京都の老舗染物屋に嫁いだ現代美術作家。挑戦するのは「ケイコロール」という名の新事業

2009年、ひとりの現代美術作家が京都の染物屋に嫁いだ。それが90年以上の歴史を誇る、「山元染工場」の新たな歴史の幕開けとなる。

京都・壬生(みぶ)。新撰組ゆかりの壬生寺や旧前川邸をはじめ、名所旧跡が数多く残る歴史の舞台と、古くからこの地に住む人々の日常が共存するような独特の息遣いが感じられる。

そんな住宅街の一角に佇むのが「山元染工場(やまもとせんこうじょう)」。今や全国に3軒しかないという「舞台衣裳」を専門にした染め工場だ。

京都・壬生の山元染工場

創業は1930年(昭和5年)。数々の映画や舞台、国民的ドラマでヒロインがまとう着物といった、誰もが一度は目にするであろう作品の衣裳を手掛けるほか、地域の祭りで羽織る法被や、身丈を変えた古い着物の再現など、「染工場」といいつつ、衣裳制作に関わるほぼすべてを請け負っている。

そんな歴史ある染物屋に嫁いだのが山元桂子さんだ。

ケイコロールを主宰する山元桂子さん
ケイコロールを主宰する山元桂子さん

現代美術作家が見た、クリエイティブな世界

大学で現代美術を学んだ桂子さんにとって、舞台衣裳制作の世界は何もかもが新鮮だった。

本来、舞台衣裳制作はデザイン、染め、仕立てそれぞれの工程に専門の職人がおり、完全な分業制で行う。

だが、山元染工場はそれを受注から納品まですべて一括で請け負っている。これが工場最大の特徴であり、舞台衣裳制作の専門店として、京都で最後の一軒になるまで続いている理由といえよう。

舞台衣裳は作品内のキャラクターの人柄や性格、生い立ち、時代背景まで柄で伝える重要な役割を担う。それをひとつずつひもとき、依頼者の漠然としたイメージから、具体的な柄や配色などのデザインにまで落とし込む。

台本もままならない段階で請け負うことも多いその工程を目にした桂子さんは、驚きを隠せなかったという。

「なんてクリエイティブな世界なんやろうと。でも、そうやって相手のイメージを具現化していくことも、染めや仕立てまですべて行うことも、本人たちにとっては当たり前なんです」

しかしどんなに素晴らしい技術を継承しても、それが一般の人々の中で脚光を浴びることはほとんどない。

そんな山元染工場の世界を、「違う角度から伝えたい」と2016年にテキスタイルブランド「ケイコロール」を立ち上げた。

日本映画発祥の地で初代が選んだ道

東映や松竹など名だたる映画会社が撮影所を構えた京都において、初代の山元光は舞台衣裳制作という市場を見出し、それに特化する形で呉服業界との差別化を図った。

数百年の歴史の中で培われた室町一帯の着物文化とは、根本的に違う道を歩むことになったのだ。

呉服とは、朝廷や貴族、武家といった上流階級の人々が身につける装束もあれば、庶民が身にまとう普段着まで幅広い衣裳のことを指す。

一方、舞台衣裳とは限られた人しか身につけない、いわばその道の「プロ」だけがまとう衣裳のこと。同じ和装を手掛けていながら、考え方も技術もまったく異なるのだという。

そして、受注から納品まで一括で請け負うという形でさらなる差別化を図った初代は当時、衣裳用のデザインを手掛ける絵師を出入りさせ、常に新しい柄を制作させたそう。

初代から受け継がれてきた型紙の柄を記したデザイン書
初代から受け継がれてきた型紙の柄を記したデザイン書

現代美術として蘇る、数々の文様

初代からの伝統を受け継ぎ、蓄積された型紙の数はなんと10万枚以上。舞台衣裳の柄は独特で、デザイン性も高く、普遍的なもの。それを生かさない手はなかった。

代々受け継がれてきた10万枚以上の型紙
代々受け継がれてきた10万枚以上の型紙
新選組の「だんだら羽織」でお馴染みのだんだら模様を表す型紙
新選組の「だんだら羽織」でお馴染みのだんだら模様を表す型紙

山元家の家宝ともいえる型紙を駆使し、目の覚めるような色で独自の世界観を表現していく桂子さん。柄の配置や色の組み合わせなども、すべて頭の中で組み立て、その時の感覚で染めていくのだそう。

山元桂子さん
作業風景

ひとつひとつが手作業なので、同じ型紙を使ってもそれが同じ柄になることはないという。すべて一点物のオリジナルだ。

様々な柄の生地

2本の柱で、染工場を続ける

「最初は浮き沈みの激しい舞台衣裳制作を支えるつもりでケイコロールを始めました。でも、もっと欲張ってもいいのかなと。メインとかサブとか思わんと、ひとつの事業としてケイコロールを展開したい」

山元染工場の2本の柱のうちの1本として、ケイコロールを確立する。それが、山元桂子が山元染工場に嫁いだからこそできることだという。

もちろんケイコロールそのものも、初代から培われた技術と、それを受け継ぐ人々の理解があってこそ実現できる。

四代目にあたる夫の宏泰さんと母の久仁子さんは、桂子さんの活動に寛容だ。大学院を卒業し、25歳まで現代美術作家として活動していた桂子さんに「美術活動を続けたらええよ」と言ってくれたのだという。

四代目の山元宏泰さん
四代目の山元宏泰さん。桂子さんの活動を温かく見守る

一方の桂子さんは、歴史ある京都の染物屋という厳格な世界に飛び込んできた「新参者」だ。

長い伝統を持つ家に嫁ぐことに関して、身構えてしまうのかと思いきや、「ほんまにアホやったんで、何も考えてなかったんです」と笑っていた。

宏泰さん親子の寛大さと、桂子さんの適度な鈍感さが、より自由な発想を生み出しているのかもしれない。

「映画自体も減ってきているし、遠慮せんと、新しいことを始めていかんと」と桂子さん。

怖がることなく、時には伝統にメスを入れるように、新しいことに挑戦する。
そうして「ケイコロール」は生まれ、山元染工場には2本の柱ができた。

工場内の様子

舞台衣裳と、テキスタイル。宏泰さんは受け継がれた伝統を、桂子さんは新しい感性を大事にしながら、それぞれの柱を築いてきた。

そしてその2本の柱は、同じ場所で互いを支えあい、共存している。

山元宏泰さんと山本桂子さん

90年以上受け継がれた伝統柄が、カラフルでポップな真新しい表情を見せている。

<取材協力>
山元染工場
京都市中京区壬生松原町9-6
075-802-0555

文:佐藤桂子
写真:桂秀也

創業303年の中川政七商店が、渋谷の新基幹店で伝えたい「今の工芸」の魅力とは

ピコン。1通のメールが届いた。

「中川政七商店が全力でつくったお店ができました」。

同店関係者がくれたこの短い文言にいてもたってもいられず、訪れたのは11月1日開業の東京・渋谷の新名所「渋谷スクランブルスクエア」11階。エスカレーターを降りると目の前には広大な空間が気持ちよく広がった。

広さはおよそ130坪。これまで全国各地の800社を超えるつくり手とともに手がけてきた4000点もの商品が一堂に介する日本最大の旗艦店「中川政七商店 渋谷店」である。

あぁ‥‥どこから見たらいいのだろう。奥に並ぶ麻製品も気になるし、横手に見える豆皿のディスプレイにもうずうず。

店内は創業地である奈良の町並みをイメージし、あえてクランクをつくり、角を曲がると違う景色が広がる空間デザインを取り入れているという。

えいや。まずは正面に足を踏み入れることにした。

「こんなものあるんだ!」のきっかけに

1716年創業の中川政七商店が、東京・渋谷の大都会において掲げたコンセプトは“日本の工芸の入り口”だ。

より多くの人に「へー、こんなものあるんだ!」と出会ってもらい、「あの産地でつくられているのか」と知ってもらうこと。そして実際に目で見て、触れて、体験することで工芸との距離を縮める一つのきっかけになれば。そんな思いが込められているという。

渋谷に開かれた日本の工芸の入り口。その間口はとにかく広く、多彩で、しかも面白いことになっていた。

中川政七商店 渋谷店の企画展

たとえば、中央の手前付近は企画展を行うスペースに。オープン初回は「中川政七商店が残したいものづくり展」が開催されている。

「中川政七商店が残したいものづくり ものづくりの途中展」の展示内容
どんな素材を使い、どのような技術、どのような思いでつくられているのかが分かる

これまで全国各地のつくり手とともに手がけてきた商品をいくつか取り上げ、商品づくりの成り立ちやアイデアをはじめ、構想段階のデザインスケッチ、試作品から商品ができるまでのプロセスを視覚的に楽しめるようになっている。

中川政七商店の歯ブラシスタンド
歯ブラシスタンドは、実は漁獲網に欠かせないアレだったとか

上写真の左上にある茶色い陶器は、同店でも人気の歯ブラシスタンドだが、元は漁師が使う漁獲網についている錘(おもり)。

そのものの美しさに惹かれた担当者がつくり手を探し出すと、岐阜県多治見にある高田焼きの工房で一つ一つ丁寧に削り出されていたという。

海の中で使われているものゆえ水回りに最適だし、嵐にも耐えうる耐久性を併せもつ。そのものの本質を生かし、なおかつ現代の暮らしに寄り添うものづくりと照らし合わせて生まれたのが、歯ブラシスタンドなのである。

思わず「へー!」を連発していたことは言うまでもなく。さらには「はぁ~」「なるほどね」と感嘆せずにはいられず、展示スペースで長い時間を過ごしてしまうが、ここはまだ“入り口”の序の口だ。奥はまだまだ深い。

伝えなければ失われてしまうかもしれない危機感

中ほどに進むと立派な銅板の吊り天井。入り口中央の広い通路はお寺に続く参道を連想させ、その先にお堂を模した、その名も「仝(おどう)」がお目見えするという流れになっている。

中川政七商店 渋谷店 店内

ここは日本の“今”を代表する品々を取り揃えたブース。バイヤーである「method」の山田遊さんが全国各地を巡り、吟味して選んだものたちがズラリと並ぶ。

仝(おどう)内の展示

繊細な手仕事が生み出す美しい竹細工「鉄鉢盛りかご」(大分)や、日本の伝統美にフィンランドデザイナーの感性を取り入れた南部鉄器の「ケトル」(岩手)、千年の歴史をもつ和紙の生産地で育まれた紙のバッグ「SIWA・紙和」(山梨)など。そして、なかには“絶滅危惧種”といえる工芸も。

千葉県君津市久留里で江戸時代から続く伝統的工芸品「雨城楊枝」
額装すれば趣のあるアートに

千葉県君津市久留里で江戸時代から続く伝統的工芸品「雨城楊枝」はその一つだ。

材料である黒文字の皮の黒さと樹肉の白さを生かしてさまざまな細工が施されている。黒文字の皮を削って「白魚」と命名するあたり、日本人の粋なセンスを感じる逸品だ。

島根県雲南市吉田町の稲わら細工「鶴亀のしめ飾り」
亀のほかに鶴をかたどったしめ縄もある

こちらは島根県雲南市吉田町の稲わら細工「鶴亀のしめ飾り」。毎年5月に出雲大社の拝殿に奉納される縁起物。伝統的な編みの技術で一つ一つ手作業でつくられる名品である。

いずれも、つくり手はわずか数名程度。後継者はいないものが多い。

このままでは、日本の工芸の世界は立ちゆかなくなるかもしれない。長きにわたりつくられてきたものが失われてしまうかもしれない。そうした危機的状況を伝えることも「仝」の目的の一つだという。

──「仝」とは“繰り返し”を意味します。過去数百年、数千年と名もなき人々が作ってきた工芸の歴史の続きにありながら、同時にアップデートを繰り返す。そんな“今”の工芸に出会える空間です──(HPより)

また、methodならではの遊び心溢れたセレクトも並ぶ。まず目についたのは壁にかけられたOPEN STUDIO「ホッケーほうき」(熊本)だ。

熊本のOPEN STUDIO「ホッケーほうき」
電気も使わず、音も気にならない。ほうきには邪を“掃き出す”という意味も

柄に使い慣らされたホッケースティックが使われたユニークなほうきである。インパクトのある見た目もさることながら、握りやすいという利便性も兼ね備え、掃き心地も抜群。ついつい掃除をしたくなる、そんな代物だ。

北海道のお歳暮の定番である新巻鮭の木箱を再利用したティッシュケース
部屋にこんなティッシュケースがあったら‥‥

北海道のお歳暮の定番である新巻鮭の木箱を再利用したティッシュケースも面白い。ギター職人と宮大工のユニットによるプロジェクト「ARAMAKI」が、日々の暮らしを豊かにすることを目指してつくったプロダクトである。

このように「仝」では、昔ながらの伝統を感じることができる一方で、わくわくするような新しい工芸に出合うこともできる。季節ごとにラインナップも変わるというから楽しみでしょうがない。

自分だけの工芸を“おあつらえ”!

お楽しみはまだまだ続く。渋谷店には「おあつらえ処」が設けられている。

中川政七商店といえば300年以上前に奈良特産の高級麻織物の卸問屋として創業し、以来、時代の流れのなかでものづくりを続けてきた会社である。

実はこれまで、同社がつくる麻生地を使ってのれんやタペストリーをつくりたいという声が多く寄せられていたこともあり、初めて実現したという。

中川政七商店 渋谷店の「おあつらえ処」

ここでは生地24メートルを織り上げるのに1カ月以上かかるという希少な「手績み手織りの麻生地」を用意。十数種類のなかから好みの色を選び、組み合わせるなどして、自分だけのタペストリーやのれんのほか、座布団をあつらえることもできる。

また、渋谷店限定のオリジナル商品も充実。

渋谷店店内

なんといってもおすすめは「張り子飾り 渋谷犬」だろうか。

渋谷店限定商品「張り子飾り 渋谷犬」
どの子にしようか‥‥迷うこと請け合いだ‥‥

加賀人形と金沢の郷土玩具のつくり手である石川県の老舗「中島めんや」と共に製作した渋谷犬は一つ一つ手描きゆえ、表情が微妙に違うところが愛らしい。

尻尾が揺れ動く仕様になっていて、喜んでいるように見えるところもまたたまらない。

ちなみに小さいタイプは陶製の「渋谷犬みくじ」。中には待ちあわせにちなんだおみくじが入っている。

中川政七商店の渋谷犬
渋谷犬みくじ

ほかにも奈良の特産品であるかや織を用いてスクランブル交差点に行き交う人々を描いた「かや織りふきん」や、和歌山の織物工場と共同製作した麻100%のハンカチ「渋谷スクランブル交差点motta」なども用意。

ハンカチには先に紹介したおあつらえ処でイニシャルをはじめ、渋谷犬や行き交う人々など5種類の刺繍をオーダーすることも。

中川政七商店 渋谷店 限定のmotta
渋谷スクランブル交差点motta
中川政七商店 渋谷店 オリジナルハンカチ刺繍

‥‥と、ここまで書いてきて不安が残る‥‥。なぜなら、

渋谷店店内

店内にはほかにも中川政七商店が残したい品々が並び、その背景には語り尽くせないほどの物語があるのだから。

ぜひ、ご自分の目で見て、手で触れ、ときに舌で味わいながら、いくつもの“出会い”を楽しんでほしい。

東京・渋谷のど真ん中。日本の工芸の世界が口を大きく開けて待っている。

<店舗情報>
中川政七商店 渋谷店
東京都渋谷区渋谷二丁目24-12 渋谷スクランブルスクエア 11階

中川政七商店 渋谷店限定商品

文:葛山あかね
写真:中村ナリコ

中川政七商店の教育事業「経営とブランディング講座」とは

「日本の工芸を元気にする!」ためには、できるだけ多く中小工芸メーカーを再生できる人材を育成することが急務である、と中川政七は感じていた。そこで中川が塾長になり経営、クリエイティブ、売場までを考えて結果を出せるプロデューサーを育てる教育プログラム「コトミチ」が始動。

その背景に加え、「コトミチ」を実際に体験し、経営に反映した5つの事例を紹介します。

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中川政七塾長が語る。教育事業「コトミチ」の価値と手ごたえ

 

新潟県三条市に新しい風が吹いている。中川政七が塾長となり、経営、クリエイティブ、売場までを考えて結果を出せるプロデューサーを育てる教育プログラム「コトミチ」。改めて「コトミチ」の成り立ちと意義、目指すものについて話を聞いた。

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大ヒット商品「TSBBQ ホットサンドメーカー」はいかにして生まれたか?

 

漁具の金物卸商からのスタートした三条市の山谷産業は、キャンプ用テントのペグを大ヒットさせ、さらに新しい領域でもヒット商品を開発。その裏側にあった想いとは。

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老舗の八百屋がつくったドレッシング。新ブランド「半吾兵衛」の誕生秘話

 

フレッシュでジューシーな野菜と果物の風味そのままに、赤ちゃんからお年寄りまで楽しめる安心、安全なドレッシングを実現したのは、新潟県三条市の野島食品です。

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三条市 ステンレス黒染め 96KURO

軽くて割れない黒のうつわ。町工場発の新ブランド、「96 -KURO」のデビュー秘話

 

「ステンレスの黒染め」という全国的にも珍しい技術。メーカーになりたい、という思いを胸に、自社製品へ乗り出した新潟県三条市の町工場の姿を追いました。

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魅せるキッチンツール「DYK」で、三条市の老舗大工道具商社が挑む新市場

 

創業1866年、のこぎり鍛冶としてスタートした株式会社高儀。この老舗が新たに手掛けるのは、デザイン性に富んだキッチンツール「DYK(ダイク)」だ。その誕生の背景に迫ります。

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燕三条 デザイナー堅田佳人さん

仕事が集まる新潟のデザイナー。彼が実践したのは『経営とデザインの幸せな関係』だった

 

「新しくていいものを作ったのに、なかなか思ったようにお客様への訴求ができない」。そんな課題を感じていたのはクリエイティブディレクター、プロダクトデザイナーの堅田佳一さんでした。「コトミチ」から得たヒントとは。

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キッチンばさみ「とりあえず」から乗り換えるなら、この一本

こんにちは。細萱久美です。

家にいる日は台所に立たない日はありませんが、手にする頻度が一番多い台所道具は、キッチンばさみかもしれません。

使用時間にしたら短いですが、使用回数が多いのと、毎日必ず使っている気がします。無いと困る調理道具の一つです。

ただし調理と言えるのは海苔や昆布を切る程度で、大かた袋を切ることに使っています。現代では袋に入っている食材が相当多いこともあり、昔に比べてどこの家庭でも必需品になっているかもしれません。

手で切れる袋もありますが、乾物など使い切らない場合は綺麗に切ってゴムなどで留めるのがささやかなこだわり。

またレトルトやラーメンのスープ、最近よく使う素材では、缶ではない紙箱入りのホールトマトやホールコーンなど、液体が跳ねる可能性がある包装資材はハサミで切ります。

そうすると自ずとハサミが汚れるので、洗うことになります。頻繁に洗われるというのが、文具や裁縫など他の用途ばさみと違う特徴でしょうか。

キッチンばさみ

一度買ったらあまり買い換えない印象のキッチンばさみ。私の実家のハサミも恐らく40年くらい使い続けている気がします。

それも使い勝手が良い証拠。使いやすいハサミを選べば、よほどヘビーに使わない限り半永久的に使えるのではないでしょうか。

キッチンばさみを選ぶ主なポイントは、

切れ味
手入れのしやすさ
握りやすさ

の三点です。

素材は、主にステンレス製とセラミック製があります。ステンレスは金属なので丈夫で切れ味が良く、刃先が分厚ければカニの殻など固いものもカットできます。

オールステンレスなら洗浄や消毒もしやすく衛生面も安心。ただし金属なので、やはり濡れたまま長時間放置は避けたいところ。

セラミックは陶器の一種で錆びることなく、ステンレスに比べて軽いので、長時間使用しても疲れにくいのが特徴です。ただあまり硬い食材をカットするのには向きません。

切れ味だけで選ぶならステンレスに軍配かもしれませんが、何をどんな頻度で切るのかを考慮して選ぶのが良いのでは。

手入れのしやすさとは、洗いやすく乾かしやすいこと。衛生的に使いたいのでこの点はマストと言えます。

ネジ部分に汚れや水が溜まりやすいので、ネジを外して両方の刃を分解できるタイプは優れもの。

私は食洗機は使いませんが、最近は食洗機対応も選ばれやすい重要ポイントとなっています。

握りやすさは、使いやすさに直結するので、手に馴染むか必ずチェックします。食材を切るのにキッチンばさみを長時間使う方は特にグリップのフィット感を確かめましょう。

ものによって、グリップの中心にギザギザのくぼみがありますが、キャップオープナーや栓抜きとして使うことができ、グリップに突起がついていれば、栓抜きや缶開けに役立ちます。

アウトドアでも便利なタイプかと思います。実家のはさみもこのタイプで、信州に親戚が多いせいか、子供の頃はよくクルミの殻剥きの手伝いに使っていた記憶があります。

私がここ数年愛用しているのは、「鳥部製作所」のキッチンスパッターというハサミです。

こちらは、金属と刃物の産地として有名な新潟県三条市のメーカーです。業界でもいち早くステンレス製の鋏の製造を始め、キッチンスパッターはメーカーを代表する製品です。

「鳥部製作所」のキッチンスパッター

燕三条は、年に1回工場の見学や体験ができる「燕三条 工場の祭典」が今年で7回目を数えすっかり恒例行事になっていますが、イベントとリンクした産地紹介書籍「燕三条の刃物と金物」(中川政七商店編 平凡社出版)の編集に携わった関係で、鳥部製作所さんにも訪問する機会がありました。

「燕三条の刃物と金物」(中川政七商店編 平凡社出版)

それが、以前から気になっていたキッチンスパッターを入手したきっかけとなりました。

このキッチンばさみは、オールステンレス。ネジ部で簡単に取り外しが出来るので、確実な洗浄と完全に乾かすことが可能で、食洗機にも対応しています。

熟練の職人が一つ一つ調整をして仕上げるので切れ味も文句なし。硬い甲羅も滑らず、さらに繊細な野菜も滑らかに切ることができる絶妙な波刃の設計です。

「鳥部製作所」のキッチンスパッター
「鳥部製作所」のキッチンスパッター

グリップも持ちやすくて重さも程よく、機能的に優れているのはもちろんのこと、機能から生まれたデザインも美しいのです。

グリップ部には棒材を使用するなど、実は製造工程の効率も重視された作りになっているのが、結果的に機能や美しさにも繋がっているという点も、産地の専門メーカーならでは。

製造背景を含めてトータル的にお気に入りの定番調理道具です。


鳥部製作所・キッチンスパッター

鳥部製作所・キッチンスパッター

株式会社鳥部製作所
新潟県三条市田島1-17-11
鳥部製作所 HP


細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

Instagram

文・写真:細萱久美

木のまな板 基本の選び方、洗い方。使ってわかった和食に最適な理由

こんにちは。細萱久美です。

以前のさんち記事で、調理道具の基本として包丁について書かせていただきました。長く使うにはなるべく専門店などの、研いで使い続けることの出来るステンレスや鋼の包丁をおすすめしました。

包丁を使う時は、ほとんどの場合がまな板を使うことになると思います。まな板の素材は、主に木か合成樹脂ですが、包丁のことを考えると木製のまな板をおすすめします。

包丁とまな板

単に天然素材好きというだけではなく、木のまな板を使うメリットがいくつかあります。

木のまな板を愛用する理由

第一に包丁の当たりが柔らかいので、包丁の切れ味が落ちづらく、研ぎ直しのペースが私の場合、長いものだと4ヶ月位です。

第二に、これも包丁の当たりが柔らかいことの恩恵ですが、包丁の跳ね返りが少なく、手に力を入れ過ぎないのでひたすら刻んでいても手が疲れにくいです。

包丁の持ちのため、手のためを考えたら、木製のまな板が良いという理由はここにあります。

木のまな板のお手入れ方法

反対に、木のまな板のハードルと言えば、手入れが難しそうといったイメージでしょうか。

木は濡れたまま放置すると、水分を吸水しやすいのでカビや菌、においが発生しやすいです。とは言え、ラフな私でも問題なく使っているので、少し気を遣ってあげるだけで味わい深いまな板に育つと思います。

気を付ける点は、まず使う前にまな板を濡らすこと。ちょっと水にくぐらせて軽く拭けば準備OK。これでにおいが付きにくくなります。

まな板のお手入れ

そして洗う時にはタワシで木の目に沿ってゴシゴシ。まずはお湯ではなく水で洗い流します。

特に肉や魚を切った時は、熱いお湯を掛けるとたんぱく質が固まってしまうので要注意。その後、まだ油や匂いが残っているようなら洗剤を少し使って洗い上げましょう。

ネギやニンニクのような匂いの強いものを切った時にはすぐに洗うことを心がけます。例えば、においの残ったまな板で果物を切ると残り香がして、がっかりすることがあります。

最後に布巾で拭いて、立ててよく乾かします。

使う前に濡らし、こまめに洗い、洗い終わったら完全に乾かす。これだけ気を付ければ、気持ちよく使い続けることが出来ると思います。

漂白剤はその成分を吸収してしまう可能性があるので使いません。消毒をしたい時は、水洗いして綺麗になった後に熱湯を回し掛けて十分に乾かします。

頻繁に料理をされる方は、完全に乾く間もないかもしれませんが、それはそれでOK。道具はせっせと使うこともお手入れの一つだと思います。

木のまな板、種類とサイズの選び方

お手入れ以外の難しい面があるとしたら、まな板の木の種類とサイズ選びでしょうか。

代表的なもので、ひのき・桐・いちょう・青森ひばなどがあります。これがベスト!というほど絞れるものでもなく、どれを選んでも使いやすいまな板であると言えます。

木のまな板ビギナーであれば、ひのきは最もポピュラーで扱いやすいのでおすすめです。カビや菌も繁殖しにくく、刃当たりも柔らか。ただ、最初はひのき独特の香りが強い場合があるので、そこはお好みです。

ねこ柳のまな板

私は、ひのきと、やや高級でプロ向けと言われる「ねこ柳」のまな板も愛用しています。

柳が高級なのは、木の成長が比較的遅く生産量が多くないため。成長が遅いということは年輪がぎゅっと詰まっているので、木材の耐久性に優れます。また、柔軟性に優れるので刃当たりも柔らかく、弾力性があるので包丁の刃で傷ついた部分の自然な修復も期待出来ます。

板前さんが使うような大きくて厚みのある柳のまな板は非常に高価ですが、家庭サイズであれば買えない価格ではありません。使いやすくて、手入れをすれば一生ものとも言えるので、十分に価値はあります。

木の素材は好みや予算感で選んで良いと思いますが、是非とも国産材のまな板をおすすめします。海外産のまな板やカッティングボードの品質が悪いという意味ではなく、日本の包丁には日本のまな板が相性が良いのです。

料理研究家の土井善晴さんの「おいしいもののまわり」

料理研究家の土井善晴さんの「おいしいもののまわり」という本の中にも、土井さんの海外での料理の経験談があり、オランダの厨房のまな板が固く、ご自身の和包丁の刃が潰れてすぐに切れなくなったそうです。

ヨーロッパの包丁は固く刃を立てて使うのでまな板も負けないように固い必要があり、中華でも重たい中華包丁の重さを落として切るので非常に分厚いまな板を使っているのを見ます。あくまでも食文化の違いです。

日本料理にはやはり、包丁にやさしい日本のまな板が最適だと思います。

最後にサイズ選び。ちゃんと料理をするならなるべく大きい方が、切った食材がこぼれにくくストレスなく調理が出来ると思いますが、スペースとの兼ね合いがあるので、スペースに置ける最大のサイズを選ぶか、シンクの縦幅に収まるサイズが目安と言われています。

まな板の使用イメージ

私が最近頻繁に使っているのは丸いまな板。奥行きがあるので食材がこぼれにくく、狭いスペースでも収まりが良いです。

四角い小さめのまな板

あと20センチ角の小さめのまな板がサブ使いでかなり便利。パンや果物などちょっと切りたい時に活躍しています。10年近く使い続けているので十分長持ちですが、ヘビーユースしたのでそろそろ買い替え時かも。

箸の食文化とまな板の関係

昔の日本のまな板は全て木製で、凹んできたり汚れてきたら地元の大工さんに削り直してもらうのが当たり前だったようです。それだけまな板は日本の台所には欠かせない毎日の道具です。

一方で、ナイフ・フォークなどのカトラリーを使う欧米の家庭ではカッティングボードは必需品ではないとか。

和食の場合、食卓では箸で取り分け口に運びやすい「箸の食文化」です。その分、あらかじめ食材のサイズを小さくする必要があり、調理の中で「切る」作業の比率が高いと言えます。箸とまな板の文化圏はほぼ一致するそうで、なるほどと思います。

調べてみるとまな板の削り直しをしている専門店も結構あるよう。少しだけ手入れに気を配りながら、木のまな板をじっくり使い続けてみてはいかがでしょうか。3センチ程度のしっかり厚みのある1枚ものがおすすめです。

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

Instagram

文・写真:細萱久美

日本で数パーセント、無農薬のお茶づくりに挑戦。300年の茶園を継いだ元サラリーマン

軽やかに茶園を継いだ男

面積の8割を山林が占める、兵庫県の神河町(かみかわちょう)。西側に砥峰(とのみね)高原と峰山(みねやま)高原が広がり、東側に清流・越知川(おちがわ)が流れ、町なかでは5つの名水が湧く。

いかにも清々しい空気で満ちていそうなこの町では、300年前からお茶が作られている。その味は当時から評判で、享保10年(1725年)、尼寺として有名な京都の宝鏡寺から、「仙霊茶(せんれいちゃ)」という銘を授かった。

兵庫県神河町の風景
茶畑

しかし、現代は日本茶を飲む人も少なくなり、茶園も減少の一途。仙霊茶も同じ運命をたどり、後継者がいないという理由で300年の歴史に幕を閉じようとしていた。その時、「じゃあ、やっていい?」と軽やかに手を挙げた人がいる。

神河町にも、茶園にも、縁もゆかりもなかった、元サラリーマンの野村俊介さん。

2年間の研修を経て、2018年春、東京ドーム1.7個分に相当する仙霊茶の茶園を引き継いだ野村さんは今、農薬を使わず、肥料も与えない「自然栽培」のお茶づくりに挑んでいる。

野村俊介さん
野村俊介さん

農薬など存在せず、肥料も天然由来のものしかなかった300年前、神河町で作られていた仙霊茶は、自然栽培に近いものだったはずだ。

野村さんの茶園は40年前に開かれたものだが、神河町産という地理的な条件を見れば、江戸時代に飲まれていた仙霊茶の再現、あるいは進化版ともいえるのではないだろうか。

そのユニークな取り組みの話が聞きたくて、9月某日、野村さんの茶園を訪ねた。そこは山間の奥地にあり、山の斜面に沿って茶の木がずらーっと立ち並ぶ。

人工的な音はなにも聞こえず、茶園の脇を流れる小川のせせらぎが、耳に心地いい。なにも考えず、スマホも気にせず、しばらくボーっとしていたくなる景色だ。

小川

「この前、川に足を浸しながらお茶を楽しむ川床茶会を開いたんですよ。せっかくだから、川で話をしませんか?」

野村さんからの提案に、僕も、担当編集も「ぜひ!」とふたつ返事。山から流れてきた川の水はヒヤッと冷たかったけど、しばらくすると慣れた。冷房の効いたオフィスで話を聞くよりも、何十倍、いや何百倍も気持ちがいい。

野村さんは「ここで、面白いこと、楽しいことをたくさんしていきたいんですよね」とほほ笑んだ。

川に入って取材をしている様子
異例の川の中での取材となった

「めっちゃ楽しかった」東京時代

1978年、神戸で生まれた野村さん。姫路にある大学を出て、神戸に本社がある医療機器メーカーに就職した。

「就職活動の時、1社ずつしか受けなかったんですよ。行きたいところだけ受けて、断られたら次に行く感じで。就職した会社は3社目ぐらいに受けたところでしたね。

大学が理系だったんでメーカー系がいいかなと思ってたら、地元に血液検査の機械を作っていて元気いい会社があるよっていわれて、ほなええか、と受けたら採用されました」

2003年、新規事業部に配属され、東京支社で勤務することになった。例えば、本社で企画立案されたバイオテクノロジー系の新規事業の反応を確かめるために、都内で営業をかけるというテストマーケティング的な役割を担った。

売り先が病院ではなく、企業の研究機関や大学の研究室になる場合は、新しい顧客を開拓する必要がある。1年目から東京担当となった野村さんは、飛び込み営業を繰り返した。

ハードな仕事ではあったが、もともと人と話をするのが好きで、物おじしない野村さんは「めっちゃ楽しかった」と振り返る。営業成績も、悪くなかった。

ただ、意味や必要性を感じないルールに縛られるのが嫌いという性格もあって、誰よりも遅刻をする社員だった。

クライアントとのミーティングには決して遅れないが、朝8時に出勤しろと言われると「なんで?」と疑問を抱く。

「結果出せばいいじゃんっていう、生意気なところもありましたね」。

遅刻の理由を問われた時には嘘をつかず、「昨日、飲みすぎました」などと正直に答えていた。上司からすると扱いづらかったかもしれないが、その潔さもあって、東京支社の同僚や営業先とは仲良く付き合い、毎日のように飲み歩いていたという。

野村さん

独立独歩で生きていける道を求めて

浴びるように飲んだ酒とともに時は流れ、10年目にして神戸の本社勤務になり、企画立案をする側になった。野村さんによると、東京時代、立場も気にせず、自由奔放にアイデアを出していたら、「そんなら、お前やってみいや」ということになったらしい。

与えられたミッションは、「10年後、20年後の屋台骨になるかもしれない事業を立案すること」。本部長の直属で、なににも縛られず、自由に調べ、企画を出すことが仕事になった。話を聞くと楽しそうな仕事に思えるが、この立場が転職のきっかけになった。

この時、野村さんは考えた。スティーブ・ジョブズのように「絶対にこういう未来が来る」と誰よりも早く確信した人間だけが、イノベーションを起こせる。

そして、10人中10人が「は?」と思うようなものでないと、本当のイノベーションは起きない。

もし、そういうアイデアが思い浮かんだとして、取締役をひとりひとり粘り強く、呆れられるぐらい説得するほどの気力が自分にあるかと考えた時に、我に返った。

「俺って、そんなに医療に思い入れあったっけ?」

会社には、自分自身や家族が難病を抱えている社員がいて、常々、「ぜんぜんモチベーションが違う」と感じていた。軽い気持ちで入社した自分には、本当に社会的意義を果たすようなことは思いつかへん‥‥。

同時期に、三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官、内閣官房内閣審議官を歴任した水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』という書籍を読み、「資本主義、マジで終わるな」と危機感を抱いた。

会社では役割を果たせない。資本主義は揺らいでいる。このふたつの気づきを経て、野村さんは「独立独歩で生きていける道を探したほうがいい」と思い至った。

お茶の葉

さてなにをしようかと考えた時、高校の同窓会で農業をしている同級生と再会した。無農薬、無肥料で米と大豆を育てていて、その米と大豆を使って味噌とどぶろくを作っているという同級生は、稲に与える水を豊かにするために、冬は林業をしていると話していた。

なんだか面白そうだと思って2014年の9月、同級生のもとを訪ねると、セルフビルドで建てた家があった。その瞬間、野村さんはビビビッと電撃に打たれたように閃いた。

「資本主義も終わるんやから、これが一番強い生き方だ!」

その場で、同級生に「こっちきたら、いろいろ教えてくれるの?」と聞いたら、「いいよ、なんぼでも」と返ってきた。その言葉を聞いて、野村さんはこう言った。

「ほんなら会社やめるわ」

「じゃあ、俺、やっていい?」

この出来事から間もなくして会社に辞意を伝えた野村さんは、2015年4月1日、晴れて自由の身になり、同級生が住む兵庫県朝来市に引っ越した。同じものを作っても面白くないからと、その春からすぐに胡麻と生姜の自然栽培を始めた。

「ちょうど、担々麵にはまってて(笑)」それがこの2つを選んだ理由だ。

間もなく、脱サラして突然就農した野村さんのもとに、通っている合気道の道場仲間や元同僚が遊びに来るようになった。

秋の収穫を控えた8月、ひとりの友人が「お茶に興味がある」というので、知人の茶園に一緒に出向いたら、そこで「神河に新規就農者を探してる茶園あるで」と聞いた。

「渡りに船!」とふたりで訪ねたのが、仙霊茶を作っていた茶園だった。野村さんは初めて見る茶園の景色に圧倒されながら、友人に「やったやんけ、こんな話ないぞ」と興奮気味に声かけた。

通常、イチから茶園を始めようと思ったら、茶の木を植えるところから始まるため、すぐには収穫できない。耕作放棄地を使うとなると、茶の木があっても、土地自体が荒れている可能性もある。

その点、この茶園は幸運にもその年の春までしっかり手入れされていたから、余計な手間をかけずに引き継ぐことができる。

しかし、友人は東京ドーム1.7個分、およそ7ヘクタールの茶園が「広すぎる」と、気乗りしない様子だった。そこで、野村さんは友人に尋ねた。

「じゃあ、俺、やっていい?」

完全なる勢いだった。

「もともと、お茶にはぜんぜん興味なかったんですけど、とにかく一面の茶畑を見て大感動したんですよ。こんな条件のところほかに絶対ないと思ったし、すぐにやりたいっていう人が現れるだろうから、それはもったいない、俺がやろうって思ったんです」

野村さんの農園の一部
野村さんの農園の一部。奥にまで続いている

予想以上の反響だった茶畑オーナー制度

野村さんがラッキーだったのは、はいどうぞ、といきなり引き渡されなかったことだ。

もともと複数の生産者で経営していた茶園という背景もあり、地元の銀行が主体となって継承者を探すための事業組合を作り、野村さんがそこに参画して2年間、一緒にお茶づくりをするという条件になっていた。組合からすれば試用期間の意味合いが強いが、野村さんからすればイチからお茶づくりを学ぶことができた。

もうひとつ、大きなポイントだったのは、過去10年ほど、農薬が使用されていなかったこと。これは、もとの生産者たちがオーガニックを目指していて、というわけではなく、需要の低下と高齢化もあって「機械も高いし、農薬を撒くのがしんどかった」という理由だったが、自然栽培を志向する野村さんにとっては願ってもないことだった。

お茶の木
左右に生えているのもお茶の木

こうして、2015年の秋から2年間の実地研修が始まった。事前に「自然栽培をしていいなら継ぐ」と話して了解を得ていたので、最初から無農薬、無肥料でのスタートになった。

夏の間は雑草が生えていることも
夏の間は雑草が生えていることも

当初は胡麻と生姜を作りながら、と考えていたが、兼業できる余裕などないことを、2年間で実感。お茶づくりに集中することを決め、正式に引継ぎが決まった2018年春、朝来市から神河町に引っ越した。

仙霊茶を育む茶園のオーナーになって、1年半。野村さんは、当面の課題である販路の確保に動いている。

もともと生産がほとんど途絶えていたため、イチから顧客を開拓しなければならない。そこは、飛び込み営業を得意としていたサラリーマン時代の経験と、社内でも評価されていた発想力の見せ所だ。

現在、近隣の旅館や商業施設に卸しているほか、ネット販売も始めた。今後の核にしていこうと考えているのは、月1000円、年間12000円を払うと、年に2回、お茶が届けられたり、イベントに参加できるという茶畑オーナー制度だ。昨年11月にスタートしたところ、すでに50人が会員になった。

オーナーになると届けられるお茶
オーナーになると届けられるお茶。新茶の時期には、収穫をはじめた5月5日から18日までの6種の新茶やほうじ茶などが届いた

「日本で、無農薬のお茶って数パーセントしか栽培されていないんですよ。でも、そこには確かな需要があって、まだ簡単なチラシを作った程度なのに、自然栽培のお茶を飲みたいという人が、口コミで会員になってくれるんです。

京都のおぶぶ茶苑というところで茶畑オーナー制度が成功していると聞いて取り入れたんですけど、ここまで反応がいいとは思ってなくて、これはすごいなと思いましたね」

参考資料
農林水産省「茶をめぐる情勢」より:有機栽培茶の生産量は全体の4%程度

アワード以外でお茶の価値をいかに高めるか

野村さんがお茶の世界に入った時に疑問を抱いたのは、生産者の多くがいかに品評会で受賞するか、「アワード」にこだわっていたことだった。

なぜ嗜好品なのに、ひとつの価値観に縛られるのか。ワインのように産地のテロワールを楽しむような多様な価値観を拡げたいと考えていた野村さんにとって、無農薬、無肥料で育てたお茶を支持してくれる人がいるという事実は、大きな自信となった。

これからも品評会には一切出さず、川床茶会のような多彩なアプローチで仙霊茶のファンを作り、価値を高めていこうと計画している。

茶畑

例えば、茶の木は椿科で、花が咲いた後に大きな実がなる。その実を絞って油を採り、椿油と同じように食用や美容用のオーガニックオイルを作るというアイデアもある。たくさんは作れないが、それをオーナー向けに販売したら、喜ぶ人もいるだろう。

お茶の実
お茶の実

現在、茶葉は機械で刈り取っているが、茶葉を手摘みすると、確実に美味しくなる。

そこで例えば、ある程度の売り上げを確保できるようになったら、茶葉を袋詰めする作業を発注している地元の福祉作業所に、しっかりと時給を払って手摘みの作業も依頼しようと考えている。福祉作業所で働く障碍者の自立支援にもつながるし、その取り組みを応援したいと思う人もいるだろう。

従来のようにお茶を売るだけでなく、お茶と茶畑をベースにした多角的な展開を目指す野村さんの話を聞いていると、サラリーマンの枠に収まらなかった理由がわかった。

川で飲ませてもらった仙霊茶は、爽やかでキリッとした風味がした。江戸時代の味を受け継ぐこの希少なお茶でなにを仕掛け、なにを実現するのか。脱サラオーナーの頭のなかには今、アイデアが渦巻いている。

野村さん

仙霊茶 野村俊介さん
問い合わせ先:senreicha@gmail.com

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文:川内イオ
写真:直江泰治