【平戸のお土産】牛蒡餅本舗 熊屋本店の「牛蒡餅」

こんにちは、さんち編集部の庄司賢吾です。
わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” を読者の皆さんへご紹介する “さんちのお土産”。第5回目はかつて南蛮貿易の先駆けとなった、長崎は平戸のお土産です。江戸時代から伝わる、一風変わった名前の郷土菓子をご紹介します。

寛永18年にオランダ商館が長崎出島に移転されるまでの100年間は、平戸が異国との窓口でした。その後鎖国とともに表舞台からは姿を消しますが、異国から受けた影響を元に、食をはじめとした独自の文化を育て続けてきました。その中の一つに「牛蒡餅(ごぼうもち)」があります。中国から製法が伝えられたと言われていて、平戸藩4代目藩主の松浦鎮信公が起こした茶道「鎮信流」の茶菓子として普及します。また町屋の人たちにとっても、慶事・法事の際のお配り菓子として親しまれていた、平戸を代表する銘菓です。

その変わった名前の由来は、黒砂糖だけでつくられた細長い餅の形と色合いが、牛蒡に似ていたというとってもストレートなもの。そのネーミングと同じように、気取らず飾らずまっすぐな、素朴で飽きのこない郷土菓子です。

今回伺ったのは「牛蒡餅本舗 熊屋」。創業240年余りの歴史の中で、当時のままの牛蒡餅の味わいを守り続けている老舗です。厳選したうるち米を挽いて粉にし、蒸してつき、砂糖を加え、仕上げにケシの実を散らします。それを細長い棒状に伸ばして5センチくらいの長さに切ったら、昔ながらの牛蒡餅の出来上がり。淡白で素朴な味付けなのでお米の味をそのまま感じられ、むちっとした食感がクセになります。くどさの無い上品な甘さで、思わず2つ3つと口に運んでしまいそう。最近では桜や抹茶、塩胡麻と、味のバリエーションも楽しめるので、全部の味を試したくなってしまいます。

お茶菓子からお配り菓子まで、平戸の人々の生活に寄り添ってきた牛蒡餅。お店では相性抜群のお抹茶もいただけますので、ぜひ「鎮信流」のお茶席にお呼ばれしたつもりで、平戸の歴史が育てた味わいをお楽しみください。

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ここで買いました

牛蒡餅本舗 熊屋本店
長崎県平戸市魚ノ棚町324
0950-22-2046
http://www.hirado-kumaya.jp

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

私の相棒 〜鍋島・三川内の誇りを支える筆〜

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
工芸を支える職人の愛用品をご紹介する「わたしの相棒」。普段は注目を浴びることが少ない「職人の道具」にスポットを当て、道具への想いやエピソードを伺っていきます。今回お話を伺ったのは、肥前窯業圏の伊万里鍋島焼と三川内焼の職人。この2つの産地は少し似たような歴史的な背景を持ち、どちらも濃淡で立体感や遠近感を出す、日本画のような美しい絵付けを特徴としています。
その絵付けを支えている私の相棒は「筆」。この2つの産地で使う筆は、どうやら同じ産地でつくられているようです。

伊万里鍋島焼と筆

まずお話を伺ったのは、昭和元年創業の畑萬陶苑の代表、畑石眞嗣さんです。

畑萬陶苑は鍋島藩の御用窯があった大川内山で、伊万里鍋島焼を守り続ける窯元です。
畑萬陶苑は鍋島藩の御用窯があった大川内山で、伊万里鍋島焼を守り続ける窯元です。

「当時の肥前国で生産された磁器の積み出し港が伊万里にあったので、海外ではIMARIとして名前が広がりました。このIMARIと呼ばれた焼き物は古伊万里、柿右衛門、鍋島の3つに分けられ、そのうちの鍋島の伝統をここでは継承しているんです」
鍋島は17~19世紀にかけて、鍋島藩直営の御用窯で政治的な献上品としてコスト度外視でつくられていました。だからこそ、精度に言い訳が効かず、抜きん出た材料と技術力を必要とされてきたという背景があります。伊万里鍋島焼きの里である大川内山にある、燃料となる松の木や水、青を作る釉薬(ゆうやく)などの豊かで上質な素材を活かして、献上品としてふさわしい伊万里鍋島焼をつくりあげていったのです。
「伊万里鍋島焼の強みは、門外不出の材料と、やはり技術力ですよ」と、畑石さんも言います。かつては材料や技術を盗まれないよう、献上品として使うもの以外の失敗作は割って散り散りに捨てていたほど。今でも組合により丁寧に管理しているそうです。

「数ある工程の中でも、絵付けの技術では負けられないという思いがありますね」
伊万里鍋島焼は、乳白色の磁器の上に余白を生かした日本独特の花鳥や景色を、赤や青や黄、緑をつかって日本画のように表現します。その作品の主流となる染付(そめつけ)とは、焼成前の生地に焼くと藍色に発色する呉須(ごす)を用いて絵を描く技法です。絵としての独特の「間」を生むため葉っぱ一枚でも葉脈の線をくっつけず、グラデーションもつけて描くといいます。

鍋島の代表作品、青海波墨弾鶺鴒(せきれい)七寸高台皿。基本の青で草木の瑞々しさを表現。©畑萬陶苑
鍋島の代表作品、青海波墨弾鶺鴒(せきれい)七寸高台皿。基本の青で草木の瑞々しさを表現。©畑萬陶苑

「技術を支えるのは良い人材に良い道具。特に筆は命とも言える道具ですね」と、筆入れにたくさん差し込まれた筆を見せてくれました。
そんな伊万里鍋島焼を支えている筆はどこのものかと尋ねると、『熊野の筆』、ということでした。

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三川内焼と筆

次にお話を伺ったのは、400年の歴史を持つ平戸松山の代表、中里月度務さんです。

平戸松山は平戸藩の御用窯として栄えた三川内山で、三川内焼を守り続ける窯元です。
平戸松山は平戸藩の御用窯として栄えた三川内山で、三川内焼を守り続ける窯元です。

「三川内焼は2人の陶工によってはじめられました。平戸藩の領主だった松浦鎮信(しげのぶ)の下で巨関(こせき)が日本に陶工をもたらし、それと同時期に唐津焼の女性陶工である中里氏が陶土を求めて南下してきたんです。その2人が三川内で合流したことで磁器製造の歴史がはじまります」
大川内山と同じく、豊かな自然素材に恵まれた三川内山で、巨関と中里氏により三川内焼の原型がつくられていきます。三川内焼は平戸藩の御用窯として政治的に利用されることとなり、繊細麗美な絵付けや細工の技術の洗練化が使命とされました。
「有田の知名度も波佐見のデザイン性も持たないからこそ、技術力の高さで勝負することが不可欠」と、中里さんは言います。その強みである技術を継いでいくために、すでに明治期には意匠伝習所を設けていたそうです。

「平面の紙に描いていた日本画を立体の器に描く、この技術こそが三川内焼ですよ」
三川内焼は狩野派絵師の原画を起源とし、水墨画のような立体感と奥行きのある絵柄を持っています。また、骨描き(こつがき)という輪郭線を描く作業、また輪郭線の中に絵の具を染み込ませる「濃(だみ)」という技法も特徴です。そして何と言っても正統継承し代表絵柄となっているのが唐子絵。唐子絵自体は元々は中国のものですが、松の絵と唐子を合わせ、器に描きはじめたのは三川内焼です。江戸期から変わらないその構図を今でも守り続けています。

三川内を代表する唐子絵。繊細な輪郭線と濃による濃淡を見ることができます。
三川内を代表する唐子絵。繊細な輪郭線と濃による濃淡を見ることができます。

「三川内焼にとって無くてはならないのが筆。この筆に魂を乗せて線の一本一本を描いていくんです」と、視線を送る先にはたくさんの筆が並べられていました。
そんな三川内焼を支えている筆はどこのものかと尋ねると、伊万里鍋島焼と同じ『熊野の筆』、ということでした。

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産地の相棒、熊野の筆

それぞれ政治的な意図を背景に、献上品としての絵付けの美しさが試され、技術が必要だったという共通点を持つ2つの産地。その産地の職人を支えていた熊野の筆とは、一体どのような筆なのでしょうか。
熊野の筆をつくる広島県熊野町は、江戸時代から180年伝わる筆の製造を産業の中心として「筆の都」として栄えてきました。なんと、全国で使用される筆の約8割を生産していて、町民の10人に1人が筆に関わる仕事をしているそうです。元々は農業が主な生業の町でしたが、出稼ぎに行く時に奈良の筆を買い、帰る途中の町で売っていたということが多くあったそう。そんな筆と近い関係性を背景に、筆づくりの製法が村に持ち帰られることで、熊の筆づくりがはじまりました。今では車に筆を積んで売りに来ることもあって、肥前一帯の多くの職人が熊野の筆を使っています。

伊万里鍋島焼きの畑石さんは、「ナイロンの毛ではすぐに細く描けなくなるんです。動物の毛だからこそ、丈夫でコシがあって繊細な絵付けを可能にしてくれるんです」と、話します。動物の毛をブレンドしてつくられる熊野の筆は、細いものはイタチ、太いものは鹿の毛、他にはシカやヤギなどたくさんの動物の毛でつくられています。
「それと面白いのは、職人が筆の毛をむしって、自分が描きやすい細さにしてから使っているってことですね」と、見せてくれた筆の先は、なるほど毛が抜かれて細く描きやすくなっていました。号数によって同じ太さでつくられた筆を、使う職人ごとに毛の細さを調整して、世界に一つだけの筆をつくって使っています。三川内焼と比べると、どこかヨーロッパ的なモチーフと雰囲気を感じさせる伊万里鍋島焼の絵付けは、動物の筆を職人ごとに毛を抜くことで調整しながら描かれていました。

イタチや鹿の毛など、こんなにたくさんの種類の筆があります。
イタチや鹿の毛など、こんなにたくさんの種類の筆があります。
毛を抜いたり切ったりして、その職人専用に整えられた筆。
毛を抜いたり切ったりして、その職人専用に整えられた筆。

三川内焼の中里さんが、「線の筋や松の絵の部分、唐子の顔の表情などで全て筆を分けています。ほら、こうやって筆に鉛筆で名前を描いて管理してるんです」と指差す場所には「目鼻」と書かれていました。細かな筆の使い分けがされている様子を垣間見た瞬間でした。
「見てください、こんなに太い筆もあるんです。これはダミ筆と言って、濃淡を出す筆です」と、見せてくれたのは他の細い筆とは一線を画す、太くて先の細い筆。表面張力で呉須を引っ張ることでムラ無く塗ることができ、熟練の技でこの太いダミ筆で1mmの細い線を描くこともできるそう。伊万里鍋島焼と比べると、中国に通じるモチーフと雰囲気を感じさせる三川内焼の絵付けは、細いものから太いものまで、適材適所で筆を使い分けることにより描かれていました。

「目鼻」用など、描く絵の部分によって細かく筆を使い分けています。
「目鼻」用など、描く絵の部分によって細かく筆を使い分けています。
ダミ筆で呉須を器に落として広げ、余分なものは筆に吸わせて戻して描いていきます。
ダミ筆で呉須を器に落として広げ、余分なものは筆に吸わせて戻して描いていきます。

インタビューの最後にお2人から出てきた言葉は、筆への感謝の言葉でした。
伊万里鍋島焼きの畑石さんは、あるイベントのお話を通して筆への想いを教えてくれました。「筆あっての鍋島様式だから毎年『筆供養』というものを行っています。使った筆を捨てるときに、お経をあげて供養して焚き上げるんです。感謝の辞を代表が述べて、この筆のおかげでもっと良いものを次に作っていくと志を述べます。それくらい鍋島にとって、熊野の筆は無くてはならない存在です」

三川内焼の中里さんは、来年届く筆への期待を通して筆への想いを教えてくれました。「こういう雰囲気の筆を作ってとオーダーしながら改良してもらっているので毎年どんな筆になるか楽しみです、同じ材質でも去年と今年では使用感がかなり違うので。『線のシャープなイキ、細み』が出せないと三川内焼では無いので、それを支えてくれる熊野の筆は三川内にとってかけがえのない存在です」

肥前の焼き物の絵付けは、たしかに熊野の筆が支えていました。同じ産地からつくられる筆を、使う産地ごと・職人ごとに使い分け、独自の絵付けを施しています。これからも伊万里鍋島と三川内の焼き物は美しく、見る人の心を掴んで離さないはずです。そう、熊野の筆がある限り。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

一楽・二萩・三唐津 茶の湯で愛された唐津焼

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
肥前窯業圏において、歴史の中で茶の湯と深い関係を持ってきた焼き物があります。その名も「唐津焼」。かつて「一楽・二萩・三唐津」と格付けされ、茶の湯の中心で強く存在感を放っていた焼き物です。現在でも日本を代表する焼き物の一つとして名を馳せていますが、それは一時の衰退を乗り越える数々の努力や挑戦があってのこと。
本日は、そんな唐津焼の今までの歴史と、焼き物の枠に捉われない未来への挑戦をご紹介します。

茶の湯の中心に唐津あり

1592年の朝鮮出兵から数えて10,15年前の段階で、朝鮮から陶工が入ってきていた唐津には、すでに「古唐津」と呼ばれる焼き物が存在していました。朝鮮半島や南中国より陶技が伝えられ、全国に先駆けて釉薬(ゆうやく)のかかった焼き物がつくられていたのです。朝鮮陶工たちは日本初の「登り窯」と「蹴りろくろ」も伝え、波多氏の領地である岸岳の山にある窯でつくられた品質の高い唐津焼を、全国へと出荷していました。主に京都・大阪を中心とする西日本に広がり、東日本の「せともの」に対して「からつもの」と呼ばれるまでになっていたそうです。

その後豊臣秀吉の時代に、千利休により茶の湯が流行します。当時の茶席にも唐津の水指が用いられていたことがわかっており、茶の湯に欠かせない焼き物となっていました。「一楽・二萩・三唐津」と呼ばれ茶碗が格付けされていたことからもわかるように、唐津焼は茶の湯と切り離せない器となり、1615年までの慶長年間には最盛期を迎えます。ちなみに、「一楽・二萩・三唐津」という呼ばれ方が定着する以前には、「一井戸・二楽・三唐津」と呼ばれたそうで、唐津焼は時代を跨いで茶の湯の中で不動の地位を築いていたことが伺えます。強い主張を持たない「映り」の良さで特に茶道具として重用され、さらには一般雑器として、そして献上唐津と呼ばれる徳川家への献上品として、幅広く支持を受けていました。

27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。
27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。

こうして日本の陶器の礎をつくった唐津焼ですが、その後衰退の一途を辿ります。唐津の陶工が有田伊万里に流れていき、1616年に有田で磁器の生産がはじめられるタイミングを境に、肥前の焼き物は陶器から磁器へと推移していきます。陶器を生業としていた唐津焼は、徐々に肥前窯業圏での存在感を小さくしていってしまいました。その後の廃藩置県で藩の御用窯としての保護を失うことと合わせて、茶の湯を中心に栄えた唐津焼のかつての輝きは失われていきます。

十二代による陶技の復興

それでは現在のように名声を取り戻した、唐津焼の再興はどのようにして起こったのでしょうか。唐津焼の歴史を支えてきた中里家の、十四代中里太郎右衛門氏にお話を伺います。

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「唐津焼が再びかつての輝きを取り戻すのは、十二代中里太郎右衛門の尽力が大きかったと思います。古唐津の窯跡を発掘し、桃山~江戸時代初期の古唐津の技法を復活させることに成功したんです。元々「土味」と呼ばれていた粗くざっくりとした土の雰囲気、釉薬の流れの表現、深みのある色、その全てで素材に対する強い拘りを持つという唐津の本来の姿に回帰したのが良かったんですね」
藩の保護を失い衰退する中でアイデンティティを失いかけていた唐津焼を、十二代はかつて使用していた窯をつかいながら、昔ながらの古唐津のつくり方で本来の魅力を取り戻していきます。整いすぎない味わいが出せる蹴りろくろを用いた陶器の成形、従来は漏れ止めの役割しかなかった釉薬を用いた装飾、彩りの違う釉薬の意図的な使い分け、それら全ての手法の良さを見つめ直し、原点に立ち返りました。
「特に唐津焼は工程ごとの分業が主流となっていた肥前窯業圏の中で、全ての工程を一貫して同じ職人がつくるから、器により強く人間性を映すんですよ」と、十四代が教えてくれたように、伝統的な手法と十二代の個性が掛け合わされることで、唐津焼は再び唯一無二の存在となっていきます。

斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。

「その後を継いだ十三代である父は外国の技術を取り入れて、唐津焼のベースの上で新しい技法へとさらに挑戦を重ねていきました。魚の図案を多く取り入れたり、今までに無い切り口を唐津焼に付け加えていったんですよ」
そう言って見せてくれたスケッチブックには、たくさんのカラフルで美しい魚の図案が描かれていました。かつての唐津焼には見られなかった、独創的な絵柄です。伝統を守るだけではなく、積極的に、そして貪欲に進化させていく攻めの姿勢で、十三代は唐津焼の発展に大きく貢献しました。
こうして十二代で蘇った唐津焼のバトンは、十三代による新しいことへの挑戦というDNAとともに、十四代にしっかりと受け継がれていきます。

美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。
美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。

「過去をなぞるだけでは面白くないといつも考えますね。何かしら図案や形を新しく加えようとすると、力が湧いて良いものができると思っています。だから父親を特別意識したこともないですし、とにかく自分が良いと思う新しい挑戦を続けてきました」と、十四代は話します。炭化させて焼く方法も唐津の歴史には無かったことですし、白と黒の掻き落とし、青や緑の色使いも、今までにない新しい試みでした。それだけではなく、十四代は唐津焼の未来を見据え、従来の固定観念に捉われない新しい挑戦に次々と取り組んでいきます。

十四代が描く唐津の未来

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20年前は50窯元しかなかった唐津焼ですが、今では街をあげての唐津焼の魅力を発信する取り組みもあり、70窯元まで増えてきています。2012年からは、有田の陶器市と一緒に唐津やきもん祭りを5年連続で開催し、唐津に年に10万人もの観光客を集めることに成功。秋には窯元が点在する唐津を回遊させるために窯元ツーリズムもはじめ、産地全体を盛り上げる活動に取り組んでいます。
「唐津焼それ自体だけではなくて、他の何かと組み合わせた発信を意識してますね。例えば、2016年に唐津で行われたDINING OUT では、パリで最も注目されている渥美創太シェフの地域食材を使った料理に、このために作った器を合わせて提供するということをしました。唐津焼からは5つの窯元が参加したんです」
有田焼創業400年を記念して開かれたこの催しは、有田焼の歴史とその源流でもある唐津焼に対し「敬意」を持って見つめるRespectと、未来に向けて400年を捉え直すというRe(改めて)Spect(視点を持って見る)という意味を込めた「DO Re-Spect」をテーマに開催され、大きな話題を集めることに成功しました。

十四代の勢いは、それだけでは止まりません。「それに、唐津出身の篠笛(しのぶえ)奏者の佐藤和哉さんの演奏と、器の展示とトークイベントを合わせた催しもやりました。パリではお酒と合わせてやってみたんですが、これがとても反響が良くて。実は来年はバチカンでやりたいと思っているんですよ」と、大きな夢を持って唐津焼を、焼き物だけの枠にとらわれずに広めていく十四代。
「焼き物をつくるような気持ちで心を込めて唐津の街をつくりたい」と、十四代は考えています。4,5年後には唐津に古唐津を中心とした美術館をつくり、アジアに発信をしていく文化の交流の場所にするという計画があるそうです。日本だけではなく、海外進出も見据えて挑戦を続けていきます。

最後に、新しい挑戦へと十四代を突き動かすのは、どのような想いからなのか、伺ってみました。
「物をつくるうちに、物は表面に見えるだけの価値ではなく、中から出てくる価値だと自然と理解することができました。精進する気持ちで作陶することで、自然に即した在り方、生き方が一番良いと感じるようになったんです。それで、唐津の見える部分ではなくて中にある価値を、皆さんに興味を持ってもらえる形で広げて伝えていきたいと思ってます」
襲名した当初からの想いである、作陶だけに囚われない唐津焼を通した世界との結びつきを実践しています。
「それに、こういう活動をはじめてから、もうワクワクして仕方がないんですよ」と、十四代はキラキラとした目で最後にそう話してくれました。
唐津焼は、茶の湯の席を飛び出し、世界との結びつきを少しずつ増やしながら、唐津焼の伝統を守り、そして新しい唐津焼の歴史をつくっています。十四代がけん引する、茶の湯や作陶や日本国内といったあらゆる枠を打ち破るスケールの大きい挑戦から、今後も目が離せません。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

わたしの一皿 鹿児島のうつわ

はじめまして。みんげい おくむらの奥村忍です。webで手仕事の生活道具を販売しています。食べるのが大好きだという話がどこからか伝わり、こちらで毎月食と工芸の話をさせていただきます。どうぞよろしくおねがいします。

「家にもどったらなにを食べようかなぁ」。 買付けの旅からもどると、体がやさしい味をほしがる。仕事柄、旅、また旅。僕は手仕事の生活道具を国内外各地で買付け、webで販売しています。1泊の国内旅もあれば2週間を超える海外の旅も。旅がつづくとすなわち外食つづき。さらに酒も好きで、仕事が終われば毎夜あちこち飲み歩くもんだから、胃腸はぐったりおつかれさま。そんなわけで、帰ったらなるべく家でおだやかなごはんを。

旅からのもどりに、ぼんやり献立を考える。根っから食いしん坊なのでこれがたまらなくたのしい。ぐったりの胃腸がよろこんでまた踊りだすようなごはんは何だろう。僕は肉よりも魚。洋食より和食派。魚をさばいて料理するのが好きなので、家で魚料理は僕の役割。魚で和食なら、お刺身・煮付け・焼きもの・蒸しもの・揚げもの…。さてどうするか。

昔から住む千葉の船橋には手ごろな大きさの市場があって、プロの料理人たちがあらかた買いものを終えた朝遅めには、僕らもゆっくり買いものができる。場内には仲卸業者が数十軒ひしめき合っていて、それぞれ個性がある。通っていると素人ながらに、あの魚はここ、貝はここ、迷ったらここで旬のものと食べ方を教えてもらって、なんて使い方がわかってきて、生意気気分がここちよい。

よし、今日は煮魚でいこう。冬は湯気が立ちのぼるごはんがうれしい。炊きたての米とみそ汁、そしておつけものでもあれば立派なごはん。今日の魚は房総産の小ぶりな金目鯛。金目鯛は分厚い切り身もよいが、こんなサイズのものを丸一匹食べるのもなかなかぜいたくだ。

煮魚は煮すぎないように、ほどほど味をまとった身に煮汁をひたして食べるぐらいで。魚にどっしり色と味がしみるほど煮てしまうとせっかくの身がガチガチボソボソで台無しです。ちなみに今日の煮汁はこってり目。煮ているそばから思わず日本酒一杯やりたくなる。シメシメ、胃腸も回復のきざし。

そうそう、大切なこと。合わせるうつわをきめなくちゃ。おいしさは見た目にもあるからここは大事。魚の大きさや色、仕上がりをイメージしながら。各地のうつわを売ってるもんで、この辺はお手の物といえばお手の物だけど、思い通りにバチっとハマるとやっぱりうれしいもんです。

今日えらんだうつわは南国鹿児島から。沖縄に学び、ふるさとでうつわづくりをする女性陶工、佐々木かおりさんのもの。地元の粘土や、天然素材を使った釉薬でつくられる「鹿児島のうつわ」。どっしりしながらやわらかい、そして少し男前なたたずまい。窯と工房は集落からちょっとの里山の中で、そこは彼女のお父さんの牛小屋の牛たちと、背の高い木々にかこまれたおだやかな空間(牛は鳴くけれど)。食べざかりのわんぱく二児の母も、この工房にいる時だけはひとりの陶工。「黒薩摩」とよばれてきた鹿児島のうつわの伝統を想いながらも、自分たちの暮らしに添ううつわづくり。釉薬をかけなければ、鉄分が多いこの土地の粘土は焼き上がりが黒い。皿といえば白?いや、黒の効いた皿もおもしろい。やわらかく、あたたかみがある佐々木さんの黒にここのところワクワクさせられっぱなしなんです。

さて、寒い時期だから、お湯で一度あたためたこのうつわに魚を盛りつけたら、湯気が立ちのぼっているうちに食べ始めたい。しかし、昨今商売柄もあって、Instagram用に写真を撮るのだ。なんて殺生。食べたい気持ちと撮りたい気持ちのせめぎ合い。それにしても、このうつわはやっぱりこの魚にバッチリじゃないか。せめて2、3枚ほどでささっと写真が撮れたら、ほら急げ。ひと呼吸して心をしずめて。いただきまーす!

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奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

百聞は一見にしかず、産業観光が切り拓く工芸産地の未来

こんにちは。さんち編集長の中川淳です。
ここ5年10年「日本のものづくり」が大きく見直されています。ローカルを切り口にした雑誌やライフスタイル誌はもちろんのこと、一般女性ファッション誌でも工芸や民藝という言葉を見かけます。もしかしたらある種のブームと言っても良いかもしれません。しかし実態はその印象とは大きく異なります。伝統工芸の産地出荷額は90年代初頭のピーク時から比べると1/4にまで減少しており、働く人も減少し高齢化の問題を抱え、絶滅の危機にあると言っても過言ではありません。

そんな中、高岡の能作や波佐見のマルヒロなど躍進を遂げるメーカーも少数ながらあります。しかし1社だけの躍進では産地が存続できるかどうかはわかりません。なぜなら産地の多くは分業制でできているからです。分業である以上、ものづくりの全工程を支えるすべてのメーカーが元気にならなければ産地は成立しませんが、苦戦が続いています。そんな中で可能性を感じるのが「産業観光」です。

スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」
スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」

そもそも工芸は「ややこしい」ものです。海外で大量生産された同じようなものに比べると価格は随分と高いですし、一見しただけではどこに手間暇をかけているのかも分かりません。なのでお店で売る時にはできるだけ、ものづくりの背景やその土地、メーカーの考え方などを説明し理解してもらおうと努力しています。しかしながら百聞は一見にしかず。ものづくりの現場を見てらうことに優るプレゼンテーションはありません。ものづくりの現場を見てもらうこと、それすなわち「産業観光」です。

産業観光というと2014年に世界遺産に登録された「富岡製糸場」が思い出されますが、富岡製糸場はあくまで「遺産」であり現在稼働しているものではありません。それに対して現在も稼働している工芸産地には動いているからこその面白さがあります。癖の強い職人さん、伝統的な技法と少し近代化されたプロセスの融合、工房にいる名物の猫、などなど。同じ焼きものの産地であってもすべての産地が違う顔をもっています。そこに行くことでしか感じることのできないその土地の空気。それを感じることこそが産業観光の醍醐味です。

以前さんちでも紹介した「燕三条 工場の祭典」(新潟県燕三条)などはまさに工芸産地を訪ねる、産業観光の先駆けです。燕三条にはパン切り庖丁の「庖丁工房タダフサ」や鎚起銅器の「玉川堂」など有名メーカーがありますが、2013年から始まった「燕三条 工場の祭典」の影響もあり、三条の鍛冶職人はここ数年フル稼働の状況が続いているといいます。まさに産業観光により産地全体に活気があふれている典型事例と言えます。

2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」

工芸産地における産業観光の流れは今後ますます加速していくでしょう。その他にも地方ではアートイベントも多発しています。これらの動きは「今おもしろいのは都心より地方である」ということの現れだと思います。
色んな産地に是非旅してみてください。ものづくりの現場を見て理解が深まるのはもちろんですが、そこにはあなただけの新しい発見が必ずあるはずです。

文:中川淳
写真: 菅井俊之・杉浦葉子

愛しの純喫茶 〜福岡編〜

こんにちは。さんち編集部の西木戸 弓佳です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか?私が選ぶのは、どんな地方にも必ずある老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。第3回目は、福岡人の胃袋を支える柳橋連合市場のすぐ傍にある老舗喫茶、ベニスです。

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少し重たいドアをぐいっと開けると、サイフォンをかき回す手を少し止め「お帰りなさい」と迎えてくれたマスター。黒ベストに蝶ネクタイの姿が、今日も素敵です。前日、すぐ傍にある「柳橋連合市場」で買い物をした帰りに休憩した喫茶「ベニス」。あまりの居心地の良さに、翌日もまたお邪魔してしまったのでした。

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喫茶ベニスは、これぞ純喫茶といったクラシカルな雰囲気。ヨーロッパ調の家具、入口のステンドグラス、落ち着いた色の照明、真っ赤な床、控えめにかかるクラシックな音楽・・・ここだけ、昭和のまま時代が止まっているかのよう。ピシッとしたマスターの格好も相まって、老舗ホテルのオーセンティックバーのような重みもあります。

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カウンター席にお邪魔し、早速「ナポリタン」を注文。なんというか、ベニスのTHE純喫茶ぶりに、ここはナポリタンを食べないと、と思ったのです。きっと小さい頃に食べた、あのスタンダードなナポリタンに違いない。ワクワクしながら待つ間、同じカウンターに座る常連さんとマスターの会話が耳に入ります。

「あの2人どげんなった?うまくいくとよかねー」と、常連さんの恋の行方を気にするマスター。なんでも最近、ひとりで来るお客さん同士の仲人をしたんだとか。なんと手厚い喫茶店・・・!マスターの人の良さに、お店が長く続いている理由も分かります。

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運ばれてきたナポリタンは、そうそう、これ!と言ってしまうような見事な仕上がり。ベーコン、ピーマン、玉ねぎ、マッシュルーム入りの漫画で描いたみたいなナポリタン。ふぅふぅしながら食べてみると麺がモッチモチで、ケチャップの味付けは程よい甘さの優しい味。食べながらついニヤけてしまいます。「大人になってもみんなナポリタンは好いとうねー」とマスターもニコニコ。小さい頃は食べ切れなかったナポリタンですが、ペロッと一皿完食しました。
すっかりノスタルジックな気分に「クリームソーダ!」と注文したくもなりますが、サイフォンでコポコポしているコーヒーのいい香りに惹かれ、やはりホットコーヒーを注文。出てきたコーヒーには、純喫茶らしく冷たい生クリームが添えられていました。もう、完璧です。

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ベニスの開店は、まだお店が位置する渡辺通りに路面電車が走っていた頃。今では老舗と呼ばれるホテルニューオータニ博多が出来る前から、ずっとこの場所でお店を続け、町の変化を見てきたのだそう。変化の多いこの町でずっと変わらないスタイルで続いているこのお店は、地元の方たちが心から安らげる憩いの場になっているようです。昨日の出来事、仕事のこと、ペットのこと、みなさんマスターと色々な話をして帰って行かれます。お店に来られるお客さんはみなさん、マスターと話すためにここに来ているのかもしれません。

「また帰ってこんねー」と、見送ってくれたマスター。福岡に戻ったら、また帰ろうと思う、居心地のいい喫茶店でした。

ベニス
福岡県福岡市中央区春吉1-1-2
092-731-3968

文・写真 : 西木戸弓佳