仏師という仕事の魅力とは。仏像好きのプロボクサーが出会った天職

「ボクシングを始めたのはマイク・タイソンの試合を見て憧れて。若気の至りですよね」

高校2年の終わりに始めて、フェザー級のプロボクサーとしてA級ライセンスを取得。ボクシングの聖地、後楽園ホールでも闘った。

ちょうど10年の節目を迎える前に、迷いが出始める。

「ボクシングってやっぱり若い頃しか出来ないスポーツだと思うんです。そこで花開くか開かないか、だんだん歳を重ねると分かってきますよね。どんなスポーツでもそうですけど」

プロボクサーは17〜36歳までという年齢制限がある。当時25・6歳。20代も半ばを過ぎ、ボクサーとしても折り返し地点。これからを考えるようになっていた。

やめようか。

そんな思いを抱きはじめていたある日、何気なく手に取った新聞の折込チラシが目に留まった。

「そういえば、小学生の頃から好きだったな、と。はじめは全くの趣味で通い出したんです」

仏像彫刻のクラスを開講するという、カルチャーセンターの案内だった。

プロボクサーの転向先は

河田喜代治 (かわた・きよはる) さん。職業は仏師。

ボクサーから仏師へ 河田さん

仏師とは造仏師の略で、仏像を作る仕事。修復も行う。

大きな専門機関もあるが、河田さんのように個人でお寺から依頼を受けて仏像の新作や修復を手がける仏師もある。

工房には修理中の仏像が並ぶ
工房には修理中の仏像が並ぶ
仏師は仏像の素材に応じて専門が分かれる。河田さんは木彫専門。新作を作るときは、こうした像の持つ道具ひとつずつ、木から彫り起こしていく
仏師は仏像の素材に応じて専門が分かれる。河田さんは木彫専門。新作を作るときは、こうした像の持つ道具ひとつずつ、木から彫り起こしていく

現在工房を構える滋賀では「知る限りでは10人、京都なら100人近くいるのでは」とのこと。

「古い仏像の数は、やはり関西が多いですから」

地元の千葉で3年修行したのち、県内の修理所に学ぶため奥さんとともに滋賀に移住。7年の弟子入り期間を経て2012年に独立した。

修行期間を数えれば、ボクシングに夢中になっていた歳月と同じ、およそ10年の月日になる。

きっかけは楽しく通い出したカルチャーセンターの仏像彫刻クラスで、先生からもらった一言だった。

「曲線をみるのが上手いね」

思わぬ才能と蘇る記憶

「仏像って、基本は『丸』で出来ているんです。赤ちゃんの体型を神格化させたような姿というか」

オリジナルで手がけた「誕生仏」。どこをとっても仏像は丸みを帯びている
オリジナルで手がけた「誕生仏」。どこをとっても仏像は丸みを帯びている

「例えば顔のつくりでも、平面のようでうっすら曲線があったり、同じ曲線でも、わずかな角度の違いがあったりするんですね。

特に修復の時は、元々の仏像が持つ曲線にそって直すことが大事になります。それで表情や雰囲気が全く変わってくるので」

そんな重要な曲線を、つかまえるのが上手いと河田さんを褒めた先生は、まさに仏像修復を専門にしているプロの仏師だった。

クラスに1年通ったのち、腕を見込んだ河田さんに先生が「ちょっと手伝わないか」と声をかけた。

なかなかカルチャーセンターから本業にする方も珍しいのでは、と聞くと「運が良かったんですね」と一言。

「あと、タイミングかな」

思い返せば小学生のころから不思議と仏像が好きだった。

修学旅行でお寺に行くと、熱心に仏像を眺めた。時々粘土で手作りして遊んだ。

「例えば室生寺の釈迦如来は、顔と手がとてもきれいなんですよ。お顔で言ったら室生寺のこのお像が、一番好きです。

鼻先から指先、シルエットまで曲線から全てから、すっとこちらの姿勢を正してくれるような佇まいで」

今の河田さんに好きな仏像のことを聞けば、惜しみない賛辞の言葉が溢れでてくる。

高校でボクシングと出会い、夢中になった10年。迷いの中あのチラシと出会うまで、すっかり忘れていた感情だった。

「声がかかった時には迷いなく、是非と答えていました」

ボクシンググローブを外した手に今は、100以上の道具を握る。

仏師 河田さん
ボクサーから仏師へ 河田さん

「これでも少ない方ですよ、200、300持っている人もいますから」

修復にあたる仏像は、一体一体コンディションが異なる。

作られた年代や置かれていた環境、前回の修復の仕方や材料。

その状態に応じて、適切な道具を使い分けなければならない。

壁にずらりと並ぶ道具類
壁にずらりと並ぶ道具類
漆と木屑を混ぜ合わせたもの。乾漆という、表面を布張りで作るお像に用いる
漆と木屑を混ぜ合わせたもの。乾漆という、表面を布張りで作るお像に用いる

「修復の場合は、オリジナルの肌は絶対削らないことが何より大事です。

結局僕たちも、昔のいいものを見て技術を学んでいます。

削ってしまうと、なくなった部分っていうのは二度とわからないわけです。

後世の人たちの研究材料としても、大きな損害を与えてしまうことになる。だから手を入れるのは以前の修復の層だけです。

何より祈りの対象だから、それを削ってしまうというのはとても怖いことですよね」

わずかな力加減が致命傷となる。だからこそ自分の手先となる道具のひとつひとつに神経を使う。

「これだと錆びてる釘もうまく抜けるんです」と東寺の骨董市で見つけ出したという道具を披露する河田さんは、とても嬉しそうだ。

仏師河田さんの道具

ボクサーがカルチャーセンターで出会った、一生の仕事。

仏師としての仕事は、修復所の先生や、仕事でお世話になる道具屋さんなどの紹介で少しずつ実績を積み、今に至る。

まず小さな修復から。納めた先に腕を信用してもらえたら、同じところから次は新作の依頼が来る、というように。

初仕事の思い出をたずねると、控えめな答えが返ってきた。

「僕のものではないですし、やった!とかそういう達成感ではないですね。信仰の対象ですから。

安堵感しかないです。ようやくできたって」

作っている時も、ほとんど何も考えず、無心で取り組んでいるという。

次第に、勝ちをコツコツ積み上げる、ストイックで寡黙なボクサーにインタビューしているような気持ちになってきた。

仏師という仕事の「これがあるから続けていられる」ものは何ですか、と聞いてみると、

「いまの話そのものじゃないかな。自分じゃないものに、無心で向き合えるところです」

最後に見せてもらった現役当時の写真には、今と変わらず目の前の相手に一心に向き合う河田さんが写っていた。

ボクサーから仏師へ 河田さん

<取材協力>
河田喜代治さん

文・写真:尾島可奈子

東京でふらりと職人体験できる「Hacoa VILLAGE TOKYO」全フロアガイド

東京都心に、“職人”がテーマというユニークな施設がオープンしました。

その名も「Hacoa VILLAGE (ハコアビレッジ)TOKYO」。

hacoavillage

4階建ての建物の中には、木の雑貨が並ぶショップや本格的な工房、ものづくり体験ができるワークショップのフロア、そしてチョコレートショップも?

オープン直後の施設を訪ねて、各フロアを案内いただきました!

東京に突如現れた「職人のビレッジ」とは?

やって来たのは東京茅場町。

目の前を隅田川が流れ、すぐそばにオフィス街があるとは思えないほどゆったりした雰囲気の一角に「Hacoa VILLAGE」はあります。

hacoavillage
オープン直後とあって入口には祝い花が華やかに並んでいました
オープン直後とあって入口には祝い花が華やかに並んでいました

施設名にもなっている「Hacoa」とは、1500年もの歴史を持つ伝統工芸「越前漆器」をルーツに持つ、福井県鯖江市発の木製デザイン雑貨ブランド。

ドアを開けるとふんわりと木の香りに包まれました。1Fは木製プロダクトがずらりと並ぶショップになっています。

とはいえ、直営のお店だけならこれまでも東京に出店してきたHacoaさん。このお店はちょっと様子が違うようです。

まずは1Fを探訪!
まずは1Fを探訪!

まずは1F、木とチョコレートが融合したユニークな店内を散策

よく見ると店内は、商品に限らずあらゆるものが木製。

ハコアビレッジ
お手洗いのサインや
お手洗いのサインや
レジのトレイも木製です!
レジのトレイも木製です!

「作れるものは、できるだけ自分たちで手がけています」

と、フロアを案内してくれたのはHacoaクリエイティブ・ディレクターの木内宏美さん。さすが木のプロならではの内装です。

実はHacoaさんの製品はどれも、職人が自分でデザインから手がけているそう。そうすることで木の特性を活かした製品のアイデアが生まれるそうです。

ハコアビレッジ
ハコアビレッジ
ハコアビレッジ
先ほどのお手洗いマークも購入できます
先ほどのお手洗いマークも購入できます
こちらのメガネケース元々は‥‥
こちらのメガネケース元々は‥‥
このような細かな切込みを入れるアイデアで作られています
このような細かな切込みを入れるアイデアで作られています

人気は腕時計。カップルでお揃いを買ったり、男性用の贈りものに人気だそう。

ハコアビレッジ

もうひとつ、木の専門メーカーらしいサービスがありました。それが商品への名入れ。

サービスの案内板自体が、そのまま名入れ見本になっていました
サービスの案内板自体が、そのまま名入れ見本になっていました

混んでいなければ待ち時間20〜30分ほどで、名前や模様を気に入った商品に入れることができます。

様々なアイテムに名入れが可能。贈りものや記念品に良さそう
様々なアイテムに名入れが可能。贈りものや記念品に良さそう

そして木のプロダクトが並ぶ向かいには、ちょっと違う雰囲気のコーナーが。

ハコアビレッジ

「こちらは、チョコレートショップなんです。わたしたちが立ち上げたブランドなんですよ」

実はHacoaさん、「DRYADES(ドリュアデス)」というチョコレートブランドも立ち上げているんです。

ハコアビレッジ

「わたしたちが作っているプロダクトもチョコレートも、どちらも木の恵みなんですよね。

木の魅力をもっと世の中に発信していきたい想いが高じて、立ち上げました」

ハコアビレッジ
こちらのチョコレートの表面にはわずかな凹凸が。業界では異例だという木製の型をあえて使うことで、木の肌のゆらぎをチョコレートの表面に転写させているそう
こちらのチョコレートの表面にはわずかな凹凸が。業界では異例だという木製の型をあえて使うことで、木の肌のゆらぎをチョコレートの表面に転写させているそう
もちろん木型は、Hacoaさんのオリジナルです
もちろん木型は、Hacoaさんのオリジナルです
ドリンクもオーダーできます
ドリンクもオーダーできます

ちょっと手土産にチョコレートを買いに来た人が、ついでに木のアイテムを手に取ったり、名入れのサービスを待っている人が、合間にチョコレートを買い求めたり。

「ものづくりをもっと身近に」という想いが結びついて、1Fは木とチョコレートのお店というユニークな空間になっていました。そしてHacoaさんの想いは、ショップにとどまらず2Fへと続いています。

2Fはものづくりを肌で感じる絶景サロン

「2Fはワークショップやイベントを開くサロンスペースになっています」

ハコアビレッジ
2F

まず目を奪われたのが見晴らしのいいテラス。隅田川が目の前です。

ハコアビレッジ

「イベントがないときは解放して、1Fで買ったチョコレートやドリンクを持ち込めるイートインスペースにする予定です」

水辺のゆったりとした空気感に木の空間がよく似合います。これは1Fのお買い物と一緒にぜひ立ち寄りたいスポットです。

さらに、土曜を中心にここで行われるというワークショップも本格的。

ペーパーウェイトなど小物のほか、木のスツールまで作れてしまうそうです。

ちょうどワークショップ用の材料が置いてありました
ちょうどワークショップ用の材料が置いてありました
hacoavillage
完成形がこちら。自分で作ると一層愛着が湧きそうです

「スツールづくりでは材の角をやすったり塗装をしたり、最後の仕上げの工程が体験できます。

普段僕らが感じている、製品が出来上がる瞬間の感動をぜひ味わっていただきたくて」

そう語るのは、普段は本社のある鯖江の工房で働く職人さん。ワークショップでは、Hacoaの職人さん自らものづくりを手ほどきします。

3Fには彼らが試作などに使うラボがあり、その様子を見学することができます。

3Fに設置されていたサイン
3Fに設置されていたサイン
職人さんのこんな真剣な表情に出会えるかも
職人さんのこんな真剣な表情に出会えるかも

目指すのは、職人が活躍する未来

ハコアビレッジのテーマは職人。

「職人がもっと活躍する場と未来を」という願いから、木とチョコレートのお店が融合し、すぐ上の階でものづくりに触れられる、ユニークな施設が生まれました。

施設のいたるところには、世界観を伝えるサインが
施設のいたるところには、世界観を伝えるサインが

そんなHacoaさんが大事にしている職人の世界観は、各階をつなぐ階段でも感じることができます。

ハコアビレッジ
実際のものづくりの様子や鯖江の自然など、私たちのルーツや想いを表す写真
実際のものづくりの様子や鯖江の自然など、私たちのルーツや想いを表す写真
3Fから4Fのオフィス階に向かう階段スペースには、未来をイメージした写真を飾っているそう
3Fから4Fのオフィス階に向かう階段スペースには、未来をイメージした写真を飾っているそう
ハコアビレッジ

「今後はいわゆる伝統的な工芸品に限らず、左官や庭師など、各界の職人をお呼びしてのトークイベントやものづくりの塾も開いていく予定です。

東京に限らずこうした発信拠点をもっと増やしていきたいですね」

職人サロンと題したトークイベントなど、今後も参加・交流型の情報発信を充実させるそう
職人サロンと題したトークイベントなど、今後も参加・交流型の情報発信を充実させるそう

お店だけ、工房だけでもなく、作り手も使い手も一緒にものづくりを楽しむ「ビレッジ」。

平日に、休日に、来るたびに違う楽しみ方で職人の世界を味わえそうです。

<取材協力>
Hacoa VILLAGE TOKYO
東京都中央区新川1-20-6
https://hacoa.com/directstore/shopinfo/hacoavillage-tokyo/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、Hacoa

沖縄「金細工またよし」のジーファー、房指輪はどうやって作られているのか

昨年、大きな話題を呼んだ、平成の歌姫、安室奈美恵さんの引退。

出身である沖縄県は、世代を問わず愛された歌姫の輝かしい功績を讃え、県民栄誉賞にあるものを贈りました。

それは美しい純銀のリング「房指輪」と髪飾り「ジーファー」。

どちらも世界でただ一人、又吉健次郎さんだけが作ることのできる沖縄伝統の金細工「クガニゼーク」です。

工房またよしの又吉健次郎さん。87歳。首里王府の命により中国に渡って金細工の技術を修得した初代から数えて7代目です
工房またよしの又吉健次郎さん。87歳。首里王府の命により中国に渡って金細工の技術を修得した初代から数えて7代目です

はるか琉球の時代から人の門出に寄り添い、平成の歌姫の花道を飾った銀の飾り。今日はそんなクガニゼークのお話です。

沖縄伝統のエンゲージリング「房指輪」

「さっきは男性が婚約指輪にと、買いに来られていました」

又吉さんがおもむろに仕事の手を休めて指し示したのは、「房指輪」。

沖縄県が安室奈美恵さんに贈ったクガニゼーク
シンプルな銀の指輪に、いくつもの飾りが取り付けられています

琉球王朝時代に生まれた金細工「クガニゼーク」のひとつです。細かなパーツに至るまで、すべて溶かした純銀を打ち叩いて作られます。

魚や果物などをかたどった飾りにはそれぞれ縁起のよい意味があり、婚礼が決まった我が子に親から贈る、琉球伝統のお祝い品。

近年、その存在が広く知られるようになると、県外からもプロポーズや新婚旅行の記念に買い求める人が急増。注文から完成まで半年まち、ということもあるそうです。

髪を飾るお守り「ジーファー」、永遠の愛を願う「結び指輪」

金細工またよしで主に作られているのは、房指輪の他にジーファー、結び指輪という三種類。

「どれも願いや祈りが込められています。『ジーファー』は、自分の分身とも言われるお守りのような髪飾りです」

ほっそりとした匙のような形のジーファー。安室奈美恵さんには、房指輪とこのジーファーが贈られた
ほっそりとした匙のような形のジーファー。安室奈美恵さんには、房指輪とこのジーファーが贈られた

「このシルエットは、女性の後ろ姿なんですね。何の飾りも無く、ただ線と形だけで『女』になる。シンプルな表現です。本当にすごいなと思います」

三つ目の結び指輪は、かつて沖縄の遊女たちが「愛する人と末長く結ばれるように」と身につけていたものだそう。今では房指輪と並んで人気です。

結び指輪

「房指輪、ジーファー、結び指輪。この三つはどうしても後世に残したい、と跡を継ぐことを決めました」

実は、又吉さんがこの道に入ったのは40歳の時。

「それまではラジオのディレクターをしていました。ラジオって、番組が終わったら後に何も残らないんですね。

でも、クガニゼークは純銀だから、腐食しない。大切にすれば永遠に残るでしょう」

又吉さん

大切にすれば。

実は、永遠に残るはずのクガニゼークは、琉球王朝の終焉、そして戦争により一度途絶えています。

濱田庄司と、父・又吉誠睦さん

戦後、空襲を抱えて逃げたという道具で、父・又吉誠睦さんの「金細工またよし」はなんとか存続を保っていました。

しかし、もはや伝統的な金細工の需要はなく、誠睦さんは駐留軍からの様々な銀の加工の請負で生計を立てていたといいます。

その仕事ぶりをみて声をかけたのが、民芸運動で知られる陶芸家、濱田庄司 (はまだ・しょうじ) でした。

誠睦さんがクガニゼークの話をすると、濱田は「あんた、昔に返ってくれ」とあるものを誠睦さんに託しました。もはや工房にも残っていなかった、古い「房指輪」でした。

この運命的な出会いがきっかけで、誠睦さんは断絶していたクガニゼークの復刻に乗り出します。

蘇った房指輪
蘇った房指輪

「房指輪」に続き「結び指輪」を復元した頃、ちょうど誠睦さんは80歳、又吉さんは40歳を迎えていました。

「その頃、父親の仕事をじっとそばで見てたんですけどね。親父も年だなと思って。ふと、道具はどうなる、と思ったんです」

工房にあった道具

父親が引退すれば、その瞬間にせっかく蘇ったクガニゼークの命は再び途絶える。戦火を乗り越えてきた道具も生きる道を失う。

戦火を免れた古いジーファー。復元の参考にされた
戦火を免れた古いジーファー。復元の参考にされた

自分でなくてもいいけれど、誰かがやるべきではないか。そんな思いから、

「お父さん、僕やろうかな」

働き盛りで決断した「職人への転職」でした。

作る時間が、父との対話

父・誠睦さんから受け継いだ作業台は、銀を溶かし、水で冷やし、形を打ち固める一連の工程が、台の周りでぐるりと体を一周させながら作業できるよう作られています。

作業台

「最近は、金づちで銀を叩く時間が、親父との対話のように感じるんです。手元を間違えれば、『今のはちょっとおかしいんじゃないの、お前』と言われているような」

作業台の様子

銀を打ち続けて40年。気づけば弟子入り当時の父・誠睦さんと同じ80歳をすぎた今、又吉さんには未来を託すお弟子さんが一人います。

未来に残すもの

宮城さん

宮城奈津子さん。大学を卒業後に移住した沖縄でクガニゼークに出会い、工房に顔を出すうちに「気づけばこの道に入っていた」そう。

「僕はただ銀を打つだけで、何も教えていません。でも、その音や空間の中に、代々続いてきた何かがあるはずなんです。その何かを自然と知って、身につけてほしい。僕はいつかいなくなる。でも道具は残ります」

琉球王朝に生まれた美しい金細工は、断絶の歴史も乗り越え、今年、平成を駆け抜けた歌姫の花道を飾りました。

永遠に人の心に残ることを願いながら、昔と変わらぬ道具で、音で、作り継がれています。

又吉さんと宮城さん

<取材協力>
金細工またよし
沖縄県那覇市首里崎山町1-51
(2018年8月に工房を移転しました)
098-884-7301

文:尾島可奈子
写真:武安弘毅

※こちらは、2018年9月15日の記事を再編集して公開しました。

京都の庭師が伝える「日本の庭」の見方・読み方・歩き方

松や紅葉につつまれてそぞろ歩く広い庭園。整えられた砂紋に背筋の伸びる枯山水の庭。露地の奥にふわりと開けるひそやかな坪庭。

京都無鄰菴
京都南禅寺
京都無鄰菴

くわしい知識がなくとも、心のままに楽しむことのできる日本庭園ですが、「これを知っていればもっとわかる」という、読み解きのコツがあります。

「どんなさりげない部分も、じつは『あえてそうしてある』のが日本庭園です。では、なぜそうしたのか?そこを少し考えるだけで、ぐっと解像度があがります」

創業170年、京都・南禅寺の御用庭師 植彌 (うえや) 加藤造園株式会社 知財管理部の山田咲さんに、庭をもっと楽しむための見方、読み方、歩き方、〈きほんのき〉を教えていただきました。

山田咲さん。植彌加藤造園株式会社は1848年 (嘉永元年) より大本山南禅寺の御用達を務める。南禅寺大方丈、東本願寺渉成園、無鄰菴、對龍山荘などの文化財指定庭園の育成管理のほか、星野リゾートなど新たに作庭から手がけた庭も多数
山田咲さん。植彌加藤造園株式会社は1848年 (嘉永元年) より大本山南禅寺の御用達を務める。南禅寺大方丈、東本願寺渉成園、無鄰菴、對龍山荘などの文化財指定庭園の育成管理のほか、星野リゾートなど新たに作庭から手がけた庭も多数

「ここではないどこか」へのあこがれを表現している

「目の前の素材を使って、目の前にないものを表現しようと、人は庭をつくってきました」

目の前にないもの?どういうことでしょうか。

「日本の庭の歴史は古く、飛鳥時代までさかのぼります。ただ、その頃の庭は、まだ大陸の文化の模倣的な要素が多く見られるものでした」

平安時代になって、貴族の邸宅や別荘を舞台に、国風の優美な庭園文化が花開きます。水を引き入れ、池をつくり、島を配した、浄土式庭園や池泉廻遊式庭園です。

「こうした庭は、浄土や未知の世界、すなわち海の向こうや彼岸を表現しようとしたものでした。

また、時代が下ると文学を再現する庭もつくられるようになりました。現実にはないあこがれの場所を、そこに現そうとしていたのです」

植彌加藤造園株式会社 山田さん

その後、禅の庭として枯山水が、茶道の隆盛のなかで茶庭 (露地庭) が、また江戸時代には大名庭園が生まれていきますが、いずれも目の前の素材を使いながら「ここにない景色」を希求する心でつくられていると、山田さんは読み解きます。

「例えば枯山水には禅の思想が、大名庭園には教養世界や故郷の景色が、貴族の庭には和歌や文学というように、いわば庭には『庭ではない参照元』があったのです」

明治以降の近現代もそうなのでしょうか。

「明治時代、日本の庭は大きく変わります。

同じく目の前の素材を使いながら、いきいきとした、自然らしい自然が求められていきました。

参照元自体が『自然』になったと言えるでしょう。グリーンに癒やしを求める現代の私たちの感覚に近いと言えるかと思います」

明治期に山縣有朋の別邸として作られた、京都・南禅寺近くの「無鄰菴」。植彌加藤造園が指定管理者を務める国指定の名勝
明治期に山縣有朋の別邸として作られた、京都・南禅寺近くの「無鄰菴」。植彌加藤造園が指定管理者を務める国指定の名勝

大転換ですね。こんどは現実を表現するように変化したのでしょうか。

「そうかもしれませんし、近代化して、都市化・機械化がさらに進んだことで、もはや自然が『もうここにないもの』になっていたのかもしれません」

無鄰菴

いつの時代も、手の届かない「彼岸」にあこがれる気持ちが、日本庭園をつくってきていた。そう思って見る庭は、すでに少し違う顔を見せてくれていました。

まずは石と築山を見る

庭園を訪れて、まず見るべきはどこだと思いますか。松の古木?白砂の砂紋?春なら桜、秋なら紅葉の彩り?

植彌加藤造園が御用庭師を務める、南禅寺の方丈庭園
植彌加藤造園が御用庭師を務める、南禅寺の方丈庭園にお邪魔して見ていきましょう

「樹木も草花も、植物は庭の重要な構成要素ではありますが、枯れたり成長したり、庭の時間から見ると、変化のスピードが大変早いものです」

たしかに。では、どこを見るとよいのでしょう。

「まずは、石と築山 (つきやま) を見ると、庭の構造がわかりやすいです」

石と築山?どれですか。

南禅寺方丈庭園

「庭のスタイルにもよりますが、庭の景色をながめていただくと、景色を構成する『景石』と言われる石が配されていることが多いんですよ」

言われてみれば、あります、あります。中央の平たい大きな石や、ほかにも。石に注目すると、視界にどんどん入ってきます。

南禅寺方丈庭園

「その石の奥に築山があるのがわかりますか?

築山は、日本庭園の人工的な山のこと。土砂や石を小高く盛り上げて、大小の山をつくったものです」

南禅寺方丈庭園

なるほど、言われてみればたしかに。よく見るとかなりの高低差があるのがわかります。

南禅寺方丈庭園

「地形に起伏を与え、高低差をつけることで、奥行きが感じられます。ああして盛り上げることで奥行き感をコントロールして、空間の中での石や樹木の配置に意味を持たせているんです。

また石の近くの刈り込みも、高さを調節してあります。そうして石を引き立てているんです」

南禅寺 方丈庭園

横や手前で丸く刈り込んだ灌木は、まるで石に向かってお辞儀をしているよう。そうと知って見ると、ご主人の石にしたがう従者のようにも思えてきました。

庭は気づかれないほど自然な「人為」

次は、庭の外にあたる「遠景」に目を向けてみましょう。

「奥に山が見えますね。あの山を借景として、この庭は成立しています。ですが、山があるだけでは借景にはなりません」

南禅寺方丈庭園

どういうことでしょうか。借景にふさわしい山とそうでない山があるのでしょうか。

「いいえ、そうではありません。借景としてどう取り入れるか、庭園側に工夫が必要なのです」

山を「遠景」、庭の手前を「近景」として、間をつなぐ「中景」が大事になるというのです。たとえば建物の屋根を中景に利用したり、高さのある樹木で木立をつくったりという工夫がされています。

「それによって山と庭が呼応し、ひとつの風景として完成します。また、自然らしくなるよう、樹木の枝ぶりも人の手で整えています」

南禅寺 方丈庭園

ごく自然な雰囲気で見えている目の前の風景。「なんとなく感じる心地よさ」「自然らしさ」に、そんな秘密があったとは、思いもよりませんでした。

「庭は人為です。すべて人が意図して、あえてそうしています。そう思って見ていただくと、新しい発見があるかもしれません」

ナチュラルに見せるための熟練のわざ。気づかれないほど自然な「自然らしさ」を表現している庭の秘密を、もっと知りたくなってきました。

いま歩いている園路はうたがった方がいい

そこへ山田さんから意外なアドバイスが飛び出します。

「ただ、普段歩いている園路はうたがって見ると面白いです」

植彌加藤造園株式会社

園路をうたがう?

「はい。造営当初に意図された入り口ではないところ、たとえば裏口や勝手口から入っている可能性も高いです」

というのも、一般公開されている名勝庭園の多くは、来訪者がスムーズに巡回できるよう、見学用の園路が設けられています。もともと庭が作られたときとは、用途や人の動きが変わっていることが多いのです。

勝手口や裏口から入る動線になっている場合、庭の「顔」とも言える正面向きではなく、斜め後ろや横から入っていくことになります。では、庭を「ベストな向き」から見るには、どうすればいいのでしょうか。

身体で味わう

「庭には『ここから見るといい』という場所があります。コツさえ知れば、あとは庭が教えてくれますよ」

まずは建物との位置関係に注目です。庭は建物とセットでつくられているもの。部屋から見たらどうなるかを想像してみます。

とくに、昔は正座が基本。床に座ると、立っているのとは目線の高さが変わります。多くの庭は、お堂や座敷の上座 (位の高い人が座る席) から最も良く見えるようにつくられているそうです。座位 (座った状態) からのながめに注目してみましょう。

座位から見た庭園
座位から見た庭園

次は、園路によく設けられている「視点場 (してんば) 」です。

庭を歩いていると、ふと足が止まる。つい立ち止まりたくなる場所があったら、それが視点場かもしれません。

南禅寺

視点場には立ち止まりやすい石が敷かれていることも多いそう。

「踏分石 (ふみわけいし) といって、道の分岐点であることも多く、その石は、他より大きかったり、平らだったり、形が整っていたり、素材や色が違ったり、何らか『ここだよ』というサインを出しているのが目印です」

無鄰菴で見つけた視点場
無鄰菴で見つけた視点場

そういう場所からの景色は、ひとあじ違います。

風景画のようだったり、歌舞伎で役者が見栄をきった瞬間のようだったり、なんとはなしに「決まってる」という印象を受けるはず。景色が注意深く庭師によって構成されているのです。

丸石の視点場から見た無鄰菴の景色
丸石の視点場から見た無鄰菴の景色

そうした視点場は、頭で考えたり目で見つけようとするより、「身体で探してみるといい」というのが山田さんのアドバイスです。

「庭づくりは、じつは身体感覚を重視しています。身体にどういう記憶を残させるか。

『経験としての庭』を考えてつくります。とくに近現代の庭はそうですね。見るときも、ぜひ身体で味わってみてください」

京都無鄰菴

歩きまわったり、向きを変えたり、立ったり座ったり。いろんな角度から見え方を比べてみたら、庭が見せる表情も、きっと変わるはず。お気に入りの「見方」を探してみてください。

成長する庭

庭には、人為が尽くされている。ですが、日本庭園を根底で支えるのは、人智を超えた「自然」へのリスペクトです。

無鄰菴

「植物も生きものですから、セオリーどおりにはなりません。ならなくて当たり前です。庭師は、それを前提として、庭を構成しています」

植彌加藤造園の山田さん

苔庭にしたいのに苔が定着しない庭もあれば、逆に芝生にしたいのにどうしても苔むす庭もあります。日当たりや土壌や降雨や湿度など、さまざまな条件が影響します。

無鄰菴

「環境や条件をふまえたうえで、どう手入れをし、よりよくしていくか。30年後、50年後も見据えつつ庭を育んでいくのが庭師の腕です」

歳月を重ねることで、味わいが増していくのですね。

「そうです。日本庭園の場合、経年変化は庭の価値を増すのです」

歳月に育てられて、よりよくなる。すてきな考え方です。まるで人間のことを言っているようでもあります。

「もっとも、放置しておいては荒れるばかりです。できたばかりの庭は、生まれたての子どものようなもの。きちんと育てていく日々の営みあっての成長なんですね」

取材中に遭遇した松のお手入れの様子
取材中に遭遇した松のお手入れの様子

施主 (持ち主、オーナー) の意図。守り育ててきた庭師たちの技術と心意気。日本庭園には、営みの歴史とたくさんの人の思いが、幾層ものレイヤーとなって折り重なって息づいているのでした。

<取材協力>
植彌加藤造園株式会社 (Ueyakato Landscape)
https://ueyakato.jp/


文:福田容子
写真:山下桂子

この夏は、涼しげな信楽焼の「線香鉢」を窓際に

きっぱりとした晒の白や漆塗りの深い赤のように、日用の道具の中には、その素材、製法だからこそ表せる美しい色があります。その色はどうやって生み出されるのか?なぜその色なのか?色から見えてくる物語を読み解きます。

火を守る、線香鉢の海鼠釉

涼しげな青い線香鉢。日本六古窯のひとつに数えられる滋賀県甲賀市の信楽で作られたものです。実はこの青色、ひと昔前の日本ではある冬の暖房器具を連想させる色でした。今日は線香鉢に隠された青色の秘密を追ってみましょう。

古代日本語に登場する4色のひとつ、青。好きな色に挙げる人も多いと思います。空や海を連想させ、「青葉」など生き生きと若々しい印象も。実際に「青」という漢字の原型は、生い茂る草木の色を表すそうです。

火鉢の産地、信楽でつくられた線香鉢

写真の線香鉢の産地、信楽は、鎌倉時代に焼きものづくりが始まったと言われます。信楽焼といえばたぬきの置物で有名ですが、実は大物だけでなく茶器や徳利、植木鉢などの小物まで幅広くものづくりがされています。

室町時代後期から江戸の中頃までは、その素朴な風情が茶人に好まれて茶碗や花入れなどのお茶道具として人気を集めた時代もあったそうです。

信楽焼に「青」が登場するのは、お茶道具の製造が落ち着き、釉薬の研究が進んだ明治に入ってから。信楽焼の特徴である耐火性を生かして生産が盛んになったのが、「火鉢」です。

この火鉢に施されていたのが、深い青色の釉薬「海鼠釉( なまこゆう )」。あの海の生き物、海鼠から名前をとった、ユニークな名付けの釉薬です。

見た目にはかなりグロテスクな海鼠ですが、その地肌が海鼠釉を焼いた時に現れる流紋や斑紋と似ていることからこの名がついたそうです。ちなみに海鼠は赤海鼠、青海鼠と色の種類がいくつかあり、中でも青海鼠の色の鮮やかなものは、海鼠釉の発色に似ています。

信楽焼の火鉢は昭和30年代までなんと全国シェアの80%を占めていたとのこと。出荷数が増えるとともに、火鉢とその産地である信楽、色としての海鼠釉がセットになって認知され、海鼠釉は信楽を代表する色として広まっていきました。

青は水を連想させる色です。火を起こす火鉢に海の生き物から名前をとった海鼠釉が施されたのは、火事などを防ぐまじないの意味もあったのだろうか、とつい想像を働かせてしまいます。

今ではほとんど見かけなくなった火鉢。その耐火性を夏に生かして生まれたのが、信楽焼の線香鉢です。かつては冬の憩いの象徴だった深い青色を、夏に涼しく楽しんでみるのもいいかもしれません。

<掲載商品>
信楽焼の線香鉢


文・写真:尾島可奈子

※こちらは、2017年7月9日の記事を再編集して公開しました。

アート界注目の鹿児島「しょうぶ学園」立役者 福森伸さんに聞く、才能の見つけ方

あなたの才能はなんですか?と聞かれて即座に答えられる人が、どれくらいいるだろう。

「現代を生きる僕らは、受け取る情報が多すぎて自分が何に適しているかさえ、すごく悩みます。

こうなったら人が喜ぶだろうとか、自分が評価されるだろうという欲もある。

だからブレたりよそ見したりして、悩む。僕らはそういう『障がい』を持っているんです」

そう語るのは福森伸さん。知的障がい者支援施設「しょうぶ学園」の施設長です。

しょうぶ学園 福森伸さん

しょうぶ学園といえば、施設内の工房から生み出される独創的な作品が高く評価され、海外でも展示会を行うなどアート界注目の存在。

しょうぶ学園

「ですがもともと、自分たちのつくるものをアートとは呼んでいませんでした。

彼らのことも、はじめは何度教えてもなかなかできないな、と思っていたんです」

彼ら、とは作り手である施設の利用者たち。

しょうぶ学園

彼らの生み出すものとどう向き合うか、その「視点」こそが、福森さんやスタッフ、そして学園を変えていきました。

「これをアートと思うかゴミと思うか。どう受け取るかは、その人の人生を左右するぐらい、大きな見方の違いだと思います」

しょうぶ学園

取り組みを続けて30年。福森さん自身が体験してきた「才能の見つけ方」を伺います。

しょうぶ学園のものづくりとは

鹿児島県鹿児島市にある学園には、工房から生まれたプロダクトを一般の人も買えるお店が併設されています。

しょうぶ学園
しょうぶ学園
しょうぶ学園

「こうした作品を『発見』するのが、スタッフの一番の仕事です」

工房に常駐するスタッフは、作り手15人に対して5人という具合で、ものづくりをサポートします。

「発見とはつまり、完成をこちらで持つ、ということ。彼らがバッグにしようと思っていないものを、こっちが勝手にバッグにするんですから」

実はこの、スタッフと利用者が両輪になったものづくりこそが、しょうぶ学園の核心。

しようと思っていない、とはどういうことなのでしょうか?

「彼らにとってものづくりは、毎日『快適』を続けていくっていう状態なんです」

快を求めて

しょうぶ学園の工房は「布」「木」「土」「和紙」と素材別に分かれています。利用者はいずれかの工房に所属して、日中ものづくりを行ってます。

学園内にあるサイン。各工房や併設のお店などが示されている
学園内にあるサイン。各工房や併設のお店などが示されている

「入る工房を決める時、いくつかを体験してもらうんですが、彼らはひとつ気に入ったところが見つかると『ここでいい』と言うんです。他を経験してなくても」

気にいっている、自分の気力・体力にフィットしている。そこから逃れない方がいいことを本能的に知っているのだと、福森さんは言います。

「身の丈を知っているという感じです。

いわゆる僕ら『健常者』には、自分の「身の丈」を知っているにも関わらず、そこから逸脱して冒険して、チャレンジしようとする能力があります。

一方で彼らは一度決めたら同じ場所で同じことをずっと続けている。それは粘り強いんじゃなく、それが『快』だからなんです。心地いいから手を動かす」

しょうぶ学園

「僕らはその行為をいただいて、バッグに縫い付けたり、ブローチにしたりしている、というわけです」

完成の悲しみ

出来上がったものはスタッフが値段を決めて販売。

ところが作品が大きな賞をとっても、商品としてよく売れても、作者本人は完成品に、ほとんど関心を持たないと言います。

「僕はそれを『完成の悲しみ』と呼んでいます。

僕らがよく使う言葉は『完成の喜び』ですよね。苦労して我慢して努力して、終わった時にヤッター!となる。

でも、彼らにとってはものづくり自体が楽しいこと。「快」が終わるのは、悲しいですよね。

ちょうど旅の終わりみたいな感じ。旅行に行って帰ってくるバスの中、もうすぐ家に着く頃に『あぁもう1泊したかった』と思う、そんなものづくりしてるんです。それって素晴らしいなと僕は思います」

しょうぶ学園

実はこれも、はじめから出来たことではないそう。

「自由にしてもいいんだよ、と材料を手渡すと、はじめはみんなちょっと呆然とするんですよ。言われたとおりにするのが当たり前だったから。何か言われるのを待つんです。

でも言われなくなると、ちょっと自分なりのことがはじまる。

否定されないから次へ行ってみる。そうするとだんだん周りの顔色を伺うことがなくなってきて‥‥」

ものづくりに目覚めていく。そういう才能は、障がいがあるからこそ生まれるものなのでしょうか、と思い切って聞いてみると、福森さんはきっぱりと答えました。

右脳と左脳

「僕はそうじゃないと思います。誰もが持っているものです。でも、自分でそれをピックアップされないようにガードしているんです、僕らは」

なんと、自分でガードしてしまう。

「アートに関していうと、左脳の働きが障がいになるんです。邪魔をする。

他者からの評価はこう、常識的にはこう、と周囲も見た上で自分の表現をセーブするということ、誰でもあるんじゃないでしょうか。利用者が行なっているのはそういうしがらみのない、右脳型のものづくり」

しょうぶ学園
しょうぶ学園

「一方で生産するという行為には、左脳が必要なんです。原価を計算して、未来の目標を定めて、ペース配分を考えつつゴールにたどり着くという、職人的やり方ですね」

ということはその左脳部分を担うのが‥‥

「スタッフというわけです。これは服にできそうとか、ちょっと台を整えたらうつわになりそう、とか考える」

しょうぶ学園
しょうぶ学園
しょうぶ学園

「利用者は快という中で何かを生む。僕らスタッフは喜怒哀楽しながら『創意工夫』をしてプロダクトに仕上げる。

彼らは直感を、僕らは知恵を生かすといったところでしょうか」

これが、しょうぶ学園のものづくりを生み出す、スタッフ・利用者の「両輪」。

しょうぶ学園が20年以上の時間をかけて見つけ出してきた道です。

「何度教えてもなかなかできない」日々

福森さんが創設者である両親から事業を引き継ぐために学園で働き始めたのは1983年。

当時は現在のような工房はなく、大島紬や縫製や刺し子の下請け作業が行われていました。

「でも、下請けは相手のニーズに応えて、相当の報酬を頂くという関係で成り立つもの。

彼らには希望する報酬額や、見合う仕事量を計算することは難しい。そもそも、自分の意思でその仕事に自分の時間を費やそうと思っているだろうか?」

疑問に思った福森さんは「それなら学園独自のものを作ろう」と、自ら木の工房を立ち上げます。

福祉も木工も全くの未経験。「スーパー素人」と自身を振り返る福森さんは、鉋の研ぎ方から我流で覚えながら、利用者と一緒に学園内の家具づくりをスタート。

初期に作った椅子
初期に作った椅子

少しずつ学園オリジナルの「売れる」ものを目指したものづくりを始めました。

ところが、なかなか「思った通り」のものが仕上がらない。

表面が傷だらけのうつわ、縫い物を頼んだのに刺繍のかたまり‥‥必ずいくつかは「不良品」が出てきてしまう。

しょうぶ学園

「何度教えても、なかなかできない」

そう思いながら、それでも試行錯誤すること10年。ついに福森さんは「普通の商品」づくりを諦めます。

「もともと差が激しい人たちに対して『標準』を求めると、そこに満たないというマイナスが生まれてしまう。それではなんのためにやっているのか、わからなくなる」

「自分の思うものづくり」を諦めた福森さんに、変化が訪れます。いつもの「不良品」を、美しい、と思う瞬間が増えていきました。

しょうぶ学園

「自分だけでなく、周りのスタッフにもそういう意見が上がって。だんだん確信を持って行きました。

もちろんはじめは知名度もないし、売れません。

でも、売り物にはならないけど、非常に面白いことをする人達だと思えるようになってきたんです」

従来のものづくりも続けながら、そうした「常識からはみ出しているけれど面白いもの」を製品や作品として発信していくうちに、その一つが展覧会で入選。一躍、学園の名前が世に知られることになります。

コツは左脳をちょっと遅らせること

「要は、僕らは『傷でもものづくり』。

『普通のもの』を作っているうちは、木の表面に傷をつける人はものづくりに適さない。

ならばそのアウトサイドに転がったものこそ、我々にしか出来ないものづくりなのではないかと、思うようになったんです」

しょうぶ学園

だから彼らのつくるものは今も昔も変わらない。こっちの見方が変わっただけ、と福森さん。

でも、左脳的スタッフが、どうやって右脳的ものづくりの美しさに気づいていったのでしょうか?

「見方を変えるコツは『左脳をちょっと遅らせる』ことです。

何が美しいか、は人それぞれ。でも左脳で見ると、その美しさに気づく間も無くゴミだって思うからね。

どう遅らせるか、言葉では教えるのは難しいけれど、スタッフとはよく話します。ものを見ながら、どう思う?って率直に感想を伝え合う。

しょうぶ学園
しょうぶ学園

「一瞬でもキレイ、面白いと思った気持ちが大事です。あとはどうやったら製品になるかは、こっちの腕次第ですよね。

そうして世に送り出したものが評判になると、ああ間違っていなかったんだと自信がつく。

その繰り返しでだんだん、スタッフたちも自分の好き嫌いを言えるようになっていくんです」

そのためには、かつての福森さんがそうであったようにスタッフも「スーパー素人」であることが大事、と言います。

スーパー素人集団 しょうぶ学園

実は工房スタッフの多くがものづくり未経験者。学園に入社して、初めて道具の使い方から覚えていくと言います。

「利用者の彼らは手を抜かないからね。一緒に取り組むスタッフも、技巧に走ったりせず、素直に手を抜かずにつくることが大事なんです。

だから慣れや欲のない、でも一生懸命に手を抜かないスーパー素人であることが大切」

しょうぶ学園

「そうしてゼロから覚えて作っていく中で何を感じたか、その体験を手放さないことで、利用者の感性に目覚める力が育っていって欲しいと思います。

スタッフにとっても、ここが学校なんです」

こうあるべき、これが正しい、という枠を外した先に見出した光。

福森さんのお話を聞いていると、自然と「私も何か作ってみたい」という創作意欲が湧いてきます。

「現代はものを作る人が非常に少ないですよね。

でも原始の時代、道具を作らなければ僕らは獲物を獲れなかったように、ものづくりは人間の根元にあるものだと思います。

ものをつくることは、生きることなんですよ」

次回、それぞれの工房でどのように「生きた」ものづくりが行われているか、普段は入れない工房の中もお邪魔して、学園の様子をお届けします。

しょうぶ学園

<取材協力>
社会福祉法人太陽会 しょうぶ学園
鹿児島県鹿児島市吉野町5066
http://www.shobu.jp/index.html

文・写真:尾島可奈子

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