わたしの一皿 豊漁のさんまをつみれ汁に仕立てて

今年はさんまが豊漁だ。安くておいしい。ありがたいことです。

秋の味覚のど直球。今月はさんまのお話を。みんげい おくむらの奥村です。

もともとさんまは大好物。5年ほど前でしょうか。秋口に北海道の根室に行ってさんまを食べた時、その別格の美味しさにおどろいて、もう二度と東京でさんまなんて食べるものか、と心に固く誓った。

が、結局帰って数日でさんまが恋しくなり食べてしまい、そこからズルズルと。

もう根室で食べたおいしさなんてどこへやら。でも毎回おいしいんだから、実に立派な魚です。ありがとう、さんま。

さんま

中国・台湾でも近年さんまをよく見かけるようになった。中国の内陸なんかでも焼いて食べているし人気があるようだ。マグロやサーモンから、徐々に魚の味覚も広がってきている。

未来、さんまは世界中で取り合いになり、高級魚になるのかな。そんな心配もしつつ、とりあえず今年はたくさん食べておこう。

もちろん焼いて食べるのが一番好きなのですが、さんまは青魚。いわしでおいしいレシピはさんまに置き換えてもやはりおいしい。

梅煮もよいし、パン粉焼きもよい、オイル煮も。今日はつみれを作ったので汁に仕立てて。

さんまをフードプロセッサーでミンチにする

つみれはフードプロセッサーを使えば簡単。本当はすり鉢で自分の本当に好みの加減でつみれを作ればよいのだけど、時間が掛かる。フードプロセッサーは本当にすごい道具。楽ちん。

今日は気を抜いていたら、ちょっとミンチしすぎました。本当はもう少しごろごろ感が強い方が好みなんです。でもまあいいか。

さんまのつみれ
さんまのつみれ

手で丸めて、指の間からポンと出したらスプーンでお鍋へ。

この一連の作業なんていうのは、実に楽しいもんです。何度やってもワクワクしちゃう。

今回はつみれ汁だけど、たっぷり作ってつみれ鍋もいいもんですよ。具沢山にして。

さんまのつみれ汁

今日、汁にあわせる椀は塗り物。うるしですね。沖縄の木漆工とけしの漆のお椀です。

「え?沖縄で漆?」と思った方。するどい。沖縄は漆のイメージがあまりないでしょう。いやいや、実は歴史が古い。

琉球漆器と言われ、王朝時代から続くすばらしい漆文化がある。その歴史を継ぐ工房もあるが、木漆工とけしはそれら琉球漆器とは別の文脈にある。

沖縄出身の渡慶次(とけし)夫妻は、それぞれが漆の名産地である輪島で木地師、塗師として修行し、沖縄に戻り工房を開いた。沖縄の人が沖縄の木で作る漆器。現代の琉球の漆器だ。

しかしはたして沖縄は漆器作りに向いているのか。意外に思うかもしれないが、答えはイエスだ。

一般的に輪島や会津、越前といった寒い地域の産地イメージが強いからだと思うのだが、漆というのは高温多湿で固まるので、沖縄はとても漆器づくりに向いている。

漆器の椀に入れたつみれ汁

今日はいつもと違って2つのうつわを用意。自分のものと我が子のもので、我が子のものも木漆工とけしのものである。

これは沖縄の、琉球張子の作家である豊永盛人さんが桃太郎の絵を描いたもので、別の面には犬・猿・キジが描かれている。この椀で食事を出すと我が子もいつもよりよろこんで食べる気がする。

木漆工とけしの椀に入れたつみれ汁

2つの椀を見ていると、つくづくも工芸は自由であってほしいと思えてくる。ただし、シンプルな椀のように静かでも力のあるもの。まずはこれが大事。

飽きず、ずっと使える。使うほど自分の手になじむ。そんなもの。そこにこんな表現が乗ると、これまたたまらない美しさになるのだ。

昨今、この順序が逆になったようなものをよく見かける。これはよくない。

この2つの椀は工芸のある種お手本のようなものだと思う。こんなものが世の中に増えてほしい、手に取る人が増えてほしい。

あれ、少し辛口?つみれに少し塩を多めに入れてしまったからな。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍

フィリップ・ワイズベッカーが旅する 唯一の職人がつくる「赤坂人形の戌」を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載11回目は戌年にちなんで「赤坂人形の戌」を求め、福岡県筑後市の赤坂飴本舗を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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福岡県筑後市の赤坂飴本舗

福岡市の郊外、戌の笛人形をつくる野口さんのところに着いた。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

今回の取材も驚きが待っているに違いない。
ガレージが制作の場となって、私たちを待っていてくれた。

舞台は整った。もうすぐスペクタクルが始まる。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

クッションに腰かけ、素朴な道具に囲まれている後ろ姿は、まるでモロッコのスーク(市場)での光景のようだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

前から見ても、やっぱりそうだ。

ダンボール紙の上につつましく構えた彼の前には、粘りけがあり良い具合の土の塊がある。
楽しくなりそうだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

道具自らが語る。イメージ通りなのだ。
意表をつき、親しみやすく、感じがいい。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

彼の脇には、記憶に満たされた木箱がある。
野口さんが父親から引き継いだ型たちが、休息している。

型がひとつでも壊れたら、残念ながらその型の人形は滅びてしまう。
いつか、この小さな戌の型が壊れるときもくるだろう。

手遅れになる前に、急がねば!

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

型から出たばかり。
余分な端がまだ残っている。きれいに整えてもらうときを待っているのだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

これで今日の作業は終了。一度に五個しかつくることができない。
何度も抜いて型が湿ってしまうと、土を外せなくなるからだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

この制作ペースでは、家業として生活費を稼ぐには程遠い。
だから、同じく父親から受け継いだ機械で、飴をつくっている。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

百メートル先の販売店では、飴も玩具もガラスケースに一緒に並んでいる。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

野口さんが「戌の笛」を出してくれる。
想像していた通りだった。

のんびりして、陽気で、まだらの戌。大好きだ。

福岡県筑後市の赤坂飴本舗

お店を出る時、写真を撮らずにはいられなかった‥‥。面白い!

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

「孫に作品を残したい」想いから生まれる 宮城・挽物玩具の酉を訪ねて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載10回目は酉年にちなんで「挽物玩具の酉」を求め、宮城県白石市の鎌田こけしやを訪ねました。(ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

弥次郎系・鎌田こけしや

こけしの宝庫、宮城県。

構造、形、描彩が師弟関係や産地別の特徴を持つ伝統こけしが、それぞれに系統を作っていて、こけしの世界は調べれば調べるほど奥深いものです。
県内各地では今も、鳴子系、遠刈田系、弥治郎系、作並系、肘折系などの系統が作られています。

今回訪れたのは、弥治郎系こけしの生まれ故郷白石市。

湯治湯として有名な鎌先温泉や小原温泉で、昔からこけしが売られてきました。
太い直胴もしくは、中程が括れた胴に、描彩は黄色に塗られた下地に菊花や石竹、もみじが描かれており、首は差し込み式になっているのが特徴です。

鎌先温泉の旅館に並ぶ弥次郎こけし
鎌先温泉の旅館に並ぶ弥次郎こけし

そんな弥治郎系こけしの系統を継ぐ「鎌田こけしや」が今回の目的地です。

宮城県白石市の鎌田こけしや
鎌田こけしや

鎌田こけしやの創業は、関東大震災の直後。
創始者である鎌田文市さんは、1900年にこの地方の絹糸商家に生まれました。

幼少期の怪我のせいで正座ができなかったため、腰掛けてできるこけしの木地職人の道へ。
弟子入りしたのは、弥治郎系こけしの職人・佐藤勘内さん。

しかし、弟子離れしてからもなかなか食えず東京に出稼ぎに行ったが、関東大震災で仕事が続けられなくなったのを機に地元白石に戻り、独立開業。
現在は孫である孝志さんが、3代目を継いでいます。

鎌田こけしや3代目鎌田孝志さん
鎌田こけしや3代目鎌田孝志さん

伝統こけし3代目がつくるユニークな創作玩具

孝志さんは高校卒業後、横須賀で鉄道の車輪を作る仕事をしていましたが、粉塵により肺を悪くしてしまいます。

地元に戻り、祖父からの勧めもあり家業を継ぐことを決断。最初は刃物の使い方から教わり、生卵で顔を書く練習を経て、3年後に一人前に木地を挽けるようになって初めて、こけしの顔を描かせてもらえたそうです。

孝志さんは伝統的なこけしだけでなく、挽物で作るユニークな独楽や玩具も魅力。独楽を回すと、クスッと笑いたくなる予想外の動きに目が離せません。

警泥、鬼退治などをモチーフにした独楽を回すと動き出す玩具
警泥、鬼退治などをモチーフにした独楽を回すと動き出す玩具

「今まで作ってきたのは約100種類。日の目を見なかったものまで含めるともっと多い。」

こういった独楽や玩具を作れるようになるため、若い頃、仙台で江戸独楽を作っていた木地屋の広井道顕さんのもとに、週に一度学びに通ったそうです。

現在、組合で弟子の養成にも携わっているそうですが、工房では弟子を取らず、制作はおひとり。今でも年間約1000個をつくられる原動力は、「孫に祖父のような作品を残したい」からだといいます。

親鳥のお腹から、ひよこの独楽

今回のお目当ては鎌田さんの「酉」。頭部が開く蓋物になっています。

まるい胴体の中には1センチくらいのひよこが描かれた独楽が3つ。
親鶏の前でくるくるとよく回る独楽を見ていると、思わず顔が緩みます。

蓋物になっている酉
蓋物になっている酉
開くとお腹の中には独楽のひよこが3匹
開くとお腹の中には独楽のひよこが3匹

作品を見せてもらった後、自宅の裏にある工房を案内してもらいました。

鎌田さんの作るこけし、独楽、その他の玩具は、ロクロと鉋を用いて形を削り出したり細工をしたりする技法で、一般に挽物(ひきもの)といわれます。

ロクロは、現在はモーター式が使用されていますが、旧式のロクロは一人が縄をひいてロクロを回し、一人が細工をする二人挽きのものでした。技術の進化とともに、一人挽きになり、ペダルを回す足踏み、水力(戦前)、モーター(戦後)と動力が変化してきたとのこと。

現在使用されているモーター式のロクロ
現在使用されているモーター式のロクロ

挽く方法は、予め頭部と胴部に木取りしたものをロクロにかけ、数種類の鉋を使って別々に挽き、最後に頭と胴体を噛み合わせます。

鉋などの道具も昔はたくさんあったそうですが、今は作る人がいなくなり、古いものを修理しながら使ったり、自分で加工して道具を作ったりしているそうです。

ロクロ挽き
ロクロ挽き
鎌田こけしやの道具
整頓された鉋などの道具は修理しながら使い続けられている

彩色は、ロクロを回し、筆の先を軽く当てて模様をつけるロクロ描きと、手に持って描く手描きの2つの方法を使い分けます。墨と紅、黄、藍、青、紫など5色の食品添加物を使って、特色ある描彩が施されます。

「祖父の真似をしようとしてもできなかった。早々に自分の顔を書こうと決めた。」

描彩をする職人の筆さばきで、顔に個性が出るといいます。

ロクロ描き
ロクロ描き(描いているのはワイズベッカーさん)

材料に使用しているのはミズキという木。
水分が多くて柔らかく挽きやすい、そして木肌が白く年輪が目立たない、といった条件が揃っているのだそう。

材料のミズキ
材料のミズキ

近頃は木材の入手に苦労が絶えないという。

「宮城県内に山師がいなくなり、木材は福島県の会津若松から仕入れていました。しかし、東日本大震災後、放射能汚染の有無に関わらず、県外への持ち出しが難しくなった。山師を辞めて収入の高い除染作業に行く人も多い。今は昔のつてを辿って、群馬の業者から仕入れています。」

原発事故の影響は、こけし作りにも及んでいました。

こけしの起源は、おしゃぶり、お守り、祭礼の道具、ままごと用の人形などまちまち。
決定的なものはなく、木地師がたまたま挽いた人形で、元々玩具として発生したという見方もあります。

そういった伝統的なこけしの歴史や技術を踏まえて作られる鎌田さんの作品は、驚きを与えてくれる「仕掛け」や「動き」が魅力的。子どもも大人も、見て、触って、楽しめる創作玩具です。



さて、次回はどんないわれのある玩具に出会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第10回は宮城・挽物玩具の酉の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第11回「福岡・赤坂人形の犬」に続く。

<取材協力>

鎌田こけしや

宮城県白石市字堂場前27

電話 0224-26-2971

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」7月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

谷の間に間で世界を思う

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

ABOUTはインテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけています。隔月で『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介する第6回目。

今回紹介するのは、特別史跡旧閑谷学校
所在地は岡山県備前市閑谷784

旧閑谷学校は岡山藩主の池田光政が重臣の津田永忠に命じて1670年に設立した日本最古の庶民のための学校である。
津田永忠は日本三名園の一つ後楽園の築庭や、旭川の氾濫から岡山城を守るための放水路である百間川の築造などに尽力した岡山藩士である。

岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道

この地へは電車だとJR山陽本線の吉永駅からタクシーで10分ほど、車だと山陽自動車道の備前インターを降りて10分前後で、入り口のすぐ前にたどり着く。実は少し手前の分岐に徒歩専用の旧道があるのでその道をお勧めしたい。

山の中の小道を進んでいくと、古いトンネルがある。先日の大雨で少しトンネル手前の崖が崩れてはいたが、重機をちょうど入れて工事をしていたので、おそらく今は問題なく通れると思う。

トンネルを抜けると、開けた明るくそして緑に囲まれた閑谷学校の建物群が現れる。

岡山県備前市の閑谷学校へ向かうトンネル
岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道
岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道

まず目に入るのが大きなモグラが通ったかのような地面がモコッと立起したような塀である。

半円のカマボコのような断面をした分厚い石塀が敷地の外区に沿ってうねうねと走る。石塀には4つの門があり、一番東側の門に入館の受付がある。

門をくぐると芝生に覆われたサッカーコート1面分はあるのではないかと思われる広庭が広がる。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

北側は斜面となっていて、階段で上がった先には、創設者の池田光政をまつった閑谷神社(右側)と、儒学の祖である孔子をまつった聖廟(せいびょう)が並んでいる。

この二つの建物はほぼ同じ構成で作られ、四方を練塀で囲い、中心に社殿を配置している。

閑谷神社の地面は聖廟の地面より約1m下げてあり、そのため神社の練塀の高さと聖廟の連塀の高さが違うことから赤茶の瓦が何層にも連続したように見える構成となっている。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

広庭の西側には、講堂が妻面を見せて建っており、南側と東側は前述の石塀である。

建物と石塀と山に囲まれた平地に立つと、自然の地形の中に生み出されたきめ細やかな計画的配置は本当に美しく感動をおぼえる。

岡山県備前市の閑谷学校

講堂は閑谷学校のなかで最も規模が大きい建物で、毎月1と6が付く日に儒学の講義が行われたという。

現存の講堂は1701年に建て替えられたもので、桁行7間、梁間6間の建物に、備前焼の瓦でふいた入母屋造、しころ葺きの大屋根が載っている。

岡山県備前市の閑谷学校

講堂に付属して、毎月3と8が付く日に儒学の講義が行われた習芸斎や、休憩室として使われた飲室などの棟が続いている。

飲室の中央には花崗岩をくり抜いてつくった約1m四方の炉が入る。炉縁には火の用心から薪の使用を禁じ、炭を使うよう文字が刻まれている。

柱の見込みが深く、メリハリのある陰影を大きな白壁につけている。
いずれも彫刻や装飾が一切ない合理主義的な建築である。

岡山県備前市の閑谷学校内部

また南側には離れの小斎がある、これは1677年に藩主の池田光政や歴代藩主が臨学した際の休憩所で、簡素な数寄屋造である。

3寸(9cm)角の細い柱、細い垂木、薄くシャープな軒反りを持つ柿葺の屋根。棟には備前焼瓦が載せられている。

岡山県備前市の閑谷学校

そして講堂の西側にはぽつんと文庫が建っている。堅牢で耐火に優れた土蔵造。重要な書物を所蔵していたようである。

外壁は白漆喰で塗り固め、上部には炎返しが回り、漆喰屋根の上に、備前焼瓦を葺いた置屋根を被せた造りである。

岡山県備前市の閑谷学校に建つ文庫

横の小高い丘が敷地に突き出ている部分は火災の延焼を防ぐために設けられた火除(ひよけ)山である。
見た目だけでなく、機能を持ったこの丘は学生たちの宿舎があったエリアと講堂部分を緩やかに分断する。

火災の延焼を防ぐために設けられた火除(ひよけ)山

芝生をてくてくと歩き、靴を脱ぎ講堂の中へ。

外側を約一間の縁が回り、ぐるっと一周することができる。花頭窓を通して内部をのぞくと、床は漆塗りで黒光りしている。
内部には10本の丸柱が立っており、この柱が緩やかに内と外を分けている。

この建物の空間構成は、中心から外側に向かって、内室、入側、縁という3重の入れ子構造。

岡山県備前市の閑谷学校の講堂
岡山県備前市の閑谷学校の講堂

こうした複数のレイヤーで構成された建築は仏教寺院などにも見られるが、寺の本堂ではその中心にあたる内陣にご本尊が安置されているものだ。しかしこの講堂の内室に置かれているのは、素読のときに使う書見台だけである。

岡山県備前市の閑谷学校の講堂内
岡山県備前市の閑谷学校の講堂内

講堂の広縁に腰を下ろして庭を眺めていると、入れ子状の構造は、建物の外側に広がるランドスケープでも共通していることに気付く。

講堂の外側にはまず芝の広庭、用水路、石塀、通路、用水路、という囲いがあり、そのさらに外側には、盆地を囲む山々がある。

閑谷学校は、建物のインテリアから周囲の地形に及ぶ7重の囲いで出来上がり、しかも、それぞれのゾーンを区切っている囲いは、仕切りが緩やかである。

岡山県備前市の閑谷学校

内室と入側の間には建具があるわけではなく、床は同じレベルで連続している。
また入側と広縁の間も、障子を開け放てば、視線は外の庭へと抜けていく。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

石塀も厚みはあるが高さは低く、外側の山を借景として取り込んでいる。
このような開放的な多重の入れ子構造が、この建築の最大の特徴である。

岡山県備前市の閑谷学校

開館前に到着したこともあり、雨戸が閉まった状態の講堂が、職員の皆さんで雨戸をあけ、講堂に朝日が差し込み透明になっていく姿は、庶民を広く受け入れ、教育を施す場としてふさわしい形のように感じた。

学生たちはこの学校で学びながら、この多重的な空間構成を頭の中で広げ、山の向こうにある日本、さらには日本の外にある世界のことを思い描いていたのではないだろうか。

岡山県備前市の閑谷学校

佛願 忠洋  ぶつがん ただひろ

ABOUT 代表
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、
副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。
私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

http://www.tuoba.jp

文・写真:佛願 忠洋

田舎町を賑やかな観光地へ変えた、ある陶芸家の楽しい革命

それまで、そこは“閑散とした田舎の集落”だったという。

もともと江戸時代から続く窯元「幸山陶苑」が営む製陶所のあった場所。2001年に閉窯し、そのまま放置されていた。

絵付け場や釉薬精製所、登り窯など、製陶所の面影を残しつつ、なにもかもが、ひっそりと佇んでいるだけだった。

それが、いまでは。

年間15万人もが訪れる一大観光地になっている。─ 長崎県の波佐見町にある「西の原」。

波佐見町の西の原 看板
レストラン、カフェ、雑貨店、グロサリーなど、様々な店が集まる
波佐見町の西の原 花わくすい
波佐見町の西の原 はなわくすい
波佐見町の西の原 yosuke

昭和初期のノスタルジックな雰囲気が残るなか、お洒落なカフェや雑貨店、ギャラリーなどが建ち並ぶ人気のスポット。そればかりか、この地の存在が長崎を代表する陶磁器、波佐見焼を世に広く知らしめるきっかけにもなったとか。

この町にいったい、なにがあったのか?

仕掛け人は、肩の力が抜けた陶芸家

この地に変化をもたらしたのは山形県からやってきた1人の陶芸家。

こんなふうに言うと、エリアリノベーションやコミュニティデザインといった今どきの言葉を思い浮かべるかもしれないが、この人の場合はそうした感覚とは少し違う。

「自分が楽しいと思うことをして、欲しいと思ったものを作っただけなんだけど‥‥」と穏やかに語り、目を細めて笑う。

長瀬渉さん
長瀬渉さん。1977年、山形県山形市生まれ。東北芸術工科大学・大学院を修了後、東京藝術大学工芸科研究生修了

おこぜ、あらかぶ、ふぐ、たこ、あんこうなど、海の生き物を忠実に、繊細に再現した作陶を多く手掛け、数々の賞を受賞する気鋭の陶芸家である。

長瀬渉さんの作品
長瀬渉さんの作品
長瀬渉さんの作品

そんな長瀬さんが波佐見町に移住してきたのは2003年のこと。本人の言葉を借りるなら「移住」ではなく、「ただの引っ越し」だったとか。

「うちの奥さんが佐賀県の有田にある窯業大学で絵付けの勉強をするというので、それならと僕も一緒に越してきたんです。都会の人が『田舎暮らしを始めます』みたいな感覚じゃなくて、ただ単に引っ越してきた、って感じです。

本当は有田のアパートに住むつもりだったけど、知り合いに波佐見のほうが家賃が安いと聞いて。それがここに決めた一番の理由かな(笑)」

当初は波佐見に長く居るつもりはなかった。1年後には作陶のため韓国に移る予定で、波佐見は「ちょっとだけ住む場所」のつもりだったとか。

ところが、そこで運命の声がかかる。

 

町が、人が、ゆるゆると動きだす。

「西の原を自由に使っていいよ」

そう言ってくれたのは、この場所を所有していた西海陶器株式会社・代表取締役会長の児玉盛介さん。西海陶器といえば波佐見焼の大手老舗メーカーだ。

この土地、ここにある建物を「無償で使っていい」ことになったのだ。

「面白そうだから、それもありか」

そう思った長瀬さんは、まず自分が作陶するための工房をかまえることにした。

元窯元とはいえ建物はボロボロだ。壁ははがれ、屋根からは雨漏りが。手先が器用な長瀬さんは自ら改修工事を行い、2005年「ながせ陶房」をつくる。

「それで、仕事をしているとおいしいコーヒーが飲みたくなるじゃないですか。あと、おいしいランチが食べたくなりますよね。

近くにカフェなんてものは少なかったから、だったらここに作っちゃえ、と。でも自分ではやれないなぁと思って、友人の岡ちゃんを口説き落としてお店を開いてもらったんです」

それがカフェレストラン「monné legui mook(モンネ・ルギ・ムック)」。西の原の象徴ともいうべきお店だ。
岡ちゃんこと店主の岡田浩典さんはもともと、東京のオーバカナルなど有名店で勤務。東京生まれ・東京育ちの岡田さんは、長瀬さんの誘いで長崎の田舎町、波佐見町でカフェを作ることにした。

波佐見町のカフェ monné legui mook(モンネ・ルギ・ムック)
岡田さん/左・長瀬さん/右 後ろの白い建物が、monné legui mook(モンネ・ルギ・ムック)。昭和初期の建物をリノベーションして作られた

製陶所の出荷場だった建物を利用して、古き良き佇まいを生かしながら自分たちで修繕・改築。いまでは観光客はもちろん、地元の人が気軽に立ち寄ることのできる心地良いスペースになっている。

 

すると今度は「作品を展示するギャラリーが欲しいな‥‥」と長瀬さん。

元ろくろ場だった建物に手を入れ、展示会やイベントもできる、ギャラリー&ショップ「monné porte(モンネ・ポルト)」をつくってしまう。

ちなみにその後、「monné legui mook」と「monné porte」は国の有形文化財、ならびに県のまちづくり景観資産に登録された。

あるときは焼き物の町であることを活用し、長瀬さんの出身大学をはじめ金沢美術工芸大学や有田窯業大学校の美大生に声をかけて、世界のいろいろな窯たきのワークショップを展開。

波佐見の陶芸家 長瀬渉さんと美大生
ワークショップに集まった美大生たち

またあるときは音楽フェスを主宰した。友人や地元の人と一緒に廃材でステージをつくり、倉庫だった場所をライブ会場にしてしまったこともある。

 

─ 「はっきり言って私利私欲で動いています(笑)」

そう長瀬さんは言うけれど、その行動の1つ1つは西海陶器を動かした。大学の後輩や遠くにいる友人をも巻き込んだ。もちろん、いつもうまくいくわけじゃない。地元の人とぶつかり合ってしまうことだってある。

それでも。

寂れていた土地、集客とは無縁だった場所に、新しい風がゆっくりと吹き込まれていく様子に、いつしか心を動かされたのだろう。

いつのまにか、波佐見町の町長をはじめ、観光協会、振興会といった行政までもが長瀬さんの活動に協力してくれるようになったのだ。

「『やりたいと思う』と言うと、周りの人はできない可能性を考える。でも『やる』って断言すると、意外とみんなが協力してくれる。不思議と物事が回り始めるんですよ」

ときに強引に。いつも笑顔で。小さな町に一つ一つ革命を起こしていく。
そして気がついたときには「西の原」が一大観光地になっていたのだ。

 

新天地、陶郷「中尾山」。

中尾山の風景
波佐見焼を作るための、型屋、生地屋、窯元、が集まる焼き物集落

10年の歳月を経て長瀬さんはいま、焼き物業者の多い集落地「中尾山」にいる。西の原から車で5分ほどの、いわゆる波佐見焼の総本山である。

大きな煙突のある製陶工場跡地を購入し、こちらも一からリノベーション。新しい生活を送っている。

リノベーションの時の様子
陶芸家 長瀬渉さんの工房
工房の中の暖炉も自身で設置
陶芸家 長瀬渉さんの工房
工房の横のスペースはライブや映画上映などをするイベントスペースに

その日の夕食は地元で採れた野菜のサラダとパスタ、長瀬さんが佐世保港で釣ってきたスズキと烏賊のトマト煮込み。

長瀬渉さんの手料理
長瀬渉さんの手料理
長瀬渉さんの料理風景

言い忘れていたけれど、長瀬さんは釣り名人。その腕前は、作陶を仕事にしながら「陶芸よりも釣りの方が得意」と言うほどだ。仕事の合間に、週1〜2回は海釣りに行くという。

「波佐見は海に面してないけど、実は有明海や伊万里湾、東シナ海とか、どこの海も40分圏内で行けちゃうの。大村湾なら15分だよ」

釣ってきた魚はさばいて刺身や切り身にし、ご近所におすそわけ。それと引き替えに新鮮な野菜が手に入るという、ありがたい物々交換システムが息づいている。

長瀬渉さんの手料理
長瀬渉さんの愛犬ムーア

だから家族3人とアシスタント、友人やボランティアスタッフ1~2名分、愛犬ムーアの食費は月2~3万円でまかなえるとか。

陶芸家長瀬渉さんの家
長瀬さんの作った器が食卓を彩る

 

新たな革命は、静かに幕を開けていた。

そしていま、長瀬さんには新たに欲しいものがあるという。

1つは「宿」。

作陶はもちろん、ライブやワークショップなど、好きなことを糧にして楽しく生きている長瀬さんのまわりにはいろいろな人が集まる。活動を手伝ってくれる仲間、陶芸作家を志す若者、ミュージシャン‥‥。

「気の合う仲間を受け入れられる寮みたいな場所があったらいいなと思って」

物件の目星はすでについている。かつて仕出し屋さんだった一軒家で「とにかく変な造りで格好いい建物」なんだとか。

さらにどうしても欲しいものが、もう1つ。

「保育園」だ。

「子どもが生まれる前は保育に興味なんてなかったけど、子どもができて、その必要性を感じて。だったら作っちゃおう、かなと」

長瀬さんの頭の中には楽しい構想がいっぱいだ。

たとえば、園庭一面を「食べられる庭」にする。自然に生えてくる筍や山菜はもちろん野菜や果物、ハーブなどの食材を植えておいしい庭をつくってしまう。

地元の子どもたちだけでなく「都会で暮らす子どもが遊べる日」をつくる。土に触れ、野菜を収穫し、料理を作って食べるといったワークショップも考えているという。

また、送迎用のバスはアニメに出てくるみたいなかわいいボンネットバスに。「日中は観光バスとして町を回ると賑やかだよね」と話す。

こうしてまた、新たな観光資源ができていくのかもしれないと思った。だけど、長瀬さんの考えはもっと深い。

「集落を盛り上げるためには、観光で集客することももちろん大事だけど、まずは地元にいる人が幸せにならないとね」

そのために、一人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんを雇用したり、「園児のお母さんがそのまま先生になる」なんていう発想も。

「料理や裁縫、大工、陶芸など、それぞれの人が自分の得意なことを子どもに教える場にしたい。それが仕事になったら楽しいですよね。

子どもを軸にして集まってきたお母さんたちは、保育園で子どものためのビジネスを立ち上げてもいいかもしれない。たとえば、子ども用食器や家具を作って全国に販売したり。それが、卒業した後でもお母さんたちの仕事として続けていけるといいですよね」

また、「園の行事は、集落全体の行事にして町のみんなで楽しめるといい」とも話す。

次々に出てくるアイデアからは、子どもたちだけでなく、園に関わる人たちみんなが幸せになっていく姿が想像できる。

決して画一的な保育園ではない。この地だからこそ生まれるアイデアがあり、この地でなければできない保育のかたちがあるのだ。

「まだちゃんと決めてないんだけど、『保育園』じゃなくて、『遊学園』って名前にしようかな」そう、長瀬さんは言っていた。

新しい概念を説明しようとすると、適切な言葉が難しい。だけど確かに、今長瀬さんが作ろうとしているものは、これまでの「保育園」とはまた違う場所のように感じた。

ここが一面、「食べられる庭」になる予定

「ここが予定地です」

案内してくれたのは、長瀬さんの保育園を作ろうと計画をしている土地。桜の木に囲まれた自然豊かな場所だった。

「春になると本当に綺麗よ。モグラもいるし(笑)」

 

ゆっくりと静かに。でも着実に。陶芸家の新しい革命は、すでに動き始めていた。

 

長瀬さんご家族
長瀬さんご家族とアシスタントのアリナさん

< 取材協力 >
ながせ陶房 長瀬渉さん
Instagram

長崎県東彼杵郡波佐見町井石郷417−2

 

文:葛山あかね
写真:mitsugu uehara、長瀬渉さん提供

フィリップ・ワイズベッカーが旅する こけし作家が生み出すユニークな酉を求めて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載10回目は酉年にちなんで「挽物(ひきもの)玩具の酉」を求め、宮城県白石市にある「鎌田こけしや」を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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宮城県白石市の「鎌田こけしや」

仙台から車で1時間ほどの町にやってきた。木のろくろを使い酉の玩具をつくる木地職人、鎌田さんに会うためだ。

迎えてくれたのは、昔ながらの壁掛け時計。止まったままだ。

「これは良いサインだ。職人は時間を気にしてはいけないのだ」と思う。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

木の良い匂いがする。こけし用に荒削りしてある円柱形の木。木片や削りくずが、あちこちに。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

削りくずがランプにもぶら下がっている‥‥

宮城県白石市の「鎌田こけしや」工房内

工房の隅は、時間の経過から忘れられているようだ。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」で使用している工具

あまりにも特殊な刃を使っているので、今日でも、手で鍛えられている道具。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」製作風景

一瞬の不注意も許されない。驚きの眼差しで見つめる私の前で、あっという間に出来上がったのは、完璧な小さい独楽。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」で使用している工具

まだ着色の過程が残っている。それを私に任せてくれるというのだ!

この感動的な思い出の品は、ずっと私の旅行バッグに入って、パリまで来てくれるだろう。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし

鎌田さんは、主に伝統的なこけしをつくっている。しかし私は、彼の創作玩具のほうが好みだ。

少しずつ出して見せてくれる。非常に独創的で、繊細で、工夫にあふれている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「虎」

例えば、このおそろしい目つきの寅は畳の上に物憂げに寝そべっている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「岡っ引き」

そして、反対側にいて絶対に捕まえられない泥棒を追いかけ続ける岡っ引き。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし「雄鶏とひよこ」

おかしなちょび髭をつけた雄鶏。チビのひよこが周りをくるくる回る。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」のこけし

小さなスヌーピー。埃の中で最後の日を迎えている。

宮城県白石市の「鎌田こけしや」

インスピレーションにあふれる工房訪問の最後に、変わったインスタレーションを見つけた。

何だろう。気になるが、この秘密を知ることはないだろう!

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

撮影:吉岡聖貴

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。