先日、こんな美しいグラスに出会いました。
涼しげに泳ぐ金魚が描かれたオールドグラス
動植物や景色を切子で描く
作っているのは但野硝子加工所2代目、伝統工芸士の但野英芳 (ひでよし) さん。但野さんが作る江戸切子には、動植物や水など自然界のモチーフが写実的に描かれています。従来の幾何学模様のイメージとは、ずいぶん違う印象です。
直線を中心とした伝統的な文様と、やわらかな曲線が組み合わさった斬新なデザイン。うっとりと見とれてしまいました。
四季の景色を表現したぐい呑。春 (左手前) 、夏 (左奥) 、秋 (右手前) 、冬(右奥)
竹林をイメージした器
水の中を泳ぐ金魚のグラス
金魚の後ろでは、江戸切子の伝統文様である「八角籠目 (はっかくかごめ) 」と、但野さん描く水のイメージが見事に融合していました
江戸切子とは
江戸切子とは、ガラスの表面を削って模様を描く東京都の伝統工芸品です。江戸時代の天保年間に、大伝馬町のビードロ屋加賀屋久兵衛が金剛砂を使ってガラスの表面に彫刻したのが始まりとされ、明治期には英国から指導者を招いて技法が確立されました。
伝統ある技法に、新たな表現を取り入れた職人が但野さんでした。
新しいデザインはどのようにして生まれたのでしょう。但野さんにお話を伺いました。
江戸切子職人・但野硝子加工所 但野英芳さん
「もともとは建築を勉強していましたがデザインに興味があってデッサンもやっていました。一度は設計事務所に勤めましたが、江戸切子職人だった父がコンクールに出品した作品に魅せられて江戸切子の職人を志しました。
父が他界するまで2年半ほど、一緒に仕事をして技術を学び、その後も職人として修行を積むうちに、伝統的なものだけでなく新しいものが作れないかと考えるようになったんです」
お父様が亡くなった後、取引先の問屋の倒産など苦しい時期があったという但野さん。いかに他のものと差別化していくかを考え、研究していたそう。
「エミール・ガレやルネ・ラリックといった西洋の作家の作品も見て回りました。あちこちと出歩いて良い景色を見かけると、これを切子で作れないかな?なんて考えたり、スケッチブックに絵柄を描いてみたり。
一日中試行錯誤していました」
冬の景色を描いたぐい呑。研究期間とも言うべき時代を経て、当時の但野さんのイメージが形になった作品のひとつです
従来の道具では難しいこと
「江戸切子が幾何学的な模様ばかりたっだのには理由がありました。道具です。
ガラスは硬い素材なので、ダイヤモンド素材の道具でないと深く彫れません。筆で絵を描くのとは違って、回転する研磨機で図柄を削り出していきます。曲線や細かい表現をするのには道具に工夫が必要だったんです」
江戸切子の「切り出し」という技法。研磨機を使い回転するダイヤモンドホイールにガラスを当て、図柄を削り出していきます
ガラスの内側から覗き込んで削ります。そのため、花瓶やタンブラーなど細長いものは難易度が高いのだとか
切子職人が作る新しい道具
「そこで、新たに道具を作ることにしました。通常は、直径15センチメートルほどのダイヤモンドホイールが基本の道具です。
細かな動きができるように、10センチメートル、7センチメートル、さらには金魚の目やヒレなどを削り出す時に使う5ミリメートル、3ミリメートルといったサイズのものも作りました」
様々なサイズ、太さ、粗さの道具があり、段階や描くもので使い分けるのだそう
新しい道具ができたことで、複雑なものや小さな部分が描けるようになった但野さん。表現の幅が広がり、独自の作風が開花していきました。
但野さんの新しい挑戦はガラスのカット方法だけにとどまりません。素材にも独自のアレンジを加えていきます。
2つの色を組み合わせる
「色を増やすことで、より豊かな表現ができればと考えました。それで、素材を特注で作ってもらうようになったんです」
金魚の描かれたの器には、ブルーとオレンジの2色が使われていました。水を感じる青、金魚の赤。たしかに、色数が増えると風景がより豊かなものになりますね
「色のついた江戸切子では、透明なガラスの外側に色ガラスの層を作って削ります。
透明なガラスと色ガラスの2つを合わせるのは比較的たやすいのですが、もう1色加わると一気に難しくなるんです。機械で作ることはできないので、作家さんにお願いして『宙吹き』で作ってもらっています」
宙吹きとは、型を使わずに溶けたガラス種を吹き竿に巻き取って宙空で吹いて成形する方法のこと。各色の面積や色が入る位置を細かく指定することは難しいため、大まかな比率を伝えて吹いてもらうのだとか。
受け取ったガラスを見て、色を生かしながら図柄の構成を調整し、彫っていくそうです。
桜の木が春風に吹かれている風景を切り取ったぐい呑。透明なガラスの上に、底から半分が緑、上半分は赤の色ガラスが重なっています。2つの色が春のイメージを膨らませます
秋の景色のぐい呑。赤とオレンジ重なりが色の移り変わる紅葉の様子を引き立てているように感じました
さらには、削り方でグラデーションや立体感を表現しています。
削る深さで色に変化を
「例えば、金魚をモチーフにした作品では、尾ひれの赤いガラス部分を削る深さを調整して濃淡を作ります。深く削ると赤い層が薄くなるので色も淡くなり、最後は透明になります。このグラデーションで尾ひれに透明感が生まれるんです」
赤から透明へとなめらかに色が変化する尾びれ。本当に金魚が水中を優雅に泳いでいるようです
色ガラスの厚さはわずか0.5〜0.7ミリメートル。「少し削るだけで色が取れてしまうので、できあがった時に色がなくならないように気をつけないといけないんです」と但野さん。
50種類の道具を使い分ける
但野さんの作品を見ていると、ガラスのツヤに違いがあり、質感に変化があるところも面白いのです。例えばこの竹林のぐい呑。
窓から眺める竹林をイメージしたぐい呑。竹の部分はマットな仕上がり、手前中央の窓部分はツヤのある仕上がりです。朝靄のかかった景色が浮かんでいるよう
「全てをツヤ仕上げにしてしまうと味がないと思って、竹を半ツヤにしました。
江戸切子は内側から見たときに立体感を感じるように作るのですが、マットな部分があると奥行きが出るんです。雲の表現などでもこのツヤ消しの仕上げをします。お酒を入れた時の揺らめきにも味わいが出るんじゃないかなと思います」
マットに仕上げた立体的な波と、ツヤ仕上げの幾何学的な伝統文様「菊つなぎ紋」が合わさったデザイン
「50種類くらいの道具を使って少しずつ削って図柄を完成させていきます。はじめは目の粗いもので摺って、徐々に目を細かくし、磨きをかけます。少しの差でも使う道具が違ってくるんです。削る道具だけでなく、最終仕上げではフェルトやバフなども使います」
初めは粗く削るので、仕上がりもマットです
徐々に目の細かいもので削っていくことで、ツヤが出てきます
従来の江戸切子の技法と、但野さんならではの技術で作られた美術品のような江戸切子。
その作品は、江戸切子新作展、大阪工芸展、全国工芸品コンクールなど様々な作品展での受賞歴多数。受注制で作られる商品は数ヶ月待ちという人気です。
眺めているだけでも十分に楽しめますが、江戸切子は食器として使えるところがまた嬉しい。
暑い日に涼を取り入れる器として、秋の夜長にお酒を美味しくするグラスとして、特別な時間をもたらしてくれそうです。
<取材協力>
但野硝子加工所
東京都江東区大島7-30-16
03-5609-8486
http://tadano-kiriko.com/
文・写真:小俣荘子
こちらは、2018年9月3日の記事を再編集して掲載しました。見ているだけでうっとりするような江戸切子、大切な人への贈りものにもおすすめです。
浴衣のお手入れ、保管方法を知って長く楽しむ
今年の夏、みなさんは浴衣を着る予定はありますか?
花火大会や夏祭り、ビアガーデン、はたまたちょっとしたお出かけに纏っても夏をより一層楽しめるように思います。今回は浴衣で出かけた後のお手入れや、翌年また楽しめるように保管しておく方法をご紹介します。
和服というと、お手入れや保管が難しいというイメージがつきまといますが、ポイントさえ押さえればとてもシンプルです。基本的には、1シーズン着て、季節の終わりに洗濯して片付けるだけ。汚れや汗、シワのケアをしておくとより長く美しく着られるので、脱いだらすぐにやっておくと良いこともありますが、ほとんどワンピースなどの洋服と同じです。
それでは、順を追ってご紹介していきましょう。
まずはハンガーにかけて陰干し
浴衣を脱いだら、まずはハンガーにかけて陰干しをします。ハンガーは洋服用のものでも問題ありません。
陰干しとは、直射日光の当たらない場所に干すこと。風通しの良い場所に干すことで、湿気を飛ばしシワを伸ばします。
浴衣は丈が長いので、ハンガーをかける位置によっては裾が床についてしまうこともありますが、気になるようでしたら下に敷物やタオルなどを敷いておくと良いかもしれません。または、お部屋の扉の上部分にハンガーを引っ掛けるようにして干すと裾がつかないちょうど良い高さになることもあります。
同様に帯や腰紐、伊達締めやウエストベルトなどもハンガーに干して湿気取りやシワ伸ばしを行います。肌着は、下着同様に毎回洗濯しましょう。
汚れのチェック
ハンガーにかけたら、全体に汚れやシミがないかをチェックし、見つけた場合はできるだけ早く処置します。水溶性の汚れは部分的に水洗い、ファンデーションなど油性の汚れの場合は少量の洗濯洗剤などを使って部分的に優しくもみ洗いします。真っ白なブラウスの襟などを汚してしまった時の部分ケアをイメージしていただくとわかりやすいかもしれません。
裾の泥やほこりによる汚れがある場合、泥は乾いてからタオルでつまみとり水拭きすれば問題ありません。ほこりは洋服ブラシなどで払えば取れます。そのままにしておくと生地に沁みてしまうので早めのケアが安心です。
汗をたくさんかいてしまった場合は、汗をかいた箇所を中心に霧吹きか、濡れタオルで挟むようにして湿らせます。一晩干しておくと水と一緒に汗も飛ばされています。
木綿や麻でなく、絹紅梅(きぬこうばい=木綿にシルクの織り込まれた生地)などの高級な浴衣の場合は、固く絞った濡れタオルを使ってお手入れします。
その他、下駄などの履物は、使った後に固く絞った濡れタオルなどで拭いておくと次も気持ちよく綺麗に履けて長持ちするのでおすすめです。
浴衣の洗い方
夏の終わり、浴衣を着終えたら、洗ってから片付けます。木綿の浴衣は洗濯ネットに入れて洗濯機で洗える(5分程度で十分)とも言われますが、心配な場合は手洗いかクリーニングが安心です。特に、縮みが心配な場合はクリーニングをお勧めします。
絹紅梅の場合は扱いが難しいのでプロへ。悉皆屋(しっかいや=着物専門のクリーニング)さんへ出しましょう。
自宅で丸洗いする場合は、袖を合わせてパタパタと折るだけの簡単な袖畳みにして洗濯ネットに入れて行います。大きなたらいなどに水を張り、洗剤(おしゃれ着用洗剤など)を適量入れて混ぜます。その中に浴衣を入れて全体を押し洗いします。この時、ぬるま湯だと色が移ることがあるので必ず水で行います。
最低2回すすいだら優しく水気を絞ります。力強く絞るとシワになるので要注意。すぐさまネットから取り出し、大きなタオルの上に浴衣を広げます。干す前に、水気を切りながら手アイロンで伸ばしておくと乾いてからのアイロンがけが楽になります。
全体を伸ばしたら、袖を伸ばせる状態で和装ハンガーにかけて風通しの良い場所で陰干し、乾いたら畳んで片付けます。アイロンをかけるのは翌年着る直前のほうが良いでしょう。
ちなみに、絞りの浴衣などは、アイロンをかけるとシボ(シワ模様)が伸びてしまうので、手アイロンのみで仕上げ、どうしてもきれいに伸びなかった箇所のみ当て布をしてふんわりとアイロンがけします。
有松絞りのシボ。糸でくくって染め上げることで立体的な仕上がりとなります
浴衣の保管方法
本畳みと呼ばれる、縫い目に沿った畳み方で浴衣を畳んだら、着物専用の包み紙「たとう紙(たとうし)」などに包んでから収納すると安心です。クリーニングから返ってきた際も、通気性を良くするため、ビニール袋から出してたとう紙に包みます。
たとう紙は、和紙でできているので通気性がよく、和服を湿気から守ってくれます。浴衣購入時に付いてきたり、通販でも手頃な価格で販売されているので、簡単に手に入ります。
防虫剤を利用する際は、洋服でも同じですが、直接浴衣の上には乗せず、たんすや衣装ケースの隅に置いて使用してくださいね。
オフシーズンの間の保管スペースの確保が難しいという場合もあるかと思います。そんな時には、トランクサービスなどを利用するのも便利です。
例えば、スマホアプリで簡単に利用できるトランクルームアプリ『サマリーポケット』から『着物ボックス』というサービスがリリースされました。きもの専門店「きものやまと」との提携で生まれたきもの専用ボックスです。ほかにも、着物や和服の預かりサービスは色々なところが提供しているので、一度調べてみてください。
夏の思い出となる時間を共に過ごした浴衣。ちょっとしたお手入れと管理に気をつけて、来年もまた愉しみたいものですね。和服といえど、浴衣は気軽なもの。身構えすぎず、ポイントを抑えればシンプルに扱えます。
夏のワードローブの1着として、思いっきり楽しんでまいりましょう!
<参考文献>
『大人のおでかけゆかた コーディネート帖』 (株) 小学館 著者・秋月陽子 (2008年)
『着物でおでかけ安心帖』 (株) 池田書店 監修・大久保信子 (2013年)
『京都で磨く ゆかた美人』 NHK出版 編者・日本放送協会 NHK出版 (2014年)
文・写真:小俣荘子
※こちらは、2017年8月14日の記事を再編集して公開しました。
戦後の資源不足から生まれた、沖縄の琉球ガラス
沖縄を代表する工芸品のひとつ、琉球ガラス。落ち着いた色合いや、時折ガラスの中に見える涼しげな気泡が魅力です。
涼しげな気泡や、独特の色合いで、光を柔らかく反射する琉球ガラス
実はこの琉球ガラス、廃瓶などの再生ガラスを使って作られているのです。
琉球でのガラス製造は明治時代に始まっていましたが、原料の枯渇や戦争の影響で、戦前のガラス工房は全てなくなってしまいました。現在残っている琉球ガラスは、第二次大戦後に発展したものです。
再生ガラスを使う製法は、戦後の資源不足から生まれたやり方でした。最初こそ必要に迫られて始まった琉球ガラスですが、沖縄の人々はそこに独特の美しさを見出し、この素材だからこそ生まれるものづくりへと発展させてきたのです。
光にあたるとその美しさが一層引き立ちます
現在では、廃瓶の減少や製造時の扱いが難しいことから作り手は減ってしまいましたが、独特な色や気泡の魅力をもつ琉球ガラスには、県外にも多くのファンがいます。
沖縄最古の工房を訪ねる。窓からできる琉球ガラス
今もなお、昔ながらの原料で琉球ガラスを作り続ける最古の工房、奥原硝子製造所を訪ねました。
昭和27年創業の奥原硝子製造所。現在は、琉球伝統文化を伝える施設「てんぶす那覇」の2階に工房を構えています
工場長の上里幸春さん
奥原硝子製造所の代表的な琉球ガラスの色は「ライトラムネ色」と呼ばれる淡いブルーグリーン。
さて、この色は何から生まれているでしょう?
答えは、窓ガラス。
「一見透明に見える窓ガラスですが、実は薄く色が付いています。私たちの工房では、窓ガラスを作った時に出る切れ端を主な原料として使っています。廃瓶などの素材もそうですが、砕いて、溶かして成形すると独特の美しい色が生まれます」と上里さん。
溶かすために砕いたガラス片。断面を見てみると、ほのかに色がついていることに気づきます
「窓ガラスをベースに、他の廃瓶などと重ね合わせてグラデーションをかけることもあります。稀にコバルトを使ってブルーを出すことはありますが、基本的に新たな着色はしません。再生ガラスが持つ、霞みがかっているような淡い透明感を生かして作ることにしています」
こちらは茶色い一升瓶と窓ガラスを原料として作られたグラス。懐かしさを感じる柔らかな黄色が印象的です
そのほかにも、工房には様々な色の再生ガラスが置かれていました
バヤリースの瓶。一見透明ですが、こちらも独特の雰囲気を生むそうです
残す美しさ。琉球ガラスに込められた気泡の魅力
通常のガラス成形では気泡が入ると失敗とされます。しかし、再生ガラスを使うと気泡が生まれやすく、完全になくすのは困難なこと。ならば、この気泡も美しさとして生かしていこうと、細かな泡をあえて残すようになったそうです。
剣山などの針を使ってガラスの表面に窪みをつけ、その上にさらにガラスを巻きつけることで意図的に気泡を作ることもあるのだとか。
模様のように入った細かな気泡がキラキラと反射して涼を誘います
丈夫さと安定感。使うことを意識した琉球ガラス
戦後のアメリカ統治時代、工房には駐在するアメリカ兵からたくさんの注文が舞い込みました。西洋のライフスタイルの中で使われる様々なガラス製品を作ることで、奥原硝子製造所の製品バリエーションは増え、形も洗練されていきます。
溶かしたガラスを竿の先にからめて、空気を吹き込んで成形していきます
再生ガラスは、冷めて硬くなるのが早いのだそう。時に二人掛かりで素早く形を整えていきます
ぽってりとした安定感とほどよい厚みのある器は、壊れにくく扱いやすいため、飲食店も信頼を寄せています。季節を問わず使える色合いとそのフォルムも魅力ですね。
ガラスのサイズを測る道具
日々の食卓で使われる器。「見本と同じ形、サイズで均質に作ることを大切にしている」と上里さん。ガラスが冷めた後の伸縮率を考えながら大きさを整えます
そんな「使える器」を作り続けてきた奥原硝子製造所。上里さんに、おすすめの使い方を伺うと、「しっかりした器なのでアウトドアにも持って行ってほしいなと思っています」という答えが返ってきました。
光に照らされることで色が映える琉球ガラス。たしかに太陽との相性抜群です。しっかりとしていて壊れにくいからこそ、キャンプでサラダやフルーツを盛り付けたり、冷たい飲み物を注いだり、開放的な場所で使ってみたくなりました。
<取材協力>
奥原硝子製造所
沖縄県那覇市牧志3丁目2-10 てんぶす那覇2F
098-832-4346
文:小俣荘子
写真:武安弘毅
※こちらは、2018年6月9日の記事を再編集して公開しました。
音楽を奏でる箱、オルゴール。
子どもの頃に遊んだ思い出を持つ人もきっと多いはず。そんなオルゴールを、高品質の楽器へと高めた日本人がいます。
オルゴールマイスターで指物職人の永井淳 (ながい じゅん) さん。
伝統的な技術を活用し、オルゴールの世界に「楽器オルゴール」という新たなジャンルを切り開きました。
永井さんが生み出した楽器オルゴール
*以前、その音色の素晴らしさをさんちでご紹介しました。「12月6日、音の日。指物職人が生んだ『楽器オルゴール』」
世界的音楽家も認めた品質
この音の品質は世界的音楽家からも認められ、永井さんのオルゴールのために楽曲が作られたほど。
坂本龍一さんによる作曲が実現した楽器オルゴールのオブジェ。エルメスの企画で作られました。下の台の部分が楽器オルゴールになっています。永井さんのオルゴールの音色を聴いて「この品質であれば」とオリジナル曲が作られたのだそう
音楽のプロフェッショナルをも納得させた楽器オルゴールは、いかにして生まれたのか。ご本人に伺いました。
オルゴールの音楽的課題は「音量、低音、共鳴」
そもそも、永井さんの楽器オルゴールと一般的なオルゴールは何が違うのでしょうか。
「既存のオルゴールには、3つの音楽的課題がありました。それは『音量、低音、共鳴』。これらをひとつずつクリアしていきました」と永井さん。
「まず、音量。おもちゃや装飾品ではなく、楽器として扱うのであれば人に聴いてもらえる音量が必要ですよね。でもオルゴールは、小さな金属板をシリンダーや紙の凹凸で弾いて音を出す作りなので、仕組みだけでは大きな音が出せないんです」
オルゴールの演奏装置
「それから、低音。オルゴールの音域は高音~中音が中心で、低音を響かせるのは苦手です。ですが、音楽の世界では低音がいかに響くかが重要だといいます。奥行きや重厚感につながりますからね。坂本龍一さんも低音を大事にされているようでした。
そして、共鳴。小さな金属弁を弾いた音はすぐに消えてしまいます。音が伸びないんです。短い音しか出ないとなると、おのずと曲のテンポが早くなります。自由にテンポを決められないことも、作曲家から避けられてしまう理由の一つです」
指物と共鳴箱が広げた可能性
その3つの問題を解決したのが、永井さんがもともと取り組んでいた指物の技術でした。
「多くの楽器は箱や板、管で共鳴させることで、大きくて良い音を出しています。そこで、オルゴールにも楽器の仕組みを取り入れることを考えつきました。
小さな金属音を響かせるために、オルゴールの装置を木箱に入れるんです」
オルゴールが木箱に入ると、木の繊維を伝わって音が響きます。木の繊維が長ければ長いほど音の響きはよくなるので、釘や接着剤を使わずに木工品を組み立てる指物の技術がぴったりでした。
指物の技術でつなぎ合わせた楽器オルゴール
さらに、永井さんはオルゴールを載せる専用の「共鳴箱」を作製。これにより広い音域の音を大きく伸びやかに響かせることが可能になりました。
オルゴールのための共鳴箱。オルゴール本体同様、木を組み上げて作られています。電気を必要とせず、この上にオルゴールを載せるだけで音を大きく美しく響かせます
こうして生まれた楽器オルゴール。低音域から高音域までしっかりと十分な音量で響くので、大勢の聴衆の前での演奏も可能に。
個人で楽しむだけでなく、各地で演奏会が開かれています。エルメスの企画で楽器オルゴールが製作された際も、2フロア分の吹抜け空間でコンサートが行われました。
60歳で職人デビュー
オルゴールに楽器としての価値を見出した永井さんですが、実は元々、オルゴールの職人でも指物の職人でもありませんでした。思いがけないきっかけが永井さんをオルゴールの道へと誘いました。
永井さんのユニークなキャリアは学生時代に始まります。兄弟で立ち上げた学習塾を経営。子どもたちに勉強を教える傍ら、カーレーサーとしても活躍していたというアクティブな一面も。
その後、家族の事情で学習塾をたたむことになり、建築の道へ。設計士としてインテリアの勉強をしている中で指物に興味を持ち、技術を学んだと言います。指物の職人としてのスタートは、なんと60歳のとき。
好奇心旺盛で勉強家の永井さん。興味を持ったらとことん探求するのが信条なのだそう
始まりはティッシュケース
そんな永井さんがオルゴールを作るきっかけを生んだのは、自らデザインした指物のティッシュケースでした。
屋久杉で作ったティッシュケース。ティッシュに杉の香りがほのかにうつるのだそう
このティッシュケースが世界的なオルゴールメーカーの社員の目に止まり、オルゴールを装飾する箱の製作依頼を受けます。当初は、箱の見た目の美しさが評価されての依頼でした。しかし、永井さんは別の思いを持ち始めていました。
「せっかくならもっと音質にもこだわりたい」
それから永井さんの猛勉強が始まります。
「オルゴールに関する文献を色々と読み込みましたが、音響について言及された資料は見当たりませんでした。
音響の専門家に聞いてもわからず、仕方なく楽器の専門書をあたって、ピアノやバイオリンの構造や音響学から多くを学びました」
グランドピアノの足がヒントになった、楽器オルゴールの足。足が3本だと圧力がバランスよくかかるので、下に置かれた共鳴箱に最大限の響きを伝えることができるのだそう。
もともとクラシック音楽が好きで、よく聴いていたという永井さん。車好きで機械構造についての知識や、建築での経験から木材に関する知識が豊富であったことも、研究の手助けとなりました。
「人生に無駄なことってないですね。共鳴箱は、塾で子どもたちと理科の実験で作っていました。そんな経験も生きています」とにっこり。
70種類以上の木を試し、試行錯誤を重ねて完成したオルゴールのための箱。メーカーに届けたところ、技術者が全員驚きの声をあげたのだそう。こうして永井さんは、オルゴールメーカーのコンサルタントを務めることとなり、その後もオルゴールの開発をしてきました。
色々な木材で作られたオルゴールが並ぶ棚。一番響きが良い木材はメープルなのだそう
パラレルなキャリアが生きる、ものづくり
「きっと、職人一筋だったらこの発想にはなっていなかったと思います。外側からの視点でオルゴールを見られたからこそ、素直に疑問が湧いて改良点を見つけられました」
「これまでの知識、経験、人との繋がりが今に生きています。楽器オルゴールはまだ完成ではありません。
もっといい音、心地よい音をたくさんの人に聴いてもらえるよう、これからも開発していきたいですね。他にも、高齢者向き、体が不自由な人向きなど、色々なアイデアがあります」
永井さんの探求はまだまだ続きます。ひとつの仕事に縛られない永井さんの生き方が、これからも豊かな音を生み出していきます。
<取材協力>
永井淳さん
※永井さんの作品が展示される工芸展
「中野区伝統工芸展 (Nakano Traditional Craft Exhibition)」
会期:2019年6月7日〜9日
会場:なかのZERO 西館 (東京都中野区中野2-9-7)
問い合わせ:03-3228-5518
主催:中野区伝統工芸保存会
文・写真:小俣荘子
合わせて読みたい
〈 ものづくりの発想は意外なところに 〉
ものづくりのアイデアは、私たちの想像を超えて色々なところにあるもの。意外なところから生まれたものづくりを紹介します。
世界が愛する日本のコーヒーサイフォンと「医療機器」の意外な関係
1人の青年の熱い想いから生まれた、コーヒーサイフォンの物語。国産初となる「コーノ式」サイフォンのヒントは、医療器具にあったそうです。
→記事を見る
皇室愛用品のきっかけは「ママ友の相談」だった。高知の“木のおもちゃ屋”誕生秘話
「子どもがお風呂で遊べる、木製のおもちゃが欲しい」というママ友の声から生まれた手作りのおもちゃ。今や全国にファンを獲得した高知のおもちゃメーカー「山のくじら舎」にその誕生秘話を伺いました。
→記事を見る