新成人のお祝いに。めでたくて美しいガラスの贈り物

1月の成人の日、5月の母の日、9月の敬老の日‥‥日本には誰かが主役になれるお祝いの日が毎月のようにあります。せっかくのお祝いに手渡すなら、きちんと気持ちの伝わるものを贈りたい。

今回のテーマは「成人の日に贈るもの」。

満20歳になった若者をお祝いする成人の日は、実は昭和に入ってから始まった比較的新しい行事ですが、今ではすっかり1月の風物詩です。

大人になったお祝いは、せっかくなので大人にしかできないことにちなんで贈りたいなぁ…と思いついたのが、「富士山グラス」でした。

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2008年のTokyo Midtown Award デザインコンペで審査員特別賞を受賞したのをきっかけに商品化されたこのグラスは、ひとたびドリンクを注げばどこにいても富士山が現れるという、おめでたさとシルエットの美しさを兼ね備えた器。

大人の証であるお酒の時間を一層楽しくしてくれるこのグラスなら、成人の日のお祝いにもぴったりです。富士山のように懐の深い、スケールの大きい大人になってね、というメッセージも込められそう。

それにしても商品の命とも言えるこの富士山型、一体どうやって作られているのか。その秘密を追って製造現場を訪ねたら、ますます成人の日のお祝いにぴったりの、「いい大人」のお話にめぐり会いました。

ふじさん、でなくフジヤマグラス、と読むんですよ。

潮風の吹く九十九里の硝子工房を訪ねて

訪れたのは千葉・九十九里。富士山グラスを製造する菅原工芸硝子株式会社さんの本社と工房がある町です。取材にはなんと菅原裕輔社長が直々に応じてくださることに。

現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。
現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。

昭和9年に東京で硝子食器の製造を始めた初代社長(菅原さんのお祖父様)の時代に、工房はこの地に移転しています。なぜ、九十九里だったのでしょう。

「もともと硝子工場って東京の下町に多かったんです。うちも祖父が起業した当初は墨田区にありました。そこが手狭になって移転先を探していた頃に、たまたま祖父が九十九里にお花見に来たんですね。その時にここの温暖な気候と人の気性の良さに惚れたようで」

と菅原さんが話す工房の敷地内には、よく見れば桜の木がたくさん植わっています。春はお花見の穴場スポットだそうです。

春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。
春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。

「硝子づくりは砂を使うので、九十九里浜の砂が硝子に適していたのかとよく聞かれるのですが、決してそういうことではないんです。ものづくりに適していることといえば、熱い窯を焚く仕事なので、潮風で風通しがいいことですかね」

夏には室内の温度が50度にもなるという作業場は、なんと一般の人でも申込めば間近で見学することができます。

菅原工芸硝子さんが販売する商品は年間およそ4000点。その全てが手作りで、この場所で生み出されています。もちろん富士山グラスもそのひとつ。いよいよあの富士山型の不思議なグラスがどう作られているのか、目撃できる瞬間が近づいてきました。

いざ、富士山グラスの生まれる現場へ

はじめに案内いただいたのは、通常は硝子炉の中にあって見ることができない「るつぼ」の原型。工房の入り口に展示されています。

上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。
上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。

この中に硝子の原料を入れて炉の熱で溶かし、トロトロの液状になったところを巻き取って玉にするところから、硝子作りは始まります。

中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。
中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。

「硝子って600度くらいで固まってしまうんです。だからそれまでに形を作らなければいけない。安定して量産させるために、商品ごとに班を組んで工程を分担しています。例えば富士山グラスなら4人ひと組です」

暖房が効いているかのように暖かな作業場には、職人さんがざっと20人以上はいます。

それぞれに休みなく動く様子は、よくよく見ると中央の大きな硝子炉を中心に班分けされて、全く別のものづくりが進んでいます。その動きがとても息が合っていて、無駄がない。キビキビとして見惚れてしまいます。

炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。

ぐるりと作業場を一周したところで、ついに富士山グラスを作る班に辿りつきました。取材のために急きょ生産計画を変えてくれたそうで、通常4人ひと組のところを3人で実演してくれます。

1人少ないはずなのに、やはり流れるような連携プレーがここにもありました。

富士山グラスは「型吹き」という製法で作られています。まず1人が器の素となる塊をパイプの先に作り(1)、炉でその周りにさらにガラスを巻き取って玉状にします(2)。

(1)はじめはこんなに小さな玉。
(1)はじめはこんなに小さな玉。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。

運ばれてきた玉を足元の型にセットし、パイプを回しながら均一に空気を吹き込んで、硝子の形を整えます(3)。

(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)富士山型に!
(3)富士山型に!

型から取り出したものは目視で最初の検品をし、OKのものだけ徐冷炉(じょれいろ)というゆっくりガラスを冷却させる炉に運びます(4)。

(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。
(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。

ガラスは急激に冷やすと表面だけが収縮して内側とバランスを崩して割れやヒビを起こしてしまうため、全ての商品がこの徐冷炉でゆっくりと冷やされるそうです。

(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。
(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。

「あまり強く吹くと硝子のハダが悪くなるんです」

と教えてくれたのは吹きの工程の職人さん。ハダ、つまり硝子の表面をきれいに出すために、菅原さんの工房では硝子の玉を流し込む直前、型に水を含ませています。水は熱された硝子に触れた瞬間に蒸発して、型と硝子の間に水の膜をつくります。

使う前にしっかりと型に水を含ませる。
使う前にしっかりと型に水を含ませる。

「これによって、硝子が型に直接触れないため、ツルリとしたハダが生まれるんです。

富士山グラスの場合は、裾野の角を出すためにある程度強く吹く必要があります。ところが強く吹きすぎると、今度は硝子が水蒸気の膜を超えて、型に触れてしまう。そうすると表面に型の跡がついてしまうんです。

あの形は、水蒸気を蒸発させ切らずに裾野の部分の角もきっちり出る、という点がまさにピンポイントで…」

4000種ある製品の中でもかなりの難易度だという富士山グラスの開発秘話を、菅原さんが語ってくれました。

難しさも日本一!? 富士山グラス開発秘話

「型を作る開発段階までは、さほど難しくなかったんです。でも人が吹くことなので、あの形がキレイに出るピンポイントを 『何秒で何mlの息を吹く』のように数値で教えることはできない。人の感覚でしかないわけです。はじめは1人の職人しか作れませんでした。やっと量産できるようになるまで、何ヶ月もかかりましたね」

きれいに角の出た、できたての富士山グラス。
きれいに角の出た、できたての富士山グラス。

富士山グラスは、あの形だからこそおめでたい。泡の加減やドリンクによって富士山の表情が変わるも、あのツルリと透き通った表面でなければ楽しめません。

シンプルな作りのようですが、確かにこれは難易度が高そう。どう量産を成功させたんですか、と伺うと、

「それは反復しかないんです」

と一言。そうして次に伺ったお話が、とても印象的でした。

「手作りのものづくりでよく似たものに陶芸がありますが、実は全く違う世界なんです。決定的な違いは、素材を手で触れるかかどうか。数千度に熱されたガラスは触ることができません。道具を使ってはじめて触ることができます。そして道具を使いこなすには、反復練習しかないんです」

様々な道具を使い分けて、商品がかたちづくられる。
様々な道具を使い分けて、商品がかたちづくられる。

1人で成形ができる一人前になるまでの道のりは、およそ10年。

「だから新たに職人を募集するときには、経験は一切問いません。うちで育てる、というスタンスです。大切なのは本当に好きになれそうかどうか。就職希望の子にも、一番過酷な夏に現場を見学させるんですよ」

全国から若い職人さんの集まる硝子工房の秘密

現実をきちんと知った上で、それでも菅原さんの工房には全国から若い職人さんが集まってきています。北は北海道から南は広島まで、全30人ほどの職人さんのうち、地元千葉出身はほんの一握り、それも50代以上のベテランさんに限られるそうです。

作り手志望者にとって大きな魅力となっているのが、商品開発。菅原工芸硝子さんでは、職人自らアイディアを出してデザインに起こし、商品を企画できるのです。

「職人というと、ベテランのおじさんがやっているイメージがありますが、うちは若い職人が多いのも特徴です。女性の職人も多い。今で8名、来年新卒で3名入りますから、とうとう2桁になります。女性の硝子作家さんは多いですが、うちのような製造現場で職人として働いているというのは、世界を見渡してもちょっと珍しいかもしれません」

ベテランさんとペアになって硝子細工を作っていた、今年入社の女性の職人さん。
ベテランさんとペアになって硝子細工を作っていた、今年入社の女性の職人さん。

そうして職人さんから出た企画を元に、毎年200点ペースで新作が輩出されます。

「200点も大変ですね、とよく言われるのですが、むしろ食いさがる職人を説得して200点に絞りこむのに、毎年頭を悩ませているくらいなんです」

まさに今日は、年に一度の大きな選考の会議を終えてきたばかり。苦笑いしながらも、菅原さんはどこか嬉しそうです。

「夏の暑い日なんて、ゆっくり昼休みを取るべきなのに、彼らはお昼ご飯もそこそこに切り上げて、こんなものが作れないかと話しながら試作をしています。お金を稼ぐだけなら他に割のいい仕事はいくらでもあると思いますが、ガラスが好きで好きで仕方ない人には、こんなに楽しい職場はないでしょうね」

休み時間や休日も、ここでは職人さんが自由に材料や道具を使っていいことになっています。「その代わりいいものを作ってね」が交換条件。職人さんがどんどん新しいものづくりに挑戦できる仕組みは、他にも。製品の形を決める型と、完成した製品を収める箱は、なんと社内で作っています。

「よし作ってみようと思ったら、すぐに型を作って実際に作ってみる。もちろん失敗もありますが、毎年4000点を作るには、このやり方でないと」

こちらは社内唯一の型職人さん。型は社内で製造できるよう、鋳型でなく、カーボンで作っているそう。
こちらは社内唯一の型職人さん。型は社内で製造できるよう、鋳型でなく、カーボンで作っているそう。
様々な形がずらりと並ぶ型の倉庫。
様々な形がずらりと並ぶ型の倉庫。
箱作りの一角。裁断機や資材が所狭しと並ぶ。
箱作りの一角。裁断機や資材が所狭しと並ぶ。

大志を抱く若者に贈りたい、富士山グラス

職人さんが意欲的にものづくりに向かえる環境を用意する一方で、いいアイディアは素早く形にして商品化できる受け皿を整える。成形の難しい富士山型のグラスを量産できた理由も、若い職人さんが全国から九十九里に集まってくる理由も、ここにあるように感じました。

菅原工芸硝子さん全体を包む、ものづくりを楽しみながら新しいことに挑戦していこうという空気感。熱気、と言った方が正しいのかもしれません。背景を知ると一層、若い人の門出を祝うなら、こういう熱を持って作られるものがいいな、と思えてきました。

それにしてもこんなに製造の内側をオープンにしてしまって、良いのでしょうか?こちらは勉強になりましたが…

「実は20年ほど前まではあまり現場をオープンにしていませんでした。けれど今、日本でガラス食器をある程度の規模で量産しているメーカーは10社ほどです。るつぼを作れるところと、硝子の材料を仕入れているところに関してはそれぞれもう1社ずつしかありません。これ以上減ってしまうとものづくりができなくなってしまうので、使えるものは使ってください、とオープンにすることにしたんです」

聞けば富士山グラスの量産を引き受けた理由も、とても菅原さんらしい、と思えるものでした。

「富士山グラスの元になった『冨嶽百九十三景』デザイナーの鈴木啓太さんとは、実は彼が大学生の時に一緒にものづくりをしたことがあったんです。面白いものを作るので、出会ってきた学生の中でもとても印象に残っていて、彼にまた会いたいという思いで引き受けました」

成人の日のお祝いに贈りたい、菅原工芸硝子さんの「富士山グラス」。その美しくおめでたいシルエットには、未来を思いながら、今日も楽しそうにものづくりをする「いい大人」たちの志が吹き込まれていました。大志を抱く若者の門出に、ぜひどうぞ。

自然と始まる企画会議。
自然と始まる企画会議。

<掲載商品>
菅原工芸硝子株式会社
「富士山グラス」(スガハラ オンラインショップ中川政七商店公式通販サイト)

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文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、山口綾子

※こちらは、2017年1月9日の記事を再編集して公開しました。

春慶塗の黄色い重箱が日常を晴れやかにする

三が日も明けて、少しずつ街にも日常の空気が戻ってきました。今日は、お正月のおせち料理を華やかに飾っていた、漆塗りのお重のお話です。

一般的には朱や黒のイメージがある漆塗りですが、実は「黄色」があるのをご存知でしょうか?

道具が並んでいる様子
塗師の作業中の後ろ姿

木目の美しさが命。飛騨春慶塗

「春慶塗は、とても素朴な漆塗りです。蒔絵や螺鈿などの装飾をせず、黄色や赤に着色した木地に透明な透漆 (すきうるし) を塗って、木目の美しさを見せるんです」

工房にあった春慶塗の重箱
工房にあった春慶塗の重箱

訪ねたのは岐阜県飛騨高山市、飛騨春慶塗 (ひだしゅんけいぬり) の塗師、川原俊彦さんの工房です。

塗りの様子

木目の美しさを楽しむ漆塗りの表現は、なんと奈良時代から行われていたそうです。室町時代に春慶という職人が現在の技法を考案し、全国に広まりました。

「春慶塗」は広まるうちに、各地の名を冠するように。飛騨は今もその伝統を受け継ぐ、代表的な春慶塗の産地です。

「漆が透けるので、木地自そのものが相当きれいに仕上がってないと商品にならないんです。木地作りの技術で言えば、飛騨は全国でも屈指だと思います」

木目がはっきりと見て取れる川原さんのお盆
木目がはっきりと見て取れる川原さんのお盆

春慶塗のものづくりは、木地と塗りの大きくふたつの工程に分かれます。

この日は、塗りの中でも商品になる最終段階、上塗りの工程に立ち会いました。伝統的な春慶塗の手法ではこの手前に、幾層もの下塗りの工程があります。

手前が上塗り前。奥が上塗り後
手前が上塗り前。奥が上塗り後

「上塗りでいかに漆のムラを出さずに木目の美しさを見せるか。これが春慶塗の真骨頂です」

塗りの様子

面白いことに、漆の成分には元々、できるだけ均一になろうとする性質があるのだそうです。塗師の腕はこの性質を生かしながら漆をいかに均一に塗れるか、にかかっています。

そのムラのない美しさの大敵がホコリ。

小さなチリひとつでも表面の膜についてしまうと、製品にならないそうです。

見せていただいた上塗りの工程は、ホコリとの戦いと言っても、過言ではありませんでした。

上塗りを行う作業台の脇には掃除機がセットされていました。塗りに入る前に、まず掃除機で元々器についているホコリを取り除くそうです
上塗りを行う作業台の脇には掃除機がセットされていました。塗りに入る前に、まず掃除機で元々器についているホコリを取り除くそうです

漆の中のホコリを取り除く道具「トウゴシ」

上塗りに使う漆は、塗師が自ら作ります。

上塗り漆。塗師が自分で漆を生成するのも、産地としては珍しいのだとか
上塗り漆。塗師が自分で漆を生成するのも、産地としては珍しいのだとか

木から摂った生漆 (きうるし) を体温くらいの温度でゆっくり温めて攪拌させたものに、蒸発した水分量と同等の 荏油(えごま油)を混ぜて作るそうです。

完成した漆はとろりとしています
完成した漆はとろりとしています

攪拌にかける時間は1キログラムあたり1時間。この間に液の中に入ってしまうホコリを取り除くための道具が「トウゴシ」です。

トウゴシ

10枚ほど重ねた和紙に漆をたっぷりと染み込ませ、台の両端に付いたロープに引っ掛けてねじる。そうすると、ホコリは和紙が吸い取って、きれいな漆になるのだそうです。

ロープに和紙を引っ掛けて、絞ります
ロープに和紙を引っ掛けて、絞ります
使われていたのは奈良の吉野和紙。多くの塗り産地で支持されているそうです
使われていたのは奈良の吉野和紙。多くの塗り産地で支持されているそうです

塗りの助手役「イボ」

イボ

ムラなく均一に塗っていこうと思うと、机の上に置いたままではできません。かといって手に商品を直接持てば、せっかく塗った面を汚してしまう恐れがある。

そこで活躍するのがこのスタンプ台のような道具です。

イボのフラット面

フラットな面についている突起は、和蝋 (わろう) を練ったもの。これがピタッと木地に接着し、直接手を触れずに、商品を動かしながら漆を塗ることができます。

イボを手に持った様子
斜めにしても落ちません。手で簡単に取り外せて、接着の跡も残らないという優秀さ!
斜めにしても落ちません。手で簡単に取り外せて、接着の跡も残らないという優秀さ!

漆を配る「ヘラ」

はじめにざっと漆を全体に置いていくことを、川原さんは漆を「配る」と言っていました。この配るのに使い勝手が良いのがヘラだそうです。

かつて主流だったのは、しなりのあるサカキやマユミという木でできたヘラ。塗師が自分でちょうど良い厚さやサイズに削って使っていたそうです
かつて主流だったのは、しなりのあるサカキやマユミという木でできたヘラ。塗師が自分でちょうど良い厚さやサイズに削って使っていたそうです

木目を活かして塗りあげる「刷毛」

刷毛

ここでようやく塗りの主戦力である刷毛の登場です。

漆塗りに使う刷毛は必ず人間の髪の毛が使われているそうです。これも使いやすいように、塗師が自分で毛先の長さや厚みを整えて使います。

この刷毛も、川原さんが自分で毛先の長さを短く整えたそう
この刷毛も、川原さんが自分で毛先の長さを短く整えたそう

「私の場合は、重箱なら4本くらいの刷毛を使い分けて塗っていきます」

机に整然と並んだヘラと刷毛。
机に整然と並んだヘラと刷毛。

「刷毛の毛先にはもちろん凹凸がありますから、どうしたって表面に塗りムラは出ます。でもそこでうまく、木目を使うんです。余分な漆は木目の溝に逃すんですよ」

塗りの途中でも、下地の黄色が透けて美しさを感じます
塗りの途中でも、下地の黄色が透けて美しさを感じます
作業する手が写りこむほどつやつやです
作業する手が写りこむほどつやつやです

こともなげに言いながら、さっさっと塗りを進めていく川原さん。時折手を止めて、表面をまじまじと観察します。

手を止めて表面をじっと見つめます
手を止めて表面をじっと見つめます

塗りの大敵であるホコリは、空気中に無数に舞っています。作業中についてしまったホコリはこうして都度表面をチェックして、細い筆で取り除いていきます。

取り除いているところ

「自分の体から出るホコリも気になってね。だから年中こんな格好なんです」

取材に伺ったのはちょうど師走に差し掛かる頃。ダウンを着込んで行った私に対して、川原さんは半袖姿でした。

「この仕事はホコリを嫌うので、密閉された空間で行います。だから塗りの仕事というのは、あまり公にならないんですね」

塗り終えた器を漆を乾かす「風炉 (ふろ) 」へ入れているところ
塗り終えた器を漆を乾かす「風炉 (ふろ) 」へ入れているところ
風炉の中を見つめる川原さん
風炉の中を見つめる川原さん

開かれた春慶塗の扉

普段は閉ざされた工房内に、幸運にも入室を許されたつかの間の取材時間。人知れずピンと張り詰めた空気の中で、艶やかな黄色は生まれていました。

完成品の重箱
完成品の重箱

「重箱はまぁ、ベーシックな形だね。これを難しいと言っていたら仕事にならないよ」

現在、川原さんは56歳。高校を卒業して、木地師だったお父さんに「お前が塗師になれば二人で商品が完成するから」と勧められて塗師の道へ。

以来40年、あとに続く春慶塗の塗師志願者は一人も現れませんでした。2017年の夏までは。

「400年以上続いてきた伝統が、僕たちの世代で終わるんかと、正直、荷が重かったですね」

2017年の夏、春慶塗の門を叩いた若者がいます。

「だからあの子の話を聞いた時に、なんとかしてあげなきゃなと思ったんです」

次は春慶塗の伝統を受け継ごうとしている「あの子」のお話を、お届けしようと思います。

<取材協力>
川原春慶工房

文・写真:尾島可奈子

こちらは、2018年1月5日の記事を再編集して公開しました

日本最古のお守り「勾玉」の神様を祀る神社へ

三種の神器 勾玉を作り続ける産地

日本史の授業できっと誰もが触れている三種の神器、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。

そのひとつ勾玉が、今も神話のふるさと・出雲のそばで「作り続けられている」のをご存知でしょうか。

島根県の出雲・松江の中間に位置する玉造(たまつくり)一帯は、その名の通り勾玉の産地。

神話の舞台にもなっている玉造の地で創業し、今も皇室や出雲大社に勾玉を献上している日本で唯一の作り手「めのや」さんのご案内で、三種の神器・勾玉の秘密に迫ります。

今日は前編として、最近パワースポットとして人気の玉作湯 (たまつくりゆ) 神社を「ものづくり」視点で訪ねます。実はこちら、もともと勾玉づくりの祖と言われる神様をお祀りしている神社なのです。

出雲大社が認めた、勾玉づくりのプロフェッショナル

玉作湯神社を訪ねたのは平日の昼下がりでしたが、境内には2〜3人で連れ立ってお参りする若い女性の姿が次々に。

玉作湯神社

ここで待ち合わせたのは新宮寛人 (しんぐう・ひろひと) さん。日本で唯一、「出雲型勾玉」を継承している株式会社めのやの5代目です。

株式会社めのや5代目の新宮寛人さん。神社の由緒を解説してくださっています
株式会社めのや5代目の新宮寛人さん。神社の由緒を解説してくださっています

「出雲型勾玉」とは、出雲大社の祭祀を司る『出雲国造』職が新任する際に、皇室に代々献上されてきた勾玉の形のこと。

ふっくらとした丸みのある形が出雲型勾玉の特徴

古くから勾玉づくりが盛んだった玉造の地で明治に創業しためのや(当時はしんぐうめのう店)は、その初代から勾玉づくりの腕を認められ、「出雲勾玉」づくりを任されるように。現在では「出雲型勾玉」の技術を産地で唯一継承されています。

「玉作湯神社がお祀りしているのは、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)という神様です。天照大神 (あまてらすおおみかみ) の岩戸隠れの際に、のちの三種の神器のひとつ、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)を作ったとされる神様なんですね」

そんな神話との関わりも深い玉作湯神社。玉造に育った新宮さんにとっては、この一帯が子どもの頃の遊び場だったといいます。

「まさかこんな風に若い人たちがこぞってやってくるようになるなんて、その頃は思いもしませんでしたね」

ここ数年、玉作湯神社は「願いを叶えてくれる石がある」と注目を集め、パワースポットとしてその名を知られるようになりました。旧暦10月の「神在月」には近くの駐車場がいっぱいになってしまうのだとか。

「願い石・叶い石」はこうして生まれた

こちらですよ、と案内いただいたその名も「願い石」は、まるまるとほぼ完全な球体をしています。

願い石

当然人の手で作ったものだと思っていたら、「天然のままでこの形なんです」と新宮さん。ざぁっと鳥肌が立ちました。

この神秘的な「願い石」に、社務所で授けてもらう「叶い石」を触れさせて願をかけると、石のパワーがおすそ分けされて願いが叶う、と言われています。

「実は、『願い石』のご利益の起源には、勾玉が関係しているんです。

玉造は昔から勾玉づくりが盛んな土地で、神社の周りにも工房跡があります。職人たちはいい勾玉が作れるとこの神社に感謝を捧げにきた。

この石は、その時に『またいい勾玉が作れますように』と感謝と決意を込めてお参りするものだったんです」

職人たちにとっては、玉作湯神社がお祀りする櫛明玉命はまさに勾玉づくりの祖にあたる大切な神様。

ものづくりから生まれた信仰がいつしか一般にも伝わり広まったというわけですが、願い石の隣には今も、神社と古来の勾玉づくりとの深い関係を示すものがひっそりと置かれています。

「僕は仕事柄、願い石よりもこっちの方にまず目がいってしまうんですけどね」

そう新宮さんが示したのはつやつやと深い緑色の石。

青めのうの原石

これこそ、出雲型勾玉を象徴する「青めのう」の原石です。

世界に誇る青めのうの発見

めのうは、世界各地で産出される比較的ポピュラーな鉱石。色も乳白色や赤褐色など様々ありますが、出雲には深い緑色の「青めのう」が採れる山、花仙山 (かせんざん) があります。

「『青』が採れること自体貴重なのですが、花仙山で採れる青めのうは世界的にも例がないほど緑色が濃くてキメが細かい。これほど良質でかつ量が安定して採れる山は世界中でもここだけと言われています」

花仙山で青めのうが見つかったとされるのは弥生から古墳時代にかけて。それまでヒスイや水晶で作られていた勾玉は、花仙山での発掘以降、青めのう製に切り替わっていきます。

めのう以外の素材で作られた勾玉
めのう以外の素材で作られた勾玉

「昭和50年代の調査によると、北は函館から南は宮崎まで、各地の古墳からこの花仙山産の青めのうの勾玉が見つかっているそうです。いかに青めのうが珍重され、重要視されていたかがわかります」

こうして各地からのニーズに答えるように、玉造は勾玉づくりの一大産地として発展。後世になって土地で発見された温泉には、「玉造温泉」の名が付けられました。

日本最古のお守り。勾玉はなぜ「青」い?

実は花仙山では「白めのう」や「赤めのう」もとれるそうです。勾玉といえば青緑色のイメージがあるほど、「青」が重要視されているのはなぜなのでしょうか。

「よく、青々とした草といった言い方をしますが、青は命の源の色と考えられてきたんですね。白や赤色の勾玉も作りますが、これまでも今も、献上品としてお作りする勾玉は基本的に青めのうを使います。

中でも出雲国造職ご新任の際に献上する勾玉は『美保岐玉 (みほぎたま) 』と言って、青めのうの勾玉に形の違う白と赤のめのうの玉をつなぎ合わせた首飾りのような形をしています。

実際の美保岐玉のレプリカ。青めのうの勾玉を、白めのうの「丸玉」がはさみ、赤めのうの「管玉 (くだだま) 」が間をつなぎます
実際の美保岐玉のレプリカ。青めのうの勾玉を、白めのうの「丸玉」がはさみ、赤めのうの「管玉 (くだだま) 」が間をつなぎます

命の源を表す青に対して、白めのうは白髪になるまでの長寿を、赤めのうは血色の良い若々しさを表します。最上の敬意と祈りを込めているんですね」

勾玉の形には、動物の牙が原型と考える説や、月を表しているとする陰陽説など諸説ありますが、色にも身につける人の繁栄や無事を願う重要な役割がありました。

「勾玉は日本最古のお守りですからね。この神社の神紋 (しんもん) にも、美保岐玉に使われる3種の玉を見ることができますよ」

神紋とは、いわば神社の家紋のこと。ほらここに、と新宮さんが示したお賽銭箱の正面に、確かに勾玉をかたどった印が見られます!

美保岐玉に使われる青い勾玉と白めのうの丸玉、赤めのうの管玉が見て取れます
美保岐玉に使われる青い勾玉と白めのうの丸玉、赤めのうの管玉が見て取れます

自分だけではきっと気づけなかった神社の見どころ発見に大感激していましたが、

「すぐ近くに昔の勾玉づくりの工房跡や、地元の人もあまり知らない勾玉の原石採掘跡が見学できる公園がありますから、見に行ってみましょう」

新宮さんによる勾玉づくりの産地・玉造の案内は次へ次へと続きます。

後編はこちら。

<取材協力>
玉作湯神社
島根県松江市玉湯町玉造522

株式会社めのや
https://www.magatama-sato.com/(いずもまがたまの里伝承館)

文・写真:尾島可奈子

※こちらは2017年10月24日の記事を再編集して公開しました。

年始のご挨拶にかえて お正月を楽しむための工芸の読みもの

新年、あけましておめでとうございます。

3年目を迎えた「さんち 〜工芸と探訪〜」は、全国の工芸・産地にまつわる読み物をこれからも毎日更新していきます。

昨年は2周年をきっかけに、読者のみなさんの感想を聞けたり、一緒に工場見学ツアーに行けたことが良い思い出でした。

熱気に満ちたガラス作りの現場
「菅原工芸硝子」さんで熱気に満ちたガラス作りの現場を見学!

見学レポートはこちら:「ガラスは液体?シークレット工場見学で知った真実」

本年も「友達のようにあなたと全国の工芸産地をつなぐ、旅のおともメディア」というテーマを胸に、日本各地からその魅力を一つひとつお届けします。

さっそく明日は箱根駅伝が始まりますね。

「さんち」では箱根寄木細工で独創的な往路優勝トロフィーを作る職人さんを取材しました。よかったら観戦のおともに読んでみてくださいね。

毎年テーマを変えて創作するという往路優勝トロフィー。さて平成最後の駅伝にかけるテーマは‥‥?
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記事はこちら:「平成最後の箱根駅伝。往路優勝トロフィーに、職人が賭ける夢」

また、温泉であったまりたいなぁという方には、初詣と工芸土産もセットで楽しめる日帰り温泉はどうでしょう。

福住楼

記事はこちら:「お正月に行く!関東の日帰り温泉×お参り×工芸のさんち旅、3選」

いつもと違うお正月料理を味わいたくなったら、全国のご当地お雑煮を試してみては。

日本全国雑煮くらべ ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました

記事はこちら:「日本全国お雑煮くらべ。ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました」

こんなふうに、今よりもゆたかで心躍る、あるいは穏やかで心地よくなれる、そんな日々を送るきっかけとなることを祈って。

愛着の持てる道具と暮らす毎日を。発見にみちた産地旅へのいざないを。2019年も「さんち」をどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

2019年元日
さんち編集部一同

幕末の「下町ロケット」 島津家が世界に誇った薩摩切子の紅色

「もう、できません」

職人が何百回と失敗しても、殿様は引き下がらなかった。

「列強にできて、我々にできないわけがない」

──今日は、列強の危機迫る幕末に、世にも美しい切子ガラスの器を生み出した薩摩藩と、100余年後、幻となっていたその「薩摩切子」を蘇らせた人々のお話です。

はじめは無色だった切子ガラス

カットガラスの模様が美しい切子細工。

薩摩切子の器

江戸の地で花開いた「江戸切子」が有名ですが、もともとは色ガラスでなく、透明なガラスに切子を施したものだったそうです。

実際に江戸時代に作られた江戸切子の器
実際に江戸時代に作られた江戸切子の器

そんな中、着色ガラスの研究に心血を注いだのが、幕末の雄、薩摩藩でした。

幕末。国難に、ガラス工芸で立ち向かった薩摩藩

鎖国時代にあっても、三方を海に接する薩摩の地には外国の情報がよく入ってきます。

薩摩のシンボル、桜島
薩摩のシンボル、桜島

江戸からはるか離れた場所にありながら、藩を統べる島津家は迫りくる列強の脅威をヒリヒリと肌で感じていました。

「幕末に開国を悟っていた殿様は他にも何名かいましたが、他藩はまず、列強に負けない武力を持とうとしました。

薩摩藩のユニークなところは、軍事だけでなく社会インフラなどの産業の増強にも力を注いだことです。そのひとつが、薩摩切子でした」

そう語るのは、株式会社島津興業の有馬仁史 (ありま・ひとし) さん。

幕末の動乱を経て技術が途絶えた薩摩切子を、およそ100年ぶりに復刻させたのが、島津家の系譜を継ぐ株式会社島津興業です。

島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房

「薩摩切子」復刻のきっかけは100年後のデパートで

「途絶えてからすでに100年以上がたち、現物もなければ、設計書もありません。わずかに残された資料や写真を頼りに復刻はスタートしました」

復刻のきっかけは、鹿児島の百貨店で1982年に開かれた展覧会だったそうです。

「ガラスの歴史を研究していた先生が開いたもので、研究の成果として復元した薩摩切子が展示されたんです。

鹿児島に切子があったことすら知らない人が多い中で、その蘇った姿は話題になり、復刻の機運がにわかに高まりました」

県からのオファーも受け、島津興業が復刻の舵取りをすることとなりました。

日本の産業革命から生まれた工芸品。発起人は島津斉彬

そもそも薩摩切子とは、幕末に島津家が藩をあげて取り組んだ産業の近代化、工業化プロジェクト「集成館事業」から生まれた工芸品です。

発起人は幕末の名君として名高い、薩摩藩第11代藩主、島津斉彬 (しまづ・なりあきら) 。

斉彬は藩主に就くとすぐ、大砲づくりに必要な製鉄や造船、紡績などの工場群「集成館」を、桜島を臨む現在の鹿児島市磯地区に建設させます。

鉄を溶かす旧集成館の反射炉跡や機械工場などは、日本の産業革命遺産を構成するひとつとして、2015年に世界遺産登録されました。

名勝 仙厳園
反射炉跡が敷地内にある旧島津家の別邸、名勝 仙巌園
反射炉跡
反射炉跡

「産業の近代化はイギリスをはじめ、世界各地で起きてきました。ではなぜ日本の産業遺跡が世界遺産として注目されたのか。

それは鎖国という、外国からの情報がほぼ得られない状況下で、わずかな資料や既存の技術、資源だけを頼みに、驚くほど短期間で成し遂げられた産業革命だったからです。

そうしたエネルギーが、薩摩切子誕生の背景にもあったと思います」

幕末の『下町ロケット』

江戸切子が隆盛を極めていた当時、薩摩藩には薬瓶など、実用のためのガラスを作る技術しかありませんでした。

「それが斉彬の代になって、『このガラスを美術工芸品の域に高めよ』と言う。

ところが身近には教えを請える外国人指導者もいませんし、参考となる書籍はみな洋書です。まずは本を翻訳するところから始まるわけですね」

翻訳ができても専門用語がわからない。用語がようやくわかっても、設備も道具も技術もない。

「中でも難しいのが、ガラスの着色です。色ガラスはすべて、鉱物を原材料にした化学変化で出来ています」

同じ鉱物を使っても、色は温度によって変化する。溶かしたガラスを一定の時間、一定の温度で保てなければ、狙った色にならないそうです。

色とりどりの発色はすべて、原料となる鉱物の種類と温度管理で変化する
色とりどりの発色はすべて、原料となる鉱物の種類と温度管理で変化する

「そんな化学の知識ももちろんない中で、江戸の当時はすべて手探りの実験です。

現代でいえば、『下町ロケット』みたいな話ですよね。何度も失敗する中で、温度と時間の関係に気づいていったのだと思います」

職人が数百回失敗しても、他国では実際にできているのだから、と叱咤激励して島津家がどうしても手に入れたかったのが、当時はどの藩でも発色に成功していなかった、赤い切子ガラスでした。

斉彬自慢の紅ガラス

薩摩藩はついに、日本で初めて、深い紅色の切子ガラスを誕生させます。

復刻された伝説の「薩摩の紅ガラス」
復刻された伝説の「薩摩の紅ガラス」

「『薩摩の紅ガラス』として、一躍有名になりました。斉彬も完成した当時は大いに喜んで、近しい人にプレゼントして自慢しているんですね。

自慢したくなる気持ちもよくわかります。今でもこの紅色は、発色させるのが大変難しい色なんです」

薩摩藩の職人たちが資料も道具も設備もないところから薩摩切子を誕生させたように、100年後の島津興業もまた、明治初期には途絶えたという「幻の切子」を、わずかな資料を頼りに復刻しなければなりませんでした。

二人の職人との縁から動き出したプロジェクト

「最盛期の薩摩切子の工場には、100人以上の職人がいたと言われています。しかし幕末の動乱や事業主であった藩の解体とともに、事業は縮小していきます。

この一帯は幕末から明治にかけての動乱で戦地になったこともあり、資料もほとんど残っていませんでした」

そんな中で、島津興業の薩摩切子復刻プロジェクトは持ち上がりました。

「職人を呼ぼうにも、みんな薩摩切子が一体なんであるかを知らないわけですよね。

すでにどこかの工房で地位を獲得している職人が、まだ形のない工房に来ようとは、なかなか思わないわけです」

それでも、展覧会を開いた先生のつながりで、ガラスの専門学校を間もなく卒業する一人の女子学生をカット職人として採用。

カットの様子
カットの様子

さらに、視察先のガラス工房で、たまたま薩摩切子の存在を知る、鹿児島出身の成形職人に出会い、意気投合。

成形の工程
成形の工程

「成形、カットとこの二人が両輪になって、だんだんと復刻が現実のものになっていきました」

100年前の姿を求めて

技術は整った。しかし復刻の見本にできるものは、わずかに昔の写真などしかなかったそうです。

「切子は、外側の色ガラスと内側の透明ガラスが一体となって、外側に切り込みを入れることで模様を表していきます。

薩摩切子は他の切子と比べて分厚く、その分、切り込みの角度や深さによって、色のグラデーションを出す『ぼかし』の表現ができるのが特徴です」

ぼかしの見本。切り込みの角度や深さによって色の濃淡が変わっていきます
ぼかしの見本。切り込みの角度や深さによって色の濃淡が変わっていきます
浮かび上がるような柔らかな色合いになります

「実は後世になって、カットの角度や深さまで研究した薩摩切子の専門書が出版されているのですが、実際にその通りにやっても、イメージ通りにはならなかったんですね。

目指す姿にするために、手探りで理想の色やカットの角度、深さを見つけていく。プロジェクト初期は、それこそ試行錯誤の繰り返しだったと思います」

1982年の展覧会から3年後の1985年には、薩摩切子の工房「薩摩ガラス工芸」がスタート。

薩摩切子の認知も少しずつ広まり、30年が経った現在は成形からカット、磨きまで26名の職人さんが働いています。

工房も、昨年には一般の方も見学できる施設としてリニューアルオープンしました。

作業の様子を間近で見学できます
作業の様子を間近で見学できます

もしも薩摩切子が100年続いていたら

もうひとつ、有馬さんが教えてくれた薩摩切子の特徴があります。それは模様。

「たとえば江戸切子は単一柄の連続ものが多いんです。着物の江戸小紋と一緒ですね。

一方で薩摩切子は、ひとつの器の中に複数の模様を組み合わせて表現します。当時のヨーロッパのカットガラスのように、非常にデコラティブなんですね」

面ごとに模様が違うのがわかります
面ごとに模様が違うのがわかります

「これは想像の域ですが、おそらく斉彬が、海外への輸出を視野に入れていたためではないかと思うんですね。

海を渡っても、一目見てそのゴージャスさがわかってもらえるような表現を目指していたのでしょう。

それを証明するように、当時作られた薩摩切子の中にも、日本の食文化にないような、デキャンタのような形をした酒瓶があったようです。

どこかで見聞きした西洋のトレンドをキャッチして、製品作りに取り入れていたんですね」

技術を研鑽し、不可能を可能にしていく姿は、復刻から20年たった現代の薩摩切子にも見ることができます。

ぼかしの表現が難しい黒の切子の器。濃淡の違う黒ガラスを2層合わせるアイディアで誕生しました
ぼかしの表現が難しい黒の切子の器。濃淡の違う黒ガラスを2層合わせるアイディアで誕生しました
全国でも珍しいという、明るい発色の黄色い切子
全国でも珍しいという、明るい発色の黄色い切子

「私たちは単に昔の姿形の通りにするのではなく、江戸時代に薩摩切子が『目指したもの』を大事にしています。

これはたらればの話になりますが、もし、薩摩切子の技術が途絶えずに100年続いていたら、果たして職人たちはずっと昔の技術や製法のまま作っていただろうか、と考えるんですね。

幕末にあって斉彬が、海外にも誇れる最高級の切子ガラスを作ろうとしたように、私たちも志は受け継ぎながら、今できる最高の技術で作れる現代の薩摩切子を、作っていくつもりです」

現代に蘇った薩摩切子。

その姿は単なる復刻版ではなく、江戸時代に他藩に先駆けて研究を成功させた志そのままに、これからも進化し続けていくのだろうと思います。

<取材協力>
株式会社島津興業 薩摩ガラス工芸
鹿児島県鹿児島市吉野町9688-24
099-247-8490 (島津薩摩切子ギャラリーショップ磯工芸館)
http://www.satsumakiriko.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、公益社団法人 鹿児島県観光連盟

※こちらは、2018年1月24日の記事を再編集して公開しました。大河ドラマ「西郷どん」にも登場した薩摩切子。ぜひ実物をみていただきたい工芸品です。

地域×ものづくりの新しいリアル。「仕立屋と職人」が長浜で過ごした1年を追いました

「Iターン」という言葉、今やすっかり普及していますが、実際見知らぬ土地にみんなどうやって仕事を見つけ、暮らしているのでしょう。

その新しい形、「Wターン」とでも言いたくなるようなスタイルで地域に関わる4人組に出会いました。

プロジェクトごとに拠点を移しながら全国のものづくりの課題解決に挑むユニット、「仕立屋と職人」。

その取組み、メンバー構成ともにユニークです。

4人のうち2人は工芸産地に、2人は東京に拠点をおきます。

現地担当は、もともと洋服などの縫製を仕事にしてきたユカリさんと、グラフィックデザイナーの石井さん。

ワタナベユカリさん
石井さん

東京組は、サービスデザインを生業とし、2人の体感知を事業に組み立てるブレーン、古澤さんと、出来上がったアイテムの販路を開拓する流通のプロ、堀出さん。

それぞれに専門分野が異なる4人が集い、2016年に「仕立屋と職人」を旗揚げ。

右下から時計回りに石井さん、ユカリさん、堀出さん、古澤さん
右下から時計回りに石井さん、ユカリさん、堀出さん、古澤さん

実は4人とも、フリーランスや会社勤めなど、別の仕事を持っています。いわばパラレルキャリアとして「仕立屋と職人」を立ち上げ、伝統工芸の世界に携わっているのです。

立ち上げの契機となった福島県郡山市、和紙で作る張子人形の老舗「デコ屋敷本家 大黒屋」さんとは、一緒に和紙のジュエリーブランドを立ち上げた
立ち上げの契機となった福島県郡山市、和紙で作る張子人形の老舗「デコ屋敷本家 大黒屋」さんとは、一緒に和紙のジュエリーブランドを立ち上げた

立ち上げの経緯や福島の取組みを追った前編はこちら:「パラレルキャリアで伝統工芸に挑む。異色ユニット『仕立屋と職人』に密着」

拠点をジグザグと移動し、現地と東京の2拠点をもち、仕事もダブルで掛け持ち。

後編となる今回は、彼らの現在の取組みを追いながら、それぞれがなぜ「2足のわらじで伝統工芸」という今のスタイルを選んだのか?地域に関わる仕事のリアルに迫りたいと思います。

絹の街、長浜

「仕立屋と職人」が2017年から活動拠点を置いているのが、滋賀県長浜市。第一弾の福島からすると、北から西への大移動です。

現地担当のユカリさんと石井さんは実際に、長浜市の木之本町という土地に事務所を置いて生活しています。

空き家を借りて開いた事務所には、屋号を染め抜いた暖簾が
空き家を借りて開いた事務所には、屋号を染め抜いた暖簾が

長浜は250年続くシルク産業の街。養蚕農家から生地の織り屋さんまで各工程が集積しています。作る生地も、同じ絹織物でも紬やビロードと種類が豊富です。

中でも一帯で作られる高級絹織物「浜ちりめん」は、表面の細やかな凹凸が特徴の美しい白生地。京友禅や加賀友禅の下地として古くから用いられてきました。

浜ちりめん。凹凸のある表情が特徴
浜ちりめん。凹凸のある表情が特徴

しかし、浜ちりめんの年間生産量は最盛期だった昭和40年代の185万反に対して、現在はわずかに4万反ほど。和装需要の減少による打撃は深刻です。

そんな街で2018年3月、小さな変化がありました。

250年の歴史上初めて、携わる製品や工程、職種の違いを超えて長浜のシルク産業関係者が一堂に会するミーティングが行われたのです。

題して「長浜シルク産業未来会議」。

長浜シルク産業未来会議

その名の通り、自分たちの携わる伝統産業を、どう考えているか、これからどうしていきたいか、立場を超えて話し合う会議でした。

長浜シルク産業未来会議

「あれだけの面々が一堂に集まったことは本当にすごいことだと思います。地域一丸となって、地場産業の活性に取り組むきっかけにもなりました」

長浜商工会議所の吉井さんは、当日の様子をこう振り返ります。

その会議の仕掛け人こそ「仕立屋と職人」。

前例のない会議の開催を取り付け、当日の議事進行を務めました。

出てきたアイディアや意見を取りまとめるユカリさん

しかしメンバーの4人とも、もともとこの土地の出身でも、繋がりがあったわけでもありません。

一体どうやって彼らはこの地に根を下ろし、何をしようとしているのでしょうか。

「起業型」地域おこし協力隊とは?

「郡山で第一弾の取組みをしている最中に、滋賀の長浜市が『地域おこし協力隊』を募集していると聞きました。

従来の協力隊と違うのは、起業型ということ。

伝統産業の資源を再編集して、活性化につながる新規事業を自分たちの裁量で立ち上げてくださいというものでした」

自治体は一定額の活動資金や生活拠点を提供し、隊員には任期3年で成果が出るよう活動してもらいます。

興味を持って何度か長浜を訪れていくうちに、魅力的な職人さんとの出会いや産業の現状を知り、

「次に仕立屋と職人がなんとかしたい場所はここなんじゃないか」

そう思って応募を決めたそうです。

長浜市側も福島での取組み事例や掲げるミッションを評価し、長浜が次なる「仕立屋と職人」の活動拠点に決まりました。

ミッションin長浜

彼らの掲げるミッションは「職人の生き様を仕立てる」こと。

取組み第一弾の福島では実際に職人さんに弟子入りをして、張り子の魅力をジュエリーという新しいプロダクトに「仕立て」ました。

2人が弟子入りした張子人形の老舗「デコ屋敷本家 大黒屋」
2人が弟子入りした張子人形の老舗「デコ屋敷本家 大黒屋」
「デコ屋敷本家 大黒屋」とともに立ち上げたジュエリーブランド「harico」
「デコ屋敷本家 大黒屋」とともに立ち上げたジュエリーブランド「harico」

「でも長浜の場合、浜ちりめんの工程は38にものぼります。

それぞれにプロフェッショナルで、全ての技術を覚えることは難しい。

だから長浜でまず僕らができることは、彼らの仕事を手伝うことではなく、伝えることでした」

拠点を移してからは、養蚕農家さんに何度も足を運んでは蚕の一生を克明にレポートし、生地メーカーや工房を一軒一軒訪ねては「職人のリレー」と題して取材を続ける日々。

「『また来たの?』『よう飽きないね』なんて最初はみんな戸惑っていたんですが、毎日のように通ううちに『あの記事反応どう?』とか『今日はこの作業をするよ』って声をかけてくれるようになって」

ユカリさん

「職人さんにとって当たり前の、何十年も続けている仕事でも、外からきた私たちにとっては『すごい!』の連続なわけです。

そういうヨソ者の視点が、自分達の仕事にまた新たな誇りを持つ、きっかけにもなればと思って取材を続けています」

実際に2人が取材した有限会社 吉正 (よしまさ) 織物工場さんに私もお邪魔させてもらいました。

「すごい!」が生まれる現場へ

代表の吉田和生さんは3代目。浜縮緬 (ちりめん) 工業協同組合の理事長でもいらっしゃいます。

左が吉田さん。真ん中に座るのは先ほど未来会議で登場した商工会議所の吉井さん。「仕立屋」の2人を吉田さんや長浜のメーカーさんたちと引き合わせてくれた人物です
左が吉田さん。真ん中に座るのは先ほど未来会議で登場した商工会議所の吉井さん。「仕立屋」の2人を吉田さんや長浜のメーカーさんたちと引き合わせてくれた人物です

浜ちりめんの主な流通先である京友禅や加賀友禅は、細やかで優美な絵柄が何よりの特長。わずかな生地の難でも、染め上がった時にその繊細な世界を損ねてしまいます。

「長年友禅の表生地に浜ちりめんが使われてきたことは、何よりの品質の証です」と吉田さんは誇らしげに語ります。

浜ちりめんの反物
浜ちりめんの反物
この印が、厳しい検品基準をクリアした「浜ちりめん」の証
この印が、厳しい検品基準をクリアした「浜ちりめん」の証

その高い品質は、糸づくりから生地織りまで一社が一貫して行う生産体制が支えています。

一般にはこうした機械が動いているのが織物の現場のイメージですが‥‥
一般にはこうした機械が動いているのが織物の現場のイメージですが‥‥
織り機に縦糸をセットするための前工程。製品の種類ごとに本数や長さ、幅を整えていきます
複雑な工程を丁寧に教えてくださいます
複雑な工程を丁寧に教えてくださいます
集まってきた糸は難がないか細かくチェック
集まってきた糸は難がないか細かくチェック
こちらは緯 (よこ) 糸に水をかけて柔らかくしながら撚る工程。ちりめんはこのように糸に強い撚りをかけることで、表面に独特の凹凸が生まれる
こちらは緯 (よこ) 糸に水をかけて柔らかくしながら撚る工程。ちりめんはこのように糸に強い撚りをかけることで、表面に独特の凹凸が生まれる
撚りの工程クローズアップ
こちらも糸に撚りをかける道具。撚りの工程は機械を変えて繰り返され、生地に様々な風合いを生み出します
こちらも糸に撚りをかける道具。撚りの工程は機械を変えて繰り返され、生地に様々な風合いを生み出します
出来上がった糸を巻き取る管の列。全38工程に及ぶものづくりの現場は、普段見慣れない道具やアイディアに溢れています
出来上がった糸を巻き取る管の列。全38工程に及ぶものづくりの現場は、普段見慣れない道具やアイディアに溢れています

すでに浜ちりめんにかなり詳しくなっているであろうユカリさんと石井さん。目をキラキラさせながら、質問も活発に飛び出します。

話を聞く石井さん
ユカリさん
ユカリさん
ユカリさん

こうしたものづくり現場の取材や街の歴史のリサーチなど、移住してから半年はひたすらインプットに費やしたそうです。

そんな地道な活動が功を奏したのが、3月に行われた「長浜シルク産業未来会議」でした。

会議の題名は直前まで「浜ちりめん未来会議」だったそう。

「でも、私たちが取材を通して知ったように、長浜にはその前段階にある養蚕農家さんや、紬やビロードなど違う種類の織物メーカーさんもいる。それほど絹に特化している面白い産地です。

浜ちりめんという言葉に変えてシルク産業と言うことで、この会議が自分ごとになる人が増えます。

より多くの人を巻き込むことで、普段出会えなかった視点でお互いの仕事や地域の産業を、話し合えたんじゃないかと思っています」

中と外の視点

地域おこし協力隊の任期は3年。移住してから1年が経ち、現在は少しずつ、現地でのインプットをカタチにしていく段階に差し掛かっています。

現地での体感知をアイディアに結びつけていくためには、東京組とのリモート会議が欠かせません。

取材当日も、スカイプで東京組のひとり、古澤さんも交え、3人にお話を伺えました。

事務所には膨大な話し合いの軌跡が
事務所には膨大な話し合いの軌跡が

石井さん:「僕たち2人が地域に入り込めば入り込むほど、地域の枠組みや関係性の中でものごとを考えるようになります。

それは産地に当事者として向き合うという点ではとても大事ですが、その上で冷静にやることの優先順位や、やらないことの線引きをしていかないと世の中に伝えたいことの焦点がぼやけてしまう。

そこに東京組の客観的なツッコミが生きてくるんですね。中の状況を踏まえて外から判断するっていう仕組みが仕立屋の強みだと思います」

自分が「仕立屋と職人」である理由

そんな「外」の視点を担うリモート組の古澤さんは、東京で会社員としての顔を持っています。

石井さんも協力隊として長浜の取組みを続ける傍ら、フリーランスのグラフィックデザイナーとしての仕事も続けています。

こうすることで、新しい土地でも生活基盤を安定させながら、「仕立屋と職人」のミッションにしっかり時間と予算をかけることができるそうです。

なぜそのような働き方を選んでまで、地域のものづくりに携わろうと思ったのか。動機はそれぞれに違いました。

サービスデザイナー、古澤さんの場合:「全てのモチベーションが揃う場所」

「僕はすごく平たく言うと、伝統工芸だからやっているって感じは全然ないんです。

この人いいな、面白いなという人や、実現したら面白いなと思うアイディアに対して、あるべき姿への道筋を組み立てて、その価値を広げていきたい。

『仕立屋と職人』では、現地にいる2人を介してそういう魅力的な人やモノゴトに出会える。そこに自分のやってきたことを生かして解決すべき課題がある」

未来会議での古澤さん
未来会議での古澤さん

「僕が仕事をしたいと思う全てのモチベーションが揃ったから、『仕立屋と職人』をやっているという感じです」

グラフィックデザイナー、石井さんの場合:「デザインが力を発揮できる場所」

「僕はデザイナーですが、デザインって力を発揮する場所をデザイナーが自分で見つけるべきだと思うんです。

自分じゃなくてもできるところでは、デザインを作らなくていいかなって。それは僕じゃない誰かがやるから。

でも必要なところっていっぱいあると思うんですよね。それが仕事になるかならないかは自分次第。それを見つけたいと思ってきたのがひとつです。

もうひとつは、日本人が日本のことを誇らしげに話せたらいいなということ。

僕は伝統工芸の世界に出会う前にロンドンに留学していた時期があったのですが、みんながあまりにも自分の国を誇らしげに話すのがうらやましかった。

僕は千葉出身で、自分にはカルチャーがないなって思って生きてきたのに、外に出てみたらそのカルチャーがないって言ってたところのカルチャーを何も知らなかった。

だったら自分みたいなやつが、嬉しそうに日本のことを話せたら世界が変わる気がするなと思ったんです。デザインが力を発揮する場所って、そういうところなんじゃないかなと。

それを突き詰めて考えていった先にたどり着いたのが、日本の伝統工芸でした」

吉正織物さんにて
吉正織物さんにて

縫子、ユカリさんの場合:「伝統工芸を介して、心が震える世界を作る」

「私はずっと洋服を仕立てる縫製の仕事をしていました。

作りながら、私が使っているこの生地は一体なんだろうって疑問が湧いてきて、そういうことを気にせずただ作り続けていくことに、違和感を感じるようになりました。

どんなものにも素材や形の理由がちゃんとある。その背景を伝えられたら、そのものの価値がもっとパワーアップして誰かに届く。

でもそれは私一人では出来ないとわかった時に、こうやってみんなと会えたから今があるという感じです。

作り手が良いと思っているものを、ちゃんと世の中に届けたい。私がものづくりをしてきた人間だからこそ伝えられる言葉もあると思っています」

仕立屋と職人

「でも同時に、発信だけじゃなくそれを受け取る側も一緒に育っていかなきゃいけないと強く思っています。

どんなに良さを語っても、それを見た人が『へーそうなんだ』で終わったらどうにもならないから。

あるものを見た時に心が動く世界を、同時に作らなきゃいけない。

仕立屋と職人が作るのはプロダクトだけありません。伝統工芸を介して心が震える世界を作っていきたい。作り手も使い手もひっくるめて。

そういう世界を、このチームなら作れると思っているのが、私が『仕立屋と職人』をやっている理由です」

サービス設計、デザイン、ものづくり。それぞれに違う背景を持ちながら、全員の「やりたい」が詰まっていたのが伝統工芸の世界でした。

長浜にきて1年と少し。

「仕立屋と職人」の長浜編はまだ途中ですが、その取組みは、地域で働きたい人やものづくりに関わりたい人、自治体にとっても、新しい「夢の叶え方」を示しているように感じました。

<取材協力> ※登場順
仕立屋と職人
http://shitateya-to-shokunin.jp/

長浜商工会議所
http://www.nagahama.or.jp/

有限会社 吉正織物工場
http://www.yoshimasa-orimono.jp

文:尾島可奈子