爪やすりの正しい使い方って?プロに聞く綺麗な爪のつくり方

日本で女性の美を支えてきた道具を紹介する連載「キレイになるための七つ道具」。第1回はネイルケアに欠かせない、爪やすりです。

日本ではすでに江戸時代、身だしなみのひとつとして紅で爪の色を整える習慣があったそうです。ネイルケア専門のサロンやネイリストという職業がある現代、美しい爪への関心は相変わらず高いですが、普段から出来るネイルケアについては、意外と知る機会がありません。

私自身、憧れはあるものの、普段は爪切りで長さを整えるので精一杯。どんなことを心がけたら、キレイな爪は手に入るのでしょう?

トップネイリストに聞く、キレイな爪とは

ネイルケアに関わるプロフェッショナル、株式会社ウカ(以下、uka)さんと、株式会社諏訪田製作所さんにお話を伺うことができました。

まずお話を伺ったukaさんは、ヘアやネイルエステなどを提供するトータルビューティーサロンを展開しています。7:15(ナナイチゴ)など、働く女性の日常シーンに合わせた香りのネイルオイルなどのホームケアも人気。代表の渡邉季穂さんご自身がトップネイリストでもあります。プロが考えるキレイな爪って、どんなものでしょうか。

ukaのネイルオイル・中川政七商店創業300周年記念
ukaさんのネイルオイル。こちらは中川政七商店創業300周年記念で作られた限定ボトル。数字が創業の年の「1716」になっている

大切なのは、バランス

「いちばんキレイだと思うのは、長さがバランスよく揃っている爪です。

まず根元のキューティクルから爪先までの長さが、人差し指、中指、薬指の3本の指で揃っていること。そしてそれに対して小指、親指の爪の長さがいいバランスであること。

加えて、手の平側から見た時にも、見える爪の長さが大体揃っていること。左右の手で長さが同じであること。これには爪の形を同じにしておくことも大切です。1本だけ尖っている、というのではなく、どの指も爪の形が揃っていると、美しくバランスのとれた手の印象になります」

uka代表の渡邉季穂さん
uka代表の渡邉季穂さん。中川政七商店表参道店で行われた「キレイな爪の作り方」講座でお話を伺いました

なるほど。ネイルと聞くとマニキュアなどで美しく彩った爪をイメージしますが、まずは素の爪をバランス良く整えることが肝心のようです。これならすぐにできそうで、ちょっとホッとしました。

ここで、爪の長さや形を細かく整えるのに活躍するのが爪やすりです。今度は諏訪田製作所の斎藤さんにお話を伺います。

諏訪田製作所さんと言えば入荷2年待ちにもなるニッパー型の爪切りが有名。爪切りと爪やすりは似て非なるもののようですが、実は共通して大事なポイントがあるようです。

 SUWADA「爪のお手入れセット」の爪やすり
「爪のお手入れセット」の爪やすり
SUWADAのつめ切り
国内外のネイリストから愛用される「諏訪田製作所 爪切り」

七つ道具その一、爪やすり

「爪をしっかりと研ぐことが出来るというヤスリ目の性能・品質はもちろんですが、手になじむハンドルのデザインは爪切りを作るときと同様に重要な部分です」

諏訪田製作所があるのは、新潟県三条市。昔から職人たちが質の良い刃物作りにしのぎを削る、日本でもトップクラスの鍛冶の町です。

よく切れる、よくやすれるのは当たり前。元々「SUWADAのつめ切り」はその抜群の切れ味に加え、指の形にカーブした、安定して持ちやすい持ち手で人気を博したのでした。

今、爪やすりはペーパータイプのものやガラス製など形・素材・価格とも幅広くありますが、私が持っているSUWADAさんの爪やすりは、自然と手の内にハンドル部分が落ちて納まる、ずしっと重みのある持ち手。ロングセラー商品を持つ老舗メーカーならではの気配りがきいています。(中川政七商店とのコラボ商品「爪のお手入れセット」限定品。現在は販売を終了しています)

私のようなビギナーは特に、長く愛用できる使い勝手の良いものを一つ持っておくと心強いかもしれません。

キレイな爪の作り方

さて、道具を知った後は、正しい使い方を覚えておきたいところ。再びukaの渡邉さんに伺います。

「爪の組織はセロリのように筋状で、3層になっています。ギコギコと左右にやすってしまうと二枚爪の原因に。必ず一定方向に削りましょう。そのためにはやすりの動きを安定させる起点を作ることが大切です」

諏訪田さんの爪やすりを例に、爪のお手入れステップをまとめました。

爪のお手入れ方法

1、ハンドルを利き手の親指、人差し指で挟むように持ち、さらに中指でしっかり握る
2、反対側の手の親指の付け根にやすりの先端をつける。(ここが爪をやする時の起点)
3、2の状態をキープしたまま、やすりたい爪先をやすりに当てる。やすりの角度は爪に対して45度に
4、親指の付け根で爪やすりを支えながら、角度を保ってやすりを一定方向に動かし爪を削る
5、爪の真ん中を中心に、左右対称に爪の形を整える

これはNG!
×ギコギコと左右に削る
×起点を作らずにフリーハンドで爪を削る
‥‥どちらも爪の層が荒れて二枚爪の原因になってしまいます!

はじめはちょっと難しいですが、慣れてくると爪やすり初心者の私でも、どの指の爪もすいすいと削れるように。利き手と反対の手でやすりを持つときは、爪やすりでなく、削られる爪の方、つまり利き手を動かして削ると、やりやすいそうですよ。

ここまできたら、キレイな爪を手に入れるまであと少し。形と長さを整えたら、普段から爪を保護する意識と保湿、さらに表面の磨きまでできると、より美しい爪になるそうです。

キレイな爪は一日にしてならず

「例えばお皿を洗う時お湯を使うなら、ゴム手袋をする。パソコンを打つ時は爪でなくて指の腹で打つ。ちょっとした心掛けが爪の保護になります。

保湿はネイルオイルが栄養分のバランスが良くおすすめですが、顔のクリームをお風呂上がりにつけるのだっていいんです。手だけでなく、爪につけてください。

一日中使うところですから、できれば日に5回は保湿ケアを。おすすめは、マニキュアを塗ってみることです。そのまま3日間くらい過ごしてみてください。自分がどれだけ指先を使っているかが、塗りのはげ方でわかる。

マニキュアやベースコートは塗ることで多少の爪の保護にもなりますし、色を保とうと思うので、手の使い方が優雅になります。手の使い方がキレイだと、女性らしく見えるんですよ」

どれもすぐできそうなのに、目からウロコのことばかり。道具を使ってのお手入れと日々のセルフケアと、二つセットで続けることが、キレイな爪への近道のようです。

「爪は皮膚が角化したものなので、自ら養分を出してコンディションを補うということができません。さらに体の中でも末端に位置するので栄養が届くのも最後になります。

だからこそ爪は自分の体の健康具合やお手入れの効果が如実に現れるところ。髪がお手入れしないと枝毛になったり縮れたりしてしまうのと同じように、日々のケアが大切なんですよ」

キレイな爪は一日にしてならず。ですが、ちょっとした意識で楽しみながらお手入れを続けていけば、そう遠くはなさそうです。

<掲載商品>
諏訪田製作所 爪切り

<取材協力>
株式会社ウカ
株式会社諏訪田製作所

文:尾島可奈子
写真:井上麻那巳

こちらは、2016年11月10日の記事を再編集して掲載しました。意外とよく見られる手元。爪先も忘れずにケアしていきたいです。

酉の市の楽しみ方。浅草・鷲神社で体験してきました

目指すは酉の市。東京浅草・鷲(おおとり)神社へ

外着を厚手のコートに切り替えるころ、今年もそろそろだなぁと指折り数えるお祭りがあります。

時間は午前零時。

酉の市 浅草

どん、どん、どん、と一番太鼓の合図とともに、次々に境内になだれ込む人・人・人。

真夜中だというのに境内は明々と照明が焚かれ、見上げる高さまで商売繁盛の熊手が飾られた出店が立ち並び、あちこちで威勢のいい売り声が飛び交う。

ここは東京浅草・鷲(おおとり)神社。

11月の酉の日に行われる商売繁盛を祈るお祭り、「酉の市」の季節が今年もやって来ました。

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そもそも、酉の市とは?

「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と詠んだのは芭蕉の弟子、其角。酉の市は江戸時代から続く商売繁盛のお祭りです。

大小様々な縁起の良い熊手が境内の露店にずらりと売られ、人々はその値段交渉も楽しみながら、お気に入りの熊手を買い求めます。

今は都内のいくつもの神社で酉の市が開かれていますが、江戸から続くのは花畑の大鷲神社と浅草の鷲神社のみ。

中でも鷲神社の酉の市は熊手を売るお店が約150店、訪れる人が70~80万人と、毎年大きな賑わいで全国的にも有名です。

*熊手の由来や作り方はこちらの記事をどうぞ:「酉の市の『熊手』に込められた願いとは?」

一の酉に行きました

市が開かれるのは11月の酉の日。年によって一の酉、二の酉、多い時には三の酉まで行われます。

私が行ったのは一の酉。と言っても日中ではありません。

酉の市は午前零時から始まり、そこから24時間続きます。

人出を見越して1時間はやく行った時にはすでに長い行列が!地元の人によるとこれでも今年は少ない方。多い時には2ブロック先まで列が続くそうです。

神社へ続く頭上には「酉の市入り口」と案内の提灯が掲げられ、いやがうえにもお祭り気分が高まります。

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見ると列の中にはすでに熊手を持った人が。

神社の入り口には去年買った熊手をお返しする所があり、お参り前にここに納めて、新しい熊手を買い求めます。

ちなみに列は参拝のための列なので、零時ギリギリでなければ中に入ることもできます。混まないうちに、先に欲しい熊手の下見をしておくのも良いかもしれません。

午前零時、開門!

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午前零時。どん、どん、どんの一番太鼓が鳴り響き、開門です。

待ちかねた人たちがどっと境内になだれ込みます。本殿の前はあっという間に黒山の人だかり。

何本も下げられた鈴がひっきりなしに鳴り響く頭上には、100以上はあるかという提灯の列。暗闇の中に明々と浮かび上がり、どこかへタイムスリップしたような、幻想的な風景です。

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熊手選びは値段交渉も楽しんで

境内から伸びる路地にはアーケードがかけられ、お店とお店の境目がわからないほど熊手を売る露店がひしめき合います。

順番を待って無事お参りしたら、いよいよ熊手を買いに、出陣!

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「はい寄ってって」

「お姉さんが初めてのお客さんだから、おまけもたくさんつけるよ」

「大入りもつけちゃう」

「うちはスタッフが若いよ」

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あちこちのお店から声がかかります。いいな、と思う熊手と目があったら、いよいよ交渉スタート。

市では値段も交渉で決まります。おおよその予算を伝えてお店の人にどんどん相談しましょう。

形もサイズも様々な熊手。相場は3000円から大きいものだと数十万と言うものも。

実は熊手には交渉することでついてくるオプションがあります。

例えば稲穂、大入り袋、企業名などを入れてもらえる看板。せっかくなので恥ずかしがらず、値段交渉も楽しんで!

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酉の市のハイライト、手締め

めでたく商談が成立したら、手締め(手終い)をしてもらいましょう。今回私がお願いした看板は「さんち」。

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念願の熊手、ゲット!

なので掛け声は、 「さんちさんの商売繁盛を祈念して、よぉ〜お!」 。

お店の人と買い求めた人で声を合わせて三本締めをします。

お祝いムードに周囲の人たちも笑顔。あちこちでこの手締めの声と手拍子が響くのが、なんといっても酉の市の風情です。

あちこちに響く手締めの掛け声。お客さんもお店の人も笑顔

熊手のひみつ

ちなみに、とお店のお兄さんが熊手につけてくれた大入り袋の意味を教えてくれました。

「この中には5円玉が入ってます。来年この熊手を持ってまた来てくれたら、熊手を入り口でお返しして、この5円玉でお参りするんです。

お参りしたらまたうちのお店で新しい熊手を買ってくださいね」

なんと上手なリピーター確保作戦。さすが商売繁盛の神社だけあります。

江戸時代から続く商いの技を見た気持ちで、これもまた楽しいもの。

ちなみに熊手は次の年に来た時、一回り大きいものを買うのが習わしです。ますます商売繁盛、のゲン担ぎですね。

当日はあいにくの雨でしたが、熊手の裏にはしっかりと雨よけのビニールがセットされていました。

「でも境内に居るうちはたくさん福をかきこんで欲しいので、つけるのは外に出てから。お家に着いたらすぐ外してくださいね!」

お客さん思いのサービスでした。

お土産はこれがオススメ

さて、本命の熊手を手に入れたところで、他の酉の市の楽しみも味わいましょう。せっかく来たのだからお土産も欲しいところ。

社務所では熊手や商売繁盛にちなんだ様々なお守りが置かれています。

熊手は今年は見送ろうかな、でも何かゲン担ぎを、という人は、小さな熊手の根付がオススメ。

しっかり稲穂も添えられた金色の熊手の根付は、商売繁昌、家運隆昌のお守りです。

大忙しの社務所

もう一つ、食べられるお土産を。

酉の市の名物土産といえば、切山椒(きりざんしょう)。境内を出た通りにはずらりと食の屋台が並びますが、その中に「切山椒」と古めかしく書かれた屋台があります。

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上新粉に砂糖と山椒の粉を加えてついた餅菓子。山椒の香りと薬効で厄を祓い、ひと冬風邪をひかなくなると言われています。

甘いお菓子の少なかった江戸時代、祭りや市で楽しめるこうしたお菓子が喜ばれ、熊手とともに買い求めるのが定着したのだとか。

おかめさんの熊手が描かれた白い包みは、開封する前から山椒の香りが立ちのぼります。市の熱気で少し疲れた体を覚ましてくれるようです。

さて、これにて今年の酉の市もお開き、と、思いつつ神社の外をそぞろ歩くと、熊手片手におでんや焼き鳥を囲む屋台があちこちに。

大鍋から立ち上る湯気に誘われて、ちょっと一杯、ひっかようかなとのれんをくぐったら、すっかり江戸っ子の気分です。

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真夜中に始まる11月の風物詩、酉の市。江戸っ子気分を味わいに、遊びに行ってみてはいかがでしょうか。

<こちらを訪ねました>
浅草 鷲神社 酉の市

文・写真:尾島可奈子

*こちらは、2016年11月12日の記事を再編集して公開しました。今年ももうすぐ、酉の市の季節です。

「木彫りの熊」はいつ鮭をくわえたのか?意味と歴史を追って北海道へ

八雲町と旭川の木彫り熊ルーツを探る

皆さんは北海道土産の定番と言えば何を思い浮かべますか?チョコレート、バターや牛乳を使ったお菓子、海産物…などなど。どうしても豊かな食に目が行きがちですが、忘れてほしくないのが“木彫り熊”。

鮭をくわえた野性味あふれる熊の彫刻。そういえば、実家にある!おばあちゃん家で見たことがある!という方もいるかもしれません。

では、いつから“木彫り熊”が北海道土産の定番の1つとなったのか?誰がどこで最初に作ったものなのか?今回は“木彫り熊”のルーツを探るべく、北海道に足を運んでみました。

八雲町木彫り熊資料館へ

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“木彫り熊”について調べてみると、すぐに「八雲町」と「旭川のアイヌ民族」という2つがキーワードとして現れました。さらに八雲町には2014年4月にオープンした“木彫り熊資料館”なるものがあるようです。話は早い、いざ八雲町へ!

八雲町は、日本で唯一太平洋と日本海の両方に面する町で、北海道の地図でいうと左側のぐっと曲がったあたりに位置します。雪がちらつく中、函館から車で2時間ほど。“八雲町木彫り熊資料館”に到着しました。

学芸員の大谷茂之さん
学芸員の大谷茂之さん

木彫り熊と尾張徳川家

———早速、学芸員の大谷さんに木彫り熊発祥の歴史について教えていただきます。大谷さん、よろしくお願いいたします。

木彫り熊の話の前に、江戸時代には徳川御三家筆頭であった尾張徳川家と八雲の関係を説明させてください。

そもそも八雲というのは、明治11年(1878年)から、尾張藩の旧藩士たちが移住し開梱していった土地なんです。明治維新で侍という職がなくなり、いわば失職中だった藩士たちの未来を憂いた旧尾張藩主の徳川慶勝が、彼らの生計を立てるために開拓地として明治政府に払い下げを求めたのです。

八雲という地名も、慶勝が「八雲たつ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」という須佐之男命(すさのおのみこと)の古歌の初句から「八雲」と名づけた、そんな場所です。

明治43年(1910年)から、開墾した八雲の土地が移住人に無償譲渡されます。これを決めたのがこの年に尾張徳川家十九代当主になった徳川義親(よしちか)さんです。義親は慶勝の孫にあたる立場、越前福井藩主・松平春嶽の五男で御養子なんですが、古くからの慣習に縛られることがない、思い切った決断を色々としています。この義親が木彫り熊の話の主人公です。

八雲町の名誉町民にもなった徳川義親
八雲町の名誉町民にもなった徳川義親

義親は大正7年(1918年)に八雲を訪ねたとき、アイヌとともに熊狩りを経験します。学者としての側面が強いお殿様なので、初めから狩猟好きだったというわけではないようです。八雲で熊による被害が出ているので人々の安全を守るという理由と、アイヌの祭祀「熊送り」の伝統を継続させるという目的もあったようです。アイヌの父と呼ばれるジョン・バチェラーとも親しく色々と援助し、アイヌの口伝の話も書き留めたりしています。

義親はこの後、毎年のように八雲を訪れては熊狩りや遊楽部川(ゆうらっぷがわ)での鱒釣りを行い、また皇室・華族を含む多くの方を八雲に招待しています。そうやって数多く訪れる中で、八雲で木の家ではなく壁すら萱の家に住んでいた農民たちの貧しい暮らしを目のあたりにしたんでしょう。これじゃあいけない、生活を良くしなくては…と問題意識を持ったようです。全国的にも農村から都市へ人が流出してしまって、農村生活が悪くなっていた頃です。

大正10年(1921年)から義親は夫人の米子と一緒に一年間のヨーロッパ旅行をするんですが、途中立ち寄ったスイスのベルンで木彫り熊を見つけます。ベルンは町の真ん中で熊を飼い、町全体が木彫り熊で飾られる熊(ベア)を名前の由来とする町でした。

また、農民美術(ペザントアート)として木彫り熊が成立していました。農閑期にスイスの農民たちが木彫り熊を作って観光客に売っている、これは八雲でもできるのではないかとそう考えて、義親は幾つかの木彫り熊等の土産品を持ち帰るんです。

昭和初期(1920~30年頃)に参考にしたイタリア製のカエルとウサギ、ドイツ製のツバメ
昭和初期(1920~30年頃)に参考にしたイタリア製のカエルとウサギ、ドイツ製のツバメ
イタリア製の巻きタバコ用灰皿
イタリア製の巻きタバコ用灰皿

大正12年(1923年)、義親は木彫り熊等を八雲に持ち込んで「とにかく作ってみて、出来も不出来も全て私が買い上げよう」と農民たちに奨励します。実際に買い上げて倉庫が一杯になってしまった、それを示す写真もあります。そして大正13年(1924年)に“八雲農村美術工芸品評会”の 第1回が開催されます。即売会的な面も持っていたようで、農民の収入にするために考えて開かれました。義親と八雲の人たちの良好な関係があって1097点もの作品が集まったそうです。ただ、農民に“美術”という概念がそもそもない時代です。

出品されたものを見てみると、愛知県からは切り干し大根、北海道からはかぼちゃなど美術工芸品とは言えないものもありました。我々は今でこそ美術工芸品や民芸品をイメージできますが、農村では美術工芸は一般的ではなく、“民芸品”という言葉も大正14、5年(1925、6年)くらいに作られたものですからね。単なる副業だけではなく、縁遠かった美術を趣味として定着させ、豊かな農村生活を目指しての開催でした。

そして、品評会には伊藤政雄という方が作った最初の木彫り熊が出品されました。

北海道木彫り熊 第1号
北海道木彫り熊 第1号
スイスの木彫り熊
スイスの木彫り熊

スイスの木彫り熊とすごく似ていますね。口の中が赤いのと、鼻が黒いのとポージングが一緒。ただスイスのものは目がガラス玉ですが、八雲のものは当時ガラス玉がなかったのか、釘を打って目の代わりにしています。毛彫りのために、こうもり傘の三角になった骨の部分、それを削って彫刻刀代わりにしていました。のちに尾張徳川家のお抱え大工から彫刻刀を買って使うようになったそうです。

その後、各地の品評会で木彫り熊が入賞し、昭和2年(1927年)に伊藤政雄の木彫り熊が北海道奥羽六県連合副業共進会で1等賞を受賞して、全国的にも注目を集めます。その流れで昭和3年(1928年)には、“八雲農民美術研究会”が設立されました。慶勝が主導して八雲開拓を始めてから50周年にあたります。

これまで多種多様な農村美術を作ってきましたが、むしろ種類を絞り込んで、八雲を代表する作品を決めました。それに木彫り熊が選ばれたのです。静養で八雲を訪れていた日本画家の十倉金之(とくら・かねゆき)が呼ばれ、伊藤政雄と共に講師として“八雲農民美術研究会”の講習会が開かれるようになります。受講者には柴崎重行や中里伊三郎がいました。さらに“熊彫”(義親が趣味としていた熊狩りにちなんで)というブランドが作られました。

八雲の熊彫ポスター 昭和初期(1920~30年頃)
八雲の熊彫ポスター 昭和初期(1920~30年頃)

参考のために実際に熊を飼っていた

また、制作の参考になるように本物の熊、オスとメスの2頭を飼っていました。

2頭は檻の中にいて食べて寝てをくり返してどんどん肥えていったため、それが八雲の木彫り熊にも反映されていると言われています。またとても人馴れした熊だったことから、人々は熊に対して親しみを持っていて、荒々しい熊というよりは優しい顔の熊・愛らしい擬人化した熊を彫ったと言われています。

またこの頃から作られるようになった木彫り熊の特徴は、背中のコブのような盛り上がりから毛が流れているものです。この毛の流れは実際の熊にはなく、日本画の表現方法と言われています。

菊の花のように毛並みを彫る菊型毛
菊の花のように毛並みを彫る菊型毛

日本画家の十倉の影響を受けた毛の流れを表現した八雲の木彫り熊の特徴でもある「毛彫り」と、面で表現する「面彫り」という技法も確立されました。

「面彫り」の木彫り熊たち 柴崎重行作
「面彫り」の木彫り熊たち 柴崎重行作

昭和6年頃(1931年頃)には品評会で良しとされた熊のみ販売が許され、足の裏に焼印を入れていました。今で言う地域ブランディングですね。この頃、第7回道展彫刻の部で柴崎重行の「熊」が入選します。さらに昭和7年(1932年)には「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は、八雲の木彫り熊」と雑誌で紹介されるほど有名になります。

そんな盛り上がりの最中、昭和18年(1943年)。陸軍の飛行場ができることになり、徳川農場は移転を余儀なくされます。金属類回収令のため、檻は持って行かれて熊は銃殺されました。戦後には制作の材料や販売ルートも無くなって、八雲で木彫り熊を制作するのは茂木多喜治と柴崎重行の2人のみになりますが、上村信光・引間二郎・加藤貞夫といったすばらしい後進が育ちました。

加藤貞夫の木彫り熊たち
加藤貞夫の木彫り熊たち
上村信光の木彫り熊たち
上村信光の木彫り熊たち
引間二郎の木彫り熊たち
引間二郎の木彫り熊たち

茂木多喜治は八雲の木彫り熊の伝統を作ったと考えています。昭和天皇に木彫り熊を献上したことをきっかけとして、昭和11年(1936年)頃から木彫り熊の制作を専業とします。山歩きが趣味で、熊を撃って解体し、筋肉の付き方や関節の可動範囲を調べて木彫り熊制作に生かしていました。

茂木多喜治の木彫り熊たち
茂木多喜治の木彫り熊たち

柴崎重行は“柴崎彫り(ハツリ彫りとも)”と呼ばれる面彫りの手法で独自の世界を作りました。斧で木を割っただけのような作品です。柴崎は、木彫り熊作家というよりは、熊をモチーフにした彫刻家として高く評価されています。

柴崎重行の木彫り熊たち
柴崎重行の木彫り熊たち

鮭をくわえた木彫り熊はいつ誕生したのか?

———ちなみに、“鮭をくわえた木彫り熊”は誰の手で作られたのでしょうか?

八雲では“鮭くわえ熊”として昭和6、7年(1931、2)頃に販売されたそうですが、誰が最初に作ったのかはわかっていません。八雲を流れる遊楽部川は今でも鮭があがりますし、鮭をくわえた熊が作られても不思議ではありません。

しかし、八雲の木彫り熊はこれまで紹介してきたような作品が主で、鮭をくわえた熊はほとんど作られていません。鮭をくわえた熊が北海道の定番、北海道のアイコンともいえる存在となるのは、昭和30~40年(1950~60年)代の北海道観光ブームで全道的に作られるようになってからのようです。その元となった熊が八雲なのかどうか、そもそもあるのかどうかさえ今のところわかっていません。

旭川の鮭くわえ熊
旭川の鮭くわえ熊

———八雲町の木彫り熊の詳しいお話は聞けたものの、定番の“鮭をくわえた木彫り熊”を誰が作り出したのかは謎に包まれたまま…!となると、もう1つの発祥地と言われている旭川のアイヌ民族による木彫り熊のルーツを調べてみる必要がありそうです。大谷さんも「旭川の木彫り熊のことなら、あの方で間違いない」とおっしゃる、旭川市経済観光部工芸センターの秋山さんにお話を伺ってみました。

旭川の木彫り熊ルーツ

———秋山さん(旭川市経済観光部工芸センター)、旭川における木彫り熊のルーツを教えてください。

この土地における木彫りの起源は、アイヌ民族の伝統文化にあります。

アイヌ民族は、もともと生活の中に男性のたしなみとして彫刻が存在していたんです。「マキリ」という小刀が身近にあり、伝統的に木彫りの技術に優れていたんですね。旭川では、明治30年代(1900年代)に旧陸軍相手にお土産の需要があり、神埼四郎という人が旭川市5条7丁目にアイヌ民族の生活用具などをお土産として扱う神埼商店を開業します。

ここでは、木彫りを施した商品として、木盆、箸、衣紋掛け、糸巻きなどを販売しており、北海道の土産品店の草分けとなり、旭川の木彫り産業の黎明(れいめい)ともなりました。

そして旭川で木彫り熊が盛んになったのは、昭和元年(1926年)にアイヌ民族の松井梅太郎が熊を彫り始めたことにあると言われています。梅太郎が熊を彫り出すきっかけとなったのは、24歳のときに行った熊狩りで、熊を取り逃がして大怪我を負ってしまったこと。その熊を忘れることができず、熊を彫り始めたそうなんです。そのときに彫った熊が評判を呼び、他にも彫る人が増えていきます。

昭和初期(1920~30年頃)に松井梅太郎が彫ったとされる木彫り熊
昭和初期(1920~30年頃)に松井梅太郎が彫ったとされる木彫り熊
旭川で彫られた木彫り熊たち
旭川で彫られた木彫り熊たち
 大正末~昭和初期頃(1920年代頃)に旭川の近文(ちかぶみ)で彫られていた木彫り熊
大正末~昭和初期頃(1920年代頃)に旭川の近文(ちかぶみ)で彫られていた木彫り熊

大ヒット工芸品はどうやって誕生したのか

アイヌの人々にとって様々なものがカムイ(神・魂)であり、中でも熊はキムンカムイ(山に住む神)と呼ばれる最高位の神様です。なお、熊を崇める信仰は北極圏、北米、ユーラシアなど世界的に見られるそうです。

アイヌ民族にとって、一頭の熊そのものを彫刻すること、或は生物の形を作ることはタブーであったと言われておりますが、神具としての熊の彫り物は、サパンペ(冠)やイクパスイ(捧酒箸:御神酒を捧げるための箸・へら)に見られます。また、早くから観光土産として木彫り商品の販路があった旭川は、他の地域よりも慣習にとらわれず、新しい考え方を取り入れていく気風が強かったように見受けられます。

当時の歴史を調べた書籍には、『当時、熊を彫ってはいけないというような呪縛は旭川・近文コタン(アイヌ語で集落の意)の若者たちには感じられない』、『繁栄をもたらすにはこの熊彫りが一番恰好だということで、梅太郎の彫った熊はすぐコタンの話題になった』ということが述べられています。

さらに、狩り以外にも、小熊を飼うなど、熊が非常に身近な状況がありました。熊が身近におり良く観察できたこと、新し物好きな若者、そして木彫り産業がこの集落の中で盛んだったこと、これらの因子が相まって、旭川の熊彫りは盛り上がります。また、当時の八雲の木彫り熊の影響も受け、急激に技術が向上していきました。

そして、やはり、アイヌの人々が抱く、熊への畏敬の念が込められていたからこそ、多くの人を惹き付けるものとなったのです。木彫り産業の中で、商品開発の一つとして木彫り熊が生まれ、類稀なる大ヒット工芸品となったと考えられます。

1909年(明治42年)撮影 神崎商店の様子
1909年(明治42年)撮影 神崎商店の様子

———土産物ブームはいつまで続いたのでしょうか?

旭川の木彫り熊の勃興には大きく二つのピークがあります。一つは昭和10年(1935年)頃のこと。昭和4年(1929年)頃に木彫り熊は彫刻としてのバランスが良くなり、昭和8、9年頃(1933、4年)には多くの観光客が買い求めに来るようになります。

もうひとつは戦後、昭和30~40年代(1950~60年代)のこと。北海道の観光ブームで土産物としてたくさん売れるようになったそうです。平塚賢智(ひらつか・けんち。梅太郎に憧れ、14歳で彫刻の道に入り、90歳まで彫り続ける。木彫り熊の職人として「労働大臣表彰(卓越した技能者・現代の名工)」を受ける)は「鉄道のキャンペーンなどで北海道に観光客が増え、本州の人にとっては“北海道=熊”という図式が刷り込まれていった」と話しています。

またその頃、木彫り熊の職人は内職を含めると旭川地域に1000人ほどもいたそうです。

平塚賢智の木彫り熊
平塚賢智の木彫り熊

多くの職人が旭川で育ち、実演や熊彫りの指導で北海道各地に散らばっていくことになりました。旭川で木彫りを始め、現在阿寒で活躍する藤戸竹喜(ふじと・たけき)さんは17歳から函館、洞爺、登別、阿寒といった道内の観光地に出向いて木彫り制作を実演する旅で腕を磨き、観光のオフシーズンには、旭川に戻るといった生活をしていたそうです。

行く先々には旭川近文の木彫り職人がおり、皆暖かく迎えてくれたそうです。なお、札幌駅西口のコンコースある大きなアイヌ民族の木彫りの像「エカシ(長老)像」は藤戸竹喜さんの作品です。

旭川では、松井梅太郎の伝統を引き継ぎ、多くの木彫り職人を輩出し、やがて北海道の観光地へと広がり、その地域独自の木彫り熊へと発展し、木彫り熊の全盛期を作り上げて行きました。

藤戸竹喜さんの木彫り熊
藤戸竹喜さんの木彫り熊

昭和30~40年(1960~70)代の観光ブームによる爆発的な需要が終わり、国民の生活様式の変化もあり、全国的に工芸品全体の売上げが落ちていくなか、木彫り熊の売り上げも落ちていき、売り場も少なくなっていきました。

木彫り職人でかつ歴史の伝承者や研究者であった平塚賢智や川上哲は、この「観光ブームによる功罪」を、木彫り熊の衰退の理由として、分析しています。「功」の部分では、職人の層を厚くし、様々な商品開発がなされ、当時のほとんどの人が知る製品となったわけですが、「罪」の部分では爆発的需要を満たすための商業ベースの大量生産や大量販売が、価格と価値を下げ、真の伝統文化や、「木彫りのこころ」を失わせてしまったのではないかということです。

鮭をいつくわえたのか、旭川でもよくわかっていない

———あの定番の鮭をくわえた木彫り熊はどのように生まれたのでしょうか。

鮭をくわえた木彫り熊は戦後からあの姿になったと言われていますが、誰が作ったものかはわかっていません。昭和初期の旭川の木彫り熊はほとんどが這い熊(四本足で歩いている形の熊)で、変形したものはあまりいません。ただし平塚賢智は16歳の時(昭和10年・1935年)に親子熊を彫刻した電気スタンドを製作していますので、昭和10年(1935年)代には変形したものも作られていたことが推測されます。

平塚さん含め、私が今まで聞き取りした方からは「わからない」、「自然観察から生まれたのではないか」との話です。

———今、木彫り熊のブームがまた来るかもしれないと言われていますが、そのことについてはどう思われますか

一過性のブームじゃいけないと思っています。作り手と技術の継承がされないとだめですよね。でも、ブームにのってその必要性が広められるのは良いことだと思います。伝統の上に、多くの革新や挑戦と新たな要素の流入があり、そしてまた伝統の継承があって、現在の木彫りが作られたのだと思います。今いらっしゃる旭川の木彫り熊の職人は60代後半と40代含め、20人ほど。

ずっと言われ続けていることではありますが、作り手の人たちの生活を成り立たせていくことが大事です。旭川は木工の町でもあるので、技術を無くさないように継承していくことが今後の課題のひとつではありますね。

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八雲と旭川の“木彫り熊”は、ほぼ同じ時期に生まれたようですが、別々に始まったものらしい…ということがわかりました。
八雲は、徳川のお殿様が農民の生活を憂う気持ちと農村美術から。旭川は、熊への尊敬と畏れの気持ちとアイヌの伝統の木工技術から。

そして、木彫り熊の職人が少なくなっていった八雲と、木彫り熊が大量生産されていった旭川。同時期に生まれ、別々の道を辿りつつも今では全道的に彫っている人は少なく先行きには厳しいものがあります。
しかし近年、八雲町では「八雲町木彫り熊資料館」がオープンし、八雲町公民館生涯学習講座「木彫り熊講座」が復活しているようです。

右の木の塊から、左の完成の熊へ彫っていく手順を追ったもの
右の木の塊から、左の完成の熊へ彫っていく手順を追ったもの

また旭川では「旭川木彫・工芸品協会」が発足し、大阪・なんばグランド花月の芸人看板を皆で製作したり、国際的なテニス大会のチャリティーとしてテニス熊を製作するなど、ベテランながら果敢に活動しています。

旭川木彫・工芸品協会の皆さんと大阪・なんばグランド花月の芸人看板
旭川木彫・工芸品協会の皆さんと大阪・なんばグランド花月の芸人看板
大阪・なんばグランド花月の芸人看板(期間限定のため、現在は掲示されていません)
大阪・なんばグランド花月の芸人看板(期間限定のため、現在は掲示されていません)
一般社団法人兵庫県テニス協会とのコラボレーションで製作されたテニス熊たち
一般社団法人兵庫県テニス協会とのコラボレーションで製作されたテニス熊たち

あの定番の鮭をくわえた熊は“誰が”作ったのか、はっきりしたことはわかりませんでした。ですが、至高の作品を作るべく野生の熊を見つめ、切磋琢磨した職人が確かに存在していたということを知りました。どこかで“木彫り熊”を見つけたら、熊の顔や毛並み、足の裏に注目してみてください。木彫り熊に情熱を傾けた職人たちの思いを感じられるかもしれません。

kuma05

<取材協力>
八雲町木彫り熊資料館
北海道二海郡八雲町末広町154
0137-63-3131

旭川市経済観光部工芸センター
北海道旭川市緑が丘東1条3丁目1−6
0166-66-1770

 

文:山口綾子
写真:八雲町木彫り熊資料館
旭川市経済観光部工芸センター
菅井俊之

※こちらは2017年3月19日の記事を再編集して掲載しました

「幻の薩摩ボタン」を復活させた、ただ一人の作家・室田志保さんを訪ねて

薩摩ボタンとは?

色鮮やかな花や鳥、羽音が聞こえてきそうな蜂、丸くて可愛いてんとう虫。

薩摩ボタン
「パリ万博150周年記念古薩摩写 花に文鳥の絵」パリ万博の頃のものと思われるデザインの古薩摩写し
薩摩ボタン
「女王蜂金冠紋」「近衛兵蜂銀冠紋」「働き蜂」
薩摩ボタン
「てんとう虫」

これ、なんだと思いますか?

答えは全て「ボタン」です。

直径わずか0.8cm〜5cmほどの小さなキャンバスに、微細に描かれた文様。
ため息が出るような美しさにうっとりしてしまいます。

100年の伝統をもつ幻のボタン

これは「薩摩ボタン」といい、鹿児島の伝統工芸品「白薩摩」に薩摩焼の技法を駆使して絵付けをしたもの。江戸時代末期、ジャポニズム文化の一つとして欧米の人々を魅了しましたが、その後、繊細な技法のため作り手が途絶え、幻のボタンともいわれてきました。

そんな薩摩ボタンを現代に蘇らせたのが、日本で唯一の薩摩ボタン作家、室田志保さんです。

こんな素敵な作品を作る室田さんはどんな方なのでしょうか。
鹿児島県垂水市にあるアトリエ「絵付舎・薩摩志史(えつけしゃ・さつましし)」に会いに行きました。

人よりも動物が多い

絵付舎・薩摩志史

山々に囲まれた、のどかな集落。室田さんが「愛している」というこの地には、お母様の実家があり、子どもの頃から慣れ親しんだところだそうです。

絵付舎・薩摩志史の制作現場
愛猫「ろぶ」が出迎えてくれました

「人よりも動物が多いんです。ほかにウサギ、犬が5匹、ヤギもいます」

牛の飼育をするご主人の人柄もあり、近所の人がいろんな動物を預けにくるそう。

室田さんの描く動植物が生き生きとしているのは、豊かな自然と動物たちに囲まれた暮らしがあるからなのかもしれません。

薩摩ボタン作家・室田志保さん
お話がとても楽しい室田さん

もともと薩摩焼の茶道具を作る窯元で絵付けをしていたという室田さん。

「丁稚(でっち)になりたかったんです。父が船の機関士だったこともあって、これからの時代は手に職をと言われていたので、丁稚がいいなと。はじめは薩摩焼のお茶道具を作っている窯元に入りました」

荷造りなど雑用から始まり、次第に絵付けもするように。

「メインはお師匠さん、私がまわりの紋様を描いて。今でも紋様を描くほうが楽しいですね。繰り返し、繰り返しのパターンが好きです。子どもの頃から集中力があったので、途切れることなくできますね」

薩摩焼の絵付け
香炉の絵付け作業。「細かい作業は訓練の積み重ね。10年もすれば慣れで描けるようになります」と室田さんはいいますが…

薩摩ボタンに出会ったのは仕事をはじめて8年が経った頃。

鹿児島の地域情報誌に掲載されていた「復刻された薩摩ボタン」の特集記事でした。

「初めて見ました。戦後くらいまでは、私のお師匠さんたちも作っていたそうですが、薩摩焼の業界にいたのに、薩摩ボタンの存在自体を知りませんでした」

鹿児島・薩摩ボタン
「オニヤンマ」(帯留)トンボは前にしか進まないことから、勝ち虫として戦国武将の鎧兜などの意匠にもなっている

ヨーロッパの人々を魅了した薩摩ボタン

薩摩焼は江戸末期、当時の薩摩藩主・島津氏が朝鮮から連れ帰った李朝の陶工たちによってはじめられました。1867年(慶応3年)、島津藩がパリ万博に出品した薩摩焼がヨーロッパの人々を魅了。薩摩ボタンは、薩摩藩が倒幕運動などに必要な外資を得るための軍資金になったとも言われているそうです。

そんな薩摩ボタンに惚れ込み、独立。

ところが、いざ独立をしたものの、一度は途絶えた技術のため資料などは残っておらず、ボタンの形や絵付けをするための道具も何もかもが分からない状況から始めることに。

「ボタンの生地を作ってくれる職人さんを探すのも大変でした。なかなか見つからなくて、ようやく透かし彫りの職人さんが作ってくれるようになりました。その職人さんが香炉を作っているので、たまに香炉の絵付けもしています」

薩摩焼絵付け
香炉ひとつの絵付けに1ヶ月かかるという。「ボタンに比べると描く面積が広いため、描いても描いても終わらない病がありますね(笑)」

モリキン(盛金)にスナゴ(砂子)

薩摩焼には白薩摩と黒薩摩があり、薩摩ボタンは白薩摩がベースになっています。

「白薩摩の生地をボタンの形にしたものに、白薩摩の絵付けを施したものが薩摩ボタンです。決まった技法もないので、お師匠さんから教えてもらった技法でボタンに描いています。薩摩焼らしさを大事にしたいので、「ドクロ」など現代的なデザインのものを描くときにも、金が盛り上がるモリキン(盛金)や、点々で立体感を出すスナゴ(砂子)といった薩摩焼の技法をどこかに入れ込むようにしています」

薩摩ボタンここほったよワンワン
「平成30戌年ここほったよワンワン♪」花咲か爺さんの犬をデザインした干支ボタン。背景には桜島が。背景に砂子を入れることで、奥行きが出る

まずは、デザインを決めて、極細水性ペンで下書き。そこに極細のイタチ毛の筆を使い、マット金(金または白金と、油を混ぜた液)で輪郭を取ります。

次に陶磁器用の絵の具で色入れと焼成を繰り返した後、細かい金彩色や盛金を施し、再び窯へ。最後に金を磨いて完成となります。

薩摩ボタン絵の具
下書きがあるものもあれば、無いものも。絵の具を入れる順番も決まっていないので、何から載せていくかはその時々で変わるそう

完成までに窯入れは5回。10個ほどを同時並行で作っていくそうですが、デザインが決まってから出来上がるまで2〜3週間かかるそうです。

小さいとはいえ薩摩焼。手間と時間がかかります。

中でも一番大変なのはデザインだそう。

「オーダーをされる方が多いですね。還暦のお祝いや特別な贈り物をしたいときに、その方の好きなお花や動物などをモチーフにしてほしいとか。さらさらさらっとデザインが決まることもあれば、延々と頭のすみっこにあって、納期ギリギリになって、わーっとしていたら出来上がる、みたいなもこともあります」

薩摩ボタンめで鯛
直径8㎜の中に鯛が勢いよく描かれた「目出鯛波頭紋」。身につけるものなので、縁起の良いデザインが多いそう
薩摩ボタン
「てんとう虫」四つ葉のクローバーにてんとう虫(ほぼ実寸)がまっているデザイン

「たまに、びっくりするような注文が入ったりします。こんな小さなところにクジラを描いてほしいとか。さらにはダイナミックに!なんて言われたり(笑)」

デザインは気分で変わるので、同じモチーフでも毎回違うものに。

薩摩ボタン道具
絵を入れるときにボタンを固定する道具。水道管のパイプを利用。道具も無かったので全部手作り!

新しいデザインで伝統を受け継ぐ

作品の華やかさから、すごく派手な作業をしているように言われることもあるそうですが、「すっごく地味でごめんなさい」と笑う室田さん。

「のびのびと自分の好きなように、やりやすいように、創意工夫をしてやっていますね。前に道がないって悪くないんですよね。昔の人もそうやって作ってきたんじゃないかな」

室田さんの作品には、「伝統」という堅苦しさはなく、ワクワクするような軽やかさがあります。

それは、現代風のデザインであるからだけでなく、室田さんの人柄や「とにかく描くのが好きで、楽しい」という思いが作品にあふれているからだと感じました。

意表をついたデザインの注文にも「そうきたか!」と笑いながら挑んでいるような。

伝統のいいところを受け継ぎながら、新しい作品が生まれていく。

そうやって技術が受け継がれていくというのもいいものです。

薩摩ボタンという小さな芸術。

みなさんも身につけてみてはいかがですか。

薩摩ボタン
さんちの運営会社、中川政七商店が三百周年記念に作っていただいた薩摩ボタン。ブランドロゴの鹿の図柄が盛金になっている

 

<取材協力>
薩摩志史(さつましし)
室田志保さん
HP

 

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

*こちらは、2018年1月25日の記事を再編集して公開しました