一楽・二萩・三唐津 茶の湯で愛された唐津焼

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
肥前窯業圏において、歴史の中で茶の湯と深い関係を持ってきた焼き物があります。その名も「唐津焼」。かつて「一楽・二萩・三唐津」と格付けされ、茶の湯の中心で強く存在感を放っていた焼き物です。現在でも日本を代表する焼き物の一つとして名を馳せていますが、それは一時の衰退を乗り越える数々の努力や挑戦があってのこと。
本日は、そんな唐津焼の今までの歴史と、焼き物の枠に捉われない未来への挑戦をご紹介します。

茶の湯の中心に唐津あり

1592年の朝鮮出兵から数えて10,15年前の段階で、朝鮮から陶工が入ってきていた唐津には、すでに「古唐津」と呼ばれる焼き物が存在していました。朝鮮半島や南中国より陶技が伝えられ、全国に先駆けて釉薬(ゆうやく)のかかった焼き物がつくられていたのです。朝鮮陶工たちは日本初の「登り窯」と「蹴りろくろ」も伝え、波多氏の領地である岸岳の山にある窯でつくられた品質の高い唐津焼を、全国へと出荷していました。主に京都・大阪を中心とする西日本に広がり、東日本の「せともの」に対して「からつもの」と呼ばれるまでになっていたそうです。

その後豊臣秀吉の時代に、千利休により茶の湯が流行します。当時の茶席にも唐津の水指が用いられていたことがわかっており、茶の湯に欠かせない焼き物となっていました。「一楽・二萩・三唐津」と呼ばれ茶碗が格付けされていたことからもわかるように、唐津焼は茶の湯と切り離せない器となり、1615年までの慶長年間には最盛期を迎えます。ちなみに、「一楽・二萩・三唐津」という呼ばれ方が定着する以前には、「一井戸・二楽・三唐津」と呼ばれたそうで、唐津焼は時代を跨いで茶の湯の中で不動の地位を築いていたことが伺えます。強い主張を持たない「映り」の良さで特に茶道具として重用され、さらには一般雑器として、そして献上唐津と呼ばれる徳川家への献上品として、幅広く支持を受けていました。

27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。
27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。

こうして日本の陶器の礎をつくった唐津焼ですが、その後衰退の一途を辿ります。唐津の陶工が有田伊万里に流れていき、1616年に有田で磁器の生産がはじめられるタイミングを境に、肥前の焼き物は陶器から磁器へと推移していきます。陶器を生業としていた唐津焼は、徐々に肥前窯業圏での存在感を小さくしていってしまいました。その後の廃藩置県で藩の御用窯としての保護を失うことと合わせて、茶の湯を中心に栄えた唐津焼のかつての輝きは失われていきます。

十二代による陶技の復興

それでは現在のように名声を取り戻した、唐津焼の再興はどのようにして起こったのでしょうか。唐津焼の歴史を支えてきた中里家の、十四代中里太郎右衛門氏にお話を伺います。

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「唐津焼が再びかつての輝きを取り戻すのは、十二代中里太郎右衛門の尽力が大きかったと思います。古唐津の窯跡を発掘し、桃山~江戸時代初期の古唐津の技法を復活させることに成功したんです。元々「土味」と呼ばれていた粗くざっくりとした土の雰囲気、釉薬の流れの表現、深みのある色、その全てで素材に対する強い拘りを持つという唐津の本来の姿に回帰したのが良かったんですね」
藩の保護を失い衰退する中でアイデンティティを失いかけていた唐津焼を、十二代はかつて使用していた窯をつかいながら、昔ながらの古唐津のつくり方で本来の魅力を取り戻していきます。整いすぎない味わいが出せる蹴りろくろを用いた陶器の成形、従来は漏れ止めの役割しかなかった釉薬を用いた装飾、彩りの違う釉薬の意図的な使い分け、それら全ての手法の良さを見つめ直し、原点に立ち返りました。
「特に唐津焼は工程ごとの分業が主流となっていた肥前窯業圏の中で、全ての工程を一貫して同じ職人がつくるから、器により強く人間性を映すんですよ」と、十四代が教えてくれたように、伝統的な手法と十二代の個性が掛け合わされることで、唐津焼は再び唯一無二の存在となっていきます。

斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。

「その後を継いだ十三代である父は外国の技術を取り入れて、唐津焼のベースの上で新しい技法へとさらに挑戦を重ねていきました。魚の図案を多く取り入れたり、今までに無い切り口を唐津焼に付け加えていったんですよ」
そう言って見せてくれたスケッチブックには、たくさんのカラフルで美しい魚の図案が描かれていました。かつての唐津焼には見られなかった、独創的な絵柄です。伝統を守るだけではなく、積極的に、そして貪欲に進化させていく攻めの姿勢で、十三代は唐津焼の発展に大きく貢献しました。
こうして十二代で蘇った唐津焼のバトンは、十三代による新しいことへの挑戦というDNAとともに、十四代にしっかりと受け継がれていきます。

美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。
美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。

「過去をなぞるだけでは面白くないといつも考えますね。何かしら図案や形を新しく加えようとすると、力が湧いて良いものができると思っています。だから父親を特別意識したこともないですし、とにかく自分が良いと思う新しい挑戦を続けてきました」と、十四代は話します。炭化させて焼く方法も唐津の歴史には無かったことですし、白と黒の掻き落とし、青や緑の色使いも、今までにない新しい試みでした。それだけではなく、十四代は唐津焼の未来を見据え、従来の固定観念に捉われない新しい挑戦に次々と取り組んでいきます。

十四代が描く唐津の未来

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20年前は50窯元しかなかった唐津焼ですが、今では街をあげての唐津焼の魅力を発信する取り組みもあり、70窯元まで増えてきています。2012年からは、有田の陶器市と一緒に唐津やきもん祭りを5年連続で開催し、唐津に年に10万人もの観光客を集めることに成功。秋には窯元が点在する唐津を回遊させるために窯元ツーリズムもはじめ、産地全体を盛り上げる活動に取り組んでいます。
「唐津焼それ自体だけではなくて、他の何かと組み合わせた発信を意識してますね。例えば、2016年に唐津で行われたDINING OUT では、パリで最も注目されている渥美創太シェフの地域食材を使った料理に、このために作った器を合わせて提供するということをしました。唐津焼からは5つの窯元が参加したんです」
有田焼創業400年を記念して開かれたこの催しは、有田焼の歴史とその源流でもある唐津焼に対し「敬意」を持って見つめるRespectと、未来に向けて400年を捉え直すというRe(改めて)Spect(視点を持って見る)という意味を込めた「DO Re-Spect」をテーマに開催され、大きな話題を集めることに成功しました。

十四代の勢いは、それだけでは止まりません。「それに、唐津出身の篠笛(しのぶえ)奏者の佐藤和哉さんの演奏と、器の展示とトークイベントを合わせた催しもやりました。パリではお酒と合わせてやってみたんですが、これがとても反響が良くて。実は来年はバチカンでやりたいと思っているんですよ」と、大きな夢を持って唐津焼を、焼き物だけの枠にとらわれずに広めていく十四代。
「焼き物をつくるような気持ちで心を込めて唐津の街をつくりたい」と、十四代は考えています。4,5年後には唐津に古唐津を中心とした美術館をつくり、アジアに発信をしていく文化の交流の場所にするという計画があるそうです。日本だけではなく、海外進出も見据えて挑戦を続けていきます。

最後に、新しい挑戦へと十四代を突き動かすのは、どのような想いからなのか、伺ってみました。
「物をつくるうちに、物は表面に見えるだけの価値ではなく、中から出てくる価値だと自然と理解することができました。精進する気持ちで作陶することで、自然に即した在り方、生き方が一番良いと感じるようになったんです。それで、唐津の見える部分ではなくて中にある価値を、皆さんに興味を持ってもらえる形で広げて伝えていきたいと思ってます」
襲名した当初からの想いである、作陶だけに囚われない唐津焼を通した世界との結びつきを実践しています。
「それに、こういう活動をはじめてから、もうワクワクして仕方がないんですよ」と、十四代はキラキラとした目で最後にそう話してくれました。
唐津焼は、茶の湯の席を飛び出し、世界との結びつきを少しずつ増やしながら、唐津焼の伝統を守り、そして新しい唐津焼の歴史をつくっています。十四代がけん引する、茶の湯や作陶や日本国内といったあらゆる枠を打ち破るスケールの大きい挑戦から、今後も目が離せません。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

わたしの一皿 鹿児島のうつわ

はじめまして。みんげい おくむらの奥村忍です。webで手仕事の生活道具を販売しています。食べるのが大好きだという話がどこからか伝わり、こちらで毎月食と工芸の話をさせていただきます。どうぞよろしくおねがいします。

「家にもどったらなにを食べようかなぁ」。 買付けの旅からもどると、体がやさしい味をほしがる。仕事柄、旅、また旅。僕は手仕事の生活道具を国内外各地で買付け、webで販売しています。1泊の国内旅もあれば2週間を超える海外の旅も。旅がつづくとすなわち外食つづき。さらに酒も好きで、仕事が終われば毎夜あちこち飲み歩くもんだから、胃腸はぐったりおつかれさま。そんなわけで、帰ったらなるべく家でおだやかなごはんを。

旅からのもどりに、ぼんやり献立を考える。根っから食いしん坊なのでこれがたまらなくたのしい。ぐったりの胃腸がよろこんでまた踊りだすようなごはんは何だろう。僕は肉よりも魚。洋食より和食派。魚をさばいて料理するのが好きなので、家で魚料理は僕の役割。魚で和食なら、お刺身・煮付け・焼きもの・蒸しもの・揚げもの…。さてどうするか。

昔から住む千葉の船橋には手ごろな大きさの市場があって、プロの料理人たちがあらかた買いものを終えた朝遅めには、僕らもゆっくり買いものができる。場内には仲卸業者が数十軒ひしめき合っていて、それぞれ個性がある。通っていると素人ながらに、あの魚はここ、貝はここ、迷ったらここで旬のものと食べ方を教えてもらって、なんて使い方がわかってきて、生意気気分がここちよい。

よし、今日は煮魚でいこう。冬は湯気が立ちのぼるごはんがうれしい。炊きたての米とみそ汁、そしておつけものでもあれば立派なごはん。今日の魚は房総産の小ぶりな金目鯛。金目鯛は分厚い切り身もよいが、こんなサイズのものを丸一匹食べるのもなかなかぜいたくだ。

煮魚は煮すぎないように、ほどほど味をまとった身に煮汁をひたして食べるぐらいで。魚にどっしり色と味がしみるほど煮てしまうとせっかくの身がガチガチボソボソで台無しです。ちなみに今日の煮汁はこってり目。煮ているそばから思わず日本酒一杯やりたくなる。シメシメ、胃腸も回復のきざし。

そうそう、大切なこと。合わせるうつわをきめなくちゃ。おいしさは見た目にもあるからここは大事。魚の大きさや色、仕上がりをイメージしながら。各地のうつわを売ってるもんで、この辺はお手の物といえばお手の物だけど、思い通りにバチっとハマるとやっぱりうれしいもんです。

今日えらんだうつわは南国鹿児島から。沖縄に学び、ふるさとでうつわづくりをする女性陶工、佐々木かおりさんのもの。地元の粘土や、天然素材を使った釉薬でつくられる「鹿児島のうつわ」。どっしりしながらやわらかい、そして少し男前なたたずまい。窯と工房は集落からちょっとの里山の中で、そこは彼女のお父さんの牛小屋の牛たちと、背の高い木々にかこまれたおだやかな空間(牛は鳴くけれど)。食べざかりのわんぱく二児の母も、この工房にいる時だけはひとりの陶工。「黒薩摩」とよばれてきた鹿児島のうつわの伝統を想いながらも、自分たちの暮らしに添ううつわづくり。釉薬をかけなければ、鉄分が多いこの土地の粘土は焼き上がりが黒い。皿といえば白?いや、黒の効いた皿もおもしろい。やわらかく、あたたかみがある佐々木さんの黒にここのところワクワクさせられっぱなしなんです。

さて、寒い時期だから、お湯で一度あたためたこのうつわに魚を盛りつけたら、湯気が立ちのぼっているうちに食べ始めたい。しかし、昨今商売柄もあって、Instagram用に写真を撮るのだ。なんて殺生。食べたい気持ちと撮りたい気持ちのせめぎ合い。それにしても、このうつわはやっぱりこの魚にバッチリじゃないか。せめて2、3枚ほどでささっと写真が撮れたら、ほら急げ。ひと呼吸して心をしずめて。いただきまーす!

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奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

百聞は一見にしかず、産業観光が切り拓く工芸産地の未来

こんにちは。さんち編集長の中川淳です。
ここ5年10年「日本のものづくり」が大きく見直されています。ローカルを切り口にした雑誌やライフスタイル誌はもちろんのこと、一般女性ファッション誌でも工芸や民藝という言葉を見かけます。もしかしたらある種のブームと言っても良いかもしれません。しかし実態はその印象とは大きく異なります。伝統工芸の産地出荷額は90年代初頭のピーク時から比べると1/4にまで減少しており、働く人も減少し高齢化の問題を抱え、絶滅の危機にあると言っても過言ではありません。

そんな中、高岡の能作や波佐見のマルヒロなど躍進を遂げるメーカーも少数ながらあります。しかし1社だけの躍進では産地が存続できるかどうかはわかりません。なぜなら産地の多くは分業制でできているからです。分業である以上、ものづくりの全工程を支えるすべてのメーカーが元気にならなければ産地は成立しませんが、苦戦が続いています。そんな中で可能性を感じるのが「産業観光」です。

スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」
スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」

そもそも工芸は「ややこしい」ものです。海外で大量生産された同じようなものに比べると価格は随分と高いですし、一見しただけではどこに手間暇をかけているのかも分かりません。なのでお店で売る時にはできるだけ、ものづくりの背景やその土地、メーカーの考え方などを説明し理解してもらおうと努力しています。しかしながら百聞は一見にしかず。ものづくりの現場を見てらうことに優るプレゼンテーションはありません。ものづくりの現場を見てもらうこと、それすなわち「産業観光」です。

産業観光というと2014年に世界遺産に登録された「富岡製糸場」が思い出されますが、富岡製糸場はあくまで「遺産」であり現在稼働しているものではありません。それに対して現在も稼働している工芸産地には動いているからこその面白さがあります。癖の強い職人さん、伝統的な技法と少し近代化されたプロセスの融合、工房にいる名物の猫、などなど。同じ焼きものの産地であってもすべての産地が違う顔をもっています。そこに行くことでしか感じることのできないその土地の空気。それを感じることこそが産業観光の醍醐味です。

以前さんちでも紹介した「燕三条 工場の祭典」(新潟県燕三条)などはまさに工芸産地を訪ねる、産業観光の先駆けです。燕三条にはパン切り庖丁の「庖丁工房タダフサ」や鎚起銅器の「玉川堂」など有名メーカーがありますが、2013年から始まった「燕三条 工場の祭典」の影響もあり、三条の鍛冶職人はここ数年フル稼働の状況が続いているといいます。まさに産業観光により産地全体に活気があふれている典型事例と言えます。

2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」

工芸産地における産業観光の流れは今後ますます加速していくでしょう。その他にも地方ではアートイベントも多発しています。これらの動きは「今おもしろいのは都心より地方である」ということの現れだと思います。
色んな産地に是非旅してみてください。ものづくりの現場を見て理解が深まるのはもちろんですが、そこにはあなただけの新しい発見が必ずあるはずです。

文:中川淳
写真: 菅井俊之・杉浦葉子

愛しの純喫茶 〜福岡編〜

こんにちは。さんち編集部の西木戸 弓佳です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか?私が選ぶのは、どんな地方にも必ずある老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。第3回目は、福岡人の胃袋を支える柳橋連合市場のすぐ傍にある老舗喫茶、ベニスです。

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少し重たいドアをぐいっと開けると、サイフォンをかき回す手を少し止め「お帰りなさい」と迎えてくれたマスター。黒ベストに蝶ネクタイの姿が、今日も素敵です。前日、すぐ傍にある「柳橋連合市場」で買い物をした帰りに休憩した喫茶「ベニス」。あまりの居心地の良さに、翌日もまたお邪魔してしまったのでした。

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喫茶ベニスは、これぞ純喫茶といったクラシカルな雰囲気。ヨーロッパ調の家具、入口のステンドグラス、落ち着いた色の照明、真っ赤な床、控えめにかかるクラシックな音楽・・・ここだけ、昭和のまま時代が止まっているかのよう。ピシッとしたマスターの格好も相まって、老舗ホテルのオーセンティックバーのような重みもあります。

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カウンター席にお邪魔し、早速「ナポリタン」を注文。なんというか、ベニスのTHE純喫茶ぶりに、ここはナポリタンを食べないと、と思ったのです。きっと小さい頃に食べた、あのスタンダードなナポリタンに違いない。ワクワクしながら待つ間、同じカウンターに座る常連さんとマスターの会話が耳に入ります。

「あの2人どげんなった?うまくいくとよかねー」と、常連さんの恋の行方を気にするマスター。なんでも最近、ひとりで来るお客さん同士の仲人をしたんだとか。なんと手厚い喫茶店・・・!マスターの人の良さに、お店が長く続いている理由も分かります。

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運ばれてきたナポリタンは、そうそう、これ!と言ってしまうような見事な仕上がり。ベーコン、ピーマン、玉ねぎ、マッシュルーム入りの漫画で描いたみたいなナポリタン。ふぅふぅしながら食べてみると麺がモッチモチで、ケチャップの味付けは程よい甘さの優しい味。食べながらついニヤけてしまいます。「大人になってもみんなナポリタンは好いとうねー」とマスターもニコニコ。小さい頃は食べ切れなかったナポリタンですが、ペロッと一皿完食しました。
すっかりノスタルジックな気分に「クリームソーダ!」と注文したくもなりますが、サイフォンでコポコポしているコーヒーのいい香りに惹かれ、やはりホットコーヒーを注文。出てきたコーヒーには、純喫茶らしく冷たい生クリームが添えられていました。もう、完璧です。

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ベニスの開店は、まだお店が位置する渡辺通りに路面電車が走っていた頃。今では老舗と呼ばれるホテルニューオータニ博多が出来る前から、ずっとこの場所でお店を続け、町の変化を見てきたのだそう。変化の多いこの町でずっと変わらないスタイルで続いているこのお店は、地元の方たちが心から安らげる憩いの場になっているようです。昨日の出来事、仕事のこと、ペットのこと、みなさんマスターと色々な話をして帰って行かれます。お店に来られるお客さんはみなさん、マスターと話すためにここに来ているのかもしれません。

「また帰ってこんねー」と、見送ってくれたマスター。福岡に戻ったら、また帰ろうと思う、居心地のいい喫茶店でした。

ベニス
福岡県福岡市中央区春吉1-1-2
092-731-3968

文・写真 : 西木戸弓佳

襲名ってなんだろう?

こんにちは、さんち編集長の中川淳です。
編集長として記事を書くのは初めてなので、はじめましてですね。

私事ではありますが、昨年11月4日に十三代「中川政七(なかがわまさしち)」の名跡(みょうせき)を襲名しました。襲名というと歌舞伎や落語の世界を思い浮かべますが、近年工芸界でも襲名話をちらほらと耳にします。有名どころでいきますと、2014年に十五代 酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)さんが襲名されましたし(お父さまの十四代 酒井田柿右衛門さんは人間国宝)、仲間うちでも昨年遠州七窯(えんしゅうしちよう)のひとつ朝日焼で十六世 松林豊斎を松林佑典さんが襲名されました。
もしかして工芸界は今、襲名ブームなのかも!?

みなさん、襲名ってどういう意味かご存じでしょうか?
大辞林によると、「襲名とは先代の名跡を継ぐこと」とあります。また、「名跡とは跡を継ぐべき家名」ともあります。うーん、なんだかわかったようなそのままのような。
漢字を見ると、襲う?となんだか物騒な感じがしますが、ここでの「襲」は「受け継ぐ」という意味で使われています。また「襲」には「かさね」と読み「重ねて着る」という意味もあります。字の成り立ちにおいても「襲う」という意味は後に加わったようです。

歌舞伎など興行界における襲名にはプロモーション的な意味合いもあり、営業不振を打開するために襲名し、襲名披露公演を大々的に行います。そのためか襲名すべき名跡も数多くあり出世魚のように一人の方が何度もより重い名跡を襲名していくことになります。名は体を表すと言いますが、重い名跡を襲名することで意識も高まり、芸もより磨かれるのかもしれませんね。

一方で、長く続く家であっても必ずしも襲名するわけではありません。ちょうど今京都国立近代美術館で「茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術」という展覧会が開かれていますが、樂家は現当主で十五代ですが皆それぞれ名前が違います。また襲名をする家であっても襲名のタイミングはいろいろです。先代が亡くなったタイミングで襲名する家もあれば、先代の引退をもって襲名する家もあります。

中川家では実は先代、先々代と襲名していませんでした。なので中川政七の名跡は60年ぶり、襲名という意味では100年ぶりでした。故に襲名式のやり方も分からずいろいろな方にお知恵をいただきながら作っていきました。当日は300名近い方々に見守られながら、片山正通さん・水野学さんに後見人を務めていただき口上を述べ無事に襲名させていただきました。

実際に襲名してみて感じることは「名前」というのは大きなものだなということです。名前が変わるだけで人から持たれるイメージも自分自身の意識も変わった気がします。十代政七さんと会ったことはもちろんありませんが、十代が奈良晒の存続に尽力したことと私のやっている工芸の再生事業とは重なるところもあり、それももしかしたら偶然ではないのかもしれません。

「さんち」というメディアはまだ立ち上がって3ヶ月のよちよち歩きではありますが、時を重ね、代を重ね、漆のように強度を増していきたいなと思います。


文 : 中川淳
写真 : 井原悠一

ここにしかない一点ものを求めて、プロダクトマニアが訪れる店

新年の書きはじめ、さんちを見てくださってるみなさんに今年もたくさんいいことがありますよう、縁起ものの話から。

お正月、帰省を兼ねて訪れた地元、福岡。「あついお店がある」と友人が教えてくれたのは、“郷土玩具”の専門店でした。

器や帽子、時計など、世の中にはいろいろな専門店がありますが、まさか郷土玩具の専門店とは。これは覗かずにはいられません。新年の縁起ものを求め、福岡 今泉にある山響屋(やまびこや)さんへお邪魔しました。

※ “郷土玩具”とは、昔から日本各地で作られてきた“郷土”の文化に根ざした“玩具”。だるま、木彫りの熊、こけし等も郷土玩具のひとつ。その土地の風土・文化に密接が反映されています。

アパートの一室にお店を構える山響屋さん
アパートの一室にお店を構える山響屋さん

想像を裏切る、にぎやかな空間

「郷土玩具屋」と聞き、町の骨董品屋さんのようなイメージで訪れた山響屋さん。いい意味で、裏切られました。

福岡の郷土玩具専門店 山響屋

宝石箱をひっくり返したみたいな、にぎやかで楽しい空間。九州の郷土玩具を中心に扱っているというだけあって、色鮮やかな郷土玩具がぎっしりと並びます。(九州地方の郷土玩具は、彩度が高く、色味の強いものが多いのです)

楽しい空間にあがるばかりのテンションを抑えつつ、迎えて下さった店主の瀬川さんにお話を伺います。

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 瀬川 信太郎(せがわ しんたろう)さん
 山響屋店主 / だるま絵付師
 1984年生まれ 長崎県島原市出身
 全日本だるま研究会 会員

※ご本人は、かなり独特の九州訛りで話されますが以下訳してお伝えします

日本でも稀な“郷土玩具の専門店”

2015年の春にオープンしたという山響屋さん。最近、ようやく雑誌やネットでも特集されるようになった郷土玩具ですが、まだまだマイナーな領域であるのも事実。なぜまた郷土玩具のお店を開こうと思ったのか、始めるまでの経緯を伺いました。

全国各地から集められた酉たちが出迎えてくれました
来年、酉年ということもあって、全国各地から集められた酉たちが出迎えてくれました

山響屋をはじめる前は、大阪の雑貨屋で働いていた瀬川さん。各店のディスプレイ監修や、バイヤーをしていたそうです。

「自分のお店を出そうとは決めていたけど、特にはじめから郷土玩具に絞って考えていたわけではないです。元々、木彫りのお面とか食器とか人の手で作られたものが好きだったので、民芸品かなぁというぐらい。

独立を決めていた30歳を目前にした頃にちょうど、だるま絵師としての活動も本格的にはじめて。その流れもあって、九州の郷土玩具を扱うことにしました」

瀬川さんはなんと、だるまの絵師でもありました。趣味で描いていた絵が注目され、大阪を拠点に縁起アートを手がける「うたげや」にだるまの絵師として参画。三原のだるま市への出店や、大阪での個展を経て福岡に戻り、山響屋を開店したのだとか。

「はじめは郷土玩具のことはほとんど知りませんでした。でも、取り扱っていくうちに郷土玩具が作られた土地や人、文化の魅力にどんどん惹きつけられてハマっていきました」

絵師としての活動も続けながら、九州を中心に日本全国を周りながらバイイングをしています。

店内には絵付け中のだるまも。オリジナルだるまも作ってもらえるのだそう。
店内には絵付け中のだるまも。オリジナルだるまも作ってもらえるのだそう。

次に繋げていく、もの選びを

バイイングの基準を聞いてみると、素敵な答えが返ってきました。

「今は作っていない昔のものじゃなくて、作り続けられるものだけを扱うようにしてます。今、郷土玩具を作ってくれている方たちが、今後も“仕事”として続けていけるように、次に繋げていくことが俺の役割だと思っているので」

「博多男だるま」と「博多女だるま」の張子(はりこ)。勇ましい顔立ちの男だるまも、ほっぺのチークに ほっこりです。
〈 博多男だるま 〉と〈 博多女だるま 〉の張子(はりこ)。勇ましい顔立ちの男だるまも、ほっぺのチークにほっこり
新しく作りはじめられた創作だるま。覗き込んでいる表情がかわいいです。/福岡県・弥稚子
新しく作りはじめられた創作だるま。覗き込んでいる表情がかわいいです / 福岡県・弥稚子

廃盤の中から目利きが選ぶ、次のヒット商品

駆り立てられる物欲に困るほど、扱ってる商品はとにかくかわいい。また「こんなものあったんだ!」という珍しいものが多く目につきます。

他では見ない郷土玩具、どうやって集めているのか?と聞くと「とにかく現場に行って、作り手と話してる」と教えてくれました。

「作り手と話しながら、作られてるものを見せてもらいます。すぐには出てこないんですけど、話し込んでると片隅の方にね、面白いものが埃を被ってひっそりと佇んでいるんですよ。

それ欲しいって言うとだいたい、『もう、型がどこにある分からない』とか言われるんですけど、そういうものこそ“その土地の匂い”がしてすごく良かったりするんです」

色使いが素敵な土人形。縁起もの × 縁起ものという贅沢な組み合わせの〈 福助乗り招き猫 〉と〈 福助乗り達磨〉/福島県会津若松
色使いが素敵な土人形。縁起もの × 縁起ものという贅沢な組み合わせの〈 福助乗り招き猫 〉と〈 福助乗り達磨〉/福島県会津若松
眉とほっぺのガジガジは、麻の生地でできてるという〈 松本だるま 〉/長野県松本
眉とほっぺのガジガジは、麻の生地でできてるという〈 松本だるま 〉/長野県松本

古いカタログに載っている廃番商品を、もう一度作ってもらうようお願いすることもしばしば。最初は断られることも多いそうですが、何度も通って再生産をお願いするのだとか。

「世の中に見向きされていないものを見つけて、紹介するのが楽しいんです」

最近も、長年作られてなかった津屋崎人形の〈 ごん太 〉をようやく作ってもらえたのだそう。「今では扱う店舗も増えて、いつの間にか人気ものです。『生産が間に合わん』って、手に入れるのが大変になりました」と、笑います。

オリジナルのものも作ってもらうこともあるのか尋ねてみると「それはしてない」との答えが。

「わざわざ新しいもの作らなくても、いいものは絶対にある。作り手が作れるものの中から、新しく主力商品になりそうなものを探し出すのが、大事なことだと思うんです」と話します。

その為、工房に足を運び、何があるかどんな商品を作ってるのかをひとつひとつ見るのだそう。バイヤーとして、これまで国内外でたくさんのプロダクトを見てきたという瀬川さん。いいものを探し出す審美眼が鍛えられているのを感じます。

子どもと楽しく遊んでいる姿だという「ナンメンキャンキャン」/長崎県長崎市
子どもと楽しく遊んでいる姿だという〈 ナンメンキャンキャン 〉/長崎県長崎市

長い時間をかけて、研ぎ澄まされてきたもの

郷土玩具ってこんなに人気があったのかと驚くほど、取材中も入れ替わり立ち替わりでお客さんがやってきます。いつもどんな方が買っていかれるのか聞くと、デザインやものづくりに関わる方が多いとか。

「郷土玩具って、高級工芸や美術品じゃなくってあくまで“おもちゃ”だから、何の制約もなく自由に変わってもいい、しなやかさを持ってます。だから、デザインも、どんどん磨かれて洗練されてきてるんです。

何代にも渡って支持されて残ってきたものはやっぱり、パッとでてきたプロダクツには負けんかっこよさがあります。何でこういう色か形か、ひとつひとつに文化があるし、すごく根が深い。

うちのお客さんは、感覚的にでもそういう背景や造形の奥深さに惹かれてるんじゃないかな。何というか、独自のセンスを持ってる人が多いように思います」

流行りや人気など、外から借りてきたような価値観じゃないものを軸に物選びをする人たちが、自分が好きなものを探してここにやってくるのかなと感じました。

「逆立ち猿」/広島県宮島
ユニークな絵付けの〈 逆立ち猿 〉は、頭が動きます /広島県宮島

郷土玩具店の、これから

これからどんなことをしていきたいか、郷土玩具店のこれからを尋ねました。

「今は、廃絶してしまった福岡の郷土玩具を復活させるプロジェクトを進めています。どうしても無くしたくないんだけど、一人しかいなかった作り手の方が辞めちゃったので、それなら自分たちで復活させようと。

地元のメーカーさんと作り手の息子さん、町の行政の方に協力してもらって制作を進めているところです」

今年の春に発売予定のその郷土玩具は元々、地域の祭礼で売られていた町のシンボルのような存在だったのだそう。この再生プロジェクトは、ものの復刻という域を超えて地域復興へも繋がっているのかもしれません。

「ひとりの力は限られてるけど、ひとりが動けばどうにかなることは意外と多いです。郷土玩具の世界は特にそんなに大きいものでもないし。そしてやっぱり地元にいる人が、思いを持って動くべきだと思います」

九州の郷土玩具は、瀬川さんがいる限り安泰な気すらしてきます。

買い物バックに、お正月用のイラストを描いてくださいました。
買い物バックに、お正月用のイラストを描いてくださいました

「あとは将来、本を出したいです。郷土玩具からその土地の観光地や行事を紹介するような本。今あるガイドブックに紹介されてる有名なところの他にも、九州には魅力的なところがいっぱいあるし、そういう場所もみんなに知ってほしい。

郷土玩具の背景には、それが使われている祭りや神事や、売られている朝市があったりして深いですし、ものの周りを知ることでそのもの単体だけじゃなくって、その土地自体に愛着が湧くと思うんです」

お店のセレクトを見ても分かるように、それはきっとまだみんなの知らない情報が掲載されたおもしろい本となるに違いありません。

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取材中、ひっきりなしに来られる山響屋さんのお客さんがみなさん、郷土玩具を持ってとても幸せそうに帰っていかれるのが印象的でした。縁起ものを届ける仕事っていいですね。

福岡のアパートの一室にある小さな郷土玩具店は、お客さんにも作り手にも、そして郷土玩具の未来にも、大きな縁起をもたらすとっても素敵なお店でした。

山響屋

福岡市中央区今泉2丁目1-55やまさコーポ101
092-751-7050
http://yamabikoya.info


文・写真 : 西木戸 弓佳