「雪は天からの手紙」中谷宇吉郎 雪の科学館で氷の世界を体験

雪景色といえば有名なのは金沢の兼六園。雪吊りの松がたわわに雪を抱える景色はきらきらとまぶしさを感じます。

©金沢市
©金沢市

そういえば大人になると、雪を楽しむ機会は少ないかもしれません。もっと雪を味わうために、金沢から電車で約30分、加賀の片山津へ移動してみます。目的地は「中谷宇吉郎 雪の科学館」、行ってきます!

「雪は天から送られた手紙である」

——— 雪は天から送られた手紙である

この素敵な言葉を残したのは、加賀市片山津出身の中谷宇吉郎(なかや・うきちろう)(1900〜1962)。雪の結晶の美しさに魅せられ、世界で初めて人工的に雪の結晶を作り出すことに成功したという科学者です。

雪や氷に関する科学の分野をつぎつぎ開拓し、活躍の場はグリーンランドなど世界各地に広がったといいます。趣味も幅広く、絵をよく描き、随筆や映画作品を通じて科学の魅力をやさしく紹介しました。

「中谷宇吉郎 雪の科学館」は、そんな宇吉郎の人柄や研究の成果を、展示や映像だけでなく実験などを通じた体験で楽しむことができるというのです。

伺った日は、やはり雪!こちらがエントランスです。
伺った日は、やはり雪!こちらがエントランスです。
すっきりしたお天気の時は、こんな風に右後方に柴山潟と白山が見えるのだそう。©雪の科学館
すっきりしたお天気の時は、こんな風に右後方に柴山潟と白山が見えるのだそう。©雪の科学館

白山を望み、柴山潟に接するという環境のなかで、雪をイメージした六角塔3つを配置して設計されたというこちらの施設。(設計:磯崎新氏)。エントランスホールの天井を見上げると、なんと雪の結晶と同じ六角形!これは、雪づくしが楽しめそうな予感です。

天井までもが雪モチーフ。©雪の科学館
天井までもが雪モチーフ。©雪の科学館

まずは、宇吉郎の「ひととなり」ゾーンから。こちらでは、宇吉郎の生涯や人となり、科学、芸術、生活をはじめ、人や自然との出会いなどについて紹介しています。

宇吉郎が生前に使っていた品や当時の写真などが展示されているコーナー。
宇吉郎が生前に使っていた品や当時の写真などが展示されているコーナー。
親戚一同が特注し、学士院賞受賞の記念にと宇吉郎に贈った「雪の結晶 蒔絵文箱」。繊細な蒔絵が美しいです。
親戚一同が特注し、学士院賞受賞の記念にと宇吉郎に贈った「雪の結晶 蒔絵文箱」。繊細な蒔絵が美しいです。
展示では、宇吉郎の書いた随筆などからの一節が添えられています。趣あふれる詩のような言葉を紡ぐ宇吉郎は、ロマンチストだったのかもしれません。
展示では、宇吉郎の書いた随筆などからの一節が添えられています。趣あふれる詩のような言葉を紡ぐ宇吉郎は、ロマンチストだったのかもしれません。

「雪の結晶」に魅せられる

宇吉郎は、人工雪をつくる前には天然雪の研究をしていました。雪の結晶を顕微鏡で観察するところから始め、雪山に冬じゅうこもって3,000枚もの雪の結晶の写真を撮影したのだといいます。

宇吉郎が撮影した天然雪の結晶の乾板(ガラス板に乳剤を塗ったもの)。フィルム代わりに使われたそう。
宇吉郎が撮影した天然雪の結晶の乾板(ガラス板に乳剤を塗ったもの)。フィルム代わりに使われたそう。
こちらは1964年から1994年にかけて、のべ160日間も冬の山小屋にこもり、雪の結晶のカラー写真を撮影したという吉田六郎氏のもの。自然がつくる色あいと形に感動します。
こちらは1964年から1994年にかけて、のべ160日間も冬の山小屋にこもり、雪の結晶のカラー写真を撮影したという吉田六郎氏のもの。自然がつくる色あいと形に感動します。

宇吉郎が人工雪をつくって研究したという常時低温研究室の展示では、世界で初めて宇吉郎が人工雪の作製に成功した装置(レプリカ)を見ることができます。研究と言えど、「いろいろな種類の雪の結晶を勝手に作って見ることが一番楽しみなのである」と随筆の中で宇吉郎は語っています。

常時低温研究室では、部屋全体をマイナス10〜30℃、最低マイナス50℃にまで冷やし、極寒の中で雪の結晶を作っていたのだそう。
常時低温研究室では、部屋全体をマイナス10〜30℃、最低マイナス50℃にまで冷やし、極寒の中で雪の結晶を作っていたのだそう。
人工雪の製作装置をのぞくと、棒の先から伸びるウサギの毛の先に、雪の結晶が。当時はたくさん着込んで凍えながらの研究だったそう。すっかり宇吉郎の気分!
人工雪の製作装置をのぞくと、棒の先から伸びるウサギの毛の先に、雪の結晶が。当時はたくさん着込んで凍えながらの研究だったそう。すっかり宇吉郎の気分!

学芸員の石川さんに、宇吉郎が雪の結晶写真をまとめた実物のアルバムを見せていただきました。写真乾板に撮られた陰画は焼き付けされて、撮影順にアルバムに貼られ、通し番号がつけられたそう。天然雪のアルバムだけで12冊、人工雪の方は9冊に及びます。

一冊一冊、丁寧に分類されている宇吉郎の結晶写真。
一冊一冊、丁寧に分類されている宇吉郎の結晶写真。
こちらは、天然雪の結晶写真。一枚一枚データも書き添えられています。
こちらは、天然雪の結晶写真。一枚一枚データも書き添えられています。
こちらは人工雪の結晶。よく見ると、毛のようなものが見えますね。人工雪はウサギの毛を芯に成長するのだそう。
こちらは人工雪の結晶。よく見ると、毛のようなものが見えますね。人工雪はウサギの毛を芯に成長するのだそう。

温度や湿度などの状況でどんな形の結晶ができるのかを調べ、いろいろな結晶の形を分類したという宇吉郎。その過程は相当なものだったに違いありません。私たちが雪の結晶としてイメージするシンプルな六角形の雪の結晶は、水蒸気が少なめの時にできるもので、いろいろな形の結晶の中では、ほんの一部なのだそう。

続いては、雪と氷の実験です!

ダイヤモンドダストに氷のペンダント。雪と氷の実験を満喫!

私がひそかに楽しみにしていた雪と氷の実験!こちらではいろいろな実験観察を体験することができます。みなさんにはぜひ実際に体験していただきたいので、少しだけ様子をご紹介します。

氷のペンダント作り体験。光に透けてきれいで、溶けるのがもったいないです。子ども達にも人気です。
氷のペンダント作り体験。光に透けてきれいで、溶けるのがもったいないです。子ども達にも人気。
人工雪の観察では、毎日新しい雪の結晶を見ることができます。
人工雪の観察では、毎日新しい雪の結晶を見ることができます。
こちらは冷凍庫の中でダイヤモンドダストをつくる実験。空気中のチリがダイヤモンドダストの元になります。実眼で見ると、キラキラがふわふわ舞ってまるで小宇宙のよう!ほんとうに綺麗!
こちらは冷凍庫の中でダイヤモンドダストをつくる実験。空気中のチリがダイヤモンドダストの元になります。実眼で見ると、キラキラがふわふわ舞ってまるで小宇宙のよう!ほんとうに綺麗!
そのダイヤモンドダストを捕まえる実験。シャボン液を張った枠を冷凍庫に入れると、次々に結晶のような形が広がります。幻想的な瞬間です。
そのダイヤモンドダストを捕まえる実験。シャボン液を張った枠を冷凍庫に入れると、次々に結晶のような形が広がります。幻想的な瞬間です。

このほか、氷の中の美しい模様「チンダル像」を観察する実験など、さまざまな体験が待っています。館内のところどころで歓声が。みなさん楽しんでらっしゃるようです。

宇吉郎の海外での研究についての展示や、宇吉郎に関する映像が観られるなど盛りだくさんの「雪の科学館」。大人も子どもも、たっぷり楽しめる空間でした。

左から、学芸員の石川さん、施設長の角谷さん。ご案内ありがとうございました!
左から、学芸員の石川さん、施設長の角谷さん。ご案内ありがとうございました!
ミュージアムショップで購入した、宇吉郎の一筆箋、雪の結晶ポストカードとシール。袋もかわいい雪の結晶です。
ミュージアムショップで購入した、宇吉郎の一筆箋、雪の結晶ポストカードとシール。袋もかわいい雪の結晶です。

雪を満喫したら、ひと休み。併設のティールーム「冬の華」からは、柴山潟を一望できる絶景を望むことができます。この日はあいにくの曇天でしたが、水面にはたくさんの水鳥たちが羽を休めていました。

手前に見える中庭に敷き詰められた岩は、宇吉郎が亡くなる前に滞在していたグリーンランドから運んできたもの。風に舞う人工霧が楽しめるという、霧の芸術家・中谷芙二子さん(宇吉郎の次女)の作品。
手前に見える中庭に敷き詰められた岩は、宇吉郎が亡くなる前に滞在していたグリーンランドから運んできたもの。風に舞う人工霧が楽しめるという、霧の芸術家・中谷芙二子さん(宇吉郎の次女)の作品。
ババロアとコーヒーのセットをいただきました。添えられたクッキーは雪の結晶型!
ババロアとコーヒーのセットをいただきました。添えられたクッキーは雪の結晶型!

柴山潟に降る雪を眺めながら、学芸員の石川さんが教えてくれたお話を思い出していました。

雪の結晶は、高い空の温度や湿度によりさまざまな形をつくります。「空から降ってきた雪の結晶を地上で受けとってみると、結晶が空の様子を教えてくれるようだ」。研究中、そんな風に感じた宇吉郎は『雪は天から送られた手紙である』という言葉をのこしたのだそうです。

片山津のこの地で生まれた中谷宇吉郎さん。大人になってからは東京や北海道、世界各地で活躍しましたが、その根っこにあったものはやはり、小さい頃に慣れ親しんだ片山津の雪景色だったのではないでしょうか。片山津の雪と「中谷宇吉郎 雪の科学館」。みなさんもぜひ訪れてみてください。きっと、素敵な雪に出会えます。

 

中谷宇吉郎 雪の科学館
石川県加賀市潮津町イ106番地
0761−75−3323
http://kagashi-ss.co.jp/yuki-mus/yuki_home

文・写真:杉浦葉子

この記事は2017年2月7日公開の記事を、再編集して掲載しました。

【わたしの好きなもの】割烹着

肩こりなし、袖まくりなしの日本のエプロン「割烹着」

割烹着って、若い世代では昔の人が着ていたものと思う人もいるかもしれないですね。
エプロンも割烹着も、食事を作るときに「さあ、やるぞ!」と思わせてくれる
スイッチを入れてくれるものだと思っています。
じゃあ、なぜエプロンではなくて割烹着?

私は肩こりがひどいので、エプロンの紐がかかっているだけで、なんだか気になるんです。。
そして、割烹着のいいところは袖まですっぽり覆うので、服の汚れを気にせず油ものや水仕事をできること。
さらに何度も袖をまくりあげては、落ちてきてを繰り返す、あの煩わしさからの開放!

デザインも着物から洋服に変わった現代に合わせて、余裕をもって着ることができるけれど、スッキリと見える身幅になっています。襟ぐりもボートネック風になっていて、チュニックを着ているような感覚になります。
ポケットは、両サイドに付いているから利き手を選ばず使えますし、
レシピを調べるのに使っていたスマホも、洗い物のときにはサッとポケットにしまうことができて、無いよりあった方が絶対便利!ちょっと置きができない台所では意外と重宝しています。

<掲載商品>
割烹着 ロング丈
割烹着 ショート丈
割烹着 ショート丈 縞

人気再燃の「ベーゴマ」。遊び方から造り方まで、日本唯一のメーカーに聞く

お正月の代表的な遊びといえばコマまわしがすぐに思い浮かぶ。

最近は、鉄のかたまりからつくられた存在感たっぷりの「ベーゴマ」が再び注目されているらしい。埼玉県・川口市でベーゴマを専門に手がける日三鋳造所(にっさんちゅうぞうしょ)を訪ね、ベーゴマが製造される工程や、初心者が楽しく遊べるコツを教わった。

独特の形状が記憶に残る「ベーゴマ」
独特の形状が記憶に残る「ベーゴマ」

いまも“ベーゴマ専門”の看板を掲げ続ける日三鋳造所

つけもの樽やバケツの上にシートを被せた「床」の上で、鉄製の心棒のないコマをぶつけ合う。相手のコマをはじき出せば勝負あり。ベーゴマ遊びはルールが極めてシンプルだからこそ、子どもから大人まで夢中になれる。

ベーゴマ

平安時代に京都の周辺でバイ貝に砂や粘土を詰めて、子どもがひもで回したことがベーゴマの起源とも言われている。やがて同じ遊びが関東に伝わり、“バイゴマ”から“ベーゴマ”になまったのだとか。

筆者は両親ともに東北地方の出身なので、小学生の頃に関東地方に引越してきて初めて、ベーゴマで遊ぶ同級生たちを目の当たりにした。一応回し方を教わってみたものの、上達する前にプラモデルやテレビゲームに心移りしたことを覚えている。

ベーゴマ
日三鋳造所の事務所には貴重なベーゴマも展示されている

日三鋳造所は、昭和から平成の時代を超えて、今もベーゴマを専門につくり続ける数少ないエキスパートだ。かつては鋳造業者が本業のかたわらにつくることも珍しくなかったが、かかる手間を考えると採算が合わないため、徐々に手がける場所が少なくなった。

社長の辻井俊一郎さんによると、現在もベーゴマの製造・販売を続けている会社は全国でも数カ所を残すだけだそう。中でもベーゴマを専業にしているのは唯一、日三鋳造所だけとなっている。

日三鋳造所 代表取締役の辻井俊一郎さん
日三鋳造所 代表取締役の辻井俊一郎さん

そもそも川口が鋳物(いもの)の街として繁栄してきたのは、街沿いを流れる荒川周辺で、鉄を流し込む「砂型」に使うための良い砂が採れたことに由来するそうだ。

街には今も鋳造工場が残っているが、その多くは賑やかな駅周辺から少し離れた場所にある。鋳造所ではキューポラと呼ばれる溶解炉を使って高熱で鉄を溶かしながら作業をおこなうため、蒸気や臭いが発生して周辺に漂う。

埼玉県内で最も東京に近い街として注目される川口市内に住居が増えてくると、次第に鋳物工場に苦情が寄せられるようになり、多くの工場が閉鎖や移動を余儀なくされた。

実は日三鋳造所も一度は看板を下ろすことを決め、そのタイミングで自社工場も閉鎖している。

日三鋳造所
かつての工場跡には、使われなくなった鋳造設備(こしき炉)を展示している

しかし、辻井さんを思いとどまらせたのが、ベーゴマを愛するファンから寄せられた数々の励ましの便り。中には、ベーゴマづくりを続けて欲しいと、自分のお小遣いの100円玉を手紙に貼って送ってきた小学生もいたそうだ。

現在、古くからのパートナーである河村鋳造所に委託し、ベーゴマの製造を続けている。

ひもを巻くコツをつかめればベーゴマが楽しくなってくる

ベーゴマは初心者には少しとっつきにくいところがある遊びだ。心棒のないコマにひもを巻き付けられるようになるまでが最初の関門。そこから自分でコマが回せるようになるまでのハードルがやや高い。

「だからこそコマの回し方を教える人の存在が大事なんです」と語るのは日三鋳造所の中島さんだ。

日三鋳造所の“ベーゴマ伝道師” 中島茂芳さん
日三鋳造所の“ベーゴマ伝道師” 中島茂芳さん
ひもをしっかり巻けるようになるまでが少し難しい
ひもをしっかり巻けるようになるまでが少し難しい
ベーゴマ
ベーゴマ
説明書きを見ても難しい。人に教わるのが確実だ

中島さんは広告業界から現職に転じた異色のキャリアの持ち主。社長の辻井さんから誘いを受けて同社の一員になり、現在はベーゴマへの愛着が高じて、“伝道師”として全国津々浦々に飛び回りながらベーゴマの遊び方を伝えている。

中島さんのMyベーゴマ
中島さんのMyベーゴマ。いつでもその魅力を伝えられるように、常にポケットに入れて持ち歩いている

中島さんは「大人も子供も、年齢や男女の区別なく平等に遊べるところがベーゴマのいいところ。勝負を始めてみるまでは、どちらが勝つかわかりません」と楽しそうに話す。

実力者になると、狭い空間でも見事に回せるようになる
実力者になると、狭い空間でも見事に回せるようになる

最後には「運」をどれだけ味方につけられるかも大きいというが、相手のコマをはじき出すためのセオリーをひとつ挙げるとすれば、同じ大きさでもなるべく重いコマを勢いよく回すことがある。

昭和の時代、プロ野球選手の名前を冠した「野球シリーズ」のベーゴマが発売され、当時の子どもたちにもてはやされた。天面には人気選手の名前が刻まれる。

名前の画数が多いと文字が占める割合が高くなり、その分だけ削り取られる部分が減る。つまり「長嶋」の方が「王」よりも重いベーゴマになるため、子どもたちに人気だったのだと辻井さんが面白いエピソードを語ってくれた。

野球選手シリーズ
野球選手シリーズ

コマ自体のメンテナンスも勝負の鍵をにぎっているそうで、たとえば、底面をヤスリで磨くとよく回る「強いコマ」になる。

ベーゴマの種類は背の高さで「タカ」と「ペチャ」の2種類に大別される。相手が回したコマの下に潜り込むと弾き飛ばせる確率が高くなるので、コマの厚みは薄いほうが有利と言われている。ただし薄いコマのほうが回すのも難しい。

実は種類がこまかく分かれている
実は種類がこまかく分かれている

ひもの巻き方には俗に言う「女巻き」と「男巻き」の違いがあり、また地方によって「関西巻き」などスタイルも変わる。巻き方による必勝法は存在しないそうだが、最初はコマにひもを巻き付けるだけでも一苦労だ。

「イベントの参加者にベーゴマを初めて体験する方がいた場合、回せばよい状態までひもを巻いてお渡ししています。最初にコマを回す楽しさを実感してもらえると、次第に自力でひもが上手に巻けるようになってきます」

日三鋳造所 中島さん
中島さんは、地元から上京する際にもお気に入りのベーゴマを持ってきたという生粋のベーゴマ好き

教え方も少しずつ改良してきたのだと、辻井さんと中島さんが口を揃える。

1400度で溶かした「鉄」からベーゴマがつくられる

日三鋳造所が企画・デザインしたベーゴマは、週に1回のペースで鋳造されている。ベーゴマがつくられるおおまかな過程を紹介しよう。

鋳造を請け負っている、河村鋳造所
鋳造を請け負っている、河村鋳造所

最初にベーゴマのデザインを象ったアルミ製の父型の上下面に砂を敷き詰めて、ベーゴマの砂型をつくる。砂の中に小石などが混ざらないよう、ふるいにかけながら砂を乗せていく。小石やゴミが混入してしまうとベーゴマの絵柄に影響が及ぶからだ。

ベーゴマの父型。これを砂で上下から挟んで「砂型」をつくる
ベーゴマの父型。これを砂で上下から挟んで「砂型」をつくる

砂型は特殊な圧縮機械を使ってがっちりと固める。上下の砂型が完成したら、中に挟んでいたアルミ板の父型を抜き出す。そして上下がズレないように砂型を重ね合わせると、そこにベーゴマの母型になる空間ができる。

ここに溶けた鋳鉄(ちゅうてつ)を流し込む。川口の鋳造所では昔から溶けた鋳鉄を「ゆ」と呼ぶのだと、鋳造所で働く職人の方が教えてくれた。

ベーゴマ
工場内に並ぶ「砂型」。左手前に並んでいる、穴がひとつのものが、ベーゴマの型

鋳造を行う日は朝の4時からキューポラに火を入れて熱しておく。午前中に1,400度ぐらいまで温度を上げたら、午後からは工場の床にびっしりと敷き詰められた大小様々の砂型に、溶かした鉄を一気に流し込んでいく。

中央に見えるのが、キューポラ
中央に見えるのが、キューポラ。溶けた鉄を流し始めると基本的に止めることはできない
ガス抜きのために火をつけながら流し込んでいく
ガス抜きのために火をつけながら流し込んでいく

河村鋳造所では大型工作機のエンジンに使うパーツからベーゴマまで様々な鋳物を手がけている。大きな工業部品は硬い鉄の方が材料として好ましいため最初に着手する。続いてより柔らかくなった鉄をベーゴマの型に流し込む。

流し込むスピードが早すぎると型がずれ、遅すぎてもムラになる
流し込むスピードが速すぎると型がずれ、遅すぎてもムラになる

ベーゴマは砂型が小さいので、溶けた鉄が入れやすいように小さな手桶に移し替えて流し込む。小さなといっても、その重さは20kgを超える。溶けた鉄を職人たちが実に手際よく砂型に流し込んでいく。経験と勘、そして体力と集中力が求められる。

寒い冬には鉄が固まりやすいため、砂型に開けた小さな穴に「速く・正確に」溶けた鉄を流し込まねばならない。

ベーゴマ
ベーゴマ

キューポラから時折激しく火花が散って、あたり一面には溶けた鉄から生まれた蒸気が漂う。荒々しい光景の現場で、職人たちは黙々と休まずに手を動かし続ける。大きな砂型には3〜4人がかりで連携しながら溶けた鉄を流し込む。

ベーゴマ

息をぴたりと合わせた所作は驚くほどに正確で迷いがない。職人たちは真剣な目で作業に集中しながら、時には笑顔で冗談も交わし合う。60代から70代の職人の方々が中心という現場にはまだ、昭和の日本の熱気がそのまま残っている。

ベーゴマ

ひたむきに働く彼らの手が、夢中でベーゴマに興じる日本の子どもたちの笑顔を長年に渡って支え続けてきた。

ベーゴマ

10分から15分も待たないうちに、最初に鉄を流し込んだ砂型を職人たちが次々と壊していく。砂型の中で鉄はすぐに冷めて凝固するので、あとは砂を避けて空気に晒しながら冷まして形を安定させる。

ベーゴマ
ベーゴマ

1つの砂型につきベーゴマは6個・9列、合計54個が連なった状態で製造される。この日は20台前後の砂型から新しいベーゴマがつくられた。

ベーゴマ
つながった状態で取り出されるベーゴマ

日三鋳造所に送り届けられたベーゴマはバレルと呼ばれる機械に入れて1時間前後ぐるぐると回し続けて面取りをおこなう。最後にこの工程を加えることでエッジのざらつきが取れて、きれいなベーゴマの形に仕上がる。

ベーゴマの熱が再び高まっている

いま、ベーゴマのイベントが全国で増えてきている。毎年10月の最終日曜日には、「全国ベーゴマ選手権大会」が川口市で開催されており日三鋳造所も協力している。

また、中島さんは、日ごろから全国の児童館やショッピングセンターなど、子供たちが多く集まる場所にも出かけてイベントやワークショップを通じて“むかし遊び”の醍醐味を多くの人々に伝えている。

「今までにベーゴマで遊んだことのない小さな子どもたちが、初めてベーゴマを回せるようになった時に見せる笑顔に触れると充実感がわいてきます」と、中島さん。

日三鋳造所 中島さん
手のひらでも簡単にまわす
手のひらでも簡単にまわす中島さん

同社がつくったベーゴマは全国の雑貨屋、大型スーパーの玩具店から縁日の出店まで様々な場所で取り扱われている。辻井さんによると、人気の漫画やアニメのキャラクターとコラボしたオリジナルベーゴマも受注が増えているそうだ。天面にキャラクターがプリントされたカラフルな最新のベーゴマもある。

「令和」記念のベーゴマ
「令和」記念のベーゴマ
ベーゴマ

「むかしは、夏は花火、冬はベーゴマで遊ぶのが相場だったそうですが、今は季節に関係なく様々なイベントが開催されています。私も方々に飛び回ってベーゴマの遊び方を教えています」と語る中島さんは、このインタビューが終わった後もまたすぐに“ベーゴマの伝道師”として都内の学童保育の現場に出かけていった。

河村鋳造所の従業員も高齢の方々が占めるようになり、その仕事の過酷さゆえに後継者も育ちにくいのだという。鉄という素材が持つ力強さをそのまま封じ込めてしまうような、むかしながらの手法でつくられたベーゴマを私たちが手にできる機会が長く続いてほしいと思う。

ベーゴマ

今回取材スタッフ一同も日三鋳造所にてベーゴマを体験させてもらった。筆者はあまりにも久しぶりに手にしたため、残念ながらうまく回せなかったが、中島さんが勢いよく回したベーゴマが火花を散らす様子を目の当たりにして歓声をあげたり、大人気もなく盛り上がってしまった。

ベーゴマ

令和になって最初の冬休みがやってくる。

小さい頃、ひもが上手く巻けずに断念してしまった人も、今まで一度も触ったことがないという人も、次の正月には昔懐かしいベーゴマ遊びに挑戦してみてもらいたい。また、近所でベーゴマをまわせるイベントが開催されていたら思い切って参加してみてはいかがだろうか。

ベーゴマ
ベーゴマが好きでたまらないお二人

<取材協力>
日三鋳造所 http://www.beigoma.com/
河村鋳造所

文:山本敦
写真:阿部高之

これからの問屋の生きる道。燕三条で動き出した、前例のないプロジェクト

ものづくり産地を取材していて、ふと考える。

「問屋とメーカーの関係はどうあるべきか」

オンラインでのコミュニケーションや購買行動が一般化した今、例えばオリジナルブランドを開発し、販路を含めて自分たちでコントロールしようと試みるメーカーも増えてきた。

個々のメーカーが自社の強みや特徴を見つめ直し、時代に合わせた戦い方を模索する。一方、中間流通業者としてメーカーと小売の間に入るだけでは、問屋の存在意義はどんどん薄くなっていく。

では、問屋だからこそできる仕事、生み出せる価値とはどんなものなのか。これからの時代に問屋が生きる道とは。

燕三条を体現するブランドをつくる。産地問屋 和平フレイズの挑戦

和平フレイズ
和平フレイズ
これは仮
燕三条の田園風景

世界有数の金属加工産地である新潟県 燕三条で、長年キッチンウェアづくりに関わってきた産地問屋、和平フレイズ株式会社。

同社は2019年、新たに総合キッチンウェアブランド「enzo(エンゾウ)」の発売を開始した。

※「enzo」のプロダクトに関する記事はこちら

enzo
enzo

「enzo」プロジェクトが立ち上がったのは2017年。燕三条をブランディングするという目的のもと、和平フレイズ 林田雅彦社長が先頭に立ち、開発が進められた。

背景にあったのは、産地の現状への危機感と、林田さん自身の後悔だ。

「私自身、入社してから最初の20数年は東京支社勤務で、主に輸入品を販売していました。産地問屋に勤めていながら地場産業に貢献できていない。そんな後ろめたさも感じていたんです」

和平フレイズの林田社長
和平フレイズ 林田雅彦社長

数年前、役員として燕三条に戻ってきた林田さんは、地場産業の厳しい現実に直面する。

「業績は良くない。設備投資ができない。子どもに継がせる気はない。そんなところばかりだと聞いてショックを受けました。同級生が経営している工場もその中に含まれていたりして。

自分が小さい頃は景気も良く、実際にいい思いもさせてもらった。その地元が大変な状況だと知って、反省すると同時に、『何とかするぞ!』というモチベーションも湧いてきましたね」

「enzo」のプロダクトデザインおよびブランドディレクターを務めた堅田佳一さんは、林田さんの想いを受けて、「和平フレイズにしかできない、燕三条を体現したブランドをつくりましょう」と提案。

実は、ぎりぎりのタイミングでもあったと話す。

堅田佳一さん。新潟の燕三条をベースに活動するクリエイティブディレクター、プロダクトデザイナー
堅田佳一さん。新潟の燕三条をベースに活動するクリエイティブディレクター、プロダクトデザイナー

「このままでは、数十年後に燕三条の半数以上の企業が無くなってしまうと言われています。製造業の先細りが見えている中で、技術力のある会社に依頼は集中し、新規の仕事をお願いすることが難しくなっていく。

産地の総力を結集した総合ブランドをつくるという意味では、本当にぎりぎり間に合うかどうか、そういうタイミングでした」

技術力のある工場への発注は年々難しくなっている
技術力のある工場への発注は年々難しくなっている
enzo

会社の垣根を超えて“総合”ブランドをつくる

こうして始まった「enzo」プロジェクト。話を聞いた各メーカーの反応は、近しい関係の会社に限っても賛否が半々だったという。

燕三条のものづくりノウハウが注ぎ込まれ、かつ総合キッチンウェアブランドと呼ぶにふさわしい共通の世界観を持ったラインアップを揃える。そして燕三条を代表するブランドに育てることによって産地を元気にする。

行政でもなく、個別のメーカーや個人でもなく、一定の規模感をもった問屋業だからこそできること。その実現のために、林田さんたちプロジェクトチームは粘り強くパートナーを探した。

「ずっと東京にいたくせに!」と、怒られたこともあったという
「ずっと東京にいたくせに!」と、怒られたこともあったという

同地域をベースにさまざまな企業のコンサルティングやプロダクトデザインを手がけてきた堅田さんは、メーカー側の気持ちも良くわかった上で、問屋と組むことの意義を強調する。

「メーカーさんが自社ブランドで勝負したい気持ちはすごく分かるんです。でもその柱に頼りきりでは怖さを感じる企業があるのも同時に知っていました。それに季節ものの売れ筋商品を抱えている場合、工場が稼働しない時期も出てきてしまいます。

工場を安定的に動かすためにも、OEMに取り組みたいと考えているメーカーさんたちの声は聞いていたので、その柱のひとつとして『enzo』を考えてもらいたいなと思っていました」

今回、「enzo」の第一弾商品としてラインアップされたのは、「鉄フライパン」「鉄中華鍋」「ステンレスざる」「ステンレスボール」の4商品。ゆくゆくは、サイズ展開も含めて45〜60種類くらいのラインアップを揃える計画がある。

“総合キッチンウェアブランド”としての立ち位置をとることで、各メーカーの個別商品とは競合しないことも意識したという。

enzoの中華鍋
「enzo」の「鉄中華鍋」
enzoのフライパン
木のハンドルが印象的な「鉄フライパン」

「もちろん、個々の商品にはこだわっていますが、あくまでもその積み重ねで総合ブランドとして見せていくつもりです。

例えばフライパンや中華鍋に関してはコンペティターでもある2社に協業していただいて商品が完成しました。

従来は交わらなかった2社が垣根を超えてタッグを組めたのは、問屋さんが間に入るからこそだと思います」

新たな技術交流で産地の価値が底上げされる

サミット工業
サミット工業株式会社

「鉄フライパン」の鍋部分を担当したサミット工業株式会社の代表取締役社長 峯島健一さんは、プロジェクトについて次のように話す。

「普段自分たちが考えつかない発想のデザインをご提案いただいて、複数社で協力して完成させました。とても刺激的な経験で、勉強になった2年間だったなと。

ハンドル部分のデザインを見たときには、本当につくれるのか?と思ったんですが、見事に仕上がってきて。まだこんな技術を持ったところがあるんだなと思いましたね」

サミット工業
サミット工業株式会社 代表取締役社長 峯島健一さん
サミット工業
今回、サミット工業は鍋部分を担当した
ワイヤーと木で構成されたハンドル部分。ものづくりに従事する人から見ると、かなり難易度の高い設計
高い加工技術でつくられたハンドル部分

競合するメーカー同士の協業による成果は「enzo」だけにとどまらず、2社間で新たに取引が生まれ、それぞれの強みを生かした新商品を現在開発中なのだとか。

峯島さんは、今後も鉄にこだわって、技術力・商品力を磨いていきたいとする。

「自分たちの下の世代が安心して、誇りを持ってものづくりに関われるようにできればと思っています。

そのためにも、家庭用品の産地として、ブランドを強力に発信していきたいんです」

サミット工業
「久しぶりに問屋さんと一緒に商品開発ができて楽しかった」と話す峯島さん
サミット工業
サミット工業
技術を身につければ、女性でも高齢者でも、長く続けられる仕事でもあるという

会社の垣根を超えたプロジェクトを通じて技術が行き来し、産地全体のレベルが底上げされる。この好循環を生み出すことができれば、問屋の存在意義は再び高まっていくだろう。

産地にデザイナーがいる意義

「ステンレスざる」を手がけた株式会社ミネックスメタルの田中謙次さんは、デザイナーと現場で試行錯誤できたことが大きかったと話す。

ミネックスメタル 田中謙次さん
ミネックスメタル 田中謙次さん

「『どうやってつくるんだ‥‥』というのが、最初に図面を見たときの感想です」

特に、強度と美しさを両立するフチ部分の仕上げの難易度が高かったという。

「堅田さんと現場で話し合って、弊社の社長が以前やっていたアイデアが使えるんじゃないかと言ってもらって、それをブラッシュアップしていきました」

堅田さん自身も、デザイナーとして産地の現場に軸を置く強みを実感している。

「商品がお客さんの手に渡って喜んでもらう。そこを目指して現場でアイデアをもらって、職人さんとブレストして、臨機応変に考えながら、当初の想定よりもよいものにしていきました。

こうしてものづくりの現場で完成度を高めていけるのは、産地にデザイナーがいることの優位性だと思います」

enzo

ざるのフチ部分に関して堅田さんたちが現場で発見し、解決の糸口になったのは、田中さんの父親で同社代表の田中久一さんが取得していた実用新案の技術だった。

ミネックスメタル
ミネックスメタル 代表の田中久一さん

その技術を足がかりに、フチ部分に芯材を入れて強度を上げ、さらにレーザー溶接の最新機器を導入し、継ぎ目の分からないシームレスな仕上げを実現。シンプルな商品だからこそ、細部にこだわり、頑丈さと美しさを兼ね備えた「ステンレスざる」が完成した。

enzoのステンレスざる
一生モノと呼ぶにふさわしい「ステンレスざる」を目指した
ざる

「難易度の高いプロジェクトでしたが、声を掛けてもらえて嬉しかったですし、この商品はうちにしかできないと思います」

と謙次さん。それを見た父親の久一さんも手応えを感じている。

「40年この業界でやってきましたが、今までに前例のない『ざる』だと思います。フチの部分にしても、足の部分にしてもつくり方やデザインにこだわっていて、“うんちく”が語れる。

これからはそういった背景のある商品しか残っていけないと思います」

ミネックスメタル
「フチ部分の角を綺麗に出すのが本当に難しかった」と話す謙次さん。現場での試行錯誤、デザイナーを交えたブレストが商品開発につながった

鉄にこだわるサミット工業。どこにも真似できないざるを作り上げたミネックスメタル。各社、得意とする分野が違う中で、最適なものづくりを行うために、最適なメンバーを編成する。

そうした差配ができることも、問屋業の大きな強みといえる。

大きな“縁”をつくる。産地問屋の生きる道

現在、和平フレイズのほか、6社が集ったプロジェクトとなっている「enzo」。地元を再び元気にするために必ず成果を出す。林田さんはそう決意を固める。

「燕三条という場所で今、こうした挑戦ができている。とても恵まれているなと感じます。

その分、『enzo』でとにかく結果を出さなければなりません」

和平フレイズ

実は「enzo」を立ち上げるにあたって、元々存在していた「燕三(えんぞう)」というギフトブランドを終了させた経緯がある。

きちんとブランディングされた商品で戦っていくために必要な決断だったが、毎年見込めていた売り上げが無くなることに、社内からは不満の声もあがった。それでも、舵を切ると決めた。

「これからの問屋は、小売業やバイヤーさんに言われたことだけをやっていても続きません。

昨今、経営にもアートが必要だと言われますが、地場産業の中で問屋が生きるためにはまさにアーティカルでなければならない。

美意識を高めてもっとイノベーティブに変わっていく必要があるし、変われることが問屋の強みだとも思います」

和平フレイズ
「競争の激しいキッチンウェア業界で生き残るために、常に勉強が必要」と話す林田さん

今後は、顧客とさまざまな方法でコミュニケーションを取りながら、中長期的に「enzo」ブランド、そして燕三条ブランドを育てていきたいとのこと。

「なんとか、『enzo』の“縁”で、燕三条や各メーカーを知ってもらいたい。そして結果的に地元の経済に貢献したいです」

ブランド名「enzo」には「縁造」の意味も込められている。

堅田さんは、「ブランドのコンセプトにも直接つながっていますが、“縁”を“造る”ことこそが、問屋さんの役割だと思っています」と話す。

これまでのように、小売業とメーカーをつなぐだけでなく、メーカー同士であったり、工場の魅力と消費者であったり、産地全体を大きな“縁”でつなぐ。

他者を巻き込みながら、自分たちだけではなく、全体で良い方向へ向かっていく。そこに、これからの問屋の生きる道、そして産地の生きる道が見えてくる。

その試金石として、「enzo」の成功、そして成長に期待が集まっている。

<取材協力>
和平フレイズ株式会社:https://www.wahei.co.jp/
「enzo」:https://enzo-tsubamesanjo.jp/
堅田佳一さん:https://katayoshi-design.com/
サミット工業株式会社:https://tetsunaberyu.jp/
株式会社ミネックスメタル:http://www.minexmetal.co.jp/japanese/

文:白石雄太
写真:浅見直希、和平フレイズ提供


<掲載商品>

【WEB限定】enzo ステンレスざる 21㎝
【WEB限定】enzo ステンレスボール 21㎝
【WEB限定】enzo ステンレスざる 24cm
【WEB限定】enzo ステンレスボール 24cm

【わたしの好きなもの】DYK ペティナイフ


待望の朝支度の包丁

デビューしてまだ間もないDYKのキッチンツールたち。そのラインナップの中に、私にとっては、待ってましたの包丁がありました。
それがこの小さな刃渡りのペティナイフ。
なぜ待望だったのかと言いますと・・・朝食の時に使う包丁が大きすぎるとかねてから思っていたところに、この小さな包丁の登場。(あくまで我が家の朝食レベルだとという話なんですが。)




すぐに我が家のキッチンに仲間入りし、活躍しております!
朝食って小さな食材が多いもの。
そこでDYKのペティナイフを使ってみると、ソーセージに切れ目を入れて、プチトマトを半分に、スクランブルエッグに入れる緑をちょこっとだけ切りたい、どれを切っても「そうそう、この大きさ!」としっくりくること。




バナナやキウイなんかにも、やっぱりちょうどいい。
刃が短いので食材に手が近くて、とても取り回しやすいんです。
取り回しやすさのもう一つの秘密は、軽さ。持った瞬間、「軽い!」と口から出るほど。中空の持ち手は見た目よりずっと軽いし、持ちやすいのです。




普段は、朝食を作りながらお弁当の用意もしています。よく作るおかずのひとつがかぼちゃの煮付け。4分の1サイズのかぼちゃを買ってきて使っています。
 
その小さいかぼちゃを見てふと、ペティナイフ1本で煮付けづくりに挑戦してみようと思い立ちました。
 
感動したのは、種の取りやすさ。刃渡りが大きなものは、最後の実に近い種が取りにくいのですが、まるでスプーンでこそげているかのように、くるくるっと取れました。
そしてレンジでチンしてから本体のカット。大きな包丁だと背を押せますが、それは無理。しかし、力が入れやすいので、意外と切れる。おっ、切れるぞ!と包丁を替えることなく、面倒くさがりな私は朝の支度を1本の小さな包丁で完結させました。




最後はササッと洗って終わり。小さいうえに継ぎ目のないデザインは、洗うのがとても楽ちん。サッと拭いて終了。小さいので、カトラリーと同じ引き出しに入れることができて、邪魔になりません。
待望のちょこちょこ切りの小さな包丁は、朝のバタバタの時間を助けてくれる頼もしい相棒です。





編集担当 今井

「かるた」で養う想像力。神保町の専門店で聞いた魅力

正月の遊びとして古くから日本人に親しまれてきた、「かるた」。

古今東西、実にバラエティに富んだかるたがつくられてきており、歌人に焦点を当てたもの、切り絵や版画がモチーフのものなど、大人が楽しめる題材も数多い。

そんなかるたの歴史や魅力、一風変わったユニークな商品などについて、神田神保町のかるた専門店「奥野かるた店」で話を聞いた。

奥野かるた店
白山通り沿いにある、奥野かるた店

かるた専門店「奥野かるた店」

奥野かるた店は、1921年(大正10年)に「奥野一香商店」として新橋に創業。屋号にある“奥野一香(おくのいっきょう)”とは、現在代表をつとめる奥野誠子(ともこ)さんの曽祖父の名だ。

奥野一香は将棋指しでもあり、将棋の駒づくりの職人でもあった。その息子である徳太郎が将棋盤などを扱う問屋業を始め、以来、囲碁、将棋、麻雀、花札、トランプといった『室内ゲーム』全般を取り扱ってきたという。

奥野かるた
奥野かるた店 代表の奥野誠子(ともこ)さん

「戦争があったために新橋から神奈川の大船に疎開し、戦後、東京・神保町で店舗を再開したのが、昭和25年頃でしょうか。

その後、昭和54年には小売業もはじめ、屋号も『奥野かるた店』となりました」

ちょうど20年前には現在のビルが完成。昭和から平成になり、誠子さんの父である先代は、「かるたづくり」にも取り組み始めた。

奥野かるた
かつてつくられていた「かるた」の復刻品も手掛ける
双六などの屋内ゲームも扱う
双六などの屋内ゲームも扱う

「色んなかるたやゲームを扱う中で、『自分がやるなら、こんなものを作りたい』という思いが出てきたのでしょう。

10年前に2階を改装してギャラリーにしましたが、これも父の意向でした。美術館風に『小さなかるた館』と称しています」

ギャラリーへの入場は無料。直近ではタロット、トランプの催しや、版画家 柳沢京子さんの物販イベントを実施した。

かるた
貴重な百人一首の展示も

ポルトガルからやってきた「かるた」の歴史

ここで、あらためて「かるた」の歴史に触れておきたい。

藤原定家(1162~1241)により小倉百人一首が選ばれたのは13世紀。その目的は歌人・宇都宮頼綱の依頼によるものだった。時は流れ、安土桃山時代にスペイン、ポルトガルから入ってきた南蛮文化の中にカード式のゲーム「Carta」があった。

日本には平安時代から、2枚ひと組の貝を合わせて遊ぶ貝覆いという遊びがあり、これがCartaと融合したことで、カード式の小倉百人一首が誕生。現在に至る。

かるた
百人一首も「かるた」の一種

奥野さんによれば「百人一首」「いろはかるた」「花札」、これらは全てかるたの一種と言えるのだそう。そのモチーフに制限がなく、これまでに様々な「かるた」が考案されて親しまれてきた。

奥野かるた
花札も「かるた」と紹介されている

小さな札の中で世界が表現されている

ずばり、「かるた」の魅力は何処にあるのだろう。

「札の中で、完結した世界が表現されているところですね。ひとこと、的確なセンテンスとセンスのある絵で『あぁ、そうだね』という感情を沸かせる。

絵札のモチーフによっては、美術品にもなり得るでしょう」

奥野かるた
かるた
短いセンテンスと、想像をかきたてる絵がかるたの特徴

小さい頃からスマートフォンなどデジタル機器に触れることが当たり前の時代においても、アナログなものに触れ、想像力を働かせることは必要と話す。

「読んで、見て、触って、想像する。小さな札に描かれた絵を見て、『年寄りの冷や水』はこれかな、という具合にイメージを膨らませるわけです。

検索すればすぐに答えが見つかる便利な世の中になりましたが、想像の余地があるアナログなものにも触れてもらいたいなと思います」

奥野かるた

たとえその場で正確な意味がわからなくとも、耳や目で覚えておくことに意義はある。

「教育学者の齋藤孝さんもおっしゃっていますが、たとえば、『春高楼の花の宴』や『汚れちまつた悲しみに』などの文学の一節について、耳だけでも覚えておいて欲しいんです。

大人になってから『あれ、この一節はどこかで聞いたな。知っているな』というタイミングが必ず来るので。子どもに敢えて難しい言葉を発信していくことは大事だと思います。

また逆に、お年寄りのリハビリとして利用する方もいます。百人一首など、子どもの頃に遊んで覚えたことは、歳をとっても忘れていなくて。その遊びがリハビリ効果になるんだそうです」

奥野かるた

確かに、子どもにいきなり文学作品や古典を読ませることは難しいかもしれないが、「かるた」であればゲームとして親しめる可能性はある。

そんなことを狙って、5枚1組で金太郎や浦島太郎、イソップ物語などの物語をぎゅっと詰め込み、紙芝居のように装丁している「かるた」もあったのだとか。

奥野かるた
物語を「かるた」にしたものも

全国に存在する「郷土かるた」

特定の地域に暮らした人にとって馴染みが深い「郷土かるた」というものがある。群馬県の「上毛かるた」が特に有名だが、実は各都道府県に必ずひとつは存在しているという。

奥野かるた
上毛かるた
奥野かるた
上野界隈かるた

「群馬県と長野県が特に多いですね。描かれるのは、街の様子であったり、祭りなどの慣習だったり。ただし、市区町村が主導してつくったけれど定着せず、住んでいる人でさえ地元の郷土かるたの存在を知らないことも多いです」

戦後間もない頃に誕生した「上毛かるた」は、遊ぶものがない時代に「豊かな心を失わずに育って欲しい」という想いから地域の人たちが企画したもの。

かるたをつくるだけでなく、小学校や地域ごとに毎年かるた大会を実施して、その年のチャンピオンを決めるということを何十年も続けてきた。

「そうした取り組みの積み重ねで浸透しているわけです。今でも、第一回の優勝はどの小学校の誰だったかという公式記録が残っています。県のチャンピオンを目指すと、燃えますよね。

群馬で電車に乗っていた時に、たまたま乗り合わせた中学生の女の子たちが『私たち、なんで百人一首が下手なんだろうね。上毛かるたばっかりやっていたからかもね』と話しているのを聞いたんです。

本当に浸透しているんだなと感動しました」

奥野かるた店には、東京都内の郷土かるたとして、寅さんや漫画の両さんが登場する「葛飾区郷土かるた」、三越やにんべんが登場する『日本橋かるた』なども置かれている。

奥野かるた
葛飾郷土かるた
奥野かるた
千代田区川柳 絵葉書かるた
奥野かるた
地元を代表するものとして、「武田信玄」などの武将にフォーカスした「武将かるた」なるものも

「上毛かるた」ほど有名なものは珍しいが、それでも地元の文化や風習が描かれた「かるた」があると分かれば、少し興味が出てくるのではないだろうか。

改めて地元のことを知るきっかけにもなり、正月に実家でやってみると意外に盛り上がるかもしれない。

モチーフは尽きない。つくられ続けるオリジナルかるた

新しいオリジナルかるたも、続々とつくられている。

奥野かるた
漢字をつかってことわざをデザインした「かるた」も
奥野かるた
まさに“なんでも”書き込める、「無地かるた」

「最近では、持ち込みの企画で『感染症かるた』をつくりました。感染する病気の秘密が学べるもので、白鴎大学の教授が企画・編集しています」

他にも、「落語の有名なセリフを読み札にしたかるたをつくりたい」「三番瀬の生物を知ることができるかるたをつくりたい」といった問い合わせもあったそう。

「かるたをつくりたい」と考える人が意外にも多いことに驚かされる。

奥野かるた
奥野かるた
野菜の花と実をあわせる「かるた」

「かるたが人と人の縁を取り持ち、画家さんやアーティストさんを繋いで、新しい作品がつくられることもよくありますね。きっかけは、様々です」

神田古書店街の賑わいとは違い、落ち着いた大人の雰囲気が漂う白山通り。イチョウの並木道に店舗を構える奥野かるた店に一歩、足を踏み入れた途端、何百種類という「かるた」、そして室内ゲームの数々に圧倒された。

子どもの頃に遊んだ「かるた」があれば、ユニークな新作「かるた」もある。ここでは誰しも童心に帰るだろう。

奥野かるた
筆者世代にも懐かしい「かるた」たち
奥野かるた

2階の小さなかるた館では12月7日から1月中旬まで『百人一首展』を開催中。江戸時代の手彩色の桐箱に入った豪華な品物なども、入場無料で楽しめる。年末年始の散歩で立ち寄ってみるのも良いかも知れない。

かるた
1階はショップ、2階はギャラリー風スペース「小さなカルタ館」となっている

<取材協力>
奥野かるた店
http://www.okunokaruta.com/

文:近藤謙太郎
写真:カワベミサキ