「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは

戦国時代に名を馳せた伝説の石積み職人「穴太衆」

自然にある石を加工しないままに積み上げ、石垣をつくる。

この「野面積(のづらづみ)」という技法を得意とし、戦国時代、日本中を席巻した職人集団がいました。

現在の滋賀県大津市坂本 穴太(あのう)地区に暮らしていたことから、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工(いしく)職人たち。

彼らがつくる石垣は非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城の築城時に穴太衆を召し抱えるなど、全国の城づくりに大きな影響を与えたとされています。

ただ無秩序に積まれているように見えて、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでおり、地震にはめっぽう強く、豪雨に備えて排水をよくする工夫も備わっている。

坂本の石積み

自然のままの石を使いながら、どうしてそんなことができるのか。その驚異の技を現代の生活にいかす道はあるのか。

現代において唯一、穴太衆の技を継ぐ株式会社粟田建設 15代目の粟田純徳さんに話を聞きました。

石積みの里で穴太衆の技を継ぐ、粟田建設

比叡山の門前町である大津市 坂本。かつての穴太衆が携わったとみられる石垣が町のそこかしこに点在しており、「石積みの里」としても知られています。

石積みの里として知られる坂本
石積みの里として知られる坂本
琵琶湖を望む
琵琶湖を望む

この地で会社組織として存続しているのが株式会社粟田建設です。

最盛期には300人を超えたとされる穴太衆の石工職人ですが、伝承する家は今や粟田家ただ一軒になっています。

粟田家
粟田家

「需要の問題が大きいですね。徳川の時代になって、一国一城令ができてからは新しくお城を建てることもなくなって、メンテナンスくらいしか仕事がなくなり、ほとんどの家は職を変えるしかなかったんだと思います」

粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん
粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん

新規の仕事が減少し、そもそもが丈夫で長持ちであるがゆえにメンテナンスも滅多に発生しない。そんな状況ではほかに仕事を探すほかありません。

一方の粟田家は、比叡山延暦寺をはじめ、近隣の神社仏閣の仕事を引き受けながら今日まで存続してきたそう。

「穴太衆は、石積みだけでなく今でいう土木作業も一手に引き受けてきました。うちの家は幸い、そのあたりも含めてやらせていただきながら技術をつないできました」

自然石をそのまま使い、美しく丈夫に積み上げる「野面積」の秘密

土木作業全般に通じている穴太衆ですが、やはり一番の特徴は「野面積」。自然石をそのままのかたちで使い、堅牢で美しい石垣を積み上げる技です。

粟田建設の周囲には石積みが多く残っている
粟田建設の周囲には野面積の石積みが多く残っている

石積みの技には、「野面積」のほかに、綺麗な形に石を加工して使う「打込みハギ」や「切込みハギ」といった方法もありますが、地震や豪雨への備えを考えた時「野面積」がもっとも耐久性にすぐれていると粟田さんは言います。

「たとえば、穴太衆には『石は二番で置け』という教えがあります。

これは、荷重がかかる位置を必ず石の面(つら)から少し奥のところに持っていきなさいということです。

切込みハギの場合、石の表面をピタッと揃えるので、一番前に荷重がかかってしまう。そういった積み方では、地震などが起きた時に石が滑る可能性があります」

石の表面がピタッと合っている方が、外から見た時にはなんとなく綺麗で、丈夫に見えます。しかし、様々な方向から力が加わったとき、石の面同士がくっついていて遊びがないと、力が分散されず崩れる可能性がある。

話を聞くと、なるほどと感じます。

穴太衆にはこのように、やってはいけない積み方がいくつか伝えられていますが、それ以外にマニュアルなどは存在していません。

形と大きさが異なる自然の石をそのまま使うため、マニュアルに残しようがないのです。

洲本城 南の丸 石垣修復の様子
洲本城 南の丸 石垣修復の様子

「石の声を聞く」穴太衆の真髄とは

学ぶべきマニュアルがない中で、どのように石工として習熟していけばよいのか。

粟田さんの祖父で、13代目だった万喜三さんは「石の声を聞く」と言い残しています。

「要するに、石を見る目を養う。どれだけ石を観察しているかが重要だと思っています」

現場に出て仕事をするうちに、万喜三さんの残した言葉をそう解釈するようになった粟田さん。

粟田純徳さん

「僕らの仕事はまず“石選び”なんですわ。

実際に石垣をつくる現場を見て、そして山へ行って石を選ぶ。自然石なので図面には起こせないし、同じ石はひとつもありません。

自分の頭の中で組み合わせをイメージして、買ってきて現場で置いていきます」

この石選びの段階で、穴太衆の石積みの仕事の八割は終わったと言われるほど、重要な作業です。

穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある
穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある

「石屋の上手い下手は、残った石の量を見ればわかる。とお祖父さんには言われていました。自分の頭の中で組み立てたものと、実際に現場で積んだものとが、どこまで合うのか。

僕たち穴太衆にとっての究極は、たとえば100個の石で完成する石積みがあるとして、山で100個の石を買ってきて、その全てを積み切って最後にひとつも余らないこと。

それが、石積みとしても理想だし、会社としても余計な石を買わずに済むから望ましいですよね」

頭の中で石垣の完成図をイメージし、そのイメージに合った石を山から持ってくる。そしてそれがピタリと合い、ひとつも余らせない。神業のように聞こえます。

個人宅の石垣修復工事の様子
個人宅の石垣修復工事の様子

「もちろん、石がひとつも余らないなんて、不可能なんです。でも、その不可能に近づいていくっていうのが、修行ですよね。

それが、石を見る目を養う、石の声を聞く、っていうことやと思います」

経験を積む機会が減っている

そういった面で、祖父の万喜三さんは本当にすごかったと、粟田さんは振り返ります。

「僕や親父と比べて、石を見る目がかなり長けていたと思います。

ほとんど石を残さなかったですし、指示するところにピタリと石が入りますし。

規格が存在しない自然石を組み合わせるって、やっぱり難しいんですよね。何年もやってきて、今あらためて当時のお祖父さんのすごさがわかるようになりました」

粟田純徳さん

そんな祖父や、祖父とチームを組んでいたベテランの職人たちに、穴太衆の一から十までを教わってきた粟田さん。今、下の世代にどう技術を引き継いでいくのか、悩ましい状況であるといいます。

「自然石を相手にする、マニュアル化のできない仕事なので、基本は現場に出てやってみるしか上達する術がないんです。

特に、石を見る目を養うためには新規の石積みに関わって、石を選ぶところから経験しないと腕が磨けない。

それが、今は新規の工事が少ないのでなかなか教えられない。そこは本当に厳しいと感じています」

個人宅の注文も、かなり減少してしまったといいます。

「今は、石垣を家の前に積もうという方はなかなかいないですし、そもそも新築の日本家屋自体が減ってきているので難しいです。

お城や寺院の修復については、無くなりはしないでしょうが、一度修復すると長持ちしてしまうので、需要自体が増えてきません」

穴太衆の石積みを海外へ

国内の需要拡大を待っていては埒が明かないと、近年、粟田建設では海外での施工に活路を見出しています。

ポートランド日本庭園拡張工事
ポートランド日本庭園拡張工事

「新規の大きい工事として、ポートランドの日本庭園の仕事をやりました。庭園の管理をされているのが日本の方で、その方から声をかけていただいて。

庭園の拡張工事でしたが、建物の方を設計されたのが建築家の隈研吾さんで、ちょうど現場でお話しする機会があり、『今度ダラスで別のプロジェクトがあって、石積みも取り入れたい』とお話しいただいて、そちらもやらせていただくことになりました」

ダラスではビルの外構工事を全て請け負ったそう。現地で取れる花崗岩を使い、スタッフも現地の土木作業者を雇いながら3〜4ヶ月の施工をやり終えました。

「こういった外構工事で、石積みが日本でも多く採用されるようになれへんかなと。アメリカで評判になってくれると、日本でまた流行る可能性も上がるかなと期待しています。

今回のように建築家の方やデザイナーの方と仕事をすると、今までになかった石積みの活かし方に気づきますし、刺激をもらえますね」

シアトルのクボタガーデン
シアトルのクボタガーデン

法律の壁

石積みを取り巻く大きな課題として、海外でも国内でも、建築にまつわる法律の問題が付いて回ります。

たとえ、400年の間風雪に耐えてきている実績があっても、新規で建造物を作る際には、耐震基準をクリアしていると数字で証明しなければなりません。

その都度で異なる形・大きさの石を組み合わせる穴太衆の石積みにおいて、現代のフォーマットに沿った数字を提出することは現実的でなく、実質、ある程度の規模を超えると新規施工ができない状況になってしまっています。

竹田城 石垣の修復工事
竹田城 石垣の修復工事

いくつかの実証実験や、京都大学の研究グループによるシミュレーション等で良好なデータが出ているものの、現行の法律が変わらない限り、状況は大きくは変わらないようです。

ダラスの外構工事では、本来穴太衆では小石を詰めるような部分にコンクリートを使用し、その合わせ技で建築許可が下りました。

石の組み合わせだけでつくる方が丈夫であると確信を持ちながら、それでも、「許される範囲の中で最大限丈夫に、美しく仕上げるしかない」と粟田さんは言います。

石積みと人間社会。今後の穴太衆

「僕らの石積みは人間社会と一緒なんです。大きい人もいれば小さい人もいる。

性格のいい人も悪い人も。それらが組み合わさったのがこの世の中で、だから面白い」

穴太衆 粟田さん

そう聞いてから眺めてみると、確かに一つとして同じ石が使われていない穴太衆の石垣は、とても個性豊かで味わい深く見えてきます。

「個性があればあるほど、それが生きてくる。あえて悪い石を使うこともあります。

大きい石はより大きく見せてあげる。そのために、まわりに小さい石を配置する。すべてに役割があって、大事なんです。

『綺麗な石ばかり使ってなにがおもろいねん!』とお祖父さんはよく言っていました」

そんな多様性を大切にする石積みだからこそ、職人ごとの個性も出てくるのだとか。

石積みの里 坂本

「僕の積んだ石垣、親父が積んだ石垣、お祖父さんの石垣。昔からうちの家のことを知っている人が見たら、すぐにわかるって言いますよね。性格が出るんで。

お祖父さんは、繊細で優雅な感じ。親父は荒々しい。

僕は、そのどちらも。両方を見てるんで良いところを取りたいと思ってやっています」

粟田さん

そんな、穴太衆の石積みならではの魅力を残したまま、どうにか生き残る手立てを考え、既存技術との共存や海外への進出を考えている粟田さん。

「理想は、昔ながらの技、工法をそのままに残っていきたいんです。

ただ、実際の話それでは残れない。そこは、コンクリートとの兼ね合いなんかも含めてやるしかないと思っています。

並行して、実証実験や土木学会での発表を通してアピールは続けます。

なんとか、昔の伝統技術に関しては、法律の緩和を訴えていきたいですね」

現在、粟田建設には粟田さんを除いて3名の従業員が働いており、そのうち一人はまだ10代の若者。

「石の仕事、職人の仕事がやっぱり好きなんやと思います。やっぱりきつい仕事ですんで、そうじゃないと続きません。

そんな若者もいてくれてますし、僕も息子がいるんで、つないでいきたい。

現状では、本当に胸を張って継いでくれって言うのは厳しいですけど。なんとか、生きる道を探してあげたいと思っています」

自然の石をそのまま用いて、数百年の時を耐える石垣をつくる。その石垣は地震にも、豪雨にも強く、そして美しい。

この驚異の技が、現代に新たな形でいかされた時、どんな姿を見せてくれるのか楽しみでなりません。

<取材協力>
株式会社粟田建設
077-578-0170

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年7月16日の記事を再編集して公開しました。これから石垣を見るときは、一つひとつ積み上げられていく光景を想像しながら、思いを馳せてみたいと思います。

中川政七商店が残したいものづくり #06染物

中川政七商店が残したいものづくり
#06 染物「注染手拭い」


商品三課 村垣 利枝


てぬぐいは、ハンカチより大きなキャンバス一面に大胆に絵を描くことができ、毎日持ち歩くことも、飾ることも、ちぎって使うこともできる自由な布です。
そういったところが好きで、私もてぬぐいに絵を描いて染めてみたいと考えていました。
有難いことに夢が叶い、現在てぬぐいのデザインに携わっています。
 
中川政七商店ではいろいろな技法の手ぬぐいを企画しますが、多くは「手捺染」と「注染」で作っていて、中でも注染は染めの理屈が分からないと図案を描くこともできません。
注染てぬぐいのデザインの初めの一歩は工場見学に行くところから始まります。
 
私も手拭いの産地、大阪堺の工場に見学に行きました。
 

そもそも「注染」とは20数メートルほどの生地をジャバラ状に重ね合わせ、その上から染料を注ぐことで1度に約25枚のてぬぐいを染めることができる、大阪でうまれた技法です。
工程は複雑で、大まかに説明すると以下のようなことが1工程1工程職人の手作業によって行われていきます。
 
生地の上に型紙を置き、その上から染まって欲しくない部分に防染糊を置く「糊置き」

染色台(せんしょくだい)にのせて調合した染料を注ぎながら染める「注染」

防染糊を落とす作業「水洗い」

天井の高い屋根のあるところで干す「乾燥」
 
例えばこの干支のてぬぐいもシンプルな絵柄ですが、生地を紺色に染め、ねずみのシルエットの外側紺色部分に糊をつけ、ねずみの体部分の色を白く抜きながら耳や鼻は広く染まりすぎないように境界線を糊で引き、慎重に注ぎ染めていきます。
 
どこを白く抜くか、どれくらいの幅の線で描けばいいか、色が混ざらないようにどう配色を考えるか。逆に色が混ざった美しさをどこで出すか。
技法を知りはじめて「どうやって描こうか」わくわくすることができました。
 


今お話しした工程は染めだけの話で、染める前には生地を織る人、生地を染められる状態に整える人、生地に色をつける場合は生地を染める人がいて、染める型を作る人がいます。
染めた後は洗ってしわくちゃの生地を伸ばして、カットする人。商品になるように折りたたむ人。
1枚の布はたくさんの人の手を渡り、てぬぐいとなりお店に並びます。
また、殆どの工程が分業で行われているため、一社廃業してしまうと他を探すか、自分たちでその工程を担わなければならなくなります。
先日も整理加工(生地を染められる状態に整える人)業者が1社廃業されたそうです。
てぬぐいのさんちには作り手が減りつつある危機感もあります。
 
なんとなくてぬぐいが好きだった私ですが、注染がどれだけ貴重なものか、どれだけ奥深いものか。
そのものを深く知ることでもっと好きになり、てぬぐいの見え方が変わりました。
 
注染に注ぎ込まれた思い、技術をこれからも伝えていきたいと思います。
 
商品名:注染手拭い 干支玩具 子
工芸:注染手拭い
産地:大阪府堺市
一緒にものづくりした産地のメーカー:株式会社協和染晒工場
商品企画:商品三課 村垣利枝

紀州備長炭と一般的な木炭との違いは?炭焼き職人に作り方から聞いてみた

最高品質の木炭。紀州備長炭をつくる若き職人たち

炭といえば備長炭。そう連想するほどに聞き馴染みのあるものですが、実は、備長炭にもいくつかの産地があり、その産地名を冠して「紀州備長炭(和歌山)」「土佐備長炭(高知)」「日向備長炭(宮崎)」などと分類されています。

中でも最高品質として知られるのが、備長炭発祥の地、和歌山で作られる「紀州備長炭」。

備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭
備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭

火力の強さや燃焼時間の長さなどに優れており、全国の料亭や炭火を使用する飲食店を中心に広く使われています。

備長炭の中でもっとも高価とされ、すなわち、世界一高価な木炭です。

そんな紀州備長炭の生産量で国内一を誇る和歌山県日高川町で、製炭を生業とする炭焼き職人さんに話を聞きました。

日高川町
日高川町 炭焼き窯
町営の研修所も兼ねた炭焼き窯

大阪市内から車で約2時間。和歌山県中部の山あい、少し開けた道路沿いにある炭焼き窯。

そこで迎えてくれたのは、3名の若者でした。

湯上彰浩さん
湯上彰浩さん
湯上彰太さん(手前)と藤本直紀さん(奥)
湯上彰太さん(手前)と藤本直紀さん(奥)

曽祖父の代から続く製炭業の四代目、湯上彰浩さん(31)。その実弟で、この道すでに10年以上の炭焼き職人である湯上彰太さん(30)。そして彰浩さんの幼馴染で、昨年末から働いている藤本直紀さん(31)。

町内に50人ほどいる炭焼き職人の中でも、かなり若いこの3名は、町営の製炭研修所も兼ねたこの炭焼き窯を拠点に、日々、備長炭づくりをおこなっています。

当日はちょうど窯の補修作業中だった湯上さん。少しの間手を止めて、こちらの質問に答えてくれました。

窯の良し悪しが備長炭の品質を左右する

「炭焼きというと、とにかく毎日木を焼いていると思われがちです。でも実際は、窯に原木を入れてから備長炭に仕上がるまで、うちの場合でだいたい2週間かかる。月に2回焼き上がるサイクルです。

まず、入り口で薪を焚いて窯の温度を上げていきますが、この時点では原木に直接火はつけない。蒸し焼き状態にして、1週間ほどかけて水分を飛ばします。

焚き火をイメージしてもらうと分かりやすいのですが、いきなり火をつけて燃やしてしまうと、ぼろぼろの燃えかすしか残らず、商品になりません」

湯上彰浩さん

水分を飛ばすのになんと1週間。その間も、ただ薪を焚き続けていればよいかというと、そうではありません。

「1週間に1度か2度、薪の火を消して入口を閉じ、温度を上げすぎずに水分を飛ばす時間を取るようにしています。

当然、休みなく焚き続けた方が炭になるのは早いのですが、どうしても品質が悪くなる。

ちょうどよく水分が抜けて、そしてちょうどよく原木に火が付く、そのタイミングを見極める必要があります」

こちらの窯はちょうど入り口を閉じて、水分を飛ばしているところ
こちらの窯は、入り口を閉じてじっくり水分を飛ばしているところ

微妙に水分が残ってしまうだけで、見た目には分からなくても、手に持った時に「軽い」と感じる低品質の仕上がりになるとのこと。

「窯の中の温度が一定以上になると、原木の上の方から自然に火がつきます。

そこからは、酸素穴を開けて空気の量を調整し、また1週間ほどかけて炭化させていく。

酸素の量をどんどん増やして、少しずつ炎を立たせて、炭の燃え具合や締まり具合を見ながら、今!というタイミングで取り出します」

炭を取り出す様子
炭を取り出す様子(画像提供:湯上彰浩)

取り出す際、真っ赤に燃えた状態の炭に灰をかけて急激に消火し、白い灰を被った「白炭(しろずみ)」の状態で完成させます。備長炭と呼ばれるものは基本的にすべてこの白炭なんだとか。

灰をかけて仕上げる白炭
灰をかけて仕上げる白炭
灰がかかって白く見えるため、「白炭」と呼ばれる
灰がかかって白く見えるため、「白炭」と呼ばれる

これに対して、バーベキューで使用するような、軽くてすぐに燃える炭は「黒炭(くろずみ)」。

実際に出来上がった備長炭(白炭)を手にとってみましたが、ずしりと重く、断面はまるでクリスタルのようで黒炭とはまったく別物だとわかります。

白炭の断面
白炭の断面。ぎゅっと詰まっているのが分かる。これでも、品質としてはよくない部類だそう

特徴として、火力と燃焼時間が非常に優れている紀州備長炭。

「高い品質が出せるから、今の価格帯で購入してもらえる」と、炭の仕上がりには自信を持つ湯上さん。

およそ2週間、酸素量の微調整や細やかな温度管理を経て、ようやく紀州備長炭として世に出せる品質の炭が仕上がります。

「気密性・保温力が高くないと、こちらの意図とはずれたところで酸素が入ってしまい、品質に影響が出てしまう。なので傷んだ部分を少しずつ補修しながら使っています。

窯の良し悪しと、焼いている際の技術、紀州備長炭をつくるにはこの2つが欠かせません」

修復中だった窯
修復中だった窯。気密性を高めるために、赤土と瓦を丁寧に積み上げていく
修復中の窯
奥は、焼けて色が変わっている状態。今回は手前部分を修復したそう

今回補修中だった窯を見せてもらうと、下から上まで赤土と瓦が緻密に積み上げられている最中でした。この後さらに外側にも赤土を敷き詰めて、気密性と保温力を高めていきます。

紀州備長炭をつくる際、大筋の工程は共通としてあるものの、細かい窯の作り方や空気量の調整方法は、人によって異なるらしく、職人としての工夫のしどころでもあるといいます。

修復に使う赤土は、小石などを取り除き、目の細かい状態にして使用する
赤土は、小石などを取り除き、目の細かい状態にして使用する

木を立てて入れる。紀州備長炭づくりの秘訣

ほかの備長炭と異なる、紀州備長炭づくりの大きな特徴として挙げられるのが、窯にくべる際の原木の入れ方。

他の地域では原木を横に倒して積み上げていくそうですが、紀州では、1本1本を奥から立てて並べていきます。

高温の窯の中に入り、奥から原木を並べていく
高温の窯の中に入り、奥から原木を並べていく(画像提供:湯上彰浩)

すると、原木が焼き締まって縮んだ時にも均等に空気が流れるため、焼きムラが少なくなり品質の高い備長炭に仕上がるとのこと。

その反面、横に倒して積み上げる方法と比べると、一度に焼ける量が約半分に。生産量を犠牲にしても、品質にこだわっていることが、紀州備長炭ブランドが支持されているひとつの要素でもあるようです。

まっすぐに窯の中に立てていくにはもう一手間、「木ごしらえ」と呼ばれる工程も必要になります。

「伐採してきた原木(ウバメガシ)は、そのままでは使えません。太すぎるものは半分に割ったり、曲がっていれば切り込みをいれて伸ばしたり、できるだけまっすぐにしてから、窯にくべていきます」

太いものは半分に割っていく
太いものは半分に割っていく
切り込みを入れて、まっすぐに伸ばしていく
切り込みを入れて、まっすぐに伸ばしていく
木ごしらえ

一度に窯に入れる原木は、およそ6トン。この量の原木を伐採して窯まで運ぶのに、3人がかりで3日かかるそう。

ちなみに、伐採された原木の丸太を触らせてもらったのですが、非常に硬くて重い木でした。これを山中で伐採し、余分な枝を払って運搬し、また伐採し‥‥考えただけでもつらい。

そこから、すべての木を「木ごしらえ」するため、さらに3日ほどかかり、ようやく木を焼くための準備が完了します。

窯の中にびっちりと並ぶように、整えていく
窯の中にびっちりと並ぶように、整えていく
木ごしらえを終えた原木
木ごしらえを終えた原木。窯に入れるまでにもかなりの手間暇がかかっている(画像提供:湯上彰浩)

炭焼き職人の伐採が、森を再生させる

ここまで、想像以上にハードな炭焼きの仕事を見てきましたが、一番体力的にきついのは、やはり原木の伐採作業。

湯上さん曰く「原木を窯まで運び終わった瞬間が一番嬉しい」と感じるほどだそう。

しかし、この先も備長炭づくりを続けていくために、この工程は省けないのだとか。

「ウバメガシには再生能力があり、適齢で伐採すればその切り株から芽を出してまた成長していきます。しかし、成長しすぎた場合には再生能力が弱ってしまい、その後に伐採されると切り株は枯れてしまう。

なので、適切なタイミングで必要な量の木を伐採して使うことが、備長炭をつくる上でも必須になってきます」

長さも太さも違う原木たち。窯に入れるために整える必要がある
森を再生させるためにも、計画的な伐採は必要

なお、当然ながら、原木は勝手に切っていいわけではありません。良さそうなウバメガシの群生地を見つけたら、まずは役所に連絡が必要です。

そこから所有者の連絡先を照会してもらい、交渉し、伐採権を購入。そして、再生を見越してこれだけ切りますという申請を役所に通してはじめて、切ることができます。

山を眺めると、ウバメガシが集まっている部分はひと目で分かるんだとか
山を眺めると、ウバメガシが集まっている部分はひと目で分かるんだとか

嬉しい悲鳴と気になること。紀州備長炭の現状

決して軽い気持ちでできる仕事ではありませんが、紀州備長炭の需要自体は年々増加しており、炭の価格も以前より高値で取引されるようになっています。

「ありがたい話ですが、供給が追いついていない状況です。

昨年末から3人体制になりましたし、窯の修復が終わったら、月に3回は焼けるようにしたいなと考えています。

炭焼きは、季節の影響をあまり受けず、年間を通して生産できる。ほかの農業などと比べると恵まれている部分かなと思います」

炭焼き職人

生産体制の見直しのほか、炭焼きの仕事を知ってもらうための体験教室の開催や、炭と相性の良いアウトドア事業への進出なども考えている湯上さん。

嬉しい悲鳴が上がる反面、気になることも。

「備長炭の価格が安定してきたことで、新たに炭焼き職人を始める人も増えてきました。

それ自体は歓迎すべきことなのですが、紀州備長炭の品質にバラツキが出てしまう可能性もあり、産地全体で連携してコントロールする必要があると感じています」

紀州備長炭は、特定の職人の名前が前に出るのではなく、あくまで「紀州備長炭」として、一括りに出荷されていくそう。

つまり、仮に品質のバラツキがあるまま紀州備長炭として流通してしまうと、ブランド全体の価値が下がる危険性をはらんでいます。

備長炭の中でも最高品質とされる紀州備長炭
備長炭の品質にばらつきが出ると、ブランド自体の価値が下がってしまう

以前は、新たに炭焼き職人を志した人は、研修所や信頼できる師匠の元で最低1年は修行をし、そこから独立の道へと進んでいったそうです。

今は、そうした修行をせずに、炭焼きを始める人も多いのだとか。

「今、備長炭の生産量では負けている地域もありますが、品質は間違いなく紀州備長炭が世界一だと思っています。それは誰かに認められるものでもなく、自分たちでそう確信しています。

せっかく築いたこの価値を失わないために、職人だけでなく問屋さんや行政とも連携して、品質・ブランド力の維持をはかっていきたいです」

炭焼き職人、湯上さんの窯

若き炭職人たちは、ブランドと産地の未来を真剣に考えながら、新たな備長炭の可能性も模索しています。

<取材協力>
B-STYLE(湯上 彰浩)

文:白石雄太
写真:直江泰治

※こちらは、2019年2月19日の記事を再編集して公開いたしました。

ムンクの「叫び」を郷土玩具に。福島・野沢民芸が考える、これからの民芸品

世界的絵画と郷土玩具のコラボ

2013年、世界でもっとも有名な絵画のひとつと言われる作品と、日本の郷土玩具の不思議なコラボが実現し、話題を呼びました。

その作品とは、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクが1893年に製作した「叫び」。教科書等で誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

ムンクの「叫び」と、福島県会津地方に古くから伝わる「起き上がり小法師(こぼし)」がコラボして誕生したのが、その名も「起き上がりムンク」。

起き上がりムンク
起き上がりムンク

「起き上がり小法師」の丸みを帯びた独特のフォルムに、あの「叫び」の表情が見事にマッチして、奇妙なかわいさに溢れた魅力的なアイテムです。

この「起き上がりムンク」を手がけたのは、福島県 西会津町で50年以上にわたって会津張子を中心とした民芸品を製作してきた野沢民芸品製作企業組合(以下、野沢民芸)。

野沢民芸

古くからあるものをつくり続けながら、新しいデザインやコラボレーションにも積極的に挑戦する同社に、これからの民芸品・郷土玩具について聞きました。

どんなものにもなる「起き上がり小法師」

野沢民芸の代表理事で絵付師の早川美奈子さんは、父である先代が創業した同社で人形づくりを始めて36年。「起き上がりムンク」の絵付けも早川さんが手がけています。

早川美奈子さん
野沢民芸品制作企業組合 代表理事で絵付師の早川美奈子さん

近年は新たなデザインにも積極的に挑戦していますが、かつてはそうしたくてもできない時期が長く続いていたのだとか。

赤べこ
会津を代表する郷土玩具「赤べこ」

早川さんが人形づくりの世界に入ってきた当時は、いわゆるお土産物としての民芸品の製作が主流でその種類も少なく、販売する場所も駅の売店か土産物屋のどちらか、それが業界としても普通とされていました。

「世間から見てもそうですが、自分の中でも、なんとなく古いとか、良くないイメージを民芸品にもってしまっていたんです」

という早川さん。

「でも、新しいものといっても何をやればいいかわからないし、つくったところで売ってもらえる所もない。

想いはあってもやれない。そんな状態でした」

大きな転機となったのは、2011年の震災。福島や被災地の復興に寄与するかたちで、何か新しいことをやろうという動きの中で、野沢民芸にも声がかかりました。

「さて、何をやろうかと考えた時、デフォルメされたフォルムで、かっこよくて、どんなものにもなりうる。そう思ったのが、起き上がり小法師です」

赤べことならんで福島の人に馴染みの深い起き上がり小法師。転んでも必ず起き上がる、七転び八起きというメッセージも込められた郷土玩具で、福島の復興の象徴としてもぴったり。

そんな前向きな姿勢を持った縁起物である起き上がり小法師に、さらに、縁起のよい日本の伝統柄を描いた「願い玉」シリーズを製作します。

野沢民芸の「願い玉」
「願い玉」シリーズ

これまでにない見た目の起き上がり小法師は評判となり、次第に「起き上がり小法師で動物がつくれますか?」といった変わった注文が来るようになりました。

形の中に、色々なものを押し込めてみる

伝統のフォルムを活かしながら、その動物の特徴を表現する。きちんと起き上がり小法師にも見えて、動物の張り子にも見える。そんな風に毎回頭を悩ませてデザインしているそう。

新しい注文にひとつずつ挑戦していく中で、発想のヒントのひとつになったのは、人気アニメの「トムとジェリー」。

ネコのトムがネズミのジェリーの反撃にあい、ドラム缶に押し込められてその型がついたまま出てくる描写をみて、「これって、ありだな」と思ったのだとか。

「ドラム缶型に押し込められてもちゃんとトムに見えるんですよね。

じゃあ起き上がり小法師の、あの卵型の立体の中に色々なものを押し込めていくとどうなるんだろう。

そんな感覚でやっていって、アイテムが段々増えていきました」

野沢民芸
絵付をする早川さん

新たに生まれていく商品を見た人たちから「じゃあこんなものは?」とまた注文が来る。今はその良い循環ができています。

「民芸品、郷土玩具がこんなにカラフルで、色んなことができるんだと、ずっと作ってきた人ほど気づきにくいのかもしれません。

外部のデザイナーさんたちは、こちらが思っても見ない発想で注文をしてくれるので、その都度新しい発見があり刺激を受けています」

野沢民芸
野沢民芸でつくっている商品のほんの一部

何でも良いわけではない。郷土玩具の本質を考える

野沢民芸は、「真空成形法」といわれる張子の新しい製法を開発し、業界では他に類を見ない量産体制を実現してきた会社でもあります。

「うちはもともと、新しいやり方で民芸品をつくってきた会社です。なので、新しいチャレンジは全然問題ない、楽しいことだ!という感覚がありますね。

町の人たちも『面白いよね』と言ってくださる方が多いです」

野沢民芸
成型が終わった後は、昔ながらの工程で一つずつ仕上げていく
野沢民芸
細かいバリなどを丁寧に磨いていく
白い下地を塗ったあと乾燥させる工程
野沢民芸
赤い塗装はスプレーで
野沢民芸
最後に絵付を行う

しかし、民芸品・郷土玩具として単純に何でもあり、ではありません。

「赤べこも、起き上がり小法師も、会津では皆さんから愛されている郷土玩具です。

そこには歴史や由来があって、それを尊重しつつやらないとダメだと考えています」

たとえば最初に紹介した「起き上がりムンク」に関しても、七転び八起きで何度でも起き上がる起き上がり小法師と、2度盗難にあっても美術館に舞い戻ったムンクの叫びに共通項を見出しました。

その上で、ノルウェーについて広く知ってもらいたい依頼主(現:ノルウェー政府観光局)の想いと、福島の復興支援に役立てたい早川さんたちの想いが重なったアイテムになっています。

「何度でも起き上がる、前向きな考え方は常にベースとして、そこに色々な要素が加わって、人に元気とか癒しを与えるものであってほしい。

その考えは崩さないでやっていきたいと思います」

絶版になった郷土玩具の復刻も

普段、京都などの問屋さんとやり取りをしている営業担当の三留さんによると、最近はやはりインバウンドの需要も大きいよう。

「お面のバリエーションを増やして欲しいとか、旅行客の方が持ち帰りやすいように小型にして欲しいとか、そんな要望が増えています」

野沢民芸
野沢民芸の三留さん

ちなみに、京都で今いちばん人気なのが、「きつねのお面」なんだとか。

「テレビに映ったことがきっかけだと思うのですが、女子高校生がきつねのお面をかばんにつけ始めて、売り上げが増加しました」

こうしたトレンドや予期せぬ需要にどうやって対応していくのかも、これからの課題のひとつです。

早川さんは、新しい依頼にも対応しつつ、過去の遺産の掘り起こしもやっていきたいと考えています。

「過去につくっていたのに今は辞めてしまっているものがいくつかあるんです。

招き猫とか、ねずみ大黒とか。そういった古典的なものも復活させたいと思っています」

野沢民芸

残念ながら、後継者がいないなどの問題で工房を閉めてしまう同業他社も少なくない中、そうした工房から型を引き継ぐこともあるんだそう。

張り子の量産に成功し、新たなチャレンジを通じてファンを増やし、西会津町で雇用の創出にも寄与している同社だからこそできるとも言えます。

ゆくゆくは、会津に限らず、全国でつくられなくなった郷土玩具を野沢民芸が復刻する。そんな期待も膨らみました。

地域おこし協力隊との取り組み

野沢民芸においても、後継者を育て、民芸品をつくり続けることは容易な道ではありません。

「人形づくりにはどの工程も難しい技術が必要なので、それが習熟できないとどうしても続きません。

技術を習得するベース、器用さも関係してきます。長く続く方をなかなか見つけられないのが現状です」

野沢民芸
各工程の習熟には時間と器用さが求められる
野沢民芸

逆に、一度技術を習得すれば、ある程度高齢になっても続けられる仕事のため、現在は、ベテランの方々に非常に助けられているそう。ここに、若い方が加わって、ベテランの手ほどきを受けながら成長していってもらえると、理想的な状況になってきます。

野沢民芸
起き上がり小法師の丸みを整えている職人さん

「今、2名だけなのですが、地域おこし協力隊からうちの会社に来てもらっている方たちがいます。

2人とも20代で、技術を学んでもらうだけでなく、民芸品の可能性をどんな風に広げていけるのか、一緒に挑戦していければと思っているところです」

野沢民芸

地域おこし協力隊でやってきた人が、直接企業に所属するのは少し珍しいケースにも感じます。

「3年の任期が終わったあと、できれば民芸品と関わりを持ち続けていただきたいし、西会津町に定着してほしいとも思っています。

そう考えた時、限られた期間で地域と深くつながるには、今回のように会社に入っていただくのが近道なんじゃないかなと。

業務上で関わる会社の人たちともつながりますし、一緒に働く同僚たちも地域の人間です。そういったコミュニティのベースをつくってから、それをいかして何ができるのか。

この春に来ていただいたばかりなので、まだまだこれから考えていかないといけません」

協力隊で来ている方は、デザインやWebに関するスキルを備えた方たちとのこと。そんな彼女たちとタッグを組んで、どれだけ新しいものをつくっていけるのかチャレンジしていきたいと早川さんは話していました。

西会津町の観光資源として

これからの工房のあり方として、もう少し人が訪れやすい場所にしていく構想もあるそう。

「ネットに載せきれていない商品もありますし、なにより一点一点表情が違うので、直接選んでもらえると楽しいと思います。

工房を見学してもらって、つくり方を見ていただいたり、その後は地域の別のお店でご飯を食べてもらったり。

うちの工房だけじゃなくて、町に来てもらうきっかけにもなれると理想的です」

野沢民芸
野沢民芸

西会津町の観光振興への寄与も見据える早川さん。依然としてコラボの依頼も多く、日々新たな挑戦に向き合っています。

「新しいものをつくりながら、そもそもの『赤べこ』はこういう由来で生まれたんだよ、といったこともわかってもらえるような出し方を常に意識しています」

直感で気になる、かわいいと思うものを手にとってみると、なぜこんな形なんだろうと気になってきたり、他にどんなものがあるのか知りたくなってきたり。そうやって興味の対象が広がっていくことも郷土玩具の楽しさのひとつです。

これから早川さんたちが生み出していくアイテムが、郷土玩具のどんな可能性を見せてくれるのか。それらを見て、多くの人が郷土玩具の魅力に気づいてくれることを一ファンとして、とても楽しみにしています。

<取材協力>
野沢民芸品制作企業組合
https://nozawa-mingei.com/index.html

文:白石雄太
写真:直江泰治

【わたしの好きなもの】「防水機能で中身を守る」BAGWORKS CAMERAMAN

おでかけに連れていきたいカメラバッグ

趣味で始めたカメラ。週末には写真を撮りに車や徒歩でよく出かけます。

いつもリュックカバンに一眼レフカメラを入れて出かけていましたが、いざ写真を撮りたいときにさっとカメラを取り出しにくいし、何より衝撃に心配でした。
何年も使っている愛用のカメラのためにカメラバッグを買おうかと思っていましたが、どれもでかくて本格的なものばかりでごつごつしく手軽なものがあまりなく、欲しいと思えるカバンとなかなか巡り会えませんでした。

肩がけのカバンでカメラを取り出しやすく、衝撃から守ってくれる、そしておしゃれで使いやすいもの…。
そんなカバンが欲しいなぁと思っていたところ、ついに理想のカバンを見つけました。

BAGWORKSの「防水機能で中身を守る」BAGWORKS CAMERAMANです。
そう、うれしい。なんと防水機能も備えています。

外側はやわらかい帆布、内側にターポリンという防水機能を持つ素材が使用されています。
水に濡れると一見帆布に水が染み込んでいくように見えてしまいますが、内側でしっかり防水をしてくれます。
急な雨に濡れてしまっても大切なカメラを守ることができて安心です。




僕はいつも出掛ける際はカメラと財布を入れ、外側のポケットにスマートフォンを入れます。写真を撮りに行くくらいなら必要なものはこれくらいなので、とても”ちょうどいい”サイズ感です。 荷物がかさばらないので写真撮影にも集中できますし、どこへでも連れて行きたくなります。




カメラやレンズは様々な大きさがあると思いますが、やや小ぶりな一眼レフであれば本体にレンズをつけたままでもレンズがもうひとつ横に入ります。




もうひとつ、おでかけが楽しくなるポイントがあります。娘のおでかけセット入れにもちょうどいいのです。
おむつ、哺乳瓶、おしりふき、あと小さめの水筒も入るので、ちょっとそこまでの買い物や公園へのおでかけにぴったりでした。
かさばりがちな幼い子供の荷物。妻と僕と荷物を分担することで、妻の負担も減りますし、家族全員でおでかけが楽しくなりました。




カメラも子供の大切なグッズも守ってくれるカバン。 使い方によっては、もっといろんな使い方ができると思います。 僕はたまにお弁当入れとしても使っています。 いつもと変わらないお弁当が、なぜかこのカバンに入れるとお昼時が待ちきれない気持ちになります。 休日にはお弁当を入れておでかけ、というのも良いかもしれません。

このカバンの便利さ、手軽さを味わうといろんなところに連れて行きたくなります。本当に買ってよかったと思えるカバンです。
娘が大きくなったら、このカバンと一緒に遠出もしてみたいと思います。

編集担当 森田

<掲載商品>
「防水機能で中身を守る」BAGWORKS CAMERAMAN

中川政七商店が残したいものづくり #04郷土玩具

中川政七商店が残したいものづくり
#04 郷土玩具「鹿コロコロ」



商品三課 羽田 えりな

私は郷土玩具が好きです。
 
郷土玩具ってご存じですか?
いろんな定義がありますが、簡単に言うと日本各地で作られた「手づくりのおもちゃ」です。
発祥は、大昔から伝わっていたり、近代になってどなたかが趣味で作られたものが広がっていったりとさまざまなケースがあるのですが、よく聞くのは、位の低い武士や農民が閑散期の収入を賄うために作り、広まったという話です。

玩具の素材は、木や土と様々。
その中でも紙を何層にも固めて作る「張子」というものがありました。
江戸時代の城下町は商人文化ということもあり、不要になる紙が多かったことから、お城のあった地域には張子の玩具が多く残っているのだそうです。
玩具それぞれにそういった歴史に絡んだ背景もあり、知れば知るほど面白いものです。
 
私の家には、これまで集めてきた郷土玩具がたくさんあります。
作り手さんから直接購入したもの、玩具博物館の物販コーナーで見つけたもの、骨董市で出会ったもの、郷土玩具の愛好会でいただいたもの…と、小さなものや名もなきものまで含めると、その数ざっと100種ほど。
さすがに全部は飾りきれないので、選抜の玩具だけがリビングや玄関、お手洗いの棚といった、彼らにとっての「ステージ」へ送り出されます。
ひとり密かに飾るコンセプトを考え、ステージに上げる玩具を選出する気分は、アイドルのプロデューサーさながら。
ちなみにここ最近の私の推し玩は、長野県のそば食い猿です。



そんな郷土玩具たちへの愛に、「敬意」がはっきりと加わったのは、鹿コロコロを開発したときのこと。
開発初期、私は鹿コロコロの試作のため、張子づくりの技術を習得することから始めました。
作り方を教えてくださる職人さんを見つけ、直接お話を伺い、時には制作過程の写メを送ってアドバイスをいただきながら、数週間かけてやっとこさ1つ完成させたのですが、これがまぁ労力のわりにかわいくない。


「元々は庶民の仕事たったわけだし、材料も特別なものはいらないし、できるでしょ!」と超甘い考えだった自分を恥じました。全国の張子職人さん、本当にごめんなさい。
 
でも、実際に手を動かしたからこそわかったことがありました。
それは、張子づくりは本当に手間暇がかかるということ。
うちの張子たちも、こんなに長い道のりを経ていたとは。
これから商品として継続的に量産するには、製造工程も、生産体制も見直す必要があると心底思いました。
 
このときの実体験から、鹿コロコロの開発では「昔の良いところは生かしながら、いろんな人が作りやすくなる方法」を模索していきました。
その方法は、ベースの型を3Dプリンターで起こしたり、樹脂で型を量産したり、車輪に絵付けするための治具を作ったり…。
GoodJob!センターさんとお話しながら生まれた小さな工夫が積み重なって、現在の形になっていきました。
デジタルと手仕事を融合させて生まれた、新しい郷土玩具です。




今世の中に存在する郷土玩具の多くは、宗教的な意味合いとか、子供の無病息災を願う役割などから始まっていて、生まれた時は「郷土玩具」とは呼ばれていなかったと思います。
何十年、何百年も愛され続けた結果、「郷土玩具」になったのではないでしょうか。
そう思うと鹿コロコロも、本当の意味ではまだまだ郷土玩具ではありません。
まさに今、歴史を歩み始めたばかりです。
 
鹿コロコロは奈良の郷土玩具になったのか。
その答えが出る100年後が、私は今からとても楽しみです。

商品名:鹿コロコロ
工芸:郷土玩具
産地:奈良県香芝市
一緒にものづくりをおこなった方:Good Job! Center KASHIBA
商品企画:商品三課 羽田 えりな


<掲載商品>
鹿コロコロ(奈良)