焼したままの素朴な玩具。
形と謂れの違いで10種類ほど、大小合せると20種類以上。

食いっぱぐれないようにおにぎりを持っている「飯食い猿」や、赤ちゃんの象徴を抱いている「子抱き猿」、団子に似ている「団子猿」など。永田さん親子にその作り方を教えて頂きました。

①土練
まずは土を均一にするために、土練機を使って土練り。
土は地元の粘土を使い、素朴な風合いを出すために荒削りなものを選んでいるとのこと。

木の葉猿の材料になる赤土の粘土
材料になる赤土の粘土
土練機
土練機

②成形
粘土を指でひねって形をつくり、ヘラで細部を削る。そして1週間以上乾燥。
ヘラなどの道具は自身で竹を削って作られるそう。

木の葉猿窯元 製作風景
ヘラを使って整形の仕上げ
木の葉猿窯元 製作風景
粘土の乾燥

③焼成
乾燥した人形を300~500体まとめて月に一回程度、1日がかりで素焼き。
その後、いぶし焼きをして表面を黒っぽく仕上げ。

木の葉猿窯元 製作風景
いぶし焼きが終わると表面が黒っぽくなる

④絵付け
素焼きが完了した人形に、絵付けをして仕上げ。
以前は泥絵の具を使用していたが、現在は水溶性の絵の具を使用。

絵付けをした飯喰い猿
絵付けをした飯喰い猿

模様は昔から変わっておらず、白を基調に群青色と紅の斑点をつけるのが基本。
その意味は正確にはわかっていないそうですが、青と赤と白の彩色は「魔除け」を表しているのではないかと言われています。

種類によって魔除けや祈り、願いが込められた木の葉猿は、玩具というよりも御守り的な存在だったのではないでしょうか。

「木の葉猿をプレゼントした9割の夫婦が子宝に恵まれている」というお客さんがいるくらいなので、結婚祝いに添えてあげるのも良いかもしれませんね。

モダンなオブジェとしての意外な一面

永田さんにお話を聞いていて驚いたのが、カリフォルニアのイームズハウスにも木の葉猿が飾られているということ。

写真が載っている雑誌を見せてもらいましたが、確かに、本棚の和洋折衷なオブジェと一緒に木の葉猿が並んでいました。

イームズ夫妻が自身で持ち帰ったのか、プレゼントだったのかは定かでありませんが、アメリカのミッドセンチュリーモダンと日本の郷土玩具の接点が、まさかこんなところにあるとはという感じです。

土偶や埴輪のように原始的で、どこかユーモラスな木の葉猿が、モダンなオブジェとしての魅力も持っているという新たな側面。
日本の郷土玩具の意外な一面が垣間見れましたね。

さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第9回は熊本・木の葉猿の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第10回「宮城・独楽玩具の酉」に続く。

<取材協力>
木の葉猿窯元
熊本県玉名郡玉東町木葉60
営業時間 8:00-19:00
電話 0968-85-2052

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」6月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

フィリップ・ワイズベッカーが旅する ミステリアスな熊本の「木の葉猿」を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載9回目は申年にちなんで「木の葉猿(このはざる)」を求め、熊本にある「木の葉猿窯元」を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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熊本の木葉猿窯元

これが、熊本の小さな猿の先祖だ。

奈良から来たものだと言う人もいるが、それは奈良にあった岩の形に似ているからだという。しかし起源はもっと昔、太平洋のどこかから来たと言う人もいる。

ミステリーだ。今回の旅で出会った中でも、格別に奇妙で驚かされる郷土玩具だ。

熊本の木葉猿窯元

ここから訪問がはじまる!

熊本の木葉猿窯元

この紙垂(しで)を通り抜けたら、ほかの普遍の世界に行けるような気がする。早く入りたい。

熊本の木葉猿窯元

門を抜けたら期待どおりだった。これほど素晴らしいコンポジションを、いったい誰がつくれるだろう?むろんそれは偶然だけだ!

フォルム、マチエール、そして色彩が、時間とともに、見境なしに集積してきたのだろう。

熊本の木葉猿窯元

これも幸せな偶然なのだろう。幻のような不思議で小さな生きものに混じって、死んでしまった古い電球が、錆びたテーブルの上に横たわっている。

熊本の木葉猿窯元

他所で出会った職人とは違い、ここでは型を使わない。手でひとつずつ、形をつくるのだ。

同じものは2つとないし、それは見ているとわかる。

熊本の木葉猿窯元

この、どこから来たのかわからない仮面に、どんな眼差しが隠されているのか?私は知りたい。

熊本の木葉猿窯元

空に向かって、いったい何を見ているのだろう。私には見えないが。

熊本の木葉猿窯元

見ざる、言わざる、聞かざる。多くの謎がこの不思議な猿たちに宿っている。

熊本の木葉猿窯元

物陰の敷物だけに耳を貸し、わずかな物音にも耳を澄ましている。

熊本の木葉猿窯元

物陰から出てきたら、人類のたてるゴチャゴチャを見ず、聞かない。

熊本の木葉猿窯元

猿の国の奇妙な旅は終わろうとしている。最後の幸福なお祈りの後、私の属する世界に戻る。そこは、意味のないことをしゃべり、しっかり見つめることのないものが目に映り、都合のいいことだけを聞く世界なのだ。

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

愛らしさに思わず見とれる「首振り仙台張子」のひつじを求めて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載8回目は未年にちなんで「首振り仙台張子の羊」を求め、宮城県仙台市のたかはしはしめ工房を訪ねました。

ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

伝統的な仙台張子と十二支の首振り張子

伊達政宗の築いた青葉城のお膝元として栄えた杜の都、仙台。

今回のルーツとなる「仙台張子」は、天保年間(1830~1844年)、伊達藩士の松川豊之進が創始したと伝えられています。庶民の心の拠り所になるようにという願いを込め、下級武士の手内職で作られていましたが、明治以後一部を除いて廃絶。しかし、1921年に復活され、1985年には宮城県の伝統的工芸品にも指定され、現在に至ります。

仙台張子の中でも代表的なのが「松川だるま」。眉は本毛、目にはガラス玉、腹部には福の神や宝船などを描いた豪華な仕立ての青いだるまで、昔から正月の縁起物として人気がありました。

そんな伝統的な仙台張子の作り方を学び、小さな十二支の首振り張子を創作して作り継いでいるのが、今回訪れる「たかはしはしめ工房」。

手のひらに収まるサイズにも関わらず、愛くるしく首を振る張子が、仙台の新しいお土産や贈り物として今や県内外から親しまれる郷土玩具となっています。

たかはしはしめ工房作・十二支の首振り張子
たかはしはしめ工房作・十二支の首振り張子

こけし作家が創り出した十二支の張子人形

先代のたかはしはしめ氏は、戦前に東京で手描友禅の染色を経て、地元の宮城県白石市に戻りこけしの描彩をした後、1953(昭和28)年に「たかはしはしめ工房」を設立。

手作りの創作こけし作家として活躍する傍ら、同業者に仕事を依頼されることも多かったそうで、その経験を活かし、1960(昭和35)年に新しいお土産品を発表します。それが、松川だるまの彩色と堤人形の型抜きのノウハウを融合させて作った、オリジナルの俵牛(現在の干支の丑)の張子でした。

「先代は主婦の仕事をつくるためにと、多い時で10人の内職を雇っていました。そして、1980(昭和55)年にはお客さんからの要望と内職の仕事をきらさないようにという理由で、干支作りも始めたのです。一周目は干支をつくれない年もありましたが、二周目で十二支すべてが揃いました。」

派手な彩色や装飾が多い従来の仙台張子とは異なり、和紙をちぎり絵のように貼っただけの素朴な質感と首のゆれ方がなんとも愛らしい首振り張子は、こうして誕生したました。そして、現在は息子さんで2代目の敏倫さん夫婦が引き継がれています。

たかはしはしめ工房2代目の髙橋敏倫さんと奥さん
たかはしはしめ工房2代目の髙橋敏倫さんと奥さん

首振り張子ができるまで

1)バリ取り
再生紙を整形してつくった原型をグラインダーにかけ、継ぎ目のバリを取り除きます。集塵機は敏倫さん自ら掃除機を改造してつくったお手製なのだそう。

たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
削り取ったバリは掃除機を改造した集塵機で吸い取られます

2)上張り
頭と胴体、それぞれに小さくちぎった和紙を張り付け、乾燥させます。乾燥したら頭に角をつけます。角は針金と紙紐、和紙は粕紙を使用。色付きの和紙は良さを活かすために、一枚一枚染め、色止めをし、ちぎり絵のように丁寧に貼ります。

たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
小さくちぎられた粕紙
たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
粕紙をちぎり絵のように糊付けしていきます
たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
糊が乾くまで乾燥
たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
針金に紙紐を巻いて角をつくります
たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
糊が乾燥したら頭に角をつけます

3)おもり
ひつじの大きさに合わせて、土粘土でおもりを作ります。

4)組み立て
頭に糸を通し、おもりを付けバランスをとります。おもりを付けた部分が見えなくなるように紙で包み込み、頭がきれいに振れる様に頭と胴体を取り付けます。特に、辰・巳・酉は首の振り子調整が難しいのだそう。

たかはしはしめ工房、仙台張子の製作風景
頭と胴体を取り付け、頭がきれいに揺れるかをチェック

5)絵付け
目を描いたら、完成です。

たかはしはしめ工房、仙台張子の羊、完成形
完成した首振り張子の羊

紙貼りを一部内職に頼んでいる以外は、染め・彩色を敏倫さんが担当、その他を夫婦2人で分担しています。

伝統的な仙台張子の作り方と比べると、原型作りが効率的な方法に変わったりもしていますが、逆に和紙の染色や上張り、首振りの調整には手間を惜しまず、ひとつひとつを大事に作り上げられています。年間生産量は十二支全部で約1万個。

「お客さんから修理依頼があれば対応できるようにと、古い和紙の端紙もとっておいてあります。」というのを聞いた時は、その心配りに敬服でした。

仙台・たかはしはしめ工房で以前原型製作に使われていた木型と石膏型
以前原型製作に使われていた木型と石膏型

そんな首振り仙台張子は、頭をちょこんと押すと、ゆらりゆらりと愛らしく頭を動かします。
ちょっとしたプチギフトや新年の縁起物などに、ぜひ。

さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第8回は宮城・首振り仙台張子の羊の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第9回「熊本・木の葉猿」に続く。

<取材協力>
たかはしはしめ工房
仙台市青葉区中江2-8-5
電話 022-222-8606

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」5月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

宮城「首振り仙台張子」のひつじを求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載8回目は未年にちなんで「首振り仙台張子」を求め、宮城県仙台市にある「高橋はしめ工房」を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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宮城県仙台の風景

仙台。朝の7時。ホテルの部屋の窓から。これから次の十二支の動物に会いに行く。

未(羊)

小さな愛らしい未!インターネットではじめて見たときすぐに惹かれてしまった。

干支の動物の木彫り人形

お盆の上に、仲間と一緒に乗っている。こうしてみると、美味しいお菓子のようで、食べたくなってしまう!

制作工程

生まれてくるときは、コロコロした小さな胴体だ。

道具

メス、ピンセット、ハサミ‥‥。手術室で、彼らを形づくるために必要なものだ。

制作工程

さて。辛抱強く、何を待っているのだろう?

制作工程

むろん、頭だ。

制作工程

‥‥そして角!

制作工程

とても可愛らしい。でも、お友達だったクジラが、愛好者が少ないという理由でつくられなくなったことを、ちょっと悲しんでいるのかもしれない。

話はそれるが、この小さな台、大好きだ。

掃除機の管を利用した、吸引のシステム。素晴らしい!

11時50分。取材は終わり、そろそろお腹もすいてきた。

近所に安くて感じのいい食堂があった。

食べ物は美味しく、その上、罫線好きの私にぴったりの場所だった!!

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

バーナード・リーチが愛した、大分県「北山田のきじ車」を求めて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載7回目は午年にちなんで「北山田のきじ車」を求め、大分県玖珠郡にある大野原きじ車保存会を訪ねました。

東北のこけし、九州のきじ車

「木製の郷土玩具」といえば多くの人が東北のこけしを思い浮かべることと思いますが、それと全く対照的にあり意外と知られていないのが、九州のきじ車(馬)。

きじ車とは、木で作った胴体に車輪を付けて転がせるようにした玩具のこと。こけしが東北各地にあるのと同じように、実は九州各地にも色々なきじ車があります。

全盛期は15以上の地域で作られ、その種類は1.清水系 2.北山田系 3.人吉系の3系統に分類されるそうです。北山田のきじ車は、その中でも彩色がなく馬らしい素朴な形が特徴です。

九州各地のきじ車
九州各地のきじ車たち、奥の無彩色のものが北山田のきじ車

大分の山間部に息づくきじ車の里

江戸時代末期頃に、子どもの遊具として考案された北山田のきじ車。

地元の庄屋さんに子どもが生まれたお祝いに、村人の上野氏が、子供がまたがって押したり引いたりして遊ぶ車輪付きの木馬のような玩具を贈ったところ大変好まれたことから、以来この地域で子どもの玩具として作り伝えられるようになったといわれます。

戦後一時姿を消しつつありましたが、上野寛悟氏が作り続け、地元の大工であった中村利市氏により継承されました。

きじ車を製作する中村利市氏の写真
きじ車を製作する故・中村利市氏

バーナード・リーチが大分県の小鹿田に滞在した1954年(昭和29年)、北山田のきじ車の素朴な造形美がリーチの目にも留まり、小鹿田焼とともに高く評価され、全国に知られる存在に。ところが、利市さんが亡くなった後、製作が一旦途絶えてしまいます。

そこで立ち上がったのが、高倉三蔵さん。

地元の伝統ある郷土玩具を後世に伝えるため、1990年(平成2年)、地区の有志で大野原きじ車保存会を設立し、上野さんの親族から教わりながら、昔の形そのままのきじ車製作を始め、北山田のきじ車を今に伝えています。

大野原きじ車保存会元会長の高倉三蔵さん
保存会の発起人で元会長の高倉三蔵さん(右)

地域に暮らす約10名の会員で製作を続けられている保存会のみなさん。発足当時のメンバーは前会長の高倉さんのみとなった現在も変わりなく、きじ車を愛する人たちが集まります。

製作ができるのは、材料の木の特性から、秋から春の間のみなのですが、シーズンになると月に1度、昼間の仕事終わりに、きじ車製作の作業場に集まります。各自できじ車を作り、終わったらみんなで食事をしながら遅くまで地域のことなどを語り合うそうです。

私たちが訪ねたのは5月の例会の日。高倉さんをはじめ、メンバー総出で歓迎してくださいました。

きじ車の製作風景
きじ車を製作する保存会の人たち

ものづくりは単純なほど難しい

中村さんの元で修行した職人に技術指導してもらったというきじ車の作り方は、今も昔のまま。会員の皆さんは、農業や建築関係などの木材を扱うプロが多く、慣れた手つきで次々にきじ車を削り出していきます。

「見学にきたほとんどの人が自分で作って帰りますよ。やってみますか?」
そんなお誘いを受けて、ワイズベッカーさんと私たちも体験をさせてもらうことに。

材料は地域に自生しているコシアブラの生木を使います。柔らかいため建築資材には向きませんが、加工がしやすく、白い木肌が綺麗なのが特徴です。夏は木が水分を吸い上げ、皮が剥がれやすくなるため、製作する期間は9月〜5月に限られるそう。

「コシアブラの新芽は天ぷらにして食べると美味しいんだよ。」そんなことを教えてもらえるのも現地に足を運ぶ楽しみの一つです。

きじ車の材料となるコシアブラの木
材料となるコシアブラの木を切り出す

では、早速胴体づくりから。

切り出したコシアブラの部材に型紙を当て、大まかな形を鋸で、ディテールをノミと槌で、地道に削り出していきます。

仕上げに突きノミでビューっと削って表面を綺麗に整えたら胴体の完成。この“木を削るのみ”という作業のシンプルさが、きじ車の製作を奥深くしています。

きじ車を成形する鋸、ノミなどの道具類
鋸・ノミ・槌などの道具を使って胴体を成形する
型紙を使ったきじ車の製作風景
型紙を当てて削り出すラインを決める
きじ車の製作風景
ノミと槌を使い、黙々と削り出す

そして、車輪の取り付け。

コシアブラの木を輪切りにした車輪を車軸に通し、胴体に打ちつけます。接合に金釘は一切使わず、コミ栓(木釘)を使用。最後に、保存会の印と作者のサインをして完成です。

きじ車の製作風景
車軸と胴体に穴をあけ、コミ栓で留める
きじ車の製作風景
胴体の裏には製作日、作者が書かれ、保存会の朱印が押される
できあがったきじ車3体
初心者3人が作ったきじ車、左から私・貴田さん・ワイズベッカーさん作

一個を組み立てるのにかかった時間は、つきっきりで手伝ってもらって1時間半ほど。会員の中で製作数が一番多い石井さんは、年に50個ほどを作られるといいます。

北山田のきじ車はもともと土産物などではなく、地域の子どものために作られていたものなので、彩色もなくシンプルそのもの。しかし色や模様がない分、わずかなバランスの違いが目立ちます。

その中で最も重要なのが首の角度なのだそう。首の角度、頭のうつむき加減など、ちょっとした違いで良し悪しが決まります。

木地と樹皮のコントラストのみの素朴なきじ車ですが、単純なものほど奥が深い、というものづくりの本質こそがこのきじ車の価値であり、リーチが絶賛した訳だったのかもしれません。

保存会の方が製作したきじ車
保存会の方が製作したきじ車

そして、そんなものづくりを継ぐ保存会の人たちが、半年かけて製作したというのが全長10mのジャンボきじ車。

使った木材は4寸角の杉材1200本、コミ栓12000本。材料集めから全て保存会の人たちの手で作りあげた大作です。

巨大なきじ車
高さ5.5m見上げる大きさのジャンボきじ車

「ジャンボきじ車の中は、当時の町民800人のメッセージが入っていてタイムカプセルになっているんです。」

ついには町のシンボルとまでなったきじ車。

地域ときじ車を愛する人々の思いが絶えず受け継がれてきたからこそ、この郷土玩具が今日まで残ってきたのだろうと、保存会の人たちとの交流の余韻に浸りながら大分をあとにしました。

さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第7回は大分・北山田のきじ車の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第8回「宮城・仙台張子のひつじ」に続く。

<取材協力>
大野原きじ車保存会
大分県玖珠郡玖珠町大字戸畑3466-1
電話 0973-73-7436(会長 高倉新太)

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」4月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

大分「北山田のきじ車」を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載7回目は午年にちなんで「北山田のきじ車」を求め、大分県玖珠郡にある大野原きじ車保存会を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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大分県の標識

福岡から別府方面に向かう、どこかよくわからないが大分県の玖珠という町で、小さな木の馬が私を待ってくれているはずだ。はじめてインターネットで見たとき、すぐに好きになった。それはきっと、プラスチック製のものがまだ少なかった時代、私が子供の頃に遊んだ素朴な玩具を思い出させてくれたからに違いない。

大分県玖珠町の「きじ車の里」石像

集落に着いたら、石の彫像が置かれていた。「どうしてこれほどまでに、みんなこの馬に愛着があるのだろうか?」と疑問に思う。

この馬は、この地方では子供の健康を願うシンボルを担っている。

大分県玖珠町「きじ車の里」の法被

今回は、いつもと違い、ひとりの職人さんではなく、団体の方々が大歓迎してくださった。大野原きじ車保存会の皆さんは、ボランティアで、この小さな馬の玩具制作を継続しているのだ。

この会がなかったら、後継者不在で、とうの昔に消えていたはずだ。あらゆるものがが消えていくこの時代、お手本となる活動だと思う!

きじ車の職人、中村利市さんの写真

最後の職人、中村利市さんの写真が、敬意を持って工房の壁に飾られている。この郷土玩具の継続にかけた彼の献身を想うと、感動する。

きじ車の職人、中村利市さんが使っていた型紙

その脇にかかっているのは、中村さんが使っていた型紙。黄ばんだ厚紙には多くの書き込みがしてある。こんな風に額装されていると、民芸の傑作における素朴な美しさを感じる。大好きだ!

きじ車の型紙

時代によって、型紙のスタイルも変わる。こちらはもっと正確で小綺麗だ。

きじ車の材料となる木材

さて、小さな馬の制作見学に戻るとしよう。削りやすいので、若い木を使用する。木の直径に合った型紙を選び、切り取る。

鋸と鏨を使ったきじ車の製作風景

帯鋸盤で型紙の長さに荒削りをした後、鋸と鏨をつかって切る。樹皮は頭と鞍の部分になるので痛まないように気をつける。この部分が特徴的なのだ。木屑が出るたびに少しずつ形になってくる。

製作途中のきじ車

眺めていると、優しく穏やかな気持ちになる。庄屋の男の子も、転がして遊ぶとき、きっと楽しかったに違いない。

一際大きいきじ車

巨大なきじ車は年に一度の競争に使われる。後ろのカゴにボールを入れ、ボールを落とさずに早くゴールしたものが勝ちというわけだ。

競争の舞台となる庭

起伏のある土地なので、きじ車の競争は危険を伴う競技なのだ。勝負の日には、3人の審判が見守ることになる。
(*訳注:冗談です。)

きじ車を作るフィリップ・ワイズベッカー氏

びっくりだ!きじ車をつくらせてくれるという。断るなんて論外だ。日本の素晴らしい大工道具を使える、とてもいい機会だ。そこそこ上手く使いこなせることに、自分でも驚いた。

もっと平凡なつくりだったが、以前東急ハンズで購入した日本の大工道具と仕組みは同じ。自分の家具をつくるときと同じ要領で扱えた。

作ったきじ車を見せるフィリップ・ワイズベッカー氏

はじめてつくったにしては悪くない。とはいえ車輪をつけるときは、師匠に手伝ってもらったけれど。皆が完成品を喜んでくれた。

「きじ車の里」関係者とフィリップ・ワイズベッカー氏の集合写真

その証に、取材後の食事会では、会員専用の法被まで授けていただいたのだ。とても光栄に想う。

楽しく優しい人たちと過ごしたこの日のことは一生忘れないだろう。私の法被は、きちんと畳んで、ほかの旅行の思い出品と一緒にしまってある。

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー、貴田奈津子
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。