薩摩焼を代表する窯元「沈壽官窯」で手に入れたい白薩摩

作家・司馬遼太郎が通った、小さな村の窯元

工房を訪ねて、気に入った器を作り手さんから直接買い求める「窯元めぐり」。

今回訪れる窯元は、鹿児島県日置市にあります。鹿児島市内から西へ西へとバスに揺られて美山 (みやま) というバス停に降り立ちます。

すぐそばにあるのが、「沈壽官窯 (ちんじゅかんがま) 」。国の伝統的工芸品指定を受けている「薩摩焼」を代表する窯元のひとつです。

ゆるやかな坂道を登っていくと‥‥
ゆるやかな坂道を登っていくと‥‥
「工房」の看板とともに白い建物が
「工房」の看板とともに白い建物が

木々に囲まれた丘の上の工房は、窯元というよりさながら小さな美術館のよう。

窓の向こうに人の姿が
窓の向こうに人の姿が
熱心になにか作業をされています
熱心になにか作業をされています

大きく開かれた窓越しに、職人さんらしき人の姿が伺えます。

「朝の仕事は、社員全員でこの庭を掃除することから始まるんですよ」

出迎えてくれたのは沈壽官窯、営業担当の瀬川さん。

ぐるりと見渡すと、きれいに掃き清められた庭には小さな石碑が建っています。

工房を囲む庭の片隅に、石碑と案内板が立っています
工房を囲む庭の片隅に、石碑と案内板が立っています

「故郷忘じがたく候 文学碑」。

作家、司馬遼太郎が、現当主の先代にあたる14代沈壽官氏を主人公に綴った作品の、出版記念碑です。

タイトルにある「故郷」とは、はるか海の彼方にある朝鮮の地のこと。

ここ沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉による2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主、島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元です。

「初代をはじめ薩摩にたどり着いた陶工たちは、この美山の地が祖国に似ているとの理由で、この地に住みついたと言われています」

以来、沈壽官窯は島津家おかかえの御用窯として発展してきました。

沈壽官窯の代名詞、美しい白薩摩

「あれが白薩摩、あちらが黒薩摩です」

瀬川さんが窓の奥を示しながら説明してくれたのは、地元では白もん、黒もんとして親しまれる薩摩焼の種類。

白薩摩を作陶中
白薩摩を作陶中
こちらは黒薩摩。土の色がはっきりと異なります
こちらは黒薩摩。土の色がはっきりと異なります

中でも美しい白い器が、沈壽官窯の代名詞です。

先ほど見かけた職人さん。こんな大きな白薩摩に、細かな絵付け作業中でした!
先ほど見かけた職人さん。こんな大きな白薩摩に、細かな絵付け作業中でした!

「黒薩摩と白薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるかいないかの違いです。

鉄分を含んだ桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では、黒っぽい土ばかり採れていました」

鹿児島のシンボル、桜島の噴火の様子
鹿児島のシンボル、桜島の噴火の様子

「そこで島津家から白い焼き物を作れと命を受け、初代沈当吉たちは7年の歳月をかけて白い土を探したそうです。

ようやく見つけた白土で器を焼き、島津家に差し出すと、喜んだお殿様がその功績をたたえ、薩摩焼と名付けた。これが薩摩焼の始まりだと文献に残っています」

当時の日本は、朝鮮の美しい白磁器に強い憧れを抱いていました。しかし、鹿児島では磁器に適した土は見つからず、陶工たちは陶器で白い器を作ったのです。

喜んだ島津家はこれを独占し、民間には黒い器の使用だけを許しました。

黒薩摩の器
黒薩摩の器

こうして薩摩の地に、藩御用達の白薩摩と、庶民が使う黒薩摩が生まれます。

実は鹿児島には他にも白黒の対になっているものが多いのですが、薩摩焼はまさにその筆頭と言えます。その一部は「白黒はっきり鹿児島巡り。旅の秘訣は色にあり?」の記事でもご紹介しました。

御用窯の生きる道

工房はよく見ると、工程ごとに部屋が分かれています。これも実は島津家の「戦略」の名残だと聞いて驚きました。

「万が一陶工が他の藩に取られてしまった時に、分業制にしておけば器を完成させることができません。それで島津家は完全な分業制を窯に命じました。

今でもろくろを回す人はろくろを、絵付けの人は絵付けだけを生涯専門で行うのが、沈壽官窯の伝統です」

こちらの職人さんは絵付け中
こちらの職人さんは絵付け中

職人さんは、陶芸の学校を出て入門する人が大半とのこと。現当主である15代が、本人の希望とその仕事ぶりを見て任せる工程を決めるそうです。

若い人も多い印象です
若い人も多い印象です

成形で基本の形を作ったら、白薩摩は「透し彫り」や「絵付け」の工程に進みます。

「透し彫りは幕末から明治を生きた12代沈壽官が生み出した技術です。何種類もの道具を使い分けて、土がやわらかい内に表面に穴をあけていきます」

職人さんの手の向こうに、息を呑むような作品の設計書が置かれていました。これが透し彫りの作品です
職人さんの手の向こうに、息を呑むような作品の設計書が置かれていました。これが透し彫りの作品です

「形が整ったら、次は絵付けです。白薩摩の絵付けは、幕末の名君として知られる島津斉彬 (しまず・なりあきら) の命で始まりました。これを成功させたのも12代の時代です」

一番のベテランという絵付けの職人さんが、ちょうど透し彫りの器に模様を入れている最中でした
一番のベテランという絵付けの職人さんが、ちょうど透し彫りの器に模様を入れている最中でした

この繊細な透し彫りと絵付けの技術は、明治以降の窯の命運を助けました。

最大のお得意様であった薩摩藩がなくなったのち、沈壽官窯は海外の万博で美術工芸品として高い評価を受け、その名を世界に知られるようになったのです。

今回はその工程を、特別に中からも見学させてもらいました。

世界が称賛した透し彫り

透し彫りは土の乾燥を防ぐために、器全体は濡れたタオルやビニールを巻いて、必要な部分だけ露出させて行われます。

こちらの職人さんは、上手にタオルを破って活用していました
こちらの職人さんは、上手にタオルを破って活用していました
写真;まず大まかに穴をあけて、そこから道具を持ち替えて丸を四角く整えていきます
まず大まかに穴をあけて、そこから道具を持ち替えて丸を四角く整えていきます
穴あけのための道具がずらり
穴あけのための道具がずらり
この網目状の生地も、すべて手作業で穴をあけているとのこと‥‥くらっとします
この網目状の生地も、すべて手作業で穴をあけているとのこと‥‥くらっとします

失敗の許されない絵付け

部屋の入り口には色見本のついた甕が置かれていました。

色見本のついた甕

絵付けは、素焼きした器に色別に模様を描いたのち、窯で焼いて色を焼き付けます。

色によってきれいに発色する温度が違うため、色ごとに描いては窯の温度を変えて焼き付ける、を繰り返すそうです。なんて途方もない工程!

音楽を聞きながら作業に集中
音楽を聞きながら作業に集中
こちらも目がチカチカするような細かい作業です
こちらも目がチカチカするような細かい作業です

生き物は生きているように作る、飾り

先ほど透し彫りの部屋で飾りがついた器を見かけました。伺った日に職人さんが取りかかっていたのは、タツノオトシゴ。

小さくてこの距離だと見えませんが‥‥
小さくてこの距離だと見えませんが‥‥
手の中に小さなタツノオトシゴが!
手の中に小さなタツノオトシゴが!

こうした飾りは設計図があるわけではないので、図鑑などを参考にしたり、時には実際に見に出かけたりもするそうです。

部屋の本棚にはずらりと参考書籍が。本を参考にしつつも、生き物は「やはり生きた姿を見ないと本物らしくならない」とのこと
部屋の本棚にはずらりと参考書籍が。本を参考にしつつも、生き物は「やはり生きた姿を見ないと本物らしくならない」とのこと
道具も職人さんが自分で作ります
道具も職人さんが自分で作ります

二つの国のあいだで

施設をぐるりと巡ったところで、瀬川さんに「訪ねてきた人にどんなところを楽しんでほしいですか?」と伺いました。

「もちろん技術も見てほしいのですが、何より、この空間そのものを楽しんでもらいたいですね。

ここは日本のような、朝鮮を思わせるような、不思議な空間だと思います」

正面玄関。奥には日韓の国旗と、朝鮮の守り神の像が立っています
正面玄関。奥には日韓の国旗と、朝鮮の守り神の像が立っています

「初代がここに窯を築いた当時、島津家は陶工たちに朝鮮で暮らしていた通りの生活を命じたんです。ですから今でも朝鮮式の呼び名のついた道具なども残っています」

ろくろの部屋にあった、古式にならった様々な道具
ろくろの部屋にあった、古式にならった様々な道具

「それは焼き物の先端を行く朝鮮の器づくりを取り入れる目的ももちろんありますが、もう一つ、彼らや彼らの子供達を、日本語も朝鮮の言葉も話せる通訳として起用する狙いがあったようです。

そのために、もともとの民俗風習を忘れさせないようにしたんですね」

この場所では、何を見ても何を聞いても、あらゆるものが歴史の中の物語につながっていきます。

焼き物の神様をお祭りした朝鮮式の祠
焼き物の神様をお祭りした朝鮮式の祠
司馬遼太郎と14代がよく語らっていたという縁側
司馬遼太郎と14代がよく語らっていたという縁側
参勤交代の道中にお殿様が宿泊したというお仮屋。あの篤姫も泊まったそう。普段は非公開ですが、そっと中を見せてくださいました
参勤交代の道中にお殿様が宿泊したというお仮屋。あの篤姫も泊まったそう。普段は非公開ですが、そっと中を見せてくださいました
完成品にならなかった陶片の山
完成品にならなかった陶片の山
ろくろ台を生かした庭石
ろくろ台を生かした庭石

美術工芸的な器を作る窯元さんも見てみたい、そんな思いで訪ねた沈壽官窯でしたが、単にものづくりに触れるだけでなく、足元に流れる歴史を肌で感じるような、そんな感覚に終始浸っていました。

歴史の中の器を、暮らしの中に持ち帰る

最後は併設の売店でお買い物を。

売店の様子

私でも買えるものもあるだろうか‥‥とドキドキしていましたが、お土産に買って帰れる手頃な価格のものも多く揃っていました。

注がれると飲み干すまで杯を置けない鹿児島伝統のお猪口、「そらきゅう」もありました
注がれると飲み干すまで杯を置けない鹿児島伝統のお猪口、「そらきゅう」もありました
焼酎の燗付器、千代香 (ちょか) 。黒が有名ですが、白千代香がありました
焼酎の燗付器、千代香 (ちょか) 。黒が有名ですが、白千代香がありました
お茶道具の蓋置き。上品なデザインです
お茶道具の蓋置き。上品なデザインです

「現在は白薩摩と黒薩摩、半々くらいでお作りしていますが、お土産としてはせっかくなので、元々の沈壽官窯を代表する白薩摩がおすすめですね」

一番人気は大きめサイズのマグカップ。金の縁取りがあって4000円台と、白薩摩のなかでは手頃な価格なのも、人気の理由だそうです。

一番人気のマグカップ
黒薩摩も充実しています
黒薩摩も充実しています

そんな陳列の向こうに‥‥

陳列の向こうに、14代の姿

腰掛けていらっしゃったのはなんと、14代その人。

売店でお土産を購入した方に、お礼としていつも、名前入りで品名を一筆書かれているそうです。

筆をとって書かれている様子
思わず見入ってしまいます
思わず見入ってしまいます
売店に置かれていた『故郷忘じがたく候』にも一筆したためていただきました
売店に置かれていた『故郷忘じがたく候』にも一筆したためていただきました

どちらからいらっしゃったんですか、と気さくに声をかけてくださり、少しお話を伺うことができました。

「時代の影っていうのが、焼き物にも差すんですよね。

明治維新によってそれまで大名のものだった薩摩焼が、外国にも輸出され、一般の方にも手にとっていただけるようになりました。

陶工生活60年、こうして居ると、自分の作ったものがあの人の部屋にいって、今頃使われているかなと、色々思うことがあります」

当主を息子さんに譲られた今でも、建築現場を通りがかると、いい土が出ていないか、とつい足を止めて見入ってしまうそうです。

「420年、ずっと異邦人です。それがあるからかえって、焼き物に打ち込めるのかもしれませんね」

3回目となる窯元めぐり。

歴史の中を生きてきた器を、暮らしの中に持ち帰るという、稀有な体験をしました。

<取材協力>
沈壽官窯
鹿児島県日置市東市来町美山1715
099-274-2358
http://www.chin-jukan.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、鹿児島市、公益社団法人 鹿児島県観光連盟

※こちらは、2018年1月20日の記事を再編集して公開しました。

新成人のお祝いに。めでたくて美しいガラスの贈り物

1月の成人の日、5月の母の日、9月の敬老の日‥‥日本には誰かが主役になれるお祝いの日が毎月のようにあります。せっかくのお祝いに手渡すなら、きちんと気持ちの伝わるものを贈りたい。

今回のテーマは「成人の日に贈るもの」。

満20歳になった若者をお祝いする成人の日は、実は昭和に入ってから始まった比較的新しい行事ですが、今ではすっかり1月の風物詩です。

大人になったお祝いは、せっかくなので大人にしかできないことにちなんで贈りたいなぁ…と思いついたのが、「富士山グラス」でした。

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2008年のTokyo Midtown Award デザインコンペで審査員特別賞を受賞したのをきっかけに商品化されたこのグラスは、ひとたびドリンクを注げばどこにいても富士山が現れるという、おめでたさとシルエットの美しさを兼ね備えた器。

大人の証であるお酒の時間を一層楽しくしてくれるこのグラスなら、成人の日のお祝いにもぴったりです。富士山のように懐の深い、スケールの大きい大人になってね、というメッセージも込められそう。

それにしても商品の命とも言えるこの富士山型、一体どうやって作られているのか。その秘密を追って製造現場を訪ねたら、ますます成人の日のお祝いにぴったりの、「いい大人」のお話にめぐり会いました。

ふじさん、でなくフジヤマグラス、と読むんですよ。

潮風の吹く九十九里の硝子工房を訪ねて

訪れたのは千葉・九十九里。富士山グラスを製造する菅原工芸硝子株式会社さんの本社と工房がある町です。取材にはなんと菅原裕輔社長が直々に応じてくださることに。

現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。
現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。

昭和9年に東京で硝子食器の製造を始めた初代社長(菅原さんのお祖父様)の時代に、工房はこの地に移転しています。なぜ、九十九里だったのでしょう。

「もともと硝子工場って東京の下町に多かったんです。うちも祖父が起業した当初は墨田区にありました。そこが手狭になって移転先を探していた頃に、たまたま祖父が九十九里にお花見に来たんですね。その時にここの温暖な気候と人の気性の良さに惚れたようで」

と菅原さんが話す工房の敷地内には、よく見れば桜の木がたくさん植わっています。春はお花見の穴場スポットだそうです。

春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。
春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。

「硝子づくりは砂を使うので、九十九里浜の砂が硝子に適していたのかとよく聞かれるのですが、決してそういうことではないんです。ものづくりに適していることといえば、熱い窯を焚く仕事なので、潮風で風通しがいいことですかね」

夏には室内の温度が50度にもなるという作業場は、なんと一般の人でも申込めば間近で見学することができます。

菅原工芸硝子さんが販売する商品は年間およそ4000点。その全てが手作りで、この場所で生み出されています。もちろん富士山グラスもそのひとつ。いよいよあの富士山型の不思議なグラスがどう作られているのか、目撃できる瞬間が近づいてきました。

いざ、富士山グラスの生まれる現場へ

はじめに案内いただいたのは、通常は硝子炉の中にあって見ることができない「るつぼ」の原型。工房の入り口に展示されています。

上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。
上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。

この中に硝子の原料を入れて炉の熱で溶かし、トロトロの液状になったところを巻き取って玉にするところから、硝子作りは始まります。

中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。
中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。

「硝子って600度くらいで固まってしまうんです。だからそれまでに形を作らなければいけない。安定して量産させるために、商品ごとに班を組んで工程を分担しています。例えば富士山グラスなら4人ひと組です」

暖房が効いているかのように暖かな作業場には、職人さんがざっと20人以上はいます。

それぞれに休みなく動く様子は、よくよく見ると中央の大きな硝子炉を中心に班分けされて、全く別のものづくりが進んでいます。その動きがとても息が合っていて、無駄がない。キビキビとして見惚れてしまいます。

炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。

ぐるりと作業場を一周したところで、ついに富士山グラスを作る班に辿りつきました。取材のために急きょ生産計画を変えてくれたそうで、通常4人ひと組のところを3人で実演してくれます。

1人少ないはずなのに、やはり流れるような連携プレーがここにもありました。

富士山グラスは「型吹き」という製法で作られています。まず1人が器の素となる塊をパイプの先に作り(1)、炉でその周りにさらにガラスを巻き取って玉状にします(2)。

(1)はじめはこんなに小さな玉。
(1)はじめはこんなに小さな玉。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。

運ばれてきた玉を足元の型にセットし、パイプを回しながら均一に空気を吹き込んで、硝子の形を整えます(3)。

(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)富士山型に!
(3)富士山型に!

型から取り出したものは目視で最初の検品をし、OKのものだけ徐冷炉(じょれいろ)というゆっくりガラスを冷却させる炉に運びます(4)。

(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。
(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。

ガラスは急激に冷やすと表面だけが収縮して内側とバランスを崩して割れやヒビを起こしてしまうため、全ての商品がこの徐冷炉でゆっくりと冷やされるそうです。

(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。
(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。

「あまり強く吹くと硝子のハダが悪くなるんです」

と教えてくれたのは吹きの工程の職人さん。ハダ、つまり硝子の表面をきれいに出すために、菅原さんの工房では硝子の玉を流し込む直前、型に水を含ませています。水は熱された硝子に触れた瞬間に蒸発して、型と硝子の間に水の膜をつくります。

使う前にしっかりと型に水を含ませる。
使う前にしっかりと型に水を含ませる。

「これによって、硝子が型に直接触れないため、ツルリとしたハダが生まれるんです。

富士山グラスの場合は、裾野の角を出すためにある程度強く吹く必要があります。ところが強く吹きすぎると、今度は硝子が水蒸気の膜を超えて、型に触れてしまう。そうすると表面に型の跡がついてしまうんです。

あの形は、水蒸気を蒸発させ切らずに裾野の部分の角もきっちり出る、という点がまさにピンポイントで…」

4000種ある製品の中でもかなりの難易度だという富士山グラスの開発秘話を、菅原さんが語ってくれました。

※こちらは、2017年1月9日の記事を再編集して公開しました。

春慶塗の黄色い重箱が日常を晴れやかにする

三が日も明けて、少しずつ街にも日常の空気が戻ってきました。今日は、お正月のおせち料理を華やかに飾っていた、漆塗りのお重のお話です。

一般的には朱や黒のイメージがある漆塗りですが、実は「黄色」があるのをご存知でしょうか?

道具が並んでいる様子
塗師の作業中の後ろ姿

木目の美しさが命。飛騨春慶塗

「春慶塗は、とても素朴な漆塗りです。蒔絵や螺鈿などの装飾をせず、黄色や赤に着色した木地に透明な透漆 (すきうるし) を塗って、木目の美しさを見せるんです」

工房にあった春慶塗の重箱
工房にあった春慶塗の重箱

訪ねたのは岐阜県飛騨高山市、飛騨春慶塗 (ひだしゅんけいぬり) の塗師、川原俊彦さんの工房です。

塗りの様子

木目の美しさを楽しむ漆塗りの表現は、なんと奈良時代から行われていたそうです。室町時代に春慶という職人が現在の技法を考案し、全国に広まりました。

「春慶塗」は広まるうちに、各地の名を冠するように。飛騨は今もその伝統を受け継ぐ、代表的な春慶塗の産地です。

「漆が透けるので、木地自そのものが相当きれいに仕上がってないと商品にならないんです。木地作りの技術で言えば、飛騨は全国でも屈指だと思います」

木目がはっきりと見て取れる川原さんのお盆
木目がはっきりと見て取れる川原さんのお盆

春慶塗のものづくりは、木地と塗りの大きくふたつの工程に分かれます。

この日は、塗りの中でも商品になる最終段階、上塗りの工程に立ち会いました。伝統的な春慶塗の手法ではこの手前に、幾層もの下塗りの工程があります。

手前が上塗り前。奥が上塗り後
手前が上塗り前。奥が上塗り後

「上塗りでいかに漆のムラを出さずに木目の美しさを見せるか。これが春慶塗の真骨頂です」

塗りの様子

面白いことに、漆の成分には元々、できるだけ均一になろうとする性質があるのだそうです。塗師の腕はこの性質を生かしながら漆をいかに均一に塗れるか、にかかっています。

そのムラのない美しさの大敵がホコリ。

小さなチリひとつでも表面の膜についてしまうと、製品にならないそうです。

見せていただいた上塗りの工程は、ホコリとの戦いと言っても、過言ではありませんでした。

上塗りを行う作業台の脇には掃除機がセットされていました。塗りに入る前に、まず掃除機で元々器についているホコリを取り除くそうです
上塗りを行う作業台の脇には掃除機がセットされていました。塗りに入る前に、まず掃除機で元々器についているホコリを取り除くそうです

漆の中のホコリを取り除く道具「トウゴシ」

上塗りに使う漆は、塗師が自ら作ります。

上塗り漆。塗師が自分で漆を生成するのも、産地としては珍しいのだとか
上塗り漆。塗師が自分で漆を生成するのも、産地としては珍しいのだとか

木から摂った生漆 (きうるし) を体温くらいの温度でゆっくり温めて攪拌させたものに、蒸発した水分量と同等の 荏油(えごま油)を混ぜて作るそうです。

完成した漆はとろりとしています
完成した漆はとろりとしています

攪拌にかける時間は1キログラムあたり1時間。この間に液の中に入ってしまうホコリを取り除くための道具が「トウゴシ」です。

トウゴシ

10枚ほど重ねた和紙に漆をたっぷりと染み込ませ、台の両端に付いたロープに引っ掛けてねじる。そうすると、ホコリは和紙が吸い取って、きれいな漆になるのだそうです。

ロープに和紙を引っ掛けて、絞ります
ロープに和紙を引っ掛けて、絞ります
使われていたのは奈良の吉野和紙。多くの塗り産地で支持されているそうです
使われていたのは奈良の吉野和紙。多くの塗り産地で支持されているそうです

塗りの助手役「イボ」

イボ

ムラなく均一に塗っていこうと思うと、机の上に置いたままではできません。かといって手に商品を直接持てば、せっかく塗った面を汚してしまう恐れがある。

そこで活躍するのがこのスタンプ台のような道具です。

イボのフラット面

フラットな面についている突起は、和蝋 (わろう) を練ったもの。これがピタッと木地に接着し、直接手を触れずに、商品を動かしながら漆を塗ることができます。

イボを手に持った様子
斜めにしても落ちません。手で簡単に取り外せて、接着の跡も残らないという優秀さ!
斜めにしても落ちません。手で簡単に取り外せて、接着の跡も残らないという優秀さ!

漆を配る「ヘラ」

はじめにざっと漆を全体に置いていくことを、川原さんは漆を「配る」と言っていました。この配るのに使い勝手が良いのがヘラだそうです。

かつて主流だったのは、しなりのあるサカキやマユミという木でできたヘラ。塗師が自分でちょうど良い厚さやサイズに削って使っていたそうです
かつて主流だったのは、しなりのあるサカキやマユミという木でできたヘラ。塗師が自分でちょうど良い厚さやサイズに削って使っていたそうです

木目を活かして塗りあげる「刷毛」

刷毛

ここでようやく塗りの主戦力である刷毛の登場です。

漆塗りに使う刷毛は必ず人間の髪の毛が使われているそうです。これも使いやすいように、塗師が自分で毛先の長さや厚みを整えて使います。

この刷毛も、川原さんが自分で毛先の長さを短く整えたそう
この刷毛も、川原さんが自分で毛先の長さを短く整えたそう

「私の場合は、重箱なら4本くらいの刷毛を使い分けて塗っていきます」

机に整然と並んだヘラと刷毛。
机に整然と並んだヘラと刷毛。

「刷毛の毛先にはもちろん凹凸がありますから、どうしたって表面に塗りムラは出ます。でもそこでうまく、木目を使うんです。余分な漆は木目の溝に逃すんですよ」

塗りの途中でも、下地の黄色が透けて美しさを感じます
塗りの途中でも、下地の黄色が透けて美しさを感じます
作業する手が写りこむほどつやつやです
作業する手が写りこむほどつやつやです

こともなげに言いながら、さっさっと塗りを進めていく川原さん。時折手を止めて、表面をまじまじと観察します。

手を止めて表面をじっと見つめます
手を止めて表面をじっと見つめます

塗りの大敵であるホコリは、空気中に無数に舞っています。作業中についてしまったホコリはこうして都度表面をチェックして、細い筆で取り除いていきます。

取り除いているところ

「自分の体から出るホコリも気になってね。だから年中こんな格好なんです」

取材に伺ったのはちょうど師走に差し掛かる頃。ダウンを着込んで行った私に対して、川原さんは半袖姿でした。

「この仕事はホコリを嫌うので、密閉された空間で行います。だから塗りの仕事というのは、あまり公にならないんですね」

塗り終えた器を漆を乾かす「風炉 (ふろ) 」へ入れているところ
塗り終えた器を漆を乾かす「風炉 (ふろ) 」へ入れているところ
風炉の中を見つめる川原さん
風炉の中を見つめる川原さん

開かれた春慶塗の扉

普段は閉ざされた工房内に、幸運にも入室を許されたつかの間の取材時間。人知れずピンと張り詰めた空気の中で、艶やかな黄色は生まれていました。

完成品の重箱
完成品の重箱

「重箱はまぁ、ベーシックな形だね。これを難しいと言っていたら仕事にならないよ」

現在、川原さんは56歳。高校を卒業して、木地師だったお父さんに「お前が塗師になれば二人で商品が完成するから」と勧められて塗師の道へ。

以来40年、あとに続く春慶塗の塗師志願者は一人も現れませんでした。2017年の夏までは。

「400年以上続いてきた伝統が、僕たちの世代で終わるんかと、正直、荷が重かったですね」

2017年の夏、春慶塗の門を叩いた若者がいます。

「だからあの子の話を聞いた時に、なんとかしてあげなきゃなと思ったんです」

次は春慶塗の伝統を受け継ごうとしている「あの子」のお話を、お届けしようと思います。

<取材協力>
川原春慶工房

文・写真:尾島可奈子

こちらは、2018年1月5日の記事を再編集して公開しました

日本最古のお守り「勾玉」の神様を祀る神社へ

三種の神器 勾玉を作り続ける産地

日本史の授業できっと誰もが触れている三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。

そのひとつ勾玉が、今も神話のふるさと・出雲のそばで「作り続けられている」のをご存知でしょうか。

島根県の出雲・松江の中間に位置する玉造(たまつくり)一帯は、その名の通り勾玉の産地。

神話の舞台にもなっている玉造の地で創業し、今も皇室や出雲大社に勾玉を献上している日本で唯一の作り手「めのや」さんのご案内で、三種の神器・勾玉の秘密に迫ります。

今日は前編として、最近パワースポットとして人気の玉作湯 (たまつくりゆ) 神社を「ものづくり」視点で訪ねます。実はこちら、もともと勾玉づくりの祖と言われる神様をお祀りしている神社なのです。

出雲大社が認めた、勾玉づくりのプロフェッショナル

玉作湯神社を訪ねたのは平日の昼下がりでしたが、境内には2〜3人で連れ立ってお参りする若い女性の姿が次々に。

玉作湯神社

ここで待ち合わせたのは新宮寛人 (しんぐう・ひろひと) さん。日本で唯一、「出雲型勾玉」を継承している株式会社めのやの5代目です。

株式会社めのや5代目の新宮寛人さん。神社の由緒を解説してくださっています
株式会社めのや5代目の新宮寛人さん。神社の由緒を解説してくださっています

「出雲型勾玉」とは、出雲大社の祭祀を司る『出雲国造』職が新任する際に、皇室に代々献上されてきた勾玉の形のこと。

ふっくらとした丸みのある形が出雲型勾玉の特徴

古くから勾玉づくりが盛んだった玉造の地で明治に創業しためのや(当時はしんぐうめのう店)は、その初代から勾玉づくりの腕を認められ、「出雲勾玉」づくりを任されるように。現在では「出雲型勾玉」の技術を産地で唯一継承されています。

「玉作湯神社がお祀りしているのは、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)という神様です。天照大神 (あまてらすおおみかみ) の岩戸隠れの際に、のちの三種の神器のひとつ、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)を作ったとされる神様なんですね」

そんな神話との関わりも深い玉作湯神社。玉造に育った新宮さんにとっては、この一帯が子どもの頃の遊び場だったといいます。

「まさかこんな風に若い人たちがこぞってやってくるようになるなんて、その頃は思いもしませんでしたね」

ここ数年、玉作湯神社は「願いを叶えてくれる石がある」と注目を集め、パワースポットとしてその名を知られるようになりました。旧暦10月の「神在月」には近くの駐車場がいっぱいになってしまうのだとか。

「願い石・叶い石」はこうして生まれた

こちらですよ、と案内いただいたその名も「願い石」は、まるまるとほぼ完全な球体をしています。

願い石

当然人の手で作ったものだと思っていたら、「天然のままでこの形なんです」と新宮さん。ざぁっと鳥肌が立ちました。

この神秘的な「願い石」に、社務所で授けてもらう「叶い石」を触れさせて願をかけると、石のパワーがおすそ分けされて願いが叶う、と言われています。

「実は、『願い石』のご利益の起源には、勾玉が関係しているんです。

玉造は昔から勾玉づくりが盛んな土地で、神社の周りにも工房跡があります。職人たちはいい勾玉が作れるとこの神社に感謝を捧げにきた。

この石は、その時に『またいい勾玉が作れますように』と感謝と決意を込めてお参りするものだったんです」

職人たちにとっては、玉作湯神社がお祀りする櫛明玉命はまさに勾玉づくりの祖にあたる大切な神様。

ものづくりから生まれた信仰がいつしか一般にも伝わり広まったというわけですが、願い石の隣には今も、神社と古来の勾玉づくりとの深い関係を示すものがひっそりと置かれています。

「僕は仕事柄、願い石よりもこっちの方にまず目がいってしまうんですけどね」

そう新宮さんが示したのはつやつやと深い緑色の石。

青めのうの原石

これこそ、出雲型勾玉を象徴する「青めのう」の原石です。

世界に誇る青めのうの発見

めのうは、世界各地で産出される比較的ポピュラーな鉱石。色も乳白色や赤褐色など様々ありますが、出雲には深い緑色の「青めのう」が採れる山、花仙山 (かせんざん) があります。

「『青』が採れること自体貴重なのですが、花仙山で採れる青めのうは世界的にも例がないほど緑色が濃くてキメが細かい。これほど良質でかつ量が安定して採れる山は世界中でもここだけと言われています」

花仙山で青めのうが見つかったとされるのは弥生から古墳時代にかけて。それまでヒスイや水晶で作られていた勾玉は、花仙山での発掘以降、青めのう製に切り替わっていきます。

めのう以外の素材で作られた勾玉
めのう以外の素材で作られた勾玉

「昭和50年代の調査によると、北は函館から南は宮崎まで、各地の古墳からこの花仙山産の青めのうの勾玉が見つかっているそうです。いかに青めのうが珍重され、重要視されていたかがわかります」

こうして各地からのニーズに答えるように、玉造は勾玉づくりの一大産地として発展。後世になって土地で発見された温泉には、「玉造温泉」の名が付けられました。

日本最古のお守り。勾玉はなぜ「青」い?

実は花仙山では「白めのう」や「赤めのう」もとれるそうです。勾玉といえば青緑色のイメージがあるほど、「青」が重要視されているのはなぜなのでしょうか。

「よく、青々とした草といった言い方をしますが、青は命の源の色と考えられてきたんですね。白や赤色の勾玉も作りますが、これまでも今も、献上品としてお作りする勾玉は基本的に青めのうを使います。

中でも出雲国造職ご新任の際に献上する勾玉は『美保岐玉 (みほぎたま) 』と言って、青めのうの勾玉に形の違う白と赤のめのうの玉をつなぎ合わせた首飾りのような形をしています。

実際の美保岐玉のレプリカ。青めのうの勾玉を、白めのうの「丸玉」がはさみ、赤めのうの「管玉 (くだだま) 」が間をつなぎます
実際の美保岐玉のレプリカ。青めのうの勾玉を、白めのうの「丸玉」がはさみ、赤めのうの「管玉 (くだだま) 」が間をつなぎます

命の源を表す青に対して、白めのうは白髪になるまでの長寿を、赤めのうは血色の良い若々しさを表します。最上の敬意と祈りを込めているんですね」

勾玉の形には、動物の牙が原型と考える説や、月を表しているとする陰陽説など諸説ありますが、色にも身につける人の繁栄や無事を願う重要な役割がありました。

「勾玉は日本最古のお守りですからね。この神社の神紋 (しんもん) にも、美保岐玉に使われる3種の玉を見ることができますよ」

神紋とは、いわば神社の家紋のこと。ほらここに、と新宮さんが示したお賽銭箱の正面に、確かに勾玉をかたどった印が見られます!

美保岐玉に使われる青い勾玉と白めのうの丸玉、赤めのうの管玉が見て取れます
美保岐玉に使われる青い勾玉と白めのうの丸玉、赤めのうの管玉が見て取れます

自分だけではきっと気づけなかった神社の見どころ発見に大感激していましたが、

「すぐ近くに昔の勾玉づくりの工房跡や、地元の人もあまり知らない勾玉の原石採掘跡が見学できる公園がありますから、見に行ってみましょう」

新宮さんによる勾玉づくりの産地・玉造の案内は次へ次へと続きます。

後編はこちら。

<取材協力>
玉作湯神社
島根県松江市玉湯町玉造522

株式会社めのや
https://www.magatama-sato.com/(いずもまがたまの里伝承館)

文・写真:尾島可奈子

※こちらは2017年10月24日の記事を再編集して公開しました。

年始のご挨拶にかえて お正月を楽しむための工芸の読みもの

新年、あけましておめでとうございます。

3年目を迎えた「さんち 〜工芸と探訪〜」は、全国の工芸・産地にまつわる読み物をこれからも毎日更新していきます。

昨年は2周年をきっかけに、読者のみなさんの感想を聞けたり、一緒に工場見学ツアーに行けたことが良い思い出でした。

熱気に満ちたガラス作りの現場
「菅原工芸硝子」さんで熱気に満ちたガラス作りの現場を見学!

見学レポートはこちら:「ガラスは液体?シークレット工場見学で知った真実」

本年も「友達のようにあなたと全国の工芸産地をつなぐ、旅のおともメディア」というテーマを胸に、日本各地からその魅力を一つひとつお届けします。

さっそく明日は箱根駅伝が始まりますね。

「さんち」では箱根寄木細工で独創的な往路優勝トロフィーを作る職人さんを取材しました。よかったら観戦のおともに読んでみてくださいね。

毎年テーマを変えて創作するという往路優勝トロフィー。さて平成最後の駅伝にかけるテーマは‥‥?
毎年テーマを変えて創作するという往路優勝トロフィー。さて平成最後の駅伝にかけるテーマは‥‥?

記事はこちら:「平成最後の箱根駅伝。往路優勝トロフィーに、職人が賭ける夢」

また、温泉であったまりたいなぁという方には、初詣と工芸土産もセットで楽しめる日帰り温泉はどうでしょう。

福住楼

記事はこちら:「お正月に行く!関東の日帰り温泉×お参り×工芸のさんち旅、3選」

いつもと違うお正月料理を味わいたくなったら、全国のご当地お雑煮を試してみては。

日本全国雑煮くらべ ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました

記事はこちら:「日本全国お雑煮くらべ。ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました」

こんなふうに、今よりもゆたかで心躍る、あるいは穏やかで心地よくなれる、そんな日々を送るきっかけとなることを祈って。

愛着の持てる道具と暮らす毎日を。発見にみちた産地旅へのいざないを。2019年も「さんち」をどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

2019年元日
さんち編集部一同

幕末の「下町ロケット」 島津家が世界に誇った薩摩切子の紅色

「もう、できません」

職人が何百回と失敗しても、殿様は引き下がらなかった。

「列強にできて、我々にできないわけがない」

──今日は、列強の危機迫る幕末に、世にも美しい切子ガラスの器を生み出した薩摩藩と、100余年後、幻となっていたその「薩摩切子」を蘇らせた人々のお話です。

はじめは無色だった切子ガラス

カットガラスの模様が美しい切子細工。

薩摩切子の器

江戸の地で花開いた「江戸切子」が有名ですが、もともとは色ガラスでなく、透明なガラスに切子を施したものだったそうです。

実際に江戸時代に作られた江戸切子の器
実際に江戸時代に作られた江戸切子の器

そんな中、着色ガラスの研究に心血を注いだのが、幕末の雄、薩摩藩でした。

幕末。国難に、ガラス工芸で立ち向かった薩摩藩

鎖国時代にあっても、三方を海に接する薩摩の地には外国の情報がよく入ってきます。

薩摩のシンボル、桜島
薩摩のシンボル、桜島

江戸からはるか離れた場所にありながら、藩を統べる島津家は迫りくる列強の脅威をヒリヒリと肌で感じていました。

「幕末に開国を悟っていた殿様は他にも何名かいましたが、他藩はまず、列強に負けない武力を持とうとしました。

薩摩藩のユニークなところは、軍事だけでなく社会インフラなどの産業の増強にも力を注いだことです。そのひとつが、薩摩切子でした」

そう語るのは、株式会社島津興業の有馬仁史 (ありま・ひとし) さん。

幕末の動乱を経て技術が途絶えた薩摩切子を、およそ100年ぶりに復刻させたのが、島津家の系譜を継ぐ株式会社島津興業です。

島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房

「薩摩切子」復刻のきっかけは100年後のデパートで

「途絶えてからすでに100年以上がたち、現物もなければ、設計書もありません。わずかに残された資料や写真を頼りに復刻はスタートしました」

復刻のきっかけは、鹿児島の百貨店で1982年に開かれた展覧会だったそうです。

「ガラスの歴史を研究していた先生が開いたもので、研究の成果として復元した薩摩切子が展示されたんです。

鹿児島に切子があったことすら知らない人が多い中で、その蘇った姿は話題になり、復刻の機運がにわかに高まりました」

県からのオファーも受け、島津興業が復刻の舵取りをすることとなりました。

日本の産業革命から生まれた工芸品。発起人は島津斉彬

そもそも薩摩切子とは、幕末に島津家が藩をあげて取り組んだ産業の近代化、工業化プロジェクト「集成館事業」から生まれた工芸品です。

発起人は幕末の名君として名高い、薩摩藩第11代藩主、島津斉彬 (しまづ・なりあきら) 。

斉彬は藩主に就くとすぐ、大砲づくりに必要な製鉄や造船、紡績などの工場群「集成館」を、桜島を臨む現在の鹿児島市磯地区に建設させます。

鉄を溶かす旧集成館の反射炉跡や機械工場などは、日本の産業革命遺産を構成するひとつとして、2015年に世界遺産登録されました。

名勝 仙厳園
反射炉跡が敷地内にある旧島津家の別邸、名勝 仙巌園
反射炉跡
反射炉跡

「産業の近代化はイギリスをはじめ、世界各地で起きてきました。ではなぜ日本の産業遺跡が世界遺産として注目されたのか。

それは鎖国という、外国からの情報がほぼ得られない状況下で、わずかな資料や既存の技術、資源だけを頼みに、驚くほど短期間で成し遂げられた産業革命だったからです。

そうしたエネルギーが、薩摩切子誕生の背景にもあったと思います」

幕末の『下町ロケット』

江戸切子が隆盛を極めていた当時、薩摩藩には薬瓶など、実用のためのガラスを作る技術しかありませんでした。

「それが斉彬の代になって、『このガラスを美術工芸品の域に高めよ』と言う。

ところが身近には教えを請える外国人指導者もいませんし、参考となる書籍はみな洋書です。まずは本を翻訳するところから始まるわけですね」

翻訳ができても専門用語がわからない。用語がようやくわかっても、設備も道具も技術もない。

「中でも難しいのが、ガラスの着色です。色ガラスはすべて、鉱物を原材料にした化学変化で出来ています」

同じ鉱物を使っても、色は温度によって変化する。溶かしたガラスを一定の時間、一定の温度で保てなければ、狙った色にならないそうです。

色とりどりの発色はすべて、原料となる鉱物の種類と温度管理で変化する
色とりどりの発色はすべて、原料となる鉱物の種類と温度管理で変化する

「そんな化学の知識ももちろんない中で、江戸の当時はすべて手探りの実験です。

現代でいえば、『下町ロケット』みたいな話ですよね。何度も失敗する中で、温度と時間の関係に気づいていったのだと思います」

職人が数百回失敗しても、他国では実際にできているのだから、と叱咤激励して島津家がどうしても手に入れたかったのが、当時はどの藩でも発色に成功していなかった、赤い切子ガラスでした。

斉彬自慢の紅ガラス

薩摩藩はついに、日本で初めて、深い紅色の切子ガラスを誕生させます。

復刻された伝説の「薩摩の紅ガラス」
復刻された伝説の「薩摩の紅ガラス」

「『薩摩の紅ガラス』として、一躍有名になりました。斉彬も完成した当時は大いに喜んで、近しい人にプレゼントして自慢しているんですね。

自慢したくなる気持ちもよくわかります。今でもこの紅色は、発色させるのが大変難しい色なんです」

薩摩藩の職人たちが資料も道具も設備もないところから薩摩切子を誕生させたように、100年後の島津興業もまた、明治初期には途絶えたという「幻の切子」を、わずかな資料を頼りに復刻しなければなりませんでした。

二人の職人との縁から動き出したプロジェクト

「最盛期の薩摩切子の工場には、100人以上の職人がいたと言われています。しかし幕末の動乱や事業主であった藩の解体とともに、事業は縮小していきます。

この一帯は幕末から明治にかけての動乱で戦地になったこともあり、資料もほとんど残っていませんでした」

そんな中で、島津興業の薩摩切子復刻プロジェクトは持ち上がりました。

「職人を呼ぼうにも、みんな薩摩切子が一体なんであるかを知らないわけですよね。

すでにどこかの工房で地位を獲得している職人が、まだ形のない工房に来ようとは、なかなか思わないわけです」

それでも、展覧会を開いた先生のつながりで、ガラスの専門学校を間もなく卒業する一人の女子学生をカット職人として採用。

カットの様子
カットの様子

さらに、視察先のガラス工房で、たまたま薩摩切子の存在を知る、鹿児島出身の成形職人に出会い、意気投合。

成形の工程
成形の工程

「成形、カットとこの二人が両輪になって、だんだんと復刻が現実のものになっていきました」

100年前の姿を求めて

技術は整った。しかし復刻の見本にできるものは、わずかに昔の写真などしかなかったそうです。

「切子は、外側の色ガラスと内側の透明ガラスが一体となって、外側に切り込みを入れることで模様を表していきます。

薩摩切子は他の切子と比べて分厚く、その分、切り込みの角度や深さによって、色のグラデーションを出す『ぼかし』の表現ができるのが特徴です」

ぼかしの見本。切り込みの角度や深さによって色の濃淡が変わっていきます
ぼかしの見本。切り込みの角度や深さによって色の濃淡が変わっていきます
浮かび上がるような柔らかな色合いになります

「実は後世になって、カットの角度や深さまで研究した薩摩切子の専門書が出版されているのですが、実際にその通りにやっても、イメージ通りにはならなかったんですね。

目指す姿にするために、手探りで理想の色やカットの角度、深さを見つけていく。プロジェクト初期は、それこそ試行錯誤の繰り返しだったと思います」

1982年の展覧会から3年後の1985年には、薩摩切子の工房「薩摩ガラス工芸」がスタート。

薩摩切子の認知も少しずつ広まり、30年が経った現在は成形からカット、磨きまで26名の職人さんが働いています。

工房も、昨年には一般の方も見学できる施設としてリニューアルオープンしました。

作業の様子を間近で見学できます
作業の様子を間近で見学できます

もしも薩摩切子が100年続いていたら

もうひとつ、有馬さんが教えてくれた薩摩切子の特徴があります。それは模様。

「たとえば江戸切子は単一柄の連続ものが多いんです。着物の江戸小紋と一緒ですね。

一方で薩摩切子は、ひとつの器の中に複数の模様を組み合わせて表現します。当時のヨーロッパのカットガラスのように、非常にデコラティブなんですね」

面ごとに模様が違うのがわかります
面ごとに模様が違うのがわかります

「これは想像の域ですが、おそらく斉彬が、海外への輸出を視野に入れていたためではないかと思うんですね。

海を渡っても、一目見てそのゴージャスさがわかってもらえるような表現を目指していたのでしょう。

それを証明するように、当時作られた薩摩切子の中にも、日本の食文化にないような、デキャンタのような形をした酒瓶があったようです。

どこかで見聞きした西洋のトレンドをキャッチして、製品作りに取り入れていたんですね」

技術を研鑽し、不可能を可能にしていく姿は、復刻から20年たった現代の薩摩切子にも見ることができます。

ぼかしの表現が難しい黒の切子の器。濃淡の違う黒ガラスを2層合わせるアイディアで誕生しました
ぼかしの表現が難しい黒の切子の器。濃淡の違う黒ガラスを2層合わせるアイディアで誕生しました
全国でも珍しいという、明るい発色の黄色い切子
全国でも珍しいという、明るい発色の黄色い切子

「私たちは単に昔の姿形の通りにするのではなく、江戸時代に薩摩切子が『目指したもの』を大事にしています。

これはたらればの話になりますが、もし、薩摩切子の技術が途絶えずに100年続いていたら、果たして職人たちはずっと昔の技術や製法のまま作っていただろうか、と考えるんですね。

幕末にあって斉彬が、海外にも誇れる最高級の切子ガラスを作ろうとしたように、私たちも志は受け継ぎながら、今できる最高の技術で作れる現代の薩摩切子を、作っていくつもりです」

現代に蘇った薩摩切子。

その姿は単なる復刻版ではなく、江戸時代に他藩に先駆けて研究を成功させた志そのままに、これからも進化し続けていくのだろうと思います。

<取材協力>
株式会社島津興業 薩摩ガラス工芸
鹿児島県鹿児島市吉野町9688-24
099-247-8490 (島津薩摩切子ギャラリーショップ磯工芸館)
http://www.satsumakiriko.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、公益社団法人 鹿児島県観光連盟

※こちらは、2018年1月24日の記事を再編集して公開しました。大河ドラマ「西郷どん」にも登場した薩摩切子。ぜひ実物をみていただきたい工芸品です。