わたしの一皿 楕円皿の魅力と謎

夏とも秋と言えない、せめぎあいの気候が続いています。出版予定の本の原稿書きも佳境。こちらも編集さんとやりとりの応酬。季節も自分もなんだか忙しい。みんげい おくむらの奥村です。

さて、今年も夏に欠かせなかったのがそうめん。今シーズンもずいぶんお世話になりました。あと少し麺のストックがあるので、そろそろ使い切ってしまおう。

福岡県うきは市吉井町にある長尾製麺のそうめん

うちのそうめんの定番は、福岡県うきは市の吉井町にある長尾製麺のもの。この製麺所とその近所の雰囲気がとても好き。

小鹿田焼や小石原焼の買い付けをしてから、久留米あたりに向かうときに必ず立ち寄るエリアです。

福岡県うきは市吉井町にある長尾製麺のそうめん

この麺を初めて食べるなら。めんつゆで普通に味わってもらいたいところなんだけど、うちはいつも食べているので今日は変化球。和え麺にして。

こちらもそろそろシーズン終わりかな、という熊本の長ナスを使って。電子レンジで蒸しナスを作っておいて、それをそうめんに乗せる。暑かったのでナスも冷やしておいた。あとは薬味とタレをぶっかけておしまい。という、楽チンメニュー。

肉はなくてもいいけど、今日はたまに行くラーメン屋さんのほぐしチャーシューを買ってあったのでそれをトッピングして。

調理風景

こんな時、なんだか一皿で収まりがいいのが楕円のお皿。今日は島根県の森山窯のものを使って。

民藝運動の中心的なメンバーとして知られる河井寛次郎の最後の内弟子であった、陶工森山雅夫さんが築いた窯。静かなたたずまいで、ふつうの食事が映える、そんなうつわが多いのがこちらの窯。

こちらの窯は島根県の温泉津(ゆのつ)という場所にあります。良質の粘土が取れたため、江戸時代からの日用雑器の産地。

かつてほど大きな産地ではなくなってしまったけれども、こうして穏やかなうつわを生み出す窯が今なお残っているのはうれしいこと。

この楕円皿、月並みな言い方をすれば何でも受け止めてくれる。今日みたいな麺もいいし、ナポリタンなんかもいい。オムレツなんかもスコンと収まります。

釉薬が濃い場所、薄い場所で色の表情がずいぶん違うし、鉄分の多い土で作られているからその鉄部が焼成によって吹きだして茶色の点々になっている。

実はこのうつわ、その点々と色の表情がどことなく蒸しナスに似ている気がするのだ。蒸しナス乗っけの和え麺が頭に浮かんだ時、この皿がピンときた。

調理風景

この料理、出来たら香りの野菜を一つ用意したい。シソでもいいし、香菜(パクチー)でもミョウガでも、ニラでもミントでも。もちろん一つではなく組みあわせても。

今日はちょうど使い掛けのエゴマがあったのでエゴマ。暑い日は蒸しナスも冷やしたものを使えばいいし、香りの野菜はできればたっぷり、たっぷりと。タレは今日は黒酢を効かせています。黒酢とごま油と花椒。ちょっと中国寄りの風味で。

楕円皿というのは考えてみるとおもしろい。たとえば今日もそうなんだけど、ある料理が頭に浮かんだ時、「今日は楕円皿だ!」とすぐに決まる時がある。

別に丸皿で収まりが悪いわけでもない。でも、ぜったいに楕円皿なのだ。

そして楕円皿は言わずもがなで向きがある。もし運ばれてきた楕円皿が目の前に縦向きに置かれたら、ギョッとしてしまうだろう。横向きには安心感がある。

これってなんだろうか。同じことは長方形のうつわにも言える。目の慣れなのか、脳に何か潜在的なものがあるのか。果たして。

蒸しナスを乗せたそうめん

そうめんを放っておくと固まってしまうので、考えていてもわからないことはさておきさっさと食べよう。

このそうめんは麺自体がうまい。すすって飲み込んではもったいない。噛み締めて麺の味を楽しみたい。

この麺で食べれば、主役がナスではなくそうめんだと合点がいくはずです。どうぞお試しください。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍

スティービーワンダーが絶賛した風鈴は、武田信玄の甲冑から生まれた。平安時代から続く明珍家のものづくり

姫路城にほど近い工房の窓から風が吹き込み、窓辺につるしてある風鈴が揺れた。リーン、キーン、チリーンという3種類の音が混じりあったような音が響き渡る。

明珍本舗の火箸風鈴

その音は真夏の湧き水のように涼しげで、品の良さと心地よさを感じさせるけど、どこか緊張感もはらんでいる。

目を閉じて、耳を澄ませる。もし、月夜に野原でこの音色が聞こえてきたら、どんな気分がするだろう。どこか、異世界に誘われそうだ。

その先は、平安時代か、戦国時代か‥‥

明珍本舗の火箸風鈴

この風鈴は、平安時代から甲冑師として歴史に名を刻む明珍家の次期53代目、明珍敬三(みょうちん けいぞう)さんが作ったもの。

800年以上前から鉄を叩き、伸ばし、鎧兜を作ってきた独特の鍛造技術を用いて、幻想的な音色を生み出している。

その音のもとになるのは、火箸。甲冑から火箸、そして風鈴へ。明珍家は歴史の荒波を、熟練の手仕事で乗り越えてきた。

明珍本舗の明珍敬三さん
明珍本舗の明珍敬三さん

機械では出ない音色

「これ、見てください」

明珍本舗で使用している金づち

敬三さんが、金づちをふたつ並べた。熱した鉄の棒を叩き、伸ばし、形を整えるために不可欠の仕事道具。

比べてみると、ほぼ同じデザインながら、「頭」と呼ばれる叩く部分の長ささだけが違った。これは、毎日のように鉄を叩くことで、平らな部分が少しずつ摩耗して研ぎ直した結果だ。

「多い時は、1日2万回ぐらい(鉄を)叩いています。力を入れず、朝から晩まで素早くトントントントンと叩く。力を入れていたら1日8時間、10時間も叩けませんから」

明珍本舗で使用している金づち

道具をしまう棚には、数えきれないほどの金づちがある。いくつあるんですか?と尋ねると「数えたことない」という。

火がついた炉

敬三さんが、小さなスコップでコークス(石炭を蒸し焼きした後に残るもの)をすくい、炉に入れる。炉のなかは、コークスの熱で約1500度にもなる。

炉に棒を入れる

そこに丸くて細い鉄の棒を入れると数十秒で橙色に染まる。

熱した棒を金づちで叩く様子

それをはさみで引き出し、金床の上でリズミカルに叩く。

鉄の棒が飴細工のように伸びていく。

熱した棒を金づちで叩く様子

最初はその棒を四角にする。次に、手元で棒を回転させながら、八角形にする。その角をどんどん落として丸め、火箸の形に整える。

熱した棒を金づちで叩く様子

「機械を使えば鉄を伸ばすことはできるんですが、きれいな音色が出ないんですよね。伸ばしたものを丸くする機械もないので、うちはすべて手仕事です。

鍛冶屋の世界でも特殊な打ち方で、同じような手仕事をしている方は他にいないでしょう。先祖代々伝わる技のひとつで、このやり方はずっと変わっていません」

一番手前が最初の状態。火入れ・叩きを繰り返し形をつくる
一番手前が最初の状態。火入れ・叩きを繰り返し形をつくる

名だたる武将の甲冑を手掛けた一族

明珍家は、平安時代より腕利きの甲冑師として名をはせてきた。その歴史の深さは、明珍という苗字からもうかがえる。

12世紀、近衛天皇に鎧と轡(くつわ)を献上したところ「音響朗々光り明白にして玉のごとく、類いまれなる珍器なり」と賞賛され、褒美として「明珍」という姓を授かった。明珍というのは屋号ではなく、本名なのだ。

室町時代、戦国時代は関東を拠点に移し、武田信玄や豊臣秀吉、伊達政宗が着用した鎧兜なども手掛けている。

江戸時代には、江戸に本家を構えながら徒弟制度を確立して、日本全国の大名のもとに弟子を派遣した。そのため、北は青森の弘前、南は薩摩まで明珍家の甲冑師が活躍していたそうだ。

「姫路藩兜鍛冶明珍」と題された古絵
「姫路藩兜鍛冶明珍」と題された古絵。「明珍の打った兜や鎧の胴は、刀では切れず、鉄砲のたまも通らなかった」と記されている

江戸時代の半ば、明珍義時が幕府の大老だった酒井忠清のお抱え甲冑師となり、酒井家の領地があった現在の群馬県前橋市に拠点を移した。

その後、酒井忠恭の時代にお国替えで姫路藩主となったため、同行した。その子孫にあたるのが、敬三さんだ。

明珍火箸

火箸は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した茶人、千利休の依頼で作ったという言い伝えがある。その火箸に注目したのが、明治時代を生きた48代、明珍百翁宗之だった。

時代が変わり、甲冑の需要が一気に途絶えた明治時代、廃業の危機に陥った際、「千利休が使った火箸」に活路を見出したのだ。

その当時、料理や暖を取るために炭火が使われていて、火箸は生活の必需品だったため、明珍家は生き長らえた。

起死回生のアイデア

ところが昭和に入ると、再び苦境に立たされた。戦時中、「金属回収令」によって鍛冶道具を供出せざるを得ず、材料の鉄も手に入らなくなり、敬三さんの祖父にあたる51代目の明珍宗之は、家と技を守るために家や土地を売り払った。

戦争が終わると、生活の近代化が進み、あっという間に火箸の需要がなくなった。そのタイミングで後を継いだのが敬三さんの父、明珍宗理さんだった。

「祖父の時代は、すごく逼塞した時代でした。昭和30年代、最初に応援してくれたのが日本製鉄さんで、地元にこういう歴史を持つ鍛冶屋があるということで、鉄を卸して頂きました。

それで祖父が細々と仕事を再開し、しばらくして現当主の宗理が仕事に入ったのですが、火箸が必要なくなり、もう借金で首が回らない、これからどうしようという状態だったみたいです」

追い詰められた宗理さんは、考えた。

明珍火箸

うちの火箸が触れ合うと、いい音が鳴る。この音をどうにか活かせないか?たどり着いたのが風鈴という答えだった。

それから7年間、最もよく音が響く、いい音が鳴る構造にするために試行錯誤を繰り返し、1970年頃に完成させたのが火箸風鈴だ。

スティービー・ワンダーも絶賛

火箸を風鈴にしたユニークな形状と独特の音色は評判を呼び、著名な音楽家も惹きつけた。

たまたま姫路駅の土産物屋で売られていた火箸風鈴の音を聞いて、その足で工房まで訪ねてきたのは、世界的シンセサイザー奏者の冨田勲氏。

冨田氏は「シンセサイザーでは出せない音がする」と気に入り、ひとつの楽器と同じ扱いで、自身の作品に火箸風鈴の音を取り入れたこともあったという。

冨田氏は、親交のあった海外のアーティストにも、火箸風鈴を紹介。そのひとりがスティービー・ワンダーで、火箸の音色を聞いた時、「近くでなっているのに遥か遠く宇宙から聞こえてくるような東洋の神秘の音色」と感嘆したそうだ。

明珍本舗の火箸風鈴

三男の敬三さんは、大学卒業後の22歳の時、風鈴がヒットして、家業がようやくひと息ついたタイミングで後継者として工房に入った。

それまで本格的に手伝いをしたことはなかったそうだが、やはり血筋なのだろう。父親のもとで学び始めると、職人としてメキメキと腕を上げていった。

「子どもの頃から、朝から晩まで働いている父の姿を見て、『なんとかして、助けたいな』と思っていました。でも、三男だから後を継ぐという意識はなかったんです。そうしたら、一番上の兄は風鈴の最後の仕上げの作業の担当になり、次男は刀鍛冶になりました。

それで思いがけず、僕が継ぐことになったんですよ。だから、現場で仕事を覚えるのに必死でしたね。納得できる風鈴が作れるようになるまでに、15年かかりました」

火箸を金づちで叩いている様子

明珍家の火箸風鈴は、文化庁にも認められた。

日本には、出雲の山奥で日本古来の「たたら製鉄」の技術によって作られている「玉鋼(たまはがね)」という希少で高価な鋼がある。これは刀や甲冑の素材として使われてきたが、現在は主に日本刀の製作に使用されていて、一般には出回っていない。

しかし敬三さんの父、宗理さんには「玉鋼で、最高の火箸風鈴を作りたい」という想いがあった。

最上質の鋼と言われる玉鋼
最上質の鋼と言われる玉鋼

その強い想いと、玉鋼と縁が深い明珍家の歴史と実績により、文化庁から使用許可が下りたのは、1995年。宗理さんが丹精を込めて作った玉鋼の火箸風鈴は、普通の鉄を使ったものとは明らかに違う音色になったという。

取材の際に聞かせてもらったが、確かにそれはもう風鈴とは思えない奥深さを感じさせる、複雑で、かつ心地よい音色だった。

玉鋼で作られた火箸
玉鋼で作られた火箸

おりんと楽器

宗理さんと敬三さんは、明珍家の技術を使ってさらに新しい可能性を見出した。2005年頃、水で錆びないチタン製の花器の製作に挑戦し、その過程でチタンを鍛造するとずいぶんと澄んだ音色が出ることがわかった。

同じ頃、お客さんから仏具のおりん(棒で叩くお椀のような形をしたもの)を作ってほしいとリクエストされていたが、火箸と同じ鉄製だと思ったような音色が出ず、悩んでいた。

そこで開発したのが、チタン製のおりん。偶然が重なってできたものだが、その透明感ある音色は、余韻がひときわ長く続く。

チタン製のおりん

敬三さんはさらに、このおりんからヒントを得て、チタン製の大きな鉢のような打楽器「響(ひびく)鉢」を作りあげた。

これまでにないオリジナルの楽器だが、すでに何度かコンサートなどで使用されており、手ごたえを得ているという。ちなみに、機械でチタンを同じような形にプレスすることもできるが、そうするとなぜか味気のない音しか出ない。

おりんも「響鉢」もひとつひとつ手打ちする
おりんも「響鉢」もひとつひとつ手打ちする

甲冑、火箸、風鈴からおりん、そして楽器へ。平安時代から時の流れに合わせて柔軟に進化してきた明珍家のものづくりが、これからどんな発展を遂げるのか。

予想はつかないが、50年後、100年後もきっと、後継者が炉の傍らで、カンカンカンカンと鉄や金属を打っているのだろう。

明珍本舗

<取材協力>
明珍本舗
兵庫県姫路市伊伝居上ノ町112
http://myochinhonpo.jp/

文:川内イオ
写真:直江泰治

わたしの一皿「強戸窯」強そうな窯が生まれました

みんげい おくむらの奥村さんが選ぶ、群馬「強戸窯」の一皿

奄美大島に滞在しています。自炊の宿に家族でちょっとのんびり1週間の滞在なので、うつわも背負ってやってまいりました。みんげい おくむらの奥村です。

ふだんとちがう食材がたくさんあって、ふだん当たり前のものが当たり前でなかったり。ここらへんのちがいを楽しみながら食事をつくっていこう。

今日は仕事のこぼれ話を。仕事柄、「独立」のシーンに出会う。主に焼き物の窯で。ふだんは窯主とばかり話をしているわけだけど、何年も何度も通っていれば修行をしている人たちのことは自然に知るし、向こうも僕のことを知るわけです。時にはおしゃべりもするし、時には窯主とともにご飯に行ったり、も。

独立の際、「窯ができたら連絡します」なんて、みんな言ってくれるが実際に連絡をくれるのは半分もない。いろんな事情があるんだろうけど、人づてに窯ができたとか、ものが出ている、とか聞くのはけっこうさみしいもんだ。

今日はそんな中で義理堅く連絡をくれた窯。群馬県の強戸窯(ごうどがま)のうつわを使った。窯主の島村さんがろくろを挽いたものは修行時代から扱っていたので、独立を楽しみにしていた。

しかし、ここもなかなか連絡がこなかったのだ。場所も見つかったと聞いていたし、もううちには連絡がないのかな、と思っていたら連絡がきた。うれしいもんです。薪で焚く登り窯を作るのにももちろん時間はかかったが、土選び、釉薬選び、いつのまにか子供が増えていたり‥‥とにかく、時間が掛かったのだそうだ。

時間は掛かったけれども、幸運なことに登り窯は初窯からよい調子で温度が上がるそうで何よりなことだ。

修行地を離れて窯を起こす、というのはまったくゼロからのスタートになる。そこでどんなものを作るのか、作っていきたいのか。応援したい気持ちはもちろんあるが、はたしてうちのお店で扱うことがお互いにとって良いのかどうか。そんなことを時間をかけて話し、考えていく。なのでこちらの窯はうちでは正式な取り扱いとしてみなさんにお披露目はしていない。ここで初公開となる。

群馬県強戸窯のうつわに盛り付けたサラダ

料理に戻ろう。今回は奄美の素材を盛り込んで簡単なサラダに。色がいいでしょう。自分でも納得の色合わせです。あ、味ももちろんのこと。

奄美大島の素材ハンダマをメインに

ハンダマという奄美ではスタンダードな野菜をメインに。沖縄でも九州南部でも食べますね。緑と紫の葉が美しい。熱を加えると少しぬるっとしてそれまたおいしい。炒め物にしてもいいんですよ、これ。

そこにこれまた地元で取れた若い春菊。鹿児島ではよく見られる金柑、島で作られる固めの豆腐。東京あたりでこれをやろうと思ったらなかなか食材集めも大変ですが、ここでやるならとっても簡単。おまけに季節の地元のものだから安くておいしいんだもの。言うことなし。

調理風景

ハンダマと金柑はお行儀よく包丁で切ったけど、春菊と豆腐は手ちぎりです。オリーブオイルがよく絡むから。いや、面倒だから。どっちもです。

ちなみにクセのある野菜と柑橘のサラダはよくやります。野菜は生よりも温野菜の方が圧倒的に好きだけど、これはもりもり生野菜と果物が食べられるので。

群馬県強戸窯のうつわ

今回使った皿はこちら。2018年の窯焚きのもの。うつわの形は修行時代に挽いていたものに近いけれど、総じて新しい顔になっている。これからもどんどんと新しい顔が生み出されていくのかな。

5年、10年後の強戸窯のうつわはどんなものになっているだろうか。強戸窯の強戸(ごうど)は地名。この土地を感じられるようなうつわが生まれる、地域に愛され、地域を広める、そんな窯元になっていくのだろうか。次の訪問も楽しみだ。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍

*こちらは2019年5月14日の記事を再編集して公開しました。食材の彩りはもちろん、うつわとのバランスが美しいですね。

沖縄のうつわ、やちむんの魅力と歴史を豆皿から知る

特集「産地のうつわはじめ」から、沖縄「やちむん」をご紹介

中川政七商店の全国各地の豆皿
11窯元の豆皿をご紹介していきます

使いこむほどに親しみ深い沖縄の「やちむん」

「やちむん」とは、琉球の方言で「焼き物」をあらわす言葉。

厚みのある手取りと素朴な佇まいには、独特の安定感があります。どんな料理でもどっしりと受け止め、使いこむほどに親しみが増していくうつわ。そんな「やちむん」の魅力は、沖縄の風と土から生まれた自然の贈り物といえるのかもしれません。

※「やちむん」について、さらに知りたい方はこちら

琉球王朝時代に開かれた壺屋焼

やちむんを代表する壺屋焼(つぼややき)は、沖縄県那覇市壺屋地区や読谷村(よみたんそん)などで焼かれる沖縄を代表する陶器をいいます。

琉球王朝が海外と盛んに交易をしていた14世紀から16世紀ころ、中国や南方諸国の陶磁器が豊富に持ち込まれ、各国の焼き物技術が伝えられました。

17世紀、琉球王朝が産業振興の目的として、沖縄各地に分散していた窯場を市街の一角に固め、「やちむん」と呼ばれる焼き物街をつくりました。これが壺屋焼の始まりといわれています。

素焼の「荒焼(あらやち)」と施釉の「上焼(じょうやち)」

壺屋焼には大きく分けて「荒焼(あらやち)」と「上焼(じょうやち)」の2種類があります。

「荒焼」は南蛮焼ともいわれ、釉薬をかけずに1000度前後で焼き締めたもので、陶土の生きた表情が魅力的です。

沖縄の焼き物の主流とされる「上焼」は、陶土に白土をかぶせて白化粧や唐草文、点打などの絵付けをし、1200度以上の高温で焼き上げます。いずれも日常生活用品として、人々の暮らしを支えています。

共同体による「やちむんの里」構想

沖縄が日本に返還された1972年、全国的にも社会問題となっていた公害対策のため、那覇市では薪窯の使用を禁止。住宅密集地でもある壺屋地区ではガス窯への転換を余儀なくされ、壺屋焼は存続の岐路に立たされました。

そのころ、基地返還された土地の活用を模索していた読谷村は、「ゆいまーる(沖縄の方言で相互扶助の意味)」の精神に基づく「やちむんの里」構想を立ち上げ、薪窯の設置にも柔軟に対応し、積極的に窯元の誘致を行ったそう。

原料となる陶土が良質で豊富だったことも後押しとなり、賛同した陶工たちは、読谷村で共同の登り窯を築きました。

現在、読谷村には数十件の窯元が集まり、薪を使った登り窯の伝統を受け継ぎます。一方、壺屋地区の窯元では釉薬による新たな可能性を探求し、それぞれに「壺屋焼のいま」を感じていただけます。

昔ながらの製法で伝統的な模様を描く「陶真窯」

やちむんの豆皿

読谷村座喜味(ざきみ)に窯を置く「陶真窯(とうしんがま)」は、独特の赤絵や染付け・魚紋・イッチンを得意とする窯です。

若手を中心に「常に新しいものを」を合言葉に琉球のやちむん普及に取り組みます。

昔ながらの製法の釉薬で描かれた伝統的な3種類の模様。唐草・縞・水玉の豆皿からは、琉球の風土に包み込まれるような、懐かしさが漂います。

豆皿の写真は、お料理上手のTammyさんが撮ってくださいました。他にも普段の食卓のコーディネイトの参考になるような写真がたくさんあります。Instagramも、ぜひ覗いてみてください。

文:中條美咲

*こちらは2019年1月25日の記事を再編集して公開しました。

「いい毛布」は何が違うのか?国産毛布の9割を作る泉大津で聞いた、毛布の歴史

国産毛布のシェア90パーセントを占める一大産地、泉大津市

サウナに入っているような蒸し暑い夏が終わり、涼やかな秋の気配が漂ってくると恋しくなってくる、優しい毛布の手触り。ヒンヤリとしたベッドや布団に横になり、フワッとした毛布に身をくるむ瞬間を思い浮かべると、なんとも幸せな気分になる。

綿、ウール、キャメル、カシミアなど毛布にもいろいろな素材のものがあるが、お気に入りはあるだろうか?

実はどんな素材でも、国産毛布のほとんどは同じ地域で作られている。国内で生産される毛布のシェア90パーセントを占める、大阪の泉大津市だ。

今新毛織の三代目、今井基樹さん
今新毛織株式会社 代表取締役 社長 今井基樹さん

「泉大津市って非常に小さい町で、人口が約7万5,000人、12キロ平米ぐらいしかないんですよ。50年ぐらい前は、この狭い地域で年間3300万枚作っていました。その頃は日本の人口が1億人ぐらいだったと思うから、3人にひとりが毛布を買っていた計算ですね」

1950年創業、泉大津市にオフィスと工場を構える今新毛織の三代目、今井基樹さんが教えてくれた。3人にひとりとは、とてつもない数である。なぜ、この小さな町が毛布の一大産地になったのだろうか。

歴史を振り返ると、もともと大阪平野の南部にあたる河内泉州は、海が近く、稲作に適していなかったこともあり、室町時代から綿花の栽培が盛んな土地だった。

その起源は、平安時代に弘法大師・空海が遣唐使として唐から持ち帰った綿の種をこの地で蒔いたのがきっかけと言われている。

最初の毛布は、牛の毛でトライ

綿ができれば、織物が生まれる。江戸時代には、良質な和泉産の綿花を紡いだ綿織物「和泉木綿」や、戦国武将の真田幸村が開発したと言われる「真田紐」の生産地だった。

その「織物」の技術を生かして毛布を作り始めたのは、海外から毛布が伝わった1886年頃と言われている。

「海外から伝わった毛布は羊毛だったんですが、その当時、日本には羊がいなかった。それで牛の皮から毛を取って毛布を作りました。

それがもう臭いし硬くて、むしろのような感じで、なかなか最初はうまいこといかなかったんです」

硬くて臭い牛の毛布は使いたくないが、その試行錯誤は無駄にならなかった。日本が開国し、海外と貿易をおこなうようになって羊毛が輸入されるようになると、間もなくして泉大津が生産の中心になっていく。

「もともと織物の技術がありましたし、綿織物でも毛布でも、たくさん作ろうと思うとかなりの水が必要になるんです。このあたりは泉州と言うぐらいで湧水が豊富だし、紀ノ川、大和川もあって水が豊富やったちゅうのも、毛布産業が発達した要因ですね」

明治から昭和初期にかけては軍需もあって一気に毛布の生産量が増大し、戦後の復興と経済成長がさらに需要を増した。

時代に逆行する、初代の大勝負

大量に生産するためには、分業が効率的だ。泉大津市では製糸、機織り、染色、縫製、贈答品の箱詰めなど、細かな分業化が進んでいった。

その流れに逆行するように、1955年(昭和30年)、糸から織り上げ、染色して毛布に仕上げる一貫体制を築いたのが今新毛織だった。

今新毛織
集落のように広い今新毛織の工場。ここで様々な工程が行われている
今新毛織
織りの工程
国産毛布の生産 今新毛織の工場
染色の工程

「その頃は今年100枚売れたら、来年は150枚みたいな時代だったんです。それはほかの会社も同じだから、染色整理の工場の取り合いになるんですよね。それで初代にあたる祖父が、こんなんしてたらあかんわ、と染色整理の子会社を立ち上げたんです」

今井さんによると、染色整理の工場は、工業用水が必要になる。これは年間契約になるため、稼働日ゼロでも毎月同じ金額が差し引かれる。ボイラーなどの設備を含めて大きな投資だったが、これが後になって活きた。

毛布には織毛布(おりもうふ)とマイヤー毛布の2種類がある。

織毛布はトラディショナルな方法で織られるもので、特にウール、カシミア、シルクなど動物の毛を使った毛布はこの方法で作られる。今新毛織は、織毛布のメーカーだ。

今新毛織の織り機

一方50年程前に、織毛布よりもスピードアップし、コストを下げるために登場したのが主にポリエステルやアクリルの繊維で作られるマイヤー毛布。泉大津でも、大量生産するためにマイヤー毛布の業者が増えた。

動物の毛を使った織毛布とアクリルのマイヤー毛布、どちらも国産ながら、大きな違いがあるという。

「動物の繊維は、天然の吸湿発熱があるんですよ。暖かくなって汗をかいたら、その湿気を吸って発散してくれる。蒸れないようになっているわけです。

化学繊維の場合は、蒸れてくるんですよね。あと、織毛布は耐用年数も長くて10年から15年は使えます」

手間と時間がかかって高価な織毛布と、量産に適した手ごろな価格のマイヤー毛布。当時はどちらも売れに売れたが、1970年代をピークに泉大津市の毛布の生産枚数はがくんと落ち始める。

海外から安い毛布が入ってきたのだ。特に、価格勝負をせざるをえなくなったマイヤー毛布の業者は大打撃を受けた。

1社で国産毛布の1/7を生産

現在、泉大津で作られている毛布は年間およそ140万枚。最盛期の20分の1ほどに落ち込んでしまった。今井さんによると、現在、市販されている毛布のうち、国産のものは20パーセント程度しかないそうだ。

今新毛織

需要の低迷に加えて、高齢化、後継者不足で廃業が相次ぎ、泉大津の分業体制も弱くなってしまった。東日本大震災の時、自衛隊用の毛布15万枚の注文が入ったそうだが、泉大津の毛布産業に関わる企業だけで対応することができなかったという。

そのなかで、織毛布をつくる業者のなかでは日本で唯一の一貫体制を持ち、それを維持してきた今新毛織は、安定した生産能力と仕事の質の高さが評価され、寝具問屋で一番大きな某企業と提携している。

そのため、国産毛布市場が低迷するなか、現在も年間20万枚を生産する。1社で全体の生産量の7分の1を担っているのだ。

今新毛織
ウール、カシミア、シルクなど様々な種類の織毛布を生産する

初代の先見の明の賜物ともいえるが、同時に、こんな風に考えることもできるのではないだろうか。

睡眠は、誰にとっても最大の休息だ。その大切な時間を心地好く過ごすために、人はきっと意識的にも、無意識でも、肌触りがよく、快適な織毛布を選ぶのだ。そして一度手にしたら、もう手放せなくなるのだろう。

なぜそう考えたのかというと、今井さんが見せてくれた1枚100万円のカシミアの毛布の触り心地が、これまでに感じたことがないほど気持ちよかったから。

中国の新疆ウイグル自治区で年間200、300キロしか取れない最高級のカシミアを使っているそうで、触れた瞬間に「今すぐこれにくるまりたい!」と思える繊細で優しい温もりがあった。もし自宅にこの毛布があったら、毎晩、眠りに就くのが楽しみだろうなと思ったのだ。

キャリア60年の起毛師

上質の寝心地を追求するために、素材の良さに頼らず、毛布自体も進化させている。

「いま、羽毛布団を使っている人も多いと思うんですけど、羽毛布団は非常に軽いじゃないですか。それと合わせて毛布を使ってもらうために、どんどん軽くなっています。

毛布は横140センチ、縦200センチの2.8平米なんですね。僕が高校生の頃はそれでだいたい1.8キロ程あったんですよ。今はもう1キロを切りますからね」

同じ大きさの毛布を軽くするために、どうするのか。使う糸を細くするそうだ。最近の毛布は、服を作るのと同じぐらいの細さの毛糸を使っているという。糸が細くなるということは縫う回数が多くなるため、以前より時間がかかるようになった。

それだけではない。毛布の独特の肌触りは、針の上に毛布地を通して毛羽立たせることで生まれる。細い糸は強度も低いため、切れやすい。

その繊細な仕事を担うのが「起毛師」という職人だ。今新毛織には起毛師歴60年のベテランがいて、起毛に関しては生き字引だという。

起毛師歴60年のベテラン職人

「機械を回してばあっと毛羽立たすだけやったら、3、4年すりゃ一人前になるんやけども、動物の毛なんで、ウールにしてもカシミアにしても、同じように見えてもやっぱり違ってくるわけですよね。

それに合わせて機械を調整したり、小さな異変に気付いたりというのは、彼に聞かなきゃわからんこともある。技術顧問みたいな存在やね」

70代半ばにして、現場に立ち続ける起毛師。どうやって変化を見抜くのかを聞いたら、「だいたい手触りやな」。

このシンプルな言葉の裏側にはきっと、何百万枚にも達する「手触り」のデータが蓄積されているのだろう。

起毛師歴60年のベテラン職人

今新毛織の挑戦

今新毛織で作る毛布はすべて、寝具問屋を通して全国に卸されているが、新しい試みも始めている。例えば、アパレルメーカーと組んで洋服の生地を作っていて、その生地を使った服はパリコレでお披露目された。

<pまた、工芸メーカー中川政七商店と組んで、片面はウォッシャブルのウール、片面は綿という裏表異なる素材を使ったブランケットも作った。これも抜群の肌触りで、冷房の効いたオフィスで使用する女性から好評だという。

毛布を作って69年。今新毛織の毛布で眠りについた人はどれぐらいいるだろう。

今年も、もうすぐ気温が下がり始める。今年はちょっといい毛布を買ってみようかな。今井さんに見せてもらった夢見心地になる毛布の手触りを思い出しながら、そう思った。

今新毛織

<取材協力>
今新毛織株式会社
大阪府泉大津市清水町10-67

 

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文:川内イオ
写真:中村ナリコ、TOP写真:中川政七商店

フレッシュな「どら焼き」を味わいに、阿佐ヶ谷「うさぎや」へ

こんにちは。細萱久美です。

和菓子派か洋菓子派か、と聞かれることがあります。私はどちらも好きで、特にクラシックな菓子が好みです。洋で言えばプリン、シュークリーム、パウンドケーキなど。和で言えばどら焼き、大福、わらび餅。ここ数年進化の激しいかき氷でも、宇治金時やイチゴなど、伝統工芸ならぬ伝統菓子を勝手に重んじています。

それらには少しばかりうるさくて、どこのでも美味!とはならず、結果老舗と言われる店のお菓子が好物となることが多いです。

100歳で亡くなった京都の祖母は、小魚などを好む健康的な食道楽でしたが、漬物は○○、蕎麦は△△、上生のきんとんは□□、などほぼ決まった店を贔屓にしていました。タクシー会社も決まっていたのは孫ながら驚きでした。

私は、そこまでの固執はないものの、歳を重ねるほどに特に食に関しては保守的で、老舗への信頼感が強まっています。食は一期一会なので、いつでも裏切らない味を長年保ち続けていることには尊敬の念を抱きます。

東京都阿佐ヶ谷 うさぎやのどら焼き

祖母に習い、ほぼ同じ店から浮気をしていない和菓子の一つが、「どら焼き」です。ご贔屓は阿佐ヶ谷の「うさぎや」。実家のある三鷹から電車で10分程度なので、どうしても食べたくなると気楽に買いに行けるほどの距離。

どら焼きはハレの菓子ではなく、ケの菓子なので、気取った店ではなく地元に根付いた素朴な店が似合います。うさぎやは、店構えもまさにそんな感じ。

阿佐ヶ谷の「うさぎや」外観

気取りのないガラスの引き戸をガラガラと開けたら、中には小振りですが、お手入れされているショーケースに、どら焼きだけでなく季節の生菓子や、定番の可愛らしいうさぎ饅頭が並びます。

阿佐ヶ谷「うさぎや」のショーケースに並ぶ和菓子

どら焼きは大ぶりですが、あまりの美味しさにいつも2個目に手が伸びそう。皮はしっとりと弾力があって、きめが細かくパサつき感は一切ありません。ハチミツやみりんが効いているのでしょうか。

そしてたっぷり入った粒あんは、初めて食べた時「みずみずしい粒あん」という印象でした。しっとりしているので、皮に程よく馴染んでいます。しっかり甘みもありつつ、くどさがなくバランスが良いので飽きがありません。

阿佐ヶ谷「うさぎや」のどら焼き
阿佐ヶ谷「うさぎや」のどら焼き

次の日は餡の水分が落ち着いてきて、馴染んだ美味しさがありますが、是非とも当日出来立てのフレッシュなどら焼きを食べていただきたいと思います。

店内で味わう、ローカル名店ならではの楽しみ

生菓子ゆえ通販もなく、百貨店などへの出店や催事さえも恐らく無いので、店に行かねば食べられぬ味。地方でも観光地には訪れる機会があっても、東京のどちらかと言えば住宅地には、よほどでないと行く機会が無いものです。

東京に住んでいても、近くて遠い、これぞローカルという感じもありますが、和菓子や餡に目のない方には是非一度お試しを。遠路はるばるでもその価値あり。店内でお茶することもできるので、ひと休みしてください。

阿佐ヶ谷「うさぎや」店内

ちなみにどら焼きの名店として有名なうさぎやは、日本橋・上野・阿佐ヶ谷の3箇所に同名店舗が存在するのはご存知でしょうか。どうやら親族関係はあるものの、本店、支店などの関係ではなく、それぞれ独立して店舗で、材料や製法も違うそうです。

日本橋のどら焼きは食べたことがありますが、美味しいけれど、場所柄かいつものおやつ、というよりも箱入りのおもたせの用途が多そうです。あくまでもお好みは人それぞれ。

阿佐ヶ谷のうさぎやでは、どら焼きの袋にうさぎの絵があるのと、自家用の飾らない素朴な包みも好み。寒天、こしあん、求肥の潔いあんみつも店のイメージにぴったりです。

阿佐ヶ谷「うさぎや」の袋
阿佐ヶ谷「うさぎや」のあんみつ

平日でも入れ替わり立ち替わり来店が途切れず、接客の女性数名がチャキチャキと対応されているのも気持ちが良いのです。

阿佐ヶ谷が比較的近いということ以外に、お店とお菓子とデザインのトータルな「らしさ」が、私の中でリピートしたくなる良店という存在です。

<紹介したお店>
うさぎや
東京都杉並区阿佐谷北1-3-7
03-3338-9230

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

Instagram

文・写真:細萱久美

*こちらは、2019年4月10日公開の記事を再編集して掲載しました。同じどら焼きでもお店によってこだわりは違うもの。自分のお気に入りを見つけに出かけてみてはいかがでしょうか。