地域×デザイン2017

こんにちは、さんち編集部の山口綾子です。
全国各地で地域の特色を活かした様々な取り組みを取り上げる「地域×デザイン展」。
2017年2月3日(金)~ 2月26日(日)まで、東京ミッドタウン・デザインハブ 第63回 企画展として「地域×デザイン -まちが魅えるプロジェクト-」が開催されています。この展示は昨年2月にも開催され、約1万人を集めました。今回はその第2回です。

全国からよりすぐった地域プロジェクトを展示によって紹介するとともに、日ごとにテーマを設定し、ゲストを招いたトークセッションやワークショップなどのプログラムも実施されています。
モノだけのデザインではなく、コトをデザインしていく。町の中で行われるさまざまなコミュニケーションやサービス、人と人とのつながりがデザインされたり、デザインの力がいろいろな局面で活用されていることを知ることができる、見ごたえのある展示となっています。

ここで10のプロジェクトの展示の見どころをご紹介します。

1. <奈良県・奈良市>100年後の“工芸大国”を目指す「中川政七商店」産地再生の取り組み

日本の工芸を元気にするための多面的な活動、産地の一番星を作るという経営コンサルティング。そして産地へ旅をしたくなるという仕掛けで産地全体へ波及効果を生み出していく活動を紹介。

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2. <宮崎県・綾町>綾町の魅力を100年後に伝える「aya100」

総面積の80%が山林で占められているという綾町。オーガニックの町として有機野菜の栽培を町ぐるみで推進しています。

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3. <香川県・小豆島町、土庄町>愛のバッドデザインプロジェクトin小豆島

瀬戸内海に浮かぶ小豆島の日常生活の中で見かける「とるに足らない些細なもの」を探し出し、ものに宿る機能や美しさを見出し記録するプロジェクトです。

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4. <北海道・東川町>地域と世界を繋ぎ、新たなアイデアを町にもたらす「写真の町」

人口約8000人の町・東川町が、1985年に“写真の町”を宣言して、それ以来写真文化を軸とした町づくりを実施し、地域一丸となったプロジェクトの展開に成功しています。

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5. <長崎県・五島市>離島と都会を結ぶ、小さな私設図書館「さんごさん」

長崎県・五島列島の福江島の港町に、古民家を改修して作られた私設図書館「さんごさん」。
離島と都会を結ぶために、建築で結ぶ・本で結ぶ・活動で結ぶという3つの切り口を示す展示です。

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6. <愛媛県・松山市>これからの日本の湯道具をつくる「YUIRO」

豊富な湯源を持ち、独自の発展を遂げてきた日本の温泉文化。身体を洗うというだけなく、湯治や社交の場として見た視点からアピールしていくプロダクトを作る3000年の歴史を持つ道後温泉で行われているプロジェクトです。

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7. <福島県・南会津町>木のおもちゃから広がる、南会津の林業再生とまちづくり「マストロ・ジェッペット」

「マストロ・ジェッペット」は2010年に設立した木製玩具や乳幼児向けの食器製造・販売をしている会社です。福島県南会津で林業・製材・木工職人・デザイナーいろんな職の人たちが集まって行われている地域おこしのプロジェクトです。

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8. <岩手県・宮城県ほか>アジアの若手デザイナーと東北の事業者を繋ぐ「DOOR to ASIA」

アジアで活躍する若手デザイナーと東北の中小企業・事業者をつなぐ“デザイナーズ・イン・レジデンス”形式のプログラムです。日本だけではなく、海外から若手デザイナーが東北地方に集まってホームステイをしながら、その土地の文化やコミュニティを含めて理解し、事業者の商品をデザインしていく試みです。

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9. <兵庫県・豊岡市>地場産業ブランディングと人材育成による地域拠点づくり「Toyooka KABAN Artisan Avenue」

兵庫県豊岡市は生産量と従業員数共に日本一を誇る鞄の生産地。Toyooka KABAN Artisan Avenueは豊岡市の中心部に位置する販売と教育を軸にした鞄の拠点となっています。さらに産業としての持続可能性を高めるための人材育成も行っています。

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10. <兵庫県・豊岡市>「飛んでるローカル豊岡」プロジェクト

ローカルの価値にこだわり、地域固有の文化や自然環境、人とのつながりなどの地域の資源を活かして都会とは違う豊かさを追求すること、グローバルに通用する地域を作るプロジェクトです。

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今回の運営に携わる事業構想大学院大学 研究科長・教授の小塩篤史さんはこうおっしゃいます。

「地域×デザインがプラットフォームとなり皆さんの中で掛け算がどんどん増えていくことを願います。イノベーションとはゼロから作るのではなく、何かと何かの組み合わせで生まれるもの。地域×デザイン×さらに何か。各地域が持っている医療福祉やインフラなどの制約がある中、そこにデザインが入った時に何か新しいものが生まれるのだと思います。
見に来られる方、いろいろなバックグラウンドがあると思います。すでに地域おこしに関わっている方は他の地域はどうやっているんだろう?デザイナーは自分のデザインは地域にどう掛け算できるんだろう?など、着想を得たくて来るもよし。事例として見るだけではなく展示やトークセッションの中で何と何が掛け算されたのか注視して見てみるとなにか新しいものが発見されるはずです」

他の地域を見ることで、自分の地域の良さを再確認できる。みんなそれぞれ生まれた地域や背景が必ずあるはず。

ぜひ、会場に足を運んでみてください。
きっとあなたの中に新しい掛け算が生まれるはずです。

地域×デザイン2017 -まちが魅えるプロジェクト-

文・写真:山口綾子

二〇一七 弥生の豆知識

こんにちは。中川政七商店のバイヤーの細萱久美です。
連載「日本の暮らしの豆知識」の3月は旧暦で弥生のお話です。弥生の由来は、「弥生(いやおい)」が変化したものと言われています。「弥」は「いよいよ」という意味、「生」は生い茂ると使われるように、「草木が芽吹く」ことを意味します。草木がいよいよ芽吹く月という意味ですね。

そんな旧暦3月は、他にも「桜月」「早花咲月」「花見月」など、花に関連した異称も多く、桃やスミレ、沈丁花など春の花が次々と咲き始めます。そこまで花を愛でるタイプではない私でも、近所の庭先に花が増えてくるとちょっと足をとめて眺めたりします。また3月下旬にもなると、関東あたりでは桜も開花し、待ちに待ったお花見シーズンですね。暖かい日差しと穏やかな春風に誘われて、お散歩やピクニックに出る機会も増えるのではないでしょうか。

今回、ご紹介する暮らしの道具は、そんな春のお出かけに持っていきたい「コリヤナギのバスケット」です。作られているのは、兵庫県豊岡市の女性の職人さん。なんと材料のコリヤナギも自ら育てていらっしゃいます。

豊岡は、千年もの伝統をもつ鞄の産地で、奈良時代から始まる柳細工を起源とし、江戸時代には柳行李生産の隆盛をむかえ、大正以降は新素材の開発とミシン縫製により、鞄の生産地となりました。兵庫県鞄工業組合が定めた基準を満たす企業が生産し、審査に合格すると「豊岡鞄」として認定されるという厳しい管理の下、地域ブランドとしての価値を高めています。

そして、豊岡鞄の起源である柳行李を改めてブランドとして掲げた「豊岡柳」は、非常に希少ではありますが、今も尚栽培されているヤナギコリを、技術を継承する職人と、現代の鞄を生産する企業が共に発信することで、現代の生活に残しています。

柳と聞くと、枝を垂れる柳を思い浮かべますが、コリヤナギは大地から天を仰ぐように真っ直ぐに育ちます。肥沃な土壌の豊岡で育つコリヤナギは昔から品質が高いと言われています。
春からスクスク育てて年末に刈り取り、冬ごもりを経て4月頃にようやく加工が出来る状態になるそうです。そして下処理はまだ続き、1本1本皮を剝ぎ、川で綺麗に洗って、風通しの良い場所で干すといよいよ編み始めることが出来ます。なんと気の遠い作業……

このコリヤナギで作る、伝統的工芸品の代表作ともいえるのは「飯行李」。これに入れると、通気性に富むのでおひつのご飯のように美味しいおにぎりがいただけます。
また、今回のバスケットは鞄の産地ならではのアイテム。江戸時代の柳行李は、荷物を入れて運搬するのに使われていた、まさに現代の鞄です。明治の頃には、柳行李に革の持ち手が付いて鞄の形に発展し、更に製法も応用されてバスケット型も作られるようになりました。
この形、私もですが懐かしいと思われる世代がありそうです。現皇太子が子供の頃に愛用され「なるちゃんバスケット」と呼ばれ、多くの幼稚園で採用された経緯があります。素材やデザインは異なりますが、「大正バスケット」と呼ばれ当時大流行した、蓋付きカゴも数多く豊岡で作られていたそうです。

幼稚園児にはお弁当が入るくらいの小さなサイズが適当ですが、もう少し容量のある大人サイズで、中にも生地を貼って頂き、使いやすい仕様にお誂えをしました。
素材としては軽いのですが、しっかり編みこまれていてとても丈夫です。何十年と大事に使って、経年変化も楽しみたいと思います。(あとは姪っ子に譲りましょう。)
このバスケット、実は家で収納カゴとして使っており、まだ外出時に使えていません。カゴにお弁当や水筒を入れてピクニックに行くことに憧れたまま、未だ実現出来ずにおります。まずはピクニックの予定をたてて、今年は「なるちゃんバスケットのピクニック」を実現させたいとひそかに願う、弥生の暮らしの道具です。

<掲載商品>
問い合わせ先:japan source
コリヤナギのバスケット

細萱久美 ほそがやくみ
東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

文・写真:細萱久美

デザインのゼロ地点 第1回:醤油差し

はじめまして。THEの米津雄介と申します。
THE(ザ)は漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品を開発するものづくりの会社です。例えば、THE JEANSといえば多くの人がLevi’s 501を連想するような、「これこそは」と呼べる世の中のスタンダード。THE〇〇=これぞ〇〇、といったそのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ど真ん中というのは市場にある製品の平均点という意味ではありません。世の中には様々なデザインの製品がありますが、それらを選ぶときに基準となるべきもの、その製品があることで他の製品も進化していくようなゼロ地点、つまり本来在るべきスタンダードはどこなのか?といったことを考えようという試みです。

今日から月に1回、「デザインのゼロ地点」と題して、世の中の様々な製品のゼロ地点を探す旅にお付き合い頂けたらと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

さて、第1回目のお題は「醤油差し」。
器やカトラリーのように食卓で目立つ存在ではありませんが、日本であればどこの家にも1つはあると思います。ところがひとたび買おうと思うと、インテリアショップから量販店や100円ショップまで、材質も陶磁器やガラス、プラスチックなど、選択肢が多くて困ってしまいます。
商品を選ぶ、または開発するとき、僕らは5つの項目で評価をしています。

「形状」「歴史」「素材」「機能」「価格」

商品はこの5項目がそれぞれ密接に絡み合って出来ています。例えば、機能から生まれた形状だったり、歴史的背景のある素材だったり。
そんなことを考えながら、醤油差しの世界を覗いていきましょう。

醤油が生まれた経緯は諸説ありますが、文献上で歴史を辿ると700年代には既に醤油を扱う「主醤」という職業名があったとされています。
当然、保管や輸送方法もその時代背景によって大きく変わっています。
江戸時代より前は甕(かめ)による保管が一般的で、江戸時代に入り醤油が工業的に生産されるようになったタイミングで、割れやすく重かった甕から丈夫で軽い杉樽に変わったと言われています。このころ一般の人々は徳利や壺などを持って醤油を買いに行き、自宅でそのまま保管したり自宅用の甕に移し替えたりしていたそうです。

しょうゆ徳利(とっくり)ともに野田市郷土博物館所蔵
しょうゆ徳利(とっくり)ともに野田市郷土博物館所蔵
コンプラ瓶 キッコーマン国際食文化研究センター所蔵
コンプラ瓶 キッコーマン国際食文化研究センター所蔵
結樽(ゆいだる)キッコーマン国際食文化研究センター所蔵
結樽(ゆいだる)キッコーマン国際食文化研究センター所蔵

明治を経て大正時代にはガラスの自動製瓶機が普及し、醤油の保管や輸送もガラス瓶が一般的になります。おなじみのキッコーマンが会社として設立されたのが大正6年。その後間もなく一升瓶入りで販売を開始していたそうです。

キッコーマンしょうゆ1.8L瓶
キッコーマンしょうゆ1.8L瓶

つまり、醤油の輸送は陶製から木製へ、そして家庭用容器は陶製からガラス製へと歴史的背景によって形状や素材を変えてきました。

では食卓の醤油差しはどのような系譜を辿ったのでしょうか。
磁器の醤油差しの名品、白山陶器の「G型しょうゆさし」は1958年(昭和33年)の発売。森正洋さんがデザインしたこの醤油差しは今でも多くの人に愛されています。

陶製の醤油差しいろいろ
陶製の醤油差しいろいろ

「G型しょうゆさし」が生まれた3年後の1961年(昭和36年)、日本人なら誰もが知っているであろう赤いキャップの「キッコーマンしょうゆ卓上びん」が誕生します。それまで大きな瓶で買って自宅の醤油差しに移し替えていた醤油を、買った状態でそのまま食卓に置くことができるデザインに変えたのは、当時20代だったキッコーマンの商品開発者と、後に日本の工業デザイン界の第一人者と呼ばれることになる榮久庵憲司さん(同じく当時20代!)でした。
ガラスで中身が見えることや、液だれしにくいという機能、そして商品パッケージとしての役割を果たすこの「キッコーマンしょうゆ卓上びん」は発売から50年で4億本以上販売し、今では海外でも人気を博しています。

 キッコーマン「しょうゆ卓上びん」1961年〜 倒れにくさや手で持つ仕草を考慮してデザインされた。パッケージとしての価格帯にも関わらず、液だれしにくい構造にチャレンジし、実現しているのは本当に素晴らしい!
キッコーマン「しょうゆ卓上びん」1961年〜

倒れにくさや手で持つ仕草を考慮してデザインされた。パッケージとしての価格帯にも関わらず、液だれしにくい構造にチャレンジし、実現しているのは本当に素晴らしい!

さらに近年では、液だれしないことや量の調節がしやすい利点のあるスプレー式や、1滴1滴垂らすことのできるスポイト式、セラミックとシリコンを組み合わせたもの、パッケージ容器では「ヤマサ 鮮度の一滴」から始まった2重構造の真空ボトルなど、プラスチック製を筆頭に安価で機能的な製品も数多く発売されています。

ポーレックス「セラミックしょうゆ差し」 ボトル部分はセラミック、口元がシリコンで出来ている。シリコンはガラスや磁器に比べて液体に対する摩擦係数が高いのか、かなり液だれしにくい。磁器の質感の良さと液だれ防止機能がうまく両立している。
ポーレックス「セラミックしょうゆ差し」

ボトル部分はセラミック、口元がシリコンで出来ている。シリコンはガラスや磁器に比べて液体に対する摩擦係数が高いのか、かなり液だれしにくい。磁器の質感の良さと液だれ防止機能がうまく両立している。

 スプレー式の容器 便利ですが「お醤油らしさ」に欠けてしまい、使うのは少し抵抗があるかも!?
スプレー式の容器

便利ですが「お醤油らしさ」に欠けてしまい、使うのは少し抵抗があるかも!?

 ヤマサ「鮮度の一滴」2009年〜 醤油差し、とは呼べないかもしれませんが、開封後もほぼ真空状態を保ち酸化を防ぐ、という逆止弁を使ったパウチ容器は画期的でした。最近の新商品は180日間も鮮度を保つとのこと!
ヤマサ「鮮度の一滴」2009年〜

醤油差し、とは呼べないかもしれませんが、開封後もほぼ真空状態を保ち酸化を防ぐ、という逆止弁を使ったパウチ容器は画期的でした。最近の新商品は180日間も鮮度を保つとのこと!

キッコーマン「いつでも新鮮シリーズ」ボトルタイプ 2011年〜 キッコーマンはプラスチック製の逆止弁付きの2重構造ボトルを開発し、密封状態を保つ商品を発売。中身が減っても外観形状は変わらず、内側の袋状の容器が醤油の量に応じて収縮する。前述の卓上しょうゆ瓶の進化版といっても良いかもしれません。
キッコーマン「いつでも新鮮シリーズ」ボトルタイプ 2011年〜

キッコーマンはプラスチック製の逆止弁付きの2重構造ボトルを開発し、密封状態を保つ商品を発売。中身が減っても外観形状は変わらず、内側の袋状の容器が醤油の量に応じて収縮する。前述の卓上しょうゆ瓶の進化版といっても良いかもしれません。

こうして市場の様々な製品の遍歴を振り返ってみると、醤油差しのデザインのゼロ地点はどこにあるべきか、といったことがある程度見えてきます。

僕らの考えたゼロ地点の条件は、

・液だれしないこと
・倒れにくいこと
・醤油の容器だと認識しやすいこと
・中に入っている量が認識できて、安心して差せること
・鮮度を保ってくれること

これらをできるだけ満たしていること。

そう考えるとキッコーマンの「卓上しょうゆびん」は鮮度の面は譲りますが50年以上前から変わらないデザインで醤油差し業界のゼロ地点を担ってきたような気がします。

近年、環境配慮から商品パッケージも簡易包装化が進み、2重構造ボトルの普及に伴って国内の売場では「卓上しょうゆびん」を見かけることが少なくなってきました。もちろん包装資材削減は素晴らしいことですが、一方で醤油にまつわる食卓の風景が少しずつ減っている気がして、少し寂しい気持ちにもなります。

そんなことを想いながら、僕らの考えるゼロ地点に程近いものを、江戸時代創業の老舗ガラスメーカー・石塚硝子さんと作りました。

その名もTHE醤油差し。
こちらも是非ご覧頂けたら幸いです。

醤油差しのデザインのゼロ地点、如何でしたでしょうか?
次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいとおもいます。
それではまた来月、よろしくお願い致します。

<写真提供>
野田市郷土博物館
キッコーマン株式会社
ジャパンポーレックス株式会社
ヤマサ醤油株式会社
(掲載順)

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。


文:米津雄介

中川政七と鈴木啓太(PRODUCT DESIGN CENTER)が語る「経営とデザインの幸せな関係」

中川政七×鈴木啓太

こんにちは、さんち編集部です。

今回は、『経営とデザインの幸せな関係』(日経BP社)刊行記念として2016年11月に行われた、中川政七とプロダクトデザイナー・鈴木啓太氏のトークイベントの模様をお送りします。

(以下、鈴木啓太氏発言は「鈴木:」、中川政七発言は「中川:」と表記)

経営とデザイン。幸せな関係と不幸せな関係

トークイベントの様子

中川:『経営とデザインの幸せな関係』という本は、会社でなにか事業をする、事業会社を手伝う、コンサル的にかかわるという立場の人が教科書や進行表がわりに使っていただけるようにイメージして作りました。このタイトルなのですが、当然幸せな関係の裏には不幸せな関係がありまして。啓太くんは今まで何か不幸せな関係はありましたか?

鈴木:僕はデザイナーとして、社員5人くらいの小さな会社からいわゆる家電メーカーのような大企業までいろいろなクライアントにデザインを提供していますが、やっぱり不幸せな関係になることはありますね。

中川:例えば?

鈴木:デザインを提出した時に、「全然好きじゃない」と言われたり、デザインのやり直しが発生したり……。互いの認識に何かズレが生じている時は、不幸せな関係を感じます。

中川:そうだよね。あまり詳しくは言えないですけど、僕もデザイナーと仕事し始めた頃、割と痛い目にあってるんです(笑)。「商売を理解してくれないデザイナー」がけっこういました。

鈴木:作家っぽいデザイナー。

中川:そうそう。商業デザインだから、結果についてそれなりの責任と重みを持ってもらいたいんだけど、「それはあなたたちの仕事でしょ」と言われたりして。

互いの言葉を理解できない経営者とデザイナー

中川:振り返れば僕も啓太くんもこれまでの仕事に幸せな関係、不幸せな関係があるんですけど、それを決めるのは何かというと、共通言語だと思うんですよ。

鈴木:僕は「相互理解が深い」と幸せな関係になりやすいと思うのですが、互いに理解を深めるための共通言語ですよね。

中川:そう。同じ日本人で同じ言葉を使っているんですけど、経営者はデザイナー、デザイナーは経営者の言葉を理解できないんですよ。当たり前のように「プロダクトデザイナー」とか「グラフィックデザイナー」とか言いますけど、デザイナーはデザイナーやろうって経営者は思ってるし、そこでまたクリエイティブディレクターなんて出てきたら、なんのこっちゃわからへん。

鈴木:仕事の領域の広さを示してるんですよね。グラフィックデザイナーは平面のデザインをする人、クリエイティブディレクターはもうちょっと包括的な人、のように。

中川:でもグラフィックデザイナーと名乗っているけどクリエイティブディレクターくらいの守備範囲の人もいる。それぞれ、こだわりがあってその肩書きにするわけでしょ?

鈴木:確かに、プロダクトデザイナーとインダストリアルデザイナーのどちらを選択するかは、こだわり以外のなにものでもないですね。

中川:そういう曖昧なものは共通言語にならないんだよね。でも、互いの言葉を理解できないと、仕事もうまくいかない。だから僕は以前から、経営者はデザインのリテラシーを持ちましょう、デザイナーは経営のリテラシーも持ちましょうと言ってきました。

鈴木:今回の中川さんの著書には、まず会社を診断し、次にブランドを作り、商品を作って最後にコミュニケーションを作ると書かれていますよね。最初の会社の診断以外は全てデザイナーがかかわってくる。デザイナーといい関係が作れないといい事業にならないし、いいものが作れない。そのために共通言語を持ちましょうというのがこの本ですよね。

相互のリテラシーの不足がよくない関係を生む

中川政七

中川:一昔前はロジカルにやっていれば商売もうまくいったし、儲かったんだと思うんですよ。それがだんだん変わってきて、クリエイティブの必要性が高くなってきた。でも、企業で上の立場にいる人はロジカルでゴリゴリきているから、クリエイティブとかよくわからん、という人も多い。ここの融合がどうしても必要だよね。

鈴木:そうですね。例えばスティーブ・ジョブズがいた頃のアップルは、まさにロジカルとクリエイティブがうまく融合された企業だと思います。

中川:そうそう。ジョブズをすごくクリエイティブな人だと捉えている人も多いと思うんだけど、多分違う。あの人はロジカルなんだけど、クリエイティブのリテラシーが高い人で、だからこそ、高いレベルでクリエイティブの良し悪しを判断できたと思うんです。

鈴木:同感です。

中川:経営者とデザイナーのよくない関係性として、リテラシーのない経営者が「デザインをお願いします」と“先生”に頼むと、“先生”がよくわからないデザインをする。それが雑誌に取り上げられて、“先生” はさも自分がデザインした商品が売れたかのようにしゃべるんだけど、実際は売れていない、みたいな話が山のようにあるわけです。

鈴木:それ、誰のことですか?(笑)

中川:例えばね、例えば!でもそれがなぜ起こるかといったら、経営サイドのオーダーが通ってないんですよ。これくらいの価格帯のもので、年間に1000万円売れてもらわないと困るんですと具体的にオーダーしていないといけない。お金の話だけじゃなくて、他にもブランドの意図とかいろんなオーダーがあるわけやん。何ができなくて何を助けて欲しいのかということをちゃんと自分の言葉で言える事業者って少ないんですよ。

「たとえ話」で理解を深める

鈴木啓太氏

鈴木:中川さんの話を聞いていて、ドワンゴの川上さんの「日本の教養は週刊少年ジャンプでできている」という言葉を思い出しました。これってドラゴンボールでいうとこういうことだよねとか、週刊少年ジャンプくらいみんなが読んでいるものがあって、伝えたいことをそういうものに例えるとコミュニケーションがしやすい。

中川:まさに共通言語ですね。

鈴木:この「たとえ話」でいうと、僕はクライアントとの共通言語を探る時、それぞれの業界の言葉で置き換えています。例えばガラスメーカーの人と話す時は、他のガラスメーカーを例に挙げる。iittalaという有名な北欧のブランドがあるんですが、iittalaみたいな口の感じにしたいんですよね、という話し方をすると、相互理解が深まりやすくなる。

中川:たとえ話は、相互理解を生むためのひとつのコツだよね。

鈴木:あとは、その人が好きなものに例えてあげる。ファッションが好きだったら、今回のブランドって、ファッションブランドでいくとどのへんのブランドのイメージですよねと言うと、すごく理解してくれますね。

中川:今の話は、坂井直樹さんが書いている『エモーショナルプログラム』(エクシードプレス)と同じだよね。縦軸が精神年齢、横軸が感性、左寄りがコンサバティブで右寄りがアグレッシブという図表を使って、世の中のブランドを二次元にプロットする。例えば自分が新しい雑貨ブランドを始めようという時に、まず自動車でボルボはここ、ベンツはこことプロットして、次は雑誌でプロットする。そうすると、自分が目指すものがどの位置にあるのか視覚化される。これはデザイナーにイメージを伝える時のコミュニケーションツールで、僕は「粋更 kisara」という新ブランドを作る時から使っています。

鈴木:デザイナーはビジュアルで、経営者側はテキストで考えようとしがちだから、具体的なイメージがわかるこの手法は良いですね。以前、雑談で中川さんとどういうタイプの女の子が好みかという話をした時にも、このマッピングの話をしましたよね(笑)。横軸の左寄りが安室奈美恵で右寄りが蒼井優で、どのへんがいいかみたいな。

中川:真ん中が竹内結子で、僕と啓太くんは蒼井優よりなんだけど、「THE」というブランドを一緒にやっている米津さんは左より(笑)。

鈴木:とてもわかりやすい。

ブランド「THE」を立ち上げる

中川:仕事に話を戻すと、僕はエモーショナルプログラムを使いつつ、もう一方でビジュアルのコラージュみたいなものも作りますね。それをデザイナーに見せて、やりたいことはこういうことなんですよ、と提示したりします。

鈴木:百聞は一見に如かずというか、やはりビジュアルの力は大きいですね。

中川:これも、共通言語をもつためのアプローチで。最初からクリエイティブと距離を置いている経営者も多いと思うけど、関係者にリテラシーがあって、それぞれの専門を尊重して、それが噛み合うとうまくいくんです。これは啓太君と僕、クリエイティブディレクターの水野学さん、先ほど話に出た米津さんの4人でやっている「THE」というブランドの話がわかりやすいと思う。

鈴木:もともと富士山グラスというデザインの仕事で一緒になった水野さんと僕が、「自分たちが本当に欲しいもの作ろう」ということで、プロダクトブランドを立ち上げようという話になりました。でも水野さんは以前から、これまで数多くのデザイナーズブランドが生まれては消えていったのは、流通がなかったからじゃないかと指摘していたんです。そこで、流通のプロ、ビジネスのプロを入れようということで、中川さんにお願いした次第です。

鈴木啓太氏デザインの富士山グラス
「Tokyo Midtown Award 2008」のデザインコンペで水野学賞を受賞した鈴木啓太氏デザインの富士山グラス。

中川:僕の力はさておき、水野さん、さすがだなと思うのは、デザイナーという立場でありながら経営のリテラシーがあるから、自分たちでは補えないものがあると理解していたことですよね。ちなみに僕は水野さんと10年来の付き合いで仲もいいんですけど、そういうふうに仲のいい人たちで商売を始めると大体もめるんですよ。それで一瞬迷ったのだけど、啓太君も水野さんも経営リテラシーがあり、僕もそこそこデザインリテラシーあるから、お互いそれぞれの領分を守りながら平和にやれるんじゃないかなと思って。実際4年やってきて、仲良くやってるもんね。

鈴木:立場が明確なので、お互いをリスペクトしながらできていると思います。

中川:もちろん、意見が食い違うこともあるんです。それは売れないよ、いやいや売れると思いますみたいなこともあるんだけど、最後はそのジャンルの専門家の意見を尊重する。

鈴木:よくあるのは、いくらで値付けするかというところで、クリエイティブサイドと経営サイドでもめて。でも最後は中川さんのいう値段でいきましょうとなりますよね。

中川:僕も自分の領域で水野さんと意見が食い違ったらそこは折れずにちゃんと言うし、水野さんもそれで気分を害したりしないし。

鈴木:みんなの立場がうまく機能して、なおかつヒット商品にもなったのが醤油差しですよね。最初、中川さんが世の中にいい醤油差しがないから、醤油差しを作ったら売れるかもといい出した。それで僕は、キレイで絶対に液だれしないガラスの醤油差しをデザインした。そこで水野さんが、コミュニケーションの専門家として、食文化が変わって醤油の消費量も変わってきているし、もう少し小さくすると冷蔵庫の調味料入れに入るよ、とアイデアを出して。それからデザインを小さく直して、最後に社長の米津さんが工場にべったり張り付いて良いものを仕上げていった。

中川:手前味噌だけど、お互いに分担がきれいにできているから、空中分解せずにやれているんだなと僕も思いますね。水野さんや啓太くんもそうですけど、今の時代、売れているデザイナーさんはみんな経営に対するリテラシーはあるような気がします。

液だれしない、「THE 醤油差し」
液だれしない、「THE 醤油差し」

求む、“打率入り”デザイナー名鑑

鈴木:中川さんはいろいろなデザイナーさんとお付き合いしてるじゃないですか。どういう風にデザイナーを選んでいるんですか?

中川:そんなにたくさんの人を知っているわけじゃないので、この案件には誰がはまるんだろう迷った時は、詳しい人に相談しますね。それで3人くらい名前を教えてもらったら、そのデザイナーのウェブサイトをひたすら見て、ピンと来た人に声をかける。だから、紹介をしてくれる人がいないとなかなか難しい……。

鈴木:やっぱりデザイナー選びって、大変なのかな。

中川:決して簡単じゃないんですよ。だから、今出ているものとは違うデザイナー名鑑を出して欲しいですね。得意分野がマッピングされているだけじゃなくて、打率も出して欲しい!オーダーがはっきりしていれば打率が出るわけですよ。1000万円売りたいプロダクトをデザインしました、それが800万だったら達成率80%じゃないですか。その数字を常に出すべきで、その積み上げが打率になる。これは、デザイナー側から経営サイドへの歩み寄りだと思うんですよ。

鈴木:打率(笑)。重要ですよね。

中川:これからは、ロジカルとクリエイティブ、その両輪を回さないと経営できない時代だと思います。だからこそ、経営者とデザイナーが共通言語で互いに理解を深めて、しっかりと役割分担したらリスペクトしあう、「幸せな関係」が増えて欲しいですね。

中川政七と鈴木啓太氏

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<掲載商品>
富士山グラス
THE 醤油差し

構成:川内イオ
写真:古平和弘

【平戸のお土産】牛蒡餅本舗 熊屋本店の「牛蒡餅」

こんにちは、さんち編集部の庄司賢吾です。
わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” を読者の皆さんへご紹介する “さんちのお土産”。第5回目はかつて南蛮貿易の先駆けとなった、長崎は平戸のお土産です。江戸時代から伝わる、一風変わった名前の郷土菓子をご紹介します。

寛永18年にオランダ商館が長崎出島に移転されるまでの100年間は、平戸が異国との窓口でした。その後鎖国とともに表舞台からは姿を消しますが、異国から受けた影響を元に、食をはじめとした独自の文化を育て続けてきました。その中の一つに「牛蒡餅(ごぼうもち)」があります。中国から製法が伝えられたと言われていて、平戸藩4代目藩主の松浦鎮信公が起こした茶道「鎮信流」の茶菓子として普及します。また町屋の人たちにとっても、慶事・法事の際のお配り菓子として親しまれていた、平戸を代表する銘菓です。

その変わった名前の由来は、黒砂糖だけでつくられた細長い餅の形と色合いが、牛蒡に似ていたというとってもストレートなもの。そのネーミングと同じように、気取らず飾らずまっすぐな、素朴で飽きのこない郷土菓子です。

今回伺ったのは「牛蒡餅本舗 熊屋」。創業240年余りの歴史の中で、当時のままの牛蒡餅の味わいを守り続けている老舗です。厳選したうるち米を挽いて粉にし、蒸してつき、砂糖を加え、仕上げにケシの実を散らします。それを細長い棒状に伸ばして5センチくらいの長さに切ったら、昔ながらの牛蒡餅の出来上がり。淡白で素朴な味付けなのでお米の味をそのまま感じられ、むちっとした食感がクセになります。くどさの無い上品な甘さで、思わず2つ3つと口に運んでしまいそう。最近では桜や抹茶、塩胡麻と、味のバリエーションも楽しめるので、全部の味を試したくなってしまいます。

お茶菓子からお配り菓子まで、平戸の人々の生活に寄り添ってきた牛蒡餅。お店では相性抜群のお抹茶もいただけますので、ぜひ「鎮信流」のお茶席にお呼ばれしたつもりで、平戸の歴史が育てた味わいをお楽しみください。

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ここで買いました

牛蒡餅本舗 熊屋本店
長崎県平戸市魚ノ棚町324
0950-22-2046
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文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

私の相棒 〜鍋島・三川内の誇りを支える筆〜

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
工芸を支える職人の愛用品をご紹介する「わたしの相棒」。普段は注目を浴びることが少ない「職人の道具」にスポットを当て、道具への想いやエピソードを伺っていきます。今回お話を伺ったのは、肥前窯業圏の伊万里鍋島焼と三川内焼の職人。この2つの産地は少し似たような歴史的な背景を持ち、どちらも濃淡で立体感や遠近感を出す、日本画のような美しい絵付けを特徴としています。
その絵付けを支えている私の相棒は「筆」。この2つの産地で使う筆は、どうやら同じ産地でつくられているようです。

伊万里鍋島焼と筆

まずお話を伺ったのは、昭和元年創業の畑萬陶苑の代表、畑石眞嗣さんです。

畑萬陶苑は鍋島藩の御用窯があった大川内山で、伊万里鍋島焼を守り続ける窯元です。
畑萬陶苑は鍋島藩の御用窯があった大川内山で、伊万里鍋島焼を守り続ける窯元です。

「当時の肥前国で生産された磁器の積み出し港が伊万里にあったので、海外ではIMARIとして名前が広がりました。このIMARIと呼ばれた焼き物は古伊万里、柿右衛門、鍋島の3つに分けられ、そのうちの鍋島の伝統をここでは継承しているんです」
鍋島は17~19世紀にかけて、鍋島藩直営の御用窯で政治的な献上品としてコスト度外視でつくられていました。だからこそ、精度に言い訳が効かず、抜きん出た材料と技術力を必要とされてきたという背景があります。伊万里鍋島焼きの里である大川内山にある、燃料となる松の木や水、青を作る釉薬(ゆうやく)などの豊かで上質な素材を活かして、献上品としてふさわしい伊万里鍋島焼をつくりあげていったのです。
「伊万里鍋島焼の強みは、門外不出の材料と、やはり技術力ですよ」と、畑石さんも言います。かつては材料や技術を盗まれないよう、献上品として使うもの以外の失敗作は割って散り散りに捨てていたほど。今でも組合により丁寧に管理しているそうです。

「数ある工程の中でも、絵付けの技術では負けられないという思いがありますね」
伊万里鍋島焼は、乳白色の磁器の上に余白を生かした日本独特の花鳥や景色を、赤や青や黄、緑をつかって日本画のように表現します。その作品の主流となる染付(そめつけ)とは、焼成前の生地に焼くと藍色に発色する呉須(ごす)を用いて絵を描く技法です。絵としての独特の「間」を生むため葉っぱ一枚でも葉脈の線をくっつけず、グラデーションもつけて描くといいます。

鍋島の代表作品、青海波墨弾鶺鴒(せきれい)七寸高台皿。基本の青で草木の瑞々しさを表現。©畑萬陶苑
鍋島の代表作品、青海波墨弾鶺鴒(せきれい)七寸高台皿。基本の青で草木の瑞々しさを表現。©畑萬陶苑

「技術を支えるのは良い人材に良い道具。特に筆は命とも言える道具ですね」と、筆入れにたくさん差し込まれた筆を見せてくれました。
そんな伊万里鍋島焼を支えている筆はどこのものかと尋ねると、『熊野の筆』、ということでした。

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三川内焼と筆

次にお話を伺ったのは、400年の歴史を持つ平戸松山の代表、中里月度務さんです。

平戸松山は平戸藩の御用窯として栄えた三川内山で、三川内焼を守り続ける窯元です。
平戸松山は平戸藩の御用窯として栄えた三川内山で、三川内焼を守り続ける窯元です。

「三川内焼は2人の陶工によってはじめられました。平戸藩の領主だった松浦鎮信(しげのぶ)の下で巨関(こせき)が日本に陶工をもたらし、それと同時期に唐津焼の女性陶工である中里氏が陶土を求めて南下してきたんです。その2人が三川内で合流したことで磁器製造の歴史がはじまります」
大川内山と同じく、豊かな自然素材に恵まれた三川内山で、巨関と中里氏により三川内焼の原型がつくられていきます。三川内焼は平戸藩の御用窯として政治的に利用されることとなり、繊細麗美な絵付けや細工の技術の洗練化が使命とされました。
「有田の知名度も波佐見のデザイン性も持たないからこそ、技術力の高さで勝負することが不可欠」と、中里さんは言います。その強みである技術を継いでいくために、すでに明治期には意匠伝習所を設けていたそうです。

「平面の紙に描いていた日本画を立体の器に描く、この技術こそが三川内焼ですよ」
三川内焼は狩野派絵師の原画を起源とし、水墨画のような立体感と奥行きのある絵柄を持っています。また、骨描き(こつがき)という輪郭線を描く作業、また輪郭線の中に絵の具を染み込ませる「濃(だみ)」という技法も特徴です。そして何と言っても正統継承し代表絵柄となっているのが唐子絵。唐子絵自体は元々は中国のものですが、松の絵と唐子を合わせ、器に描きはじめたのは三川内焼です。江戸期から変わらないその構図を今でも守り続けています。

三川内を代表する唐子絵。繊細な輪郭線と濃による濃淡を見ることができます。
三川内を代表する唐子絵。繊細な輪郭線と濃による濃淡を見ることができます。

「三川内焼にとって無くてはならないのが筆。この筆に魂を乗せて線の一本一本を描いていくんです」と、視線を送る先にはたくさんの筆が並べられていました。
そんな三川内焼を支えている筆はどこのものかと尋ねると、伊万里鍋島焼と同じ『熊野の筆』、ということでした。

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産地の相棒、熊野の筆

それぞれ政治的な意図を背景に、献上品としての絵付けの美しさが試され、技術が必要だったという共通点を持つ2つの産地。その産地の職人を支えていた熊野の筆とは、一体どのような筆なのでしょうか。
熊野の筆をつくる広島県熊野町は、江戸時代から180年伝わる筆の製造を産業の中心として「筆の都」として栄えてきました。なんと、全国で使用される筆の約8割を生産していて、町民の10人に1人が筆に関わる仕事をしているそうです。元々は農業が主な生業の町でしたが、出稼ぎに行く時に奈良の筆を買い、帰る途中の町で売っていたということが多くあったそう。そんな筆と近い関係性を背景に、筆づくりの製法が村に持ち帰られることで、熊の筆づくりがはじまりました。今では車に筆を積んで売りに来ることもあって、肥前一帯の多くの職人が熊野の筆を使っています。

伊万里鍋島焼きの畑石さんは、「ナイロンの毛ではすぐに細く描けなくなるんです。動物の毛だからこそ、丈夫でコシがあって繊細な絵付けを可能にしてくれるんです」と、話します。動物の毛をブレンドしてつくられる熊野の筆は、細いものはイタチ、太いものは鹿の毛、他にはシカやヤギなどたくさんの動物の毛でつくられています。
「それと面白いのは、職人が筆の毛をむしって、自分が描きやすい細さにしてから使っているってことですね」と、見せてくれた筆の先は、なるほど毛が抜かれて細く描きやすくなっていました。号数によって同じ太さでつくられた筆を、使う職人ごとに毛の細さを調整して、世界に一つだけの筆をつくって使っています。三川内焼と比べると、どこかヨーロッパ的なモチーフと雰囲気を感じさせる伊万里鍋島焼の絵付けは、動物の筆を職人ごとに毛を抜くことで調整しながら描かれていました。

イタチや鹿の毛など、こんなにたくさんの種類の筆があります。
イタチや鹿の毛など、こんなにたくさんの種類の筆があります。
毛を抜いたり切ったりして、その職人専用に整えられた筆。
毛を抜いたり切ったりして、その職人専用に整えられた筆。

三川内焼の中里さんが、「線の筋や松の絵の部分、唐子の顔の表情などで全て筆を分けています。ほら、こうやって筆に鉛筆で名前を描いて管理してるんです」と指差す場所には「目鼻」と書かれていました。細かな筆の使い分けがされている様子を垣間見た瞬間でした。
「見てください、こんなに太い筆もあるんです。これはダミ筆と言って、濃淡を出す筆です」と、見せてくれたのは他の細い筆とは一線を画す、太くて先の細い筆。表面張力で呉須を引っ張ることでムラ無く塗ることができ、熟練の技でこの太いダミ筆で1mmの細い線を描くこともできるそう。伊万里鍋島焼と比べると、中国に通じるモチーフと雰囲気を感じさせる三川内焼の絵付けは、細いものから太いものまで、適材適所で筆を使い分けることにより描かれていました。

「目鼻」用など、描く絵の部分によって細かく筆を使い分けています。
「目鼻」用など、描く絵の部分によって細かく筆を使い分けています。
ダミ筆で呉須を器に落として広げ、余分なものは筆に吸わせて戻して描いていきます。
ダミ筆で呉須を器に落として広げ、余分なものは筆に吸わせて戻して描いていきます。

インタビューの最後にお2人から出てきた言葉は、筆への感謝の言葉でした。
伊万里鍋島焼きの畑石さんは、あるイベントのお話を通して筆への想いを教えてくれました。「筆あっての鍋島様式だから毎年『筆供養』というものを行っています。使った筆を捨てるときに、お経をあげて供養して焚き上げるんです。感謝の辞を代表が述べて、この筆のおかげでもっと良いものを次に作っていくと志を述べます。それくらい鍋島にとって、熊野の筆は無くてはならない存在です」

三川内焼の中里さんは、来年届く筆への期待を通して筆への想いを教えてくれました。「こういう雰囲気の筆を作ってとオーダーしながら改良してもらっているので毎年どんな筆になるか楽しみです、同じ材質でも去年と今年では使用感がかなり違うので。『線のシャープなイキ、細み』が出せないと三川内焼では無いので、それを支えてくれる熊野の筆は三川内にとってかけがえのない存在です」

肥前の焼き物の絵付けは、たしかに熊野の筆が支えていました。同じ産地からつくられる筆を、使う産地ごと・職人ごとに使い分け、独自の絵付けを施しています。これからも伊万里鍋島と三川内の焼き物は美しく、見る人の心を掴んで離さないはずです。そう、熊野の筆がある限り。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之