いま大牟田が面白い。「IN THE PAST」で感じた、魅力的な街に必要なもの

人は「そこでしかできない体験」を求めて旅をする。

たとえば、ローカルショップでの買い物やその土地の食材をを楽しむ食事。豊かな自然や歴史ある文化遺産巡り。

でも、それは本当に「そこでしかできない」ことなのだろうか。

各地の郷土料理を出す店は東京にもあるし、土地ならではの特産品はネット上で簡単に買える。

その場所でしか買えない、食べられない、見られないものは、どんどん少なくなっている。もちろん、どんな場所に住んでいても欲しいものが入手できたりするわけで、それ自体悪いことではない。ただ少し、世界が狭くなってしまったような寂しさを覚えてしまう。

そんな折、取材で訪れた福岡県の大牟田という街で、旅に出ること、ある場所に「もの」や「人」が集うことの価値や可能性を再認識する機会に恵まれた。

“食”を扱う「PERMANENT」と、“もの”を扱う「みんげい おくむら」

「僕がここで展示会をやりたいと思えたのは、定松さん夫妻のやってきた『PERMANENT(パーマネント)』が前提にあったからなんです」

そう話すのは、世界中の民藝や手仕事の器、生活道具などを扱うwebショップ「みんげい おくむら」の店主、奥村忍さん。今年8月、大牟田市内で企画展「民藝奥村“Unknown”展」を開催した。

in the past

会場となったのは、2017年に誕生したばかりの多目的スタジオ「IN THE PAST(イン ザ パスト)」。リトルプレス「PERMANENT」の発行などをおこなうグラフィックデザイン事務所「THIS DESIGN」の定松伸治さん、千歌さん夫妻が運営する空間だ。

基本的には「THIS DESIGN」のオフィス兼お二人の自宅でありつつ、今回のような企画展やポップアップストア、トークショーなどのイベントも開催している。

「PERMANENTは、“食”が取り上げられている雑誌で、とても興味深く読んでいました。一方で僕は食の周辺にある“もの”を集める活動をしている。

たとえば『PERMANENT』を読んでいる方が会場に来た時に、その考えが増幅されるような展示にしたいなと思いました」

おくむらさん
奥村忍さん

「PERMANENT」は、“つくる、たべる、かんがえる”を掲げる季刊誌。生きる上で最も根源的な営みの一つである「食べること」について考え、発信する媒体として、丁寧な取材に基づいた記事で構成されている。

リトルプレス「PERMANENT」
リトルプレス「PERMANENT」

同紙のステイトメントには、“「食べること」への認識を肥やす”とある。すぐに答えを出すのではなく、考え続け、肥やしていく姿勢が印象的だ。

養鶏場での鶏捌きの生々しいレポートや、子連れで入れるレストランがなぜ少ないのかといった社会的課題への取り組みなど、様々なテーマに真摯に向き合う。読者も自分の頭で考え、肥やすことが求められるが、そこには前向きに行動するヒントが散りばめられていて、背筋が伸びる。

「用」がないものを集めた“Unknown”な品々

そんな「PERMANENT」を通じた定松さん夫妻の活動が前提にある今回の展示。

「いろんな意味で、ほかの展示会ではやらないことをやっています。特に用途がないものを持ってきたりとか。

『用』がないものってやっぱりあるわけなんです。『用』はないけれど、家に置いておきたくなるような、ただ、美しいもの。

暮らしの中で『用』があるものだけになるとちょっと窮屈に感じる部分もあって、それを和らげてくれる気もします。

そういった観点で、いつもより枠を広げて持ってきました」

in the past

定松さんは今回の展示会について、告知の中で以下のように説明している。

表題の「Unkown」は不明、不詳、名も無い…という意。また、「Unkown」には、日本語の「安穏(あんのん)」という〝音〟が隠れていると考えました。安穏とは〝…心静かに落ち着いていること。また、そのさま。平穏無事…〟これも今回の企画展のテーマであり、今の時代、重要なキーワードだと思います。作者や年代が不詳なもの。用途が不明なもの。だけど、ただただ美しい…。そういう『もの』を観ることで、『もの』の価値や、『もの』の本質の在り処を探して頂きたい。

何か答えを提示するのではなく、「もの」の本質の在り処を探して欲しいとする姿勢。「PERMANENT」にあった“認識を肥やす”という言葉がここにも通ずる。

サダマツシンジさん
定松伸治さん

「奥村さんが言っていたように、『PERMANENT』は“食”なんです。

暮らしを構成する衣食住をどう扱おうかと考えたときに、その中で本当に無理なく続けていける“食”が残りました。

でも、それだけを大事にしているわけじゃなくて、暮らしにまつわる他のことも付随してきます。

考え方のベースは『PERMANENT』に置きつつ、そこではできないことを、『IN THE PAST』でできれば」

と千歌さんは話す。

定松千歌さん
定松千歌さん

「IN THE PAST」は、“過去には”という意味を持つ。

定松さんたちは「過去」を、様々な“出来事と経験”が集積した時間と捉える。その「過去」を現在に呼び出し、“出来事と経験”を集った人たちとともに“肥やす”。そんな時間をこの場所で持ちたいという。

 in the past
「IN THE PAST」とはどのような場所なのか

そこに今回展示された「用」にしばられない「もの」たち。

たとえば何に使うのか分からないハンマーのような「もの」は、「PERMANENT」を通じて暮らしを真剣に考えている人たちの目に、どんな風にうつるのか。

in the past

「食べること」や暮らしについて普段から考えている人たちだからこそ、肩の力を抜いて「用」のないものたちを楽しめるのかもしれない。

実際に手に取り、定松さんたちと話したり、奥村さんから直接説明を聞いたりすると、Web上で情報を見るだけでは得られない、体感に紐づいた知識の習得もできる。

様々な文脈を持った「もの」や「人」が「IN THE PAST」に集まり、「そこでしかできない」経験がうまれ、肥やされていく。

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なぜ大牟田なのか

大牟田に人々が集える場所をつくった定松さん夫妻。

二人はもともと福岡市内で活動していたが、やがて、千歌さんの故郷でもある大牟田にやってきた。「IN THE PAST」の建物自体も、千歌さんのご両親がかつて調理器具の専門店と生活雑貨店を営んでいた場所だ。

ルーツがある。それもひとつの判断材料になった。加えて、二人のやりたいことを実現できる環境を探した結果、たどり着いたのがこの場所だった。

in the past
商店街入り口、白い扉の建物に「IN THE PAST」は入っている

千歌さん曰く、アクセスがしやすい場所であることが、大牟田の持つポテンシャルのひとつなんだとか。

「福岡や熊本の中心部に電車一本で行けるし、佐賀空港も使えるし、バスも出ている。意外と交通の便がいいと気づいたんです。

自分が外に出やすいということは、人も来やすいってことかなと思って、サダマツに相談したら『確かにね』って」

人口でみると福岡市の10分の1にも満たない大牟田市だが、実は人の行き来が起こりやすく、福岡や熊本へ1時間程度で出られるため、ベッドタウンとしての可能性も秘めている。

変わりゆく大牟田の街

「IN THE PAST」のようなパブリックな特性も持った場所を運営していると、いわゆる「地方創生、まちづくり」といった文脈の相談もやってくる。私自身も、ローカルで活動している人たちに話を聞くとき、そういった質問をしてしまうことが多い。

しかし定松さん夫妻はそういった考えはまったく持たず、あくまで自然体だ。

「まちづくりとか、考えてはないですね。自分たちが住む街で、いかに二人で楽しく過ごすか。それだけです」と、千歌さん。

「やりたいことがある人たちが街に来て、やりたいことをやって、元気に過ごす。そのうちに色々とコミュニティができて、気づいたら10年後、街ができていた。

それが、持続するまちづくりだと思うんです」

やりたいことの実現がまず最初にあるので、たとえこの場所が福岡であってもどこであっても、基本的には変わらない。我が道を行く二人ではあるが、「IN THE PAST」ができる少し前から、大牟田の街自体も少しずつ変わってきていたという。

「それまでも、近くの窯元との付き合いがあってこの辺りには来ていたんですが、寄りたいと思える場所があまりなくて、滞在せずに通りすぎてしまう街でした。

取引先の窯元のご実家が元々やっていた『博多屋』というビアガーデンがあって、そこは本当に素晴らしい場所なんだけど、夏しかやっていないし。

そんな中、美味しいイタリアンのお店『nido(ニド)』がオープンし、その後、同じ並びに『IN THE PAST』もできた。

『nido』が食材を仕入れている生産者さんたちと、たまたま定松さんたちも『PERMANENT』で繋がっていたりして、俄然面白くなってきました」

と、奥村さん。

大牟田駅の近くには、「taramu(タラム)」というモーニングも提供するユニークな本屋さんができて、朝の時間を有意義に過ごせるようにもなったのだとか。

taramu
大牟田駅近くにある「taramu books & cafe」。本・雑貨の販売に、カフェスペースも併設されている

「『nido』の食材にしても、『taramu』で朝出てくるローカル新聞(有明新報)にしても、ほかの街では体験できないことなんです」

taramu
taramuで本棚を物色する奥村さん

「本当に(大牟田は)変わったと思う。Facebookとか、SNSの影響も大きいです」と、定松さんも話す。

情報格差が薄まって、東京が文化の発信地だと特に意識しない世代が増えてきたとも感じている。SNSの情報が思いがけず拡散し、それを見た人が足を運ぶ。

千歌さんは、「Webですべて見れてしまう、完結してしまう場合もあると思います。でも、今回の奥村さんの商品とか、やっぱり直接見るとより感じる部分があるし、在廊してもらって直接お客さんに説明しているのを聞いていて『へー』っていう面白さはすごくある。

そこまでの経験をSNSではなかなか伝えられないんじゃないかな」と、リアルな場所で「もの」や「人」と接する意義を実感している。

in the past

意識はするが、依存はしない。ゆるやかな共存

大牟田に来てからの2年間、実感としてはどうだったのか。

「『PERMANENT』をやっていたから、たとえば『nido』の人たちと距離が縮まるのも早かった。生産者さんのところに一緒に行ったりとか、好きなワインも似ているので分けてもらったりとか(笑)。

他にも面白い人たちが点在していて、ラッキーでしたね。

あとは、今回のような展示会をやると福岡からも友達が来てくれるし、僕たちはあまり大牟田から出なくなりました。人に来てもらえるのかどうかは、ずっと続く課題ですけど、今は上手くバランスがとれているような気がします」

と、定松さん。

in the past
「時々可否」と銘打たれた期間限定のカフェもオープン。定松さんが自ら焙煎し、淹れてくれるコーヒーはとにかく飲みやすく美味しいの一言

「nidoの田中くんも、taramuの村田さんも、博多屋のるいさん(※奥村さんの取引先でもある、小代焼 瑞穂窯の福田るいさん)も、みんな切磋琢磨してるとは思うけど、依存しあっているわけではなくて。

世代もばらばらで幅があるけど仲が良く、でも、べたべたしているわけじゃない。ちょうど良い感じで、ゆるやかに共存しているんだと思います」

in the past

街から街を訪ね、新たな“出来事と経験”を運ぶ奥村さん。“出来事と経験”を共有し、肥やす場をつくった定松さん夫妻。

運ぶことと肥やすこと。この循環が心地よい空間を生み、街自体の魅力にもつながっている。

東京に戻ってからも、千歌さんが言う「ゆるやかな共存」がしばらく頭から離れなかった。すぐにでもまた大牟田に行きたい。

それは、「博多屋」のハーフ&ハーフビールがあまりに美味しかったからか。それとも食べ逃した「taramu」のモーニングが気になっているからか。いつの間にか自分も「ゆるやかな共存」の輪の中に入ったような、そんな気分になっているからなのかもしれない。

<取材協力>
「IN THE PAST」
https://inthepast.jp/
「みんげい おくむら」
http://www.mingei-okumura.com/

文:白石雄太
写真:中村ナリコ

そろばんがなくなる?日本一の産地・兵庫県小野市に生まれた「新たな可能性」

かつて、計算の道具として人々の生活に欠かせなかった「そろばん」。

最近では計算力や集中力を高める効果があると注目を集め、あらためて習い事としての価値も見直されているところです。

しかし、長く続いた需要の低迷を受けて、つくり手である職人の数も少なくなり、このままではそろばんづくりが続けられない、という危機的な状況も生まれています。

そんなそろばんの「今」を知る人を、生産量日本一の産地に訪ねました。

生産量日本一「播州そろばんの町」兵庫県小野市

大きなそろばんのモニュメント
大きなそろばんのモニュメント

そろばんの二大産地の一つ、兵庫県小野市。

ここで安土桃山時代から製造が始まったとされるのが、生産量で日本一を誇る「播州そろばん」です。

昭和35年の最盛期には、年間360万丁もつくられていた「播州そろばん」。

その現状について、明治時代に創業し、そろばんの製造販売を手がけてきた株式会社ダイイチの宮永 信秀社長に聞きました。

株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長
株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長

習い事としてのそろばん・珠算の可能性

「最近は、そろばんを習いはじめる子どもたちの年齢がどんどん下がってきています」

以前であれば、小学校3年生ごろに受ける珠算の授業が、そろばんに触れるはじめての機会という子どもがほとんどでした。

今は、年齢が小さいほど力を引き上げてやれる。と考える親が多いのか、3~4歳くらいからはじめる子どもが増えたんだそう。

ワークショップでつくるカラフルなそろばん
ワークショップでつくるカラフルなそろばんは子どもに人気

「脳や学力への影響を実証するのは難しいですが、そろばん自体はさておき、珠算教育の効果は確かにあると個人的には考えています。

珠算では、問題を読み、読み上げた数字を指で弾き、出てきた答えを紙に記入する。これを決められた時間の中で完結させることが求められます。

一定時間、座ってしっかりと集中する。それが習慣となれば、そのほかの勉強の場面でも集中力が発揮できる。ということは実感しています」

電卓の登場。全国の珠算塾の減少。さらに子どもの数自体も少なくなっている。

こうした状況にありながら、そろばん・珠算教育の価値が見直されてきた関係で、再びそろばんの需要が増えている地域もあるとのこと。

「弊社の実績としても、わずかではありますが、増えつつあります。

ただし、子どもの数自体は少なくなっているので、大幅な増加は見込めないと思っています。

この技術をきちんと守りながら、海外輸出なども少しずつ始めているところです」

ダイイチ 宮永社長

計算の道具から教育に欠かせない道具へ。

一度は役目を終えたかに思えたそろばんが、再び脚光を集めようとしています。

そろばんは、四分業制でつくられる工芸品

道具としての役目を変えつつあるそろばん。しかし熟練の職人が手作業でつくり上げる工芸品は今、存続の危機を迎えています。

工芸品としての美しさもある「播州そろばん」
工芸品としての美しさもある「播州そろばん」

「播州そろばんは、四分業制でつくっています。

そろばんの珠(たま)を削る職人。削られた珠に染色して竹ひごが通る穴をあける、珠仕上げの職人。竹ひご自体をつくる職人。そして最後に組み立てる職人。

それぞれ専門の職人の力が合わさってそろばんが完成します」

と宮永さんが言うように、一人だけでは完結しないのがそろばんづくりの難しいところ。

ダイイチも、社内にいるのは「組み立て」の職人のみで、その他の工程はそれぞれ外部の職人にお願いしてつくっています。

ダイイチの組み立て職人さん
ダイイチの組み立て職人さん
珠を竹ひごに通していく作業
珠を竹ひごに通していく作業

「各工程、使う道具や機械もことなり、それぞれ熟練した感覚と経験が必要です。

過去を遡っても、全工程をひとりでまかなった職人は、いないと思います」

たとえば、珠を仕上げる職人が担当する染色と穴あけ。

なんとなくシンプルで簡単そうにも思えますが、寸分違わず綺麗な穴をあけていくには相当の技量が必要。一朝一夕には身につきません。

そろばんは、珠が動き過ぎても、逆に動かなすぎても使い勝手が悪くなるもの。

播州そろばんでは、理想の使い勝手を追求した結果、珠の穴の直径は3.05ミリ、そこに通す竹ひごの直径は2.95ミリと明確な基準が定まっています。

この穴を開けるのが、難しい
この穴を開けるのが、難しい

「年間に360万丁をつくっていた時代には、四分野それぞれに何十軒と会社があり、競い合っていました。

大量につくりながら、品質も高めていくには、分業が理にかなったやり方だったのだと思います」

需要の高まりを受けて確立されていった分業制。専門の職人の技能は向上しましたが、今では後継者不足という大きなリスクを抱えることになりました。

竹ひご職人はあと一人。危機的な状況

四分野の職人は、どれくらい残っているのでしょうか。

「珠削りは60代と80代が1名ずつ。珠仕上げも同じく60代と80代が1名ずつ。竹ひごづくりは70代の職人があと1名だけ残っています。

組み立ての職人は12〜13軒前後と、比較的多く残っていますが、法人として運営しているのは弊社のみで、あとは個人でやられている方たち。正直、危機的な状況です」

ダイイチ 宮永社長

どこかひとつでも倒れてしまうと、製品自体がつくれなくなってしまう分業制。

播州そろばんにおいては、四分野のうち、三つの分野がいつ無くなってもおかしくない状況となっています。

なお、もう一つのそろばん産地である島根の「雲州そろばん」に関しては、すでに「組み立て」以外の職人が断絶しており、材料を播州から供給している状態なんだそう。

前例はないものの、いずれは自社で四分野すべてをまかなう必要があると、宮永さんは考えています。

「私自身、36歳で小さい子どももいます。まだまだそろばんで飯を食べていかないといけない。当然、先祖代々つないでくれたものを次の世代に残していきたい気持ちもあります」

引退された珠削りや珠仕上げの職人さんから機械を譲り受けるなどして、自社でできる範囲を広げていこうと挑戦している最中とのことでした。

つくったものに名前が残る仕組み

従来のそろばんは、組み立てた職人の名前だけが枠に彫られて商品となっていました。

「作者として、一人の名前しか入っていないので、すべてその職人だけでつくっていると思われがちです。

四分業でやっていることをもっと知っていただきたいし、全員の名前を出すことで、自分の仕事に誇りと責任がうまれるのではないかと思っています」

ダイイチでは、左端の珠に四分野の職人すべての名前を彫った商品を発売しています。

関わった職人の名前を珠に刻んでいる
関わった職人の名前を珠に刻んでいる

やはり自分の名前が残る分野に人が集まりやすく、それが、組み立ての職人が多く残っている要因のひとつ。

現状では後継者不足の解消に直接つながることは難しいかもしれませんが、少なくとも今残っている職人たちのモチベーション向上につながる取り組みです。

使わない人が買うそろばん

その他、ダイイチでは本来のそろばんだけでなく、そろばんの技術や素材をいかした商品の開発・販売も積極的におこなっています。

ストラップや時計、知育玩具にアクセサリーまで。社内の意見を吸い上げつつ、まずは形にしてみることを大事にしているそう。

さまざまな商品を開発・販売している
さまざまな商品を開発・販売している
そろばんの珠をつかった時計
そろばんの珠をつかった時計

「そろばんの珠、竹ひごなど、そろばんのパーツを使う前提ですが、なにかそろばん以外の可能性があるんじゃないかと考えています。

売れる商品が増えれば職人の仕事も増やせますし、後継者育成にもつながるかもしれません」

5と9しかあらわせない、合格祈願のストラップ
5か9しか示せない、合格祈願のストラップ

「使わない人がそろばんを買う時代がくる」

宮永さんの父で、ダイイチの現会長はよくこんな風におっしゃっていたそう。

計算の道具としての役目が終わっても、きっとそろばんを必要とする人、魅力に思う人が出てくるはずと、考えられていたのかもしれません。

播州そろばんのこれから

喫緊の課題である後継者不足の問題は非常に大きく、その解決は一筋縄ではいきません。

それでも、少しずつ糸口は見えてきています。

ダイイチには、20代と10代の職人が一人ずつ入社しました。

2人の若い職人が働いている
2人の若い職人が働いている
ダイイチのそろばん職人
ダイイチのそろばん職人

今は「組み立て」を学んでいる彼らが、いずれはほかの工程にも習熟していけるかもしれない。

「仕事が楽しい」と話す彼らの後に続く若者がまだまだいるかもしれない。

若い職人がいきいきと働く姿を見ていると、そんな明るい可能性を感じずにはいられませんでした。

<取材協力>
株式会社ダイイチ
兵庫県小野市垂井町734
http://daiichi-j.com/

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年3月1日の記事を再編集して公開しました。そろばんに長けた人は、10桁以上の暗算もできるそうです。絶やしたくない道具ですね。

「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは

戦国時代に名を馳せた伝説の石積み職人「穴太衆」

自然にある石を加工しないままに積み上げ、石垣をつくる。

この「野面積(のづらづみ)」という技法を得意とし、戦国時代、日本中を席巻した職人集団がいました。

現在の滋賀県大津市坂本 穴太(あのう)地区に暮らしていたことから、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工(いしく)職人たち。

彼らがつくる石垣は非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城の築城時に穴太衆を召し抱えるなど、全国の城づくりに大きな影響を与えたとされています。

ただ無秩序に積まれているように見えて、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでおり、地震にはめっぽう強く、豪雨に備えて排水をよくする工夫も備わっている。

坂本の石積み

自然のままの石を使いながら、どうしてそんなことができるのか。その驚異の技を現代の生活にいかす道はあるのか。

現代において唯一、穴太衆の技を継ぐ株式会社粟田建設 15代目の粟田純徳さんに話を聞きました。

石積みの里で穴太衆の技を継ぐ、粟田建設

比叡山の門前町である大津市 坂本。かつての穴太衆が携わったとみられる石垣が町のそこかしこに点在しており、「石積みの里」としても知られています。

石積みの里として知られる坂本
石積みの里として知られる坂本
琵琶湖を望む
琵琶湖を望む

この地で会社組織として存続しているのが株式会社粟田建設です。

最盛期には300人を超えたとされる穴太衆の石工職人ですが、伝承する家は今や粟田家ただ一軒になっています。

粟田家
粟田家

「需要の問題が大きいですね。徳川の時代になって、一国一城令ができてからは新しくお城を建てることもなくなって、メンテナンスくらいしか仕事がなくなり、ほとんどの家は職を変えるしかなかったんだと思います」

粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん
粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん

新規の仕事が減少し、そもそもが丈夫で長持ちであるがゆえにメンテナンスも滅多に発生しない。そんな状況ではほかに仕事を探すほかありません。

一方の粟田家は、比叡山延暦寺をはじめ、近隣の神社仏閣の仕事を引き受けながら今日まで存続してきたそう。

「穴太衆は、石積みだけでなく今でいう土木作業も一手に引き受けてきました。うちの家は幸い、そのあたりも含めてやらせていただきながら技術をつないできました」

自然石をそのまま使い、美しく丈夫に積み上げる「野面積」の秘密

土木作業全般に通じている穴太衆ですが、やはり一番の特徴は「野面積」。自然石をそのままのかたちで使い、堅牢で美しい石垣を積み上げる技です。

粟田建設の周囲には石積みが多く残っている
粟田建設の周囲には野面積の石積みが多く残っている

石積みの技には、「野面積」のほかに、綺麗な形に石を加工して使う「打込みハギ」や「切込みハギ」といった方法もありますが、地震や豪雨への備えを考えた時「野面積」がもっとも耐久性にすぐれていると粟田さんは言います。

「たとえば、穴太衆には『石は二番で置け』という教えがあります。

これは、荷重がかかる位置を必ず石の面(つら)から少し奥のところに持っていきなさいということです。

切込みハギの場合、石の表面をピタッと揃えるので、一番前に荷重がかかってしまう。そういった積み方では、地震などが起きた時に石が滑る可能性があります」

石の表面がピタッと合っている方が、外から見た時にはなんとなく綺麗で、丈夫に見えます。しかし、様々な方向から力が加わったとき、石の面同士がくっついていて遊びがないと、力が分散されず崩れる可能性がある。

話を聞くと、なるほどと感じます。

穴太衆にはこのように、やってはいけない積み方がいくつか伝えられていますが、それ以外にマニュアルなどは存在していません。

形と大きさが異なる自然の石をそのまま使うため、マニュアルに残しようがないのです。

洲本城 南の丸 石垣修復の様子
洲本城 南の丸 石垣修復の様子

「石の声を聞く」穴太衆の真髄とは

学ぶべきマニュアルがない中で、どのように石工として習熟していけばよいのか。

粟田さんの祖父で、13代目だった万喜三さんは「石の声を聞く」と言い残しています。

「要するに、石を見る目を養う。どれだけ石を観察しているかが重要だと思っています」

現場に出て仕事をするうちに、万喜三さんの残した言葉をそう解釈するようになった粟田さん。

粟田純徳さん

「僕らの仕事はまず“石選び”なんですわ。

実際に石垣をつくる現場を見て、そして山へ行って石を選ぶ。自然石なので図面には起こせないし、同じ石はひとつもありません。

自分の頭の中で組み合わせをイメージして、買ってきて現場で置いていきます」

この石選びの段階で、穴太衆の石積みの仕事の八割は終わったと言われるほど、重要な作業です。

穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある
穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある

「石屋の上手い下手は、残った石の量を見ればわかる。とお祖父さんには言われていました。自分の頭の中で組み立てたものと、実際に現場で積んだものとが、どこまで合うのか。

僕たち穴太衆にとっての究極は、たとえば100個の石で完成する石積みがあるとして、山で100個の石を買ってきて、その全てを積み切って最後にひとつも余らないこと。

それが、石積みとしても理想だし、会社としても余計な石を買わずに済むから望ましいですよね」

頭の中で石垣の完成図をイメージし、そのイメージに合った石を山から持ってくる。そしてそれがピタリと合い、ひとつも余らせない。神業のように聞こえます。

個人宅の石垣修復工事の様子
個人宅の石垣修復工事の様子

「もちろん、石がひとつも余らないなんて、不可能なんです。でも、その不可能に近づいていくっていうのが、修行ですよね。

それが、石を見る目を養う、石の声を聞く、っていうことやと思います」

経験を積む機会が減っている

そういった面で、祖父の万喜三さんは本当にすごかったと、粟田さんは振り返ります。

「僕や親父と比べて、石を見る目がかなり長けていたと思います。

ほとんど石を残さなかったですし、指示するところにピタリと石が入りますし。

規格が存在しない自然石を組み合わせるって、やっぱり難しいんですよね。何年もやってきて、今あらためて当時のお祖父さんのすごさがわかるようになりました」

粟田純徳さん

そんな祖父や、祖父とチームを組んでいたベテランの職人たちに、穴太衆の一から十までを教わってきた粟田さん。今、下の世代にどう技術を引き継いでいくのか、悩ましい状況であるといいます。

「自然石を相手にする、マニュアル化のできない仕事なので、基本は現場に出てやってみるしか上達する術がないんです。

特に、石を見る目を養うためには新規の石積みに関わって、石を選ぶところから経験しないと腕が磨けない。

それが、今は新規の工事が少ないのでなかなか教えられない。そこは本当に厳しいと感じています」

個人宅の注文も、かなり減少してしまったといいます。

「今は、石垣を家の前に積もうという方はなかなかいないですし、そもそも新築の日本家屋自体が減ってきているので難しいです。

お城や寺院の修復については、無くなりはしないでしょうが、一度修復すると長持ちしてしまうので、需要自体が増えてきません」

穴太衆の石積みを海外へ

国内の需要拡大を待っていては埒が明かないと、近年、粟田建設では海外での施工に活路を見出しています。

ポートランド日本庭園拡張工事
ポートランド日本庭園拡張工事

「新規の大きい工事として、ポートランドの日本庭園の仕事をやりました。庭園の管理をされているのが日本の方で、その方から声をかけていただいて。

庭園の拡張工事でしたが、建物の方を設計されたのが建築家の隈研吾さんで、ちょうど現場でお話しする機会があり、『今度ダラスで別のプロジェクトがあって、石積みも取り入れたい』とお話しいただいて、そちらもやらせていただくことになりました」

ダラスではビルの外構工事を全て請け負ったそう。現地で取れる花崗岩を使い、スタッフも現地の土木作業者を雇いながら3〜4ヶ月の施工をやり終えました。

「こういった外構工事で、石積みが日本でも多く採用されるようになれへんかなと。アメリカで評判になってくれると、日本でまた流行る可能性も上がるかなと期待しています。

今回のように建築家の方やデザイナーの方と仕事をすると、今までになかった石積みの活かし方に気づきますし、刺激をもらえますね」

シアトルのクボタガーデン
シアトルのクボタガーデン

法律の壁

石積みを取り巻く大きな課題として、海外でも国内でも、建築にまつわる法律の問題が付いて回ります。

たとえ、400年の間風雪に耐えてきている実績があっても、新規で建造物を作る際には、耐震基準をクリアしていると数字で証明しなければなりません。

その都度で異なる形・大きさの石を組み合わせる穴太衆の石積みにおいて、現代のフォーマットに沿った数字を提出することは現実的でなく、実質、ある程度の規模を超えると新規施工ができない状況になってしまっています。

竹田城 石垣の修復工事
竹田城 石垣の修復工事

いくつかの実証実験や、京都大学の研究グループによるシミュレーション等で良好なデータが出ているものの、現行の法律が変わらない限り、状況は大きくは変わらないようです。

ダラスの外構工事では、本来穴太衆では小石を詰めるような部分にコンクリートを使用し、その合わせ技で建築許可が下りました。

石の組み合わせだけでつくる方が丈夫であると確信を持ちながら、それでも、「許される範囲の中で最大限丈夫に、美しく仕上げるしかない」と粟田さんは言います。

石積みと人間社会。今後の穴太衆

「僕らの石積みは人間社会と一緒なんです。大きい人もいれば小さい人もいる。

性格のいい人も悪い人も。それらが組み合わさったのがこの世の中で、だから面白い」

穴太衆 粟田さん

そう聞いてから眺めてみると、確かに一つとして同じ石が使われていない穴太衆の石垣は、とても個性豊かで味わい深く見えてきます。

「個性があればあるほど、それが生きてくる。あえて悪い石を使うこともあります。

大きい石はより大きく見せてあげる。そのために、まわりに小さい石を配置する。すべてに役割があって、大事なんです。

『綺麗な石ばかり使ってなにがおもろいねん!』とお祖父さんはよく言っていました」

そんな多様性を大切にする石積みだからこそ、職人ごとの個性も出てくるのだとか。

石積みの里 坂本

「僕の積んだ石垣、親父が積んだ石垣、お祖父さんの石垣。昔からうちの家のことを知っている人が見たら、すぐにわかるって言いますよね。性格が出るんで。

お祖父さんは、繊細で優雅な感じ。親父は荒々しい。

僕は、そのどちらも。両方を見てるんで良いところを取りたいと思ってやっています」

粟田さん

そんな、穴太衆の石積みならではの魅力を残したまま、どうにか生き残る手立てを考え、既存技術との共存や海外への進出を考えている粟田さん。

「理想は、昔ながらの技、工法をそのままに残っていきたいんです。

ただ、実際の話それでは残れない。そこは、コンクリートとの兼ね合いなんかも含めてやるしかないと思っています。

並行して、実証実験や土木学会での発表を通してアピールは続けます。

なんとか、昔の伝統技術に関しては、法律の緩和を訴えていきたいですね」

現在、粟田建設には粟田さんを除いて3名の従業員が働いており、そのうち一人はまだ10代の若者。

「石の仕事、職人の仕事がやっぱり好きなんやと思います。やっぱりきつい仕事ですんで、そうじゃないと続きません。

そんな若者もいてくれてますし、僕も息子がいるんで、つないでいきたい。

現状では、本当に胸を張って継いでくれって言うのは厳しいですけど。なんとか、生きる道を探してあげたいと思っています」

自然の石をそのまま用いて、数百年の時を耐える石垣をつくる。その石垣は地震にも、豪雨にも強く、そして美しい。

この驚異の技が、現代に新たな形でいかされた時、どんな姿を見せてくれるのか楽しみでなりません。

<取材協力>
株式会社粟田建設
077-578-0170

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年7月16日の記事を再編集して公開しました。これから石垣を見るときは、一つひとつ積み上げられていく光景を想像しながら、思いを馳せてみたいと思います。

中川政七商店が残したいものづくり #06染物

中川政七商店が残したいものづくり
#06 染物「注染手拭い」


商品三課 村垣 利枝


てぬぐいは、ハンカチより大きなキャンバス一面に大胆に絵を描くことができ、毎日持ち歩くことも、飾ることも、ちぎって使うこともできる自由な布です。
そういったところが好きで、私もてぬぐいに絵を描いて染めてみたいと考えていました。
有難いことに夢が叶い、現在てぬぐいのデザインに携わっています。
 
中川政七商店ではいろいろな技法の手ぬぐいを企画しますが、多くは「手捺染」と「注染」で作っていて、中でも注染は染めの理屈が分からないと図案を描くこともできません。
注染てぬぐいのデザインの初めの一歩は工場見学に行くところから始まります。
 
私も手拭いの産地、大阪堺の工場に見学に行きました。
 

そもそも「注染」とは20数メートルほどの生地をジャバラ状に重ね合わせ、その上から染料を注ぐことで1度に約25枚のてぬぐいを染めることができる、大阪でうまれた技法です。
工程は複雑で、大まかに説明すると以下のようなことが1工程1工程職人の手作業によって行われていきます。
 
生地の上に型紙を置き、その上から染まって欲しくない部分に防染糊を置く「糊置き」

染色台(せんしょくだい)にのせて調合した染料を注ぎながら染める「注染」

防染糊を落とす作業「水洗い」

天井の高い屋根のあるところで干す「乾燥」
 
例えばこの干支のてぬぐいもシンプルな絵柄ですが、生地を紺色に染め、ねずみのシルエットの外側紺色部分に糊をつけ、ねずみの体部分の色を白く抜きながら耳や鼻は広く染まりすぎないように境界線を糊で引き、慎重に注ぎ染めていきます。
 
どこを白く抜くか、どれくらいの幅の線で描けばいいか、色が混ざらないようにどう配色を考えるか。逆に色が混ざった美しさをどこで出すか。
技法を知りはじめて「どうやって描こうか」わくわくすることができました。
 


今お話しした工程は染めだけの話で、染める前には生地を織る人、生地を染められる状態に整える人、生地に色をつける場合は生地を染める人がいて、染める型を作る人がいます。
染めた後は洗ってしわくちゃの生地を伸ばして、カットする人。商品になるように折りたたむ人。
1枚の布はたくさんの人の手を渡り、てぬぐいとなりお店に並びます。
また、殆どの工程が分業で行われているため、一社廃業してしまうと他を探すか、自分たちでその工程を担わなければならなくなります。
先日も整理加工(生地を染められる状態に整える人)業者が1社廃業されたそうです。
てぬぐいのさんちには作り手が減りつつある危機感もあります。
 
なんとなくてぬぐいが好きだった私ですが、注染がどれだけ貴重なものか、どれだけ奥深いものか。
そのものを深く知ることでもっと好きになり、てぬぐいの見え方が変わりました。
 
注染に注ぎ込まれた思い、技術をこれからも伝えていきたいと思います。
 
商品名:注染手拭い 干支玩具 子
工芸:注染手拭い
産地:大阪府堺市
一緒にものづくりした産地のメーカー:株式会社協和染晒工場
商品企画:商品三課 村垣利枝

紀州備長炭と一般的な木炭との違いは?炭焼き職人に作り方から聞いてみた

最高品質の木炭。紀州備長炭をつくる若き職人たち

炭といえば備長炭。そう連想するほどに聞き馴染みのあるものですが、実は、備長炭にもいくつかの産地があり、その産地名を冠して「紀州備長炭(和歌山)」「土佐備長炭(高知)」「日向備長炭(宮崎)」などと分類されています。

中でも最高品質として知られるのが、備長炭発祥の地、和歌山で作られる「紀州備長炭」。

備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭
備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭

火力の強さや燃焼時間の長さなどに優れており、全国の料亭や炭火を使用する飲食店を中心に広く使われています。

備長炭の中でもっとも高価とされ、すなわち、世界一高価な木炭です。

そんな紀州備長炭の生産量で国内一を誇る和歌山県日高川町で、製炭を生業とする炭焼き職人さんに話を聞きました。

日高川町
日高川町 炭焼き窯
町営の研修所も兼ねた炭焼き窯

大阪市内から車で約2時間。和歌山県中部の山あい、少し開けた道路沿いにある炭焼き窯。

そこで迎えてくれたのは、3名の若者でした。

湯上彰浩さん
湯上彰浩さん
湯上彰太さん(手前)と藤本直紀さん(奥)
湯上彰太さん(手前)と藤本直紀さん(奥)

曽祖父の代から続く製炭業の四代目、湯上彰浩さん(31)。その実弟で、この道すでに10年以上の炭焼き職人である湯上彰太さん(30)。そして彰浩さんの幼馴染で、昨年末から働いている藤本直紀さん(31)。

町内に50人ほどいる炭焼き職人の中でも、かなり若いこの3名は、町営の製炭研修所も兼ねたこの炭焼き窯を拠点に、日々、備長炭づくりをおこなっています。

当日はちょうど窯の補修作業中だった湯上さん。少しの間手を止めて、こちらの質問に答えてくれました。

窯の良し悪しが備長炭の品質を左右する

「炭焼きというと、とにかく毎日木を焼いていると思われがちです。でも実際は、窯に原木を入れてから備長炭に仕上がるまで、うちの場合でだいたい2週間かかる。月に2回焼き上がるサイクルです。

まず、入り口で薪を焚いて窯の温度を上げていきますが、この時点では原木に直接火はつけない。蒸し焼き状態にして、1週間ほどかけて水分を飛ばします。

焚き火をイメージしてもらうと分かりやすいのですが、いきなり火をつけて燃やしてしまうと、ぼろぼろの燃えかすしか残らず、商品になりません」

湯上彰浩さん

水分を飛ばすのになんと1週間。その間も、ただ薪を焚き続けていればよいかというと、そうではありません。

「1週間に1度か2度、薪の火を消して入口を閉じ、温度を上げすぎずに水分を飛ばす時間を取るようにしています。

当然、休みなく焚き続けた方が炭になるのは早いのですが、どうしても品質が悪くなる。

ちょうどよく水分が抜けて、そしてちょうどよく原木に火が付く、そのタイミングを見極める必要があります」

こちらの窯はちょうど入り口を閉じて、水分を飛ばしているところ
こちらの窯は、入り口を閉じてじっくり水分を飛ばしているところ

微妙に水分が残ってしまうだけで、見た目には分からなくても、手に持った時に「軽い」と感じる低品質の仕上がりになるとのこと。

「窯の中の温度が一定以上になると、原木の上の方から自然に火がつきます。

そこからは、酸素穴を開けて空気の量を調整し、また1週間ほどかけて炭化させていく。

酸素の量をどんどん増やして、少しずつ炎を立たせて、炭の燃え具合や締まり具合を見ながら、今!というタイミングで取り出します」

炭を取り出す様子
炭を取り出す様子(画像提供:湯上彰浩)

取り出す際、真っ赤に燃えた状態の炭に灰をかけて急激に消火し、白い灰を被った「白炭(しろずみ)」の状態で完成させます。備長炭と呼ばれるものは基本的にすべてこの白炭なんだとか。

灰をかけて仕上げる白炭
灰をかけて仕上げる白炭
灰がかかって白く見えるため、「白炭」と呼ばれる
灰がかかって白く見えるため、「白炭」と呼ばれる

これに対して、バーベキューで使用するような、軽くてすぐに燃える炭は「黒炭(くろずみ)」。

実際に出来上がった備長炭(白炭)を手にとってみましたが、ずしりと重く、断面はまるでクリスタルのようで黒炭とはまったく別物だとわかります。

白炭の断面
白炭の断面。ぎゅっと詰まっているのが分かる。これでも、品質としてはよくない部類だそう

特徴として、火力と燃焼時間が非常に優れている紀州備長炭。

「高い品質が出せるから、今の価格帯で購入してもらえる」と、炭の仕上がりには自信を持つ湯上さん。

およそ2週間、酸素量の微調整や細やかな温度管理を経て、ようやく紀州備長炭として世に出せる品質の炭が仕上がります。

「気密性・保温力が高くないと、こちらの意図とはずれたところで酸素が入ってしまい、品質に影響が出てしまう。なので傷んだ部分を少しずつ補修しながら使っています。

窯の良し悪しと、焼いている際の技術、紀州備長炭をつくるにはこの2つが欠かせません」

修復中だった窯
修復中だった窯。気密性を高めるために、赤土と瓦を丁寧に積み上げていく
修復中の窯
奥は、焼けて色が変わっている状態。今回は手前部分を修復したそう

今回補修中だった窯を見せてもらうと、下から上まで赤土と瓦が緻密に積み上げられている最中でした。この後さらに外側にも赤土を敷き詰めて、気密性と保温力を高めていきます。

紀州備長炭をつくる際、大筋の工程は共通としてあるものの、細かい窯の作り方や空気量の調整方法は、人によって異なるらしく、職人としての工夫のしどころでもあるといいます。

修復に使う赤土は、小石などを取り除き、目の細かい状態にして使用する
赤土は、小石などを取り除き、目の細かい状態にして使用する

木を立てて入れる。紀州備長炭づくりの秘訣

ほかの備長炭と異なる、紀州備長炭づくりの大きな特徴として挙げられるのが、窯にくべる際の原木の入れ方。

他の地域では原木を横に倒して積み上げていくそうですが、紀州では、1本1本を奥から立てて並べていきます。

高温の窯の中に入り、奥から原木を並べていく
高温の窯の中に入り、奥から原木を並べていく(画像提供:湯上彰浩)

すると、原木が焼き締まって縮んだ時にも均等に空気が流れるため、焼きムラが少なくなり品質の高い備長炭に仕上がるとのこと。

その反面、横に倒して積み上げる方法と比べると、一度に焼ける量が約半分に。生産量を犠牲にしても、品質にこだわっていることが、紀州備長炭ブランドが支持されているひとつの要素でもあるようです。

まっすぐに窯の中に立てていくにはもう一手間、「木ごしらえ」と呼ばれる工程も必要になります。

「伐採してきた原木(ウバメガシ)は、そのままでは使えません。太すぎるものは半分に割ったり、曲がっていれば切り込みをいれて伸ばしたり、できるだけまっすぐにしてから、窯にくべていきます」

太いものは半分に割っていく
太いものは半分に割っていく
切り込みを入れて、まっすぐに伸ばしていく
切り込みを入れて、まっすぐに伸ばしていく
木ごしらえ

一度に窯に入れる原木は、およそ6トン。この量の原木を伐採して窯まで運ぶのに、3人がかりで3日かかるそう。

ちなみに、伐採された原木の丸太を触らせてもらったのですが、非常に硬くて重い木でした。これを山中で伐採し、余分な枝を払って運搬し、また伐採し‥‥考えただけでもつらい。

そこから、すべての木を「木ごしらえ」するため、さらに3日ほどかかり、ようやく木を焼くための準備が完了します。

窯の中にびっちりと並ぶように、整えていく
窯の中にびっちりと並ぶように、整えていく
木ごしらえを終えた原木
木ごしらえを終えた原木。窯に入れるまでにもかなりの手間暇がかかっている(画像提供:湯上彰浩)

炭焼き職人の伐採が、森を再生させる

ここまで、想像以上にハードな炭焼きの仕事を見てきましたが、一番体力的にきついのは、やはり原木の伐採作業。

湯上さん曰く「原木を窯まで運び終わった瞬間が一番嬉しい」と感じるほどだそう。

しかし、この先も備長炭づくりを続けていくために、この工程は省けないのだとか。

「ウバメガシには再生能力があり、適齢で伐採すればその切り株から芽を出してまた成長していきます。しかし、成長しすぎた場合には再生能力が弱ってしまい、その後に伐採されると切り株は枯れてしまう。

なので、適切なタイミングで必要な量の木を伐採して使うことが、備長炭をつくる上でも必須になってきます」

長さも太さも違う原木たち。窯に入れるために整える必要がある
森を再生させるためにも、計画的な伐採は必要

なお、当然ながら、原木は勝手に切っていいわけではありません。良さそうなウバメガシの群生地を見つけたら、まずは役所に連絡が必要です。

そこから所有者の連絡先を照会してもらい、交渉し、伐採権を購入。そして、再生を見越してこれだけ切りますという申請を役所に通してはじめて、切ることができます。

山を眺めると、ウバメガシが集まっている部分はひと目で分かるんだとか
山を眺めると、ウバメガシが集まっている部分はひと目で分かるんだとか

嬉しい悲鳴と気になること。紀州備長炭の現状

決して軽い気持ちでできる仕事ではありませんが、紀州備長炭の需要自体は年々増加しており、炭の価格も以前より高値で取引されるようになっています。

「ありがたい話ですが、供給が追いついていない状況です。

昨年末から3人体制になりましたし、窯の修復が終わったら、月に3回は焼けるようにしたいなと考えています。

炭焼きは、季節の影響をあまり受けず、年間を通して生産できる。ほかの農業などと比べると恵まれている部分かなと思います」

炭焼き職人

生産体制の見直しのほか、炭焼きの仕事を知ってもらうための体験教室の開催や、炭と相性の良いアウトドア事業への進出なども考えている湯上さん。

嬉しい悲鳴が上がる反面、気になることも。

「備長炭の価格が安定してきたことで、新たに炭焼き職人を始める人も増えてきました。

それ自体は歓迎すべきことなのですが、紀州備長炭の品質にバラツキが出てしまう可能性もあり、産地全体で連携してコントロールする必要があると感じています」

紀州備長炭は、特定の職人の名前が前に出るのではなく、あくまで「紀州備長炭」として、一括りに出荷されていくそう。

つまり、仮に品質のバラツキがあるまま紀州備長炭として流通してしまうと、ブランド全体の価値が下がる危険性をはらんでいます。

備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭
備長炭の品質にばらつきが出ると、ブランド自体の価値が下がってしまう

以前は、新たに炭焼き職人を志した人は、研修所や信頼できる師匠の元で最低1年は修行をし、そこから独立の道へと進んでいったそうです。

今は、そうした修行をせずに、炭焼きを始める人も多いのだとか。

「今、備長炭の生産量では負けている地域もありますが、品質は間違いなく紀州備長炭が世界一だと思っています。それは誰かに認められるものでもなく、自分たちでそう確信しています。

せっかく築いたこの価値を失わないために、職人だけでなく問屋さんや行政とも連携して、品質・ブランド力の維持をはかっていきたいです」

炭焼き職人、湯上さんの窯

若き炭職人たちは、ブランドと産地の未来を真剣に考えながら、新たな備長炭の可能性も模索しています。

<取材協力>
B-STYLE(湯上 彰浩)

文:白石雄太
写真:直江泰治

※こちらは、2019年2月19日の記事を再編集して公開いたしました。

ムンクの「叫び」を郷土玩具に。福島・野沢民芸が考える、これからの民芸品

世界的絵画と郷土玩具のコラボ

2013年、世界でもっとも有名な絵画のひとつと言われる作品と、日本の郷土玩具の不思議なコラボが実現し、話題を呼びました。

その作品とは、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクが1893年に製作した「叫び」。教科書等で誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

ムンクの「叫び」と、福島県会津地方に古くから伝わる「起き上がり小法師(こぼし)」がコラボして誕生したのが、その名も「起き上がりムンク」。

起き上がりムンク
起き上がりムンク

「起き上がり小法師」の丸みを帯びた独特のフォルムに、あの「叫び」の表情が見事にマッチして、奇妙なかわいさに溢れた魅力的なアイテムです。

この「起き上がりムンク」を手がけたのは、福島県 西会津町で50年以上にわたって会津張子を中心とした民芸品を製作してきた野沢民芸品製作企業組合(以下、野沢民芸)。

野沢民芸

古くからあるものをつくり続けながら、新しいデザインやコラボレーションにも積極的に挑戦する同社に、これからの民芸品・郷土玩具について聞きました。

どんなものにもなる「起き上がり小法師」

野沢民芸の代表理事で絵付師の早川美奈子さんは、父である先代が創業した同社で人形づくりを始めて36年。「起き上がりムンク」の絵付けも早川さんが手がけています。

早川美奈子さん
野沢民芸品制作企業組合 代表理事で絵付師の早川美奈子さん

近年は新たなデザインにも積極的に挑戦していますが、かつてはそうしたくてもできない時期が長く続いていたのだとか。

赤べこ
会津を代表する郷土玩具「赤べこ」

早川さんが人形づくりの世界に入ってきた当時は、いわゆるお土産物としての民芸品の製作が主流でその種類も少なく、販売する場所も駅の売店か土産物屋のどちらか、それが業界としても普通とされていました。

「世間から見てもそうですが、自分の中でも、なんとなく古いとか、良くないイメージを民芸品にもってしまっていたんです」

という早川さん。

「でも、新しいものといっても何をやればいいかわからないし、つくったところで売ってもらえる所もない。

想いはあってもやれない。そんな状態でした」

大きな転機となったのは、2011年の震災。福島や被災地の復興に寄与するかたちで、何か新しいことをやろうという動きの中で、野沢民芸にも声がかかりました。

「さて、何をやろうかと考えた時、デフォルメされたフォルムで、かっこよくて、どんなものにもなりうる。そう思ったのが、起き上がり小法師です」

赤べことならんで福島の人に馴染みの深い起き上がり小法師。転んでも必ず起き上がる、七転び八起きというメッセージも込められた郷土玩具で、福島の復興の象徴としてもぴったり。

そんな前向きな姿勢を持った縁起物である起き上がり小法師に、さらに、縁起のよい日本の伝統柄を描いた「願い玉」シリーズを製作します。

野沢民芸の「願い玉」
「願い玉」シリーズ

これまでにない見た目の起き上がり小法師は評判となり、次第に「起き上がり小法師で動物がつくれますか?」といった変わった注文が来るようになりました。

形の中に、色々なものを押し込めてみる

伝統のフォルムを活かしながら、その動物の特徴を表現する。きちんと起き上がり小法師にも見えて、動物の張り子にも見える。そんな風に毎回頭を悩ませてデザインしているそう。

新しい注文にひとつずつ挑戦していく中で、発想のヒントのひとつになったのは、人気アニメの「トムとジェリー」。

ネコのトムがネズミのジェリーの反撃にあい、ドラム缶に押し込められてその型がついたまま出てくる描写をみて、「これって、ありだな」と思ったのだとか。

「ドラム缶型に押し込められてもちゃんとトムに見えるんですよね。

じゃあ起き上がり小法師の、あの卵型の立体の中に色々なものを押し込めていくとどうなるんだろう。

そんな感覚でやっていって、アイテムが段々増えていきました」

野沢民芸
絵付をする早川さん

新たに生まれていく商品を見た人たちから「じゃあこんなものは?」とまた注文が来る。今はその良い循環ができています。

「民芸品、郷土玩具がこんなにカラフルで、色んなことができるんだと、ずっと作ってきた人ほど気づきにくいのかもしれません。

外部のデザイナーさんたちは、こちらが思っても見ない発想で注文をしてくれるので、その都度新しい発見があり刺激を受けています」

野沢民芸
野沢民芸でつくっている商品のほんの一部

何でも良いわけではない。郷土玩具の本質を考える

野沢民芸は、「真空成形法」といわれる張子の新しい製法を開発し、業界では他に類を見ない量産体制を実現してきた会社でもあります。

「うちはもともと、新しいやり方で民芸品をつくってきた会社です。なので、新しいチャレンジは全然問題ない、楽しいことだ!という感覚がありますね。

町の人たちも『面白いよね』と言ってくださる方が多いです」

野沢民芸
成型が終わった後は、昔ながらの工程で一つずつ仕上げていく
野沢民芸
細かいバリなどを丁寧に磨いていく
白い下地を塗ったあと乾燥させる工程
野沢民芸
赤い塗装はスプレーで
野沢民芸
最後に絵付を行う

しかし、民芸品・郷土玩具として単純に何でもあり、ではありません。

「赤べこも、起き上がり小法師も、会津では皆さんから愛されている郷土玩具です。

そこには歴史や由来があって、それを尊重しつつやらないとダメだと考えています」

たとえば最初に紹介した「起き上がりムンク」に関しても、七転び八起きで何度でも起き上がる起き上がり小法師と、2度盗難にあっても美術館に舞い戻ったムンクの叫びに共通項を見出しました。

その上で、ノルウェーについて広く知ってもらいたい依頼主(現:ノルウェー政府観光局)の想いと、福島の復興支援に役立てたい早川さんたちの想いが重なったアイテムになっています。

「何度でも起き上がる、前向きな考え方は常にベースとして、そこに色々な要素が加わって、人に元気とか癒しを与えるものであってほしい。

その考えは崩さないでやっていきたいと思います」

絶版になった郷土玩具の復刻も

普段、京都などの問屋さんとやり取りをしている営業担当の三留さんによると、最近はやはりインバウンドの需要も大きいよう。

「お面のバリエーションを増やして欲しいとか、旅行客の方が持ち帰りやすいように小型にして欲しいとか、そんな要望が増えています」

野沢民芸
野沢民芸の三留さん

ちなみに、京都で今いちばん人気なのが、「きつねのお面」なんだとか。

「テレビに映ったことがきっかけだと思うのですが、女子高校生がきつねのお面をかばんにつけ始めて、売り上げが増加しました」

こうしたトレンドや予期せぬ需要にどうやって対応していくのかも、これからの課題のひとつです。

早川さんは、新しい依頼にも対応しつつ、過去の遺産の掘り起こしもやっていきたいと考えています。

「過去につくっていたのに今は辞めてしまっているものがいくつかあるんです。

招き猫とか、ねずみ大黒とか。そういった古典的なものも復活させたいと思っています」

野沢民芸

残念ながら、後継者がいないなどの問題で工房を閉めてしまう同業他社も少なくない中、そうした工房から型を引き継ぐこともあるんだそう。

張り子の量産に成功し、新たなチャレンジを通じてファンを増やし、西会津町で雇用の創出にも寄与している同社だからこそできるとも言えます。

ゆくゆくは、会津に限らず、全国でつくられなくなった郷土玩具を野沢民芸が復刻する。そんな期待も膨らみました。

地域おこし協力隊との取り組み

野沢民芸においても、後継者を育て、民芸品をつくり続けることは容易な道ではありません。

「人形づくりにはどの工程も難しい技術が必要なので、それが習熟できないとどうしても続きません。

技術を習得するベース、器用さも関係してきます。長く続く方をなかなか見つけられないのが現状です」

野沢民芸
各工程の習熟には時間と器用さが求められる
野沢民芸

逆に、一度技術を習得すれば、ある程度高齢になっても続けられる仕事のため、現在は、ベテランの方々に非常に助けられているそう。ここに、若い方が加わって、ベテランの手ほどきを受けながら成長していってもらえると、理想的な状況になってきます。

野沢民芸
起き上がり小法師の丸みを整えている職人さん

「今、2名だけなのですが、地域おこし協力隊からうちの会社に来てもらっている方たちがいます。

2人とも20代で、技術を学んでもらうだけでなく、民芸品の可能性をどんな風に広げていけるのか、一緒に挑戦していければと思っているところです」

野沢民芸

地域おこし協力隊でやってきた人が、直接企業に所属するのは少し珍しいケースにも感じます。

「3年の任期が終わったあと、できれば民芸品と関わりを持ち続けていただきたいし、西会津町に定着してほしいとも思っています。

そう考えた時、限られた期間で地域と深くつながるには、今回のように会社に入っていただくのが近道なんじゃないかなと。

業務上で関わる会社の人たちともつながりますし、一緒に働く同僚たちも地域の人間です。そういったコミュニティのベースをつくってから、それをいかして何ができるのか。

この春に来ていただいたばかりなので、まだまだこれから考えていかないといけません」

協力隊で来ている方は、デザインやWebに関するスキルを備えた方たちとのこと。そんな彼女たちとタッグを組んで、どれだけ新しいものをつくっていけるのかチャレンジしていきたいと早川さんは話していました。

西会津町の観光資源として

これからの工房のあり方として、もう少し人が訪れやすい場所にしていく構想もあるそう。

「ネットに載せきれていない商品もありますし、なにより一点一点表情が違うので、直接選んでもらえると楽しいと思います。

工房を見学してもらって、つくり方を見ていただいたり、その後は地域の別のお店でご飯を食べてもらったり。

うちの工房だけじゃなくて、町に来てもらうきっかけにもなれると理想的です」

野沢民芸
野沢民芸

西会津町の観光振興への寄与も見据える早川さん。依然としてコラボの依頼も多く、日々新たな挑戦に向き合っています。

「新しいものをつくりながら、そもそもの『赤べこ』はこういう由来で生まれたんだよ、といったこともわかってもらえるような出し方を常に意識しています」

直感で気になる、かわいいと思うものを手にとってみると、なぜこんな形なんだろうと気になってきたり、他にどんなものがあるのか知りたくなってきたり。そうやって興味の対象が広がっていくことも郷土玩具の楽しさのひとつです。

これから早川さんたちが生み出していくアイテムが、郷土玩具のどんな可能性を見せてくれるのか。それらを見て、多くの人が郷土玩具の魅力に気づいてくれることを一ファンとして、とても楽しみにしています。

<取材協力>
野沢民芸品制作企業組合
https://nozawa-mingei.com/index.html

文:白石雄太
写真:直江泰治