西海陶器とマルヒロが語る、波佐見焼の誕生とこれから

数奇な運命を辿る2つの焼きもの産地、有田と波佐見。

第1話では有田と波佐見の歴史を紐解き、第2話では有田が歩んだ30年と、未来への挑戦を見てきました。

最終話は「波佐見の30年とその先」にスポットを当てます。

お話を伺うのは、創業60年になる老舗である西海陶器株式会社の代表取締役会長である児玉盛介さん。そして、人気ブランド「HASAMI」を展開する、有限会社マルヒロのブランドマネージャー馬場恭平さんです。

腹をくくった、有田との別れ。「次代のために波佐見を看板に!」

波佐見の歴史をつくり、発展に大きく貢献してきた児玉さん
波佐見の歴史をつくり、発展に大きく貢献してきた児玉さん。

2つの産地を襲った、2000年頃の生産地表記の厳密化という波。この時をターニングポイントに、波佐見は有田とは別の道を歩みはじめます。

「正直な話、ずっと同じ有田焼をつくってきたという歴史があったので、できればこれからも有田と一緒にやっていきたいという波佐見全体の思いはあったと思います。

一緒にやってきたからこそ1990年頃まで売上を伸ばし続けることができていましたし、もし離れてしまったら有田と波佐見では当時全国的な知名度が違いましたから。

ただ私は、ここは腹を括って波佐見は波佐見でやろう!次の時代のためにも波佐見という看板でやっていくように心を決めよう!そう思いましたね」

児玉さんが力強くそう話してくれたように、波佐見は強い意志を持って自分たちの道を進んでいくことを決意します。

ちょうど児玉さんが商業組合の理事長をしている時で、窯業関係者の仲間を説得して、波佐見は再スタートを切ることになります。

「まずは、自分たちのアイデンティティを見つめ直しました。波佐見焼とは一体何者なのか、それを長崎県立大学の教授を巻き込みながら勉強する活動をはじめました」

有田焼と比べた歴史や特性を整理し、焼き物としての波佐見焼について考えていく中で、ある考えに行き着いたといいます。

生活するための窯業。その転換が、波佐見を押し上げた。

白磁にあい色の配色が美しい、こちらが西海陶器の小皿
白磁にあい色の配色が美しい、こちらが西海陶器の小皿

「波佐見の発展のためには、焼き物だけで考えなくても良いんじゃないかと。

時代の流れもあって売上が最盛期に比べて落ち込んできていたので、焼き物だけではない次の波佐見の生業となるものを見つけるべきだ、そう考えました。

窯業が波佐見の全てではなく、まずは生活するための手段として窯業があって、それとは別に産地全体として活性化できる他の選択肢が無いかを模索したんです」

今でこそよく聞く地方再生の考え方を、波佐見はなんと20年前から実践していました。

「来なっせ100万人」をスローガンに掲げ、焼き物だけではない産地として生き残るために、波佐見全体での取り組みが加速していきます。

そのひとつに「西の原」があります。西の原には以前、江戸時代から続く窯元が営む製陶所があり、斜面のある地形が焼き物に適していたため、2001年まで十代にわたって波佐見焼を生産してきました。

「それが閉鎖された後に、いろんな方から買い取って欲しいと話を受けました。それで西の原を引き受けたら、雑貨屋をやりたい人とか、カフェをやりたい人とか、若い人がどんどん集まってきたんです!」

今では西の原は波佐見に来たら必ず立ち寄る場所として知れ渡り、カフェやレストラン、雑貨屋が立ち並ぶ観光スポットへと変化を遂げています。

「西の原がはじまって丸10年、当時は今のような場所になるとは思ってもみなかったですね。若い世代の考えが集まると、ああやって化けるんだなと感心しました」

西の原の事例に代表されるように、若い人の力も取り込みつつ、波佐見は焼き物以外の分野でも発展を遂げていきます。2016年にはあるイベントで大きな成功を収めるのですが、その中心には、波佐見焼の未来を思うある1人の跡継ぎ息子がいました。

マルヒロ「HASAMI」の登場

新世代のヒーロー、マルヒロの馬場匡平さん。
新世代のヒーロー、マルヒロの馬場匡平さん

波佐見の新世代の旗手として名乗りを上げたマルヒロが、2010年6月に「HASAMI」を発表します。

この新ブランドは、産地問屋として3代続くマルヒロが、業績が伸び悩む自社ブランドの相談を株式会社中川政七商店に持ちかけたことをきっかけに生まれました。

「新ブランドの立ち上げを父から引き継いだ時は不安しかなかったです」と笑う匡平さん。

「でも、波佐見の全国的な知名度のなさとか売上の衰退を見ていると、やっぱりこれは次の世代の僕たちが何とかしなければという想いが強くなりました」

当時は自信など皆無だったという姿が想像できないほど、ブランドマネージャーとして明るく強く匡平さんは話してくれます。

マルヒロや波佐見焼の強みを意識しながら、匡平さんの試行錯誤により全く新しいブランドへとブラッシュアップしていきます。

当時の主流だった「薄くて繊細」とは真逆の、「厚くて無骨」な「HASAMI」ブランドのマグカップの誕生です!

HASAMIのマグカッップ。きっと一度は見たことがありますよね?
HASAMIのマグカッップ。きっと一度は見たことがありますよね?

このマグカップは見本市でも注目を集め、現在では人気のアパレルやインテリアショップなど、街の至る所に並んでいます。

多くの取材や新しい仕事の依頼も増え、波佐見焼の売上と知名度向上に大きく貢献したのです。

こうしてマルヒロ、そして匡平さんは、波佐見という産地で一番星になり、この産地自体を未来に引っ張っていく存在へと成長を遂げました。波佐見の躍進のはじまりです!

マルヒロの「HASAMI」の登場もあり、春の陶器市の風景が変わったと言います。

かつて陶器市は、全体の9割が有田焼で、波佐見焼は肩身の狭い思いをしていたそう。しかし今では状況は変わり、全国から波佐見焼を目当てに訪れる人も増え、着実に存在感を強めています。

「HASAMI」が波佐見焼を牽引しながら産地全体の盛り上がりの熱を生み、知名度と売上を向上させることに成功し、そしてついに、2014年には波佐見焼の出荷額が前年を上回り、なんと再びの成長曲線を描きはじめたのです!

今や波佐見は肥前を代表する産地として、全国的に知られる存在となっています。

人口1万5千人の町に、1万人の来場者が集まったイベント

マルヒロの動きは、肥前全体をも巻き込んでいきます。株式会社中川政七商店が創業三百周年を迎えた2016年に、日本のものづくりの魅力を発信するために全国をまわって開催した「大日本市博覧会」。

その第3回目となる長崎博覧会は当初波佐見町だけで行われる予定でしたが、匡平さんの呼びかけにより、波佐見・有田・嬉野・武雄が協同でイベントを実施することになりました。

そのイベントの象徴として、産地の若い人が中心となり、「九州・産業・遊び・学び」を楽しみながら学べるコンテンツが盛りだくさんの「ハッピータウン波佐見祭り」を開催。

生産過程で生まれるB品や廃棄品の問題に取り組みつつ、地域産業の楽しさを次世代につないでいくという想いのこもったイベントです。

期間中には工芸・アート・ファッション・音楽・フード・アウトドアなどの数々の催しが用意され、波佐見が熱気に包まれました。

また、「ぐるぐるひぜん2016」と称して、イベントが開催されている4つの街を周遊バスでつなぎ、肥前全体を人が回れる仕組みをつくり大成功を収めました。

「それで、人口1万5千人の町になんと1万人の来場者が来てくれたんです!本当に奇跡みたいな話ですよ」

プロジェクトの発起人である匡平さんも期待を超える結果に驚きと喜びを隠せません。

ハッピータウンの会場となった「旧波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂」の存続も決定していて、今後様々なイベントに活用されていく予定だそうです。

マルヒロが、そして匡平さんが踏み出した一歩が、産地の景色を変えつつあります。

受け継がれる産地のDNA

こうして切磋琢磨しながら、これからも産地を盛り上げていく有田と波佐見。

それぞれの産地を支え続けてきた人から、これからの未来をつくる人へ、しっかりとDNAが受け継がれていきます。

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有田焼の百田さんは世界を見据えた挑戦を促します。

「『2016/』をきっかけとして、再び世界へ出ていってほしい。最近では中国とか韓国からもたくさん注文が来るようになりました。

だからこそ、世界の市場に通用する有田焼として、挑戦する人がもっと出てくると良いなと思います。

有田焼の新しい価値をつくってきた15年を踏まえて、過去にとらわれるのではなく新しい挑戦を続けていってほしいです!」

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波佐見焼の児玉さんは波佐見らしいしなやかさを期待します。

「15年前の波佐見がそうであったように、生きていくために自分たちでつくりきる力をつけてほしい。

波佐見はこれといった伝統様式を持たないからこそ、歴史に囚われずに新しいイベントをしたり挑戦していけば良いと思います。

これまでも図書館とかピザ釜とか、みんなが集まれる場所をつくってきているから、そういう取り組みにも引き続き力を入れていきたいですね。例えば、私の孫が遊べるような場所とかね」

匡平さんも児玉さんの意志をしっかりと継いでいます。

「焼き物の範疇だけではなく、学校カリキュラムの提案や地域活性化の計画など、波佐見全体の未来に向けた活動をフットワーク軽くこれからも続けていきたいです。

それと、そろそろHASAMIに続くヒットブランドを出せるように頑張らないと、ですね!」

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3日間に渡ってご紹介してきた、有田と波佐見のストーリーはいかがでしたでしょうか?

深い関係の歴史を持つ2つの産地だからこそ、別々の道を歩いていくこれからも、時には良きライバルとして、時には良い仲間として、時間を積み重ねていくはず。

それぞれの産地のそれぞれの歴史を踏まえ、次の10年、100年という未来に向かって、すでに新しい挑戦がはじまっています。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

※2017年2月2日の記事を再編集して掲載しました。

有田焼と波佐見焼の歴史と違い。1500文字でめぐる日本磁器誕生の歴史

2016年、佐賀、長崎両県にまたがる肥前窯業圏が、日本文化遺産に登録されました。その歴史は日本磁器の誕生からおよそ400年を誇ります。

そんな日本有数の窯業圏の中で、2県の県境に位置する有田と波佐見の歴史には深い関係が。

同じルーツを持ち、江戸時代には有田で献上品としての磁器、波佐見では日常食器としての磁器が生産され、それぞれお互いの強みを活かしながら切磋琢磨してきました。

しかし2000年頃のある出来事をきっかけに、それぞれ別の道を歩むことに。一体何が起こったのでしょうか!?

肥前を代表する有田と波佐見のこれまでの歩みとこれからの未来に3話連続で迫ります!

チャンピョンとチャレンジャー

歴史を振り返る前に、まずは大きな流れを掴むために数字を見てみましょう。

有田焼は1991年のピーク時に肥前最大の出荷額330億円を誇りましたが、2015年にはその1/4程度にまで落ち込んでしまっています。

一方波佐見焼は、1991年の出荷額こそ220億円と有田焼に及ばないものの、2015年時点での落ち込みはピーク時の1/3程度にとどまっています。

さらに2014年から見ると2年連続の出荷額増で盛り返してきています。

肥前のチャンピオンとしての地位を守ってきた有田に対し、チャレンジャーである波佐見が今まさに勢いを見せているのです!

それでは早速、現在に至るまでの有田と波佐見の歴史を見ていきたいと思います。

日本磁器発祥の地。有田と波佐見の歴史的関係

2つの産地の歴史のはじまりは、およそ400年前にまで遡ります。

17世紀初頭の豊臣秀吉による朝鮮出兵をきっかけに、朝鮮陶工によって日本に磁器がもたらされました。

その中にいた2人の陶工こそ、李参平(りさんぺい)と、李祐慶(りゆうけい)。

元々李参平は佐賀の多久で陶器を焼いていましたが、より良い陶石を求めて、伊万里を経て有田にたどり着きます。

そして1616年、ついに鍋島藩内の有田の泉山(いずみやま)で良質の磁石鉱を発見、それが有田焼のはじまりです。

それとほぼ同時期に、李祐慶が波佐見で登り窯をつくり磁器の生産を開始したことにより、波佐見焼の歴史もはじまりました。

それはつまり、日本磁器が産声をあげた瞬間でした!

藩の管理下で開花した2つの磁器産地

江戸時代の窯業は、鍋島藩、平戸藩、大村藩といった藩の管轄下に置かれます。

有田焼は鍋島藩が有田の優秀な職人を囲って、繊細で華やかな絵付けを特徴とし、徳川御三家の献上品をつくらせていました。

伝統的有田焼
華やかな絵付けの伝統的な有田焼。©有田観光協会

一方の波佐見焼も大村藩の支援を受けながら白磁や青磁にあい色、淡色の絵付けを施したシンプルな磁器を基本とし、主に日用食器をつくりながら肥前の中核的な磁器産地に成長していきます。

波佐見焼を代表する伝統的な「くらわんか茶碗」
波佐見焼を代表する伝統的な「くらわんか茶碗」。©西海陶器株式会社

1650年代になると、この2つの磁器は東インド会社を通して、ヨーロッパの国々に輸出されはじめます。

当時肥前の焼き物は伊万里港から海外へ積み出されていたため「IMARI」と呼ばれていました。

明治以降は鉄道の発達により出荷駅がある有田から全国に流通していたため、2つの産地の磁器は合わせて「有田焼」としてその名を全国に広めていきます。

そのため有田焼として流通したものの中には、実はたくさんの波佐見焼が含まれていました。

また、大量生産を得意とする波佐見焼の窯元や生地屋を有田焼も共有していたという背景もあり、同じ「有田焼」として密接に関係しながら歴史を刻んできました。

こうして2つの産地は売上を増やし続け、1980年後半のバブル期に最盛を迎えることになります。

そんな有田と波佐見に、2000年頃に激震が走ります!

他の産地で大きな問題となった産地偽装問題をきっかけとした、生産地表記の厳密化という波が突如押し寄せてきたのです。

産地を明記しなければならないことで、波佐見は有田焼の名称を使えなくなり、以降「波佐見焼」の名前で一からの再スタートを切ることになります。

同じ「有田焼」として歩んできた歴史に終止符を打ち、こうして有田と波佐見は別々の道を歩いていくことになったのです。

それではいよいよ次は、2000年頃の転換期を跨いだここ30年の歩みを、それぞれの歴史を知るキーパーソンからお話を伺いながら見ていきたいと思います。

第2話 「再興のキーは「先人の教えからゼロへの転換」 有田焼30年史に学ぶ」はこちら

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

※2017年2月1日の記事を再編集して掲載しています。

靴下はミシンの100倍、針がいる。奈良「御宮知靴下」の工場見学

この時期、足元のあたために欠かせない靴下。こんなに身近なアイテムですが、どのように作られているかご存知ですか?

洋服はなんとなく想像できますが、こんな筒状の編み物、一体どうやって作られているのでしょう?

謎を探るべく、日本一の靴下生産量を誇る奈良県にある、「御宮知靴下(おんぐうちくつした)」さんにお邪魔しました。

まるで木造校舎のような靴下工場

ガチャンガチャンガチャンガチャンガチャン。

すりガラスの扉をガラリと引くと、飛び込んできたのはけたたましい機械音。

ザ・日本家屋の外観から壁一枚を挟んで、中には人の背丈を越える不思議な形の機械がずらりと並んでいます。

ここは奈良県・斑鳩町の「御宮知靴下」さんの工場。法隆寺にも近く、田んぼと民家が広がる住宅街に、民家にしか見えない外観のその工場はあります。

「今稼働させているのは14台です。フル稼働させたら1日で1500足は編めると思います」

案内くださったのは工場長の山下さん。受注した商品の設計から機械の管理まで技術面を全て任されている、この道50年の大ベテランです。

お話を伺った工場長の山下さん。
お話を伺った工場長の山下さん。

実はこの20分ほど前。お通しいただいた応接室で山下さん、三代目社長の御宮知さんのお二人から普段のものづくりのお話を伺っていました。しかし…

「シングルシリンダーとダブルシリンダーというのがありまして、シングルは履き口が袋状(二重)になります。ダブルの場合はそこがシングルになるんですよ」

「双糸(そうし)は単糸(たんし)を撚ったものです。これで強度が増すんです。その分糸が太くなりますが」

「32単糸(サンニたんし)みたいな糸で作ったらもっと楽ですねんけど」

次々に飛び交う専門用語に、早速頭の中がいっぱいになってきました。

お二人の頭の中にしっかり描かれているイメージが、私には全く描けません。こんなに小さな布なのに、何やらえらく複雑そうです。

これは困った、という顔をしていたら、「まぁ、現場見てもらうのが早いんですけど」と助け船が。ぜひ、と案内してもらったのが、応接室から中庭で通じる工場でした。

日本一の靴下産地で御宮知靴下が旗揚げするまで

もともと靴下産業が興隆する前に、「大和木綿」と呼ばれる綿づくりが盛んだった奈良。

そこに明治43年ごろ、現在の広陵町に住む人がアメリカから靴下の機械を持ち帰り、農業の副業として一気に広まったのが、日本一の靴下産地の始まりでした。

その広陵町で靴下づくりを学んだという初代御宮知社長が、終戦後に斑鳩の地で旗揚げした「御宮知靴下」。

工場は事業が軌道に乗るのに合わせて増築を重ね、今ではまるで木造の古い校舎の中に機械がぎっしり並んでいるような、不思議な空間になっています。

不思議な形の機械がずらり。
不思議な形の機械がずらり。

社長と工場長の間柄

「今ある機械は25年くらい前のものです。最新の機械はもっとコンパクトになって1台でいろんな靴下を作れるようになっています。

そうですねぇ、古い機械のいいところは、自分の技術で変わったものを作れる、というところでしょうか」

そう話す山下さんは、工場内の機械管理だけでなく、社長さんが各先から受けてきた「こんな靴下をつくりたい」というイメージを、実際の商品の設計や機械のプログラムに起こす重要人物。

もともと別の仕事で営業畑を歩いてこられた社長さんは、「私は技術がないんですよ」と控えめ。技術的なところはすべて山下さんに任せている、といいます。

たまたま開発中の商品の話が出た時も、

社長:素人考えかもしれへんけど、ここを無地にすることはできへんの?

工場長:いや、できるけどそれやったら一緖や(問題点が解決しない)ねん

社長:そうか、そうか

とこんな調子。

社長の御宮知さん(右)と工場長の山下さん(左)。熱心に靴下議論中。
社長の御宮知さん(右)と工場長の山下さん(左)。熱心に靴下議論中。

このお二人は立場で言えば社長と工場長の間柄ですが、靴下づくりの経歴では山下さんの方が先輩にあたります。

この「営業」の社長と「技術」の工場長が絶妙なペアになって、御宮知靴下さんのものづくりを進めています。(ですのでここから技術的な説明に社長さんは登場されません!)

山下さんの案内で、靴下工場見学がいよいよ始まります。

糸の道をたどって

「編み立てする目的によって、機械を使い分けていきますねん。太い糸を使う場合は太い針の機械を使います」

靴下は編み物。なので靴下をつくることを「編み立てる」とよく言います。

立てる、という言い方が、いかにも立体の編み物らしいです。

機械によって作れる靴下が変わるのですね、と返すと、ちょっと違うようです。

蓋を開けると…
蓋を開けると…

「機械に合わせて靴下をつくるというより、靴下に合わせて機械をセッティングします。

例えば子ども用と大人用では針数が変わります。厚手にしたいか薄手にしたいかでも変わります。例えば薄手のものは180−200本、という具合です」

びっしりと筒状に並ぶ針。
びっしりと筒状に並ぶ針。

ミシンの針は通常1本ですが、靴下を編む機械は100を超える針が同時に動きます。

糸を通す針の本数が多いほど、生地の密度は濃くなります。この糸が通る道筋を、糸道(いとみち)と山下さんは呼んでいました。きれいな名前です。

四方から糸道が集まって、靴下が筒状に編み立てられていく。
四方から糸道が集まって、靴下が筒状に編み立てられていく

機械の上部には糸の供給源となる糸巻き(コーン)がたくさん。

あれ?これ、動いているものと動いていないものがあるようですが?それに同じ色なら、一つのコーンで良いのでは?

糸が巻いてあるコーン。
糸が巻いてあるコーン

「コーンがセットされているそれぞれの場所に、プログラムが組まれています。

編み立てがある段階まで進むと、『今そこを編みなさい』と指示されたコーンが動くんです」

指先部分や足裏を厚くしたり、履き口をしめつけないよう工夫したり。靴下は衣類の中でもとりわけ機能性がしっかり求められます。

確かに、すぐに指先に穴が開いてしまう靴下や、くっきり跡がつくほど履き口をしめつける靴下は、がっかりしてしまいます。

ただ平坦に編んでいくのでなく、部位によって糸を切り替え、編み方を変えることで靴下の機能性を高めているのでした。

ホコリと湿度との闘い

「ちょっと待って、ホコリ取りますわ」

お話を伺っている途中、突然その場からいなくなってしまった山下さん。工場長、待ってください!

動きを追うと、近くの機械を手入れされていました。

当日の工場内はフル稼働状態。機械が動けば動くほど、糸から出るホコリが舞い、機械に付着します。たった1本でも糸道から糸が抜けたり切れてしまえば、不完全な編み立てになってしまう靴下。

機械の中に入り込んで誤作動を起こすホコリは大敵です。取材を受けながら、常に工場長は敵に目を光らせていたのでした。

もう一つ、靴下づくりの大敵がいます。それは湿度。

靴下は編み物なので伸縮します。湿度が高いほど、小さく縮まる。

編み立てている最中にも、もちろん湿度が左右します。乾燥の厳しい冬には朝と夜とでも仕上がった商品のサイズが違ってしまうそう。

「大手さんはだいたい湿度管理まで完璧にできる設備を持っています。うちは規模が違うので、機械にちょっとした調整を細かくかけていくことで、寸法を同じにするんです」

応接室でそう語っていた社長さんの言葉を、工場長が目の前で実践してくれました。

サイズが企画寸法に対して大きくなってきたら、これで調整します、と手にしたドライバーで示してくれたのが、度調機(どちょうき)。

ここのネジを緩めたり締めたりすることが、編む密「度」を「調」整するのだそうです。

ここが、普段は山下さんしか触れない、度調機。
ここが、普段は山下さんしか触れない、度調機。

「これがわかるようになってきたら、いい商品がでけます。ここのネジがどの程度違ったら寸法が何センチ内に収まる、というのがわかってきたら一人前です」

商品のサイズを決める大事なパーツ。ここを勝手にいじることは、たとえ社長さんであっても絶対NGだそうです。

つま先が、ない!

できたてほやほや。靴下は裏の状態で編み立てられているのですね。
できたてほやほや。靴下は裏の状態で編み立てられているのですね。

こうして無事寸法の狂いもなく編み立てられた靴下は、機械の下からシュポンと落ちます。見てみると、実はこの段階では、筒状。

機械は靴下を円状にぐるぐる編んでいくので、つま先はまだ閉じられていないのです。

ここで業界用語でロッソと呼ばれるつま先の縫製へ進みます。

この機械は一体…?
この機械は一体…?

洗濯の小物干しのような形状の機械に、女性が靴下を挟んでいきます。

機械はゆっくりと回転し、その間に編み終わりの部分を縫い合わせながら上の余分な部分をカット。一周まわる頃には無事に靴下の形になっているという器用な機械です。

履き口を合わせて差し込む。ずれない、遅れない。これも熟練技。
履き口を合わせて差し込む。ずれない、遅れない。これも熟練技
余りがカットされていく瞬間。
余りがカットされていく瞬間
カットされた部分は輪っか状になって下に落ちる。何かに使えそう…
カットされた部分は輪っか状になって下に落ちる。何かに使えそう…

完成形に近づいた靴下はこのあと外部のセットやさん(筒状の靴下を平たく同じサイズに整形する工程)に出し、戻ってきたものを工場内の検品スペースで検品、資材の取り付けが行われて、商品の形になります。

糸の飛び出しなどを整える
糸の飛び出しなどを整える。
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ロゴシールの転写中。
ロゴシールの転写中
商品のタグつけ。
商品のタグつけ。

工場のホームドクター

取材中、再び山下さんの姿が見えなくなった瞬間がありました。

見つけた山下さんは、黙って真剣な表情。

「ホコリ噛んでますね」

??

「綿ボコリがここに詰まってます。こういうのが、寸法を狂わす元になります」

小さな小さな綿ボコリを、工場長は見逃さない。
小さな小さな綿ボコリを、工場長は見逃さない

手にとって見せてくれたのは、小指の先ほどの小さな塊。靴下づくりの大敵、ホコリが玉になって機械内に入り込み、機械を止めてしまっていたのでした。

「長年やっていると、糸をちょっと引っ張っただけでね、あ、これ何か噛んでるなとわかるんです。さっきスタッフの子が見てはったけどまだ慣れてないもんやから、わからんと機械を触って、また糸が抜けたんです」

機械を問診中の山下さん。
機械を問診中の山下さん

他のスタッフも気づかないエラーをすぐに見つけてしまう様はさすが工場長、信頼できるホームドクターのようです。

「工場内に必ず誰か一人はいて、機械を絶えずチェックする。それで商品が安定します」と語る山下さん。

細かな目配りを絶やさないことで、靴下づくりの無事は保たれていました。

毎日、褒められもせず苦にもされず、黙って私の足に沿い、動きを助けてくれる靴下。

この形になるまでの数え切れない「ひと手間」「ふた手間」のことを思うと、「いつもありがとう」とねぎらいたくなるような気持ちになって、工場を後にしました。

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<取材協力>
御宮知靴下

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2&9 しめつけないくつした

文:尾島可奈子
写真:木村正史

※2016年11月30日の記事を再編集して掲載しています。

21時に開店するちゃんぽんの名店。武雄のお酒の〆は「開泉食堂」で

突然ですがみなさん、お酒の締めの定番と言ったら何でしょうか?きっと、飲んだ後に何故か食べたくなる、ラーメンを思い浮かべる方が多いはず。

一方で、同じ質問を長崎や佐賀の方にすると、「ちゃんぽん」と答える人も多いそうです。

それもそのはず。長崎県だけでも1000軒以上のお店で食べることができると言われるほど、ちゃんぽんは肥前地区に郷土料理として根付いています。日本が鎖国していた時代に唯一開港地として外国との接点となっていた長崎と、その隣りで文化が流れ入ってきた佐賀では、食にも異国からの影響が色濃く感じられます。

そこで本日の「産地で晩酌」はちゃんぽん。佐賀県武雄市にある、21時を過ぎないと開店しない知る人ぞ知る名店にて、本場のちゃんぽんを味わってきました。

日本と中国、山と海の味が「ちゃんぽん」された歴史

さすが本場と言ったところで、長崎にはちゃんぽんの歴史に触れることができる「ちゃんぽんミュージアム」があります。そこでの紹介によると、ちゃんぽんのルーツは福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』にあり、福建省から長崎に渡った四海楼の初代陳平順が日本風にアレンジし、1899年にちゃんぽんとして考案されたとあります。

長崎に来ていた中国人留学生に向けて、野菜くずや肉の切れ端を使った安くて美味しい栄養満点の麺料理として、当時から親しまれていました。山の幸にも海の幸にも恵まれた長崎だからこそつくることができた、日本の味と中国の味が融合した郷土料理なのです。

元々ちゃんぽんには「様々なものを混ぜること」という意味があり、江戸時代の洒落本にも登場しています。1822年の洒落本『花街鑑(サトカガミ)』に「芸者の滑稽、チリツンテン、ちゃんぽんの大さわぎ」とあり、その意味が転じて、2種類以上のものをごちゃ混ぜにすることを指す言葉として、歌舞伎でも使われている言葉です。ごちゃ混ぜに入ったちゃんぽんに相応しい名前ですね。

ちゃんぽんはその後長崎の名物料理となり、隣の佐賀をはじめ、今では全国各地に広まっています。

赤提灯の深夜食堂、その名は開泉食堂

ライトアップで浮かび上がる、武雄温泉の楼門。
ライトアップで浮かび上がる、武雄温泉の楼門。

佐賀県の西部にある武雄市の中心には、1300年の歴史を持つ武雄温泉があります。重要文化財の楼門を眺めつつ、1日の疲れと汗を流し、温泉から出て時計を見るともう21時。武雄温泉のほど近くにあるという、地元の人からこっそりと教えてもらった、美味しいちゃんぽんを出す名店を目指します。

ペコペコのお腹に急かされながら、道に迷いつつ細い路地を1本入ったところに、静かに灯る赤提灯を見つけることができました。よほど注意していないと見逃しそうなこのお店こそ、知る人ぞ知る開泉食堂です。

武雄市のちゃんぽんの穴場、開泉食堂

1人で切り盛りする店主に早速ちゃんぽんを頼むと、奥から食欲を刺激するジュウジュウと具材を炒める音が聞こえてきます。

今か今かと待つこと10分、三川内焼に代表される、唐子絵のどんぶりに入った熱々のちゃんぽんが出てきました。人参、キャベツ、もやし、豚肉、なると等々。風味や食感の違いも楽しい、具沢山のちゃんぽんです。

具材の旨味が複雑に中華スープに溶け出し、太くて歯切れの良い麺に絡みます。具材もスープも味付けが濃いめにしっかりとされていて、最後の一滴まで飲み干したくなる極上の一品。野菜もお肉も摂ることができ、かつての中国人留学生がこれを食べて元気を出していたのもうなずけます。

噂によるとメニューに載っていない裏メニュー「皿うどん」があるかないとか。武雄温泉に入った後に一杯飲んで時間を潰し、ぜひお酒の締めを開泉食堂でお召し上がりください。

ここでいただけます

開泉食堂
佐賀県武雄市武雄町富岡7809

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

※2017年1月21日の記事を再編集して掲載しています

よかとこ薩摩の1泊2日旅

こんにちは。さんち編集部です。

1月の「さんち〜工芸と探訪〜」は薩摩特集。あちこちへお邪魔しながら、たくさんの魅力を発見できました。

桜島に見守られ、温暖な気候と風土がもたらす恵みで栄えた薩摩。重要な歴史文化を構築した産地でもあります。西郷隆盛や大久保利通といった県を代表する偉人たちが生まれた場所であり、今年は明治維新150周年!NHK大河ドラマ「西郷どん」もスタートし、注目の産地です。

それでは、編集部がおすすめする1泊2日のプランをご紹介します!


今回はこんなプランを考えてみました

1日目:

・椅子好きにはたまらない。鹿児島空港搭乗口のイームズ シェルチェア
・島津家の歴史や近代日本産業の息吹が感じられる名勝地 仙巌園・尚古集成館
・100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ
・フェリーに乗ったら必ず食べたい!県民が愛するやぶ金のうどん
・たった一人の女性作家が復活させた、幻の薩摩ボタン

2日目:

・異国情緒あふれる絶景の産業遺構。山川製塩工場跡
・雄大な自然と一つになれる、天然の砂むし場。山川砂むし温泉 砂湯里 (さゆり)
・庭を知ると旅が10倍楽しくなる。知覧武家屋敷庭園
・仏壇屋が挑む現代のインテリア。川辺手練団

このようなラインナップでお届けします。それでは、早速行ってみましょう!


1日目:

1泊2日の薩摩旅は、歩き方記事では初の空港!鹿児島空港からスタート。

【朝】椅子好きにはたまらない。イームズ シェルチェア
鹿児島空港

鹿児島空港のイームズチェア

鹿児島空港の搭乗口にズラリと並んだイームズのシェルチェア。日本のものづくり‥‥からは外れてしまいますが、ぜひ人に話したくなるとっておきのスポットとしてご紹介させてください。

鹿児島空港のイームズチェア
思わず足を止めてしまう美しさです
イームズチェアの足元
椅子の足元にはハーマンミラー社のロゴが

スタート地点が見どころとは、このあとの名所にも期待が高まります!

【午前】島津家の歴史や近代日本産業の息吹が感じられる名勝地
仙巌園・尚古集成館

名勝 仙厳園
反射炉跡が敷地内にある旧島津家の別邸、名勝 仙巌園

鹿児島が誇る名勝地、仙巌園へは鹿児島空港からリムジンバスで1時間、車で40分ほど。鹿児島湾を池に見立てた、スケールの大きな大名庭園です。風光明媚な名勝地としてだけでなく、歴史遺産としての価値もかなりのもの。

幕末から近代にかけては、島津家28代斉彬によって富国強兵と殖産興業が推し進められ、園内やその周辺には「集成館事業」とよばれる製鉄やガラス、陶器のほか、造船や大砲などの工場が集まったそうです。

仙巌園
重厚感漂う立派な正門
仙巌園
門の内側を見上げれば、島津家の家紋「丸に十の字」
仙巌園
南国の植物が薩摩らしさを添え、いわゆる日本庭園とはちょっと違った趣に

薩摩の雄大な景色と、近代日本の胎動を同時に感じられる場所です。

仙巌園・尚古集成館の情報はこちら

【午前】100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ
島津興業 薩摩ガラス工芸

かつては「幻」と呼ばれていた鹿児島を代表する工芸品、薩摩切子。江戸時代末期に、薩摩藩主である島津家の肝いりで技巧が極められ、薩摩藩を代表する美術工芸品となりましたが、明治以降、幕末の動乱の中で徐々に衰退。

しかしそれから約120年後の1985年、斉彬のゆかりの地である磯 (いそ) を中心に復刻運動が起こり、薩摩切子は鹿児島の誇る新たな工芸品として息を吹き返すこととなるのです。

薩摩切り子を近くで見ると、ぼかしがあるのがよくわかります

多くのガラスの専門家が知恵を出し合い、少しずつかつての鮮やかさと輝きを取り戻した薩摩切子。その製造の様子を見学できる場所が、仙巌園から徒歩3分の薩摩ガラス工芸です。

島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
島津興業が運営する「薩摩ガラス工芸」の工房
工房のすぐ目の前には仙巌園、尚古集成館の敷地が広がります
工房のすぐ目の前には仙巌園、尚古集成館の敷地が広がります
浮かび上がるような柔らかなぼかしの表現が美しいです

工房ではこんな細やかな表現が生まれる様子を、誰でも予約なしで見学することができます。器の原型を作る成形から、カット、磨きまで全工程が揃ったガラス工房は全国でも非常に珍しいそうですよ。

今では30名近い職人さんが働いています
2017年にリニューアルオープンされた工房。明るい雰囲気です
併設したショップではお土産を買うこともできます

>>>>>>>関連記事 :「100年の時を経て蘇った美しさを訪ねる。薩摩切子の工房へ」
「幕末の『下町ロケット』 幻と呼ばれた薩摩切子が、100年後の鹿児島で蘇るまで」

薩摩ガラス工芸の情報はこちら

【昼】フェリーに乗ったら必ず食べたい!県民が愛するうどん
やぶ金

次の目的地へ向かうには、こちらでは不可欠な交通手段であるフェリーに乗ります。お昼はどこでいただこうかなと思っていたら、なんと、桜島フェリーの船内にうどん屋さんがあるそうですよ。約15分の船旅で食べきれるようにちょうどいいサイズ。注文してからも、あっという間にできあがります。地元の名産、さつま揚げも乗せられています。

さつま揚げうどん 510円
味わい深いメニュー表

そろそろフェリーが到着しますよ。午後の見どころに向かいましょう。

【午後】たった一人の女性作家が復活させた、幻の薩摩ボタン
絵付舎・薩摩志史

薩摩ボタン室田志保

直径わずか0.8cm〜5cmほどの小さなキャンバスに、微細に描かれた文様。

これは「薩摩ボタン」といい、鹿児島の伝統工芸品「白薩摩」に薩摩焼の技法を駆使して絵付けをしたもの。江戸時代末期、ジャポニズム文化の一つとして欧米の人々を魅了しましたが、その後、繊細な技法のため作り手が途絶え、幻のボタンともいわれてきました。

そんな薩摩ボタンを現代に蘇らせたのが、日本で唯一の薩摩ボタン作家、室田志保さんです。

薩摩ボタン作家・室田志保さん
お話がとても楽しい室田さん
薩摩ボタン室田志保の作品
「パリ万博150周年記念古薩摩写 花に文鳥の絵」パリ万博の頃のものと思われるデザインの古薩摩写し
薩摩ボタン室田志保の作品
「女王蜂金冠紋」「近衛兵蜂銀冠紋」「働き蜂」

こちらの薩摩ボタンはなんとオーダーメイドが可能だそうです!お伺いする際は、事前にお問い合わせください。

>>>>>>>関連記事 :「「幻の薩摩ボタン」を現代に復活させた、たった一人の女性作家を訪ねて」

【夕方】指宿エリアの宿にチェックイン

明日は薩摩ならではのダイナミックな見どころからスタートする予定です。指宿温泉で、旅の疲れを癒しましょう。


2日目:

【朝】異国情緒あふれる絶景の産業遺構
山川製塩工場跡

山川製塩工場跡

指宿市のJR山川駅から車で15分ほど行くと、壁のようにそり立つ山や南国らしい植物に囲まれた土地から、いくつもの湯けむりが立ち上がる不思議な光景と出会う。まるで日本ではないようです。

山川製塩工場跡
思わず「ここはどこ?」と自問したくなる不思議な光景

湯けむりの正体は伏目温泉の湯気。塩工場では、この温泉熱を利用して、1943 (昭和18) 年ごろから約20年間、製塩事業を行ってきました。かつて温泉熱を利用した製塩事業は全国各地で行われていたものの、最後まで稼働していたのは指宿なんだそう。

山川製塩工場跡
雄大な自然と産業遺産のコントラストに圧倒される

そんな時代の移り変わりを感じさせる産業遺構が、この山川製塩工場跡です。

山川製塩工場跡
時の流れを感じさせる経年変化がかっこいい

山川製塩工場跡の情報はこちら

【午前】雄大な自然と一つになれる、天然の砂むし場 山川砂むし温泉 砂湯里 (さゆり)

山川砂むし温泉 砂湯里

山川製塩工場跡から歩いて3分ほど。鹿児島に来たら必ず体験しておきたい、砂むし温泉です!

伏目温泉の地熱を利用した砂むし場。目の前に広がる海と周辺の南国情緒たっぷりの木々が、どこか異国を感じさせます。

山川砂むし温泉 砂湯里
砂かけのプロ「砂かけさん」に砂をかけてもらえば準備完了!
山川砂むし温泉 砂湯里
目の前は海!何も遮るものがなく開放的

じわりと吹き出す汗で身体の毒素は抜け、心地よい波音が心をほぐしてくれる。心身ともにデトックスできる場所です。湯上がりに小腹が空いたら、温泉熱で蒸した温泉卵やふかし芋がおすすめ。

徒歩圏内には絶景をのぞめる日帰り温泉地「たまて箱温泉」やレストラン「地熱の里」も。こちらでお昼をいただきましょう。せっかくのデトックスあとなので、食べ過ぎにはご注意を‥‥!

山川砂むし温泉 砂湯里の情報はこちら

【午後】庭を知ると旅が10倍楽しくなる。
知覧武家屋敷庭園

指宿から車で1時間ほど、次に訪れたのは知覧武家屋敷庭園。7つの庭園からなる国指定の名勝です。

知覧武家屋敷庭園

庭園がある南九州市知覧町は国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、「薩摩の小京都」とも呼ばれている地域。そこには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような景色が広がります。

知覧武家屋敷庭園
西郷恵一郎庭園には、「鶴亀の庭」の別名も。鶴と亀が同居する、おめでたい庭です
知覧武家屋敷庭園
この細長い水鉢は、刀や槍についた血を洗うためのものなんだとか。さすが武家屋敷です
知覧武家屋敷庭園
男女で玄関がわかれるのも武家屋敷らしい。左が男玄関、右が女玄関

時代を動かした薩摩藩士たちの勇ましさを随所に感じる一方で、庭園を見渡すと趣を感じずにはいられません。江戸時代に造られた立派な庭と町並みが、当時の姿を残したまま見られるのはとても珍しいこと。知覧の庭も町並みも、行政ではなく、住民の皆さんが管理されているそうです。入園料は、7つの庭園だけではなく、周辺の家々の手入れにも使っているので風情ある町並みに保たれているとか。

江戸時代の面影が残る知覧の町。ぜひその町並みを歩いて、江戸を生きた薩摩藩士の暮らしを肌で感じてみてはいかがでしょうか。

>>>>>>>関連記事 :「庭を知ると旅が10倍楽しくなる。「知覧武家屋敷庭園」の巡り方」

薩摩の旅もそろそろ終盤です。土地の広さゆえに移動が多い産地ではありますが、道中の景色も見ごたえ十分です。

鹿児島の風物詩、桜島の噴火の様子
鹿児島の風物詩、桜島の噴火の様子

【午後】仏壇屋が挑む現代のインテリア
川辺手練団

旅の締めくくりは鹿児島の伝統的工芸品「川辺 (かわなべ) 仏壇」の歴史や技術を伝える川辺仏壇工芸会館へ。川辺町は古くから信仰心の篤い地域で、平安時代末期ごろから仏壇がつくられるようになったといいます。

川辺仏壇工芸会館

一見、洗練された大人たちが集うバーを思わせる空間ですが、仏壇屋さんのショールームなんです。

素敵なデザインのアイテムが並びますが、中にはこういった仏壇のパーツに用いられる技術でつくられたものもあります。

川辺手練団ランプシェード製作工程
川辺仏壇の蝶番
これが仏壇のどの部分になるか、わかりますか?

あらゆるものづくりの技術が集結する川辺町の仏壇づくりですが、ライフスタイルの変化で仏壇離れが進み、仏壇産業そのものが縮小傾向にある中、このままではこれらの技術が途絶えてしまうかもしれない。危機感を抱いた川辺仏壇協同組合のメンバーがそうした現状を打破すべく、2016年夏に始動したのがこちらのインテリア製品を手がける「川辺手練団」。

仏壇づくりの技術を活かしながらも、仏壇という枠から飛び出して新たな商品をつくっていこうという取り組みです。職人の高齢化問題や価格、販路などの課題はありつつも、今後も新商品を出していくとのこと。この2月には、パリで開催される鹿児島県の展示会に川辺手練団として出展する予定です。

>>>>>>>関連記事 :「仏壇屋が挑む現代のインテリア。「川辺手練団」、始動。」

時間に余裕があれば、こんなお土産もいかがでしょうか。

鹿児島の郷土玩具オッのコンボ

丸みのあるシルエットに、穏やかな笑みを浮かべた表情。見ているだけで、思わずこちらも笑顔になってしまう、「オッのコンボ」という名前の郷土玩具です。

このユニークな名前は、鹿児島の言葉で「起き上がり小法師」という意味。その発祥は定かではないものの、少なくとも島津藩の藩政時代には鹿児島地方の家々にあったといいます。

>>>>>>>関連記事 :「台所の守り神、鹿児島の「オッのコンボ」」


こちらも、必ず買って帰りたいですね。

勘場蒲鉾店の薩摩揚げ

鹿児島県いちき串木野市にある勘場蒲鉾店の「つけあげ」です。

鹿児島県の郷土料理のひとつで特産品でもある薩摩揚。地元では「つけあげ」とよばれていますが、薩摩藩時代、中国や琉球文化との交流から、魚肉のすり身を澱粉と混ぜて油で揚げた「チキアギ」が食べられるようになり、それがなまって「つけあげ」になったとも言われています。県内でも、いちき串木野市は、古くから水産練り製品加工業(さつまあげ・かまぼこ)が盛んで「さつまあげ発祥の地」とも言われています。

勘場蒲鉾店の情報はこちら

薩摩をめぐる1泊2日の旅、お楽しみいただけたでしょうか?

船に揺られて砂に埋まって。南国らしい楽しみもありながら、華やかな薩摩切子や薩摩ボタンの奥には幕末のエネルギーを感じます。

維新150年の今年、ぜひカラフルな薩摩の魅力を訪ねてみてはいかがでしょうか。

さんち 薩摩ページはこちら

撮影:菅井俊之、尾島可奈子
画像提供:薩摩ガラス工芸、絵付舎・薩摩史志

岡山「津山民芸社」の竹細工の龍を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載5回目は辰年にちなんで「竹細工の龍」を求め、岡山県津山市にある津山民芸社を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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オレンジの電車の前の工事職員の後ろ姿

岡山駅から津山駅に向かう列車はきれいな色だ。これから竹細工の職人に出会う私たちを連れて行ってくれる。

津山民藝社の看板

目的地に到着。工房前の植物は豊かで、愛情をこめて世話されているようだ。あたたかい歓迎を予想させてくれる。

津山民藝社の白石さん

そして期待は裏切られなかった。白石さんは、陽気でにこやかだ。頭にベレー帽をのせ、私たちを中に招いてくれる。日本の「ジュゼッペじいさん」に出会ったのだ。

ぶら下がった麦藁帽子

不思議な事に、店の奥に入ったとたん、自分の家にいるような気分になった。この場所に棲む、つつましい様々なオブジェに囲まれて、白石さんのセンシビリティを共有できたような気持ちがする。麦わら帽子が3つ、埃だらけになって、家具の上にのせてある。

サルノコシカケ

伝統的な藤細工に混じって、見事なサルノコシカケがあった。

竹製のハチドリ

竹の繊細なハチドリが、軸の上にこっそり乗せてある。

様々な道具が並ぶ

工房に向かう。これはまさに「ジュゼッペ」のアトリエだ!玩具だけでなく、機械や道具も全てが手づくりなのだ。
すばらしい創意工夫で、まさにミュージアムピースだ。

道具箱

竹の材料を入れておく箱まで手づくりだ。おそらく白石さんは、美しさを優先させているに違いない。というのも、家具が痛まないように、ブロックを置いて床との直接の接触を避けているからだ。

工房の風景

特別につくられた、この竹を切るためのノコギリベンチも同様だ。壁に掛かっているザルも、偶然ではないはずだ!

竹の水分を出させるかまど

中庭には、細工される前に竹の水分を出させるかまどがある。

壁に掛けられた時計

あっという間に16時40分だ!14時に訪れたのに、このアリババの洞窟で時間を忘れてしまった。しかもここに来た目的のものをまだ見ていなかった。小さなドラゴンだ。

机の上の様々な道具

店の奥の部屋に戻った。そこで白石さんは、仕上げの組み合わせをしてくれる。

仕上げを行われている龍の郷土玩具

ああ!やっとドラゴンに会えた。待った甲斐があった!最後に少しレタッチして、仕上がりだ。

龍の郷土玩具

なんと誇らしげで美しいのだろう!上にまたがったら、怖いものなしだ!

作りかけの郷土玩具と道具

しかし、私たちの天才工作者の制作は、これだけではない。

郷土玩具の虎

トラもつくる。

郷土玩具の餅付きうさぎ

かわいいウサギも。

作州牛

しかし、何よりも、ここの名を知らしめた、有名な作州牛だ。

竹林

私たちのジュゼッペじいさんは、近所の竹林に車で連れて行ってくれた。彼の竹細工の源だ。訪問は終わりに近づき、この素晴らしい出会いの後の別れは感動的だった。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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竹細工と農耕牛の産地で、郷土玩具をつくる

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、津山市で竹細工が誕生して全国に知られるようになった理由や、津山民芸社を訪ねて教えてもらった竹細工の製造工程、郷土玩具の由来などをご紹介します。

その昔、「美作の国」や「作州」と呼ばれていた岡山県北部。中心に位置するのが、中国山地沿いの山間の城下町、津山市です。

津山では大正末期に、地場産業として竹細工が推奨され、昭和初期にかけて、大分とともに2大産地といわれました。
大分の竹細工は、竹を割ったものを編んでつくるものが多かったのに対し、津山では機械を使って玩具などが盛んに作られたそう。

当時、竹細工は生糸に続いて二番目の出荷を占める津山の主要産業で、市内には36軒もの工房があり、終戦まで生産量は全国トップクラスを誇っていました。地場産の竹を使用していて、素材をまるごと活かしているのが特徴です。

また、美作地方は江戸時代から農耕牛の飼育が盛んでもある土地。一宮の中山神社近くでは明治時代まで牛市が開かれ、役牛の産地として各地に広くその名を知られていました。

こうした背景をもとに、昭和32年から竹細工の「作州牛」を製作しているのが今回訪れた津山民芸社。市内で竹細工を作り続けるのは今や、同社の白石靖さんただ一人となったそうです。

城下町の北側、かつての武家屋敷通りの一角にある津山民芸社

戦後生まれの牛が、津山を代表する郷土玩具に

筑前琵琶を弾く琵琶師であった父・安太郎さんが、津山に移り住んで竹細工を始めたのが昭和2年。

「父は竹に魅了され、釘から水筒までとにかく竹製品で代用を考えていました。また、アイデアマンでもあり、次々に事業を立上げていましたが、そっちは失敗ばかりでした」と苦笑しながら話す白石さん。

発想の豊かさと手先の器用さは父親譲りだったようで、白石さんが17歳の時に2年間修行に出た後、親子で観光土産の開発に取り組み、作州牛を考案。翌年の昭和33年に津山民芸社を設立しました。

白石靖さんと娘の七重さん

作州牛は、昭和天皇が岡山国体のお土産に購入されたことや、昭和60年に戦後生まれの郷土玩具としては初めて年賀切手に採用されたことで、広く知られるようになり、今では津山の代表的な郷土玩具に。

昭和60年の年賀切手

店舗を訪ねると、奥が工房になっていて、作州牛を始め十二支の竹細工の製作風景が見られます。

店頭に並ぶ竹細工は竹の素材や形をそのまま活かし、一つ一つに微妙な違いが。十二支の玩具には、その干支にまつわる津山地方の言い伝えが栞として添えられているのも嬉しいです。

ピーク時の約40年前は、従業員50人の工場で、年間約2万個を生産するような大きな規模でしたが、時代とともに縮小し、現在は年間約1200個を白石さんお一人でつくられるそうです。今のところ、弟子や跡継ぎはいないとのこと。

往時の津山民芸社での製作風景

手作りの道具で竹の魅力を引き出す

木製玩具にはこけしに代表される挽物、そして箱物、板物、木彫りなどがありますが、竹製はごくわずか。

今回のお目当ては、30年前、白石さんの娘さんの干支が一回りした時に考案した玩具だったため、記憶によく残っているという「竹の龍」。その作り方を見せていただきました。

まずは材料となる竹の「伐採」。近隣に豊富にある竹林で許可をもらって自ら取りにいきます。

工房から車で5分ほど行ったところにある竹林

次に「油抜き」。

青竹から余分な水分や油分を除去する作業で、材料を作り上げるための大切な工程。
熱湯に竹を入れて煮込み、油分を取ります。

工房の裏手で油抜きや染色をするための釜

油抜きを終えたら「裁断」です。

種々の刃物を使って、必要な大きさに竹材を裁断します。裁断した部材は「ガラン」に入れて、角を滑らかに。

裁断の道具
竹の断面を滑らかにするため、「ガラン」に入れて回す
モーターとベルトで動く木製のガランも全て手作り

最後に「彩色」して、「組み立て」をして完成です。

絵の具で彩色
丁寧に組み立てる

伐採、油抜き、裁断、彩色、組み立て、すべての工程を今は白石さんがひとりで手がけます。白石さんの創作は玩具にとどまらず、ほとんどの道具も使い勝手の良いように自分で手作り。自然の竹をまるごと活かし、道具に至るまで手作りでつくるため、ひとつひとつ形や表情も違います。

「無になって、つくることに集中する。無心に切って、描く。そうすることでクオリティ高く仕上げています」

何度つくっても、竹細工に対する白石さんの信念は変わらないようです。

「竹の龍」は、名画のワンシーンから生まれた?

龍に少年が跨っている「竹の龍」の姿、何かに似ていると思いませんでしたか?

「ネバーエンディングストーリーに着想を得て考案した」という白石さん。そう言われると、主人公がファルコンにのっているあのシーンに見えてくる気が‥‥。

添えられている栞には、

『龍は鯉が中国の揚子江を遡り、天から落下している滝を登りきって龍と化したと言われている。その龍は日本に来て水を司る神と崇められた。

龍神を祭る山の一つに作州地方最高峰の那岐山がある。この山は今でも毎年この地方特有の広戸風をまきおこしている。

「昔、昔、この山に三穂太郎という大男が住んでおったそうな。この大男、那岐山から京都まで三歩であるいたそうな。この大男の担いだ畚(もっこ/縄を網状にしたものの四隅に綱をつけ、土・石などを入れて運ぶもの)からこぼれ落ちた土が鏡野町の男山、女山に成り汗の雫が作州一の大池と言われる誕生寺池になったそうな‥‥」この三穂太郎は子供の頃から龍にまたがり、天空を飛び回って遊んでいたと言われている。この様子を竹細工にした。』とあります。

ファンタジーな着想の奥には、古くから津山地方に伝わる郷土民話のエピソードを、心に残るイメージで後世に伝えようとする白石さんの信念がうかがえるような気がします。

そしてそれは、白石さんのつくる道具、玩具、栞、すべての創作に共通する郷土愛なのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第5回は岡山・竹細工の龍の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第6回「栃木・きびがら細工のへび」に続く。

<取材協力>
津山民芸社
岡山県津山市田町23
営業時間 9:00~18:00(不定休)
電話 0868-22-4691

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」2月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。