「つづら」ってなに?現代でも役に立つ”着物入れ”の魅力とは

「つづら」ってなに?

日本人は古くから、ふだんの生活を「ケ」、おまつりや伝統行事をおこなう特別な日を「ハレ」と呼んで、日常と非日常を意識してきました。晴れ晴れ、晴れ姿、晴れの舞台、のように「ハレ」は、清々しくておめでたい節目のこと。こちらでは、そんな「ハレの日」を祝い彩る日本の工芸品や食べものなどをご紹介します。

江戸時代からの嫁入り道具「つづら」

日本のおとぎ話に出てきそうな「つづら」。実際に目にしたことがない方も多いのでは?つづらは元々、ツヅラフジのつるで編んだ衣服などを入れる蓋つきのかごのこと。のちに、竹やひのきで編まれたかごの上に和紙を貼り、柿渋や漆などを塗ったつづらがつくられるようになりました。

元禄時代に葛籠屋甚兵衛(つづらや・じんべえ)という江戸の商人が婚礼の道具としてつづらをつくったことで庶民へと広まったそうです。

つづら製造の最盛期は明治時代から大正時代。呉服の町として名高い東京・日本橋にはつづらかごの職人も多かったそうですが、今では人形町の「岩井つづら店」たった1軒だけに。文久年間に創業したこちらは、元々は人を乗せて人力で運ぶ駕籠屋(かごや)だったそうですが、いつしかつづらをつくるようになり、現在では6代めの岩井良一さんがつづら屋をつとめています。

天然の素材だけでつくられるからこそ、長持ちする。「岩井つづら店」のつづらづくり

岩井つづら店のつづらづくりを見せていただきました。その工程を追ってみると材料の素材は天然のものばかり。そして、工程の一つひとつがやはり職人の手作業です。

つづらの下地となる竹かご。茨城県や新潟県・佐渡の職人さんに協力してもらって編んでもらっているそう
6代目岩井良一さん。海藻である「ふのり」を刷毛で塗り、竹かごに和紙を貼ります
和紙を張ったあと、独自の道具で表面をシャカシャカと擦ります。和紙がはがれないように、かご目がしっかり出るように
大きなつづらの補強には、古い蚊帳生地と和紙で裏打ちしたものを貼ります。この蚊帳は古道具屋さんから仕入れているものだそう

さまざまな素材で土台をつくったら、この上に防虫・防カビ効果のある柿渋を塗ります。さらに、カシューナッツを原料とした漆を表面に塗ることにより、独特の光沢を持ったつづらができあがります。

そして、嬉しいのがつづらに紋入れ、名入れがオーダーできること。

伝統的な家紋はもちろん、自分なりのマークにも対応してくださるそう(要相談)
こちらは手文庫サイズ。左から、溜(茶)、黒、朱
紋入れ・名入れの様子

一生ものの美しいつづらはお嫁入り道具だけでなく、出産、就職など人生の節目の贈りものにも最適。まさに、ハレの日にふさわしいものですね。着物を収納するような大きなものから小物入れまで、サイズもさまざまなので現代の生活の中でも活躍してくれそうです。

手がかかっているからこそ、オーダーしてから1年待ちということもありますが、今なら数ヶ月待ちで手に入ることも。ぜひご相談ください。古いつづらの修理も受けてらっしゃいます。長く世代を超えて受け継いでいきたい工芸品です。

<取材協力>
岩井つづら屋
東京都中央区日本橋人形町2-10-1
03-3668-6058
http://tsudura.com

文・写真:杉浦葉子

※こちらは、2017年6月18日の記事を再編集して公開しました。

引き出物を「オーダーメイドの笠間焼」で作ってみました

私事ではございますが、先日、筆者は結婚し、5月に友人を招待して宴会を催しました。どうしたら招待客の皆さんに喜んでもらうことができるのか、特に引き出物をどうしようかと悩みました。できることなら普段使いをしてもらえるようなものにしたい。

いろいろと探しているうちに、引き出物や記念品などをオーダーメイドで受け付けている笠間焼の窯元を見つけました。茨城県笠間市にある向山窯 (こうざんがま) です。ホームページによると、要望と予算に合わせて作っていただけるようです。

焼き物好きの妻に話をしてみたところ、「おもしろそうだから行ってみようか」とのこと。ノリがよいのは妻の長所です。オリジナルデザインを施していただけるというのも、私たちの心をつかみました。

今回は向山窯の増渕浩二社長にお話を伺いつつ、妻と相談しながらどんな引き出物にしようか決めようと思います。

笠間焼の窯元・向山窯の工房にお邪魔しました
笠間焼の窯元・向山窯の工房にお邪魔しました

「ここで焼き物が続けられるのかな」

向山窯社長の増渕浩二さんは1944年生まれ。愛知県瀬戸市にある窯業の学校に進んだ後、近い親戚がいたことから、茨城県笠間の地に降り立ちました。

「昭和20年ころまでの笠間は窯業地といっても甕やすり鉢といった土間で使うものを多く生産していました。明治時代後期から昭和時代初頭くらいまでは隆盛もあったそうですが、私が入ってきた昭和30年ころは衰退の一途を辿っていました。

『ここで焼き物が続けられるのかな』と疑問はありましたが、そのときから『焼き物で生きていこう』と腹を据えて笠間で焼き物を続けてきました」

その後、笠間焼は官民一体となった試行錯誤の上、甕 (かめ) やすり鉢などの粗陶品から食器や日用雑器といった陶器への転換に成功。笠間稲荷などの神社仏閣は多くの観光客を呼び込んでおり、笠間焼も一つの観光資源となりました。東京からも車で2時間弱と、地の利があったのもよく働いたのです。

「ところがバブル崩壊後、リーマンショックから急激に景気が悪化します。消費者の考え方というか生活の構造も変わってきました。今までと同じような笠間焼を売っていても先は見えていました」

向山窯社長の増渕浩二さん
向山窯社長の増渕浩二さん

向山窯を救ったオーダーメイド

高度成長期に各焼き物の産地は、機械生産に舵を切っていきました。しかし、笠間の土は粒子が細かく粘り気があるので、容易に型を抜くことができず、大量生産が難しい。とはいえ土を買ってしまうとコストがかかってしまいます。

唯一、笠間に残ったのは“手作り”でした。そこで増渕さんはオーダーメイドを思いつきました。

「特徴がないのが特徴と言われる笠間焼ですが、私から言えば、笠間は多彩な良さのある産地なのです。定番というものがない分、それぞれの窯が自分の持ち味を出せるのです」

向山窯は、飲食店向け業務用食器や引き出物などのギフト商品などのオーダーメイド製品を販売することで復活することができました。特別なお客様には特別な器を提供することにステータスを感じる人が増えていったのです。

「今は手作りの産地が非常に貴重になりました。一周遅れでトップになったということかもしれません」

「手作りだからこそ、細かい要望に応えられるのです」と話す増渕さん
「手作りだからこそ、細かい要望に応えられるのです」と話す増渕さん

発注ごとに、作り手へ仕事を割り振っていく

さて、向山窯の手作り陶器はどのように作られているのでしょうか。工房内を見学させていただきました。

各作家さんが黙々と作業を進めていきます
各作家さんが黙々と作業を進めていきます

工房では10人以上の作り手が各自の席で黙々と作業を進めていました。

たたらで型を取っている人、ろくろを回している人、成形をしている人、釉薬をかけている人、窯焼きを待つ人。向山窯では作り手それぞれの個性を活かせるように、一人ひとりが独立して作品づくりに取り組んでいます。増渕さんは発注ごとに仕事を割り当てるといいます。

「確かに分業の方が効率はいいです。ただ、社長としては作るものに責任を持ってもらいたい。想いというか魂が含まれますからね。一人が一貫して最後まで仕上げたほうが、表現がブレませんよね。その方が一人ひとりが鍛えられると思うのです」

なぜかぼろぼろのビニール傘‥‥
なぜかぼろぼろのビニール傘‥‥
このへら先はビニール傘の骨を利用して作ったものでした
このへら先はビニール傘の骨を利用して作ったものでした

発注量が多い場合は皆で連携することもありますが、基本的には各作り手が責任をもって手作りで仕上げていきます。

成形された作品たちが窯に入るのを待っています
成形された作品たちが窯に入るのを待っています

個性的な器が並ぶ向山窯のサンプルルーム

つづいて、増渕さんに案内していただいたのはサンプルルームです。

「業務用食器を本格的に取り組むようになってから、サンプルルームを設置しました。元々は私たちの作品の資料館のつもりでした」

サンプルルームには所狭しとざまざまなデザインの器が並んでいます。

個性的なお皿が並ぶサンプルルーム
個性的なお皿が並ぶサンプルルーム

「バイヤーさんや板前さんと話をするときに、サンプルがあると話が早いわけです。板前さんはお皿を眺めながら、どんな料理を載せようかとイメージをします。そうすると皆さん、1、2時間は動きませんね」

このお皿にはどのような料理を載せてみましょうか
このお皿にはどのような料理を載せてみましょうか

今回訪れたの目的は、引き出物をオーダーメイドで頼むこと。私のような料理の素人にとっては、ずらりと並ぶ個性的な器を前に、どうにも決めきれません。砂漠の中から針を探すような気持ちです。

「一般の方は、ここよりもお店の方がイメージが決まるかもしれませんね」

陶器でありながら、薄くて軽い器に一目惚れ

工房から移動して、「向山窯笠間焼プラザ店」に伺いました。

お土産に買いたくなる向山窯直営の笠間焼プラザ店
お土産に買いたくなる向山窯直営の笠間焼プラザ店

どっしりとした風合いのある陶器も並んでいますが、持ってみると意外に薄くて軽いものも多い。戸棚からも取り出しやすそうです。特に向山窯では、フィンランド語で“繊細な陶器”の意味を持つ「へルッカ セラミカ」シリーズを開発。従来の笠間焼から半分ほど薄くて軽い、かつ、シンプルなデザインの商品を推奨品として販売しています。

引き出物は、おつまみや副菜などを載せられるような小さめの器にしようと決めていました。どんな人でも日常使いできそうなものを贈れたらと思ったのです。

増渕さんと相談しながら、夫婦でイメージに近い器を探っていきます
増渕さんと相談しながら、夫婦でイメージに近い器を探っていきます

妻が正方形の器を見つけました。「へルッカ セラミカ」シリーズのひとつ、スクエアプレートです。平皿のようで平皿ではありません。低いながらも高さがあるので煮物を載せても煮汁がこぼれません。2人とも一目ぼれしました。

増渕さんに私たち夫婦が気に入った器の高さを測ってもらいました
増渕さんに私たち夫婦が気に入った器の高さを測ってもらいました。幅15センチ、高さは1.8センチほど

この器にデザインを施してもらいます。

私たち夫婦は沖縄県那覇市にある波上宮(なみのうえぐう)という神社で挙式しました。場所にちなんで波のデザインを入れたい。私はプロ野球「横浜DeNAベイスターズ」のファンなので、星も入れたい。全体的には青い器にしてもらいたい‥‥そんな夫婦の要望を増渕さんにお話しました。

「いいですよ。できますよ」

二つ返事で答えてくれました。

世界にない器を作ってもらう

これからはメールのやり取りをしながら、色や図面のイメージを共有していきます。

例えば、一口に“青”と言っても水色に近い“青”から紺色に近い“青”までさまざまな“青”があります。また、“波”にしても荒波や波打ち際の波などさまざまな“波”があります。私たち夫婦は絵を描くのが下手なので、イメージに合う画像をネットで探して、担当者とデザインの細部を詰めていきました。

後日、見積書を送っていただきスムーズに話が進んでいきます。そして約2か月後、遂に完成品が到着しました。

完成品です
完成品です

到着2日後に宴会を開催。私たちの手から参加者の皆さんに配布。その後、続々と反響をいただきました。

「色合いがいいね」

「今、もらった器にチーズを載せてビール飲んでる」

妻は「皆に喜んでもらってよかったね」と言います。

完成品を見守る増渕さん
完成品を見守る増渕さん

一般的には、引き出物は出来上がった製品の中から選びます。今回はあえてそうせず、自分たちのやりたいことをとことん探ってみることで納得のいくおもてなしができたように感じています。

「周りと違っても、自分たちなりの選択をする」というのは、増渕さんの話に通ずるものがあります。笠間焼や向山窯も、自分たちの信じる一つのことを続けたことで、光明を見出したのだと思います。

オーダーメイドの引き出物を発注することで、人生のヒントを学んだような気がします。

<取材協力>
向山窯
茨城県笠間市笠間2290-4
0296-72-0194

文:梶原誠司
写真:長谷川賢人・梶原誠司

【はたらくをはなそう】中川政七商店店長 辻川幹子

 

2015年 入社 新卒8期生 遊中川ジェイアール名古屋タカシマヤ店所属
2015年 中川政七商店名古屋パルコ店 店長
2016年 中川政七商店ルミネ新宿店 店長
2018年 中川政七商店二子玉川ライズ店 店長

 
わたしは「お店」がすきです。
 
お店という場所に、商品が並び、はたらく人が居て、そこに来てくださるお客様。常に止まることなく動きつづける、とても不思議な空間だと感じます。
 
わたしは入社前から中川政七商店に限らず「お店」が好きでした。 同じ商品なのにこっちのお店の方が魅力的に見えて買ってしまったり、気分が落ち込んでいた時も店員さんの気持ちのよい笑顔で心が晴れやかになったり。思いがけない出会いのある「お店」って素敵だなと思います。
 
お店の背景には、商品を作る人、届ける人、はたらく人を支える人…多くの多くの構成要素がありますが、中川政七商店で働いていると、「お店」が最前線であるということがよくわかります。
 
メーカーでもあり直営店も持っている中川政七商店ですが、ここへの入社の決め手は、何より直営店を最も重要だと考えている点でした。
 
お店は会社を表現するステージであり、お客様へ直接商品を届けることのできる最後の出口です。作り手さんが必死に仕事をした賜物をお客様に届けられることは、とても貴重で誇らしい役割だと感じます。
 
その気持ちは入社後も変わらないどころか増え、3年店長をして数々の「お店」の奇跡に出くわしました。常に商品も人も動き続けるお店はピンチだってトラブルだって当然ありますが、手をかけてチームで力を合わせて愛情を注ぐと必ず応えてくれるように感じます。
 
わたしの何よりもの原動力はその「お店がすき」という気持ちです。好きだからもっともっとよくしたい、愛されるお店にしたい、と思うのです。
 
その為にどうしたらもっとよくなるだろう、と考えるのが癖になりました。お店にゴールはありませんが、どんどん良くして進むのみだと思っています。

【わたしの好きなもの】ごはんの鍋

 

“かたち”にひとめぼれした土鍋

人生初の土鍋を選んだ決め手は、そのかたち。

完全にひとめぼれでした。

まるでごはん釜のような、おもわずふたに杓文字(しゃもじ)をかませたくなる佇まい。

土鍋でごはんを炊くなんて、憧れはあったものの、難しそうだなあと、なかなか手をだせずにいましたが、

この「ごはんの鍋」をひと目みて、この子をうちに連れて帰る!と、あっという間に心が決まりました。


心ひかれたそのかたち。

実はデザイン性だけでなく、おいしく炊くための工夫がつまったかたちになっています。

電子レンジOK!使いやすさがつまった“かたち”

深めのふちは吹きこぼれにくく、鍋蓋との隙間から蒸気を逃してしっとりと炊きあがるつくり。

ごはんはたっぷりおかわり派なので、鍋ごとそのまま食卓に並べておいても、保温効果で熱が逃げにくいのがうれしいところです。

そして思わず、えっと驚いたのが、電子レンジ対応というありがたさ!

残ったごはんはそのまま冷蔵庫にいれて温め直しもOK。

調湿効果があるのでおひつのように保存の器としても使えます。

土鍋といえば、ずっしり、重たい、ゆえにおいしくお米が炊ける。

というようなイメージでしたが、いちばん大きな3合サイズでも想像よりずっと軽くて洗いやすく、収納場所をあまりとらないのも使ってみてうれしいポイントでした。


説明書を読みながら目止めをして、分量のとおりに水を入れ、おそるおそる火にかけて、

固唾をのんでぐつぐつする鍋の前で見守っていた土鍋デビューからはや数年。

いまとなっては、炊飯はもっぱら、この「ごはんの鍋」です。

おかゆを炊いてみたり、土鍋ならではの保温性でシチューやスープなど煮込み料理にも活躍してくれています。

はじめて土鍋で炊きあがったつややかなお米を見た時の達成感。

わーー!と思わず歓声をあげながら口にいれたごはんのふっくらしたおいしさ。

いまでもふたを開ける瞬間に、ほんのりとその感覚がよみがえります。

炊き方は心得たものと油断して、意図しないおこげができることもしばしばなのですが、そんなうっかりも土鍋ならでは!と、楽しんでいます。

すすけてきたり、貫入(かんにゅう)がはいったりと、使った分だけできた跡を見ていると、暮らしを共にしてきた実感がわき、台所道具のなかでも思い入れはひとしおです。

これからも我が家のご飯守として末永く愛用していきたいお鍋です。

中川政七商店 金沢百番街Rinto店 豊子 明希

 



<掲載商品>
かもしか道具店 ごはんの鍋 1合
かもしか道具店 ごはんの鍋 2合
かもしか道具店 ごはんの鍋 3合

現代にも求められる木版印刷。若者が摺師を目指すわけ

日本で唯一、手摺木版による和装本を出版している芸艸堂(うんそうどう)。1891年(明治24年)創業の、美術書を得意とする老舗出版社だ。

現在四代目となる代表の山田博隆さん
現在四代目となる代表の山田博隆さん

創業当初から受け継がれる版木はもちろん、木版摺りの衰退とともに廃業した同業他社から譲り受けた版木も多数所蔵し、そのなかには葛飾北斎や伊藤若冲など、日本史上に名を遺す天才絵師たちの貴重な版木も残されている。

近年はそれらの版木を生かし、江戸時代の名著『北斎漫画』や、明治時代の着物の図案を収録した『滑稽図案』を再版するなど、当時の版画の技術を今に伝える美術書の復刻にも取り組んでいる。

※美術書の復刻について取材した記事はこちら:「北斎漫画」を蘇らせた究極の美術印刷。木版手摺による和装本を守る京都の版元へ

滑稽図案
1903年に初版が発行された神坂雪佳の図案集『滑稽図案』を2018年に再版
(上:「滑稽図案」神坂雪佳/下:花づくし「松竹梅」古谷 紅麟)
北斎漫画
2017年に再版された葛飾北斎の『北斎漫画』

日本の職人技が集約された、和装本

芸艸堂のこだわりは、一冊一冊の摺(す)り上がりの美しさにある。創業当初から美術書が得意な出版社として名を馳せた所以だ。

当時の色の美しさを再現するために、当時と同じ技法で印刷する。そこでなによりも重要となるのが、江戸時代から続く多色摺木版技術を継承する「摺師(すりし)」の存在だ。

手摺木版とは、文字通り木版を使って摺る版画印刷のこと。版木に色をのせ、一枚一枚手作業で紙に色を摺り込んでいく。この技術を継承する摺師は、印刷技術の発展とともに減少の一途をたどり、今では全国でも数えるほどしか残っていない。

和装本の歴史は、日本における出版文化の原点ともいえる。版木の彫り師、和紙の漉き師、木版印刷を行う摺師、製本を担う経師など、数々の過程を経て生まれる一冊の本には、日本独自の職人技が集約されていた。

木版摺りの美しさを支える、摺師の存在

なかでも印刷を担う摺師の存在は重要で、色の風合いひとつで本の印象が決まるため、何十、何百部も均一に摺り上げる高度な技術が要求された。

そんな職人技を今でも継承する、木版摺りの現場を訪ねた。

町家の2階に広がる、職人の知られざる世界

六波羅蜜寺のある通りの一本裏手、古い町家が並ぶ一角に佇む「佐藤木版画工房」。今や京都で2軒しかない木版画工房のひとつだ。芸艸堂の出版物も多数手掛けている。

工房

建仁寺や八坂の塔なども近く、清水寺へ続く松原通は観光客でにぎわいを見せる。そんな観光地と隣り合わせにありながら、その町家の2階には、観光客や一般人が普段の生活では知る由もない世界が広がっていた。

この道21年目。ベテラン摺師の仕事

佐藤木版画工房が抱える摺師は現在4名。そのうちの一人である平井恭子さんは、この道21年目のベテラン摺師だ。学生時代に版画を専攻し、「1時間だけアルバイトで」とこの工房を訪れ、気づけば20年以上が経っていた。

摺師の平井さん。大学卒業後から20年以上もここで摺師を務める
摺師の平井さん。大学卒業後から20年以上もここで摺師を務める

「学生の時に初めてここを訪れた時『こんな世界もあるんやな』と思い、それが摺師の道へ進むきっかけとなりました」。

この日、平井さんが手掛けていたのは一枚ものの牡丹図。一見すると配色も少なく単純な図柄に思えるが、この一枚を摺るのに20回以上もの摺り作業が必要になる。

木版手摺

まずは絵具の滑りをよくするため、版木に糊をのばしていく。そして花弁なら花弁、葉っぱなら葉っぱのパーツが彫られた版木に色をのせ、その部分だけを何十枚、何百枚も摺っていく。

絵具は顔料を使用。インクの調合も摺師の仕事
絵具は顔料を使用。色の調合も摺師の仕事
図柄の葉っぱの部分が彫られた版木。一枚の絵でも細かくパーツが分かれている
図柄の葉っぱの部分が彫られた版木。一枚の絵でも細かくパーツが分かれている

こうして版木に彫られたパーツ毎に、一色ずつ紙に摺り込んでいくことで最終的に一枚の絵となる。同じ花弁でも版木が何枚にも分かれており、当然、版木の数だけ摺り作業が必要となる。この一枚だけでも、17枚の版木を使用している。

中央のおしべの部分と葉っぱの濃淡を部分が彫られた版木
中央のおしべの部分と葉っぱの濃淡部分が彫られた版木

一枚の図柄を摺るのに必要な回数を摺り度数という。同じ色でも何度もかさねて厚みを出したり、濃淡をつけてグラデーションを表現したり、より美しく立体的な絵に仕上げるため、たった5色の一枚ものでも20近い摺り度数が必要になるのだ。

一枚だけ線が太くなったり、色の濃淡にバラつきが出たりすると全体のバランスが崩れてしまうので、すべてのパーツを均等に摺らなければならない。

これが一枚印刷するのに必要な作業。それを何十回も何百回も繰り返し、すべてを同じクオリティで仕上げていく。

力を入れやすくするため、作業台は手前が高く、奥が低くなっている
力を入れやすくするため、作業台は手前が高く、奥が低くなっている

この時摺る枚数は100枚。すべてを摺り上げるのにおよそ1週間を要する。

また、同じシリーズ(花版画シリーズ、東海道五十三次シリーズ等)でも図柄によって版数が違い、摺り度数が15度摺りのものもあれば、30度摺り以上のものもある。

仕事に必要なものは、自分で作っていた時代

摺師の相棒となるのが「バレン」。版木にのせた色を紙に摺り込む際に用いる道具だ。

バレン

平井さんが使っていたのは本バレンと呼ばれる一般的なバレンで、古紙を数十枚重ねて漆を塗った当て皮に、渦巻き状にしたバレン芯をのせ、竹の皮で包んだもの。

このバレン芯は竹の皮を裂いて拠り合わせたものを4本組みにしたもの。こぶが大きく、広い範囲を同じ色で摺るのに適している。

また、竹皮を細かく裂いて2本組みにしたこぶの小さいバレン芯のものもあり、こちらは細かい図柄や繊細な和紙を摺る時に用いる。

左が本バレンのバレン芯。こぶが表面に立っていて、広範囲を摺るのに適している。右は細かいものを摺るのに適した2本組のバレン芯
左が本バレンのバレン芯。こぶが表面に立っていて、広範囲を摺るのに適している。右は細かいものを摺るのに適した2本組のバレン芯

昔は摺師が農閑期に自らバレンを作っていたといい、平井さんのバレンも、先代の師匠が大量にストックを残してくれた。市販のバレンもあるのだが、手の馴染みや力のかけ方など、自身の感覚に合わせて作られた使い勝手の良さには適わない。

バレンの持ち手は竹皮で作られており、天然素材なので長時間使っても手が疲れないという。余った竹皮では筆など身の回りの道具が生み出された。

バレン芯を包む天然の竹皮
バレン芯を包む天然の竹皮
余った竹皮で作られた筆。職人の知恵が生きている
余った竹皮で作られた筆。職人の知恵が生きている

以前はバレンを専門に作る職人もいたが、それも今や全国でわずか1名といわれる。

摺師が直面する、木版画印刷の現実

工房を切り盛りするのは二代目の佐藤景三さん。先代である佐藤さんの父は、東京で木版画の技術を学びこの工房を開いた。

佐藤さん

最盛期はこの部屋に、8人の摺師がすし詰めになって版画を手掛けていたという。しかし一般的な書籍の出版が活版印刷へ、さらにオフセット印刷へと変わり、木版画の版元自体が数えるほどしか残らない今、木版画印刷の仕事はもはや絶滅危惧種といえるだろう。

工房
木版摺師
木版摺師

21年目となるベテランの平井さんは、自分の技術に100%満足できてはいない。
「自分の師匠が21年目の時は、同じ絵でももっと簡単に摺っていたはず。まだまだ一人前にはなれない」と話す。

摺師

摺師の世界では、浮世絵の「一文字ぼかし」が均一にできることが、一人前の証になるそう。しかし今ではその技法に挑戦する機会はおろか、浮世絵を摺る発注自体が激減し、腕を磨くきっかけさえなくなりつつあるのが現実だ。

それでも「同じものを何回も何回も摺ることが私たちの仕事」とひたむきに版と向き合う平井さんは、好きなことを仕事にする喜びに満ち溢れているように見えた。

摺師

そして2年前の春には、新たな若手も加わった。

「好き」こそが原動力。木版画の未来を担う若き職人

工房に来て丸2年を迎えた川﨑麻祐子さんは、京都精華大学で木版画を学び、大学院を経てデビューした期待の新人だ。最初に木版画に興味をもったきっかけは、中学の時に展覧会で見た浮世絵だった。

摺師

「初めて見た浮世絵の美しさに感動して。でも、本当に木版画をやるとは自分も思っていなかった。高校で進路に迷っていた時先生に『木版画とか、ええんちゃう?』と言われて‥‥(笑)。そういえば版画が好きだったなって。その一言に背中を押されました」

それからはまっすぐに木版画の道へ。学部生の時に木版画コースを履修していたのは20人ほどだったが、大学院へ進む頃には「食べていけない」と、ほとんどの学生が木版画をあきらめてしまったという。

川﨑さんは「大学でやっていたことを仕事にできるのはありがたいこと」と、木版画と向き合える喜びを噛みしめていた。

摺師

体力も忍耐も必要な仕事だが、「楽しいのは大前提。前回できなかったことができるようになるとさらに楽しい」と川﨑さんは目を輝かせて語ってくれた。

佐藤さんは彼女のことを「自分が育てる最後の摺師」と話す。摺師は一人前になるのに最低でも10年と言われる。デビュー間もない20代の若手が、この先どのような職人になるのか楽しみだ。

木版

時代を経て再評価される、価値あるものとは

また、平井さんは「時代によって売れるものが変わり、版画の価値も見直され始めている」と話す。

版画とは、もはや一印刷物ではなく工芸品。だからこそ、美しい発色や和紙の風合い、絵の奥行が意味を持ち、見るものを魅了するのだろう。

芸艸堂は、その美しさを現代に伝える媒介者だ。

版木があっても、職人がいても、それを本にして出版する版元がなければ世に広めることはできない。

印刷技術の発展で失われつつあった手摺木版だが、その表現力がいま改めて評価されつつある。もはや芸艸堂は、新たな市場価値を見出す時代の先駆者ともいえるだろう。

目を見張るほどの鮮やかな浮世絵を見ながら、様々な可能性を思い描いていた。

木版

<取材協力>
株式会社 芸艸堂
https://www.hanga.co.jp/

文:佐藤桂子
写真:松田毅

デザイナーが話したくなる「萬古焼の耐熱土瓶」


10年以上商品のデザインをしている岩井さんが「こんなに試作品を作ったことはない。」と、感慨深そうにずらっと並んだ試作品を愛おしそうに見ていました。

お茶を家で誰でも美味しく飲むためには、と考えたお茶の道具。
その工程で出来たのがこのたくさんの急須と土瓶と湯呑のサンプルなんです。(実は写りきれてないものがまだまだありました。。)

煎茶と玉露用の急須、焙じ茶用の土瓶。
今回は土瓶のお話を聞きました。




美味しい焙じ茶を家で飲みたい。
私の中では、煎茶よりもざっくりと入れて飲めるお茶という印象。

美味しく淹れる秘訣は、この土瓶の名前でもある「耐熱」。そう、直火にかけられるんです。焙じ茶の適温は100℃なので、沸騰したてで保温力もある土瓶なら美味しく淹れれるということなんですね。土瓶で沸かしたお湯は、遠赤外線の効果でまろやかになります。陶器は保温力も高く、冷めてきても温めなおしも簡単です。




直火を可能にしたのは、萬古焼の技術でした。昔から、耐熱に強い焼き物として私たちの生活で広く使われてきました。
そこで直火で漢方薬などを煎じる薬土瓶を昔から作っている、明治20年創業の三重県の竹政製陶さんにお願いすることに。今回、オリジナルの土瓶として、耐熱陶器だけど艶のある釉薬にしたい、内側に目盛りを付けたいという相談をしました。しかしこの要望には、職人さんも難しい顔に。。




実は耐熱陶器は一般的には、マットな仕上がりのものが多いんです。
艶のある釉薬は相性が悪く、うまくのらなかったり、割れてしまったりするそうで、好んで使われることはありません。しかし、岩井さんが時間をかけて熱意を伝え続けた結果、職人さんが試作品を作って下さったそうです。最初の試作品は製品としてたくさん作ることは難しい状態だったのですが、そこから何度も何度も釉薬を調整していただき、希望の色と艶感に仕上がったのです。




内側の目盛りも成形方法上、外側に装飾は可能だけれど、内側に何かを施すということはかなり難しいということなんです。
しかし、今回の美味しくお茶を淹れることを解決するための、簡単にお湯を適量計るための目盛りはなくてはなりません。これまた、大試行錯誤です。
釉薬で目盛りを描いても、焼くと流れて消えてしまう。凹みをつけても、釉薬で埋まってしまう。いろいろな方法を考えながら、釉薬を撥水させて線を表現することに成功したんです。
もちろん、その作業もひとつひとつ内側に手を入れて正確にラインを付けるという手仕事です。

釉薬の調整、目盛りの調整、たくさんの試作品を目の前に職人さんの努力に頭が下がる思いと、新しいことへの諦めない挑戦の気持ちに尊敬の思いでいっぱいになりました。


見た目に大きく見えるかもしれませんが想像よりも軽く、直火にかけても持ち手は素手で持てました。お湯がまろやかになるなら、白湯をいただくのにもいいですよね。岩井さんも毎日これでお茶を沸かしているのだとか。
こだわりの落ち着いた釉薬の仕上がりと、やかんのように大きすぎないサイズが使いやすく暮らしに馴染みますね。
 






<掲載商品>
萬古焼の耐熱土瓶 飴