軽やかに茶園を継いだ男
面積の8割を山林が占める、兵庫県の神河町(かみかわちょう)。西側に砥峰(とのみね)高原と峰山(みねやま)高原が広がり、東側に清流・越知川(おちがわ)が流れ、町なかでは5つの名水が湧く。
いかにも清々しい空気で満ちていそうなこの町では、300年前からお茶が作られている。その味は当時から評判で、享保10年(1725年)、尼寺として有名な京都の宝鏡寺から、「仙霊茶(せんれいちゃ)」という銘を授かった。
しかし、現代は日本茶を飲む人も少なくなり、茶園も減少の一途。仙霊茶も同じ運命をたどり、後継者がいないという理由で300年の歴史に幕を閉じようとしていた。その時、「じゃあ、やっていい?」と軽やかに手を挙げた人がいる。
神河町にも、茶園にも、縁もゆかりもなかった、元サラリーマンの野村俊介さん。
2年間の研修を経て、2018年春、東京ドーム1.7個分に相当する仙霊茶の茶園を引き継いだ野村さんは今、農薬を使わず、肥料も与えない「自然栽培」のお茶づくりに挑んでいる。
農薬など存在せず、肥料も天然由来のものしかなかった300年前、神河町で作られていた仙霊茶は、自然栽培に近いものだったはずだ。
野村さんの茶園は40年前に開かれたものだが、神河町産という地理的な条件を見れば、江戸時代に飲まれていた仙霊茶の再現、あるいは進化版ともいえるのではないだろうか。
そのユニークな取り組みの話が聞きたくて、9月某日、野村さんの茶園を訪ねた。そこは山間の奥地にあり、山の斜面に沿って茶の木がずらーっと立ち並ぶ。
人工的な音はなにも聞こえず、茶園の脇を流れる小川のせせらぎが、耳に心地いい。なにも考えず、スマホも気にせず、しばらくボーっとしていたくなる景色だ。
「この前、川に足を浸しながらお茶を楽しむ川床茶会を開いたんですよ。せっかくだから、川で話をしませんか?」
野村さんからの提案に、僕も、担当編集も「ぜひ!」とふたつ返事。山から流れてきた川の水はヒヤッと冷たかったけど、しばらくすると慣れた。冷房の効いたオフィスで話を聞くよりも、何十倍、いや何百倍も気持ちがいい。
野村さんは「ここで、面白いこと、楽しいことをたくさんしていきたいんですよね」とほほ笑んだ。
「めっちゃ楽しかった」東京時代
1978年、神戸で生まれた野村さん。姫路にある大学を出て、神戸に本社がある医療機器メーカーに就職した。
「就職活動の時、1社ずつしか受けなかったんですよ。行きたいところだけ受けて、断られたら次に行く感じで。就職した会社は3社目ぐらいに受けたところでしたね。
大学が理系だったんでメーカー系がいいかなと思ってたら、地元に血液検査の機械を作っていて元気いい会社があるよっていわれて、ほなええか、と受けたら採用されました」
2003年、新規事業部に配属され、東京支社で勤務することになった。例えば、本社で企画立案されたバイオテクノロジー系の新規事業の反応を確かめるために、都内で営業をかけるというテストマーケティング的な役割を担った。
売り先が病院ではなく、企業の研究機関や大学の研究室になる場合は、新しい顧客を開拓する必要がある。1年目から東京担当となった野村さんは、飛び込み営業を繰り返した。
ハードな仕事ではあったが、もともと人と話をするのが好きで、物おじしない野村さんは「めっちゃ楽しかった」と振り返る。営業成績も、悪くなかった。
ただ、意味や必要性を感じないルールに縛られるのが嫌いという性格もあって、誰よりも遅刻をする社員だった。
クライアントとのミーティングには決して遅れないが、朝8時に出勤しろと言われると「なんで?」と疑問を抱く。
「結果出せばいいじゃんっていう、生意気なところもありましたね」。
遅刻の理由を問われた時には嘘をつかず、「昨日、飲みすぎました」などと正直に答えていた。上司からすると扱いづらかったかもしれないが、その潔さもあって、東京支社の同僚や営業先とは仲良く付き合い、毎日のように飲み歩いていたという。
独立独歩で生きていける道を求めて
浴びるように飲んだ酒とともに時は流れ、10年目にして神戸の本社勤務になり、企画立案をする側になった。野村さんによると、東京時代、立場も気にせず、自由奔放にアイデアを出していたら、「そんなら、お前やってみいや」ということになったらしい。
与えられたミッションは、「10年後、20年後の屋台骨になるかもしれない事業を立案すること」。本部長の直属で、なににも縛られず、自由に調べ、企画を出すことが仕事になった。話を聞くと楽しそうな仕事に思えるが、この立場が転職のきっかけになった。
この時、野村さんは考えた。スティーブ・ジョブズのように「絶対にこういう未来が来る」と誰よりも早く確信した人間だけが、イノベーションを起こせる。
そして、10人中10人が「は?」と思うようなものでないと、本当のイノベーションは起きない。
もし、そういうアイデアが思い浮かんだとして、取締役をひとりひとり粘り強く、呆れられるぐらい説得するほどの気力が自分にあるかと考えた時に、我に返った。
「俺って、そんなに医療に思い入れあったっけ?」
会社には、自分自身や家族が難病を抱えている社員がいて、常々、「ぜんぜんモチベーションが違う」と感じていた。軽い気持ちで入社した自分には、本当に社会的意義を果たすようなことは思いつかへん‥‥。
同時期に、三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官、内閣官房内閣審議官を歴任した水野和夫氏の『資本主義の終焉と歴史の危機』という書籍を読み、「資本主義、マジで終わるな」と危機感を抱いた。
会社では役割を果たせない。資本主義は揺らいでいる。このふたつの気づきを経て、野村さんは「独立独歩で生きていける道を探したほうがいい」と思い至った。
さてなにをしようかと考えた時、高校の同窓会で農業をしている同級生と再会した。無農薬、無肥料で米と大豆を育てていて、その米と大豆を使って味噌とどぶろくを作っているという同級生は、稲に与える水を豊かにするために、冬は林業をしていると話していた。
なんだか面白そうだと思って2014年の9月、同級生のもとを訪ねると、セルフビルドで建てた家があった。その瞬間、野村さんはビビビッと電撃に打たれたように閃いた。
「資本主義も終わるんやから、これが一番強い生き方だ!」
その場で、同級生に「こっちきたら、いろいろ教えてくれるの?」と聞いたら、「いいよ、なんぼでも」と返ってきた。その言葉を聞いて、野村さんはこう言った。
「ほんなら会社やめるわ」
「じゃあ、俺、やっていい?」
この出来事から間もなくして会社に辞意を伝えた野村さんは、2015年4月1日、晴れて自由の身になり、同級生が住む兵庫県朝来市に引っ越した。同じものを作っても面白くないからと、その春からすぐに胡麻と生姜の自然栽培を始めた。
「ちょうど、担々麵にはまってて(笑)」それがこの2つを選んだ理由だ。
間もなく、脱サラして突然就農した野村さんのもとに、通っている合気道の道場仲間や元同僚が遊びに来るようになった。
秋の収穫を控えた8月、ひとりの友人が「お茶に興味がある」というので、知人の茶園に一緒に出向いたら、そこで「神河に新規就農者を探してる茶園あるで」と聞いた。
「渡りに船!」とふたりで訪ねたのが、仙霊茶を作っていた茶園だった。野村さんは初めて見る茶園の景色に圧倒されながら、友人に「やったやんけ、こんな話ないぞ」と興奮気味に声かけた。
通常、イチから茶園を始めようと思ったら、茶の木を植えるところから始まるため、すぐには収穫できない。耕作放棄地を使うとなると、茶の木があっても、土地自体が荒れている可能性もある。
その点、この茶園は幸運にもその年の春までしっかり手入れされていたから、余計な手間をかけずに引き継ぐことができる。
しかし、友人は東京ドーム1.7個分、およそ7ヘクタールの茶園が「広すぎる」と、気乗りしない様子だった。そこで、野村さんは友人に尋ねた。
「じゃあ、俺、やっていい?」
完全なる勢いだった。
「もともと、お茶にはぜんぜん興味なかったんですけど、とにかく一面の茶畑を見て大感動したんですよ。こんな条件のところほかに絶対ないと思ったし、すぐにやりたいっていう人が現れるだろうから、それはもったいない、俺がやろうって思ったんです」
予想以上の反響だった茶畑オーナー制度
野村さんがラッキーだったのは、はいどうぞ、といきなり引き渡されなかったことだ。
もともと複数の生産者で経営していた茶園という背景もあり、地元の銀行が主体となって継承者を探すための事業組合を作り、野村さんがそこに参画して2年間、一緒にお茶づくりをするという条件になっていた。組合からすれば試用期間の意味合いが強いが、野村さんからすればイチからお茶づくりを学ぶことができた。
もうひとつ、大きなポイントだったのは、過去10年ほど、農薬が使用されていなかったこと。これは、もとの生産者たちがオーガニックを目指していて、というわけではなく、需要の低下と高齢化もあって「機械も高いし、農薬を撒くのがしんどかった」という理由だったが、自然栽培を志向する野村さんにとっては願ってもないことだった。
こうして、2015年の秋から2年間の実地研修が始まった。事前に「自然栽培をしていいなら継ぐ」と話して了解を得ていたので、最初から無農薬、無肥料でのスタートになった。
当初は胡麻と生姜を作りながら、と考えていたが、兼業できる余裕などないことを、2年間で実感。お茶づくりに集中することを決め、正式に引継ぎが決まった2018年春、朝来市から神河町に引っ越した。
仙霊茶を育む茶園のオーナーになって、1年半。野村さんは、当面の課題である販路の確保に動いている。
もともと生産がほとんど途絶えていたため、イチから顧客を開拓しなければならない。そこは、飛び込み営業を得意としていたサラリーマン時代の経験と、社内でも評価されていた発想力の見せ所だ。
現在、近隣の旅館や商業施設に卸しているほか、ネット販売も始めた。今後の核にしていこうと考えているのは、月1000円、年間12000円を払うと、年に2回、お茶が届けられたり、イベントに参加できるという茶畑オーナー制度だ。昨年11月にスタートしたところ、すでに50人が会員になった。
「日本で、無農薬のお茶って数パーセントしか栽培されていないんですよ。でも、そこには確かな需要があって、まだ簡単なチラシを作った程度なのに、自然栽培のお茶を飲みたいという人が、口コミで会員になってくれるんです。
京都のおぶぶ茶苑というところで茶畑オーナー制度が成功していると聞いて取り入れたんですけど、ここまで反応がいいとは思ってなくて、これはすごいなと思いましたね」
参考資料
農林水産省「茶をめぐる情勢」より:有機栽培茶の生産量は全体の4%程度
アワード以外でお茶の価値をいかに高めるか
野村さんがお茶の世界に入った時に疑問を抱いたのは、生産者の多くがいかに品評会で受賞するか、「アワード」にこだわっていたことだった。
なぜ嗜好品なのに、ひとつの価値観に縛られるのか。ワインのように産地のテロワールを楽しむような多様な価値観を拡げたいと考えていた野村さんにとって、無農薬、無肥料で育てたお茶を支持してくれる人がいるという事実は、大きな自信となった。
これからも品評会には一切出さず、川床茶会のような多彩なアプローチで仙霊茶のファンを作り、価値を高めていこうと計画している。
例えば、茶の木は椿科で、花が咲いた後に大きな実がなる。その実を絞って油を採り、椿油と同じように食用や美容用のオーガニックオイルを作るというアイデアもある。たくさんは作れないが、それをオーナー向けに販売したら、喜ぶ人もいるだろう。
現在、茶葉は機械で刈り取っているが、茶葉を手摘みすると、確実に美味しくなる。
そこで例えば、ある程度の売り上げを確保できるようになったら、茶葉を袋詰めする作業を発注している地元の福祉作業所に、しっかりと時給を払って手摘みの作業も依頼しようと考えている。福祉作業所で働く障碍者の自立支援にもつながるし、その取り組みを応援したいと思う人もいるだろう。
従来のようにお茶を売るだけでなく、お茶と茶畑をベースにした多角的な展開を目指す野村さんの話を聞いていると、サラリーマンの枠に収まらなかった理由がわかった。
川で飲ませてもらった仙霊茶は、爽やかでキリッとした風味がした。江戸時代の味を受け継ぐこの希少なお茶でなにを仕掛け、なにを実現するのか。脱サラオーナーの頭のなかには今、アイデアが渦巻いている。
仙霊茶 野村俊介さん
問い合わせ先:senreicha@gmail.com
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文:川内イオ
写真:直江泰治