長崎・佐世保を歩いたら街中が独楽づくしだった

米軍基地があり、佐世保バーガーや夜の外国人バーなど独特の文化で知られる佐世保。異国情緒ある街を歩くと、あるモチーフが目に入ってきます。

まずは駅。JR佐世保駅の改札をでると…

JR佐世保駅の独楽のモニュメント
お、大きい…!

モチーフの正体は佐世保独楽。

長崎県の伝統的工芸品指定を受けている、佐世保の郷土玩具です。

他県からやってきた人たちを出迎えるように、駅には巨大な佐世保独楽が設置されていました。

それにしてもユニークな形。日本各地には100近い独楽の種類があるそうですが、佐世保独楽は全国的にも珍しい「らっきょう型」に分類されるそうです。

佐世保市民なら一度はこの独楽で遊んだことがあるとか。

今日は港町・佐世保のもう一つの顔、独楽を探して街を歩いてみましょう。

佐世保の独楽は喧嘩が得意!?

早速、駅を出たところで独楽を発見。

佐世保独楽
佐世保独楽
まん丸い形と、上部の色使いは先ほどの巨大独楽と一緒です

実はこの絵、2つの独楽が並んでいるのがポイント。

佐世保独楽は独楽同士を激しくぶつけて戦わせる独楽なのです。

そんな遊び方から、ついた別名が「喧嘩独楽」。なんと「喧嘩ごま」という名前のお菓子まで佐世保市内にはあります。

それがこちら。

松月堂の「喧嘩ごま」

作ったのは佐世保市内にある和菓子屋「松月堂」さん。

松月堂
老舗の風格を感じる趣のある店構え
松月堂

松月堂は、佐世保で創業113年を誇る老舗和菓子屋です。初代の池田松吉さんが廻船問屋から転身し、当時日露戦争の特需に沸く佐世保で一旗あげるべく、和菓子屋を立ち上げたそう。

松月堂「入船」
佐世保みやげの定番「入船」はロングセラー商品。入船=景気がいいから、という港町らしいお菓子

現在は、4代目である池田育郎さんがその味を守りつつ、オリジナル商品を生み出しています。

「喧嘩ごま」のお菓子も池田さんが発案した一つ。やはり池田さんも子どもの頃は独楽で遊んだそう。

「子どもの頃から、公園などで喧嘩独楽をしていましたね。だから、『独楽』っていったら、この形が普通だと思ってました(笑)」

銘菓「喧嘩ごま」誕生物語

銘菓「喧嘩ごま」が誕生したのは、およそ20年前。市内にある亀山八幡宮の秋の例祭「佐世保くんち」で、松月堂のある上京町が6年に一度回ってくる「踊り町」という当番に当たった時のことでした。

「踊り町になると、出し物をするんです。それまでは『川船』という木造の船を男衆が引いたり回したりしていたのですが、趣旨を変えて何か新しい出し物をしようということになって。そこで出たのが佐世保独楽だったんです。独楽の美しさや回る時の元気のよさ、それらを表現した出し物をやることにしました」

独楽の踊りに、独楽の歌、そして駅にあった巨大な独楽のモニュメントも町のみんなで作ったのだそう。その際に、佐世保独楽にちなんで考えられたお菓子が「喧嘩ごま」でした。

卵の黄身が主原料の和菓子の焼き生地「桃山」で、こしあんと蜜漬けした栗を包んだお菓子。ひとくち食べると、栗の風味が口に広がります。

松月堂「喧嘩ごま」

佐世保独楽の独特な形を再現するために苦労したのが、型づくり。業者に依頼してもなかなか思い通りのものが出来上がらなかったといいます。

「結局、うちの工場長がかかりつけの歯医者さんから入れ歯などを作るときに使うシリコンを分けていただいて、それでまず独楽の型をとって、木型に起こしたんですよ」

松月堂「喧嘩ごま」の木型
独楽の形そのものの木型!

くぼみの部分には、食紅などで一筆ずつ線を入れて着色していき、佐世保独楽の鮮やかな模様を表現。

「本来の佐世保独楽には5色の線が入っているのですが、お菓子の『喧嘩ごま』には5色ないんですよ。それをどう佐世保独楽らしい雰囲気に再現するのかは、ちょっと難しかったですね」

こうしてさまざまな工夫を重ねて、見事にお菓子の「喧嘩ごま」が生まれたのでした。

松月堂「喧嘩ごま」

ちなみに、「喧嘩ごま」ができたばかりの頃に買っていかれたのは意外にも町内の方が中心だったそう。

「作った時には珍しがられましたね」と池田さん。

子どものおもちゃから工芸品へ。佐世保独楽の現在の形

さまざまな形で佐世保の街に溶け込んでいる独楽。ここまでくると、実物を見たくなってきました。

かつては佐世保の子どもなら一度は遊んだことがあった佐世保独楽も、今では身近なおもちゃというよりは工芸品の一つとして特別なものになっているそう。

そんな現在形の佐世保独楽を作っている場所があります。

松月堂さんもお菓子作りの際に許可をとったという、現在では唯一の作り手となった佐世保独楽本舗さんです。

佐世保独楽本舗
建物自体が独楽のデザイン!

次回、佐世保独楽本舗さんを訪ねて、この街と深く繋がっている佐世保独楽のことを教えてもらいます。

<取材協力>

御菓子司 松月堂

長崎県佐世保市上京町5-6

0956-22-4458

https://www.showgetsudow.co.jp/

文:岩本恵美

写真:藤本幸一郎

おまけ

佐世保 独楽の形をした街灯
よく見ると…
佐世保 独楽の形をした街灯
ちょっと色あせていますが、まさしくこの姿は佐世保独楽。佐世保の街にはまだまだ他にも色んな姿になった独楽が潜んでいそうです

波佐見の観光で探したい、道端に隠された波佐見焼。世界最大級の登り窯跡や、焼き物の神様も注目です

総面積約56㎢、人口約1万5000人の長崎県波佐見町。この小さな町で作られている焼き物が、日用食器のおよそ16%のシェアを誇るということを知っていますか?

最近になって「波佐見焼」という言葉を耳にする機会が増えている印象ですが、そのシェア数が物語るように、実は400年以上もの歴史をもつ焼き物なんです。

波佐見焼
どこかで見た覚えがある器がありませんか?

今日は、かつて波佐見焼を大量に生み出した世界最大級の登り窯跡が存在するという中尾山へ。

はさみ観光ガイド協会会長の石原正子さんと一緒に、何気ない風景の中に潜む「焼き物の町」らしさを探しながら歩いてみました。

波佐見町
やきもの公園を出ると、食器の生地を載せたトラックを発見!窯元まで運ぶのでしょうか。やっぱり焼き物の町に来たのだなと実感させられます
波佐見町案内図
商店街の案内図だって、焼き物でできています

中尾山で波佐見焼の“日常”を覗く

中尾山の麓へは、やきもの公園から車で5分ほど。中尾山は、波佐見の中で今でも数多くの窯元が集まる場所です。ここからは、歩いて山上にある中尾上登窯跡を目指します。

中尾山ゲート

道沿いの塀には地元の窯元さんたちが協力して作った焼き物の装飾が施されていました。この丸みを出すのが至難の業なのだそう。

波佐見町 中尾山
波佐見町 中尾山
色々な絵柄を見つけながら、勾配のある坂道も楽しく登れました
波佐見町 中尾山
波佐見町 中尾山

道中、石原さんの案内で、波佐見焼の工房にお邪魔することに。中尾山には見学可能な工房が多く、波佐見焼がどのように作られているのかを間近で見ることができます。

波佐見町 中尾山
波佐見焼の特徴は分業制。こちらは生地づくりを行う工房。石膏型に入れて乾燥させているところでした
波佐見町 中尾山
こちらは窯焼き屋さん。窯道具の一つ、「サヤ」がずらり。サヤは器を守る保護ケースのようなもので、これに入れて窯で焼きます
波佐見町 中尾山
ろくろを使った成形作業も見せてくれました

焼き物の神様にも会えます

もうすぐ中尾上登窯跡というところに、焼き物の神様を祀る陶山神社がありました。石原さんによれば、「地元の人たちは、陶の山であることは当たり前のことだからか、『山神社』と呼びます」とのこと。昔から、人々の生活のすぐそばに焼き物があったことがうかがえます。

陶山神社
陶山神社
社殿の中に入ると、色鮮やかな天井絵が目に飛び込んできます。これらは中尾山の窯元の絵師たちが描いたもので、2016年11月に刷新されました
陶山神社
陶山神社
陶山神社
社殿の脇には、焼き物に必要な三大要素「火」「水」「土」の文字が彫られた石碑も
波佐見町 中尾山
山神社の隣にある展望所からの眺め。明治・大正に作られた8本の石炭窯の煙突が焼き物の里らしい風情を残しています

世界第2位の大きさを誇った登り窯

ようやく、お目当ての中尾上登窯跡に到着。

江戸時代半ばごろには、全長約160m、33室もの窯室を擁した世界第2位の規模を誇っていた登り窯です。ちなみに、同じころ世界第1位だった大新登窯跡も中尾山にあり、大量の波佐見焼がこの小さな里山で次々に生産されていたのを想像すると、驚かされます。

中尾上登窯跡
登り窯で焼いたレンガを用いて復元整備中の中尾上登窯跡
中尾上登窯跡
一番上まで登って振り返ると、素晴らしい見晴らし。里山の向こうには鬼木の棚田が見えました

「おそらく、半分くらいの長さだったものが、波佐見焼の需要が増えていくにつれて上へ上へと開墾して窯室を増やしていったんでしょうね」と石原さん。

私たちの手元に磁器が届くようになったのも、この大量生産のおかげ。かつて、波佐見焼の職人たちが日々この坂道を行ったり来たりしていたかと思うと、何だか頭が下がる思いです。

里山の風景に溶け込んだ窯道具たちにも注目を

中尾山を歩いていて面白いのが、しばしば景色に溶け込む窯道具たちに出くわすことです。

道端には、窯焼きをする際に焼き物を載せる「ハマ」がよく落ちていました。ハマに載せて焼くことで形が歪まずにきれいに仕上がるとのこと。焼くとハマも縮んでしまうので、使い捨てなんだそうです。

波佐見町 中尾山
「この辺の子どもたちは、石の代わりにハマで水切りをして遊んだりするんですよ」と石原さんが教えてくれました
波佐見町 中尾山
波佐見町 中尾山
ハマもこんな風に並べると、道を飾る装飾に
波佐見町 中尾山
窯元の建物を交流の場へと改修した「文化の陶 四季舎」。外壁にサヤを埋め込んでアクセントに
波佐見町 中尾山
窯に使われていた耐火レンガも入口部分に再活用
波佐見町 中尾山
「陶芸の里」と記された石碑は、中尾山で見つかったさまざまな時代の波佐見焼のかけらやトンバイが埋め込まれていて、ちょっとしたアート作品のよう

焼き物づくりの気配が随所に感じられる波佐見の町。

もうすぐ、桜陶祭(2018年4月7日~4月8日)や陶器祭り(2018年4月29日~5月5日)で町がにぎやかになる季節です。町の空気や匂いを感じながら、ぜひ自分の足で波佐見焼が生まれてきた現場を歩いてみてください。きっと、波佐見焼がもっと身近に感じられるはずです。

 

<取材協力>
長崎県波佐見町観光協会
http://hasami-kankou.jp/

はさみ観光ガイド協会
http://hasami-kankou.jp/guide

文:岩本恵美
写真:岩本恵美、波佐見町観光協会

給食の食器に磁器を。焼き物の町・波佐見の学校給食で見た「物育」の風景

「いただきます!」

教室中に小学生たちの元気な声が響き渡ります。

懐かしい小学校の給食のひとコマ。

でも、ちょっと普通の給食風景とは違うところがあります。

子どもたちが手にする食器にご注目ください。

給食食器というと、軽くて割れにくいプラスチックやアルミの食器が頭に浮かびますが、焼き物の町・波佐見町の給食食器は違います。

波佐見町立中央小学校

全て町内でつくられた波佐見焼の磁器なのです。

波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見焼の給食用強化磁器食器

焼き物の町、波佐見だからこその給食食器

波佐見町内の全ての小中学校で、ごはんやパンなどの主食におかず、牛乳がそろった「完全給食」を実施するようになったのは、1969 (昭和44) 年。

波佐見町の給食
取材した日の主食はコッペパン。レーズンクリームをつけていただきます。おかずはポトフに白菜サラダ、デザートはイチゴ、そして牛乳という完全給食の献立です

全国的に見ても早いという完全給食導入の背景には、実は波佐見焼が関係していたといいます。

古くから焼き物が地場産業として発展してきた波佐見では、石膏型作り、生地作り、窯焼きの各工程が分業で行われ、いわば町全体が巨大な工場のよう。町民の多くが波佐見焼づくりに携わっており、共働き世帯も多いことから、子どもたちの栄養面を家庭外でもサポートできる完全給食が必要とされていました。

波佐見焼は町を支える産業であるとともに、町の人々の生活にも深く関わるもの。

それほど身近にあった波佐見焼を「学校給食に取り入れよう」という気運は自然と高まっていき、町内にある長崎県窯業 (ようぎょう) 技術センターや各メーカーなど町が一体となって波佐見焼の給食食器の開発が始まりました。

より強く、より軽く。進化を続ける技術

これまで使われていたアルマイト食器よりも、磁器の食器はどうしても重く、厚みが出てかさばってしまいます。

強度を高めつつも、厚みをなくして軽くする。

これが最大の課題でした。

強度を高める原料を使うと、通常の陶土よりも粘性が低くなり、成形が難しくなります。さらに、できるだけ薄く軽くするにはどうすればいいのか、強度を高めるために最適な形状は何かなど、さまざまな試行錯誤が繰り返されました。

1986 (昭和61) 年に強化磁器の試作が行われ、翌年誕生したのが通常の磁器の約3倍の強度を誇る「ワレニッカ」でした。1300℃という高温で焼くことで割れにくく、磁器の分子構造が細かくて密度が高いため、軽くて丈夫な磁器になるそう。

波佐見焼の給食用強化磁器食器
波佐見焼の給食用強化磁器食器
「ワレニッカ」という名前は、「割れにくい」という意味の方言「割れにくか」に由来

町内の学校でおよそ半年の間、試用された結果、実際に強化磁器を使ってみた子どもたちから「食べやすい」「給食をおいしく感じる」と好評だったことから、1988 (昭和63) 年には町内の全学校で強化磁器のご飯茶碗が導入されました。

さらなる改良を続け、1992 (平成4) 年には全学校で強化磁器のお皿も採用。「ハサミ・スクール・ウェア」、「セーフティーわん」と、進化するたびに名前を変えていき、2000 (平成12) 年には全学校の全ての給食食器が強化磁器となりました。

波佐見焼の給食用強化磁器食器
2015 (平成27) 年には、波佐見高等学校美術工芸科の生徒たちから食器の図案を募集し、デザインを刷新。種類も豊富にあり、給食が楽しくなりそうです
波佐見焼の給食用強化磁器食器
波佐見焼の給食用強化磁器食器

器からも伝わる“おいしさ”

強化磁器を給食に取り入れてから、30年。子どもたちにはどんな変化があったのでしょうか。

波佐見町立中央小学校の給食タイムにお邪魔してきました。

波佐見町立中央小学校
波佐見町立中央小学校

訪れたのは、1年生の教室。すれ違うたびに、元気よく「こんにちは!」と挨拶してくれる子どもたちの姿が印象的です。

波佐見町立中央小学校の1年生たち
「給食当番は白衣を着る」というのは今も昔も変わらないところ。力を合わせてみんなのもとへ給食を運びます
波佐見町立中央小学校の1年生たち
波佐見町立中央小学校の1年生たち
配膳も分担作業でテキパキとこなしています。磁器の扱いにも慣れているよう

「給食はおいしいですか?」と問いかけてみると、どの子も口をそろえて「おいしい」「うまい!」と大絶賛。

「波佐見は残食が本当に少ないんです。プラスチックなどの器にのっているよりも、磁器に盛り付けられた方がおいしそうに見えることもあるんでしょうね」と、給食センター所長の林田孝行さんはいいます。

「食育」そして「物育」へ

「割れにくい」といっても、磁器である以上、もちろん割れることはあります。そのことを子どもたちもきちんと理解していました。

「おうちでも、こういう食器で食べているよ」

子どもたちは、器を落とさないよう、しっかりと手で持って食べるのが習慣になっているようです。

波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見町立中央小学校の1年生

食事マナーを学ぶ「食育」としての面でも、ものを大切にする「物育 (ぶついく) 」としての面でも期待ができる波佐見焼の強化磁器。全国各地の学校からもしばしば問い合わせがあるのだとか。

波佐見町立中央小学校の1年生たち
食べ終わった子どもたちは、丁寧にお皿を重ねていきます

「私が小さいころは味気ないアルマイトのお皿で給食も冷たい雰囲気。でも磁器だと、カチャカチャと器が軽く当たる音が家と同じで、家庭の延長という感じがします。どこかあたたかい気がしますよね」と、学校を案内してくれた波佐見町教育委員会の福田博治さん。

楽しく給食を食べている子どもたちの姿が、食事の時間を豊かにしている何よりの証拠。
毎日素敵な食器を手に、自然とものを丁寧に扱える波佐見の子どもたちが何だか羨ましく思えたひと時でした。

 

<取材協力>
波佐見町教育委員会
波佐見町立学校給食センター
波佐見町立中央小学校

文・写真:岩本恵美

“カラコロ”と幸せ運ぶ、佐賀の「のごみ人形」

みなさん、「郷土玩具」と聞いてどんなものを思い浮かべますか?もしかすると、おばあちゃん家にあるような、ちょっぴり渋い人形を思い浮かべてしまうかもしれません。でも、そんな先入観で郷土玩具を一括りにしてしまうのは、もったいない!

日本各地には、実に個性的で愛らしい郷土玩具があります。郷土玩具は、読んで字のごとく、“郷土”に根ざした“玩具”。一つひとつ手作りされ、土地の人々の手で伝えられてきた玩具です。どれも似ているようで、似ていない。それは、その土地ならではの文化や歴史、風習を映し出す鏡のようなものです。

郷土玩具を手にすれば、その土地をもっと深く理解できるはず。

そんな思いから各地の魅力的な郷土玩具を紹介する「さんちの郷土玩具」。

今回は、佐賀県鹿島市の「のごみ人形」に会いに行ってきました。

実は、認知度は全国区?

「のごみ人形」は、干支や動物、七福神、佐賀にちなんだ祭りや行事などをモチーフに、約50種がそろうバラエティー豊かな郷土玩具。「能古見 (のごみ)」という昔からの地域の名前をとって、「のごみ人形」と名付けられました。

この通り、ぽってりとした形とカラフルな色使いが特徴です。竹皮とい草でできた紐がついているものは、「カラコロ」という素朴な音が鳴る土鈴になっています。

のごみ人形

写真を見て、「この人形、どこかで見たことあるぞ」と思った方。

その既視感は正解です。

実は、のごみ人形は、昭和38年、平成3年、平成26年と、これまでに3回も年賀切手のデザインに採用されています。佐賀県を飛び出し、全国津々浦々の人の前にお目見えしているのです。どこかで見かけていても、おかしくありません。

のごみ人形
昭和38年に兎鈴、平成3年に未鈴が年賀切手に採用されました
のごみ人形
平成26年の稲荷駒の年賀切手は、記憶に新しいはず

人々の心に潤いと楽しみを

のごみ人形は、染色家の鈴田照次 (すずた てるじ) さんが生み出した郷土玩具。1945 (昭和20) 年の終戦後、物資が少なく、生活苦が続く中で、人々の心を少しでも明るくしたいという思いから作り始めたといいます。

当初は資材も少ない中での制作だったため、木製の人形だったそう。その後、干支をモチーフにした土鈴を作るようになり、現在のような土製の人形へと移り変わっていきました。

木製だった当初から、佐賀に生息するカチガラスや民俗芸能「面浮立 (めんぶりゅう) 」など、郷土に縁があるものを題材に製作

1947年ごろからは、日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷神社の境内でも参詣みやげとして売られるように。十二支の土鈴だけでなく、神社にちなんだ稲荷の神の使いである命婦 (みょうぶ) や稲荷駒も作られるようになり、魔除けや縁起物の人形として、この土地に根付いていきました。

現在では、工房や祐徳稲荷神社のほか、JR肥前鹿島駅の土産物店でも販売され、まさにこの地域を代表する郷土玩具となっています。

変わらぬ手づくりの工程

のごみ人形は、2種類の土をブレンドした粘土を石膏型に入れ、形を作っていきます。

のごみ人形の石膏型
こちらは、新デザインの十二支鈴「唐犬」の石膏型。中国原産のペキニーズをモデルにしたそう

土鈴の場合、土を固めた玉を入れて、音が出るように。乾燥後につなぎ目をなじませ、底部分に切り込みを入れることで、鈴の音を響かせます。この切り込みの匙加減ひとつで響きが変わってくるのだとか。

のごみ人形製作工程
切り込みをまっすぐ、均一な幅で入れていきます
のごみ人形製作工程
乾燥後、土鈴の音色を必ずチェック。いい音でないものは土に戻して作り直します

土鈴にしたのは、「音が鳴る」と「良くなる」という言葉を掛け合わせた縁起物という意味合いがあったのではないかとのこと。「カラコロ」という響きは、福を呼び込む音でもあったようです。

一つひとつの線に意味を込めて

窯で焼き上げたら、次は絵付けです。一筆ずつ、丁寧に色をのせていきます。色づきをよくするために顔料に水で溶いた膠を加え、固まらないようにIHヒーターで温度調節をしながら、色を塗り重ねます。季節や天候で状態が変わるので、職人の勘が頼り。

のごみ人形製作工程
まだまっさらな状態の亥の土鈴
のごみ人形製作工程
単純化しすぎないよう、動物らしさを意識して絵付けしていきます

筆入れは、一本一本の線の意味を考えながら行っていくとのこと。例えば、狆 (ちん) をモデルにした戌の土鈴では、首横の縦線で長い毛並みを表現。変わらぬ絵柄を受け継いでいけるよう、線の太さにも細心の注意を払っています。

のごみ人形
狆 がモデルの戌の土鈴

親子三代で受け継いできたもの

鈴田照次さんが始めた「のごみ人形工房」を現在任されているのが、孫にあたる鈴田清人さん。昨年の春から工房管理を担当しています。昨夏に型取りを担当していたベテランの職人さんが引退し、新体制となって半年ほど。

「とにかく今は丁寧に作ることを重視しています。祖父や父が守ってきた『のごみ人形』の品質をしっかり保ちたい。その上で、ゆくゆくは新しい種類のものも増やしていきたいですね。有明海の干潟に住むワラスボなども作ってみたいです」と清人さん。

守るべきところは守り、進化できる部分は進化を続けていく。

これからも、のごみ人形はさまざまな形で人々の心を明るく照らしていきます。

<取材協力>
のごみ人形工房
佐賀県鹿島市大字山浦甲1524
0954-63-4085
https://www.nogominingyo.com/

文・写真:岩本恵美

見てよし、飲んでよし、使ってよし。佐賀の地酒を有田焼で味わえるカップ酒

ずらりと並んだこの華々しいカップたち。焼き物に詳しい方なら、「有田焼かな」とピンとくるかもしれません。

でも、このカップ、ただの有田焼のカップじゃないんです。カップの中身は、お酒。何とも豪華な有田焼のカップ酒なのです。

カップ酒ブームにのって誕生

古伊万里酒造
古伊万里酒造の販売所「前 (さき) 」

開発したのは、佐賀県伊万里市にある老舗の酒蔵・古伊万里酒造と有田焼の窯元・文八工房。今からおよそ10年前、カップ酒ブームを目の当たりにした窯元が「有田焼のカップ酒が並んでいたら美しいだろう」と、古伊万里酒造に商品開発を持ちかけました。

有田焼カップ酒の名は「NOMANNE (のまんね) 」。伊万里の方言で、「飲みませんか」「飲んでみて」という意味だそう。外国語のようにも聞こえる言葉の響きも素敵です。

NOMANNE
高級感あふれる黒箱に収められるので、ギフトにもピッタリ。有田焼のカップにお酒もついていることを考えると、1本1,600円(税別)はお手頃

2006年の有田陶器市で試作品を販売し、250個ほど用意したカップ酒は即日完売に。翌年には商品化され、お土産や贈答品として人気を博しています。

県に認められた酒を佐賀の酒器でいただく

カップ酒のプラスチックキャップの大きさが直径64ミリと決まっているため、そのサイズに合わせた飲み口になるよう、カップ部分をつくらなければなりません。

NOMANNE

「磁器の有田焼は焼成で土が2割ほど縮むため、その調整は大変でした。窯元と試行錯誤を繰り返しましたね」と、古伊万里酒造4代目前田くみ子さん。

一方で、磁器の有田焼カップは透明ガラスのカップよりも遮光性が高いので、酒質が安定するという利点もあるのだそう。

中身のお酒は、佐賀県産のお米と水でつくられ、「佐賀県原産地呼称管理制度」で県の専門家から認められた純米酒。「NOMANNE」は、正真正銘の佐賀のお酒を佐賀の器でいただける、こだわりのカップ酒なのです。

カップ酒から学べる、有田焼の様式

現在、「NOMANNE」の絵柄は5つ。すべて白磁に有田焼の古典柄が施されています。

一般的に、有田焼の様式は「古伊万里」「柿右衛門 (かきえもん) 」「鍋島」の3つに大きく分けられ、その3様式を「NOMANNE」を通じて知ることができます。このさりげなさが何とも粋です。

NOMANNE
古伊万里様式の中でも初期は、シンプルな染付がメイン。蛸唐草 (たこからくさ) の染付
NOMANNE
こちらも古伊万里様式。蓮の花を描いた芙蓉手 (ふようで) の染付
NOMANNE
古伊万里様式の金襴手 (きんらんで) 。染付とはうって変わって、金彩が施され、豪華絢爛な雰囲気に
NOMANNE
この牡丹唐草の文様は、古伊万里酒造の前田家に伝わるお皿の意匠からとったデザインだそう
NOMANNE
柿右衛門様式の牡丹柄。十分な余白と左右非対称な構図を活かして花鳥風月が描かれているのが柿右衛門様式の特徴
NOMANNE
鍋島様式の橘柄。鍋島の中でも、赤、黄、緑の3色を基調に絵付けした「色鍋島」と呼ばれるもの

お酒を飲み終わったあとは‥

飲み終わった後に、有田焼の器として活用できるのも嬉しいところ。そのままカップとして使うのはもちろん、花瓶やペン立て、箸立て、保存容器など、使い方はさまざまです。

旅の思い出の品として自分用にも、贈り物にもしたい「NOMANNE」。

「NOMANNE」片手に、しばらく会っていないあの人を「飲まんね?」と誘ってみるのも一興です。

ここで買えます

・古伊万里酒造蔵元販売所「前」
古伊万里酒造オンラインショップ
・新宿伊勢丹酒売場
・西武池袋本店酒売場

<取材協力>
古伊万里酒造
佐賀県伊万里市二里町中里甲3288-1
0955-23-2516
http://www.sake-koimari.jp/

文・写真:岩本恵美

庭を知ると旅が10倍楽しくなる。「知覧武家屋敷庭園」の巡り方

日本各地にある庭園や名勝は、定番の観光スポット。でも、旅先で何となく訪ねて帰ってしまっていませんか?

一見すると見逃してしまいがちですが、実は庭にはその時代を生きた人々の足跡が残されています。当時の文化や歴史、人々の生活に思いを馳せることができる場所なんです。

知れば知るほどに面白い、産地の庭を訪ねる「さんちの庭」。

今回は、NHK大河ドラマ「西郷どん」でも注目が集まる鹿児島の庭園を紹介します。

江戸時代の武家屋敷にタイムスリップ

訪れたのは知覧武家屋敷庭園。7つの庭園からなる国指定の名勝です。

庭園がある南九州市知覧町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、「薩摩の小京都」とも呼ばれている地域。そこには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景色が広がります。

知覧武家屋敷庭園
電柱が全くない、開けた町並み

今回、案内くださったのは、庭園を管理されている知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合代表の森重忠 (もり しげただ) さん。

森さんに武家屋敷庭園ができた経緯についてたずねると、「江戸時代、薩摩藩は領地を113に区分けをして、102の城をつくる『外城 (とじょう) 制度』の下に統治されていたの。その城の麓に武家集落を作り、半農半士という形で武士を散らばせていた。知覧もその一つ。そうやって半官半民のようにしていたのは、一揆を起こしにくくするという理由もあったんじゃないかと思うよ」と教えてくれました。

一つの城に収まりきらないほど多くの武士たちが薩摩各地に散らばり、いざ戦というときに本城である鶴丸城に集結する。

森さんによれば、武士の数は薩摩が日本一だったんじゃないかとのこと。

一国一城が当たり前の時代に、こうした統治制度を活用していたとは、さすが武士の国、薩摩です。

武家屋敷ならではの見どころがいっぱい

最初に案内いただいたのは1741年に造られた森重堅庭園。他の6つの庭は枯山水なのに対し、こちらの庭園は水が引かれた池泉式の庭園になっています。この庭園が最も山に近く、水が引きやすかったためだそう。

奇岩や怪石でできた岩山は、近くの連山に見立てているのだとか。そうやって見ていると、そのスケールの大きさに驚かされます。

知覧武家屋敷庭園

これは、まだまだほんの序の口。知覧武家屋敷庭園ならではの見どころは、まだまだたくさんあります。

森さんと一緒に風情ある町並みを歩きながら、その見どころを巡っていきましょう。

体は位を表す!? 門と石垣が表すもの

さっそく「この門見てみて」と森さんが指さしたのが、こちら。

知覧武家屋敷庭園
ん?なんの変哲もない門のようですが‥。

「門に肩があるでしょ。肩があるのが本家門」と森さん。

知覧武家屋敷庭園
この部分が門の「肩」。左右にあります
知覧武家屋敷庭園
こちらは分家門。肩のない、シンプルなつくりです

「石垣でも位を分けている。丸い玉石と四角い石があるでしょ」

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園

四角い切り石の方が丸石の石垣よりも格式が高い家なんだそう。門と石垣の組み合わせで位がわかったといいます。

道にも武家集落らしい工夫が

散策を続けていると、「この道を見てみて。掘ってあるんですよ。なぜ掘ってあると思う?」と森さん。

知覧武家屋敷庭園
たしかに、道の部分は屋敷よりも一段低くなっています

これは、排水のためだそう。道を低く掘ることで、屋敷に溜まった水が道に流れていくようになっています。何とも理にかなったつくりです。

三叉路に差し掛かると、石垣の合間に巨大な石を発見。「石敢当 (せっかんとう) 」というようですが、これはいったい‥?

知覧武家屋敷庭園

すると、森さんが答えを教えてくれました。「これは魔除け。悪魔や災いは来るなよって、三叉路の突き当りに置いてある。悪霊とかはまっすぐにしか行けなくて曲がれないものらしい」

石敢当は中国発祥の信仰で、江戸時代に琉球を経由して薩摩に伝わってきたものだそう。知覧にはこうした石敢当が十数個あります。

さらにてくてく歩いているうちに気がついたのが、まっすぐでない道が多いこと。

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園

これは、万が一敵が攻め込んできた場合、敵の勢いを削ぐためなんだとか。まっすぐにしか飛ばない弓矢も角の向こうまでは届きません。武士ならではの発想です。

門をくぐった先にも垣間見える武士の魂

庭園の外から楽しめる見どころを巡ったら、いよいよ内側へ。

門をくぐったところに立ちはだかる石垣は、「屏風岩 (ひんぷん) 」と呼ばれる琉球由来のもの。

知覧武家屋敷庭園
入口から守りが堅いのは武家屋敷ならでは!?

「これは屋敷の中に弓矢を射ることができないようにするため。それと、敵が屋敷に一斉に押し寄せても分散されるでしょう」と森さん。

さらに、生垣にも武士の屋敷らしい痕跡がありました。イヌマキという針葉樹でできた生垣は、風通しがいいだけでなく、防御力もあるというのです。

知覧武家屋敷庭園
「外からは中の様子が見えないでしょう」と説明してくれる森さん
知覧武家屋敷庭園
ところが、内側からは森さんの赤いジャンパーがうっすら見えます。しかも、この生垣はやわらかくてよじ登ることができないそう

入口から振り返ると、門の脇には小屋があります。

知覧武家屋敷庭園

これはなんと、かつてのトイレなんだとか。

知覧武家屋敷庭園
トイレだった証拠に、すぐそばに手水鉢がありました

「入口近くにトイレがあったのは、はじめて訪問したお客さんでも気兼ねなく使えるためと、外を通る人の気配や声をキャッチできるため。情報収集の場所でもあったわけです。

それと、『薩摩武士たる者、常に先陣に立て』こんな言葉もあります。門を出るときに用を足しておけば、他の者より先へ先へ行ける。理にかなっているでしょう」

続いて、屋敷を見ていきましょう。屋根にご注目を。

知覧の屋敷は「知覧二ツ家」という独特のもので、居住用の「オモテ」と台所のある「ナカエ」の2棟の建物を合体させた形になっています。2つの屋根の間に小棟 (こむね) を置いてつないでいるのが特徴です。

知覧武家屋敷庭園
森さんによれば「屋根に瓦がついていたら武家、瓦がなかったら農家」とのこと
知覧武家屋敷庭園
中には少しスッと反った形をした唐風の屋根も
知覧武家屋敷庭園
男女で玄関がわかれるのも武家屋敷らしい。左が男玄関、右が女玄関

武士らしさの中に垣間見える風流

武家屋敷らしさという点では、この平山亮一庭園は見逃せません。

住まいの外側に縁側がある「ぬれ縁」。雨戸の戸袋がどこにあるか、わかりますか?

知覧武家屋敷庭園

実は戸袋はないんです。その代わり、この角の部分でクルッと雨戸を方向転換できるようになっています。その名も「雨戸返し」。

知覧武家屋敷庭園

「これは死角をなくすため。戸袋があると、曲者が隠れる場所をつくってしまうでしょう」と森さん。見通しをよくするために戸袋をなくしてしまうという、斬新なアイデアです。

さらに、角部分にある棒は取り外し可能。男性が留守にしている日中、家を守る女性が不審者を撃退するための武器として使われたといいます。

知覧武家屋敷庭園
知覧武家屋敷庭園
この細長い水鉢は、刀や槍についた血を洗うためのものなんだとか。さすが武家屋敷です

時代を動かした薩摩藩士たちの勇ましさを随所に感じる一方で、庭園を見渡すと趣を感じずにはいられません。

知覧武家屋敷庭園
庭に点々と並ぶ石は、いったい何でしょう?

実は、これらの石は盆栽を置くためのもの。盆栽の位置を日々変えることで、和歌を詠む題材を変えて楽しんでいたのだそう。何とも風流な遊びです。

さらに、こちらの庭は後ろに見える山々を借景としているといいます。

知覧武家屋敷庭園
普通に見るとイマイチよくわかりませんが、少しかがんでみると‥
知覧武家屋敷庭園
左奥の生垣の2つのコブが背後の山の稜線と重なり、連山のように見えます。昔の人の平均身長は150㎝ほど。その目線に合わせて計算された庭づくりには脱帽してしまいます

こうした素晴らしい庭が生まれた背景には、どうやら知覧の薩摩藩士たちのルーツが関係しているようです。

「知覧に移り住んだ武士たちは、平家の末裔と言われている。資金があったからこそ、これほどのものが造れたんじゃないかと。私が小さいころは、この辺のおじいちゃん、おばあちゃんは皆、きれいな京都弁だったよ」と、森さんは振り返ります。

知覧武家屋敷庭園
西郷恵一郎庭園には、「鶴亀の庭」の別名も。鶴と亀が同居する、おめでたい庭です
知覧武家屋敷庭園
サツキと石で水の流れを表現している平山克己庭園。どこを切り取っても庭園としての調和がとれています

知覧の人々で守ってきた庭と町並み

江戸時代に造られた立派な庭と町並みが、当時の姿を残したまま見られるのは稀有なこと。そもそも、どうして残っているのでしょう?

「それはここに住んだ人たちが残していったからなんだよね。知覧の庭も町並みも、行政じゃなくて住民たちで管理している。入園料は、7つの庭園だけじゃなくて周辺の家々の手入れにも使っているから、風情ある町並みに保たれている。そして、毎日みんなが掃除をするからきれいなの。そういう取り組みを、きっとどこよりも早く始めたから今でも残っているんだよ」と森さん。

知覧の人々が武家集落の町並みを守り継いでいけたのは、外城制度で育まれた地域意識や結束力が根底にあったのかもしれません。

そんな江戸時代の面影が残る知覧の町。ぜひその町並みを歩いて、江戸を生きた薩摩藩士の暮らしを肌で感じてみてください。

<取材協力>
知覧武家屋敷庭園
http://chiran-bukeyashiki.com/
住所:鹿児島県南九州市知覧町郡13731-1
TEL:0993-58-7878

文:岩本恵美
写真:尾島可奈子