デザイナーが話したくなる「保存の器」


きっかけは「わがままな思い」とデザイナーの渡瀬さん。
そもそも男性がこういうものが欲しいなと思いついたことが不思議でした。

男性がひとり暮らしで、余った食事をプラスチックの保存容器で保存すると、翌日お皿に移すと洗い物が増えるのが手間だということで、そのまま保存容器からたべてしまうことがしばしば。
なかなか、ワイルドな、、、
しかし、本人もそれはそれでなんだか横着をしている後ろめたさと、きちんと食事をとっている感じがしないと思っていたみたいです。

そこで、食器として使える保存容器があったらそれが一番なのに!と思いついたんです。
ずぼらながらも食卓を充実させたい我儘な思いから、焼き物でつくる「食器としても使える保存容器」の開発が始まりました。


保存容器として、よく見かけるのは、まずプラスチック製のもの、そして琺瑯や陶磁器のもの。
陶磁器なら渡瀬さんが想像しているものに近いのではと思ったのですが、ここで「中川政七商店らしい」暮らしに馴染むデザインをしたいという渡瀬さんのこだわりが。陶磁器のものは、蓋がプラスチックのものが多いのですが、蓋も容器と同じ素材で作ることにしました。


そこで高い気密性を実現するため、選んだ産地は有田。素材には通気・吸水性が少ない磁器を用い、有田有数の成形精度を持つ生地メーカーにて「共焼き」という技術を用いて焼成しました。
急須の製造等で使われる共焼きは、蓋と身を合わせた状態で焼き上げることで、焼成時に発生する土の収縮差を抑えることで、隙間を限りなく小さくすることができます。
実際蓋をしてみると、ピタッと気持ちよくはまります。


共焼を行う場合、身と蓋の接地面の釉薬を剥ぐ必要があります。そのために行うのが蝋引き。蝋を塗ったところは釉薬が弾くことで重ねて焼いても身と蓋が付きません。蝋は筆でのせる為、分厚く塗ると蓋が入らなくなる恐れがある為、神経を使う作業です。


食器として使い、蓋をして冷蔵庫または冷凍庫で保存。翌日にそのまま電子レンジで温め直して、また食卓へ。食器と保存容器の両役を果たしてくれる器は、沢山の容量がありつつ、食卓で馴染む雰囲気にするため、鉢(どら鉢とも呼ばれる)の形に近づけました。
蓋にはリムを設けることで、取り皿として使うこともできるんです。


「日頃、いろいろな産地を巡ってと様々な発見があります。」と感慨深い渡瀬さん。
「共焼き」の事を知ったのは、実は萬古焼。急須を作る窯元で、身と蓋を合わせるためには、結構な手間や技術があることを知りました。
一方、お茶産地に伺ったときには、実は気密性の高い磁器急須が、匂いもつきにくく本来の茶の味を味わうのに適しているので好んで使っていると話を聞きました。
それらの見聞を組み合わせると、今回の保存の器は、気密性を高める共焼と磁器材を用いるのが良いのではと結びつきました。匂い移りも少ないはず。磁器は昔は高級素材で、保存容器としては使われてきませんでしたが、後世になると醤油瓶や酒瓶など保存も兼ねた容器としても活用されるようになります。

私達の仕事は、生活者としての肌感と産地の知恵を結びつけて、今の生活に活躍する道具をつくることです。とは言え、絵に描いた餅を実現するのはいつも大変で、今回も何度も試作を繰り返して完成しました。
おかげさまで保存容器のままでも後ろめたさのない食卓になり満足しています。最後は、とても満足気な笑顔でした。


※2022年4月25日に一部コメントを修正いたしました。  

【作部さんに聞きました】鹿の家族 お手玉

「これを買う人の気持ちも、あんたたちのことも考えて、頑張ってるつもりやねんで」

中川政七商店を手仕事で支えてくださる「作部(つくりべ)さん」にお話を聞きました。
ちらっと見える親鹿、子鹿の刺繍がポイントの「鹿の家族 お手玉」を作ってくださっている廣瀬さん。



-今は主にお手玉の縫製を担当いただいてますが、中川政七商店でお仕事をはじめて何年くらいになりますか?
2000年にはもうしてたかなぁ。だから19~20年はやってるんちゃうかなぁ。今まで色んなもんさせてもうてたしあんたのところの色んな人と一緒にやってきたなぁ。

-お仕事をする上でご自身のルールはありますか?
縫っていく順番かなぁ。白でしょ、それからお父さん(生成)。あ、「お父さん」て呼んでんねん。それからお嬢ちゃん(赤)、その次が弟さん(水色)、お母さん(黄色)が最後。こう呼ぶ方が何かええやろ? 愛着あんねん。



-廣瀬さんがつくるとお手玉の両端が花みたいに閉じられていて綺麗ですね。一体どうやって作っているのか、近くで見てもわかりません…。
これなぁ(、縫製の)説明書の通りにやってもこんな風には閉まらへんねんで。上手いこと出来へんから自分でも考えなあかんなぁと思って、この方法を編み出した。わたしらの時代は何もなかったからね。布団なんかでも全部自分で縫ったんやで。せやから、これは本当は布団の端を閉じるときの結び方やねん。



-そうだったんですね! 驚きました…ほかには、普段どのようなことを考えながらお仕事をされていますか?
いつもやけど、ほんまに根気がいんねん。ひとつひとつ大切にせなあかんし。せやけどこの仕事が来たら夢中になって何にも手がつかなくなるんよ。毎日、これを買う人の気持ちも、あんたたちのことも考えて、がんばって働いてるつもりやねんで(笑)

-いつも本当にありがとうございます…この仕事をやってて「よかったなぁ」と感じた瞬間はありますか?
やっててよかったこと? そりゃもうみんなええわ。出来上がったときにはものすごうれしいし、「あぁ、出来た!」て思うよ。これで休憩できるから、さ、お家の草抜きしよ! とかね。

-廣瀬さん、働きすぎですよ!(笑)
草抜きするときな、いま指がバネ指(※腱鞘炎の一種)で痛いねん、まだ治ってなくて…でもミシンの返し針はこの指で押さなあかんからなぁ。それでも仕事してんねん、好きやから。
兄弟から電話かかってきたりするやろ? そしたら「あ、姉ちゃん仕事きたな!」ゆうねん。
「なんで?」聞いたら「声がちがう」って。仕事がないときは「今日なんや暗いな。仕事ないねんな」言われんねん。
…ほら色々喋ってる間に色出来上がったで!



-(一同拍手)「ころんと綺麗!お見事です」
せやろ?
これ見て。お母さんの刺繍は、よく見ると振り返ってはんねん。きっと後ろを歩く子供たちのことを気にして…やっぱりお母さんやねんなぁって。
お父さんはぎゅっと前むいてるやろ? ほら、お嬢ちゃんも弟のこと気にして後ろ振り返って…こんな可愛いものよう考えはるなぁ、ええの考えてくれはったなぁ。和むよ、いつも。いつも私がいちばん癒されてんねんで。


お話をうかがっている間、終始にこにことされていたのが印象的な廣瀬さん。
無理なお願いをすることもあり、本当にたくさんのたくさんのお手玉をすごいスピードで仕上げてくださっています。私がいちばん癒やされてると、嬉しいお言葉に、私達が伝えきれない幸せな気持ちをいただいた時間でした。

【わたしの贈りもの】母の喜寿のお祝いに


母の喜寿のお祝いに、何か特別感のあるものを贈りたい。

毎年、母の日や誕生日は兄妹で欠かさずお祝いしてきました。
すでにいろいろ持っているから、お花や季節の果物になることも多かったのですが、
喜寿のお祝いとなると、その日の想い出になる品物を渡したいという想いがあります。

記念になるものとは?花器など飾ってもらえるもの?
それもいいのですが、しまいこまないで、使いながらその都度お祝いの日を想い出してもらえたら、私達も嬉しい。記念の日に似合う、ちょっときちんと感も伝わるものを、考えてみました。




お友達と出かけることが多い母。きれいめで落ち着いているけど、少し遊び心のある「真田紐のファスナートート」。
手織り麻のバッグはとても軽く、ファスナー付きなので安心感もあります。持ち手に真田紐を使用しているので、丈夫で手にも柔らかく持ちやすくなっています。きっと「この持ち手、実はね・・。」と自慢してくれるに違いありません。




家計簿に「食費」とは別に「嗜好品」という欄があるほど、お茶の時間をきちんと?とっている母。
ティーカップや湯呑のセットがいつの間にか数が減って、食器棚の中はバラバラの器ばかりだったり。
せっかくゆっくりお茶を飲める時間ができたんだから、自分専用に特別なカップがあってもいいのでは。
mg&gkの「フィナンシェと紅茶の器」だったら、紅茶はもちろんコーヒーもたっぷり飲めるし、お揃いの小皿にいつものお菓子をのせるだけでも、特別感が増します。吉祥文様が描かれているものなら、おめでたい日にぴったりですよね。




以前、お客様にもお母様の喜寿のお祝いにと、購入されたことを思い出し、一人だと高価だけれど、兄妹みんなで一つのものを贈るなら、皇室をはじめ数多くの著名な方々にも愛されている「前原光榮商店」の日傘も、自分ではなかなか買えない逸品として、もらうと嬉しいもの。麻生地から、少し透けて感じる日差しが、とても美しい日傘です。UVカット率100%ではないですが、顔や洋服が真っ暗にならず、柔らかな陰影になる紗の感じが大人の粋を感じます。


子どもたちと孫たちでお祝いする日を、時々想い出してくれるきっかけになって、気兼ねなくいつも使ってもらえたら、私達にとっても嬉しい贈りものになります。

 


<掲載商品>
真田紐 ファスナートート
mg&gk フィナンシェと紅茶の器 ギフトボックス入り

デザイナーが話したくなる「拭き漆のお箸」


私たちの食卓に欠かせない道具、お箸。
自分にぴったりのお箸ってなんだろう?毎日使っているのに、あらためて見つめ直してみても、これといった正解がなかったりしませんか。
そんな思いから、壮大な試行錯誤の旅がはじまってしまったデザイナーの渡瀬さんに今回は話を聞きました。




まずお箸選びの基準を調べていくと、世のお箸屋さんが唱える「長さ」という考え方があることにたどり着いた渡瀬さん。
親指と人差し指を直角に広げ、その両指を結んだ長さを「一咫 (ひとあた) 」といいます。この1.5倍にあたる、「ひとあた半」が基準のひとつになるのだとか。

ただ、この「ひとあた半」で選んだ長さのお箸が渡瀬さんにはフィットしなかったのだそう。。。




そこで、こうなったら自分でお箸の構成要素を整理した表を作って研究をすることに!
「長さ、素材、先端の形状(四角・八角)、重さ、太さ」と項目を洗い出し、それぞれの要素がどのように働いているか調べていきます。実際に比べてみると、長さ・太さ違い、形や素材違い、サイズ感と重さの違い、などによって使い勝手が変わります。
 
たしかに、私も飲食店などで出してもらうお箸が「長いな」と感じるよりも、「太さ」が気になることが多いかもしれません。持ちやすい!と思ったものに出会うとちょっと感動してしまうほど、お箸って自宅のものでもなんとなく使っているかもと気付かされます。




そうして、渡瀬さん実際に長さ・太さ違い、形や素材違い、サイズ感と重さの違いを比べてみました。
実験したサンプルってあるんですか?と尋ねたら、出てくる出てくる。
なんと!!驚きの254本です!!!目の前に並んだ量に圧倒されました。
もちろん、使い心地を検証していくうえで、実際使ってみたそうですが、その内容ももはやストイック。。
わざわざ箸使いに少し手間がかかる食材を選んで検証したとのこと。食材は、あずき、焼き魚、しらたき、うずらの卵、高野豆腐。。
毎日毎日掴んでみては、データを取り整理していく長い旅のはじまりです。




そして長い長い旅が終わり、渡瀬さんの結論がでました!
まずわかったことに「長さ」は、ほとんどの人は22センチメートルがちょうど良かったのです。実は、この22センチメートルは夫婦箸の間をとった長さであるという興味深い結果。ということで長さは一定としました。
反対に、人によって大きく好みが分かれて集約しきれない、選ぶ余地として残したほうがいい要素も見つかりました。それは、持ち手の「かたち」と「太さ」。
最初に私も書きましたが、使う前でも持った瞬間「持ちやすい」って思うんですよね。

 


そうして渡瀬さんは、自分にぴったりの「持ちごこち」を選べるお箸をつくりあげました。
「持ち手のかたち」 は「四角」「八角」「削り」の3種類から、「持ち手の太さ」 は太め・細めの2種。
素材はほどよい重量があり質感や耐久性に優れている「鉄木」
 
中川政七商店が考えるお箸選びの基準は長さではなく「持ちごこち」。
 
太さといってもよーーく見ないとわからないくらいですが、持ってみるとやっぱり違うんです。
日本一の箸の産地である福井県若狭で、職人の手によって0.1ミリ単位にまで気を配って作られています。
 



中川政七商店の店舗には、お箸のマンションのような什器に、考えぬかれたお箸たちがずらっと並んでいます。塗装も拭き漆で3色ご用意しています。
 
1、持ち手の太さを選ぶ。
2、持ち手の形を選ぶ。
3、色を選ぶ。 (拭き漆 赤・茶・黒) 
 
この中からご自分にぴったりのお箸をぜひ見つけてください。




毎日使っているお箸のことをこんなに考えつくした話を聞くと、あらためて毎日の道具だからこそ、自分の気に入ったものを心地よく使う大切さを考えさせられました。それでも、渡瀬さんは「もっともっと考えることがあったかも。」と、探究心は尽きません。
 
ちなみに渡瀬さんのお気に入りを聞いてみると「八角・太め」とのこと。
私は「八角・細め」を毎日使っています。
 


<掲載商品>
拭き漆のお箸 四角
拭き漆のお箸 八角

いま、若手陶芸家が京都を目指す理由

説明が難しい「清水焼」という焼き物

京都を代表する伝統工芸品のひとつとして知られる「清水焼(京焼)」。

名前は聞いたことがあっても、どんな焼き物か?と言われるとパッと思い浮かばない人も多いかもしれません。実は、清水焼には決まった技法やデザインがなく、原料の土や石も他産地のものを取りよせて使用しています。

そのため、清水焼と言えば、という共通のイメージが持ちにくい一方で、その多様性こそが特徴とも言える焼き物です。

現場の作り手たちは、どんな思いで清水焼を作り続けていているのか、この先にはどんな展望があるのか、取材しました。

※関連記事:清水焼が清水以外でも焼かれているわけ

五条坂を活動の拠点に選んだ陶芸家・中村譲司さん

「清水坂・五条坂は京焼の“メッカ”」という中村譲司さん。これからも五条坂近くで作陶を続けるために工房を新しくした

中村さんはまだ38歳と、陶芸の世界では若手に入ります。オブジェや器など様々なものを作り、各地での個展を成功させていています。

窯元の家に生まれたわけではなく、大阪出身で実家はおそば屋さんです。大学を出てまずは宇治・炭山で3年、そして山科の清水焼団地で2年働いたのち、五条坂近くに自分の工房を構えました。

「美術系の高校を出て、京都精華大学芸術学部の陶芸学科に入りました。炭山に行ったのも清水焼団地に行ったのも特に理由はありません。まずは、働ける場所があったからです」と話す中村さん。

「ほんの少し前まで、自分では『京焼・清水焼をやっている』という意識はなかったんですよ。オブジェなどのアートにしても器などの実用品にしても、とにかくその時々ごとに作りたいものを作っていました」とのこと。

「やはり京焼・清水焼の“メッカ”を拠点にしよう」と五条坂へ

生地に削りをかける中村譲司さん
生地に削りをかける中村譲司さん

そんな中村さんですが、工房にする物件を探すにあたり、多くの窯元が集まる清水焼団地でも泉涌寺でもなく、清水坂・五条坂にこだわりました。

その名の通り、清水焼は清水寺周辺ではじまっています。清水寺の門前として江戸時代中頃から大きくにぎわい、参拝客などへのみやげ物として焼き物が生産・販売されていた清水坂・五条坂エリアは、まさに清水焼のメッカとも呼べる場所です。

「祖父母の代を考えるとみんな京都出身なので、京都とは縁があったとは思っています。ただ、家系としては陶芸とはまったく関係ありません。何もない自分としては、『せめて陶芸の“メッカ”に行かないといけない』と思っていました」

かつて師匠が工房に使っていた五条坂近くの賃貸物件がたまたま空き家になったタイミングでそこに入り、最近になって、すぐ隣の土地を手に入れて工房を建てました。

ここに来たことはやはり正解だったと中村さんは話します。

「ほかの地域に行っていたら、ここまで色々な作家さんとは知り合えなかったし、お客さんとの出会いやつながりも少なかったでしょう」

京都の精神が焼き物にあらわれる。それが清水焼

「京都の文化や精神を吸収し、身体に染み付いてきたことで生まれる作品が京焼・清水焼だと思っています。そこには、日ごろ触れる京都の風景・空気・人などが影響しているはずです」

18歳から京都に出て、約20年。地元の大阪よりも長い時間を京都で過ごしました。

「2年前くらいから、自分のことを『京都人です』と言っていいかなと思えるようになってきました。

うまく言葉で説明できないのですが、京都に暮らしていると『この人はいかにも京都の作家だな』と思う人たちに出会います。彼らがつくるものには、どこか必ず共通するものを感じるわけです。

特徴が無いと言われがちな清水焼ですが、京都人がつくったのかそうでないのか、明確な違いがあると感じるようになりました」

自身がつくるものにも、そんな「京都の精神」が出てきたような気がするという中村さん。

いまでも『京焼・清水焼』をつくっているという意識はないそうですが、最近になってようやく、自分の作品が『京焼・清水焼』と呼ばれることには、違和感がなくなったそうです。

「五条坂近くに工房を置かなければ、そうはならなかったんじゃないかな」、と話してくれました。

中村譲司さんが、「この5年ほど、特に興味を持っている」という中国茶器。こちらはご自身の作品
清水坂
二年坂(画像提供:PIXTA)

京都陶磁器会館 林大地さんの考える京焼・清水焼の将来と問題点

京都陶磁器会館を運営しているのは、京都の陶磁器産業の振興のために設立された京都陶磁器協会です。

会館のスタッフとして業界全体に目を向けながら、自身も陶芸家として活動する林大地さんに、京焼・清水焼の現状や今後の課題を聞きました。

京都陶磁器会館の勤務の傍ら、陶芸家としての作家活動も続けている林大地さん

手仕事へのこだわりを捨てず、生き残る道を探る

「これまでの伝統は大事に、壊さないようにしつつ、しかし新しいものも作っていかないといけないところに、課題があります」

あまり知られていない京焼の特徴として、轆轤(ろくろ)も絵付けも全部手での作業ということが挙げられます。

「ほかの焼き物ならば生地は機械で作っていたり、図柄はプリントだったりも許されますが、京都ではそれは認められません。

このアイデンティティーを守りながら、価格などでも競争していかなければいけいない難しさがあります」

京都陶磁器会館の1階部分は販売のためだけではなく、そのまま京焼全般の展示スペースにもなっている。

後継者については、少しずつ明るい話も出てきているようです。

「今、京都には陶芸が学べる大学・専門学校が全部で8つあり、新人を供給する環境としては十分です。

これまでは、これらの卒業生を受け入れるべき窯元が、新しい人を採れない状態がずっと続いてきました。

しかし、業界の景気も底を打って、少しずつ上向きになってきています。『まずはアルバイトぐらいからでも、人の採用を再開してみようか』という窯元も増えており、この流れを持続させたいところです」

最近ではインバウンドの需要が急拡大しており、その影響もあるとのこと。

「海外旅行客の影響は明らかにあります。業界の景気が上向いているのも、そのおかげです。

ただ、この先も彼らが京都を訪れてくれるのか、京焼・清水焼といった伝統工芸品を買ってくれるのかは、少し用心しないといけないかもしれません」

インバウンドの好影響がある反面、国内の若者からの認知度が下がっていることに、林さんは危機感を抱いています。

「『清水焼』も、50代以上の人ならば『きよみずやき』と読んでくれますが、10代20代では『しみずやき』と呼ぶ方も珍しくありません。

若い人たちにいかに興味を持ってもらい、価値を知ってもらうのか、作り手の方達と協力しあってチャレンジしているところです」

400年の歴史を持つ京焼・清水焼は、手仕事にこだわり続け、高い技術と京都の精神性、そして多様性を持って発展してきました。時代の担い手たちは今、その魅力をいかに伝え広げていくのか、という課題に取り組んでいます。

<取材協力>
京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
中村譲司さん
http://george-nakamura.com/

文・写真:柳本学

清水焼が清水以外でも焼かれているわけ

清水焼はどこで焼かれているかご存じですか?

そう尋ねると、「京都」、もしくは「清水寺の近く」と答える人が多いのではないでしょうか。

実は清水寺からは山を越えた向こう側の山科区でも焼かれています。歴史好きの人には「『忠臣蔵』の大石内蔵助が隠棲(いんせい)したところ」といえばイメージがわくかもしれません。ほかには平等院のある宇治市でも焼かれています。

清水寺周辺で焼かれていた「清水焼」が、なぜほかの地域へと広まり、そのまま「清水焼」として焼かれ続けているのか。その歴史を紐解きながら、考えていきたいと思います。

「清水焼」はどこから始まったのか?

清水寺の門前から始まって、三年坂を右に折れずに細くなった道をまっすぐ下り、東大路までの約600メートルが「清水坂」です。また、清水坂の途中の三年坂が合流するあたりから始まり、左斜め前のバスも通る広い道を下りて、東大路までが「五条坂」です。

清水坂の1本南の道を「清水新道」といいます。通称は「茶わん坂」です。道自体は大正時代以降にできた比較的新しものですが、このあたりも清水坂・五条坂の一角と考えていいでしょう。

清水寺そのものは8世紀末からあるものの、その門前が遊興地としてにぎわいを見せるのは江戸時代の中ごろからでした。

焼き物も参拝客や遊行客相手にみやげ物として現地生産・現地販売されるようになりました。五条坂の入り口近くにある京焼・清水焼の展示・販売施設「京都陶磁器会館」の林大地さんによると、清水寺の「土」そのものが縁起物として喜ばれたという側面もあったようです。

京都陶磁器会館の林大地さん
京都陶磁器会館の林大地さん

これが後々まで続く清水焼の起こりで、明治から大正初期にはこのかいわいだけで約40基の登り窯があったと考えられています。

清水焼と京焼

過去にさかのぼってみると京都には、清水坂・五条坂かいわい以外にも大きな焼き物の生産地がいくつもありました。その代表をひとつ挙げるとすると、旧・東海道沿いで、山科から京都盆地へと入ってきたあたりの「粟田口(あわたぐち)」でしょう。ここで焼かれたものを「粟田焼」といいます。

しかし、昭和初期以降は清水坂・五条坂の生産量が突出したため、京都の焼き物はどれでも「清水焼」と呼ばれるようになりました。

一方で、「京都で作られた焼き物」と意識しての呼び方もありました。それが「京焼」です。

つまり、厳密にいえば清水焼は京焼の一種ですが、すべてまとめて『清水焼』と呼ぶこともある、といったところでしょうか。

京焼の始まりはいくつか説があり、「桃山時代の末、茶の湯が盛んになり、茶器が必要となって作られるようになった」ともされます。当初は中国からの「唐物(からもの)」や朝鮮半島からの「高麗茶わん」などの影響を強く受けました。

茶の湯自体が当初は武士の文化だったので、京焼の茶器も武士好みの物が作られました。やがて、町人層が新興勢力として伸びてくるに従って、その趣向に合う色彩豊かなものも登場するようになります。色絵磁器はその典型です。

京都で町人層が台頭するに従って、京焼・清水焼もその趣味に合わせるようにきらびやかなものも登場した

大正時代、新たな京焼・清水焼の里となった日吉・泉涌寺エリア

清水坂・五条坂周辺が手狭になり、大正時代に新しい清水焼の里として拡大したのが、南へ約1キロの日吉と、同じく約2キロの泉涌寺です。どちらも、清水坂・五条坂同様に東山の山々のすそに当たります。

これらの土地が選ばれたのは、清水坂・五条坂に近かっただけではなく、登り窯を作るのには傾斜地であることが必要だったからとされます。このエリアにも大正年代には25基ほどの登り窯がありました。

登り窯が使えなくなり移転した?清水焼団地(山科)・炭山(宇治)エリア

実は今、山科区にも清水焼の窯元が集中していて、ここは「清水焼団地」とよばれます。その名前からも想像できるように一種の工業団地として造成されました。また、京都市内からは離れ、宇治市の炭山地区にも多くの窯元があります。

これらの窯元の多くは、1960年代から1970年代にかけて、清水坂・五条坂、日吉・泉涌寺から移転しました。

その理由としては、「大気汚染防止法(1968年)と京都府公害防止条例(1971年)が決定的だった。登り窯から出る煤煙(ばいえん)が公害視された。既に周辺にまで住宅が建て込んでいたため、登り窯を使い続けることができなくなり、郊外に新天地を求めた」と説明されることが珍しくありません。

しかし、一方で、「その時期までには、多くの窯元が登り窯から電気窯・ガス窯に移行していた。煤煙が問題になることはない」との指摘もあります。

実際、移転先のうち、炭山地区では今でも数基の登り窯があるものの、清水焼団地では登り窯は1基も作られることはありませんでした。

それを知ると、やはり「煤煙」の問題だけではなく、窯の新設や作業スペースの拡大など、消費の増大に合わせて生産性を上げたかった、という事情もあったようです。

清水坂・五条坂で最後に登り窯に火が入れられたのは、1980(昭和55)年でした。この時に窯が火元と見られる火災が起き、付近の住民から廃止を求める署名が提出されたことは、廃止の大きなきっかけとなりました。

今、多くの陶芸家が愛用している業務用の電気窯。50〜100万円もあれば購入できる

唯一現役で稼働する「京式登り窯」は宇治に

かつて清水焼で用いられた登り窯には、「京式登り窯」、あるいは「京窯」との名前が付いていました。「傾斜は他地域のものに比べて3分の1程度のゆるさ」「2、3日がかりで焼成するところが多いが、京式の場合は丸1日程度と短い」「焼成室と呼ばれる部屋が他と比較して狭い」といったことが特徴です。

今、清水坂・五条坂エリアでは歴史・文化遺産として5基ほどの京式登り窯が保存されていますが、唯一、現役で稼働しているものが、上述の宇治市・炭山地区にあります。

京式登り窯
京式登り窯

現地で作陶を続けている林淳司さんら4軒の窯元が維持・管理をしながら、年に一度、冬に火入れが行われています。

「コストや制作スケジュールの問題から、商業ベースには乗せられません。おもに、京都府立陶工高等技術専門校など、陶芸を学ぶ学生さんに使ってもらっています。

今でこそ一般的に使われるガス窯も、登り窯の焼成原理を元に開発されました。ガス窯を理解するためにも、登り窯での経験が生きるのです」とのこと。

五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん
五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん。林さんの父親は1971年、10軒あまりの仲間と共に工房を周辺に住居の少ない宇治・炭山に移した

この年に一度の火入れは、陶芸家を目指す学生への貴重な学びの機会であると同時に、京式登り窯の伝統を絶えさせないための技術継承の役割も担っています。

林さんとともに、窯を管理している龍谷窯の三代目 宮川香雲さんは、登り窯の火入れに欠かせない「窯焚き師」の技術を受け継ぎました。

「窯は火を入れていないと痛むのが早くなります。父たちの代から10年前後、使われない状態が続いていたのですが、技術の継承と窯の保存のために、年に一度、火入れをするようにしています」と宮川さんは言います。

左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん
左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん。文字通り「京式登り窯の火を消さない」ように活動している

そのほか、自治体の研究施設から、データが取りたいという依頼が来ることもあるそう。京焼・清水焼の歴史を語る上でも欠かせない貴重な登り窯は、今後観光資源のひとつとしての活用も期待されています。

山科や宇治で「清水焼」がつくられ続けているのはなぜ?

山科や宇治に移っても「山科焼」や「宇治焼」という名前にはなりませんでした。陶磁器会館の林さんは、「清水坂・五条坂から離れたあとも、『自分たちは清水焼の伝統の継承者だ』という自負を持ち続けられたのが原因でしょう」と語ります。

先に見たように「清水焼」や「京焼」の定義がもともとあいまいだったり、材料(土や石)の生産地とはまったく関係していなかったりすることも影響しているようです。

全国の焼き物のほとんどは、材料として適した土(陶土)や石(陶石)が採取される土地で発達しました。もちろん、できあがったものの性質は材料によって大きく左右されます。

主に粘土を材料にして焼かれるのが陶器。土の風合いや作者の手のぬくもりを感じるような作品も多い
磁器は長石・けい石といったガラスの材料にもなるような石を粉末にし、それを練り合わせて作る。光沢が美しいだけではなく、強度も陶器よりも高い

現地でとれる土や石で性質で決められてしまっているので、たとえば「唐津焼」といえば陶器、「有田焼」と言えば磁器をイメージするのが一般的です。しかし、これらと同じぐらいに名前を知られていて、陶器も磁器もあり、あらゆる作風の焼き物がつくられているのが京都の京焼・清水焼です。

材料の土や石がとれない京都で焼き物が発展したわけ

陶工も材料も全国の陶磁器の産地から集まって発達しただけに、京焼・清水焼には陶器・磁器を問わないばかりか作風も様々なものが見られる

林さんは「商人が全国より職人を京都へ呼び、各産地の焼き物を作らせたことにより、陶器も磁器もある、作風も様々といった京焼ができあがりました。

陶磁器に使える土や石については、この清水坂周辺でも最初は取れていました。しかし、すぐに掘り尽くしたようです。江戸時代のうちからすでに、信楽(滋賀県)などからは粘土が、天草(長崎県)などからは陶石が運ばれました」と話します。

つまり、京焼・清水焼は全国でも珍しい、「原料が地元にないのに発展した焼き物」なのです。

若宮八幡宮社
五条大橋から東山五条のちょうど真ん中ぐらいある若宮八幡宮社。1949年に陶祖神の椎根津彦(しいねつひこ)を合祀したことから「陶器神社」とも呼ばれる。毎年8月7日から10日の「陶器祭」はこの神社の祭礼でもある

江戸時代終盤ともなると、清水坂・五条坂には陶磁器のあらゆる技法が集まり、名工も輩出しました。また、各地の藩が自領で新たに陶磁器産業を興すようなときには、京都、なかでも清水坂・五条坂から陶工を招くのが常でした。

清水坂・五条坂は陶磁器の技法において日本全体の集散地だったのです。

幕末から明治初期にかけては、ヨーロッパの陶芸技術も積極的に採り入れました。また、輸出用の製品に力を入れた時期もあります。しかし、これらの大きな成功は長続きせず、結局、伝統的な高級品へと回帰しました。以後は、個人作家的な陶芸家も多く出ました。

山科や炭山まで清水焼の産地が広がった今でも、この延長上にあります。ほかの陶磁器の産地では見られないような、窯元や作家ごとの個性の違いを発揮しながらも、全体としては京焼・清水焼として作られ続けています。

※関連記事:若手陶芸家が京都を目指す理由

<取材協力>
京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
京焼炭山協同組合「京焼村」

文・写真:柳本学