伏見人形のねずみを求めて。京都「丹嘉 (たんか) 」で出会う干支の置物

フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり

はじめまして。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手の元を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる、連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを描き、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ、干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介していただきます。

連載1回目は子年、「伏見人形の唐辛子ねずみ」を求めて、京都にある丹嘉 (たんか) を訪ねました。

8代続く伏見人形窯元 丹嘉にて 撮影:吉岡聖貴

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エッセイの前に、まずはワイズベッカーさんと共に訪ねた丹嘉や伏見人形の歴史、そして人形づくりの裏側について、解説したいと思います。

400年以上の歴史を受け継ぐ土人形の元祖、伏見人形

農耕とともに歩んできた日本では、生命を育む土に対する信仰心が古くからあり、寺社の授与品としての土人形や土鈴は、害虫除けや厄除けに効くと信じられていました。

伏見人形は約400年前、当時信仰のメッカとして栄えた伏見稲荷大社の参詣者が山の土を土団子にして持ち帰り、五穀豊穣を願って自分たちの田畑に撒いたのが始まりとされます。

その後、伏見稲荷の近くで深草土器 (ふかくさかわらけ・京都の深草あたりでつくられた土器) とよばれる土器を作っていた土師部(はじべ)が、その技術を人形に転用し、参詣者を相手に土産用の人形を作り売ったと考えられています。

参詣者に持ち帰られた人形は伏見人形と呼ばれ、間もなく全国に行き渡りました。各地の土器・瓦などの製作者がそれらを原型として人形を作り始めた結果、土人形の産地は全国に100ヶ所近くに広がりました。それが、伏見人形が日本の土人形のルーツであるといわれる由縁です。

寛延年間創業の伏見人形工房、丹嘉

土人形のルーツとなった伏見人形の窯元も、最盛期の江戸末期には50~60軒ありましたが、時代とともに廃業していくこととなります。そして現在、製作と販売をする窯元は丹嘉のみ、たった1軒となりました。

丹嘉の創業は寛延年間、1750年頃。今の屋号になったのは4代目嘉助さんの代からで、元々の屋号は丹波屋だったとのこと。現在は8代目の大西貞行さんとご両親、職人さん数名で製作をされています。

「今の形を変えすぎないことを大切にしている」という8代目の大西貞行さん (撮影:貴田奈津子)

夏に成形、冬は彩色

さて、肝心の土人形づくりですが、まずは表面・裏面それぞれの原型に粘土を埋め込み、型から抜いて表裏をつなぎ合わせることで成形をします。それを乾燥させ、低温で素焼きした後に胡粉(ごふん※)を塗り、彩色をして仕上げです。

※ 胡粉とは貝殻からつくられる日本画の白色絵具のこと

型枠は裏表で1セット。内側に粘土を埋め込むメス型と呼ばれるタイプ
型枠から取り出した粘土は「成形」され「素焼き」を経て、「彩色」されて完成

丹嘉では、春から夏にかけてを「成形」と「素焼き」の行程、秋から冬にかけてを「彩色」の行程に分けて、年間約2万個を生産されているそうです。季節で行程を分ける理由は、夏場は粘土がよく乾くので型離れがよいことから、冬場は彩色の原料である“にかわ”の保管がしやすいことからとのこと。

今となっては当たり前の工程かもしれませんが、このような効率化は長年の経験の賜物です。

世代を超えて受け継がれる2000種の型枠

私たちが工房を訪ねたのは初夏の時期。ちょうど大西さんのご両親と職人さんが成形の作業をされていました。

毎年コンスタントに使用する型枠は50種類ほどなのですが、年々廃業した窯元から譲り受けたものが増えていき、今では全部で約2000種の型枠を所有されているそうです。棚一面に型枠が並べられた光景は圧巻です。

棚ごとに番号を割り振られ整理整頓されたたくさんの型枠

この型枠に生地を埋め込むわけですが、埋めるよりも抜くのが肝心。生地が乾きはじめたタイミングを見計らって型枠から抜き、すぐさま表裏をつなぎ合わせていきます。

成形の道具は筆とコテのみと至ってシンプル。生地が乾燥したら、電気窯でまとめて素焼きします。

型枠から取り出した粘土は丁寧に裏表をつなぎ合わせて「成形」される

丹嘉で仕上げに顔の絵付けをするのは、大西さん父子のみだそうです。大西さんいわく、彩色ができるようになるまでに10年はかかる、とても奥深い世界です。

大きな型枠を周りに並べ、次々と成形していく大西さんのお父さん

“とうがらし”に乗る“えとがしら”

今回のモチーフである「ねずみ」は繁殖力の強さから、増大し繁栄することの象徴として縁起が良いとされ、郷土玩具でも数多くのモチーフとされてきました。各地のねずみの郷土玩具を見てみると、例えばカブ、カボチャ、米俵など、食べ物との組み合わせで造形されていることが多いことに気づきます。

今回のねずみと唐辛子の組み合わせは、ねずみの繁殖力と唐辛子の種の多さから、豊穣や子宝を願ったと言われていますが、それも諸説ある中の1つ。ねずみが干支の最初にくるというので、「えとがしら」を並べ替えて「とうがらし」にしたというウィットに富む説もあります。

どれが正解かはさておき、本当のような嘘のようないわれを聞いて、「へーっ」となるのも郷土玩具の楽しみですね。次回はどんないわれがあるのでしょうか。

それでは、お待たせしました。ここからはワイズベッカーさんの視点で見た伏見人形「唐辛子ねずみ」の世界をお楽しみください。

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丹嘉のウインドー。はじめて訪れた2002年以来少しも変わっていない‥‥感動的だ!

この小さなクッションのようなものが大好きだ。とても洗練されていて、壁に掛かった額を支えているように見える。それがこのクッションの本当の機能なのかどうかを知りたい。日本以外では目にしたことがない。

この、突然現れた大きな牛は一体何のためだろう?シルクのクッションにうやうやしく置かれ、ほかの人形たちに囲まれ、君臨しているように見える。

ひょっとしたら、中庭で草に覆われながら、彼らは小さな神様に変身できる日を、待ち望んでいるのかもしれない。どうだろう?

工房に保管されている2000もの型枠の一部。まるで牡蠣があくびをしているようだ!定期的に埃をはらわれ、きちんと管理されている。

この店のいたるところにいる狐たち。伏見稲荷のシンボルともいえるこの動物は、きっと丹嘉のベストセラーに違いない。

8代目主人の潜水服が、型枠の保管と型抜き作業のための部屋に干してある‥‥。なんて唐突なんだろう!でも、このウエットスーツにすら私は民芸の趣を感じる。逆さになった生き物に丸い目で見つめられているようだ。

ここで一番好きな写真かもしれない。職人の周りには、全ての道具がふさわしい場所に置かれている。そして、膝にかけられた水玉模様の布は、私にとっては素晴らしくエレガント。作業中の大西さんのお父さんだ。

大きな生地の型抜きは、長い経験を必要とする。型の内側の生地は、抜くときにある程度湿気がないといけないが、変形しない程度には乾いてなくてはならないのだ。

あぁ!やっと出会えた私たちのネズミ!型から出てきたばかりで、まだ湿気の光沢がある。乾燥させた後に焼いて、絵付け。そして、店頭の仲間の待つ場所に行くのだ。

窯の中。これから焼かれるところ。

私は制作中にラジオをかけっぱなしにするが、ここではテレビ。小さな人形たちは、いったい何を考えているのだろう。
どこか他所に気持ちがいっているように思える。

避難しているのか?贖罪の苦行なのか?確実に言えるのは、彼らが外に出たがっていないということ。

私たちの小さなネズミ。唐辛子の上によじ登っているが、胃炎になるのを恐れてはいないようだ。

この人形を見ると嬉しくなる。アルビュという昔飼っていたゴールデン・レトリバーの犬を思い起こさせるからかもしれない。10年前に亡くなったが、今もあの仔のことを想っている。とても誇らしげで、まとわりついてくるたくさんのおチビたちと幸せそうにしている!私にとっては、幸福のイメージそのものだ。

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「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第1回は京都・伏見人形の唐辛子ねずみの工房を訪ねました。

第2回「福島・会津張子の赤べこ」に続く。

<取材協力>
丹嘉 (たんか)
京都市東山区本町22丁目504番地
営業時間 9:00~18:00 (日・祝祭日休)
電話 075-561-1627

文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

翻訳:貴田奈津子
前半解説パート、文・写真:吉岡聖貴

*こちらは、2017年9月30日の記事を再編集して公開しました。

フィリップ・ワイズベッカーが旅する たった一刀で形づくる、木彫りの亥を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

いよいよ最終回となる連載12回目は、亥年にちなんで「奈良一刀彫りの亥(イノシシ)」を求め、奈良の大林杜寿園を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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奈良のせんとくん

亥に会うため、奈良に来た。
いったい何処に隠れているのだ?鹿の存在は、あちこちにあるが。

横断歩道を渡っている鹿

横断歩道にて。

奈良の道路に描かれた鹿のマーク

道路上にて。

鹿をかたどった彫刻

私たちが訪ねた一刀彫り職人の工房のウインドーにまで‥‥。たまげた!

職人

あぁ、やっと!亥が現れた!

職人は、すでに作業にとりかかっている。
一刀彫りという技術で、楠の塊を彫っている。

一刀彫りで作られた木の犬と道具

しかしこれはデモンストレーション用で、実のところ、今は戌を制作中だという。

犬の写真

この写真がお手本になっているということか。ふむ‥‥。

干支の木彫り人形

板の上に並べられたのは、戌、亥、そして干支の仲間たちだ。

訪問は終わった。私の眼差しは、あちらこちらをさまよい、止まる。

お茶会の様子

鹿(そして亥)の国の訪問の後は、中川政七商店本社での忘れがたいお茶会だった。

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー、貴田奈津子
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

老舗飴屋が受け継ぐ裏メニュー「ててっぽっぽ」とは?

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載11回目は戌年にちなんで「赤坂人形の戌」を求め、福岡県筑後市の赤坂飴本舗を訪ねました。(ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

「ててっぽっぽ」こと赤坂人形

東北地方と並んで郷土玩具の宝庫といわれる福岡県。

数多い玩具の中でも、武井武雄さん、川崎巨泉さんなどの玩具研究家が口を揃えて、天下の名玩と推したとされるのが「赤坂人形」です。

江戸時代中期頃から、有馬藩の御用窯・赤坂焼の産地であった筑後市の赤坂地区。
その窯元で働いていた陶工たちが本業の傍ら、笛などの子供のおもちゃや恵比寿・大黒などの縁起物を作っていたのが、赤坂人形のルーツといわれています。

土人形は元々、以前の連載で紹介した京都の伏見人形をルーツとして、かつては全国百ヶ所近くの産地で、様々なモチーフが作られていたとされます。

福岡を含む北部九州にも、佐賀県の尾崎人形や長崎県の古賀人形などがありますが、どれも雰囲気が似ているのは、腕を磨くために窯元を渡り歩いた職人が、地元に戻って開窯していったからなのかも。と思ったりもします。

赤坂人形は赤土を素焼きしたものに胡粉をかけ、紅、黄、青などの絵の具で彩色するという昔ながらの製法が今も守り続けられている、日本でも数少ない土人形。型合わせの際にできた耳と荒いタッチの絵付けを見ると、昔と変わらない素朴さとほのぼのとした温もりを感じます。

筑後地方では「ててっぽっぽ(不器用な人)」という愛称で、こどもの玩具や民芸品として親しまれてきました。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗の「ててっぽっぽ」と呼ばれた古い赤坂人形
「ててっぽっぽ」と呼ばれた古い赤坂人形

かつての赤坂地区には、数軒の人形屋があったそうですが、現在赤坂人形を作っているのは「赤坂飴本舗」店主の野口紘一さんただ1人。唯一の作り手を訪ねました。

知る人ぞ知る、老舗飴屋が受け継ぐ裏メニュー

福岡県筑後市、明治初期創業の老舗飴屋「赤坂飴本舗」
明治初期創業の老舗飴屋「赤坂飴本舗」
福岡県筑後市、明治初期創業の老舗飴屋「赤坂飴本舗」
店内には飴菓子のほか赤坂人形や看板が並ぶ

赤坂人形の製造元は、実は老舗の飴屋でもあります。
米を原料にした名物・赤坂飴をはじめ、茶飴、棒飴などの懐かしい飴菓子をつくる「赤坂飴本舗」は明治15年の創業。

野口家で赤坂人形作りが受け継がれ始めたのは、それ以前の江戸時代末期頃から。
飴屋が郷土玩具をつくっているのは、日本中探してもここだけではないでしょうか。

野口さんは若い頃から、先代を手伝って東京での物産展の準備や祭りの行商などをしていたそうです。今では当時のブームも落ち着き、趣味や収集のため注文をされるお客さんのために、予約販売で年間200個ほどを一人で作っておられます。

「赤坂飴本舗」の野口さんご夫婦
野口さんご夫婦

赤坂人形作りは、口伝では野口さんで6代目。

人形作りもできる息子さんが、このまま跡を継ぐかはまだわからないそうですが、「自分の時も跡を継げと言われたことはなかったし、どけんかなるっさい。」

どうにかなるでしょうと期待を込めて仰っているようでした。

赤坂飴本舗で継承されているのは、技術ともう一つ。
人形作りに欠かせない型枠です。かつて、周りの赤坂人形の窯元が店をたたんだ時に譲ってもらったという型を、今も大事に使い続けておられます。

「近くの田んぼで人形の型が見つかったと、持ってきてくれた人もいましたよ。」

型枠は素焼きなので壊れやすく、使っていくうちに欠けてしまうことも。
それでも新しい型は作らず引き継いだものを大事に使い続け、現在は笛ものを中心に小型の大黒、猫、梟など20数種類の人形を作られています。

「赤坂飴本舗」で使用している型枠
現在使用している型枠は20数種類
「赤坂飴本舗」で使用している型枠
長年使い続けるうちに粘土型の端が欠けてしまうことも

赤坂人形の笛ができるまで

今回は、野口さんに戌とふくろうの笛の作り方を見せてもらいました。

飴の加工場の隣にあるガレージが人形づくりの作業場
飴の加工場の隣にあるガレージが人形づくりの作業場
赤坂人形の製作工程

まずは成形から。
ダンボールの上に、椅子・台・ヘラ・箱・灰をセットして準備完了です。

赤坂人形の製作工程

灰は事前に漉し器を通して、粒子を細かく整えます。
漉し器を作る職人さんも最近は少なくなってきているそう。

赤坂人形の製作工程

型枠に粘土を埋め込む前に、灰をまぶします。
型離れをよくするためであり、昔は竈の灰を使っていたとのこと。

赤坂人形の製作工程
赤坂人形の製作工程

表面・裏面がセットになっている型枠にそれぞれ粘土を埋め込みます。顔の表情など細かな凹凸を出すため、片面ずつしっかりと、型が割れないように配慮もしながら押さえるのがコツ。

最後に表裏を貼り合わせます。この時に型枠からはみ出した粘土が赤坂人形の特徴である「耳」になります。

赤坂人形の製作工程

表裏が一体になった型枠と粘土に手で振動を与えながら、片面ずつ型を外していきます。

赤坂人形の製作工程

型をはずすと犬の形状が見えてきました。
型が欠けている箇所(犬の耳)が盛り上がっているのは、後ほど仕上げるそう。

赤坂人形の製作工程

型の合わせ目からはみ出してた耳を少し残しながらヘラで削り、仕上げに水をつけて成形。

赤坂人形の製作工程
赤坂人形の製作工程

乾燥させる前に、笛を鳴らすための空洞を作ります。
波状のトタンを加工してつくったお手製のドリルをグルグル回して、まずは息が抜ける側の穴を掘り出します。息を吹く側はヘラを使って、斜めに風があたるように掘り出します。

ここまでの作業を、野口さんひとりで一日に20個ほどこなすそうです。
そして、冬は1週間強、夏は5日くらいかけて粘土を乾燥させます。

成形に使うヘラと職人野口さんの手

成形に使うヘラはどれもお手製。
手の皮の厚みや指の太さも、まさしく職人さんの手です。

赤坂人形の素焼き風景

続いては、素焼き。
江戸時代は登り窯を、そして最近までは写真の薪窯を使っていたそうです。
その頃は、一日かけて煤だらけになりながら焼いていたとのこと。

素焼きに使用する電気釜

そして現在使用しているのは電気窯。
800℃の低温で9時間素焼きをします。だいたい、100個くらいずつ2回に分けます。

色付け前の赤坂人形
色付けして完成した赤坂人形

最後に、仕上げの彩色。
素焼の生地に胡粉を塗り、彩色をほどこします。

昔の藍や紅花などの植物染料に代わり、今は食用色素の紅、黄、青などを使用。
時間をかけず一刷毛でさっと彩色した、味わいのある絵付けが特徴です。

「年年歳歳、色が褪せて、10年もするとほとんど粘土の色に戻っていきますよ」

時が経つほど味わいが深くなり、自分だけのものになっていくのも楽しみの一つ。

飴づくりと笛づくりの根っこにあるもの

「自慢じゃないですが、100%はできません」

赤坂人形作りにおいてはベテランの野口さんが最も難しいというのは、笛を鳴らすこと。
火加減によって焦げたり収縮したりして、笛が鳴らなくなっていた薪窯の時は仕方ないとして、電気窯になってからも古い型をそのまま使用しているため、型通りに作ったとしても笛が鳴らないことがあるのだそうです。

低い音を鳴らすふくろうなどには太い穴を、高い音を鳴らすものは細い穴をと作り分けているのも、難易度が高い理由の一つであるのかもしれません。

また、赤坂人形をよく見ると、笛の吹き口にはどれも胡粉が塗られていないのがわかります。
本体に塗られる絵の具も、昔は植物染料、今は食用色素と口に入れても安全な素材が使われているのですが、吹き口は子供の口に触れる部分なので、更に安全性を考えて昔からこうしているとのこと。

飴も笛も子どもが口に触れるもの。子どもへの思いやりは、通じるものがあるようですね。
どちらのものづくりも途切れることなく、末永く続いていってほしいものです。



さて、次回はどんないわれのある玩具に出会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」
第11回は福岡・赤坂人形の戌の作り手を訪ねました。
それではまた来月。

第12回「奈良・一刀彫の亥」に続く。

<取材協力>

赤坂飴本舗

福岡県筑後市蔵数赤坂312

電話 0942-52-4217

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」8月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

フィリップ・ワイズベッカーが旅する 唯一の職人がつくる「赤坂人形の戌」を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載11回目は戌年にちなんで「赤坂人形の戌」を求め、福岡県筑後市の赤坂飴本舗を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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福岡県筑後市の赤坂飴本舗

福岡市の郊外、戌の笛人形をつくる野口さんのところに着いた。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

今回の取材も驚きが待っているに違いない。
ガレージが制作の場となって、私たちを待っていてくれた。

舞台は整った。もうすぐスペクタクルが始まる。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

クッションに腰かけ、素朴な道具に囲まれている後ろ姿は、まるでモロッコのスーク(市場)での光景のようだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

前から見ても、やっぱりそうだ。

ダンボール紙の上につつましく構えた彼の前には、粘りけがあり良い具合の土の塊がある。
楽しくなりそうだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

道具自らが語る。イメージ通りなのだ。
意表をつき、親しみやすく、感じがいい。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

彼の脇には、記憶に満たされた木箱がある。
野口さんが父親から引き継いだ型たちが、休息している。

型がひとつでも壊れたら、残念ながらその型の人形は滅びてしまう。
いつか、この小さな戌の型が壊れるときもくるだろう。

手遅れになる前に、急がねば!

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

型から出たばかり。
余分な端がまだ残っている。きれいに整えてもらうときを待っているのだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

これで今日の作業は終了。一度に五個しかつくることができない。
何度も抜いて型が湿ってしまうと、土を外せなくなるからだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

この制作ペースでは、家業として生活費を稼ぐには程遠い。
だから、同じく父親から受け継いだ機械で、飴をつくっている。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

百メートル先の販売店では、飴も玩具もガラスケースに一緒に並んでいる。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

野口さんが「戌の笛」を出してくれる。
想像していた通りだった。

のんびりして、陽気で、まだらの戌。大好きだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

お店を出る時、写真を撮らずにはいられなかった‥‥。面白い!

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

「孫に作品を残したい」想いから生まれる 宮城・挽物玩具の酉を訪ねて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載10回目は酉年にちなんで「挽物玩具の酉」を求め、宮城県白石市の鎌田こけしやを訪ねました。(ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

弥次郎系・鎌田こけしや

こけしの宝庫、宮城県。

構造、形、描彩が師弟関係や産地別の特徴を持つ伝統こけしが、それぞれに系統を作っていて、こけしの世界は調べれば調べるほど奥深いものです。
県内各地では今も、鳴子系、遠刈田系、弥治郎系、作並系、肘折系などの系統が作られています。

今回訪れたのは、弥治郎系こけしの生まれ故郷白石市。

湯治湯として有名な鎌先温泉や小原温泉で、昔からこけしが売られてきました。
太い直胴もしくは、中程が括れた胴に、描彩は黄色に塗られた下地に菊花や石竹、もみじが描かれており、首は差し込み式になっているのが特徴です。

鎌先温泉の旅館に並ぶ弥次郎こけし
鎌先温泉の旅館に並ぶ弥次郎こけし

そんな弥治郎系こけしの系統を継ぐ「鎌田こけしや」が今回の目的地です。

宮城県白石市の鎌田こけしや
鎌田こけしや

鎌田こけしやの創業は、関東大震災の直後。
創始者である鎌田文市さんは、1900年にこの地方の絹糸商家に生まれました。

幼少期の怪我のせいで正座ができなかったため、腰掛けてできるこけしの木地職人の道へ。
弟子入りしたのは、弥治郎系こけしの職人・佐藤勘内さん。

しかし、弟子離れしてからもなかなか食えず東京に出稼ぎに行ったが、関東大震災で仕事が続けられなくなったのを機に地元白石に戻り、独立開業。
現在は孫である孝志さんが、3代目を継いでいます。

鎌田こけしや3代目鎌田孝志さん
鎌田こけしや3代目鎌田孝志さん

伝統こけし3代目がつくるユニークな創作玩具

孝志さんは高校卒業後、横須賀で鉄道の車輪を作る仕事をしていましたが、粉塵により肺を悪くしてしまいます。

地元に戻り、祖父からの勧めもあり家業を継ぐことを決断。最初は刃物の使い方から教わり、生卵で顔を書く練習を経て、3年後に一人前に木地を挽けるようになって初めて、こけしの顔を描かせてもらえたそうです。

孝志さんは伝統的なこけしだけでなく、挽物で作るユニークな独楽や玩具も魅力。独楽を回すと、クスッと笑いたくなる予想外の動きに目が離せません。

警泥、鬼退治などをモチーフにした独楽を回すと動き出す玩具
警泥、鬼退治などをモチーフにした独楽を回すと動き出す玩具

「今まで作ってきたのは約100種類。日の目を見なかったものまで含めるともっと多い。」

こういった独楽や玩具を作れるようになるため、若い頃、仙台で江戸独楽を作っていた木地屋の広井道顕さんのもとに、週に一度学びに通ったそうです。

現在、組合で弟子の養成にも携わっているそうですが、工房では弟子を取らず、制作はおひとり。今でも年間約1000個をつくられる原動力は、「孫に祖父のような作品を残したい」からだといいます。

親鳥のお腹から、ひよこの独楽

今回のお目当ては鎌田さんの「酉」。頭部が開く蓋物になっています。

まるい胴体の中には1センチくらいのひよこが描かれた独楽が3つ。
親鶏の前でくるくるとよく回る独楽を見ていると、思わず顔が緩みます。

蓋物になっている酉
蓋物になっている酉
開くとお腹の中には独楽のひよこが3匹
開くとお腹の中には独楽のひよこが3匹

作品を見せてもらった後、自宅の裏にある工房を案内してもらいました。

鎌田さんの作るこけし、独楽、その他の玩具は、ロクロと鉋を用いて形を削り出したり細工をしたりする技法で、一般に挽物(ひきもの)といわれます。

ロクロは、現在はモーター式が使用されていますが、旧式のロクロは一人が縄をひいてロクロを回し、一人が細工をする二人挽きのものでした。技術の進化とともに、一人挽きになり、ペダルを回す足踏み、水力(戦前)、モーター(戦後)と動力が変化してきたとのこと。

現在使用されているモーター式のロクロ
現在使用されているモーター式のロクロ

挽く方法は、予め頭部と胴部に木取りしたものをロクロにかけ、数種類の鉋を使って別々に挽き、最後に頭と胴体を噛み合わせます。

鉋などの道具も昔はたくさんあったそうですが、今は作る人がいなくなり、古いものを修理しながら使ったり、自分で加工して道具を作ったりしているそうです。

ロクロ挽き
ロクロ挽き
鎌田こけしやの道具
整頓された鉋などの道具は修理しながら使い続けられている

彩色は、ロクロを回し、筆の先を軽く当てて模様をつけるロクロ描きと、手に持って描く手描きの2つの方法を使い分けます。墨と紅、黄、藍、青、紫など5色の食品添加物を使って、特色ある描彩が施されます。

「祖父の真似をしようとしてもできなかった。早々に自分の顔を書こうと決めた。」

描彩をする職人の筆さばきで、顔に個性が出るといいます。

ロクロ描き
ロクロ描き(描いているのはワイズベッカーさん)

材料に使用しているのはミズキという木。
水分が多くて柔らかく挽きやすい、そして木肌が白く年輪が目立たない、といった条件が揃っているのだそう。

材料のミズキ
材料のミズキ

近頃は木材の入手に苦労が絶えないという。

「宮城県内に山師がいなくなり、木材は福島県の会津若松から仕入れていました。しかし、東日本大震災後、放射能汚染の有無に関わらず、県外への持ち出しが難しくなった。山師を辞めて収入の高い除染作業に行く人も多い。今は昔のつてを辿って、群馬の業者から仕入れています。」

原発事故の影響は、こけし作りにも及んでいました。

こけしの起源は、おしゃぶり、お守り、祭礼の道具、ままごと用の人形などまちまち。
決定的なものはなく、木地師がたまたま挽いた人形で、元々玩具として発生したという見方もあります。

そういった伝統的なこけしの歴史や技術を踏まえて作られる鎌田さんの作品は、驚きを与えてくれる「仕掛け」や「動き」が魅力的。子どもも大人も、見て、触って、楽しめる創作玩具です。



さて、次回はどんないわれのある玩具に出会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第10回は宮城・挽物玩具の酉の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第11回「福岡・赤坂人形の犬」に続く。

<取材協力>

鎌田こけしや

宮城県白石市字堂場前27

電話 0224-26-2971

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」7月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

フィリップ・ワイズベッカーが旅する こけし作家が生み出すユニークな酉を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載10回目は酉年にちなんで「挽物(ひきもの)玩具の酉」を求め、宮城県白石市にある「鎌田こけしや」を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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宮城県白石市の「鎌田こけしや」

仙台から車で1時間ほどの町にやってきた。木のろくろを使い酉の玩具をつくる木地職人、鎌田さんに会うためだ。

迎えてくれたのは、昔ながらの壁掛け時計。止まったままだ。

「これは良いサインだ。職人は時間を気にしてはいけないのだ」と思う。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

木の良い匂いがする。こけし用に荒削りしてある円柱形の木。木片や削りくずが、あちこちに。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

削りくずがランプにもぶら下がっている‥‥

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

工房の隅は、時間の経過から忘れられているようだ。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」で使用している工具

あまりにも特殊な刃を使っているので、今日でも、手で鍛えられている道具。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」製作風景

一瞬の不注意も許されない。驚きの眼差しで見つめる私の前で、あっという間に出来上がったのは、完璧な小さい独楽。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」で使用している工具

まだ着色の過程が残っている。それを私に任せてくれるというのだ!

この感動的な思い出の品は、ずっと私の旅行バッグに入って、パリまで来てくれるだろう。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし

鎌田さんは、主に伝統的なこけしをつくっている。しかし私は、彼の創作玩具のほうが好みだ。

少しずつ出して見せてくれる。非常に独創的で、繊細で、工夫にあふれている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「虎」

例えば、このおそろしい目つきの寅は畳の上に物憂げに寝そべっている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「岡っ引き」

そして、反対側にいて絶対に捕まえられない泥棒を追いかけ続ける岡っ引き。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「雄鶏とひよこ」

おかしなちょび髭をつけた雄鶏。チビのひよこが周りをくるくる回る。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし

小さなスヌーピー。埃の中で最後の日を迎えている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」

インスピレーションにあふれる工房訪問の最後に、変わったインスタレーションを見つけた。

何だろう。気になるが、この秘密を知ることはないだろう!

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

撮影:吉岡聖貴

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。