八雲町と旭川の木彫り熊ルーツを探る
皆さんは北海道土産の定番と言えば何を思い浮かべますか?チョコレート、バターや牛乳を使ったお菓子、海産物…などなど。どうしても豊かな食に目が行きがちですが、忘れてほしくないのが“木彫り熊”。
鮭をくわえた野性味あふれる熊の彫刻。そういえば、実家にある!おばあちゃん家で見たことがある!という方もいるかもしれません。
では、いつから“木彫り熊”が北海道土産の定番の1つとなったのか?誰がどこで最初に作ったものなのか?今回は“木彫り熊”のルーツを探るべく、北海道に足を運んでみました。
八雲町木彫り熊資料館へ
“木彫り熊”について調べてみると、すぐに「八雲町」と「旭川のアイヌ民族」という2つがキーワードとして現れました。さらに八雲町には2014年4月にオープンした“木彫り熊資料館”なるものがあるようです。話は早い、いざ八雲町へ!
八雲町は、日本で唯一太平洋と日本海の両方に面する町で、北海道の地図でいうと左側のぐっと曲がったあたりに位置します。雪がちらつく中、函館から車で2時間ほど。“八雲町木彫り熊資料館”に到着しました。
木彫り熊と尾張徳川家
———早速、学芸員の大谷さんに木彫り熊発祥の歴史について教えていただきます。大谷さん、よろしくお願いいたします。
木彫り熊の話の前に、江戸時代には徳川御三家筆頭であった尾張徳川家と八雲の関係を説明させてください。
そもそも八雲というのは、明治11年(1878年)から、尾張藩の旧藩士たちが移住し開梱していった土地なんです。明治維新で侍という職がなくなり、いわば失職中だった藩士たちの未来を憂いた旧尾張藩主の徳川慶勝が、彼らの生計を立てるために開拓地として明治政府に払い下げを求めたのです。
八雲という地名も、慶勝が「八雲たつ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」という須佐之男命(すさのおのみこと)の古歌の初句から「八雲」と名づけた、そんな場所です。
明治43年(1910年)から、開墾した八雲の土地が移住人に無償譲渡されます。これを決めたのがこの年に尾張徳川家十九代当主になった徳川義親(よしちか)さんです。義親は慶勝の孫にあたる立場、越前福井藩主・松平春嶽の五男で御養子なんですが、古くからの慣習に縛られることがない、思い切った決断を色々としています。この義親が木彫り熊の話の主人公です。
義親は大正7年(1918年)に八雲を訪ねたとき、アイヌとともに熊狩りを経験します。学者としての側面が強いお殿様なので、初めから狩猟好きだったというわけではないようです。八雲で熊による被害が出ているので人々の安全を守るという理由と、アイヌの祭祀「熊送り」の伝統を継続させるという目的もあったようです。アイヌの父と呼ばれるジョン・バチェラーとも親しく色々と援助し、アイヌの口伝の話も書き留めたりしています。
義親はこの後、毎年のように八雲を訪れては熊狩りや遊楽部川(ゆうらっぷがわ)での鱒釣りを行い、また皇室・華族を含む多くの方を八雲に招待しています。そうやって数多く訪れる中で、八雲で木の家ではなく壁すら萱の家に住んでいた農民たちの貧しい暮らしを目のあたりにしたんでしょう。これじゃあいけない、生活を良くしなくては…と問題意識を持ったようです。全国的にも農村から都市へ人が流出してしまって、農村生活が悪くなっていた頃です。
大正10年(1921年)から義親は夫人の米子と一緒に一年間のヨーロッパ旅行をするんですが、途中立ち寄ったスイスのベルンで木彫り熊を見つけます。ベルンは町の真ん中で熊を飼い、町全体が木彫り熊で飾られる熊(ベア)を名前の由来とする町でした。
また、農民美術(ペザントアート)として木彫り熊が成立していました。農閑期にスイスの農民たちが木彫り熊を作って観光客に売っている、これは八雲でもできるのではないかとそう考えて、義親は幾つかの木彫り熊等の土産品を持ち帰るんです。
大正12年(1923年)、義親は木彫り熊等を八雲に持ち込んで「とにかく作ってみて、出来も不出来も全て私が買い上げよう」と農民たちに奨励します。実際に買い上げて倉庫が一杯になってしまった、それを示す写真もあります。そして大正13年(1924年)に“八雲農村美術工芸品評会”の 第1回が開催されます。即売会的な面も持っていたようで、農民の収入にするために考えて開かれました。義親と八雲の人たちの良好な関係があって1097点もの作品が集まったそうです。ただ、農民に“美術”という概念がそもそもない時代です。
出品されたものを見てみると、愛知県からは切り干し大根、北海道からはかぼちゃなど美術工芸品とは言えないものもありました。我々は今でこそ美術工芸品や民芸品をイメージできますが、農村では美術工芸は一般的ではなく、“民芸品”という言葉も大正14、5年(1925、6年)くらいに作られたものですからね。単なる副業だけではなく、縁遠かった美術を趣味として定着させ、豊かな農村生活を目指しての開催でした。
そして、品評会には伊藤政雄という方が作った最初の木彫り熊が出品されました。
スイスの木彫り熊とすごく似ていますね。口の中が赤いのと、鼻が黒いのとポージングが一緒。ただスイスのものは目がガラス玉ですが、八雲のものは当時ガラス玉がなかったのか、釘を打って目の代わりにしています。毛彫りのために、こうもり傘の三角になった骨の部分、それを削って彫刻刀代わりにしていました。のちに尾張徳川家のお抱え大工から彫刻刀を買って使うようになったそうです。
その後、各地の品評会で木彫り熊が入賞し、昭和2年(1927年)に伊藤政雄の木彫り熊が北海道奥羽六県連合副業共進会で1等賞を受賞して、全国的にも注目を集めます。その流れで昭和3年(1928年)には、“八雲農民美術研究会”が設立されました。慶勝が主導して八雲開拓を始めてから50周年にあたります。
これまで多種多様な農村美術を作ってきましたが、むしろ種類を絞り込んで、八雲を代表する作品を決めました。それに木彫り熊が選ばれたのです。静養で八雲を訪れていた日本画家の十倉金之(とくら・かねゆき)が呼ばれ、伊藤政雄と共に講師として“八雲農民美術研究会”の講習会が開かれるようになります。受講者には柴崎重行や中里伊三郎がいました。さらに“熊彫”(義親が趣味としていた熊狩りにちなんで)というブランドが作られました。
参考のために実際に熊を飼っていた
また、制作の参考になるように本物の熊、オスとメスの2頭を飼っていました。
2頭は檻の中にいて食べて寝てをくり返してどんどん肥えていったため、それが八雲の木彫り熊にも反映されていると言われています。またとても人馴れした熊だったことから、人々は熊に対して親しみを持っていて、荒々しい熊というよりは優しい顔の熊・愛らしい擬人化した熊を彫ったと言われています。
またこの頃から作られるようになった木彫り熊の特徴は、背中のコブのような盛り上がりから毛が流れているものです。この毛の流れは実際の熊にはなく、日本画の表現方法と言われています。
日本画家の十倉の影響を受けた毛の流れを表現した八雲の木彫り熊の特徴でもある「毛彫り」と、面で表現する「面彫り」という技法も確立されました。
昭和6年頃(1931年頃)には品評会で良しとされた熊のみ販売が許され、足の裏に焼印を入れていました。今で言う地域ブランディングですね。この頃、第7回道展彫刻の部で柴崎重行の「熊」が入選します。さらに昭和7年(1932年)には「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は、八雲の木彫り熊」と雑誌で紹介されるほど有名になります。
そんな盛り上がりの最中、昭和18年(1943年)。陸軍の飛行場ができることになり、徳川農場は移転を余儀なくされます。金属類回収令のため、檻は持って行かれて熊は銃殺されました。戦後には制作の材料や販売ルートも無くなって、八雲で木彫り熊を制作するのは茂木多喜治と柴崎重行の2人のみになりますが、上村信光・引間二郎・加藤貞夫といったすばらしい後進が育ちました。
茂木多喜治は八雲の木彫り熊の伝統を作ったと考えています。昭和天皇に木彫り熊を献上したことをきっかけとして、昭和11年(1936年)頃から木彫り熊の制作を専業とします。山歩きが趣味で、熊を撃って解体し、筋肉の付き方や関節の可動範囲を調べて木彫り熊制作に生かしていました。
柴崎重行は“柴崎彫り(ハツリ彫りとも)”と呼ばれる面彫りの手法で独自の世界を作りました。斧で木を割っただけのような作品です。柴崎は、木彫り熊作家というよりは、熊をモチーフにした彫刻家として高く評価されています。
鮭をくわえた木彫り熊はいつ誕生したのか?
———ちなみに、“鮭をくわえた木彫り熊”は誰の手で作られたのでしょうか?
八雲では“鮭くわえ熊”として昭和6、7年(1931、2)頃に販売されたそうですが、誰が最初に作ったのかはわかっていません。八雲を流れる遊楽部川は今でも鮭があがりますし、鮭をくわえた熊が作られても不思議ではありません。
しかし、八雲の木彫り熊はこれまで紹介してきたような作品が主で、鮭をくわえた熊はほとんど作られていません。鮭をくわえた熊が北海道の定番、北海道のアイコンともいえる存在となるのは、昭和30~40年(1950~60年)代の北海道観光ブームで全道的に作られるようになってからのようです。その元となった熊が八雲なのかどうか、そもそもあるのかどうかさえ今のところわかっていません。
———八雲町の木彫り熊の詳しいお話は聞けたものの、定番の“鮭をくわえた木彫り熊”を誰が作り出したのかは謎に包まれたまま…!となると、もう1つの発祥地と言われている旭川のアイヌ民族による木彫り熊のルーツを調べてみる必要がありそうです。大谷さんも「旭川の木彫り熊のことなら、あの方で間違いない」とおっしゃる、旭川市経済観光部工芸センターの秋山さんにお話を伺ってみました。
旭川の木彫り熊ルーツ
———秋山さん(旭川市経済観光部工芸センター)、旭川における木彫り熊のルーツを教えてください。
この土地における木彫りの起源は、アイヌ民族の伝統文化にあります。
アイヌ民族は、もともと生活の中に男性のたしなみとして彫刻が存在していたんです。「マキリ」という小刀が身近にあり、伝統的に木彫りの技術に優れていたんですね。旭川では、明治30年代(1900年代)に旧陸軍相手にお土産の需要があり、神埼四郎という人が旭川市5条7丁目にアイヌ民族の生活用具などをお土産として扱う神埼商店を開業します。
ここでは、木彫りを施した商品として、木盆、箸、衣紋掛け、糸巻きなどを販売しており、北海道の土産品店の草分けとなり、旭川の木彫り産業の黎明(れいめい)ともなりました。
そして旭川で木彫り熊が盛んになったのは、昭和元年(1926年)にアイヌ民族の松井梅太郎が熊を彫り始めたことにあると言われています。梅太郎が熊を彫り出すきっかけとなったのは、24歳のときに行った熊狩りで、熊を取り逃がして大怪我を負ってしまったこと。その熊を忘れることができず、熊を彫り始めたそうなんです。そのときに彫った熊が評判を呼び、他にも彫る人が増えていきます。
大ヒット工芸品はどうやって誕生したのか
アイヌの人々にとって様々なものがカムイ(神・魂)であり、中でも熊はキムンカムイ(山に住む神)と呼ばれる最高位の神様です。なお、熊を崇める信仰は北極圏、北米、ユーラシアなど世界的に見られるそうです。
アイヌ民族にとって、一頭の熊そのものを彫刻すること、或は生物の形を作ることはタブーであったと言われておりますが、神具としての熊の彫り物は、サパンペ(冠)やイクパスイ(捧酒箸:御神酒を捧げるための箸・へら)に見られます。また、早くから観光土産として木彫り商品の販路があった旭川は、他の地域よりも慣習にとらわれず、新しい考え方を取り入れていく気風が強かったように見受けられます。
当時の歴史を調べた書籍には、『当時、熊を彫ってはいけないというような呪縛は旭川・近文コタン(アイヌ語で集落の意)の若者たちには感じられない』、『繁栄をもたらすにはこの熊彫りが一番恰好だということで、梅太郎の彫った熊はすぐコタンの話題になった』ということが述べられています。
さらに、狩り以外にも、小熊を飼うなど、熊が非常に身近な状況がありました。熊が身近におり良く観察できたこと、新し物好きな若者、そして木彫り産業がこの集落の中で盛んだったこと、これらの因子が相まって、旭川の熊彫りは盛り上がります。また、当時の八雲の木彫り熊の影響も受け、急激に技術が向上していきました。
そして、やはり、アイヌの人々が抱く、熊への畏敬の念が込められていたからこそ、多くの人を惹き付けるものとなったのです。木彫り産業の中で、商品開発の一つとして木彫り熊が生まれ、類稀なる大ヒット工芸品となったと考えられます。
———土産物ブームはいつまで続いたのでしょうか?
旭川の木彫り熊の勃興には大きく二つのピークがあります。一つは昭和10年(1935年)頃のこと。昭和4年(1929年)頃に木彫り熊は彫刻としてのバランスが良くなり、昭和8、9年頃(1933、4年)には多くの観光客が買い求めに来るようになります。
もうひとつは戦後、昭和30~40年代(1950~60年代)のこと。北海道の観光ブームで土産物としてたくさん売れるようになったそうです。平塚賢智(ひらつか・けんち。梅太郎に憧れ、14歳で彫刻の道に入り、90歳まで彫り続ける。木彫り熊の職人として「労働大臣表彰(卓越した技能者・現代の名工)」を受ける)は「鉄道のキャンペーンなどで北海道に観光客が増え、本州の人にとっては“北海道=熊”という図式が刷り込まれていった」と話しています。
またその頃、木彫り熊の職人は内職を含めると旭川地域に1000人ほどもいたそうです。
多くの職人が旭川で育ち、実演や熊彫りの指導で北海道各地に散らばっていくことになりました。旭川で木彫りを始め、現在阿寒で活躍する藤戸竹喜(ふじと・たけき)さんは17歳から函館、洞爺、登別、阿寒といった道内の観光地に出向いて木彫り制作を実演する旅で腕を磨き、観光のオフシーズンには、旭川に戻るといった生活をしていたそうです。
行く先々には旭川近文の木彫り職人がおり、皆暖かく迎えてくれたそうです。なお、札幌駅西口のコンコースある大きなアイヌ民族の木彫りの像「エカシ(長老)像」は藤戸竹喜さんの作品です。
旭川では、松井梅太郎の伝統を引き継ぎ、多くの木彫り職人を輩出し、やがて北海道の観光地へと広がり、その地域独自の木彫り熊へと発展し、木彫り熊の全盛期を作り上げて行きました。
昭和30~40年(1960~70)代の観光ブームによる爆発的な需要が終わり、国民の生活様式の変化もあり、全国的に工芸品全体の売上げが落ちていくなか、木彫り熊の売り上げも落ちていき、売り場も少なくなっていきました。
木彫り職人でかつ歴史の伝承者や研究者であった平塚賢智や川上哲は、この「観光ブームによる功罪」を、木彫り熊の衰退の理由として、分析しています。「功」の部分では、職人の層を厚くし、様々な商品開発がなされ、当時のほとんどの人が知る製品となったわけですが、「罪」の部分では爆発的需要を満たすための商業ベースの大量生産や大量販売が、価格と価値を下げ、真の伝統文化や、「木彫りのこころ」を失わせてしまったのではないかということです。
鮭をいつくわえたのか、旭川でもよくわかっていない
———あの定番の鮭をくわえた木彫り熊はどのように生まれたのでしょうか。
鮭をくわえた木彫り熊は戦後からあの姿になったと言われていますが、誰が作ったものかはわかっていません。昭和初期の旭川の木彫り熊はほとんどが這い熊(四本足で歩いている形の熊)で、変形したものはあまりいません。ただし平塚賢智は16歳の時(昭和10年・1935年)に親子熊を彫刻した電気スタンドを製作していますので、昭和10年(1935年)代には変形したものも作られていたことが推測されます。
平塚さん含め、私が今まで聞き取りした方からは「わからない」、「自然観察から生まれたのではないか」との話です。
———今、木彫り熊のブームがまた来るかもしれないと言われていますが、そのことについてはどう思われますか
一過性のブームじゃいけないと思っています。作り手と技術の継承がされないとだめですよね。でも、ブームにのってその必要性が広められるのは良いことだと思います。伝統の上に、多くの革新や挑戦と新たな要素の流入があり、そしてまた伝統の継承があって、現在の木彫りが作られたのだと思います。今いらっしゃる旭川の木彫り熊の職人は60代後半と40代含め、20人ほど。
ずっと言われ続けていることではありますが、作り手の人たちの生活を成り立たせていくことが大事です。旭川は木工の町でもあるので、技術を無くさないように継承していくことが今後の課題のひとつではありますね。
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八雲と旭川の“木彫り熊”は、ほぼ同じ時期に生まれたようですが、別々に始まったものらしい…ということがわかりました。
八雲は、徳川のお殿様が農民の生活を憂う気持ちと農村美術から。旭川は、熊への尊敬と畏れの気持ちとアイヌの伝統の木工技術から。
そして、木彫り熊の職人が少なくなっていった八雲と、木彫り熊が大量生産されていった旭川。同時期に生まれ、別々の道を辿りつつも今では全道的に彫っている人は少なく先行きには厳しいものがあります。
しかし近年、八雲町では「八雲町木彫り熊資料館」がオープンし、八雲町公民館生涯学習講座「木彫り熊講座」が復活しているようです。
また旭川では「旭川木彫・工芸品協会」が発足し、大阪・なんばグランド花月の芸人看板を皆で製作したり、国際的なテニス大会のチャリティーとしてテニス熊を製作するなど、ベテランながら果敢に活動しています。
あの定番の鮭をくわえた熊は“誰が”作ったのか、はっきりしたことはわかりませんでした。ですが、至高の作品を作るべく野生の熊を見つめ、切磋琢磨した職人が確かに存在していたということを知りました。どこかで“木彫り熊”を見つけたら、熊の顔や毛並み、足の裏に注目してみてください。木彫り熊に情熱を傾けた職人たちの思いを感じられるかもしれません。
<取材協力>
八雲町木彫り熊資料館
北海道二海郡八雲町末広町154
0137-63-3131
旭川市経済観光部工芸センター
北海道旭川市緑が丘東1条3丁目1−6
0166-66-1770
文:山口綾子
写真:八雲町木彫り熊資料館
旭川市経済観光部工芸センター
菅井俊之
※こちらは2017年3月19日の記事を再編集して掲載しました