清水焼が清水以外でも焼かれているわけ

清水焼はどこで焼かれているかご存じですか?

そう尋ねると、「京都」、もしくは「清水寺の近く」と答える人が多いのではないでしょうか。

実は清水寺からは山を越えた向こう側の山科区でも焼かれています。歴史好きの人には「『忠臣蔵』の大石内蔵助が隠棲(いんせい)したところ」といえばイメージがわくかもしれません。ほかには平等院のある宇治市でも焼かれています。

清水寺周辺で焼かれていた「清水焼」が、なぜほかの地域へと広まり、そのまま「清水焼」として焼かれ続けているのか。その歴史を紐解きながら、考えていきたいと思います。

「清水焼」はどこから始まったのか?

清水寺の門前から始まって、三年坂を右に折れずに細くなった道をまっすぐ下り、東大路までの約600メートルが「清水坂」です。また、清水坂の途中の三年坂が合流するあたりから始まり、左斜め前のバスも通る広い道を下りて、東大路までが「五条坂」です。

清水坂の1本南の道を「清水新道」といいます。通称は「茶わん坂」です。道自体は大正時代以降にできた比較的新しものですが、このあたりも清水坂・五条坂の一角と考えていいでしょう。

清水寺そのものは8世紀末からあるものの、その門前が遊興地としてにぎわいを見せるのは江戸時代の中ごろからでした。

焼き物も参拝客や遊行客相手にみやげ物として現地生産・現地販売されるようになりました。五条坂の入り口近くにある京焼・清水焼の展示・販売施設「京都陶磁器会館」の林大地さんによると、清水寺の「土」そのものが縁起物として喜ばれたという側面もあったようです。

京都陶磁器会館の林大地さん
京都陶磁器会館の林大地さん

これが後々まで続く清水焼の起こりで、明治から大正初期にはこのかいわいだけで約40基の登り窯があったと考えられています。

清水焼と京焼

過去にさかのぼってみると京都には、清水坂・五条坂かいわい以外にも大きな焼き物の生産地がいくつもありました。その代表をひとつ挙げるとすると、旧・東海道沿いで、山科から京都盆地へと入ってきたあたりの「粟田口(あわたぐち)」でしょう。ここで焼かれたものを「粟田焼」といいます。

しかし、昭和初期以降は清水坂・五条坂の生産量が突出したため、京都の焼き物はどれでも「清水焼」と呼ばれるようになりました。

一方で、「京都で作られた焼き物」と意識しての呼び方もありました。それが「京焼」です。

つまり、厳密にいえば清水焼は京焼の一種ですが、すべてまとめて『清水焼』と呼ぶこともある、といったところでしょうか。

京焼の始まりはいくつか説があり、「桃山時代の末、茶の湯が盛んになり、茶器が必要となって作られるようになった」ともされます。当初は中国からの「唐物(からもの)」や朝鮮半島からの「高麗茶わん」などの影響を強く受けました。

茶の湯自体が当初は武士の文化だったので、京焼の茶器も武士好みの物が作られました。やがて、町人層が新興勢力として伸びてくるに従って、その趣向に合う色彩豊かなものも登場するようになります。色絵磁器はその典型です。

京都で町人層が台頭するに従って、京焼・清水焼もその趣味に合わせるようにきらびやかなものも登場した

大正時代、新たな京焼・清水焼の里となった日吉・泉涌寺エリア

清水坂・五条坂周辺が手狭になり、大正時代に新しい清水焼の里として拡大したのが、南へ約1キロの日吉と、同じく約2キロの泉涌寺です。どちらも、清水坂・五条坂同様に東山の山々のすそに当たります。

これらの土地が選ばれたのは、清水坂・五条坂に近かっただけではなく、登り窯を作るのには傾斜地であることが必要だったからとされます。このエリアにも大正年代には25基ほどの登り窯がありました。

登り窯が使えなくなり移転した?清水焼団地(山科)・炭山(宇治)エリア

実は今、山科区にも清水焼の窯元が集中していて、ここは「清水焼団地」とよばれます。その名前からも想像できるように一種の工業団地として造成されました。また、京都市内からは離れ、宇治市の炭山地区にも多くの窯元があります。

これらの窯元の多くは、1960年代から1970年代にかけて、清水坂・五条坂、日吉・泉涌寺から移転しました。

その理由としては、「大気汚染防止法(1968年)と京都府公害防止条例(1971年)が決定的だった。登り窯から出る煤煙(ばいえん)が公害視された。既に周辺にまで住宅が建て込んでいたため、登り窯を使い続けることができなくなり、郊外に新天地を求めた」と説明されることが珍しくありません。

しかし、一方で、「その時期までには、多くの窯元が登り窯から電気窯・ガス窯に移行していた。煤煙が問題になることはない」との指摘もあります。

実際、移転先のうち、炭山地区では今でも数基の登り窯があるものの、清水焼団地では登り窯は1基も作られることはありませんでした。

それを知ると、やはり「煤煙」の問題だけではなく、窯の新設や作業スペースの拡大など、消費の増大に合わせて生産性を上げたかった、という事情もあったようです。

清水坂・五条坂で最後に登り窯に火が入れられたのは、1980(昭和55)年でした。この時に窯が火元と見られる火災が起き、付近の住民から廃止を求める署名が提出されたことは、廃止の大きなきっかけとなりました。

今、多くの陶芸家が愛用している業務用の電気窯。50〜100万円もあれば購入できる

唯一現役で稼働する「京式登り窯」は宇治に

かつて清水焼で用いられた登り窯には、「京式登り窯」、あるいは「京窯」との名前が付いていました。「傾斜は他地域のものに比べて3分の1程度のゆるさ」「2、3日がかりで焼成するところが多いが、京式の場合は丸1日程度と短い」「焼成室と呼ばれる部屋が他と比較して狭い」といったことが特徴です。

今、清水坂・五条坂エリアでは歴史・文化遺産として5基ほどの京式登り窯が保存されていますが、唯一、現役で稼働しているものが、上述の宇治市・炭山地区にあります。

京式登り窯
京式登り窯

現地で作陶を続けている林淳司さんら4軒の窯元が維持・管理をしながら、年に一度、冬に火入れが行われています。

「コストや制作スケジュールの問題から、商業ベースには乗せられません。おもに、京都府立陶工高等技術専門校など、陶芸を学ぶ学生さんに使ってもらっています。

今でこそ一般的に使われるガス窯も、登り窯の焼成原理を元に開発されました。ガス窯を理解するためにも、登り窯での経験が生きるのです」とのこと。

五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん
五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん。林さんの父親は1971年、10軒あまりの仲間と共に工房を周辺に住居の少ない宇治・炭山に移した

この年に一度の火入れは、陶芸家を目指す学生への貴重な学びの機会であると同時に、京式登り窯の伝統を絶えさせないための技術継承の役割も担っています。

林さんとともに、窯を管理している龍谷窯の三代目 宮川香雲さんは、登り窯の火入れに欠かせない「窯焚き師」の技術を受け継ぎました。

「窯は火を入れていないと痛むのが早くなります。父たちの代から10年前後、使われない状態が続いていたのですが、技術の継承と窯の保存のために、年に一度、火入れをするようにしています」と宮川さんは言います。

左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん
左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん。文字通り「京式登り窯の火を消さない」ように活動している

そのほか、自治体の研究施設から、データが取りたいという依頼が来ることもあるそう。京焼・清水焼の歴史を語る上でも欠かせない貴重な登り窯は、今後観光資源のひとつとしての活用も期待されています。

山科や宇治で「清水焼」がつくられ続けているのはなぜ?

山科や宇治に移っても「山科焼」や「宇治焼」という名前にはなりませんでした。陶磁器会館の林さんは、「清水坂・五条坂から離れたあとも、『自分たちは清水焼の伝統の継承者だ』という自負を持ち続けられたのが原因でしょう」と語ります。

先に見たように「清水焼」や「京焼」の定義がもともとあいまいだったり、材料(土や石)の生産地とはまったく関係していなかったりすることも影響しているようです。

全国の焼き物のほとんどは、材料として適した土(陶土)や石(陶石)が採取される土地で発達しました。もちろん、できあがったものの性質は材料によって大きく左右されます。

主に粘土を材料にして焼かれるのが陶器。土の風合いや作者の手のぬくもりを感じるような作品も多い
磁器は長石・けい石といったガラスの材料にもなるような石を粉末にし、それを練り合わせて作る。光沢が美しいだけではなく、強度も陶器よりも高い

現地でとれる土や石で性質で決められてしまっているので、たとえば「唐津焼」といえば陶器、「有田焼」と言えば磁器をイメージするのが一般的です。しかし、これらと同じぐらいに名前を知られていて、陶器も磁器もあり、あらゆる作風の焼き物がつくられているのが京都の京焼・清水焼です。

材料の土や石がとれない京都で焼き物が発展したわけ

陶工も材料も全国の陶磁器の産地から集まって発達しただけに、京焼・清水焼には陶器・磁器を問わないばかりか作風も様々なものが見られる

林さんは「商人が全国より職人を京都へ呼び、各産地の焼き物を作らせたことにより、陶器も磁器もある、作風も様々といった京焼ができあがりました。

陶磁器に使える土や石については、この清水坂周辺でも最初は取れていました。しかし、すぐに掘り尽くしたようです。江戸時代のうちからすでに、信楽(滋賀県)などからは粘土が、天草(長崎県)などからは陶石が運ばれました」と話します。

つまり、京焼・清水焼は全国でも珍しい、「原料が地元にないのに発展した焼き物」なのです。

若宮八幡宮社
五条大橋から東山五条のちょうど真ん中ぐらいある若宮八幡宮社。1949年に陶祖神の椎根津彦(しいねつひこ)を合祀したことから「陶器神社」とも呼ばれる。毎年8月7日から10日の「陶器祭」はこの神社の祭礼でもある

江戸時代終盤ともなると、清水坂・五条坂には陶磁器のあらゆる技法が集まり、名工も輩出しました。また、各地の藩が自領で新たに陶磁器産業を興すようなときには、京都、なかでも清水坂・五条坂から陶工を招くのが常でした。

清水坂・五条坂は陶磁器の技法において日本全体の集散地だったのです。

幕末から明治初期にかけては、ヨーロッパの陶芸技術も積極的に採り入れました。また、輸出用の製品に力を入れた時期もあります。しかし、これらの大きな成功は長続きせず、結局、伝統的な高級品へと回帰しました。以後は、個人作家的な陶芸家も多く出ました。

山科や炭山まで清水焼の産地が広がった今でも、この延長上にあります。ほかの陶磁器の産地では見られないような、窯元や作家ごとの個性の違いを発揮しながらも、全体としては京焼・清水焼として作られ続けています。

※関連記事:若手陶芸家が京都を目指す理由

<取材協力>
京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
京焼炭山協同組合「京焼村」

文・写真:柳本学

【わたしの好きなもの】THE 洗濯洗剤

 

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洗い分けの必要がなくなることで、以前はウールやシルクの別洗い衣料用に置いていたかごを撤去。いろんなパッケージが並んでごちゃっとしていた洗剤置き場もあわせて、かなりすっきりしました。



「THE 洗濯洗剤」の価格は500mlで2700円と洗剤としてはかなり高価。でも、洗濯ものの量にもよりますが、1回に使う量がたった5mlと本当にわずかなため、かなり長持ちします。

以前は頻繁に洗剤を詰め替えていた気がするのですが、これに変えてからはまだ詰め替えなくていいのかな?と思うようになりました。


1回5mlしか使わないということは、1本で100回洗えるわけで、1日1回しか洗濯しなければ3ヶ月以上もつんですよね。洗い分けの手間がなくなったことや、クリーニングに出していたようなものも自宅で洗えるようになったこと、他の洗剤を買わなくて済むことを考えれば、意外と割高感はないように思います。

理想の洗い上がりを実感

また、洗い上がりのよさも実感していて、特に違いがわかりやすかったのがタオルです。

以前、吸水性が下がり、毛羽が落ちやすくなるからタオルには柔軟剤を使わないほうがいいとタオルメーカーさんから聞いていたので、これを機に柔軟剤を辞めてみようと試したところ、柔軟剤を使ったときの膜が一枚かかったような感じがなく、さっぱりとしているのに触り心地はふんわり、といった個人的に理想的な洗い上がりでした。

シルクやカシミアのストールも何度か手洗いしましたが、こちらも満足のいく洗い上がり。ドライクリーニングの香りが苦手だったので、顔に近い巻きものを自宅で洗えるのはすごくうれしいです。

試しに一度、と思い使い始めましたが、洗濯にかかる手間と時間の短縮と洗い上がりのよさは予想以上。なかなかいいものに出会えずにいた洗濯洗剤ですが、マイ定番を探し続けた長い旅にようやく終止符が打てそうです。


<掲載商品>
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EC課 辻村

きっと好きなものに出会える。郷土玩具の聖地、京都「平田」の不思議な世界

そうだ 京都、行こう。

京都と聞くと一度は頭をよぎるこの言葉。JR東海がキャンペーンで使用しているキャッチコピーで、最初に使われたのは1993年のこと。

この短いフレーズを聞くだけでなぜだかワクワクしてしまうのは、とにかく京都に行けばなにか特別な、“ならでは”の魅力が体験できると期待してしまうから。

そんな期待感を持てる場所だからこそ、このコピーが長年使われ、定着しているのだろうなと思います。

歴史ある神社・仏閣、美しい日本庭園、京町家の風情ある町並みなど、京都“ならでは”の魅力は数多くありますが、今回紹介したいのは、京都だけでなく全国の“ならでは”を感じることができる不思議なお店です。

郷土玩具マニアの聖地「郷土玩具 平田」

その土地“ならでは”の文化や風習を理解するために、ヒントとなるのが古くから日本各地で作られてきた手仕事の品々。

中でも、機能性を必要としないが故に、作り手の個性やその地域の風土が色濃く反映されている工芸品が、郷土玩具です。

郷土玩具
郷土玩具

一部の郷土玩具は今、テレビや雑誌などメディア露出の影響もあって、じわじわとブームになってきています。しかし全国にはまだまだ日の目を浴びていない郷土玩具が無数にあり、その多様性にはおどろかされるばかり。

そんな知られざる郷土玩具の魅力を存分に味わうことができ、全国から愛好家が集まるお店が、京都駅の南、五重塔で有名な東寺のすぐそばにある「郷土玩具 平田」。

郷土玩具 平田
「郷土玩具 平田」。通りから見える不思議な人形にふと足を止める人も多い

京都の伏見人形だけでなく全国各地の郷土玩具が所せましと並ぶ店内で、店主の平田恵子さんに、お店の成り立ちや郷土玩具の魅力について伺いました。

郷土玩具 平田

郷土玩具のスーパーコレクターだった先代

「実は、私の祖父母の代までは『平田陶器店』という屋号で家庭用の雑貨なんかを売るお店をやっていました。郷土玩具が大好きだったのは私の父で、祖父母のお店の片隅に、自分のコレクションを飾ったのがスタートだったみたいです」

郷土玩具 平田
スタッフの女性と二人、お店を切り盛りする平田恵子さん

業界誌に寄稿を重ねるなど、郷土玩具愛好家として有名だったという恵子さんのお父さん、平田嘉一さん。その趣味が高じて50代で勤めていた会社を辞め、各地の工房を訪ねては本格的に商品の買い付けを開始します。

その後、平田陶器店を継いだ嘉一さんは、だんだんと郷土玩具のスペースを拡大していき、ついには屋号も「郷土玩具 平田」に変更。全国の郷土玩具を扱う専門店となりました。

「初めはいきなり工房を訪ねても売ってはもらえず、何度も諦めずに訪問することもあったそうです。仕入れたものは壊れるのが嫌で、すべて手持ちで運んできたと聞いています」

郷土玩具 平田
郷土玩具 平田

そうして少しずつ各地の工房、職人さんと信頼関係を築きながら、お店を続けること40年以上。全国でも有数のコレクションが揃った、知る人ぞ知る郷土玩具の名店を作り上げました。

「とにかく郷土玩具が好きで、いつ見ても何かしらの人形を触っていたのを覚えています。知識も豊富で、はるばる全国からお店に来られて、『この人形は何時代の誰の作ですか?』と父に鑑定を依頼する人もいらっしゃいました」

郷土玩具

全国でも指折りのコレクターであり、その人柄にファンも多かった嘉一さんですが、2017年に92歳で亡くなってしまいます。大往生と言っていい年齢とはいえ、亡くなる直前までは元気にお店に立っていたこともあって、もう少し先の話だろうと考えていた恵子さん。

突然の別れに、きちんと引き継ぎができなかったことを悔やんだそう。

「父が突然亡くなってしまって、値段のことや作り手さんとのやり取りなど、わからないことが多く本当に苦労しました。最初にお店に入って、この商品の山を見た時は『どうしよー、なんもわからへん!』って。本当は、2、3年かけて知識を受け継いでいこうと思っていたので」

郷土玩具 平田

先代の残した資料を元に棚卸しを決行

それでも、このコレクションを埋もれさせるわけにはいかないと、店の継続を決意。先代からの常連客で、郷土玩具愛好家でもあった女性をスタッフに迎えて二人で店の運営を開始します。まずは商品をひとつひとつ確認していきました。

「引き継ぎはできなかったんですが、ほとんどの商品について父が一点ずつ写真を撮ってくれていて、商品名や作家名とともに控えてくれていたので、ある程度のことはわかりました」

郷土玩具 平田
先代が残してくれた資料が、店のいたるところに
郷土玩具平田

嘉一さんが残した資料を紐解きながら確認を進め、棚卸しが完了した商品については、同じ種類のものが2つ以上あれば値段をつけて販売することにしました。

「父は、自分の娘のように郷土玩具を愛した人で、『嫁入りさすし、大事にしてや』が販売する時の口癖でした。その想いに応える意味でも、商品を気に入っていただいて、きちんと大切に飾ってくれる人にだけお譲りするという方針でやっています」

ごくまれに、古い郷土玩具を骨董品と考えて大量に購入しようとする方もいたそうで、そういった場合にはきっぱりとお断りしてきたそうです。

一代前の作品が揃った唯一無二の店

現在、先代の残した膨大なコレクションの整理で手一杯なこともあり、新規の郷土玩具の仕入れは行なっていないとのこと。

その代わり、一代前やもっと古い時代の全国の作品が揃っています。

郷土玩具 平田
郷土玩具 平田

「たとえば、テレビで紹介された最近の作家さんの作品をみて来店される方もいらっしゃるのですが、そういったものは置いていないんです。その代わり、その作家のお父さんの人形ならあったりするので、こんなのがありますよ?と薦めてみたりして。中にはそこから深く興味を持ってくれる人もいらっしゃいます」

人の手で作られる郷土玩具は、同じ作り手でも一体ずつ微妙に表情が違ってそこが面白いのですが、世代が変わると雰囲気がさらにがらっと変わります。

同じ型を使って代々作られている人形を、時代ごとに見比べて違いを楽しみ、自分の好みを見つけていく。そんな経験はこの店ならではのものです。

郷土玩具
郷土玩具

作り手が亡くなってもう一点しか残っていないものや、歴史的価値の高いものについては、「非売品」として店頭に並んでいます。

「これは売っても大丈夫なものなのか、判断が難しいものは専門家の詳しい方にアドバイスをいただきながら整理しているところです。

博物館に寄贈してもいいようなものもあるんですが、それよりも店内で見ていただきたい。売れるものについては好きな方の手元に渡って欲しいと考えています」

非売品のものも含めて、全国津々浦々から集まった郷土玩具たちは眺めているだけで楽しく、それぞれについてエピソードや由来を聞いて話しているとあっという間に時間が経過します。

「なにか絶対買う必要はなくて、来て、見てもらって、『ここにこんなものがある。うわー』という風になって癒されたり、面白がったりしてくれるといいかなと思いますね」

郷土玩具

郷土玩具文化のハブとして

山形の相良人形など、代々続いている工房の作品については、今の作り手に直接聞くこともあるそう。

「今8代目を継がれている相良隆馬さんとは、直接お会いしたことはまだないんですが、SNSを通じて交流があって、よく質問をさせてもらっています。

この人形は何代目の作かわかりますか?と写真を送ると、『それは初代ですね、そっちは2代目の作です』と即答してくれて、すごいなと。

これも私の父が隆馬さんのお父さんとお付き合いさせていただいていたご縁があるからこそ。その工房の人にしか分からないことを聞けるので本当に助かっています」

郷土玩具

また、お店に来た愛好家の方が、購入した郷土玩具について色々と調べて連絡をくれることも。

「私たちもまだまだ調べきれていないことだらけなので、興味を持ってくれたお客さんに、『詳しいことはぜひ調べて、また教えてください』とお願いしてみたり、みんなで知恵を出し合っている感覚です」

郷土玩具

「最近は、テレビや雑誌の影響で興味を持ってくれる方もいますし、郷土玩具への入り口が増えているとは感じています。

やっぱり日本の文化というか、その土地の物語を伝えるものでもあるので、なくなっていくのは寂しいし、若い人にももっと広まってほしいですね」

きっかけはなんであれ、一度興味を持つと次から次へと気になることが出てくるのが郷土玩具の面白いところ。

「猫が好き」「見た目がかわいい」「自分の干支が気になる」といったシンプルな理由で目に留まったり、「地元にもこんな郷土玩具があったんだ」「同じ土人形でもこんなに種類があるのか」という風に驚きがあったり。

もしくは「昔おじいちゃんの家にあった気がする」と懐かしい気持ちになったり。

好きになる理由、欲しくなる理由が色々なところから見つかるのも、郷土玩具の特徴です。

郷土玩具
郷土玩具

研究者、作り手やその後継者、愛好家など、郷土玩具を好きな人たちが互いに情報や魅力に思う部分を持ちよって、新たに文化が作られていく。その中心地、ハブとして、「郷土玩具 平田」はこれからも愛される場所であり続けてほしい。

今は廃絶してしまった郷土玩具も、この場所で残っていくことで、いつか誰かが復活させるときの大きなヒントにもなる。そんなことも期待してしまいます。

「新旧問わず郷土玩具というものに興味を持つ人が増えてくれれば嬉しいです。もともと、それぞれ土地の土を使って作られた、ふるさとのものだし。ずっと栄えてもらいたいと思います」

お店を継ぐまで、こんな風に考えたことはなかったという恵子さん。土地に根ざし、多様性を持って今まで作られてきている各地の郷土玩具たちには、人の琴線に触れる不思議な魅力があるのだなと、改めて感じました。

郷土玩具 平田

<取材協力>
郷土玩具 平田
〒601-8428 京都府京都市南区南区東寺東門前町89
電話:075-681-5896
https://www.kyodogangu-hirata.com/

文:白石 雄太
写真:直江泰治

【職人さんに聞きました】夏の食卓におすすめの「津軽びいどろの豆皿」は、夏の短い青森生まれ。

 

蒸し暑い日本の夏に、活躍するのがガラスのうつわです。たっぷりとそうめんを盛り付けた大鉢やキンキンに冷えたビールジョッキなど、思うだけで涼しげですね。

この夏、そんな暑い季節の食卓に涼を添える、小さなうつわが誕生しました。淡い色合いが美しい「津軽びいどろ」の豆皿です。



「津軽びいどろ」は、全国でも夏の短い東北・青森生まれのガラス工芸。四方を海に囲まれた地理条件が、本州最北端の地に美しいガラスをもたらしました。

「はじまりは漁師さんが使う『浮き玉』作りだったんです」



そう語るのは中川洋之さん。「津軽びいどろ」を手がける北洋硝子株式会社の工場長です。



もともと北洋硝子は青森近海でホタテの養殖が盛んになったのをきっかけに、設置網に取り付けるガラスの浮き玉をメインに作っていたガラスメーカー。

北洋硝子製は厚みが均等で水圧にも強く丈夫だと全国から注文が入るようになり、いつしか業界トップシェアに。その後浮き玉はガラスからプラスチックにとって代わり、メインアイテムは花瓶、食器にシフトしていきます。

「テーブルウェアになると色も多様になりますね。でもガラスの主要産地である東京や大阪から色付きのガラスを都度取り寄せるには遠く、手間がかかりすぎる。

それで色の調合も自分たちでやっていくようになりました。津軽びいどろのあの色も、そうやって生まれたんです」

手近な原料を使って新しい色ガラスの開発に取り組む日々。



そんなある日、1人の職人が美景で知られる砂浜「七里長浜」を散歩していて、ふと足元の砂に気がつきました。

「これを使ってガラスが作れないかな?」

ちょうど社内では、青森の自然を題材にした作品づくりのために色の開発が行われていた頃。試みに先ほどの砂を調合してみると、見事に透き通った美しい緑色のガラスが現れました。



のちに青森県の伝統工芸品に指定される「津軽びいどろ」誕生の瞬間です。

「砂って山から海にかけて色が薄くなっていくんです。前に山の砂をガラスに溶かしてみたら、茶色っぽい色になりました」

首都圏から離れていたからこそ、海に囲まれた土地だったからこそ生まれた美しい色ガラス。

そのチャレンジ精神が功を奏し、今では絶妙で多彩な色のバリエーションが、北洋硝子さんの強みです。ガラス工場としては珍しい、100色以上もの色を保有しています。

「今回ははじめに七里長浜の砂から生まれた色を再現した緑色と、青色が2色。一口に青といっても、色合いがまた違うでしょう」


▲「津軽びいどろ」のルーツともいえる、七里長浜の砂から生まれたグリーンの「七里長浜」、深みのある「瑠璃」、涼やかな「藍鼠」の3色

▲七里長浜の砂を配合した原料。これがあの美しい緑色になるとは、この時点では想像もつきません


▲こちらは瑠璃色の原料


▲藍鼠色の原料

美しい色合いを混じり気なく表現するには、調合だけでなく成形にも高度な技術を要します。



「こういう一色だけの色ガラスは、模様がないので小さな気泡でもあればすぐにわかってしまいます」


一点の曇りもない透き通った肌は洗練された技術の証。それを、熟練の職人でも難しいという小さな小さなサイズに仕立てて生まれたのが今回の豆皿です。

用いるのは、ガラスの種を落とした型を高速回転させ、遠心力によって成形する「スピン成形」という方法。つくられた豆皿には、形に微妙な揺らぎが出るのが特徴です。

工程の一部始終を見せていただきました。


▲調合ずみのガラス原料を高温の炉の中で溶かします


▲ガラスの種を落とします


▲型が高速回転!わずかな置き方で形の良し悪しが決まります


▲あっという間に冷え固まります。この色は・・・


▲深みのある「瑠璃」の色が現れました

「難易度は5のうち4ぐらいかな。でも『なんでも作ってみる』というのがうちのスタンスですから」と語る中川さんの表情は誇らしげです。



その幅広いガラスづくりにチャレンジできる環境に惹かれて、現場には若い職人さんの姿も多数。



食卓を涼しげに演出してくれる小さなガラスのうつわは、北の海に生まれ、現場の熱意に育まれて、今日も美しい淡い色合いをたたえています。

<取材協力>

北洋硝子株式会社
青森県青森市富田4-29-13
https://tsugaruvidro.jp/



<掲載商品>
津軽びいどろの豆皿

「つづら」ってなに?現代でも役に立つ”着物入れ”の魅力とは

「つづら」ってなに?

日本人は古くから、ふだんの生活を「ケ」、おまつりや伝統行事をおこなう特別な日を「ハレ」と呼んで、日常と非日常を意識してきました。晴れ晴れ、晴れ姿、晴れの舞台、のように「ハレ」は、清々しくておめでたい節目のこと。こちらでは、そんな「ハレの日」を祝い彩る日本の工芸品や食べものなどをご紹介します。

江戸時代からの嫁入り道具「つづら」

日本のおとぎ話に出てきそうな「つづら」。実際に目にしたことがない方も多いのでは?つづらは元々、ツヅラフジのつるで編んだ衣服などを入れる蓋つきのかごのこと。のちに、竹やひのきで編まれたかごの上に和紙を貼り、柿渋や漆などを塗ったつづらがつくられるようになりました。

元禄時代に葛籠屋甚兵衛(つづらや・じんべえ)という江戸の商人が婚礼の道具としてつづらをつくったことで庶民へと広まったそうです。

つづら製造の最盛期は明治時代から大正時代。呉服の町として名高い東京・日本橋にはつづらかごの職人も多かったそうですが、今では人形町の「岩井つづら店」たった1軒だけに。文久年間に創業したこちらは、元々は人を乗せて人力で運ぶ駕籠屋(かごや)だったそうですが、いつしかつづらをつくるようになり、現在では6代めの岩井良一さんがつづら屋をつとめています。

天然の素材だけでつくられるからこそ、長持ちする。「岩井つづら店」のつづらづくり

岩井つづら店のつづらづくりを見せていただきました。その工程を追ってみると材料の素材は天然のものばかり。そして、工程の一つひとつがやはり職人の手作業です。

つづらの下地となる竹かご。茨城県や新潟県・佐渡の職人さんに協力してもらって編んでもらっているそう
6代目岩井良一さん。海藻である「ふのり」を刷毛で塗り、竹かごに和紙を貼ります
和紙を張ったあと、独自の道具で表面をシャカシャカと擦ります。和紙がはがれないように、かご目がしっかり出るように
大きなつづらの補強には、古い蚊帳生地と和紙で裏打ちしたものを貼ります。この蚊帳は古道具屋さんから仕入れているものだそう

さまざまな素材で土台をつくったら、この上に防虫・防カビ効果のある柿渋を塗ります。さらに、カシューナッツを原料とした漆を表面に塗ることにより、独特の光沢を持ったつづらができあがります。

そして、嬉しいのがつづらに紋入れ、名入れがオーダーできること。

伝統的な家紋はもちろん、自分なりのマークにも対応してくださるそう(要相談)
こちらは手文庫サイズ。左から、溜(茶)、黒、朱
紋入れ・名入れの様子

一生ものの美しいつづらはお嫁入り道具だけでなく、出産、就職など人生の節目の贈りものにも最適。まさに、ハレの日にふさわしいものですね。着物を収納するような大きなものから小物入れまで、サイズもさまざまなので現代の生活の中でも活躍してくれそうです。

手がかかっているからこそ、オーダーしてから1年待ちということもありますが、今なら数ヶ月待ちで手に入ることも。ぜひご相談ください。古いつづらの修理も受けてらっしゃいます。長く世代を超えて受け継いでいきたい工芸品です。

<取材協力>
岩井つづら屋
東京都中央区日本橋人形町2-10-1
03-3668-6058
http://tsudura.com

文・写真:杉浦葉子

※こちらは、2017年6月18日の記事を再編集して公開しました。

引き出物を「オーダーメイドの笠間焼」で作ってみました

私事ではございますが、先日、筆者は結婚し、5月に友人を招待して宴会を催しました。どうしたら招待客の皆さんに喜んでもらうことができるのか、特に引き出物をどうしようかと悩みました。できることなら普段使いをしてもらえるようなものにしたい。

いろいろと探しているうちに、引き出物や記念品などをオーダーメイドで受け付けている笠間焼の窯元を見つけました。茨城県笠間市にある向山窯 (こうざんがま) です。ホームページによると、要望と予算に合わせて作っていただけるようです。

焼き物好きの妻に話をしてみたところ、「おもしろそうだから行ってみようか」とのこと。ノリがよいのは妻の長所です。オリジナルデザインを施していただけるというのも、私たちの心をつかみました。

今回は向山窯の増渕浩二社長にお話を伺いつつ、妻と相談しながらどんな引き出物にしようか決めようと思います。

笠間焼の窯元・向山窯の工房にお邪魔しました
笠間焼の窯元・向山窯の工房にお邪魔しました

「ここで焼き物が続けられるのかな」

向山窯社長の増渕浩二さんは1944年生まれ。愛知県瀬戸市にある窯業の学校に進んだ後、近い親戚がいたことから、茨城県笠間の地に降り立ちました。

「昭和20年ころまでの笠間は窯業地といっても甕やすり鉢といった土間で使うものを多く生産していました。明治時代後期から昭和時代初頭くらいまでは隆盛もあったそうですが、私が入ってきた昭和30年ころは衰退の一途を辿っていました。

『ここで焼き物が続けられるのかな』と疑問はありましたが、そのときから『焼き物で生きていこう』と腹を据えて笠間で焼き物を続けてきました」

その後、笠間焼は官民一体となった試行錯誤の上、甕 (かめ) やすり鉢などの粗陶品から食器や日用雑器といった陶器への転換に成功。笠間稲荷などの神社仏閣は多くの観光客を呼び込んでおり、笠間焼も一つの観光資源となりました。東京からも車で2時間弱と、地の利があったのもよく働いたのです。

「ところがバブル崩壊後、リーマンショックから急激に景気が悪化します。消費者の考え方というか生活の構造も変わってきました。今までと同じような笠間焼を売っていても先は見えていました」

向山窯社長の増渕浩二さん
向山窯社長の増渕浩二さん

向山窯を救ったオーダーメイド

高度成長期に各焼き物の産地は、機械生産に舵を切っていきました。しかし、笠間の土は粒子が細かく粘り気があるので、容易に型を抜くことができず、大量生産が難しい。とはいえ土を買ってしまうとコストがかかってしまいます。

唯一、笠間に残ったのは“手作り”でした。そこで増渕さんはオーダーメイドを思いつきました。

「特徴がないのが特徴と言われる笠間焼ですが、私から言えば、笠間は多彩な良さのある産地なのです。定番というものがない分、それぞれの窯が自分の持ち味を出せるのです」

向山窯は、飲食店向け業務用食器や引き出物などのギフト商品などのオーダーメイド製品を販売することで復活することができました。特別なお客様には特別な器を提供することにステータスを感じる人が増えていったのです。

「今は手作りの産地が非常に貴重になりました。一周遅れでトップになったということかもしれません」

「手作りだからこそ、細かい要望に応えられるのです」と話す増渕さん
「手作りだからこそ、細かい要望に応えられるのです」と話す増渕さん

発注ごとに、作り手へ仕事を割り振っていく

さて、向山窯の手作り陶器はどのように作られているのでしょうか。工房内を見学させていただきました。

各作家さんが黙々と作業を進めていきます
各作家さんが黙々と作業を進めていきます

工房では10人以上の作り手が各自の席で黙々と作業を進めていました。

たたらで型を取っている人、ろくろを回している人、成形をしている人、釉薬をかけている人、窯焼きを待つ人。向山窯では作り手それぞれの個性を活かせるように、一人ひとりが独立して作品づくりに取り組んでいます。増渕さんは発注ごとに仕事を割り当てるといいます。

「確かに分業の方が効率はいいです。ただ、社長としては作るものに責任を持ってもらいたい。想いというか魂が含まれますからね。一人が一貫して最後まで仕上げたほうが、表現がブレませんよね。その方が一人ひとりが鍛えられると思うのです」

なぜかぼろぼろのビニール傘‥‥
なぜかぼろぼろのビニール傘‥‥
このへら先はビニール傘の骨を利用して作ったものでした
このへら先はビニール傘の骨を利用して作ったものでした

発注量が多い場合は皆で連携することもありますが、基本的には各作り手が責任をもって手作りで仕上げていきます。

成形された作品たちが窯に入るのを待っています
成形された作品たちが窯に入るのを待っています

個性的な器が並ぶ向山窯のサンプルルーム

つづいて、増渕さんに案内していただいたのはサンプルルームです。

「業務用食器を本格的に取り組むようになってから、サンプルルームを設置しました。元々は私たちの作品の資料館のつもりでした」

サンプルルームには所狭しとざまざまなデザインの器が並んでいます。

個性的なお皿が並ぶサンプルルーム
個性的なお皿が並ぶサンプルルーム

「バイヤーさんや板前さんと話をするときに、サンプルがあると話が早いわけです。板前さんはお皿を眺めながら、どんな料理を載せようかとイメージをします。そうすると皆さん、1、2時間は動きませんね」

このお皿にはどのような料理を載せてみましょうか
このお皿にはどのような料理を載せてみましょうか

今回訪れたの目的は、引き出物をオーダーメイドで頼むこと。私のような料理の素人にとっては、ずらりと並ぶ個性的な器を前に、どうにも決めきれません。砂漠の中から針を探すような気持ちです。

「一般の方は、ここよりもお店の方がイメージが決まるかもしれませんね」

陶器でありながら、薄くて軽い器に一目惚れ

工房から移動して、「向山窯笠間焼プラザ店」に伺いました。

お土産に買いたくなる向山窯直営の笠間焼プラザ店
お土産に買いたくなる向山窯直営の笠間焼プラザ店

どっしりとした風合いのある陶器も並んでいますが、持ってみると意外に薄くて軽いものも多い。戸棚からも取り出しやすそうです。特に向山窯では、フィンランド語で“繊細な陶器”の意味を持つ「へルッカ セラミカ」シリーズを開発。従来の笠間焼から半分ほど薄くて軽い、かつ、シンプルなデザインの商品を推奨品として販売しています。

引き出物は、おつまみや副菜などを載せられるような小さめの器にしようと決めていました。どんな人でも日常使いできそうなものを贈れたらと思ったのです。

増渕さんと相談しながら、夫婦でイメージに近い器を探っていきます
増渕さんと相談しながら、夫婦でイメージに近い器を探っていきます

妻が正方形の器を見つけました。「へルッカ セラミカ」シリーズのひとつ、スクエアプレートです。平皿のようで平皿ではありません。低いながらも高さがあるので煮物を載せても煮汁がこぼれません。2人とも一目ぼれしました。

増渕さんに私たち夫婦が気に入った器の高さを測ってもらいました
増渕さんに私たち夫婦が気に入った器の高さを測ってもらいました。幅15センチ、高さは1.8センチほど

この器にデザインを施してもらいます。

私たち夫婦は沖縄県那覇市にある波上宮(なみのうえぐう)という神社で挙式しました。場所にちなんで波のデザインを入れたい。私はプロ野球「横浜DeNAベイスターズ」のファンなので、星も入れたい。全体的には青い器にしてもらいたい‥‥そんな夫婦の要望を増渕さんにお話しました。

「いいですよ。できますよ」

二つ返事で答えてくれました。

世界にない器を作ってもらう

これからはメールのやり取りをしながら、色や図面のイメージを共有していきます。

例えば、一口に“青”と言っても水色に近い“青”から紺色に近い“青”までさまざまな“青”があります。また、“波”にしても荒波や波打ち際の波などさまざまな“波”があります。私たち夫婦は絵を描くのが下手なので、イメージに合う画像をネットで探して、担当者とデザインの細部を詰めていきました。

後日、見積書を送っていただきスムーズに話が進んでいきます。そして約2か月後、遂に完成品が到着しました。

完成品です
完成品です

到着2日後に宴会を開催。私たちの手から参加者の皆さんに配布。その後、続々と反響をいただきました。

「色合いがいいね」

「今、もらった器にチーズを載せてビール飲んでる」

妻は「皆に喜んでもらってよかったね」と言います。

完成品を見守る増渕さん
完成品を見守る増渕さん

一般的には、引き出物は出来上がった製品の中から選びます。今回はあえてそうせず、自分たちのやりたいことをとことん探ってみることで納得のいくおもてなしができたように感じています。

「周りと違っても、自分たちなりの選択をする」というのは、増渕さんの話に通ずるものがあります。笠間焼や向山窯も、自分たちの信じる一つのことを続けたことで、光明を見出したのだと思います。

オーダーメイドの引き出物を発注することで、人生のヒントを学んだような気がします。

<取材協力>
向山窯
茨城県笠間市笠間2290-4
0296-72-0194

文:梶原誠司
写真:長谷川賢人・梶原誠司